加藤典洋という名前は、最近の評論などで批評/批判の対象として名前がよく出てくるなという印象はあったものの、読んだ事はありませんでした。本書(批評)は掲載・出版当時かなり話題になったようです。
標題作の「敗戦後論」(初出『群像』95年1月号)、「戦後後論」(同96年8月号)、「語り口の問題」(『中央公論』97年2月号)の3つの評論が収録されています。単行本は97年8月に講談社から出版されました。
そういえば、かれこれ10年前はまだインターネットなどは普及し始め(なにしろ"Windows 95"ですから)たばかりで、文芸誌とか単行本などを買って読まないかぎりはなかなか目にする機会もありませんでした(そういう意味では最近の話題の広がり方のスピードは恐るべきものがありますね)。
私自身この当時まだ家にPCを持ってなかったし、会社のPCも3つ以上窓をあけたり、プリントしようとしたり、ちょっと大き目の画像を貼り付けようとすると途端にフリーズするような代物でした。
なので、日頃文芸誌などと全く縁のない人間が当時知る由もなかったわけです。
昔話はさておき
「敗戦後論」では戦争責任や靖国問題などをめぐる論争などは敗戦時の「ねじれ」を隠蔽していることに原因がある、と指摘します。
筆者は「平和憲法」について
もし、ここに与えられているものが、わたし達の価値観からして、否定されるべきもので、ただそれが勝者の強圧下に「押しつけられ」ているにすぎないなら(中略)わたし達は面従腹背の態度でいったんはこれを受け入れ、後に独立の後、これを廃棄して、アッカンベーすればよい。
しかし、わたし達はこれを「押しつけられ」、その後、その価値観を否定できない、と自分で感じるようになった。わたし達は説得された。しかし説得されただけではなくて、いわばその説得される主体ごと変わってしまったのだ。
(中略)
当然ながら、この二重になったわたし達の平和憲法をめぐる「ねじれ」は、これを白日のもとに曝す形で公共化し、ねじれているが、よいものだ、という形にしない限り、わたし達自身によって抑圧され、わたし達は、最初からこの平和憲法を実質的には自分で欲したのだと考えるか、最初からこの平和憲法を欲していないし、いまも欲していないのだと考えるしかなくなる。
そしてその結果が戦争による死者の弔い方、謝罪の仕方の「分裂」としてあらわれる。
護憲派がアジアの二千万人の死者、原爆などの戦災犠牲者という「無辜の市民」を弔い・また謝罪するときには侵略者である「汚れた」死者は無視される。その一方で、改憲派は自国の三百万人の死者を「英霊」という清い存在として扱う。そこにもこの戦争が道義的にも正義のない戦争だった、という視点はない。
つまり両方の立場とも、原点のねじれを隠蔽しているという共通の根っこがあり、それはいわば違う人格ではなく、ひとつの人格の分裂した現れになっている、と説きます。
そして、この分裂からの脱却、原点における「ねじれ」を認識するために、美濃部達吉と大岡昇平を例に引きます。
美濃部達吉は、新憲法案を審議する枢密院の委員会の席上で、これを審議する事自体に異議を唱え、新憲法に強烈な反対をした。美濃部は
① 憲法改正を定めた帝国憲法の第73条は、日本がポツダム宣言を受け入れた時点で無効である。
② 憲法改正案でその存在が不適当であるとして廃止をめざされている枢密院がその改正を審議するというのは不可解である。
③ 前文に「日本国民が制定する」旨明言されている改正案が、勅命により、政府の起草、議会の協賛、天皇の裁可で公布されるのは「虚偽の宣言である」
と主張し、委員会、本会議でただひとり反対し、その後修正案の審議以降はすべて欠席します。
これは「明治人美濃部の古さの現れ」、または「自由主義者の面目」と評価する声に対し、筆者は美濃部は敗戦と日本国憲法のねじれを直視したと評価します。
いわゆる美濃部意見書の中で、彼は、憲法改正は独立後、国民の手で(たとえば国民投票などにより)なされるのが望ましいが、それまで仮の形でやっていくことが難しく、いま憲法を改正しなければならないとしたら、それは、この降伏の現状を基礎に、たとえばつぎのようなものに”修正”されなくてはならないだろうと数か条の例をあげている。
そこにあげられる改正憲法の第1条とはこのようなものである。第一条 日本国憲法ハ連合国ノ指揮ヲ受ケテ 天皇之ヲ統治ス
(中略)
戦争に負けるということは、いわば自分にとっての「善」の所与が奪われるということ、どのような願いもほんとうの形では果たされず、ねじれた形でしか世界が自分にやってこないということだが、その自覚がつまりは美濃部の出発点となっているのである。
美濃部は、少なくともここでは、国の基礎である憲法を欺瞞の具にだけはしてはならないという立場に立っている。その意味は、不如意があれば不如意が、ねじれがあればねじれがそのまま映る歪みのない鏡で、憲法はあらねばならない、ということである。
また、筆者は大岡昇平に、戦争を経た「よごれ」「ねじれ」を自覚した存在として注目し、大岡の以下の文章を引用します。
・・・戦争の悲惨は人間が不自然に死なねばならぬという一事に尽き、その死に方は問題ではない。
しかもその人間は多く戦時或いは国家が戦争準備中、喜んで恩恵を受けていたものであり、正しく言えば、すべて身から出た錆なのである。
広島市民とても私と同じ身から出た錆でもって死ぬのである。兵士となって以来、私はすべて自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情を失っている。(『俘虜記』)
日本国は再び独立し、勝手な時に日の丸を出せることになったが、僕はひそかに誓いを立てている。外国の軍隊が日本の領土にあるかぎり、絶対に日の丸をあげない、ということである。
捕虜になってしまったくらいで弱い兵隊だったが、これでもこの旗の下で、戦った人間である。われわれを負かした兵隊が、そこらにちらちらしている間は、日の丸は上げない。これが元兵隊の心意気というものである。(「白地に赤く」1957年)
捕虜収容所では国旗をつくるのは禁ぜられていた。帰還の日が来て、船へ乗るためにタクロバンの沖に筏でひかれて行ったら、われわれが乗るのは復員船になり下がった「信濃丸」で、船尾に日の丸が下がっていた。
海風でよこれたしょぼい日の丸だった。
私が愛する日の丸は、こういうよごれた日の丸で、「建国記念日復活促進国民大会」なんかでふり回されるおもちゃの日の丸なんか、クソ食らえなのだ。(同上)
しかし、筆者は大岡は(川上肇らのように)自らを清廉なものとしてその「汚れ」を断罪するのとは異なると考えます。
大岡は『レイテ戦記』で神風特攻に触れ、こう書いている。
(勝利が考えられない状況で面子の意識に動かされ、若者に無益な死を強いたところに神風特攻のもっとも醜悪な部分がある、という指摘に続け--引用者)しかしこれらの障害にも拘らず、出撃数フィリピンで400以上、沖縄1,900以上の中で、命中フィリピンで111、沖縄で133、ほかにほぼ同数の至近突入があったことは、われわれの誇りでなければならない。
想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわれの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないことである。今日では全く消滅してしまった強い意思が、あの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない。この文章の書き手は「あの荒廃」の中になおこれだけの「強い意思」がありえたという。それはわれわれの「誇りだ」、と。ここにいう「誇り」の用法は、戦前の大日本帝国の「誇り」の用法とは異なっている。それは一回使われている。汚れている。しかしこれは、これこそが、「誇り」の正しい用法ではないだろうか。(中略)生きるという経験がいわば360度の広がりでわたし達に試練を与えるものである以上、わたし達は、こういう概念、正義、法、誇り、といったものについて、いわば一度使用された感覚、「よごれ」「しょぼくれた日の丸」を手にしている必要があるのである。
そして筆者は、戦後の「分裂」を克服するためには
日本の三百万の死者を悼むことを先において、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か
と問いかけます。
というのが「敗戦後論」のあらましです。
引用が異常に多くなったのは、私の言葉だけでは上手くまとめられなかったためが大きいのですが、この文章に対して「いま、自国の死者を先に弔う、という主張をすることの意味」という文脈での議論がなされ、筆者は戦前と戦後の「つながり」を論じたはずが戦後という「切断」の構造でとらえられたのはなぜか、と問いかけそれが「戦後後論」につながっていきます。
なので、できるだけ「かいつままない」ようにしたつもりです。
また、美濃部達吉や大岡昇平については、ぜひそのまま引用しないと迫力が伝わってこないと思ったので。
だいぶ長くなったので、今日はここまでにします。
「戦後後論」については、またあとで触れるかもしれませんが、私の要領を得ないまとめよりはお読みいただくのが一番かと思います。
(つづきはこちら)