2009/12/27
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(1)すき焼きファミリー忘年会
23日は「おひとりさまの老後」の先達、姑のご機嫌伺いの日でした。姑は85歳で一人暮らしを続けています。健康オタクで、健康にいいことは何でも試している。毎朝徒歩15分のところにある公園へラジオ体操に出かけ、30分のウォーキングと体操で一日を始める。桑の葉の粉末茶が血糖値の安定にいいと聞けば取り寄せて飲んでみるし、タマネギの皮を煎じたお茶が血圧にいいと聞けば、「無農薬タマネギの皮」というのを銀座の健康食品店で売っているという話を聞きつけて買いに出かける。そのときどきでマイブームは変わるので、ひところこっていた「カスピ海ヨーグルト」を、姑の家に寄るたびに食べさせられるのはなくなったのだけれど、さて、23日にはどんな食品のお相伴にあずかることやらと、娘息子夫と私の4人で出かけました。
今回は姑が「新しいすき焼き鍋を買ったので、みんなですき焼きを食べたい」という希望でした。実を言うと、私は余所で食べる鍋が苦手。「取り箸を使ってくださいね、直箸を鍋につっこまれると、私、あと食べられなくなるから」と、遠慮しいしいやっとの思いでみなにお願いしても、みんなが取り箸を使うのは最初の一回目取り分けのときくらい。だいたいの人は、2度目に具を取るときは、もう取り箸のことなんぞすっかり忘れて、直接自分の箸を鍋につっこむ。
「偏向潔癖性」と自分で名付けたビョーキで、私、子供のころから人が口をつけた箸がさわった鍋はいやなのです。「鍋で熱湯消毒しているんだから汚くないよ」と、私の非を責めてくる人もいるのですが、別段感染症がうつるとか、ばい菌がいるとか思っているんではなく、単にビョーキです。潔癖性といっても、清潔好きとか掃除好きとは関係なく、単に人が箸をつけたものが嫌いなだけ。我が子の残り物を食べたこともありません。
我が家の鍋料理は、ガスコンロで煮た大鍋から、小さい土鍋に小分けにして銘々鍋(?)でテーブルに出すという方式で、娘息子には不評。子供の頃はこれが鍋料理なんだと信じ込まされていたけれど、大きくなって、よそでは大鍋で皆がいっしょに食べるのを鍋料理と呼ぶのだと娘息子にもわかってしまい、「別々鍋なんて、鍋料理とは言わない」と娘が主張するので、この冬はまだ一度も鍋料理をしていない。
姑は張り切って牛肉や葱、焼き豆腐などを準備していました。白菜などは「半玉刻んでおいたのだけれど、多すぎたかしら」と笊に山盛り。でも結局全部食べてしまいました。肉の卸問屋で買ったという霜降り肉、手頃な値段なのに、おいしかったです。私と娘がテーブルの上で調理係を代わる代わるして、夫や息子には菜箸で銘々鉢に取り分けて入れてやる方式で、ちょっと忙しかったですが、鍋にはきっちり菜箸だけを使いましたから、私もおなかいっぱいいただきました。
姑が、「故郷の伝統食品」として作った「小豆カボチャ」が今回の「特別メニュー」。カボチャを冬至に食べるのはどの地方にもあるけれど、姑の故郷ではカボチャに小豆を混ぜて煮る。私の故郷では食べたことのない冬至食。血糖値を気にする姑の方針で甘さ控えめ。おいしかったです。
姑へは、私から「お歳暮」と書いた熨斗袋をプレゼント。袋の下にはいつものように私の名前を書きます。姑は「息子が自営する会社の経営は苦しい」とは知っていますが、「ヨメが稼いできたぎりぎりの生活費まで会社の運転資金につぎ込んでいる」とまでは知らせていないので、「息子は一家の大黒柱」と思っています。姑に現実を知らせて心配させることもないので、一家の貧困度を話したことはないですが、ささやかながらの祝い袋まで夫からのプレゼントと思われるのはしゃくだから、私の名前だけをかくのです。ヨメの意地。
姑は元気いっぱいしゃべりまくっていました。老人会では70代は「若手」で90代になると「私は年だから、もう役員できない」と言うのも納得してもらえるのだそう。84歳の姑も、ようやく「私、このごろ何でも忘れてしまうから、役員なんてできないわ」と、お役ご免を願ったのだって。たしかに、姑のおしゃべりは「新しいことは何にも覚えられない」といって、昔の思い出話がほとんどでしたが、まあ、私よりは元気に見えます。
老老介護というのも、私のほうが先に介護される境遇になるって場合もあり得る。どうやら私のほうが先にガタがきているみたいですから。声を出すことが健康にいいと信じている姑、童謡を歌う会と詩吟の会に毎週でかけ、お習字教室のお稽古も欠かさない。せいぜい姑に元気のもとを学ぶことにしましょう。私も10ヶ月お休みしたジャズダンスサークルに来年は復帰するつもりです。
<つづく>
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2009年12月28日
ぽかぽか春庭「ダンスサークル忘年会」
2009/12/28
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(2)ダンスサークル忘年会
家族忘年会のほか、出席した忘年会はひとつだけ。12月18日金曜日は、ジャズダンスサークルの忘年会でした。ジャズダンスといっても、フラメンコ風ダンスありフラダンスあり、ソーランなどの民謡で踊ることもあり、マイケル・ジャクソンやプレスリーの曲あり、何でも踊ります。
今年3月に中国に出かける前、「半年やすみます」と言って休会費を払ったのだけれど、帰国しても忙しさと体調不良にまぎれて、ずっと休会のままでした。2010年年明けから練習に復帰するということで、忘年会には参加しました。
働く女性が週の終わりに集まって、身体を動かして一週間凝り固まった心身ほぐし、たまには練習後に集まっておしゃべりして、という自主サークルです。離婚やら別居やら親の介護やらさまざまな女性のライフステージを抱えながら、みな年に一度の発表会では自分たちで衣装を考え、プログラムを手作りし、楽しみながら踊っています。
体調を考えてこのところ控えていたのですが、忘年会くらいはいいかと生ビール中ジョッキを頼みました。メンバーの半数はビールで半数はホットウーロン茶という注文ですが、アルコールが入らなくても、皆よくしゃべります。
週末に夫婦仲良く観劇など続けているという話を聞いてきたトモさんのところでは、最近週末が楽しくないのだって。これまではご主人が仕事場に月~金で泊まりこんで働き、週末だけ帰宅していたので、週末は仲良くすごしてきたのに、最近の不況で事務所を閉鎖し、毎日自宅にいることになった。そうしたら、週末に仲良く過ごすことが難しくなって、毎日の夕食の準備がストレスになってきたのだって。娘さんが嫁いだあと、一人で気ままに食べたいものを手軽にすませていた平日も、ご主人がいるとなると、仕事を終えてあわただしく帰宅したあとそれなりの夕食を整えようとすると、気が重いのだと言う。え~、ストレスになるくらいなら、夕ご飯作らなければいいんじゃないの、と思ったけれど、人それぞれの生き方だろうから。
お宅はどうなの?と聞かれたけど、私は今、夕食作りをリタイアした境遇だから、食べるだけの人。2007年に中国へ行っていた間、娘が夕食作り係りになってから、ずっと娘が夕ご飯作ってくれています。私はたまに自分で「けんちん汁食べたくなった」とか「ジャガイモ煮っ転がし食べよ」と思って、自分の食べたくなったものを作るくらい。
娘の料理は、生協の半調理品やレトルトを利用する「お手軽簡単クッキング」です。ジャガイモの皮むきとか大根千切りとか、下ごしらえに手間暇かかることはしたがらないので、そういうものが食べたいときは私が自分で作る。普段の食事はどうしても若者向けの献立になります。娘とむすこはイタリアンパスタが好きなので、今まではスパゲッティやマカロニくらいしか知らなかった私も、ペンネとかフィットチーネとかいろんな種類のパスタがあることを知りました。
私と「パラサイト息子を抱えて細々働く母親同盟」を結んでいるミサイルママも、「このごろ息子が自分で台所に立って自分の分の食事を自分で作るようになったの。私は私で気ままに自分の食べたい分だけ作るんだけど、たまに息子が作ったのが鍋に残っているとき食べてみると、これがけっこうおいしい」と、言う。うらやましいな。我が息子は父親の遺伝子を受け継ぎ、自分で作るくらいなら、コンビニのおにぎり一個でもカップヌードルでもあんパン1個でも、面倒なことなしに食べるほうがいい、と言う。
「外食主義」の夫ですが、このところ食うや食わずの貧困生活だから、事務所のキッチンで鍋に湯をわかすことくらいはする。カレー屋へ行く回数より、レトルトカレーを温めて、パックご飯をチンして食べる回数のほうが多くなったというし、ラーメンも作るようになった、と言う。「インスタントではないよ。ちゃんと鍋でラーメン作るんだ」と威張るので、娘がよくよく問いただすと、夫はカップヌードルやどんぶりにお湯を注ぐチキンラーメンのたぐいを「インスタントラーメン」と呼ぶのだと信じており、鍋で作る袋入りのラーメンはインスタントではないと思っていたのでした。
近頃は男子厨房に入り浸りで料理三昧のご亭主もいるそうだけれど、なんにせよ、作るのも食べるのも、それぞれ好きにしたらええんでないかい。作るのが面倒だと思ったら、作らないでも生きていける今の世はありがたし。一番やっかいなのは、余所でうまいもんを食べ慣れて口が肥え、女房の作る食事をおいしいともありがたいとも思わずに食べるだけで文句つけるダンナだということになった。
介護のたいへんさやら、亭主のこきおろしやら、不出来な子供の愚痴やら、おしゃべりの花を咲かせているダンス仲間の女性たち、居酒屋での「自分が作ったり、後かたづけしたりしなくてもよい食べ物」は、どんな料理でもうれしい。焼き鳥、豆腐サラダ、鰹たたきなど、運ばれてくるつまみをつぎつぎ平らげていきました。
帰宅して、ミサイルママに買い置いてもらっていた今年9月の発表会のDVDを早速パソコンで見てみました。サークルのオバハンたち、オープニングの曲では、私が中国土産としてサークルメンバーに渡した「中国東方舞(中国風ベリーダンス)」のヒップスカーフを腰に巻いて踊っている。うん、みんなエグザイルのダンサーには負けてるけれど、楽しそうな笑顔はだれにも負けてないサイコーの踊りでしたよ。
<つづく>
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2009年12月29日
ぽかぽか春庭「下北沢界隈」
2009/12/29
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(3)下北沢界隈
1970年以来40年続くおつきあいの友人K子さんが、お芝居に招待してくれました。演劇好きな私ですが、このところ、とんと劇場に足を運ぶこともなかったので、年末演劇忘年会と思って、いそいそ出かけました。
下北沢は若者の街、そして小劇場のメッカです。しかし、私は下北沢で演劇を見たことがなく、初めて下北沢に降りました。K子さんは、「それなら、下北沢の駅周辺をちょっと歩いてみましょう」と、本多劇場や「劇」などの前を通りながら、下北沢駅周辺を案内してくれました。
本多劇場は下北沢では一番大きい。上戸彩が主演した2006年のドラマ『下北サンデーズ』(原作石田衣良)では、駅前劇場(客席数160)からスズナリ(客席数230)へすすみ、下北沢の上がりの本多劇場(客席数386)へと進出していくのが「シモキタの出世コース」と描かれていました。「下北サンデーズ」、視聴率は低かったようですが、我が家ではヒットドラマで、毎週楽しみに見ていました。
駅前の韓国食堂でちょっとおなかに入れてからミニシアターへ。入った劇場は、小劇場の中でもこれ以上客席が少ないところはないだろうというくらいの客席数26席のミニシアターです。定年後生活のライフテーマを「演劇」にしているK子さんは、このミニシアターの「シーズンチケット」というのを購入。劇場レパートリーのうちの5本を見ることができ、うち1本は「ペア鑑賞券」付きという制度。そのペア鑑賞の「お連れ様」として誘ってもらったのです。
「東京ノーヴイレパートリーシアター」の付属第一スタジオでの公演。レパートリーをすべて見てきたKさんによると、「観客の数が出演者数より少ない回もあった」そうです。演出家はロシア人で、役者たちは、スタニスラーフスキイ・システムというロシアのリアリズム演技による訓練を受けている、ということでしたが、ぼそぼそつぶやくようなセリフ術でときどき何言っているのかわからないこともありました。
客席数26で、お客とキスできそうな距離で演じているからいいようなものの、これで本多劇場へ進出したとき、マイクをつかわなければ、一番うしろの席には声が届かないかも、というのはよけいな心配で、大劇場ではちゃんとうしろまで届く発声ができるのが役者。といっても、商業演劇の大劇場公演ではマイクを使うので、近頃の舞台役者、発声訓練では滑舌練習はするけれど、音量訓練はしたことないという役者も増えてきました。大声が必要なのは、マイク設備のない教室で講義する教師くらいなものになった。
「ノーヴイ」というのは、ロシア語で「新しい」という意味だそうです。日本語では「新劇」というと、独特のニュアンスがありますが、さて、「東京」日本語、「ノーヴィ」ロシア語、「レパートリーシアター」英語、という「やど屋旅館ホテル」みたいな「混成語」を劇団名にしているこの劇団の味やいかに、と13の客席が2列並んでいる前列の真ん中に座りました。小劇場の椅子というと、ベンチに横並びとか床に座布団とか、折り畳み椅子というのが多いのですが、この小劇場の椅子はゆったりした一人がけの肘掛け付きのチェアです。
演目は近松門左衛門の『曽根崎心中』。私は昔むかしに文楽で見たことがあるきりです。(劇場へ行ったのではなく、3チャンネルあたりのテレビ放映か何かで)。歌舞伎の演目にもなっているのですが、私は人が演じるのを見たことがなかったので、今回初の人間曾根崎です。
近松門左衛門の代表作にして人形浄瑠璃が「時代物」から「世話物」へとジャンルをひろげる最初の作品になった『曽根崎心中』。お初徳兵衛の心中事件を脚色した今でいう「実話の再現ドラマ」です。
元禄16年4月7日(太陽暦では1703年5月22日)、大阪堂島新地天満屋の女郎・はつ(数え21歳、満年齢だと19歳)と内本町醤油商平野屋の手代である徳兵衛(25歳)が梅田・曽根崎の露天神の森で情死した事件に基いて、近松門左衛門は歌舞伎と浄瑠璃の脚本を1ヶ月で書き上げました。心中事件の1ヶ月後には舞台で『曽根崎心中』が上演されている。すごい早業。今の感覚でいえば、事件発生後、すぐにテレビで「再現ドラマ」を放送するようなもの。テレビの再現ドラマはその場で消えていくような薄っぺらいものにしかなりませんけれど、天才近松は事件からたった1ヶ月後の上演で、300年後も上演が続く傑作を書き上げました。
<つづく>
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2009年12月30日
ぽかぽか春庭「一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ」
09/12/30
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(4)一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ
江戸幕府開闢して100年。激動の戦国時代からみると、身分は固定され出世の糸口も見つからない時代の閉塞感にあえず人々にとって、「心中」という行為が、自分の人生に最後の光輝をあたえる行為として映りました。『曽根崎心中』の大ヒット以後、江戸元禄時代を生きる人々に心中ブームが起こりました。
名もなくしがない手代の徳兵衛と、人身を売り渡された女郎のおはつとが、共に死を遂げたことで、物語の主人公として津々浦々にも知られる「死をもって愛を貫いた二人」として語りつがれるのを見た人々にとって、心中は極北の自己主張に思えたのです。
近松の『心中天網島』上演は1720年。心中ブームは過熱します。しかし、元禄から享保へと時代が変わると、江戸幕府は1723(享保8)年に、心中物の上演禁止と実際に心中した者の葬儀禁止を発令しました。暴れんのはいいけど、情死は御法度、心中はお嫌いな八代将軍だったのです。
『曾根崎心中』の大ヒットで、上演した竹本座の座元は、貯まりにたまっていた借金を、きれいに返済するほどの大もうけ。お初徳兵衛が心中したおかげで、竹本屋は首くくらんでも済んだ、というオチがつきました。人生一発逆転。「劇的!」はどこに転がっているかわかりません。
「東京ノーヴイレパートリーシアター」の『曽根崎心中』は、近松門左衛門がナレーター役で出てくるという演出で、心中に至る途中の場面展開を、近松が両手にお初と徳兵衛の人形をはめて語る、という趣向もあり、おもしろい演出でした。演出舞台監督としてレオニード・アニシモフというロシア人演出家の名があげられています。レパートリーのうち『かもめ』『三人姉妹』『ワーニャ伯父さん』というチェホフものや、ゴーリキの『どん底』などは、彼の演出を継承して上演しているのでしょうけれど、この『曽根崎心中』の演出を実際に行ったのは誰なんだろう。公式にはこれもアニシモフ演出になっているのだけれど。
曽根崎心中はあまりにも有名なお芝居です。忠臣蔵のお芝居を「最後にちゃんと仇討ちができるのかどうか」をはらはらしながら見る人はおそらくいない。最後に本懐遂げて雪中泉岳寺へ凱旋することを皆知っていて見ているのですが、曽根崎心中のお話も、江戸時代の人はふたりが心中して幕がおりることを承知で見ていた。で、このミニシアターに来ている人も、ストーリーは承知だ、ということが前提になっていて演出されているのだろうと思いました。もし、初めて曽根崎心中を見た人が26人の観客の中にいて、ストーリーを追ってこの芝居を見ていたのなら、なぜ二人が死ななくてはならなかったか、死ぬことによってどうしようとしていたのか、よくわからなかったのではないかと思えたのです。
終演後、近くのお好み屋でK子さんと歓談。K子さんは、一昨年定年退職した「キャリア」で、リタイア人生を謳歌しています。年金もない私から見ると、あこがれの「おひとりさま年金生活」を続けている人。今回、お芝居もおもしろそうでしたが、何よりもK子さんの暮らしぶりを聞かせてもらうのを楽しみに下北沢で会うことにしたのです。繁華街から一歩入った住宅地にあるマンションのローンも終わって、悠々自適のおひとりさま。
K子さんは、現在、高円寺にある演劇スクールに通学中です。演劇史や演劇理論を学ぶ一年コースで、さまざまな演劇との関わりを持つ人々とともに、舞台美術から演出方法まで演劇について幅広く学ぶことができるのだそうです。舞台美術の授業では自分で舞台の正面図俯瞰図を描き、舞台模型を作ることまで課題になっているそうで、本格的に演劇を学んだ結果、演劇研究を大学院で続けていこうか、という気も出てきたというK子さん。「今更勉強しても何になるわけでもないけれど、やってみたいことがあるので」と、K子さんは言います。
「やってみたいこと」というのは、前回会ったとき私も強くすすめた「ギリシャ悲劇」の上演。ギリシャ悲劇は、K子さんが若いころに関わってきた分野です。「単なる朗読会ではなく、かといって蜷川幸雄が演出するようなスペクタクル的な上演でもなく、もう少し違う形で、ギリシャ悲劇を上演する方法はないか、研究してみたい」というのがK子さんのライフワーク。
「いいね、いいね、上演しましょう」と、お好み焼きとビール1杯ですぐ盛り上がる私。K子さんは、「じゃ、主役はあなた」と冗談をいうので、もう私は、メディアだろうとエレクトラだろうと、何でもやりましょう、とすぐその気になる。K子さんの研究がまとまって上演できるのが20年後だとして、80歳の私が主役をしたら、どんなアンティゴネー、どんなアンドロマケになることやら。おっと、文化勲章国民栄誉賞森光子さんは89歳にしてこの11月にも明治座公演にゲスト出演して元気な舞台姿だったというというし、HAL80歳ヘカベは案外いいんじゃないの?
さてこのライフワークの夢は、♪一足づつに消えていく、夢のゆめこそあはれなれ、となるのやら、
あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり。鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる、星の妹背(いもせ)の天の川。梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りていつまでも、我とそなたは婦夫星(めおとぼし)。かならず添うと縋(すが)り寄り、二人がなかに降る涙、川の水嵩(みかさ)も増(まさ)るべし。
2009年10月にお寺(椎名町金剛院)で上演された際の『曽根崎心中』
http://www.youtube.com/watch?v=bij6olnXiIg
東京レパートリーシアターがユーチューブに出している『曾根崎心中』の数シーン。
http://www.youtube.com/watch?v=3zAsYQ_z3Pg&feature=related
あれ、数うれば暁の、七つの時がむつ鳴りて、残るひとひがこんねんの、日めくり納めの一枚よ、寂滅為楽と響くなり。2009年残り一日を有意義におすごしくださいませ。
<つづく>
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2009年12月31日
ぽかぽか春庭「よいお年を」
2009/12/31
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(5)よいお年を
今年1年振り返り、良いこともあり、残念無念なこともあり。悪いこともいいこともあるのが人生。禍福はあざなえる縄のごとし、人間万事塞翁が馬。ということで、今年前半は中国で楽しく暮らし、たらふく中華料理を食べたまではよかったのですが、後半は年をとったことを痛感させられる病院通い。28日月曜日は病院最終日に駆け込んで、眼底検査やら緑内障検査やら、新型インフルエンザ予防接種やらをしてきました。
左目に緑内障の兆候もあるということで、1ヶ月後の再検査の結果で結論を出すと言う。文字が読めないと、仕事できなくなるから、目はいちばん気にしてきたのに、老眼は気になったけれど、緑内障まで気にかけてこなかった。
「身体が資本、元気なだけがとりえの私」と、自分に思いこませて暮らしてきたけれど、それは検査せずに事実を知らずにいたからそう思いこめたのであって、きちんと検査してみたら、あっちも悪いこっちもガタが来ていると、内科整形外科眼科の医者に責め立てられて、もう明日にもくたばりそうな気分。
毎年、「今年も貧乏だったけれど、風邪ひいたくらいで、大事になることはなくすんだのだから、よしとしよう」と、大晦日をまとめるのに、今年は最後まで落ち込みから回復しませんでした。来年はもっともっと健康に気をつけなければ。年には勝てません。カロリー制限もするし、チョコ一箱一気食いやら「ランチはかりんとうと甘納豆1袋ずつ」なんて食生活も改める(つもり)。
カフェ日記は365日のうち350日は更新してまいりました。コメント返信をしていませんのに、春庭コラムへの感想をありがたくちょうだいしております。拙い文章へのみなさまからのコメントに感謝いたします。
来年もかわりなくご来訪いただきますよう、お願い申し上げます。それではこれにて、本年のおひらき。
みなさまに置かれましても、来年が千里を駆けて飛躍する年となりますように。よいお年を。
<おわり>
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(1)すき焼きファミリー忘年会
23日は「おひとりさまの老後」の先達、姑のご機嫌伺いの日でした。姑は85歳で一人暮らしを続けています。健康オタクで、健康にいいことは何でも試している。毎朝徒歩15分のところにある公園へラジオ体操に出かけ、30分のウォーキングと体操で一日を始める。桑の葉の粉末茶が血糖値の安定にいいと聞けば取り寄せて飲んでみるし、タマネギの皮を煎じたお茶が血圧にいいと聞けば、「無農薬タマネギの皮」というのを銀座の健康食品店で売っているという話を聞きつけて買いに出かける。そのときどきでマイブームは変わるので、ひところこっていた「カスピ海ヨーグルト」を、姑の家に寄るたびに食べさせられるのはなくなったのだけれど、さて、23日にはどんな食品のお相伴にあずかることやらと、娘息子夫と私の4人で出かけました。
今回は姑が「新しいすき焼き鍋を買ったので、みんなですき焼きを食べたい」という希望でした。実を言うと、私は余所で食べる鍋が苦手。「取り箸を使ってくださいね、直箸を鍋につっこまれると、私、あと食べられなくなるから」と、遠慮しいしいやっとの思いでみなにお願いしても、みんなが取り箸を使うのは最初の一回目取り分けのときくらい。だいたいの人は、2度目に具を取るときは、もう取り箸のことなんぞすっかり忘れて、直接自分の箸を鍋につっこむ。
「偏向潔癖性」と自分で名付けたビョーキで、私、子供のころから人が口をつけた箸がさわった鍋はいやなのです。「鍋で熱湯消毒しているんだから汚くないよ」と、私の非を責めてくる人もいるのですが、別段感染症がうつるとか、ばい菌がいるとか思っているんではなく、単にビョーキです。潔癖性といっても、清潔好きとか掃除好きとは関係なく、単に人が箸をつけたものが嫌いなだけ。我が子の残り物を食べたこともありません。
我が家の鍋料理は、ガスコンロで煮た大鍋から、小さい土鍋に小分けにして銘々鍋(?)でテーブルに出すという方式で、娘息子には不評。子供の頃はこれが鍋料理なんだと信じ込まされていたけれど、大きくなって、よそでは大鍋で皆がいっしょに食べるのを鍋料理と呼ぶのだと娘息子にもわかってしまい、「別々鍋なんて、鍋料理とは言わない」と娘が主張するので、この冬はまだ一度も鍋料理をしていない。
姑は張り切って牛肉や葱、焼き豆腐などを準備していました。白菜などは「半玉刻んでおいたのだけれど、多すぎたかしら」と笊に山盛り。でも結局全部食べてしまいました。肉の卸問屋で買ったという霜降り肉、手頃な値段なのに、おいしかったです。私と娘がテーブルの上で調理係を代わる代わるして、夫や息子には菜箸で銘々鉢に取り分けて入れてやる方式で、ちょっと忙しかったですが、鍋にはきっちり菜箸だけを使いましたから、私もおなかいっぱいいただきました。
姑が、「故郷の伝統食品」として作った「小豆カボチャ」が今回の「特別メニュー」。カボチャを冬至に食べるのはどの地方にもあるけれど、姑の故郷ではカボチャに小豆を混ぜて煮る。私の故郷では食べたことのない冬至食。血糖値を気にする姑の方針で甘さ控えめ。おいしかったです。
姑へは、私から「お歳暮」と書いた熨斗袋をプレゼント。袋の下にはいつものように私の名前を書きます。姑は「息子が自営する会社の経営は苦しい」とは知っていますが、「ヨメが稼いできたぎりぎりの生活費まで会社の運転資金につぎ込んでいる」とまでは知らせていないので、「息子は一家の大黒柱」と思っています。姑に現実を知らせて心配させることもないので、一家の貧困度を話したことはないですが、ささやかながらの祝い袋まで夫からのプレゼントと思われるのはしゃくだから、私の名前だけをかくのです。ヨメの意地。
姑は元気いっぱいしゃべりまくっていました。老人会では70代は「若手」で90代になると「私は年だから、もう役員できない」と言うのも納得してもらえるのだそう。84歳の姑も、ようやく「私、このごろ何でも忘れてしまうから、役員なんてできないわ」と、お役ご免を願ったのだって。たしかに、姑のおしゃべりは「新しいことは何にも覚えられない」といって、昔の思い出話がほとんどでしたが、まあ、私よりは元気に見えます。
老老介護というのも、私のほうが先に介護される境遇になるって場合もあり得る。どうやら私のほうが先にガタがきているみたいですから。声を出すことが健康にいいと信じている姑、童謡を歌う会と詩吟の会に毎週でかけ、お習字教室のお稽古も欠かさない。せいぜい姑に元気のもとを学ぶことにしましょう。私も10ヶ月お休みしたジャズダンスサークルに来年は復帰するつもりです。
<つづく>
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2009年12月28日
ぽかぽか春庭「ダンスサークル忘年会」
2009/12/28
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(2)ダンスサークル忘年会
家族忘年会のほか、出席した忘年会はひとつだけ。12月18日金曜日は、ジャズダンスサークルの忘年会でした。ジャズダンスといっても、フラメンコ風ダンスありフラダンスあり、ソーランなどの民謡で踊ることもあり、マイケル・ジャクソンやプレスリーの曲あり、何でも踊ります。
今年3月に中国に出かける前、「半年やすみます」と言って休会費を払ったのだけれど、帰国しても忙しさと体調不良にまぎれて、ずっと休会のままでした。2010年年明けから練習に復帰するということで、忘年会には参加しました。
働く女性が週の終わりに集まって、身体を動かして一週間凝り固まった心身ほぐし、たまには練習後に集まっておしゃべりして、という自主サークルです。離婚やら別居やら親の介護やらさまざまな女性のライフステージを抱えながら、みな年に一度の発表会では自分たちで衣装を考え、プログラムを手作りし、楽しみながら踊っています。
体調を考えてこのところ控えていたのですが、忘年会くらいはいいかと生ビール中ジョッキを頼みました。メンバーの半数はビールで半数はホットウーロン茶という注文ですが、アルコールが入らなくても、皆よくしゃべります。
週末に夫婦仲良く観劇など続けているという話を聞いてきたトモさんのところでは、最近週末が楽しくないのだって。これまではご主人が仕事場に月~金で泊まりこんで働き、週末だけ帰宅していたので、週末は仲良くすごしてきたのに、最近の不況で事務所を閉鎖し、毎日自宅にいることになった。そうしたら、週末に仲良く過ごすことが難しくなって、毎日の夕食の準備がストレスになってきたのだって。娘さんが嫁いだあと、一人で気ままに食べたいものを手軽にすませていた平日も、ご主人がいるとなると、仕事を終えてあわただしく帰宅したあとそれなりの夕食を整えようとすると、気が重いのだと言う。え~、ストレスになるくらいなら、夕ご飯作らなければいいんじゃないの、と思ったけれど、人それぞれの生き方だろうから。
お宅はどうなの?と聞かれたけど、私は今、夕食作りをリタイアした境遇だから、食べるだけの人。2007年に中国へ行っていた間、娘が夕食作り係りになってから、ずっと娘が夕ご飯作ってくれています。私はたまに自分で「けんちん汁食べたくなった」とか「ジャガイモ煮っ転がし食べよ」と思って、自分の食べたくなったものを作るくらい。
娘の料理は、生協の半調理品やレトルトを利用する「お手軽簡単クッキング」です。ジャガイモの皮むきとか大根千切りとか、下ごしらえに手間暇かかることはしたがらないので、そういうものが食べたいときは私が自分で作る。普段の食事はどうしても若者向けの献立になります。娘とむすこはイタリアンパスタが好きなので、今まではスパゲッティやマカロニくらいしか知らなかった私も、ペンネとかフィットチーネとかいろんな種類のパスタがあることを知りました。
私と「パラサイト息子を抱えて細々働く母親同盟」を結んでいるミサイルママも、「このごろ息子が自分で台所に立って自分の分の食事を自分で作るようになったの。私は私で気ままに自分の食べたい分だけ作るんだけど、たまに息子が作ったのが鍋に残っているとき食べてみると、これがけっこうおいしい」と、言う。うらやましいな。我が息子は父親の遺伝子を受け継ぎ、自分で作るくらいなら、コンビニのおにぎり一個でもカップヌードルでもあんパン1個でも、面倒なことなしに食べるほうがいい、と言う。
「外食主義」の夫ですが、このところ食うや食わずの貧困生活だから、事務所のキッチンで鍋に湯をわかすことくらいはする。カレー屋へ行く回数より、レトルトカレーを温めて、パックご飯をチンして食べる回数のほうが多くなったというし、ラーメンも作るようになった、と言う。「インスタントではないよ。ちゃんと鍋でラーメン作るんだ」と威張るので、娘がよくよく問いただすと、夫はカップヌードルやどんぶりにお湯を注ぐチキンラーメンのたぐいを「インスタントラーメン」と呼ぶのだと信じており、鍋で作る袋入りのラーメンはインスタントではないと思っていたのでした。
近頃は男子厨房に入り浸りで料理三昧のご亭主もいるそうだけれど、なんにせよ、作るのも食べるのも、それぞれ好きにしたらええんでないかい。作るのが面倒だと思ったら、作らないでも生きていける今の世はありがたし。一番やっかいなのは、余所でうまいもんを食べ慣れて口が肥え、女房の作る食事をおいしいともありがたいとも思わずに食べるだけで文句つけるダンナだということになった。
介護のたいへんさやら、亭主のこきおろしやら、不出来な子供の愚痴やら、おしゃべりの花を咲かせているダンス仲間の女性たち、居酒屋での「自分が作ったり、後かたづけしたりしなくてもよい食べ物」は、どんな料理でもうれしい。焼き鳥、豆腐サラダ、鰹たたきなど、運ばれてくるつまみをつぎつぎ平らげていきました。
帰宅して、ミサイルママに買い置いてもらっていた今年9月の発表会のDVDを早速パソコンで見てみました。サークルのオバハンたち、オープニングの曲では、私が中国土産としてサークルメンバーに渡した「中国東方舞(中国風ベリーダンス)」のヒップスカーフを腰に巻いて踊っている。うん、みんなエグザイルのダンサーには負けてるけれど、楽しそうな笑顔はだれにも負けてないサイコーの踊りでしたよ。
<つづく>
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2009年12月29日
ぽかぽか春庭「下北沢界隈」
2009/12/29
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(3)下北沢界隈
1970年以来40年続くおつきあいの友人K子さんが、お芝居に招待してくれました。演劇好きな私ですが、このところ、とんと劇場に足を運ぶこともなかったので、年末演劇忘年会と思って、いそいそ出かけました。
下北沢は若者の街、そして小劇場のメッカです。しかし、私は下北沢で演劇を見たことがなく、初めて下北沢に降りました。K子さんは、「それなら、下北沢の駅周辺をちょっと歩いてみましょう」と、本多劇場や「劇」などの前を通りながら、下北沢駅周辺を案内してくれました。
本多劇場は下北沢では一番大きい。上戸彩が主演した2006年のドラマ『下北サンデーズ』(原作石田衣良)では、駅前劇場(客席数160)からスズナリ(客席数230)へすすみ、下北沢の上がりの本多劇場(客席数386)へと進出していくのが「シモキタの出世コース」と描かれていました。「下北サンデーズ」、視聴率は低かったようですが、我が家ではヒットドラマで、毎週楽しみに見ていました。
駅前の韓国食堂でちょっとおなかに入れてからミニシアターへ。入った劇場は、小劇場の中でもこれ以上客席が少ないところはないだろうというくらいの客席数26席のミニシアターです。定年後生活のライフテーマを「演劇」にしているK子さんは、このミニシアターの「シーズンチケット」というのを購入。劇場レパートリーのうちの5本を見ることができ、うち1本は「ペア鑑賞券」付きという制度。そのペア鑑賞の「お連れ様」として誘ってもらったのです。
「東京ノーヴイレパートリーシアター」の付属第一スタジオでの公演。レパートリーをすべて見てきたKさんによると、「観客の数が出演者数より少ない回もあった」そうです。演出家はロシア人で、役者たちは、スタニスラーフスキイ・システムというロシアのリアリズム演技による訓練を受けている、ということでしたが、ぼそぼそつぶやくようなセリフ術でときどき何言っているのかわからないこともありました。
客席数26で、お客とキスできそうな距離で演じているからいいようなものの、これで本多劇場へ進出したとき、マイクをつかわなければ、一番うしろの席には声が届かないかも、というのはよけいな心配で、大劇場ではちゃんとうしろまで届く発声ができるのが役者。といっても、商業演劇の大劇場公演ではマイクを使うので、近頃の舞台役者、発声訓練では滑舌練習はするけれど、音量訓練はしたことないという役者も増えてきました。大声が必要なのは、マイク設備のない教室で講義する教師くらいなものになった。
「ノーヴイ」というのは、ロシア語で「新しい」という意味だそうです。日本語では「新劇」というと、独特のニュアンスがありますが、さて、「東京」日本語、「ノーヴィ」ロシア語、「レパートリーシアター」英語、という「やど屋旅館ホテル」みたいな「混成語」を劇団名にしているこの劇団の味やいかに、と13の客席が2列並んでいる前列の真ん中に座りました。小劇場の椅子というと、ベンチに横並びとか床に座布団とか、折り畳み椅子というのが多いのですが、この小劇場の椅子はゆったりした一人がけの肘掛け付きのチェアです。
演目は近松門左衛門の『曽根崎心中』。私は昔むかしに文楽で見たことがあるきりです。(劇場へ行ったのではなく、3チャンネルあたりのテレビ放映か何かで)。歌舞伎の演目にもなっているのですが、私は人が演じるのを見たことがなかったので、今回初の人間曾根崎です。
近松門左衛門の代表作にして人形浄瑠璃が「時代物」から「世話物」へとジャンルをひろげる最初の作品になった『曽根崎心中』。お初徳兵衛の心中事件を脚色した今でいう「実話の再現ドラマ」です。
元禄16年4月7日(太陽暦では1703年5月22日)、大阪堂島新地天満屋の女郎・はつ(数え21歳、満年齢だと19歳)と内本町醤油商平野屋の手代である徳兵衛(25歳)が梅田・曽根崎の露天神の森で情死した事件に基いて、近松門左衛門は歌舞伎と浄瑠璃の脚本を1ヶ月で書き上げました。心中事件の1ヶ月後には舞台で『曽根崎心中』が上演されている。すごい早業。今の感覚でいえば、事件発生後、すぐにテレビで「再現ドラマ」を放送するようなもの。テレビの再現ドラマはその場で消えていくような薄っぺらいものにしかなりませんけれど、天才近松は事件からたった1ヶ月後の上演で、300年後も上演が続く傑作を書き上げました。
<つづく>
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2009年12月30日
ぽかぽか春庭「一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ」
09/12/30
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(4)一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ
江戸幕府開闢して100年。激動の戦国時代からみると、身分は固定され出世の糸口も見つからない時代の閉塞感にあえず人々にとって、「心中」という行為が、自分の人生に最後の光輝をあたえる行為として映りました。『曽根崎心中』の大ヒット以後、江戸元禄時代を生きる人々に心中ブームが起こりました。
名もなくしがない手代の徳兵衛と、人身を売り渡された女郎のおはつとが、共に死を遂げたことで、物語の主人公として津々浦々にも知られる「死をもって愛を貫いた二人」として語りつがれるのを見た人々にとって、心中は極北の自己主張に思えたのです。
近松の『心中天網島』上演は1720年。心中ブームは過熱します。しかし、元禄から享保へと時代が変わると、江戸幕府は1723(享保8)年に、心中物の上演禁止と実際に心中した者の葬儀禁止を発令しました。暴れんのはいいけど、情死は御法度、心中はお嫌いな八代将軍だったのです。
『曾根崎心中』の大ヒットで、上演した竹本座の座元は、貯まりにたまっていた借金を、きれいに返済するほどの大もうけ。お初徳兵衛が心中したおかげで、竹本屋は首くくらんでも済んだ、というオチがつきました。人生一発逆転。「劇的!」はどこに転がっているかわかりません。
「東京ノーヴイレパートリーシアター」の『曽根崎心中』は、近松門左衛門がナレーター役で出てくるという演出で、心中に至る途中の場面展開を、近松が両手にお初と徳兵衛の人形をはめて語る、という趣向もあり、おもしろい演出でした。演出舞台監督としてレオニード・アニシモフというロシア人演出家の名があげられています。レパートリーのうち『かもめ』『三人姉妹』『ワーニャ伯父さん』というチェホフものや、ゴーリキの『どん底』などは、彼の演出を継承して上演しているのでしょうけれど、この『曽根崎心中』の演出を実際に行ったのは誰なんだろう。公式にはこれもアニシモフ演出になっているのだけれど。
曽根崎心中はあまりにも有名なお芝居です。忠臣蔵のお芝居を「最後にちゃんと仇討ちができるのかどうか」をはらはらしながら見る人はおそらくいない。最後に本懐遂げて雪中泉岳寺へ凱旋することを皆知っていて見ているのですが、曽根崎心中のお話も、江戸時代の人はふたりが心中して幕がおりることを承知で見ていた。で、このミニシアターに来ている人も、ストーリーは承知だ、ということが前提になっていて演出されているのだろうと思いました。もし、初めて曽根崎心中を見た人が26人の観客の中にいて、ストーリーを追ってこの芝居を見ていたのなら、なぜ二人が死ななくてはならなかったか、死ぬことによってどうしようとしていたのか、よくわからなかったのではないかと思えたのです。
終演後、近くのお好み屋でK子さんと歓談。K子さんは、一昨年定年退職した「キャリア」で、リタイア人生を謳歌しています。年金もない私から見ると、あこがれの「おひとりさま年金生活」を続けている人。今回、お芝居もおもしろそうでしたが、何よりもK子さんの暮らしぶりを聞かせてもらうのを楽しみに下北沢で会うことにしたのです。繁華街から一歩入った住宅地にあるマンションのローンも終わって、悠々自適のおひとりさま。
K子さんは、現在、高円寺にある演劇スクールに通学中です。演劇史や演劇理論を学ぶ一年コースで、さまざまな演劇との関わりを持つ人々とともに、舞台美術から演出方法まで演劇について幅広く学ぶことができるのだそうです。舞台美術の授業では自分で舞台の正面図俯瞰図を描き、舞台模型を作ることまで課題になっているそうで、本格的に演劇を学んだ結果、演劇研究を大学院で続けていこうか、という気も出てきたというK子さん。「今更勉強しても何になるわけでもないけれど、やってみたいことがあるので」と、K子さんは言います。
「やってみたいこと」というのは、前回会ったとき私も強くすすめた「ギリシャ悲劇」の上演。ギリシャ悲劇は、K子さんが若いころに関わってきた分野です。「単なる朗読会ではなく、かといって蜷川幸雄が演出するようなスペクタクル的な上演でもなく、もう少し違う形で、ギリシャ悲劇を上演する方法はないか、研究してみたい」というのがK子さんのライフワーク。
「いいね、いいね、上演しましょう」と、お好み焼きとビール1杯ですぐ盛り上がる私。K子さんは、「じゃ、主役はあなた」と冗談をいうので、もう私は、メディアだろうとエレクトラだろうと、何でもやりましょう、とすぐその気になる。K子さんの研究がまとまって上演できるのが20年後だとして、80歳の私が主役をしたら、どんなアンティゴネー、どんなアンドロマケになることやら。おっと、文化勲章国民栄誉賞森光子さんは89歳にしてこの11月にも明治座公演にゲスト出演して元気な舞台姿だったというというし、HAL80歳ヘカベは案外いいんじゃないの?
さてこのライフワークの夢は、♪一足づつに消えていく、夢のゆめこそあはれなれ、となるのやら、
あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり。鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる、星の妹背(いもせ)の天の川。梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りていつまでも、我とそなたは婦夫星(めおとぼし)。かならず添うと縋(すが)り寄り、二人がなかに降る涙、川の水嵩(みかさ)も増(まさ)るべし。
2009年10月にお寺(椎名町金剛院)で上演された際の『曽根崎心中』
http://www.youtube.com/watch?v=bij6olnXiIg
東京レパートリーシアターがユーチューブに出している『曾根崎心中』の数シーン。
http://www.youtube.com/watch?v=3zAsYQ_z3Pg&feature=related
あれ、数うれば暁の、七つの時がむつ鳴りて、残るひとひがこんねんの、日めくり納めの一枚よ、寂滅為楽と響くなり。2009年残り一日を有意義におすごしくださいませ。
<つづく>
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2009年12月31日
ぽかぽか春庭「よいお年を」
2009/12/31
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(5)よいお年を
今年1年振り返り、良いこともあり、残念無念なこともあり。悪いこともいいこともあるのが人生。禍福はあざなえる縄のごとし、人間万事塞翁が馬。ということで、今年前半は中国で楽しく暮らし、たらふく中華料理を食べたまではよかったのですが、後半は年をとったことを痛感させられる病院通い。28日月曜日は病院最終日に駆け込んで、眼底検査やら緑内障検査やら、新型インフルエンザ予防接種やらをしてきました。
左目に緑内障の兆候もあるということで、1ヶ月後の再検査の結果で結論を出すと言う。文字が読めないと、仕事できなくなるから、目はいちばん気にしてきたのに、老眼は気になったけれど、緑内障まで気にかけてこなかった。
「身体が資本、元気なだけがとりえの私」と、自分に思いこませて暮らしてきたけれど、それは検査せずに事実を知らずにいたからそう思いこめたのであって、きちんと検査してみたら、あっちも悪いこっちもガタが来ていると、内科整形外科眼科の医者に責め立てられて、もう明日にもくたばりそうな気分。
毎年、「今年も貧乏だったけれど、風邪ひいたくらいで、大事になることはなくすんだのだから、よしとしよう」と、大晦日をまとめるのに、今年は最後まで落ち込みから回復しませんでした。来年はもっともっと健康に気をつけなければ。年には勝てません。カロリー制限もするし、チョコ一箱一気食いやら「ランチはかりんとうと甘納豆1袋ずつ」なんて食生活も改める(つもり)。
カフェ日記は365日のうち350日は更新してまいりました。コメント返信をしていませんのに、春庭コラムへの感想をありがたくちょうだいしております。拙い文章へのみなさまからのコメントに感謝いたします。
来年もかわりなくご来訪いただきますよう、お願い申し上げます。それではこれにて、本年のおひらき。
みなさまに置かれましても、来年が千里を駆けて飛躍する年となりますように。よいお年を。
<おわり>