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ぽかぽか春庭「学習院散歩」

2014-02-27 00:00:01 | エッセイ、コラム

2014/02/27
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(9)学習院散歩

 2月23日午後からは、ウェブ友yokoちゃんも参加しての学習院たてもの&構内見学。
 山手線内の私立大学では最大の敷地だ、と学習院の先生が説明していました。都下の大学では三鷹のICUなど、広い敷地の大学はありますが、山手線内にうっそうと木が茂る林や目白崖線からの湧水をたたえる池、馬場などを備えた大学、さすがに贅沢な作りだとおもいました。私は学習院大学内に馬場があるということも知りませんでした。

 目白崖線の崖側に広がる林によって、隣接のビル群と隔てられています。


 構内の池は、通称「血洗いの池」。
 赤穂浪士47士のうち、随一の剣術使い堀部又兵衛が高田馬場で叔父の敵討ちをした際、この池で刀を洗ったという伝説により「血洗いの池」と名付けられたという話があります。これは作り話で、学習院高等科の生徒が毎年下級生に伝える習わしになり、みなが信じるようになったということです。高田馬場から目白まで刀を洗いにわざわざ来るというのもおかしな話なのに、大正時代の先輩からつぎつぎに伝えられ、昭和になると伝説が出来上がっていた、ということらしいです。
 平成の現在では、そもそも堀部安兵衛を知っている学生が少ない。

血洗いの池 


 思えば弘法大師伝説なども、全国津々浦々、空海が足を踏み入れたことのない地方はないというくらいにさまざまな「弘法様」の事跡が伝わったのも、こういう仕組みだったのだろうと思います。日本中に弘法様が農業用水や溜池を作って、人々の尊敬を受けていますが、果たして実際に空海の仕事であったのはどこらなのだろうと思います。
 今、『空海の風景』を読んでいるところなので。

 乃木院長が学生とともに寝泊りしていた寄宿舎「乃木館」や旧皇族寄宿舎などを見ました。建物紹介はまたのちほど。

 地ハイが14時に早めに解散になり、その後yokoちゃんと地ハイの見学コースからは省略された厩舎見学に行きました。青学vs学習院対抗馬術試合がおわったところということで、馬をトラックに乗せて運ぶところでした。今日の試合では青学勝利。アウェイでの勝利に、部員たちは嬉しそうでした。

厩舎に戻ったお馬さんたち。
  

馬場


 yokoちゃんは、私の最初の大学の後輩です。おとなりさんと言えるくらいの所にあるキャンパスなのに、文学部キャンパスと本部キャンパスを合わせても、こんなふうにキャンパス内に林や池や馬場がある環境とは大違い。スロープ下の学生食堂の安かろうまずかろうだったという話などしながら、環境抜群の学習院の構内を歩きました。

 たてもの見学の部は、日曜日で校舎内に入れなかったのがちょっと残念。内部もいつか見学し、先生が「おいしい」と自慢していたキャンパス内の「松本楼学習院支店」でランチを食べてみたいと思います。

 yokoちゃんとの散歩は、このあと、豊島区宣教師館マッケレーブ邸や護国寺墓地などへ足を運びました。漱石、荷風のお墓にお参りもできて、一日18000歩の散歩になりました。yokoちゃん、おつきあいありがとう。これからも元気に歩き回りたいですね。 

<おわり>
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ぽかぽか春庭「学習院地学標本室見学」

2014-02-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/02/26
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(8)学習院地学標本室見学

  2月23日、学習院見学会に参加しました。
 娘息子が化石掘りツアーに参加するため入会した「地学ハイキング(地ハイ)」の2014年最初の例会が、「学習院地学標本室見学」でした。私は、子供たちが「化石掘りツアー」から卒業してしまったあとも、「地ハイ」にひとり参加しています。

 「学習院中高等科地学教諭にして地学研究会顧問」であった先生、教諭定年退職のあとも嘱託非常勤講師として生徒の指導にあたってこられたのですが、この3月に嘱託職からも引退されるというので、最後に地学標本室を見せてくださることになったのです。

 地ハイを主催している地学研究会の先生たち、それぞれが自分の分野の研究をこつこつと続けている、という人たちで、私の好きな「もうかりもしないことをこつこつと」という人々が集まっています。
 2009年のI先生の発表論文タイトルは、「ドイツジュラ系産ヒトデ・クモヒトデ類の生痕化石ー現生ヒトデ・クモヒトデ類の行動との比較」
 そんな立派な研究をしている先生が、23日の地ハイ例会では、お弁当タイムにおしるこをふるまってくださり、「おはし、無い方いませんか」などとお世話してくださるのです。おしるこ、おいしゅうございました。

 地学講義室実験室は校舎の5階ですが、標本室は地下1階。乃木希典院長以来の「質実剛健」を旨とする校風ゆえか、エレベーターは中高等科校舎にひとつしかありません。生徒は日頃は5階の地学教室まで階段を使って上り下りしているのでしょう。「お元気な方はどうぞ階段で」という説明があったけれど、やわな私はむろんエレベーター利用です。おしるこ食べた分しっかりと階段上り下りする気になればやせるのでしょうが、そういう気にならないので、おしるこ分はすべて体に蓄えました。

 地階の標本室には、明治時代の学習院開校以来の収集標本が保存されています。ここが貴重なのは、よその新しい博物館と異なり、100年前に購入したり寄贈されたりした古い標本が残されていることだそうです。

 「デーナ氏岩石標本」というタイトルの棚。


 明治の帝室博物館が国立博物館に変わるとき、歴史や美術専門の博物館に組織替えされ、それまでに収集された科学関連の標本などは、ほとんどが東京科学博物館へ。一部が東京大学理学部と学習院に分納されました。
 学習院にも収納されたのは、よその国から皇室への寄贈品などがあったからではないかと想像しています。

 現在、東京大学の標本は、東大総合博物館などで見ることができますし、科博の標本もさまざまな方法で展示されていると思うのですが、学習院標本室に入ったものは、地下1階にひっそり収蔵されているままです。学習院の生徒しか見ないのでは、もったいない気がします。

 古い標本箱


 標本室の入口には、この標本類のなかで、キウイ剥製と肺魚剥製が貴重なものである、という説明書きがありました。
  ニュージーランドの飛べない鳥、キウイの剥製標本がありました。キウイという鳥の餌になるのでキウイフルーツと名付けられた緑色の果物。私が子供の頃果物屋で見たことなかったですが、今では日常の食生活になじみになりました。フルーツほどなじみはないものの、キウイのほうはニュージーランドに行くか動物園に行けば生きた鳥を見ることはできます。私はNHKの番組「ダーウィンがきた」で、ちょうどキウイの生態記録を見たところだったので、キウイの姿をすぐ目の前に見ることができて、よかったです。

 学習院標本室に保存されている剥製は100年も前のものですから、専門家が見れば、現在の鳥と比較して何らかの知見が得られることもあるのではないかと思います。

 2月22日に東京科博で恐竜展のあと、出口へ回るついでに、ミニ企画展「ダーウィンフィンチ」展を見ました。
 このミニ企画展では、アメリカの自然史博物館から借用している14種のフィンチの剥製が展示されていました。ダーウィンが進化論を思いついた各島ごとに別々の発達を遂げた小鳥フィンチが、今もなお少しずつ島ごとに変化していることがわかるのだそうです。14種のフィンチそれぞれの嘴や羽の違いがわかるように展示されていて、専門家が見ればきっといろいろな発見があるのでしょう。
 ガラパゴス諸島から動植物を持ち出すことは禁じられているため、たいへん貴重な剥製であり、展示期間が終わったら、アメリカに返却されます。科博は、剥製をもとにバードカービング(木製の鳥彫刻)でフィンチの姿を残して展示するのだそうです。

 100年前のキウイ剥製が日本に保存されているという事実、動物学者なら知っているのかもしれませんが、とにかく私ははじめて見ました。将来の研究に生かしていければいいのに、と思います。秋篠宮は家禽にわとりの研究で博士号を得ていますから、きっとこのキウイのこともご存知だったでしょうけれど。

 帝室博物館から学習院に移譲された標本のひとつ。中生代クスの植物化石と大楢の化石。「明治37年購入75銭」と値段がかき入れらています。



 東京大学の理学系の実験室などで埃をかぶってほったらかされていた古い実験道具や標本が「驚異の部屋」というタイトルで立派な博物館展示に蘇りました。
 学習院も一般の人も見ることができるような設備を儲けて、標本類などを整理展示してくれたらいいのになあと思います。棚の中、古い天秤量に「ハイキ」とマジックで書かれ、ほこりにまみれていました。こんな道具も整理整頓して、明治時代の顕微鏡などとともに展示してあれば、立派な博物学の道具展示です。


 後ろの木箱には明治時代の顕微鏡が収蔵されています。手前の天秤量には「ハイキ」と記されています。


 こちらの道具には、寄贈者の名が記されているので、ハイキされることはないでしょう。今上天皇が中学卒業記念に学年記念品として寄贈したものです。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「恐竜博2014in科博」

2014-02-25 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/02/25
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(7)恐竜展2014in科博

 東京では、毎年何らかの恐竜展が開催されます。幕張メッセが会場だったり、科学博物館だったりしますが、週末にはちびっこよい子の恐竜ファンが押し寄せて、どの恐竜博も大賑わいになります。こんなに恐竜大好きな子供がいる国ってほかにもあるのかしら、って思います。

 今回の東京科博の「大恐竜展」。行こうかやめておこうかギリギリまで迷っていましたが、ついに会期終了前日になって「うん、やっぱり見ておこう」ということになりました。迷っていた原因は、招待券が手に入らず、大人1500円の入場料金は高いなあと感じていたからです。

 娘と息子は、小学生のころから毎年「化石掘りツアー」に参加して、貝化石などを掘り出す体験をしてきました。それも「いつか恐竜の化石を掘りに行きたい」というのが娘の夢だったからです。娘は地学や古生物学を専攻したいところなのに、物理や化学が苦手で入試突破は無理とわかって、自然地理学専攻に変え「神津島の黒曜石分布」調査を卒論にしました。地理学にも地学にも縁遠くなった今も、恐竜大好きは変わりありません。

 今年の科博恐竜博は、「大恐竜展-ゴビ砂漠の驚異」というタイトルです。世界の恐竜発掘史の中でも、保存状態のいい、価値ある化石がつぎつぎに見つかったモンゴルのゴビ砂漠での発掘成果を中心に展示されていました。



 ゴビ砂漠の発掘成果を最初に世界にアピールしたのは、アメリカのアンドリュース調査隊です。アンドリュースたちは、1922年から1930年にかけてゴビ漠を探索し、砂漠の岩と砂の中から、数々の恐竜化石や恐竜の卵化石を発掘しました。
 ロイ・チャップマン・アンドリュース(Roy Chapman Andrews、1884 - 1960)は、インディ・ジョーンズのモデルの一人として知られた、アメリカ自然史博物館の館長だった古生物学者です。
 今回の恐竜博の一番最初の展示は、アンドリュースの使用した「探検用品」でした。

 アンドリュースのあと、モンゴルの地質学者、日本の古生物学者、さまざまな調査隊が砂漠に入り、貴重な発見を続けました。
 他種の巣穴に入って卵を盗んでいた、として「卵どろぼう=オビラプトル」と名付けられてしまった恐竜、実は自分の巣穴で自分の卵を温めていたのだ、などの新発見も相次ぎ、恐竜ファンにとっては、目が離せないゴビ砂漠。

 大型植物食恐竜「サウロロフス」の全身骨格、アジア最大の肉食恐竜「タルボサウルス」全身骨格と、タルボサウルスの子どもの頭骨など、「本物!」がずらりと展示されています。
 レプリカが少なくて、90%が実物化石、というのが、今回の展示のウリになっているのですが、ガラスケースの中の実物を眺める感激もいいけれど、レプリカによってもっと身近に「わあ、でかい!」というのを実感させるのも、子供にとってはいいんじゃないかしら。
 私、子供が見学する展示を別仕立てにして、レプリカ展示でいいから、子供がさわれるようにしてほしい、という意見です。「恐竜の化石にさわろう」というコーナーもあったのですが、子供コーナーに全身骨格のレプリカを展示し、触らせてやったらいいと思うのです。



 大人の恐竜ファンにとって、学術的に有意義なのは、ホロタイプの展示です。発見された新しい化石がどの種に属するのか、ということを決定する基となる「ホロタイプ標本」が約10点展示されていました。
 どこかで新しい化石の骨が見つかったとき、このホロタイプと比較することで、これまでに見つかった種に属するのか、それともそれらとは別の新しい種類の恐竜であるのかがわかるのだそうです。

 以前読んでおもしろかった巽孝之『恐竜のアメリカ』。
 なぜ恐竜に惹かれるのか。『ジュラシックパーク』など、恐竜が登場する作品がつぎつぎに生み出されてくるのはなぜか、ということを考察していました。
 巽の考察では「かつて地球を席巻した巨大生物を圧倒したのは人類である。人類は、自分の生存圏を拡大して現在の繁栄に至った、というアメリカの「We are the champions」的な開拓者精神、征服者的冒険精神の延長上に、アメリカにおける恐竜人気がある、としています。

 私は、日本の恐竜人気は巽の考えとは異なる面もあるのではないか、と思うことがあります。
 圧倒的な自然の力を確認する喜び、みたいな。草木虫魚に魂が宿り山川草木が神である日本の自然であるならば、恐竜は人間にとって圧倒的な自然力の象徴とも受け取れるのではないか。6000万年まで大繁栄を謳歌していた恐竜がいっせいに滅んだ原因が、たった1個の「地球に激突した巨大隕石」であるのなら、人類の力なんてほんとうにちっぽけなもの。そもそも人間が地球の王者のような顔をするのさえおこがましい。
 もっともっと謙虚に、地球の自然を畏敬し、地球の片隅で生かしてもらうために、恐竜の巨大な姿をながめて、「わあ、大きい」と感嘆することが、我々に必要なのです。

 今、思いついたのですが。
 正月に獅子舞を見たあと、獅子の口で噛んでもらう風習があります。人の邪気を払い、ご利益を得るという意味があるという。わあわあ泣き叫ぶ幼い子供を獅子の前に押し出して、獅子の大きなくちで噛んでもらい「獅子の強さを注入してもらったこの子は、今年1年丈夫に育つ」と考える、あの信仰。あれって、私が「巨大な恐竜の前で人間の小ささを確認する」というのと通じているなあと思うのです。

 恐竜が滅んでから6000万年の間に、王者の足元でちょろちょろと逃げ回っていた哺乳類の中からホモサピエンスが誕生し、600万年の間に、地球を痛めつける力を持つまでに脳が巨大化しました。人類にとって「たった1個の巨大隕石」はなんでしょうか。願わくは、この隕石を自ら呼び寄せることのないように。


 人間の力の限界まで生身のからだで挑戦するスポーツ選手にも、過去の地球の姿を明らかにすべく、砂漠でこつこつと発掘を続ける学者にも、私はただただ敬服いたします。
 恐竜をみれば、ただただ「わあ、大きい」と見上げているだけの恐竜ファンにすぎないですけれど、人類は地球を守っていける大きさを獲得しているのだと、信じています。
 放射能垂れ流しのまま、利益優先させている人たちへ。地球を壊さないでほしい。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「東京駅オフ会ビジョ×2」

2014-02-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/02/23
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(6)東京駅オフ会ビジョ×2

 私のサイト、そもそも読んでくださる方はごく限られた人たちですし、みなそれぞれの事情を抱えているので、なかなか「オフ会」という機会もなかったのですが、くちかずこさんとのオフ会が実現しました。
 くちかずこさんの娘さんも長男さん次男さんも東京方面にいらっしゃるので、何かと東京に出てくる機会が多くなったとブログでは在京日記を拝見していましたので、次に上京なさる折、お目に掛かりたいと思っていたら、「思っていれば願いはかなう」です。

 しかし、ちょっとためらいもありました。日頃知ったかぶりで書き散らしていても、実際に会ってみれば、私の浅薄非才パープリンはたちまちバレるので、会ってのち「なんて馬鹿なやつだ」と思われたらどうしようと。おまけにこの体型このご面相。美女と出会うには勇気がいります。

 くちかずこさんのお顔は、ご自身の写真も娘さんとのツーショットだったり、ご主人とのラブラブ写真だったり、西の美女ここにあり、と知っていました。私は「夜目遠目」の写真公開しかしていないので、私がくちかずこさんを見つけるという約束だったのですが、東京駅のホームでもたもたしているうち、「春庭さ~ん」と、声をかけていただきました。

 そして、会ってみれば、たちまち十年来の知己のごとし。
 30年も隣に住んでいるおとなりさん、未だに趣味など知らぬ朝夕の挨拶するだけのおつきあいという団地に住んでいるので、私にとっては、ブログを通じて家族の事情から趣味、どこに旅行に行ったか、何を食べたかまで、逐一知っているブログ友達のほうが、親しいトモであるのです。

 いっしょに2012年に復元成った東京駅の見物をしました。
丸の内南口側


 1914(大正3)年、辰野金吾設計の東京駅、今年は「東京の顔」の駅舎ができてから百年目。1945年5月の戦災で焼け落ちた部分を不完全な形で再建して、戦後60年以上そのまま利用されてきました。GHQ命令による応急処置的な再建だったということですが、60年もそのままになったとは。
 2012年の秋に、ようやくもとの形への復元が完成しました。復元といっても、免震構造などをとりいれた新しい工法で工事され、地震に強くなりました。復元なった左右対称のドームを持つ姿は、とても美しいです。

 外観は復元工事中から何度か見て、完成を楽しみにしていました。完成後も何度か外観とドームは見てきました。
 ドーム下を通過して丸の内側へ出るとき、ドーム2階の回廊を歩いている人がいるのに気づいていました。今回はステーションギャラリーから入って、この回廊を歩いたのです。

北口ドーム


 天井ホールには、、辰野金吾が十二支ののレリーフを装飾しているのですが、そのうち、10の動物だけがある、というので、4つ不足している動物は何なだろうと、ぐるりと見上げながら探索しました。遠目なのでよくわかりませんでした。
 テレビの番組、『東京駅百年の謎ー近代建築の父辰野金吾』というドキュメンタリーで菊川怜たちが謎を解いていました。クイズの答えは、次回、東京駅を訪問するとき探してみます。

北口ドームの天井を真下から見上げる


 東京駅丸の内側北口にあるステーションギャラリーの中に、初めて入りました。
 北口ドームを見下ろすことができるギャラリーです。





 ブリティッシュカウンシルの所蔵現代美術展をやっていたのですが、現代美術はささっと見て、今回のウォッチングは復元駅ビルをしげしげと眺めること。レンガの壁や階段室などを見て歩きました。

ステーションギャラリー開設時にあつらえたという照明

レンガの壁




階段室

 東京駅ウォッチングの次は、コンドル設計の三菱一号館。



まずは、ランチ。入店してから席に着くまで30分待ちましたが、ちょうどいいおしゃべりタイムになりました。家族のこと、趣味のこと、いろいろお話していただきました。春庭も、ブログでは書けない上司の悪口なども遠慮なく。

 三菱一号館、こちらも東京駅と同じく、復元です。保存しておいた昔の建材をそっくり同じように造り、昔の設計図の通りに復元した、という記録、前回三菱一号館を見学した時に資料室のビデオで見ました。

 今回は、「ザ・ビューティフル」と名付けられた英国唯美主義の画家たちの作品展。美女ビジョふたりにふさわしい展覧会でした!!

「ザビューティフル」ポスターになっている目玉の絵。アルバート・ムーア 《真夏》 1887年



 くちかずこさんからのいただきもの。もみじまんじゅう、おいしゅうございました。私のほかに食べたのは、姑と、去年の教え子留学生とその両親。半年だけで帰国したのですが、チェコから両親を連れて日本を再訪し、姑宅で会いました。 


<つづく>
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ポカポカ春庭「如月の空」

2014-02-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/02/22
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(5)如月の空

 国立大学の授業も全部終わったけれど、日本語教科書改訂作業が残っています。中国で使用する中国語版の日本語初級教科書と、日本で使う「アカデミックジャパニーズ」というのと、2冊同時進行なので、ちょっときつい。仕事がきつい日程でも遊び回りたいし、テレビは見たいし。

 フィギュア女子の応援をしながら、教科書を執筆し、その下書きをまおちゃんのショートが終わった4時半にメール添付で送ったら、「徹夜で仕事なさったのですか、すみません」という返信をもらいました。こちらこそ、フィギュアの合間の日本語教科書で、すみません。

 まおちゃん、フリーの最後まで、せいいっぱい応援しました。バンクーバー以来、浅田選手がどれほどの努力を重ねてきたかを4年間ずっと見続けたファンとしては、「あの子は大事なところで必ずころぶ」なんてことを言う、アホ元首相の首を絞めてやりたい。選手の心を汲み取れない人にオリンピックに関わってほしくない。

 ジュニア選手の時代からずっと見てきた浅田真央選手。まおちゃんの努力する姿から、たくさんのすばらしい宝物をいただきました。21日午前のまおちゃんのフリーの演技、終了して娘も息子も涙ぐんで、自己ベストの演技をたたえました。ありがとう、まおちゃん。これからも応援するよ。

如月のロシアの空に燃える火を飛べ跳べ翔べと祈りつつ見る(春庭)

 ソチオリンピックの月。我が家、メインはフィギュアスケートですが、娘息子はジャンプもスキーもスノボも複合も全部応援しています。
 深夜、息子娘といっしょになって開会式前のフィギュアスケート団体戦の応援からはじまり、開会式もリアルタイムで全部みました。3時までテレビ見ていて、5時には起きて6時半には家を出て仕事へ、そりゃ一日中眠いはずですよね。午前中の授業を終え、午後、学生が提出した宿題のチェックをしながら居眠りしてました。何やってんだか。ま、授業はなんとか終わったし。

 19日は、竹内智香選手のスノーボードパラレル大回転を応援。見事銀メダルを獲得。ジャンプ団体銅メダル、スキーフリースタイルハーフパイプで小野塚選手銅、など、つぎつぎにメダリスト誕生。みなよくがんばっていると思います。

 フィギュア団体はよく健闘して5位。高橋成美木原龍一組、ペア結成1年でよくここまで成長できたと思います。ジャンプの高梨沙羅選手は惜しくも4位、スケートボードハーフパイプの平野歩夢選手銀メダル平岡卓選手が銅メダルなど若い選手が活躍していて、テレビ観戦に力が入りました。カーリングも5位。よい試合でした。

 メダルに届かなかった選手もそれぞれに健闘してきたのです。それぞれの努力に対し、敬意を表し、選手をせいいっぱいたたえたいと思います。

 国民をあきれさせて首相をやめた過去を持つあの方、今後も失言を繰り返すであろうことは想像にかたくない。国際社会で恥をかかないうちにオリンピック委員長なんぞはやめてもらいたい。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ハッピーバースデイ89回目」

2014-02-20 00:00:34 | エッセイ、コラム


2014/02/20
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(4)ハッピーバースデイ89回目

 2月4日節分の日は、姑の89歳誕生日を祝ってお食事会。姑の誕生日は7日なのですが、7日は私が仕事に出る日なので、4日に前倒し。ランチを食べてお祝いしました。
 姑希望の駅前フレンチの店へ。姑があまり和食好きでないのを知っていて、これまでお祝いごとには中華の店を選ぶことが多かったのですが、一度駅前フレンチの小さな店に入ったら、すっかり気に入ってしまい、「お誕生日もあそこがいい」というので、食べに行きました。2階の店へ入るのに、エレベーターがなく、足元が弱っている姑を連れて上がるのが一苦労ですが、娘息子が介護して席につきました。

 誕生日プレートに「Happy biruthday ゆきこさん」とチョコで書いてもらいました。メインは各自好きなものを頼むというコースで、デザートのピスタチオクリームのロールケーキもおいしかったです。

前菜

ポタージュ
姑のメインはお肉、私のメインは魚
デザート

 2月11日、夕方姑の家へ。3時ごろまで姑とすごした夫とすれ違い交代。大根人参こんにゃくの煮物と、ブロッコリーとトマトのサラダを作って帰る。私が行けるのは休日しかないけれど、姑は病院通い歯医者通いをしながらも、一人暮らしを続けています。
 寒いさむいと言って、雪だるまのように着膨れしている姑。エアコンやガスストーブは嫌いで、一番好きな暖房は昔ながらのこたつ。年をとればとるほど、新しいものは受け付けなくなっていて、昔風の生き方を続けたがります。
 「こたつで昼寝」が一日のうちの一番大きな仕事です。

 料理はすきじゃないHALですが、2月18日には豚肉の煮物を作りました。「冷蔵庫の中のタッパにまだ入っていますから明日も食べてね」と、いうのですが、姑は、冷蔵庫の中に入っていることを忘れてしまうこともあるのです。

 少量の服でも一日に2回も3回も洗濯機を回すのですが、どうしても昔ながらの手動二層式洗濯機を使い続けたいと言うのです。「全自動に変えたほうが水が節約できるから」という意見を受け入れません。そして、すすぎ水を流していることを忘れてしまうので、一晩中、水を流しっぱなしにして、水道代が一ヶ月に4万円とか5万円になって、一昨年の夏以来、全自動洗濯機の数台買えるくらいの水の無駄遣いをしています。

 それでも「死ぬ前には食欲が衰えるって聞いたけれど、私、すぐおなかがすいていくらでも食べられるから、まだ死なないわね」といいながら、豚肉の煮物で夕食を食べたあと、夫が来たら「いっしょに焼きおにぎり食べよう」と言って、もういちど夕御飯を食べていました。まあ、息子といっしょに食べたいのでしょうけれど。

 娘がいうには、「毎回病院の行き帰りに付き添って介護しているのは私なのに、おばあちゃんはお父さんが一番かわいいみたい。お父さん、薬の管理をするだけで、あとはなんにもしてくれないのに。世の年寄りって、子供よりも孫をベタ可愛がりするって聞くのに、うちのおばあちゃんは、孫を猫可愛がりするってことがなかったね」

 足が弱ってからは、習いに通っていた書道教室も童謡を歌う会も詩吟もみなやめてしまって、病院通いとデイサービスの体操教室のほかは出歩かなくなってしまいました。ああ、年寄りはこうやってひとつずつ社会との接点を失っていくのかと、これからの老いの行くすえの参考になりますが、洗濯機のこともそうですが、いっさい新しい物、新しい考え方を受け付けなくなってくるようすを見ていると、年を取るって寂しいことだなあという気になります。

 70歳からスキューバダイビングをはじめたレニ・リーフェンシュタールとか90歳から詩を書き始めた柴田トヨさんはやはり例外なのでしょうか。
 私は、毎年何かしら新しいことに挑戦していきたいと今は思っているのですが、心身気力衰えればそうも言っていられなくなるのかも。少なくとも、89歳の姑が、最後まで「私は、家族に恵まれて幸せだ」と言うのを聞いていたいと思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「東京の大雪」

2014-02-19 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/02/18
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(3)東京の大雪

 2月毎週毎週、雪が降り14日15日は記録的な大雪。被害も相次ぎました。
 まだ2月8日土曜日の大雪では、久しぶりの大雪に、足元を心配しつつもみなが雪に浮かれている気分もありました。



 私も、10日朝、キャンパスの中の芝生の上、まだ足跡のついていないあたりを踏みしめて足跡をつけながら歩いてみました。凍った道だと危なくて歩くにも慎重にしんちょうにとなりますが、芝生の上の雪なら転んでも骨折にまで至らないだろうと思っての浮かれ歩き、長靴ではなくいつものウォーキング用スニーカーだったので、足が濡れました。でも、楽しかったです。雪合戦に興じた子供時代も、息子娘に小さな雪うさぎを作ってあげた子育て時代も遠くになりましたが、雪がうれしい気持ちがはまだまだ残っています。

 8日の雪には、まだ「大はしゃぎ」の気分だったのですが、14日金曜日から15日の朝にかけての大雪には、もはや「降り振りすぎだよ」という気分。

 線路も雪におおわれて


 雪国の人は「この程度で首都機能がマヒするなんて、弱っちい」とおもうでしょうが、ほんとうに雪が降るとすぐに高速は渋滞、新幹線は止まる。
 雪でブレーキがきかず、東急線で電車追突事故。湿った雪の重みで体育館の屋根が崩落するという事故も起きました。

 15日、町内ひとめぐり。町内の雪かき状況はというと。お店や一戸建て住宅の前は、みなが雪かきに励んでいました。「あの家の前の雪かきがしてなかったから、ころんで大怪我をした」なんてご近所のうわさになるといやだから、みなせっせと雪をどけていました。しかし、マンション裏とか、だれがこの雪の責任を負うのかというのがはっきりしていない道では、だれも雪かきなどしていない。都会というのはそんなもんだろうと思います。

 都会の雪をみながら、中原中也の詩を一篇。「汚れっちまった悲しみに」   

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の皮裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる


東京都下のキャンパスに残った雪


<つづく>
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私の好きなタレパンダ・春眠に限らず暁を覚えず

2014-02-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/02/18
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(2)私の好きなタレパンダ・春眠に限らず暁を覚えず

 41歳の葛西選手、ジャンプ銀メダル、すごい!
 7度目のオリンピックというだけでもすごいと思っていたのですが、銀メダル獲得とは、ほんとうにすばらしい。「次は金を狙う」という葛西選手のコメント、何もしないうちに「もう年だし」と諦めている私にカツを入れてくれました。

 とは、言っても、明日からがんばりますから、今日のところは、だらっとタレていたいと思います。
 だらっとタレているパンダも好きなんです。

上野動物園のパンダ。↓のたれているパンダ、メスのシンシンだったかオスのリーリーだったか、忘れてしまいました。上野動物園、美術館散歩のついでにふらっと立ち寄ります。美術館入館割引の「ぐるっとパス」に上野動物園の入場券も含まれているので、どうせならチケットを使わないと損、といういじましい精神で、ひとり動物園見物をよくするのです。

 美術館を見終わって、まだちょっと時間がある、というとき閉館間際の動物園に飛び込みます。閉館間近に寄ると、人気のパンダ舎にも行列はいなくなって、ゆっくり見ていられます。


 ウェブ友くちかずこさんの作品、シャドウボックスの「タレパンダ・春眠に限らず暁を覚えず」です。
 

 春庭も春眠に限らず、「毎日が暁を覚えず」のタレHAL生活ですけれど、でも、パンダのタレぐあいを見ていると、うん、こんなふうにタレているのもまた良きかな、と、安心気分。
 伝説のジャンプの鉄人「レジェンド・カサイ」もすごいけれど、私はやっぱり春眠に限らず暁を覚えない生活が似合っているかな?

 16日日曜日は、くちかずこさんとのOff会、楽しい一日を過ごしました。三菱一号館でのオフ会報告はまたのちほど。
 シャドウボックス教室の先生でもあるくちかずこさんの傑作の数々はブログ「しろつめ楚々くちかずこ姫のお部屋」でも拝見してきたのですが、そのうちのひとつをいただきました。感謝!みていると心なごんでくる作品です。

 春庭ヘタレ生活、女子フィギュアも生中継応援するし、当分「暁まで眠らずテレビ応援」の日々が続きます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「天の祭・銀盤に咲く花」

2014-02-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/02/16
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(1)天の祭・銀盤に咲く花

 「雪」   堀口大學
雪はふる! 雪はふる!
見よかし、天の祭なり!

空なる神の殿堂に 冬の祭ぞ酣(たけなわ)なる!
たえまなく雪はふる、をどれかし、鶫等(つぐみら)よ!
うたへかし、鵯等(ひよどりら)!ふる雪の白さの中にて!

いと聖(きよ)く雪はふる、
沈黙の中(うち)に散る花瓣(くわべん)!
雪はしとやかに 踊りつつ地上に来(きた)る。

雪はふる! 雪はふる!
白き翼の聖天使!

われ等が庭に身のまはりに ささやき歌ひ雪はふる!
ふり来(く)るは恵(めぐみ)の麺麭(パン)なり!小さく白き雪の足!

地上にも屋根の上にも いと白く雪はふる。

冬の花瓣の雪はふる!
地上の子等の祭なり!


 東京に「冬の花弁」の雪が降る中、ソチでは見事、金色の花が咲きました。羽生選手、堀口大學がうたう「白き翼の聖天使」のようでした。

 2月15日午前1時から4時まで、テレビ観戦。東京しんしんと雪。
 羽生結弦選手の金メダル、すばらしかったです。町田選手5位高橋選手6位入賞も立派な成績だと思います。特に高橋大輔は、右膝に故障を抱えての挑戦でした。完全に怪我を治してからの演技を披露したかったことでしょう。

 フィギュアスケートは、昨年9月のグランプリシリーズ開始から、放映された全試合全選手の演技をすべて見て、徹底応援。娘と息子は、テレビにはなかなか演技を写してもらえない世界の選手までよく知っています。私は昨年末の日本選手権をさいたまスーパーアリーナで観戦できたので、出場選手表をもらって、30位くらいまでの選手の名を知りましたが、世界ランキング30位は誰?と聞かれてもわかりません。世界フィギュア男子の30位あたりというと、なかなかテレビで演技を放送してくれないからです。

 私はこれまでテレビでも見たことがなかったのですが、今回のソチオリンピックでがぜん注目したのが、ミーシャ・ジー(Misha Ge、ウズベキスタン)です。合計203.26点で17位と、検討しました。派手な衣装とボイス入りの音楽(これまでの試合ではマイナス1点となっていたけれど、今回のソチでは歌詞ボイスではないと判断され、マイナスはなし)を使った自身の振り付けによる個性的な演技がとても目立ちました。

 中国韓国の血も混ざっているロシア生まれですが、現在はウズベキスタン選手として登録されています。ソチでは黒髪を紫がかった赤に染めて登場。「オリンピックは競技なのだから、派手なことがやりたければ、アイスショウでやったらいい」という批判もあるそうですが、私は、ジーの個性、いいなあと思います。真面目に技術を磨く個性があってもいいし、ジーのように「減点されてもかまわないから、ボイス入りの曲が気に入ったのだから、それを使う」という個性も好き。

 私は、演技全体の雰囲気や美しさを楽しむ、芸術点本位に見るだけなので、ジーの派手な演技、おもしろいと思いましたが、スケートを競技として見る娘と息子は、技術点などをチェックし、「あ~あ、ここがアンダーローテーション取られなくて、クリアに着氷できていれば3点UPして、メダルに届いていたのに」なんぞと評しながら見ています。私にはサルコーやルッツなどの種類の別も定かではないけれど、回転に入る構えの姿勢だけで、どの種類を飛ぼうとしているのか、わかる娘と息子に技術面のことを教わりながら応援しています。

 今回一番残念な人は、「のぶなりっていたフェルナンデス」だって。フェルナンデスは、演技構成を変えて4回転を回避したのに、同じ3回転サルコーを2度飛んでしまったために、最後の回転は0点になりました。そのため、3位のデニス・テンには1.18点及ばず4位。
 同じジャンプを跳んでしまうミスは、かって織田信成がよくやったので、我が家ではこのミスのことを「のぶなる」と呼んでいるのです。

 悔いの残る人、力を出し切って自己ベストを更新し大喜びしている選手、それぞれの思いはあるでしょうが、それぞれが自分の色の花を咲かせてほしい。女子フィギュアも応援します。徹夜で。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「スタジオジブリ社屋」

2014-02-15 01:15:00 | エッセイ、コラム
2014/02/15
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(19)番外・スタジオジブリ社屋

 明治大正昭和前期に個人の住宅として建てられたおやしきのある町を徘徊し、写真を撮ってきました。
 時代別に並べたり、地域別に並べたりしたほうがわかりやすいと思いましたが、アトランダムに紹介してきたので、少々ごちゃごちゃしたおやしきシリーズになってしまいました。ごちゃごちゃついでに、個人住宅でもない会社の建物を紹介して、都内のおやしき紹介をひとまずおひらきにいたします。

 一番最近に訪問した建物、スタジオ・ジブリ。
1992年夏、小金井市梶野町にジブリの新社屋が完成しました。



 2月12日の夕方、まだ駅前に雪のなごりが残っている東小金井駅前からぶらぶらと歩いて5~10分くらい。スタジオジブリの社屋を見にいきました。



 すてきな外観でした。正式な書類上では専門の設計者が図面をひいたのでしょうけれど、「このような外観、このような間取り、内装」という実際の設計を手がけたのは、スタジオ所長の宮崎駿ご本人だということです。

第二スタジオ   

 夕方、もう社内の人もあらかたは退社したところだったのか、夜に備え晩御飯を食べに行っているときだったのか、私が中を覗いた時には、社内の製図台のようなデスクに張り付いている人は見当たりませんでした。
 NHKのドキュメンタリーで、夜まで仕事をしている人たちに宮崎駿がラーメン作っているようすなどが撮影されていました。もしかして、みんなしてラーメン食べていたのかしら。

 ジブリ社屋は、なかなかすてきな建物でした。近くにジブリ社員のためのかわいらしい外観の保育園があると聞いていたのですが、保育園まで行き着かないうちに、東小金井駅に戻りました。講師仲間の今期打ち上げ食事会の時間が迫っていたので。

 まだ、「風立ちぬ」も「かぐや姫」も見ていませんけれど、これからもジブリのアニメ、よい作品が生まれてくることを期待しています。



<おわり>
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ぽかぽか春庭「飛鳥山の渋沢栄一邸」

2014-02-13 04:00:01 | エッセイ、コラム
2014/02/13
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(18)飛鳥山の渋沢栄一邸

 岩崎家など明治時代に財閥としてのし上がった家や、華族皇族の残した大邸宅にいささか斜めに構えた見方をしてきたひねくれ者の春庭。明治の財界人のなかで、なぜか渋沢栄一(1840-1931)にだけはあまり反感を持たず、素直にその事跡を受け止める気になります。
 明治財界人のなかで、栄一は「自家の繁栄」だけに執着せず、社会活動に力を注いだということもあります。著書『論語と算盤』のなかで「道徳経済合一説」を述べ、晩年は福祉や教育に力を注ぎました。

 栄一の後を継いだ孫の敬三(1896-1963)も社会文化への貢献を果たし、特に民俗学民族学への寄与は大きいものでした。民俗文化研究を続けた宮本常一(みやもとつねいち1907-1981)らは、敬三のもとで在野の研究者として民俗調査を続けました。研究拠点であった日本常民文化研究所は、神奈川大学移管後は、網野善彦らに受け継がれています。

 一方、栄一の長男篤二は、公家華族橋本伯爵家出身の妻と結婚したものの、一子敬三をもうけたのちは、放蕩三昧。ついには廃嫡され、芸者玉蝶を囲う気ままな暮らしを選びました。廃嫡されたといっても、篤二が玉蝶と遊蕩生活を続けた家は、のちに実業家松岡清次郎が買い取り、現在の松岡美術館になっている土地ですから、庶民のせがれが放蕩して勘当されたというのとはケタが違いますが。

渋沢家の本邸は、深川から三田に移築されましたが、篤二廃嫡後は敬三が引き継ぎ、洋館を増築しました。現在は青森県三沢市に移築されているので、見学に行きたいと思っています。
 栄一は、1901年(明治34)に飛鳥山に渋沢家別邸「曖依村荘(あいいそんそう)」を建て、亡くなる1931年(昭和6)まで住みました。

 曖依村荘は東京大空襲で焼け落ち、現在は跡地に渋沢史料館が建てられています。
 飛鳥山別邸内の建物のうち、「晩香廬」と「青淵文庫」は戦災をかろうじてかいくぐり、一般公開されています。

晩香廬は、栄一喜寿の祝いに贈られた洋風茶室で、清水組技師長田辺淳吉の設計。


 晩香廬の室内。2012年に訪問したとき、下の写真を写しました。この時は「建物の外からフラッシュを使わずに撮影するのは許可」といわれたのですが、2013年には、外から内部を写すのも不可」と変わっていました。



「青淵文庫」は栄一の傘寿祝いに、弟子たち「竜門会」に集う人々から贈られた書庫(1階は閲覧室)
 栄一が収集した論語はじめ漢籍が書庫に収められています。



 渋沢栄一は、賓客を晩香廬でもてなしました。渋沢史料館の保存フィルムには、タゴールらが訪れたときの記録が残されており、史料館1階のホールで上映されています。
 
 2013年11月に青淵文庫でミュージアムコンサートが開催された際は、氏名住所を書いて申し込みをした人々の集まりであったためか、室内撮影が許可されました。









 こんなお部屋で一日読書をしていたら、がさつな私も少しは落ち着いた気分になれるんじゃないでしょうか。

青淵文庫1階閲覧室

 建物めぐり、2月後半から3月くらいに「横浜と鎌倉の洋館」シリーズと「コンドル、レツル、ヴォーリズ、ライト、レーモンド、ル・コルビジェ」シリーズを予定しています。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「和敬塾本館」

2014-02-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(17)和敬塾本館(旧細川護立邸)

 東京近辺「おやしきめぐり」のつづきです。以前に紹介した洋館和館、写真を掲載したお屋敷もあるけれど、2012年以前のカフェ日記へには写真をUPしていなかったので、改めて写真を載せたいと思って、古いファイルを引っ張り出しています。

 今回は、2011年の東京文化財公開のおりに、ウェブ友yokoちゃんといっしょに訪問した和敬塾本館の写真をUPします。
 このときの訪問記は、以下ををご参照ください。
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_8890.html
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_1e5c.html

 旧細川邸であった和敬塾本館


 和敬塾は、東京文京区に建つ男子学生寮です。地方の由緒正しき良家の子弟を預かり、東京大学早稲田大学などに進学した坊ちゃまたちを卒業まで寄宿させます。
 村上春樹(芦屋の坊ちゃまだった)のように、自ら「合わない」と感じて出て行く学生もいますが、おおむね共同生活のなかで生涯の友を得たり、年に一度の大運動会に熱を入れたり、楽しい学生生活を送るようです。

 文京区の元細川侯爵邸跡地の7000坪に東西南北と乾(いぬい北西)巽(たつみ南東)の6寮が建ち、600名の男子が学生生活を送っています。
 6畳か7畳の部屋に2食つき光熱費込み1ヶ月10万の寮費は、東京の物価では良心的な寮費ですが、我が家が応募しても決して息子を預かってはもらえないでしょう。我が家の息子くん、良家の子弟ではないんで。(ひがみ全開)



 春庭が数年前に和敬塾のなかを部外者としてうろうろしたときも、寮生たちは寮の決まりをきちんと守って、「こんにちは」と気持ちのいい挨拶をしてくれました。みな、育ちのよさそうな賢そうな坊ちゃまたちでした。

 本館は、1936 (昭和11)年に竣工した細川家第16代当主細川護立侯爵(1883-1970)の邸宅。現在は、寮生の教養講座や結婚式が行われています。
  設計は、大森茂・臼井弥枝(ひろし)。地上3階・地下1階、建坪は約300坪。

食堂

階段室1階から

階段室2階




 芸術家のパトロンとして画家や作家との付き合いが深かった細川護立侯爵。その孫が、細川護煕です。芸術好きな遺伝があったとみえて、政界引退後は陶芸三昧なんぞの趣味に生きていました。なのに元ライオン宰相に背中押されて木に登ろうとして、あえなく落下。

 う~ん、意気込みはよかったと思うけれど、なにせ殿が首相をやめたときの原因が、年末にやめた知事と同じく「金をもらったのもらわなかったの」ということだったから、それについてはっきりした経緯を示さないままでは、なんだかすっきりしなかった。また、わけわからないお金もらって「やめる」となっても、困るし。
 話がそれました。どうも、品性のない育ちだもんで。

 おやしきは品格たかい、立派な邸宅です。

玄関ホール

 居間(暖炉の上には「和敬」の額が。どなたか、立派な御仁の書でしたが、誰のだったか忘れました)(*ご一緒していただいたyokochannからのご指摘がありました。満州国ラストエンペラー溥儀の書だそうです2014/02/13)


 一番気に入ったのは、3階の天井木組み。トラス構造が美しい。


 そう、美しいものは万人がタダで楽しめるようにしていただかないと。
 ちなみに和敬塾本館見学料は、お茶つきで千円でした。日頃は結婚式などに利用されている大食堂でのおちゃ、、、招待客の気分でいただきました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「建物の写真撮影」

2014-02-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/02/11
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(16)番外、建物の写真撮影について

 くちかずこさんからのコメント「写真、どなたかに撮影してもらったのですか?」というお尋ねがあったので、お答えします。「春庭が建物写真をUPする場合、基本、春庭撮影の素人写真」です。
 しかし、建物によっては、内部写真の撮影が禁止のものも多く、どうしても内部の写真を紹介したいときは、ネットから写真をお借りした写真を「借り物」としてUPしています。

 春庭自身を撮した写真は、石や切り株などの上にカメラを置いてセルフタイマーで撮影したか、周囲の人に「すみません、シャッター押してください」と頼んだ写真。旧前田邸の室内で撮影したのは、新人ボランティアガイドさんが移してくれました。旧山本邸の前の写真は、たしかセルフタイマーだったように思います。自分が写っていない建物の写真は、春庭撮影です。古いほうのデジカメで撮したときは、日付の入れ方をしりませんでした。今のカメラは、息子に日付が出るように設定してもらったので、撮影日がわかります。自分のメモとして写真を撮っているので、日付が入ったほうが記録としてはいいと思っています。

 ここでちょいと、公益財団法人の建物管理について、文句を言っておきたいです。
 建築写真は、専門家のすばらしい写真集も出版されています。適切な照明と見やすいアングルで上手に撮れている写真。美しい建物のようすがわかります。

 でも、私は私自身がこの目で見た記録として素人なりに建物の写真を撮りたい。
 しかし、自治体が直接管理している施設は「撮影自由」のところがあるのにたいして、財団法人管理だと、「撮影者の心無い行為によって建物が痛んだりしたら大変。財産である建物の価値を減じてはならじ」と、思うのか、やたらに「内部の写真撮影禁止」という措置をしているところが多いです

 絵画や彫刻ならば、作者の死後50年で著作権が消滅します。西洋美術館、近代美術館、東京国立博物館では、それらの作品の撮影について「フラッシュ禁止、三脚禁止」などの条件をつけながらも許可し、撮影してはならない作品の前には「撮影禁止」のマークを出しています。私は、この措置は「人類公共の文化」のありかたとして、妥当なものと思います。
 ルーブル美術館は、モナリザでもミロのビーナスでも、撮影自由ですし、申し込みをして許可されれば、模写も自由です。人類財産の公開は、こうあるべきです。

 公益財団法人の管理下にある美術館博物館は「申し込みをして身分証明しえた者」には、模写も撮影も許可すべきだと考えます。
 前にも書きましたが、私は、文化財として公開している家や、国や自治体から文化財認定を受けて家の補修改築に補助金を受けている建物は、少なくても外観の撮影は許可すべきだし、内部公開している建物については、フラシュや三脚の禁止と、人物の撮影禁止を盛り込めば、撮影していいのではないかと考えています。
 ですから「館内撮影禁止」と書かれている場所でも、顔認識ができるような人物が入り込んでいない場合、「確信的」に、室内などを勝手に撮影してきました。

 前後左右、まったく車の影も見えない道路でも、きちんと「赤信号は止まれ」という交通規則を守る人がいます。「決められた規則には従う」ことを実践している人たち。私は、自分自身の考えでそうしているなら、その信念は尊重すべきだと考えます。

 しかし、「いま渡って危ないか危なくないか」ということを自分で判断するのが面倒だから、いつも信号通りにしている、というだけならば、1930~40年代の「大日本小市民」がそうであったように、「ごく普通に暮らしていたのに、あらまあ、いつのまにか戦争になっていたなあ」ということにもなるやもしれません。自分で考えること、自分のことは自分で決めること。という基本がこのごろ崩れてきて、「上意下達」だったり「自己決定の放棄」に見える出来事が続いています。

 私は、「法律は弱者を守るために存在する」という考え方の持ち主です。憲法は、国民にたいして圧倒的な権力を持つ国家権力が暴走しないよう、国民を苦しめないように、規制をかけるための最高の法規です。他の法律も、常に弱い立場の者の見方をするために存在するのだと思っています。

 弱者にとっての悪法は、法律ではない、ということを「障害者自立支援法」の成立のときに思い知らされました。「自立支援」を標榜しながら成立したこの法律によって、真に自立できた障害者を、私はまだ知りません。単に障害者援助金を減らしたい、という予算のためだけの法だったように思います。

 現在は高齢者への予算がどんどん減らされていく時代になりました。高齢者の医療補助は健康保険介護保険、2倍になるそうですね。

 話が広がってしまいました。もとにもどすと、私は、「人類文化は皆で享受し、皆で守るもの」という信念のもと、保存運動や維持活動にもエールを送り、作品を保護しつつ写真を撮りたいと思っています。

 先日訪問した鎌倉近代文学館(旧前田侯爵家鎌倉別邸)も、館内撮影禁止でした。バチバチ自由に写真を撮っている女性がいたので、お尋ねすると「私は新聞記者ですから」と胸を張っておっしゃる。報道機関には撮影を許可が出るのを知って、係りの人に「身分証明書などで姓名明らかにして申し込みをすれば、撮影許可が出るでしょうか」と質問したら「いいえ、一般の方の撮影はご遠慮願っています」という説明でした。

 「一般人は”報道を行う記者”に比べると下等生物なんだわあ」と、思いましたが、「ご遠慮願う」ということなら、遠慮しなけりゃいいんじゃん、と思って、人がいない時、室内を撮影しました。なぜならば、「この建物のお部屋を撮影した絵葉書があれば買いたいのですが」という申し込みに対し、「ありません」というそっけないお返事だったので、絵葉書もない、ということなら、写真撮っちゃダメって言われても、遠慮しないことにしたのです

 管理している財団法人が「写真を撮るな」と規定するのは、管理の都合上必要なのだろうと察します。しかし、禁止を承知で、「ここなら誰にも迷惑をかけることもなく、建物を傷めることもない」と確信して写真をとるのは、私の自主的な判断によります。
 自分で、考えて自分で行動するので、何らかの責めを負うのも自分です。責任はとります。

 ときには、「決まりを守ることは金科玉条、絶対のものである」と考える人がいて、「おい、ここは撮影禁止だぞ!」と、大犯罪者を見つけたという勢いで注意してくださる御仁がおられます。外国で軍事施設の写真を撮っていると逮捕されることがありますが、それとは事情がことなりましょう。
 決まりを破るものを告発する人、きっとこういう人は、ナチ時代、隠れ家にひっそり暮らしているユダヤ人を告発したり、スターリン時代に「ここに反スターリン的な言動をしている者がいるぞ」と密告した人と同じ体質なんだろうなあ、と思います。
 こういう人には、吉野弘(1926-2014)の『祝婚歌』を朗読してあげることにしましょう。

 「互いに非難することがあっても、非難できる資格が自分にあったかどうか あとで疑わしくなるほうがいい
  正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
  正いことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気づいているほうがいい 」
という詩を読んであげることにすればよいだけ。むろん、自分でも繰り返し読んで自戒しなければなりませんけれど。私、どうして「もひかえめにするほうがいい」というところがうまくできないんでね。いつも大音声。

 先日見た再放送の「知られざるロシアアヴァンギャルド」にとても勇気づけられました。スターリン時代に弾圧され粛清されていったロシアアヴァンギャルドの画家たち。多くの芸術家も市民もスターリンの権力を恐れていたなか、弾圧をかいくぐってロシアアヴァンギャルド画家の作品を収集し続けたひとりの男、イゴール・サヴィツキー。

 サヴィツキーは、抑圧されたロシア・アヴァンギャルドの作品を収集し、中央アジアのカラカルパクスタン共和国の首都ヌクスに美術館を建てて保存しました。
 多くの画家が「反スターリン的である」として銃殺刑に処せられたり、シベリア強制収容所送りになったとき、危険を冒しても作品を保護し続けたサヴィツキー。スターリン側から見たら、「スターリンの意向に違反する行為」だったわけです。
 また、別の例をあげれば、杉原千畝は外務省からの訓令に違反して、ユダヤ人たちにビザを発行しました。

 こういう崇高な例とはいっしょにすることもできないですけれど、「撮影はご遠慮願います」なんて言われたって、私はめげない、ってことです。
 まあ、早い話が、私が撮影したい時に「ここは撮影禁止ですよ」なんて言われることに腹が立つ、というだけのことでして。

 最後にひとこと、私の信念では、本日は決して「建国の日」ではなく、「神話と伝説の日」です。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「山本有三記念館」

2014-02-09 00:00:01 | エッセイ、コラム

2014/02/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(15)山本記念館(旧山本有三邸)

 私邸の保存、所有者が自治体や博物館に建物を寄贈することで保存が決まることが多いですが、元の土地にそのまま保存し記念館博物館文学館などとして利用する方法、別の公園やテーマパークに移築復元する方法があると述べました。

 記念館として保存されているひとつが、三鷹の土地にそのまま保存され、所有者山本有三の記念館として公益財団法人が管理している山本有三記念館。



 この洋館、当初は清田龍之助邸でした。清田龍之助(せいたりゅうのすけ1880-1943)は、立教大学を卒業したあと、米国オハイオー州ケニオン大学とエール大学に留学。帰国後は東京高等商業学校(現・一橋大学)教授として、英作文・英文購読・商業英語の指導にあたりました。一度退職し、キッコーマン醤油の濱口商事で総支配人して働き、実業家として成功しました。しかし、濱口商事の事業がうまくいかなくなったのち、再び東京高等商業学校で教職についたとのことです。
 清田は、1926(大正15)年にこの家を竣工、1931(昭和6)年まで住みましたが、清田が事業から引退する際、競売にかけられました。

 記念館の建物説明でも、設計者施工者不明とあります。屋根裏ロフト利用の地上2階建て、地下1階。一部は木造で、他の部分はRC(鉄筋コンクリート)の混構造。



 山本有三(1887-1974)は、『路傍の石』『女の一生』『米百俵』などの作品で知られ、参議院議員も努めて文化勲章を受けた、功成り名遂げた文学者です。
 山本有三は、1936(昭和11)年に土地建物込で購入。それまで住んでいた吉祥寺から隣町の三鷹に引っ越しました。当時の三鷹は、1930年に中央線三鷹駅が開業して、田畑や林が広がる田園地帯から東京のベッドタウンへと変貌を遂げている最中。駅の南口から徒歩10分ほどの山本有三邸の周辺にも家が立ち並ぶようになりました。

 山本が1936(昭和11)年から1946(昭和21)年まで家族とともに暮らした洋館は、戦災にあわなかったために、戦後は米軍によって接収されましたが、返還後山本一家はこの洋館には戻りませんでした。
 一説によると。米軍将校が他の接収住宅でも行われたように、ペンキを家中に塗りたくったことに辟易し、もとの状態に戻すには修復費用だけで新築の一軒家が買えるくらいかかるらしいと聞いて、居住をあきらめた、ということですが、まあ、そういうこともあったかもしれないと思うものの、山本の日記とか家族の証言記録で確認したわけではありません。



 1956(昭和31)年山本有三は家を東京都に寄贈。東京都の施設(教育研究所分館、都立有三青少年文庫など)として利用されできました。

 現在の管理者は、公益財団法人です。自治体所有の建物が財団法人管理になると、とたんに内部撮影禁止措置となります。写真をめぐっていろいろ面倒なことになるよりは、一律撮影禁止にしてしまったほうが、管理が簡単だ、ということだろうと思います。


おうちの前に座っている家なき子HAL

 三鷹の山本有三記念館も、内部撮影禁止でした。内部写真を見たいかたは、下記HPへ。
http://mitaka.jpn.org/yuzo/about.php 記念館公式HP

建築関係者とかなら、許可されて写真撮影ができるみたいです。
http://yuwakai.org/dokokai3/idesanzuihitu2007/idesan20080105/YamamotoYuuzou.htm
 (山本有三記念館の建物紹介) 
http://isidora.sakura.ne.jp/aries/ken270.html

<つづく>
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ぽかぽか春庭「旧福本貞喜邸 in 江戸東京博物館」

2014-02-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/02/08
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(14)旧福本邸、江戸東京博物館

 東京に保存された個人住宅の紹介、つづきです。
 ひとつは、博物館の建物の中にすっぽりと収まって復元された旧福本邸。
 もとの所有者は、福本貞喜。福本は、山下新日本汽船の役員だった人です。(1917年の山下合名会社設立のときは、副支配人、のち専務)

 東京五反田に建っていた旧福本邸は、江戸東京博物館の東京ゾーン「モダン都市東京」の展示の一つとして博物館の館内に一部復元され、解体をまぬがれその姿をとどめました。
 復元された木造の近代住宅、外見はハーフティンバー(半木骨造り)風ですが、それほど目を引く外観でもなく、「モダン東京」の代表的住宅だと解説を読んでも「ああ、こういうのが、モダンだったのね」と、思うくらい。多くの見学者はさっと、家のなかを覗いて、写真を一枚パチリ、それでおしまし。

 武蔵小金井公園にある分園の江戸東京たてもの園は、たてものがメインの展示ですから、建築好きの見学者も多いですが、江戸東京博物館は、歴史好きの人と「東京観光のついで」の人が多いので、建物には特に興味を示さない人もいます。

 一般の個人住宅とはいっても、福本貞喜は、山下新日本汽船の専務でしたから、東京の中でもお金持ちの家、と言えるでしょう。でも、外観はほんとにそんな「お屋敷風」でもなく、「一部のみ復元」のせいもあるけれど、こじんまりした印象を受けました。



 旧福本邸は、建築家大熊喜英(おおくまよしひで1905-1984)のデビュー作(1937)です。大熊は、大熊喜邦の息子。父の喜邦1877-1925)は、国会議事堂建設の統括者でしたから、良英も父と同じ建築家の道を歩んだものとみえます。喜英は、今和次郎の弟子として、全国各地の民家を研究し、モダン都市東京にふさわしい住宅を数多く手がけました。

 よく「デビュー作は、一生の作品の原点」と言われますが、福本邸も大熊らしさがよく表現されているのだそうです。むろん、これは受け売りで、私は大熊の他の作品を見ていないので、「大熊らしさ」は、この福本邸を見て想像するしかありません。
 解体されて消滅してしまうよりはずっとよかったと思うものの、博物館の空間の中に押し込められた邸宅は、もともと個人住宅だったとはいっても、外観はなんだか縮こまっているようで、私には「大熊らしさ」のいいところがどこなのか、外観からはあまりわかりませんでした。

 当時のモダンな家の多くがそうであったように、和洋折衷で、和室と洋間が並んでいます。

和室

 洋間の内部は、モダン!と思えるすてきな空間を作っています。昭和後期にはこんなふうな「名曲喫茶」みたいな店があったなあ、みんなこういう空間に憧れていた時期だったのだなあと思います。
 山小屋風のロフト付きの居間です。



 家の所有者福本貞喜が山下汽船専務であったと知ると、なにがなし、ご縁があったのかも、という気がします。私は、1972年ごろ、半年間だけ山下新日本汽船の「英文タイピスト」として働いたことがあるからです。

 毎日「Dear Captain」で始まる英文レターをタイプし、船長あてに「シンガポールでの荷あげは、延期になった」とか、「香港で○○を積込め」などの指示書を書いていました。書くといっても、新米の仕事は、雛形に従って、もとのレターの数字や荷物の名を書き換えるぐらい。でも、このころにタッチタイピングを身につけたおかげで、いまワープロ打つのが、人の会話のスピードでできる。

 そのころ、会社は皇居お濠端のパレスサイドビルの最上階にあり、皇居の景色を毎日見てすごしました。私がいま、近代美術館の4階休憩室で休むのが好きなのは、このお濠端のビルからの眺めを思い出すっていう理由もあります。

 英文タイピストとして働いていたころ、専務なんて雲の上の人であり、むろん顔も知らない人でした。と、いっても、私が働いていた頃は、福本専務は何らかの事業不審の責任をとって、とっくの昔に辞任していたらしいですが。
 福本貞喜さん、こんなモダンな居間で家族とすごしたなんて、きっと「モダン紳士」として暮らしていたんでしょうね。1937年の新築から福本一家が50年をすごした家、今は博物館のなかで人々に見つめられて、「モダン都市トーキョー」の姿を示しています。

 1952年、我が家の父は、借金をしてようやく「ささやかなマイホーム」を建てました。畳の和室、縁側、納戸という家。娘3人は「こういう和風の家じゃなくて、暖炉のある洋間の居間で暮らしたかった」なんて文句ブーブーたれながらこたつに集まっていました。
 あこがれのロフトも暖炉もない家で、暖房といえばこたつと石油ストーブだけ、という居間でしたが、両親、三姉妹、犬のコロと猫のクリ、寄り集まってあったかく過ごせた子供時代を思い出すにつれ、今は亡い父母姉の顔が思い浮かびます。

 福本さんのご家族も、ときには博物館に顔を出して、過ぎ去った日々を思い返すことがあるのでしょうね。

<つづく>
コメント (2)
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