一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

京極堂と法科大学院

2006-04-12 | 乱読日記

京極夏彦の『姑獲鳥(うぶめ)の夏』を読みました。

今までは伝奇物と決め付けて「読まず嫌い」でいたのですが、モチーフとしては伝説・怪奇談・妖術・呪術とか民俗伝承などが豊富に使われているものの、それらを妄信もせず、また合理主義で一刀両断にもしない作者独自の視点をからめ、見事なストーリーにしています。

文庫本で621ページというものすごい厚さ(文庫本がアメリカのステーキのようなプロポーション)ですが、中盤以降はスピード感も出て一気に読めます。

象徴的なのが実質的な主人公である「京極堂」の以下のセリフ

「地域の民俗社会にはルールがある。呪いが成立するにも法則というものがある。無意味な誹謗中傷では成立しません。民俗社会では呪う方と呪われる方に、暗黙のうちに一種の契約が交わされている。呪術はその契約の上に成り立っているコミュニケーションの手段です。しかし現代社会では、その契約の約款が失われてしまった。更に共同体の内部では、呪いに対する救済措置もきちんと用意されている。努力した結果の成功も憑物の所為にされる代わりに、自分の失敗で破産しても座敷童子の所為にできる。都市にそんな救済措置はありません。あるのは自由・平等・民主主義の仮面を被った陰湿な差別主義だけです。現代の都市に持ち込まれた呪いは、単に悪口雑言罵詈讒謗、誹謗中傷の類と何ら変わらぬ機能しか持たないのです。」

なかなか考えさせられるものがあります。

この作品は昭和20年代後半を舞台にしているのですが、都市化・近代化とコミュニティと紛争解決のメカニズムの変化という視点からも面白い指摘だと思います。


どこかで似たような文章が、と思い出したのが内田貴東京大学法学部教授の東京大学出版会誌「UP」でのエッセイ「法科大学院は何をもたらすのか または 法知識の分布モデルについて」
これは司法制度改革についての文章なのですが、現在から将来に向けての紛争解決のルールとメカニズムがどう変わっていくであろうか、という上の文章と似た切り口です。
(以下抜粋)

つまり,事前規制から事後監視・救済型社会への転換のためには,司法サービスをサポートするための十分な数の法曹が必要とされる,というわけである.ここにひとつの重大な政治的選択がある.国家の事前規制によって権利の侵害を防止するのではなく,事後の司法的救済によって権利侵害に対する保護を与える社会というイメージは,アメリカ型の社会をモデルとしたひとつの社会像であるが,それだけが唯一の可能な未来というわけではない.昨今,建築基準法違反事件を契機に,規制緩和の「影」の部分が語られているが,小泉構造改革を支持した日本の国民は,本当に,事後救済型の社会を選択したのだろうか.

アメリカには,約100万人の法律家がいる.このように法律専門家の数は多いが,他方で,法律専門家ではない人々には法知識はまったく分布していない.つまり,アメリカの法律家は,日本でいえば医者と同じで,法知識(医学知識)を独占しており,素人とプロの間の壁がはっきりしている.これを法知識の集中型モデルと呼ぼう.他方で,これまでの日本社会には,法知識が拡散して存在し,法曹ではない「法律家」が多数存在していた.これを法知識の拡散型モデルと呼ぶことにする.

もし日本が,司法制度改革がめざしたとおり,アメリカ的な法知識集中型社会に向かうとすれば,紛争の発生を未然に防ぐための事前規制の質は低下し,また法知識の欠如は社会の紛争解決能力を低下させ,紛争解決をもっぱら司法的手続に頼るようになるだろう.まさに事後救済型社会の到来である.しかし,紛争解決に要するリーガル・コストが極めて高いアメリカでは,必ずしも大多数の人々がそれを是としているわけではない.日本の将来についてブループリントを描く際には,もう少しあるべき社会像の多様性を考慮に入れてもよいように思う.

私自身は、いわゆる昔の日本流の紛争解決を全面的によし、とするものではないのですが、司法の近代化、法曹の充実といっても法律やルールは結局は人が作り人が運用するわけで、そこの部分を一般の社会から極端に外部化・専門化して隔絶しまうのは問題があると思います。

そこがノーチェックになるとすれば、法律の運用はそれこそ「共同体の合意したルール」を無視した「秘儀」になってしまいます。そうなったら「民俗社会における呪術」よりもはるかに不合理で有効に機能しないものになりかねません。


法曹の人数を増やす事で逆にアメリカのような訴訟社会になってしまい、司法サービスの充実の最終目的である紛争の予防と円滑な解決に結びつくのか、という指摘は色々な人によってなされています。
日本の司法制度改革もアメリカを意識した部分は大きいのでしょうが、「事後監視・救済型」になるといってもアメリカのようにたまに突拍子もない法律ができて、それをTrial and Errorのメカニズムの中で是正していくには、それを可能とするには同時に政治的・社会的土壌(アメリカが特殊?)が必要なように思います。

なので、日本だと(日本じゃなくても)もう少し振れ幅の少ない方式がいいのではないか、と思うのですが、一方、制度設計を考えるときに紋切り型な「自由・平等・民主主義」を適用(これは極端な「自己責任論」とか「市場原理主義」につながったりしますね)するだけでなく、上に出てきたような「地域の民俗社会のルール」(互酬性とか応報とか「村八分」でも火事と葬式の「二分」は付き合いを断ち切らない救済のしくみとか)というような昔から日本にある「ユルい」観点(過剰に様式化された「日本的伝統」でないやつです)を入れるのも大事なんじゃないかとふと考えました。






コメント (4)
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