春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「横浜美術館・神奈川県立博物館」

2012-11-25 00:00:01 | アート


2012/11/25
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(14)横浜美術館・神奈川県立博物館

 11月3日文化の日は、各地の美術館博物館で、無料公開が行われます。チェックした中で、今年の「無料!」は、横浜美術館に決めました。
 横浜みなとみらいに着いて、クイーンズスクエアビルのラーメン店で博多ラーメンを食べて、いざ、横浜美術館へ。横浜へ足を伸ばして見る美術館、これまでそごう美術館が多くて、横浜美術館に入ったことがなかったのです。1989年開館以来四半世紀たつのに。

 開館記念日が11月3日とかで、「はじまりは国芳・江戸スピリットのゆくえ」という企画展。江戸後期の浮世絵から、明治の美人画、昭和初期絵画表現までの流れを展示していました。
 ひとつひとつの絵は、版画だから、あちこちで見た覚えがあるし、明治の鏑木清方その弟子の伊東深水などの美人画も近代美術館や鎌倉の鏑木清方記念美術館でも見てきた絵です。鏑木の弟子筋の「新版画運動」に所属した版画家たちの作品、はじめて見たものが多かったです。
絵の集め方並べ方、はっと感心する並べ方に出会うこともありますが、今回はあまりキュレーターのセンスを感じませんでした。

 常設所蔵展も、初めて見たのですが、現代彫刻が多く、心ひかれる作品がなかった。
 唯一、森村泰昌がレーニンに扮して演説するのをムービーで表現したインスタレーションが面白かった。今まで、森村が有名な絵画の人物や歴史上の人物に扮したシリーズ、写真では見てきたけれど、動画ではじめて見たので。

 「レーニンの演説」は、「20世紀の男たち」というシリーズのひとつ。ほかに、ヒットラーの演説もあるし、三島由紀夫の市ヶ谷自衛隊での演説もある。強い風刺が感じられる画面のでき。すごくおもしろかった。

 「森村レーニン」のロケ地は釜ヶ崎。画面に登場するエキストラの労働者は、釜ヶ崎ドヤ街にいた人々です。釜ヶ崎支援機構からの仕事発注で、労働者や野宿の人たちが出演しました。
 この労働者たちがすごくいい。画面は暗く、ひとりひとりの顔などうつっていないのだけれど、社会主義が全体主義に転じていき、やがて潰える過程のむなしさまでも表現できている作品だと思いました。

 森村レーニンは演説台の上で叫びます。「戦争は、、、、、むなしい!」「人間は、、、、、 むなしい!」そして、森村レーニンが手を振り上げると、絶妙に遅れたタイミングで、労働者たちは、力なくその腕を振り上げ、権力者に迎合するのです。
 森村レーニンは、演説の終わりには紙をちぎった花吹雪を自ら労働者の上に降らせます。濃霧が立ちこめ、労働者たちは静かに演説台のまわりから去っていきます。
 どんな長々としたレーニン伝であろうと、レーニン思想の解説書であろうと、これほどの風刺精神を発揮したレーニン描写はなかったのではないか。

 森村は、この釜が崎のおっちゃんたちについて、語っています。
群集は、20世紀のイメージです。それは作品のバックグラウンドとして、重要なポイントなので、その顔をどうやって揃えるかが、大問題でした。私は大阪に住んでいるので、釜ヶ崎が連想された。レーニンが築こうとした理想社会、当時の労働者階級を現代日本のそこに重ね合わせてみた。私の映像に出てくれたおっちゃんたちは、かつては労働者であっても、現在は仕事がなくて野宿をしている。レーニンそのものは、この現実を知らないが、レーニンに扮している私は、ソ連の崩壊までも知っている。その上に立って、ドヤ街で演説をしなければならない。日本の戦後経済を支えてきた人々百数十人を前にしての演説は、最初考えていたものではだめで、すっかり内容を変えることになった。
 高齢者だから働きたくても職場がない。一時的に私が仕事として雇用する。ボランティアの学生を集めようとすれば、それも可能だった。俳優の卵を雇った方が、見栄えがよくて、それらしい元気のいい演技をしたかも知れない。私はそれでも20世紀の現実が欲しかった。だらだらやっているわけではないけれど、そんなに気勢は上がらない。それでもおっちゃんたちは何かの役に立っていることが分かってくれていた。強力な撮影ライトが当たって、自分たちに脚光が当たっているのを感じていたと思う。レーニンの立つ演壇を撮影するためには、手前の足場のしっかりした高い位置にカメラをセットしなければならない。そのセット作りを、おっちゃんたちは瞬く間に作りあげてくれた。工事現場で慣れたその作業手順は、感動的だったといってもいい。ここには昭和というが時代がしっかりと刻み込まれた顔があった。」


 私も、この「レーニンの演説」の成功の第一番は、「釜が崎のおっちゃんたち」をエキストラに選んだセンスにあると思います。
 横浜美術館、わたくし的には、この森村泰昌「レーニンの演説」を見ることができただけで、大満足。

 本館、平成館、法隆寺館と、3つの博物館をまわって、招待券一枚で朝から夜まですごせた東博とちがい、タダとはいえ、横浜美術館はおひる食べてから入館して、途中水飲み休憩も入れて3時間もすごしたら、全部見終わってしまいました。
 この美術館、すごく広いけれど、「館内に飲み物持ち込み禁止」と書いてあるのに、トイレの脇などに水飲み施設がいっさいなし。
 展示室外の廊下のベンチで持参の水を飲んでいたら、係員がとんできて、「ここも飲み物禁止です」と言う。「喉が痛いので水を飲みたいのですが、どこでなら飲んでいいのでしょうか」とたずねると、「トイレの前にベンチがあるから、そこでなら」と言う。係員が指さしたトイレへ行ってみましたが、ベンチなどなし。立って飲みました。

 館内飲食禁止という美術館博物館、たとえば、東博でも東京都美術館でも近代美術館でも、冷水器を備えており、入館者が休んで飲み物をとれる休憩所があります。横浜美術館にはカフェはあるけれど、冷水器などはなく、とても不親切だと感じました。飲食禁止を求めるなら、館内に「飲食出来る場所」をきちんと設置すべき。1階ロビーに「飲み物を飲んでもいいけれど、食べ物はダメ」という畳を敷いた休憩所があったけれど、11月3日は、そこで「国芳展開会セレモニー」が行われていて、逢坂恵理子館長の長いあいさつなどがあり、とても水飲んでくつろげる場所じゃなかったし。

 3時じゃ、まだ帰るには早いので、みなとみらい線で一駅先にある神奈川県立博物館に寄ることにしました。電車に乗れば次の馬車道駅まで一駅ですが、横浜散歩を兼ねて歩くことに。

 そして、いつものごとく、地図を見ながら道を間違えて、桜木町へ出てしまい、大回りをして歩くこと60分。4時半の「入館締め切り」時間の5分前にようやく到着。閉館の5時まで30分、「横浜の歴史」を縄文時代から現代まで駆け足で見て回りました。

 歴史を見るのは、ついでです。神奈川県立博物館に立ち寄る目的は、その建物にあります。1905(明治37)年完成当時の横浜正金銀行正面の古写真の絵はがきと、現在の神奈川県立博物館として修復された建物の絵はがきを買いました。

 5時に閉館になり、薄暗くなった博物館の周囲をゆっくり一周しました。


 東京都北区にある赤レンガ建物「醸造試験場(1904年完成。現酒類総合研究所東京事務所) 」の設計者、妻木頼黄(つまきよりなか)の作品で、同じ1904年に完成した「横浜正金銀行本店」が、現在は神奈川県立博物館になっているのです。
 妻木は、横浜の赤レンガ倉庫も設計しています。妻木設計の建物、2007年に大連へ行ったとき、旧、横浜正金銀行大連支店(1909年 現・中国銀行大連分行)も見たので、あとは、拓殖大学恩賜記念講堂(1914年、現・拓殖大学恩賜記念館)と、山口県庁&旧県会議事堂を見に行きたい。こちらは復元もののようですが。

 11月3日も咳をしながら、よく歩いた。横浜美術館で水が飲めなかったのをのぞいて、いい文化の日でした。文化とは、水くらいゆっくり飲める場所があることを言うんじゃなかろうか。

<つづく>
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「中国王朝の至宝展・東京国立博物館」

2012-11-24 00:00:01 | アート


2012/11/24
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(13)中国王朝の至宝展・東京国立博物館

 東博本館で出雲展をみたあと、平成館へ。中国王朝の至宝展(12月24日まで)。
 中国六千年の歴史、紀元前二千年の夏王朝、殷王朝から、紀元後1200年の宋の時代までの、古代中国の遺物の展示です。
 根がケチなので、入場券を自腹で買ったときは、500円のガイドイヤホンは節約して借りないのですが、この日は無料の招待券なので、ガイドイヤホンを借りました。音声解説は、展示品の脇に出ている説明プレートに書かれている以上のことはそんなにしゃべらないのですが、お話をききながら展示を見ていると、なにやら分かった気になる。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1495

 日中友好条約締結40周年の展覧会です。こちらでは、暗雲垂れ込める政治情勢は別として、中国の文化を知ろうとする善男善女がひきもきらす会場に押しかけているのに対し、かの地では、フィギュアスケート中国杯の応援に出かけたツアー客も参加の選手も「ホテルから一歩も外に出たら安全は保障しない」という国情。文化度、民度の違いですかね。 

 これまで、最初の中国王朝といえば、伝説の夏王朝や、最後の王は「殷の第30代帝、暴君紂王(ちゅうおう」というその名を私でも知っている殷王朝。(「酒池肉林」とは、紂王の事跡というのだが、後世の伝説は最後になって滅ぼされた王だから悪く言っているだけのようで、紂王はけっこうよい治世をおこなったということのようです)。
 黄河中原の夏王朝、殷王朝と同時期に、長江流域の四川盆地に蜀(しょく)王朝があったことが、近年の考古学発掘の進展によってわかってきました。
 四川省成都市金沙遺跡出土の、前16~前15世紀に作られた黄金の仮面、青銅器の爵(しゃく=酒を注ぐ器)などが展示されていました。

黄金の仮面


虎座鳳凰架鼓 戦国時代・前4世紀 湖北省・荊州博物館蔵


 殷の次の周王朝の展示品はなくて、次の第2章は、春秋戦国時代の斉や魯王朝。孔子は、魯王朝の時代に生きた人です。魯国の曲阜に、孔子の墓があります。私は2007年に、山東省曲阜市に行き、三孔(孔廟、孔林、孔府・旧称は衍聖公府)を訪れました。
 今回の展示では、魯や孔子に関する展示は、孔廟や孔林(孔子一族の広大な墓)の写真のみの展示でした。孔廟や孔林の写真は、私もたくさん撮ったのですが、今パソコンを探しても、どこにしまったか分からなくなってしまいました。パソコン内蔵写真も整理整頓が必要ですね。

 秦の始皇帝の時代の展示では、矢を構える武人ともう一体の兵馬俑が展示されていました。兵馬俑の写真も、2007年の西安旅行で撮ったのですが、このとき、カメラのメモリーカードが満杯になり、ケータイで写真を撮って、そのケータイが壊れたらデータが取り出せないで、そのまま。どうも中国での写真はうまく保存できていません。

 時代を下って、宋の時代まで、たくさんの遺物、出土品を見ました。宋は今年のNHK大河ドラマ「平清盛」で、清盛が盛んに「宋と貿易をしたい」と言っていたのでも、わかるとおり、当時の世界の中で最高の文化力を持った国でした。今年1月には、宋時代の有名絵画「清明上河図(せいめいじょうがず)」を見るために東博平成館で3時間も並んで待ったことを思い出しました。中国北宋の都開封の都城内外を描いた絵でした。

 中国6000年の歴史をたどり、遣隋使遣唐使のいにしえ、江戸時代鎖国中の清との貿易まで思い返せば、日本はなんと多くを中国文化に負ってきたことでしょう。
 それに比べると、歴史上、日本文化が中国に与えた影響はないとはいえないまでもごく少ないような気がします。日宋貿易でも日本からの輸出は銅や硫黄などくらいで、文化輸出といえば、日本刀と扇の輸出くらいでした。
 現代文化の上で、アニメのドラゴンボールやクレヨンしんちゃんの海賊版で中国の子どもたちに絶大な人気を誇っているのくらいが、まあ日本文化の中国への浸透と言えましょうか。

 中国の考古学発掘は、まだ研究が始まったばかりです。秦の始皇帝陵で兵馬俑が発掘されたのでさえ、たった40年前の1974年のこと。上記の成都市金沙遺跡が発掘された野など、12年前の2000年のことです。これからどんな歴史的な発掘発見があるかと思うと楽しみです。

 中国のGDP(Gross Domestic Product国内総生産)が日本を追い抜きました。国力は十分なのですから、全国民の教育や文化面をもっともっと充実させ、国内格差を是正してほしいです。出稼ぎの賃金さえ不払いになってしまうことがないように、生活に不満を持つ階層の人が、その腹いせを日本製自動車や日本式デパートに向けたりしないよう、民度の熟成を図ってほしい。

 中国。漢文漢詩、論語から莫言まで、好きです。兵馬俑の舞踊人形から千手観音(中国の聴覚障害者ダンス集団)まで、好きです。中国文化、もっともっと知りたいです。

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「出雲展・東京国立博物館」

2012-11-22 00:00:01 | アート
2012/11/22
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(12)出雲展・東京国立博物館

 法隆寺館の1階観音様、2階の伎楽面を見て、気分はおさまりました。レストランゆりの木で、不愉快な思いをしたのは、さっぱり忘れて、よいものを見て目をなごませれば、立った腹も横に寝ておさまります。

 まず、本館で出雲展を見ました。(11月25日まで)
http://izumo2012.jp/
 メインの展示は、2000年に出雲大社の境内から出土した宇豆柱(うづばしら)と、古代出雲大社の復元模型です。
 出雲大社の千家家に伝わる大社設計図の古伝によると、柱の太さは3mで、本殿の高さは16丈、約48m。古伝では、平安時代の建物については、雲太、和二、京三(出雲太郎、大和次郎、京三郎)と書かれ、出雲が日本一の高さ、大和の東大寺が二番、京都の御所が三番、とされていました。(数え歌として人口に膾炙していたのを元に、平安時代の「口遊」by源為憲が書き残していたそうです)
 東大寺の高さ45mよりも高いのが出雲大社だと言われていたのです。この記録に対して、「そんなに太い柱になる木はないし、そんなに高い建物も、往古の技術では建てられるはずがない」という論を出す学者もいました。

 ところが、2000年の発掘調査で、大社境内から、古い柱の残痕が出てきました。これが宇豆柱です。直径1m以上の太い杉の丸太を3本束ねて一本の柱としており、古伝(千家家所蔵「金輪御造営差図」)の「直径3mの柱」が本当だったことがわかりました。そうなると、本殿までの階段が100mもの長さで続いていた、という伝説も本当だということです。

 本館正面奥の展示室には、この出雲大社本殿の10分の1の模型が設置されていました。神官のフィギュアが階段に置かれていて、いかに巨大な神殿だったかがわかります。発掘された宇豆柱も展示されており、太さを実感できました。



 そのほかの展示では、1984年1985年に荒神谷遺跡で発掘された銅剣銅矛、銅鐸が圧巻でした。1996年、加茂岩倉遺跡から発掘された、銅鐸の一部などが展示されていました。ひとつの遺跡からの出土数が、日本最多となる39個。ひとつでも発掘されればすごいのに、これほどの数の銅鐸があったのですから、出雲の地の力がわかります。出雲は大和にも増して重要な土地でした。
 銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個という常識をはるかに超える数の青銅器が発見されたことで、古代史の中で出雲がいかに大きな存在だったか、大和天皇家に「国ゆずり」をした、というその言い伝えについて、さらに研究が必要なことがわかりました。

 国譲りの話は、712年、今からちょうど1300年前に完成した『古事記』に大国主命が、アマテラスの孫のニニギに国土の権利をゆずり、そのかわり、この世で一番高く大きなおやしろを建てて出雲の神々をたたえることを要求した、という話になっています。
 古事記研究風土記研究も進んできたとはいえ、まだ古代史の全容が解明されたわけではありません。
 ちなみに、春庭1974年提出の卒業論文のタイトルは『古事記』でした。

 出雲大社遷宮のためおやしろから出されている大社の所蔵品、また島根県立古代出雲歴史博物館所蔵品などが多数展示されていました。
 展示のなかで、あ、そうなのか、と、目からウロコの品がありました。銅鐸復元品です。銅鐸は東博の考古室などでも多数展示されているので、見慣れた気になっていましたが、復元品がアカガネ色に輝いているのを見て、「そうか、私は銅鐸といえば、緑青がふいている緑色を思い浮かべてきたけれど、製造されたばかりのときは、銅の色なんだ」と、改めて思いました。銅鐸=緑青色という思い込みで、アカガネ色の銅鐸を想像したことがなかった。想像力がない人間ですね。銅剣銅矛の復元品もありました。

復元された銅鐸


 「神話のふるさと出雲」、出雲風土記や古事記の研究がもっとすすんで、古代のアキツシマがより深く理解出来るようになってほしいと思います。アヅマエビスの子孫である私にとっても、「出雲や大和は、心のふるさと」と言ってよいと思うので。

<つづく>
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「老人の肖像」

2012-07-20 00:00:01 | アート
2012/07/20
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>十二単日記201207老いの小文(2)老人の肖像

 オランダのマウリッツハイス王立美術館が2012年4月から2年間改修拡張工事となり、閉館している間、所蔵絵画が他の美術館に貸し出されます。

 東京都美術館のリニューアルオープン。目玉はフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」。そのほか、フェルメール、レンブラント、ルーベンスなど、マウリッツハイス美術館の有名所蔵品がリニューアルオープンの目玉として東京都美術館で公開されるというので、なんとか招待券を手に入れようとしたのですが、だめ。ミサイルママが、一人5枚まで区の市民サービスで格安チケットを購入できるというので、私の分もいっしょに買ってもらいました。一般1600円のところ、半額です。

 仕事が終わってから、「少女」に会いに出かけました。平日というのに、まず美術館に入るまでに60分待ち。

 きっと絵の前は「人、黒山をなす」で、背の低い私は遠くから人の頭ごしにしか見られないだろうと覚悟して、それでも一目、見つめ合えるかも、と「少女」の部屋にいきました。他の絵はぜんぶすっとばして3階へ。
 最初はものすごい人混みにもまれながら30分並びました。最前列で見るための列です。「立ち止まらないでください」という係員にせかされて、絵の前最前列を10秒で通り過ぎる「通過鑑賞」
 つぎに立ち止まっていてもいい2列目での鑑賞をねらう。黒山の中、じりじりと前に進んで2列目に並び、30分くらい立って見ていました。
 「きれいだねぇ」としゃべりあう二人連れ。少女が頭に巻いている青いターバンの色について、連れの女性に蘊蓄並べる「油絵ちょっとかじりました男」の弁舌。いろんなおしゃべりを聞きながら、少女と見つめ合いました。
 
 5時半閉館、5時に入場締め切り、というので、入場締め切り後、もう人が入ってこない時間がチャンスと見て、館内で待っていました。2度目は比較的すいて、1度目よりはゆっくり見ていられました。今度は最初に30分2列目に陣取って見て、最後にもう列に並ぶ人がいなくなってから、何度も列について、ぐるぐる通過鑑賞。

 本物の「少女」は、とても魅力的でした。最近の図版は印刷技術がとてもいいので、版画などは本物もコピーも区別がつかないこともあるのですが、この「少女」の青いターバンや光る真珠、そしてあの蠱惑的な瞳は、図版とは比べものにならないくらい良かったです。。本物を見ることができてうれしい。

 そのほかのフェルメール、2008年に東京都美術館のフェルメール展で見たことのある『ディアナとニンフたち』にも再会できました。2008年に東京都美術館で見たフェルメール。「ディアナとニンフたち」のほか、『マリアとマルタの家のキリスト』『小路』『ワイングラスを持つ娘』『リュートを調弦する女』『手紙を書く婦人と召使』『ヴァージナルの前に座る若い女』を見ることができたのですが、このときは「真珠の耳飾りの少女」は来日しませんでしたから、今回の展覧会を楽しみにしていました。
 スカーレット・ヨハンソンが少女を演じた映画もとてもよかった、ということもあります。

 会場出口の外は絵はがきや複製画、図録などの売り場、その外側に「少女の服」が展示されていました。
 今回、展覧会のプロモーションで武井咲が少女のイメージキャラクターを演じています。『真珠の首飾りの少女』の絵は上半身だけなので、下半身のスカートについては、当時の女性の衣裳を文献資料で調べ上げ、布地やデザインなどを考証して作ったのだそうです。文化服装学園の学生達が一ヶ月がかりで手縫いで縫い上げたという衣裳も展示されていて、ていねいな仕事でした。

フェルメールの少女に扮した武井咲

文化服装学園の学生が縫った衣裳を着ています

 レンブラントやルーベンスもよい作品が展示されていて、充実していました。会期中、夏休みにもう一度行きたいと思っています。今回は、「少女」に会うのが主な目的だったので、他の作品はささっと駆け足鑑賞になってしまったので、もういちど、ゆっくり見られそうな日を選んで。

 レンブラントの最晩年の自画像と並んで、『老人の肖像Portrait of an Old Man』が印象深かったです。1667年、レンブラントの最後の日々にに描かれた油彩です。
 老人は、衣服から見ると、裕福な環境で人生を過ごしたことが見てとれます。肘掛け椅子にゆったり座り、シャツは襟元を開け広げてくつろいでいます。満足のいく人生を写し取らせて子々孫々に残そうとしてレンブラントに肖像を依頼したのでしょう。


 でっぷりとした上半身は、お金持ちらしい風貌で、17世紀のオランダということを考えると、東インド会社などの東洋貿易で大もうけしたひとかもしれません。
 しかし、レンブラントの筆致は、このお金持ちの老人の別な面も映し出しているような気がします。
 人生の成功者なのかもしれないのに、なぜか悲しげにも見えるのです。お金は得ても、愛のない人生だったのかも知れません。あるいは、愛する人に先立たれた人なのかもしれません。
 老いていくことそのものを悲しんでいるのかもしれません。いずれにせよ、この老人は幸福そうではないと思えるのです。

 晩年のレンブラントは妻に先立たれた後、家政婦や女中との愛憎関係がもつれ、裁判沙汰忍なるし、作品の完成度をめざすあまり、金持ちからの肖像画依頼がなくなって無一文になるし、不幸続きでした。「老人の肖像」には、そんな人生最後の悲しみが描き込められているように思います。
 最愛の妻が眠る墓地まで売らなければならないほど逼迫したレンブラント。さらには息子まで先立ってしまい、老いの悲しみの中に人生を終えなければなりませんでした。

 だれも、幸福で満ち足りた晩年をおくりたいと願い、人生の最後のときをおだやかにやすらいで迎えたいと思っています。
 「老人の肖像」は、そんな願いとは異なるレンブラントの「これが老人の現実なのだ」というため息が絵の具となって塗り込められているように感じました。

<つづく>
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「グランマ・モーゼスの絵」

2012-04-28 00:00:01 | アート
2012/04/28
ぽかぽか春庭十二単日記>シニアデビュー(4)モーゼスおばあさんの絵

 4月26日、アンリ・ル・シダネル展を見に新宿損保ビルの東郷美術館へ行きました。招待券もらったので、それほどみる気もなく見たシダネルの絵、日本ではあまり知られていない画家ですが、とてもよかったので、またまた図録を買ってしまいました。シダネル展の報告は、またのちほど。

 会場の出口にある一室は、館所蔵品の常設展示の部屋。一番有名なのは、ゴッホのひまわり。この絵をめざして損保ビル9階にやってくる人も多い。
15本のひまわり

 そのほか、新収蔵作品として、モーリス・ドニの絵もあったし、グランマ・モーゼス( Anna Mary Robertson Moses1860 - 1961)の毛糸刺繍画と素朴な風景画が展示してありました。
 モーゼスおばあさんの絵は、1969年にアメリカの切手の図柄になり、アメリカ人が一番よく知っている画家と言われています。ゴッホやピカソを知らなくても、モーゼスおばあさんの絵は知っている。どうして画家名が「グランマ・モーゼス」かというと、絵を描き出したとき、すでにおばあさんだったからです。

 12歳で奉公に出され、27歳で結婚したあとも農作業と子育てに明け暮れる生活。70歳で夫と死別し、早死にした娘に代わって孫を育てるなか、毛糸を使った刺繍画を始めました。リュウマチで手が動かなくなり、刺繍する毛糸の針が持てなくなったので、編み針よりは太い絵筆を握り、リハビリに励みました。おばあさん、75歳からようやく本格的に描き出したのです。
グランマ・モーゼスのスケッチ姿

 80歳で初めての個展。81歳で州の絵画展で注目されます。「素朴派」とまとめられたり、アメリカンプリミティブ・アートとくくられたり。デュビュッフェが提唱した「アール・ブリュット(生の芸術)=芸術的訓練や芸術家として受け入れた知識に汚されていない、古典芸術や流行のパターンを借りるのでない、創造性の源泉からほとばしる真に自発的な表現」とも関連づけられて日本で紹介されてきた人気の高い画家です。
 モーゼスおばあさんは、1961年に101歳で大往生。亡くなるまでに千点もの絵画を残しました。

自伝と作品をおさめたモーゼスの著書「モーゼスおばあさんの絵の世界」

 東郷美術館所蔵のモーゼス作品は22点あるそうですが、26日に見たときは3点だけの展示でした。でも、その他のモーゼス作品の絵はがきを売っていました。

 今回のテーマ「シニア・デビュー」です。
 75歳で絵筆を持ち、101歳まで描き続けたモーゼスおばあさん、究極のシニア・デビューですね。オーストラリアのアボリジニー画家エミリー・ウングワレー(Emily Kame Kngwarreye、1910年頃-1996)も絵筆を持ったのは70歳を過ぎてから。86歳で亡くなるまでの8年間で、3000点の作品を残しました。

 70歳をすぎてから何かをはじめても、そうよ、100歳まで生きれば、まとまった作品になる。詩でも絵でも小説でも。
 がんばりましょう。

<つづく> 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「藤牧義夫の版画」

2012-04-07 00:00:01 | アート

2012/04/07
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(7)藤牧義夫の版画

 3月22日、春まだ浅い景色の鎌倉を訪れたのは、藤牧義夫の版画を見るためでした。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2011/fujimaki/index.html

 藤牧義夫(1911-1935)は、群馬県館林市出身の版画家。は、群馬県館林市出身の版画家です。少年の頃から抜群の才能を示しましたが、画業半ばにして24歳のとき忽然と失踪し、生死不明となった芸術家です。
藤牧義夫23歳ポートレート1934

 1935年6月25日~27日にわずか3日間ですが、最初の個展を開き、版画家としてこれからという9月2日に失踪。その後は忘れられた存在になっていました。
 私は竹橋の近代美術館で何作か藤牧の作品を見ていたのですが、特別な興味はありませんでした。

 「藤牧をまとめて見てみよう」と思ったのは、ウェブ友まっき~さんの父上が藤牧研究を続けていて『赤陽物語ー私説藤巻義夫論』という著作を出版されていることを知ってからです。
 藤牧義夫について、牧野さんの本のあと、駒村吉重『君は隅田川に消えたのか-藤牧義夫と版画の虚実』2009なども出され、藤牧の版画コレクターでもある大谷芳久の『藤牧義夫 眞僞』(学藝書院2010)が従来の藤牧研究を一新するとして美術業界で話題になりました。ただし、この本は、収集された藤牧の版画集でもあり、21000円という値段なので、私には買えません。

 鎌倉近代美術館の展示では、各地の美術館収蔵品のほか、大谷さんの画廊「かんらん舎」からの借用品が何点かありました。同じ作品でも、版画ですから、数点が並んでいるうち、美術館収蔵品とかんらん舎コレクションでは色調が微妙に異なっていたりして、版画作品は、何点も並べて見る必要があるなあと思いました。

 1978年1月~2月にかんらん舎で開催された「藤牧義夫遺作版画展」が、藤牧再評価のきっかけを作り、忘れられていた藤牧版画が再び評価されるようになりました。かんらん舎の画廊主大谷芳久さんは、版画家小野忠重から藤牧作品を譲り受けたそうです)。

 版画という媒体には、元版から複数枚を摺ります。同じ作品が何枚かあるのをいいことに、贋作もあったそうです。大谷さんは、自分が手がけた作品の中に、気づかないで売ってしまった贋作があったのではないかという疑念を抱きました。画廊主のプライドをかけて2000年から10年をかけて藤牧作品の真贋を追い続けてきました。『藤牧義夫 眞僞』は、その集大成です。
 贋作販売に手を染めて羞じない画廊主もいる中、「もしかしたら自分が販売した中に贋作も混じっていたのではないか」という後悔から、真贋研究を始めたというところに、美術に関わる人の心意気を感じました。

大谷は、著書『藤牧義夫 眞偽』の中で、藤牧の代表作「赤陽」が東京上野の松坂屋上層階から見た風景であることを明らかにしています。また、藤牧の失踪は、従来伝えられてきたような「病苦や貧困の果ての自殺」ではない、というのが大谷説です。
赤陽(東京国立近代美術館蔵)

 贋作で思い出した。以前ビッグコミックスピリッツで愛読していた、細野不二彦『ギャラリーフェイク』。アニメ版は見ていないので、どこかで再放送してくれたら、録画してみたいです。もひとつついでに、映画「ミケランジェロの暗号」も、ナチスのユダヤ人迫害と贋作をめぐる丁々発止でおもしろかった。
 
 私には買えないけれど、藤牧の版画を質の良い図版で見たいかたは、電話・FAX・e-mailで版元より直接購入。アマゾンでも「現在お取り扱いできません」になっていて、版元に直接注文する以外にないみたい。私もいつかお金に余裕ができたら買いたいから、メモをコピーしておきます。ただし、限定360部発行のところ、残部稀少。すでに売り切れたかもしれません。再版あるのかどうかもお問い合わせの上。
発行所・学藝書院 〒248-0013 鎌倉市材木座1-11-3
電話・FAX 0467(22)3062 e-mail / tojaku@m4.dion.ne.jp
21000円と郵送料の郵便振替口座は、00200-6-116021

つき『新版画』第12号所収1934年(神奈川県立近代美術館蔵)

 神奈川県立近代美術館と群馬県立館林美術館の共同編集による藤牧義夫年譜
http://www.gmat.gsn.ed.jp/ex/data/11fujimaki/fujimaki_nenpu.pdf

 藤牧義夫紹介サイト
http://yfujimaki.exblog.jp/
 上記サイトのトップ「玉乗りする猫の秘かな愉しみ」
http://furukawa.exblog.jp/

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「写真を見る・堀野正雄&ベアト」

2012-04-06 00:00:01 | アート
2012/04/06
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(4)写真を見る・堀野正雄とベアト

 3月21日、写真美術館へ行きました。
 ロベール・ドアノーの生誕百年展は3月24日からだったので、残念ながら見ることができませんでしたが、3階の「幻のモダニスト写真家堀野正雄の世界」と2階「フェリーチェ・ベアトの東洋(J・ポール・ゲティ美術館コレクション)」はとても充実した展示で、よいひとときをすごすことが出来ました。
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1540.html
 http://syabi.com/contents/exhibition/index-1538.html

 1930年代、関東大震災後のモダン都市東京の建設ブームとモガモボが闊歩する大都会を堀野正雄(1907-1998)は「近代写真の旗手」として写し取りました。堀野が活躍したころ「新興写真」運動がドイツからアメリカへと広がり、日本の若き写真家たちも「芸術写真」の表現を追求するようになりました。堀野は、1930年に結成された「新興写真研究会」のメンバーとして、写真集『カメラ・眼×鉄・構成』1932を刊行するなど、プロ写真家として、戦前の写真芸術を牽引しました。
ガスマスクをした女学生の行進1936~1939頃)

 私が見た今回の「幻のモダニスト写真家堀野正雄の世界」は、まとまった堀野の作品展としては、初めてと言える展覧会です。堀野は、戦後ミニカム研究所というストロボ制作の会社経営に打ち込み、フォトグラファーとして生きることをやめてしまいました。そのため、飯島耕太郎らによって再発見されるまで、生死すら不明だったのだそうです。

 戦前の朝鮮中国を撮影したもの、築地小劇場の舞台写真、東京をグラフ・モンタージュで表現したもの、どれもすばらしい作品でした。
 「半島の舞踊家」として知られた崔承喜。私は写真でしか崔のダンスを見たことがないのですが、崔の写真のなかでも堀野の「ポーズ」1931は、崔の魅力がよく伝わる一枚だと思います。
ポーズ1931

 今回の堀野正雄展に「幻のモダニスト」と題されているのは、堀野が長い間埋もれていたからです。
 戦前に撮影した写真を否定し、ストロボ制作会社を経営して写真界から身を引くに至るまで、どのような戦中戦後の葛藤があったのか。これから研究が深まっていくのかもしれません。
築地小劇場の一景


 フェリーチェ・ベアト(Felice Beato1832-1909)は、英国国籍ですが、実はベネチアで生まれフィレンツェで亡くなったイタリア人。兄弟ふたり(アントニオとフェリーチェ)で初期の写真技術を習得し、1851年にカメラを購入して1854年にはベアトの妹と結婚したロバートソンと共同経営でトルコイスタンブールで写真館を開きました。ギリシャやマルタ島、エジプト、イスラエル、インドなど各地を撮影し、幕末明治初期にあたる時代の貴重な日本の姿を記録しています。
 アントニオ・ベアトは、1864年にパリに派遣された徳川幕府の使節がエジプトを経た際に、プラミッドを背景とするサムライたちの記念写真を撮影した写真家です。
スフィンクス前でのサムライ記念写真byアントニオ・ベアト(1864年撮影。写真美術館の今回の展示作品ではありません)

 フェリーチェ・ベアトはアロー戦争撮影のためにイギリスから中国へ派遣されました。国籍がイギリスであるのは、このためと思われます。ベアトは清朝最後の中国を記録し、頤和園や恭親王の写真を撮りました。恭親王・愛新覚羅奕訢(あいしんかくら えききん、アイシンギョロイヂン)は、兄である咸豊帝の死後、その妻のひとり西太后と結んで権力をふるった人です)
 
 ベアトは幕末1861年頃来日し、先に日本に来ていたワーグマンと「絵と写真」の会社を共同経営して、写真とイラストで日本を西欧に伝えました。ワーグマンとの共同経営を解消したあとも、1877年まで日本に滞在し、上野彦馬との写真館共同経営のほか、さまざまな投機的な事業を行い、結局はほとんどの財産を失う結果となりました。しかし、ベアトの撮影した幕末明治初期20年間の日本は、貴重な歴史の証言となっています。
長弓を引く武士byフェリーチェ・ベアト(1863年撮影Jポールゲティ美術館所蔵)

 1888年ごろにはビルマで写真館を経営していましたが、最晩年にはどのようにすごしたかわからないまま、フィレンツェで1909年に死去。

 写真術草創期にインド、中国、日本、朝鮮、ビルマを撮影し、クリミア戦争、インド大反乱、第二次アヘン戦争、下関戦争、辛未洋擾など東洋における国際紛争を記録した戦争写真家第一号とも言えるベアト。さまざまな事業に手を出す山っ気の持ち主でもあり、晩年はどこで何をしていたのやらもわからないというボヘミアン(定住せず伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活という意味での)でもありました。
 好きです、こういう人。

 飯島耕太郎は、写真家フォトグラファーとは、「写真によって’生かされる者’である」と言う。(飯沢耕太郎『フォトグラファーズ』1996作品社)
 すなわち、その生涯の「生」を支えるものが「写真を撮ること」「写真を撮ることによってその生を輝かせた者」ということになるでしょう。
 その意味では、堀野正雄の後半生は、「ストロボ会社の経営者」にすぎず、飯島の定義する「フォトグラファー」からは抜け落ちます。しかし、没後、堀野の一生を振り返れば、「フォトグラファー堀野正雄」こそ、堀野の生を輝かせたと思うのです。
 ベアトは自分自身を「写真家」とも思っていなかったのかも知れません。常に「何か新しいもの、新しい土地」をめざして、世界を渡り歩いた男。しかし、ベアトの一生もやはり、彼が撮影した数々の写真によって輝き、ベアトは真のフォトグラファーであったと思います。


冬着姿の女性(1868年頃 Jポールゲティ美術館所蔵)
 モデルは、歌舞伎の女形ではないかというのが、東京都写真美術館三井圭司学芸員の説。

 現存する最古の写真は1825年頃のもの。1万年前の壁画も発見されている長い歴史を持つ絵画に比べ、写真はたかだか200年の歴史しかない。けれど、ベアトの写した江戸の写真も、堀野の東京の写真も、単なる「記録」以上の「生の軌跡」を伝えずにはおかない、強い光を放っています。「光の芸術」である写真。

 写真術が発明されてから200年になり、写真技術の革新は日々新しい。私のような者でも、デジカメで花やら建物やらを撮影できる。ありがたし。私の撮影技術はいつまでたってもへたっぴいのままですが、写真を見ることにかけては、毎回新たな発見があります。

150年前の王子(音無川前の扇屋)byフェリーチェ・ベアト(今回の展示作品ではありません)。
 私の散歩道、150年前はこうだったのかと、感慨深い。

<つづく>

もんじゃ(文蛇)の足跡:
 フェリーチェ・ベアトの写真については、著作権が消滅していますが、コレクション所蔵者である美術館には、「所蔵者の有する所有権」があります。このサイトからのコピーを商用として用いることは、お断り申し上げます。
 堀野正雄の写真には著作権があります。写真掲載は「引用」の範囲内であることを確認してください。

1984年最高裁判決
著作権の消滅後は、著作権者の有していた著作物の複製権等が所有権者に復帰するのではなく、著作物は公有(パブリック・ドメイン)に帰し、何人も、著作者の人格的利益を害しない限り、自由にこれを利用しうる。
原作品の所有権者はその所有権に基づいて著作物の複製等を許諾する権利をも慣行として有するとするならば、著作権法が著作物の保護期間を定めた意義は全く没却されてしまうことになるのであって、仮にそのような慣行があるとしても法的規範として是認することはできない。

 以上の判決によるならば、作品を損なうことのない範囲で、著作権の切れた作品を美術館などで撮影することを、美術館博物館側が制限するのは、法的に「おこがましい」行為ということになる。
 美術館博物館での撮影許可が、もっと広まることを望んでいます!!
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「近代美術館工芸館北村武資の織物」

2012-03-31 00:00:01 | アート
2012/03/31
ぽかぽか春庭十二単日記>布をみる(4)近代美術館工芸館北村武資の織物

 3月18日、三の丸尚蔵館を出て東御苑を歩いていると、雨が降り出しました。折りたたみ傘を出して梅林坂を上る。白梅紅梅が咲いていて、思いがけず梅見が楽しめました。
 
 前回、3月6日に「織を極める-北村武資展」の第1期を見て、入館券を買うときに、前期だけなら500円、前期後期の通し券なら850円と言われて、なんだか通し券のほうが割安な気がして、通し券にした。無料の次は割引きが好き。
 日曜日は混むからヤダなと思いながらも、どうせ見るなら北村武資のギャラリートークがある日のほうがさらにお得かも、と思って日曜日におでかけ。おまけに雨ふり。北詰橋から近代美術館工芸館へ。
http://www.momat.go.jp/CG/kitamura/index.html

 前期展を3月6日に見たあと、ネットで人間国宝北村武資の帯、1本おいくらかしらと調べてみたら、500万円だった。100万円代のもあるけれど、やっぱりどうせ買うなら、500万円のほうよねぇ。最高級品は帯1本1000万円だって。着物一枚1000万円と合わせて、2000万円着て歩くのも容易ではあるまい。群馬弁では、「ヨイじゃあねぇ」という。

 と、回っていると、3月6日に来たときとはえらい違いで、やたらに和服姿のたおやかな麗人たちがぞろぞろと集まっている。センセの講演会があるとなると、こんなにも着物姿が集まるのやわ、と感心する。
 麗人達の帯を見て歩く。鳥獣戯画のうさぎとカエルの絵がついている帯もあり、梅の柄あり。みな、とっておきの和装で、なかでも北村センセの帯締めている人は得意満面であろう。でも、私には古着市のリサイクル帯も人間国宝の帯も、区別がわからない。見る人が見れば、ちゃんと「あ、この方、北村センセの帯しめてはる(なぜか京都弁)」とわかるのやろ。
 2011年京都での「北村武資展」
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2011/388.html

 帯や着物、布地の展示を見て、「はぁ、きれい」とため息交じりに見てまわりました。古代中国の織物研究から生まれた「羅」や「羅金」「経錦(たてにしき)」など、美しいデザインと色。
 北村武資作品例
http://www.nihon-kogeikai.com/KOKUHO/KITAMURA-TAKESHI/KITAMURA-TAKESHI-SAKUHIN.html

 ギャラリートークは、スライドで作品を映しながらの解説でした。私は、人間国宝ともなれば、織りのデザインはセンセが行うけれど、一段一段と糸を通し織り上げるのはお弟子筋がやるのだろうと思ったのですが、全部自分で織り上げるという話を聞きました。人間国宝が全部織り上げた帯やもん、500万とか1000万円とかするやろなと思います。

 そんな着物きたいか、と問われたら、、、、。私は展示されているのを眺めるだけでいい。どうせ着ても似合わないし、着ていく場所もないし、、、、、とは言うものの、むろん、私に北村センセの帯と着物プレゼントしてくれる人おられたら大歓迎。無料と食品売り場試食品つまみ食いとプレゼントが好き。

 5億円あたったら買おうかと思った北村センセの着物と帯。
 あたりました。グリーンジャンボ。10枚3000円を投資して、なんと3300円が当たりました。結婚以来、1年に1度2度は、「買わなきゃ当たらない」と思い「貧乏人の納税」と思って買ってきて、毎度300円のみの当選金でしたが、今回、3000円が当たって、これまでの最高獲得当選金です。3000円だと、北村センセの着物の切れ端くらいは買えそうだ。

<おわり>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「三の丸尚蔵館の正倉院裂れ復元展示」

2012-03-30 00:00:01 | アート
2012/03/30
ぽかぽか春庭十二単日記>布をみる(3)三の丸尚蔵館の正倉院裂れ復元展示

 3月18日、雨のなか、三の丸尚蔵館と近代美術館工芸館をまわりました。
 東京駅から大手門へ。三の丸尚蔵館、無料公開が何と言ってもうれしい。皇族の財産相続にあたって相続税対策として美術品が国へ寄付され、一般公開されているものです。
 18日は、日曜日だったので、三の丸尚蔵館の狭い展示室はかなり混み合っていました。いつもは人もまばらな尚蔵館ですけれど、今回の展覧会については皇室ニュースとしてテレビでも新聞でも報じられたので、見学者も多かった。
http://www.kunaicho.go.jp/culture/sannomaru/zuroku-45.html

 皇室の養蚕は、奈良時代からの伝統と言われていますが、千年も途絶えていたのを、絹製品輸出振興国策の一環として昭憲皇太后らが明治時代に復興させたもの。
 この、御所での養蚕が、美智子皇后にも引き継がれてきました。紅葉山ご養蚕所では、小石丸という種類の蚕に桑を与えて育て、また、櫟(くぬぎ)の葉で育つ野生の蚕である天蚕の発絹糸をとっています。海外からの国賓などへのおみやげとしてこの絹糸から織られた布が贈呈され、皇后のドレス、内親王方の着物などもこの絹布から作られました。

 正倉院古代染織裂の復元が試みられ、調査の結果、小石丸の絹糸が最適とわかりました。しかし、小石丸は他の蚕にくらべ、繭が小さく生産性が悪いという理由で国内での生産は途絶えていました。わずかに紅葉山御養蚕所だけ、美智子さまの「古い伝統をたやさないで引き継ぐ」という方針のもと、小石丸の養蚕が継続されてきました。正倉院の小石丸繭の下賜要請を受けて増産が決定し、毎年繭の下賜が実現した結果、正倉院裂れの復元が可能となりました。
正倉院裂復元

 復元作業には多くの人々が関わりました。織りは京都の川島織物が担当したというのは、そうだろうと思っていたのですが、繭から糸を繰る作業は、群馬県の碓氷製糸農業協同組合が担当したことを知り、群馬の養蚕技術が関わっていることをうれしく思いました。富岡製糸の伝統を受け継ぐ技術。富岡製糸工場建物の世界遺産暫定リスト登録以上に、技術の伝承は誇るべきことと思います。

 今回の尚蔵館展示は、正倉院古代裂れの復元品の展示のほか、紅葉山養蚕所の作業のようすの写真や、黄繭種,白繭種,天蚕,小石丸から取られた絹糸、皇后さまがお作りになった藁蔟(わらまぶし:蚕が繭を作るときのベッドにあたるもの)などが展示されていました。
http://www.kunaicho.go.jp/event/sannomaru/tokubetuten.html

 また、皇后から秋篠宮眞子内親王への手紙が公開展示され、全文が掲示されていました。この中に「蚕が桑を食む小さな音が好き」と書かれていたことに共感しました。
 私は、母親の実家が養蚕をしていた時代を覚えており、蚕がサワサワと桑を食べる音が好きでした。同じものが好きなことを知り、親しみを感じました。ここのところには「恐れ多いことながら親しみを~」と書かなくてはいけないのでしょうけれど。

 手紙を見て感じたのは、御一家の問題。学習院小学校の「お年寄りの人たちが継続してきた仕事について調べてくる」という宿題は、東宮家の姫様にも同じような宿題が出されたであろうに、愛子内親王は「ばあば」に対して質問の手紙なんぞ出してはおられぬご様子だったから。次男家の嫁様、宿題が出れば、すかさず姑に手紙を書かせるのは、さすが。「あちら様よりわたくしどもの娘達の方が、ばあば様にお親しくかわいがっていただいておりますのよ」というアピールが国民にも伝わりましたです。

 養蚕の仕事を手伝うのも、次男家の嫁様と娘二人で、長男家は嫁も娘も養蚕に関わっていないようすがうかがえました。まあ、長男家でも次男家でもいいから、養蚕は続けた方がいいんじゃないかと。

 紅葉山御養蚕所の伝統が続いてきたように。市場経済の荒波にもまれない場所で続けられてきた文化を大切にしていきたい。生産性低くても小石丸養蚕が続けられたのは、繭を売って食っていかねばならない市場経済のフィールド外の場所として御所があったから。(今では日本古来の繭である小石丸のよさが認められ、群馬でも小石丸養蚕が復活しています)
 東博法隆寺館に残る伎楽面。ペルシャでも中国でも絶えてしまった雅楽や伎楽が日本では今まで千年も続いてきたのは、それを保持する所があったゆえ。

 復元なった正倉院裂れ、また春日権現絵巻の修復の展示を見て、小石丸養蚕廃止が検討された中、「古いものも残しましょう」と継続を主張した皇后(皇太子妃時代のことですが)の英断は見事だったと思います。蚕が桑を食むサワサワという音を好むというお人柄がなしえた決断だったと感じました。

 こう書くと、「戦後民主主義の支持者であるというのと、古い伝統を残せというのは、矛盾しないか」とかみつきたくなる人がいるのは承知。今の世の中、古い伝統文化云々と言い出すとたちまち民族主義者っぽっく見えるからです。
 ナショナリズムと戦後民主主義の問題について興味がある方に、以下の本をおすすめ。
 ナショナリストと自称する福田和也と戦後民主主義者と自己規定している大塚英志のふたりによる対談集『最後の対話―ナショナリズムと戦後民主主義』や、小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』
 また、「天皇と文化」に関しては、三島由紀夫の「文化装置としての天皇」論ではなく、品田悦一『万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典』なぞをご参照ねがいたく存知候。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「うに染めと螺鈿細工」

2012-03-29 00:00:01 | アート
2012/03/29
ぽかぽか春庭十二単日記>布をみる(2)うに染めと螺鈿細工

 法隆寺展の会場を出ると、同じ日本橋高島屋8階フロアでは「大いわて展」というのをやっていました。岩手の県産品物産展。いろいろな食べ物や手工芸品が並んでいて、螺鈿細工やうに染めなど、お金があったら買いたいものがたくさんありました。

 螺鈿細工、川越市から宮古市に引っ越しして活躍している工芸家、澤井正道さんに作品を見せていただきました。でも、残念ながら私には高値の花。とてもきれいな螺鈿、いつか宝くじが当たったら買いたい。
http://sawaikoubou.com/prof.html
 テレビ朝日「人生の楽園」に出演したときの澤井夫妻。
http://www.tv-asahi.co.jp/rakuen/contents/past/0068/

 それから、田川宮子さんが主宰するアトリエぐらんの染め物、うに染めを見せてもらいました。田川さんは、三陸リアス海岸で育つウニのとげとげの殻から染料を抽出することに成功し、特許をとっています。ウニの殻から染料をとると、どうしてもウニ臭くなってしまうのを、特許の製法によって、色素を失わずに臭いはとることに成功したのだそうです。ウニの身を食べた後の殻は「廃棄物」でしたが、ウニ染めに使うことで、殻も生かすことができ、これぞ地球にやさしいエコ製品。

 東京では、アンテナショップの「いわて銀河プラザ」で製品を扱っているほか宮古市の「ぐるっと遊JR宮古駅前」、「シートピアなあど」、「浄土ヶ浜パークホテル」「宮古駅ジャスター」「グリーンピア田老」で購入可能です。
 田川さんのウニ染めの紹介ページ
http://sanriku.iwate-navi.jp/special/special02.html
http://iwatemirai.com/iwatenoiimono/iwateno06.html

 ウニ染めは、媒染液の違いにより、深い赤ワインの色からオレンジ、ピンク、藤色など、淡く透明な色彩に仕上がります。絹を染めたスカーフ、夢のような色合いでとてもきれいでした。一番小さなスカーフが3000円。私にはまだまだ高い。


 聖徳太子(旧)に御縁のない生活ながらヒデヨさんとはまあまあよい仲で、本日もよく食べた。ショウトクタイシ、おっと今ではユキチに縁のない春庭、岩手のためにお金を使うなら、やっぱりこれ、と、会場内「わんこそば」の店で「そば振るまい」というのを食べました。小さなおわんが6つ。それぞれに海老天ぷら、なめたけ、とろろなどがのせてある。あっという間に食べました。

 3月14日に食べたもの。13:00、仕事先最寄り駅前の蕎麦屋で肉南蛮そば700円。15:00おやつとして、高島屋の屋上で「ちびっこのためのミニ三陸鉄道」が、屋上フロアをぐるぐる回っているのを見ながら、ツナサンドイッチを食べました。(昼ご飯用として朝作ってかばんにいれておいたのだけれど、同僚と蕎麦屋に入ってしまったので、お昼に食べ損ねた)。小岩井農場直送の「農場飲むヨーグルト」(90ミリリットル=181円)、17:30わんこそば。ここでわんこそばが食べられるのなら、お昼ご飯はラーメンにしておけばよかった。「蕎麦とラーメンどっちにする?」と同僚と決めかねて、結局蕎麦にしたのでした。帰宅後、20:00、私が昨夜漬けておいた小カブの浅漬けと娘が用意した山かけ鮪と、息子がチンした生協の茶碗蒸し。

 「ハハ、ご飯はどうするの」と娘に聞かれ、小さな声で「今日はお昼におそば食べたから、晩ご飯のお米はパス」と言いました。夕方にも蕎麦を食べたことは自己申告せず。
 「そんなに食べたなら、今夜の晩ご飯は抜きにしなけりゃね」と叱られてしまうから。

 グリーンジャンボ5億円当たったら、澤井正道さんの螺鈿のブローチやペンダント、田川宮子さんののうに染めのスカーフやブラウスも買う予定だったのですが。

<つづく>
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「法隆寺展の幡&天寿国繍帳」

2012-03-27 00:00:01 | アート

2012/03/27
ぽかぽか春庭十二単日記>布をみる(1)法隆寺展の幡&天寿国繍帳

 3月14日に学期末の講師会議に出席した帰り道。「春休みなのに、会議というオシゴトをした自分にご褒美」ってな気持ちで、なんだか寄り道したくなって、日本橋の高島屋に行きました。8階の催し物会場で法隆寺展を見るためです。
 今年は、聖徳太子が亡くなった622年から1390年の遠忌。

 一万円札の代名詞としてショートクタイシ1枚、とか言ったことを覚えている世代ももはや古びてきました。こののち1390年たったらI'mカンsorryも、I'mノダsorryも、だれも顔なんぞ知らないことになっているし、お札の顔には間違ってもなりそうにない。っつうか、1390年後に、日本があるのか。と、思うと、1390年後にも遠忌を記念して展覧会が開かれる聖徳太子は、やはり偉大な人、和をもってトートシなんである。
聖徳太子2歳の像

 そんな聖徳太子の何種類もの像をはじめ、法隆寺に伝わる彫刻や絵画、工芸、染織、書跡など、130点余りが8Fに展示されていました。招待券手に入れたときは、それほど見たくもなかったのですが、見ればやはり感銘深かったです。(東博のボストン美術館展の券に応募したのだけれど、これは倍率高くてもらえず)

 留学生への「日本の自慢」として、「世界最古の木造建築物」として紹介するのが、聖徳太子が創建した法隆寺です。建築はむろん、仏教美術の面でも重要なお寺。
 私は、中学校の歴史だか美術だかの教科書に「法隆寺壁画」や「天寿国繍帳」が載っていたのを見て育ち、高校修学旅行で斑鳩を訪れたときは、大感激でしたが、建物を一回り見る時間しかなくて、教科書に出ていた宝物まで見ることができなかった。そして、この高校修学旅行以来、斑鳩には行っていません。奈良京都には何度か行く機会があったのだけれど。あーそのせいでショートクタイシにあまり縁ができなかったのだね。

 聖徳太子については、歴史学の新研究がつぎつぎに新説をもたらし、厩戸皇子は推古天皇の時代に実在したけれど、聖徳太子というのは、後世にさまざまな人物象を継ぎ足して創作された伝説の人、という説が有力らしい。
 17条憲法は、漢文で書かれている日本書紀に記されています。しかし、古代中国語の研究からみると、厩戸皇子の自作ではない可能性が大きい。日本書紀あるいは日本書紀の元になっているいくつかの歴史書(日本書紀はいくつかの書を併記している)の筆者が聖徳太子に仮託して執筆したという説が提出されています。文字の使い方や文法研究からすると、厩戸皇子が飛鳥時代にかいたとは考えられないのだそうです。

 聖徳太子が伝説の人であるとして、後世の私たちは伝説としての聖徳太子像を知り、伝説は伝説として受け止めればよいのだと思います。
 空海・弘法大師伝説が日本中にあるのといっしょで、歴史は歴史、伝説は伝説です。私たちは、偉大な出来事があるとなにもかも「あのお方のおかげ」と仮託してしまう。たとえば、「平仮名は空海が作った」というような伝説。これは、仮名文字成立史と発音史の上で、はっきりと否定されています。でも平仮名成立によって現在までつづく日本語表記ができあがった、ということを、「弘法大師のおかげ」と信じてきた人々の気持ちは、わかる。
 厩戸皇子が17条憲法を書いたというのが違うとしても、厩戸皇子を聖徳太子として後世の人があがめたことは、事実です。厩戸皇子が「聖徳太子」として敬われる対象となったのは、厩戸皇子の一族がことごとく滅ぼされてしまったことと関係しているだろうと思います。

 1949年の火災によって金堂が焼失し、現在、金堂壁画は模写しか残されていないというのは知っていたけれど、その他の法隆寺宝物のほとんど、1878(明治11)年に法隆寺から皇室へ寄付されていたということ、今まで知りませんでした。東博の法隆寺館には何度も足を運んでいるけれど、どうして法隆寺の宝物が東京にあるのかという経緯について調べたことなかった。

 明治時代初期、廃仏毀釈運動のため、お堂の補修もできないようになっていた全国の寺の中で、法隆寺は宝物を皇室に寄贈し、かわりに下賜金1万円を受け取るという方法をとりました。
 明治11年の貨幣価値の現在通貨換算、比較するものにより換算指数がことなってくるので、一概に言えないのですが、明治10年代の1円は、現在の価値では米換算でおおよそ1万円にあたると考えることができます。この計算では下賜金一万円は、1億円相当にすぎませんが、宮大工の手間賃に換算すれば数億円に相当し、おかげで堂宇を修理することができたのだそうです。又、多くの寺の宝物が海外流出をしてしまった中、法隆寺は一番安全な皇室を寄贈先に選んだおかげで、宝物の散逸が防がれる結果となりました。

 皇室所蔵となったおもな宝物は、帝室博物館所蔵品から移行し、現在では300余件が国立博物館の所蔵になっています。たとえば、伎楽面。東京国立博物館の法隆寺宝物館では本物を見ることができます。しかし、高島屋の法隆寺展出品は、江戸期の模造でした。そのほかの展示物も、模写模造が多かったです。
 聖徳太子唐本御影・聖徳太子摂政像・同胎内仏・中宮寺天寿国繍帳・玉虫厨子・夢違観音などレプリカが展示されていました。

 模写、模造でも見ることができてよかったものが多い。たとえば天寿国繍帳のレプリカ。現状模造なので、刺繍糸のすり切れたところなどもそのまま模倣されていて、橘大郎女が太子をしのんで天国におわす面影を糸に表現したという言い伝えが、伝説であろうと、真説であろうと、刺繍の糸目に女性たちがこめてきた思いというのが伝わるように思いました。
天寿国繍帳現状模造

 仏を荘厳した幡という布地、すり切れていた物もありましたが、これらは本物でした。飛鳥奈良時代に織られた「綾幡残欠」のうち、紺地のものは、欠損も少なく、綾の菱形の織り模様がはっきりとわかり、当時の機織技術に見入りました。

 模写は、鎌倉室町時代に行われたものや、江戸時代のものなど。
 焼けてしまった金堂壁画を戦前に模写した画家達が、模写の合間に合同で作った画帳などの展示もありました。1949年の不審火による火災で大半の金堂壁画が焼失したものの、1940年から模写をしていたおかげで、どのような壁画だったか、知ることはできます。それにしても、国の宝をもっと手厚く保護する方法がとられていたらなあと残念に思います。法隆寺火災以後、文化財保護法ができました。

 玉虫厨子もレプリカですが、現状模写なので、きらびやかな玉虫の羽の飾りははげているレプリカ。東京国立博物館のレプリカ展では、現状模造のほか、制作当時の復元模造もあり、玉虫の羽がぴかぴか光ってきれいだったのを思い出しました。私、光もんが好き。螺鈿とか、ぴかぴかもんが美術館にあるとつい見入ってしまい、これ、売り物じゃなくて、博物館で見ることができてよかった、と思います。売り物だったら、どこかの金持ちが買って帰り、私はもう二度と見ることができなくなってしまう。

 「法隆寺展」、デパート催事場の企画展だから、客寄せついでの展示だろうと思って入場したのですが、思いがけず充実した時間をすごすことができました。

 聖徳太子(旧)にも福沢諭吉(現)にも縁の無い生活ですが、日本橋でグリーンジャンボ買いました。聖徳太子の7歳像にも2歳像にもお参りした御利益があるに違いない、と信じたのですが、、、、御利益は、、、、。あらま、慶応大学へ行って福沢諭吉像にお参りしたほうがよかったのかも。

<つづく>
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏のアート散歩2011年8月

2010-03-31 12:50:00 | アート
2011/09/02
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(11)東京現代美術館サイレント・ナレーター

 石田尚志の一番新しい作品は、2011年4月の「海中道路」、10分間のビデオ作品。害虫駆除の薬剤噴霧器に海水を入れ、噴出する水で沖縄の海辺の道路に線を描いていくようすを撮影した映像です。映像は線の形を追うでもなく、むしろ噴霧器を持った石田が走ったり止まったりするようす噴霧器から水が出ていくようすを延々と撮影しています。「描く行為」そのものの映像化とでもいいましょうか。う~ん、やっぱりわからん。

 ディズニーランドの掃除人カストーリアルキャストは、水を含ませたほうきで、道路にミッキーマウスやミニーの絵を描いて、観客を楽しませています。これはエンターティメント。
 中国の公園では、大きな筆に水を含ませて、公園の道に立派な字で漢詩や論語の文字を書き続けるおっさんがたくさんいます。水の文字は乾けば消える。特に書家として名があるわけでもないらしいごく普通のおっさんたちが、我も我もと道に達筆の字を書いているようすは、中国の公園光景のなかでも、太極拳の大群、青空麻雀の大群とともに印象深く残っています。

 ディズニーランドの掃除人や公園の水筆書きのおっさんは、アーティストと呼ばれることはない。でも、石田尚志が沖縄の道路に水で線を描けば、これはアート。現代美術館に映像展示される。もし、石田が中国の公園で噴霧器の水をまき散らしながら走ったとして、だれもそれをアートと思わないでしょう。中国の都市道路で、水を撒いて埃を掃除しながら走るトラックを誰もアートと呼ばないし、水筆書きのおじさんたちを撮影しようとするビデオクルーもいないのと同じように。それがアートとなるのは、アーティストが「これはアートである」と言って行い、見る人も「これはアートなのだ」と思って見る行為だからなのかしら。どうも、シロートには現代アートわからんのです。

 好きになった作品もあります。
 私、海坂ときけば、一番最初に思い浮かべるのは藤沢周平の海坂藩。それしか知らなかった。
 三省堂大辞林での「海坂」の解説
 舟が水平線の彼方に見えなくなるのは、海に傾斜があって他界に至ると考えたからという、神話における海神の国と人の国との境界。
「海坂を過ぎて漕ぎ行くに海神(わたつみ)の神の娘子(おとめ)に/万葉 1740」「即ち海坂を塞(さ)へて返り入りましき/古事記(上)
 
 石田尚志「海坂の絵巻」は、墨で描かれた映像作品。これなどは、もうひとつの展示室の「サイレントナレーター」のテーマと同じく、「絵や映像を見て、鑑賞者が心の中に自分だけのものがたりをつむぐ」という展示コンセプトと響き合って、私は動く墨絵を眺めて自由にものがたりを紡ぎました。海坂のはるか彼方、波の坂道を降りていくと、そこは、、、、

 サイレント・ナレーターの部屋に展示してある作品のうち、唯一、前に見たことのある作品は、ロイ・リキテンスタイン(Roy Lichtenstein 1927 - 1997)の「ヘアリボンの少女」。
http://www.geocities.jp/untitled_museum/z3_3rd-gallery.html

 同じような作品を見たことがある。何度見ても、アメリカの漫画の絵とどう違うのかわからない、とシロートは思う。漫画は娯楽だけれど、リキテンスタインはアート。その違いがわからない。美術史家によれば、リキテンシュタインは、マンガの含有する偶像崇拝の心理をアートしているのだという。そ、そうなのか。
 市販品の便器にサインをして「泉」とタイトルをつけて、20世紀最大のアートという評価を得たデュシャン。しかし、私がオマルにサインしてもアートではない。

 現代美術館がこの「ヘア・リボンの少女」を購入したとき、1枚の絵の価格、6億円だった。ワォ、私の都民税も使ったはず。6億÷1200万人だと50円分、この少女のマツゲ一本のさきっちょくらいは私が買ったのだ。せいぜいじっと眼をこらして見ておかなくちゃ。あは、どうしても芸術鑑賞のレベルが低い。
 
 リキテンシュタインの絵、いろいろ。
http://matome.naver.jp/odai/2129729966984189701

<つづく>
05:17 コメント(2) ページのトップへ
2011年09月03日


ぽかぽか春庭「東京現代美術館カオス・ポエティコ詩的な混沌」
2011/09/03
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(12)東京現代美術館カオス・ポエティコ詩的な混沌

 ジュリアン・シュナーベルは、映像作家としては、第60回カンヌ国際映画祭監督賞を受けた2007年の『潜水服は蝶の夢を見る』を見たことがありますが、画家として見るのははじめて。

 シュナーベルは、割れた皿やコップ、急須などを画面に貼り付けた作品で知られています。近くで見ると割れた皿やコップが並んでいて絵の具が塗りたくってあり、木の枝がくっつけられているのですが、遠くで見ると王の像が見え、王剣の前にある木の枝は蛇です。私、最初、王剣がサンマに見えました。サンマを手に掲げ持つ王なんて、シュールでいいなあと思った。

 解説員が「フリーザーって知っていますか」と問うので「ええ、『金枝篇』は全巻読みました」と答えると、「あらまぁ、私はこの絵の解説をするので、フリーザーをはじめて知ったのですけど、、、、」と言うので、しまった、解説される人が解説する人より詳しいこと言っちゃイケネーや、と反省。
 シュナーベルの割れた皿の絵のタイトル「森の王」とは、『金枝篇』の中に出てくる「新しい王が力の衰えた旧い王を追い払う」というお話に基づいているのだ、と解説してもらいました。

 企画展示サイレント・ナレーターの展示室、あとは、全部はじめて見るアーティストばかりでした。
 ゴミを拾って構成した大竹伸郎「ゴミ男」とか、デビット・ホックニー「スプリンクラー」とか、印象に残る作品がありました。

 サイレント・ナレーターの最後の作品は、「Caos Poetico詩的な混沌」
 メキシコの家々の「盗電」。公共の電柱から勝手に電線を引き込んで家の中に電灯を灯す光景をイメージしてアートにした、荒木珠美の作品です。空き箱の中に色とりどりの豆電球。展示室いっぱいに、400個の電灯箱が都市スラムの混沌さながらに黒いコードを絡ませながらぶら下がっています。混沌とした都市スラムに、祝祭のように輝く盗電の電灯。盗電の僥倖。饒舌の沈黙。サイレントナレーションが心地よかった。

 以下、「私の紡ぎ出すものがたり-盗電祝祭」
 そうよ、電気なんて、一企業がエラソーに配布するもんじゃないのよ。あれは公共のもの。雨上がりの虹や夜空の星の光は誰の私有物でもないのと同じ。電気は公共インフラって思う。前政権は、アメリカのご機嫌取りに米国通信産業や生命保険事業を日本に引き入れようと郵政民営化を掲げて、日本の通信事業を公共インフラから私企業にしてしまった。世界の情報は、グーグルやマイクロソフトなどの私企業の支配下におかれつつあるけれど、本来、基本的な生存権は、基本的インフラを公平に享受するところから出発する。生きて行くために必要な水や米や通信や電気は、公共のものであるべき。
 私も東電でなく盗電しよっと。さて、どうやって。
 どうやってもすてきなファンタジーにはならないせこいものがたり。

 と、アートの豊かさにふれても、どうしてもみみっちい発想のままの春庭、常設展示を見終わって、せめて今日くらいゆったり百万円に座っとこうと、アトリウムの「百万円の椅子」に腰掛けました。

<つづく>
05:39 コメント(2) ページのトップへ
2011年09月04日


ぽかぽか春庭「東京現代美術館"I am still alive."まだ生きている」
2011/09/04
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(13)東京現代美術館"I am still alive."まだ生きている

 現代美術常設展示のボランティアガイドをいっしょに聞きながら見てまわったおやじさんが、アトリウム展示の百万円の椅子を見て「こんな椅子なら作れる」と言ったように、現代美術作品の中には、子どものいたずら書きのように見える絵がいくつもあります。殴り書きのような、ちょこちょこっとノートのはじっこに描いた落書きのような。
 「これなら私だって描ける」と、思うのはシロートなんだそうですが、どんないたずら書きであってもトコトン絵が下手な私にも「これなら、私も同じような作品が作れる」と思った展示がありました。

 河原温の「I GOT UPシリーズ」、絵はがきを並べた作品です。
 河原はコンセプチュアルアートの重要な作家だそうです。作品の写真撮影は禁止されているので、公的な撮影をしている美術館などのサイトの写真、みな小さい紹介しかないので、どんな感じかわかりにくいと思いますが。葉書1枚だけの展示ではなく、10年分ずらりと並んでいることが大切なのだと思います。

 河原が住んでいた場所や旅行先のさまざまな絵はがきに「私は○○時に起きた」とタイプで書き込み、1968年から10年間にわたって送り続けたその葉書を、日付順に並べた作品です。文面は起床時間だけ。「I got up at 8:30などの、その日の起床時間。
 届けられた友人はふたりのみ。投函場所は、河原が住んだニューヨークやパリのほか、旅行に出た行く先々。洋上の船の上からも出されました。
 差出人と宛先の住所氏名等は手書きでなくゴム印で押されていたのですが、1979年にゴム印の入ったかばんが盗まれたことにより、このシリーズは終了しました。
http://www.artfairtokyo.com/contents/index.php?m=SearchItem&id=261

http://plaza.rakuten.co.jp/adayontheplanet/diary/200612070002/

 河原の作品に、常に同じ"I am still alive."まだ生きている、という文面の電報を世界各地から発信するシリーズもありました。
 私がマドリッド・リアリズムの磯江毅に「描いている対象物を見つめ続けるその時間がすべて描き込まれている」と感じたその時間。石田尚志の描いている行為をビデオに撮影した「海中道路」の、その描かれた時間。
 それと同じく河原温のI GOT UPと記された絵はがきは、河原の生きた時間を並べていました。

 おお、これなら私もできるぞ。
 むろん、コンセプチュアルアーティストでないシロートの私が葉書を送ったところで、毎日電報を打ったところで、それは反古にしかすぎないのはわかっていますが、私だって葉書を送るくらいのことはしておりまする。
 私は今年4月から、青い鳥チルチルさんあてに3日に1枚、1ヶ月10枚。3年余、合計365枚の絵はがきを送るシリーズを始めています。8月末までの分で50枚になっています。

 月の最初はその季節の花の絵はがき。あとは、美術館で買った名画絵はがきとか観光地で買った名所や風景絵はがきなどを混ぜて、365枚の全部が異なる絵柄の絵はがきと異なる文面になるようにしています。絵手紙ならもっといいのでしょうが、私にはまったく絵が描けないので、既製品の絵はがきを使っています。
 月の最後は大型サイズの葉書です。たいてい手作り。美術館チラシやカレンダーの絵に白い紙を貼り付けたものなど。8月は花火大会でもらった団扇に切手を120円(定形外郵便物)貼って送りました。
 切手は、季節の花の切手やピーターラビット切手、キティちゃん切手、木シリーズなど。50円切手がなるべくいろいろな種類になるようにしています。

 文面は、季節の感想やらその日の出来事、絵はがきの絵柄に関する話題などを手書き。
 自分の描いた絵ではないのだから、アートとは、ほど遠いと思っていました。でも、全部を並べれば、これはアートになるんです。たぶん。
 365枚たまったとき、これを全部並べれば、私の「I GOT UP」シリーズになるんじゃないかしら。

 河原の「I GOT UP」、ニューヨークに滞在している間はずっとニューヨークの街の絵はがきで、文面も同じですから10年分でも統一感はあります。私の「TO:青い鳥シリーズ」は、絵柄はばらばら、文字は乱雑。まったく統一感がありません。でも、それはそれで私の、"I am still alive”の証しです。

 ろくでもない文面の乱筆葉書など、一回ごとに読んだら捨てられてもいいようなもので、「出すことに意味がある」と思っていたのですが、「I GOT UP」が現代アートなら、私の「TO:青い鳥」シリーズも、きっと何かのアートです。
 さっそく、8月末の葉書で、青い鳥ちるちるさんに、「私の葉書、捨てないで保存しておいてね」とお願いしました。
 ちるちるさんから、返信メールが来ました。8月に「足の指が動かせたので、メールを打ってみました」といううれしいたよりがきたのですが、妹さんやヘルパーさんの助けを借りての、メール通信なのだろうと思います。
~~~~~~~~~~
大丈夫です!私は、捨てません!!
No.1より、ハガキファイルに入れて、とってあります!
どんなに古い手紙でも、私は大事にしています。
うちわは、ファイルに入らないので、裏表コピーしてファイルに入れてます。
これ集めるのかなり楽しいですよ♪
まだ暑いですが、ご自愛くださいね
~~~~~~~~~~~

 ありがとう、ちるちるさん。「葉書受け取り人ボランティア」になってもらっただけでも有り難いのに、読んでもらい、保存しておいてくださる。
 私が毎朝起きてI got up、なんとか生きて、三日に一枚葉書を書いて「I am still alive.」と感じるその感覚を受け取ってくれる。私の生が不確かなものであるとしても、このちるちるさんが受け取ってくれた葉書の分だけ、私は確かに生きたのです。
 明日は9月5日。今年もまだ生きている。まだ生きている私に、「まだ生きていておめでとうI am still alive!」

<つづく>
00:04 コメント(3) ページのトップへ
2011年09月06日


ぽかぽか春庭「三井美術館「橋」展」
2011/09/06
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(14)三井美術館「橋」展

 8月、「ぐるっとパス」でたくさんの美術館めぐりをしました。2000円で楽しめる東京観光、貧乏な人でも楽しくすごせる東京。
 お金がある人にはお金持ちの楽しみ方があります。代表的お金持ちの道楽は、美術品収集。お金が有り余ると、名誉と芸術を欲するようになるのは古今東西みな同じ。三井も大谷も大倉も、成功した商人が財を蓄える方法のひとつとして、美術品を収集してきました。その一部を一般に公開している私立美術館。財の社会還元の方法のひとつとしてはいいんじゃないでしょうか。

 8月19日は、日本橋の三井美術館で「橋」展。三井財閥の収集品のうち、日本橋架橋百年にちなみ、橋が描かれた陶磁器や絵の展示。

 橋はこの世と彼岸をつなぐ場所ゆえ、古来たくさんの橋の図象が描かれてきました。
 文学の中に出てくる橋を意匠とする絵や図案も多数あります。『伊勢物語』第9段の中に「そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける」と書かれている八橋は、さまざまな絵に描かれました。また、東京の橋の中でも、在原業平が詠んだ「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」という歌ちなんだ言問橋、業平橋があります。もっとも、駅名にもなった業平橋は、「スカイツリー駅」に改称の予定とか。
 『源氏物語』の中にも、「橋姫」「夢の浮き橋」など、橋に関わる帖もあり、様々な画家が「源氏の橋」を絵や陶器に描きました。
 北斎、広重の江戸の橋を描いた浮世絵は、江戸を始め、各地の有名な橋を描いています。

 また、故人供養のため、橋を寄進する風習を知らせる展示もありました。
 戦国時代18歳で戦死した息子のために母が橋供養をしたときの擬宝珠(ぎぼし:橋の欄干の柱の頭につけるねぎの花のような形の飾り)に書き込まれた願文がよかったです。本人が直接文章を考えたのか、母心がよく表れた仮名書きの文です。

 豊臣秀吉の小田原北条氏征伐。この征伐で秀吉は勝利したけれど、従軍した尾張国丹羽郡(にわぐん)の堀尾金助(ほりおきんすけ)は陣中で病になり,わずか18歳で命を落としました。金助の死を伝え聞いた母親は,30年間泣き暮らす。33回忌、生きていれば息子は50歳を過ぎた壮年になっているでしょう。愛しい我が子の出陣を見送った裁断橋のたもとに立つ母も老いた。母(堀尾方泰室)は、老朽化した橋の修築をしようと思い立つ。修築が諸人の助けとなり,今は亡き息子の供養になるからです。「橋供養」というそうです。

 1621(元和七)年、擬宝珠に以下の文を残しました。野口英世の母のひらがなの手紙と並んで心に残ります。
~~~~~~~
  てん志やう十八ねん 二月十八日に をだわらへの御ちん ほりをきん助と申す十八になりたる子をたたせてより 又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに 今 この橋をかけるなり  母の身には落涙ともなり そくしんじょうぶつしたまへ いつかんせい志ゆんと後の世の又後まで このかきつけを見る人ハ念仏申したまへや 三十三年のくやう也
(天正十八年二月十八日に/小田原への御陣/堀尾金助と申す/十八になりたる子をたたせてより/又二目とも見ざる/悲しみのあまりに/いまこの橋を架けるなり/母の身には落涙ともなり/即身成仏し給え/逸岩世俊(堀尾金助の戒名)と後の世のまた後まで/この書き付けを見る人は/念仏申し給えや/三十三年の供養なり)
~~~~~~~~~~

 名古屋市熱田区の裁断橋は、現在では廃橋となっているそうです。平仮名の供養文からは、息子を失った母の悲しみがひしひしと伝わります。33回忌は、仏教の供養の最後といいます。堀尾金助という日本史にはまったく出てこない、ひとりの若者の死。その死を、母がひたすら嘆く。
 名古屋の人には知られた橋供養の文なのでしょうが、私は初めて知りました。

 3月11日の東北大震災、そして今月の台風12号の大きな被害、災害で亡くなった方、また事故や病気で愛する人を失った、残された者の悲しみは癒しがたいものです。私たちにできることは、この堀尾金助の母のように、ひたすら供養し、亡き人を思い出すことだろうと思います。

<つづく>
04:09 コメント(0) ページのトップへ
2011年09月07日


ぽかぽか春庭「大谷美術館と大倉集古館」
2011/09/07
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(15)大谷美術館と大倉集古館

 8月23日午後、ホテルニューオオタニの大谷美術館とホテルオオクラの大倉集古館へ。地下鉄永田町からちょっと歩いてホテルニューオータニへ。オータニ美術館に初めて入りました。前回このホテルにきたのは、去年の夏、中国の友人を連れて、ぐるぐるまわる回転展望レストランに食べにきたとき。しかし、美術館は1991年の開設以来、来たことがありませんでした。

 「美術館にロッカーがないから、ホテルのクロークに預けるようにいわれたんですけれど」と言ったら、クローク係はにこやかにボロいリュックをあずかってくれた。うん、従業員、きちんと教育されていますね。一流の場所は、どんなぼろい服の客もていねいに扱うよう教育が徹底しています。中途半端に高級そうなところは接客者が客の値踏みをしている目つきをするのです。本物のプロの接客者は、たとえ心の中で値踏みしたとしてもそれを顔つきに出さない。ぼろい格好をした大金持ちというのもよくいることですし。まあ、私はヨレヨレTシャツにぼろいジーパンはいた本物の貧乏人ですが。ホテルニューオオタニの創業者は貧農の出身。貧乏人をバカにしたら創業者が化けて出るにちがいない。

 ホテルニューオオタニの創業者大谷米太郎(おおたによねたろう1881-1968年)は、富山県の貧農の家に生まれ、体格のよさを生かして力士を目指しました。四股名は鷲尾獄。しかし、十両昇進目前に怪我をして、出世を断念。人柄を見込まれ、国技館の酒屋に転身しました。それから立志伝を絵に描いたように成功して鉄鋼王となります。財を浮世絵収集につかい、なかでも力士であったことから相撲錦絵を収集。

 今回私が見たのは、相撲絵の収集を引き継いだ次男の大谷孝吉のコレクションから、約60点の相撲錦絵の展示でした。大谷米太郎は晩年、経営してきた大谷重工業の社長の座を追われ、ホテル以外にその名が残らなかったせいか、二代目の孝吉はあまりぱっとした印象がない。相撲錦絵コレクターであったこと、はじめて知りました。
http://www.newotani.co.jp/group/museum/exhibition/201107_ootani/index.html

 錦絵研究者や相撲史研究者なら、もっと細かい見方ができたのだろうけれど、私にはどの力士も区別がつかず、あまり熱心な鑑賞はできませんでした。けれど、相撲錦絵が江戸の庶民にとって、大スターのブロマイドとして大人気であったことはよくわかりました。力士や取り組みの詳しいことはわからないのですが、格闘者の肉体が大衆に熱狂的に求められていたことが展示の錦絵にもその迫力から感じられます。2メートルを超す巨漢の相撲取りもいて、さぞや驚異の肉体であったことでしょう。

 娘は世界陸上の全放映を見ていました。私は室伏の金メダルはライブを見のがしたけれど、ボルトの百メートル失格はライブで見ました。ボルトも室伏の立派な体格です。
 室伏は、体格だけでなく、体育学で博士号取得。2011年4月、中京大学 スポーツ科学部・競技スポーツ科学科准教授に就任しました。イケメンでいい身体で、博士。江戸の力士も平成のハンマー投げも、ジョシはうっとりその身体に見入ることでしょう。私、アンコ型力士とか、ボディビルダーのうそッポイ筋肉の作り方は好きじゃないけれど、室伏の身体は美しいと思いますヮ。室伏、世界陸上での金をみやげに早く結婚してほしいけど。あの渋面パパさんと離婚してしまったフィンランド人ママさんへのマザコン説もあるんですが、イケメン大好きだから許す。

 大倉集古館は、明治大正時代の実業家大倉喜八郎が設立した、日本で最初の私立美術館です。日本と中国の古美術が収集されています。
 2代目の大倉喜七郎(おおくらきしちろう1882-1963年)は、男爵を受爵した父を継ぎ、近代絵画を収集。また、音楽道楽にあけくれ、大和楽という和楽器のオーケストラを設立しました。今回の展示は喜七郎の大和楽の展示と、「楽器が描かれた絵」の展示。

 大倉喜七郎も、大谷孝吉と同じく2代目の坊ちゃまだけれど、こちらは趣味人として知られてきました。坊ちゃまの趣味のひとつの大和楽、新しい楽器の発明や演奏に力を入れた。それにちなんで、楽器が描かれている絵の展示。点数は少なかったけれど、なかなかおもしろかった。
http://www.shukokan.org/exhibition/index.html#neiro

<つづく>
06:01 コメント(4) ページのトップへ
2011年09月09日


ぽかぽか春庭「練馬区立美術館グスタボ・イソエ展」
2011/09/09
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(17)練馬区立美術館グスタボ・イソエ展

 新聞で展覧会評を見ても、まったく知らない名前だったし、もし、ぐるっとパスを買っていなかったら、わざわざ中村橋まで見に行かなかっただろうと思うので、ぐるっとパスを買ってよかったと思います。
8月13日、お昼ご飯、中村橋駅前の大衆中華屋で餃子回鍋肉セット680円を食べてから、練馬区立美術館へ。だいたい、練馬区が区立美術館を持っていることも知らなかったし。練馬は大根しか知らぬ。
http://www.city.nerima.tokyo.jp/manabu/bunka/museum/

 磯江毅、スペインでの名はグスタボ・イソエ。画業の地を日本に移転した矢先に2007年、53歳で死去。マドリッド・リアリズムの画家として、スペインでは高く評価されてきたけれど、日本での評価が高まったのは90年代に入ってからのこと。
 芸大出身者などの日本の美術界アカデミズムの中にいる人にとっては、イソエは異端の人だったのでしょう。磯江は、1973年 大阪市立工芸高等学校図案科卒業したあとヨーロッパに向いました。1974年、20歳のころ、シベリア経由でスペインへ。マドリッドのアカデミア・ペーニャや王立美術学校で絵を学びました。

 マドリッドの日本大使館に長年勤務して夫の画業を支えた夫人が、作品にコメントを寄せていました。普通ならキュレーターの解説が書いてある作品紹介に、奥さんの思い出話が書かれていたのが印象的でした。「このモデルさんは、夫が貧乏画家であることを知っていて、安い値段でモデルを引き受けてくれました」など。

 グスタボ・イソエの年譜と絵
http://homepage2.nifty.com/saihodo/artists_isoe_2.html

 絵はスーパーリアリズム。けれど、「写真みたい」なんて言ってしまったら、「絵の本質がわからない人ね」と一喝されそうなリアリズムを超えた凄味が迫ってきました。
 たとえば、「新聞紙の上に横たわる裸婦」の新聞は、一字一字新聞の通りに模写され、新聞写真も丁寧に写されています。しかし、写真じゃない。その不思議なリアリズムは、見る者を異次元のリアルな世界に引きずり込むような気がします。

 人物のリアルさもすごいけれど、なんと言っても静物画がスーパーリアル。スペイン語で「ボデゴン」は、英語のstill life(静かな生物)、フランス語のnature morte(死んだ自然)とも意味合いが異なり、厨房画と訳される。台所にある物と人を描くのがスペインのボデゴンです。イソエのボデゴンは、静かな生物でもあり死んだ自然でもあります。縄で吊されている羽を毟り取ったあとのウズラや毛を毟られたうさぎ。身をすっかり食べ尽くした皿の上の鰯の骨。みずみずしい葡萄やざくろ。それがしだいにしなびていくようすをリアルに写し取ったボデゴンは、生と死を深く見つめる画家の目を通して、強く訴えかける「何ものか」が絵の中に息づいています。

 上手な写真家が写せば、イソエが描いたような生と死を印画紙に定着できるのだろうか。いや、やはり写真の一瞬の切り取りでは、このnature morteでもありstill lifeでもある物の生命は別のものになる気がします。磯江はしなびて腐りかけた葡萄の一房を描いている。カメラレンズで写し取ったかのように正確でありながら、カメラで写したのでは写しとれないものを絵筆は確実に描ききっています。

 シャッターを押しカメラのレンズが開閉するのは、一瞬です。星を撮影した写真など、夜空に向けて一晩中レンズを向けて撮った写真もあるけれど、昼の画像でレンズを開け続ければ、印画紙には何も残らない。けれど、画家の眼は葡萄がしなびていくその時間すべてを見つめることができる。その生きて死んでまだ続いていく時間のすべてを絵筆は描きとっている。

 スーパーリアリズムの形には画家の生きてきた時間のすべてが描き込まれている。裸婦を描いた絵には、画家が裸婦を見つめ続けた月日と画家の心の動きのすべてが表されている。薬瓶のラベルの落剥や、割れた硝子にうっすら映る画家の顔がキャンバスに写し取られるとき、リアルは現実を超えてしまう。
 磯江毅の画業を知ることができてよかったです。

 8月24日午後、三の丸尚蔵館で明治大正の献上画帳の日本画。横山大観や山岡鉄舟など知っている名もあるし、まったく知らない名もある。皇室献上の画帳に選ばれるくらいだから、当時は大家だったのだろうし、現在でも日本画史の研究者なら知っている名なのだろうが、日本画に詳しくない私には知らない名ばかり。大家というのも百年経てば、一般人には知られない人になるのだ、と感慨深い。
http://www.kunaicho.go.jp/event/sannomaru/tenrankai55.html

 三の丸尚蔵館から東御苑を通り抜けて近代美術館常設展へ。5月に見たときに比べると、かなり展示替えがあった。三の丸尚蔵館のついでに寄ったのだけれど、季節に一回は常設展示も見ておくといいとわかる。

<つづく>
00:08 コメント(0) ページのトップへ
2011年09月10日


ぽかぽか春庭「目黒美術館スケッチブック小川千甕と澤部清五郎の」
2011/09/10
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(16)目黒美術館スケッチブック小川千甕と澤部清五郎の

 8月25日は、午後、目黒区美術館へ。展覧会タイトルが「スケッチブックの使い方-描いたり歩いたり、そしてまた描いたり」というので、私は夏休み宿題向けの子どものためのワークショップだろうと思ったのだけれど、それでも常設展示があるはずだと思って出かけました。しかし、展覧会は「小川千甕と澤部清五郎、100年前のスケッチブック」という内容でした。「スケッチブックの使い方、描いたり歩いたりまた描いたり」というコピーだけが案内に出ているので、ふたりの画家の画業紹介とは思ってもみなかった。
 思いがけずこれまでその名を知らなかった画家を知ることができたのだけれど、この宣伝コピーは展示の内容がまったくわからないとアンケートに書いた。
 
 澤部清五郎(さわべせいごろう1884~1964))は川島織物の図案係として勤務した人。川島織物会社の重役にまでなり、長寿の末に亡くなったときには社葬によって見送られたのだけれど、本人は洋画家として大成したいという本意を遂げられなかった、という思いを残しての一生だったといいます。

 澤部は青雲の志を持ってパリに画家修業に出て、梅原龍三郎や安井曽太郎と研鑽を競ったのですが、梅原や安井が日本の洋画家として大成したのに対して、澤部自身は家庭の事情から収入身分の不安定な画家ではなく、家族を養うに足る給料を得るべく、織物会社の図案係になりました。自身は、2度も妻に先立たれたのち、3人目の妻に「家族運の薄い人でした」と回想される家庭生活。
1992年、目黒区美術館で澤部清五郎展が開催されたこともまったく知りませんでした。

 もうひとり、小川千甕の名もこれまで聞いたことがありませんでした。デジタル版 日本人名大辞典での小川千甕の紹介。
~~~~~~~~~~~~
1882-1971明治-昭和時代の日本画家。明治15年10月3日生まれ。仏画師北村敬重の弟子となり,浅井忠に洋画もまなぶ。大正4年川端竜子,小川芋銭(うせん)らと珊瑚(さんご)会を結成。油絵から日本画へ移行し院展に「田面の雪」「青田」などを出品。昭和7年日本南画院に参加。昭和46年2月8日死去。88歳。京都出身。本名は多三郎。代表作に「炬火乱舞」など。
~~~~~~~~~~~~
 澤部清五郎と小川千甕、ともに明治初期に浅井忠の弟子となり洋画をまなび、また日本画も描きました。一般には知られていない画家というか、私が知らなかったのですが、絵画修行とも言える画帳には、それぞれの20歳前後から晩年までの多数の習作が描かれています。スケッチブック(各70冊ほど)がありました。

 これまで見て来た展覧会では、スケッチブックは、見開きのページだけが眼に見えて、あとのページはわかりませんでした。今回は、複写された全ページが壁のパネルに並べられ、全体を展示してあるところがよかった。西欧の旅、日本各地の旅、花や人物。眺めていると、描かずにはいられない強い情念が伝わってくる。私が文字を読み、文字を書かずには生きていけないのと同じだと思う。
http://www.tokyoartbeat.com/event/2011/0002
<つづく>
09:43 コメント(2) ページのトップへ
2011年09月11日


ぽかぽか春庭「東京芸術大学美術館「源氏物語絵巻に挑む」」
2011/09/11
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(17)東京芸術大学美術館「源氏物語絵巻に挑む」

 9月1日から8日まで、朝9時から夜6時まで集中講義。90分授業を一日5コマ。途中の昼休みは40分ですが、学生の質問など受けていると30分もなくなり、ごはんをゆっくり食べている余裕もない。マックのハンバーガーなどをかっこみました。
 6日続いた集中講義。中学高校の先生の仕事で言うなら、45分授業を1時間目から10時間目まで、一日中ぶっ続けで喋り倒す。日本語学と日本語教育概論を喋り続けて、ああ、くたびれた。なにせ半年分、90分授業30コマ分、学生にしてみれば、一週間に2コマ授業を受けて4単位になる分を6日間で行うのですからハードワークは当然です。対象は、日本語教師養成講座に登録した学部の2,3,4年生。日本語教師をめざして真剣に授業を受ける学生たちです。

 こんなに一生懸命仕事をして、がんばった私にごほうび。心に栄養与えなくちゃと、仕事が終わった翌日の金曜日にはさっそくアート散歩にでかけました。9月9日から9月25日まで、東京芸大美術館で、源氏物語の模写特別公開があるというので初日に見ることにしました。入館料500円のところ、ぐるっとパスの割引き券があるので300円でした。「6日間一生懸命仕事したごほうび」が300円とは安上がりですが、目の保養、心の栄養に、とても大きなものでした。
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2011/genji/genji_ja.htm
 
 これまで、芸大日本画研究室は敦煌壁画の模写などを手がけてきました。敦煌の模写が一区切り着いたのを機に、次は大学院の修了制作のひとつとして、国宝『源氏物語絵巻』の模写に取り組みました。徳川美術館と五島美術館に所蔵されている絵巻を寸分違わぬよう二部模写し、一部は徳川と五島に納め、一部は芸大の所蔵として保管します。

 模写は、画家の修業のひとつとして多くの画家が取り組んできました。日本画の大学院生にとって、源氏物語を模写できるとは、その絵画技術の向上にも約立つことです。またこれまで作品の劣化などをおそれて海外への作品貸し出しができなかった源氏物語絵巻でしたが、出来上がった模写作品は、「日本のすぐれた文化」を紹介するにも大いに役に立つだろうと思います。

 現代では多色刷りコロタイプなど印刷技術の発達のおかげで、正確な作品コピーができるようになりましたが、模写するという人の手による方法で写し取った絵は、写真コピーとはまた別の価値があります。
 徳川美術館では,現状では絵の具の剥落など劣化がある源氏絵巻を、平成復元模写として、「平安時代に描かれた当時の復元」を行っています。今回の模写は、「現状復元模写」で、絵の具の落剥や詞書の墨字のかすれなどをそのまま模写しています。
 平成復元模写
http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/06/index.html

 会場には、徳川美術館から貸し出されている「柏木」「宿木」の国宝も展示されていて、私は生まれてはじめて源氏絵巻の本物を見ることができました。これまで画集や絵巻解説本などで、見続けてきた源氏絵巻ですが本物を見たことがなかったのです。

 絵巻は、源氏物語54帖のうち、名古屋市の徳川美術館に絵15面・詞28面(蓬生、関屋、絵合(詞のみ)、柏木、横笛、竹河、橋姫、早蕨、宿木、東屋の各帖)、東京都世田谷区の五島美術館に絵4面・詞9面(鈴虫、夕霧、御法の各帖)が所蔵されています。
 そのすべてを、日本画研究室の院生が手分けして精密に写し取っていました。

<つづく>
02:16 コメント(3) ページのトップへ
2011年09月13日


ぽかぽか春庭「源氏物語模写マネてまなぶ」
2011/09/13
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(17)源氏物語模写マネてまなぶ

 源氏物語絵巻は保存の必要から詞書と絵の部分に切り離され、額装されて桐の箱に収められています。現状模写では、その桐の箱までそっくりに復元しているのです。展示第2室には、使用した絵の具顔料の石(岩絵の具原料)や絵筆、絵の額装に用いる金紙やプラチナ紙をを極細に切り刻んだものの見本などが展示され、元の本物とそっくりに仕上げるには、桐の箱を作る職人や元の絵との照合を行う人など、たくさんの協力者が必要だったことがわかります。

 本当に見事な現状模写で、私は、「普段はこちらを展示しておき、国宝のほうは劣化しないよう展示は一年に一度、研究者に公開すればよい」と思いました。シロートの私が見るなら、模写のほうで十分ですから。もちろん「本物を見ることができた」という感激も大切ですから、たまには一般公開してほしいですけれど。

 模写というのは、絵を学ぶ人にとっての大切な修行です。何事においても「まなぶ」とは「まねぶ」であり、まずは先人の業績を模倣するところからすべては始まります。赤ちゃんが養育者の発音をマネするところから言語が発達するのと同じ。学者の研究は、まず先行研究の成果を学ぶところから。そっくりの模写ができた上で、自分自身のオリジナルが発揮できるのです。

 私の「日本語教授法」の授業でも、いろいろな先生の「日本語を教えている教室を写したビデオ」を見せます。その上で、学生には「まずは、さまざまな授業スタイルを知り、マネするところからはじめてください。それから自分自身で工夫してそれぞれの学生、教室にあった授業方法を考えましょう」と言っています。

 集中授業「日本語教授法概論」では、いろんなワークショップを入れて教室活動を行ったので、学生達は「面白かった」と言い、「日常の読み書きは十分できているつもりだったけれど、日本語の世界がこんなに奥深いとはじめて気づいた」と感想を言っていたので、まあ、よい6日間をすごせたのだろうと、講義終了することができました。

 道路に水を撒いていく姿を撮影したビデオが石田尚志のアートなら、一日に10時間しゃべり続ける姿が私のアートです。
 アートとは、「う~ん、よくわからない」というものでも「これはオークションに出せば100万円の価値があるんだから、名作なのだ」でもなく、「今を生きて行くこと」「今、私がここにあること」そのもののことを言うのではないかと思います。

 9月8日に集中講義が終わったあとは、ジャズダンス発表会。敬老の日は姑のご機嫌伺いもしなけりゃならず、見たい展覧会も映画もビデオもまだたくさんあります。ああ忙しい。こういう日常をつつがなくすごしていくのもひとつの技術。

 「アート」の元の意味は「技術」ということです。ギリシャ語の「τεχνη techné(テクネー)」は英語のテクニックにつながる、元々は単に「人工(のもの)」という意味です。テクネーがラテン語に訳されて「ars(アルス)」となり、英語のartアート、ドイツ語の「Kunst(クンスト)」などから日本語ではartは「技術」と訳される語でした。それが近代になって、artから派生した二義的な意味、「よい技術、美しい技術」(fine art, schöne Kunstなど)がしだいに一義的な意味になりました。明治時代に「リベラル・アート」を翻訳するとき、西周が、『後漢書』5巻に見える「蓺術」の語を当てはめ、日本語訳が「芸術」として成立しました。

 私はことばでのスケッチを続けます。町を山を美術館を歩き回り、歩いた道を記録していきたい。夏のアート散歩の記録、ひとまずここでおひらき。

<おわり>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬のアート散歩2011年12月

2010-02-07 19:07:00 | アート
2011/12/27
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(11)冬の徘徊

 冬は寒さに負けて徘徊が減っています。12月のお散歩は、12月1日に三鷹のICUキャンパスを歩きました。お目当ての泰山荘は、国の重要文化財。内部公開があった大学祭のおりには、見ることができなかったのですが、せめて外観だけでも見ておこうと、仕事の帰りに寄り道しました。

 泰山荘には、表門、茶室、待合などがあります。ICUが三鷹の土地を買ったときに建物もそのまま譲り受け、そのまま保存してきた歴史的な建造物です。「高風居」と呼ばれる建物には、「一畳敷」と、六畳の茶室三畳の水屋があり、入母屋造、萱葺き、平屋建。
 「一畳敷」は、松浦武四郎(1818-1888北海道探検家・北海道という地名の名付け親)が、各地の神社仏閣や歴史的建造物の古材を使って建てた書斎で、六畳の茶室は「一畳敷」のために徳川頼倫(1872-1925紀州徳川家第15代目。侯爵)が、やはり歴史的建造物の古材を集めて建てたものです。明治初期に多くの地方の神社が国家神道の統合のために廃され、神社や寺の建物が毀された経緯があり、古材が出たものを利用したのではないかと推察されます。
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=137138

 今年、各地の紅葉が色づきが遅かったなか、12月の泰山荘は、表門から覗くと、門の奥に紅葉が夕日を受けて輝き、とてもきれいでした。親子連れのように見えるグループが見学していました。ICU女子学生が母親たちを連れて、キャンパスを案内しているところだったみたい。中を見ることができなかったのは残念ですが、これはまた来年の文化財公開のときにでも。

 12月4日日曜日、午後、白金台へ。白金の自然教育園を散歩。こちらはさらに紅葉の色づきが遅く、イロハモミジはまだ緑。オオモミジはちょっと色づいていました。園内一周してしてから松岡美術館へ。
http://www.matsuoka-museum.jp/exhibition/

 「日本の和美彩美(わびさび)」と題した展覧会、前期展示をみたのだけれど、後期にまた展示替えがあるというので、招待券もらって見ました。
「物語の絵」は、源氏や伊勢などを題材にした日本画が展示されていました。展示室6の「風景を感じる~秋から冬へ~」は、前回来たときとは展示替えになっていた絵です。

 松岡美術館は、貿易で財をなした松岡清次郎が、1975年に自宅を美術館にしたものです。ホキ美術館も、文具小売業からはじめて医療用不織布製品、滅菌用包装袋(メッキンバッグ)など医療用キット製品の会社を成功させた保木将夫(1931~)がコレクションを公開するために昨年設立した美術館です。

 12月18日日曜日、千葉経由土気へ。駅前でおひるを食べてから1:00~3:00、ホキ美術館見学。こちらも招待券もらったので、出かけたのだけれど、思った以上に遠かった。しかし、館内はけっこう賑わっていました。隣に広がる「昭和の森」に遊びに来ている千葉市民がついでに立ち寄るらしい。千葉市民は無料で見られるのかも。一般の入館料は1500円とるので、わたしゃ招待券がなければ、ここまで来ない。

 絵を見ているのは主として中高年の善男善女。「あれぇ、写真のようだねぇ、よくかけてる」と感心しながら見ています。写真のようにそっくりに写し取るのが上手な絵なのだと、図画工作の時間に教わった世代です。「このパン、美味そうに描けてるよ。焼きたての色だね」なんて声も聞こえます。

 私は、印象派や立体派、野獣派などから絵を見始めたので、写実はあまり好きではありませんでした。この夏に磯江毅の超リアル絵画を見て、「あ、写実もいいかも」とやっと思えたのです。それまでは、「見えるとおりに写しとるなら、カメラで撮影したものでも同じでしょ、という気持ちが抜けなかった。グスタボ・イソエを見て、「ああ、カメラが一瞬を写し取った写真と、画家が1年も2年もかけて写し取る写実は、異なる表現なのだ」ということを感じたのです。

 ホキ美術館にも磯江が4点ありました。ほかに、ホキコレクションのきっかけとなった森本草介の作品が30点のコレクションの中から何点も展示されていました。日展理事長中山忠彦の奥さんをモデルにした肖像画は、以前にまとめて見たことがありましたが、そのほか、私の知らない写実の画家が展示されていました。
http://www.hoki-museum.jp/about/index.html

<つづく>
09:54 コメント(1) ページのトップへ
2011年12月28日


ぽかぽか春庭「ホキ美術館&昭和の森」
2011/12/28
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(12)ホキ美術館&昭和の森

 リアリズムとは何か、ということを考えてきたので、ホキ美術館でこうしてまとめて写実絵画を見るのも感慨ふかかった。
おじさん、おばさんたちは「写真のようにそっくりに描けてるね」と感心していました。正直な感想と思います。でも写真と同じだったら、写真を撮れば今時、素人がデジタルカメラで写しても、ちゃっちゃと風景なり人物なり撮影でき、手っ取り早い。1枚の絵に1年間ときには2年間もかけて絵筆を走らせるのは、写真とは違う写実をキャンバスに定着させる忍耐強い情熱があるからであり、その画家の時間は、確かに画面から感じとることができます。

 人物も、風景も、静物も、それぞれに見所がありました。ただ、花を描いたものでよいと思ったのは、秋の野草を描いた一枚だけで、あとの花の絵は、牡丹もバラも、私には「よくできた紙の造花」に見えたのです。花の生命力を写し取る技術というのがどれほど難しいのか、よくわかりました。花をリアルに描くと造花に見えてしまう、というのはどういうわけなのか、わかりません。植物園などで「植物画コンクール」などの展示があるとき、ときどき見て来ましたが、こちらの「植物記録のための写生」は大丈夫なのに、「芸術のための写実」だと造花になる、これは不思議。

 リアリズム絵画ばかり見ていて、少々疲れました。ひたすらリアル。
 途中、隣の「千葉市昭和の森」に行き、「閉門まであと1時間しかないけれど、料金は2時間分払ってもらうよ」と言われながら、自転車を借りました。貸し自転車の係のおじさんに「おや一人かい、カレシはどーした」と聞かれました。ほっといてくれ。ここでも「オトモダチいない残念な人」と思われたのでしょう。美術館は一人で見ていても誰もなんとも思われないのに。サイクリングとなると、オバハンひとりで自転車に乗るのは反社会的なこととでも?

 生来のへそ曲がりなので、サイクリングロードからはずれて、どんどん森の中を行くと、道は階段になってしまい、自転車かついでの下りも上りも難儀して汗をかいた。決められたとおりの楽な舗装道を通りたくなくて、藪道に入り込み、人の何倍も苦労を背負い込んで、苦労の末に出た道は、他の人が楽々通った舗装道。しかも何周もの周回おくれ。まったく、どうして私はこうなのか。

 平らな道では、夕暮れ間近の森の中、楽しそうに二人連れ親子連れが散歩している中、ひとり走りまわって、まあ、本日食べたランチの分はカロリー消化して、美術館に戻りました。

 再入館のチケットを見せて、もう一度館内ひとめぐり。
http://www.hoki-museum.jp/gallery/02.html
http://www.hoki-museum.jp/gallery/03.html

 土曜日は6時までやっているということでしたが、来るとき2時間もかかったので、帰宅時間を考えて4時半にロッカーから荷物を出しました。そうしたら、あら、見たような顔が。館内に展示されていた肖像画そのままの保木館長でした。はあ、ほんとにリアリズム。
 以前、展覧会案内のチラシにもこの肖像画が載っていたのを見ました。このときは「一代で財をなした金満家」そのものに見えたので「なるほど、こういう人が、お金が有り余ると絵を買いたくなるってわけか。金が余ったからといって集めた絵、どんだけ絵が好きなのかなあ。バブル期のように利殖目的なんかで絵を買いあさる人だといやだなあ」という気持ちがあって、「千葉に写実絵画美術館オープンした」というニュースは知っていたけれど、これまでは見に来る気になれなかった。

 でも、コレクションはなかなか充実したものだったので、コレクション公開に対するお礼の気持ちを伝えようと、声をかけたら、気軽に話してくれました。写実絵画コレクションをはじめた動機などおたずねしたら、「私には美術はわからないので、見てすぐに何が書いてあるかわかる写実絵画だけを集めたんです」ということをおっしゃった。

 正直なお話に、ちょっと館長を見直しました。リアリズムとは何か、というような蘊蓄を語る人ではなく、館長は「見てすぐわかる絵を集めた」と率直に語る。全国に数ある美術館館長のなかで、いちばん「絵について造詣がない人」かもしれません。でも、絵を愛していることはわかりました。
 ちょっと遠いので、ちょくちょく来ることはないと思いますが、また招待券もらったら、見にきましょう。

 私の歳末。あまり「師走」ということもなく、ぶらぶらと冬をすごしています。まあ、こんな「相も変わらず」が私に日常であり、私の1年です。

<つづく>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アート散歩-写真美術館&東博「清明上河図」

2010-01-11 03:18:00 | アート
2012/01/20
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(7)写真美術館散歩

 私の散歩、長い距離動き回るときは自転車散歩です。去年は、水元公園まで2時間かけて自転車で走り、菖蒲を見てきました。電車で出かけて、公園や庭園を散歩するのも好き。今年もバラやツツジ、紫陽花、菖蒲、あちこちの花を見て歩くつもりです。美術館散歩、博物館散歩は、招待券が手に入り次第なので、いつどこに行くとも決まっていません。

 1月2日、東京写真美術館へ。箱根駅伝を往路ゴールを見てから出かけ、6時の閉館まで、楽しく歩きました。正月2日の写真美術館は、どのフロアも無料公開です。無料、大好き。

 3F「ストリート・ライフ ヨーロッパを見つめた7人の写真家たち」。イギリス、ドイツ、フランスで19世紀後半から20世紀前半に展開した社会記録写真(ソーシャル・ドキュメンタリー)を展示。写真家たちは、町に出て、産業革命後の急激なヨーロッパの変化を写し取りました。写真そのものが過渡期の技術であり、さまざまな技法が試みられた中、トーマス・アナン、ジョン・トムソン、ビル・ブラント、ブラッサイ、ウジェーヌ・アジェ、アウグスト・ザンダー、ハインリッヒ・ツィレらが、消えゆく街角、貧民街の生活風景など、失われていく歴史の一コマを記録しました。
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1448.html

 ヨーロッパの街の表情、そして人々のようす。なにげない街角の記録が、激動の時代の歴史をしっかりと表現していることに心惹かれました。

 2F「日本の新進作家展vol.10写真の飛躍」
 私にはわからない様々な撮影技術現像技術を駆使して、写真の新しい表現をしている若い写真作家たち。多重露光、露出、コラージュなどの技法。ロビーのテレビモニターでは、出品作家のうち一番若い1982年生まれの西野壮平が、写真によるコラージュ作品を完成させるまでを録画し、流していました。都市をうつした写真を大きな画面に並べていき、ひとつの都市のイメージコラージュを作り上げるという作品です。モノクロで写した都市の写真。それを並べて「Diorama Map」を作り上げる。
 今回の展示作品とは違うものだけれど、こんな作品
http://web.canon.jp/scsa/newcosmos/gallery/2005/sohei_nishino/index.html
 
 B1F「映像をめぐる冒険vol.4見えない世界のみつめ方」
 出品作家の鳴川肇さんが会場にいて、自作の「地球儀と同じ縮尺で正確な面積のまま標示される平面地図」の作成方法について、説明していました。「AuthaGraph World Map」という投影技法で、球体から多面体へ、多面体から正四角錐へと地図を投影していき、正四角錐を展開すると、縮尺がゆがまない地図ができあがる、という方法です。一般の地図のメルカトル図法などだと、極地に近づくほど面積が大きくなってしまう欠点がありますが、それを是正する画期的な平面地図です。

 私たちが住む地球の姿への意識のありよう。天動説であったころから、地動説へ。20世紀後半から、衛星写真、月から捉えた地球の写真などで、地球が青い星だというイメージは、完全に人々の脳裏に埋め込まれたのだけれど、それまでの人類のイメージの形成で、どのように地球が捉えられてきたか、天動説の本などが展示されていました。

 1969年に、アポロ11号によって撮影された「地球の出」の写真。私たちがほんとうに丸いひとつの星の上に住んでいることを強烈に印象づけた1枚の写真でした。
 「見ること」は、写真を撮ることや絵を描くことに比べ受動的に感じられるかも知れません。でも、「見る」という行為の能動性は、人間の心理をそっくり変えてしまうくらい強いものでもあります。

 今年は上野の東京都美術館がリニューアルオープンするし、美術館歩き、いろいろ楽しめそうです。次回から東京国立博物館「清明上河図」にたどり着くまでの4時間待ちについて。
 
<つづく>
07:10 コメント(1) ページのトップへ
2012年01月21日


ぽかぽか春庭「博物館で列に並ぶ」
2012/01/21
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(8)博物館で列に並ぶ

 たいていの場合、美術館を歩くのは招待券をもらったときに限る。自分でお金を出して入館料払うのは、よほどのとき。で、正月2日から公開の「清明上河図」を見ようかどうか迷っていたのも、招待券が手に入れられそうにないので、さて、1500円という私にしてみれば高いチケットを買うかどうか迷った10日間。えい、清水の舞台、、、、、というほどは高くないが、2階の屋根くらいから飛び降りて、チケット購入。買ったからには朝早くから夕方までたっぷり時間をとって見ようと、13日金曜日の朝、9時半には家を出ました。この日は、センター試験準備日休講で、平日に休みがとれ、平日だから空いているかも、と思って出かけたのです。

 ところが、10時開館と思った東京国立博物館は9時半にオープンしていて、10時ちょいすぎに正門に着いたときには、すでに長い列が平成館から本館前まで伸びていました。
 平日の10時だというのに、世の中、こんなにも閑そうなじいさんばあさんがいるんだ!と感心する。

 若い人はほとんど見かけない。そりゃそうね。働いているか学校へ行っているか。ヒマなのは爺さん婆さん。たまに白いダウンやら煉瓦色のコートがいるけれど、爺さん婆さん達は、黒っぽいコートやらダークグレイ、焦げ茶などが多いので、全体的に黒々とした列で、冬の寒さがいっそう増す気がする。そういう私も、ユニクロの黒いウルトラライトダウンの上に焦げ茶のコートを重ね着するという完全防備の冬支度バーサンです。このユニクロウルトラライトダウン、電車の一車両に5人は見かける。私は去年買えなくて、元日の特売で買いました。くすん、また柳井正を儲けさせてしまった。

 「平成館の入り口に達するまで50分待ち。入館したあと、「清明上河図」の前にたどり着くまでには、さらに180分待ち」と、列をさばく係の看板に書いてあります。どうしようかと迷いました。いつもなら「こんなに混んでいるんなら、別の日にまた来よう」とか思うところですが、なにせ、1500円払ってしまったので、「これをムダにしてなるものか」と、貧乏性が言う。はい、おとなしく並びました。3時間。

 平成館に入るまで40分。このときはバッグに入っていた山田風太郎の『あと千回の晩飯』を読んでいました。面白い。でも、もう後半ですから、2時間もたたないうちに読み終わりそう。読み終わっちゃったら、あとの時間、どうやってヒマ潰そうか。夫婦連れは仲よさそうに語り合っているし、友達と二人連れのおばちゃん組は賑やかにおしゃべりしている。こういうとき、おひとり様は本がないと困ってしまう。列に並んでいる人のウォッチングも3時間も続けたら飽きてしまう。
 列が動いたので、読み終わりそうな文庫をバッグにしまって入館し、「清明上河図」観覧の列に加わりました。

 北京の故宮博物院に行ったことあるけれど、「清明上河図」は、中国の人だってめったに見ることが出来ない秘宝中の秘宝。これを逃したら、一生のうちに見ることができないだろうと思うから、おとなしく並びました。
 1階ラウンジに2人ずつ並ぶという列、私はひとりだから、もう一人70代くらいの白髪の女性と組になりました。
 私が文庫本を読んでいると、彼女は小さなスケッチブックに、スケッチをしている。列の移動のとき、ちらっと覗くと、ささっと書いているけれどなかなかうまい。「お上手ですね、絵をやっていらっしゃるんですか」と声をかけてみたところ、それから怒濤の彼女のおしゃべりが続き、3時間飽きることなく列に並んでいられました。

<つづく>
10:32 コメント(0) ページのトップへ
2012年01月22日


ぽかぽか春庭「博物館で待ち続ける」
2012/01/22
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(9)博物館で待ち続ける

 清明上河図を見るための、3時間待ちの列。
 いっしょに並ぶ70代とお見受けした女性、見学待ち行列に並んで、おしゃべりが続きました。「あのね、私、八王子市の絵画教室に入って水墨画習ってるの。初級中級ときて、上級はもう2回くりかえしたんだけれど、毎回教室の人気が高くて抽選だから、もう、応募しても、初めての人が優勢みたいで、はずれちゃったの。中国から来たとてもすばらしい先生で、リー先生、ムサビでも教えているの。こうやってこんなふうに身体使って筆動かすので、そりゃもうすばらしい絵なんです」と、先生自慢をする。

 「そうですか。私も中国に行っていたころずいぶん水墨画も見ましたけれど、故宮博物院でも清明上河図は展示していなかったので、今回はとても期待して見にきました。ご自身で水墨画習っていらっしゃるなら、私のような素人とは違って、深い見方がおできになるでしょうから、いろいろ教えていただきたいです」と、話を向ける。
 彼女が名前と電話番号のメモをくれたので、私も名刺を渡しました。Oさんというお名前。

 Oさんは「ほら、これは、私の絵に5歳の孫が色をつけたんですけれど、とても色づかいがいいでしょう」と、別のスケッチブックを開いた。「あら、お上手ですね、お孫さん、絵がお好きなら、先が楽しみですね」と、見せてもらう。
 純真なこどものころは伸びやかな線を描き、こだわりのない色づかいができるのに、大人になると自由な絵心が消えてしまう、など、彼女の話が続きます。彼女の娘さんは西日暮里に住んでいて、上野に来るときなどは娘の家で一泊し、それから美術館巡りをするのだそうです。

 「もう、私、認知症が始まったみたいなので、、、、」とOさんが言うので、「そんなことないでしょう、しっかりお話なさっているし、こうして元気に絵を見たり描いたりなさっているのですもの。私のほうこそ、物忘れが多くて、今日も東博は9時半オープンっていうのを忘れちゃって、ほかの美術館のように10時オープンだと思って来たら、この行列だもの、ちゃんと開館時間を覚えていなかったこっちが悪いんですけど」
 長い待ち時間でしたが、彼女はしゃべりっぱなし。

 Oさんは、1937(昭和12)年生まれというので、今は75歳。小柄な身体ですが、元気いっぱいに見えます。
 「すっと仕事を持っていたんですけど、娘がね、年をとったらいつまでも仕事していないで、好きなことだけしたほうがいいって勧めてくれたので、こうして美術館に来たりしているんです」
 「いいですねぇ、私はまだまだ仕事を続けなければ食べていけないので。今日はたまたま休みになってので、平日に来られたけれど、平日で3時間待ちなら、土日はもっとすごいでしょうね」

 彼女は若い頃、絵を志していたけれど、結婚後は絵はあきらめて、家事育児のほか、時間にしばられずに仕事ができるフリーの速記者として雑誌のインタビュー速記をしていたのだそうです。「速記1級なんて、すごいじゃないですか。私の夫、新聞記者の仕事に必要だろうからって速記を習ったって言っていましたけれど、2級とるのがせいいっぱいで、1級はよほどすごい人じゃないと合格しないって言っていましたよ」

 速記1級がむずかしい専門職なのだ、ということを知っている人間に出会えて気分よくしたとみえ、速記者時代の話を続けてしてくれました。
 
<つづく>
00:57 コメント(2) ページのトップへ
2012年01月24日


ぽかぽか春庭「無限ループ話を聞く」
2012/01/24
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(10)無限ループ話を聞く

 Oさんが尋ねるので、私が読んでいた文庫は山田風太郎のエッセイだと言うと、「あら、その作家は知らないけれど、私、作家に会ったことあるわ。ほら、日本沈没とかの、あら、誰だったかしら」「日本沈没は小松左京だと思いますけど。昨年亡くなりましたよね」「そうそう、その人。私会ったことあるのよ。雑誌の仕事でインタビューに行ったの。話の内容は全部忘れたけれど、つりズボンのベルトのところをこうやって伸ばして話していたの覚えているわ」と、「私が会った有名人」シリーズがはじまりました。

 「あと、あの人、だれだっけ、芸術は爆発だ、の人」「岡本太郎ですか」「そうそう、あの人の講演会にも行ったわ。若い女の人といっしょにいたっけ」「その人はたぶん、岡本敏子さんでしょうね」「そうそう、思い出した。お母さんたち相手の講演会で、岡本太郎さんは、子どもは子どもの気持ちのままに自由に絵を描けばいいって言ってた」
 そのほか、大江健三郎や松下幸之助のインタビューも速記記録したとのこと。

 「松下さんはね、四畳半で奥さんと明日食べる米がないって泣いていたこともあるってお話してました」というので、「ええ、私も『神様の女房』ってドラマ見ましたよ。常盤貴子が松下むめのやってましたね」
 「そうそう、女優さんにもいろいろ会った。女優の三田佳子は芸能人には珍しく、時間をきちんと守る人だったわ。高千穂ひずるはプロ野球関係の人がおとうさんだったわね、色の白い人でした。山本富士子はね、一番ツンとした人でした」

 速記者としてインタビューに立ち会ってきたけれど、速記録を文字に起こして、雑誌社に送ればそれで仕事は終わりなので、記録も何もとっていないといいます。「あら、もったいない。会った方達の印象を一行の記録でもいいから、お孫さんに残しておあげになったらよろしいじゃありませんか」と話す。

 「清明上河図」の展示室が見えてきて、180分待ちの列もようやく終わりになると思った頃、「やっと清明上河図に対面できますね」と私が言うと、彼女の話は「あのね、私、八王子市の絵画教室に入って水墨画習っているの。初級中級ときて、上級はもう2回くりかえしたんだけれど、毎回教室の人気が高くてね。抽選だから、初めての人が優先みたいで、私は、はずれちゃったの。中国から来たとてもすばらしい先生で、ムサビでも教えているんだけど、リー先生、こうやってこんなふうに子どもみたいに自由に身体使って筆動かして、、そりゃもうすばらしい絵なんです」と、列に並び始めたころの話題にループしました。
 それまでたびたび「私、認知症もはじまっていて」というのを、「元気なお年寄りジョーク」だと思っていたのですが、まさか、話が最初に戻るとは。

 「うちの5歳になる孫、私のスケッチに色を塗ってくれるんですけど、この色づかいは、大人にはとても出せないもので、、、、」と、孫の自慢話もループ。
 おお、これがお年寄りの無限ループ話か。

 どこかの老人ホームへ行って傾聴ボランティアしようかしら、なんて、気軽に考えたことを反省しました。同じ話が2度繰り返されただけでびっくりしているんだもの。4度でも5度でもにこやかに相づちをうって同じ話を聞くというボランティアは、とてもできそうにない。年寄りの無限ループ話を傾聴するのは、姑の昔話だけにしておいたほうがよさそうです。

<つづく>
00:01 コメント(3) ページのトップへ
2012年01月25日


ぽかぽか春庭「清明上河図を見る」
2012/01/25
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(11)清明上河図を見る

 東博平成館2階の第2展示室。中に入ると、まだまだ列はぎっしり続く。拡大された清明上河図が貼ってある壁に沿ってのろのろ進む。係員はひっきりなしに「立ち止まらないでください。一歩ずつ前へ進んで下さい」と声を張り上げています。

 拡大図を見ながら、いっしょに列に並んだOさんと「すごい筆使いですね」と、そろそろと進みました。清明上河図の拡大絵が見えるようになったら、Oさんの話は「上河図」のことになったので、無限ループかと思った思い出話が終わって、ちょっとほっとしました。
 
 本物を見る前に、拡大図で細かいところまでよくわかって面白かったです。図版ではあまりよくわからないところも、細々と見て取れました。
 いよいよガラスケースに入った清明上河図の本物。
 私は館内係員が「前の方に続いて、一歩ずつおすすみください」とガナるので、前の人に続いてすすみましたが、私の後ろにいるはずのOさんは、すすもうとせず、私とOさんの間に隙間ができました。振り返ってOさんを見ると、涙ぐんでいます。

 ずっと見たいと願っていた絵を見ることができて、もうこの絵を見るのはこれで最後かもしれない、そんな感慨いっぱいの目でした。間がどんどん開いても、Oさんは前にすすもうとしないので、私はOさんから離れて、一足先に展示会場を出ました。Oさん、係員に追い立てられるまで、見入っていたことでしょう。
 会場を一歩出てしまうと逆行はできず、もう一度見たい人は、1階ロビーの待ち列最後尾に行ってくださいとのこと。さすがに、もう一度3時間も待つ気にはなれない。

 Oさん、もう会うことはないのでしょうね。「昔のことは思い出すけれど、きのう今日のことはすぐ忘れちゃうのよ」と言っていたとおりに、私と会っておしゃべりしたことも、明日には忘れてしまうのでしょう。明日は明日で、Oさんは出会った人に無限ループで孫の話をしているのかも。

 ケースの中の絵をじっくり見ることもできずに、追い立てられるように会場を出てしまい、3時間待って、絵を見ていられた時間は10分ほどです。
 「清明上河図」本物を見た、という感慨だけ残して、絵の細かいところは、図版でもう一度見ようと、図録購入。2500円。入場料の1500円とあわせて4000円。一日の行楽費としては、私としては大盤振る舞いです。まあ、まだ正月気分ということで、自分にお年玉。

 第2展示室の書をざっと見て出ると、2時になっていました。朝ご飯食べずに来たので、さすがにおなかがすきました。休館中の東洋館にある精養軒のレストランで「広島牡蠣フライ定食」1300円を食べてから、ふたたび平成館へ。
 朝方は180分待ちの看板が出ていましたが、午後は210分待ちの標示。みんなそんなに清明上河図が見たいのか、と、思ったら、1月8日の朝、日曜美術館で特集が組まれ紹介されたところだったのだそうです。善男善女は、テレビで紹介されれば、押すな押すなで列に並ぶ。まあ、私も並んだ「ヒマそーなバーサン」のひとりです。これなら、1500円のチケットに躊躇せず、1月5日見ればよかった。5日は、世間では仕事が始まっていて、私はまだ冬休みだったから。平日に見ることができて、ジーサンバーサンたちは、テレビを見て押しかける前で、13日ほどは混んでいなかったろう。

 第2展示室の「故宮博物院の至宝」を見ました。清王朝第6代皇帝乾隆帝(けんりゅうてい、1711-1799)の遺物などを中心に、皇帝衣装や宝物が並んでいます。『蒼穹の昴』を去年見たところだし、興味深く見てまわりました。

 「清明上河図」一生に一度かも知れず、見ることができてよかったです。お話をきかせてくださった元速記者、八王子のOさんにも、出会えて良かったです。
 これからも美術館博物館散歩、絵との出会い、人との出会いを楽しみにして歩きまわります。

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

染めと織りの楽しみ

2008-10-13 18:56:00 | アート
2009/01/31春庭九年母日記>染めと織りの楽しみ(1)源氏の色 2008年は、紫式部が源氏物語を書いてから千年目というので、さまざまな催しがありました。講演会も朗読会も「源氏」と名付ければ大盛況。 春庭も、千年イベントは留学生に大いに宣伝しました。なんといっても、世界最古の恋愛長編小説ですから、自慢のし甲斐があります。 37年前に55歳で亡くなった母は、村上リウのファンでした。「古文で読んでもわからない文章が、村上先生の解説を聞くと、千年前の話が現代の小説と同じようにわくわくしながら読める」と言っていたのを思い出します。「谷崎源氏」を全巻揃えていた読んでいた母の姿を見てきたので、私にとっては、「源氏」とは、光源氏や女君の物語というより、母が家事や家庭菜園の合間に読みふけっていた姿が思い浮かぶのです。本に熱中しては鍋をこげつかせていた母でした。 母は、「源氏の話をいっしょにできるような年頃にまで、娘たちが成長する日が楽しみ」と言っていましたが、「源氏の女君のなかで誰が好き」とか「女君の衣装の色、何色がいい?」なんていうたわいない話ができそうな年頃にやっとなったら、母が早死にしてしまったので、私には表紙の古びた谷崎源氏だけが残されました。 2008年の暮れ、日本橋高島屋で「紫のゆかり・吉岡幸雄の仕事」展がありました。吉岡が経営する紫紅社から『源氏物語の色辞典』が発売されたのを記念しての、本のサイン会を兼ねた展覧会です。http://www.sachio-yoshioka.com/2002jp/index.html 「源氏物語」に出てくる「色彩」を、古代染色の研究を続ける吉岡幸雄が再現し、染め物を展示してあります。若紫、花宴など、源氏五十四帖の巻名や登場する女君にちなんで題された着物の写真の上をクリックしてみてください。http://www.sachio-yoshioka.com/2002jp/0109/menu1.html 会場には着物姿の女性も多く、「染司よしおか」工房の作品「襲の色目」の布地をうっとり眺めていたり、吉岡氏にサインしてもらったりしていました。私、本を買ってサインしてもらいたかったけれど、1冊3465円したので、ちょっと躊躇。古本屋の1冊百円の本は躊躇せずに買えるようになったのですが、まだまだ千円以上の本は、1年くらい迷ってから買います。 お正月のあいだ、風邪で家にこもっていたので、「日本語言語文化における『しろ』」という論文を仕上げるために、日本の色彩表現に関する本をあれこれ読みました。そのなかの1冊が別冊太陽『源氏物語の色』 『源氏物語の色』は、1988年の発行。『太陽』の「日本のこころ」シリーズの一冊です。染司よしおかの先代、吉岡常雄さんが古代染色の方法によって源氏物語に登場する色を再現したときに発行されました。 源氏の色の再現は、常雄さんが成し遂げたものを、息子の幸雄さんが継承しています。源氏千年紀の2008年に、源氏ブーム再来にのって高島屋が展覧会を開いたのです。 光源氏の邸宅では、この美しい色の十二単や小袿(こうちぎ)を着た女房たちが行き交っていたのかと、往古に思いをはせました。 ぽかぽか春庭「一竹辻が花」春庭九年母日記>染めと織りの楽しみ(2)一竹辻が花 2009年はじめの「布めぐり」。 松屋銀座で開催された『辻が花』展を見ました。「久保田一竹と川崎景太」コラボレーションの展覧会です。http://www.matsuya.com/ginza/topics/090112e_kubota/index.html 辻が花は、室町末期に最盛期を迎えた絞り染めです。織物で複雑な模様を織り出すことを好んだ公家たちと異なり、武士は染め物の衣装を好みました。辻が花の華やかさは上層武士層に大人気でしたが、大変複雑な工程で、染め色を出すのも難しい布地でした。 江戸時代になるとインドや東南アジアで広まっていた更紗染めの方法が長崎貿易を通じて入り込み、それを京都の宮崎友禅斎が改良した「友禅染」の技術が広まって以後、すなわち江戸中期以後「辻が花」はすっかり廃れてしまいました。辻が花染めの技術はだれにも受け継がれず、幻の染め物と呼ばれてきました。室町期や江戸初期の絵巻物や屏風絵に描かれた衣装に、その染色の鮮やかさが残されました。 その辻が花を一生をかけて再現しようと苦心を重ねたのが初代久保田一竹(1918~2003 )です。ただし、一竹が再現した辻が花が室町末期から江戸初期の辻が花と同じ技法であるかどうかは、異論があります。「一竹辻が花」として染め出されたのは、あくまでも久保田一竹の染め技法によるものだからです。 一竹辻が花は、独自の染色作品として1977年に初個展を成功させて以後、1990年にはフランス政府より「フランス芸術文化勲章シェヴァリエ章」を受け、また1993年には文化庁より文化長官賞を受賞するなど、注目を集めてきました。1994年、河口湖畔に自ら「久保田一竹美術館」を建設し、染色作品を展示しています。 今回の展覧会は、一竹の代表作「光響」を中心に、華道家川崎景太の立花作品とのコラボレーションです。 たいへん鮮やかあでやかな着物と花。安土桃山時代や江戸初期の「傾く=かぶく」美の表現はこのようであったかと思います。 もし、これらの着物を一枚進呈すると言われても、私にはぜったいに着こなせない色と柄です。もちろんくれると言われたら貰いますけれど。一着ン百万円もする着物、いらないなんて、言いません。 麻生太郎さんに言わせると、あげると言われて必要ないのにすぐに貰うような人はサモシイ人なんだそうですけれど、どうも私は財閥の家柄出身でもないので品がない。もっとも、お嬢様で育ったはずの田中真紀子女史も国会で太郎さんのことを「高そうな背広を着ているだけの人」と評してわめいていたので、品のなさにかけてはビンボウ育ちも元首相令嬢も大差ないってことか。 会場には、父親のあとを継いだ二代目久保田一竹さんがいました。スキンヘッドに和服(たっつけ袴に袖なし羽織)という印象的な出で立ちで、「着物」や「グッズ」の売れ行きに目を配っていました。着物は無理としても、小物はなんとか買えないか、と見れば、袱紗一枚ウン万円で、やっぱり買えない、見てるだけぇ。 染め物と織物を見て歩くことが、私の楽しみのひとつです。2008年は、小袖や藍染めを見た記録として春庭コラム2008/11/01~09に書きました。http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200811A また、たばこと塩の博物館で見た「西アジアのキリム(塩袋などの織物)」について2008/05/09の春庭コラムに書きました。http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d1450#comment あわせてお読みいただければ幸いです。たばこと塩の博物館の「丸山コレクション」紹介は以下のURLに。http://www.jti.co.jp/Culture/museum/tokubetu/eventFeb08/index.html 東京ドームで開催中のキルト展、見たかったけれど、チケットが2千円もするから、パス。2月は都立美術館の「ウィリアムモリス展」と庭園美術館の「ポワレとフォルチュニィ展」を見る予定。布地や壁紙のデザインや20世紀モードの先駆者の仕事を見るのが楽しみです。ぽかぽか春庭「一竹辻が花」春庭九年母日記>染めと織りの楽しみ(2)一竹辻が花 2009年はじめの「布めぐり」。 松屋銀座で開催された『辻が花』展を見ました。「久保田一竹と川崎景太」コラボレーションの展覧会です。http://www.matsuya.com/ginza/topics/090112e_kubota/index.html 辻が花は、室町末期に最盛期を迎えた絞り染めです。織物で複雑な模様を織り出すことを好んだ公家たちと異なり、武士は染め物の衣装を好みました。辻が花の華やかさは上層武士層に大人気でしたが、大変複雑な工程で、染め色を出すのも難しい布地でした。 江戸時代になるとインドや東南アジアで広まっていた更紗染めの方法が長崎貿易を通じて入り込み、それを京都の宮崎友禅斎が改良した「友禅染」の技術が広まって以後、すなわち江戸中期以後「辻が花」はすっかり廃れてしまいました。辻が花染めの技術はだれにも受け継がれず、幻の染め物と呼ばれてきました。室町期や江戸初期の絵巻物や屏風絵に描かれた衣装に、その染色の鮮やかさが残されました。 その辻が花を一生をかけて再現しようと苦心を重ねたのが初代久保田一竹(1918~2003 )です。ただし、一竹が再現した辻が花が室町末期から江戸初期の辻が花と同じ技法であるかどうかは、異論があります。「一竹辻が花」として染め出されたのは、あくまでも久保田一竹の染め技法によるものだからです。 一竹辻が花は、独自の染色作品として1977年に初個展を成功させて以後、1990年にはフランス政府より「フランス芸術文化勲章シェヴァリエ章」を受け、また1993年には文化庁より文化長官賞を受賞するなど、注目を集めてきました。1994年、河口湖畔に自ら「久保田一竹美術館」を建設し、染色作品を展示しています。 今回の展覧会は、一竹の代表作「光響」を中心に、華道家川崎景太の立花作品とのコラボレーションです。 たいへん鮮やかあでやかな着物と花。安土桃山時代や江戸初期の「傾く=かぶく」美の表現はこのようであったかと思います。 もし、これらの着物を一枚進呈すると言われても、私にはぜったいに着こなせない色と柄です。もちろんくれると言われたら貰いますけれど。一着ン百万円もする着物、いらないなんて、言いません。 麻生太郎さんに言わせると、あげると言われて必要ないのにすぐに貰うような人はサモシイ人なんだそうですけれど、どうも私は財閥の家柄出身でもないので品がない。もっとも、お嬢様で育ったはずの田中真紀子女史も国会で太郎さんのことを「高そうな背広を着ているだけの人」と評してわめいていたので、品のなさにかけてはビンボウ育ちも元首相令嬢も大差ないってことか。 会場には、父親のあとを継いだ二代目久保田一竹さんがいました。スキンヘッドに和服(たっつけ袴に袖なし羽織)という印象的な出で立ちで、「着物」や「グッズ」の売れ行きに目を配っていました。着物は無理としても、小物はなんとか買えないか、と見れば、袱紗一枚ウン万円で、やっぱり買えない、見てるだけぇ。 染め物と織物を見て歩くことが、私の楽しみのひとつです。2008年は、小袖や藍染めを見た記録として春庭コラム2008/11/01~09に書きました。http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200811A また、たばこと塩の博物館で見た「西アジアのキリム(塩袋などの織物)」について2008/05/09の春庭コラムに書きました。http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d1450#comment あわせてお読みいただければ幸いです。たばこと塩の博物館の「丸山コレクション」紹介は以下のURLに。http://www.jti.co.jp/Culture/museum/tokubetu/eventFeb08/index.html 東京ドームで開催中のキルト展、見たかったけれど、チケットが2千円もするから、パス。2月は都立美術館の「ウィリアムモリス展」と庭園美術館の「ポワレとフォルチュニィ展」を見る予定。布地や壁紙のデザインや20世紀モードの先駆者の仕事を見るのが楽しみです。<つづく>00:27 コメント(3) ページのトップへ 2009年02月02日ぽかぽか春庭「江戸小紋巻き見本」2009/02/02春庭九年母日記>染めと織りの楽しみ(4)江戸小紋巻き見本 日本語教員養成コースの日本人学生には、「日本語学習者にとって、日本語の先生は日本社会と日本文化の窓口です。歌でも書道でも着物の着付けでも盆踊りでも、何かひとつできることがあるといいですよ。何か得意技を紹介してあげられたら、学習者が日本文化に興味を持つきっかけになりますから」と指導し、「得意技発表」の時間を作っています。 今期の日本語教師志望者たち、とても熱心に互いの発表を楽しんでいました。「変体仮名」「日本の点字」「難読漢字」の紹介あり、「日本の銭湯文化」「金魚の日中交流史」の発表あり、それぞれが工夫して発表していました。 「日本語教育研究」受講の日本人学生のひとりK君が「染め物と洗い張り」という発表をしました。クラスメートに洗い張りの道具を見せ、クイズ「これは何に使うものだと思いますか」 細い棒は一見編み棒のように見えるので「編み物の道具」という答えが出ました。クイズ出題者は「編み物、ちょっと近いけど、編み物じゃなくて、織物に使います」他の学生たち、皆はじめて見る道具で、見当がつかないようす。 私一人が「わあ、なつかしい」と声をあげました。私は、家庭内でこの道具をつかって家事をこなすのを見た最後の世代になるでしょう。K君は、布地を出して洗い張りの干し方を実演しました。昔、母がしていたのを見ていただけの私も、伸子張りを布の両端に渡すのを手伝いました。「しんしばり」という語を覚えていたのですが、伸子張りと書くのだとは知りませんでした。 若者達、みな張り手(両端をつるして真ん中に布をはさむ道具)も伸子張り(布の両端に張り渡して布が縮まないようにする棒針)も、生まれて初めて見たというのです。 布地にはいろいろな模様が染め出されていました。K君はこの布の説明をしてくれました。一反の布の中に30センチほどずつ、さまざまな小紋が染められています。これは私も初めて見ました。この反物を「巻き見本」といい、お客さんはこの見本柄を見て、どの小紋を染めるか決めるのだそうです。「駒のみどり」という名がついている江戸小紋見本と「高貴」と名付けられている江戸友禅の二反の巻き見本がありました。 発表の最後に「先生、この巻き見本ほしいですか」と聞くので、「もちろんほしいです。留学生に日本の染め物文化の紹介ができます」と答えると「じゃ、ひとつあげます」と言って「駒のみどり」をくれました。わ~い、ありがとう。「でも、こんな貴重なものをもらってしまっていいんですか」「うちの祖父の家が江戸染め物をやっているんです。この巻き見本は、もう染められる職人がいなくなってしまって、使えないから捨てるって言っていたから、授業の発表につかうからくれと言って、貰ってきた」 染め物をするには、模様の版木が必要です。三色の小紋を染めるには、三種類の版木が必要で、一色ごとに防染をして染料を版木につけて模様を写していきます。しかし何度も使っていると版木が古くなり、鮮明な模様が出なくなってくる。そのときは新しく版木を掘り直さなければならないのです。しかし、現代では細かい模様を彫れる職人さんがいなくなって、版木が古くなった後、新しい版木を更新することができなくなりました。 それで、この巻き見本「駒のみどり」は、捨てることになった、といいます。捨てられるところを救われて私の元にやってきた巻き見本。大事にして留学生に「日本の染め物文化」の紹介していきたいと思います。 毎年「会話授業の仕上げ」として、留学生による「クラスでの自国文化発表会」を行っています。留学生の発表の前の週に、私の「日本の文化発表」を行います。発表の方法、態度などを見本として示すためです。毎年「折り紙」「算盤の使い方」「百人一首かるた」などを見せて説明していたのですが、今年は「算盤」と「日本の染め物文化」のふたつを紹介しました。 「江戸小紋」の布地に留学生達は「この色が好きです」など言いながら見入ったり、触ってみたり、最後に布を広げていっしょに写真をとりました。<つづく>00:09 コメント(7) ページのトップへ 2009年02月03日ぽかぽか春庭「ガボンの布地インドネシアのバティック」」2009/02/03春庭九年母日記>染めと織りの楽しみ(3)留学生文化発表・ガボンの布地、インドネシアのバティック 「日本語研修コース」の正規のカリキュラムにはない授業ですが、私の受け持ちの「日本語口語表現・会話」の時間に、「日本語発表練習」として、「自国の文化発表会」を続けてきました。 後期10月にアイウエオから日本語学習を始めた留学生たち、熱心に練習して上達した人もいれば、さっぱりしゃべれるようにならなかった人もいる。まあ、語学学習というのは、習得に個人差はつきもの。 これまでに出会った100ヶ国の留学生に、毎期、授業中にそれぞれの地域の文化紹介してもらってきて、さまざまな文化に触れることができました。役得、役得。 今年も1月23日に「クラスでの文化発表会」を実施して楽しかったです。 今期のクラス、西アフリカのガボンは私にはお初の国です。私の「教えたことのある留学生の国コレクション」がまたひとつ増えました。 ガボンは、おそらく日本の人にもっともなじみのない国のひとつでしょう。 ガボンについて日本人に知られていいることがあるとしたら、故シュバイツアー博士が開設したランバレネの病院があるってことくらいかな。昭和初期の修身教科書には、ナイチンゲール、シュバイツアー、野口英世の3人が「医学のために人生をささげた三偉人」として載っていましたので。 アフリカの中央を貫く赤道の、東側インド洋に面している国がケニアで、西側・大西洋ギニア湾に面している国がガボンです。サッカーが強いカメルーンの隣の国。 国土の85%が赤道熱帯雨林で、残りの15%が南部サバンナ。公用語はフランス語。 フランス語も英語も上手な留学生マスさんは、ガボン女性の民族衣装とスカーフのいろいろな着付けの紹介紹介のあと、ガボンの歌を歌ってくれました。私は、ガボンの歌をはじめて聞きました。ガボンのスカーフは、一枚の布地を肩にかけたり、頭に巻いたり、いろんな利用方法があるということでした。  中国のウーさんは北京の観光地案内。チリのリナさんはイースター島のモアイについて説明しました。 ケニア出身の学生に出会うのは3人目になります。陽気なウモサさんは動物の木彫り人形を皆に示しながら、「ライオンはスワヒリ語でシンバ、サイはキファル、ヒョウはチュイ」など、スワヒリ語を教えたあと、体をゆするダンスをしながら歌を歌いました。着ていたのはスワヒリ語一覧表をプリントしたTシャツ。 ソロモン諸島の島々と歌の紹介。クウエートの王族の結婚式の紹介(出席者が男性だけのバージョン)などが続きましたが、「日本語で自国文化を紹介する」という発表のはずなのに、クウエートとソロモンのふたりは、90%英語の紹介になりました。みなが楽しんでくれたので「ま、いいか」ということにしました。 インドネシアの学生は3人いたので、一人はベチャという自転車タクシーを、一人はボドブドールやバリの観光地を紹介しました。そしてもうひとりは自分が着てきたバティックワンピースを見せて、染め物について紹介しました。 歌もダンスも染め物も大好きな春庭、どの学生の発表もとても興味深く思えました。バティックについては、インドネシアの学生に解説してあげられるくらい詳しくなっています。これは、昨年バティックの大規模な展覧会を観覧したおかげ。インドネシア大使館などの後援により、日本各地を巡回した最終展示を大倉集古館で見ました。http://www.hotelokura.co.jp/tokyo/shukokan/batik.html インドネシア更紗展についてのコラムは以下のURLに(倉庫nipponianippon)http://page.cafe.ocn.ne.jp/member/userbbs.cgi?ppid=nipponianippon&mode=comment&art_no=965809<つづく>02:51 コメント(4) ページのトップへ 2009年02月04日ぽかぽか春庭「風の絨毯」2009/02/04春庭九年母日記>染めと織りの楽しみ(5)風の絨毯 ペルシャ絨毯の手織り作業を、銀座三越で見ました。 松屋銀座へ「辻が花」を見に行ったついでに立ち寄った銀座三越の8階催物会場で、2009年1月6日~1月12日までやっていた展示即売会。「ペルシャ絨毯の5大産地をはじめ、知る人ぞ知る産地の卓越した逸品まで一堂にご紹介します」という即売会でしたが、即売されている絨毯はとても私ごときに買えるお値段ではない。これまた、見てるだけぇ。 会場の中央で、ひとりの女性がもくもくと絨毯を織り上げているコーナーがありました。写真をとってもいいか、会場の係りの人に尋ねたら、いいということだったので、何枚か写真を撮らせて貰いました。 係りの人の説明では、絨毯を織っていた方は日本で暮らしているイラン女性で、日本へ仕事をしに来たご主人に従って来日したということでした。日本語はカタコトしか話せないということだったので、作業の邪魔になると思い、質問などはしなかったのですが、しばらくの間、細かい手作業を見せて貰いました。 横幅100cmの絨毯を織るために、縦糸を張る。一本一本の糸に色糸を絡ませ、結びつける。方眼紙に記入されている細かい模様の図と照らしあわせながら糸結びの作業を繰り返し、一日に5mm、二日でやっと1cmが織り上がる。100センチの長さまで織り上げるには、200日かかる。100×100cmの絨毯に7ヶ月かかるのだから、部屋に敷き詰めるような大きさの絨毯が200万円300万円しても当然だなあとおもったけれど、実際はほとんどがデパートや輸入業者の利益であって、ペルシャ地元の織り子の手にはいったい一日分としていくらの手間賃が渡されるのだろう。 絨毯の手織りに興味を持ったのは、『風の絨毯』という映画を見たことによります。 2007年の11月にテレビの深夜枠で放映された映画『風の絨毯』。2003年の公開作品を見逃していたので、録画して見ました。 ストーリーの重要なポイントになっているのが、絨毯の手織りシーン。縦糸に糸をからませ、一本一本結んでいく。気の遠くなるような細かい手作業です。 母親を事故で亡くし心をとざした少女サクラが、父とともに高山祭りの屋台を飾る絨毯(タペストリー)を買い付けにイランのイスファファンへでかけ、ペルシャ絨毯が織り上がるまでにさまざまな人々と交流するというストーリーです。 春庭の「映画いろいろ」に書いた『風の絨毯』紹介文は以下のとおり。http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/eiga0701a.htm============= テレビ録画をみた。三國連太郎が演じた中田金太の実話をもとに日本イラン合同制作。15回東京国際映画祭特別招待作品。 イスファファンと飛騨高山の観光を兼ねて楽しめる。 初恋に胸ときめかす少年ルーズベ。サクラに思いを伝えたい。「日本語で、僕はりんごが好きって、どういうの」と、カタコトの日本語ができるアクバルにたずねた。アクバルは「なぜ?」とたずねる。「りんごが食べたいんだ」と答えたルーズベ。教えてもらった日本語は「私はりんごが食べたい」。 母を亡くした少女サクラがやっと笑顔をとりもどしたころ、ルーズベはいっしょうけんめいニホンゴで言う。「私はサクラが食べたい」  イランの絨毯作りにたちあう日本人親子。ストーリーというストーリーはない話の展開なのだけれど、ほのぼのしてくる。=============== 『風の絨毯』の公式サイトは下記URL。http://www.cafegroove.com/movies/kazeju/ いつかイランへ行くことがあったら、一日を絨毯工房の織機のそばですごし、ぼうっと作業を見てすごしたい。糸を紡ぐ、染める、織る、編む、縫う、、、、糸と針の仕事を見つめ過ごす時間は、とても贅沢な時間に思います。 子供のころ、母が踏む足踏みミシンの前で過ごすことが好きでした。母が新しい服を作ってくれることも楽しみでしたが、糸がするすると上下して布地を縫い合わせていく様子を見ているのが面白かったのです。裁ち残った端切れをもらって人形の服を作ることも好きでした。後年、幼い娘のために「従姉妹たちからお下がりでもらったリカちゃん人形」の洋服をいろいろ作ったのも、今は遠い日々になりました。 今では繕い物専門で、服を縫うなんてことはしていませんが、糸と針の仕事を眺めている時間を持ちたいなあと思います。 暦は立春。光の春を楽しみながら、日々の暮らしの糸をつむぎ、縫い合わせ、編み続けていきたいです。 2009/02/02春庭九年母日記>染めと織りの楽しみ(4)江戸小紋巻き見本 日本語教員養成コースの日本人学生には、「日本語学習者にとって、日本語の先生は日本社会と日本文化の窓口です。歌でも書道でも着物の着付けでも盆踊りでも、何かひとつできることがあるといいですよ。何か得意技を紹介してあげられたら、学習者が日本文化に興味を持つきっかけになりますから」と指導し、「得意技発表」の時間を作っています。 今期の日本語教師志望者たち、とても熱心に互いの発表を楽しんでいました。「変体仮名」「日本の点字」「難読漢字」の紹介あり、「日本の銭湯文化」「金魚の日中交流史」の発表あり、それぞれが工夫して発表していました。 「日本語教育研究」受講の日本人学生のひとりK君が「染め物と洗い張り」という発表をしました。クラスメートに洗い張りの道具を見せ、クイズ「これは何に使うものだと思いますか」 細い棒は一見編み棒のように見えるので「編み物の道具」という答えが出ました。クイズ出題者は「編み物、ちょっと近いけど、編み物じゃなくて、織物に使います」他の学生たち、皆はじめて見る道具で、見当がつかないようす。 私一人が「わあ、なつかしい」と声をあげました。私は、家庭内でこの道具をつかって家事をこなすのを見た最後の世代になるでしょう。K君は、布地を出して洗い張りの干し方を実演しました。昔、母がしていたのを見ていただけの私も、伸子張りを布の両端に渡すのを手伝いました。「しんしばり」という語を覚えていたのですが、伸子張りと書くのだとは知りませんでした。 若者達、みな張り手(両端をつるして真ん中に布をはさむ道具)も伸子張り(布の両端に張り渡して布が縮まないようにする棒針)も、生まれて初めて見たというのです。 布地にはいろいろな模様が染め出されていました。K君はこの布の説明をしてくれました。一反の布の中に30センチほどずつ、さまざまな小紋が染められています。これは私も初めて見ました。この反物を「巻き見本」といい、お客さんはこの見本柄を見て、どの小紋を染めるか決めるのだそうです。「駒のみどり」という名がついている江戸小紋見本と「高貴」と名付けられている江戸友禅の二反の巻き見本がありました。 発表の最後に「先生、この巻き見本ほしいですか」と聞くので、「もちろんほしいです。留学生に日本の染め物文化の紹介ができます」と答えると「じゃ、ひとつあげます」と言って「駒のみどり」をくれました。わ~い、ありがとう。「でも、こんな貴重なものをもらってしまっていいんですか」「うちの祖父の家が江戸染め物をやっているんです。この巻き見本は、もう染められる職人がいなくなってしまって、使えないから捨てるって言っていたから、授業の発表につかうからくれと言って、貰ってきた」 染め物をするには、模様の版木が必要です。三色の小紋を染めるには、三種類の版木が必要で、一色ごとに防染をして染料を版木につけて模様を写していきます。しかし何度も使っていると版木が古くなり、鮮明な模様が出なくなってくる。そのときは新しく版木を掘り直さなければならないのです。しかし、現代では細かい模様を彫れる職人さんがいなくなって、版木が古くなった後、新しい版木を更新することができなくなりました。 それで、この巻き見本「駒のみどり」は、捨てることになった、といいます。捨てられるところを救われて私の元にやってきた巻き見本。大事にして留学生に「日本の染め物文化」の紹介していきたいと思います。 毎年「会話授業の仕上げ」として、留学生による「クラスでの自国文化発表会」を行っています。留学生の発表の前の週に、私の「日本の文化発表」を行います。発表の方法、態度などを見本として示すためです。毎年「折り紙」「算盤の使い方」「百人一首かるた」などを見せて説明していたのですが、今年は「算盤」と「日本の染め物文化」のふたつを紹介しました。 「江戸小紋」の布地に留学生達は「この色が好きです」など言いながら見入ったり、触ってみたり、最後に布を広げていっしょに写真をとりました。2009/02/03春庭九年母日記>染めと織りの楽しみ(3)留学生文化発表・ガボンの布地、インドネシアのバティック 「日本語研修コース」の正規のカリキュラムにはない授業ですが、私の受け持ちの「日本語口語表現・会話」の時間に、「日本語発表練習」として、「自国の文化発表会」を続けてきました。 後期10月にアイウエオから日本語学習を始めた留学生たち、熱心に練習して上達した人もいれば、さっぱりしゃべれるようにならなかった人もいる。まあ、語学学習というのは、習得に個人差はつきもの。 これまでに出会った100ヶ国の留学生に、毎期、授業中にそれぞれの地域の文化紹介してもらってきて、さまざまな文化に触れることができました。役得、役得。 今年も1月23日に「クラスでの文化発表会」を実施して楽しかったです。 今期のクラス、西アフリカのガボンは私にはお初の国です。私の「教えたことのある留学生の国コレクション」がまたひとつ増えました。 ガボンは、おそらく日本の人にもっともなじみのない国のひとつでしょう。 ガボンについて日本人に知られていいることがあるとしたら、故シュバイツアー博士が開設したランバレネの病院があるってことくらいかな。昭和初期の修身教科書には、ナイチンゲール、シュバイツアー、野口英世の3人が「医学のために人生をささげた三偉人」として載っていましたので。 アフリカの中央を貫く赤道の、東側インド洋に面している国がケニアで、西側・大西洋ギニア湾に面している国がガボンです。サッカーが強いカメルーンの隣の国。 国土の85%が赤道熱帯雨林で、残りの15%が南部サバンナ。公用語はフランス語。 フランス語も英語も上手な留学生マスさんは、ガボン女性の民族衣装とスカーフのいろいろな着付けの紹介紹介のあと、ガボンの歌を歌ってくれました。私は、ガボンの歌をはじめて聞きました。ガボンのスカーフは、一枚の布地を肩にかけたり、頭に巻いたり、いろんな利用方法があるということでした。  中国のウーさんは北京の観光地案内。チリのリナさんはイースター島のモアイについて説明しました。 ケニア出身の学生に出会うのは3人目になります。陽気なウモサさんは動物の木彫り人形を皆に示しながら、「ライオンはスワヒリ語でシンバ、サイはキファル、ヒョウはチュイ」など、スワヒリ語を教えたあと、体をゆするダンスをしながら歌を歌いました。着ていたのはスワヒリ語一覧表をプリントしたTシャツ。 ソロモン諸島の島々と歌の紹介。クウエートの王族の結婚式の紹介(出席者が男性だけのバージョン)などが続きましたが、「日本語で自国文化を紹介する」という発表のはずなのに、クウエートとソロモンのふたりは、90%英語の紹介になりました。みなが楽しんでくれたので「ま、いいか」ということにしました。 インドネシアの学生は3人いたので、一人はベチャという自転車タクシーを、一人はボドブドールやバリの観光地を紹介しました。そしてもうひとりは自分が着てきたバティックワンピースを見せて、染め物について紹介しました。 歌もダンスも染め物も大好きな春庭、どの学生の発表もとても興味深く思えました。バティックについては、インドネシアの学生に解説してあげられるくらい詳しくなっています。これは、昨年バティックの大規模な展覧会を観覧したおかげ。インドネシア大使館などの後援により、日本各地を巡回した最終展示を大倉集古館で見ました。http://www.hotelokura.co.jp/tokyo/shukokan/batik.html インドネシア更紗展についてのコラムは以下のURLに(倉庫nipponianippon)http://page.cafe.ocn.ne.jp/member/userbbs.cgi?ppid=nipponianippon&mode=comment&art_no=9658092009/02/04春庭九年母日記>染めと織りの楽しみ(5)風の絨毯 ペルシャ絨毯の手織り作業を、銀座三越で見ました。 松屋銀座へ「辻が花」を見に行ったついでに立ち寄った銀座三越の8階催物会場で、2009年1月6日~1月12日までやっていた展示即売会。「ペルシャ絨毯の5大産地をはじめ、知る人ぞ知る産地の卓越した逸品まで一堂にご紹介します」という即売会でしたが、即売されている絨毯はとても私ごときに買えるお値段ではない。これまた、見てるだけぇ。 会場の中央で、ひとりの女性がもくもくと絨毯を織り上げているコーナーがありました。写真をとってもいいか、会場の係りの人に尋ねたら、いいということだったので、何枚か写真を撮らせて貰いました。 係りの人の説明では、絨毯を織っていた方は日本で暮らしているイラン女性で、日本へ仕事をしに来たご主人に従って来日したということでした。日本語はカタコトしか話せないということだったので、作業の邪魔になると思い、質問などはしなかったのですが、しばらくの間、細かい手作業を見せて貰いました。 横幅100cmの絨毯を織るために、縦糸を張る。一本一本の糸に色糸を絡ませ、結びつける。方眼紙に記入されている細かい模様の図と照らしあわせながら糸結びの作業を繰り返し、一日に5mm、二日でやっと1cmが織り上がる。100センチの長さまで織り上げるには、200日かかる。100×100cmの絨毯に7ヶ月かかるのだから、部屋に敷き詰めるような大きさの絨毯が200万円300万円しても当然だなあとおもったけれど、実際はほとんどがデパートや輸入業者の利益であって、ペルシャ地元の織り子の手にはいったい一日分としていくらの手間賃が渡されるのだろう。 絨毯の手織りに興味を持ったのは、『風の絨毯』という映画を見たことによります。 2007年の11月にテレビの深夜枠で放映された映画『風の絨毯』。2003年の公開作品を見逃していたので、録画して見ました。 ストーリーの重要なポイントになっているのが、絨毯の手織りシーン。縦糸に糸をからませ、一本一本結んでいく。気の遠くなるような細かい手作業です。 母親を事故で亡くし心をとざした少女サクラが、父とともに高山祭りの屋台を飾る絨毯(タペストリー)を買い付けにイランのイスファファンへでかけ、ペルシャ絨毯が織り上がるまでにさまざまな人々と交流するというストーリーです。 春庭の「映画いろいろ」に書いた『風の絨毯』紹介文は以下のとおり。http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/eiga0701a.htm============= テレビ録画をみた。三國連太郎が演じた中田金太の実話をもとに日本イラン合同制作。15回東京国際映画祭特別招待作品。 イスファファンと飛騨高山の観光を兼ねて楽しめる。 初恋に胸ときめかす少年ルーズベ。サクラに思いを伝えたい。「日本語で、僕はりんごが好きって、どういうの」と、カタコトの日本語ができるアクバルにたずねた。アクバルは「なぜ?」とたずねる。「りんごが食べたいんだ」と答えたルーズベ。教えてもらった日本語は「私はりんごが食べたい」。 母を亡くした少女サクラがやっと笑顔をとりもどしたころ、ルーズベはいっしょうけんめいニホンゴで言う。「私はサクラが食べたい」  イランの絨毯作りにたちあう日本人親子。ストーリーというストーリーはない話の展開なのだけれど、ほのぼのしてくる。=============== 『風の絨毯』の公式サイトは下記URL。http://www.cafegroove.com/movies/kazeju/ いつかイランへ行くことがあったら、一日を絨毯工房の織機のそばですごし、ぼうっと作業を見てすごしたい。糸を紡ぐ、染める、織る、編む、縫う、、、、糸と針の仕事を見つめ過ごす時間は、とても贅沢な時間に思います。 子供のころ、母が踏む足踏みミシンの前で過ごすことが好きでした。母が新しい服を作ってくれることも楽しみでしたが、糸がするすると上下して布地を縫い合わせていく様子を見ているのが面白かったのです。裁ち残った端切れをもらって人形の服を作ることも好きでした。後年、幼い娘のために「従姉妹たちからお下がりでもらったリカちゃん人形」の洋服をいろいろ作ったのも、今は遠い日々になりました。 今では繕い物専門で、服を縫うなんてことはしていませんが、糸と針の仕事を眺めている時間を持ちたいなあと思います。 暦は立春。光の春を楽しみながら、日々の暮らしの糸をつむぎ、縫い合わせ、編み続けていきたいです。<おわり> 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする