春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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春庭@アート散歩

2008-07-26 20:42:00 | 日記

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横顔も縦顔も

2008-07-25 06:27:00 | 日記
ぼやき嘆き愚痴不平を主食に、ねたみそねみひがみやっかみいやみをおかずに日々生きております。あいことばは「ネガティブ」

☆世界への信念1 「反戦・平和」
☆世界への信念2 「自由平等博愛」

好きなコトバ「ただ、無料、割引、ご招待」 ご自由にお持ち帰りください

座右の銘「果報は寝て待て」「棚からぼた餅」「他人の褌で相撲をとる」「濡れ手であわ」

生活の指針1 
馬と鹿「世の中に寝るほど楽はなかりけり浮き世の馬鹿は起きて働く」

生活の指針2
社会の富は平等に!あなたのものは私のもの/ 
貧しい春庭に博愛の手を!
くださるものなら、なんでもいただく

 ♪ ♪    ♪ ♪ 

<春庭失敗人生の数え歌2011バージョン>

ひとつとせ:母語はひとつ。モノリンガル。バイリンガルにはなれなかったよ。上州弁でいいだんベ。

ふたつとせ:子供はふたり。娘二十八、息子は二十二。親の苦労を子は知らず

みっつとせ:三人姉妹の真ん中です

よっつとせ:持ってる資格は四種類。教員免許は役だったけど、運転免許は使用せず

いつつとせ:仕事をしている5つの大学。2つは国立3つは私立、週に5日の日給稼ぎ

むっつとせ:かじったことば6言語。ドイツ語タイ語スワヒリ語韓国中国アラビア語、かじっただけで飲み込めず、試験がおわるとソッコー忘れた

ななつとせ:卒業したのは7回で、小学中学高校と、専門学校、私立大、国立大と大学院
やっつとせ:つとめた日本語学校は、日本と中国8つの学校

ここのつとせ:9月の生まれで乙女座です

とおとせ:引っ越ししたのは10回で、群馬で育って東京で学び、埼玉で中学国語科教師。ケニアで夫に巡り会い、埼玉で子育て東京へ引っ越し、主婦学生に。中国で教えて東京に戻る。中国赴任は計3度。東京暮らしも30年。

11とせ:転職したのは11回。地方公務員を皮切りに、病院内科検査技士、英文タイピスト、役所事務、国語教師に予備校講師、劇団女優のドサ回り。編集助手にフリーライター、校正補助に日本語教師。日本語教師は20年、いちばん長いが儲からず。教えた学生の国籍は、世界中に百ヶ国。
              

<好きなこと偏愛マップ>
好きなこと:読書・ブログ・ジャズダンス・テレビ・映画・日本語雑学・散歩・旅行・食べ歩き・ぐうたら昼寝とだら食いおやつ・自転車ポタリングで脂肪燃焼

好きなもの:(食べ物)海鮮・果物・甘いモノ・木の実と豆と山の幸


得意なこと上手なこと:朗読・早食い・早寝付き・早打ちタッチタイピング

苦手なこと嫌いなこと:整理整頓&掃除・数字計算・努力と勤勉

学校時代のクラブ活動:合唱部・音楽部・文芸部・科学部

現在の所属サークル:それいゆダンスィング(ジャズダンスサークル)・日曜地学ハイキング

ボランティア活動:視覚障害者外出ヘルプ・視覚障害者朗読サービス

好きな人:
(作家)澤地久枝・石牟礼道子・辺見庸・村上春樹・大江健三郎

(写真家)長倉洋海

(学者):南方熊楠 西江雅之

(教師)大村はま 見城慶和 吉幸薫 宮本延春

(タレント)だるま食堂森下由美

ブロガーQ&A
1. この質問への答えは、何年何月の時点のものですか?
  2009年12月初旬です。

2. ハンドル・ネームと、その由来を教えてください。
  春庭。江戸時代の国学者本居春庭から借用。

3. あなたは、おじさん/おばさん ですか? おにいさん/おねえさんですか? それとも、それ以外ですか?
  おばさん。
 
4. お住まいはどの辺りですか? 差し支えのない表現でどうぞ。
  東京都23区内にして山手線外側。

5. インターネット歴は何年ですか。始めたきっかけは、仕事ですか、プライベートですか?
 自宅用のパソコンは1995年に最初IBMを買った。すぐにインターネットにつないだけれど、ダイヤルアップだったし、通信速度が遅くて活用するには至らなかった.

6. 自分のサイトを初めて開いたのは、いつですか? そのサイトは、今でも継続されてますか?
  2003年9月。『話しことばの通い路』開設。継続中。

7. 現在、自分のサイトをいくつ持ってますか? そのうち、毎日更新のサイトはいくつですか?
  公開するためのサイトはひとつ。毎日更新。そのほか、倉庫サイトがあります。フロッピーディスク、MO,USBなど、媒体が変わるたびに記録しなおしてきて、面倒だと思ったが、サイト自体を記録媒体にすればいいことに気づいた。

8. あなたのサイトの名称の由来を教えてください。
  サイト名も本居春庭の主著『詞通路ことばのかよいじ』から拝借して『話しことばの通い路』となっております。

9. あなたのサイトは、日記や Blog のサービス (はてなダイヤリー、Cocolog、楽天広場 など) を利用したものですか? それとも、自前で作り込んだものですか。あるいは、併用されてますか? (BBS は除きます)
 メインサイトはHPビルダーを使った自前。毎日更新しているサイトは日記サービスページを利用。

10 あなたのサイトは Blog だと思いますか?
  「web日記」の日記の中身を問わないならブログ。生活記録、日本語学日本語教育リポート、評論、なんでも書き込む。

[あなたのパーソナリティについて]

11. 文科系ですか? 理数系ですか?
  根っから文系。

12. 小学校の頃の夏休みの絵日記なんかは、毎日きちんとつけていましたか?
  はい、課題の枚数きちっと仕上げて宿題提出してました。日記ですが、時に創作。

13. プロセス重視派ですか? 結果オーライ派ですか?
  結果が目に見えないしごとなので、オーライとなったかどうかわからぬ。その日暮らし。

14. 喜怒哀楽は激しい方ですか? それがサイトのコンテンツにも反映されてますか?
  激しいけれど、サイトには出さないことが多い。

15. 有神論? 無神論?
  汎神論者。特定の宗教を信じることはないが、すべての神仏は私を守るために存在しているにちがいないと信じている。

16. 結婚してますか? あるいは、恋人はいますか?
  法律上のパートナーはいる。パートナーにひとこと。「私が出稼ぎしてようよう稼いだお金をちょっと貸せ、と言って借りていったあなた、借りたもんは返せよ」

17. 一人でメシを食うのと、大勢でわいわい食うのと、どっちが好きですか?
  一人。「食事をおいしくするためのなごやかな話」を私がしなくてもいいなら、別段何人でもよい。

18. 国内派ですか? 国際派ですか? 英語でコンテンツを書けますか?
  英語ができたなら、今頃こんな半端パート仕事を続けていなかったろう。

19. Windows 派ですか? Mac 派ですか? それとも、それ以外ですか?
  なにぶんWindows。ビルゲイツをこれ以上太らせることはないと思いつつ。

20. そもそも、パソコンという機械は好きですか? それとも単なる道具ですか?
  単なる道具ですが、使いこなせていない道具。

21. あなたのサイトを無理矢理でも 「○○系」 という分類 (時事系、文芸系、お笑い系 など) に当てはめるとしたら、何系と言えますか? なお、「総合系」 という言い方は、最後の手段と考えてください。
  「文芸系」「評論系」「自分語り系」

22. あなたのサイトに、できるだけシンプルなキャッチフレーズを付けてください。
  「聞き上手の人、募集中 」 こんなのどうでしょう。

23. あなたのサイトにとって、「毎日更新」 というのは重要なポイントだと思いますか?
  ポイントにはなっていない。毎日更新するより、まとめて一回ひとつのテーマを載せたほうがいいかと思う。でも、400字詰め原稿用紙60枚分とか100枚分の評論なんて、だれも読みはしないだろうから、まとめてUPしないだけ。

24. あなたのサイトのトップページは、重いですか? 軽いですか? できるだけ軽くしようと、意識したりしてますか?
  軽い。テキストサイトなので。

25. テキストと画像のどちらに力を入れていますか? 
  テキスト。画像のUP基本的にはしていない。

26. サイトの全体的な構成面で、最も気を付けていることは、どんなことですか?
  来た人のほとんどが、サイト内で迷子になったという。

27. 個別のコンテンツを作成するとき、最も気を付けているのは、どんなことですか?
  あまりないなぁ。誤変換くらい??長いテキストを書いているときは「お筆先」状態なもので。

28. 同世代を意識したサイトの作りをしていますか?
  意識していない。そもそも、私の同世代はパソコンは使わない。ケータイなら使うようになったろうが。

29. あなたのサイトは、リンクフリーを宣言していますが? リンクを制限しているとしたら、それはなぜですか?
  ネットは原則リンクフリーだと思うのでリンクフリーと書いてあるが、コピーライトは保持。

30. あなたのサイト作りで、「これだけは外せない」 というこだわりのようなものはありますか?
  小説や物語のページ以外は、人格はひとつにまとめている。

31. 「毎日更新」 (「ほぼ毎日」 とか 「できるだけ毎日」 もOK) をサイト上で謳ってますか? それとも、たまたま毎日更新が継続されているということですか?
「ほぼ毎日更新」と書いてあるが、更新しない日は年に10日くらい。

32. 本当に掛け値なしに毎日更新できてますか? 実際の更新率はどのくらいですか?
  2009年に更新しなかった日は、3月が2日、5月が2日、6月が6日、7月が1日、8月が2日のみ。1年の合計13日。中国滞在中にインターネットが使えない地域やパソコンがないって場所にいたときだけ更新できなかった。

33. 更新作業は、大体決まったタイミングで行ってますか? 一日のうちでいつ頃にすることが多いですか? 
  午前12時に起きているときは日付が変わったとき。12時前に寝たときは翌朝5~8時が基本。

34. 毎日更新を継続するために、心がけていることはありますか?
  ストックの中から選んで、時節ネタを付け加えてUPする。

35. 実際のところ、2~ 3日分まとめて更新してしまうなんてことはありませんか?
  1日1500字以内をUPの原則にしているが、ときには一回のUPが3000字越えたりする。だれも最後まで読まんだろう。

36. 以前のログを後日に修正・編集したりすることはありますか?
  誤字・脱字を訂正。数字の誤記はよくある。事実訂正や論旨の変更については、「見せ消ち」を使い、訂正前がわかるようにする。

37. 旅行や出張などの時の更新は、どうしてますか?
  パソコンが壊れたときネットカフェで更新したことがあったけれど、それ以外は原則家で更新する。つまり家にいないときは休みます。

38. ネタに困ることはありませんか? 困った時はどうしてますか?
  ネタに困ることはないが、書いたあとストックしておくうちにUPする時期を逃してそのままオクラ入りはよくある。

39. 長期にわたって、心ならずも更新を中断した経験はありますか?
  ない。

40. 更新作業は楽しいですか? 辛いですか? それとも、淡々たる習慣ですか?
書くことは食べることと同じ。UPは排○○と同じ。出さなきゃ詰まるだろう。

[サイトの運営について]

41. あなたの普段のインターネット接続方式 (FTTH、ADSL など) は、何ですか? その方式に満足していますか?
  ADSL。部屋に光ファイバーが来ているけれど、今のところ不便がないので、切り替える気はない。

42. あなたのサイトは独自ドメインですか? そうでないとしたら、将来独自ドメインに移行するプランはありますか?
  よそを訪問するのにURLを打ち込むことはない。キーワード検索で訪問するので、自分のところにも別段ドメイン自前にしても来る人が増えることはないと思う。

43. 現在のサーバに満足ですか? 引っ越しは考えていませんか?
  引越しするのも面倒。今のところ特に問題もない。

44 あなたのサイトには、毎日更新している以外のコンテンツがありますか? それらの更新はどの程度の頻度でされてますか?
  本店サイトの更新をしていたディスクトップが壊れて、ノートには「HPビルダー」を入れてないので、本店は開店休業になっている。

45. アクセスカウンターやアクセス分析ツールは付けていますか?
  もともと人がこないサイトなので、カウンターはつけていても、増えもせず。
開設当初から。あまり人の動きは気にしていません。

46. キリ番に関しては、特別なイベントを企画していますか?

  うーーん、やってみたい気もあるけれども、どんな相手でも喜ぶプレゼントというの

47. アクセスアップを期待していますか? 毎日更新は、アクセスアップに結びついていると思いますか?
  たくさんの人に読んでもらい、感想コメントをもらえば大喜び。でも、読まない人がアクセスしてきても、うるさいだけ。

48. 何か、ウェブリングに参加していますか?
  昔入っていたリングがあったけれど、放置。

49. メルマガは発行していますか? それについて、どんな考えをお持ちですか?
  発行してません。

50. Google で上位にランクされるように、SEO (検索エンジン最適化) をしていますか?
  していない。でも、ときどきGoogleでキーワードをアンド検索すると、自分のサイトが上位にくる。すごいぞgoogle!

51. BBS はいくつ設置していますか?
  1つ。

52. BBS に書き込みがあったら、マメにレスをつけていますか?
  必ず一回はレス。

53. 把握している常連さんは、何人ぐらいいますか?
  常連は基本ひとり。文通状態。

54. そのうちで、顔も本名も知ってる人は何人ぐらいですか?
  ひとり。

55. 他のサイトの BBS には、よく書き込みをする方ですか?
ごくたまに。

56. BBS の他に、ハーボット、アンケートなど、インタラクティブなページを持ってますか?
  ありません。

57. リンクページをもっていますか? どのくらいのサイトにリンクしていますか?
  分野別にリンク。

58. 他からリンクしてもらう時に使ってもらうバナーは持っていますか? 持っているとしたら、お持ち帰りしてもらう方式ですか? それとも、直リンク OK ですか?
なし。

59. 欠かさずチェックしているサイトは、何件ありますか?
  ほぼ毎日見ているのは5件くらいかなぁ。週末とかの回遊サイトは20件くらい。

60 オフ会に参加したことはありますか? それについて、どんな考えをお持ちですか?   オフ会という形でなく、個人対個人で出会ったことはある。

61. これまで、ネット上に端を発したトラブルに巻き込まれたことがありますか?
  ある。1995年にインターネット始めたばかりの頃、某bbsに書き込みをしたら、その人のファンという人からメールが来てからまれ、削除要請をうけた。ネットに慣れていなかった頃とはいえ、人んちに書くのはこわいことだと身にしみた。こちらは冗談だと思っても、通用しないということを学んだ。

62. 余所の BBS で、あなたが謂われのない中傷を受けたとしたら、どうしますか?
  無視。余所さまで何をしようと、気にしないけれど、こんなちっぽけなサイトの悪口言うのはよほど暇人か。

63. 望まない論争を挑まれたら、どうしますか?
  うけながす。

64. 痛いところを突いているけれど、確かにもっともだと思える指摘を受けた時は、どうしますか?

  素直に意見を飲み、謝ります。謝ることに躊躇がない人間なもので。

65. BBS に 「アラシ」 が発生。どうしますか?
アラシが発生しないようなBBS。来る人まれ。

66. 当局にマークされているような気配を感じませんか?
  キーワードで検索されてしまうかもという語には気をつける。

67. 著作権については、どの程度気を遣っていますか?
  「引用」はあるが、「著作権」そのものを侵害するような記述はない。

68. あなたはネット上で本名を公開してますか? 公開している場合、それによるトラブルなどはありませんでしたか?
  家族から本名特定できるような記述は禁止されています。

69. バックアップはしっかり取ってありますか?
  倉庫ページに格納。倉庫ページのブロバイダーがつぶれることはまずあるまいと信じているのだが。

70. 毎日更新を続けていて、良かったと思うことはありますか?
  なんのメリットもないが、健康を保つために必要。

71. これまで更新してきたログで、何冊分の本が作れますか?
  30冊。世の凡百の本より、いいこと書いているんだけどね。

72. 10年後も、毎日更新を続けていると思いますか? 何年後までなら、毎日更新を続けられそうな気がしますか?
  あと10年はネタには困らない。


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2008年夏

2008-07-24 07:24:00 | 日記
<2008夏
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おひとり様の老後

2008-07-22 08:47:00 | 日記
2009/01/26
ぽかぽか春庭やちまた日記>暦はひとめぐり(1)おひとり様の老後

 2009年1月10日は、我が家にとって、「家族写真撮影記念日」になりました。夫と所帯を持って以来、初めて写真館で家族そろって記念写真を撮影したのです。夫と姑と娘と息子と私。5人で写真館にでかけ、息子成人式の記念撮影をしました。

 娘や息子の七五三の時も、娘の成人式の振り袖姿も、いつでも母子家庭で記念撮影してきました。どんな時も夫は「そういう仲良し家族ごっこにつきあう気はない」という「自己主張」を押し通してきたのです。家庭を顧みない父親だからこそ、せめて子どもたちのために、写真だけでもいっしょのものを残したいという妻の願いは、完全無視です。
 今回は、「おばあちゃんといっしょに写真をとる」ということを第一の大義名分にしました。妻には冷たい夫も、実母には頭があがらないので、「おばあちゃんが孫といっしょの写真を撮りたがっている」ということにしたのです。

 1月25日の夫の言では、「」

 夫は、「夫婦仲良く」に値することは何一つしてくれたことがない。
 結婚指輪も新婚旅行もなしだったのは承知の上だったけれど、結婚以後、誕生日に「おめでとう」もなし、夫婦いっしょの旅行もなし。太宰治のことばに「家庭の幸福は諸悪の根元」という警句がありますが、夫はそれをまともに実践したつもりだったのです。家庭の幸福なんぞを追求しているのは、男の一生として諸悪のもとであると。

 家事育児の手伝いはまったくなし。家族をいたわる言葉がけなんて皆無。自営の会社は赤字続きで、毎月家族のための生活費は、「ほんの気持ちだけですが、、、、」という程度。雀の涙というか、ハチドリの涙。
 まあ、こちらも「いえいえ、お気持ちだけで十分です」なんてことも言わず、ハチドリの涙を受け取るのだけれど。

 会社の微々たる収入は、会社事務所の維持にあてて終わり。あと、夫の趣味のタイ語講座授業料とか。
 ヒョータン社長、リタイア後は、「ひとりで」タイの奥地に入り、現地の子のために学校を建てて暮らしたい、と「おひとり様の老後」計画を立てています。

 「子どもの給食費がない」と、私が泣いていた時代でさえ、私の泣き言はいっさい無視して、「フォスターペアレント」という会を通じてタイのこどもに「奨学金」を送っていた人なのです。
 タイの子の奨学金より、うちの子の学費でしょ、と、私が訴えてもムダだった。娘は学費いっさいを育英奨学金と大学奨学金の両方を得てまかない、2006年に卒業しました。2007年入学の息子の学費は、私が2007年に出稼ぎで稼いだ手当で、かろうじて授業料を支払いました。

 息子は育英奨学金を借りるのはいやだと言い張る。娘の育英奨学金、これから20年以上返済していかなければならない大変さを知っているからです。「親が子に奨学金を出すことにするなら、返済は有るとき払いの催促無しだから」ということで、私が貸し付けることになりました。今年と来年の分の授業料を稼ぐために、今年はまた出稼ぎに行かねばならない。いつになったら返してもらえるものやらわからないですけれど。

<つづく>


2009/01/27
ぽかぽか春庭やちまた日記>暦はひとめぐり(2)DV妻

 世間では 夫のことを見て「変わった考え方の人ね」という論評ですむのでしょうが、私にとっては死活問題。子どもの食い扶持を稼ぐために、私は必死に働いてきました。おしゃれもショッピングも無縁ですごし、ただ年をとってしまいました。

 そんなこんな愚痴話をつづけながらも、去年息子が20歳の誕生日を迎え、この1月に成人式を迎えたことで、ひとまず、「未成年の子への親の責任」肩の荷をおろすことにします。肩の荷おろしても、あと2年間は学費分食費分を稼ぐのは私ひとりですが。

 苦労続きの結婚生活のなか、それでもなお、私が夫に感謝しているのは、私に「子供を育てる人生」を与えてくれたから。
 私と結婚して、私が子供を産むことを承知するなんて、夫以外の男ではたぶん、ありえなかった。私は、完璧に「男が結婚したいと思うような女」ではなかったから。1970年代にとっての「女らしい女性」というイメージに反抗して生きたのが、私の青春でした。生意気で知ったかぶりで、自己主張が強く、精神的な自立を望む女。男女は平等であるべきだと思い、家庭は両性が協力して築くものだと主張していた。「かわいい女」のふりができた女子高校同級生は、みなよき伴侶を得て幸福な家庭を築いたのですが、私は「男に媚びていると思われるのはいやだ」と言って、にこりともしないヤナ女でした。

 今では、学生にも愛嬌を振りまいて、「先生はいつもニコニコしていて、授業するのが楽しそうですね」と、言われている。なんの、なんの、営業スマイルに決まってるでしょうが。これでメシ食ってんだから。

 私を知っている人は、みな、私が一生本とにらめっこしてすごすと思っていました。私が理想的な結婚生活と思ったのは、高群逸枝と橋本憲三夫妻でした。妻は研究を続け、夫は妻の研究の意義をみとめ、自分は編集者として生活をささえ、妻の研究生活を応援する。
 理想と現実はまったくかけ離れていました。我が家、夫は赤字続きの校正会社を自営し、「おひとり様」で生きている。妻は研究生活もままならず、孤軍奮闘でふたりの子を育て、生活費をかせいだ。

 子どもに胸の乳を飲ませながらも、片目で本を読み続けた私ではあるけれど、子育ては楽しかった。
 我が家、娘も息子も不登校生徒でしたから、不登校の期間はものすごくたいへんだった。しかし、子どもが成長した今は、苦しくつらかったことは忘れて、すべてがよい思い出になっています。

 中学校不登校の娘を受け入れてくれる高校を探して、東京中、そして神奈川まで高校見学に娘と出かけたことなど、昨日のように思い出されます。娘は都立の単位制高校を経て都内の私立大学を卒業し、息子は16歳で「高校卒業資格認定試験」に合格して、今は自宅から自転車で15分の大学に通学しています。

 ショーモない娘とロクデモない息子に育ち上がったとしても、娘と息子は私にとって宝物であり、子育てをした時間は、最大の「人生のよき部分」である。こういうと娘息子はとてもイヤがるけれど。「子供は宝物」と言われると、「親にとって、よい人間であれ」と、束縛される気がするのだと。そんなことは望んでいない。子供は子供の人生を歩めばよいのであって、親の鼻を高くさせるためとか、親の勲章になるために人生があるわけではない。だから、好きに生きたらよい。

<つづく>


2009/01/28
ぽかぽか春庭やちまた日記>暦はひとめぐり(3)感謝状

 毎年、父親の誕生日と6月第三日曜日に、娘と息子は父へのプレゼントを渡してきました。三倍返しをめあてにしてるんだよ、と娘息子は言うけれど、私は釈然としない。我が家に父親なんていたんだっけと、毒づいてみる。

 家庭生活を完全に放棄し、家計費もほとんど負担しないで「趣味の人生」に生きている父親。そんな父親を、それでもなお「子供たちが慕うように」育ててきた自分をほめてやりたいが、悔しくもある。どうしてああいう父でも「父の日」のプレゼントをもらえるのよ!

 子供たちが小さい頃、娘が書いたメッセージや息子が保育園で描いた「父ちゃんの顔」を渡そうとしたら、夫は、「こういうものをもらって喜んでいられる状態じゃない」と、贈り物を放り出したことがありました。
 夫も、倒産のまぎわで気が立っていたのだろうと、今では理解もするが、その日は、ただただ腹がたって、私は泣きながら夫に殴りかかった。夫をなぐろうとしたのは、唯一この時だけ。私が夫から身体への暴力を受けたことは一度もない。

 しかるに、私は、自分が法的には「DV妻」と呼ばれてしかるべき存在だったことを、今まごろになってようやく知った。夫から、直接の暴力暴言を受けたことがなかったので、自分が「DV妻」に相当するとは知らなかったのです。
 家庭を無視する「ネグレクト」や、家計費も家事も分担しない「非協力」を、妻が「悲しい、つらい」と感じた時点で、この夫の仕打ちは「DV=ドメスティック・バイオレンス家庭内暴力」と、法律的には呼びうるのだって。私は法的に立派な「DV妻」でした。知らなかった!

 今まで26年間、貧乏生活に愚痴を言ってきた。でも、働くことは好きだったから、貧乏暮らしもまた楽し、と、やり過ごしてきました。
 2008年5月、愚痴ですませられない怪我さわぎがあり、骨折した足をひきずって通勤していたとき、ほんとに休めない体がうらめしかった。

 私がこうまでして働かなければならないのは、私が働かなければ、一家で飢えるからだ。
 痛む足をかばいながら、階段を上っている間、夫が子供たちからのプレゼントを放り出したとき以来の腹立ちを感じました。
 腹が立った時点で、また「つらい」と感じた時点で、私は「DV妻」なのだった。
 う~、DV妻の26年間、、、、、、姑から「よい嫁」と言ってもらえてるくらいじゃ、追いつかない気がしますけど。

 親は子供が自立して生きていくすべを手に入れるまでは面倒をみる。それが親の生き甲斐でもある。でも、ひとりで生きていけるまでに成長できたら、子は子で自分の人生をみつけるがよい。親を当てにすることもないし、くびきにすることもない。
 ただ、ただ、私にとっては、子が成長する過程をともに過ごせたことは人生最大の喜びであったし、「私の人生の一番たいせつな部分」と思っています。

 その「大切な部分」を与えてくれたのだから、夫には、感謝している。うらみつらみはあろうとも、そのすべてを上回って感謝しています。
 夫へは、感謝状でも贈ろう。
 「DV人生をありがとう。DV妻より」とでも。

<つづく>


2009/01/29 
ぽかぽか春庭やちまた日記>暦はひとめぐり(4)虎穴に入らずんば

 夫は、元地方新聞記者でしたが、私とケニアで出会ったのは、新聞社をやめ、フリーランスジャーナリストの可能性をさぐりながらナイロビに滞在していたころでした。

 「ひとりでアフリカ・アジアを歩き回り、取材したい」という夢を持つ男でした。
 たぶん、2007年ミャンマー反政府デモ取材中に軍に射殺され亡くなった長井健司さん(享年50歳)の生き方ができたのなら、夫としては本望だったことでしょう。
 でも、その夫の夢は、「デキ婚」の結果、「子どもが育ち上がるまでは、ひとりで外地へ入って死ぬわけにはいかない」という決意で断念したというのです。

 結婚してからも夫はフィリピンやタイの難民キャンプ地などへでかけていましたが、タイ奥地ゴールデントライアングルと呼ばれる地帯やミャンマー山岳ゲリラ地帯へ入っていくチャンスがめぐってきたとき、娘の顔を思い浮かべたとき、子供が成人するまで死ぬわけにはいかない、と思いゲリラ地帯潜入を断念した。フォトジャーナリストになる夢を諦め、日本にもどって校正会社をほそぼそと続ける人生を選択した、と夫の弁。

 夫がめざしていた新聞記者は岡村昭彦でした。
 岡村は、『南ヴェトナム戦争従軍記』を発表した東京新聞の記者でしたが、晩年はホスピス活動に力をそそぎました。岡村になる夢をあきらめたのは夫自身です。でも、「家族ができたために夢をあきらめた」と、夫が言うので、私はずっと「申し訳なかった」と思い続けてきました。もし、夫が夢をあきらめずに外地に入って死んだら、私たちは母子家庭となった、のかもしれません。

 でも、実質的に26年間、夫は、「家族をほったらかし」の生活を続けたのですから、外地にいようと、国内にいようと、結局は同じだったと、今は思いますけどね。
 どっちにしろ、娘と息子は、父といっしょにすごす時間を持たずに、「疑似母子家庭」で育った。いや「疑似」の分だけ悪かった。なんであれ、偽物は本物に劣る。

 現在の夫の夢は「仕事をリタイアしたら、ひとりでタイの奥地で暮らしたい」だそうで、タイ語の講座に通っています。自分の母親の介護はヨメがなんとかするだろうと、信じているみたい。
 「今通っているタイ語教室では、ぼくがいちばんいい生徒なんだ。無遅刻無欠席で成績もいい」と、娘にも息子にも私にも同じ自慢をしていた、「家族ほったらかし」男、今月末日が誕生日。

 娘の誕生日も息子の誕生日も、もちろん私の誕生日も「365日のなかの一日にすぎない」から、お祝いなど言っているヒマはない、という男、自分の誕生日を娘や息子が祝ってくれないと、不機嫌になるのです。
 「チチって、自分は個性的だなんて思っているらしいけれど、単なるジコチューなんじゃないの」と、娘はすでに中学生ころに「父の本質」を見抜いたそうです。

 さて、「単なるジコチュー父」は、子供たちからのプレゼントを待っているのかな。
 私は、『タイの田舎で暮らす』という本を見つけたとき、夫に「将来タイで暮らしたいと思っているなら、参考になるかも」と、渡したら、「ぼくは、こういうのは読まない。人のやったことをマネしても面白くないから」と、文句言ってました。ほんと、かわいくありません。まったく!タイの奥地で、トラに食われてしまいなさいよ。
 あ、タイにトラはいるんだっけな。
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はじめの一歩

2008-07-21 22:28:00 | 日記
 春庭やちまた日記>はじめの一歩

(1)一陽来復苦尽甘来
(2)粒々辛苦疲労困憊
(3)苦心惨憺有為転変
(4)暗中模索気息奄々
(5)七転八倒青息吐息
(6)孤軍奮闘隠忍自重
(7)悪戦苦闘阿鼻叫喚
(8)家内安全捲土重来
(9)四海兄弟心機一転
(10)獅子奮迅縦横無尽
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2008/11/12
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(1)来復苦尽甘来

 母親にとって、子どもの誕生日が近づくとしみじみしてきます。
 子どもの成長を年ごとに喜び、なによりもその年まで育ってくれたことがありがたくて、誕生日の前後の日々は、どこのだれよりも感慨深い、慈母でいられます。

 ましてや、20歳まで育ってくれたとなると、ああ、親業もこれで卒業、もう子どもは立派に成人し、ひとりで生きていくこともできると、しみじみし、これまで子どもの成長に関わってくれたすべての人に感謝したい気持ちでいっぱいになります。

 1988年、前置胎盤妊娠、出産時の出血多量により母子ともに死ぬかも知れないといわれました。
 予定日より2ヶ月前に破水してしまい、救急車で入院。絶対安静の入院中も、日に日に母胎が衰弱し、「もう母胎がもたない」と、緊急手術が行われました。
 大量出血大手術の末に、高齢の母親から仮死状態で生まれた息子。

 普通の帝王切開では、下半身の局部麻酔だけで、全身麻酔をしないと聞くのに、私の場合は全身麻酔をかけました。
 医師の判断では「子どもはもう助からないだろうから、母親だけでも助けなければ」ということだったのだろうと思います。

 赤ん坊は死んでしまっているだろうという判断だったのでしょうが、幸いにも仮死状態で出生し、かろうじて命をとりとめました。

 40日早産の未熟児。
 母親の私が「子どもは助かったんですか、生きているんですか」と、必死にたずねても、看護婦さんは「そうですね、今はお母さんが元気にならないと、、、、」と、ことばを濁し、子どもの安否は教えてもらえませんでした。命がつながるかどうか、医師にもまだ予測がつかなかったのでしょう。
 
 出産後3日たって、ようやく保育器を見に行くことを許されました。赤ちゃんは、たくさんの管につながれていましたが、生きていました。保育器の中で、いっしょうけんめい生きようとしていました。

 息子は、1ヶ月新生児室に入院していました。肝臓がはれて黄疸がでたり、危ない時期もありましたが、命つながっただけでありがたい。
 2500g以下の低体重児ではありましたが、2400gあったので、なんとか命保つことができました。

 保育器のなかで、声もあげられずにいたちいちゃな赤ん坊が、立派に20歳を迎えるのですから、母にとって、これ以上のプレゼントはありません。
 ありがとう、生まれてくれて。ありがとう、生きていてくれて。

<つづく>


2008/11/13
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(2)粒々辛苦疲労困憊
 
 高校1年生のとき、息子が「もう高校に行かない」と言ったときも、「うん、自分で決めたならそれでいい」と、言うことができました。

 センター試験を受けたあと、2つの大学から合格通知がきたけれど、「大学に行く気になるかどうかわからない」と、息子が言いました。
 母は、「自分の人生なんだから自分で決めなさい」と答えました。
 いつも「命さえあればよい」という気持ちがあったから。

 娘と息子に「お母さんの人生にとって、ふたりが生まれたことが最高の幸せ。ふたりは最高の宝物」と、言ったりすると、たちまち「ほら、そういう押しつけがましい母親の感慨ってやつが、子供にとっては重荷なんだよ」
 「宝物と思うなら、もっと貴重品として扱ってほしいよ。小遣いもっとくれ」などと返ってくるだけですから、そんなことは面と向かってはいいませんけれど、親にとって、子供がなによりの宝物であることは、どの親にとっても言うまでもないこと。

 私と息子の20年。ほんとうによくぞここまでたどり着いた。
 5歳の息子を妹に預けて、中国に単身赴任で働きに出かけたときも、息子が高校中退し、これからどうなっていくのか、悩みになやんだときも、保育器にいて、生きるか死ぬかの戦いを生き抜いてきたあのころを思い返していました。

 息子の保育器のとなりには、900gという超低体重で生まれ、1年間も保育器に入院している赤ちゃんがいました。お母さんは、1年たって、ようやく体重が2000gを越えたと、涙していました。

 保育器のなかで必死に生きようとしている赤ちゃんたちを見ていると、大人なんだから、どんなつらいことにも堪えていかなければ、この赤ちゃんたちに申し訳ない、と思えました。

 小さな保育器のなかで、賢明に生きようと呼吸をしていたときの、ちっちゃな手と足。
 肝臓が悪いと聞かされ、黄疸で黄色くなっていた胸や顔。鼻に酸素と栄養液のチューブをはめられていた。

 胸の母乳をしぼる。夫や妹に病院保育室へ届けてもらい、赤ちゃんのようすを見てもらう。体重が増えたと、聞かされたときのうれしさ。

 未熟児保育室から退院してきたあとは、毎日11時ごろになると裸にして日光にあて、マッサージをしました。
 現在では、赤ちゃんマッサージが良いと言われ、ママさん教室などで講習会が開かれているのですが、私は、そんなことは全く知らず、ただ、日光浴がいいと信じてやっていたのです。

 これが息子の成長にはよかったのだと思っています。
 お日様にあてること、母の手のぬくもりでなでてやること。

 息子が生まれて、日本語教師の仕事にすぐに復帰できる見込みがなくなりました。しかし、食べていかなければならない。
 大学院の入試を受けました。入学できれば、奨学金が借りられる。
 奨学金で親子して食べていく算段をしました。
 夫の会社は相変わらず赤字つづきです。

<つづく>


2008/11/14
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(3)苦心惨憺有為転変

 まだ首がすわらない息子をおんぶして、母校の大学院2次試験の面接を受けました。
 「試験に赤ちゃん背負ってきた人、初めて見た」と、言われましたが、無事合格。育英奨学金受領ができました。いまだに奨学金の返済をつづけています。

 夫の仕事を手伝いつつ、大学院での勉学を続け、息子が1歳になって日本語教師の仕事も再開しました。夫に「もう、会社は倒産しそうだから、働きに出てくれ」と言われたので。
 
 大学院を修了しても、就職先はみつからず、1年後にやっとみつけた仕事は、「中国での単身赴任、子連れ不可」
 10歳の娘と5歳の息子を妹夫婦に託し、出稼ぎにいきました。

 幼いむすこを残していくのはつらかったけれど、働かなければ食べていけず、やっと得られた中国での仕事。
 毎晩こどもを思ってすごしました。
 半年後の夏休みに、娘と息子いっしょに中国ですごしたのち、帰国。

 息子が小学校1年生になったとき、週1回、非常勤講師として大学で教えはじめ、2年生のときは週2回、3年生は週3回、だんだん増やしていきました。

 息子が4年生のとき、娘は中2の秋から中3の卒業まで不登校を続けていたので、私は娘のことばかり気がかりで、あまり息子を見てやれず、かわいそうなことをしてしまいました。
 (娘の成長については、2006年3/22~3/30のカフェ日記「日々雑記いろいろあらーな」に書きました。)

 息子はこのころ、「ボーイスカウトにはいって、キャンプをしてみたい」と、言ったのに、経済的にも精神的にも、息子の希望を叶えてやることができませんでした。

 息子が5年生になると、私の大学での授業は週5回。
 娘が高校に入学し、ようやく息子に気持ちを向けてやれるようになりました。

 息子の学校の学童保育は小学校3年生まででした。4年生のときは、娘が毎日家にいたので、学童保育は必要ありませんでしたが、娘が高校進学した後は、放課後、私の帰宅までの居場所が必要になりました。
 
 5年生になると、学童クラブがわりに、習い事の塾へ通うようになりました。
 「つかこうへい劇団児童教室」に週1回通って、演劇やダンスの練習。スイミングスクールに週2回、お習字は、娘の同級生のお母さんに見てもらって週1回、学習塾へ1回。
 私の帰宅が遅いし、娘は高校の生徒会活動などで帰りが遅いため、学童保育がわりに、塾に預けたのでした。
 5年生6年生のつかこうへい児童演劇教室で主役を演じたときのビデオは、私の宝物です。

 小学校5年生2学期になると、塾の先生から中学入試を勧められるようになりました。
 息子が学童保育がわりに通った塾は、大手進学塾と提携しており、模擬試験を受ける機会があります。息子の偏差値が高かったので、塾の先生から「ぜひ、受験してみてください」と、進められるようになりました。

<つづく>


2008/11/15  
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(4)暗中模索気息奄々

 偏差値が70を越すと、先生の「受験のおすすめ」もいっそう熱がはいるようになりました。息子もだんだんその気になり、自営業赤字社長の夫も「学費がかからないところなら受験してもよい」と、言うようになりました。
 国立大学付属校を受験することになり、息子は第一希望の中高一貫男子校に合格しました。

 毎年、高校の卒業生4クラス160人のうち、100人近くが東大へ進学するというスーパーサイエンススクール。高校数学オリンピック、科学オリンピックなどの常連出場校です。

 息子は中学校の3年間、毎年、文化祭では演劇班役者として出演し、水泳部では中学校水泳部区大会でメドレーリレーチームの第二泳者として出場し優勝しました。
 江東区辰巳プールでの都大会にも出場しました。

 保育器育ちで身体があまり丈夫でなかった息子、躰が丈夫になるように願ってスイミングスクール通いをさせたのですが、「スクールのお客さん」として泳ぐのと、学校の部活でしごかれながら泳ぐのでは疲れ具合も違っていました。
 地下鉄で2線乗り換えてラッシュアワー40分の通学が苦痛だと、中学校時代から言っていましたが、なんとか義務教育の間は休み休みでも通学しました。

 鉄緑会(中高6年一貫校の生徒を対象とした、東京大学受験指導専門塾)などの塾へ通う子が大半なのに、息子は塾へは行かず、勉強面ではしんどい思いをしたし、もともと引っ込み思案の子でした。

 小学校の時、つかこうへい児童演劇教室に入ったのも、「声がだせない子も大きな声で話せるようになるし、引っ込み思案の子が舞台にたてるようになる。役者養成の教室ではなく、積極的な心を育てる教室」というふれこみの教室だったからなのです。
 しかし、息子、舞台では「違う自分」になって大きな声がだせても、ふだんの人間関係をこなすのが苦手なのは、相変わらず。

 姉と妹と、私の娘は、だれとでもうまくつきあえて、世話好きなところが亡き母とそっくり。一方、伯母と私と息子は、人間関係をうまくこなせないことで、つらい思いをするところが遺伝しています。伯母は、幼い頃、学校の中では一言も口をきかない緘黙児でした。家族とは普通に話せるのに。

 私も、文章ではいくらでもおしゃべりができるのに、顔を合わせて話すのは、実は苦手で、人と会うときものすごく緊張するし、エネルギーを使い果たします。人が集まるところでは、無理矢理ハイテンションでしゃべるので、「いつも元気ね」といわれます。
 授業は「先生という役を演じる舞台」で、別人格と思っていますが、学生からは「いつもハイテンションで元気いっぱいな先生」と、言われます。

 2003年07月19日の日記に、
 『学校からは「親がそんな甘い態度でいると、あとで泣くことになる」と言われてしまうのだろうが、東大だけを目標とするのでなければ、なんとかなると思ってしまうこの甘さ。あとで、泣くことになるのだろう。きっと」
 と、書いてありますが、息子の勉強をほったらかしにしていて、ほんとに泣くことになりました。

 息子の中学校3年生の中間試験問題について、以下のページに書いてあります。(2003/07/19)
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0307b7mi.htm

 中学校の成績で苦しみ、通勤ラッシュで苦しんだけれど、息子は2004年に高校に入学しました。高校入学といっても、中学からの内部進学エスカレーター組です。3クラス120人から、高校は4クラス160人になってのスタートです。

<つづく>


2008/11/17
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(5)七転八倒青息吐息

 2004年、高校1年の秋。「文化祭の劇にいっしょに出演する」というクラスメートとの約束をはたしたあと、文化祭の翌日から通学しなくなりました。
 学校へは行かないのに、高校演劇部の「演劇大会」へは、遠くの会場までわざわざ見に行きました。

 演劇好きな友達と仲良く話しているのを演劇部の先生が見ていて、「あんなに明るく話せていて友達もいるのに、なぜ不登校なのかわからない」と、話していたと担任の先生との面談で言われました。私にもなぜ学校に行かないのかわからなかった。

 ただ、「もう、限界」という、息子のことばを聞き、私も学校に行きたくなかった高校生だったことを思い出して、息子が「高校行かない」というのを尊重しました。
 私は高校へは自転車通学だったので、朝お弁当を持って家を出て、サイクリングして帰宅していました。成績はトップからビリに落ちましたが、なんとか卒業はしました。

 息子の不登校を認めたのは、学校以外の学びを信じていたから。
 娘は高校のとき、「万が一また学校に行けなくなったときの保険」として、高校1年のとき「大検」を受けました。単位制高校だったので、受験が出来たからです。
 数学をのぞいて、他の科目は合格しました。数学は、積み上げ科目なので、中学不登校で中1の数学しかわからなかったので、合格できなかったのです。

 それから推測して、一応中学3年生まで学校に通った息子なら、必ず「高校卒業資格認定試験」に、全科目合格するだろうと言う予測がありました。息子の中学校の数学は、大学教養科目レベルの範囲をやっていましたから。

 2005年、16歳の夏に、文科省の「高認試験(高等学校卒業資格認定試験)」を受験して全科目合格し、2006年3月に高校を退学しました。2006年4月、同級生たちは高校3年生に進級しました。

 以前の大検(大学入学資格検定試験)は、全日制高校在学中は受験できなかったのですが、高認試験は、全日制在学中でも受験できます。このことは、一般には知られていないので、宣伝しておきます。

 また、大検合格は、高校卒業資格認定ではなかったので、大学に入学しない限りは、学歴欄は中卒扱いですが、「高認」は高卒扱いとなります。高卒が出願条件の資格試験なども「高認」は「高卒」と同等です。
 ただし、15歳で高卒資格を得ても、16歳で合格しても、大学受験は18歳をすぎるまでできません。

 息子は、16歳で高認試験に合格したあと、18歳まで、ずっと家の中ですごしました。
 頼まれると夫の事務所に手伝いには出かけていく。あとは、ゲームソフトを仕入れに自転車でゲーム屋を回るだけが息子の「外出」です。

 毎日ゲーム。
 テレビを見る。ゲームをする。攻略本を読む。またテレビ、ゲーム、攻略本。

<つづく>


2008/11/18  
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(7)悪戦苦闘阿鼻叫喚

 私にできることは、「見守る」だけでした。
 もっとも、息子に言わせると「見守るだけじゃなかっただろ、ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うるさかった」

 今思えば、息子をカウンセラーのところに通わせて、カウンセリングを受けさせたりしたのも、「息子のために何もしていないのでは不安になる」という、私自身の心の安定のためのカウンセリングだったような気もします。
 息子にしてみれば、「カウンセリングなんか受けたくないけれど、受けないと母が不安がるから」という理由で通っていただけで、息子にとっての効果は何もなかった。

 息子が歴史好きになったのは、小学校のころから『信長の野望』『太閤伝』などのゲームにハマったたからですが、「毎日が日曜日」の息子が、ゲームのほか家ですることは、歴史関連の本を読むことぐらい。

 古本屋へ行くと、息子が好きな歴史関連の本を探して、「読んでも読まなくてもいいから」と、渡しました。
 歴史の本といっても戦国ゲームに関わる戦国史や織豊政権の本ばかり。

 新聞を毎日、朝夕刊読むことが娯楽のひとつになっているので、読解力があることはわかっていました。
 大学レベルの専門書でも、歴史書は、自分の好きな分野だから、読みこなして楽しんでいました。 

 息子、16歳で高校卒業資格認定試験に一発合格したといっても、毎日ハハは不安でした。
 これからどうしたいのか、さっぱり息子の気持ちもわからず、はがゆいばかりです。

 「何か目標があって、やりたいことがあるなら、大学に行かないのもいいけれど、まだやりたいことが、見つからないなら、とりあえず大学へ行く方がいい」という母親のアドバイスも、息子には「うざったい」だけ。

 それでも、センター試験だけは受験する気になりました。
 センター試験を受験するからと言って、問題集や参考書の一冊も目にしていません。ずっと昼夜逆転でゲームを続けていました。試験前日の夜まで。

 2006年の秋にセンター試験願書を出してから「ちょっとは勉強してみたら」というひとことを言わずにがまんして2007年1月になりました。
 ひとことでも「勉強したらどうなの」と言ったら、「それじゃ受験やーめた」と、なったでしょう。

 問題集などはまったくやっていませんが、国語と歴史は大丈夫。実質中卒の息子ですが、大学レベルの実力はあるはず。
 模擬テストを受けさせなくとも、息子の日本語力と、歴史知識が豊富なことはわかりました。

 また、「たとえ、大学に合格できなくても、これだけの国語力があれば、少なくとも夫の事務所で校正の仕事をつづけることができるだろう」と思えました。
 その点では、たとえ赤字会社であっても、息子に働く場を与えてやれる夫に感謝感謝でした。

 また、学校に通わなくても成長できるし、いくらでも生きていく方法がある、ということを確信できたのは、妹が関わっているNPO法人の「不登校生徒のためのフリースペース」の活動をみてきたおかげ。妹にも感謝。
 悪戦苦闘の毎日、心の中は阿鼻叫喚でしたが、表面に出さずにすんだのは、周囲のおかげ。

<つづく>


2008/11/19  
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(6)孤軍奮闘隠忍自重

 息子は、2007年1月に、大学入試センター試験を受けました。
 「大学に行く気になるかどうかわからない」と、受験をしぶる息子に「センター試験だけは受けてみたら」と、ハハのアドバイス。

 「でも、合格したらハハは、せっかく受かったんだから大学へ行けって言い出すでしょ」
 「あらま、合格する気があるんかい、あんた」という言葉は胸に押し込めて、「ぜったいに、無理矢理行けとは言わない。行く気になったら行けばいいし、行く気にならなかったら行かなくてもいい」という約束で受験。

 センター試験受験といっても、大学合格の可能性なんて、まったくありませんでした。 なにしろゲームおたくの引きこもりでしたから。
 それでも息子は、センター試験のみで合否を決定できる大学へ願書を出す気になりました。

 息子が希望したのは次の3つの条件を満たしている大学。
 (1)センター試験だけで合否判断してくれる大学。2次試験がある国立は受験しない
 (2)歴史を学ぶことのできる学科があること
 (3)できるだけ自宅から近いこと。

 受験勉強はまったくしていないけれど、息子には実力がある、そう信じて、ハハはただ息子の幸運を祈って、試験会場に送り出しました。

 センター試験は、夫の事務所に近い大学が会場でした。事務所へいくときいつも乗り降りしている地下鉄駅から徒歩5分の会場。そんな安心感も息子にとっては、よい方向へ気持ちが向いたのでしょう。

 センター試験のみで合否判定をしてくれる東京23区内の大学のうち、歴史学科のあるところに願書を送り、ふたつの私立大学から合格通知を受けることができました。
 ひとつは夫の出身校の大学。もうひとつは、我が家から自転車15分の大学。どちらも古い学校で、独自の伝統ある校風です。

 合格した大学、歴史が学べるという点では、ふたつとも息子の希望に合っていましたが、私としては夫の出身校を勧めました。
 夫から、履修登録とかいろいろな面でアドバイスがあったほうが安心できると思ったのです。しかし、息子は「家から近い」ことを優先しました。

 夫の出身校は、夫の実家からは徒歩30分。
 夫にとって「家から徒歩で通える範囲の大学にいく」という方針に合っていました。でも、現在の自宅から通うには、地下鉄で40分くらいかかります。
 
 夫としては、自分の出身校を選んでほしいようなようすでしたが、息子は、夫の昔の方針通り「我が家から近い方」を選びました。
 我が家から自転車で15分、歩いても通えない距離ではありません。

 しかし、入学金納入後も、息子は「大学、行く気になるかどうか、わからない」と言っていました。

<つづく>


2008/11/20  
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(7)家内安全捲土重来

 2007年3月から8月まで、私は、再び中国の大学で仕事をすることになりました。
 ハハのいない家で、入学するのやらする気がないのやらわからないまま、私は2007年3月に中国へ赴任してしまいました。
 母親があれこれ言わないほうがよい結果がでると信じて。

 4月、娘が「当日あわててネクタイを買いに行ったり、たいへんだったけど」とのメッセージつきで「大学入学式」の立て看板の横に立つ息子の姿をケータイで写し、中国にいる私にメールを送ってくれました。うれしかったです。
 「あれま、入学する気になったんかい、やれやれ、、、、」です。

 入学した4月からの大学生活について、息子は「最初は基礎的なことばかりだったけれど、歴史の勉強は楽しい」と、言い、大学生活になじんできたようでした。

 私が中国赴任の間、4月から7月まで息子が大学に休まず通ったというのも、小うるさい母親がいなくなって、「自分の意志で寝起きせねば」と思えばこそだったでしょうから、ここでひとこと余計なこと言うと、この年頃の男の子、反発するだけでしょう。

 自分一人で動けて、エネルギーも「地球にやさしい」自転車が好きなところはハハと同じですが、バスや電車にただ乗っているだけの旅が好きなハハとは似ていません。
 大学へは、雨の日を除いて、自転車通学を続けています。

 高校は中途リタイアだったけれど、大学は好きな科目を選んで、なんとか楽しく学んでいってほしいと願うばかり。
 大学2年生になって、専門科目もふえ、歴史の勉強もどんどん深まっています。息子は、日本史を専攻し、学芸員資格取得の科目も単位をとっています。

 交通安全学業成就健康長寿天下太平。ハハは、ひそかに祈り、息子の自転車通学を応援しています。

 息子は、2年生の大学生活も相変わらずマイペースで「したくないことはしない」という方針です。順調に単位はとれているので、卒業もできるとは思いますが。さあ、その先は何がしたいのやら。

 息子の元クラスメートたち、やはり160人の同級生のうち半分は東大へ。卒業後のクラス会も「駒場」でやっているそうです。息子も中学卒業生として一応同窓会名簿には名前があるのですが、「駒場で毎日顔あわせているヤツラ、駒場で同窓会やって、どうすんだよ」と言って、我が道を進んでいます。超スローマイペースな息子ですが、一歩一歩、少しずつ。

 はじめの一歩。
 あなたが歩き始めて、最初の一歩を踏み出したころを思い出します。よちよちところびながらも、保育園へ迎えに行った私の胸の中へ、歩いてきてくれました。

 これまでの20年間が、母にとっては、何千万歩の距離のようにも思えますし、同時にほんの一歩だったようにも思えます。
 おめでとう、11月19日、20歳の誕生日。
 ありがとう、生まれてきてくれて。

 20歳、はじめの一歩。
 これからの大人の一歩を力強く自分の足で踏みしめていけますように。

<つづく>


2007/11/20   
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(8)番外編・悩みは皆おなじ

 以上、不登校・高校中退だった息子が今は大学2年生、というお話でした。
 まだまだ、たよりない足取りではありますが、あとは、息子自身が自分の人生を歩いていくことでしょう。

 「バイトする気は?」と、息子に話しかけてみても、
 「父の事務所の仕事がいつ入るかわからないから、よそには行けない」
 息子は、夫の会社の人手が足りないときの助っ人要員。校正の仕事を、高校入学後からやらされている。

 一般の若者に比べて、語彙、漢字と歴史や雑学には強くて、「やたらな校正者に依頼するより、息子のほうが確実に誤記誤字を拾うよ」と、夫も言っているのですが、母親としては「赤字会社の夫のところで働くより、もっとお小遣いが稼げそうな所へ行ってもいいのに」と、思うのですが。

 「旅行でも行って来たら」と、すすめても、「出無精だし、乗り物に乗りたくない」
 大の乗り物嫌い。休まず大学に通えたのも、自転車通学だからだ、というのです。

 相変わらず、人とつきあうことは苦手。
 でも、息子は息子なりに成長してきたのだと、思います。

 もし、今現在、お子さんが不登校で不安を抱えている人がいたら、いつでもお話をうかがいます。メールでも掲示板でもどうぞ。

 一番肝心なことは、「ある時期学校へ行けないことがあっても、子どもは何らかの方法で成長できるし、あせることはひとつもない」ということ。
 こどもの成長は、学校という場でなくても、いつでもどこでもできるから、親が子どもの可能性を否定してしまわないこと、それが一番大切だと思います。

 文部科学省は、義務教育不登校生徒12万人の時代に、ようやく教育方針の転換を発表しました。
 「子の養育者は、子どもを学校に通わせる義務を負う」であった「義務教育」制度から、「子どもが教育を受ける権利」という「子の教育権・成長権を守る」という方向への転換です。

 学校へ行かなければならない、という強迫観念を脱して、「子どもがその子なりに学び、成長していく権利」を大切にしていく方向への変換。
 フリースクールでも、通信教育でも、どんな方法でも子が成長できればいいのです。

 アメリカでは数百万人が行っている「ホームスクール(家で親が学習指導を行うことを正規の教育を受けたと認める方法)」を、日本でも認められるようにしたい、という運動も起きてきました。

 とは言っても、子どもが不登校の渦中にあるとき、親は、自分を責めたり子育て方法が間違っていたのかと悩んだり。
 皆、おなじです。私も娘が中学校で不登校になり、息子が高校で不登校になり、ずいぶん自分を責め、悩み続けました。

<つづく>


2007/11/20   
ぽかぽか春庭やちまた日記>はじめの一歩(9)番外編・愚痴こぼし合い

 娘が大学を卒業し、息子も大学2年生の今から見ると、不登校の最中の悩みがよく見えます。
 悩んでいる方、親が気持ちをはき出す場があって、子どもの問題を話せると、それだけでも違います。

 私にとって救いになったのは、近所に東京シューレがあったことです。
 子どもはふたりとも「フリースクールもイヤ」と、行きたがらなかったけれど、私は東京シューレ主宰の講演会によく出かけていきました。

 椎名誠は息子の岳、久田恵は息子の稲泉連が「学校教育に頼らない成長の方法」を選んだことを話し、羽仁未央も、自らの「小学校を中退して以来、学校へは行かずに大人になった」ことを話しました。

 さまざまな成長の方法があることを知るのも、不登校の子どもや親にとって、心を安定させる方法です。

 成長の方法は、何によっても大丈夫。たぶん、私の息子は、「ゲーム」によって成長したのだろうと思います。
 平田オリザのように、「ひとりで自転車にのってユーラシア大陸横断」という成長の過程を選ぶ子がいてもいいし、ひとりで引きこもってゲーム三昧だっていい。

 子が生きる方法をつかみさえすれば、親は子を見守っているだけでよい。
 大切なことは、親が子の可能性を否定してしまわないこと。子の生き抜く可能性を信じること。それさえできるなら、何も不安がることはありません。

 私がよく聞くのは「親が作家だったり映画監督だったり、特殊な家庭ならわかるけれど、うちみたいな平凡な家庭で、子ども親も平凡な能力しか持ってないのに、学校行かなかったら、どうなるのやら」という悩み。

 多くの「不登校生の親」は、「子どもがかわいい」と言いながら、「世間様に名を出して恥ずかしくない学校へ行ってほしかった」とか「親戚の手前、学校に行ってないとは言えない」というのです。結局のところ、子の人生より親の体面を優先してしまう。これじゃ、子どもは救われません。

 親の能力なんて関係ないんです。親に必要なのは、子どもを心から愛し、その存在をありのままに認め、好きな人生を選ぶ自由を認めること。ところが、自分に能力があると思っている親ほど、子どもにも期待をかけてしまう。期待通りにいかないと落ち込んでしまうのです。

 娘は中学校の1年半、学校へ行かず、息子は高校1年秋から学校へ行かず、渦中にあるときは、つらい思いもしました。落ち込みもしました。
 でもね。人生たった3万日。親も子も、もっと気楽に楽しくすごしましょうよ。
 きっと未来は開けます。

 これまでに、地球に夜明けがこなかったことはなかった。
 北極に3ヶ月夜が続いても、必ず夜明けはありました。
 明日を信じましょう。

<おわり>


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持続する志

2008-07-18 23:43:00 | 日記
 「学ぶこと」に、持続する志をもっているはずの私でしたが、4月に博士後期課程に入学して以来、仕事やら足の骨折やら、夏休み中の姑の入院やら、エアコン工事やら、姪の結婚式やらの「諸般の事情」に追われて、さっぱりと博士論文の準備などできませんでした。 9月に入って、レポートや博士論文中間発表会レジュメの締め切りが迫っていることに気付き、がぜん追い込みにかかったのは、9月9日から。つうか、9月16日締め切りのものを8月いっぱい放っておいて、締め切り1週間前からあわてて始めたってことなんだけれども。 私の指導教官は、6月からニューヨークに滞在していました。レポート草稿などアメリカとのメールのやりとりを続けました。 メール返信でも、私が何も準備できていないことはお見通しの先生。 研究進展ゼロでも、それでも「中間発表」をしなければならない。博士課程入学、やめればよかった、という後悔が襲ってくるばかりでしたが、納めた学費のモトをとらねばならず、、、、。 9月16日~26日は、単位取得のためのレポートを4本書き上げつつ、発表レジュメの朗読原稿の仕上げとパワーポイントのプレゼンテーションつくり。 レポートのひとつは、400字詰め原稿用紙にすると100枚の語彙論です。こちらは草稿があったので、なんとかなりましたが、英文論文の翻訳レポートは、難儀しました。英語がわからないので。 5月から翻訳に取りかかったのに、いっこうに進みませんでした。序論からはじめたら、序論の「比較文学の歴史」というのがえらく難解なややこしい文体の英文なので途中であきらめた。 それで、「文学理論」という章と「翻訳の思想」という章に切り替えて、なんとか仕上げた。「文学理論」の翻訳のために役だったのは筒井康隆の『文学部唯野教授』の文学理論授業実況中継編。英語は苦手じゃ。 語彙論レポートは、よい出来になったという自信がありました。 400字詰め原稿用紙にすると100枚になる『外来語「ミシン」の成立』という論文。もうひとつは『翻訳語「経済学」の成立』という論文。20枚。 私が成績をつけるなら、文句なしに「AA」にできる傑作です。(って、自分で言ってみたけど、レポート受け取った先生もそう言ってくれたんだよ。社交辞令だけど) この2本は、草稿に付け加えをして仕上げただけなので、早めに出来たんですけれど。肝心の博論の法は、草稿を読んだ指導教官に、「発表会では、先生方から厳しいご指摘があるでしょう」と、メールが来ていました。 9月24日に先生が帰国してきて、翌25日に、さっそくの指導を受けました。 「まだスーツケースも開けてないけれど」と、おっしゃる先生の熱意に恐縮しつつ、まったくまとまっていない博士論文中間発表会のレジュメを見ていただきました。 「30分の発表時間厳守」というのに、発表原稿を読んでみたら40分もかかりました。 先生は、後半をばっさり削って、「ここは、今回はなし」というアドバイス。 27日前日にパワーポイントプレゼンテーションの「キーワード」にも先生はきっちり校正添削をつけてくださり、なんとか発表にこぎつけました。 9月27日土曜日、夏休み中、一番の難関イベント「博士後期課程中間発表会」 私の発表順は、最後の5時15分から6時まででしたが、1時には会場について、先輩の発表を聞きました。きっちり調査と論考の行き届き、何本かは学会誌に発表したものをいうがありました。 発表会では、講評の先生方から「先行研究に対し、もっと幅広く深く考察しなければならない」などについて指摘を受けました。 先行研究の要約と問題点の洗い出し、問題点に対して、どう新しい視点でどう新研究を展開するのか、まとめていなければならなかったのですが、テキトーにまとめていた部分について指摘されました。 怠け者の私ですが、楽しいお出とぐうたら昼寝ばかりじゃなく、オベンキョもちょっぴりはして、厳しい試練も経験した今年の夏でした。
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愛好文化

2008-07-09 07:18:00 | 日記
2008/04/26
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン大学日記>ゴーGo!ハカセ号(1)愛好文化研究

 私の勤務校のひとつに、高校2年修了で大学へ進み、飛び級を重ねて24歳で博士号を取得した人がいます。秀才は、高校入学から博士号までたったの9年。
 鈍才春庭は、高校入学から博士後期課程修了までの期間を合計すると、ちょうど20年になる予定。

 小学校と中学校の義務教育9年間を足せば29年間。人生の半分は学生としてすごしました。
 小学校、中学校、高校、私立大学、専門学校、国立大学、国立大学大学院修士課程、私立大学大学院博士後期課程、

 日本人50代女性のうち、私は、「日本でもっとも長い期間、大学大学院教育を受けた女性」になるだろうと思います。
 と、言っても、後半のほとんどは、教師兼学生だったり、母親兼学生だったり、兼業学生でした。
 「生涯学習の星」と呼んでください。

 これから3年間を予定している大学教師兼博士後期課程学生生活。
 無理せずたのしく仕事を続け、学び続けて、よい研究を実らせたい。
 在学3年間で博士号取得できるかどうかはわからないけれど。(ちと弱気)

 これまでの大学&大学院で教育を受けてきた合計17年間で、私の専門はコロコロと変わった。ように見えます。
 自分の中では「ことばと文化」というテーマは一貫しているつもりなのだけれど、所属の学科や専攻の上では「ころころ」変わったことになっている。

1,私立大学日本文学専攻「日本古典文学・比較神話学」卒論テーマ『古事記』
2,私立大学大学院研究生「演劇学・比較芸能学」ケニア・ナイロビでアフリカンダンス修行をするも、夫と出会い、研究断念。
3,国立大学日本語学専攻「日本語学・言語学」卒論テーマ「日本語の他動詞文」
4,国立大学大学院外国語学研究科、専攻「日本語学・日本語教育学」修論テーマ「現代日本語の再帰構文」

 2番目の専攻、演劇学・比較芸能学について。
 30年前、東アフリカ・ケニアに滞在していたころ。「何しにナイロビへ来たのか」と、問われたとき、相手によって「アフリカンダンスを習いに来た」というときもあったし、「Philo-Cultural Anthropologyフィロアンソロポロジーを研究している」というときがありました。

 Philo-Cultural Anthropologyというのは、私の勝手な造語です。
 「知を愛する」学問がPhilo-sopphyフィロソフィー=哲学。
 「言語を愛する」学問がPhilo-logyフィロロジー=言語学・文献学。
 だったら、文化人類学Cultural-Anthropologyカルチュラル・アンソロポロジィを愛好するのは、Philo-Cultural-Antoropologyでよいではないか、という造語でした。

 余談:「女を愛する」のがPhilo-gynyフィロジニィ=女好き (対義語 Miso-ginyミソジニィ=女嫌い)

 私がこれから学んでいくつもりの分野は、Cultural Studiesカルチュラルスタディーズ=文化研究。
 その中で、比較文学・比較文化を中心に研究します。
 私としては、またまたPhilo-Cultural-Studies 「愛好文化研究」と、造語したいところです。

<つづく>


2008/04/27
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン大学日記>ゴーGo!ハカセ号(2)カルスタ

 1988年以来、日本語教師として仕事を続け、日本語学を研究。
修士論文のテーマも「現代日本語の再帰構文」だったから、言語学研究・日本語学研究を続けている時間が長く、文学研究とは遠ざかる一方でした。
 でも20年間「いつか、文学研究にもどりたい」と、思い続けてきたのです。

 「文化研究」は「Cultural Studies」の翻訳語。
 「文化を広く研究すること」と「文化研究」は意味が異なるので、翻訳せずにカタカナ語で「カルチュラルスタディーズ」と呼ばれることも多い。

 私がカルチュラルスタディーズに興味をもったのは、1995年になってからでした。
 1996年には、カルチュラルスタディーズの大立て者スチュアート・ホールの日本講演とシンポジュームを聞きました。

 友人に「これぞ私が欲していた分野だった。どうしていままでこの分野に出会わなかったのだろう」という手紙を書きました。
 しかし、専門的に研究するチャンスはまだまだ遠かった。
 1996年から12年かかって、ようやくカルチュラルスタディにたどりつきました。

 カルチュラルスタディーズは、現代文化を扱い、サブカルチャーをテーマにすることが多いため、ひところから、「カルスタ」という揶揄を含んだ呼び方がなされるようになりました。
 新アカデミズム派の略称「ニューアカ」に、揶揄の意味を含んでいたのと同じく「一時のはやりすたりもん」と、見なされてきました。

 ウィキペディア解説によれば、
 『 通称カルスタ。しかしこの略称が用いられる時には、厳密な方法論的検討を経ずに多様な学問領域を「お手軽に」横断してしまう研究という、若干軽蔑的なニュアンスが伴っていることも多い 』
 ですって。

 わたしは、「文化研究」という学術用語でなく、「カルスタ研究」をめざします。
「軽スタ」という揶揄的な呼び方自体が好きですし、私がやろうとしていることは、まさに「厳密な方法論的検討を経ずに多様な学問領域をお手軽に横断してしまおう」ってことですから。
 今までの「春庭の雑学研究」を、これ以後「春庭の軽スタ研究」と、呼ぶことにします。
 カフェコラムのタイトルは、「日々雑記カルスタクラブいろいろあらーな」に変更です。

 mixy日記に
さあて、何年後になるかわからんが、ハカセ号とったら、祝宴をあげるよ。
祝宴の祝い金は、結婚祝い金として私が払った額の倍返しじゃ。
貯金をしておくように。(2008年03月07日16:32 )

と、書いたら、姪から返信

蜜柑(姉の長女)2008年03月07日 17:23
博士と呼ばせて頂きやす(*^艸^) 貯金しなきゃ(笑)

りんご(妹の長女) 2008年03月07日 23:15 合格おめでとうございます
博士号か結婚か、どっちが先か競争だわね…フフフ わたしは論文いつまでに提出とかもぉいいです。わたしの場合は論文ではなく創作でしたが
==================

<つづく>


2008/04/28
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン大学日記>ゴーGo!ハカセ号(3)日本語と日本思想

 息子が、3月30日の新聞書評欄を読んでいて、「これって、ハハが読みそうな本だよね」と、書評欄を目の前にかざしました。
 浅利誠『日本語と日本思想』

 「ふふふ、抜かりはないゼ、3月10日に購入済み」と、息子に本を見せました。
 「興味があるなら、貸そうか」と、私。
 「読むわけないジャン、日本語論なんて」と、豚児。

 うちの与太郎は、ゲーム攻略本か、歴史関連の本しか読まんのです。それも日本中世史のみ。この春めでたく日本史専攻2年生に進級しました。
 ハハが「なんでもアリ」の雑学興味であるのに対して、ストイックな「オンリーワン」読書主義。
 ま、私が担当している日本語教師志望の日本人学部生よりは、よぽど日本語について知っているのがせめてもの救いか。

 現代文化あるいはサブカルチャーと呼ばれる分野のなかで、「私がついていけない文化」であるコンピュータゲームについて、ソフトの面ではとりあえず息子と娘に尋ねれば答えてもらえるので心強い。

 ゲーム文化研究は、カルスタの中でも近年研究が盛んになった分野です。
 私はゲーム文化研究をしないけれど、現代文化を扱うなら、ゲームについての知識も基本的な了解事項になるだろうから、助けて貰おっと。

 息子が、「これって、ハハが読みそうな本だよね」と、書評欄にある『日本語と日本思想』を見つけだしたのは、さすがに「ダテに春庭息子をやってないねっ」と、いうところ。

 『日本語と日本文化』、奥付に2008年2日29日発行とあります。
 この本を本屋で3月10日に見つけたときは、「わぁ、やられた」と思いました。
 「日本語文法論から日本文化を考える」という内容で、「日本語と日本文化」というタイトル。
 「私が、このタイトルこの内容で本を書くつもりだったのに、先にやられた!」。

 藤原書店の季刊雑誌「環」に連載中は「日本語で思考すること」というタイトルだったから、単行本出版時に「日本語と日本思想」と、タイトル変更になるとは思っていなかった。油断した。
 商標登録しておくってことも考えつかなかったのだし、まあ、タイトルは早い者勝ち。

 本居宣長、西田幾多郎、三上章、柄谷行人の論究と、日本語教師として培った日本語文法の知識によって「日本語と日本文化」を語る、って、私がやろうとしていたのもほぼ、じ範囲だけれど、違う視点で書くからまあ、いいや。
 私は、本居春庭、西田幾多郎、山田孝雄、三上章、奥田靖雄、柄谷行人などを扱う予定。

<つづく>
 

2008/04/29
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン大学日記>ゴーGo!ハカセ号(4)カルチュラル・スタディーズ

 さて、今回入学の博士後期課程の専攻は。
 「異文化交流の激しい現代にあって、人類文化への深い知識と洞察力を養いつつ、未来志向の、全人類文化の調和と融合を探求する。
 全人的な学識と高度の専門知識をもち、国際性と創造性に富む研究者を育成する。
 文化及び文学を研究する」
というのが、専攻案内にある説明。

 指導教官は「比較文学」の専門家、現代文学ポストモダンフィクションを研究している女性研究者です。
 私の夫と同学年のはずだけど、はるかに若く見えます。

 先生、入試面接のときは金髪に染めていらした。先生のパートナーは、留学中に知り合った同じ研究をしているアメリカ人。お嬢さんは上海に留学中。
 大学院案内の写真でも美人ということはわかるけれど、実際に見て、人となりや雰囲気がわかりました。すてきな先生だったので、うれしく思いました。

 4月5日の開講式のあと、先生のゼミの人たちとコーヒー屋さんで顔合わせ。
 先生からは、まず、きちんとした研究計画を提出するよう、締め切り日を申し渡されました。
 9月には第一回目の研究発表。忙しくなりそうです。

 めざせハカセ号!!がんばれガクセイ春庭!
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ハカセ

2008-07-08 12:58:00 | 日記
サクラサクめざせハカセ号(1)大戸屋ランチで応募書類書き
(2)お受験ランチはコンビニ弁当
(3)33番総身に知恵がカラだ巡り茶
(4)33番ラッキーミスター
(5)リボンの騎士とお茶の水博士
(6)入学祝いの桜餅
(7)カルスタ
(8)すてきな先生
===========

2008/04/16
ぽかぽか春庭やちまた日記>サクラサクめざせハカセ号(1)大戸屋ランチで受験願書

今年11月に息子が二十歳の誕生日を迎えます。
 20歳になったら、子育て卒業。
 今まで「子育てが終わるまでは」と、押さえてきた自分自身の楽しみをいっぱいやって、残り少ない人生を謳歌しなくちゃ、と思うようになりました。

 娘が生まれて以来、なにしろ疑似母子家庭でしたから、ほかのお母さんたちのように「夜、パパたちに子供みてもらってカラオケパーティしましょう」というのに参加したkともなし。我が家には、子供の世話をしてくれるパパはいませんでしたから。
 「実家の母に子供預けて、友達同士で一泊旅行へいくのよ」ということもありませんでした。実家の母は死んじゃってるし。

 女の細腕ひとつで、家計費を担当し、育児もひとりでやってきました。
 服は姉と妹のおさがり。古本「3冊200円」を買うだけが楽しみ。
 必死で働き、夢中で子供を育ててきました。

 中学校教師を退職し、アフリカへ。
 結婚後、娘が生まれた後、再就職しようとしました。しかし、当時「教員採用試験は35歳まで」という決まりがありました。(今はそのような年齢制限はなくなっています)。
 国語科教師として再就職できないとわかったので、大学に再入学することにしました。
 自宅から自転車で通えるところに国立大学があったので、受験し合格。

 国立大学大学院修士課程を修了したとき、娘は小学校3年生。息子は保育園児でした。
 大学院博士課程に進学する友達に「いっしょに入学しよう」と誘われたのだけれど「子供が成人するまでは、仕事と子育てだけにしておく」と、言ったのです。

 来年1月には息子の成人式。そしたら、来年4月にでも博士課程に入学しようかと思うようになりました。
 仕事を続けながらも、無理ではありません。

 博士課程は、授業への出席ははごく少ない。
 博士課程の学生の多くは、高校や塾などで講師のアルバイトをしながら、博士号のために論文執筆を行います。
 私が大学講師を続けながら博士課程の学生になることもできる。

 ただ、問題は、受験勉強。
 私の出身校国立大学の博士課程では、語学試験が二カ国語必修でした。語学が弱い私には、二つなんてとても無理。仕事を中断して博士課程のために受験勉強するなんてこともできないし。

 しかし、私立大学の博士課程で、語学試験は英語だけという大学院を見つけました。
 試験は、英語と小論文と面接だけで、これまでの論文業績や、社会人としての実績を評価する、というのです。
 仕事を中断することなく、現在の勤務を続けながら博士号をめざす社会人にとって、入りやすいコースです。

 来年の受験のために、どんな入試問題がでるのか、知りたいと思いました。
 国立大学大学院だと入試問題を公開しているところもあり、市販されていて買うことができる大学もあります。

 しかし、私が受験しようと思った大学院は、「試験問題は非公開」ということだったので、来年受験するつもりで、お試しで今年、入試を受けてみようと思いたちました。そしたら、どんな試験問題なのかおおよそのことがわかる。問題自体は同じ問題は出題されないけれど、英語や小論文試験の出題傾向がわかる。

 2月、受験申し込み最終締め切り日、午前中は出講先のひとつで講師会議がありました。会議がおわって、駅前の大戸屋というチェーン店和食屋でおおいそぎでランチかっこみながら、応募書類を書きました。履歴書、業績書、、、、
 鶏と野菜の黒酢あん定食724円、1093kcalと、ドリンクバーのコーヒー189円

 私は貧乏性なので、ドリンクバーの場合、最低でも2杯は飲むのに、履歴書に貼る写真がないことに気づいて、1杯だけ大急ぎで飲み干して、大戸屋をでました。
 駅においてある3分間写真で写真をとって、履歴書にはりました。履歴書・業績書などは、就職面接用に前にかいたものを利用。
 研究計画書、もう時間がないから、適当に書き込み。

<つづく>


2008/04/17
ぽかぽか春庭やちまた日記>サクラサクめざせハカセ号(2)お受験ランチはコンビニ弁当

 応募書類は郵送必着と書いてあったのですが、郵送では今日中にはとどかないから、自分で大学院事務室へ持っていきました。
 ぎりぎり5時の事務室オープン時間に間に合いました。

 受験番号33番。たぶん、私が最後の応募者だから、受験人数は33人。博士課程募集人数は9名。3倍かあ。
 けっこう応募する人がいるんだなあ。でも、私は今回はお試しだし、今年合格しなくても、どうということもない。受験するのヒミツだもん。気楽に行こう。
 そうだ、33番って、ミスター長嶋の監督時代の背番号だったよね。ラッキー番号かも。

 入試、ドキドキでした。
 席について確認したら、シャープペンシルがペンケースに1本しか入っていなかった。作文添削用の赤ペンは3本も入っていたのに。

 集合時間に遅刻しないようにあわてて家をでたために、ペンケースを確認しなかった。
 シャープペンシルの芯が入っていなかった。変だなあ、入れておいたハズなのに。
 「コンビニまで、シャーペンの芯を買いに行ってきたいのですが」と申し出たら、もう、試験説明が始まるからと言って、事務官が2本、芯をくれました。

 9時半から英語の試験。
 うゎあ、全然英文が読めなくなっている。なにしろ、仕事に追われる毎日で、論文など英語で読むのは敬遠し、翻訳が出ているものしか読んでこなかった。
 会話は前よりうまくなってきたけれど、読む力は大学院修士課程で学んでいた頃に比べると、格段に落ちていた。英文和訳、最後まで翻訳できなかった。落ち込む落ち込む。

 10時40分から。小論文執筆。
 英語ができなかったかわりに、小論文では裏表ぎっしり日本語を書き連ねました。日本語だったらいくらでも書ける。

 「国家とは何か」「文化研究について述べよ」などの小論文選択問題のうち、私が選択した論題は、いちばん何とでも書けそうな「私の専門は社会にどのように貢献できるか」というタイトル。
 実際、私は自分の専門研究を教育に生かしているのだから、「ケーススタディ」としてずらずら書きました。

 お昼ご飯は、コンビニで買ったお弁当。
 私は受験者中ラストの受験番号だから、午後の面接試験は一番最後。
 外に出てレストランで食べる時間は十分にあったのだけれど、のんびり食べていて受験番号呼ばれたのに間に合わなかった、なんてことになってもこまるので、コンビニでお弁当を買って来ました。

 落ち込んだ気分でコンビニ弁当食べながら、久しぶりに「試験をされるほうの立場」になってみるのもいい経験だった、と思いました。
 いつも試験問題を作って、学生に試験を課すほうにばかりいると、試験を受ける側の気持ちがわからなくなってしまう。

 試験を受けて、どきどきしたり、まちがって落ち込む気持ちを味わうのもいいんじゃないかと思ったのです。
 ほんと、どんと落ち込むほど、英語はさんざんな出来でした。

 ペンケースのポケットファスナーを開けたら、シャープペンシル芯のケースが3つ入っていました。ほら、やっぱり持ってきていたのだった。

<つづく>


2008/04/18
ぽかぽか春庭やちまた日記>サクラサクめざせハカセ号(3)33番、総身に知恵がカラだ巡り茶

 1時からはじまった面接試験。指導教官ごとの面接。
 私の受験番号33番は、ラストなので、面接も最後です。
 ひとりずつ控え室から呼ばれていく時間を見ていると、ひとりにつき20~30分くらい時間をかけていることがわかりました。面接重視なのでしょう。緊張してきた。

 コンビニで買った「からだ巡り茶」というのを、チビリちびりと飲みながら本を読んで待っていましたが、あまり本の内容は頭に入りません。
 「大男総身に知恵が回りかね」という川柳がありますが、大男でなくても、「メタボ女総身に知恵がカラだ巡りちゃう」の気分です。

 せめて、からだ巡り茶でも総身に巡らそう。「カラだ」の脳に水分がよく巡っていく。
 いかん、巡らせすぎてトイレに行きたくなってきた。でも、トイレに行っている間に名前を呼ばれるかもしれないし。どうしよう。

 落ち着かないので、大学院案内のパンフレットに掲載されていた指導教官の論文タイトルなど眺めて待っていました。
 2時間待ち続け、3時すぎて、ようやく私の順番になりました。
 
 指導教官ごとの面接というので、教官ひとりと面談と思っていたのに、面接官が4人、ずらりと前に並んでいる。
 一人一人から尋問を受ける。警察の留置場シーンみたいだ。刑事が犯人に自白を迫るように、ぐいぐいと質問してくる。

 「受験動機は?今の仕事に博士号が必要ですか?」

 大学の講師として働いている現状に、博士号が必要というわけではありません。
 私は修士号に加えて、第一回日本語教育能力検定試験に合格しているので、仕事の上では博士号が必要なわけではない。

 友人の何人かが、博士課程に進学して論文を提出し、「課程博士」になりました。
 大学に職を得たのち、論文を書いて博士号を得た人もいます。博士課程には進学しないで論文審査だけで博士号を取る人のことを「論文博士」と呼びます。

 博士号をとりたいという思いは持っていましたが、友人たちがつぎつぎに博士号を取得しても、私自身は、博士論文は、仕事が定年になってからゆっくり書くつもりでした。

 だから、「研究計画をもっときちんと述べてほしい」などとつっこまれても、計画なんてまるで持っていなかったのです。
 何を答えたらいいのか、頭が真っ白になった。
 来年受験する予定だから、今、計画なんてあるはずない。

 「当方の大学院を選んだ理由は?」と、聞かれて、えっと、え~と。
 「試験問題傾向を知りたかっただけです。今年はお試し受験です」なんて、言えないし。

<つづく>


2008/04/19
ぽかぽか春庭やちまた日記>サクラサクめざせハカセ号(4)ミスター33番はラッキーナンバー

 2007年に中国で受け持った教え子たち、半数は今年2月に博士課程入試に合格しました。後の半分は、7~8月入試、9月入学の予定です。
 「4月から博士課程に行きます」という教え子からのお知らせが届きました。

 受験動機を聞かれて、「未来に向かって夢を語るハカセの卵たちをみていて、みんな夢があるなあ、と、うらやましくなってきたので、とりあえず入れそうなところに応募したんです」ってのが正直な気持ちですが、面接官にはそんなこと言えませんが。

 去年中国で受け持った教え子は、中国全土から選抜された大学若手教員です。修士号を中国でとった教師の中から選抜して、日本で博士号を取らせるという、中国と日本文部科学省の共同プロジェクトに選ばれた人々。

 去年、日本語作文指導の授業を思い出しました。
 赴任地中国での教え子たちとの授業。作文の時間、「日本語の手紙の書き方」を指導しました。

 拝啓、から敬具までの手紙形式の練習。
 下書き、私の添削、清書を経て、実践編として、日本の留学先の指導教官宛メールに、日本語で書いた作文を添付させました。

 普段、教え子たちと日本の指導教官の連絡は英語メールですが、日本語がどれくらい上達したかを知らせるために、日本語作文を添付させたのです。
 手紙の内容として、自分の専門のこと、日本語学習のようすを書きなさい、と指導しました。

 印象をよくするために書いておいたほうがいいこととして、「指導教官の研究室ホームページを見て、先生の著作とか論文のタイトルを作文に書き入れなさい。英語の論文がホームページに公開されていたら、まず読んでみなさい。

 日本語の論文の場合、読んでも理解できないところもあるでしょうが、できる範囲で先生の論文内容を把握して、このようなすばらしい論文を読ませていただき、ぜひ先生にご指導いただきたく思いました、と作文に書きなさい」と、学生たちに指導しました。

 そうだよ、学生には、そう書かせたのだった、わたし。

 「指導教官にM先生を選んだ理由を述べなさい」と、面接で言われて、
 「え~と、M先生のこれまでの業績を拝見して、私の追求していきたいテーマとぴったりだと思いました。ぜひ、ご指導願いたく、応募いたしました」
と、答えました。
 
 面接を待つあいだ、からだ巡り茶飲みながら、大学院案内にのっていた指導教官の論文タイトル覚えておいてよかった。
 私が研究したいテーマと、先生ご自身の研究テーマに重なり合う部分がありまる。
 先生は、「共同研究もできそうですね」と、好意的でした。

 大学院博士課程、33名の受験者のうち、10人が合格しました。
 33番は、ラッキーナンバー、やっぱりミスターはすごい。数々のラッキーを「実力のうち」にしてきたミスターのおかげで「ミズラッキー」になれた。

 ミズラッキー、水を飲みながら論文タイトル見ていたおかげで合格です。

<つづく>




2008/04/20
ぽかぽか春庭やちまた日記>サクラサクめざせハカセ号(6)リボンの騎士とお茶の水博士

 今更博士号とったところで、講師の給料あがるわけじゃなし、もうすぐ定年だし、完全に自己満足であることは、承知の上です。
 でも、自己満足でも良いって思っています。

 ダイヤの指輪をねだる女性はかわいいと思ってもらえて、ブランドもののバッグや服を欲しがる女性は愛おしく見える。
 でも、私はダイヤもブランドものも欲しくなかった。

 私は、ただひとつ我が身をかざる「お飾り」として、博士号がほしいと思ってきた。
 わたしにとっては、これがバッグやダイヤや毛皮のコートなんです。かわいらしく見えなくても、いいの。
 どうせ、こどものころから「女の子らしくない」と言われ、成長後は、「女らしくない」「主婦らしくない」と言われ続けてきたんだから、平気。

 女の子らしくないと言われた春庭、実は子供のころ、お姫様になりたかったこともあたのです。
 ただし、今でいう「アリーテ姫派」でした。

 王子の迎えを待つのではなく、自分自身で闘い、運命を切り開いていく姫。そういうタイプ、昔は「りぼんの騎士」のサファイア姫だけでした。私も大きくなったら、あこがれののサファイア姫になるはずだった。
 姫になったあかつきには、世界を駆けめぐって平和を築くのです。

 お姫様にはなれないとわかって、次になろうと思ったのは「探検家ハカセ」でした。
 アフリカ探検のリビングストン博士にあこがれて、将来は世界の秘境を探検するハカセになろうと思いました。

 小学校6年生の卒業文集に「将来はジャーナリストになります」と書いたのは、探検家を目指すなら、ハカセよりはスタンレーのようなジャーナリストのほうがよさそうだと思ったから。

 インカやアステカを探検するなら、泉靖一博士のように、文化人類学を専攻したらいいのだな。
 でも、本多勝一『極限の民族』のように書くならやっぱりジャーナリストか。
 アフリカ探検なら、山口昌男か川田順造をめざすとよさそうだな。あらら、二人とも東京外国語大学の先生だよ。よし、めざせガイゴ大。めざせハカセ。

 ハカセと言えば、お茶の水博士水道橋博士は総武線だけど、そうね、私は東西線利用者。
 サンプラザ中野や、落合監督にはなれなかったし、神楽坂ゲイシャも無理そうね。
 早稲田の学生にはなったことある。高田のババァにもなれそう。
 ハカセになったら、飯田橋博士と名乗ることにしよう。竹橋博士でもいいか。
 大手町小町にもならなかったし、日本橋デパガにならず、茅場町証券マンにならず、木場で角材乗りもせず、ああ、何言っているんだ私は。東西線の駅名を並べているだけです。

<つづく>





2008/04/22
ぽかぽか春庭やちまた日記>サクラサクめざせハカセ号(8)カルスタ

 私がこれから学んでいくつもりの分野は、カルチュラルスタディーズ=文化研究。
 その中で、比較文学・比較文化を中心に研究します。

 1988年以来、日本語教師として仕事を続け、日本語学を研究。修士論文のテーマも「現代日本語の再帰構造」だったから、文学研究とは遠ざかる一方でした。
 でも20年間「いつか、文学研究に戻りたい」と、思い続けてきたのです。

 私がカルチュラルスタディーズに興味をもったのは、1995年になってからでした。
 1996年には、カルチュラルスタディーズの大立て者スチュアート・ホールの日本講演とシンポジュームを聞き、友人に「これぞ私が欲していた分野だった。どうしていままでこの分野に出会わなかったのだろう」という手紙を書きました。
 しかし、専門的に研究するチャンスはまだまだ遠かった。

 カルチュラルスタディーズは、現代文化を扱い、サブカルチャーをテーマにすることが多いため、ひところから、「カルスタ」という揶揄を含んだ呼び方がなされるようになりました。
 新アカデミズム派の略称「ニューアカ」に揶揄の意味を含んでいたのと同じく「一時のはやりすたりもん」と、見なされてきました。

 ウィキペディア解説によれば、
 『 通称カルスタ。しかしこの略称が用いられる時には、厳密な方法論的検討を経ずに多様な学問領域を「お手軽に」横断してしまう研究という、若干軽蔑的なニュアンスが伴っていることも多い 』
 ですって。

 わたしは、「文化研究」という学術用語でなく、「カルスタ研究」をめざします。「軽スタ」という揶揄的な呼び方自体が好きですし、私がやろうとしていることは、「厳密な方法論的検討を経ずに多様な学問領域をお手軽に横断してしまおう」ってことですから。
 今までの「春庭の雑学研究」を、これ以後「春庭の軽スタ研究」と、呼ぶことにします。

<つづく>


2008/04/23
ぽかぽか春庭やちまた日記>サクラサクめざせハカセ号(9)すてきな先生

 これまでの大学&大学院で教育を受けてきた合計17年間で、私の専門はコロコロと変わったように見えます。
 自分の中では「ことばと文化」というテーマは一貫しているつもりなのだけれど、所属の学科や専攻の上では「ころころ」変わったことになっている。

1,私立大学日本文学専攻「日本古典文学・比較神話学」卒論テーマ『古事記』
2,私立大学大学院研究生「演劇学・比較芸能学」ケニア・ナイロビでアフリカンダンス修行をするも、夫と出会い、研究断念。
3,国立大学日本語学専攻「日本語学・言語学」卒論テーマ「日本語の他動詞文」
4,国立大学外国語学専攻「日本語学・日本語教育学」修論テーマ「現代日本語の再帰構造」

 さて、今回入学の博士課程の専攻は。
 「異文化交流の激しい現代にあって、人類文化への深い知識と洞察力を養いつつ、未来志向の、全人類文化の調和と融合を探求する。
 全人的な学識と高度の専門知識をもち、国際性と創造性に富む研究者を育成する。
 文化及び文学を研究する」
というのが、専攻案内にある説明。

 指導教官は「比較文学」の専門家、現代文学ポストモダンフィクションを研究している女性研究者です。
 先生、面接のときは金髪に染めていらした。私の夫と同学年のはずだけど、はるかに若く見えます。

 大学院案内の写真でも美人ということはわかるけれど、実際に見て、人となりや雰囲気がわかりました。すてきな先生だったので、うれしく思いました。

 先生の授業では、
 「ポストコロニアル研究、カルチュラル・スタディーズ、ジェンダー研究などの成果を踏まえ、国際関係研究、地域研究などの社会科学との補完協働研究を行い、多文化、多言語化する現代社会を理解する。
 具体的な比較研究として、日本および欧米の現代小説 、特に歴史ナラティヴを取り上げ、いかに過去が語り直され、歴史が検証されているか、比較考察する」
そうです。

 検索大好きッ子の私、先生のパートナー(アメリカ人)の名前をつきとめました。ジョン・T・D先生。
 先生がアメリカ留学中に、キャンパスで出会った方と思います。

 パートナーの専門分野、勤務先の大学名、論文などを検索できました。
 つぎつぎに関連項目をクリックして検索をつづけ、ある事実をつきとめるってゲームは、推理小説のなぞときに匹敵するおもしろさがあります。老後の暇つぶしにぴったり。
 あ~、老後じゃないんだった私、これから学生やるんだから。
 めざせハカセ!!がんばれガクセイ!

<おわり>
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歌集「野生の思考=野の菫」

2008-07-07 07:03:00 | 日記
カフェ「野の菫」です。
パンセ・ソバージュ=野の菫=野生の思考
ひっそり咲いたことばの花を押し花にしてそっとノートにはさんでおきます。
 ~~  ~~ 

2011
06/19・薔薇ぞのに埋めしロザリオ若き日の罪はつみなれ許されずともよし(春庭)
06/19・防人の君の足刺す道遠く野のウマラ我が胸に刺してむ(春庭)
06/19・湯に浮かべし薔薇の花びらことごとく我が肌(はだえ)より剥がれし如散る(春庭)

2011
06/17・わが乳腺よりほとばしる乳の色の薔薇白き(春庭)
06/17・花びらの腐され散るや薔薇の園(春庭)
06/17・我が罪の緋文字の如き薔薇散りぬ(春庭)

02/20春袷余命数えて染め直す(春庭)
02/20春ショール内緒で出かけし妻の影(春庭)

2010
11/17ほおずきのような夕日や冬隣
食用のほおずき有ると知りてより食らうてみたし秋の夕日も

2009
03/26 春霰(はるあられ)鬱勃(うつぼつ)ウッツンボッツンと屋根たたく音にたたかれている 春庭
02/28
・悴むもめくる歳時記春の部に
・広辞苑に新語立項春浅し
・如月の尽きるや母の忌のぬくし
・カラバッジョの果物籠に盛る馬酔木
・別れ霜放置のままの友ブログ
・三回転跳んで涙の二月尽
・銀盤の舞姫競って二月尽 


2008

11/22泥水を飲むアフリカの子の目は澄みて赤道直下の日は照り続く
11/21あふれ出るアネモネフリージャサイネリヤカサブランカの香り濃き廊
haruniwa(2008-11-20 09:44)麻衣廼木曽(あさぎぬのきそ)の山道越え来れば巴よ、にわかに鎧が重いぞ
:haruniwa(2008-11-12 12:49)月からの地球の出を見る冬隣おひとりさまの晩酌テレビ (ちあきなおみの歌によせて)

11/20雉鳴くや絵筆三代の太き線
11/20春沼や鴫鳴き交わすらむ交るらむ
11/15七宝の金の輝きこの線に命を賭けし職人の指
11/11金の匙銀の茶筒のきらめいて、野点の席に吹きすぎる風
11/01ひな形の小袖模様の蝶よ花よ娘盛りは駆け足でいく

10/31ありんこも雲も蛙も守一が寝ころぶ庭にめぐるめぐるよ
10/30愛し娘の白き骨壺持つ父の下駄足袋の黒、ヤキバノカヘリ
10/29北斎の江戸シーボルトのEdo、紫陽花に学名残す「滝さん」のえど

08/27女ひとり傘傾けてゆく萩小道投稿者:haruniwa(2008-08-27 08:18

06/08麦の秋女教師は小足なりharuniwa(2008-06-08 18:12)

05/31五月闇杖を頼りにしたくなく
05/31まだ癒えぬ足ひきずりて五月尽
05/17博士望む女弟子いて山笑う
05/09遊牧の民の織りなす塩袋ラクダの背にてゆられし日の夢
05/08芝居する若者の声春惜しむ
寡婦同士八十八夜の愚痴を飲む
05/07サンシャイン乙女ロードも夏近し
05/07執事喫茶とう店のあり春尽きぬ

04/27「コピルアック」と、魔法の呪文を唱えたら、このコーヒーはコピ・ルアックの味
04/26茜さす君が寝そべるアフリカのラム島の浜はたそがれの中
04/25フィンランドかもめ食堂の花菜漬け
04/24麝香猫(シベット)が生み出す香りのコピルアック南の島の森奥神秘
04/23デパ地下の半額セールの菜飯食う
04/22『桜姫』『櫻史』『桜桃』古書彷徨 初版は買えず桜ティ飲む 
04/21初さくら遠き顔寄す法事かな
04/21糸桜刺繍のハンカチ姑(はは)の手に
04/20懐石にやや苦みある嫁菜和え
04/19どんぶり飯に春の卵を落としけり
04/18花待ちて東京ハナマル食べ放題
04/17花吹雪千の風なる姉の声
04/16五十路に吹く風よ散らすな遅桜
04/16糸桜 姉妹仲良く老いにけり
04/15幸せを探してちるちるみちる春
04/15りんりんと車いす押すみどりなる欅若葉はさやぎつつ照る
04/15熱帯の光をうつしてオオハシの黄なる嘴「か、呵々」大笑
04/14カピバラは天竺ねずみ、天国のジャングルの川の夢見て寝ている
04/14恐竜の大口千万年を飲む
04/13誕生会(たんじょうえ)小さき幸を数えつつ
04/13花御堂 我娘の小さき歩幅かな
04/13考える。ロダンもいっしょに考えて、もいちど考え今夜はトン汁
04/12トロンボーン春半月(はんげつ)に吹きながす
04/12金管のスライドする手や春疾風
04/11桜散らし雨に唄えば頬濡れる
04/10播磨坂 桜飲み干すバッカナール
04/09(娘といっしょに、歌うようにゆったりと歩いた花見の思い出)
アンダンテ・カンタービレ娘(こ)の花衣
04/08和田倉門たんぽぽの黄もひそやかに
04/08亡き母の好める乙女椿咲く故郷の家ふるさとの庭
04/07 木漏れ日の武蔵野林の菫草「なにやらゆかし」明日も歩かむ
04/06「桜梅の少将」の舞う青海波(せいがいは)(平田郷陽制作の人形を見て)
04/05 花ぞ知るや竹橋師団の反乱史
04/04 老母(はは)の鞠 はずみて花芽のふくらみぬ
04/04 春愁や指細き子の手まり唄
04/03 春の城 肥後もっこすの筆の反古
04/02 ユリディスのあと追うオルフェの夢春暁
04/01 和敬塾の青年の声風光る

03/29鍔にある桜に破扇の諸行無常
03/28 鉄砲の象嵌の美や受難節 
03/25 さびしくも春塵かわらず部屋にあり
退職の友春塵の道に消ゆ
投稿者:haruniwa (2008 3/25 12:44)
01/10 水仙の白さ窓辺を広げたり
投稿者:haruniwa (2008 1/10 22:16)

2007

01/20 大寒や受験子の帰宅おそかりき(春庭)投稿者:haruniwa (2007 1/20 23:19)

2006

12/17 (回文句の試み)寒笹子 秘密やや罪 肥後山茶花

11/29 13:14 冬薔薇出会った頃の君でいて
11/01 (回文句の試み) 肥後菊は愛(かな)しい品か葉茎恋ひ

3/21 10:18 もの乞いに喜捨して黄金の涅槃像(春庭・タイの涅槃寺にて)
03/03 白木蓮の白さよわれはこのしみとよごれを生きて明日も歩かむ(春庭)

01/24 ぜにかねのニュースは遠し女正月
     八十媼の唇に紅、女正月
     老いの身にウォッカ注ぎ骨正月
01/19 ごうごうと母押したまへる乳母車ティンゴーゴー時軸をまわす
01/18 柚(ゆず)檸檬(れもん)蜜柑オレンジ夏蜜柑、朱欒(ざぼん)と沈む夕日は海に
01/04 新しき暁(あかつき)はきぬ、起て!かつて 飢えたる者よと歌いし我ら(春庭)

01/04 飽食の世にありて心冷え冷えと、正月ニュースの大雪を見る(春庭)

2005

11/08  今朝の冬と、いえども温(ぬく)し キッチンは 温泉卵とあたしと猫と
11/08  素足伸べ 小春の午後のひだまりに 亡母(はは) 購(あながい)し櫛で髪 梳(す)く
11/08  小春日のベランダにひとり梳(くしけず)る真白き髪も母に似てきし
11/07  この地球(ほし)を 経巡(へめぐ)る水を研究(きわ)めんと 水文学(すいもんがく)とふ学問のある
11/07 「水文学(すいもんがく)はハイドロロジーの訳語だと、留学生から教わる水無月
11/02 09:24 haruniwa 解夏(げげ)まつるビルマパゴダの金色(こんじき)の屋根をかすめて飛ぶ白き鳥

10/26 東京の路地その奥の秋の声 荷風の下駄音一葉の歌
10/22 12:52 haruniwa 東京とう迷路経巡る秋日和(春庭 )
10/15 08:52 haruniwa ラ・トラヴィアータ乾杯の歌口ずさみ秋の黴雨を飲みほしてみる
10/11 まびき子のまどう真昼野 修司死す(春庭)

9/18 小望月(こもちづき)煮ものの湯気をすかし見る(春庭)
9/18 待宵(まつよい)やダウンロードはまだ終わらず(春庭)

08/30 00:55 haruniwa 燃え上がる縄文の火の火炎土器太古のムラで土こねし人

07/03 親指で打つ文月のラブレター
07/01 文月の朝(あした)あこよりメール来る教育実習今日で終わりと

06/27 旱梅雨(ひでりづゆ)就活の娘の踵減る

04/24 若葉風がめくるページの古写本の 墨 時の間(ま)を流れ来て濃し(春庭) 
04/21 欅若葉の道を過ぎゆく親子連れ恐竜展のカタログかかえて(春庭)
04/17 散るちらず散りぬるを我がアンソロジーチルチルミチルとさがすとり鳥
04/17 散り果てて冷雨の宵の川縁(かわべり)に 一葉桜の細き枝揺れる(春庭)
04/16 ホスピスの窓辺にふりくる花びらを 手に受け肉腫の姉 笑みて逝く(春庭)
04/15 光るビル散るちる見散る舞う桜 空にわたしに青い鳥にも(春庭)
04/13 レインボウ・ブリッジ望む浜離宮 江戸の春日(はるひ)を海に降らせる(春庭)
04/06 一葉も見し上野山の糸桜明日質入れの帯締めて見る(春庭)
04/05 初恋の蒼き翳りを染め出して群青と藍と勿忘草色(春庭)

03/30 永き日にイカロスの翼全開す♪春庭
03/29 富士の雪峰雲駿河の白き波デジカメ構える妹の笑み(春庭)
03/28 春疾風春霖春雷菜種梅雨でも少しずつ春の足音♪春庭
03/25 彼岸会の帰路姑の長話(春庭)
03/24 春驟雨 しゅうしゅうと落つ 窓を打つ うつウツ欝撃つ 啾々(しゅうしゅう)と落つ<春庭>
03/23 思春期の子の親なれば吹き荒れる春嵐にも萌える芽を待つ<春庭>
03/22 白木蓮の白き翳りは秘めしまま三十路乙女も花嫁となる<春庭>
姉妹(あねいもと)たわいなきことメールにてかわしつ春のひと日を過ごす<春庭>
03/18 一房の卵(ラン)とし生きた日も遠く 黙(もだ)して食す朝のオムレツ<春庭
03/17 まっピンクのノートパソコンかたかたと指にあふRuRu♪ミソヒト文字たち<春庭 
03/15 まっピンク!カラミからまれ水蜜の果肉の中に染まる指はも」<春庭
03/04 08:33 雛もまたうつむきかげんのひとり住み(春庭)
03/03 13:41 母子諍いうつむきかげんの雛もあり(春庭)

02/25 18:09 イラクどこ北朝鮮どこ子供らの地図にはあらぬかユートピアどこ
02/19 12:01 安吾忌や人みな堕落の中に生く(春庭)
02/19 13:26 まだ老いは遠いつもりの薄紅梅(春庭)
02/18 薄紅梅乙女のままに逝きし人(春庭)


2004

12/24 10:10 孤児孤妻肩寄せあいて聖夜過ぐ(春庭)
12/23 17:17 不和家庭にも住み慣れて年を越す(春庭)
12/12 15:14 凍てる夜もしらじら壁を見て眠る(春庭)

11/27 12:29 やま国の廃家の屋根に雪近し(春庭)
11/22 23:01 我もまたおあしに縁なき一葉忌(春庭)
11/22 22:59 北口を出でて時雨にすすみいく(春庭)

10/29 07:01 なゐ(地震)の夜に小旅果て子に土産無し(春庭)
2004/10/11 19:17 haruniwa アイウエオあいは最初に覚えてね誰かにあいを語る日のため
10/05 14:58 シュウシュウと秋霖(しゅうりん)キュビズムの雫落つ(春庭)

09/08 22:40 颱風過ぐ密かに妬む人といて(春庭)
09/01 傷心の夏のはてにも雲の峯(春庭)

08/21 11:49 トップページの向日葵模様や夏のはて(春庭)
08/30 9:23 猿に乾杯!空の巣キッチンドリンカー(春庭)
08/28あの夏に「読めよ」とアイツが投げくれし『オリンポスの果実』絶版となる(春庭)
08/27 スプラッシュ!雫のひとつぶひとつぶが 水かく手足のメダイヨンだね(春庭)
2004/08/24 07:28 オリーブの葉を輝かすアテネの火(春庭)
08/20 飢えさすらう満州の朱夏 夕日(ひ)は巨塊(春庭)
08/18 08:45 シャワー浴びつつ競泳メダルニュース聞く(春庭)
08/17祇園山車祭囃子の響く空故郷の寺へちちはは送りぬ(春庭)
08/17 遠き日の石に刻みし夏の花(春庭)
08/12 鉄の雨きび畑に降りし真夏(春庭)
08/10 人質の首切り落とす砂漠首夏(春庭)
08/10 ペディキュアはハイビスカス色ミュール盛夏 (春庭)
2004/08/09 07:25 haruniwa 夏色に命輝く思い出の麦わら帽子トマト向日葵(春庭)
08/07 炎昼やビル陰ランチの工事びと(春庭)
08/05 炎帝やポケモン図鑑に熱中す(春庭)
08/03 遠き朱夏 女盛りなんてあった?(春庭)

2004/07/13 10:16 haruniwa 山なかのホスピス病棟中庭の花びらの中の蜂と蕊たち(春庭
07/20 13:55 あじさいの株ごとの色わたし色(春庭)
07/11 07:15 ひと色に染まる事なくさまざまに楽しむ暮しとりどりの色
07/06 10:52 筆無精詫びる文月熱帯夜(春庭)
07/03 12:44 赤貧に泣く夜もあり半夏生(春庭)

05/11 15:18 かくも長き不在の夫の露語辞典で四迷忌に読む初恋あひびき
05/09 19:12 亡き母の句集を膝に開きおり今日一日を母と過ごさむ
05/09 09:27 遠き地の捕われ人や朝曇
05/05 13:33  争いも流せよかしと立夏の雨
05/03 10:30  五月祭「暁はきぬ」とふ歌遠し

04/29 10:30 自転車で都内散歩や緑立つ
04/27 22:49 春疾風屍帰還の写真見る
03/15 12:38 捨子猫の細き鳴き声カラースキャナと書かれし箱の中から聞こゆ
03/10 15:38 かっては広き父の背中の丸まりをつつんで青く山笑う午後
03/10 0:35 鰊群来ヤンシュの声を幻聴す
03/08 18:56 春愁や子を持てば子を嘆きつつ
03/07 18:29 春霙滅びし家の菩提寺
03/07    啓蟄やサイトにワーム接近中
03/06 11:32 底なし沼のごとく春泥にたちすくむ
03/04 1:21 白々と冷えしひいなの口の紅
03/02  亡き母が手を温めてくれる夢春の霰の降る日の晩に
03/02 6:31 手にとれば手の中に消ゆ春の雪

02/25 20:52 末黒野の背景に立つ大団地
02/23  春嵐疾風怒濤と雲流れ我が腹中も奔流のごと

02/23 18:21 最終で帰京せし夜の春嵐
02/23 01:17 受動態にて生きる女の春うれい
02/21 20:11 春の燈のオモニの店の鍋の湯気
02/19     雪割草を見守るごとく立つ松は三百回の春見たという
02/16 22:12 春塵やサッカー少年天を蹴る
02/15 11:07 落ちこぼれと呼ばれるあこにも春一番
02/14 18: 2 母子草つみくさ小さき手光らせて
02/12 10:50 春浅し水仕は今日も怠りて
02/11 21:40 都鳥荒川の波にたわむれて光りの春に羽ひるがえす
02/11 19:22 春光や友のメールに胸ぬくし

02/03 20:25 鬼やらい居残る鬼の角見ては今日も一日洗濯もせず

01/27 23:17 火蜥蜴も不思議種やら銭亀も陰陽五行の相剋循環
01/26 18:20 コーランを指でたどりつ学ぶ子らイラクの学校春来る日いつ
01/25 22:58 ルワンダもコソボアフガンチェルノブイリも子らの瞳は輝き光る
01/25 冬曙かじかむ指でキーボード打てばほんのり温まりくる
01/24 雪女郎音なく出でて息白し
雑炊喰う後生ねがわぬ今なれど
01/22 初弘法キーボードの誤りかぎりなし
01/22 寒紅をさして恋なき五十肩

2003年

09/27 宇宙(コスモス)へ旅立つ人へ一輪の秋桜たむけてグラスほす夜

10/15  我も手に釘打ちぬいてみる修司の忌

11/06 遠き日を笈に拾うて明治節
 文化の日 老婆は一日にしてならず
 おいおいと老いにも慣れて栗ひろう
 門跡尼寺の細き裏道吾亦紅
 菊見事死ぬときは出来るだけ派手に
 亡き母の年を数える十三夜
 マクベスの長き台詞や桐一葉
11/07 haruniwa  紅葉する前に剪られし街路樹の梢の枝の打ち震えたり
11/08 haruniwa  色づかぬ葉もありしまま冬立ちぬ
11/09 haruniwa   読みかけの本にはさむはイチョウの葉ページの中の金の小鳥よ(与謝野晶子本歌取り)
11/15 6:53 haruniwa  半かけの月が真白く笑ってる君と味わう夜明けのコーヒー
11/16 8:29 haruniwa  車椅子のマラソン選手風になれホイール凛々回れよまわれ
11/18 21:26 haruniwa  秋の陽に落葉キラキラ舞踊り銀杏の小鳥も紅葉のお手々も
2003/11/23 19:46 haruniwa ちさき手のぬくもり握る散歩道小春日和のジジと春ちゃん
11/23 22: 4 haruniwa 一面のイチョウを前に歩みでず立ちつくす夕べの黄金の絨毯

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春庭の横顔&縦顔

2008-07-06 15:56:00 | 日記
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ぼやき嘆き愚痴不平を主食に、ねたみそねみひがみやっかみいやみをおかずに日々生きております。あいことばは「ネガティブ」

☆世界への信念1 「反戦・平和」
☆世界への信念2 「自由平等博愛」

好きなコトバ「ただ、無料、割引、ご招待」 ご自由にお持ち帰りください

座右の銘「果報は寝て待て」「棚からぼた餅」「他人の褌で相撲をとる」「濡れ手であわ」

生活の指針1 
馬と鹿「世の中に寝るほど楽はなかりけり浮き世の馬鹿は起きて働く」

生活の指針2
社会の富は平等に!あなたのものは私のもの/ 
貧しい春庭に博愛の手を!
くださるものなら、なんでもいただく

 ♪ ♪    ♪ ♪ 

<春庭失敗人生の数え歌2011バージョン>

ひとつとせ:母語はひとつ。モノリンガル。バイリンガルにはなれなかったよ。上州弁でいいだんベ。

ふたつとせ:子供はふたり。娘二十八、息子は二十二。親の苦労を子は知らず

みっつとせ:三人姉妹の真ん中です

よっつとせ:持ってる資格は四種類。教員免許は役だったけど、運転免許は使用せず

いつつとせ:仕事をしている5つの大学。2つは国立3つは私立、週に5日の日給稼ぎ

むっつとせ:かじったことば6言語。ドイツ語タイ語スワヒリ語韓国中国アラビア語、かじっただけで飲み込めず、試験がおわるとソッコー忘れた

ななつとせ:卒業したのは7回で、小学中学高校と、専門学校、私立大、国立大と大学院
やっつとせ:つとめた日本語学校は、日本と中国8つの学校

ここのつとせ:9月の生まれで乙女座です

とおとせ:引っ越ししたのは10回で、群馬で育って東京で学び、埼玉で中学国語科教師。ケニアで夫に巡り会い、埼玉で子育て東京へ引っ越し、主婦学生に。中国で教えて東京に戻る。中国赴任は計3度。東京暮らしも30年。

11とせ:転職したのは11回。地方公務員を皮切りに、病院内科検査技士、英文タイピスト、役所事務、国語教師に予備校講師、劇団女優のドサ回り。編集助手にフリーライター、校正補助に日本語教師。日本語教師は20年、いちばん長いが儲からず。教えた学生の国籍は、世界中に百ヶ国。
              

<好きなこと偏愛マップ>
好きなこと:読書・ブログ・ジャズダンス・テレビ・映画・日本語雑学・散歩・旅行・食べ歩き・ぐうたら昼寝とだら食いおやつ・自転車ポタリングで脂肪燃焼

好きなもの:(食べ物)海鮮・果物・甘いモノ・木の実と豆と山の幸


得意なこと上手なこと:朗読・早食い・早寝付き・早打ちタッチタイピング

苦手なこと嫌いなこと:整理整頓&掃除・数字計算・努力と勤勉

学校時代のクラブ活動:合唱部・音楽部・文芸部・科学部

現在の所属サークル:それいゆダンスィング(ジャズダンスサークル)・日曜地学ハイキング

ボランティア活動:視覚障害者外出ヘルプ・視覚障害者朗読サービス

好きな人:
(作家)澤地久枝・石牟礼道子・辺見庸・村上春樹・大江健三郎

(写真家)長倉洋海

(学者):南方熊楠 西江雅之

(教師)大村はま 見城慶和 吉幸薫 宮本延春

(タレント)だるま食堂森下由美

ブロガーQ&A
1. この質問への答えは、何年何月の時点のものですか?
  2009年12月初旬です。

2. ハンドル・ネームと、その由来を教えてください。
  春庭。江戸時代の国学者本居春庭から借用。

3. あなたは、おじさん/おばさん ですか? おにいさん/おねえさんですか? それとも、それ以外ですか?
  おばさん。
 
4. お住まいはどの辺りですか? 差し支えのない表現でどうぞ。
  東京都23区内にして山手線外側。

5. インターネット歴は何年ですか。始めたきっかけは、仕事ですか、プライベートですか?
 自宅用のパソコンは1995年に最初IBMを買った。すぐにインターネットにつないだけれど、ダイヤルアップだったし、通信速度が遅くて活用するには至らなかった.

6. 自分のサイトを初めて開いたのは、いつですか? そのサイトは、今でも継続されてますか?
  2003年9月。『話しことばの通い路』開設。継続中。

7. 現在、自分のサイトをいくつ持ってますか? そのうち、毎日更新のサイトはいくつですか?
  公開するためのサイトはひとつ。毎日更新。そのほか、倉庫サイトがあります。フロッピーディスク、MO,USBなど、媒体が変わるたびに記録しなおしてきて、面倒だと思ったが、サイト自体を記録媒体にすればいいことに気づいた。

8. あなたのサイトの名称の由来を教えてください。
  サイト名も本居春庭の主著『詞通路ことばのかよいじ』から拝借して『話しことばの通い路』となっております。

9. あなたのサイトは、日記や Blog のサービス (はてなダイヤリー、Cocolog、楽天広場 など) を利用したものですか? それとも、自前で作り込んだものですか。あるいは、併用されてますか? (BBS は除きます)
 メインサイトはHPビルダーを使った自前。毎日更新しているサイトは日記サービスページを利用。

10 あなたのサイトは Blog だと思いますか?
  「web日記」の日記の中身を問わないならブログ。生活記録、日本語学日本語教育リポート、評論、なんでも書き込む。

[あなたのパーソナリティについて]

11. 文科系ですか? 理数系ですか?
  根っから文系。

12. 小学校の頃の夏休みの絵日記なんかは、毎日きちんとつけていましたか?
  はい、課題の枚数きちっと仕上げて宿題提出してました。日記ですが、時に創作。

13. プロセス重視派ですか? 結果オーライ派ですか?
  結果が目に見えないしごとなので、オーライとなったかどうかわからぬ。その日暮らし。

14. 喜怒哀楽は激しい方ですか? それがサイトのコンテンツにも反映されてますか?
  激しいけれど、サイトには出さないことが多い。

15. 有神論? 無神論?
  汎神論者。特定の宗教を信じることはないが、すべての神仏は私を守るために存在しているにちがいないと信じている。

16. 結婚してますか? あるいは、恋人はいますか?
  法律上のパートナーはいる。パートナーにひとこと。「私が出稼ぎしてようよう稼いだお金をちょっと貸せ、と言って借りていったあなた、借りたもんは返せよ」

17. 一人でメシを食うのと、大勢でわいわい食うのと、どっちが好きですか?
  一人。「食事をおいしくするためのなごやかな話」を私がしなくてもいいなら、別段何人でもよい。

18. 国内派ですか? 国際派ですか? 英語でコンテンツを書けますか?
  英語ができたなら、今頃こんな半端パート仕事を続けていなかったろう。

19. Windows 派ですか? Mac 派ですか? それとも、それ以外ですか?
  なにぶんWindows。ビルゲイツをこれ以上太らせることはないと思いつつ。

20. そもそも、パソコンという機械は好きですか? それとも単なる道具ですか?
  単なる道具ですが、使いこなせていない道具。

21. あなたのサイトを無理矢理でも 「○○系」 という分類 (時事系、文芸系、お笑い系 など) に当てはめるとしたら、何系と言えますか? なお、「総合系」 という言い方は、最後の手段と考えてください。
  「文芸系」「評論系」「自分語り系」

22. あなたのサイトに、できるだけシンプルなキャッチフレーズを付けてください。
  「聞き上手の人、募集中 」 こんなのどうでしょう。

23. あなたのサイトにとって、「毎日更新」 というのは重要なポイントだと思いますか?
  ポイントにはなっていない。毎日更新するより、まとめて一回ひとつのテーマを載せたほうがいいかと思う。でも、400字詰め原稿用紙60枚分とか100枚分の評論なんて、だれも読みはしないだろうから、まとめてUPしないだけ。

24. あなたのサイトのトップページは、重いですか? 軽いですか? できるだけ軽くしようと、意識したりしてますか?
  軽い。テキストサイトなので。

25. テキストと画像のどちらに力を入れていますか? 
  テキスト。画像のUP基本的にはしていない。

26. サイトの全体的な構成面で、最も気を付けていることは、どんなことですか?
  来た人のほとんどが、サイト内で迷子になったという。

27. 個別のコンテンツを作成するとき、最も気を付けているのは、どんなことですか?
  あまりないなぁ。誤変換くらい??長いテキストを書いているときは「お筆先」状態なもので。

28. 同世代を意識したサイトの作りをしていますか?
  意識していない。そもそも、私の同世代はパソコンは使わない。ケータイなら使うようになったろうが。

29. あなたのサイトは、リンクフリーを宣言していますが? リンクを制限しているとしたら、それはなぜですか?
  ネットは原則リンクフリーだと思うのでリンクフリーと書いてあるが、コピーライトは保持。

30. あなたのサイト作りで、「これだけは外せない」 というこだわりのようなものはありますか?
  小説や物語のページ以外は、人格はひとつにまとめている。

31. 「毎日更新」 (「ほぼ毎日」 とか 「できるだけ毎日」 もOK) をサイト上で謳ってますか? それとも、たまたま毎日更新が継続されているということですか?
「ほぼ毎日更新」と書いてあるが、更新しない日は年に10日くらい。

32. 本当に掛け値なしに毎日更新できてますか? 実際の更新率はどのくらいですか?
  2009年に更新しなかった日は、3月が2日、5月が2日、6月が6日、7月が1日、8月が2日のみ。1年の合計13日。中国滞在中にインターネットが使えない地域やパソコンがないって場所にいたときだけ更新できなかった。

33. 更新作業は、大体決まったタイミングで行ってますか? 一日のうちでいつ頃にすることが多いですか? 
  午前12時に起きているときは日付が変わったとき。12時前に寝たときは翌朝5~8時が基本。

34. 毎日更新を継続するために、心がけていることはありますか?
  ストックの中から選んで、時節ネタを付け加えてUPする。

35. 実際のところ、2~ 3日分まとめて更新してしまうなんてことはありませんか?
  1日1500字以内をUPの原則にしているが、ときには一回のUPが3000字越えたりする。だれも最後まで読まんだろう。

36. 以前のログを後日に修正・編集したりすることはありますか?
  誤字・脱字を訂正。数字の誤記はよくある。事実訂正や論旨の変更については、「見せ消ち」を使い、訂正前がわかるようにする。

37. 旅行や出張などの時の更新は、どうしてますか?
  パソコンが壊れたときネットカフェで更新したことがあったけれど、それ以外は原則家で更新する。つまり家にいないときは休みます。

38. ネタに困ることはありませんか? 困った時はどうしてますか?
  ネタに困ることはないが、書いたあとストックしておくうちにUPする時期を逃してそのままオクラ入りはよくある。

39. 長期にわたって、心ならずも更新を中断した経験はありますか?
  ない。

40. 更新作業は楽しいですか? 辛いですか? それとも、淡々たる習慣ですか?
書くことは食べることと同じ。UPは排○○と同じ。出さなきゃ詰まるだろう。

[サイトの運営について]

41. あなたの普段のインターネット接続方式 (FTTH、ADSL など) は、何ですか? その方式に満足していますか?
  ADSL。部屋に光ファイバーが来ているけれど、今のところ不便がないので、切り替える気はない。

42. あなたのサイトは独自ドメインですか? そうでないとしたら、将来独自ドメインに移行するプランはありますか?
  よそを訪問するのにURLを打ち込むことはない。キーワード検索で訪問するので、自分のところにも別段ドメイン自前にしても来る人が増えることはないと思う。

43. 現在のサーバに満足ですか? 引っ越しは考えていませんか?
  引越しするのも面倒。今のところ特に問題もない。

44 あなたのサイトには、毎日更新している以外のコンテンツがありますか? それらの更新はどの程度の頻度でされてますか?
  本店サイトの更新をしていたディスクトップが壊れて、ノートには「HPビルダー」を入れてないので、本店は開店休業になっている。

45. アクセスカウンターやアクセス分析ツールは付けていますか?
  もともと人がこないサイトなので、カウンターはつけていても、増えもせず。
開設当初から。あまり人の動きは気にしていません。

46. キリ番に関しては、特別なイベントを企画していますか?

  うーーん、やってみたい気もあるけれども、どんな相手でも喜ぶプレゼントというの

47. アクセスアップを期待していますか? 毎日更新は、アクセスアップに結びついていると思いますか?
  たくさんの人に読んでもらい、感想コメントをもらえば大喜び。でも、読まない人がアクセスしてきても、うるさいだけ。

48. 何か、ウェブリングに参加していますか?
  昔入っていたリングがあったけれど、放置。

49. メルマガは発行していますか? それについて、どんな考えをお持ちですか?
  発行してません。

50. Google で上位にランクされるように、SEO (検索エンジン最適化) をしていますか?
  していない。でも、ときどきGoogleでキーワードをアンド検索すると、自分のサイトが上位にくる。すごいぞgoogle!

51. BBS はいくつ設置していますか?
  1つ。

52. BBS に書き込みがあったら、マメにレスをつけていますか?
  必ず一回はレス。

53. 把握している常連さんは、何人ぐらいいますか?
  常連は基本ひとり。文通状態。

54. そのうちで、顔も本名も知ってる人は何人ぐらいですか?
  ひとり。

55. 他のサイトの BBS には、よく書き込みをする方ですか?
ごくたまに。

56. BBS の他に、ハーボット、アンケートなど、インタラクティブなページを持ってますか?
  ありません。

57. リンクページをもっていますか? どのくらいのサイトにリンクしていますか?
  分野別にリンク。

58. 他からリンクしてもらう時に使ってもらうバナーは持っていますか? 持っているとしたら、お持ち帰りしてもらう方式ですか? それとも、直リンク OK ですか?
なし。

59. 欠かさずチェックしているサイトは、何件ありますか?
  ほぼ毎日見ているのは5件くらいかなぁ。週末とかの回遊サイトは20件くらい。

60 オフ会に参加したことはありますか? それについて、どんな考えをお持ちですか?   オフ会という形でなく、個人対個人で出会ったことはある。

61. これまで、ネット上に端を発したトラブルに巻き込まれたことがありますか?
  ある。1995年にインターネット始めたばかりの頃、某bbsに書き込みをしたら、その人のファンという人からメールが来てからまれ、削除要請をうけた。ネットに慣れていなかった頃とはいえ、人んちに書くのはこわいことだと身にしみた。こちらは冗談だと思っても、通用しないということを学んだ。

62. 余所の BBS で、あなたが謂われのない中傷を受けたとしたら、どうしますか?
  無視。余所さまで何をしようと、気にしないけれど、こんなちっぽけなサイトの悪口言うのはよほど暇人か。

63. 望まない論争を挑まれたら、どうしますか?
  うけながす。

64. 痛いところを突いているけれど、確かにもっともだと思える指摘を受けた時は、どうしますか?

  素直に意見を飲み、謝ります。謝ることに躊躇がない人間なもので。

65. BBS に 「アラシ」 が発生。どうしますか?
アラシが発生しないようなBBS。来る人まれ。

66. 当局にマークされているような気配を感じませんか?
  キーワードで検索されてしまうかもという語には気をつける。

67. 著作権については、どの程度気を遣っていますか?
  「引用」はあるが、「著作権」そのものを侵害するような記述はない。

68. あなたはネット上で本名を公開してますか? 公開している場合、それによるトラブルなどはありませんでしたか?
  家族から本名特定できるような記述は禁止されています。

69. バックアップはしっかり取ってありますか?
  倉庫ページに格納。倉庫ページのブロバイダーがつぶれることはまずあるまいと信じているのだが。

70. 毎日更新を続けていて、良かったと思うことはありますか?
  なんのメリットもないが、健康を保つために必要。
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私の学び歴

2008-07-05 09:18:00 | 日記
こんばんは第三部私の学び歴
(1)はらぺこいもむしの変身
(2)引っ越し10回転職11回
(3)夜のスロープ
(4)夜のカフェテリア
(5)TOJ
(6)国語教師
(7)ナイロビの熱中時代
(8)ドサまわり女優 
(9)鈍行まなび歴
(10)ビタースイートシルバー
(11)地球の迷い方
(12)夜の風
========



2007/12/02
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(1)はらぺこいもむしの変身

 教育学者の太田堯は、『はらぺこあおむしと学習権』に、
「生き物というものはかわるのです。それも他人の力で変わるのではありません。自分の力で変わるのです」
と、述べている。

 「人は、文化という空気の中に生まれてくるのです。(中略)文化に学びながら、あるものは身につけ、いらないものは排除して、自分らしく変わっていきます。それが広い意味の学習です。ですから赤ちゃんから学習は始まっているのです。それが人間の生きる姿であり、それを助けていくのが教育の仕事です」

 エリックカールの『はらぺこあおむし』は、私も大好きな絵本。
 娘と息子にもくりかえし読みきかせをしてきた。あおむしは、むしゃむしゃ食べて、最後にはきれいな蝶に変身する。

 わたくし、はらぺこいもむしではあったけれど、蝶になった気がしない。蛾?
 ガならせめてヨナクニサンであってほしかったけれど、たぶん、蝶でも蛾でもなくて、はらぺこ芋虫の脱皮後は、だんご虫?
 
 あ、だんご虫は、昆虫ではなくて、海老や蟹の仲間が海から陸に上がってきた甲殻類なんだって。

 脱皮するときは、はじめに体の後ろ半分を脱ぎ、脱ぎすてた殻を「貴重なカルシウム源」として食べて、前半分の甲殻を作る原料にする。
 自分の脱ぎ捨てた体が消化されて、前半分の体の材料につかえる段になって、ようやく前半分を脱ぐ。

 だんご虫が脱皮で全身生まれ変わるのには、7日から10日もかかると知ると、ますます、あ、私と同じと思う。
 私はだんご虫と同じような「トロい脱皮」を何回もくりかえしたのだから。

 優秀な学生は、就活をこなし卒業と同時にぱっと華麗な蝶に変わる変身をする。あるいは、義務教育終了後、高校入学から博士課程修了まで8年間の教育だけでさっさと博士になる。

 私は、といえば、7回も入学と卒業をくりかえし、転職11回。
 半分日本語教師で半分大学院生、みたいな中途半端な脱皮姿のまますごしていた時期も長い。

 「こんばんは」シリーズの第三部「私の学び歴」は、そんなだんご虫の「ごろごろころがり」の鈍行人生について。

<つづく>



00:47 コメント(3) ページのトップへ
2007年12月03日


ぽかぽか春庭「卒業7回転職11回」
2007/12/03
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(2)卒業7回転職11回

 私の出講先大学のひとつには、高校2年修了からの大学入学など、飛び級を続け、24歳で博士号を取得した学生もいる。高校入学から博士号まで8年間のみ。秀才ほど短期間で教育を終える。

 私は、高校入学から修士号取得まで合計17年間も学校教育を受けた。7枚の卒業証書は、よほどの「鈍才の証明書」だと思う。

 小学校中学校高校、職業訓練専修学校、私立大学、国立大学を卒業し、国立大学大学院を修了した。合計7枚の卒業証書。
 たぶん、50代の女性としては、もっとも長い期間、学校教育を受けてきたうちのひとりだろう。鈍行列車の鈍才だ。

 卒業した7校のうち、私立大には学部と大学院合わせて6年間在籍し、国立大の方は、学部4年間大学院4年間合わせて8年間在籍した。
 専攻は日本古代文学、演劇学、日本語学と変わった。

 そんな鈍才だからこそ、私には授業をする喜びがあるのだと思っている。
 私のクラスでは、「語学苦手な学生」ほど、「クラスにくることが楽しみだ」と、言ってくれる。私には、「できない学生の気持ち」がわかるから、と思う。

 私がこれまでに、受けてきた学びの数々。
 検査士の資格をとるまでの女子医大内科検査室での学び、視覚障害者のための朗読法を習ったこと、モダンダンスやジャズダンスのレッスンを30年以上続けていること、ケニアのナイロビでのアフリカンダンス修行、、、、、私はたくさんの学びを得て、自分自身を変えることができた。

 春庭プロフィール「頭も心もポカポカです」から、1~10をとばして「11とせ、転職回数11回」のところを抜き出すと、、、、

11とせ:転職したのは11回。
地方公務員を皮切りに、病院内科検査技士、英文タイピスト、役所事務、国語教師に予備校講師、劇団女優のドサ回り。編集助手にフリーライター、校正補助に日本語教師。日本語教師は20年、いちばん長いが儲からず。教えた学生の国籍は、世界中に百ヶ国。

<つづく>
02:55 コメント(6) ページのトップへ
2007年12月04日


ぽかぽか春庭「夜のスロープ」
2007/12/04
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(3)夜のスロープ

 私の国立私立の母校のうち、国立大学のほうは、毎週月曜日に仕事にでかけていく出講先のひとつ。もっとも、私が学んだキャンパスから郊外へと移転してしまったので、私が学んでいたころの教室と同じではない。
 私立の母校、ときどき近所へ出かけるけれど、教室の中には、卒業以来入っていない。

 新聞に『こんばんは』の上映会の記事が載っていた。私立の母校で上映会がある。
 朝日新聞に掲載された「こんばんは」上映会のあゆみ
http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000180710050001

 母校での上映会、見に行きたいと思った。
 上映会当日の木曜日はさいたま市での仕事があるが、仕事帰りに十分間に合う。
 仕事を終えて、埼京線に乗った。久しぶりの母校訪問である。

 夕方、門を通り、校舎へ向かうスロープを登る。ゆっくり一歩ずつ。
 キャンパスには、授業やサークル活動などで行き交う若い学生たちの笑顔があふれている。

 34号館151番教室での『こんばんは』上映会は6時から。
 森康行監督の講演を含め、終了は9時すぎの予定。

 まだ上映時間まで時間があるので、本部キャンパスの演劇博物館学内をまわって、坪内逍遙展を見てきた。演劇は私が2度目に学生生活を送ったときの専攻である。
 3日後には、創立125周年を祝う大イベントがあるというので、学内外になんとなく華やいだ雰囲気がある。

 時代は変わり、学内の雰囲気もすっかり変わった。
 スロープのわきに以前にはなかった校舎が建てられていて、スロープがなんだかせせこましく感じたのも、学内の印象が変わった一因かも。

 5時前に文学部キャンパスへ戻り、カフェテリアで夕食を食べた。
 30年前は、「安い、混んでる、そしてまずい」だった学食。
 今のカフェテリアは、図書館横にあって、こぎれいになっている。

 カボチャの煮物、ひじき炒め煮、牡蠣フライ、サンマのつみれ汁、4品で600円。
 ごはんはとらないことにしたけれど、ちょっと、食べ過ぎ?久しぶりの学食なので、つい、あれもこれもと。

<つづく>

07:33 コメント(1) ページのトップへ
2007年12月05日


ぽかぽか春庭「夜のカフェテリア」
2007/12/05
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(4)夜のカフェテリア

 カフェテリアのテーブル。
 隣に座ったおばさんが、「これから授業ですか」と、声をかけてきた。

 「いいえ、授業しにきたんじゃなくて、今日は映画の上映会があるというので、別のところで授業をして、それからここに来たんです」
 「そう、私は今日これから2コマあるんだけど、あなた、受講登録全部おわったの?」

 なんだか話がかみ合わないので、「いいえ、学生じゃないんで、受講登録はしてませんけれど」
 「あら、年配の人が学食で食べてるから、社会人入学の人かと思った」と、おばさん。
 彼女は、退職後、社会人入学制度を利用して入学した方だった。

 私を、夜間の授業を聴講に来た仲間と思ってもらったみたい。
 学生食堂で夕ご飯食べていれば「年配の学生」と、思ってもらえるほど、社会人学生が一般的になったということなんでしょうね。

 娘が生まれたあと私が国立大学に入学したころは、入試も18歳19歳といっしょの一般入試だったし、「母親学生」なんてのはまだ珍しくて、学内でも浮いていた。
 今は、学食に年輩者がしっくりなじんでいる。
 いい時代になってきた。
 人はだれでも、いつでも、どこでも、学びたいときが学齢期。

 「ここの出身者なので、なんだかなつかしくって、学食で食べてます。昔に比べればおいしくなってますね」と、社会人学生のおばさんに説明した。
 「あら、学生じゃないんだ」
 ええ、私がこのキャンパスで学んだのは、30年以上も前のこと。昔、むかし~、、、

 義務教育終了後、私は高校入学から17年間「学校」に籍をおく「学生」だったと書いたが、「学生だけ」だったのは、高校の3年間だけ。
 あとの14年間は、いつも「兼業学生」だった。

 「昼は英文タイプ科の学生で夜は日本文学科の学生」だったり、公立中学校の教師として働きながら、NHKのアナウンサーに「視覚障害者のための朗読法」を習ったり、演劇部指導に生かすためにモダンダンスのレッスンをはじめたり。

 「月水金は日本語教師として働き火木土は日本語学を学ぶ母親学生」だったり、大学院に通いながら「娘と息子の母兼夫の会社の手伝い兼日本語教師」を同時にこなしてきた。
 働くことと学ぶことを、いつも同時に行ってきたのが、私の生活だった。

<つづく>
08:49 コメント(3) ページのトップへ
2007年12月06日


ぽかぽか春庭「TOJ」
2007/12/06
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(5)TOJ

 職業訓練のひとつとしてTOJ(トレーニングオンジョブ)という方法がある。実際の業務を遂行しながら職業訓練を行う。
 たとえば、飛行機のキャビンアテンダントは、このTOJによって実際の客室業務をこなすことが「訓練の仕上げ」になる。

 本屋やファミリーレストランで「訓練生」「研修生」という名札をつけた人を見かけることも増えてきた。まだ、一人前になっていない、しかし、給料はもらいつつ、実際の仕事の場でさまざまなことを学んでいく人たちだろう。

 私も「給料をもらいながら学ばせてもらった」という、いわばTOJのような期間がずいぶんあった。

 女子医科大学内科検査室で、検査補助員として働きながら、内科検査の勉強をさせてもらい、順天堂医大で行われた資格試験を受けた。
 「衛生検査技師」の資格を得て仕事をした期間は短かったけれど、内科検査室で働きながら血液病理や尿検査などを学んだこと、私にとっては、貴重な学びの期間だった。

 職業訓練生として専修学校で学んだ期間もあった。
 70年代当時は「東京都立お茶の水専修職業訓練校」といったが、現在は統合されて「東京都立中央城北職業能力開発センター飯田橋校」となっている。今は、コンピュータOAシステムやコンピュータ組版印刷(DTP)などを教える科が設置されている。

 ここで英文タイプを習ったことは、現在たいへん役に立っている「職業訓練」になった。アルファベットキーボードをタッチタイピングで70wps(1分間に英語単語を70語打てる)訓練を受けたから、現在、ワープロを「話しているスピードと同じ早さ」で打っていける。

 国語科教師として公立中学校で働いたとき、演劇部指導を任された。部員に発声法を教えるために、朗読講習会にでたことも、「働きながらの学び」のひとつ。

 県の主催で「視覚障害者のための朗読ボランティア養成講座」が開催された。講師はNHKのアナウンサー。
 週一回半年間にわたって、発声や表現の訓練を受けた。もともと滑舌はよかったが、この訓練のおかげで鼻濁音の発音ができるようになったし、今も日本語教師として働く「基礎体力」になっている。

 中学校国語教師として働く前には、大学4年生のとき、区立中学校で教育実習を行ったが、日本語教師としては、実習なしにいきなり教壇に立った。

 1988年に第1回目の「日本語教育能力検定試験」に合格し、合格通知を受けた翌月からもう日本語学校の現場で教えはじめた。

 この最初の日本語学校での授業など、わからないことだらけで教えはじめてしまい、とまどうことばかりだった。
 給料をもらいながら教育実習をさせてもらったようなものだった。私にとっては、貴重なTOJだった。

<つづく>


00:01 コメント(3) ページのトップへ
2007年12月07日


ぽかぽか春庭「国語教師」
2007/12/07
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(6)国語教師

 仕事で成功する方法として、その職業での「めざす人あこがれの人」がいることが大きな要素になるときいたことがある。

 スポーツの世界でも、フィギュアスケートの安藤美姫や浅田真央の「あこがれの人」が伊藤みどりだったり、ゴルフの上田桃子の「目標の人」が宮里藍だったり。

 身近な人を目標として「うちの部長が仕事する上での目標」という人もいるだろうし、会ったことはなくても「マツシタに就職したんだから目標は当然松下幸之助」という人もいるにちがいない。

 私が中学校国語教師になったころ、目標にしていた国語教師が3人いた。
 無着先生、大村先生、見城先生。

 やまびこ学校の無着先生は、山形の中学校から東京の明星学園へ転出して、ラジオの子ども相談室担当者として人気を集めていた。
 無着先生が所属する「教育科学研究会・国語部会」の国語教育研究と、同系列の「言語学研究会」の奥田靖雄らの文法研究が、のちに私の文法研究の基礎になった。

 大村はま先生。1906年生まれ。国語単元学習(現在の総合学習にあたる)の開発者。
 1963年にペスタロッチ賞を受け、私が教職についたときは、すでに伝説の国語教師だった。
 私が1年生教師として出発したとき、大村先生は68歳。とっくに一般の定年退職の年齢を超えて、なおまだ一中学教師として教壇にたっておられた。

 先生は、2005年に98歳でなくなるまで、国語教育ひとすじに邁進し続けた。
 大村はま先生については春庭HPに書いたことがあるので、ごらんください。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/onna0505a.htm

 夜間中学の見城先生は、私が教職に就いた当時、荒川区立第九中学校夜間学級に勤務の中学校国語科教師だった。
 それから42年間、夜間中学の教師ひとすじに、教鞭をとってこられた。

 目標の先生方はまぶしかったが、私は未熟な教師だった。
 私は国語教師としては3年でリタイアした。

 もともと演劇は大好きで観劇をつづけていたが、中学校で演劇部指導をしたことから、もっと演劇について学びたいと思うようになり、再び大学で学ぶことになった。
 夕方から夜までは予備校講師や塾講師をして働きながら、昼は演劇学や芸能学を学んだ。

 演劇人類学、民族芸能学をめざし、ケニアでフィールドワークをするつもりでナイロビに行き、1年近くをケニアですごした。
 ボーマスオブケニアというところで、アフリカンダンスを習った。

<つづく>
06:59 コメント(2) ページのトップへ
2007年12月08日


ぽかぽか春庭「ナイロビの熱中時代」
2007/12/08
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(7)ナイロビの熱中時代

 1979年、ケニアのナイロビに着いたその日に町の中で迷子になり、元新聞記者の日本人に出会った。親切な男は、街を案内してくれた。
 帰国後2年間、旅仲間として交際した。

 ナイロビでの出会いについては何度もカフェ日記にも書いているのだけれど、最初にかいたものは、下のぺージの2003/10/19「ナイロビ・東アフリカの裏町」にある。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/oi0310b.htm

 いずれは、ナイロビですごした1年間の写真日記をUPしたいと思っている。キリンやシマウマや熱気球の写真、、、、。夫とのツーショットは1枚だけ。

 残念なことひとつ。
 「熱中時代」というテレビドラマのスペシャル版でナイロビロケがあった。
 撮影がナイロビ市内で行われ、主演の水谷豊と相手役の浅野ゆう子が撮影のためにやってきた。

 しかし、30年前のバックパッカーたちは、「テレビの人気ドラマ」なんてものを頭から馬鹿にしていて、撮影隊に近づく人などいなかった。そういう「軽薄な文化」がいやだから、アフリカくんだりまでそれぞれが単独でやってきて、ひとりずつの旅を続けているのだ。

 「従姉妹が海外青年協力隊でハイスクール教師をしているから」という理由でケニアをフィールドに選んだ私は「ミーハー女」と思われていたから、「ミーハー行動」をとるのに躊躇はなかった。

 町中で撮影隊をみかけたので、なにかアルバイトはないかとスタッフにたずねると、その場でエキストラ出演がきまり、浅野ゆう子に紹介された。

 浅野ゆう子の友達役になり、いっしょにバスにのって、オープンカフェに座っている水谷豊に浅野が呼びかけるシーンの撮影をした。
 私が迷子になったとき、夫とはじめておしゃべりをした「ソーントゥリーカフェ」のわきを通過するバスに浅野といっしょにのり、カフェ前バスストップの停留所でおりた。

 大学正門前でおしゃべりをするシーンではセリフもついた。

 1980年にこのスペシャル版は放送されたが、放映当時、私はまだナイロビにいたので、自分の写っているドラマを見ることができなかった。実家にまだビデオがなくて、保存することができなかった。

 せっかくの「浅野ゆう子との共演?!」だったのに、自分では見ていない。
 妹の話では「色が白い浅野のとなりに立って、現地の人かと思うくらい日に焼けていた」そうだ。

 また、当時は「旬が終わった売れないアイドル」にすぎなかった浅野ゆう子に何の関心もなく、いっしょの写真をとっておかなかったことも残念。よい記念になったろうに。
 そのころは「アイドルタレント」に関心をもつなど、演劇学専攻者としてはずかしいことだと思っていた。ああ、なんて浅はかな。

 水谷豊とは絡まなかったので、サインひとつもらわなかった。この時の役柄は「ナイロビで行われる学会で講演をする大学教授」というものだったが、熱中時代で検索しても、この「スペシャル編」についてはDVDボックスにも入っていないみたい。
「水谷教授の華麗な冒険」というタイトルだったとあとで知った。日本テレビさん、スペシャル版もDVDにしてください。

 1982年、旅仲間たちといっしょにもう一度アフリカへ出かけることになり、アフリカ縦断のためにジープを共同購入することになった。
 旅の途中、ふたりが出会ったケニアで、日本大使館に「結婚届」を出す予定だった。

 アフリカ縦断旅行の費用をかせぐために、地方の小学校を回る劇団に入り、ミュージカル女優として舞台に立った。

 演劇をして暮らす生活、肉体的なハードさでは、11回の転職のうち一番きつかったかもしれない。でも、一番楽しかった。
 
 しかし、私には、俳優という仕事への「持続する志」がなかった。「持続する志」とは、才能の一部である。

 囲碁や将棋で、同じ初段といっても、アマチュア初段とプロの初段がどれくらいの差があるか知っている人なら、演劇のアマチュアとプロの差も分かってもらえるだろう。
 ただ、演劇には碁や将棋とちがって、段位はないし、勝敗がはっきり目に見えるわけではないので、「俳優になりたい、自分なら一流になれる」と、信じてプロを志す若者は、今も多い。

 リトルリーグで野球をやっているすべての子どもがプロ野球選手になれるわけではないのと同様、演劇や音楽をやっている若者の大半は、「それは趣味にしておきなさいよ」と、忠告してやったほうがいい存在。

 自分では「プロ」と思っているたいていの役者は、「アマチュア初段」にすぎない。アマチュアでも段位をもっている人は、まったくの素人に比べれば、そこそここなせる。
 私も、お金をもらって舞台に立つ以上、客に見せられるだけの演技はしたつもりだが、私のようなアマチュアと、一生を演劇にかけるプロの差を思い知る旅回り公演の日々だった。

 旅先へ乗り入れ、小学校体育館で舞台設営、午前午後の2回公演、舞台解体、次の小学校へ。旅回り、きつい毎日だったが、学ぶことも多かった。

 演劇の仕事についてたくさんのことを学び、また共演者から多くを学んだ。
 一番単純なことをいうと、舞台関係者は「金槌・とんかち」のことを「なぐり」と呼ぶ、とか。
 このころをまとめて書くなら、「なぐりの唄」ってタイトルがいいかなあ、と思う。

 「書く」ことへの「持続する志」だけは50年間変わっていない。「書く」ことを仕事として、お金をもらえたのは、1年間だけだったけれど。


<つづく>

06:30 コメント(4) ページのトップへ
2007年12月09日


ポカポカ春庭「ドサまわり女優」
2007/12/09
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(8)ドサまわり女優

 小学校の体育館を舞台にして「こどものためのミュージカル」を上演して回ったときのあこがれの人は、森下由美さん。
 森下由美さんは、「女優として生きていくには、こういう才能が必要なのだ」と、感心させられた人だった。

 由美さんの演劇芸能に人生をかける姿は、「生半可な気持ちで女優という仕事にとびついてはいけない」と、私にさとらせてくれた。
 女優として舞台の仕事でお金を稼いだことは、人生の体験として貴重なものであったけれど、私がプロのスポーツ選手にはなれないのと同じように、踊りや演劇は仕事としてでなく趣味として楽しむべきことだとわかった。


 森下由美さんは、今もコントトリオ「だるま食堂」のリーダーとして、コントを上演し続けている。
 テレビのバラエティなどには出演せず演芸場の生の舞台を続けているため、一般の人には知られていないが、その実力には定評がある。

 17年度国立演芸場花形演芸会「審査員特別賞」(2006年6月に受賞者発表)を受け、今年2007年7月にはDVDも発売されている。『だるま食堂DVD大作戦』

 1956年生まれの由美さん。えっ、もう由美さんも50代になったんだ、と、びっくり。年末に由美さんのライブ公演を見に行くつもりだ。

 1982年の夏、北陸や九州の小学校をまわるワンクールの公演が終わり、アフリカ縦断旅行の準備に没頭。しかし、出発2週間前に妊娠していることがわかった。
 行きたかった。
 悩んだけれど、アフリカ行きを断念した。

 仲間たちがアフリカへ向けて出発したあと、結婚し、出産した。
 「親切な旅仲間」だった男は、「自己中心主義の夫」に変身した。
 よくある話だ。

 結婚して2年の間に3度離婚すると夫に宣言された。「家庭生活には向かない夫」を待ちながら、私はどんどん弱気になった。

 食うや食わずの生活の中、近所の国立大学に「日本語学科」ができ、一期生募集中という新聞記事を見つけた。共通一次試験でなく、大学独自の一次試験二次試験を行う、という。
 共通一次で理科や数学を受けなければならないなら絶対に無理だけれど、大学独自の試験で科目数も少ないなら、なんとかなるかも。

 18歳19歳の受験生といっしょに一般入試を受けた。
 日本語学科定員45名のうち、おおよその内訳、日本人学生15名、留学生30名を募集するという発表だった。

 日本人の募集は15名だけ!少なすぎ!
 100人も受験生がいたら、もうアウトだな、と思っていたのだが、受験者数は、日本人だけで1200名いた。

 1次は英語国語数学、2次は英語国語日本史の筆記試験を受けた。
 第一期生は、留学生25名、日本人20名、合計45名が合格した。

 私は、運良く合格、あるいは奇跡で合格。35歳のママさん学生になった。

<つづく>
09:12 コメント(3) ページのトップへ
2007年12月10日


ぽかぽか春庭「鈍行まなび歴」
2007/12/10
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(9)鈍行まなび歴

 入学金は父が「孫娘の初節句に」と送ってよこしたお金をあてた。狭い団地2DKには、父が望んだ段飾りではなく、小さな小さな男びなと女びなを飾っており、初節句祝い金は入学金に「流用」

 「でも、授業料かかるんじゃない?」と、姉や妹は心配したけれど、授業料は「免除願い」を出したら免除になった。奨学金で親子の食費分はなんとか確保できた。
 今はどうなのか知らないが、国立大学のいいところは、貧乏人の授業料は免除してくれること。
 給与を普通にもらっている人は対象外。我が家のように、全収入あわせても生活保護家庭より低所得、というような、今でいう「ワーキングプア」が対象者。

 授業料が免除になったほか、既卒者なので、英語と体育の授業といくつかの基礎科目が免除になったので、1,2年生の間、時間割はそれほどきつくなかった。

 私の入学式から10日後に、娘は満2歳の誕生日をむかえた。
 自宅から朝、8時に娘を保育園に連れて行く。お昼寝ふとんのシーツとりかえ、着替え補充、連絡帳提出など、朝の保育園はあわただしい。

 保育園の連絡帳は、今では私の宝物。卒園までの連絡帳には、毎日何をしたか、何を食べたか、全部書いてある。表の連絡記録には保母さんが園の生活を記入し、裏に、私が娘の家での様子を書き込んだ。

 育児日記を克明につけるママさんもいるだろうけれど、私の場合、保母さんとの交換日記のようにつける連絡帳がなかったら、子どもの成長記録をこれほど毎日は書かなかったろう。

 大学の授業のあいまに、ライター、校正アシスタント、出版社へのメッセンジャーなど、夫の仕事の下働きを続けた。
 夫は出版社の下請けで校正の仕事を自営、働けば働くほど赤字になる零細会社。

 4年間、日本語学と日本語教育学を学んだ。
 「アフリカ縦断旅行の夢を断たれたかわりに、アジアやアフリカで日本語を教える仕事につきたい、と思うようになったから大学にもう一度入ったんだよ」と、周囲の人には説明したけれど、実は、奨学金を生活費にあてることのほうが大きな目的だった。

 3度目の大学生活、3年生の冬、1988年に第1回日本語教育能力試験(日本語教師試験)に合格し、日本語教師の仕事をはじめた。

 夫が自営する零細会社の仕事も手伝いながら、なおかつ日本語教師として働きはじめたのは、夫の会社は、仕事をすればするほど借金が増えていく会社だったので、生活費は私自身で稼がなければならなかったから。

 しかし、大学4年生の秋、息子が生まれた。子どもが乳飲み子では、日本語教師の仕事が続けられない。非常勤講師は、子どもが熱を出したりしても、休むことができないからだ。

 保育園は元気な子どもは預かってくれるけれど、病気の子どもは受け付けてくれない。子どもを預けるのに一番頼れるはずだった母親はもう死んでいる。
 未熟児で生まれた息子は、いつ病気になるかわからず、仕事を続けることは無理だった。

 日本語教師の仕事は中断し、夫の会社の仕事をしつつ、大学院へ行くことにした。大学院で受けられる育英奨学金で生活費をまかなうためだった。

<つづく>
06:25 コメント(3) ページのトップへ
2007年12月11日


ぽかぽか春庭「ビタースィートシルバー」
2007/12/11
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(10)ビタースイートシルバー

 大学院入試、「英語」「言語学」「日本語学」の1次筆記を無事に通り、2次の面接のときは、背中に生後2ヶ月の息子をおぶって行った。面接の間だけ夫がだっこしていてくれた。
 「大学院入試に赤ん坊をおんぶしてきた女」という伝説(?!)を、母校に残した!

 先日、母校の事務室で久しぶりに会った事務官、私を覚えていてくれた。
 「ああ、あの、おさわがせの、、、、」と思い出してくれたんじゃないかな。

 夫が子育てに協力したのは、後にも先にも、このときただ一度だけ。だっこ20分間のみ。あとは、おむつを一度たりとも替えたこともなく、家事をしたこともない。
 子どもの誕生日をいっしょに祝うことも、クリスマスも運動会も学芸会も、「締め切りが迫っているんだよ。これ仕上げないとお金もらえないんだ」のひとことで、すべて却下。

 娘も息子も、誕生日を父から祝ってもらったことがないし、運動会でリレーの選手になっても、学芸会で主役を演じても、父親に見てもらったことがない。

 娘は、友達の家で晩ご飯をよばれてショックを受けたと述懐したことがある。
 普通の家は、普段お父さんもいっしょにご飯を食べているのだと知って。

 それでも父を疎むことなく成長したのは、私が「お父さんもいっしょうけんめいに働いているんだから、仕方ないよね」と、フォローしたからだと、夫は思ってもみないだろう。自分では「フツーの父親」だと思っているのだ。どこがフツーやねん。

 息子が1歳になると、夫から「会社は倒産寸前だから、もう手伝わなくてもいい。自分と子どもの食い扶持は、これから先ひとりで稼いで子どもを養ってくれ」と言われたので、日本語教師の仕事を復活した。

 日本語教師として働きながら大学院をようよう修了した。
 35歳での外国語学部日本語学科入学から、大学院修了まで8年かかった。
 大学院の卒業式には、9歳になった娘が出席し、「保護者席」に座って母の門出を祝ってくれた。

 2007年秋、娘が言う。「私、今年年女。24歳になったよ。ってゆーことは、私が生まれる半年前に結婚式をあげたおふたりさんは、結婚25年目、銀婚じゃあないですか」
 すっかり忘れていたが、そういわれれば、25年たった。
 娘に言われて思い返してみれば、25年分のうらみつらみが去来する。

 娘は、「世間じゃ、結婚10年目にはスイートテンっていう指輪とか買ってあげるんだよ。25年目なんだから、ハハにスイートシルバーのなにか、買ってあげれば」と、父に言ってみたんだって。

 夫、「そんな余裕あるわけない、父さんは、もうすぐ倒産だあ」と、いつものセリフを返したのだと。
 25年間「父さんはもうすぐ倒産」につきあってきてしまった。ぐやじい、、、、
 「家族の生活費も出せない、儲からない会社」なんてものは、趣味かボランティアでしょうがっ!

 「会社経営」を「趣味」のように続けて、25年間「今月も赤字、来月は倒産」と言い続けてきた夫。
 家事育児いっさいせず、家族をあとまわしにして、都合がついたら家計費にまわすけれど、会社の決済をするのが優先、だった夫。
 13年前、私が中国へ出稼ぎに行って稼いだ給料も全部「会社の運転資金」につぎ込んだ夫。

 いろんなことをいっぱいいっぱい学んできたのに、私が学べなかったもの。金儲け術と夫操縦法。

<つづく>
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2007年12月12日


ぽかぽか春庭「地球の迷い方」
2007/12/12
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(11)地球の迷い方

 25年間、倒産せずにすんだのは、「生活費よこせ」と、ひとことも言わなかった内助の功が大きかったと、思っているのは私だけで、夫からは、「あんたが足引っ張るから、うまくいかないんだ」と、文句言われ続けた。
 だれが足引っ張るちゅうねん。横っつらでも張ってやりたいワっ。

 昔は、食い扶持もない生活に同情してくれた友人や妹から、今では、「あんたがダンナを甘やかしてきたからこうなった」と、私が責められている。

 たしかに、私が悪かった面もある。「生活費よこせ」と、夫に言えなかったのは、私自身が「自立した女でありたい」と、見栄を張っていたからだ。
 「夫に依存しながら、男女同権だのなんのってぬかすどこぞの勘違いマダムと同列になりたくない」「自分の食い扶持くらい、自分で稼ぐ」と、意地を張っていたのは私だ。
 見栄っぱり意地っ張りの結果として、自分の横っつらでも張っているしかないな。

 夫に尽くして一生貧乏、ショーモない人生やった、、、、
 しかも、尽くしたはずの夫からは「鬼嫁」と思われているのみ。
 私のことを「いい嫁だ」と言ってくれるのは、姑だけだ。

 夫は、深夜、幼い息子が眠ったあとに帰ってきた。息子が保育園に行ったあとに起きた。だから、息子は夫の起きている姿をみたことがなく、たまにいっしょにすごすことができると、仕事に出ていく夫にむかって「お父さん、また遊びに来てね」と、おくりだしたものだった。
  
 そんな「父親しらず」で育った息子もなんとか成長した。
 息子は、大学の授業のないときに、アルバイトとしてときどき夫の仕事を手伝うようになった。
 
 息子がしみじみと言う。
 「父はホントいい人生おくってるよね。家族のことほったらかしで自分の気に入った仕事だけして。上得意の発注者でも、担当者の態度が気に入らないとかって、取引やめちゃうし。でも、僕にはあんなマネできないよ、家族抱えていたら。家族がどんなに苦労するか、身をもって知っちゃってるからね」
 うん、息子も大人になってよくわかってきた。

 私が大学院修士課程を修了した1993年、山田洋二監督の『学校Ⅰ』が公開された。
 この当時、夜間中学校について具体的に知っている人は多くはなかった。夜間中学のことを多くの人に知ってもらうには、とてもいい映画だった。

 大学院を修了しても就職先もない私にとって、『学校Ⅰ』は、迷いながら行きつ戻りつしている私を励ましてくれる映画だった。
 働きながら子育てしながら大学院修了までよろよろと学び続けてきた私にとって、夜間中学で学び続ける生徒たちは仲間のように思えた。

 大学院修了して1年間は、通信教育日本語教師養成講座のスクーリング講師などをしてしのぎ、1994年、やっと仕事のチャンスがめぐってきた。
 「中国の大学で教える」仕事。母校の非常勤講師として採用された上で「文部省からの派遣講師」の肩書きがつく。ただし、条件は「単身赴任」

 「僕は子どもの世話なんかできるわけがない」と、夫がいうので、実家の父と妹夫婦に4歳の息子と10歳の娘を預けて赴任した。
 文部省から自宅の通帳に振り込まれた給料は、夫が会社の運転資金にあててしまい、帰国したら一円も残っていなかった。

 夫の会社の仕事のなかで、一番大きいシェアをしめるのは、海外個人旅行のガイド本『地球の歩き方』の校正だが、それに引っかけて言えば、私のは「地球の迷い方」になる。ナイロビで迷子になって以来の迷走人生だった。
 春庭の鈍行「人生の歩き方」こけつまろびつ迷いっぱなし。

<つづく>
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2007年12月13日


ぽかぽか春庭「夜の風」
2007/12/13
ぽかぽか春庭やちまた日記>こんばんは第三部私の学び歴(12)夜の風

 学びながら人生の旅を続けてきた。鈍行列車の人生旅。
 鈍才の鈍くさい鈍行列車。
 鈍行列車の人生旅は、超特急や急行でさっさと先に進む旅とは違う。
 寄り道をしたり、行きつ戻りつ、各駅停車でのろのろすすみ、ときには車両故障で長期停車。

 「学歴」という語は好きではない。
 「学歴」ということばが使われるとき、どの学校を卒業したか、ということだけに注目があつまり、何をどのように学んだか、については、どうでもいいようなことになっている。
 私は「学び歴」という用語を使いたい。

 私の学び歴。
 女子医科大学内科検査室で働きつつ検査士の資格をとったこと、職業訓練専修校で英文タイプを習ったこと、ナイロビの「ボーマス・オブ・ケニア」でアフリカンダンスを教わったこと、ひとつひとつが私の「学び歴」

 私は、今まで学んできたこと全部が好き。学びたいから学んできたのだ。
 たいしたことのない人生だったとしても、悔やむことはない。「学ぶ喜び」を感じてきた心は残る。
 鈍行は鈍行なりに前向きの心で歩いていけばいいのだ。

 『こんばんは』上映会の夜、
 私が教室に入ったときは、パラパラしか観客が座っていなかったので、「新聞に上映についての記事が載っていたのに、見に来ている人、案外少ないな」と思って待っていたが、上映時間が近づくと、立ち見も出る盛況となった。

 『こんばんは』は、迷いつつ悩みつつ教師を続ける私を、力づけてくれた。
 私はダメ教師で、とても見城先生のようなすばらしい教育者になることはできそうにないが、悩みは多いけれど、もうちょっとこの仕事を続けていこう。

 上映会と監督講演会が終わると、午後10時ちかくになっていた。
 秋の夜、ちょうど夜間中学の授業が終わりになるころの時間であった。

 文学部スロープをおり、地下鉄の駅へむかう私の髪を、秋の夜風がゆっくりとゆすった。
 「こんばんは」、、、、だれにともなくつぶやいてみる。
 「こんばんは」

<こんばんはシリーズおわり
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目次

2008-07-01 13:52:00 | 日記
2008<アフリカの日々>(0)めがねのかき氷(1)愛と哀しみの果て(2)ナマンガの夕日 (3)ニャマ・ヤ・ンブジ、ルオ族の家にホームステイ(4)タバコ畑のツーショット(5)アウト・オブ・アフリカ(6)ニャマニャマ、ガーニ(7)ナタカクラ食べたい!(8)うさぎおいし in ケニア<カラバッシュとひょうたん>(1)ナイロビのウガリとカランガ(2)アフリカンレストラン・カラバッシュ(3)クマ社長の西アフリカ料理(4)カラバッシュのアフリカンコース(5)カラバッシュのクマ社長夫人vsヒョータンシャチョー夫人======= 2008<私がいた場所>09/09 私がいた場所(1)おひとり様の老後(2)DV妻(3)点数より感謝状(1)感謝状(2)女子高校(3)東京へ(4)夏目坂(5)市ヶ谷河田町(6)飯田橋・竹橋(7)市立中学校(8)中学校再訪(9)桜区(10)池袋・高田馬場(11)赤道の国の冷たい水・ナイロビ(12)野ばらロードムービー(13)一期一会(14)子連れ大学生(15)都電荒川線(16)自転車3人乗り(17)中国(18)めぐりあう時間たち=======2008サクラサクめざせハカセ号(1)大戸屋ランチで応募書類書き(2)お受験ランチはコンビニ弁当(3)33番総身に知恵がカラだ巡り茶(4)33番ラッキーミスター(5)リボンの騎士とお茶の水博士(6)入学祝いの桜餅(7)カルスタ(8)すてきな先生=======2008桜さく(1)めざせ博士号(2)愛好文化研究(3)カルスタ(4)日本語と日本思想(5)カルチュラルスタディーズ======2008/11/12 春庭やちまた日記>はじめの一歩(1)一陽来復苦尽甘来11/13 はじめの一歩(2)粒々辛苦疲労困憊11/14 はじめの一歩(3)苦心惨憺有為転変11/15 はじめの一歩(4)暗中模索気息奄々11/16 はじめの一歩(5)七転八倒青息吐息11/17 はじめの一歩(6)孤軍奮闘隠忍自重11/18 はじめの一歩(7)悪戦苦闘阿鼻叫喚11/19 はじめの一歩(8)家内安全捲土重来11/20 はじめの一歩(9)四海兄弟心機一転11/21 はじめの一歩(10)獅子奮迅縦横無尽=======2009/01/26 ぽかぽか春庭やちまた日記>暦はひとめぐり(1)おひとり様の老後01/27 暦はひとめぐり(2)DV妻01/28 暦はひとめぐり(3)感謝状01/29 暦はひとめぐり(4)虎トラ



みなさま、よい年をおむかえください

2009年1月目次
01/01 新年快楽&牛
01/02 新年快楽&インターナショナル

01/03 春庭の東京徘徊俳諧散歩>東京上昇下降趣味(1)宇宙永劫へGo!
01/04 東京上昇下降趣味(2)宇宙エレベーター
01/05 東京上昇下降趣味(3)エスカレーター・エレベーター
01/06 東京上昇下降趣味(5)坂と階段
01/07 東京上昇下降趣味(4)東京の山
01/08 東京上昇下降趣味(6)展望台

01/09  春庭@アート散歩>ピカソ(1)プレイボーイピカソ
01/10 ピカソ(2)サレ館のピカソ
01/11 ピカソ(3)青の時代
01/12 ピカソ(4)バラ色の時代
01/13 ピカソ(5)エヴァの時代
01/14 ピカソ(6)オルガの時代・新古典主義
01/15 ピカソ(7)マリーとドラ・ゲルニカ恋の対決
01/16 ピカソ(8)捨てられたピカソ
01/17 ピカソ(9)ピカソのママ
01/18 ピカソ(10)恋の遍歴とピカソの系図
01/19 ピカソ(11)私の祖父ピカソ
01/20 ピカソ(12)ピカソの遺産
01/21 ピカソ(13)食のピカソ

01/22 春庭@アート散歩>フェルメール(1)メーレフェンの大傑作
01/23 フェルメール(2)贋作村の「真珠の耳飾りの少女」
01/24 フェルメール(3)フェルメール・光の天才画家
01/25 フェルメール(4)フェルメール・ブルー

01/26 ことばのYa!ちまた>ことばを編む(1)つぎあて暮らし
01/27 ことばを編む(2)マリー・モリネールが辞書を編んだ話
01/28 ことばを編む(3)ことばを紡ぐ
01/29 ことばを編む(4)ことばを縫う
01/30 ことばを編む(5)ことばを織る

01/31 今日の色いろ>染めと織りの楽しみ(1)源氏の色

2009年2月目次
02/01 染めと織りの楽しみ(2)一竹辻が花
02/02 染めと織りの楽しみ(3)江戸小紋巻き見本
02/03 染めと織りの楽しみ(4)留学生文化発表・ガボンの布地、インドネシアのバティック
02/04 染めと織りの楽しみ(5)風の絨毯

02/05 ことばのYa!ちまた>婆力(1)チンパンジーにババアなし
02/06 婆力(2)おばあさんが人類を救う
02/07 婆力(3)経験を伝えるおばあさん
02/08 婆力(4)象徴能力
02/09 婆力(5)いないいないバァ
02/10 婆力(6)バァリキ
02/11 婆力(7)経験値

02/12 ニッポニアニッポン語教師日誌>英語ペラペラ(1)英語教育について
02/13 英語ペラペラ(2)日本語が滅びるとき
02/14 英語ペラペラ(3)40人クラスの英語
02/15 英語ペラペラ(4)直接法・ダイレクトメソッド
02/16 英語ペラペラ(5)英語を習ったばかりなので
02/17 英語ペラペラ(6)岳くんの英語
02/18 英語ペラペラ(7)死ぬにはいい日だ・オーストラリアなまり
02/19 英語ペラペラ(8)KY社会の言語文化
02/20 英語ペラペラ(9)子供生意気化のすすめ
02/21 英語ペラペラ(10)以心伝心言語文化
02/22 英語ペラペラ(11)英語で格差再生産
02/23 英語ペラペラ(12)アグネスチャンの日本語発音
02/24 英語ペラペラ(13)英語嫌いを増やす英語教育
02/25 英語ペラペラ(14)Departures(旅立ち)に向かって
02/26 英語ペラペラ(15)インターナショナル・コミュニケーション

02/27 「いろは字類抄待夢>覚え直しのカタカナ外来語(1)カン違いの外来語
02/28 覚え直しのカタカナ外来語(2)キャプテンとカピタン

2009年3月目次
03/01 覚え直しのカタカナ外来語(3)南蛮船の加比丹
03/02 覚え直しのカタカナ外来語(4)びるぜんまりあ
03/03 覚え直しのカタカナ外来語(5)タブー
03/04 覚え直しのカタカナ外来語(6)プレカリアート
03/05 覚え直しのカタカナ外来語(7)マルティチュード
03/06 覚え直しのカタカナ外来語(8)ゲマインシャフト
03/07 覚え直しのカタカナ外来語(9)ゲゼルシャフト
03/08 覚え直しのカタカナ外来語(10)新生共同体 

03/09 ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(10)モリスのアーツ&クラフツ
03/10 布を見る(11)モリスのクッション
03/11 布を見る(12)モードの迷宮で夜会
03/12 布を見る(13)民族衣装と普段着モード
03/13 布を見る(14)美人が装う虫食い布

03/14 春庭九年母日記>挨拶はむずかしい(1)単身赴任の挨拶

3/17 ニーハオ春庭中国通信2009>中国的経済生活(1)我買東西ウォーマイドンシー生活必需品の買い物
3/18 中国的経済生活(2)西紅柿vs雀巣珈琲
3/19 中国的経済生活(3)中国的給与
3/20 中国的経済生活(4)日本式乾杯
3/21 中国的経済生活(5)平壌館のおねえさん
3/22 中国的経済生活(6)石焼きビビンバ脱北味

3/23 ニーハオ春庭中国通信2009>苺どろぼう(1)円明園のネズミウサギどろぼう
3/24 苺どろぼう(2)略奪品博物館
3/25 苺どろぼう(3)紫禁城どろぼう
3/26 苺どろぼう(4)墓盗人
3/27 苺どろぼう(5)サンローランの水着

3/38 ニーハオ春庭中国通信2009>中国的日常生活(1)食べ歩き
3/29 中国的日常生活(2)停電
3/30 中国的日常生活(3)中国的咖喱飯
3/31 中国的日常生活(4)行列のできる店 

2009年4月目次

4/1 ニーハオ春庭ニッポニアニッポン語教室>漢字の国からニーハオマ?(1)1万年の漢字文化
4/2 漢字の国からニーハオマ?(2)万葉仮名とハングル
4/3 漢字の国からニーハオマ?(3)こもよみこもち万葉仮名
4/4 漢字の国からニーハオマ?(4)我的中国的工作
4/5 漢字の国からニーハオマ?(5)中国的漢字ふりがな

4/6 ニーハオ春庭ニッポニアニッポン語教室>日本語でどづぞ(1)清明節休暇三連休
4/7 日本語でどづぞ(2)掃墓節
4/8 日本語でどづぞ(3)XXXL
4/9 日本語でどづぞ(4)中日友好お原いいたいまょ

4/10 ニーハオ春庭ニッポニアニッポン語教室>漢字の国からニーハオマ?(6)トイレットペーパーで手紙を書く
4/11 漢字の国からニーハオマ?(7)下水を通り悪の道へ
4/12 漢字の国からニーハオマ?(8)可憐な少女はかわいそう
4/13 漢字の国からニーハオマ?(9)教養つけて強制労働
4/14 漢字の国からニーハオマ?(10)工夫を続ける暇はない
4/15 漢字の国からニーハオマ?(11)博士的愛情算式

4/16 ニーハオ春庭ニッポニアニッポン語教室>中国と外来語(1)中国語への外来語導入事情
4/17 中国と外来語(2)コカコーラとミスタードーナッツ
4/18 中国と外来語(3)一番好きなショッピング
4/19 中国と外来語(4)一級番好きなラブストーリー
4/20 中国と外来語(5)歌曲串焼と米奇老鼠&空白鍵
4/21 中国と外来語(6)口吸い、接吻、ディープキス(和語漢語カタカナ語)
4/22 中国と外来語(6)ファッションホテルと时尚旅館
4/23 中国と外来語(番外編)孤立語

4/24 ニーハオ春庭ニッポニアニッポン語教室>漢字の国のアリス革の宮(1)和製漢語のはなし 
4/25 漢字の国のアリス革の宮(2)チャイナ・ピープルズ・リパブリック「中華人民共和国」って70%日本語です
4/26 漢字の国のアリス革の宮(3)リーチ一発第三元
4/27 漢字の国のアリス革の宮(4)中国語で書く国名、人名
4/28 漢字の国のアリス革の宮(5)中国語で書くオノマトペ
4/29 漢字の国のアリス革の宮(6)オノマトペを書き表す方法
4/30 漢字の国のアリス革の宮(7)だれが決めるの?外来語表記

05/01
ニーハオ春庭九年母日記中国版>メーデー連休(1)イミテーションゴールドからアイアンへ
5/2 メーデー連休(2)浅き夢みし酔ひもせす

5/3 ニーハオ春庭中国通信2009>中国食材事情(1)カレー、すき焼き、貝さしみ
5/4 中国食材事情(2)四つ足のものは机以外何でも、の話ふたたび
5/5 中国食材事情(3)蚊の目玉のスープ
5/6 中国食材事情(4)生麦生米生卵
5/7 中国食材事情(5)猿脳

5/8 ニーハオ春庭ニッポニアニッポン語教室>日本事情中国事情(1)藤式部と藤野先生
5/9 日本事情中国事情(2)迷惑がられる話
5/10 日本事情中国事情(3)スピーチ「お母さん、ありがとう
5/11 日本事情中国事情(4)つまらない話
5/12 日本事情中国事情(5)捨てる話
5/13 日本事情中国事情(6)煙ったい話、甘い話

5/14 ニーハオ春庭九年母日記中国版>中国世界遺産の旅2(1)肚皮舞
5/17 中国世界遺産の旅2(2)世界遺産の旅・高句麗遺跡

5/18 ぽかぽか春庭中国通信>地名由来 (1)地名さまざま
5/19 中国地名由来 (2)川の顔色
5/20 中国地名由来 (3)陰陽五行による名付け
5/21 中国地名由来(4)黒しいふるさと

5/22 ニーハオ春庭九年母日記中国版>中国・世界遺産の旅(3)高麗
5/23 中国・世界遺産の旅2(4)好太王石碑
5/24 中国・世界遺産の旅2(5)通化から集安へ
5/25 中国・世界遺産の旅2(6)鴨緑江観光
5/26 中国・世界遺産の旅2(7)丸都山城遺跡群
5/27 中国・世界遺産の旅2(8)高句麗文化演芸広場
5/28 中国・世界遺産の旅2(9)高句麗の古墳と壁画
5/29 中国・世界遺産の旅2(10)中国朝鮮国境大橋
5/30 中国・世界遺産の旅2(11)旧満鉄の線路と満浦市
5/31 中国・世界遺産の旅2(12)涼水朝鮮族の村へ

2009年6月目次
6/01 中国・世界遺産の旅2(13)涼水朝鮮族・金希紅さんの家

6/02 ニッポニアニッポン語教師日誌中国版(1)センセと遊ぼう会
6/03 ニッポニアニッポン語教師日誌中国版(2)大熊猫見物
6/04 ニッポニアニッポン語教師日誌中国版(3)日本アニメ育ち

6/05 ニーハオ春庭九年母日記中国版>中国も日々是好日(1)泣かされた
6/08 中国も日々是好日(2)潮風のメロディ
6/09 中国も日々是好日(3)落ち込むこともあるけれど、私は元気です
6/10 中国も日々是好日(4)心に効く薬草茶

6/13 ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>果物の産地(1)ドリアンもイチゴもおいしい
6/14 果物の産地(2)臍橙、りんご梨
6/15 果物の産地(3)蟹、桃、香瓜、冬棗

6/16 ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>赴日本国留学生3班(4)バドミントン大会
6/17 赴日本国留学生3班(6)カラオケパーティ
6/18 赴日本国留学生3班(7)中国古箏
6/19 赴日本国留学生3班(8)生け花教室
6/20 赴日本国留学生3班(9)卒業シーズン

6/23 中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(1)和諧(わかい)号と若い士官候補生たち
6/25 ひょっこりひょうたん島旅行(2)葫蘆島市でタクシーチャーター
6/26 ひょっこりひょうたん島旅行(3)葫蘆島市から九門口長城へ
6/27 ひょっこりひょうたん島旅行(4)渤海湾の石
6/28 ひょっこりひょうたん島旅行(5)興城古城
6/29 ひょっこりひょうたん島旅行(6)興城古城の戦い
6/30 ひょっこりひょうたん島旅行(7)興城古城観光

2009年7月目次
7/01 ニーハオ春庭九年母日記中国版>中国世界遺産の旅4ひょっこりひょうたん島旅行(8)興城古城観光2
7/02 中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(1)瀋陽市
7/03 中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(2)張氏師府
7/04 中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(3)張学良
7/05 中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(4)張学良と趙一荻
7/06 中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(5)東陵公園
7/07 中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(6)盛京故宮
7/08 中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(7)ヌルハチ御殿
7/09 中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(8)八旗と纏足(てんそく)
7/10 中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(9)再見、瀋陽

7/11 ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>赴日本国留学生3班(10)跳縄比賽(縄跳び大会)
7/12 赴日本国留学生3班(11)作文「縄跳びの練習」
7/13 赴日本国留学生3班(12)総見授業参観
7/14 赴日本国留学生3班(13)授業参観つかみ
7/15 赴日本国留学生3班(14)授業参観・Q&A
7/16 赴日本国留学生3班(15)授業参観・読解
7/17 赴日本国留学生3班(16)授業参観・スライド映像利用の読解授業
7/18 赴日本国留学生3班(17)授業参観・短文つくり
7/19 赴日本国留学生3班(18)授業参観・誉める教授法
7/20 赴日本国留学生3班(19)授業参観のごほうび
7/21 赴日本国留学生3班(20)浴衣姿の撮影大会
7/22 赴日本国留学生3班(21)浴衣姿の感想
7/23 赴日本国留学生3班(22)美人新入生

7/25 赴日本国留学生3班(23)シングルたち
7/26 赴日本国留学生3班(24)民族楽器音楽会
7/27 赴日本国留学生3班(25)里の秋
7/28 赴日本国留学生3班(26)おみやげは肚皮舞衣装
7/29 赴日本国留学生3班(27)最終試験
7/30 赴日本国留学生3班(28)合格
7/31 赴日本国留学生3班(29)合格祝いカレンダー

2009年8月目次
8/01 ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>帰国(1)帰国&帰省
8/02 帰国(2)健康第一
8/03 帰国(3)みなさんありがとう
8/04 帰国(4)論文発表会

8/05 ニーハオ春庭九年母日記中国版>大連再訪(1)旧友と再会
8/06 大連再訪(2)鉛筆の歌
8/07 大連再訪(3)大連自然博物館
8/08 大連再訪(4)少女と子犬
8/09 大連再訪(5)大連海鮮料理
8/10 大連再訪(6)金石園の巨石
8/11 大連再訪(7)海の恋
8/12 大連再訪(8)カンフーショウと満族レストラン

8/13 ニーハオ春庭九年母日記中国版>再見中国(1)絵馬に込めた願い
8/14 再見中国(2)再びの大陸

8/15 今日の確認&レクイエム・バナナ

8/16 春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>兵士と人形(1)50年前の東京で
8/17 兵士と人形(2)ミルクのみ人形
8/18 兵士と人形(3)駅頭の兵士たち
8/21 兵士と人形(4)ここはお国の何百里
8/22 兵士と人形(5)赤い夕日に照らされて

8/23 ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(1)謝謝3班の仲間たち
8/24 再会朋友(2)教授方との夕食会
8/25 再会朋友(3)シャンユエに会いたい
8/26 再会朋友(4)高校生シャンユエ
8/27 再会朋友(5)シャンユエとルールー
8/28 再会朋友(6)シャンユエ大熊猫を見る
8/29 再会朋友(7)シャンユエ大学を見る
8/30 再会朋友(8)シャンユエの未来

8/31 ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>大連再訪 (1)帰国・チェンジ?

2009年9月目次

09/01 大連再訪(2)大連観光塔
09/02 大連再訪(3)田さんのお宅

09/03 ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>長白山ツアー (1)中国十大山岳・長白山
09/04 ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>長白山ツアー (2)長白山登山はジープで
09/05 ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>長白山ツアー (3)長白山天池

09/06 ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座復習編>ことばの基礎(1)アイウエオ事始め
09/07 ことばの基礎(2)毎度おなじみ母とパパ
09/08 ことばの基礎(3)アカサタナのヒミツ
09/09 ことばの基礎(4)語彙と漢字
09/10 ことばの基礎(5)魚偏の漢字
09/11 ことばの基礎(6)魚と羊
09/12 ことばの基礎(7)雨のことば
09/13 ことばの基礎(8)春雨氷雨涙雨
09/14 ことばの基礎(9)色彩名詞
09/15 ことばの基礎(10)虹の色
09/16 ことばの基礎(11)ことばと社会制度
09/17 ことばの基礎(12)語種クイズ復習
09/18 ことばの基礎(13)クラゲなす漂へる万葉仮名
09/19 ことばの基礎(13)多啦A夢
09/20 ことばの基礎(15)ニッポンジャパン和製英語
09/21 ことばの基礎(16)文法栓抜き説
09/22 ことばの基礎(17)禅車両ふたたび
09/23 ことばの基礎(18)キツネの嫁入り
09/24 ことばの基礎(19)日本文化プレゼン
09/25 ことばの基礎(20)集中講義の感想

09/26 言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>翻訳練習(1)マイケル・ジャクソンHeal the World
09/27 翻訳練習(2)マドンナによるマイケルジャクソン トリビュートスピーチ
09/28 翻訳練習(3)徐志摩さよならケンブリッジ

09/29 ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年9月(1)敬老ランチ
09/30 くねんぼ日記09年9月(2)敬老散歩

2009年10月目次

10/01 くねんぼ日記2009年10月>(1)惚け防止方法序説
10/02 くねんぼ日記2009年10月>(2)時の流れに身をまかせ

10/03 ニッポニアニッポン語講座復習編>社会とことば(1)こわい、いずい
10/04 社会とことば(2)フラガール語
10/05 社会とことば(3)高低アクセントと無アクセント(大切な言語文化)
10/06 社会とことば(4)バイリンガル(言語文化の復権)
10/06 社会とことば(5)マイアヒ語(バイリンガルになろう)
10/06 社会とことば(6)パル、パナ(方言周圏論)
10/09 社会とことば(7)ウォーとオ!
10/10 社会とことば(8)福山雅治のセーラー服と機関銃
10/11 社会とことば(番外)バイリンガル赤ちゃん

10/12 ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>ホームレスとミリオネア(1)ホームレスアーティスト
10/13 ホームレスとミリオネア(2)路上のソリスト
10/14 ホームレスとミリオネア(3)ロサンゼルスの東側スキッドロウ
10/15 ホームレスとミリオネア(4)独走者
10/16 ホームレスとミリオネア(5)スラムドッグミリオネア
10/17 ホームレスとミリオネア(6)百万長者になりたいのは誰?
10/18 ホームレスとミリオネア(7)スラムの天使
10/19 ホームレスとミリオネア(8)ムンバイのスラムドッグ
10/20 ホームレスとミリオネア(9)野間記念館の近代絵画

10/21 ホームレスとミリオネア(番外編)障害と芸術(1)ナサニエル・エアーズとグレン・グールドの障害
10/22 障害と芸術(2)カミーユ・クローデル
10/23 障害と芸術(3)カミーユと高村智恵子
10/24 障害と芸術(4)高村智恵子と草間彌生
10/25 障害と芸術(5)アート・セラピー

10/26 ぽかぽか春庭@アート散歩>近代を駆けた女性たち(1)近代美術館散歩・日本彫刻の近代
10/27 近代を駆けた女性たち(2)近代彫刻の女性像
10/28 近代を駆けた女性たち(3)モデル智恵子
10/29 近代を駆けた女性たち(4)ゆっくり東京女子マラソン

10/30 くねんぼ日記09年10月>幸福度ランキング(1)相対的貧困率
10/31 幸福度ランキング(2)国民幸福度


2009年11月目次

11/01 ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年11月>ファミリーオペラ(1)森の道楽
11/02 ファミリーオペラ(2)フィギュア・クラッシック
11/03 ファミリーオペラ(3)健康で文化的な最低限度の生活
11/04 ファミリーオペラ(4)無料で楽しむ健康で文化的な最低限度の生活

11/05 ぽかぽか春庭@アート散歩>田園讃歌(1)近代絵画にみる自然と人間
11/06 田園讃歌(2)積み藁と落ち穂拾い
11/07 田園讃歌(3)藁塚放浪記
11/08 田園讃歌(4)「ジヴェルニーの積み藁夕日と三丁目の夕日」
11/09 田園讃歌(5)志によって築く新しい藁塚

11/10 ぽかぽか春庭ことばの海を漂うて言海漂流記>融合文化(1)ポケモンの陰陽五行思想
11/11 融合文化(2)辛酉革命と建国の日
11/12 融合文化(3)ポンペ神社
11/13 融合文化(4)はやしさんのこと
11/14 融合文化(5)国籍
11/15 融合文化(6)力道山と松田優作
11/16 融合文化(7)マラーノ松田優作
11/17 融合文化(8)マラーノ文化
11/18 融合文化(9)融合する文化

11/19 インターナショナル食べ放題>おひとり様の外食(1)製麺所ラーメンふじまる
11/20 おひとり様の外食(2)500円ランチ

11/21 くねんぼ日記09年11月>ファミリーオペラ(5)セバスチャン・サルガドのアフリカ

11/22 ことばの海を漂うて言海漂流記>寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(1)福島次郎
11/23 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(2)寒紅忌
11/24 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(3)仮面文学
11/25 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(4)剣と寒紅
11/26 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(5)切腹ごっこ
11/27 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(6)ボディビルダー三島
11/28 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(7)シークレットブーツの三島
11/29 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(8)影の軍隊と三島
11/30 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(9)ジャングルクルーズにうってつけの日

2009年12月目次
12/01 ぽかぽか春庭ことばの海を漂うて言海漂流記>寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(10)自演する三島
12/02 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(11)ルネとモントルイユ夫人
12/03 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(12)召集された軟体動物
12/04 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(13)ペルソナを見つめる女性たち
12/05 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(14)行動の河
12/06 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(15)葉隠と行動
12/07 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(16)三島由紀夫という主体
12/08 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(17)からっ風野郎
12/09 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(18)虚無の馬を駆り立てる

12/10 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫番外編(1)同性婚
12/11 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫・番外編(2)マイノリティ
12/12 寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫・番外編(3)マジョの卓球便

12/13 ぽかぽか春庭ことばの海を漂うて>非現実の王国で(1)掃除人ヘンリー・ダーガー
12/14 非現実の王国で(2)アウトサイダーアート
12/15 非現実の王国で(3)非現実の王国で
12/16 非現実の王国で(4)ヴィヴィアンガールズ

12/17 ことばのYa!ちまた>今年気になった言葉(1)あらゆる現実を自分のほうへねじ曲げたのだ
12/18 今年気になった言葉(2)新語流行語大賞

12/19 ニッポニアニッポン語講座クイズ編>イントロクイズ(1)○○は激怒した
12/20 ニッポニアニッポン語講座クイズ編>イントロクイズ(2)我が輩は○○である

12/21 ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・今年の百円本から(1)おひとりさまの老後
12/22 年末雑感今年の百円本から(2)平安朝の生活と文学を読む平成の生活と文学
12/23 年末雑感今年の百円本から(3)ひらがなとハングル
12/24 年末雑感今年の百円本から(4)インドネシアのハングル
12/25 年末雑感今年の百円本から(5)片仮名でメリークリスマス
12/26 年末雑感今年の百円本から(6)言語の脳科学

12/27 ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(1)すき焼きファミリー忘年会
12/28 年末雑感・歳末風景(2)♪夜を忘れて夜に向かって
12/29 年末雑感・歳末風景(3)下北沢界隈
12/30 年末雑感・歳末風景(4)一足ずつに消えていく
12/31 年末雑感・歳末風景(5)よいお年を!

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