さて、今朝は比較的涼しい朝になって、エアコンのいらない午前中・・・。雨で甲子園の高校野球が中断して・・・なんか暇・・・みたいな午前中・・。
市からの広報誌なんぞが来るのかと待っていたが、今日は19日だからかやってこなかったので、私の今日のお仕事はないみたい・・・。そのための待機だったんだけれど・・・。明日以降になるのかなぁ・・。でも、土曜日や日曜日には役所はお仕事しないと思うし・・・。
で、今日は8月19日だから・・・「ハ(8)イ(1)ク(9)」の日なんだと・・。俳句の日というのは、正岡子規研究家の坪内稔典らが提唱して、1991年に制定されたものらしい。
ま、気軽に俳句に親しんでもらえる日にしたいと考えたものだとか。俳句にもいろんな考え方やお作法があるのだろうけれど、私の場合には・・・お気軽俳句・・・。要するにいい加減なのだ・・・。すでにお気づきだろうけれど、何年にもわたって、記事のタイトルには俳句が詠み込まれているが、俳句をたしなむ人から見れば俳句じゃないと言われるかも知れないけれど・・・。
と詠んだ・・・種田山頭火がいちばんいいなぁと思っている。山頭火の人生を語れば長くなるが・・・漂白の俳人ということで有名で・・・晩年には四国にやってきて、松山で最後を迎えた・・・。上の句は晩年のものとか辞世の句とかといわれているもの。
山頭火は・・・曹洞宗の雲水として各地を遍歴した人・・・。若い頃にはいろいろとあって、辛酸艱難を味わったらしい・・・。ま、誰しもそういうことはあるとは思う・・・。平々凡々と過ごせる人なんてまずはいないはず・・。苦労の数だけ・・・しわがふえるのだとか・・。人生のしわやなぁ・・・。
一方・・・こちらは・・・尾崎放裁で、こちらは真言宗のお坊さんで、神戸の須磨寺を追われ、讃岐の小豆島の「西光寺」の寺男として住み着いて、小豆島で亡くなった。ともに「自由律俳句」を詠んだ人たち・・・。
放裁の詠んだ句で有名なものが・・・
「いれものがない 両手でうける」というもの・・・。小豆島の「南郷庵(みなんごあん)」前に立っている句碑である。
ま、どちらも人生の表舞台から外れて・・・漂白と酒と俳句とをひっさげてあの世に消えた・・・。
所詮・・・人間は人生という漂泊の旅を続け、好きなことをして好きなように死んでいくばかりだということらしい。
ま、私のブログの最初の「自己紹介」にある・・・「尾崎放裁か山頭火みたいになりたいもの」というのはそういうことだ・・。
で、今日のお昼はここになった・・・。東かがわ市坂本・・・香川県最東端にある「うどんや」という名前のうどん屋さん・・。
例の(というても知らない人は知らないけれど・・)讃岐家という活魚料理店のグループ(身内)店。ここから東に100mも走れば県境のトンネルがあって、その先は徳島県鳴門市・・・。文字通り・・・香川県最東端のうどん屋さんだ。
お店脇には・・・こんな奇妙な三連水車があって、実際にこれが回っているのだが、実際には何もしていない。ただ・・回っているだけ・・・。とある会社の社員みたいなものだ・・・。毎日毎日・・・動いてはいるが・・・効果も実績もない・・・。私も永年・・・そういうお仕事だったのかなぁと反省する場所・・・。
お店のメニューも簡単で、かけかざるかぶっっかけか・・・。そこで、「ぶっかけ小の冷や」を注文した。これで・・270円。それにいなり寿司80円を二個で、160円。合計で430円。麺が・・・ねばっこいって思った。冷やだからね・・・。これが東香川のうどんやなぁと思った・・・。西讃の麺とはまるきり違う食感・・・。
最近は、この「夏水仙」というリコリスをよく見かけるようになった・・・。球根だから・・・あちこちに飛んでいくわけはないと思うが・・・あちらにぽつん、こちらにぽつん・・。それがいつしか・・・球根が増えていって・・・群生になっている・・。生物の生殖というのはすごいものがあるね・・・。
最近は・・・こういう方式の稲刈りが多くなった・・・。コンバインで刈り取った稲のモミだけをパイプでトラックにはき出して、このトラックが・・農協さんの集荷施設(カントリーエレベーター)に運んでおしまい。あとは・・農協さんが乾燥して保管して置いてくれる。その中から契約した分だけを農協さんが販売するし、食べる分だけは注文すれば配達してくれる仕組みだけれど・・・。
今日・・・見かけたお寺さんにあった掲示板。前半は・・「ああ、そうだなぁ・・」と思うのだけれど、後半は重い言葉やね。真正面から・・・「あなたはどう生きるのですか」と言われても・・・「ぐっ!」と詰まって言葉が出ない・・・。私ならば・・「どう生きたらいいのですか」くらいしか出てこない・・・。それを教えてくれるのがお寺さんじゃないか・・・みたいな。
これは別なお寺にあったものだけれど・・・、こういうお言葉のほうが気楽かなぁとは思う・・・。「どう、生きるのか」よりも・・「どう、生かされていくのか」みたいな・・・。川の流れに任せた笹舟のような、風の流れに乗った浮き雲のような生かされ方ができたらなぁと思ったことだった・・・。わがままかも知れないけれど・・・。
じゃぁ、また、明日、きっと会えるといいね。