20210424
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2021ステイホームシネマ(2)年表による史実対決如懿伝 VS瓔珞
『瓔珞<エイラク>~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~』と『如懿伝(にょいでん)~紫禁城に散る宿命の王妃~について史実対決を述べます。
乾隆帝の子ども出生順の年表によって、浮かび上がる寵愛の歴史。これぞ史実「如懿vs瓔珞」
子ども出生順の年表、ホームステイの労作です。(ヒマ潰しじゃないんです。それなりにやることあるのにもかかわらず、家事をさぼっての年表作成。アハハ、家事やれよ!)
ステイホーム続き。華流テレビドラマの『如懿伝にょいでん』を見ています。華流ドラマは連続80回とか長いものが多いので、如懿伝はそれほど見る気はなかったのだけれど、前に見た『瓔珞』と登場人物は同じ清朝歴史上の人物なのに、主人公側と敵対側がまったく逆になるという作劇で、どんなふうになっているのか、という興味で見始めました。
真逆になっている「よい妃」と「悪い方」。
如懿伝では、主人公如懿(モデル:継皇后)は、乾隆帝の幼馴染みとして育ち、もっとも深い愛を注がれたのですが、皇后になったあと、皇帝と心がそわなくなります。廃皇后の命令こそ受けなかったものの、実質的な廃皇后となり、1年後に死去。皇后でありながら皇帝と同墓に葬られることも許されず、生んだ息子も皇族の扱いは受けない、という厳しい措置が執られました。
一方の瓔珞(モデル:令貴妃)は、最初の皇后の女官(奴卑)として下働きに出て、皇后に教育を受け、皇帝の寝所に供されました。妃嬪が「月の障り」などで閨の勤めができないとき、他の妃に皇帝同衾の機会を与えないために、自分に仕える女官を差し出すことは、どの妃嬪も行っていること。
ドラマ「瓔珞」では、「宮中勤めに出て辱めを受け自殺した姉」の敵を討つために、自分も女官となり、次は敬愛した皇后の仇をうつために皇帝の妃となる、という役柄になっています。なくなったときの称号は貴妃でしたが、息子が皇太子になったときに、死後でありましたが皇貴妃に昇格。息子が皇帝になったときに皇后に昇格。「奴卑から皇后」へというサクセスストーリー波瀾万丈です。
最初から上流家庭に育ち、乾隆帝が宝皇子としてまだ「次の皇帝候補者のひとり」であった時代に結婚した如懿のストーリーより、『瓔珞』のほうが変化があって面白かったです。面白くするために、史実を勝手に改編する度合いは、『瓔珞』のほうが大きい。
史実離れのひとつは、瓔珞のモデル魏佳氏が乾隆帝の妃嬪となったのは、最初の皇后(富察氏)がまだ生きているうちだ、ということ。「皇后の仇討ちのために宮廷にもどり乾隆帝の妃となった」というストーリーは史実離れの創作です。
また、瓔珞を生涯愛し続け守ったという皇后富察氏の弟富察傅恒も、魏佳氏とは関わりなく結婚し、正室側室の間に子をもうけています。
「如懿伝」で令妃をモデルとしている衛嬿婉(えいえんえん)は、皇帝の衣服を扱う女官から、あらゆる手段を使って皇帝の妃となり、他の妃を陥れながらのしあがっていきます。
で、そのような史実離れを承知の上で、『瓔珞』のほうが私の好みに合うのは、イケメン3人がそれぞれ瓔珞を愛するところ。乾隆帝は最初から瓔珞を気に入っていたのに、ツンデレぶりでなかなか瓔珞を妃にできないでいます。富察傅恒も「姉を自殺に追い込んだ相手ではないか」という瓔珞の誤解が解けたあと、彼女をひたすら愛し、最後まで守ろうとします。もうひとり瓔珞を愛するのは、宦官として宮中で働く袁春望。自分は乾隆帝の父親雍正帝の落胤であると信じ込み、宦官とされたことを恨んでいます。
瓔珞に姉の仇として狙われ続ける和親王。乾隆帝は和親王の娘のひとりを自分の養女格(猶女)にしています。皇帝と仲がよかった和親王を仇として狙うことはなかったと思われます。
「如懿伝」のイケメン枠は、皇帝のほかは衛嬿婉の恋人(嬿婉の野心のためにふられる)侍衛の凌雲徹と宦官の李玉なので、ちょいイケメン度が低い。
「如懿伝」の中で、皇后の女官が宦官(太監)と結婚させられたことについて「太監(たいかん)と結婚することはそんなにかわいそうなことなのか。宮中内の権力者でお金持ちならいいんじゃないか」という感想を書いたコメントを見ました。太監(宦官)とは、去勢された男性が宮中の奥使いになるのだ、ということを知らないらしい。
子を産むことが女性の一番の幸福と思われていた時代です。大事な部分を切り落とした躰となり、子を作ることができない太監との結婚は、子を生む幸福とは無縁の人生になったことを意味するのです。
中国の「都の作り方から建築衣服など風俗風習」をほとんど取り入れマネした日本ですが、ふたつだけ中国の伝統的な風習を取り入れない点がありました。ひとつは、雄馬の去勢と宮中奥仕えの男性の去勢です。日本に去勢文化は1500年の間なかったのですから、太監の身体特徴について知らないのも当然ですが、やはり中国の風俗や歴史をある程度は知っていたほうがドラマを理解しやすいのではないかしら。もうひとつは、都市の周囲に城壁(中国語では「城」)を築かなかったこと。日本語で「城」は、天守閣を有する有力者の軍事政治拠点を指し、城下町に城壁を築くことはなかった。
もちろん、歴史の真実などを知らなくてもドラマは楽しめます。
というわけで、知らなくたってよいことではありますが、乾隆帝の後宮事情について、年表により史実をまとめて見ました。
乾隆帝の妃嬪は、記録があるだけで15人。正式な妃嬪ではなく閨に侍った女性は数知れず。乾隆帝は88歳まで長生きし、帝位を譲った後も権力を手放そうとしなかった皇帝で、子孫繁栄にも励んだのです。
清朝の歴史は正史文書が残されていますから、後宮のだれが妃の位になったか、だれが子を産んだかということは記録されています。しかし、だれがだれをいじめたか、というような後宮のできごとは正史には記録されていませんから、主人公を誰にするかで、敵役もかわり、ストーリーは自由に作れます。
「如懿伝」の中で、乾隆帝は「皇后の行動に落ち度があったなどと知られたら、後世に対し自分の功績を低くすることになるから、皇后の落ち度は不問にする」という態度をとっていました。妃嬪の記録では、どの女性も、徳が高くすばらしい人物だったと書かれています。
まず、妃嬪の階級と人数。
立場 名称 人数
正妻 皇后 一人
側室 皇貴妃 一人
(皇后になる前の臨時の位。瀕死の場合や死後の皇貴妃追贈はある。下の年表で皇貴妃と身分が書かれている妃のほとんどは死後の追贈)
貴妃 二人
妃 四人 四人を区別するために、令妃、慶妃などの敬称をつける。乾隆帝時代は定員より多く6人いた。
嬪 六人
以下、人数は制限なく、貴人、常在、答応。
乾隆帝妃嬪のうち子供を生んだのは11人。子供の数は10女17男。しかし、成人できた子女は少ないです。
皇族の配偶者
正妻 嫡福晋 一人
側室 側福晋 四人(親王)三人(郡王)
庶福晋定員なし 格格定員なし
清朝の史書に書かれている、乾隆帝の子をだれがいつ産んだかの記録。
宝皇王時代
1728 長男 永璜(定安親王~1750)母は、格格(富察(フチャ)氏、皇后の家とは別)追贈哲憫皇貴妃(~1735佐領の翁果図の娘)
1728 長女 母は、嫡福晋(富察氏1712-1748 1727宝皇王と結婚1746立后 孝賢純皇后 )
1730 次男 永璉(~1738 夭逝追贈 端慧皇太子)母は、嫡福晋富察氏
1731 二女(夭逝)格格(富察氏 哲憫皇貴妃)
1731 三女固倫和敬公主(1731-1792)嫡福晋富察氏
乾隆帝在位中
1735 三男 循郡王永璋(~1760)母は、蘇氏1713-1760純恵皇貴妃)
1739 四男 履親王永珹(~1777)母は、 淑嘉皇貴妃(金佳ギンギャ氏1713-1755)
1741 五男 栄親王永琪(~1766)母は、愉貴妃(珂里葉特ケリェテ氏1714-1794)
1743 六男 質親王永瑢(~1772)母は、純恵皇貴妃(蘇氏)
1745 四女 和碩和嘉公主(~1767)母は、純恵皇貴妃(蘇氏)
六女(夭逝)母は、忻貴妃(戴佳ダイギャ氏)
八女(夭逝)母は、忻貴妃(戴佳ダイギャ氏)
1746 七男永琮(夭逝)母は、孝賢純皇后
1747 八男儀親王永璇(~1833)母は、淑嘉皇貴妃(金佳ギンギャ氏)享年86歳乾隆帝の子どもの中でもっとも長生きした。
九男(夭逝)母は、淑嘉皇貴妃(金佳ギンギャ氏)
十男(夭逝)舒妃(母は、葉赫那拉イェヘナラ氏)
1752 十一男(成親王)永瑆(~1823)母は、淑嘉皇貴妃(金佳ギンギャ氏)
1752 十二男(貝勒)永璂 母は、継皇后(輝発那拉ホイナラ氏1719-1766訥爾布の娘 1733側福晋1738嫻妃1745嫻貴妃1748貴妃1750皇后 1765事実上廃皇后 如懿のモデル)
1753 五女(夭逝)母は、継皇后(ナラ氏、那拉氏)
1755 十三男 永璟(夭逝)母は、継皇后
1756 六女(夭逝)母は、忻貴妃(戴佳ダイギャ氏)
1757 十四男 永璐(早世)令貴妃 母は、孝儀純皇后1727-1775魏氏。魏清泰の娘。1745魏貴人→令嬪 1745令妃
1754令貴妃 1765皇貴妃 瓔珞のモデル
1758 九女和碩和恪公主 母は、令貴妃
1760 十五男永琰(のちの嘉慶帝)母は、令貴妃。慶恭皇貴妃(陸氏)が養母となる。
1762 十六男(早世)母は、令貴妃
1766 十七男慶親王永璘 母は、令貴妃
1775 十女 固倫和孝公主 母は、惇妃(汪氏)
子を持たなかった側室
慧賢皇貴妃(高佳ガオギャ氏)1711-1745 如意伝、エイラクのどちらでも悪役
・慶恭皇貴妃(陸氏1724-1774)嘉慶帝の養母となる
・婉貴妃(陳氏)1717-1807。
・穎貴妃(巴林バリン氏)十七男慶親王永璘(生母令貴妃=瓔珞)の養母となる。伊爾根覚羅イルゲンギョロ氏)
・晋妃(フチャ氏、富察氏)
・容妃(中国語版)(ホージャ氏、和卓氏)ウイグル族。香妃伝説のモデル
年表をながめれば、魏佳氏が乾隆帝の側室のひとりとなったのは、皇后富察氏の存命中であり、皇后によって乾隆帝に献上されたのだとわかります。皇后の仇討ちのために宮中に戻り、皇帝の側室になったのだ、という瓔珞のストーリーとは異なります。
「如懿伝」では、雍正帝側妃の熹貴妃ニオフル氏(乾隆帝の母)は、雍正帝の皇后(烏喇那拉氏ウラナラ1679-1731)氏を憎んでおり、その皇后の姪である嫻妃(満洲鑲藍旗の輝発那拉ホイナラ)氏を、入宮初期には嫌っていた、という設定になっていましたが、同じナラ氏ということから作られたエピソードで、雍正帝皇后と嫻妃(如懿)が伯母姪の間柄であるという設定は脚色です。如懿が宝皇子の側福晋となった1733年の2年前1731年に雍正帝皇后は亡くなっていますから、如懿の栄達を願って前代皇后が自死した、というのは、史実ではありません。
熹皇太后が如懿を嫌っていたということなら、富察皇后の死後、皇后をおく気がなかった乾隆帝に嫻妃を皇后として推奨しようとはしなかったでしょう。嫻妃は、若い頃は懐妊せずに、皇后になってから30歳すぎ、当時としては高齢出産で子を生み始めたのは、やはり若い頃には乾隆帝の寵愛は薄かったのではないかと考えられます。
ドラマでは、若い如懿が懐妊しなかったのは、彼女の妊娠を阻もうとする皇后の策略のため、ということになっていました。 皇后から如懿へ贈られた腕輪に不妊となる丸薬が仕込まれていた、ということになっていましたけれど、漢方薬の丸薬を金属の腕輪に入れて、薬効が10年も続くかどうか。
出産状況からみるに。
最初に寵愛を得たのは長男を産んだ哲格格(庶福晋)。皇帝となってからは、純妃蘇氏と淑妃金佳氏。忻妃戴佳氏。富察皇后逝去後、継皇后の立后以後、出産があります。
瓔珞のモデル令貴妃の史実。皇后富察氏の晩年(死去の2年前)、皇后の推挙によって乾隆帝の妃になったの1745年ですが、12年間は子をなさず、1757年から魏佳氏(瓔珞のモデル)の出産が続くので、ドラマが描いたように、乾隆帝の寵愛を独占して他の妃嬪に恨まれたというのは本当だったかもしれません。
しかし、魏佳氏はとても賢く宮中を泳ぎ、生まれた娘は熹皇太后に養育を託し、永琰(のちの嘉慶帝)は、子のなかった慶妃(陸氏)に育てさせます。さらに穎貴妃(巴林氏)に十七男慶親王永璘を育てさせ、2女4男のうち、夭逝した二人を除き4人を成人させています。夭逝する子女が多かった宮中では、バツグンの存命率です。
乾隆帝の成人した息子は6人いましたが、長男定安親王永璜(22歳で死去)、三男循郡王永璋(25歳で死去)、四男履親王永珹(38歳で死去)、五男 栄親王永琪(25歳で死去)、六男質親王永瑢(29歳で死去)、十一男成親王永瑆(25歳で死去)。
いずれも長命(88歳)だった乾隆帝に先立っています。結局、跡継ぎとなったのは、魏佳氏(瓔珞)が生んだ十五男永琰(嘉慶帝)でした。嘉慶帝が即位したとき、魏佳氏に皇后の称号が追贈されます。
嘉慶帝は、生母魏佳氏と養母陸氏を同じように大切に偲びました。さらに嘉慶帝が大切にしたのは、婉貴妃(陳氏1717-1807)です。なんと90歳まで生きました。乾隆帝の寵愛薄く子をなすこともなかった婉妃でしたが、寵愛薄かったので他の妃嬪から嫉まれることもなく、長命ゆえに嘉慶帝からは大事にされ、結局一番福多い人生だったかもしれません。
清朝宮廷ドラマ、命狙い合うようなドロドロドラマ、史実からは遠かろうと、楽しんでおります。「史実とはここが違う」という点を承知しながらアリエネーストーリーを楽しむのも、ドラマの楽しみのひとつ。
<つづく>