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2009年歳末風景2009年12月

2010-11-23 19:45:00 | 日記
2009/12/27
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(1)すき焼きファミリー忘年会

 23日は「おひとりさまの老後」の先達、姑のご機嫌伺いの日でした。姑は85歳で一人暮らしを続けています。健康オタクで、健康にいいことは何でも試している。毎朝徒歩15分のところにある公園へラジオ体操に出かけ、30分のウォーキングと体操で一日を始める。桑の葉の粉末茶が血糖値の安定にいいと聞けば取り寄せて飲んでみるし、タマネギの皮を煎じたお茶が血圧にいいと聞けば、「無農薬タマネギの皮」というのを銀座の健康食品店で売っているという話を聞きつけて買いに出かける。そのときどきでマイブームは変わるので、ひところこっていた「カスピ海ヨーグルト」を、姑の家に寄るたびに食べさせられるのはなくなったのだけれど、さて、23日にはどんな食品のお相伴にあずかることやらと、娘息子夫と私の4人で出かけました。

 今回は姑が「新しいすき焼き鍋を買ったので、みんなですき焼きを食べたい」という希望でした。実を言うと、私は余所で食べる鍋が苦手。「取り箸を使ってくださいね、直箸を鍋につっこまれると、私、あと食べられなくなるから」と、遠慮しいしいやっとの思いでみなにお願いしても、みんなが取り箸を使うのは最初の一回目取り分けのときくらい。だいたいの人は、2度目に具を取るときは、もう取り箸のことなんぞすっかり忘れて、直接自分の箸を鍋につっこむ。

 「偏向潔癖性」と自分で名付けたビョーキで、私、子供のころから人が口をつけた箸がさわった鍋はいやなのです。「鍋で熱湯消毒しているんだから汚くないよ」と、私の非を責めてくる人もいるのですが、別段感染症がうつるとか、ばい菌がいるとか思っているんではなく、単にビョーキです。潔癖性といっても、清潔好きとか掃除好きとは関係なく、単に人が箸をつけたものが嫌いなだけ。我が子の残り物を食べたこともありません。

 我が家の鍋料理は、ガスコンロで煮た大鍋から、小さい土鍋に小分けにして銘々鍋(?)でテーブルに出すという方式で、娘息子には不評。子供の頃はこれが鍋料理なんだと信じ込まされていたけれど、大きくなって、よそでは大鍋で皆がいっしょに食べるのを鍋料理と呼ぶのだと娘息子にもわかってしまい、「別々鍋なんて、鍋料理とは言わない」と娘が主張するので、この冬はまだ一度も鍋料理をしていない。
 
 姑は張り切って牛肉や葱、焼き豆腐などを準備していました。白菜などは「半玉刻んでおいたのだけれど、多すぎたかしら」と笊に山盛り。でも結局全部食べてしまいました。肉の卸問屋で買ったという霜降り肉、手頃な値段なのに、おいしかったです。私と娘がテーブルの上で調理係を代わる代わるして、夫や息子には菜箸で銘々鉢に取り分けて入れてやる方式で、ちょっと忙しかったですが、鍋にはきっちり菜箸だけを使いましたから、私もおなかいっぱいいただきました。
 姑が、「故郷の伝統食品」として作った「小豆カボチャ」が今回の「特別メニュー」。カボチャを冬至に食べるのはどの地方にもあるけれど、姑の故郷ではカボチャに小豆を混ぜて煮る。私の故郷では食べたことのない冬至食。血糖値を気にする姑の方針で甘さ控えめ。おいしかったです。

 姑へは、私から「お歳暮」と書いた熨斗袋をプレゼント。袋の下にはいつものように私の名前を書きます。姑は「息子が自営する会社の経営は苦しい」とは知っていますが、「ヨメが稼いできたぎりぎりの生活費まで会社の運転資金につぎ込んでいる」とまでは知らせていないので、「息子は一家の大黒柱」と思っています。姑に現実を知らせて心配させることもないので、一家の貧困度を話したことはないですが、ささやかながらの祝い袋まで夫からのプレゼントと思われるのはしゃくだから、私の名前だけをかくのです。ヨメの意地。

 姑は元気いっぱいしゃべりまくっていました。老人会では70代は「若手」で90代になると「私は年だから、もう役員できない」と言うのも納得してもらえるのだそう。84歳の姑も、ようやく「私、このごろ何でも忘れてしまうから、役員なんてできないわ」と、お役ご免を願ったのだって。たしかに、姑のおしゃべりは「新しいことは何にも覚えられない」といって、昔の思い出話がほとんどでしたが、まあ、私よりは元気に見えます。

 老老介護というのも、私のほうが先に介護される境遇になるって場合もあり得る。どうやら私のほうが先にガタがきているみたいですから。声を出すことが健康にいいと信じている姑、童謡を歌う会と詩吟の会に毎週でかけ、お習字教室のお稽古も欠かさない。せいぜい姑に元気のもとを学ぶことにしましょう。私も10ヶ月お休みしたジャズダンスサークルに来年は復帰するつもりです。

<つづく>
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2009年12月28日


ぽかぽか春庭「ダンスサークル忘年会」
2009/12/28
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(2)ダンスサークル忘年会

 家族忘年会のほか、出席した忘年会はひとつだけ。12月18日金曜日は、ジャズダンスサークルの忘年会でした。ジャズダンスといっても、フラメンコ風ダンスありフラダンスあり、ソーランなどの民謡で踊ることもあり、マイケル・ジャクソンやプレスリーの曲あり、何でも踊ります。
 今年3月に中国に出かける前、「半年やすみます」と言って休会費を払ったのだけれど、帰国しても忙しさと体調不良にまぎれて、ずっと休会のままでした。2010年年明けから練習に復帰するということで、忘年会には参加しました。
 働く女性が週の終わりに集まって、身体を動かして一週間凝り固まった心身ほぐし、たまには練習後に集まっておしゃべりして、という自主サークルです。離婚やら別居やら親の介護やらさまざまな女性のライフステージを抱えながら、みな年に一度の発表会では自分たちで衣装を考え、プログラムを手作りし、楽しみながら踊っています。

 体調を考えてこのところ控えていたのですが、忘年会くらいはいいかと生ビール中ジョッキを頼みました。メンバーの半数はビールで半数はホットウーロン茶という注文ですが、アルコールが入らなくても、皆よくしゃべります。

 週末に夫婦仲良く観劇など続けているという話を聞いてきたトモさんのところでは、最近週末が楽しくないのだって。これまではご主人が仕事場に月~金で泊まりこんで働き、週末だけ帰宅していたので、週末は仲良くすごしてきたのに、最近の不況で事務所を閉鎖し、毎日自宅にいることになった。そうしたら、週末に仲良く過ごすことが難しくなって、毎日の夕食の準備がストレスになってきたのだって。娘さんが嫁いだあと、一人で気ままに食べたいものを手軽にすませていた平日も、ご主人がいるとなると、仕事を終えてあわただしく帰宅したあとそれなりの夕食を整えようとすると、気が重いのだと言う。え~、ストレスになるくらいなら、夕ご飯作らなければいいんじゃないの、と思ったけれど、人それぞれの生き方だろうから。

 お宅はどうなの?と聞かれたけど、私は今、夕食作りをリタイアした境遇だから、食べるだけの人。2007年に中国へ行っていた間、娘が夕食作り係りになってから、ずっと娘が夕ご飯作ってくれています。私はたまに自分で「けんちん汁食べたくなった」とか「ジャガイモ煮っ転がし食べよ」と思って、自分の食べたくなったものを作るくらい。
 娘の料理は、生協の半調理品やレトルトを利用する「お手軽簡単クッキング」です。ジャガイモの皮むきとか大根千切りとか、下ごしらえに手間暇かかることはしたがらないので、そういうものが食べたいときは私が自分で作る。普段の食事はどうしても若者向けの献立になります。娘とむすこはイタリアンパスタが好きなので、今まではスパゲッティやマカロニくらいしか知らなかった私も、ペンネとかフィットチーネとかいろんな種類のパスタがあることを知りました。

 私と「パラサイト息子を抱えて細々働く母親同盟」を結んでいるミサイルママも、「このごろ息子が自分で台所に立って自分の分の食事を自分で作るようになったの。私は私で気ままに自分の食べたい分だけ作るんだけど、たまに息子が作ったのが鍋に残っているとき食べてみると、これがけっこうおいしい」と、言う。うらやましいな。我が息子は父親の遺伝子を受け継ぎ、自分で作るくらいなら、コンビニのおにぎり一個でもカップヌードルでもあんパン1個でも、面倒なことなしに食べるほうがいい、と言う。

 「外食主義」の夫ですが、このところ食うや食わずの貧困生活だから、事務所のキッチンで鍋に湯をわかすことくらいはする。カレー屋へ行く回数より、レトルトカレーを温めて、パックご飯をチンして食べる回数のほうが多くなったというし、ラーメンも作るようになった、と言う。「インスタントではないよ。ちゃんと鍋でラーメン作るんだ」と威張るので、娘がよくよく問いただすと、夫はカップヌードルやどんぶりにお湯を注ぐチキンラーメンのたぐいを「インスタントラーメン」と呼ぶのだと信じており、鍋で作る袋入りのラーメンはインスタントではないと思っていたのでした。

 近頃は男子厨房に入り浸りで料理三昧のご亭主もいるそうだけれど、なんにせよ、作るのも食べるのも、それぞれ好きにしたらええんでないかい。作るのが面倒だと思ったら、作らないでも生きていける今の世はありがたし。一番やっかいなのは、余所でうまいもんを食べ慣れて口が肥え、女房の作る食事をおいしいともありがたいとも思わずに食べるだけで文句つけるダンナだということになった。

 介護のたいへんさやら、亭主のこきおろしやら、不出来な子供の愚痴やら、おしゃべりの花を咲かせているダンス仲間の女性たち、居酒屋での「自分が作ったり、後かたづけしたりしなくてもよい食べ物」は、どんな料理でもうれしい。焼き鳥、豆腐サラダ、鰹たたきなど、運ばれてくるつまみをつぎつぎ平らげていきました。
 
 帰宅して、ミサイルママに買い置いてもらっていた今年9月の発表会のDVDを早速パソコンで見てみました。サークルのオバハンたち、オープニングの曲では、私が中国土産としてサークルメンバーに渡した「中国東方舞(中国風ベリーダンス)」のヒップスカーフを腰に巻いて踊っている。うん、みんなエグザイルのダンサーには負けてるけれど、楽しそうな笑顔はだれにも負けてないサイコーの踊りでしたよ。

<つづく>
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2009年12月29日


ぽかぽか春庭「下北沢界隈」
2009/12/29
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(3)下北沢界隈

 1970年以来40年続くおつきあいの友人K子さんが、お芝居に招待してくれました。演劇好きな私ですが、このところ、とんと劇場に足を運ぶこともなかったので、年末演劇忘年会と思って、いそいそ出かけました。

 下北沢は若者の街、そして小劇場のメッカです。しかし、私は下北沢で演劇を見たことがなく、初めて下北沢に降りました。K子さんは、「それなら、下北沢の駅周辺をちょっと歩いてみましょう」と、本多劇場や「劇」などの前を通りながら、下北沢駅周辺を案内してくれました。

 本多劇場は下北沢では一番大きい。上戸彩が主演した2006年のドラマ『下北サンデーズ』(原作石田衣良)では、駅前劇場(客席数160)からスズナリ(客席数230)へすすみ、下北沢の上がりの本多劇場(客席数386)へと進出していくのが「シモキタの出世コース」と描かれていました。「下北サンデーズ」、視聴率は低かったようですが、我が家ではヒットドラマで、毎週楽しみに見ていました。

 駅前の韓国食堂でちょっとおなかに入れてからミニシアターへ。入った劇場は、小劇場の中でもこれ以上客席が少ないところはないだろうというくらいの客席数26席のミニシアターです。定年後生活のライフテーマを「演劇」にしているK子さんは、このミニシアターの「シーズンチケット」というのを購入。劇場レパートリーのうちの5本を見ることができ、うち1本は「ペア鑑賞券」付きという制度。そのペア鑑賞の「お連れ様」として誘ってもらったのです。

 「東京ノーヴイレパートリーシアター」の付属第一スタジオでの公演。レパートリーをすべて見てきたKさんによると、「観客の数が出演者数より少ない回もあった」そうです。演出家はロシア人で、役者たちは、スタニスラーフスキイ・システムというロシアのリアリズム演技による訓練を受けている、ということでしたが、ぼそぼそつぶやくようなセリフ術でときどき何言っているのかわからないこともありました。

 客席数26で、お客とキスできそうな距離で演じているからいいようなものの、これで本多劇場へ進出したとき、マイクをつかわなければ、一番うしろの席には声が届かないかも、というのはよけいな心配で、大劇場ではちゃんとうしろまで届く発声ができるのが役者。といっても、商業演劇の大劇場公演ではマイクを使うので、近頃の舞台役者、発声訓練では滑舌練習はするけれど、音量訓練はしたことないという役者も増えてきました。大声が必要なのは、マイク設備のない教室で講義する教師くらいなものになった。 

 「ノーヴイ」というのは、ロシア語で「新しい」という意味だそうです。日本語では「新劇」というと、独特のニュアンスがありますが、さて、「東京」日本語、「ノーヴィ」ロシア語、「レパートリーシアター」英語、という「やど屋旅館ホテル」みたいな「混成語」を劇団名にしているこの劇団の味やいかに、と13の客席が2列並んでいる前列の真ん中に座りました。小劇場の椅子というと、ベンチに横並びとか床に座布団とか、折り畳み椅子というのが多いのですが、この小劇場の椅子はゆったりした一人がけの肘掛け付きのチェアです。

 演目は近松門左衛門の『曽根崎心中』。私は昔むかしに文楽で見たことがあるきりです。(劇場へ行ったのではなく、3チャンネルあたりのテレビ放映か何かで)。歌舞伎の演目にもなっているのですが、私は人が演じるのを見たことがなかったので、今回初の人間曾根崎です。
 近松門左衛門の代表作にして人形浄瑠璃が「時代物」から「世話物」へとジャンルをひろげる最初の作品になった『曽根崎心中』。お初徳兵衛の心中事件を脚色した今でいう「実話の再現ドラマ」です。

 元禄16年4月7日(太陽暦では1703年5月22日)、大阪堂島新地天満屋の女郎・はつ(数え21歳、満年齢だと19歳)と内本町醤油商平野屋の手代である徳兵衛(25歳)が梅田・曽根崎の露天神の森で情死した事件に基いて、近松門左衛門は歌舞伎と浄瑠璃の脚本を1ヶ月で書き上げました。心中事件の1ヶ月後には舞台で『曽根崎心中』が上演されている。すごい早業。今の感覚でいえば、事件発生後、すぐにテレビで「再現ドラマ」を放送するようなもの。テレビの再現ドラマはその場で消えていくような薄っぺらいものにしかなりませんけれど、天才近松は事件からたった1ヶ月後の上演で、300年後も上演が続く傑作を書き上げました。

<つづく>
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2009年12月30日


ぽかぽか春庭「一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ」
09/12/30
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(4)一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ

 江戸幕府開闢して100年。激動の戦国時代からみると、身分は固定され出世の糸口も見つからない時代の閉塞感にあえず人々にとって、「心中」という行為が、自分の人生に最後の光輝をあたえる行為として映りました。『曽根崎心中』の大ヒット以後、江戸元禄時代を生きる人々に心中ブームが起こりました。
 名もなくしがない手代の徳兵衛と、人身を売り渡された女郎のおはつとが、共に死を遂げたことで、物語の主人公として津々浦々にも知られる「死をもって愛を貫いた二人」として語りつがれるのを見た人々にとって、心中は極北の自己主張に思えたのです。
 近松の『心中天網島』上演は1720年。心中ブームは過熱します。しかし、元禄から享保へと時代が変わると、江戸幕府は1723(享保8)年に、心中物の上演禁止と実際に心中した者の葬儀禁止を発令しました。暴れんのはいいけど、情死は御法度、心中はお嫌いな八代将軍だったのです。

 『曾根崎心中』の大ヒットで、上演した竹本座の座元は、貯まりにたまっていた借金を、きれいに返済するほどの大もうけ。お初徳兵衛が心中したおかげで、竹本屋は首くくらんでも済んだ、というオチがつきました。人生一発逆転。「劇的!」はどこに転がっているかわかりません。

 「東京ノーヴイレパートリーシアター」の『曽根崎心中』は、近松門左衛門がナレーター役で出てくるという演出で、心中に至る途中の場面展開を、近松が両手にお初と徳兵衛の人形をはめて語る、という趣向もあり、おもしろい演出でした。演出舞台監督としてレオニード・アニシモフというロシア人演出家の名があげられています。レパートリーのうち『かもめ』『三人姉妹』『ワーニャ伯父さん』というチェホフものや、ゴーリキの『どん底』などは、彼の演出を継承して上演しているのでしょうけれど、この『曽根崎心中』の演出を実際に行ったのは誰なんだろう。公式にはこれもアニシモフ演出になっているのだけれど。

 曽根崎心中はあまりにも有名なお芝居です。忠臣蔵のお芝居を「最後にちゃんと仇討ちができるのかどうか」をはらはらしながら見る人はおそらくいない。最後に本懐遂げて雪中泉岳寺へ凱旋することを皆知っていて見ているのですが、曽根崎心中のお話も、江戸時代の人はふたりが心中して幕がおりることを承知で見ていた。で、このミニシアターに来ている人も、ストーリーは承知だ、ということが前提になっていて演出されているのだろうと思いました。もし、初めて曽根崎心中を見た人が26人の観客の中にいて、ストーリーを追ってこの芝居を見ていたのなら、なぜ二人が死ななくてはならなかったか、死ぬことによってどうしようとしていたのか、よくわからなかったのではないかと思えたのです。

 終演後、近くのお好み屋でK子さんと歓談。K子さんは、一昨年定年退職した「キャリア」で、リタイア人生を謳歌しています。年金もない私から見ると、あこがれの「おひとりさま年金生活」を続けている人。今回、お芝居もおもしろそうでしたが、何よりもK子さんの暮らしぶりを聞かせてもらうのを楽しみに下北沢で会うことにしたのです。繁華街から一歩入った住宅地にあるマンションのローンも終わって、悠々自適のおひとりさま。

 K子さんは、現在、高円寺にある演劇スクールに通学中です。演劇史や演劇理論を学ぶ一年コースで、さまざまな演劇との関わりを持つ人々とともに、舞台美術から演出方法まで演劇について幅広く学ぶことができるのだそうです。舞台美術の授業では自分で舞台の正面図俯瞰図を描き、舞台模型を作ることまで課題になっているそうで、本格的に演劇を学んだ結果、演劇研究を大学院で続けていこうか、という気も出てきたというK子さん。「今更勉強しても何になるわけでもないけれど、やってみたいことがあるので」と、K子さんは言います。

 「やってみたいこと」というのは、前回会ったとき私も強くすすめた「ギリシャ悲劇」の上演。ギリシャ悲劇は、K子さんが若いころに関わってきた分野です。「単なる朗読会ではなく、かといって蜷川幸雄が演出するようなスペクタクル的な上演でもなく、もう少し違う形で、ギリシャ悲劇を上演する方法はないか、研究してみたい」というのがK子さんのライフワーク。

 「いいね、いいね、上演しましょう」と、お好み焼きとビール1杯ですぐ盛り上がる私。K子さんは、「じゃ、主役はあなた」と冗談をいうので、もう私は、メディアだろうとエレクトラだろうと、何でもやりましょう、とすぐその気になる。K子さんの研究がまとまって上演できるのが20年後だとして、80歳の私が主役をしたら、どんなアンティゴネー、どんなアンドロマケになることやら。おっと、文化勲章国民栄誉賞森光子さんは89歳にしてこの11月にも明治座公演にゲスト出演して元気な舞台姿だったというというし、HAL80歳ヘカベは案外いいんじゃないの?
 
 さてこのライフワークの夢は、♪一足づつに消えていく、夢のゆめこそあはれなれ、となるのやら、
 あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり。鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる、星の妹背(いもせ)の天の川。梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りていつまでも、我とそなたは婦夫星(めおとぼし)。かならず添うと縋(すが)り寄り、二人がなかに降る涙、川の水嵩(みかさ)も増(まさ)るべし。

 2009年10月にお寺(椎名町金剛院)で上演された際の『曽根崎心中』
http://www.youtube.com/watch?v=bij6olnXiIg
 東京レパートリーシアターがユーチューブに出している『曾根崎心中』の数シーン。
http://www.youtube.com/watch?v=3zAsYQ_z3Pg&feature=related

 あれ、数うれば暁の、七つの時がむつ鳴りて、残るひとひがこんねんの、日めくり納めの一枚よ、寂滅為楽と響くなり。2009年残り一日を有意義におすごしくださいませ。

<つづく>
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2009年12月31日


ぽかぽか春庭「よいお年を」
2009/12/31
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(5)よいお年を

 今年1年振り返り、良いこともあり、残念無念なこともあり。悪いこともいいこともあるのが人生。禍福はあざなえる縄のごとし、人間万事塞翁が馬。ということで、今年前半は中国で楽しく暮らし、たらふく中華料理を食べたまではよかったのですが、後半は年をとったことを痛感させられる病院通い。28日月曜日は病院最終日に駆け込んで、眼底検査やら緑内障検査やら、新型インフルエンザ予防接種やらをしてきました。

 左目に緑内障の兆候もあるということで、1ヶ月後の再検査の結果で結論を出すと言う。文字が読めないと、仕事できなくなるから、目はいちばん気にしてきたのに、老眼は気になったけれど、緑内障まで気にかけてこなかった。
 「身体が資本、元気なだけがとりえの私」と、自分に思いこませて暮らしてきたけれど、それは検査せずに事実を知らずにいたからそう思いこめたのであって、きちんと検査してみたら、あっちも悪いこっちもガタが来ていると、内科整形外科眼科の医者に責め立てられて、もう明日にもくたばりそうな気分。

 毎年、「今年も貧乏だったけれど、風邪ひいたくらいで、大事になることはなくすんだのだから、よしとしよう」と、大晦日をまとめるのに、今年は最後まで落ち込みから回復しませんでした。来年はもっともっと健康に気をつけなければ。年には勝てません。カロリー制限もするし、チョコ一箱一気食いやら「ランチはかりんとうと甘納豆1袋ずつ」なんて食生活も改める(つもり)。

 カフェ日記は365日のうち350日は更新してまいりました。コメント返信をしていませんのに、春庭コラムへの感想をありがたくちょうだいしております。拙い文章へのみなさまからのコメントに感謝いたします。
 来年もかわりなくご来訪いただきますよう、お願い申し上げます。それではこれにて、本年のおひらき。
 みなさまに置かれましても、来年が千里を駆けて飛躍する年となりますように。よいお年を。

<おわり> 
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2010年新年

2010-11-18 09:41:00 | 日記
2010/01/01
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(1)新年おめでとうございます

 新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 暮れに、春庭はなけなしの虎の子はたいてジャンボ宝くじ買ったのですが、まあ、例年に変わらず、、、おっと、正月早々縁起悪い話をしちゃいけませんね。言霊、ことだま。せめて元旦くらいは「虎の子を得る」ような景気のいい話しをしておきましょう。虎にまつわる諺など。もっとも大切なもののたとえとして、虎が子を大切にするようすから、「虎の子」という成句ができました。たいていは現金をさすのですが、一番大切な虎の子、あなたにとっては、何でしょうか。私にとっては、このコラムを書き続けることが元気の元でもありますので、2010年もせっせとつづってまいります。

 ジャンボくじでは3億得ることができませんでしたが、HALの志は、「虎は子を思うて千里を帰る」
 千里を走れるという虎は、巣穴にいる自分の子供を思って、千里先まで獲物を追いかけ、また千里を走って子のもとへ帰ってくる。親が子を思う気持ちの強さをたとえているのですが、仕事して疲れて千里とまではいかないけれど、片道90分を駆けて帰宅してみれば、子はゲーム三昧、ゴミ出しひとつやってない、という有様で、、、あれれ、また景気の悪い話しになってきた。
 ひとつ、虎にまつわる勢いのいい諺など紹介して、縁起良く新年を始めましょう。

 虎の故事成句・諺で、一番人口に膾炙しているのは、
・牡丹に唐獅子、竹に虎=ぴったり調和して絵柄が会っている組み合わせ。
・虎穴に入らずんば虎子を得ず=虎の住む洞穴に入らなければ虎の子は得られない。何事も危険をおかさなければ、目的を達したり、大きな成果を得たりすることはできないことのたとえ。現代語では「ハイリスクハイリターン」。英語ではThe more danger, the more honour. Nothing venture,nothing win.でしょうか。

 四字熟語では、
・虎視眈々=虎が獲物を狙って鋭い目でじっと見下ろすように、おのれの野望を遂げるため、じっと機会を狙っている様子。
・虎嘯風生(虎うそぶけば風しょうず)=虎がほえると谷風(春風)が起こる。立派な君主のもとにはすぐれた臣下が現れる、また、英雄が出現して天下に風雲の起こることのたとえ。出典『「淮南子(えなんじ)』天文訓(てんもんくん)虎嘯きて谷風至り、竜挙がりて景雲属(あつ)まる。

 そのほか、虎は威勢があったり、能力が高いことのたとえに使われることが多い。
・虎豹豈犬羊の欺きを受けんや=虎や豹のような強い獣は犬や羊などには騙されない。徳のある者は凡人などにあなどられることはない。
・之を用いれば即ち虎となり、用いざれば即ち鼠となる=人は、重い地位を与えられれば虎のように勢いづいて大きな働きをするが、用いられないとなると鼠のようにこそこそと逃げ隠れする小人物で終わってしまう。人はその地位によって能力を発揮できる。出典『東方朔(とうほうさく)』
・雲は竜に従い風は虎に従う=雲は雨をもたらす竜に従って現れ、風は虎が吠える息の勢いに従って起こる。立派で聡明な君主のもとにはすぐれた臣下が出現し、これを助けるというたとえ。また、相応しいものを伴うことで物事がうまくいくというたとえ。(成語林より)出典『易教(えききょう)』乾(けん)
・騎虎の勢い=走る虎に乗ってしまった者は、途中で降りれば虎に食われるから、降りたくても降りられず、行き着くところまでいくしかない。無茶な勢いで物事を始める蛮勇のたとえ。
・苛政は虎よりも猛し=租税を厳しく取り立てるむごい政治は、人を食う虎よりも恐ろしがられる。

 あれれ、なんだか話が難しくなってきて、景気も先行き不安な様子になってきたので、ここらでおひらき。
 みなさまの1年が、虎穴に入らんでも虎の尾を踏まずとも、「虎の子を得る」ものとなりますように。

<つづく>
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2010年01月02日


ぽかぽか春庭「虎の子のゆくえ」
2010/01/02
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(2)虎の子のゆくえ

 2009年の春庭メインイベントは中国赴任でした。古代高句麗の好太王石碑(広開土王碑)を訪ねる旅や長白山(白頭山)登山など、楽しい思い出がたくさん残りましたが、ひとつだけできないまま終わって残念だったことがあります。東北虎(アムール虎・シベリアンタイガーの亜種)の保護飼育施設(虎園)の見学ができなかったこと。同僚のリグン先生が「絶滅危惧種になっている東北虎を集めて繁殖をはかっている施設なのでぜひお目にかけたい」と、二度も見物日程をつくってくれたのに、二度とも体調が悪くなったり、仕事が入ったりして行けませんでした。

 そのときは、「虎より仕事優先」と思ったのですが、今年が寅年だったことを考えると「無理しても見学に行って写真の一枚もとっておけばよかった」と思います。市内の動物園では東北虎の写真をとったのですが、広い虎舎の奥にいて、私のデジカメではズームを最大にしても、ちっちゃくて、虎か猫かわからないような姿しか撮れませんでした。
 遠目であっても、虎舎のなかにいる東北虎、風格ある姿は美しかったです。

 東北虎は、長白山の山中の王として生きてきたのに、開発が続き今や野生の虎は絶滅危惧。ハルビン近郊などに「虎園」が設けられ、保護繁殖の対象になっています。日本のトキみたいな存在。日本トキが絶滅してしまったのは、その美しい羽が狙われて捕獲されたこともありますが、何より大きい原因は、田圃に農薬がまかれてトキが餌にする田の小動物がいなくなったこと、トキが営巣して卵を温める静かな森がなくなったこと。
 トラの生息地も同じ環境破壊にあいました。山は切り開かれ、野に鉄道が通り、虎が生きていく環境がなくなってしまった。

 トキは同種の中国トキを人工繁殖させてから野生に戻す努力が続けられていますが、東北虎は、繁殖して個体数が増えたとして、野生に戻すことは難しいのではないかと思います。開発と自然破壊はとどまることなく進んできました。虎園の飼育場から野生に戻そうにも、虎がウサギや狐を狩る広い野山は、消えています。かって虎が生息していた長白山も、虎が生きていけるだけの生態系は確保できない。
 開発された田畑や工場の土地を「森に戻そう」と主張しても難しいだろうから、せめて、東北虎を主人公にした「虎文学」をご紹介いたしましょう。

 ニコライ・A. バイコフ, 今村 龍夫訳『偉大なる王(ワン)』完訳版(中公文庫)
 東北の開発によって倒れていく虎を描いています。シートン動物記などの動物文学が大好きだった小学生のころ読んだきり読み返していないので、細部は忘れていますが、最後に王と呼ばれた虎が倒れるところでは泣いたことを覚えています。

  虎の次に滅亡するのは、人間です。まあ、私はこのまま環境破壊が続いて人間が絶滅したとしても、カンブリア紀の生物大絶滅の再来、そういうこともあるだろうさ、という派なので、人間が地球の「王」になった次には、猿がなろうともゴキブリがなろうとも、それでいいと思っています。恐竜はジュラ紀には地球の王となり、体長40mというデカさまで進化しました。崖の岩が落ちてきてしっぽにコツンとあたると、数分後に脳が「痛い」と感じるくらいだった、というのは冗談ですが、その身体のデカさゆえに、寒冷化した地球で生き延びることができなかった。

 隕石衝突で舞い上がった灰が天空を覆って日差しが遮られ地球の温度が下がったとき、卵が孵化することができなかったので、恐竜は生き延びることができなかった。胎生のほ乳類が地球の覇者になり、人間が「王」となった。この王は愚かな王で、「偉大なる王」ではなかったゆえ、次は人間が滅びるのです。人間は体長をでかくする方向には進化せず、脳の精度を上げる方向に進化したけれど、恐竜が身体のデカさをもてあましたように、人間は発達した脳を制御できなかった。快適に暮らしたいという欲望のほうが、環境保全の欲望より強かったのだから、欲望ゆえに人間が滅びるのだとしたら、これは人間という種に備わった滅亡プログラムの一環であり、運命を変える努力をしなかった人間は、当然地球の「種の変転」に組み込まれて滅びます。恐竜は自らが滅びただけですが、人間は他の種をさんざん滅ぼしていますから、罪深い。

 人間の次に何が地球の王となるのかわかりませんが、地球が太陽に飲み込まれて新星になる日まで、あと50億年はいろんな生物が覇者として交代するでしょう。地球100億年の時間のなか、その中程の、太陽を一周するこの時に、私は生きて生活してまいります。生き延びることができるかしら。人間滅ぶその前に、春庭は飢えて滅びることになりそうです。今年は去年より授業数減って、収入ますます減少。ううっ、私の虎の子が、千里を走って去っていく。

東北の虎吠えし野に一人居て千里は遠しと立ちつくすかな
長白山生態再現コーナーに東北虎の剥製吠えたり(東北師範大学自然博物館にてソンイェンティン、魏シャンユエと)
東北虎と白虎指さし虎(フー)フーとはしゃぐシャンユエ高校生なり(長春市動物園にてルールー、シャンユエと)
渤海の浜に寄り添う友のいて「偉大なる王」読みし日語りき(葫蘆島の海岸にて周アリンと)

<つづく>
07:33 コメント(2) ページのトップへ
2010年01月03日


ぽかぽか春庭「時代を駆ける-駅伝を見ながら」
2010/01/03
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(3)時代を駆ける-駅伝を見ながら

 虎は一日に千里を駆け千里を戻る。日本の若者は正月早々、箱根山まで100kmを駆け、百キロを戻る。今年も箱根駅伝のテレビ観戦楽しみました。
 夫と娘と私の出身校が出場できるので、応援にも力が入ります。私が在籍中の大学もいれて4校の応援ができるから、どこかひとつくらいは優勝に絡んでいけると、娘とふたりわいわいとテレビの前へ。往路は、娘が手に汗握って応援する展開。4区あたりで息子が起きてきた。息子の在籍校に駅伝部はないから、客観的にレース展開を見るだけ。

 新キャッチフレーズが「山の竜神」となった柏原竜二。去年2009年は「山の神(今井正人)を越えた、山の神童」というネーミングでしたが、神童っても童はこどもなんだから、神を越えちゃまずいだろ、と批判され、1年間考え抜かれたネーミングが「山の竜神」。おっと、それって、ただ竜二っていう本名に「ん」つけただけじゃん、なんていうツッコミを一応しましたが、竜神という字面は重々しいけれど、サユリンとかマスミンとか名前に「ん」をつけるニックネームと思えば、足取りも軽くなる感じ。リュージン、いいんじゃない。予想通りに6人抜きを演じて往路優勝のテープを切りました。

 竜神がトップを奪ったあと、娘は「1区から4区までトップを応援できて、それだけでもさい先よい年と思うことにしましょう」と、残念そう。「自分の出身校が下位で走っていたときは、テレビがトップばかりうつすので、もっと下位も映してくれればいいのに、と思ったけれど、自分の応援するところがトップになると、下位なんか映さなくていいから、トップをずっと映せばいいのに、って思うもんだ」と、おかしそうです。

 私は、辺見庸の『自分自身への審問』を読みながら見ていました。私にとって辺見庸は、「単行本が出版されたら発売と同時に買う作家」のひとりだったのですが、このところ新刊書店にはとんとご無沙汰で、専門書をアマゾンで買うか、百円本ショップで買うかのどちらかになってしまって、2006年新刊の『審問』を買い損ねていました。百円ショップで見つけて買ったのです。辺見様、闘病中なのに印税納めなくてすみません。なにしろ夫が生活費持ち出していってしまうから、石油も買えない状態でいましたので。

 いつもぐずぐずとヤワな志しか持ち得ない自分の心を脇において、「時代の良心」として辺見が語るのを聞いてきました。辺見庸を時代を併走する人として愛読することで、自分の不運を愚痴るばかりの私自身の「良心の代理」を得てきたというところ。
 辺見庸は2004年に脳出血に倒れ癌を患い、壮絶な闘病の中、ますますとぎすまされた言葉のかずかずを結晶させている。

 また愚痴で始まりそうな年初に、ガツンと活を入れてほしくて、走り抜ける若者達の姿を追いながら、順位展開のない画面の間やCMの時間、細切れで読みました。細切れで読むには惜しい、ギリギリと時代を切り取る言葉たちを片目で追いながら、耳では、ケニア人留学生ダニエルがごぼう抜きを演じ、コスマスがトップに迫る活躍するのを聞きました。ダニエルやコスマスの故郷を思い、ケニアのサバンナや海辺の青空を思う。

 辺見庸はアフガニスタンの空を「たんば(胆礬)色」と形容しました。胆礬色とは硫酸銅の結晶が持つ半透明の青を言います。辺見庸がアフガニスタンで見た美しい青空の色は、また、「正義の名のもとに人を殺す行為」が、システマティック平然と実施される大地の上に広がる空の色でもありました。
 若者達の力走を見ながら、私は、辺見の「闘い続ける言葉」にどこまで併走できるのやら、と思います。

<つづく>
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2010年01月04日


ぽかぽか春庭「復路リユース」
2010/01/04
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(4)復路リユース

 箱根駅伝、東洋大の二連覇というフィナーレ。復路は往路を折り返して走るリユース(再使用)です。
 娘の出身校は往路の活躍に比べ復路はぎりぎりシード校入り。往路に主力選手を投入したのは作戦通りなのだそうですが、娘は「ぎゃあ、父のところが復路優勝しちゃって、また選手起用術の良否とか解説を聞かされる羽目になりそう」と悔しそう。
 観戦したほうは、「あそこは1キロ3分10秒以内のペースで運ぶべきだったでしょう」とかなんとか、勝手に走り方を批評して見ていますが、どの選手も精一杯走ったのは間違いない。シード落ちしたところも、たすきを渡せなかったところも、選手一人一人が己と闘って走り続けたのでしょう。

 私?私とて己との闘いを続けていました。わたしは、「食べたい、もっと食べたい」という果てしない食欲と闘っておりました。
 娘は、「母、確か大晦日には、新年から甘い物と炭水化物は食べないって言ってたよね。お正月になったら、三が日過ぎたら食べないに変わった。こりゃ、三が日過ぎると松の内過ぎたらに変わって、結局決意はいつもの、明日はいつも明日ってことになりそうだ」と、言います。そうね、2010年の出だしは、闘いにちょっと負けてる。はい、娘が作った栗きんとんは甘さ控えめでおいしかった。暮れに姑が煮て持たせてくれた小豆を冷凍して置いたのを解凍してお汁粉をつくって息子と食べた。(娘はあんこが嫌いでお汁粉を作ってくれないので、これは自分で作る)

 いやあ、眼圧が高いの、ガンマなんたらの数値が悪いのとさんざん脅されて、これまで健康を過信していたことの反省は十分にしております。明日から、炭水化物は控え、腹八分目を決意し、ゆっくり噛んで満腹中枢が働くよう、心がけます。早食いがイケマセンのです。わかってます。あ、大食いもいけません。あ~ん、食べるしか楽しみがないのに、つらい。

 辺見庸は、脳出血と癌の両方を患った後も、身体の変調とも世の変節とも闘っている。 今、同じように九州のウェブ友は「首から下が完全麻痺」という状態と闘っています。車椅子の生活を改善するために、難しい手術を勇気を出してうけたところ、手術後に首から下がまったく動かなくなってしまったのです。車椅子生活の中、パソコンでウェブ友と通信したり、詩を日記に載せたりすることをなによりの生き甲斐にしていたchiruchiru77さん、パソコンをクリックすることも不可能になり、どれほどつらいことでしょう。そのような状況であっても、チルチルさんは未来への希望を失わず、全身麻痺と闘っています。

 チルチルさんとの会話を、看護に通う妹さんが代理で書き留め、「青い鳥日記」にのせてくれました。
 Ifもしも
(姉)ねぇ!もし、もしもね、もしも手が自由に使えるようになったら、何が一番にしたいかわかる?
(妹)ハナクソホジリ!
(姉)がはっはっはっはー、なんでわかったとぉ!?

 首から下がまったく動かないという状態でも、読者に笑いを届けようとする友の志を受けながら、私もまた今年、書き続けることで時代を走っていこうと思うのです。

 箱根駅伝往復応援している間に、辺見庸の『自分自身への審問』を読み終わりました。食事制限すらできないヤワな私の心身に、ずっしり重い読後感でした。
 たんば(胆礬)色の空の下では、今年も「テロに対抗するために撤退はあり得ない」という「正義」のいくさがつづくのでしょう。今年も職を失い住む所も心の拠り所も失った人が3万人を越えて自死していくのでしょう。辺見は、この3万の自死を「見えない内戦」と評していました。何でもかんでも金銭に換算する価値観しか持てなくなった国での、「価値なきもの」とされた人々、己の生きていく価値を見いだせなくされた人々が内戦に負けた結果の自死です。勝ち組は株や相場の高下に一喜一憂しながら、笑顔も介護の質も思いやりもすべてに値札を張りながら勝ち続けていくのでしょう。

 私も病身となっても働き続けなければ食べていくこともできないので働きます。がんばります。書き続けます。

<つづく>
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2010年01月05日


ぽかぽか春庭「復路リデュース」
2010/01/05
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(5)復路リデュース

 人生、とっくに折り返し点を超えて、山下りが始まっていたというのに、自分の下り坂を考えずに突っ走ってきました。走り続けなければ倒れてしまう自転車操業ということもありましたし、山道を駆けめぐるアップダウンの激しい道で、今が登りか下りかも考える暇なく、ただひたすら働き続けてきたのです。クロスカントリーロード駆けめぐる山道が破壊されてずたずたであることにも目をつぶり、ひたすらペダルをこぎ、走り続けてきました。

 トキも東北虎も絶滅危惧種となりましたが、環境破壊が続いて、次に倒れるのは人間です。「地球に優しく」というエコ標語に対して、誰が言ったせりふか忘れましたが、「本当に地球にやさしくしたければ、地球にとって一番いいのは人間が絶滅することだ。スーパーにエコ袋持っていって環境保護した気になるな、割り箸使わないくらいで、自分はエコ生活しているなんて思うな、まず、あんたが地球から消えることが、あんたにできる最高のエコロジー」と、喝破した方がいました。

 私は地球から消えてしまいたくはないので、せめてリユース・リサイクルにでも励みましょう。2010年最初のシリーズは、再利用リユースから始めます。
 2003年にカフェ日記を始めたのですが、2003年9月と10月に書いた文章は、カフェコラムから削除して、本サイト『話しことばの通い路』に格納してあります。読もうと思えば、本サイトのを見ればいいことなのですが、カフェコラムとして書いたのに削除してしまったのは残念に思うので、再録したいと思います。

 2003年9月10月の春庭コラムをどうしてカフェ日記から削除したのかというと、2003年10月30日に書いたコラムにある人物の実名を書いてしまったからです。
 40年前、私が大学病院内科検査室の検査士として働いていたときの思い出話を書きました。その中に、同期同僚の仲良しだった友達カコさんを登場させ、その同僚が結婚した相手の名を実名で書き込みました。連絡が途絶えた友が、今どうしているのか、知りたいという思いがありました。

 カコさんがおつきあいしていた人の名前を検索すると、某県の赤十字病院副院長をしているお医者さんが出てきます。カコさんは学生時代に知り合った医者の卵と結婚したいと望んでいたので、この副院長さんの奥さんになっているのではないかしら、赤十字病院に問い合わせのはがきでも出してみようか、いや、長年連絡が来ないのは、連絡をとりたくない事情があるのかもしれないから、迷惑をかけるかもしれない、と躊躇していたら、思いがけなくカコさん本人が、春庭コラムを読んだ、というメールをくれたのです。ネットが人捜しに役立つことが実感できましたが、結果はあまりよい方向に向かいませんでした。

 カコさんからのメールは、なつかしい友にネット上で再会できた、という内容ではなく、夫の実名を削除してほしい、という依頼でした。それは本当に申し訳ないことでした。勝手に実名を出されたりしたら、迷惑に思うでしょう。実名を仮名かイニシャルに変えようと思ったのですが、古いバージョンのころのカフェ日記は、日記の「一部分書き換え」ができなかったのです。一箇所でも書き換えをすると、それは新規作成となって、作成当日の欄に移動してしまい、日付が変わってしまう。

 日付と内容の順番を違えると、当時書いていたシリーズが成立しなくなってしまう。「アイウエオ順に作者名をあげて、本の内容と自分語りを連動させる」という試みをしているシリーズだったので、ひとつだけ順番を変えると、アイウエオ順からひと文字が抜けてしまう。この時は、ひと文字でも抜けるとシリーズ整合性がなくなってしまうような気がして、2003年10月分を全部カフェ日記から削除しました。春庭の本サイト『話しことばの通い路』に格納し、カフェコラムからはリデュース(削減)してしまったのです。

<つづく>
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2010年01月06日


ぽかぽか春庭「復路リサイクル」
2010/01/06
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(6)復路リサイクル

 今になってみれば、削除要請があった10月30日の日記だけ削除すればよかったのだ、と思いますが、そのときは一ヶ月分削除がベストに思えたのでした。カコさんの意志を尊重し、カコさんに少しでも迷惑がかからないようにしたい、という思いが強かったのです。
 文章から「カコさんの夫の実名削除」だけを実行することができないなら、10月執筆分を全文削除する、ということにして、そのときはそれで仕方がないとと思えました。

 カコさんから連絡が来て、私はネットが結ぶ縁に大喜びしたのですが、カコさんのメールは再び途絶えました。「現在、英語教育を学ぶために、大学院修士課程に在学中」というカコさんの近況報告を受けたあと、パソコンメールにあるアドレスのバックアップを取らないうちパソコンが壊れて、アドレス不明になってしまったのです。
 春庭サイトに掲げてあるメールアドレスは変えていないので、カコさんが連絡したいと思えば、連絡してくるだろう、連絡がないということは、昔の友情をなつかしく思っておつきあいを復活させる気持ちが薄いのだろうと諦めてしまいました。

 私は大学病院で働いた時代をなつかしく思い、一番仲良しだったカコさんを今でも古い友人として大切に思っているのですが、当時も今も、これは片思い。当時カコさんは、恋人のタロさんとのおつきあいが大切で、同僚の私は単に仕事場での仲良しにすぎなかった。
 カコさん、今どうしているでしょうか。たぶん、英語教育の仕事や赤十字病院副院長夫人としての生活を続けて充実した人生を送っていることと思います。

 大学病院で内科検査士をして働いたころのこと、たった1年半の検査士生活でした。取得した衛生検査技師の資格は今ではただの紙切れですが、東京に出てきて一生懸命働いたころの思い出、今では宝物のように思います。

 (調べてみたら、2005年に衛生検査技師資格は臨床検査技師に統合されて、今ではこの資格は廃止されていました。衛生検査技師と臨床検査技師の違い。臨床検査技師は、医師看護師の指導の元、静脈からの採血検査ができるけれど、衛生検査技師は採血を行うことはできない、と、わかりました。そういえば、私は耳たぶにメスを入れて採血する業務を行ったけれど、注射での採血をしたことがなかった、今頃気づいた。最近の検査では採取する血液量が多くなったので、耳たぶ切開の採血法では十分な量を確保できないから、静脈採血業務ができない資格では不自由だから臨床検査技師に統合されたのでしょう)

 2003年に最初に書いたカフェコラムシリーズ、これも7年たった今になってみれば、宝物のように思えます。何も削除することはなかったなあ、と思うので、再録します。リユース&リサイクル掲載。
 1977年以前に読んだ本の作者名を(あ)から(む)まで並べ、作品の思い出たどってつづった自分語り。

 (め)以後の分は、2003年11月からのカフェコラムに掲載してありますので、すでに読んでくださった方もいるかもしれません。2003年に9月と10月の分を、読んでくださった方もいたとして、もう忘れていると思います。記憶に残るようなことは書いていないから。二度目の掲載リユースでも、もう一度お読みくださるなら、ありがたく存じます。

 たいしたこと書いてないけれど、自分語りってのは、年寄りに何度でも語らせてあげるのが、親切ってもんです。私など、姑が「生まれ故郷の家から女学校に通学するのに、駅のある所まで普段は片道歩いて1時間の道のりだけど、冬になると雪の道を踏んで片道2時間もかかったんだべした。冬だけ町に下宿する人もいたけれど、うちは貧乏だから下宿させてもらうお金がなかった」と語るのを、年始のたびに冬の思い出として聞かされております。そのたびに、「ええ、えぇ、米沢の雪はたいへんだったでしょうねぇ」と相づちうって、姑孝行相務めておりまする。

 2003年に「老いの準備」として書き始めた内容なのですが、今では本当に老いと戦う日々が始まって、ああ、このころは老いることが身にしみていなかったから、気楽に「老い支度」なんて言っていたんだなあと思います。では、2010年1月2月の春庭コラム、新年会報告のあと、2003「おい老い笈の小文」リユース&リサイクル掲載いたします。

<つづく>
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エスニック料理めぐり&風流俳句作成ソフト2010年2月

2010-11-14 17:06:00 | 日記
2010/02/25
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>エスニックめぐり10年02月(1)北欧料理と西安料理

 学期末、講師仲間の「打ち上げ」が続いて、エスニックめぐりで食べまくり。2月20日は、吉祥寺の北欧料理。22日高田馬場のカンボジア料理。23日銀座の西安料理。おまけに26日王子のワタミ(これはジャズダンスサークルの食事会)もあって、この一週間体重が、、、血糖値が、、、、悩み多き中高年です。でも、半年間お仕事がんばったご褒美に、ま、ちょっと太ってもいいか。え、「ちょっと」で済むのか、、、すみません。

 北欧レストラン「ALLT GOTT」のAコース。前菜は盛り合わせオードブル、小エビや魚のマリネほか。魚はニシンだったかしら。魚の種類が何か、なんて気にする間もなく胃袋に落ちてしまった)。スープはしめじ入りポタージュ。牡蠣のコキーユ。鮭のソテー。プチスィーツ盛り合わせ。コーヒー。4人掛テーブルにワイン1本つけて、会費5千円。女性ばかり17人での会食でした。

 私は日頃講師室で無愛想にしているので、ちょっと敷居が高い思いをしながら椅子についたのですが、同じテーブルの方々、和やかにお話をなさって、私も楽しく話題に加わることができました。今見ているテレビドラマ『蒼穹の昴』の西大后役の田中裕子が、今まで西大后を演じたどの中国女優よりもぴったり役にはまっていると、意見が一致しました。

 今放映しているBS中国語バージョンでは、田中裕子のセリフ部分、中国人俳優が中国語吹き替えをしているのですが、田中裕子が中国語を喋っているのかと思うくらいぴったりと口があっていて違和感がありません。そのうち地上波放送で日本語吹き替えバージョンを放送するだろうと思うのですが、その時は、田中裕子の日本語セリフを聞くことができるだろうと楽しみにしています。京劇のできる宦官・春児を演じている余少群 Yu Shao qunは、京劇のスター梅蘭芳の少年時代を演じてデビューした若手俳優。だれが吹き替えをやるのか、興味津々です。

 西大后の食卓。豪勢な満漢全席の大皿が並べられています。大后が箸を動かし、一口食べる。「美味である」と褒めると、さっと皿が下げられてしまいます。大后は「たまには二口目も食べたいものだ」と嘆きますが、お付きの宦官長、蓮英は「宮廷のきまりでございますから」一点張り。あれま、そうなんだ、どんなにおいしいと思っても一口以上は食べられないなんて、大后もけっこう不自由なんですね。私なんぞ、北欧料理のパン、おかわりしてしまいました。北欧料理、フランス料理系ですが、魚介類がメインで日本人向けに仕立ててあって、「美味である」。

 2月23日にも講師仲間の打ち上げがありました。あちこちの大学に出講していて、いろいろな交流がありますが、日頃講師室で小さくなってすみっこにいる私としては、学期末の打ち上げくらいしか友好関係を保つ機会がありません。この業界はとても狭いので、講師室仲間のひとりと話していると、その人の友達とは、別の大学講師室で顔を合わせている、ということが多々あり、「あの人といっしょに仕事するのはイヤ」という評判が立つと、たちまちのうちに業界中に「人物評」が伝わります。

 私が泣かされたベテラン講師、私が不出来な講師だからキツイ言葉を投げかけられるのは仕方ないのだろうと泣き寝入りしていたら、何人もの方から「私もあの先生に泣かされた」「あの人と同じ曜日には出講したくない」という話を聞き、ああ、こういう評判が駆けめぐったら、日本語業界で仕事するのが不自由になってしまうだろうに、と、かえって気の毒に思ったことがありました。講師の仕事は教室内独立自立であるとはいえ、何かのおりに教材を教え合ったり、ちょっとした疑問質問に答えてもらったり、講師室で助け合うシーンも数多くあります。
 無愛想な私ですが、せめて「あの人がいる講師室に行きたくない」というような風評だけは立てたくないと思い、講師室仲間とは仲良くしていたいと願っています。

 有楽町の西安料理は、「XI'AN」という店で、都内に10店以上支店を展開しているチェーン店です。
 去年中国で教えて、今東京に留学生として来ている中国人学生のブログには、研究室のコンパで、この「XI'AN」の別の支店で食事したことが書かれていました。彼が書いていることには、「この店の西安料理は、西安料理ではなく、日本料理です」。どうやら日本人向けに味を加減してあったので、彼にとっては、辛さが不足していて物足りなかったのかも知れません。私には辛すぎず、十分においしい中華料理でしたが、中国人にとっては、「これは中華料理ではなく日本料理」と思うアレンジなのかもしれません。私は「茄子の揚げ炒め」や餃子、この店の名物という刀削麺など、おいしくいただきました。

<つづく>
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2010年02月26日


ぽかぽか春庭「カンボジア料理」
2010/02/26
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>エスニックめぐり10年02月(2)カンボジア料理

 22日は、高田馬場のレストラン「カンボジア」で、学生といっしょのクラス終了打ち上げ。
 今期の初級ゼロスタートクラス。カンボジアからの留学生がふたりいました。かわいい女子学生ニャンちゃんと、たいへん優秀な男子学生ニィさん。将来はカンボジアの発展を担って立つであろうという人ですが、不法滞在者に見えてしまうらしく、品川とか新宿とか人出の多い場所にでかけると必ず警察官に職務質問され「パスポートを提示しろ」と言われてしまうと嘆いていました。
 もうひとり、マレーシアからの留学生カルさんも、送られる側。マレーシアの中の中国系、客家語を母語としており、見た目も日本人と変わらないので、カルさんは職質を受けたことは無いのだそうです。

 ニィさんとカルさんは、4月からは私立大学大学院に進学します。ニィさんは「グローバル・アグリカルチャー・ディベロップ・スタディ国際農業開発研究」を専門とし、カルさんは「マレーシア熱帯植物の薬効分析」を薬科大学で研究します。ニィさんは、カンボジアの農業はこれから発展する可能性が大いにあり、開発を上手にコントロールする必要があるそうです。同じような気候と土地を持つお隣のタイやベトナムでは米の三期作を行うようになり、飛躍的に農業が発展したのに、カンボジアでは未だに一期作を続けており、三期作をするようになれば、収穫は三倍になるはずだ、とニィさんは言います。しかし、そのためには種籾の選び方蒔き方の指導、土地と水の管理を厳密に行うことが必要になります。

 「米喰う人々」というNHKBSの番組を見ています。前に西アフリカの稲作のようすを見ました。24日の放送では、日本の農業大学で「国際農業開発」を専攻する女子学生がベトナムの三期作農家にホームステイして農業のお手伝いをする、という内容でした。80歳を超えたという一家のおばあちゃんは、ベトナム戦争下で、爆撃や敵襲の合間に命がけで稲作を続け、ベトコン兵士に米を届けたという話をしていました。一家の大黒柱であるお父さんは、「子供の頃はおなかをすかせていたけれど、三期作のおかげで一家がおなかいっぱい食べられるようになり、子供を高校にいかせてやれるようになった」と語っていました。高校生の長男は、大学に進学してより高度な農業を学びたいと夢を持っています。

 ニィさんたちが大学院で農業開発の方法論を学んで帰国したら、カンボジアの農業もより実り豊かに発展していけるだろうと信じています。

 22日、国立大学に残るニャンちゃんや中国のカンさんと、ニィさんカルさんとのお別れ食事会。去年カンボジアへ旅行してきたという日本人学生リサさんも誘いました。リサさんは、3月には上海での日本語教育実習に参加することになっています。今期は、私の「非漢字圏留学生のための漢字授業」のTA(ティーチングアシスタント)としてクラスに入ってくれて、大活躍でした。きっとよい日本語教師になるだろうと思います。

 カンボジアふたりのために、「カンボジア」というレストランを選んだのですが、メニューを見て、ふたりは首をかしげ、「これはカンボジア料理ではありません」
 「カンボジア」という店名ですが、看板には「ベトナム家庭料理」と書いてあります。コースを頼んだところ、生春巻、海老揚げ、などをニョクマムで食べ、中華料理風の烏賊炒め、春雨サラダなど、アジアンエスニック風の料理がテーブルに並びました。味はまあまあですが、量が少な目でコストパフォーマンスから言うと点が低い。

 ウエイトレスはどこの国から来たのか聞かなかったのですが、ニィさんがカンボジア語で話さず、日本語で注文していたのをみると、カンボジア人ではない。日本語はまあまあ通じますが、サービスには気が回らないふうで、最後に供された米粉のうどんのクイティウがカンボジアの麺ということで、かろうじて「カンボジア料理」の気分がでました。カンボジアの学生にはちょっと残念なメニューになってしまいました。

 私は「アンコール」というカンボジアビールを飲んで、それだけでもカンボジア気分になれたのですが。ニィーさんが、「このビールはカンボジアなら一缶50円で飲めます」というので、2缶目は頼みませんでした。アンコールワット見学に必ずカンボジアに行きたいと思っているので、そのときに50円の缶ビールを百本も飲んでやろうと思います。

 リサさんは、去年のカンボジア旅行で「空心菜の炒め物がおいしかった」と話したので注文したかったのですが、カンボジアのふたりには、それがどんな料理かわかりませんでした。中国のカンさんは、英語教師なので「空心菜」を英訳してもらおうと思ったのですが、カンさんにも英語名はわからない。あとでカンボジア料理のサイトを見ると、「空心菜の炒め物」は、カンボジア語(クメール語)ではチャー・トロクンという料理名でした。次は代々木の「アンコールワット」という店に行って、チャー・トロクンを頼んでみようっと。高田馬場の「カンボジア」は、たぶんリピートはないでしょう。

 カンさんたち、中国からの留学生にとって、2月は旧暦新年の春節でした。中国と韓国からの留学生が、国費留学生の寮で新年を祝って盛り上がりました。
 4月にはアジア新年を祝うイベントがあり、カンボジアやタイの留学生が自国の料理を作って新年を楽しむそうです。「先生もぜひ寮に来て、ほんとうのカンボジア料理を食べてください」と言ってもらったので、4月のカンボジア料理を楽しみにしています。

<つづく>
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2010年02月27日


ぽかぽか春庭
2010/02/27
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>エスニックめぐり10年02月(3)居酒屋で3回転半

 26日は、ジャズダンス仲間との食事会。今年の発表会で何を踊るかとか、会費の値上げはどうするか、というような会の運営の話のほか、話し合いをしながら、居酒屋で食べて飲んでという会です。

 練習が終わって、駅前白木屋へ歩く道筋、ミサイルママと盛り上がったのはやはりバンクーバーオリンピックのこと。ミサイルママは高橋のフリーにいたく感動したそうです。
 冬季スケートシーズン、我が家は、フィギュアスケートファンですから、連日盛り上がっていました。2009年の秋、シーズンがはじまって、グランプリシリーズ、フランス、ロシア、中国、アメリカ、カナダ、日本の各大会と韓国でのグランプリファイナル、四大陸大会など、全試合全放映を完全視聴!選手の名前も得意技も苦手なジャンプも全部頭に入れて、いざ、バンクーバー。

 ペア、男子フリー、アイスダンス、女子フリー、全放映を娘息子私で完全視聴。出場全選手の全部のすべりを見続けました。4時間5時間と続くライブ中継を見続けるのも根性です。グランプリシリーズなどでは、日本人の選手が少ないアイスダンスやペアだと金銀メダルをとった選手のスケーティングくらいしか放映してくれないので、今回アイスダンスの地味めなコンパルソリーまで全部見ることができて大満足でした。ただし、アイスダンスのオリジナルセットパターンの放映がありませんでした。

 男子、高橋の銅メダル、織田と小塚の入賞。女子、浅田真央銀、安藤美紀、鈴木明子の入賞。日本勢は参加6選手全員が入賞するという大活躍で、日本中が盛り上がりました。もちろんこの主要選手のスケートのほか、4年後のソチのとき、どの選手が伸びてくるのか、という楽しみのために、下位選手のスケートも全部見たのです。

 男子フリー。今回は復活王者プルシェンコが連覇を狙ったのですが、銀に終わりました。ほとんどが「王子様タイプ」のイケメンスケーターたちの中で、プルシェンコが「ヒール」に回ったのがちょっと面白かったです。プルシェンコは怪我などのためにいったん引退し、サンクトペテルブルク立法議会議員をつとめるなど、スケートとは別の世界でも活躍していたのに、2009年9月に現役復帰し、たちまち4回転を決めて欧州選手権優勝。憎らしいくらいの鮮やかな復活劇でした。

 しかし、バンクーバーでは、4回転を飛ばなかったライサチェックに及ばず、「アメリカ大陸での開催だからしかたがない」とか、「エバン(ライサチェック)に必要なメダルだったね。僕はもう金メダルをひとつ持っているから」と、負け惜しみを言ったり、ヒールぶりを発揮。ロシアでのプルシェンコは子供達あこがれのヒーローです。貧しい家庭に育つも才能を見いだされ努力を続けてきた英雄の人気は絶大で、ロシア国民にとっては、プルシェンコへのバンクーバー審査員の厳しい評価に不満が残りました。 
 女子フリーは、キム・ヨナと浅田真央の19歳ライバルの対決と、競技2日前に応援来ていた母親を失ったロシェットに注目が集まりました。安藤美紀選手も鈴木明子選手も自分の力を出し切ってのスケーティング、ほんとうによい試合でした。

 と、いうようなフィギュア観戦話で盛り上がり、ダンス仲間と居酒屋談義を続けました。プルシェンコは、ダンスとスケートを同時に習いはじめ、両方の教師から圧倒的な才能を評価され将来を嘱望されたのですが、自分の意志でスケート選手になることを選びました。
 ダンスやバレエのステップやポーズは、フィギュアにも共通する基礎で組み立てられています。彼がダンサーになったとしても、ルドルフ・ヌレエフやミハイル・バリシニコフ、ファルフ・ルジマートフと同じくらいのすぐれたダンサーになったことでしょう。ただ、バレエダンサーは、バレエに興味のない人には知られないのに対し、オリンピックメダリストはフィギュアスケートに関心のない人々にも世界中に名前が知られます。

 26日の練習では、先生はバレエのアラベスクのポーズをとらせ、「はい、スケーターはこのまますべっていくんですよ」と。ポジション保っているようメンバーに指示。見た目にはずっと同じ姿勢ですべって、ジャンプよりは楽そうに見えるスパイラルも、美しく華麗なポーズを保つにはすごい筋肉の力だということが、ようくわかりました。
 ダンスを続けている仲間達、メダリストのような才能はかけらもないですが、楽しくジャズダンスやフラメンコ、民族舞踊などを踊り続けています。2010年の発表会曲目などを話し合いながらの、居酒屋での食事とおしゃべり、盛り上がりました。

 さて、2月下旬は、打ち上げ続きで毎日盛大に食べ歩きましたが、これから先、秋のダンス発表会めざして、節制せねばなりません。このおなかの贅肉をもちっと減らせば、きっと私も3回転半のターンがうまく決まるはず、、、、
 あれ、そのツクネ、1つ余り?じゃ、私食べるね。平気、へいき。今食べた分は、来週のピルエットターンで燃焼させるから、、、、

<おわり>
00:26 コメント(4) ページのトップへ
2010年02月28日


ぽかぽか春庭「風流」
2010/02/28
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル残り物(俳句ソフト風流)

at 2003 10/15 06:29 編集 ネット海の航海、俳句という名の船に乗り
 高齢者の趣味の中で人気の高い「文芸」。中でもダントツ一番人気は「俳句」である。 短歌や詩を趣味とする人、自分史執筆を目指す人などの人数に比べると、俳句人口は格段に多い。
 日本語文芸の極みまで奥深く分け入ることもできるし、初心者が仲間と腰折れひねって遊ぶこともできる。歳時記一冊、ノートとえんぴつさえあれば、いつでもどこでも、一人でも仲間とでも遊ぶことのできる、究極の遊び道具。

 パソコンと俳句を連動させて遊びたい人向けに、「パソコン利用俳句自動作成ソフト」がある。次から次へ5,7,5,のことばが自動的に繰り出されてくるソフト。それを組み合わせて俳句ができあがり。小学校の国語科教材として利用している先生もいる。
 風野春樹作成の俳句ソフト『風流』が作り出した作品を紹介しよう。
http://member.nifty.ne.jp/windyfield/diary9807a.html#06 風野春樹「サイコドクターあばれ旅、読冊日記98年7月上旬より)

夏の葉がさざめき古都をなぐさめる
去年今年過ぎゆくキスとなりにけり
歯ブラシを恐ろしく見る新年会
葉桜や馬鹿を愛して法隆寺
眩しさや窓辺虚しく包む雪
薔薇の死や嘆く悲劇を傷つける
チューリップ散って短き罪ぞ咲く
卒業式恋しく逃げる抱きしめる
吹き飛ばす蝿の世界の娘の死
馬鹿も咲く頭明るき年賀状

 なまじっかの初心者より、よほどすぐれた句を生み出すのがパソコン宗匠であることがわかるだろう。
 このソフト『風流』は、MS-DOSで作成されたので、現在のパソコン環境では使えないというのが残念。最近のパソコンで簡単に遊べる『風流』のような俳句作成フリーソフトをご存知の方、メールでご一報を。(留学生の日本語教育クラスで遊んでみたい)
ネット上を探してみたのですが、自動俳句制作パソコンソフトは、その後新ソフトは作られていないようです。
=========
2010/02/28
 2月27日、母の忌日にお墓参りに行けなかったので、せめて俳句のひとつもひねって母を偲びまする。春庭、腰痛防止の腰折れ俳句。
・悴むもめくる歳時記春の部に
・広辞苑に新語立項春浅し
・如月の尽きるや母の忌のぬくし
・カラバッジョの果物籠に盛る馬酔木(花馬酔木の季節は春だけれど、ここはひとつ去年秋の小さな実が春先まで木に残っているという趣で。画家ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオは、バロック絵画の先駆者。決闘相手を剣で殺してしまうなど激情の持ち主。カラヴァッジオ肖像画は、イタリア10万リラ紙幣になっている。)
・別れ霜放置のままの友ブログ
・三回転跳んで涙の二月尽
・銀盤の舞姫競って二月尽 

<つづく>
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洪水と復活2010年3月

2010-11-09 11:39:00 | 日記
2010/03/01
ぽかぽか春庭十人十色日記3月>災害(1)大雨洪水

 テレビに臨時ニュースのテロップが出た。南米で大きな地震が起きたという。南米じゃ、地球の裏側だし、ここまで揺れることはないだろうに、と、遠い地震をよそ事だと思っていたら、この地震の余波が太平洋を横断して、日本にも津波を起こすおそれがあるのだという。チリでは400人もの死者を出したという地震による津波。はたして28日には、日本に津波が来たというニュース。大津波警報も出ました。

 地球の裏側から伝わって、1mの津波が日本の浜辺に押し寄せました。どれほど大きなエネルギーなのだろうと思います。海辺にいた人には避難勧告も出て、たいへんだったでしょうけれど、十分に備えをする時間があったろうから、今のところ人的被害の報告はなし。津波によって市街が水浸しになった地区もあるそうで、被害にあった方々にはお見舞い申し上げます。それにしても。

 遠くの地震より、我が家の水被害。津波が日本の海岸に届く前に、我が家への災害が何の前触れもなく大惨事となって押し寄せ、パニックになりました。部屋のなかに大雨が降り、洪水となりました。
 集合住宅ではありふれた災害である「水漏れ事故」が上階の住人によって引き起こされ、深夜の1時から5時まで、部屋の天井全体から大雨が降りつづきました。

 家中のバケツ鍋釜を水受けに使い、タオル、毛布、布団を部屋に敷き詰めて下の階までは水が行かないようにしたのだけれど、我が家の下の階にまで水は伝わり水漏れが及びました。どれほど大量の水が出たのか。
 もとより部屋中に書類、本、服、その他もろもろ散乱していた汚部屋であるけれど、急激な天井からの漏水に、おおかたのものは水びたしになってしまいました。

 水が落ち始めてすぐに上階のドアをたたいたけれど、反応なし。団地の緊急連絡電話に連絡して、玄関脇にある水道元栓を閉めることが先決というので、あわてて上階の部屋の水道元栓をしめましたが、すでにそれまでに大量の水が10階の床から9階の天井へ落ちてしまいました。集合住宅の悲しいところ。上階の床は我が部屋の天井とコンクリ何センチ。

 1時半から2時ころまでドアをたたき続けて、ようやく起きてきた上階住人は、洗面台の水道栓を閉め忘れて、寝込んでしまったとの弁。私がいくら激しくドアをたたいても、起きてこなかったのは、お酒を飲んでいて寝入っていたからみたい。起きてきたときも酒臭かった。(個人情報の問題が起きて以後、団地内住人電話帳は廃止され、上階の人が引っ越しても挨拶もしなくなって久しいので、電話番号は知らなかった)

 上階の住人は、本人の弁によれば、子供は独立し妻とは離婚したあとの一人暮らしという。一人暮らしの人こそ、火災や水漏れに細心の注意を払うべきだと思うけれど、そんなことは一人一人の心がけだから、こちらがあとからどう言っても遅い。団地災害の保険にも入っていないという。

 ノートパソコンやいくらかの本はベランダに出したけれど、ディスクトップパソコンやプリンターは移動する間もなく、水濡れ。ものの移動をするより、下の階に水が落ちないようにする方を優先したので、広辞苑も大漢和も水浸しになった。

 服も布団も水びたしになった被害についてより、自分自身の気持ちの落ち込みが強かった。平静な日常生活を送り続けることは、貴重なものだとわかって暮らしていても、いざ、自分が災害に遭ってみると、どうして私にこのような災難がふりかかってくるのか、ささやかにまじめに生きてきて、なぜ私ばかりがこのようなめにあわされてしまうのか、部屋を片づける気もおきず、うなだれているばかり。

 ようやく気持ちのリハビリとして、助かったノートパソコンをあけた。私にとって、パソコンで文字を打ち出しているのが一番の「日常生活」なのだとよくわかる。
 少し落ち着いて、濡れた衣類や防水に使ったタオル類などの洗濯にかかったけれど、あいにくの雨天。干すところもない。また気分が落ち込む。下着などの洗濯は頼めないけれど、タオル類なら人様に頼んでもいいかと、上階のオッサンが「コインランドリーで洗濯してくる」と申し出てきたので、頼んだ。何度も「申し訳ない」と謝るのだけれど、謝られても、気分は晴れない。

 部屋の畳が水浸しなので、時間がたつにつれ悪臭がただよって、汚部屋度UPです。畳屋が見積もりのために来るというのだけれど。憂鬱度増すばかり。

<つづく> 
06:07 コメント(6) ページのトップへ
2010年03月02日



2010/03/31
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>プレ復活祭春のことば(4)ブランコ

 え~、3月末のコラムでは殊勝げに『自分もいつかは誰かに「ほっと一息」つけるような安心した気分を味わえる温かいお茶の一服のような文章を書くことができるよう文章修行を続ける」なんて書いたのですが、これは、復活祭向けのアドバルーンというか、確かに、「施無畏」という語を見て、気持ちとしては殊勝な気分であったのです。しかしながら、自分の資質というのもを考えると、これは己を知らぬことばでありました。

 私のキャラというものを冷静に見れば、私の書く文は、「毒を含む知ったかぶり」で言いたい放題しゃべり倒すのが持ち味なのですから、「ほっこり温かい気分になれる文章」は、その資質を持った方におまかせしたほうがよさそうです。
 鋭いとげや毒を含んでしかも人を傷つけないというのも文の芸の中では高度な芸と思うのですが、まだまだ未熟な春庭の文では、きわどい毒を含もうとすると人を攻撃したり傷つけたりしてしまう恐れがあるので、毒といっても「寸鉄人を刺す」ような切れ味ではなく、ぼよよ~ん、どんよりと「腹ぐあいがおかしい」程度の毒です。

 さて、2009年に中国赴任から帰ってきて、どうも頭痛や腹痛など微弱ではあっても不調が続き、これまでそのような不調知らずで「元気なだけがとりえ」と思ってきた身にはにわかに不安がつのり、脳波MRIとか、眼底検査とかいろんな検査を受けてきました。昨日30日には腹部音波検査というのをやりました。

 検査結果のお達しでは。脾臓腎臓など、すべて異常はありませんが、肝臓が「脂肪肝」です。はい、これは音波検査をやらなくても、すでに血液検査で指摘されてきたことでした。悪玉コレストロールがたまり、肝臓の周りは真っ白く脂肪でおおわれているようすが音波でもはっきりとわかるのだそうです。ぐすん。要は、脂っこいもの甘い物の食べ過ぎです。

 私がほっこりしに行く何軒かの「ウェブご近所さん」。勝手に私がご近所と思っているだけなんですけれど、年齢が同年代だと思えたり、本の好みが似ていたりする方々のサイトを毎日一回りしています。sumitomoさんの日記、さりげない日常と愉快な川柳や俳句の文章を楽しみに寄らせていただいてます。

 3月30日のsumitomoさんのコラムでは季語「鞦韆しゅうせん」についてで、「鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし」という三橋鷹女(本名たか子)の句が紹介されていました。口語を生かした現代俳句として国語教科書にも記載されている句のひとつが「鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし」です。ぶらんこを高く高くこぎ上げるときの高揚感開放感と、既婚か恋人のある人なのかわからないけれど、すんなりとは愛をはぐくめないであろう人を我がものとしたいという恋愛の情熱とが、春の空に向かって上がり下がりまた上がる気分を彷彿とさせます。

 さて、sumitomoさんは、「なぜ鞦韆は春の季語なのか」とおたずねなので、ここはひとつ知ったかぶりを発揮したいと思います。これが私の持ち味なので。
 では、明日4月1日より、「なぜ鞦韆は春の季語なのか」へのお答えからスタートします。温かくなったりまた急に真冬並みの寒さに戻ったり、それにつれてこちらの気分もあがったり下がったりが続きました。春庭コラムを読んで、「ほっこり温かい気分」にならずに、とげとげしい気分になったりうんざりしたり、寒々としたり、まあ、いろいろあっても、「いろいろあらーな」がこのコラムの目的のひとつです。
 ブランコも上がったと思ったら下がったり、また上がって下がる、そんな日常を繰り返しながら、3月もおひらきです。あ~あ、片付けがたいへんな月でした。

<おわり>



ぽかぽか春庭「洪水のあと」
2010/03/02
ぽかぽか春庭十人十色日記3月>災害(2)洪水のあと

 10階住人の水漏れ事故により、9階の我が家はもちろん、その下の8階まで水害が及びました。8階の部屋の人は、「留守中に電話機の上に水が垂れたので、電話機がこわれた」と、我が家に電話してきた。「文句は10階に言ってほしい」と、伝えたけれど、我が家は電話機どころか、パソコンプリンタ本服布団が濡れた。

 畳もびしょぬれだから、畳替えもしなければならないけれど、そうなると引っ越し並の荷物の移動が必要となる。部屋の中は、大量の本で埋まっている。濡れた本など捨てたらいいように思うだろうけれど、貴重な専門書類は、ページがよれよれになったとしても捨てる気にはなれない。この本、5千円もしたのに。ぐすん。ま、多くは百円本なんですけどね。

 気持ちのリハビリのためには毎日更新するという「私の日常」を続けたほうがいいと思うのだけれど、3月中、しばし更新不定期となります。

 お見舞いのことば、ありがとうございます。
 チリやハイチの地震その他もっとたいへんな災害にあっている人もいるなか、水濡れぐらいで落ち込んではならじと思うものの、目の前の惨状にただイヤになるばかり。

 でも、片づけをせねばなるまい。

<つづく>
00:33 コメント(7) ページのトップへ
2010年03月10日


ぽかぽか春庭「捨てる」
2010/03/10
ぽかぽか春庭十人十色日記03月>災害(3)捨てる

 27日の深夜1時から5時まで部屋に落ちた漏水。具合が悪くなって、27日と28日は寝ていました。3月1日と2日は、病院へ。3日、4日にものの移動と廃棄。

 3月3日に畳の寸法取りというのがありました。畳なんて、団地規格の既製品なのだと思っていたのですが、ひとつひとつの部屋の寸法がそれぞれ微妙に違うので、部屋にぴったり合わせて敷き詰めるには、きちんと寸法を測らなければならないのだそうです。
 部屋のものを運び出さずに畳をすべて入れ替えるというのは、引っ越し以上にたいへんなのだということがわかりました。

 3月8日に新しい畳が入り、さてそのあともステル捨てるすてる。古い演劇やバレエ公演のパンフレットとか、駄本の類。そんなもの後生大事にとっておいてと言われるようなものばかり、狭い部屋に詰め込まれていました。なんだか捨てがたくて大事にしてきたものも多いけれど、田舎のお屋敷で倉が並んでいるとか、納戸や物置がたくさんあるとかならともかく、都会の団地暮らしではそうもいきません。そうもいかないのに、無理矢理詰め込んでおいたから、いざ漏水事故にあったら、悲惨の極みでした。

 人は十人十色、「向き不向き」があり「好き不好き」がある。「不好き」という語、私はこれまで使ったことはなかった。が、辞書にはあるのでフィネガンズウェイクの翻訳に使ったと、柳瀬尚紀が書いていたので、まねして使ってみました。「不好き」について書かれていた柳瀬の『広辞苑を読む』も水にうたれて廃棄処分。

 私の「不好き」の第一番は掃除と片づけ事です。整理整頓ということがまるでできない。これは私の短所の一つであることは重々承知なのですが、お茶碗洗いや洗濯はイヤではなく、きれいにするのが嫌いというわけでない。茶碗洗いや洗濯は一ヶ所にじっとしてできるので、「ぼうっとしている時間」を過ごせる。茶碗を洗いながら水を出したり止めたりしていても、頭はぼうっとしたり考え事をしたりできる。でも片づけ事は物を移動したり自分も移動するから、なかなかぼうっとできないのだが、それでもぼうっとしながら片づけるから、たいてい片づけたはずのものをどこにしまったのか記憶になくて、一年中さがしものをするハメになる。だから、片づけないで出しっぱなしのほうが、捜し物が減る。

 せっせと捨てていかないと、住み続けるうちに部屋はたちまちゴミ箱状態に。
 で、ここ15年以上は片づけを放棄して部屋中、物で埋まるに任せていたのだけれど、これでもなんとか暮らしていた。でもそれらが全部水浸しになり、捨てなければならなくなって、ただもうイヤで厭で、、、。足の踏み場もなく本、服、その他もろもろ散乱していた部屋に雨が降り注いだ惨状については報告してありましたが、足跡ご挨拶に「足の踏み場は確保しとけと言う天の啓示です そうに決まってる ニコッ」と、あったので、そう思うことにしました。部屋を片づけなさいという啓示であったのでしょう。それから、片づけの日々が続きました。もとより大嫌いなことだから、遅々として進まなかったですけれど。

 片づけられない人というのは、捨てられない人でもあるのです。たとえば、服、2シーズン着なかった服は捨てろ、というのが片づけ整頓名人の言葉であることは承知しているのです。しかし、これは裁縫好きの伯母が縫ってくれた服、これは姑からプレゼントされたコートなのでもう着られないけれど義理でとっておいたもの、というふうになかなか捨ててしまうことができずにいました。思い出の服を、何か別のものに作り替えることができるかも、と未練でとっておいたものも多い。昔はリサイクルで子供の服に作り替えたこともしたけれど、今は洋裁も手芸もとんとご無沙汰。もったいない精神だけが残っているので、いらないものが貯まるたまる。

 2002年に姉が亡くなったとき、衣装道楽だった姉の服のうち、ブランドものだとかは姪達が引き取ったのですが、地味めの服は私にまわってきました。「これ、すごく高級な布地を買ってきて仕立ててもらったものだから、捨てるに惜しい。おばちゃん、着られたら、着てね」なんて言われて「もうちょっとやせたらウエストが入るかも」と思ってとっておいたのとか、結局一度も着ないで捨てることに。狭い部屋のタンスをふさいだだけの服ということになるのか。いや、姉が亡くなってすぐにその場でどんどん姉の服を捨ててしまったら、寂しく思っただろうから、何年かタンスにしまって置いた意味はあったのだ、と思うことにしました。

 濡れた本はダスターシュートへ。濡れなかった本もかなり捨てました。「いつか参考にすることがあるに違いない」と思ってとっておいたり、「この専門書9000円だったのを、無理して買ったんだっけ」とか、思い入れのある本も多かったのですが、必要なときは、ネットで探せば必ず買えると自分におまじないをかけて、捨てました。絶版になっているような希少本や、論文紀要など、捨てるに躊躇するものもありましたが、捨てるのもタイミングってもんでしょう。「縁があったら、またいつか会える」と思って、団地の段ボール新聞紙本雑誌のリサイクル置き場へ。

 狭い団地の一室によくもこれほど物が詰まっていたもんだ、と思います。留学生の作文とか、捨てがたいものも多い。作文の誤用分析などいつできるかわからないのですが、捨てようとしてまたしまい込む紙類も多かった。でも、友人の論文コピーなんてのも思い切って捨てる。すてる。
 あと2週間くらいは、捨てる捨てるすてる生活。

 これまでに本を段ボール箱10箱以上、古着を45リットルの東京都指定ゴミ袋に10袋以上捨てました。古着など余裕があるときにリサイクル処理をしておけばよかったのに、今は余裕がないから、ただ捨てるだけ。
 ようやく半分くらいは片づきました。あと半分、また捨てるステルすてる生活。月末までにはなんとか人間らしい住みかにしたいです。それまではしばし、更新お休みします。

<つづく>
19:40 コメント(13) ページのトップへ
2010年03月18日


ぽかぽか春庭「復活までもうちょっと」
2010/03/18
ぽかぽか春庭十人十色日記03月>災害(4)復活までもうちょっと

 上階からの漏水事故の後始末、3週間かかってようやくなんとか足の踏み場も見えるようになってきました。お見舞いや励ましの言葉をお寄せいただきありがとうございます。
 捨てても捨てても、まだまだ山積みの紙、本、衣類。これまでゴミ屋敷のままに放置してきた自分が悪いのですけれど。十年前の学生の授業感想文とか、あとからあとから出てきます。押入の奥に詰め込んだあと上に積み重ねてしまうと、もう下に何があるかわからなくなって、そのままにしてきたので、別段読み返すこともないものがやたらに詰め込まれていました。災難だったとはいえ、片づけなさいという天の声としてよい機会になったと思っています。
 思いはすれど、大嫌いな整理整頓片づけ事ですから、さっぱりはかどりません。

 なかなか片づかない第一の理由は、嫌いなことをしなければならない自分自身の憂鬱気分によるものです。3月中はずっと「ふさぎの虫」にとりつかれていました。カタカナ言葉で言うならメランコリー、心理用語なら鬱、、、、果てしない落ち込み気分。これがずっと続くなら鬱病へと深みに陥るところでしょう。ストレス解消の甘い物ドカ喰いも禁じられているので、なかなか気分が晴れませんが、幸いなことに南の方から桜咲くニュースも伝わってきたし、少しは気分もぬくまった気分。

 一日ひとつでも整理できたらよしとして、少しずつ、ほんとうに少しずつやっています。たぶん、片づけ名人なら一日でこなすことを1ヶ月かかってのろのろ進む。でも、しゃかりきにがんばるばかりではない、人生停滞時期もあってよい、と、自分を甘やかしています。あと一息というところまできているのですが、その一息にあと一ヶ月くらいかかりそうではあります。

 カフェコラムも気力減退ゆえに「毎日更新」というのを今月はお休みしていますけれど、桜咲いたらまた毎日更新をしていきます。私にとっては書くことは生きること。別段毎日更新しなくても誰も気にとめないのだけれど、自分自身、さて、あったかくなったら冬ごもりから抜け出して蘇生しなくちゃなあと思うのです。

 私は「仏教系汎神論者」なので、キリスト教の復活祭も私のお祭り。復活祭(イースター)は、春分の日(3/21)以降の満月の次の日曜ということで、2010年の復活祭は4月4日らしい。

 私もそのころには復活しますので。
 
<おわり>
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徳田秋声旧居林芙美子旧居2011年11月

2010-11-06 11:51:00 | 日記
2011/11/05
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(4)徳田秋声旧居  

 11月2日水曜日。午後の授業が文化祭準備日休講となったので、午前中の授業を終えると東京本郷に駆けつけました。1年に1度たった半日だけ公開される徳田秋声旧居を見るためです。 徳田秋声、私は、山田順子とのスキャンダルのみ知っていて、作品は文庫本になっている『あらくれ』以外に読んだことがありませんでした。それほど愛読した作家ではなかったのに、旧居を訪れたのは、東京都内に残されている数少ない木造平屋建ての明治時代民家だからです。正岡子規の子規庵などは復元された家なので、明治時代の木造建造物がそのまま残されているのは、戦災でほとんどが焼けてしまった東京では貴重なものです。

 秋声は、1905(明治38)年から1943(昭和18)年に没するまで文京区本郷森川町の家で暮らしました。この家が貴重であるのは、今も子孫が住み続けているということです。多くの古い民家が取り壊されてきた東京。残された数少ない家も、移築や復元、記念館などの形で保存されています。明治時代の民家に、実際に人が住み、暮らしを続けている、いわば「呼吸している家」は、おそらくこの徳田秋声旧居以外にないかもしれません。
 普段ご家族が暮らしている家だから、通常は公開していません。1年に1度、半日だけの公開です。これまでの年は、平日公開だと仕事があるので、見学できませんでした。今年、11月2日の午後は休講となり、ようやく見学できたのです。

 10時から13時までの公開と「東京都文化財ウィークリー特別公開」というパンフレットに書いてあったのですが、授業を早めに終えて、急いで電車に乗ったのだけれど、本郷三丁目の駅に着いたらすでに13時5分前。駅から徒歩7分と書いてあったのですが、徒歩だと13時過ぎてしまうので、タクシーに乗りました。こんなに近い距離、タクシーに乗ることなど、私にはなかったことですが。http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_shiseki_haka_tokuda.html

 徳田秋声旧居の玄関を入ると、受付に若い男性が座っていました。あとでうかがうと、受付係は徳田秋声の曾孫さん。秋声の長男徳田一穂さんの長女の息子さんだそうです。 居間に訪問者を迎え、対応して下さったのは、知的な美しい方。私より10歳ほども年下の方かとお見受けしてお話を伺っていたら、戦災の火の粉をかぶった思い出話などが出てくるので、おやっと思っいました。50代の方かと思っていたのですが、1941(昭和16)年のお生まれだそうです。皺一つ無い若々しい表情で、とても今年70歳とは思えません。いっしょにお話を聞いていた訪問者の女性も、「私も同じ年頃なのに」と、驚いていました。居間でお話して下さっていたのは、秋声の孫、徳田一穂さんの次女の章子さんでした。お姉さんは早くに亡くなっていて、現在はお姉さんの息子さん(受付をしていた青年)といっしょにこの旧居に住み続けているのだそうです。 秋声の故郷にある記念館などでも、たびたび秋声についてお話をしてきたという徳田章子さん、訪問者への説明でもいろいろなお話をしてくださいました。

 私が唯一知っているエピソードである山田順子とのいざこざについても、「秋声の妻(章子さんの祖母)が亡くなったあと、林芙美子さんや平林たい子さんが、「秋声先生、お子さんがたくさんおありでたいへんでしょう。何でも手伝えることを言ってください」と申し出たこと、秋声としては妻亡き後、幼い子を抱えて困っていたときに山田順子から熱烈な手紙をもらったので、ついほだされてしまったのでしょう、など、身内から見た「順子もの」についてのお話しをなさいました。

 山田順子からの手紙は現在も保存してあるけれど、公開の予定はない、ということでした。秋声の後期の作『仮装人物』は、順子との恋愛を描いています。講談社文芸文庫でも青空文庫でも読めるので、いつか読んでみなければと思います。http://iaozora.net/cards/000023/files/1699/1699_1923.html 

 また、林芙美子が養子を探していたとき、「一穂さんは女の子が二人おありですから、小さいほうの方(章子さん)をください」と申し込まれ、お断りしたことなど、とっておきのエピソードもお聞きしました。 秋声旧居は東京都の指定文化財になっています。文化財指定を受けると改築などには制限がつきますが、耐震などの工事はできます。本郷界隈でも古い建物はどんどん壊され、ビルが建っていきます。徳田秋声旧居のとなりは、ふたき旅館でしたが、現在シートが貼られて、取り壊し工事の真っ最中でした。1960年代の東大闘争のときは、全学連の指令基地になったというふたき旅館。時代は変わるのだと言うしかないのでしょうが、徳田秋声旧居は「残したいと思っています」というご家族の意志、ありがたいことです。徳田秋声旧居を写真で紹介しているサイトhttp://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/zinbutu/tokuda/

 木村荘八の描いた秋声小説の挿絵が絵はがきになっていたので、買いました。5枚500円。また、秋声の長男、徳田一穂さんの 『秋声と東京回顧 森川町界隈』(日本古書通信社、2008年。秋声の『大学界隈』を併録)も購入。

 11月4日の夜は金沢駅前に宿泊する予定なので、金沢の徳田秋声記念館のパンフレットももらいました。<つづく> 2011/11/06ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(5)林芙美子落合の家 BS2の「帝国劇場百年」という番組で、2009年に『放浪記』が2000回公演を達成したときの中継録画を見ました。2009年5月の2000回公演のときも7月の国民栄誉賞受賞のときも私は中国赴任中で日本のニュースが遠かったので、やっと今年になって舞台中継を見ることができたのです。森光子が1961年から主演を続けてきた舞台「放浪記」。森は41歳で初の主役公演。今年2011年に91歳。 2009年5月9日の帝国劇場公演で節目となる「2000回」を達成したときの88歳での舞台が、帝国劇場100年を記念してノーカットで放映されました。録画しておいたのを、見ました。

 『放浪記』は、昔、まだ白黒テレビの放映で見たのが最初。森光子のでんぐり返しが評判になっていたころ。 次は奈良岡朋子が日夏京子を演じていたバージョンや池内淳子バージョンを見ました。上演記録を見ると、2005年のが池内淳子の出演で、森光子85歳のときの公演です。

 今回の2000回達成、健康不安や妹死去のショックから立ち直ったあとの88歳での上演。ちょっと痛々しい場面もあった。滑舌が悪くなり、台詞がまわっていない部分があったし、若い頃の林芙美子には思えない背の丸まりようが気になった。

 ラストシーンの晩年の芙美子の姿はさすがの貫禄だし、最後のカーテンコールで手をあげ、お辞儀をする姿には神々しささえ感じました。林芙美子は47歳で亡くなっているので、晩年と言っても、今の森光子よりはずっと若いのですけれど、流行作家の悲哀や疲労が全身から感じられる演技でした。 終演後は2000回達成と森光子89歳の誕生日が祝われました。89歳でこの演技、すばらしいものでしたが、2009年の大晦日紅白歌合戦に出場したときの衰えぶりには皆びっくりしたし、2010年の公演にドクターストップがかかったのはやむを得ないことでしょう。

  舞台の第5幕、落合の家のシーン。実際に林芙美子が住んでいた落合の家を再現した美術です。 10月30日、落合の林芙美子記念館へ行きました。3度目の訪問になります。家は19山口文象の設計。居間客間、台所、浴室などの生活部分と、緑敏アトリエ、芙美子書斎(もとは納戸だったが)と書庫などの仕事部分の二棟に別れています。これは戦時中の資材節約という国策に沿って30坪以上の家は建てられなかったから、芙美子所有の30坪と緑敏所有30坪に分けて建設したためです。下落合は戦火に焼かれずに残りました。 流行作家になって以後の芙美子は、養子として迎え入れた一人息子泰の養育と気晴らしの家事、夜も寝ないで書きまくる作品執筆。充実した日々をおくっていました。 舞台『放浪記』のラストシーンで、菊田一夫は芙美子のライバル日夏京子に「おふみさん、あんたちっとも幸せじゃないのね」とつぶやかせます。この台詞の意味については、ぜひ春庭「花の命は短くて」をお読みくださいませ。

  前回の春庭・林芙美子記念館訪問記「花の命は短くて」はこちらにhttp://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0506a.htm 

 今回は、ボランティアガイドさんの説明を受けながら、舞台に登場する居間や客間を見ました。女中部屋の廊下には屋根裏収納庫へ上がる隠し梯子があることなど、見ただけではわからないことも説明してもらいました。

 また、展示室(文子の夫、林緑敏のアトリエだったところ)のテレビでNHKアーカイブスから林芙美子の晩年の姿を見ることができました。死去直前のラジオインタビュー番組。女子中学生たちが著名人に質問をし、答えるという番組で、「若い頃なにをめざしていましたか」とか、「これからの女性はどう生きたらいいのでしょう」というような、内容を女の子たちが真面目そうな表情で質問し、林芙美子がにこにこと答えています。この番組はラジオ放送ですから、録音が残されているのですが、番組広報のために、一部フィルム撮影が行われ、林の映像が1分ほど記録されたのです。

 このインタビュー、文子晩年の姿、と言えるのは、私たちが芙美子の47歳での死が迫っていたことを知っているからであって、芙美子自身は健康に不安を持っていたとはいえ、自分がこれほど早く死ぬとは予想していなかったことでしょう。芙美子は明るく楽しそうに女生徒の質問に答えていました。 芙美子の葬儀委員長だった川端康成が「芙美子を憎む人も多かった」と葬儀で挨拶したように、芙美子の友人関係は決して良好なものばかりではなかったけれど、ビデオの映像から感じられる人柄は、率直で快活な生き生きしたものでした。

 今回は、この映像を見ることができたことが大きな収穫でした。 芙美子の家の庭。玄関前の孟宗竹はますます太くなっていました。まっすぐに己の信じる道を邁進した芙美子の姿を思い浮かべさせるようなすっきり立つ竹でした。

 今年は1951年に林芙美子が無くなってから没後60年の年です。神奈川県近代文学館で芙美子の回顧展が開催されています。11月13日で会期終了となるので、なんとか時間を作って見に行きたいです。

<つづく>
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ごはん食べた?2010年4月

2010-11-04 06:06:00 | 日記
2010/04/11
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(1)吃了飯[口馬]?チーラファンマ?

 上階からの漏水事故のあと、2日間は体調落として寝込み、食欲減退。いくらか痩せたような気もしましたが、「水害見舞い」として、ウェブ友からうどん、リア友(現実社会で行き来するリアルな友達)から角煮饅などを送ってもらい、もりもり食べましたから、今はたちまちリバウンド。(館林うどんも長崎角煮まんじゅうもおいしゅうございました。感謝)

 ストレス解消のためにこれまで無謀喰いを続けてきました。「チョコ数箱一気食い」「ケーキ丸ごとホール喰い」なんかは禁止されてはいるのですが、まあ、ときには禁を犯すのも人生。片付けの合間に甘納豆一袋一気食いなどはやりました。
 漏水後かたづけから復活後、ブランコで揺れておなかをすかせたあとの話題は「食べること」。春庭の喰うや食わずの人生、なんとか食い繋ぐことがメインの生活ですから、食べることについての話をします。

 昨年の半年間、中国で仕事をしました。三度目の中国赴任だったけれど、中国語はさっぱり上達しませんで、挨拶と食堂の注文が出来る程度でおわりました。
 中国語の挨拶、一番よく使われるのは「你好ニーハオ」です。しかし、你好は、実は方言のひとつであったものを普通話(プートンファ=標準語)として採用されて以後広まったものだそうです。人民共和国になるまでの中国で日常の挨拶ことばは「ごはん食べた?」你吃了飯[口馬]?ニー、チーラファンマ?

 中国で一般民衆がともあれ毎食の食事を十分に取れるようになったのは、20世紀後半以後のこと。現代は、貧富の差が大きくなって不満も渦巻く中国大陸ですが、「人民共和国になってから飢える人がいなくなった」と、中国の人々は信じています。お年寄りの中にはおなかをすかせていた記憶を残している人々も多く、昔話をしてもらうと「子供の頃はいつもおなかがすいていたけれど、毛主席のおかげで今は幸福です」と、模範的な回答をします。外国人に何か尋ねられたときは、とりあえず毛沢東をたたえておけばあとのたたりはない、という教育が徹底しているだけかも知れませんが。

 日本では、「空腹に耐えられなかった」という時代を覚えている人たち、高齢化していますが、記憶を語って残してほしいと思います。
 敗戦後占領下の日本に生まれた私の場合、物心ついたころには皆が食べられるようになっており、成長の過程で空腹に泣いた記憶がありません。芋や米を母の実家から分けてもらったことや母が家庭菜園で野菜を作ったり、鶏を飼ったりしていたから、一般の勤労者家庭よりは食材が豊富だったのかもしれません。
 今、泣くのはおもに「肥満道一直線」の我が身体にであって、食欲のままに食べ続けるとどうなるか、という結果に涙するばかり。

 21世紀の今、東京のレストランでは世界中の料理が食べられます。世の家庭では毎食毎食、豊富な献立が食卓に上り、メニューのレベルはさまざまなれど、みなおなかいっぱい食べている。世界的にみても、歴史的にみても、これほどの飽食社会は未曾有のこと。毎日のメニューやその日作った料理のレシピをブログに記録する人が大勢いる。こんなに毎日ごちそうを食べ続けていいのかしらと思うくらい。

<つづく>
19:47 コメント(2) ページのトップへ
2010年04月13日


ぽかぽか春庭「戦下のレシピ」
2010/04/13
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(2)戦下のレシピ

 水に濡れて捨てた本多数の中、斉藤美奈子『戦下のレシピ』は、濡れずに残った。仕事の資料として直接使用しない本は処分すると決めて、捨てようかどうか迷ったけれど、本箱に戻しました。留学生への「日本事情」の授業を担当しなくなってから、歴史関連の本もだいぶ処分したのですが、岩波アクティブ新書の一冊『戦下のレシピ』、そんなに場所もとらないし。

 『戦下のレシピ』には、昭和初期から敗戦時期までの農村と都会の食生活が紹介されています。
 振り返ってみれば、私が生まれる前、戦争中の日本また敗戦後の日本で一般庶民は飢えていた。ただひたすら「おなかいっぱい食べたい」という望みを抱えて生きていた。現代では、飢えて死ぬ人がニュースとして特別な存在になり、飢えた記憶は戦中戦時下、敗戦後の思い出の中に語られるだけ。以下、『戦下のレシピ』一部紹介。

 『戦下のレシピ』に掲載されているメニュー。
 たとえば1940(昭和16)年、太平洋戦争が始まった頃の献立として『主婦之友』12月号に食糧新報国会常務理事・中澤弁治郎が書いている都会向けと農村向けの「国民食」献立。以下の献立に主食は一人米400g麦その他雑穀100gを摂取するのが「栄養献立」とされているのですが、そもそも都会の家庭には、昭和16年の時点ですでに米麦雑穀あわせてもひとり一日300g以下しか配給がなかった。どうやってこの「理想的な栄養献立」を満たせというのだったか。

(1940年12月都会向け)
朝:味噌汁 金平牛蒡(きんぴらごぼう) 漬け物
昼:うどん 汁 薬味
夜:鯖のハンバーグ 清し汁 漬け物
(農村向け)
朝:里芋と大根葉の味噌汁 いなごの佃煮 漬け物
昼:味噌パン 漬け物
夜:打豆飯 ごった汁 漬け物

 1931(昭和6)年頃に成立したと見られている『雨にも負けず』は、「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」と書いています。「玄米4合」は、宮沢賢治流のずいぶんと控えめな食事です。副食物が少なかった戦前の食事では、一日に米飯を6合摂取しないと肉体労働に必要なカロリーを供給できないとされていました。味噌、佃煮、漬け物などをおかずにして、穀類を大量にとるのが、この時代の中心的な食事でした。
 『写真で見る日本陸軍兵営の食事』などの本によると、日本陸軍の食事規定では、一回の食事につき、主食として三食とも麦飯2合(ひとり一日6合)、副食として朝食は汁物(味噌汁・すまし汁など)と漬物。昼食および夕食は、肉や魚を含んだ少量のおかず一品。

 中央物価統制協力会議の資料(法政大学の調査による)と、1944年1月、東京都の労働者世帯の野菜入手状況は、ひとり当たりの配給量は一日平均約25匁(90g)、配給以外に買出しその他で約50匁(180g)を入手。同じく魚介類の配給は一日平均7匁(25g)弱にすぎず、魚の半分は生いわしと丸干しいわし。配給以外に買い出しで入手できる魚介類も10匁(36g)強。1ヶ月後の1944年2月ごろには、東京都における野菜配給量は一人一日当たり平均20匁(72g)、魚は5匁(18g)に減り、戦火が激しくなるとその配給も滞っていきました。

 そうなると、道ばたの野草雑草も貴重な食材。いたどり、おおばこ、はこべ、すべりひゆ等、なんでも食べることに。婦人雑誌などでは「野草をおいしく頂く調理法」などを特集しています。

 1945年に戦争が終わってからさらに厳しい食糧不足が続きました。冷害が続いて国内の穀物生産が危機に瀕した上、戦前のように台湾や満州、朝鮮半島などから食料を調達することは出来なくなったからです。食料の配給制度ではどうやっても生き延びることはできませんでした。食料統制法による闇米販売を犯罪として裁かなければならない裁判官の中に、統制法を守って闇米を拒否し、栄養失調で亡くなった人が何人かいました。(一番有名なのは33歳で亡くなった山口良忠判事)
 と、いうことは、大多数の死ななかった法律家や警察官は法を守ってはいなかったということになります。

 現代の食料自給率は40%に満たない。輸入食料に頼っている中、輸入ができなくなって、もし食料統制法なんてものができたとしたら、、、、闇米を買おうにも、わが家にはお金もないし、一家で栄養失調になるしかないでしょう。集合住宅住まいだから庭でさつまいもを栽培することもできないし。

<つづく>
07:08 コメント(4) ページのトップへ
2010年04月14日


ぽかぽか春庭「満州火鍋」
2010/04/14
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(3)満州火鍋

 戦中戦後に盛んに「家庭で作れる食べ物」として推奨された南瓜とサツマイモ。食べ物が出回るようになると、「芋と南瓜はもう一生食べなくてもいい」と言う人もいたようです。私はいろいろな食材が出回るようになってから物心ついたおかげで、今でもサツマイモもかぼちゃも大好きです。食べ物の記憶というのは、それぞれの人にそれぞれのものですが、戦下にフスマパンとか芋雑炊とかを食べ続けた人にとって、なつかしいというより、「もう二度と食べないでもいい」という味になっているのでしょう。何を食べても、おいしい思い出が蘇る私は、幸福な時代を生きてきたと言えます。お金持ちの家ではなかったけれど、家族5人団欒の食卓を用意してくれた両親に感謝。

 わが家は田舎でしたから、私の子供時代にはもう野菜も十分に出回るようになっていましたが、農家出身の母は「八百屋の野菜なんて新鮮でない」と言って、家の裏手で家庭菜園を作っていました。味噌汁の菜っ葉などは、作る直前に摘むのですから、新鮮そのものです。庭に鶏も飼っていて、毎朝産み立ての卵で「卵かけご飯」を食べましたが、今思うと、野菜やトウモロコシなどの自然の餌で育てた鶏の卵は、現在の配合飼料と抗生物質を食べている鶏の卵とはずいぶん味が違っていたはずです。当時はそれが贅沢とも思わずにいましたが。

 私はタラの芽、蕨、コゴミなどの山菜が好きで、芹、蕗の薹などのちょっと苦みがあるような山野草が好物のひとつです。「あかざ」という雑草のおひたしも好きでした。母が家庭菜園で作った菜っぱのお浸しをゆでているとき、わざわざ私の分だけアカザをゆでてもらって食べました。アカザはそこらの畦や空き地にいくらでも生えていました。
 野菜も豊富に出回る頃になってからアカザを食べるのは、野趣があっておいしいと思えましたが、ほかに食べるものがないときに、おおばこやイタドリなどを食べさせられた子供たちにとっては、「野草をおいしく食べませう」と指導されても、有り難くはなかったことでしょう。

 『戦下のレシピ』続き。
 中国大陸に戦火が広がり、満州では皇帝溥儀が傀儡の身とわかって憤懣をつのらせていたころ。1939(昭和15)年の『婦人倶楽部』2月号には、「満州料理」が紹介されています。
・ホウコウズ(火鍋)
 内地の寄せ鍋の一種ですが、寒い寒い満州の冬、暖かい暖炉の前に集まって頂く夕食に、ホウコウズの美味しさは第一級の食味がございます。
材料(五人前)
 春雨一束、白菜半株、豚肉または兎肉50匁(180g)、竹輪一本、烏賊一尾または鰯五尾、人参一本、葱三本、筍少々

 2007年2009年の中国赴任中も、火鍋は教師達に人気のメニューでした。ありがたいことに、私が行った店の多くは、火鍋がひとりひとり別鍋仕立てになっていたこと。大鍋を前に、いちいち「すみませんが、直箸つっこまないでね。鍋の中にいれるのは取り箸限定にしてください」とお願いせずにすみました。鍋に直箸が入ると食べられないというのは、私のビョーキですが、これは豊かな現代だからこそ言えるわがままであり、食べ物のない時代だったら、直箸だろうと残飯だろうと食べざるを得なかったのかも知れません。

 果たして昭和15年に満州に暮らしていた人々のうち、どれほどがこの「第一級の食味がございます」というレシピで「暖かい暖炉の前に集まって頂く夕食」を味わえたのか、と感じます。『婦人倶楽部』などの雑誌は満鉄勤務のご亭主を持つ奥様方などが購買層だったでしょうけれど、満州の荒野を開拓していた人々は、コウリャンの雑炊をすすっていたのではないでしょうか。

<つづく>
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2010年04月15日


ぽかぽか春庭「19世紀末イギリス荷馬車屋の食事」
2010/04/15
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(4)19世紀末イギリス荷馬車屋の食事

 『戦下のレシピ』は捨てずに取っておくことにしたのですが、古い料理本などはだいぶ処分しました。そのほか、いろんな紙が積み重なっていた中のプリントに、イギリス都市労働者の食事の記録がありました。面白いと思って取っておいたのですが、別段資料として活用したことはなかった。ちょっと湿気たけれど、文字は読めるので、この際コピーしておきます。ネタ元の本の名前が書いてないので、出典がわからないので、記録としては不完全ですが、そのうち出典を探します。

 産業革命後のイギリスでは、食生活が格段に向上したのですが、それでも以下のように単調なメニューであり、ごちそうは日曜日に食べるだけです。また、夜の食事は無しであるか、食べてもパンくらいで、ディナー(一日の中心の食事)は昼にとっています。
   
 19世紀末から20世紀初頭のイギリス都市労働者の食事の記録。
A:荷馬車屋(週給20シリング)
・月曜日(朝):パン ベーコン バター 茶 (昼)豚肉 ジャガイモ プディング 茶 (ハイティ=4時前後のティータイム)パン バター 茶 (夜)茶 
・火曜日(朝)パン ベーコン バター コーヒー (昼)豚肉 パン 茶 (ハイティー)パン バター ゆで卵 茶 (夜)パン ベーコン バター 茶
・水曜日(朝)パン ベーコン バター 茶 (昼)ベーコンエッグ ジャガイモ パン、茶 (ハイティー)パン バター 茶 (夜)なし
・木曜日(朝)パン バター コーヒー (昼)パン ベーコン 茶 (ハイティー)パン バター 茶 (夜)なし
・金曜日(朝)パン バター 茶 (昼)パン バター トースト 茶 (ハイティー)パン バター 茶 (夜)なし  
・土曜日(朝)パン ベーコン コーヒー (昼)ベーコン ジャガイモ プディング 茶 (ハイティー)パン バター ショートケーキ 茶 (夜)パン ニシンの干物 茶
日曜日(朝)パン バター バター入り焼き菓子 コーヒー(昼)豚肉 玉葱 ジャガイモ ヨークシャープディング (ハイティー)パン バター バター入り焼き菓子 茶(夜)パン 肉

 イギリスの都市労働者の食事、つづき。
 週給20シリングの荷馬車屋は夜の食事を抜く日があったのにくらべ、週給25シリングの研磨工は、夜も焼き菓子などでおなかを満たしています。ディナー(一日の中心の食事)は昼ご飯で、肉類の摂取も荷馬車屋より多くなります。

B:研磨工(週給25シリング)
・月曜日(朝)パン バター ジャム チーズ 茶 (昼)パン 牛肉 ジャガイモ キャベツ 茶 (ハイティー)パン バター ジャム 茶 (夜)パン ジャム
・火曜日(朝)パン バター ジャム 茶 (昼)ミートパイ ジャガイモ (ハイティー)パン バター ジャム パイ 茶 (夜)バター入り焼き菓子 
・水曜日(朝)パン バター ジャム 茶 (昼)細切れ牛肉 パン ライスプディング茶(ハイティー)パン バター バター入り焼き菓子 茶 (夜)フサスグリ入り焼き菓子
・木曜日(朝)パン バター 茶 (昼)パン ベーコン ジャガイモ (ハイティー)パン バター 茶 (夜)パン バター
・金曜日(朝)パン バター パイ 茶 (昼)パン ビーフステーキ コーヒー (ハイティ)パン チーズ 茶 (夜)パン 缶詰肉 
・土曜日(朝)パン ベーコン 茶 (昼)パン 牛肉 茶 (ハイティー)パン バター ジャム 茶 (夜)パン バター 
・日曜日(朝)小麦粉焼き菓子 バター 茶 (昼)ローストビーフ ジャガイモ キャベツ ヨークシャープディング (ハイティー)パン バター ジャム 茶 (夜)パン ジャム

C:職工長(週給38シリング)
上記と同様の献立に、昼はスープと肉またはソーセージ、サーディンなどが加わる。飲み物は茶、コーヒーのほか牛乳も加わる。

 19世紀末(1800年代末)週給20シリングの家庭では、しばしば夜の食事は抜きになったけれど、38シリングもらえる職工長になると、チーズが食卓に上ることも増え、肉類も多くなることがわかる。いずれにせよ、現代からみると単調なメニューであり、食べる楽しみはどれほどであったろうか。
 メニューは書いてあったけれど、量が書いてないので、果たしてこの食卓が家族みなに十分行き渡っていたのかどうかわかりません。

<つづく>
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2010年04月17日


ぽかぽか春庭「たのしみは」
2010/04/17
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(5)たのしみは

 19世紀末のイギリスや、昭和時代の日本の庶民の食事からみると、現在の日本人の食卓は王侯貴族の食事のように思えます。
 我が家のメニュー、贅沢をしているつもりもなく、飽食のつもりはありませんが、若い頃に比べ太ってきたことは事実。必要なカロリーより余分に摂取しているから太るのに違いない。

 「隣の晩ご飯」という番組は長寿番組のひとつになっています。みな、お他所の家の食卓にどんなおかずがのっているのかは気になるから、番組も長く続いているのでしょう。春休み夏休みに昼のテレビをつけて、たまに「隣の晩ご飯」を見ることがあるのだけれど、アポなし突撃というにしては、どの家もたっぷりのメニューでおいしそうなおかずがテーブルの上に並びます。我が家のように買ってきた出来合いお総菜や生協レトルト食品が貧相に並んでいる、というような家庭はテレビには登場しないみたい。

 2007年に私が中国に単身赴任して「我が家シェフ」は、娘と交代いたしました。以来、娘が夕食係です。朝ご飯と昼は起きる時間もまちまちなので、それぞれが勝手に食べたいものを食べることになっているのですが、夕食は娘が作り必ず息子と私といっしょに食べます。

 我が家の献立は、ご飯に一汁二菜(汁・スープがないときはおかず3品)が基本。肉または魚のメインディッシュに、野菜のおかずが1品(煮物、温サラダなど)。ミネストローネやけんちん汁、豚汁などの汁物、または付け合わせとして揚げ出し豆腐などの副菜。プラス漬け物など。
 栄養のバランスはよいと思うのだけれど、問題点は量。確実に消費カロリーより多い。飽食のつもりはないといいながら、これはやはり飽食なんでしょう。減らすべきです。はい、了解してはおります。

 食べる喜びは生きる喜び、、、、ですが、これからは食べる意欲をもう少し別の意欲にかえていこうかと思います。
 道浦母都子が食べ物をテーマにして詠んだ歌を集めた本、絵本のような体裁の歌集(短歌とイラストのコラボ)を持っていたはずなのですが、水害騒動で廃棄したほうに入っていたのか、見当たらなくなりました。あれ?道浦ではなくて俵万智の歌だったかしら。こんなふうに、記憶も曖昧になるので、たとえ読み返すことはしなくても、本は持っていたいと思うのです。

 2009年度芸術選奨を受けた柳宣宏歌集『施無畏』から、食べる喜びに溢れる歌を抜き書き。
・コロッケを肉屋に買ひて歩みつつ少年の日のよろこびを食ふ 柳宣宏
・セロファンに包まれたるを春の野に光らせながらほどくおむすび 柳宣宏
・饅頭の白きを食ひてニッと笑む死にさうもない母に寄り添ふ 柳宣宏

 次は、食べる歌の古典。橘曙覧(たちばな あけみ1812~1868)。あけみの「たのしみ」は食べることだけじゃなかったですけれど、食べる歌だけ抜き書き。
・たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時
・たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき
・たのしみは門(かど)売りありく魚買(かひ)て煮(に)る鐺(なべ)の香を鼻に嗅ぐ時
・たのしみはまれに魚煮て兒等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時
・たのしみは雪ふるよさり酒の糟あぶりて食(くひ)て火にあたる時
・たのしみは木芽(きのめ)煮(にや)して大きなる饅頭(まんぢゆう)を一つほゝばりしとき
・たのしみはつねに好める燒豆腐うまく煮(に)たてゝ食(くは)せけるとき
・たのしみは小豆の飯の冷(ひえ)たるを茶漬(ちやづけ)てふ物になしてくふ時
・たのしみはとぼしきまゝに人集め酒飲め物を食へといふ時
・たのしみは客人(まらうど)えたる折しもあれ瓢(ひさご)に酒のありあへる時

<つづく>
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2010年04月18日


ぽかぽか春庭「今朝の麺麭」
2010/04/18
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(6)今朝の麺麭

 食べたつもりで一首詠むってことで、食べる量を減らせるかしら。
食べたたつもりで、春庭も「食べ物の歌」。 
・慶州の旅より戻りてビビンバは吾子の得意の料理となりぬ(我が家のシェフは娘)春庭
・コロッケに揚げるジャガイモ潰すとき娘の指に力みなぎる(握力は私のほうがあるのだけれど) 春庭
・ツナ缶はパッカンと開く缶切りもいらずサラダは出来上がりけり(サラダ担当は息子) 春庭
・春キャベツのサラダは息子が刻みます千切りならず百切りまたよし 春庭
・惚け伯母が最後につぶやく「ビーフストなんとかってのをも一度食べたい」 春庭
・亡き母のひとつ話よ嫁に来て烏賊さばき方知らずに泣いたと 春庭
・八宝菜が亡き母自慢の料理ゆえ八宝菜は今も宝菜(パオツァイ) 春庭
・朝鶏が産んだ卵を飯にかけ命いただき命に感謝(うちのは無精卵だったけど) 春庭
・今朝の麺麭(パン)昼餉の饂飩(うどん)小麦粉の生まれし大地は地球の裏とふ 春庭

 食べ物短歌、、、、なんだか余計おなかがすいてきました。

 休みの日、朝はコーヒーを飲んでから布団に戻って二度寝しながら新聞を読み、ゆっくりしてから起きて10:30~11:30にブランチをいただきます。3時~4時にハイティ(しっかりおなかにたまるおやつを食べるティータイム)のメニューは、ホットケーキだったりバナナだったりします。最近は「キャベツをチンしてポン酢をかけたもの」など食すようにして、カロリーに気をつけてはいますが、甘い物の誘惑を完全排除したらストレスになるからと、自分に甘い食生活管理。

 休日の食生活。ブランチ、ハイティ、夜ごはんという3食、結局は朝ごはん、昼ごはん、夕ごはんと3食食べているのと同じことに思えるのですが、3時ごろ食べるものはどうしても食事というよりおやつという感覚です。3月27日土曜日のハイティは、ひとりでテレビを見ながら、「ナッツクッキーと、タイみやげの固形トムヤムクンスープの素でコンニャクを煮たもの」という自分でもおかしな組み合わせと思うメニューだったのですが、これも一食食べたという感じにはならず、おやつ。

 夜のご飯は8時~9時ごろです。娘の生活リズムで、7時頃からテレビを横目で見ながら作りはじめ、ゴールデンアワーに好きなテレビ番組を見ながら食べたい、という。
 日曜日なら、「ダーウィンが来た」という動物番組を見ながら作って、「龍馬伝」を見ながら食べる、という具合。1月~3月の月曜日、9時からのゴールデンアワーのドラマ『コードブルー』では、緊急手術シーンとか災害救助シーンでは、「血を見るとごはん食べられなくなるから」と目をつぶってしまうこともあり、「そんなくらいなら9時からのテレビ見ながら食べる」という方針を変えたらいいのに、娘は「みんなでワイワイしゃべりながら食べながらテレビ見るのが好き」と言うのです。救助シーンで目をつぶってはらはらしながら「あの人、助かるよね、助かってほしいなあ」なんて言いながら、口にぱくっとご飯を放り込む、そんな「消費される日常」がわれらの生活なので。

 今年の元旦。「書き留めるだけダイエット」をしようと思い立ち、食べたものをを書き留めることにしたのですが、たった一日だけの記録であとはなし崩し、、、、
 毎日のメニューを書き留めておくことで「あ、昨日はちょっと食べ過ぎたから今日は節制しておこう」という気分が生まれて、ダイエットできる、と、岡田斗司夫が『いつまでもデブと思うなよ』に書いてあったのを実践しようと思ったのですが、作る人にとっては自己表現ともなるメニュー記録、食べるだけの人が書き留めるのは案外たいへんなのだとわかりました。食べることの情熱に比べると、メニュー記録は強い意志がないと続かない。

<つづく>
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2010年04月20日


ぽかぽか春庭「いつまでもデブと思う、、、、よ」
2010/04/20
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(7)いつまでもデブと思う、、、よ

 我が家のメインディナーは、主菜一品を娘が調理し、副菜は生協から配達してもらう市販品のおかず、というのが基本です。メニューの中、(生協)と書いてあるのは、この出来合いおかずです。生協品の漬け物やサラダを並べたり、副菜類を袋から出してチンして盛りつける係は息子。春休み中は私が調理することもありましたので、メニューを書き留める気分も出てきました。3月下旬からのメニューを書いておきます。

 夜遅い夕食なので、私はデザートを省略することもある。娘と息子は私が寝たあとに夜食としてデザートを食べています。有名パティシエのケーキ、なんていうときは、我慢できないからつい食べてしまいますけれど、今年の目標は「デザートは我慢」です。おやつはたいてい毎日食べているけれど、食べていないつもりにしているので、書かない。見て見ぬふりってところです。
 調理者の名が書いてないのは私が作ったもの、娘担当のときは(娘)と書いてあります。(生協)とあるときは、息子が袋から出してそのままお皿に出したりチンしたりして並べた物。

3月22日(月)ブランチ:キャベツ蒸し煮 長崎角煮まんじゅう(冷凍品を解凍してチン。K子さんから届いたもの) 夜:ごはん、豚汁(豚肉鶏肉大根人参ジャガ芋キャベツ葱こんにゃく豆腐油揚げ)、肉巻きチーズ(チーズを鶏肉で巻き、その上から豚肉薄切りで巻く。油で焼き付けて周囲を固めたあと蒸し煮)、トリ煮物(鶏胸肉と生姜を微塵切りにして油揚げに詰めて煮た)、(生協)蕪の甘酢漬

3月23日(火)ブランチ:チーズトースト 夜:(娘)生ラーメン(チャーシュー、メンマ、ノリ)、かに玉甘酢あんかけ、(生協)チーズはんぺん

3月24日(水)ブランチ:トースト&コロッケ(近くのスーパーの揚げ物コーナーの男爵&牛挽コロッケ) 夜:(娘)バラちらし寿司(鯛・いくら・まぐろ・ほたて・卵)、(生協)玉こんにゃく醤油煮、(生協)春野菜漬け物、お吸い物(小袋の粉をお湯で溶く「松茸風味吸い物」)

3月25日(木)ブランチ:煮込みうどん(豚肉人参キャベツ市販品つゆ)夜:(娘)ごはん、もやし鳥肉炒め物、(生協)冷や奴と湯葉、(生協)キュウリぬか漬け、デザート:(生協)心斎橋チーズロールケーキ(大阪のパティスリーセイロワンスタージュの直経8cm、長さ12cmくらいを3人で分けた。パティシエの西園誠一郎さんは、1981年バレンタインデー生まれ29歳という若くてイケメンの関西では有名な人なんですと。「デザートは我慢」のつもりが我慢できなくなってしまうではないか)

3月26日(金)ブランチ:もやしキャベツ蒸し煮、チンしたジャガイモのマヨネーズ和え 夜(スパゲティ屋でダンスサークル仲間と食事)老醤(ラオジャン)スパゲティ(ラオジャンというピリ辛の調味料が入ったクリームソース、アスパラガスと小エビのスパゲティ)

3月27日(土)ブランチ:(娘)トマトと豆のペンネ(缶詰のうずら豆、大豆、ひよこ豆を利用) おやつ:クッキー 夜(娘)ご飯、刺身(生協品刺身セットを解凍。まぐろ、サーモン烏賊巻き、ホタテ、えんがわ、海老)、(生協)白菜漬け物、(生協)桜豆腐(ほんのりピンクの豆腐の真ん中に桜の塩漬けが載っていた)、デザート:(生協)エクレア

3月28日(日)ブランチ:塩ラーメン(人参、わかめ、卵)おやつ:羊羹、クッキー 夜:(娘)玉葱ごぼう春雨牛肉の炒め煮、(生協)ポテトサラダ、(生協)チーズかまぼこ、デザート:チョコクッキー(台湾土産としてもらったのだけれどポーランド製)

3月29(月)ブランチ:ジャガイモチーズ焼き(チンしたジャガイモに味噌マヨネーズをかけてスライスチーズをのせてオーブントースターで焼いたもの) ハイティ:カップラーメン(生協、沖縄そば) 夜:(娘)カレーうどん、(生協)揚げ出し豆腐、(生協)長いもの梅酢漬け デザート:(生協)富良野雪解けチーズケーキ(富良野市菓子司新谷)

3月30日(火)昼:コロッケパン(近所のパン屋カンパネルラ製) おやつ:カシューナッツ1袋120g 夜:(娘)ごはん、小エビのオーロラソース和え、ゆでキャベツハーブレモンソース和え(生協)チーズはんぺん、鶏肉ハンバーグ、(スーパー市販品)春巻き デザート:いちご(とちおとめ小粒)ヨーグルト&メープルシロップ

3月31日(水)昼:チーズトースト(8枚切りの1枚) おやつ:おせんべい、クッキー 夜:(娘)生ラーメン(チャーシュー、コーン、のり)、大根サラダ(胡麻油醤油)、椎茸チーズ焼き

<つづく>
07:15 コメント(1) ページのトップへ
2010年04月23日


ぽかぽか春庭「タケノコ生活」
2010/04/23
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(8)タケノコ生活

 4月6日に大きな筍を買いました。忙しい毎日の夕食では「筍水煮」を買って済ませることが多くなり、皮付きを久しぶりに買いました。娘が調理担当になってから野菜類は煮物が減り、サラダ系が多くなりましたから、筍の煮物も家では作らなくなったのです。私はたまに食べたくなると、おやつ用としてスーパーの出来合い土佐煮を買っていました。

 久しぶりに筍の皮をむくので、息子に「筍生活」という言葉の意味を知っているか尋ねると、案の定知らないという。そこで、皮を何枚か剥かせてみた。「このように着ている着物を一枚一枚はがして質入れしたり家の中のものを売って食いつなぐ貧しい暮らしがタケノコ生活」と教えたけれど、「蜘蛛の子を散らすよう」とか「虱潰しに探す」とかと同じように、シラミも筍の皮を剥くこともトンと生活の中に無くなってしまい、これらの比喩も死語になっていくのでしょう。私だって、蜘蛛の子が巣から四方八方に散るのを現場で見たのは一度だけです。

 筍を買うに当たって、ハタと困ったことに、「筍は米のとぎ汁でまたは糠をひとつかみ入れてウデる」という母の教え。「ウデる」は、母の言葉で「ゆでる」のこと。米糠は筍のえぐみを取るために必要なのですが、うちのお米は無洗米。糠がついていません。それで、筍といっしょに糠漬け用の糠を一袋買いました。筍を煮るのに使った残りは糠床を作ってキュウリでもつけようと思うけれど、たぶん、ぬか漬けはいい味の糠床が仕上がるまでに手入れが悪くて捨てることになるのがオチ。
 
 筍は、ゆでたあと冷めるまで糠入りのまま鍋においておくって手間をおかずに、すぐに湯から引き上げて煮てしまったためにエグ味が残ってしまい、娘も息子も食べてくれません。ひとりで一鍋分あった筍、全部食べました。3食たけのこ。こういうのも「たけのこ生活」?

 我が家の献立メモ4月上旬。
4月1日(木)昼:スクランブルエッグ トースト おやつ:クッキー、煎餅、ゆでキャベツ 夜(娘)ビビンバ(牛肉、もやし、菜、人参、ゼンマイ他)キャベツコーンミニトマトサラダ お吸い物

4月2日(金)昼:ビビンバ(夕べの残り) 夜:ステーキ、ポテトソーセージ

4月3日(土)朝:おじや(たけのこ、椎茸、人参、鶏肉)昼:(留学生とのお花見ピックニックに、教師として自作お弁当をみなにふるまいました)五目寿司(いくら、サヤエンドウ、卵、人参、筍、椎茸、鶏肉、油揚げ)、鶏と椎茸のコチジャン焼き、大根キャベツ浅漬け ツナサンドイッチ おやつ:卵焼き おにぎり 夜:(娘)海鮮丼(いくら、鮪、ウニ)、揚げ出し豆腐、大根とキャベツの浅漬け

4月4日(日)朝:卵雑炊 昼:花見弁当(飛鳥山公園前ほかほか亭ひとつ500円。キンキン司会のアドマチックで紹介されていたので買ってみましたが、まあ、味はそこらのホカ弁屋とかわりません。醤油味のご飯の上にピンクの桜花びらのはんぺんと錦糸卵がのっているほかは、コンビニ弁当のおかずと変わりなし。海老フライ。肉より衣が大きい鶏唐揚げ、煮物蓮根人参がんもどきひとつずつ、肉団子、枝豆3つ) 夜:ホワイトシチュー(牛肉、じゃがいも、人参、大根) キャベツ漬け物

4月5日(月)昼:ホワイトシチュー残り 夜:(娘)生ラーメン(メンマ、(生協)豚角煮 牛肉細切り(シチューで煮たのをほぐしておいたもの)(生協)蕪漬け物 (生協)冷や奴(商品名・波乗りジョニー)

4月6日(火)ブランチ:雑炊(ごはん、人参、椎茸、油揚げ) ハイティ:筍姫皮サラダ 煎餅&クッキー 夜:(娘)ソテー盛り合わせ(チキンソテー 豚肉ワイン漬け焼きはんぺんチーズ ニラ饅頭) ほうれん草とベーコン炒め物 筍土佐煮 

4月7日(水)朝:バナナ ほうれん草ベーコン炒め(夕食のこり) 昼:(椿山荘)さくら御膳(桜エビのかき揚げ 蕗の薹とタラの芽の天ぷら)胡麻豆腐 柴漬け 味噌汁 羊羹) 夜:(娘)刺身(まぐろ ほたて)(姑からのお持たせ)南瓜煮物 ひじき炒め煮 筍土佐煮(私だけ食べた) デザート(コージーコーナー)4種チーズのチーズケーキ

4月8日(木)朝:焼き芋三分の一(姑が自慢の「石焼き芋と同じ仕組みでおいしく芋が焼ける鍋」を使って焼いたもの)昼:キャベツ味噌汁 おやつ:マコロン クッキー 椎茸チーズ焼き 夜:(娘)ごはん もやしと豚肉の炒め物 大根とキュウリの浅漬け 

4月9日(金)朝:バナナ(夕食残りもの)もやしと豚肉の炒め物 昼:(上野駅構内イタリアンの店レモネッロ)前菜・牛肉煮込みソーススパゲティ・ベリータルト、コーヒー 夜:(生協)チャーハン (生協)揚げ出し豆腐 (生協)グリーンサラダ

4月10日(土)ブランチ:日清チキンラーメン 卵  おやつ 饅頭(あんこ)ひとつ 煎餅3枚 夜:(娘)海鮮丼(まぐろ サーモン いくら トビッコ 卵)(生協)白菜漬け物 (生協)胡麻豆腐 デザート:(生協)チーズケーキ

<つづく>
07:30 コメント(4) ページのトップへ
2010年04月24日


ぽかぽか春庭「ボナペティ」
2010/04/24
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(9)ボナペティ

 4月7日に見た映画2本立ての1本は「ココとイゴール」。ブランコシリーズで紹介しました。もう1本は「ジュリアとジュリー」という映画でした。
 ジュリアとは、アメリカの家庭料理にフランス料理を取り入れたテレビ料理番組の有名料理家ジュリア・チャイルドです。

 メリル・ストリープは、料理好きアメリカ人の記憶に残っているジュリアの印象を再現し、「役になりきっていながらメリルの個性はそのまま」というメリル式演技で、16回目のアカデミー主演女優賞ノミネート。オスカーはのがしたけれど、ゴールデングローブ賞は6回目の受賞を果たしました。
2003年にキャサリン・ヘプバーンが亡くなったあとは、私にとって「特にファンと思っているわけではないのに、どうしてもその出演作を見て、演技を見ておきたくなる女優」のNo.1です。こういうのを隠れファンと言うのかも。

 さて、ジュリア・チャイルドは、40歳近くなってから結婚し、子供には恵まれなかったけれど、夫とはラブラブです。夫のパリ転勤でパリとフランス料理が大好きになり、ル・コルドン・ブルーの料理学校に入ったことから、料理教室講師、料理本執筆、テレビ料理番組出演と人生を広げていきました。食べることが大好き。好きなことを極めたいから料理に夢中になり、料理を通して自分の生きる道を探っていきます。
 ボナペティ(Bon Appetit)は、フランス語で「おいしく召し上がれ」(原義は「よい食欲を!」)です。
 ジュリアがテレビ番組で家庭向けのフランス料理を作った後、「ボナペティ」と言うのがシメになっていました。

 ジュリアの料理本出版から40年後のニューヨーク。
 ジュリーは作家になるという若い頃の夢をあきらめ、政府機関の職員として働いています。ジュリーの仕事は、9・11の衝撃から立ち直れない人々への電話相談係。本当に悩みを抱えて電話してくる人もいるけれど、単なる鬱憤晴らしに電話係を攻撃してくる人もいる。仕事のストレスが大きくなる中、知り合いのブログが出版のチャンスを得たことを知り、ジュリーもブログを書き始めます。ブログのテーマは「ジュリア・チャイルドのフランス料理レシピ524を365日で作る記録」
 夫は、ジュリーのブログにもクッキングにも協力的でした。最初のうちは。

 書き続けるうち、ジュリーは読者が増えていく喜びを知り、コメントに一喜一憂します。ブログに熱中するあまり夫との仲違いも経験し、料理雑誌記者に料理を振る舞おうと欠勤したことがばれる結果にもなりました。このときは「寛大な上司」という評判を得たい上役だったので、危うくセーフ。
 ブログが新聞に取り上げられ、ジュリーは念願の作家デビューを果たしました。ブログが本になり映画にもなりました。その映画が『ジュリア&ジュリー』

 さて、この「ご飯食べた?」シリーズも、ジュリアの決まり文句でシメましょう。「ボナペティ、よい食欲を!」
 「女と料理」話の次は「女と掃除」話です。

<おわり>
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