20150929
ミンガラ春庭ミャンマー便り>2015ヤンゴン日記9月(9)トゥワンティ村の織物工房とダラのお寺孤児院訪問
トゥワンティ村で、ここはうまいと評判だという地元の食堂で食事。
一日チャーターの場合、運転手の分の昼飯代も払うのが慣例と聞いて、バイクタクシー運転手と6人分の食事代HALおごりで2万なにがしの支払いでした。6人でおなかいっぱい食べて2000円。こういうのは20000チャットでもいいと思えるが、蛇に1000チャットも払いたくない気がしてしまうのは、大乗仏教徒としてどうなんでしょう。ナーガという蛇(龍)が釈迦の守り獣のひとつなのはわかるのだけれど。
後ろに見えるオレンジ色Tシャツがバイクタクシー運転手のボス28歳。その隣がわたしの乗ったバイクの兄ちゃん20歳。
オン先生が「飲み物は?」と聞くので、当地の人たちが「西洋のみものがおもてなし」になると信じているサンキストオレンジやコカコーラなどはまっぴらなので、「ココナツジュースが飲みたい」と言う。店にはなかったので、運転手が買ってきてくれました。1000チャット×3個分渡す。
バイク運転手の中のひとり、23歳だという若者は、「家が貧乏だったので、学校へは10歳までしか通えなかった。ずっと下働きをしてきたが、今はバイクで稼げるので昔より生活がよくなった」と、語っていたそうです。
一日の稼ぎ、10000チャット千円の日もあるし、1000チャット100円のひも。
一番稼いだ日は、20000チャット2000円になったときもあった。
ちなみに、一般の労働者の稼ぎは、1ヶ月100000チャット1万円程度。割合上級のレストランのウェイター120000チャット12000円。レストランの支配人200000チャット2万円。(MICTパークの日本人経営レストランで聞いた)。
給料の額、私は出会う人ごとにたずねて確認してきました。「あんた、いくら稼いでいるの?」という質問、別段失礼な質問じゃないとわかったので。
英語または日本語ができるIT企業の社員30000チャット3万円~50000チャット5万円。(ヤンゴン発行日本語情報誌の求人広告)
人件費、これから高騰していくと思います。今のところ、アジアでも最低賃金です。能力のある人は、タイやシンガポールに出稼ぎに行ってしまう。
食事が終わって、織物工房へ行きました。せまい場所に4台の機織り機がある工房。織り子は3人で、1台は糸が張られてはいましたが、織り子は今日は休みなのか休憩中なのか、見当たりませんでした。
3人の若い女性たち。十代後半の年齢にみえます。
足踏みで縦糸を上下させ、横糸は左右にすべる杼(ひ・シャトル)通しに入っています。織り子は、杼の入れ物を糸で左右に引き、杼は縦糸の中を滑って織り上げます。日本のいざり機や高機よりも進歩した織機です。
こうして一日織り続け、織り子の工賃は一日2800チャット280円。これも考えさせられました。糸は、ちゃらちゃら光る化学繊維を使っているのです。こういうほうが地元の若い女性のロンジー用に受けるのかもしれないのですが、材料費が高くても絹糸に限定して輸出用にしたほうが、織り子の工賃も10倍にできるだろうに。
と、思いながらも、ロンジー用の布地1着分が3500チャット350円を、2枚買うから6000チャットにならないか、と値切った春庭。卸値段なので負けられない、というので、1枚しか買わなかった。ケチな貧乏教師。そのかわり、端切れで作った小袋をたくさん買いました。手織りの小袋、日本なら貴重なのになあと思いながら。
雨が降ってきました。私は、織物工房で雨宿りしていたかった。しかし、留学生もオン先生も、織物には興味がない。バイクタクシーのにいちゃんたちは、ちがうお寺を案内したいという。オン先生もお寺のほうがいいと思っているし、留学生はバイクタクシーのにいちゃんたちの味方をして、「先生、この雨は待っていてもやみませんよ」と、言う。
雨の中、留学生はバイクにいちゃんと仲良くなっているのでレインコートを貸してもらう。オン先生は傘をさす。私は、はじめ傘を差していましたが、傘をさしてバイクに乗っていると危険に思えて、傘をたたんでしまった。濡れる方が、バイク事故に遭うよりまし、と思って。
靴下も、ジーンズも、たっぷり濡れました。日本から持っていったレインコート、レインハット、部屋の中におきっぱなしでした。こういう時こそ持って出るべきだったのに。
雨が小降りになって、途中小休憩した茶店で、オン先生がコーヒーをふるまってくださった。当地の茶店、Cafeと英語名前で呼ばれていますが、江戸時代の街道の茶店のようです。
コーヒーを注文。それぞれがインスタントの粉の袋を選んで、お湯に自分で溶かして飲む。私は砂糖なしを選びましたが、おいしくはない。たいていは、めちゃ甘の珈琲が好まれる。
こうしてここでうまくもないコーヒー休憩なんぞするくらいなら、大雨のときに織物工房で雨宿りしたかった、、、と、まだ未練。
またバイクに乗って、ようやくダラの船着き場に戻れると思いましたが、バイクタクシーに、3つめの寺に連れて行かれた。寺はもう、いいよ、と思う。
この寺は、親のない子たちを引き取って育てているという孤児院経営の寺でした。寄付をしろと言われて、10000チャット1000円を払う。まあ、フェリーの乗り賃くらいだけれど、たぶん、この寺にとっては高額寄付者なんでしょう。孤児院経営のお坊さんは、とても愛想がよくなって、子供達の生活棟も見ていけ、とか勧めてくれました。
教育はきちんとなされているらしく、男の子がそばに来て、「How are you」と、声をかけてきました。「I'm fine,and you?」と答えたのですが、それへの返事はなし。でも、自分の英語に私が答えたのでうれしそうでした。男の子たちは、日焼け止め美白効果があるという「タナッカー」を顔に塗っています。
寄進者が名前を書くノートがあって、書けというので、縦書きの日本語を書く。留学生が横書きで、日本の女教師(セヤマー)が寄付をした、というミャンマー語をつけてくれました。 女の子たちといっしょに記念撮影をして、男の子たちの生活棟を見せていただく。見たのは低学年用の棟。25人の子供達が共同生活をしている。10年生くらいの男の子が寮長としており、寮母先生は4人ついているそうです。
10年生は、日本の高校生1年生にあたります。最高学年です。当地では日本の高校2年生に当たる16歳から大学生となる。
日本の大学留学要件は、母国での12年以上の教育を必需としているので、当地の大学生1,2年生は日本の大学への留学要件を満たしていない。3年生以上が日本留学の資格を有する。
ミャンマーは、まだ社会福祉が整備されていないけれど、昔からの仏教救済が各地にあるので、病気などで早死にする親も多いけれど、子供が飢えてしまうことはない。お寺に預けられて下働きになるか、こうしてお寺孤児院で育つか。このお寺では、子供を高校まで通学させている、というので、良心的な経営の方なのでしょう。
お寺で、ひどい扱いの下働きをさせられる子供も多い、と聞きます。お坊様はえらいので、子供をこき使うのです。子供がかわいそう、などという発想はありません。前世で功徳を積んだから自分は生まれ変わって身分の高い僧となり、この子は前世が悪かったから、親のない子となった、だから、徳の高い僧が功徳を積まなかった子をこき使うのは当然、という考え方。
う~ん、このへんの前世現世の考え方も、私には合わない。
孤児院を出て、やっと船着き場に、と思いきや、またお寺に連れて行かれました。もう、ほんとうにうんざりです。「もう、私はお参りしなくてもいいから、あなたたち、お参りしてきてね。私、ここで待っているから」と、言ったのですが、留学生は「このお寺は特別なもので、ほかのお寺は来世のことだけお願いするのに対して、ここは、現世でのお願いもひとつだけならかなえてくれるそうです。私は明日の試験がうまくいくように、お祈りしてきます」と、言う。
なんだなんだ、来世のことだけ祈るのが上座仏教といいながら、現世の願いもかなえてくれるとは、なんとまあ、上座仏教もけっこういいかげんだなあと思ったので、お参りすることにしました。毎日読経しに来る熱心な信者が集まっていました。
例によって白塗り金袈裟唇赤いマネキン風大仏。
私が、この白塗りおめめパッチリ仏像、どうして気にくわないのか分析してみました。
そもそもお釈迦様、ゴータマ・シッダルダ王子は、インドネパールに分布する釈迦族の出身です。今もシャカ族の一部はネパールで暮らしています。かれらは、決してこのような真っ白な顔をしていない。
オシャカさまだって、こんな白塗り赤い唇ぼってり睫毛バッチリの顔をしていらっしゃらなかったはず。それなのに当地の仏像がそろいもそろって真っ白なお顔なのは、ケニアで私がモテモテになった理由「色が白いほうが上等の人間」という観念が、人々の間にあるからではなかろうか。ケニアの「色の白い方が上等」は、やはり英領時代に人々の間に行き渡った考え方だったと思いました。
もし、同じ英領のビルマに同じ考え方があったのだとしたら、それはやはり「植民地文化」の影響と言えるのではないでしょうか。
このお寺には白塗りお顔の大仏の前に、この寺建立した時代の、ヤンゴンでもっとも古い時代から続く仏像というのが鎮座しておられました。この仏像のお顔は決して白くはなかった。
古い仏像がヤンゴン市内にどれほど残されているか、調査結果も不明ですが、この白塗りお顔は、それほど古い時代からのものではないと思いました。
いつから白塗りになったのか、古い時代の仏像は、ミャンマー国内にどのくらい残されているのか、知りたいところです。
知り合いの家におじゃましたとき、居間の一角に仏壇があり、白塗りの仏様鎮座。そして仏様の背中には、LEDがちかちか光る光背を背負っていらした。
このLED光背も、「お釈迦様のお体からはありがたい光がさしていた」というお経を具現化する大事なもの、というのですが、私にはなじめませんでした。
留学生は「試験がうまくいきますように」でよいが、私はたったひとつの現世の願い、何をかなえてもらおうか。
健康長寿?世界平和?家内安全火の用心、お金どっさり学業成就。たったひとつというと、どれも選べなくなってしまう貧乏性。「お釈迦様、この中のどれでもいいから、ひとつはかなえてください」と、山盛り並べて、テキトーに選んでもらうことにしました。
願ったことのうち、少なくともお釈迦様は「戦争法反対、原発再稼働反対」は選ばなかったらしく、17日未明には、法案参議院通過とのニュース。お釈迦様、いったいどれを選んでかなえてくれるのやら。ありがたい上座仏教のお釈迦様は、「いやいや、お寺参りでけっこう功徳を積んだので、来世はゴキブリではなく、もうちょっとましなカナブンにしてあげよう」とか思ってくださったのかも、、、、。あのぅ来世ではなくて、現世利益をお願いしたんですけれど。
9時にバイクタクシーに乗って、6時までかかりました。私は、最後のお寺は余分だったと思っています。行きたいとも思わないところに連れて行かれて、その分のお金も余計に払わなきゃならないのはしゃくにさわって、最初から一日いくら、というチャーターにすればよかったと後悔。タクシーに3人で乗れば5万チャットですんだのに、倍近い9万チャットの支払いになりました。おまけに身体はぬれてぐっしょりだし。
でも、これまで一日で一番稼げたのは、20000チャットだったと言っていたので、今日一日でひとり30000チャットずつ稼いだことになる。3人は、次ぎに一人40000チャットを稼ぐ日まで、「今まででいちばん稼いだ日」としてずっとひとりのミャンマー人女性と、ビルマ族のロンジーを身につけビルマ語を話す日本人の若い女性と、ビルマ語話せないジーンズにリュックサックの日本のバーサンを忘れないでいるだろうと思います。
帰りのフェリー、6時半ころになりました。家に着いたのは8時すぎ。ちょっと強行軍でした。最後のお寺はやめておこう、お参りしたくないと、もっと主張すればよかったと思うけれど、自分の自由にならないのが「案内してもらう」ということなのだと、思いました。ことばが通じなくても、迷子になっても、私はひとり旅がいい。
案内してくださったオン先生、とても感謝しています。
でも、やはりzenブッディストに、一日4カ所のお寺参りは多すぎです。
ずぶ濡れになった身体を、水しか出てこない宿舎のシャワーでながし、ぶっ倒れて寝ました。13時間拘束労働もつらいけれど、13時間観光もきつかった。
親切なオン先生、100枚近くのアイフォン撮影写真をメール添付で送ってくださいました。感謝。
しかしながら、オン先生が撮影したアイフォン写真、ここにUPできるほどの写真は15枚ほどでした。ほとんどが微妙な手ぶれぼけ写真。たぶん、日本のカメラのような手ぶれ防止機能などはまだついていないのだろうと思います。そして、私がこんなところは写してもらわなくてもよい、と思う、鯉に餌を撒いているところとか、孤児院への寄付をお坊さんに渡しているところとかが大量にありました。これこそ、ホトケへの功徳を積んでいる大切な証拠写真と思うからでしょう。
そして、私がいちばんほしかった、織物工房の織機や織り子の写真は一枚もなかった。
私のカメラは、9月5日のお寺参りの日に、トイレに落として修理不能となってしまい、このダラ旅行には、派遣元大学の公式カメラというのをお借りして持っていきました。でも、このカメラは、パソコンにつなぐコネクターラインがなくて、ブログに取り入れることができない。
日本に帰国後、織り子さんたちの写真をUPしたいと思います。
<おわり>