芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

インドへの日本文化発信

2007年08月02日 | Weblog
東外大に端艇部というボートを漕ぐ運動部がある。わたしもそのOBだが、その端艇部のOBの仲間に登山の好きなものたちが集まって山肴会と称して、時々登山をしている。先月、その仲間が集まり、呑みながら、8月5~7日に北アルプスに行こうということになった。信濃大町にまだ、現役で働いている三浦兄の会社の寮が宿があるというので、そこに一泊することになった。同期の立花君がリーダーで、彼の都合に合わせたので、その宿は山小屋の前泊になった。
白馬に上るには、危険な雪渓を歩くので、わたしは3年前のスキーの骨折がまだ完治していないため、落石をよけられるほど体が素早く動かないから、爺が岳に登ることにしてもらった。それでも2700メートル以上ある。しかも足不自由のため、最近はあまり歩いていないから、自信があまりないが行くことにした。
ところが、その途中で、諏訪湖を通るので、館兄の力で、舟を借りて、諏訪湖でボートを漕ぐ段取りをしたと連絡があった。
3年前、インドから帰ったときに肝臓を悪くしていて寝ていたのだが、スキーに誘われていて、その約束の義務を果たすため、病み上がりで体力をつける意味でもスキーに行ったが、スキーと登山のために日頃訓練している人達と同じ動きをしようと無理をして足を骨折してしまったので、現在体力に自信のないわたしは、メールで登山のために練習を積んでいる様子を見るたびに、ますます自信を失うことになる。
いわく、『地下鉄大江戸線の階段を一気に上っても楽々』曰く、『ボートのレースと富士登山を連続して行なっても何ともなかった』
現役のボート部員だったときに全日本ジュニアーレガッタの舵手付きフォアーで、一緒に漕いで優勝した斎藤兄に至っては、『登山に備え、300kmをあるいた。これで大丈夫だろうか』という。
殆ど、現役時代のノリである。ちょっとわたしにはついて行けないかもしれないので、わたしも急遽、昨日、平坦な道ではあるが、10km以上を炎天下歩いたところ、殆ど、脱水症状になり、上着のシャツもズボンも汗でぐしょぐしょになり、シャワーを浴びただけで、寝入ってしまい、夜中の2時半頃一旦目をさましたが、また寝て、本日2日に朝寝坊とあいなった。先日、手紙をくれた、高柳正幸氏から起きがけに電話をもらい、今日ヨーガのあと呑もうということになった。
彼から、国際交流基金小倉和夫理事長がインドに日本から文化を発信して行かねばならないと発言している記事を貰い、『竹取物語』ヒンディー語訳の意義が良く分かったというのに対して、最近わたしが、国際交流基金の募集に応じて、『竹取物語』ウルドゥー語訳の援助を申請したら、予算がないと断られたことをメールしたので、それに対する電話だ。