一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

「世界」の定義の仕方について

2006-04-10 | あきなひ

『ウェブ進化論』についてはいろいろなblogで取り上げられていますが、特にR30さんの整理が印象的でした(当然門外漢の私がたまたまたどり着いたサイトの中では、という限定つきです。)
リンク先は3/30のちょいと「熱め」な記事ですが、その前の書評その1その2ではもうちょっと冷静に、特にその2ではリアルのビジネスとの関係についても触れられています。
で、その「熱め」な記事から

既存メディアの人間が「大事なのは民主主義」とか「言論の自由を守れ」とか「ポピュリズムどーたら」とか議論している間に、Googleの中のエンジニアたちは黙々とコードを書き、スパムサイトの検閲を進め、メディア産業をブルドーザーで押し潰し、地ならしして新しい建物をガッツンガッツン建てていってしまうのである。Googleに地ならしされたくなければ、叫ぶより前に自分の考えを表したコードを書く(=ビジネスモデルを作る)しかない。コードが書けないなら、Googleの目の届かないところに逃げるしかない。
たとえGoogleが神だからといって、その神が企業であり、米国に実在する存在である以上、資本主義の原理から自由なわけがないというのは当たり前だ。そして、我々も同様に資本主義の中に生きている。であれば、Googleの長いしっぽの端っこを自分のビジネスのバリューチェーンに入れて商売するもよし、Googleとまったく違う価値観でネット上に新興宗教のようなサイトを作って客を集め、お金を回すもよし。好きに商売して生きていけば良い。

ただし、Googleがこれまで一言も「言論の自由が大事」とか「ポピュリズムがどーたら」とかの高尚な説を自ら考えてのたまったことがない、無言のブルドーザー集団だということだけは覚えておくべきだ。神かどうかよりも、そちらのほうがずっと大切な事実(FACTA)である。

平たく言えば、

 グーグルでは自らの検索システムの完成度を高めるべく優秀なエンジニアが日夜働いていて、その働きの中にはグーグルの検索システムを悪用する検索スパムなどを排除する(例:サイバーエージェント社のサイトが検索スパムとしてグーグルから検索不能にされた)ことも含まれている。
 これが進むとネットで見える範囲をグーグルが規定することになり、検索エンジンを使って集客しようというビジネスモデルはグーグルのプラットフォームの上でしか成り立たなくなってしまう。
 周囲の人間が世界の範囲を定めるという意味で「グーグル神」などと揶揄しようが「ウェブ上の民主主義」を云々しようが、インターネットの情報はグーグルのプラットフォームで日々再構成されつつあることを認識する事が大事なんじゃないか。

という事なんだと思います。

グーグルが中国において政府の検閲を容認したことについても議論がされていますが、これは「ネットの世界をすべて検索エンジンで認識しよう」というグーグルと「認識させたいものを選別する」という中国政府は、実は最初から「認識できる範囲が世界だ」という価値観を共有してたということなんだと思います。


昨日いただいたKobantoさん『ウェブ進化論』関係のエントリについてのコメントと、taghitさんの中国のネット関係の小ネタについてのコメントを拝見して、そんな事を考えました。



PS
bunさんが最近はじめられた「1990年以降の日本の経済政策において新古典派経済学が果した役割について」というシリーズがあります。
上の考えを敷衍すると、「完全競争下における市場メカニズム」に代表される新古典派(シカゴ学派)の理論においても、(グーグル的な)「現実の経済現象を合理的に説明できる枠組み」と(中国政府的な)「世の中を認識するにあらまほしき枠組み」が握手をして、その結果「あるべき論からの政策決定」という奇妙な構図が生まれたのではないか、というような分析も出来るかな、などと漠然と考えたりしています。
しかし如何せん知識不足でありますので、そちらへの乱入はもうちょっと勉強してからにします。

コメント (2)
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