2008/04/28
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(1)愛と悲しみの果て
『アウト・オブ・アフリカ』は、デンマークの女流作家、ディネーセンの自伝的小説です。タイトルの日本語訳は『アフリカの日々』
シドニー・ポラック監督で映画化され、カレン・ディネーセンをメリル・ストリープが、恋人デニスをロバート・レッドフォードが演じました。
邦題は『愛と哀しみの果て』
1985年公開。1986年のアカデミー賞、作品、監督賞ほか7部門で受賞した、評価の高い映画でした。
この映画、ロードショウを姉とふたりで見にいったとき、冒頭シーンから、とめどなく涙が流れました。姉にかくれて涙をふきふき映画を見ました。
数年前に私がすごしたアフリカの大地がなつかしくて、泣けたのです。
サバンナの大地に広がるコーヒー畑も、ンゴング高原にふきわたるアフリカの風も、ライオンの咆哮さえ、私にとっては、青春の「アフリカの日々」でした。
ナイロビに着いた初日に迷子になって、ある男に町を案内してもらったという出会いについては、毎年、留学生たちに話します。
「 My first African day, I lost my way、、、、」と始まる「ケニアで夫に出会った話」は、毎年、大うけです。
なぜ、この話を授業の最初にふるのかというと、私の英語がクィーンズイングリッシュでもなくワスプイングリッシュでもなく、完全に壊れている「broken completely」であるという言い訳をするため。
ナイロビの上層家庭はクィーンズイングリッシュを話しますが、下町の英語はスワヒリ語とチャンポンのブロークンです。私は下町や田舎の人々とつきあってきたので、英語スワヒリ語チャンポンのブロークンイングリッシュが身につきました。
下手な英語を上達させる努力を放棄し、そのかわり、「私の英語は、ナイロビ下町方言のブロークンイングリッシュです」と言いわけしておくのです。発音まちがえても、文法まちがえても、「This is Nirobi downtown English」。
楽なほうをとる主義。
「以上のようなわけで、すみません、私の英語は完全にブロークンです。This is the story of my African day. So, sorry, my English is broken completeley.
さて、私の家族を紹介します。私はケニアで、親切な日本人男性と知り合って結婚しました。ケニアではとても親切でしたが、日本の悪しき伝統により、彼は結婚後は少しも親切じゃありませんでした」
ここで学生はニヤニヤ。「私の国でもそうだ」とか言う人も。
「私の家族は、娘がひとり、息子がひとり。義理の母ひとり。彼女は、私の法律上の夫の母親です。
そして、義理の夫がひとり。彼は仕事と結婚しました。仕事依存症です。私は、日本の典型的なワーカホリック未亡人ですが、陽気な未亡人、なぜなら、今、すてきな学生たちといっしょだから。ようこそ、私の教室へ。よろしくね。スワヒリ語でごあいさつ。お目にかかれてうれしいです。
And then, I introduce you, my family . I have a dauter, a san, a stepmather in low. She is a mother of my step husband in low And, I have a stephusband in low, he marry his work.he is a typical workaholic. I am a widow of Japanese workaholic man. But I'm a merrywidow. Because, I have nace students now. Welcome my class. Nice to meet you. In Swahili langwage , Ninafurahituona 」
ワーカホリック未亡人とか、義理の夫の部分、笑ってほしい所なんだけれど、最近は、本気で「気の毒に」という顔をする留学生もいるので困ってしまうけれど。
今年は、フィリピンの大学で教師をしているベルさんが大笑いしてくれて、よかったよかったウケた!
毎年の「英語が下手ないいわけ」として、私は毎回、サバンナの日々について語り、毎回夫との出会いを反芻する。私の「法律上の夫」は、思い出すこともないかもしれない「アフリカの日々」を。
私と夫の出会いキャッチコピー「ケニアで迷子になって愛を拾った。今では愛が迷子になってる」
アフリカナイロビの町での出会いと、その後の悲惨な結婚生活について、愚痴のタネはさまざまなバリエーションで書いてきましたが、アフリカ話、まだまだあります。私の「愛と哀しみの果て」の物語。
今回はナマンガでのホームステイの話。
<つづく>
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2008年04月29日
jぽかぽか春庭「ナマンガ郊外の夕日」
2008/04/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(2)ナマンガ郊外の夕日
30年も前のこと。
1979年~1980年、アフリカのケニアに滞在していました。
1964年にケニアがイギリスから独立して15年。 1978年に大統領が初代のケニヤッタから二代目のモイに代わり、いよいよ草創期から発展期へ入るのだ、という意欲に輝く若い国家でした。
政府やODA関係者のほかは、日本人観光客もあまりおらず、知り合ったバックパッカーたちは、お互いに情報交換をしながらケニア滞在を充実させていました。
日本人バックパッカーたちは、ケニアの首都ナイロビを拠点とし、仲間たち何人かで相談がまとまると、地方へ出かけていきました。
ナイロビの町ではそれぞれ勝手気ままに町歩きをしているバックパッカーたちも、地方へのひとり旅は無謀。
地方に電話のある家など少なくて、緊急の場合の連絡もとれません。交通手段もない地方では、ひとりではたちうちできない出来事もおこるからです。
旅仲間のひとり、タカ氏。ケニアにいたころはJust friendで、のちのち結婚するとは思っていませんでした。
旅仲間でいたころは、いい人だったんですけれど、、、、、。
1979年9月。ケニアとタンザニア国境の町、ナマンガに半月ほど滞在しました。このときは、バックパッカー仲間のクニコさん、タカさんと。
ナマンガの小学校や保育園を見学させてもらったり、キリマンジャロ山をながめたり、野生動物公園(ゲームパーク)で、キリンやシマウマを追いかけて走ったり。
9月14日のこと。バスに乗って、ナマンガの近くの農村へタカ氏とふたりで出かけました。
ヤギ農家の前で、ヤギの群をぼんやり眺めながら、ゆったりすぎる時間を楽しみ、タカさんととりとめもなく話し続けました。
放牧から帰ってきた山羊の母親が、留守番していた子ヤギを捜し当てて乳を飲ませるようすが面白いのです。
何十頭ものヤギの母子。それぞれの身体の模様がそっくりで、父親の遺伝子はまるで関係ないがごとく、黒ヤギの子の母は黒く、ブチの子の母はぶち。
母ヤギを見て、ほら、あそこにいるのが子供でしょうね、と、推測すると、母ヤギのメェ~という声を聞き当てて、子ヤギはとことことおっぱい目がけていきます。
ヤギをみながら話し込んでいたら、時間を忘れ、ナマンガへ向かうバスの時間に間に合わなくなってしまいました。
バス以外に交通手段はなく、ナマンガ町のゲストハウス(安宿)に戻るにもどれなくなってしまったのです。
ヒッチハイクしようにも車も通らないし、野宿しかないか、と、困り果てていたら、近づいてきたオッサンがいました。
私のたどたどしいスワヒリ語でも、なんとか話が通じました。トラックがむこうのほうに止めてあるのだそうです。
オッサンは、家に泊めてくれると、いいます。
私一人だったら、初めて出会ったオッサンについていくことはできなかったでしょうが、ふたりだったので、ちょっとは心配しながらもついて行きました。
タカ氏、見た目だけは「コワモテ」です。黙って立っているとジャパニーズ・マフィアかと思われて、スリもひったくりも寄ってこないので、バックパッキング旅行の連れには最適。
うさんくさい怪しげな見た目なので、ナマンガの町に到着したばかりの日、「日本赤軍」の手配書のひとりに似ているといわれて、ナマンガ警察に一晩拘留されたほどです。
このときは、警察署からナイロビの日本大使館までパスポート番号の照合をしてもらって、「逃亡中の日本赤軍の一味」という疑いは晴れました。
この無骨な男といっしょだったら、そう野蛮な事件には巻き込まれずにすむのではないか、という根拠のない安心感から、オッサンのトラックに乗せてもらいました。
<つづく>
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2008年04月30日
ぽかぽか春庭「ニャマ・ヤ・ンブジ、ルオ族の家でオームステイ」
2008/04/30
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(3)ニャマ・ヤ・ンブジ
トラックが着きました。
トゲのあるソーントゥリーの枝で家のまわりを囲って、野生動物よけにしています。
質素なつくりの家でしたが、庭も床もほうきできれいに掃き清められ、清潔です。
泊めてもらったのは、ルオ族の一家でした。
ルオ族の一家、おっさんの名前はルカス。
家には子どもたちがワイワイと大騒ぎしていたので、安心しました。
笑顔のかわいい子どもたちがいる家なら、いっしょに泊まっても大丈夫だよね、と、ジャパニーズ・マフィアもどきの連れと話しました。
一家みな、日本人を見たのは初めてでした。オヤジさんが、なにやら色白の人を連れてきたので、あれは一体白人なのかと小さい子供たちがいぶかる。
中学生のお姉さんが、「たぶんチャイニーズだよ」と、学校で教わった知識を自慢げに披露している。
でも、自分だってチャイニーズなど見るのは初めてのことで、珍しいから、小さい子たちのように、じろじろ見たい。でも、じろじろ見るのは失礼だということは、習っているお姉さんなので、ちょっと、はにかみながらのじろじろになる。
せっかくの推察だけれど、チャイニーズではなくて、ジャパニーズなんだよ、私たち。
子供たちからの質問。「ジャパニってのは、チャイナのどのあたりの町なの?ナイロビから車で行くと、どのくらいでジャパニにつく?」
「自動車のトヨタって知ってる?]
「うん、トヨタ、ニッサン」
「そうそう、トヨタとニッサンの会社はジャパニにあるんだよ。そうねぇ、車で行ったら、たぶん、一ヶ月か二ヶ月か、う~ん、わからないなあ」
ルカス夫妻は、「夫婦ふたりだけで、こんな田舎まで来るなんて、珍しい人たちだ」と、歓迎してくれました。
この時はジャストフレンドで、旅仲間にすぎなかったタカ氏と私ですが、説明はめんどうなので、夫婦ということにしておきました。
タカ氏が、ジャストフレンドからステディに昇格したのは、これから2年後のことでしたが、今となっては、結婚前、ふたりでいっしょの時間をすごした貴重な思い出になりました。
結婚後は、ほとんど家に帰らない夫になったので、朝から晩までいっしょにいた時間なんて、ケニアでの思い出くらいしかない。
ルカスさんは、私たちを歓迎するために、山羊を一頭つぶして、「ニャマ ヤ ンブジ(山羊肉)」の煮込みを作ってくれました。たいへんなごちそうです。
ルカスさんは、手広くタバコの葉を栽培していて、現金収入があるため、このあたりの農民の一家には珍しいことに、娘さんををセカンダリースクール(=ハイスクール中学高校)に通わせていました。
セカンダリースクールの授業はすべて英語なので、娘さんとは英語も通じました。
ケニアでは、スワヒリ語と英語が公用語になっていますが、各家庭では、キクユ語マサイ語ルオ語ソマリ語など、自分たちの部族のことばを話します。
だから、たいていの人は「家庭の中のことば」と、「町の中でつかうことば=スワヒリ語」の両方が話せるバイリンガルです。
スワヒリ語は町のなかの公用語ですが、中学高校では英語での教育が主で、中学校以上の教育を受けた人は、英語も話せます。マルチリンガルです。
<つづく>
2008/05/01
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(4)タバコ畑のツーショット
ルカスの家に泊まった翌日、私たちは、ルカスのタバコ畑の見学に連れて行ってもらいました。
「畑はすぐ近くにある」というので、いっしょに歩いてついていったら、1時間以上歩きました。徒歩1時間以内なら、「すぐ近く」。3時間くらい歩くのは「まあまあ近所」です。
日帰りで歩いて帰れないときが「少し遠い」というのが、彼らの徒歩感覚。
タバコ畑の中で、ルカスは写真を撮れとすすめてきました。
ルカス自慢のタバコ畑を撮ってほしかったのです。タカ氏は、タバコ畑を背景にルカスの写真を撮影しました。
ケニアにいたころ、タカ氏について感心したことは、現地の人を撮影したときは、必ず現像したプリントを届けていたことです。ナイロビ市内なら自分で届け、遠いときは郵送していました。
気軽に現地の人を撮影する観光客は多いけれど、写した人に必ず写真をプレゼントする人はそう多くはない。この律儀さは、他のバックパッカーにはない態度でした。
タカさんに言わせると「こうすれば、いろんな人とつながりができて、次に行ったとき、歓迎してもらえるでしょ」
まだ、ケニアのふつうの暮らしの人にとって、カメラが高嶺の花だった30年前の話。
次に行くと言っても、バスが通っているナマンガならまた来ることもできるけれど、サハラ砂漠外縁にあたるケニアトゥルカナ砂漠地帯のそのまた奥地なんて、次にいつ行けるかわからない。それでもタカさんは、郵便局留めで写真を郵送していました。(家まで郵便を届ける制度ではなかったので、郵便は局留め)
カメラに興味しんしんのルカスは「記念に夫婦いっしょのを撮ってやるから」と、私と連れをはたけの前に並べました。
シャッターをきるにも、「どこを押すのか」と、大騒ぎしながら、何回かシャッターをおしました。あとで現像してみると、頭が切れていたり、足だけ写っていたり。でも、一枚だけちょっと手ぶれでピンボケながら、ツーショット写真もありました。
ちょっとピンボケの、このタバコ畑の一枚のほか、あとは、日本でもどこでも「ふたりで」写した写真がありません。
グループで写したり、結婚後、子供たちと一緒の写真はありますが、「写す方は好きだけれど、写されるのは苦手」というタカ氏、自分が写っている写真はもともと数少ないのに、私といっしょなんて、この写真だけ。
結婚式以外で、唯一ツーショットでふたりが映っている貴重な写真となりました。ルカスのおっちゃんありがとう。
ルオ族一家でのホームステイ。
タカ氏が私に日本語で何か言う。私が、ルカスの娘さんに、スワヒリ語、英語のチャンポンでそれを伝える。娘さんはお父さんにルオ語で尋ねる。答えを、私にスワヒリ語英語を交ぜながら伝える。私がタカさんに日本語で「さっきの質問の答えは、、、」と、回答する。
ずいぶんと手間のかかる会話でしたが、だれも急がず、ゆったりと時間がながれ、とてもよい一日をすごせました。
あの日から30年近くがすぎました。アウト・オブ・アフリカ。
アフリカの日々は遠くなったけれど、ルカスのたばこ畑のツーショット写真一枚だけをながめていても、私には「アフリカの日々よ、ありがとう」という気持ちで毎日を過ごせるのです。
タカ氏と私のテーマソング、「アフリカンシンフォニー」。
結婚式のとき、バックミュージックとして流し、タカ氏がアフリカのスライドを上映しながら解説しました。
「え~、これは、ぼくと、奥さんがふたりででかけたナマンガで撮った一枚です」
アフリカンシンフォニーAfrican Symphony by バンマッコイVan McCoy
http://jp.youtube.com/watch?v=UZleC2GVNLs
<つづく>
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2008年05月02日
ぽかぽか春庭「アウト・オブ・アフリカ」
2008/05/02
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(5)アウト・オブ・アフリカ
ルカスの家の、笑顔がかわいかったハイスクール生徒の娘さんも、今では40代でしょう。
ナマンガあたりで、きちんとセカンダリー(ハイスクール)を卒業した女性の人材は数少ないと思うので、社会の中堅になっているのではないかと想像しています。
ケニアのどの部族も、親切で優秀な人たちです。
マサイ族のなかにも、ソマリ族の中にも優秀な人はいますが、ルカス家と同じルオ族の子孫をひとり紹介しましょう。
ケニアは 1964年に独立しました。
独立の数年前、奨学金を得てアメリカに留学した、優秀なルオ族の若者がいました。
彼はアメリカ人女性と結婚し、息子をもうけました。
生地主義のアメリカでは、アメリカで生まれた子供はアメリカ国籍を持つアメリカ人です。
のちに、彼は離婚してケニアに帰国しましたが、アメリカ人である息子は、妻がひきとりました。
この息子、優秀な成績で大学を卒業し、議員になりました。今や民主党大統領候補選挙で忙しい。
今、日本でもっとも有名なアメリカ人のひとり、バラック・オバマです。
ケニアの初代大統領ケニヤッタの出身部族は、キクユ族。
最大派閥キクユ族に対して、ルオ族は対抗部族です。
1978年の選挙で選ばれた第二代目のモイ大統領はカレンジン族出身で、キクユ族など他部族との融和策をとっていたので、1979年当時、キクユもルオも仲が良かった。
現在、ケニアでは、キクユ族出身のキバキ大統領派と、反対派閥の部族が争っています。
最大の抗争があったエルドレッド。
私は何度もエルドレッドに泊まりに行きました。従妹が青年協力隊員としてエルドレッドのハイスクール理科教師をしており、教員宿舎に泊まりに行っていたのです。
当時のエルドレッドは、静かなよい町でした。
ノーベル平和賞を受けたワンガリ・マータイさんは、初のナイロビ大学女性教授。
マータイさん自身は有力部族のキクユ族出身ですが、彼女は、部族対立を憂い、抗争終結を望んで活動しています。
どうぞ、部族対立を越えて、人々が仲良く暮らす国であるように。野生動物が生き生きと走り回る国であるように。
ケニアで出会った人々。私がホームステイをした家族たち。
ルオ族のルカス一家も、ギカンブラマーケットのキクユ族カヒンディ夫妻、ムゼーとニャンブラママ、ナイロビのワイナイナさん一家、ソマリ族のルルさん一家も、人々が平和に暮らしていけることを祈っています。
みながあのころのように、希望に燃えた笑顔で暮らせる国であるように。
私と夫は、年がら年中「部族対立」ですが、、、、、
<5/04 へ つづく>
2008/05/04
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(6)ニャマニャマ・ガーニ、ケニアのことば遊び
1979年9月、ケニア・タンザニアとの国境の町ナマンガにでかけたときの話、もう少し続けます。
友人と、ゲストハウス(現地の人向けの安宿)に半月ほど滞在していたた間、ナマンガの小学校や幼稚園を見学させてもらいました。
ゲストハウスオーナーの娘さんが、幼稚園の先生をしているというので、幼稚園に見学に出かけたときのこと。
子どもたちへのプレゼントに、キャンディやサッカーボールを買っておみやげにしました。サッカーボールは大歓迎のおみやげでした。
ケニア・ナマンガの幼稚園。
先生が園児に「チョレ 描いてて」と命じると、園児たちは、手に手に小さな枝を持ってしゃがみ、地面になにやら絵を描いている。先生たちは、それを見ながら若者同士のおしゃべりに専念。先生たち、気楽な稼業に見えます。
しばらくして、園児たちがお絵かきに飽きた頃合いをみはからって、先生は子どもを呼び集めました。
ことば遊びがはじまりました。
東アフリカ、ケニアの幼稚園でのコトバ遊びを紹介しましょう。
子どもたちが「ニャマニャマ ガーニ」と歌う。
nyamaニャマはスワヒリ語で「肉」のこと。ganiは、「どんな?どのくらい?」という疑問詞。「ベイ ガニ?」は、「How muchいくら?」の意味になる。
子どもたちは「肉、にく、どんな肉?」と、先生に歌いかけているのです。
先生は「ニャマ、ニャマ、ニャマ ヤ クク(肉、肉、鶏の肉)」と歌う。子どもたちはジャンプして「Natakakula ナタカクラ(食べたい)」と言う。
「ニャマ、ニャマ、ガーニ」と子どもたち。
「ニャマ、ニャマ、ニャマ ヤ ンブジ(肉、肉、山羊の肉」と、先生が答える。
「ナタカクラ」と、またジャンプ。
「ニャマ、ニャマ、ガーニ」
「ニャマ、ニャマ、ヤ、ンゴンベ(肉、肉、牛肉」
ジャンプして「ナタカクラ」
「ニャマ、ニャマ、ガーニ」
「ニャマ、ニャマ、ヤ、フィシ(肉、肉、ハイエナの肉)」
「ナタカクラ」と言ってジャンプしてしまった子は、「わ~い、ハイエナの肉なんか食べないよ」と、他の子にからかわれ、皆いっしょに大笑い。
<つづく>
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2008年05月05日
ぽかぽか春庭「ナタカクラ食べたい!」
2008/05/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(7)ナタカクラ食べたい!
2008年の現在、ウガリ(とうもろこし粉のパンケーキ)も食べられない人々が増えているというニュースがつたえられています。
5月4日の新聞一面には、エルドレッドなどで、食料が不足しているというニュースがでていました。
石油値上げ→主な輸送手段がトラックなので、アメリカ製を中心とする肥料値上げ→穀物価格高騰、という連鎖で、人々の食料事情が悪くなり、一家の食べ物が、学校給食を食べずに持ち帰るこどもの昼食分だけ、という家庭も出てきたというニュース。
「ウガリ」は、私もよく食べたトウモロコシ粉の蒸しパン風食べ物。日本の米のご飯にあたる主食です。ごはんがないと、おかずだけだと何だか食べた気がしない人がいるように、カランガ(トマトシチュー・煮込み)にウガリをつけて食べるのが一般的なケニアの食事で、ウガリが高すぎて食べられないようだと、みな、畑仕事にも力が出ないことでしょう。
ケニアをはじめ、アフリカの子供たちが、おなかいっぱい食べて、笑顔ですごせることを、祈っています。
30年前のケニア、ナマンガの町の幼稚園では、子供たちがおいしい肉の煮込みを思い浮かべながら、ニャマニャマ(肉、肉)と、うたってコトバ遊びをしながら、楽しそうに幼稚園ですごしていました。
Natakakuraナタカクラ=食べたい!と叫ぶ子供たちの顔は、お母さんが作ってくれる鶏肉やヤギ肉シチューを思い浮かべているように、「おいしい顔」になるのでした。
肉のシチューはごちそうで、ふだんの日のカランガ(トマト煮込み)には、スクマウィキという葉野菜が入っているだけのことも多い。
それでも、家族一緒におなかいっぱいスクマウィキカランガとウガリを食べるのが、子供たちの幸せでした。
あの日の笑顔が、すべてのこどもたちに恵まれますように。
今日、日本ではこどもの日。親子連れでおいしいごはんを食べた家庭も多かったでしょうね。
エルドレッドのこどもたちも、ナマンガの子供たちも、ナイロビのスラム街キベラ地区の子供たちも、みんなが笑顔でナタカクラ!とお母さんにねだっておいしいウガリ・ナ・カランガを食べているといいな。
1979年、ナマンガの幼稚園で。
私たちがプレゼントしたサッカーボールのお礼に、子どもたちがケニアの歌を歌ってくれました。
小さな子どもでも、歌声には自然にハーモニーがつきます。二重唱三重唱がごくあたりまえにできる。
<つづく>
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2008年05月06日
ぽかぽか春庭「うさぎおいし in ケニア」
2008/05/06
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(8)うさぎおいし in ケニア
幼稚園の子供たちの歌へのお返しに、私たちも「日本の伝統的な歌」を披露することになりました。
日本の伝統的な歌、と言っても、どんな歌がいいのか。
こどもたちにも内容がよく理解できて、私たちにも歌いやすい歌っていうと、、、
一曲は、民謡を歌うことにしました。
「日本の伝統的な漁師のうたです。ンデゲ(鳥)に、サマキ(魚)が来ているか、と聞く、という歌です」
「♪やーれん、ソーランソーランソーランソーラン、にしんきたかとかもめに問えば♪~」と、歌いました。
はじめて「日本人」を見た子どもたち、どんな歌を歌おうと「日本の歌」と思ってくれたことでしょうが、二曲目はの友人クニコさんと「ふるさと」の二重唱をしました。私は小学校中学校の合唱部でアルト担当だったので、二重唱が好きです。
「ふるさとを忘れることはない、という歌です。ふるさとの山にスングラ(兎)います。川に小さなサマキ(魚)がいます。お父さんお母さん、友だちがいます。ナマンガの人たちがナイロビへ働きに行っても、みんなナマンガの家のことは忘れないよね、私たち日本人も、生まれ故郷を忘れません」と、曲の内容を紹介。
♪うさぎ追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今も巡りて 忘れがたきふるさと♪
♪いかにいます父母つつがなきや友がき 雨に風につけても思いいずるふるさと♪
下手な歌でしたが、子どもたちにとって「国境の小さな町の幼稚園に、日本人がきて歌をうたった」というのは、最初で最後のことだったのではないかと思います。
このとき「えーと、うさぎおいし、っていうのは、スングラ ンズーリだよね。うさぎは美味しいって、みんな歌うけれど、ボクは日本で兎食べたことなんかないけどな」と、言った男がいました。
ギャグで言っているのだと思って聞いていたけれど、本気で「うさぎは美味しい」という歌だと思っていた男、タカ氏が、今やわたしの「法律上の夫」です。
日本に帰ってきてからの「バックパッカー仲間の写真交換会パーティ」で、私が作る料理を「おいしいおいしい」と言って、もりもり食べてくれる男だったタカ氏。
「料理下手な私の手料理を誉めてくれる優しい人」と、誤解してしまったがゆえの大誤算。
ケニアから日本に帰国して、2年後に結婚したのですが、結婚後、「僕には、まずい料理なんて存在しない。どんな食べ物もおいしく食べられるんだ。世の中には、おいしい、とてもおいしい、ものすごくおいしいの、3種類の食べ物がある。まずい料理なんか、ぼくにはないんだ」と、言っていました。
味音痴の男。うさぎを食べても、何をたべても、「おいしい」しかない男でした。
コピ・ルアックを飲んでも、マックの150円コーヒーでもたいした違いはない、という味覚の持ち主であることが判明した女房とは、どっこいどっこいのカップルだったのだけれどね。
以下のような投稿をいただきました。いじっていただき、うれしく存じます。こういうのをお笑いの世界では「いじられキャラで、おいしいポジション」と言います。
投稿者:nekomajiro
ぴょんぴょん飛び跳ねながら子供達、
「ニャマ、ニャマ、ガーニ!」
先生、にやりと笑い、
「ニャマ、ニャマ、ヤ、……」と、
春庭先生を指さした。
すると子供達、
手の親指を立てると逆さまにして、
「ブゥー!ブゥ-!ブゥ-!」といっせいに、
「ぶーいんぐ」。
2008-05-04 18:23
ご想像のとおりと言いたいところですが、30年前の私は、決して今のような「ぶぅーぶぅー」な私ではありませんで、ケニアで出会った人、皆が、「なんてあなたは美味そうなんだ、ナタカクラ!」と、叫び出すのでした。
福祉精神に富むわたくしは、食べたがる人々に、惜しげもなく、この美味なるニャマ・ヤ・ハルをふるまい、、、、
って、妄想にのってみました。
福祉精神に富む私のボランティア活動を受けて試食した人、ひとりだけで、今のありさまになっているってわけです、、、涙
試食のときは「ぼくにまずいものはない」と言っていたタカ氏、結婚後は、さっぱりと喰いつきませんです、はい。
「割れ鍋に綴じ蓋アウト・オブ・アフリカ・バージョン」、これにて一席おわります。
<おわり>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(1)愛と悲しみの果て
『アウト・オブ・アフリカ』は、デンマークの女流作家、ディネーセンの自伝的小説です。タイトルの日本語訳は『アフリカの日々』
シドニー・ポラック監督で映画化され、カレン・ディネーセンをメリル・ストリープが、恋人デニスをロバート・レッドフォードが演じました。
邦題は『愛と哀しみの果て』
1985年公開。1986年のアカデミー賞、作品、監督賞ほか7部門で受賞した、評価の高い映画でした。
この映画、ロードショウを姉とふたりで見にいったとき、冒頭シーンから、とめどなく涙が流れました。姉にかくれて涙をふきふき映画を見ました。
数年前に私がすごしたアフリカの大地がなつかしくて、泣けたのです。
サバンナの大地に広がるコーヒー畑も、ンゴング高原にふきわたるアフリカの風も、ライオンの咆哮さえ、私にとっては、青春の「アフリカの日々」でした。
ナイロビに着いた初日に迷子になって、ある男に町を案内してもらったという出会いについては、毎年、留学生たちに話します。
「 My first African day, I lost my way、、、、」と始まる「ケニアで夫に出会った話」は、毎年、大うけです。
なぜ、この話を授業の最初にふるのかというと、私の英語がクィーンズイングリッシュでもなくワスプイングリッシュでもなく、完全に壊れている「broken completely」であるという言い訳をするため。
ナイロビの上層家庭はクィーンズイングリッシュを話しますが、下町の英語はスワヒリ語とチャンポンのブロークンです。私は下町や田舎の人々とつきあってきたので、英語スワヒリ語チャンポンのブロークンイングリッシュが身につきました。
下手な英語を上達させる努力を放棄し、そのかわり、「私の英語は、ナイロビ下町方言のブロークンイングリッシュです」と言いわけしておくのです。発音まちがえても、文法まちがえても、「This is Nirobi downtown English」。
楽なほうをとる主義。
「以上のようなわけで、すみません、私の英語は完全にブロークンです。This is the story of my African day. So, sorry, my English is broken completeley.
さて、私の家族を紹介します。私はケニアで、親切な日本人男性と知り合って結婚しました。ケニアではとても親切でしたが、日本の悪しき伝統により、彼は結婚後は少しも親切じゃありませんでした」
ここで学生はニヤニヤ。「私の国でもそうだ」とか言う人も。
「私の家族は、娘がひとり、息子がひとり。義理の母ひとり。彼女は、私の法律上の夫の母親です。
そして、義理の夫がひとり。彼は仕事と結婚しました。仕事依存症です。私は、日本の典型的なワーカホリック未亡人ですが、陽気な未亡人、なぜなら、今、すてきな学生たちといっしょだから。ようこそ、私の教室へ。よろしくね。スワヒリ語でごあいさつ。お目にかかれてうれしいです。
And then, I introduce you, my family . I have a dauter, a san, a stepmather in low. She is a mother of my step husband in low And, I have a stephusband in low, he marry his work.he is a typical workaholic. I am a widow of Japanese workaholic man. But I'm a merrywidow. Because, I have nace students now. Welcome my class. Nice to meet you. In Swahili langwage , Ninafurahituona 」
ワーカホリック未亡人とか、義理の夫の部分、笑ってほしい所なんだけれど、最近は、本気で「気の毒に」という顔をする留学生もいるので困ってしまうけれど。
今年は、フィリピンの大学で教師をしているベルさんが大笑いしてくれて、よかったよかったウケた!
毎年の「英語が下手ないいわけ」として、私は毎回、サバンナの日々について語り、毎回夫との出会いを反芻する。私の「法律上の夫」は、思い出すこともないかもしれない「アフリカの日々」を。
私と夫の出会いキャッチコピー「ケニアで迷子になって愛を拾った。今では愛が迷子になってる」
アフリカナイロビの町での出会いと、その後の悲惨な結婚生活について、愚痴のタネはさまざまなバリエーションで書いてきましたが、アフリカ話、まだまだあります。私の「愛と哀しみの果て」の物語。
今回はナマンガでのホームステイの話。
<つづく>
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2008年04月29日
jぽかぽか春庭「ナマンガ郊外の夕日」
2008/04/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(2)ナマンガ郊外の夕日
30年も前のこと。
1979年~1980年、アフリカのケニアに滞在していました。
1964年にケニアがイギリスから独立して15年。 1978年に大統領が初代のケニヤッタから二代目のモイに代わり、いよいよ草創期から発展期へ入るのだ、という意欲に輝く若い国家でした。
政府やODA関係者のほかは、日本人観光客もあまりおらず、知り合ったバックパッカーたちは、お互いに情報交換をしながらケニア滞在を充実させていました。
日本人バックパッカーたちは、ケニアの首都ナイロビを拠点とし、仲間たち何人かで相談がまとまると、地方へ出かけていきました。
ナイロビの町ではそれぞれ勝手気ままに町歩きをしているバックパッカーたちも、地方へのひとり旅は無謀。
地方に電話のある家など少なくて、緊急の場合の連絡もとれません。交通手段もない地方では、ひとりではたちうちできない出来事もおこるからです。
旅仲間のひとり、タカ氏。ケニアにいたころはJust friendで、のちのち結婚するとは思っていませんでした。
旅仲間でいたころは、いい人だったんですけれど、、、、、。
1979年9月。ケニアとタンザニア国境の町、ナマンガに半月ほど滞在しました。このときは、バックパッカー仲間のクニコさん、タカさんと。
ナマンガの小学校や保育園を見学させてもらったり、キリマンジャロ山をながめたり、野生動物公園(ゲームパーク)で、キリンやシマウマを追いかけて走ったり。
9月14日のこと。バスに乗って、ナマンガの近くの農村へタカ氏とふたりで出かけました。
ヤギ農家の前で、ヤギの群をぼんやり眺めながら、ゆったりすぎる時間を楽しみ、タカさんととりとめもなく話し続けました。
放牧から帰ってきた山羊の母親が、留守番していた子ヤギを捜し当てて乳を飲ませるようすが面白いのです。
何十頭ものヤギの母子。それぞれの身体の模様がそっくりで、父親の遺伝子はまるで関係ないがごとく、黒ヤギの子の母は黒く、ブチの子の母はぶち。
母ヤギを見て、ほら、あそこにいるのが子供でしょうね、と、推測すると、母ヤギのメェ~という声を聞き当てて、子ヤギはとことことおっぱい目がけていきます。
ヤギをみながら話し込んでいたら、時間を忘れ、ナマンガへ向かうバスの時間に間に合わなくなってしまいました。
バス以外に交通手段はなく、ナマンガ町のゲストハウス(安宿)に戻るにもどれなくなってしまったのです。
ヒッチハイクしようにも車も通らないし、野宿しかないか、と、困り果てていたら、近づいてきたオッサンがいました。
私のたどたどしいスワヒリ語でも、なんとか話が通じました。トラックがむこうのほうに止めてあるのだそうです。
オッサンは、家に泊めてくれると、いいます。
私一人だったら、初めて出会ったオッサンについていくことはできなかったでしょうが、ふたりだったので、ちょっとは心配しながらもついて行きました。
タカ氏、見た目だけは「コワモテ」です。黙って立っているとジャパニーズ・マフィアかと思われて、スリもひったくりも寄ってこないので、バックパッキング旅行の連れには最適。
うさんくさい怪しげな見た目なので、ナマンガの町に到着したばかりの日、「日本赤軍」の手配書のひとりに似ているといわれて、ナマンガ警察に一晩拘留されたほどです。
このときは、警察署からナイロビの日本大使館までパスポート番号の照合をしてもらって、「逃亡中の日本赤軍の一味」という疑いは晴れました。
この無骨な男といっしょだったら、そう野蛮な事件には巻き込まれずにすむのではないか、という根拠のない安心感から、オッサンのトラックに乗せてもらいました。
<つづく>
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2008年04月30日
ぽかぽか春庭「ニャマ・ヤ・ンブジ、ルオ族の家でオームステイ」
2008/04/30
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(3)ニャマ・ヤ・ンブジ
トラックが着きました。
トゲのあるソーントゥリーの枝で家のまわりを囲って、野生動物よけにしています。
質素なつくりの家でしたが、庭も床もほうきできれいに掃き清められ、清潔です。
泊めてもらったのは、ルオ族の一家でした。
ルオ族の一家、おっさんの名前はルカス。
家には子どもたちがワイワイと大騒ぎしていたので、安心しました。
笑顔のかわいい子どもたちがいる家なら、いっしょに泊まっても大丈夫だよね、と、ジャパニーズ・マフィアもどきの連れと話しました。
一家みな、日本人を見たのは初めてでした。オヤジさんが、なにやら色白の人を連れてきたので、あれは一体白人なのかと小さい子供たちがいぶかる。
中学生のお姉さんが、「たぶんチャイニーズだよ」と、学校で教わった知識を自慢げに披露している。
でも、自分だってチャイニーズなど見るのは初めてのことで、珍しいから、小さい子たちのように、じろじろ見たい。でも、じろじろ見るのは失礼だということは、習っているお姉さんなので、ちょっと、はにかみながらのじろじろになる。
せっかくの推察だけれど、チャイニーズではなくて、ジャパニーズなんだよ、私たち。
子供たちからの質問。「ジャパニってのは、チャイナのどのあたりの町なの?ナイロビから車で行くと、どのくらいでジャパニにつく?」
「自動車のトヨタって知ってる?]
「うん、トヨタ、ニッサン」
「そうそう、トヨタとニッサンの会社はジャパニにあるんだよ。そうねぇ、車で行ったら、たぶん、一ヶ月か二ヶ月か、う~ん、わからないなあ」
ルカス夫妻は、「夫婦ふたりだけで、こんな田舎まで来るなんて、珍しい人たちだ」と、歓迎してくれました。
この時はジャストフレンドで、旅仲間にすぎなかったタカ氏と私ですが、説明はめんどうなので、夫婦ということにしておきました。
タカ氏が、ジャストフレンドからステディに昇格したのは、これから2年後のことでしたが、今となっては、結婚前、ふたりでいっしょの時間をすごした貴重な思い出になりました。
結婚後は、ほとんど家に帰らない夫になったので、朝から晩までいっしょにいた時間なんて、ケニアでの思い出くらいしかない。
ルカスさんは、私たちを歓迎するために、山羊を一頭つぶして、「ニャマ ヤ ンブジ(山羊肉)」の煮込みを作ってくれました。たいへんなごちそうです。
ルカスさんは、手広くタバコの葉を栽培していて、現金収入があるため、このあたりの農民の一家には珍しいことに、娘さんををセカンダリースクール(=ハイスクール中学高校)に通わせていました。
セカンダリースクールの授業はすべて英語なので、娘さんとは英語も通じました。
ケニアでは、スワヒリ語と英語が公用語になっていますが、各家庭では、キクユ語マサイ語ルオ語ソマリ語など、自分たちの部族のことばを話します。
だから、たいていの人は「家庭の中のことば」と、「町の中でつかうことば=スワヒリ語」の両方が話せるバイリンガルです。
スワヒリ語は町のなかの公用語ですが、中学高校では英語での教育が主で、中学校以上の教育を受けた人は、英語も話せます。マルチリンガルです。
<つづく>
2008/05/01
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(4)タバコ畑のツーショット
ルカスの家に泊まった翌日、私たちは、ルカスのタバコ畑の見学に連れて行ってもらいました。
「畑はすぐ近くにある」というので、いっしょに歩いてついていったら、1時間以上歩きました。徒歩1時間以内なら、「すぐ近く」。3時間くらい歩くのは「まあまあ近所」です。
日帰りで歩いて帰れないときが「少し遠い」というのが、彼らの徒歩感覚。
タバコ畑の中で、ルカスは写真を撮れとすすめてきました。
ルカス自慢のタバコ畑を撮ってほしかったのです。タカ氏は、タバコ畑を背景にルカスの写真を撮影しました。
ケニアにいたころ、タカ氏について感心したことは、現地の人を撮影したときは、必ず現像したプリントを届けていたことです。ナイロビ市内なら自分で届け、遠いときは郵送していました。
気軽に現地の人を撮影する観光客は多いけれど、写した人に必ず写真をプレゼントする人はそう多くはない。この律儀さは、他のバックパッカーにはない態度でした。
タカさんに言わせると「こうすれば、いろんな人とつながりができて、次に行ったとき、歓迎してもらえるでしょ」
まだ、ケニアのふつうの暮らしの人にとって、カメラが高嶺の花だった30年前の話。
次に行くと言っても、バスが通っているナマンガならまた来ることもできるけれど、サハラ砂漠外縁にあたるケニアトゥルカナ砂漠地帯のそのまた奥地なんて、次にいつ行けるかわからない。それでもタカさんは、郵便局留めで写真を郵送していました。(家まで郵便を届ける制度ではなかったので、郵便は局留め)
カメラに興味しんしんのルカスは「記念に夫婦いっしょのを撮ってやるから」と、私と連れをはたけの前に並べました。
シャッターをきるにも、「どこを押すのか」と、大騒ぎしながら、何回かシャッターをおしました。あとで現像してみると、頭が切れていたり、足だけ写っていたり。でも、一枚だけちょっと手ぶれでピンボケながら、ツーショット写真もありました。
ちょっとピンボケの、このタバコ畑の一枚のほか、あとは、日本でもどこでも「ふたりで」写した写真がありません。
グループで写したり、結婚後、子供たちと一緒の写真はありますが、「写す方は好きだけれど、写されるのは苦手」というタカ氏、自分が写っている写真はもともと数少ないのに、私といっしょなんて、この写真だけ。
結婚式以外で、唯一ツーショットでふたりが映っている貴重な写真となりました。ルカスのおっちゃんありがとう。
ルオ族一家でのホームステイ。
タカ氏が私に日本語で何か言う。私が、ルカスの娘さんに、スワヒリ語、英語のチャンポンでそれを伝える。娘さんはお父さんにルオ語で尋ねる。答えを、私にスワヒリ語英語を交ぜながら伝える。私がタカさんに日本語で「さっきの質問の答えは、、、」と、回答する。
ずいぶんと手間のかかる会話でしたが、だれも急がず、ゆったりと時間がながれ、とてもよい一日をすごせました。
あの日から30年近くがすぎました。アウト・オブ・アフリカ。
アフリカの日々は遠くなったけれど、ルカスのたばこ畑のツーショット写真一枚だけをながめていても、私には「アフリカの日々よ、ありがとう」という気持ちで毎日を過ごせるのです。
タカ氏と私のテーマソング、「アフリカンシンフォニー」。
結婚式のとき、バックミュージックとして流し、タカ氏がアフリカのスライドを上映しながら解説しました。
「え~、これは、ぼくと、奥さんがふたりででかけたナマンガで撮った一枚です」
アフリカンシンフォニーAfrican Symphony by バンマッコイVan McCoy
http://jp.youtube.com/watch?v=UZleC2GVNLs
<つづく>
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2008年05月02日
ぽかぽか春庭「アウト・オブ・アフリカ」
2008/05/02
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(5)アウト・オブ・アフリカ
ルカスの家の、笑顔がかわいかったハイスクール生徒の娘さんも、今では40代でしょう。
ナマンガあたりで、きちんとセカンダリー(ハイスクール)を卒業した女性の人材は数少ないと思うので、社会の中堅になっているのではないかと想像しています。
ケニアのどの部族も、親切で優秀な人たちです。
マサイ族のなかにも、ソマリ族の中にも優秀な人はいますが、ルカス家と同じルオ族の子孫をひとり紹介しましょう。
ケニアは 1964年に独立しました。
独立の数年前、奨学金を得てアメリカに留学した、優秀なルオ族の若者がいました。
彼はアメリカ人女性と結婚し、息子をもうけました。
生地主義のアメリカでは、アメリカで生まれた子供はアメリカ国籍を持つアメリカ人です。
のちに、彼は離婚してケニアに帰国しましたが、アメリカ人である息子は、妻がひきとりました。
この息子、優秀な成績で大学を卒業し、議員になりました。今や民主党大統領候補選挙で忙しい。
今、日本でもっとも有名なアメリカ人のひとり、バラック・オバマです。
ケニアの初代大統領ケニヤッタの出身部族は、キクユ族。
最大派閥キクユ族に対して、ルオ族は対抗部族です。
1978年の選挙で選ばれた第二代目のモイ大統領はカレンジン族出身で、キクユ族など他部族との融和策をとっていたので、1979年当時、キクユもルオも仲が良かった。
現在、ケニアでは、キクユ族出身のキバキ大統領派と、反対派閥の部族が争っています。
最大の抗争があったエルドレッド。
私は何度もエルドレッドに泊まりに行きました。従妹が青年協力隊員としてエルドレッドのハイスクール理科教師をしており、教員宿舎に泊まりに行っていたのです。
当時のエルドレッドは、静かなよい町でした。
ノーベル平和賞を受けたワンガリ・マータイさんは、初のナイロビ大学女性教授。
マータイさん自身は有力部族のキクユ族出身ですが、彼女は、部族対立を憂い、抗争終結を望んで活動しています。
どうぞ、部族対立を越えて、人々が仲良く暮らす国であるように。野生動物が生き生きと走り回る国であるように。
ケニアで出会った人々。私がホームステイをした家族たち。
ルオ族のルカス一家も、ギカンブラマーケットのキクユ族カヒンディ夫妻、ムゼーとニャンブラママ、ナイロビのワイナイナさん一家、ソマリ族のルルさん一家も、人々が平和に暮らしていけることを祈っています。
みながあのころのように、希望に燃えた笑顔で暮らせる国であるように。
私と夫は、年がら年中「部族対立」ですが、、、、、
<5/04 へ つづく>
2008/05/04
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(6)ニャマニャマ・ガーニ、ケニアのことば遊び
1979年9月、ケニア・タンザニアとの国境の町ナマンガにでかけたときの話、もう少し続けます。
友人と、ゲストハウス(現地の人向けの安宿)に半月ほど滞在していたた間、ナマンガの小学校や幼稚園を見学させてもらいました。
ゲストハウスオーナーの娘さんが、幼稚園の先生をしているというので、幼稚園に見学に出かけたときのこと。
子どもたちへのプレゼントに、キャンディやサッカーボールを買っておみやげにしました。サッカーボールは大歓迎のおみやげでした。
ケニア・ナマンガの幼稚園。
先生が園児に「チョレ 描いてて」と命じると、園児たちは、手に手に小さな枝を持ってしゃがみ、地面になにやら絵を描いている。先生たちは、それを見ながら若者同士のおしゃべりに専念。先生たち、気楽な稼業に見えます。
しばらくして、園児たちがお絵かきに飽きた頃合いをみはからって、先生は子どもを呼び集めました。
ことば遊びがはじまりました。
東アフリカ、ケニアの幼稚園でのコトバ遊びを紹介しましょう。
子どもたちが「ニャマニャマ ガーニ」と歌う。
nyamaニャマはスワヒリ語で「肉」のこと。ganiは、「どんな?どのくらい?」という疑問詞。「ベイ ガニ?」は、「How muchいくら?」の意味になる。
子どもたちは「肉、にく、どんな肉?」と、先生に歌いかけているのです。
先生は「ニャマ、ニャマ、ニャマ ヤ クク(肉、肉、鶏の肉)」と歌う。子どもたちはジャンプして「Natakakula ナタカクラ(食べたい)」と言う。
「ニャマ、ニャマ、ガーニ」と子どもたち。
「ニャマ、ニャマ、ニャマ ヤ ンブジ(肉、肉、山羊の肉」と、先生が答える。
「ナタカクラ」と、またジャンプ。
「ニャマ、ニャマ、ガーニ」
「ニャマ、ニャマ、ヤ、ンゴンベ(肉、肉、牛肉」
ジャンプして「ナタカクラ」
「ニャマ、ニャマ、ガーニ」
「ニャマ、ニャマ、ヤ、フィシ(肉、肉、ハイエナの肉)」
「ナタカクラ」と言ってジャンプしてしまった子は、「わ~い、ハイエナの肉なんか食べないよ」と、他の子にからかわれ、皆いっしょに大笑い。
<つづく>
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2008年05月05日
ぽかぽか春庭「ナタカクラ食べたい!」
2008/05/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(7)ナタカクラ食べたい!
2008年の現在、ウガリ(とうもろこし粉のパンケーキ)も食べられない人々が増えているというニュースがつたえられています。
5月4日の新聞一面には、エルドレッドなどで、食料が不足しているというニュースがでていました。
石油値上げ→主な輸送手段がトラックなので、アメリカ製を中心とする肥料値上げ→穀物価格高騰、という連鎖で、人々の食料事情が悪くなり、一家の食べ物が、学校給食を食べずに持ち帰るこどもの昼食分だけ、という家庭も出てきたというニュース。
「ウガリ」は、私もよく食べたトウモロコシ粉の蒸しパン風食べ物。日本の米のご飯にあたる主食です。ごはんがないと、おかずだけだと何だか食べた気がしない人がいるように、カランガ(トマトシチュー・煮込み)にウガリをつけて食べるのが一般的なケニアの食事で、ウガリが高すぎて食べられないようだと、みな、畑仕事にも力が出ないことでしょう。
ケニアをはじめ、アフリカの子供たちが、おなかいっぱい食べて、笑顔ですごせることを、祈っています。
30年前のケニア、ナマンガの町の幼稚園では、子供たちがおいしい肉の煮込みを思い浮かべながら、ニャマニャマ(肉、肉)と、うたってコトバ遊びをしながら、楽しそうに幼稚園ですごしていました。
Natakakuraナタカクラ=食べたい!と叫ぶ子供たちの顔は、お母さんが作ってくれる鶏肉やヤギ肉シチューを思い浮かべているように、「おいしい顔」になるのでした。
肉のシチューはごちそうで、ふだんの日のカランガ(トマト煮込み)には、スクマウィキという葉野菜が入っているだけのことも多い。
それでも、家族一緒におなかいっぱいスクマウィキカランガとウガリを食べるのが、子供たちの幸せでした。
あの日の笑顔が、すべてのこどもたちに恵まれますように。
今日、日本ではこどもの日。親子連れでおいしいごはんを食べた家庭も多かったでしょうね。
エルドレッドのこどもたちも、ナマンガの子供たちも、ナイロビのスラム街キベラ地区の子供たちも、みんなが笑顔でナタカクラ!とお母さんにねだっておいしいウガリ・ナ・カランガを食べているといいな。
1979年、ナマンガの幼稚園で。
私たちがプレゼントしたサッカーボールのお礼に、子どもたちがケニアの歌を歌ってくれました。
小さな子どもでも、歌声には自然にハーモニーがつきます。二重唱三重唱がごくあたりまえにできる。
<つづく>
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2008年05月06日
ぽかぽか春庭「うさぎおいし in ケニア」
2008/05/06
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(8)うさぎおいし in ケニア
幼稚園の子供たちの歌へのお返しに、私たちも「日本の伝統的な歌」を披露することになりました。
日本の伝統的な歌、と言っても、どんな歌がいいのか。
こどもたちにも内容がよく理解できて、私たちにも歌いやすい歌っていうと、、、
一曲は、民謡を歌うことにしました。
「日本の伝統的な漁師のうたです。ンデゲ(鳥)に、サマキ(魚)が来ているか、と聞く、という歌です」
「♪やーれん、ソーランソーランソーランソーラン、にしんきたかとかもめに問えば♪~」と、歌いました。
はじめて「日本人」を見た子どもたち、どんな歌を歌おうと「日本の歌」と思ってくれたことでしょうが、二曲目はの友人クニコさんと「ふるさと」の二重唱をしました。私は小学校中学校の合唱部でアルト担当だったので、二重唱が好きです。
「ふるさとを忘れることはない、という歌です。ふるさとの山にスングラ(兎)います。川に小さなサマキ(魚)がいます。お父さんお母さん、友だちがいます。ナマンガの人たちがナイロビへ働きに行っても、みんなナマンガの家のことは忘れないよね、私たち日本人も、生まれ故郷を忘れません」と、曲の内容を紹介。
♪うさぎ追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今も巡りて 忘れがたきふるさと♪
♪いかにいます父母つつがなきや友がき 雨に風につけても思いいずるふるさと♪
下手な歌でしたが、子どもたちにとって「国境の小さな町の幼稚園に、日本人がきて歌をうたった」というのは、最初で最後のことだったのではないかと思います。
このとき「えーと、うさぎおいし、っていうのは、スングラ ンズーリだよね。うさぎは美味しいって、みんな歌うけれど、ボクは日本で兎食べたことなんかないけどな」と、言った男がいました。
ギャグで言っているのだと思って聞いていたけれど、本気で「うさぎは美味しい」という歌だと思っていた男、タカ氏が、今やわたしの「法律上の夫」です。
日本に帰ってきてからの「バックパッカー仲間の写真交換会パーティ」で、私が作る料理を「おいしいおいしい」と言って、もりもり食べてくれる男だったタカ氏。
「料理下手な私の手料理を誉めてくれる優しい人」と、誤解してしまったがゆえの大誤算。
ケニアから日本に帰国して、2年後に結婚したのですが、結婚後、「僕には、まずい料理なんて存在しない。どんな食べ物もおいしく食べられるんだ。世の中には、おいしい、とてもおいしい、ものすごくおいしいの、3種類の食べ物がある。まずい料理なんか、ぼくにはないんだ」と、言っていました。
味音痴の男。うさぎを食べても、何をたべても、「おいしい」しかない男でした。
コピ・ルアックを飲んでも、マックの150円コーヒーでもたいした違いはない、という味覚の持ち主であることが判明した女房とは、どっこいどっこいのカップルだったのだけれどね。
以下のような投稿をいただきました。いじっていただき、うれしく存じます。こういうのをお笑いの世界では「いじられキャラで、おいしいポジション」と言います。
投稿者:nekomajiro
ぴょんぴょん飛び跳ねながら子供達、
「ニャマ、ニャマ、ガーニ!」
先生、にやりと笑い、
「ニャマ、ニャマ、ヤ、……」と、
春庭先生を指さした。
すると子供達、
手の親指を立てると逆さまにして、
「ブゥー!ブゥ-!ブゥ-!」といっせいに、
「ぶーいんぐ」。
2008-05-04 18:23
ご想像のとおりと言いたいところですが、30年前の私は、決して今のような「ぶぅーぶぅー」な私ではありませんで、ケニアで出会った人、皆が、「なんてあなたは美味そうなんだ、ナタカクラ!」と、叫び出すのでした。
福祉精神に富むわたくしは、食べたがる人々に、惜しげもなく、この美味なるニャマ・ヤ・ハルをふるまい、、、、
って、妄想にのってみました。
福祉精神に富む私のボランティア活動を受けて試食した人、ひとりだけで、今のありさまになっているってわけです、、、涙
試食のときは「ぼくにまずいものはない」と言っていたタカ氏、結婚後は、さっぱりと喰いつきませんです、はい。
「割れ鍋に綴じ蓋アウト・オブ・アフリカ・バージョン」、これにて一席おわります。
<おわり>