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春庭@アート散歩

夏のアート散歩2011年8月

2010-03-31 12:50:00 | アート
2011/09/02
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(11)東京現代美術館サイレント・ナレーター

 石田尚志の一番新しい作品は、2011年4月の「海中道路」、10分間のビデオ作品。害虫駆除の薬剤噴霧器に海水を入れ、噴出する水で沖縄の海辺の道路に線を描いていくようすを撮影した映像です。映像は線の形を追うでもなく、むしろ噴霧器を持った石田が走ったり止まったりするようす噴霧器から水が出ていくようすを延々と撮影しています。「描く行為」そのものの映像化とでもいいましょうか。う~ん、やっぱりわからん。

 ディズニーランドの掃除人カストーリアルキャストは、水を含ませたほうきで、道路にミッキーマウスやミニーの絵を描いて、観客を楽しませています。これはエンターティメント。
 中国の公園では、大きな筆に水を含ませて、公園の道に立派な字で漢詩や論語の文字を書き続けるおっさんがたくさんいます。水の文字は乾けば消える。特に書家として名があるわけでもないらしいごく普通のおっさんたちが、我も我もと道に達筆の字を書いているようすは、中国の公園光景のなかでも、太極拳の大群、青空麻雀の大群とともに印象深く残っています。

 ディズニーランドの掃除人や公園の水筆書きのおっさんは、アーティストと呼ばれることはない。でも、石田尚志が沖縄の道路に水で線を描けば、これはアート。現代美術館に映像展示される。もし、石田が中国の公園で噴霧器の水をまき散らしながら走ったとして、だれもそれをアートと思わないでしょう。中国の都市道路で、水を撒いて埃を掃除しながら走るトラックを誰もアートと呼ばないし、水筆書きのおじさんたちを撮影しようとするビデオクルーもいないのと同じように。それがアートとなるのは、アーティストが「これはアートである」と言って行い、見る人も「これはアートなのだ」と思って見る行為だからなのかしら。どうも、シロートには現代アートわからんのです。

 好きになった作品もあります。
 私、海坂ときけば、一番最初に思い浮かべるのは藤沢周平の海坂藩。それしか知らなかった。
 三省堂大辞林での「海坂」の解説
 舟が水平線の彼方に見えなくなるのは、海に傾斜があって他界に至ると考えたからという、神話における海神の国と人の国との境界。
「海坂を過ぎて漕ぎ行くに海神(わたつみ)の神の娘子(おとめ)に/万葉 1740」「即ち海坂を塞(さ)へて返り入りましき/古事記(上)
 
 石田尚志「海坂の絵巻」は、墨で描かれた映像作品。これなどは、もうひとつの展示室の「サイレントナレーター」のテーマと同じく、「絵や映像を見て、鑑賞者が心の中に自分だけのものがたりをつむぐ」という展示コンセプトと響き合って、私は動く墨絵を眺めて自由にものがたりを紡ぎました。海坂のはるか彼方、波の坂道を降りていくと、そこは、、、、

 サイレント・ナレーターの部屋に展示してある作品のうち、唯一、前に見たことのある作品は、ロイ・リキテンスタイン(Roy Lichtenstein 1927 - 1997)の「ヘアリボンの少女」。
http://www.geocities.jp/untitled_museum/z3_3rd-gallery.html

 同じような作品を見たことがある。何度見ても、アメリカの漫画の絵とどう違うのかわからない、とシロートは思う。漫画は娯楽だけれど、リキテンスタインはアート。その違いがわからない。美術史家によれば、リキテンシュタインは、マンガの含有する偶像崇拝の心理をアートしているのだという。そ、そうなのか。
 市販品の便器にサインをして「泉」とタイトルをつけて、20世紀最大のアートという評価を得たデュシャン。しかし、私がオマルにサインしてもアートではない。

 現代美術館がこの「ヘア・リボンの少女」を購入したとき、1枚の絵の価格、6億円だった。ワォ、私の都民税も使ったはず。6億÷1200万人だと50円分、この少女のマツゲ一本のさきっちょくらいは私が買ったのだ。せいぜいじっと眼をこらして見ておかなくちゃ。あは、どうしても芸術鑑賞のレベルが低い。
 
 リキテンシュタインの絵、いろいろ。
http://matome.naver.jp/odai/2129729966984189701

<つづく>
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2011年09月03日


ぽかぽか春庭「東京現代美術館カオス・ポエティコ詩的な混沌」
2011/09/03
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(12)東京現代美術館カオス・ポエティコ詩的な混沌

 ジュリアン・シュナーベルは、映像作家としては、第60回カンヌ国際映画祭監督賞を受けた2007年の『潜水服は蝶の夢を見る』を見たことがありますが、画家として見るのははじめて。

 シュナーベルは、割れた皿やコップ、急須などを画面に貼り付けた作品で知られています。近くで見ると割れた皿やコップが並んでいて絵の具が塗りたくってあり、木の枝がくっつけられているのですが、遠くで見ると王の像が見え、王剣の前にある木の枝は蛇です。私、最初、王剣がサンマに見えました。サンマを手に掲げ持つ王なんて、シュールでいいなあと思った。

 解説員が「フリーザーって知っていますか」と問うので「ええ、『金枝篇』は全巻読みました」と答えると、「あらまぁ、私はこの絵の解説をするので、フリーザーをはじめて知ったのですけど、、、、」と言うので、しまった、解説される人が解説する人より詳しいこと言っちゃイケネーや、と反省。
 シュナーベルの割れた皿の絵のタイトル「森の王」とは、『金枝篇』の中に出てくる「新しい王が力の衰えた旧い王を追い払う」というお話に基づいているのだ、と解説してもらいました。

 企画展示サイレント・ナレーターの展示室、あとは、全部はじめて見るアーティストばかりでした。
 ゴミを拾って構成した大竹伸郎「ゴミ男」とか、デビット・ホックニー「スプリンクラー」とか、印象に残る作品がありました。

 サイレント・ナレーターの最後の作品は、「Caos Poetico詩的な混沌」
 メキシコの家々の「盗電」。公共の電柱から勝手に電線を引き込んで家の中に電灯を灯す光景をイメージしてアートにした、荒木珠美の作品です。空き箱の中に色とりどりの豆電球。展示室いっぱいに、400個の電灯箱が都市スラムの混沌さながらに黒いコードを絡ませながらぶら下がっています。混沌とした都市スラムに、祝祭のように輝く盗電の電灯。盗電の僥倖。饒舌の沈黙。サイレントナレーションが心地よかった。

 以下、「私の紡ぎ出すものがたり-盗電祝祭」
 そうよ、電気なんて、一企業がエラソーに配布するもんじゃないのよ。あれは公共のもの。雨上がりの虹や夜空の星の光は誰の私有物でもないのと同じ。電気は公共インフラって思う。前政権は、アメリカのご機嫌取りに米国通信産業や生命保険事業を日本に引き入れようと郵政民営化を掲げて、日本の通信事業を公共インフラから私企業にしてしまった。世界の情報は、グーグルやマイクロソフトなどの私企業の支配下におかれつつあるけれど、本来、基本的な生存権は、基本的インフラを公平に享受するところから出発する。生きて行くために必要な水や米や通信や電気は、公共のものであるべき。
 私も東電でなく盗電しよっと。さて、どうやって。
 どうやってもすてきなファンタジーにはならないせこいものがたり。

 と、アートの豊かさにふれても、どうしてもみみっちい発想のままの春庭、常設展示を見終わって、せめて今日くらいゆったり百万円に座っとこうと、アトリウムの「百万円の椅子」に腰掛けました。

<つづく>
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2011年09月04日


ぽかぽか春庭「東京現代美術館"I am still alive."まだ生きている」
2011/09/04
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(13)東京現代美術館"I am still alive."まだ生きている

 現代美術常設展示のボランティアガイドをいっしょに聞きながら見てまわったおやじさんが、アトリウム展示の百万円の椅子を見て「こんな椅子なら作れる」と言ったように、現代美術作品の中には、子どものいたずら書きのように見える絵がいくつもあります。殴り書きのような、ちょこちょこっとノートのはじっこに描いた落書きのような。
 「これなら私だって描ける」と、思うのはシロートなんだそうですが、どんないたずら書きであってもトコトン絵が下手な私にも「これなら、私も同じような作品が作れる」と思った展示がありました。

 河原温の「I GOT UPシリーズ」、絵はがきを並べた作品です。
 河原はコンセプチュアルアートの重要な作家だそうです。作品の写真撮影は禁止されているので、公的な撮影をしている美術館などのサイトの写真、みな小さい紹介しかないので、どんな感じかわかりにくいと思いますが。葉書1枚だけの展示ではなく、10年分ずらりと並んでいることが大切なのだと思います。

 河原が住んでいた場所や旅行先のさまざまな絵はがきに「私は○○時に起きた」とタイプで書き込み、1968年から10年間にわたって送り続けたその葉書を、日付順に並べた作品です。文面は起床時間だけ。「I got up at 8:30などの、その日の起床時間。
 届けられた友人はふたりのみ。投函場所は、河原が住んだニューヨークやパリのほか、旅行に出た行く先々。洋上の船の上からも出されました。
 差出人と宛先の住所氏名等は手書きでなくゴム印で押されていたのですが、1979年にゴム印の入ったかばんが盗まれたことにより、このシリーズは終了しました。
http://www.artfairtokyo.com/contents/index.php?m=SearchItem&id=261

http://plaza.rakuten.co.jp/adayontheplanet/diary/200612070002/

 河原の作品に、常に同じ"I am still alive."まだ生きている、という文面の電報を世界各地から発信するシリーズもありました。
 私がマドリッド・リアリズムの磯江毅に「描いている対象物を見つめ続けるその時間がすべて描き込まれている」と感じたその時間。石田尚志の描いている行為をビデオに撮影した「海中道路」の、その描かれた時間。
 それと同じく河原温のI GOT UPと記された絵はがきは、河原の生きた時間を並べていました。

 おお、これなら私もできるぞ。
 むろん、コンセプチュアルアーティストでないシロートの私が葉書を送ったところで、毎日電報を打ったところで、それは反古にしかすぎないのはわかっていますが、私だって葉書を送るくらいのことはしておりまする。
 私は今年4月から、青い鳥チルチルさんあてに3日に1枚、1ヶ月10枚。3年余、合計365枚の絵はがきを送るシリーズを始めています。8月末までの分で50枚になっています。

 月の最初はその季節の花の絵はがき。あとは、美術館で買った名画絵はがきとか観光地で買った名所や風景絵はがきなどを混ぜて、365枚の全部が異なる絵柄の絵はがきと異なる文面になるようにしています。絵手紙ならもっといいのでしょうが、私にはまったく絵が描けないので、既製品の絵はがきを使っています。
 月の最後は大型サイズの葉書です。たいてい手作り。美術館チラシやカレンダーの絵に白い紙を貼り付けたものなど。8月は花火大会でもらった団扇に切手を120円(定形外郵便物)貼って送りました。
 切手は、季節の花の切手やピーターラビット切手、キティちゃん切手、木シリーズなど。50円切手がなるべくいろいろな種類になるようにしています。

 文面は、季節の感想やらその日の出来事、絵はがきの絵柄に関する話題などを手書き。
 自分の描いた絵ではないのだから、アートとは、ほど遠いと思っていました。でも、全部を並べれば、これはアートになるんです。たぶん。
 365枚たまったとき、これを全部並べれば、私の「I GOT UP」シリーズになるんじゃないかしら。

 河原の「I GOT UP」、ニューヨークに滞在している間はずっとニューヨークの街の絵はがきで、文面も同じですから10年分でも統一感はあります。私の「TO:青い鳥シリーズ」は、絵柄はばらばら、文字は乱雑。まったく統一感がありません。でも、それはそれで私の、"I am still alive”の証しです。

 ろくでもない文面の乱筆葉書など、一回ごとに読んだら捨てられてもいいようなもので、「出すことに意味がある」と思っていたのですが、「I GOT UP」が現代アートなら、私の「TO:青い鳥」シリーズも、きっと何かのアートです。
 さっそく、8月末の葉書で、青い鳥ちるちるさんに、「私の葉書、捨てないで保存しておいてね」とお願いしました。
 ちるちるさんから、返信メールが来ました。8月に「足の指が動かせたので、メールを打ってみました」といううれしいたよりがきたのですが、妹さんやヘルパーさんの助けを借りての、メール通信なのだろうと思います。
~~~~~~~~~~
大丈夫です!私は、捨てません!!
No.1より、ハガキファイルに入れて、とってあります!
どんなに古い手紙でも、私は大事にしています。
うちわは、ファイルに入らないので、裏表コピーしてファイルに入れてます。
これ集めるのかなり楽しいですよ♪
まだ暑いですが、ご自愛くださいね
~~~~~~~~~~~

 ありがとう、ちるちるさん。「葉書受け取り人ボランティア」になってもらっただけでも有り難いのに、読んでもらい、保存しておいてくださる。
 私が毎朝起きてI got up、なんとか生きて、三日に一枚葉書を書いて「I am still alive.」と感じるその感覚を受け取ってくれる。私の生が不確かなものであるとしても、このちるちるさんが受け取ってくれた葉書の分だけ、私は確かに生きたのです。
 明日は9月5日。今年もまだ生きている。まだ生きている私に、「まだ生きていておめでとうI am still alive!」

<つづく>
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2011年09月06日


ぽかぽか春庭「三井美術館「橋」展」
2011/09/06
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(14)三井美術館「橋」展

 8月、「ぐるっとパス」でたくさんの美術館めぐりをしました。2000円で楽しめる東京観光、貧乏な人でも楽しくすごせる東京。
 お金がある人にはお金持ちの楽しみ方があります。代表的お金持ちの道楽は、美術品収集。お金が有り余ると、名誉と芸術を欲するようになるのは古今東西みな同じ。三井も大谷も大倉も、成功した商人が財を蓄える方法のひとつとして、美術品を収集してきました。その一部を一般に公開している私立美術館。財の社会還元の方法のひとつとしてはいいんじゃないでしょうか。

 8月19日は、日本橋の三井美術館で「橋」展。三井財閥の収集品のうち、日本橋架橋百年にちなみ、橋が描かれた陶磁器や絵の展示。

 橋はこの世と彼岸をつなぐ場所ゆえ、古来たくさんの橋の図象が描かれてきました。
 文学の中に出てくる橋を意匠とする絵や図案も多数あります。『伊勢物語』第9段の中に「そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける」と書かれている八橋は、さまざまな絵に描かれました。また、東京の橋の中でも、在原業平が詠んだ「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」という歌ちなんだ言問橋、業平橋があります。もっとも、駅名にもなった業平橋は、「スカイツリー駅」に改称の予定とか。
 『源氏物語』の中にも、「橋姫」「夢の浮き橋」など、橋に関わる帖もあり、様々な画家が「源氏の橋」を絵や陶器に描きました。
 北斎、広重の江戸の橋を描いた浮世絵は、江戸を始め、各地の有名な橋を描いています。

 また、故人供養のため、橋を寄進する風習を知らせる展示もありました。
 戦国時代18歳で戦死した息子のために母が橋供養をしたときの擬宝珠(ぎぼし:橋の欄干の柱の頭につけるねぎの花のような形の飾り)に書き込まれた願文がよかったです。本人が直接文章を考えたのか、母心がよく表れた仮名書きの文です。

 豊臣秀吉の小田原北条氏征伐。この征伐で秀吉は勝利したけれど、従軍した尾張国丹羽郡(にわぐん)の堀尾金助(ほりおきんすけ)は陣中で病になり,わずか18歳で命を落としました。金助の死を伝え聞いた母親は,30年間泣き暮らす。33回忌、生きていれば息子は50歳を過ぎた壮年になっているでしょう。愛しい我が子の出陣を見送った裁断橋のたもとに立つ母も老いた。母(堀尾方泰室)は、老朽化した橋の修築をしようと思い立つ。修築が諸人の助けとなり,今は亡き息子の供養になるからです。「橋供養」というそうです。

 1621(元和七)年、擬宝珠に以下の文を残しました。野口英世の母のひらがなの手紙と並んで心に残ります。
~~~~~~~
  てん志やう十八ねん 二月十八日に をだわらへの御ちん ほりをきん助と申す十八になりたる子をたたせてより 又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに 今 この橋をかけるなり  母の身には落涙ともなり そくしんじょうぶつしたまへ いつかんせい志ゆんと後の世の又後まで このかきつけを見る人ハ念仏申したまへや 三十三年のくやう也
(天正十八年二月十八日に/小田原への御陣/堀尾金助と申す/十八になりたる子をたたせてより/又二目とも見ざる/悲しみのあまりに/いまこの橋を架けるなり/母の身には落涙ともなり/即身成仏し給え/逸岩世俊(堀尾金助の戒名)と後の世のまた後まで/この書き付けを見る人は/念仏申し給えや/三十三年の供養なり)
~~~~~~~~~~

 名古屋市熱田区の裁断橋は、現在では廃橋となっているそうです。平仮名の供養文からは、息子を失った母の悲しみがひしひしと伝わります。33回忌は、仏教の供養の最後といいます。堀尾金助という日本史にはまったく出てこない、ひとりの若者の死。その死を、母がひたすら嘆く。
 名古屋の人には知られた橋供養の文なのでしょうが、私は初めて知りました。

 3月11日の東北大震災、そして今月の台風12号の大きな被害、災害で亡くなった方、また事故や病気で愛する人を失った、残された者の悲しみは癒しがたいものです。私たちにできることは、この堀尾金助の母のように、ひたすら供養し、亡き人を思い出すことだろうと思います。

<つづく>
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2011年09月07日


ぽかぽか春庭「大谷美術館と大倉集古館」
2011/09/07
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(15)大谷美術館と大倉集古館

 8月23日午後、ホテルニューオオタニの大谷美術館とホテルオオクラの大倉集古館へ。地下鉄永田町からちょっと歩いてホテルニューオータニへ。オータニ美術館に初めて入りました。前回このホテルにきたのは、去年の夏、中国の友人を連れて、ぐるぐるまわる回転展望レストランに食べにきたとき。しかし、美術館は1991年の開設以来、来たことがありませんでした。

 「美術館にロッカーがないから、ホテルのクロークに預けるようにいわれたんですけれど」と言ったら、クローク係はにこやかにボロいリュックをあずかってくれた。うん、従業員、きちんと教育されていますね。一流の場所は、どんなぼろい服の客もていねいに扱うよう教育が徹底しています。中途半端に高級そうなところは接客者が客の値踏みをしている目つきをするのです。本物のプロの接客者は、たとえ心の中で値踏みしたとしてもそれを顔つきに出さない。ぼろい格好をした大金持ちというのもよくいることですし。まあ、私はヨレヨレTシャツにぼろいジーパンはいた本物の貧乏人ですが。ホテルニューオオタニの創業者は貧農の出身。貧乏人をバカにしたら創業者が化けて出るにちがいない。

 ホテルニューオオタニの創業者大谷米太郎(おおたによねたろう1881-1968年)は、富山県の貧農の家に生まれ、体格のよさを生かして力士を目指しました。四股名は鷲尾獄。しかし、十両昇進目前に怪我をして、出世を断念。人柄を見込まれ、国技館の酒屋に転身しました。それから立志伝を絵に描いたように成功して鉄鋼王となります。財を浮世絵収集につかい、なかでも力士であったことから相撲錦絵を収集。

 今回私が見たのは、相撲絵の収集を引き継いだ次男の大谷孝吉のコレクションから、約60点の相撲錦絵の展示でした。大谷米太郎は晩年、経営してきた大谷重工業の社長の座を追われ、ホテル以外にその名が残らなかったせいか、二代目の孝吉はあまりぱっとした印象がない。相撲錦絵コレクターであったこと、はじめて知りました。
http://www.newotani.co.jp/group/museum/exhibition/201107_ootani/index.html

 錦絵研究者や相撲史研究者なら、もっと細かい見方ができたのだろうけれど、私にはどの力士も区別がつかず、あまり熱心な鑑賞はできませんでした。けれど、相撲錦絵が江戸の庶民にとって、大スターのブロマイドとして大人気であったことはよくわかりました。力士や取り組みの詳しいことはわからないのですが、格闘者の肉体が大衆に熱狂的に求められていたことが展示の錦絵にもその迫力から感じられます。2メートルを超す巨漢の相撲取りもいて、さぞや驚異の肉体であったことでしょう。

 娘は世界陸上の全放映を見ていました。私は室伏の金メダルはライブを見のがしたけれど、ボルトの百メートル失格はライブで見ました。ボルトも室伏の立派な体格です。
 室伏は、体格だけでなく、体育学で博士号取得。2011年4月、中京大学 スポーツ科学部・競技スポーツ科学科准教授に就任しました。イケメンでいい身体で、博士。江戸の力士も平成のハンマー投げも、ジョシはうっとりその身体に見入ることでしょう。私、アンコ型力士とか、ボディビルダーのうそッポイ筋肉の作り方は好きじゃないけれど、室伏の身体は美しいと思いますヮ。室伏、世界陸上での金をみやげに早く結婚してほしいけど。あの渋面パパさんと離婚してしまったフィンランド人ママさんへのマザコン説もあるんですが、イケメン大好きだから許す。

 大倉集古館は、明治大正時代の実業家大倉喜八郎が設立した、日本で最初の私立美術館です。日本と中国の古美術が収集されています。
 2代目の大倉喜七郎(おおくらきしちろう1882-1963年)は、男爵を受爵した父を継ぎ、近代絵画を収集。また、音楽道楽にあけくれ、大和楽という和楽器のオーケストラを設立しました。今回の展示は喜七郎の大和楽の展示と、「楽器が描かれた絵」の展示。

 大倉喜七郎も、大谷孝吉と同じく2代目の坊ちゃまだけれど、こちらは趣味人として知られてきました。坊ちゃまの趣味のひとつの大和楽、新しい楽器の発明や演奏に力を入れた。それにちなんで、楽器が描かれている絵の展示。点数は少なかったけれど、なかなかおもしろかった。
http://www.shukokan.org/exhibition/index.html#neiro

<つづく>
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2011年09月09日


ぽかぽか春庭「練馬区立美術館グスタボ・イソエ展」
2011/09/09
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(17)練馬区立美術館グスタボ・イソエ展

 新聞で展覧会評を見ても、まったく知らない名前だったし、もし、ぐるっとパスを買っていなかったら、わざわざ中村橋まで見に行かなかっただろうと思うので、ぐるっとパスを買ってよかったと思います。
8月13日、お昼ご飯、中村橋駅前の大衆中華屋で餃子回鍋肉セット680円を食べてから、練馬区立美術館へ。だいたい、練馬区が区立美術館を持っていることも知らなかったし。練馬は大根しか知らぬ。
http://www.city.nerima.tokyo.jp/manabu/bunka/museum/

 磯江毅、スペインでの名はグスタボ・イソエ。画業の地を日本に移転した矢先に2007年、53歳で死去。マドリッド・リアリズムの画家として、スペインでは高く評価されてきたけれど、日本での評価が高まったのは90年代に入ってからのこと。
 芸大出身者などの日本の美術界アカデミズムの中にいる人にとっては、イソエは異端の人だったのでしょう。磯江は、1973年 大阪市立工芸高等学校図案科卒業したあとヨーロッパに向いました。1974年、20歳のころ、シベリア経由でスペインへ。マドリッドのアカデミア・ペーニャや王立美術学校で絵を学びました。

 マドリッドの日本大使館に長年勤務して夫の画業を支えた夫人が、作品にコメントを寄せていました。普通ならキュレーターの解説が書いてある作品紹介に、奥さんの思い出話が書かれていたのが印象的でした。「このモデルさんは、夫が貧乏画家であることを知っていて、安い値段でモデルを引き受けてくれました」など。

 グスタボ・イソエの年譜と絵
http://homepage2.nifty.com/saihodo/artists_isoe_2.html

 絵はスーパーリアリズム。けれど、「写真みたい」なんて言ってしまったら、「絵の本質がわからない人ね」と一喝されそうなリアリズムを超えた凄味が迫ってきました。
 たとえば、「新聞紙の上に横たわる裸婦」の新聞は、一字一字新聞の通りに模写され、新聞写真も丁寧に写されています。しかし、写真じゃない。その不思議なリアリズムは、見る者を異次元のリアルな世界に引きずり込むような気がします。

 人物のリアルさもすごいけれど、なんと言っても静物画がスーパーリアル。スペイン語で「ボデゴン」は、英語のstill life(静かな生物)、フランス語のnature morte(死んだ自然)とも意味合いが異なり、厨房画と訳される。台所にある物と人を描くのがスペインのボデゴンです。イソエのボデゴンは、静かな生物でもあり死んだ自然でもあります。縄で吊されている羽を毟り取ったあとのウズラや毛を毟られたうさぎ。身をすっかり食べ尽くした皿の上の鰯の骨。みずみずしい葡萄やざくろ。それがしだいにしなびていくようすをリアルに写し取ったボデゴンは、生と死を深く見つめる画家の目を通して、強く訴えかける「何ものか」が絵の中に息づいています。

 上手な写真家が写せば、イソエが描いたような生と死を印画紙に定着できるのだろうか。いや、やはり写真の一瞬の切り取りでは、このnature morteでもありstill lifeでもある物の生命は別のものになる気がします。磯江はしなびて腐りかけた葡萄の一房を描いている。カメラレンズで写し取ったかのように正確でありながら、カメラで写したのでは写しとれないものを絵筆は確実に描ききっています。

 シャッターを押しカメラのレンズが開閉するのは、一瞬です。星を撮影した写真など、夜空に向けて一晩中レンズを向けて撮った写真もあるけれど、昼の画像でレンズを開け続ければ、印画紙には何も残らない。けれど、画家の眼は葡萄がしなびていくその時間すべてを見つめることができる。その生きて死んでまだ続いていく時間のすべてを絵筆は描きとっている。

 スーパーリアリズムの形には画家の生きてきた時間のすべてが描き込まれている。裸婦を描いた絵には、画家が裸婦を見つめ続けた月日と画家の心の動きのすべてが表されている。薬瓶のラベルの落剥や、割れた硝子にうっすら映る画家の顔がキャンバスに写し取られるとき、リアルは現実を超えてしまう。
 磯江毅の画業を知ることができてよかったです。

 8月24日午後、三の丸尚蔵館で明治大正の献上画帳の日本画。横山大観や山岡鉄舟など知っている名もあるし、まったく知らない名もある。皇室献上の画帳に選ばれるくらいだから、当時は大家だったのだろうし、現在でも日本画史の研究者なら知っている名なのだろうが、日本画に詳しくない私には知らない名ばかり。大家というのも百年経てば、一般人には知られない人になるのだ、と感慨深い。
http://www.kunaicho.go.jp/event/sannomaru/tenrankai55.html

 三の丸尚蔵館から東御苑を通り抜けて近代美術館常設展へ。5月に見たときに比べると、かなり展示替えがあった。三の丸尚蔵館のついでに寄ったのだけれど、季節に一回は常設展示も見ておくといいとわかる。

<つづく>
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2011年09月10日


ぽかぽか春庭「目黒美術館スケッチブック小川千甕と澤部清五郎の」
2011/09/10
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(16)目黒美術館スケッチブック小川千甕と澤部清五郎の

 8月25日は、午後、目黒区美術館へ。展覧会タイトルが「スケッチブックの使い方-描いたり歩いたり、そしてまた描いたり」というので、私は夏休み宿題向けの子どものためのワークショップだろうと思ったのだけれど、それでも常設展示があるはずだと思って出かけました。しかし、展覧会は「小川千甕と澤部清五郎、100年前のスケッチブック」という内容でした。「スケッチブックの使い方、描いたり歩いたりまた描いたり」というコピーだけが案内に出ているので、ふたりの画家の画業紹介とは思ってもみなかった。
 思いがけずこれまでその名を知らなかった画家を知ることができたのだけれど、この宣伝コピーは展示の内容がまったくわからないとアンケートに書いた。
 
 澤部清五郎(さわべせいごろう1884~1964))は川島織物の図案係として勤務した人。川島織物会社の重役にまでなり、長寿の末に亡くなったときには社葬によって見送られたのだけれど、本人は洋画家として大成したいという本意を遂げられなかった、という思いを残しての一生だったといいます。

 澤部は青雲の志を持ってパリに画家修業に出て、梅原龍三郎や安井曽太郎と研鑽を競ったのですが、梅原や安井が日本の洋画家として大成したのに対して、澤部自身は家庭の事情から収入身分の不安定な画家ではなく、家族を養うに足る給料を得るべく、織物会社の図案係になりました。自身は、2度も妻に先立たれたのち、3人目の妻に「家族運の薄い人でした」と回想される家庭生活。
1992年、目黒区美術館で澤部清五郎展が開催されたこともまったく知りませんでした。

 もうひとり、小川千甕の名もこれまで聞いたことがありませんでした。デジタル版 日本人名大辞典での小川千甕の紹介。
~~~~~~~~~~~~
1882-1971明治-昭和時代の日本画家。明治15年10月3日生まれ。仏画師北村敬重の弟子となり,浅井忠に洋画もまなぶ。大正4年川端竜子,小川芋銭(うせん)らと珊瑚(さんご)会を結成。油絵から日本画へ移行し院展に「田面の雪」「青田」などを出品。昭和7年日本南画院に参加。昭和46年2月8日死去。88歳。京都出身。本名は多三郎。代表作に「炬火乱舞」など。
~~~~~~~~~~~~
 澤部清五郎と小川千甕、ともに明治初期に浅井忠の弟子となり洋画をまなび、また日本画も描きました。一般には知られていない画家というか、私が知らなかったのですが、絵画修行とも言える画帳には、それぞれの20歳前後から晩年までの多数の習作が描かれています。スケッチブック(各70冊ほど)がありました。

 これまで見て来た展覧会では、スケッチブックは、見開きのページだけが眼に見えて、あとのページはわかりませんでした。今回は、複写された全ページが壁のパネルに並べられ、全体を展示してあるところがよかった。西欧の旅、日本各地の旅、花や人物。眺めていると、描かずにはいられない強い情念が伝わってくる。私が文字を読み、文字を書かずには生きていけないのと同じだと思う。
http://www.tokyoartbeat.com/event/2011/0002
<つづく>
09:43 コメント(2) ページのトップへ
2011年09月11日


ぽかぽか春庭「東京芸術大学美術館「源氏物語絵巻に挑む」」
2011/09/11
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(17)東京芸術大学美術館「源氏物語絵巻に挑む」

 9月1日から8日まで、朝9時から夜6時まで集中講義。90分授業を一日5コマ。途中の昼休みは40分ですが、学生の質問など受けていると30分もなくなり、ごはんをゆっくり食べている余裕もない。マックのハンバーガーなどをかっこみました。
 6日続いた集中講義。中学高校の先生の仕事で言うなら、45分授業を1時間目から10時間目まで、一日中ぶっ続けで喋り倒す。日本語学と日本語教育概論を喋り続けて、ああ、くたびれた。なにせ半年分、90分授業30コマ分、学生にしてみれば、一週間に2コマ授業を受けて4単位になる分を6日間で行うのですからハードワークは当然です。対象は、日本語教師養成講座に登録した学部の2,3,4年生。日本語教師をめざして真剣に授業を受ける学生たちです。

 こんなに一生懸命仕事をして、がんばった私にごほうび。心に栄養与えなくちゃと、仕事が終わった翌日の金曜日にはさっそくアート散歩にでかけました。9月9日から9月25日まで、東京芸大美術館で、源氏物語の模写特別公開があるというので初日に見ることにしました。入館料500円のところ、ぐるっとパスの割引き券があるので300円でした。「6日間一生懸命仕事したごほうび」が300円とは安上がりですが、目の保養、心の栄養に、とても大きなものでした。
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2011/genji/genji_ja.htm
 
 これまで、芸大日本画研究室は敦煌壁画の模写などを手がけてきました。敦煌の模写が一区切り着いたのを機に、次は大学院の修了制作のひとつとして、国宝『源氏物語絵巻』の模写に取り組みました。徳川美術館と五島美術館に所蔵されている絵巻を寸分違わぬよう二部模写し、一部は徳川と五島に納め、一部は芸大の所蔵として保管します。

 模写は、画家の修業のひとつとして多くの画家が取り組んできました。日本画の大学院生にとって、源氏物語を模写できるとは、その絵画技術の向上にも約立つことです。またこれまで作品の劣化などをおそれて海外への作品貸し出しができなかった源氏物語絵巻でしたが、出来上がった模写作品は、「日本のすぐれた文化」を紹介するにも大いに役に立つだろうと思います。

 現代では多色刷りコロタイプなど印刷技術の発達のおかげで、正確な作品コピーができるようになりましたが、模写するという人の手による方法で写し取った絵は、写真コピーとはまた別の価値があります。
 徳川美術館では,現状では絵の具の剥落など劣化がある源氏絵巻を、平成復元模写として、「平安時代に描かれた当時の復元」を行っています。今回の模写は、「現状復元模写」で、絵の具の落剥や詞書の墨字のかすれなどをそのまま模写しています。
 平成復元模写
http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/06/index.html

 会場には、徳川美術館から貸し出されている「柏木」「宿木」の国宝も展示されていて、私は生まれてはじめて源氏絵巻の本物を見ることができました。これまで画集や絵巻解説本などで、見続けてきた源氏絵巻ですが本物を見たことがなかったのです。

 絵巻は、源氏物語54帖のうち、名古屋市の徳川美術館に絵15面・詞28面(蓬生、関屋、絵合(詞のみ)、柏木、横笛、竹河、橋姫、早蕨、宿木、東屋の各帖)、東京都世田谷区の五島美術館に絵4面・詞9面(鈴虫、夕霧、御法の各帖)が所蔵されています。
 そのすべてを、日本画研究室の院生が手分けして精密に写し取っていました。

<つづく>
02:16 コメント(3) ページのトップへ
2011年09月13日


ぽかぽか春庭「源氏物語模写マネてまなぶ」
2011/09/13
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(17)源氏物語模写マネてまなぶ

 源氏物語絵巻は保存の必要から詞書と絵の部分に切り離され、額装されて桐の箱に収められています。現状模写では、その桐の箱までそっくりに復元しているのです。展示第2室には、使用した絵の具顔料の石(岩絵の具原料)や絵筆、絵の額装に用いる金紙やプラチナ紙をを極細に切り刻んだものの見本などが展示され、元の本物とそっくりに仕上げるには、桐の箱を作る職人や元の絵との照合を行う人など、たくさんの協力者が必要だったことがわかります。

 本当に見事な現状模写で、私は、「普段はこちらを展示しておき、国宝のほうは劣化しないよう展示は一年に一度、研究者に公開すればよい」と思いました。シロートの私が見るなら、模写のほうで十分ですから。もちろん「本物を見ることができた」という感激も大切ですから、たまには一般公開してほしいですけれど。

 模写というのは、絵を学ぶ人にとっての大切な修行です。何事においても「まなぶ」とは「まねぶ」であり、まずは先人の業績を模倣するところからすべては始まります。赤ちゃんが養育者の発音をマネするところから言語が発達するのと同じ。学者の研究は、まず先行研究の成果を学ぶところから。そっくりの模写ができた上で、自分自身のオリジナルが発揮できるのです。

 私の「日本語教授法」の授業でも、いろいろな先生の「日本語を教えている教室を写したビデオ」を見せます。その上で、学生には「まずは、さまざまな授業スタイルを知り、マネするところからはじめてください。それから自分自身で工夫してそれぞれの学生、教室にあった授業方法を考えましょう」と言っています。

 集中授業「日本語教授法概論」では、いろんなワークショップを入れて教室活動を行ったので、学生達は「面白かった」と言い、「日常の読み書きは十分できているつもりだったけれど、日本語の世界がこんなに奥深いとはじめて気づいた」と感想を言っていたので、まあ、よい6日間をすごせたのだろうと、講義終了することができました。

 道路に水を撒いていく姿を撮影したビデオが石田尚志のアートなら、一日に10時間しゃべり続ける姿が私のアートです。
 アートとは、「う~ん、よくわからない」というものでも「これはオークションに出せば100万円の価値があるんだから、名作なのだ」でもなく、「今を生きて行くこと」「今、私がここにあること」そのもののことを言うのではないかと思います。

 9月8日に集中講義が終わったあとは、ジャズダンス発表会。敬老の日は姑のご機嫌伺いもしなけりゃならず、見たい展覧会も映画もビデオもまだたくさんあります。ああ忙しい。こういう日常をつつがなくすごしていくのもひとつの技術。

 「アート」の元の意味は「技術」ということです。ギリシャ語の「τεχνη techné(テクネー)」は英語のテクニックにつながる、元々は単に「人工(のもの)」という意味です。テクネーがラテン語に訳されて「ars(アルス)」となり、英語のartアート、ドイツ語の「Kunst(クンスト)」などから日本語ではartは「技術」と訳される語でした。それが近代になって、artから派生した二義的な意味、「よい技術、美しい技術」(fine art, schöne Kunstなど)がしだいに一義的な意味になりました。明治時代に「リベラル・アート」を翻訳するとき、西周が、『後漢書』5巻に見える「蓺術」の語を当てはめ、日本語訳が「芸術」として成立しました。

 私はことばでのスケッチを続けます。町を山を美術館を歩き回り、歩いた道を記録していきたい。夏のアート散歩の記録、ひとまずここでおひらき。

<おわり>
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夏のおでかけリポート2011年9月

2010-03-28 13:22:00 | 日記
2011/09/14
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>夏のおでかけリポート2011(1)パラサイト&スーパーよさこい

 2007年の夏と2009年の夏は中国で仕事をしたし、2008年の夏は5月の足の親指骨折が治りきっていなくてひとりで歩き回ることは控えました。2010年の夏は博論に行き詰まって、何をするでもないのに気分的に遊びに出ることもままなりませんでしたから、「夏のおでかけリポート」を書くのは5年ぶりのことです。
 5年前2006年のおでかけリポートはこちら
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200608A

 2011年の夏、ようやく出歩く気分になりました。ぐるっとパスで美術館博物館をめぐり歩き、今まで行ったことのなかった美術館、見たことのなかった画家を知って、充実した夏になりました。

 アート散歩以外にも、おもしろい所を訪ねてまわりました。
 8月25日、目黒駅から大鳥神社へ向かう方角にある目黒寄生虫館。これまで名前はよく聞いていたのだけれど、駅からちょっと歩くし、寄生虫、気持ち悪そうだし、積極的に出かけたい所とは思わなかったですが、目黒区美術館へ行ったついでに寄りました。

 1953年 医学博士亀谷了(かめがいさとる1909-2002)が私財を投じて研究機関を設立し、現在まで寄付によって運営維持されているそうです。開設以来入館料無料を続けている、ということなので、財布の小銭を募金箱へ。それから絵はがきを2枚買いました。寄生虫の写真と言わず「これ、最先端の現代アートの作品なの」と言われたら、そう思うような面白い造型です。鯨のお腹に寄生する虫だの、一番長いサナダ虫だの、いろいろ展示してありました。
 寄生虫(パラサイト)ファンという人たちもいます。私が見学しているとき、男子学生のグループがいて、中のひとりはパラサイト好きらしく、仲間に詳しく説明していました。

 宿主は寄生されて悪いことばかりではなく、宿主に利益もあります。たとえば、ヒトの腸内に住む腸内細菌叢(腸内フローラ)も一種の寄生ですが、ヒトの消化を助けたり、悪性細菌の増殖を抑えたりする重要な存在。また、戦後の日本人に花粉症が増えたのは、お腹に寄生虫がいなくなったせいだという説があります。「IgE抗体」は、ヒトの身体の異物を攻撃するのですが、寄生虫がいない人体の場合、杉花粉などを異物として過剰に反応してしまうため、くしゃみや強いかゆみなどの症状が出るそうです。花粉症のつらさに耐えかねて、寄生虫の卵を飲み込み、お腹に飼うことで花粉症症状を軽減した人もいるというニュースを見たことがあります。

 子どもの頃、毎年「検便」というのがあって、とても嫌でした。マッチ箱にウンチを入れて持って行くのが、女の子には恥ずかしい。おしりの穴にセロファンのような粘着ペーパーを当てて行う蟯虫検査というのもありました。
 現代の「清浄野菜」からは想像できないことですが、糞尿が主な肥料だった50~60年前の日本には、お腹に寄生虫がいる子どもが多かったのです。

 検査の結果「寄生虫駆除の必要」なんていう紙をもらった子は、そののちの1年間ずっと落ち込む気分にさせられます。私の母は、学校の健康検査が近づくと、事前に虫下しを子ども達に飲ませたこともありました。「こどもがクラスメートの面前でそんな紙を渡されて恥ずかしい思いをしないように」という配慮だったのでしょう。

 わが家のパラサイトたち。娘はこの夏も趣味の手芸であけくれ、息子は高野山へボランティアに出かけました。高野山のどこだかのお寺で古文書整理の手伝いをしたのだそうです。こちらのパラサイトたちは、虫下し飲んだくらいでは駆除できず、私は一生パラサイトの宿主です。

 8月27日28日、2日間連続で原宿へ出かけ、原宿表参道元氣祭スーパーよさこいを見ました。27日は明治神宮の中にある文化館ステージで。28日は表参道の道路に座ってパレードを見ました。どのチームも気合いが入っていて、練習の成果を十分に発揮していました。
 チーム紹介のとき「私たちは、どちらかといえば脱力系です。まあ、こんなグループも参加できるということで、気楽に見てください」と言うところもあるし、全員プロのダンサーかと思うようなすごい振り付けの踊りをするところもありました。

 10年ほど前、この原宿よさこいがはじまったばかりの頃、小学生くらいだった息子と見にきたときは、三分の一くらいが「脱力系」「ゆる踊り系」でした。それから見るとずいぶん各チームの踊りのレベルが上がっていると思います。振り付けは、盆踊り系のゆるい感じのものから、激しいジャズダンス系のものまで、さまざまです。車椅子に座って踊る人が参加しているグループもありました。
 たいていのグループにおチビダンサーがいるのですが、なかに「この子、天才じゃないか」と思うくらい振りのきれがいい子がいます。観客の目は、かわいらしく動く天才よさこいダンサーに釘付けです。
 
 28日は最後に原宿ステージで審査結果発表まで見ていました。全チームの踊りを見たわけではないのですが、自分が「このチームの踊りはすごい」と思ったところが入賞しているとうれしいです。自分たちが表彰されると思ってもいないのか、入賞したのに、だれも賞状を受け取りに来ないチームもありました。表彰されることより仲間との交流優先で、踊りが終わったらさっさと自分たちの打ち上げに行ってしまったのかもしれません。
 踊ることが好きでたまらないという人たちの参加によって盛り上がるよさこいソーラン。今回も90を超えるチームが参加しました。踊りが終わったあとのビール、うまいだろな。

<つづく>
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2011年09月16日


ぽかぽか春庭「百段階段&333m」
2011/09/16
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>夏のおでかけリポート2011(2)百段階段&333m

 8月29日、息子が高野山に出かけている留守に、娘とのおでかけ。「一日おのぼりさん東京観光」をしました。
 目黒雅叙園のクラブラウンジでランチ。2500円のランチブッフェは「まあ、普通。これがピカイチという食材はなかった」と、娘の評。
 テレビで紹介されていたのを見た、と娘がいう豪華トイレがレストランの隣にあったので、入りました。入り口には螺鈿の壁飾り。天井には絵がはめ込まれ、なんだかきんきらきんのトイレでした。雅叙園のコンセプトは「昭和お大尽の気分を味わう一日」なのですって。私はトイレが豪華なのより、食べ物が豪華な方がいいわ。

 ランチのあと、百段階段という東京都文化財指定になっている昭和の木造建築を見ました。撮影禁止とあったので、正直にカメラはしまい込みましたが、許可を得れば撮影できたらしいです。
 以下、百段階段の紹介サイト。
http://www.nakata-jp.org/photo/gajoen/index.html

 中国の観光客グループといっしょになりました。ガイドが説明し、通訳がお客に中国語で伝えたところによると「この床の間の柱、人の手でなでられています。この柱をなでると幸運を呼び、お金持ちになれるという言い伝えがあるからです」。中国の人はお金持ち大好きなので、かわるがわるなでていました。それでは、と私もなでたら、部屋の番人から「この建物は文化財指定なので、さわってはいけないのです。さきほどの人たちには、私、中国語で注意できないので言えませんでしたが」だそうで、私、中国の人にまぎれて柱をなでておいたので、お金持ちになれるかも。

 今回は、永青文庫改装中の間、細川家伝来の品の一部を雅叙園で展示公開するということでしたが、歴史的な文物は最初の二室だけで、ほとんどは細川護煕の創作陶磁器の展示でした。娘は、唯一知っている細川家の人物であるガラシャの遺物がない、と言って、それ以外の細川のトノサマは、誰がだれやら、とあまり興味なさそうでした。元首相のトノ様は、政界引退以来、優雅に作陶三昧の暮らしのようで、うらやましいこと。

 そのあと、御成門へ。東京タワーに行きました。娘は、小学校のときの遠足以来東京タワーに上ったことがない、と言うので行ってみたのです。東京タワー水族館にも寄りました。6月末に葛西臨海水族館へ行ってきたところだし、サンシャイン水族館がリニューアルされたので行きたいと思っている水族館大好き家族ですが、東京タワーの水族館は「かなりショーモナイ」という話なので、これまで娘は入ったことがありませんでした。でも「東京タワー水族館招待券」が2枚あったので、ついでですから。
 水族館大好き娘は「海水魚は水温管理などがたいへんで飼育がむずかしいから、ここは川魚が中心の展示であるのはしかたないね。でも、思ったほどショーモなくもなかった」と言っていました。

 特別展望台に行ってみました。特別展望台は250m。大展望台は150m。スカイツリーもぼんやり見えました。夜景は、節電の夏なので光量は4割引きになっています。それでも観光客は「きれい!」と写真を撮っていました。娘は「2月に横浜のランドマークタワーで夜景見たときと比べると、やっぱりちょっと貧弱だね。これからしばらくはこうなのかなあ」と、「はじめての東京タワーからの夜景」だったのにと少し残念そう。

 私は4回目の東京タワーです。小学校5年生の東京見物旅行。25歳のとき姉の一家と。50歳のとき小学生の息子と。そして、今回は娘と。この次は何歳になっているかしら、と思います。

 スカイツリーは、展望台料金ひとり3000円という強気なこと言っているので、まあ、当分は行かないでしょう。私は無料の東京都庁展望室からの眺めを楽しむことにします。

<つづく>
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2011年09月17日


ぽかぽか春庭「ダンスィングワカメちゃん」
2011/09/17
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>夏のおでかけリポート2011(3)ダンスィングワカメちゃん

 私の所属しているジャズダンスサークル、1年に1度の発表会、11日に文化センターで行われました。下手でも太めでも、楽しく踊るのがシロートのいいところ。

 私は振り付けを覚えず、前の列の人の動きを見ながら踊るという方針ですが、きちんと振り付けを覚えたい人もいます。発表の曲、コパカバーナに出演する新人のスエちゃんに、「振り付け覚えられないから、以前に発表会のDVDあったら貸してね。ビデオ見て振り付けを確認するから」と頼まれました。去年2010年のではなかったことは記憶しているのですが、はて、どの年の発表曲がコパカバーナだったのかさっぱりと覚えていないのです。2000年から2009年までのDVDをみな早送りでチェックしました。その結果わかったことは、「私は太い!!」

 ま、わかってはいることなのですが、改めてビデオを見てみると、我が体型、見れば見るほどぽっちゃりです。で、2005年のDVDにコパカバーナがあったので、スエちゃんに貸しました。私はコパカバーナを踊っておらず、2005年は監獄ロックを踊っていたので、スエちゃんが私の出演曲を見ることはないだろうからと思って貸しました。

 今年の発表会、練習の最後は、集中講義の日程と重なってたいへんでした。振り付けを覚えず、前の列の動きに半拍おくれでついていくいつものやり方なので、先生に「イーナちゃん、首の向きが違う!」と叱られながらの練習でした。首を横に向けなければならないときも、前列の人の踊りを見ているので、どうしても首は斜め前になってしまい、叱られてしまうのです。

 10時間働いてくたくたになったあとでも、夜練習に行って汗流したほうがストレス解消にはなるのですが、頭は働かず、どうしても動きの流れが脳細胞に定着しません。でも覚えられないことがあるってことが身に染みていると、きのう教えた「トータルフィジカルレスポンス教授法」についても「コロケーションを重視した言語教育」についても、学生がさっぱり覚えてはいないとしても、「ま、そんなもんか」という気になって、精神上よろしい。

 春庭のダンサーネームは、「e-Na」です。e-Mailの「e-」に、「Na形容詞のNa」です。「Na形容詞」というのは日本語教育文法の呼び方で、学校古典文法では「形容動詞」のこと。元気な人、静かな人、きれいな人、など、「な」がつく語が「ナ形容詞」です。頑固な人、強情な人、おバカな人、ダメな人、「ナ形容詞」もさまざまですが。

 サークルでは、コズちゃん、トモちゃん、など、お互いを「ダンサーネーム」で呼び合っています。ダンスをしているときには、日常の「○○ちゃんのお母さん」であったり、「親の介護に疲れている○○」であったりするのを忘れて、ダンサー○○なのです。K子さんは「ダンサー・パラちゃん」でしたが、残念ながら8月で退会し、今回は観客として会場に来てくれました。パラちゃんは、演劇活動のほうを強化していくことにしたのですって。

 私は、「コパカバーナ」のほか、「ペーパームーン」と「インザムード」を踊りました。シャンソン歌手のゆみさん、いっしょに出演したのですが、打ち上げの前にちょこっと話したとき、「イナちゃん、今回は太っているとかぜんぜん気にならなかったよ」と誉めてくれました。あら、これまでは太っていることが大いに気になったのね、とひがんだりせず、今回はそんなに太って見えなかったのだ、と喜びましょう。ゆみさんも私とおっつかっつの体型ですが、そこはプロのシャンソン歌手ですから、本番のときはきっちりと「補正下着を身につけている」のですって。

 文化センターの職員さん、「センター祭打ち合わせ会議」での私の質問や発言が気にさわっていたらしく「あの厳しい口調で発言する人が、同じ人とは思えなかった。踊っているときはお嬢さんに見えました」との感想。お嬢さんとは何歳までを表現して良いのやら、70歳のお嬢様だっているのですが、「とってもかわいいお嬢さんでした」との言葉を素直に受け取りましょう。8月31日に髪を「ワカメちゃん」のようなおかっぱにしたので、かわいらしく見えたのだ、と思うことにします。

 打ち上げは、駅前のイタリアンで。2時間飲み放題で窯焼きピザとスパゲティ、サラダなどで3000円というので、そこは「元とらなきゃ精神」で、生ビール2杯とビーチカクテルを3杯飲みました。去年の11月から節制をはじめて、ほとんどビールも飲んでこなかったので、久しぶりに酔っ払いました。

 自転車で来ている私が帰りに事故にでもあうとたいへんだ、と仲間達はおひらきのあと、コーヒータイムを作って、1時間ほどつきあってくれました。みんなやさしい仲間です。研究熱心でいっしょうけんめいに踊っていた新人スエちゃんは、実は大病をして手術を繰り返してきて、健康維持のためにサークルに参加したのだ、など、それぞれの打ち明け話。
 トモコさんは、10日にサンシャイン劇場での「ファンタジックステージ」というコンサートに合唱団の一員として出演し、11日はダンスの発表会、連続の出演となってとてもたいへんだったけれど、両方とも大成功の公演になってよかった、と言っていました。
 10日のコンサート、私も見に行ったのですが、藤原歌劇団準団員の若手オペラ歌手と合唱団でオペレッタやミュージカルのナンバーを歌い、とても楽しかったです。

 みな、それぞれの身体の調子や家族の問題を抱えながらも、踊ることでストレス発散し体調維持をはかっています。年をとって足が上がらなくなったり、ターンでふらつくのは自然なことですが、その中にも生き生きした身体と心でいられるよう、がんばっていこうね、と言い合っておひらきにしました。

<つづく>
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2011年09月18日


ぽかぽか春庭「恐竜博2011」
2011/09/18
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>夏のおでかけリポート2011(4)恐竜博2011
 
 9月14日、娘息子といっしょに、上野の科学博物館で恐竜博見物してきました。娘は小学校1年生のとき、バザーで恐竜についての解説マンガを100円のこずかいで買って以来、20年越しの恐竜&化石ファン。何はなくとも毎年恐竜展を見にいく一家です。出かける先は、科博だったり幕張メッセだったり、そのときどきの目玉も、翼竜だったり世界最大のティラノの大きさだったり。
 今回の目玉は、「獲物を待ち伏せする姿勢のティラノザウルスの姿の骨格復元」です。
http://www.kahaku.go.jp/exhibitions/ueno/special/2011/dinosaur/index.html

 これまで、体の色や骨の動きが明確ではなかった恐竜について、近年の研究進展がめざましく、骨の動きの研究により、ティラノザウルスの小さな前足は立ち上がるときの重心移動に役立つものであったことがわかったり、トリケラトプスの前足はトカゲやワニのように肘のところで曲げられているのではなく、前足がまっすぐに伸びていることがわかったので、新しい姿での骨格標本が展示されています。また、新たに羽毛恐竜の羽の色がわずかに残されているメラニン色素のコンピュータ解析により解明されました。
 新しい成果が続々出現し、研究者は学会誌などでそれらの研究成果をいち早く知ることができるのでしょうが、わが家のような「単なる恐竜ファン」も、わかりやすい展示によって「へぇ、アンキオルニスの翼はこんな色してたのか」と納得です。

 今回「トリケラトプスを襲うティラノザウルス」の復元CGが上映されていました。ティラノの姿は、背中側半身に獣毛が生えている姿での再現です。ティラノの身体は獣毛とウロコの両方に覆われていたらしいです。
 これまで生きた恐竜をティラノが襲うのかどうか、はっきりとはわかっていなかったのですが、ある化石の出現で解明されました。トリケラトプスの大きな頭部のひれのような部分の化石ににティラノの歯形が残されていたからです。生きているときにティラノザウルスに襲われて傷つき、それが治癒するまで生き残っていたことがはっきりわかったので、ティラノが生きている恐竜を襲った証拠となりました。

 今回、夏休みも終わったあとの平日だったので、そんなに混んではいないだろうと思って水曜日にでかけたのですが、思った以上の混み具合でした。出かけるまで知らなかったのですが、水曜レディス割引きデーだったのです。映画館には水曜日女性割引きが有ることを知っていましたが、科博にもあるとは知りませんでした。今回招待券が手に入らず、1500円はちょい高いんじゃないかい、と思って出かけたのですが、私と娘は女性割引きでひとり1000円、息子は大学が博物館メンバーズになっているので900円。
 ラウンジで「恐竜クッキー」を食べて一休みしてから、常設展示の全天周映画「恐竜」と「宇宙の歴史」を見て,日本館3階の展示も見て、満足の「科博の半日」でした。
 
 帰りは上野駅前のロシア料理店で、ピロシキやボルシチを食べて、これが「わが家の2011年夏の行楽」です。3人分の行楽費が全部で1万円。「遊んできたら、行楽費につかった分から東北復興支援寄付に当てる」という”私ルール”、春の行楽では「使った額と同額」でしたが、夏あたりから「使った額の何割か」になって、今回は恐竜博図録を買うとき寄付金付きトートバッグをいっしょに買いました。トートバック(ちょっとチャチな袋ですが、恐竜の絵が描かれている)の400円のうち100円は復興寄付金で、博物館からまとめて寄付されるそうです。

 1万円のうちの100円だと1%の寄付にしかなっていませんけれど、危険が指摘されていたのを無視して対策をとらなかった自社の怠慢を棚に上げて、フクシマ復興費に当てるために電気料金15%値上げ、ただし、社員の給与5%カットは3年で終了する、という、開いた口もふさがらないような復興対策を打ち出した東電に比べたら、ずっとマシでしょ。わが家、「楽しく遊んでチョッピリ寄付」を末永く続けるつもりです。

<つづく>
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2011年09月20日


ぽかぽか春庭「打楽器コンサート&パンダ見物」
2011/09/20
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011>夏のおでかけリポート2011(6)打楽器コンサート&パンダ見物

 9月15日、午前中は出講先での講師会議。文科省の予算がますます減ってきて、留学生数も減少という、留学生センター状況の説明などを受けました。とりあえず、今期は私の受け持ちは変わりなし。12時半までクラス担当教師の打ち合わせ。
 お昼ごはんも食べずに上野へ向かいました。上野の奏楽堂で芸大生による打楽器コンサートがあるので、14時の開演に間に合うよう、大急ぎだったのです。

 おなかはすいたけれど、開演10分前に奏楽堂の一番前の席に座りました。テレビなどで吉原すみれの演奏などは聴いてきたけれど、生で打楽器だけのコンサートを聞くのは初めてでした。
 芸大打楽器科の学部生と院生による打楽器演奏会。トムトム、コンガ&ボンゴ、カウベル、ギロ、マラカスなどをつかった軽快なリズムの曲が2曲。続いて、マリンバの曲。いろいろある楽器の中で、マリンバ大好きです。小学校の音楽部で私の担当楽器がマリンバでした。中学校ではアコーディオンになったのですが、今でも練習してみたいのは、ピアノとマリンバです。

 フレクサトーンというはじめて聞く打楽器の演奏もありました。とてもおもしろい音の響き。金属板をマレットで叩いたり弓でこすったりして音を出します。金属板を曲げることで音程が変わります。
 youtyubeの演奏でフレクサトーンという楽器の音色はおよそわかるのですが、私が聞いた坪能克裕の作曲の「フレクサトーン四重奏」はもっとメリハリがあって楽しい曲でした。
http://www.youtube.com/watch?v=ACyXnZEJ-U8&feature=related

 おなじみの2台のマリンバでの「クマンバチの飛行」、ルロイ・アンダーソンのシンコぺーティドクロックやタイプライター、そりすべりなどのおなじみの曲、とても楽しいコンサートでした。

 17日土曜日は、葛西臨海水族園と上野動物園をはしごしました。ぐるっとパスの入場券があるのでと思って水族園へ行ったら、敬老の日記念に60歳以上は1週間無料と掲示があり、そんなら動物園も無料だと思って、水族園はひとまわりしただけで、動物園へ。
 上野のパンダ見物は、夏休みあたりでも、1時間待ちとか2時間待ちという話があったので、9月の3連休の初日、どんなもんだろうと覗いてみると、行列というほどのものではなく、すぐにパンダ舎に入れました。

 3時半ころ。ちょうどパンダの夕食タイム。シンシン(真真)はおすわりして竹をむしゃむしゃ食べていました。係員は「写真はフラッシュ禁止。立ち止まらず、シンシン一枚、リーリー(力力)1枚撮ったら出口へ移動して下さい」と叫んでいます。シンシンは食べる姿がかわいかったですが、リーリーはもう食べ飽きたらしく、「たれパンダ」をやっていました。台にもたれて、グテ~ッとたれているのです。たれパンダはキャラクターであって、ほんとうにこんなふうにたれているとは思いませんでした。
 これまではパンダを見たと言っても、ほとんど昼間の見物だったので、こんなふうに食事したり歩き回ったりするパンダを見るのは久しぶりのことです。たれているのは初めて。

 一度出口へ出て、もう一度入り口へ。また、「立ち止まらないでください」という係員の大声を聞きながら、「大人用うしろの通路」を通過。子ども連れは前列で、よい角度で写真を撮れますが、大人おひとり様なので、前列には行けず、後列に並ぶチビの私は、前列の大人の頭がじゃまになってなかなかいい角度では撮れません。リーリーは、もうたれずに歩き回っていました。

 タケノコを食べる上野動物園のパンダ、リーリー
http://www.youtube.com/watch?v=eezTne-wraw

 池の中にできた「アイアイのすむ森」「レムールの森」を通って、マダガスカルに住むワオキツネザルやアイアイも見て、 西園でカバが大口あけているところを写真に撮りました。

 上野駅公園口から台東区のコミュニティバス「めぐりん」を利用して(100円)で浅草へ。「秋の野菜天丼」千円を食べて、浅草寺にお参りして帰りました。夜に来たことがなかったので、五重塔や本堂のライトアップをはじめて見ました。
 おひとり様でも楽しい東京見物。大人の遠足、まだまだ続く。

<つづく>
02:11 コメント(3) ページのトップへ
2011年09月21日


ぽかぽか春庭「ブルーライト横浜たそがれ」
2011/09/21
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011>夏のおでかけリポート2011(7)ブルーライト横浜たそがれ

 9月19日は、敬老の日の姑訪問を予定していました。けれど、姑が「21日に先日の病院検査結果を聞きに行きたいから、結果を知って落ち着いてからのほうがいい」というので、敬老訪問は延期。私は21日は仕事なので病院へは同行できず、夫と娘がおばあちゃんの付き添いをすることになりました。よって、私の予定、19日がぽっかり空きました。

 そこで「夏休み大人の遠足東京めぐり」の拡大版、横浜まで足を伸ばしてみることにしました。朝早く家を出て、みなとみらい線でまず横浜中華街駅へ。19日は真夏のような暑さでした。ハマの太陽、遠慮もなく照りつける。
 山下公園では、ビッグイベント、横浜トライアスロンが行われています。「今は女子選手のランです」という案内ボランティアの話でしたが、本日の私のメインイベントは「西洋館&安野光雅」なので、港の見える丘公園へ。
 急な階段を上り、途中で元のフランス領事館の廃墟や井戸を見て、ちょっと一休み。
 
 10時開館と同時に大佛次郎記念館へ。私にとっては、大佛は『天皇の世紀』や『パリ燃ゆ』の作家。『赤穂浪士』はテレビで長谷川一夫が「おのおのがた」と言っていたのは覚えているけれど、原作読んだこと無し。大佛を一番身近に感じるのは、大佛次郎賞に傑出した作品が多くあることくらいかな。

 建物は、1978年度の神奈川県下建築コンクール最優秀賞や第20回建築業協会賞などを受賞したということで、港の見える丘公園周辺の西洋館とも調和している感じでした。
 猫が好きで、猫グッズを集めていたということで、記念館の中には猫グッズがたくさんありました。階段ロビーにある照明ランプの上にもひとつひとつ猫が座っています。写真を撮っていたら、係の人が「電気つけるともっとランプがきれいなんですが、節電なので。でも、写真とる間だけちょっとつけましょう」と言って、数分だけ点灯してくれました。
 隣の神奈川近代文学館で「安野光雅とアンデルセン」展を見ました。

 イギリス館と山手111号館も見学しました。明治の開港以後、外国人居留地など、横浜は西洋館が多く建てられた土地。外観もしゃれていますが、当時の日本人からみたら、キッチンや風呂場などもずいぶんとモダンで別世界のように思えたろうなあ。山手公園から港の見える丘公園周辺には、近代西洋館がたくさん残されています。

 今、私の専攻は「社会文化」「言語文化」ですが、そのほか興味を持っている「文化資源学」の面からも横浜はとても興味深い町です。文化資源学とは、有形無形の文化を調査発掘再評価記録・保存しようという学問です。一般には世界遺産や国宝・重文級の文化に注目が集まりますが、日常の暮らしの中に埋もれ、あまり注目されることのなかった事柄を新たな目で発見することが重要です。これまでの民俗学、観光学などが行ってきた研究にあらたな視野から知見を加えていくこともできます。

 文化資源学の立場から言うと、「鎮守の森」の保存を訴えた南方熊楠や、全国の漁民常民文化を記録した宮本常一は偉大な先駆者ですし、先日ユネスコの世界記憶遺産に登録された炭鉱記録画家、山本作兵衛(1892-1984)の仕事、すばらしいものです。
 この夏、富岡製糸場を訪問されたとき、皇后が「よくぞ残して置いてくれました」という感想を伝えた、というニュースを見ました。古いものを捨て去り、より新しくより経済的生産的なものに換えていくのが20世紀でしたが、21世紀も10年過ぎ「人類の遺産はみんなの宝物」という考え方が一般にも浸透してきました。

 次は氷川丸見学。ものすごく久しぶりに乗船したのだけれど、ささっと見て回る。こちらも、すでに航海はできなくなった老船を観光資源として残したもの。今回の「ささっと見学で一番印象に残ったのは、氷川丸の重要な積み荷であった「輸出用絹の梱包」の展示。梱包用のアンペラは今では使われなくなっているため、当時の梱包材が現存していることは貴重、と解説が書かれていました。アンペラ藺(い)は、カヤツリグサ科の多年草(インド・マレー地方原産)で、行李やムシロを編みました。絹は大事な輸出品だったので、大切に梱包されて船で運ばれました。

 西洋館、氷川丸をまわって、一番横浜観光っぽい見学場所として、シーバスに乗ることにしました。横浜駅東口まで700円。
 そごうデパートの美術館で安野光雅展に寄ってから、桜木町駅へバスで。日が落ちてからランドマークタワー夜景、という「おのぼりさんコース」を満喫しました。

 私の世代には、横浜といえば、ブルーライト横浜、とか横浜たそがれ。鼻歌気分で夜景を楽しみ、デート中のカップルが多い中、おひとり様の遠足を割り込ませて、夜景の写真など撮りました。カップルの男性が「今日は敬老の日で無料だから、いつもよりジーサンバーサンが多いなあ」と言っていました。65歳以上は無料だけど、すみませんねぇ、まだ敬老にもなっていないのに、あんた達のなかにひとりで割り込んでしまって。ふん、いつまでも若いと思うなよ。横浜のたそがれは早い。「秋の日はつるべ落とし」な~ん言ったところで、「つるべ」も絶滅危惧語で若い人には通じない、とたそがれてみました。

<つづく>

2011/09/24
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011>夏のおでかけリポート2011(9)秋分の日下町散歩

 街歩きを続けています。秋分の日、23日は下町へ。水天宮からヤマサ醤油が建てたミユゼ濱口陽三ヤマサコレクションをちらりと見てから隅田川大橋へ。上流の清洲橋と下流の永代橋を見るのにとてもいい。
 清洲橋の真ん中からスカイツリーが見える構図で写真を一枚。船宿の屋形船も画面に入れて、いい感じ。

 仙台堀川にかかる清澄橋を渡りました。このあたりは、運河が縦横に走っている地域。江戸時代は運河が江戸交通の要だったのだけれど、中心部の運河の多くは埋め立てられてしまいました。うちの団地の裏道も元は掘でした。かっては、船が入ってきていた所だったのですが、今は地名に「掘」という文字が残されているのみ。

 下町は開発が遅れたおかげで、掘や橋が残っていて、「橋巡り」が大好きな私にとっては絶好のロケーション。今回は行かなかったのですが、私の好きな橋のひとつに八幡橋があります。赤いきれいな橋で、日本最古の鉄橋のひとつ、重要文化財です。富岡八幡宮の南にありますが、この橋がかかっていた八幡堀も現在は埋め立てられて遊歩道になっています。したがって、橋は川にかかるのではなく、遊歩道を跨いでいます。

 清澄橋から江戸深川資料館へ行こうとしていたのですが、ポストがあったので、青い鳥通信を投函。すると、女の人が「すみません、ボールペン持っていたら貸して」と言ってきました。「封筒に御中って書くのを忘れちゃって」と言うのです。ボールペンを貸したついでに「清澄公園って、こっちの方向でいいんですよね」とたずねました。清澄公園を通り抜けた先に江戸深川資料館があるはずです。

 私は地図を見ながら迷ってしまう方向音痴、近所の人に尋ねる方が、地図を見て「こっちだ」と思って歩き出すより確実です。先日もミサイルママの息子が出演している劇を見に行こうとして、1時間もぐるぐる地図を見ながら迷いました。
 女の人は「ええ、あそこを左に曲がるの」と、曲がり角までいっしょに歩いてくれました。あらま、私が地図を見て行こうとしていた方向と違っていました。ボールペン貸してよかった。

 女の人は歩きながら「今日2時からボランティアガイドが清澄庭園の説明をしますよ」と教えてくれました。それで江戸深川資料館ではなく清澄庭園へ行くことにしました。清澄公園に入ったことはあるのですが、清澄庭園は入ったことなかった。有料だから。でも、料金表を見たら有料といっても150円でした。

 女の人が言っていた通り、正門の中にボランティアガイドさんが待機していました。10人ほど人が集まってところでガイドツアー第1陣が出発。第1陣担当ガイドさんは、は定年退職したあと生き甲斐を求めてボランティアをしているとおぼしきロマンスグレー紳士。「神長です」と自己紹介していました。残念ながら声が小さい。すぐ目の前にいる人にしか説明が聞こえず、うしろの方に立っていると耳が遠くなっている私には聞こえない。私の後ろにいたおばさん二人組は「声ちいさいから、ガイドツアー第2陣のほうにしようか」と、こそこそ言っていたのですが、最後までいっしょでした。

 清澄庭園の来歴や、庭園内の見所をファイルを見ながら説明してくれました。3.11の地震のため、庭内の石灯籠などで倒れてしまった箇所がたくさんあり、危険もあるので気をつけて歩いて下さい、とのこと。庭内に集められた日本各地からの名石について、佐渡の赤石、伊予の青石などの説明がありました。ガイドさんは、「春には桜が、梅雨時には菖蒲が見頃になり、11月には紅葉がきれいなんですけれど、今時が一番園内に彩りがなくて」と言っていましたが、ところどころに赤い曼珠沙華が咲いています。

 清澄庭園の来歴。もと、ここには元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったのだけれど、文左衛門はお取りつぶしになり、江戸中期以後には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷。明治になって三菱財閥を築いた岩崎弥太郎のものに。三菱三代目の岩崎久弥から東京市に寄付され公園となりました。貞明皇后の葬場殿の材料を使った大正記念館とか、1909(明治42)年に建てられた数寄屋造りの涼亭などの建物の説明もありました。

 帰りは、地下鉄の清澄白河駅へ行こうとしてまた間違えた。花屋の奥さんに教えてもらいました。下町の人はみな親切です。この次はもっとゆっくり下町橋巡りをしたいです。

 群馬の大詩人萩原朔太郎は「大渡橋」など、故郷の橋を描いた詩があり、前橋文学館前の橋は「朔太郎橋」と命名されています。鉄橋を題材にした詩。

「鐵橋橋下」 萩原朔太郎
人のにくしといふことば/われの哀しといふことば/きのふ始めておぼえけり
この市(まち)の人なになれば/われを指さしあざけるか
生れしものはてんねんに/そのさびしさを守るのみ
母のいかりの烈しき日/あやしくさけび哀しみて/鐵橋の下を歩むなり
夕日にそむきわれひとり
(滯郷哀語篇より)

今朝、toliton717さんのところにおじゃましたら、竹内まりやの「人生の扉」が紹介されていました。そこで、私は故郷の橋と宿場町が紹介されているバージョンをお届けします。
http://www.youtube.com/watch?v=hgTJUOvrYiY&feature=related

<つづく>
00:41 コメント(2) ページのトップへ

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夏の映画日記2011年9月

2010-03-26 06:18:00 | 映画演劇舞踊
2011年09月25日


ぽかぽか春庭「キッズオールライト」
2011/09/25
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011>夏のお楽しみ日記(1)キッズオールライト

 夏休みのあいだ、ビデオでとっておいた映画や舞台中継の録画を見たり、映画館出かけたり、映画三昧というほどではないのですが、この3年間に比べればかなりの本数を見ました。
 劇場中継の再録。「墨東綺譚」「にごり江」「放浪記」など。劇場チケットは高いので、テレビ録画で見るしかないけれど、舞台はやはり生で見たいと思います。

 映画の録画は、BSでやっている「山田洋次監督が選んだ日本の名作百選」が中心です。名作を百作選ぶとして、選出基準は人により様々でしょうが、これまでに見逃していた映画もたくさん放映され、これまで何度も見た映画をもう一度みるのも、名作であるという評判を知っていても見たことがなかった作品も、新鮮な気持ちで見ることができました。

 私は機械操作が苦手で、ビデオの録画予約も娘息子にいちいち頼むので、頼むのを忘れてしまったり、タブロクできないビデオなので「こっちのドラマを録画するから、この映画は録画できない」と、テレビチャンネル権を主張する娘に却下されてしまったり、見逃した映画も何本か。ジュディ・ガーランドの「オズの魔法使い」とか、アンソニー・クインの「その男ゾルバ」など、何度か見ているのだけれど、もう一度見たいと思っていたのに、録画できなかったのもたくさんあります。

 録画して見ることができたのは、「雨月物語」「乳母車」「狂った果実」「めし」「煙突の見える場所」「名もなく貧しく美しく」「若者たち」「にごりえ」「浮雲」「ウホッホ探険隊」「午後の遺言状」「男と女」「サウンドオブミュージック」「若草の燃える頃」など。

 飯田橋ギンレイホールは、夫の事務所の「福利厚生用」の映画カードがあるので、毎月4本は見にいきます。この夏の上映作品、ソフィア・コッポラ2010「SOMEWHERE」、イギリス マイケル・アプテッド2006「アメイジング・グレイス」、ファティ・アキン2009 「ソウル・キッチン」、マーク・ロマネク2010「わたしを離さないで」、ハル・アシュビー1971「ハロルドとモード 少年は虹を渡る」、ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン2010 「トゥルー・グリット」、大森一樹 2010 「津軽百年食堂」、大森立嗣2010「まほろ駅前多田便利軒」、リサ・チョロデンコ「キッズ・オールライト」、周防正行2010「ダンシングチャップリン」などを見ました。

 「津軽百年食堂」、ご当地観光映画としても、もうちょっと何とかならんかったのか。景色はきれいですし、オリエンタルラジオの中田敦彦・藤森慎吾もけっこうがんばっていたのですけれど。蕎麦屋も写真館も「オヤジの跡を継いで地元産業復興にかける若者像」という「ラストのクレジットにずらりと居並ぶ、議員さんだの地元有力者たちには大受け」のストーリーが、あまりにも出来合いっぽい。

 「キッズオールライト」ママがふたりと息子と娘の家庭というので期待して見たのだけれど、ママふたりは完全に夫役割(女医)と妻役割(仕事を始めたがっている専業主婦)を分担していて、従来の家庭争議と何ら変わりなくて、これじゃ家庭というのは男女であっても女女であっても、役割分担を持つ家庭である以上同じような問題を抱えてしまうもんなんだなあという感想しか持てない。夫役割の女医さんは、自分の稼ぎで一家を支えていることに誇りを持ち、家庭内を支配したがるし、妻役割は専業主婦であることに飽きたらず、自己表現&浮気をしたがる。ジュリアン・ムーアの浮気シーンも色っぽくなくて、「仕事をして自立したいのを夫(役割)に押さえ込められている不満」の発散にしか見えないので、さて、これじゃ、浮気を反省してモトサヤに収まるのだろうと思っているとそうなるし。

 「キッズオールライト」、「ママふたり」の家庭を「ごくフツウ」に受け止めて素直に育った子どもふたり。成長過程での葛藤はまったくなかったように描かれているのだけれど、本当にアメリカ西海岸では、「ママふたり家庭」がごく普通に受け止められているのかしら。日本だとたちまちイジメに遭いそうだ。ちょっとでも「フツー」と変わっているとイジメの対象になっちまう。フクシマから転校してきた子に、「ホウシャノー」というあだ名をつけていじめるという国ですから。

 18歳までにひたすら勉強に打ち込んできて一流大学に入学する娘ジョニ(ミア・ワシコウスカ)。アメリカ西海岸に暮らしていながら高校卒業までステディボーイフレンドなしにすごしたというのは、ママふたりという家庭の「せい」か「おかげ」か。ママふたりとも、息子が親友と「もうヤッタのかどうか」を気にしているくせに、娘が「まだ」なのをまったく気にしていないのは、どうなん?

 「女・女」のカップルが築いた家庭でも、専業主婦の自己確立志向と子どもの自立志望が重なると、同じような問題が起こる。アイデンティティ確立期に「生物学上の父親探し」したくなる子どもの気持ちは当然のこと。そこからひと悶着が起こる。セックスフレンドと楽しくその日を暮らしていればよかった精子ドナー父が、子どもと過ごしたくなってしまい、女医ママは彼が家庭に入り込むことに拒否反応を起こす。逆に主婦ママは彼と意気投合してしまう。
 アメリカ映画は、「パートナーがどちらも自立し、かつ支え合う」という家庭を描いても受けないのかと思う。あるいは、「女・女」の家庭生活をフツウに描くには、フツウの家庭で起きる問題という体裁をとるのが一番受け入れられやすいスタイルだったのか。フェミニストたちの受けはどうだったのだろうか。

 映画の中で、女医ママ&主婦ママがベッドで「男&男カップルポルノ」を見ていることが息子にばれてしまったときのいいわけ「女女カップルのポルノを演じているのはストレートのAV女優のことが多くてウソッポいから興奮できない」
 じゃ、この映画を見て本当のレズビアンカップルは「ウォーレン・ベイティと結婚しているアネット・ベニングやバート・フレインドリッチと結婚しているジュリアン・ムーアがレズビアン演じてもうそっぽい」と感じたかどうか。ストレートの私からみると日常生活での演技はとてもよかったと思うのだけれど、ベッドシーンはうそっぽかった。

<つづく>

07:33 コメント(4) ページのトップへ
2011年09月27日


ぽかぽか春庭「キッド・子役のあれこれ」
2011/09/27
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011>夏のお楽しみ日記(2)キッド・子役のあれこれ

 「キッズオールライト」の息子15歳を演じたジョシュ・ハッチャーソンは、4歳から映画出演をしている、いわゆる「子役あがり」。「キッズオールライト」出演時には18歳だけれど、順調に「大人の俳優」へ移行していくように思います。リバーフェニックス早死に以後、子役の成長管理は徹底するようになっている。

 「わたしを離さないで」、ロケはきれいだったし、これはこれでとてもよい映画だったと思うけれど、原作を読んでから映画を見ると物足りなさが残る。子ども時代の分が大幅にカットされているせい。そりゃ、子役よりはキャリー・マリガンやキーラ・ナイトレイが大半を占めないと映画が売れないだろうから仕方ないけれど、映画を見てから原作を読んだほうが不満が残らずすんだかと思います。

 その点、「トゥルー・グリット」は映画出演時14歳のヘイリー・スタインフェルドや、「サムフェア」に出演時12歳のエル・ファニング、がんばっていた。
 エル・ファニング、6歳のとき英語版「となりのトトロ・ディズニー板」のメイの声を吹き替えたの、かわいい。サツキ役の姉のダコタ・ファニングといっしょに吹き替えをしているメイキングyoutube。
http://www.youtube.com/watch?v=FcMwpNidCYM

 スピルバークも「子役への演出」が気にいったという『泥の河』の子役、朝原靖貴(信雄)桜井稔(喜一)柴田真生子 (銀子)の3人は、成長してから役者にならなかったようだけれど、この映画が成功した第一の要因は子役がよかったことでしょう。
 今年見て来たドラマ、子役におんぶにだっこの内容が多かった。どの子も役者続ける気があるなら大事に育ててほしい。

 「ダンシングチャップリン」併映の「キッド」「犬の生活」も見ました。「キッド」、子役、達者やなあ、という思うのは前に感じたのと同じ。キッド役のジャッキー・クーガン、出演時7歳。8歳のときは週給2万ドル。(当時と物価価値が違うけれど、現在の日本円への単純変換でも年収1億円くらいか)しかし母親とその再婚相手に収入の全てを浪費されてしまい、大人になったときには何も残されていなかったことで、親を提訴。それ以後、アメリカでは子役の収入を成長後の子どものために管理するクーガン法という法律ができた。

 『キッド』、前に見たときと異なる感想もありました。前は「夢の天使」ドタバタシーンは無駄なんじゃないかと思いましたが、今回、これは「夢のような天国、天使のような極楽」が、実は殴り合いあり天使の羽もぼろぼろになるような、天国は天国じゃないことの風刺として必要なのだろうと思いました。
 これがあるから、キッドとともに迎え入れられる豪邸のドアも、実は天国のような地獄かも知れず、単なるハッピーエンドではなくなる。ハッピーエンドを好むアメリカ人観客のためには「金持ちの実母と出会えて良かったね」というラストシーンで終わり、そうでない観客には、天使の羽もボロボロになるかもしれないという地獄へと反転する可能性を持たせるためには、必要なシーンだったのだと遅まきながら感じた次第。

 天使たちのドタバタ、チャップリンに未来を予測する予知能力があったとすれば、誘惑してくる天使リタ・グレイが、やがて彼を地獄に落とすことを暗示するシーンでした。
 実生活のチャップリンは「美少女趣味」で、10代美少女との恋愛&結婚を4度繰り返した。「キッド、夢の天使」シーンで彼を誘惑する天使役のリタ・グレイとも、結婚と泥沼離婚裁判という地獄を経験しています。

 リタ・グレイが出版した暴露本の中に、裁判所に提出した公式文書として「彼はフェ○○オを強要した」という記録があり、当時このラテン語の意味が知られていなかったアメリカ社会で、ラテン語辞書が品切れになる騒ぎだったとか。おかげで、元はラテン語で英語経由のこの語、日本語外来語として片仮名で書いてもみな意味がわかるようになったというわけ。えっ、意味がわからない、ですって。ラテン語の語源は「吸う」という意味の動詞 fellareですよ。お勉強なさい!
 と、思わぬ所でラテン語の復習もできて、お得な春庭映画談義。

<つづく>
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2011年09月28日


ぽかぽか春庭「ダンシングチャップリン」
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011>夏のお楽しみ日記(3)ダンシングチャップリン

 9月22日は、ミサイルママといっしょに周防正行「ダンシングチャップリン」を見ました。
 96年の「Shall we ダンス?」で草刈民代と結ばれてから早15年。監督が、妻を生かす企画として選んだのが、フランスのローラン・プティがチャップリンを題材にして振り付けた「ダンシング・チャップリン(バレエ原題:「Charlot Danse avec Nous(チャップリンと踊ろう)」。

 1991年の初演から主役のチャップリンを踊ってきたのは、ルイジ・ボニーノ。彼が60歳になり、肉体的に衰えないうちに映像に残したいと考え、監督が自分自身の「バレエ入門」というコンセプトで撮影したのだという。
 第一幕はリハーサル風景。ダンサーたちの舞台裏60日間の記録。入念な準備運動やリフトへのダメ出し、演技への討論など。第二幕は、プティの「ダンシング・チャップリン」全20演目のうち13演目を監督が映画のために再構成・演出・撮影したもの。

 監督はローラン・プチに「警官たちのダンスは公園で撮りたい」と提案したのだけれど、老振り付け師は「全部スタジオで撮らなければダメ」と拒否。「舞台中継のように撮るのだけは避けたい」という監督もお手上げ状態。
 どのようにプチを説得したのかは第一幕で語られていなかったけれど、結果、公園でとった警官達のダンスが一番いきいきした踊りに感じられました。プチはパソコンでラッシュを見て涙をぬぐっていましたから、OKが出たと言うことでしょう。

 すでに舞台ではバレリーナを引退し、女優業に専念することになった草刈民代ですが、『ダンシング・チャップリン』では、『街の灯』の盲目の花売り娘、『キッド』のキッド役など、7役をバレーダンサーとして演じました。
 草刈はこの映画が「私のラストダンス」というのだけれど、マーゴ・フォンテーンは58歳で引退するまで踊り続けたし、森下洋子も現在63歳で現役ダンサー。それを思えば、あと10年はいける気がするのだけれど。バレエダンサーは激しい肉体消耗の仕事だから、46歳でバレリーナ引退というのも仕方ないのでしょう。
 私とミサイルママは「80歳まで踊り続けようね」と誓い合っているのだけれど。

 監督は、さすがにバレエシーンでは草刈を美しく撮っている。そして、リハーサル部分では、たくましく強くかしこい妻の姿も映し出していて、「うふふ、監督、妻にベタ惚れですなぁ」という感じでした。
 「黄金狂時代」のバーで踊る女、「キッド」の男の子役、「街の灯り」の花売り娘役、どれも魅力的な草刈民代でした。

 チャップリン役のルイージ・ボニーノはこの役を初演以来170回以上演じていると第一幕リハーサル風景の中で草刈が紹介している通り、達者な動き。「チャップリンの物まねは避けたい」というボニーノですが、チャップリンの「微笑みと一粒の涙」を身体と表情で表現していたと思います。

 後期授業がはじまって、映画を見る時間も無くなってきましたが、10月は『軽蔑』11月は『ブラックスワン』を見る予定です。

<つづく>

2011/09/30
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011>夏のお楽しみ日記(4)映画「小学1年生」

 岩波ホールで「おじいさんと草原の小学校(原題:The First Grader小学1年生)」、を見ました。
 この映画は、ギネスブックにも掲載されて世界中で話題になった80代で小学校に入学したケニア片田舎のおじいさん、キマニ・ンガンガ・マルゲKimani Ng'ang'a Marugeの実話をもとにしています。
 2005年9月に、マルゲは国連ミレニアム・サミットで初等教育無料化の重要性を訴えるためにニューヨークで演説しました。

 84歳の小学生キマニ・マルゲの姿を伝えるニュース番組。
http://www.youtube.com/watch?v=z1RcBZSS9oI&feature=related

 夫が「実際のケニアとは違う気がしたけど」と、見て来た感想を述べていたのですが、パンフレットを買って確かめたところ、ロケ地は南アフリカでした。映画が撮影された頃、主人公マルゲが通っていた小学校のあるエルドレッド近辺は、部族の対立が大きくなり、映画ロケ地としては適切ではなかったからだろうと思います。実在のマルゲも、部族対立の選挙暴動により資産を失ってしまったそうです。

 映画は実話とはだいぶ話が違っていて、よりドラマチックに仕立てられている分、ケニアの現実から見ると不自然な部分もありました。でも、実話とは別のドラマと思えばよし。いい映画でした。

 実際には、ケニアでマルゲおじいさんがあれだけ英語が話せたのなら、マウマウ団(ケニア独立運動の一団)であったことへの補償について全く知らずに80歳まですごすことは難しいだろうと思います。戦地から帰って田舎で孤独に暮らす日本のおじいさんが、軍人年金受領について全く知らずに生きて行くことが難しいのと同じことです。ケニアの人たち、隣近所や一族での助け合い精神が旺盛なので、いくらマルゲが孤独に暮らす独り者だったとしても、マウマウ団の戦士に補償金が出ていたことを、彼に知らせないってことはないからです。
 まあ、そこは英国映画であってケニア映画でないのでしかたありません。

 実在のマルゲは孫30人がいたのですが、映画では白人に妻を虐殺されたのち、生涯孤独な生活をおくったように描かれていたし、マルゲの担任の先生はとっても美人。パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズで占い師ティア・ダルマを演じたナオミ・ハリス。

 映画の公式サイト
http://84-guinness.com/

 映画では、マルゲおじいさんはちゃんと通じる英語を話し、英語圏観客用にスワヒリ語部分に英語の字幕をつけるところは最小限におさえてありました。(欧米の客は字幕を読む映画に慣れていなくて、外国語映画のほとんどは吹き替え板になる)。

 見ていてわかったことのひとつ。私はスワヒリ語をすっかり忘れていて、理解できるのは挨拶程度であり、映画のスワヒリ語会話の部分、字幕を見ないとまったく理解できませんでした。日頃、「私は英語は下手ですが、スワヒリ語ができます」と留学生に言っていて、「私の英語は、スワヒリ語なまりのブロークンイングリッシュ」と言い訳していたのに、スワヒリ語もまったくダメなことがわかって、これからブロークンイングリッシュの言い訳をどうしようか。

<おわり>

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絵本の世界2011年10月

2010-03-23 11:54:00 | 日記
2011/10/15
ぽかぽか春庭@アート散歩>絵本の世界(1)いわさきちひろ美術館

 夏のアート散歩、暑さの中、巡りめぐった美術館のひとつがいわさきちひろ美術館です。これまで見たいと思いつつ、駅から遠いのでなかなか足が向きませんでした。
 ちひろさんと松本善明一家が住んでいた住宅兼アトリエをそのまま美術館に改装したもので、こちらはこじんまりした美術館。長野の安曇野にもうひとつ大きな美術館もあり、どちらも変わらぬ愛好者を集めています。
http://www.chihiro.jp/tokyo/

 いわさきちひろの描く絵本、これまでたくさん見て来ました。これまで美術館に原画を見にこなかったのは、駅から遠い、ということのほか、「絵本の原画」を見て、絵本を見たとき以上の感激や発見があるのは少なかった、というこれまでの感想があったからです。 絵本の原画、大きさや色彩など印刷過程で原画からまったく変わってしまうということはあまりないように思います。油絵の場合、印刷されたものと原画のイメージが異なることが多いですけれど。

 たとえば、私が持っている『あかちゃん』という絵本を見ていたときの印象と、原画を比べて、印象が変わることはありませんでした。あえて言えば、「これが、いわさきちひろが絵筆を動かした原画なのだ」と思えるところが重要なのでしょうけれど、美術館に展示されていた絵は、原画保存の意味から、ほとんどは「コロタイプ印刷による複製画」でした。いわさきちひろの原画の多くは、戦後盛んに使用された酸性紙が用いられており、劣化が早いと推測されています。劣化しない中性紙がスケッチブックなどに用いられるようになったのは、いわさきちひろ死後のことなのです。
 劣化予防のため、原画展示は極力さける方針なのだそうです。

 いわさきちひろの絵、印刷された絵本と原画が大きくイメージが変わることはありませんでした。とてもやさしい雰囲気の花の絵や子どもの絵。だれでも、見ているとふんわりと穏やかなやさしい気持ちになってきます。

 いわさきちひろ美術館の別室展示は瀬川康男の絵本原画、遺作展でした。瀬川康男は、2010年2月、77歳で亡くなりました。
 http://www.chihiro.jp/tokyo/museum/schedule/2011/0106_0000.html

 松谷みよ子の文と瀬川の挿絵による『いいおかお』『いないいないばあ』『もうねんね』は、娘に最初に読み聞かせをしたなつかしい絵本です。
 展示室には、「かっぱかぞえうた」ほかの展示もあり、はじめて見る絵も多かったです。

 練馬の住宅街。静かな美術館で、ちひろさんのアトリエが再現されているコーナーもありました。ああ、ここでちひろさんが絵筆を動かし、たくさんのやさしい子どもの姿や草花が描かれたのだなあと、感慨深く見て来ました。

 美術館の中のカフェで紅茶とチーズケーキをいただき、絵はがき20枚セットを買いました。いろんなところに出かけて、「青い鳥ちるちるさんに送りたい絵はがき」を選ぶのも楽しみのひとつです。ちるちるさんに送った「10月のハガキ」の中の1枚は、ちひろの絵はがき。秋の野原に咲く草花のなかで子ども達が遊んでいる絵です。

 この美術館でゆったりすごすことで、ほっと一息できるようなよい時間を過ごすことができました。

<つづく>
07:48 コメント(1) ページのトップへ
2011年10月16日


ぽかぽか春庭「安野光雅展」
2011/10/16
ぽかぽか春庭@アート散歩>絵本の世界(2)安野光雅展

 9月の横浜散歩、19日敬老の日に、ふたつの展覧会をはしご。神奈川近代文学館とそごう横浜店の両方で安野光雅展を見ました。
 安野のふるさと津和野に安野光雅美術館ができて10周年の記念企画です。

 近代文学館は「安野光雅展アンデルセンと旅して」というタイトルで、アンデルセン童話の世界を描いた挿絵を中心に、童話「マッチ売りの少女」と「影法師」をもとにした創作絵本『かげぼうし』や、デンマークを舞台にした『旅の絵本Ⅵ』などの原画が展示されていました。
http://www.kanabun.or.jp/te0166.html

 横浜そごうは、「安野光雅の絵本展」
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/11/0917_anno/index.html

 絵本と原画の両方が展示され、絵を見て歩くのも、椅子に座って絵本を見るのもできます。特に、銀紙を貼った丸い筒に写して絵を見ると形がわかる仕掛けになっている絵は、原画で見ても引き延ばされた絵しかわかりませんから、絵本に銀の筒をあててみることが必要。

 「ABCの本」も「ふしぎなえ」「さかさま」など、さまざまな仕掛けがあるので、大人も子どもも絵本を手に取ると夢中になれます。「もりのえほん」の中や「ABCの本」には、だまし絵のように、絵のなかにいろいろな絵が隠されているので、老夫婦が「あ、ここにサルが隠れている」なんてふたりで見つけ合いっこしながらまわっているようす、ほほえましかったです。つい「ほら、ここにうさぎが隠されていますよ」なんて教えたくなっちゃうんですけれど、これは自分で発見するのがいいんでしょうね。

 「本」という講談社PR雑誌の表紙を飾っていた安野の『平家物語』。表紙を見るのを楽しみに毎月「本」をもらいました。原画を見ることができて感激です。「本」の表紙、いつか画集も出るだろうからと、スクラップしておかなかったのですが、画集は立派な箱入り特装本で、とても買えない。やはりスクラップしておくんだった。

 森まゆみと旅したアンデルセン作森鴎外訳『即興詩人』の挿絵原画もとてもよかったです。安野はふるさと津和野の偉人森鴎外を敬愛し、『即興詩人』の現代語訳も試みています。

 私は文語訳の『即興詩人』を読み通したことがありませんでした。安野の挿絵付き本なら読み通せるかも。単行本『繪本即興詩人』は3150円なのですが、在庫切れ中。再版されるかどうかわかりません。アマゾンの中古本は1万円と2万円の稀覯本扱い。とても買えない。図書館で探してみましょう。

 絵本は子どものものと思われていますが、安野が「即興詩人」で試みたように、大人のための絵本ももっと出版されていい。出版本は「安野版平家物語」のように高いのが難点だから、電子ブックで安価に絵本を楽しめればいいなあと思います。そういう本が電子ブックのリストに載るようになったら、私もガラパゴスとか電子ブックリーダーを買おうと思います。

 ただし、子どもが読むなら電子ブックではなく、ぜひ紙の絵本を。本を手に持ってページをめくる体験から本の世界に入っていくのが大切な記憶になるような気がして。電子ブックでの絵本だと、「ゲームより面白い」と感じてくれる子どもが育つかどうかちょっと心配。皮膚感覚や匂いから入る身体性というのは、とても大切な要素です。

 これからの世界、「本を読むのが好きな子」「本をまったく読まない子」に二極化していくでしょう。そして人間文化にとってなにより大切な「ことば」「こころ」は、絶対に「本好きな子」のほうに、より豊かな「ことばの世界」「想像力と精神の世界」が広がるだろうと思います。
 新しい世代のお父さんもお母さん、絵本の読み聞かせをしてやってほしいです。

<つづく>
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2011年10月18日


ぽかぽか春庭「浜口陽三・南桂子展」
2011/10/18
ぽかぽか春庭@アート散歩>絵本の世界(3)浜口陽三・南桂子展

 夫婦作家として思い出すのは、津村節子吉村昭、曾野綾子三浦朱門、小池真理子藤田宜永、角田光代伊藤たかみ、離婚しちゃった作家カップルはもっと多いけれど。夫と妻ともに画家というと、知っていたのは 三岸節子三岸光太郎、丸木位里丸木俊夫妻くらい。あとどんな画家夫妻がいたか、あまり知らなかったのですが、浜口陽三・南桂子という版画家夫妻についてこの夏はじめて作品をまとめてみることができました。

 アマチュア画家なら絵を描くことを趣味にする夫婦も多いけれど、共にプロフェッショナル画家として、絵を売って生活する夫妻というのは、たいへんだろうなあと思います。
 ペンさえあれば、夫婦が同じ家でモノカキ続けるにもそう不自由はないと思うけれど、絵を描くスペースを夫婦それぞれが確保するには、かなり広い家でないときついんじゃないかしら。絵を描いたことないからわからないけれど。その点、浜口&南夫妻はずっと外国暮らしだし、浜口陽三の実家は金持ちだし、不自由はなかったことでしょう。

 9月、水天宮の近くにある「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」に行って、版画家の浜口陽三と南桂子が版画家夫妻であることを知りました。「ミュゼ浜口陽三」には、南桂子の銅版画作品も展示されています。
 浜口陽三は、ヤマサ醤油創業家の出身。陽三は10代目浜口儀兵衛の三男です。「カラー・メゾチント」という版画技法を完成させ、国際的に高い評価を受けてきた版画家で、2000年に91歳で亡くなるまでの4年間を日本で過ごした他は、フランスやブラジル、アメリカで制作を続けてきました。

 ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション
http://www.yamasa.com/musee/gutnj.html
 南桂子生誕百年記念展
http://www.yamasa.com/musee/guminami.html

 10月7日、武蔵野市立吉祥寺美術館でも、「生誕100年 南桂子展 」と「浜口陽三記念室」も見ました。吉祥寺美術館は平日でも19:30まで開館しているので、仕事帰りの人も立ち寄れていいと思う。しかも入館料100円。他の公設美術館も平日夜間開館をしてほしい。

 南桂子は、壷井栄の作品から童話の魅力を知ったということですが、会場のテレビでは、南桂子が若い頃書いた童話作品が日本経済新聞に掲載されたことを紹介していました。浜口陽三を追いかけてパリへ出立していなければ、版画家ではなく童話作家として生きたのかも知れません。パリ、ブラジル、サンフランシスコ、と1996年に帰国するまで浜口陽三とともに版画を制作し続けました。

 南桂子のメルヘンチックな画風はパリ時代に版画を作り始めてから2004年に93歳で亡くなるまで一貫して変わりませんでした。かわいらしい女の子や小鳥、花などの作品は、童話の世界に遊ぶここちがします。谷川俊太郎の本の装丁画や帝国ホテルパンフレットの挿絵を見ても、物語が浮かび上がるように感じられます。

 「南桂子生誕百年記念展」の図録、2500円するので購入をためらい、結局、ポストカード集、22枚の絵ハガキで1000円のほうを買いました。これも、ちるちるさんに送ろうと思います。

<つづく>
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2011年10月19日


ぽかぽか春庭「八王子夢美術館絵本展&国際こども図書館」
2011/10/19
ぽかぽか春庭@アート散歩>絵本の世界(4)八王子夢美術館絵本展&国際こども図書館

 同じ東京の中とはいっても、八王子はちと遠いから、町散歩をしたこともありませんでした。子どものころ、八王子にあった東京サマーランドってプールに母や伯母と群馬の田舎からツアーバスで来たことがあったのですが、それっきり。東京に出てきて以来、はじめて八王子駅に降りました。
 八王子夢美術館の絵本原画展を見ました。
http://www.yumebi.com/acv41.html

 新進の女性画家3人による絵本の原画。酒井駒子、はまのゆか、相野谷由起。
 これまで酒井駒子の小川未明「赤い蝋燭と人魚」の挿絵を見たことがあるだけで、はまのゆかと相野谷由起は、初めて見る画家でした。
 それぞれの代表作や近作が並び、楽しいひとときでした。絵はがきは、あれこれまよったのだけれど、相野谷由起の「冬の女の子」シリーズを購入。ぷっくり丸い女の子に親近感を持ったので。

 絵本を楽しんでいるとき、だれの文なのかは意識します。アンデルセンだとかグリムの名前は、子どもの頃覚えました。でも、挿絵の画家が誰だったかなんて子どもの頃には意識したことがありませんでした。国際子ども図書館の「日本の子どもの文学」展で古い絵本を見て、昔見た絵の画家が誰だったのか、やっとわかった、という絵本もありました。

 国際子ども図書館は、ずらりと並ぶ上野の「近代建築」の中でも居心地のよい建物のひとつです。上野めぐりをしていて疲れると、ここのカフェで一休みするのが好き。
 絵本の原画展もよく開催されます。9月に行ったときの展示テーマは、「日本の子どもの文学」。「赤い鳥」「金の船」「少女畫報」などの挿絵が展示されていました。
 私が子どものころに読んだ絵本も、私が図書館からせっせと借りて娘に読み聞かせをした絵本も並んでいました。(息子への読み聞かせは5歳年上の娘が担当したので、息子は私が読むのをあまり聞いていません)

 2008年に妹と八ヶ岳の黒井健絵本美術館へ行ったときに見た、新美南吉の「ごんぎつね」も「日本の子どもの文学」に展示されていました。そうそう、黒井健の「ごんぎつね」の絵はがき、持っているんだよな。これにはどんな文を書いて送ろうかな。

 10月2日、三鷹市美術ギャラリーで谷川晃一展を見ました。
http://mitaka.jpn.org/ticket/110903g/
 谷川晃一、60年代ポップアートから「アートディレクター」としても才能を発揮し、「伊豆高原アートフェスティバル」の開催を続けてきました。三鷹市美術ギャラリーに展示されている絵は、若い頃の自画像から最近作まで、谷川の画業を回顧するものです。

 谷川晃一の妻、宮迫千鶴(1947-2008)。絵をやっている人には有名な夫妻だったのでしょうけれど、私は宮迫について、画家としてよりエッセイストとして認識していて、絵についてはどんなのを描いているかも知らなかった。
 宮迫千鶴は、2008年に60歳で死去。でも、夫の谷川と共に「スピリチュアルな世界」を信じており、谷川も「死は終わったのではない、妻はちょっと先に行って待っている」と捉えているようで、妻の早世の後も旺盛な制作を続けています。うらやまし。無信心で「スピリチュアルな世界」というのにも無縁だった私、死は「終わり」と捉えてしまっているので、きっと死ぬ前はオタオタすると思います。

 私、100歳までの「やりたいこと」が積んであるのに、60歳で死ぬなんて言われたら、あせりまくる。まだ、何もやり遂げていないのに。あ、60歳はとっくに過ぎていたんだっけ。老い先短し、あせってしまうが、そこは明日の運命を知らぬ身、今日もグダグダと仕事をし、テレテレと家事放棄。電車の中では大口あけて居眠り。あせりながら何もせず。
 
 谷川晃一は、絵本を見たことあったけれど、画家としてはどんな絵を描いているのか、これまで画集も展覧会も見たことがありませんでした。
 絵本の原画も展示されていました。
 二進法の数え方を絵本にした『ウラパン オコサ』とか、谷川晃一の絵本は、絵と文を両方作っている。美術論美術評論の本もたくさん出版している谷川。夫婦そろって、絵と文章と両方に才能を発揮してきたなんて、すごいなあ。
 谷川晃一のアニメーション作品『ニャンニャンカーニバル』が、会場の液晶テレビでエンドレス展示されていました。会場で売っていたDVDは千円でしたが、「ひらけポンキッキ」からの録画と思われるバージョンは、youtubeで見られます。
http://www.youtube.com/watch?v=H57uLyu8Z-8

<つづく>
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2011年10月21日


ぽかぽか春庭「The animals」
2011/10/21
ぽかぽか春庭@アート散歩>絵本の世界(5)The animals

 子ども時代、お気に入りの絵本を持っていた子は幸福です。私のお気に入りは堀文子が絵を描いているメーテルリンクの『青い鳥』でした。
 国際子ども図書館の「日本の子どもの文学」には、「ドリトル先生」や「くまのプーさん」「はなのすきなうし」など、翻訳ものもいくつかは展示がありましたが、「青い鳥」は出展されていませんでした。アマゾンで検索しても堀文子挿絵の『青い鳥』は見当たりません。この本の情報を求めています。売っているものなら、探して買いたい。

 堀文子、1918年生まれ、93歳で現役の画家です。今春、三重県立美術館や富山県南砺市立福光美術館で堀文子の展覧会があったので、東京に巡回展示があるかと期待していたのですけれど、東京での大きな展覧会は2007年の高島屋美術館での開催で、私は中国滞在中で見ることができませんでした。
 2011年9月19日に放映されたNHKのドキュメンタリーを見逃してしまいました。再放送を待ちましょう。銀座の画廊ナカジマアートで11月に個展があるので見に行きたいです。

 郵便局に、絵本宅配のパンフレットが置いてありました。名古屋のメルヘンランドと九州の童話館が、それぞれ年齢別の絵本セットを毎月宅配している、というご案内です。0歳から中学生高校生向けまで、出版社側が選んだ本が届くしくみ。小学校高学年になれば自分で本屋や図書館で本を選ぶ楽しみがあってもいいと思うけれど、小学校低学年くらいまでは、親が与えるのもひとつの方法。本のページをめくる楽しみを知れば、子どもは自分で本を選ぶようになる。

 童話館やメルヘンランドの代表者の弁では、おひざの上で、母親や保育園の先生からの「読み聞かせ」を受けた子どもは情緒豊かな、さらには「積極的に知りたがる」子どもが育つと力説していました。
 親は「本好きになれば、国語の成績がよくなるかも」とか、「読解力はすべての学力の基礎」とか思うのかも知れないけれど、そんな「効果」は、あとからついてくるもの。まずは想像の世界、お話の楽しさ、空想の豊かさ、そこに浸っていられる子どもであってほしい。

 1998年の夏、国際児童図書評議会(IBBY)の第26回ニューデリー大会において美智子皇后による「子供の本を通しての平和―子供時代の読書の思い出」というスピーチがビデオ発表されました。私はこのスピーチが好きです。
 ビデオはニューデリーに於いて一部割愛で放映されましたが、スピーチ原稿原本が『橋をかける』という本になっています。本の中で、子ども時代の読書は、人の心の「根っこであり、翼である」と書かれています。

 「子供達が,自分の中に,しっかりとした根を持つために
  子供達が,喜びと想像の強い翼を持つために
  子供達が,痛みを伴う愛を知るために
  そして,子供達が人生の複雑さに耐え,それぞれに与えられた人生を受け入れて生き,   やがて一人一人,私共全てのふるさとであるこの地球で,平和の道具となっていく  ために。」

 子どもと本について、ほんとうにすばらしいことばだと思うので、ときどき読み直していいます。
 宮内庁サイトに掲載されているスピーチ全文。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/ibby/koen-h10sk-newdelhi.html

 「絵本の世界」シリーズ、最後に紹介する本は、『The ANIMALS』です。安野光雅さんが挿絵を描いている絵本です。今年11月16日に102歳になる詩人まどみちおの『どうぶつたち』という詩集が、すばらしい英語で翻訳されています。英語の訳者は、美智子皇后。10月20日に77歳。
~~~~~~~
シマウマ
 手製の / おりに / はいっている
ZEBRA
In a cage  / Of his / Own making

アリ
アリを見ると /アリに たいして /なんとなく /もうしわけ ありません/みたいなことに なる
いのちの 大きさは /だれだって /おんなじなのに /こっちは そのいれものだけが /こんなに /ばかでっかくって・・・
An Ant
Watching an ant I often feel / Like voicing an apology / Toward this little being
Life is life to any creature / Big or small / The difference is only / In the size of its container / And mine happens to be so ridiculously, / Enormously big.
~~~~~~~~
 10月1日に茅ヶ崎まで電車で行ったときのこと。小さな子がおひざに絵本を載せて、隣のお母さんに「ねぇ、ねぇ」と訴えています。お母さんは「電車の中なんだから、静かにしなさい。他の人に迷惑でしょっ」と「しつけ」をして、あとはケータイに夢中。大事なメール返信だったのかもしれません。でも、そのケータイを見続けている30分を、こどもに絵本を読み聞かせてやる時間にしてほしいなあと、とても残念に思いました。こういう「小姑的感想」が出るってことは、私も年取ったということなのですけれど。

 子ども達が最初に出会う「本との出会い」が、一生の宝物となる絵とことばであることを願っています。

<おわり>
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秋のおでかけリポート2011年10月

2010-03-22 14:23:00 | 日記
2011/10/22
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>秋のおでかけレポート(1)動物園めぐり

 夏のおでかけレポートの続編です。
 この夏、動物園水族園に何度も足を運びました。葛西臨海水族園3回、上野動物園2回、多摩動物園1回、井の頭文化園(動物園)1回。一生のうちで、こんなに集中して動物を見るのは今回が随一でしょう。
 絵と建物と動物と、とにかく「見ること」を徹底して、人様から見たら「毎日おでかけ、よほど暇人」をしていたと見えるだろうなあ、と自分でも思いながら毎日リュックを背負って東京を歩き回りました。

 葛西臨海水族園、招待券があったので娘といっしょに6月30日に行ったあと、ひとりで9月17日と9月26日に出かけました。上野動物園は、ひとりで9月17日に見に行ったら、この日は「敬老週間につき60歳以上は無料」でした。還暦過ぎて、たまにはいいこともある。このあと、「パンダ見ようよ」と娘息子を誘ってもう一度行きました。招待券2枚とぐるっとパスのチケットを使い、一家の行楽費は、黒船亭のランチ代のみ。多摩動物園は、9月24日ひとりで。井の頭文化園9月29日にひとりで。

 どうしてこんなに動物を見てまわったのか、自分でも理由はわからないのですが、ひとつ理由にしたのは、四ヶ所の動物園スタンプを集めると、抽選で何か当たるという「電車でおでかけ動物園スタンプラリー」というのを、「何にも完成することのない私の中途半端人生、せめてこのスタンプラリーをコンプリートするのだ!」という気分になったため。
 2度目の上野動物園や3度めの水族園は、スタンプを押すために出かけたようなものです。

 井の頭文化園、初めて行きました。象のハナコは、私より年上。日本で一番高齢のぞうさんですが、ゆったりと足を運び、飼育員に丁寧に世話されていました。

 葛西臨海水族園、おひとり様見学でしたが、飼育員による館内ガイドのグループに加わって、生き物の説明を聞くことができました。いつもなら、「あれ、この水槽には何もいないや」と、通り過ぎていたところ、ガイドさんが「よく見てください。水槽の底、砂の中に隠れている魚がいますよ」というので、目をこらすと、ほんとうに砂の中に魚を発見!など、これまで気づかなかったことをいっぱい知って楽しかったです。

 多摩動物園では、目玉のコアラ館のほか、2006年5月から公開されている「オランウータンのスカイウォーク」を見ました。もともとボルネオジャングルの20m~40mにもなる高木の間を、枝から枝へ移動していく習性を持っていたオランウータン(インドネシア語で「森の人」の意)。多摩動物園では、オランウータン舎から飛地放飼場までの約150mのスカイウォークを作りました。高さ12~18m、9基のタワーにかかったロープをたどり、移動できるようにしつらえてあります。
 このようすを、見物人は下から見上げて大喜びです。

 現在、動物園では、できる限り、動物のもともとの生息地に似た環境を整え、動物本来の行動をとらせる「行動展示」が主流になっています。オランウータンのロープを伝わっての高所移動、オランウータンの習性だから大丈夫とわかっているとはいえ、落ちやしないかとハラハラドキドキして、サーカスの綱渡りみたいに楽しんじゃいました。

 娘、息子と行った上野動物園。息子は小学校の遠足で行って以来、一度も来たことがなかったのだって。そんなに来ていなかったとは思いませんでした。思い返してみると、上野にしょっちゅう来ていたのは、娘が小学生のころ。息子は保育園。息子が小学生になると、5歳上の娘は中学生になって「家族で動物園に行くなんて、ダサイ」という年頃になってしまったので、家族で出かけたのは、科学博物館が多く、動物園には来たことがなかったのです。

 娘息子は久しぶりに見る象やキリン、猿山も楽しんでいました。パンダは「列に並ぶのはいやだ」というので、遊び場に出ているパンダをちょっと離れて見ました。パンダ舎に入っているときは列に並ばないと見ることができませんが、遊び場にいるときは、外から見えるので、ころころと動いているパンダ、十分ウォッチングできました。
 大人だけの動物園見学も楽しいものですね。

<つづく>
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2011年10月23日


ぽかぽか春庭「郷土の森&神代植物園」
2011/10/23
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>秋のおでかけレポート(2)郷土の森&神代植物園

 10月6日、府中郷土の森博物館で、移築復元されている旧府中市役所庁舎や府中尋常高等小学校校舎などを見ました。
http://www.fuchu-cpf.or.jp/museum/sisetsu/fukugen.html

 府中は、古代に国分寺が置かれて以来、長く武蔵国の中心地でした。国分寺の発掘現場を2005年5月に娘息子と見に行きました。
 http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d433#comment

 府中郷土の森博物館の常設展示は、府中の有名なお祭り「くらやみ祭り」と、古代からの府中の歴史を展示しています。
 6月の仕事帰りに寄ったときは、宮本常一の「土佐源氏」の展示を中心に見たので、10月6日は、府中の建物をゆっくり見たのです。

 旧市庁舎移築のようすがビデオにまとめられていたのも見ました。洋風木造の庁舎は、当時の役所建築の代表的な様式であり、国の重要文化財に指定されている福島県伊達郡桑折町の旧伊達郡役所役所などと共通する形式をもっているというビデオ解説を見ました。役所部分の洋風建築に付属して、職員用の休憩室や宿直室が和風で作られて接続しており、当時の日本人が、仕事をするには洋風の椅子や机で事務をとっても、休憩するには椅子ではくつろげず、囲炉裏などを備えた部屋でないと食事も落ち着いてとれない、という生活だったことがわかります。

 府中市旧役場庁舎は、1921(大正10)年の建築。
http://www.fuchu-cpf.or.jp/museum/sisetsu/fg04.html
旧伊達郡役所1883(明治16)年
http://maskweb.jp/b_datecounty_1_0.html

 10月10日、ぐるっとパス最後のおでかけに、神代植物園へいきました。前回、春バラの時期に行って、深大寺蕎麦をたべたのですが、今回は秋バラと蕎麦。「湧水」という評判の蕎麦屋で天ぷら蕎麦を食べて、前回の店と同じく「やっぱり父が打った蕎麦より美味い蕎麦はない」という感想。そりゃまあ、そうだろうと思います。

 秋バラは春バラより小ぶりですが、きれいに咲いていました。
 園内の「山野草コーナー」に「毎年ススキの根本に咲くナンバンギセルが今年も咲きました」という案内が出ていて、この花を初めて写真でなく実物にて観察。紫色の花で、ススキに寄生する植物です。パイプ(南蛮煙管)のような形。ススキの根本にひっそりと咲いているので、案内表示がなかったら見逃していたでしょう。

 体育の日の植物園の芝生では、傾いてきた秋の午後の日差しの中で、家族連れがフリスビーやバドミントンをして遊んでいます。動物も植物も人も、平和な環境でのびのび過ごしているように見える。戦争を知らない世代の私が、ここまで戦火に遭わずに生きてきた。この平和を守って次の世代に引き継ぐこと、「平和を守るには、自国が武装すること」などの言辞に惑わされず、真の平和を守るために何をすればいいのか、芝生広場のベンチに座り、マロンアイスをなめなめ考えました。考える時間は、アイス食べ終わったとたん終了です。ま、私の「平和について考える」ってなことは、アイス食べる時間程度のものです。

 自力では生き抜くことが難しいナンバンギセルとて大事な地球の自然の一部。寄生、パラサイトも自然の中のあたりまえの生き方。力のない者や声の小さい者が排斥されることのないように。重度障害児施設を見に行って「こういう人たちに、生きている意味がわかるのか」と言い放った知事のような感覚にはどうしてもなじめません。多様な生き方があっていい。寄生という生き方を選んだナンバンギセル、それもひとつの生き方として認めたい。足らないところは助け合って生きていける、そういう社会になったらいいなあと、午後の日差しのなかで、つらつらと寝ぼけ半分で考えながらすごしていられるのも、平和な10月10日だからこそ。
 1964年10月10日に「ぼろぼろになってしまった国が、たった20年で復興したこと」を世界に歌い上げたあの日を覚えている者として、バラも萩もナンバンギセルも、みんなそれぞれの色で咲いていてほしいと思いながら、植物園の小径を歩きました。

<つづく>
04:44 コメント(1) ページのトップへ
2011年10月25日


ぽかぽか春庭「江戸東京博物館&たてもの園」
2011/10/25
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>秋のおでかけレポート(3)江戸東京博物館&たてもの園
 
 10月8日、江戸東京博物館で「日光東照宮と将軍社参」を見ました。江戸東京たてもの園が5時で閉園になったあと、大急ぎで両国駅へ行き、夜間開館の時間に行ったのです。学芸員がボランティア解説員にレクチャーしているところにいっしょになり、私も説明を聞きながら見てまわりました。

 二代秀忠の日光参拝は、文字通りの「父親の墓参」として始められたが、孫の三代目家光は、祖父の威光を最大限に利用して諸大名への将軍家権威付けを行っている、などのお話を聞きました。
 学芸員として博物館での研究に携わってきた方の熱心な説明を、ボランティアガイドにあたる人々がこれまた熱心にメモをとりながら聞いています。私はただ興味本位に日光社参を描いた屏風絵などを見ていて、少しも学術的な見方はできないのですが、ひとりでただ見てまわるより、ずっと面白かったです。

 10月8日午後は、江戸東京たてもの園へ。こちらは、江戸東京博物館の分館です。何度も来ているたてもの園ですが、移築復元された建物が二棟新しく公開されたので、行って見ました。
 新公開は、港区白金で営業していた大和屋乾物店1923(昭和3)年建築、と、青梅街道にあった万徳旅館(約150年前に建築)の二棟です。旅館や店舗の建築は、建物外観は古いままでも、内部は使い勝手がよいように改築されて昔の面影をとどめていないものが多いのですが、万徳旅館は、建物内部や、建具なども古いままで平成5年まで営業を続けていたので、建築当時のものが残されている貴重な旅館だそうです。

 たてもの園の中では、「江戸職人の技」実演販売中。「村山大島紬」の端切れ1枚500円をおみやげに買いました。紬で作ったブックカバーを2500円で、マウスパッドを1500円で売っていたのですが、自分で作れそうなので、端切れを買って手作りする予定。
 このたてもの園でもボランティア活動が盛んで、ガイドさんが説明してくれるほか、数珠玉ブレスレット作りとか、裂き織りなどの手仕事を教えるボランティアもいる。かやぶき屋根を維持するためには、屋内の囲炉裏で火をたく必要があるため、火をたくボランティアさんもいます。

 午後1時半からのボランティアガイド解説を聞きました。高橋是清邸、三井八郎右衛門邸、八王子千人同心組頭の家などの説明を受けました。
 「ここは、昭和初期の家です。テレビドラマ『華麗なる一族』ではキムタク出演場面でロケに使われました」とか「この子宝湯の通りは、ジブリの『千と千尋』の不思議な町のモデルになっています」などの説明を受けながら見てまわると、そうそう、こんな家でてきたっけなあ、と思います。

 武蔵野の農家の移築展示、昭和初期の商店の移築展示などについて、ボランティアガイドさんといっしょにまわっているとき、見学のおっさんが、ガイドさんと話しているのが聞こえました。自分の故郷でも、昔、こんな家があった、というような話をしています。おっさんは「群馬の生まれ」というので、「あら、私も群馬なんですよ」と、話に加わってみたら、ガイドさんと私は同年生まれ。おっさんは1歳若い。おっさんと私の出身地が同じとわかり、北小学校、北中学校の同窓生であることもわかりました。びっくり。
 おっさんは18歳で東京に出てきて、私は20歳で出てきたから、たぶん同じころ上京した。それ以来、東京で小学校中学校の同窓生と出会うことなど一度もなかったのに。

 おっさんも「いやあ、奇遇ですなあ」とびっくりしていて、ガイドツアーが終わったあと、しばらく道で立ち話をしました。おっさんは「夏に田舎に帰って、林屋のラーメンを食べましたよ」と言う。「林屋のラーメン」なつかしい。生まれ育ったところもすぐ近所の人でした。

 こういうとき、私がもすこし色っぽい女だったなら、「いやあ、奇遇ですなあ、どうですこれからビールでも」くらい言われるのだろうに。10月2日の文法研究会、コンパで酔った上のことですが、修士時代の指導教官から「あなたの論文はたいへんすぐれていたけれど、あなたには女性としての魅力がないっ」と言われてしまっていて、へこんでいたところでした。指導教官、「国立大学在任中は言えなかったことも、退職後は何でも本音で言える」境地になったとか。退職後の本音、「おまえには女としての魅力がないっ」という指導、よくわかりました。

 こんな魅力のない女からお誘いするのも気がひけて、そのまま「じゃ、またいつか会うことがあるかも」とか言って、さようならしました。
 園内のうどん屋で、おひとり様にて「武蔵野うどん」というのを食べました。600円。

<つづく>


2011/10/28
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>秋のおでかけレポート(5)涼山イ族写真展

 10月27日、木曜日の午後、松岡映丘展を見に練馬区立美術館へ行ったら、1階の市民ギャラリーで「涼山彝(イ)族写真展」というのをやっていたので、ついでに見ました。そうしたら、こちらのほうが興味深く、松岡映丘展のほうをついでに見た、というくらいに見入ってしまいました。イ族の村の棚田や市場に集まる人々の民族衣装などが、中国と日本の写真家によって撮影され、展示されていました。
 http://www.gesanmedo.or.jp/photo111025.html

 イ族というのは、中国の少数民族です。少数といっても、11億人いる漢民族に対して少数ということで、約800万人いるのですから、ヨーロッパなどの小国、一国の国民数くらいの人口を擁しているのです。大陸中国に居住する56の民族のうち、第8位の人口です。中国南西部の山岳地帯、四川省雲南省などに分布しており、独自の文化社会を形成してきた歴史があります。たとえば、漢字とは別にイ語文字を持っており、イ語による詩や伝説がイ文字によって書かれてきました。
イ文字(ロロ文字)
http://www.aa.tufs.ac.jp/kanji/tenzihinA_13_hyou.html

 特異な社会であったことのひとつとして、中華人民共和国が1949年に成立したあとも閉鎖社会の中で独自の奴隷制度を残し、奴隷制度が廃止されたのは、1956年。おそらく、世界の中で最もおそくまで奴隷を使用して生活を維持した社会と言えるでしょう。農業牧畜業が奴隷労働によって経営されたほか、天文暦法、気象、医薬などでもイ族独自の文化を発達させてきました。
 道教や仏教の影響を受けつつ精霊信仰を残し、ピモという司祭が宗教生活を先導しています。貴族階級は黒彝と呼ばれイ族人口の6%のみ。奴隷階級の白彝や他部族を労働階級として支配してきました。
彝語は、ビルマ語と近い言語で、彝文字(ロロ文字)と呼ばれる表音文字によって表記されます。
 イ族についての参考文献、曽昭掄(1899-1867)『中国大凉山イ族区横断記』八巻佳子訳(築地書館)
http://www.mekong.ne.jp/books/explore/001201.htm

  展示されている写真は中国と日本の28人の写真家によって撮影されたものです。写真展を中心となって企画したのは、烏里烏沙(ウーリーウシャ)さん。日本に滞在して、NPO法人「チベット高原初等教育建設基金会」の理事長を勤め、雲南省四川省の子ども達が通うための小学校建設を進めています。基金会の略称は「ゲーサンメド」と言います。ゲーサンメドは、漢字表記は「格桑花」。チベット高原に咲く美しい花で、地元のことばでは「幸福の花」だそうです。
http://www.gesanmedo.or.jp/

 イ族写真展について書かれているブログ
http://www.kenichikomatsu.com/blog/
http://tanzawasanroku.at.webry.info/201110/article_6.html

 イ族の村の光景はとても美しく、人々の表情が生き生きしています。写真展事務局の紀田さんは、2月に基金によって設立された小学校の見学ツアーに参加し、写真を撮影してきたのだそうです。

 会場に展示してあった、彝文字と中国語漢字表記が対照表示されている詩の本をコピーさせてもらいました。彝文字は全然読めませし、中国語もおぼつかないですが、漢字をたどっていけば、意味はおおよそわかるんじゃないかなと思ってコピーさせてもらったのです。
 最初のページに出ている彝文字の詩には以下のような漢詩が対照されていました。漢文は苦手だったけれど、漢詩ならある程度意味が通じるんじゃないかと思ったのだけれど。
 「山林不相見 獐子帯来見 川水不相見 魚儿帯来見 蜜蜂不相見 山花帯来見 木嗄和基本喲 姑娘的婚礼上来見」
 あれま、やっぱり私の漢詩読解力じゃ、意味わかりません。どなたか漢詩に強い方、あるいは中国語得意な方、意味を教えて下さいまし。

<つづく>
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2011年10月29日


ぽかぽか春庭「ぐるっとパス総決算」
2011/10/29
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>秋のおでかけレポート(6)ぐるっとパス総決算

 「ぐるっとパス」総決算。
 「ぐるっとパス」(2000円)には、東京都内の博物館美術館70館の入館券と入館割引き券が冊子になっています。
 入館割引き券を利用したのは、上野の奏楽堂のみ。木曜コンサート500円のところ、ぐるっとパスで200円割引きになりました。あとは入館券がついている所のみ行きました。
 入館券がある51館のうち、33館見て歩きました。ほんとはコンプリートめざしたかったのですが、「動物園水族園スタンプラリー」の四施設コンプリートでかなり満足できたので、ぐるっとパスコンプリートは無理しないことにしました。33館見たというのでも相当「活用!」したほうだろうと思います。

 パスは、使用開始から2ヶ月間使用できます。私のは、8月12日使用開始、10月11日期限切れ。2ヶ月間というと、土日の使用が中心の一般の勤務者にはなかなか全部は使えない。私は「今年の夏休み、遠出はしない」と決めて、リタイア後の暮らしの「毎日が日曜日」になったとしたら、どれくらい活用できるものなのか、という一種の実験のために歩きまわったのです。
 そもそも、ブリジストン美術館の青木繁展を見るときに購入して、ブリジストンのほかあと1館か2館入れば「モトはとれる」というところだったので、33館というのは、我ながらすごすぎっ!

 上野周辺エリア。東京芸術大学美術館、旧東京音楽学校奏楽堂、一葉記念館、書道博物館、飛鳥山博物館、上野動物園。
 東京皇居周辺エリア、近代美術館、松岡美術館、庭園美術館、写真美術館、科博付属自然教育園。
 目黒港周辺エリア、目黒美術館。
 世田谷新宿池袋練馬周辺エリア、新宿歴史博物館、文化学園服飾博物館、練馬区美術館、ちひろ美術館、オリエント博物館。
 両国深川エリア、現代美術館、深川江戸資料館。江戸東京博物館常設展
 臨海エリア、葛西臨海水族園、船の科学館、科学未来館。
 多摩エリア、府中郷土の森博物館、八王子夢美術館、三鷹市美術ギャラリー、吉祥寺美術館、江戸東京たてもの園、井の頭自然文化園、多摩動物園、多摩六都科学館、神代植物園。

 交通費は、1回のおでかけで午前中一ヶ所、午後一ヶ所をまわって1000~1500円程度。一番交通費が多かったのは、10月08日。「もう、期限が切れるから、3ヶ所まわろう」と思ったので、交通費も多かった。
8日朝、東京メトロ&西武新宿線で田無へ。400円。田無からコミュニティバス100円で多摩六都科学館着。科学館前からバス190円で小金井公園西口前。たてもの園を見たあと公園西口前から武蔵小金井行きバス170円。武蔵小金井から中央線総武線で乗り継ぎ両国下車450円。江戸東京博物館の夜間開館で「将軍の日光社参」展を見て大江戸線両国駅から地下鉄に乗ってメトロ乗り継ぎ440円で帰宅。合計1750円。
 10月08日の一日の行楽費、昼ご飯やおみやげ合計で2850円。

 一日遊んで3000円の出費なら、リタイア後も一ヶ月に一度くらいはおでかけが楽しめるのではないかと思います。国民年金がはたしてちゃんともらえるのかどうか、こころもとない昨今ではありますが。

 昔は、リタイア後は田舎に住んで山や川を眺めて暮らしたいと思っていたのですが、田舎は「病院が遠い」とか、「出歩くには自家用車が必要」だったり、持ち家がないと暮らしにくいことや隣人おつきあいのたいへんさなども見聞きします。私のような「人付き合いも悪い、家もない、車もない、国民年金で暮らすこともままならない」人間が、最低限の出費で暮らすには「田舎暮らし」は高嶺の花だとわかったので、「都会でお金をかけずに遊ぶ」方法を考えました。

 私、還暦すぎ、国民年金もらおうと思えば申請できる年齢になりましたけど、まだもうちょっと受給開始はしません。夫の計算によれば、80歳以上長生きするなら、受給開始を遅らせた方が、生涯受給金額は多くなるのですって。せいぜい長生きしてこれまで毎月とぼしい給与から払った年金のモトとらなきゃ。

 絵と建物と動物と花と風景を見るのが好きで、好奇心と歩き回れる丈夫な足を持っているなら、リタイア後もお金をかけずに毎日楽しく過ごせそうです。東京近辺の施設、65歳以上は無料または割引きのところも多い。図書館で借りる本とDVDがあって、ボランティアには週に1回ほどでかけることにして、ジャズダンスの練習は週2回くらい。これでリタイア後の生活もなんとかいけるんじゃないかしら。少なくとも退屈をもてあますことはなさそうです。

 ミサイルママは「2ヶ月に一回は山登り。来年は槍ヶ岳から北アルプス縦走。そのために70歳まで足腰鍛える」というのが目標とか。
 9月11日に出演したジャズダンス発表会のDVDをミサイルママから受け取り、さっそく見てみました。うん、私の太さ、後ろの列で前列ダンサーに隠れながら動いていればそんなに気にならない。よかったよかった。老後に希望が持てます。

<つづく>
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2011年10月30日


ぽかぽか春庭「物見遊山徘徊始末」
2011/10/30
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>秋のおでかけレポート(7)物見遊山徘徊始末

 8月~10月のおでかけ、失敗も多々。地下鉄の一日パス。最初に地下鉄に乗って、上着のポケットに券を入れ、暑くなったので上着を脱いで手に持ったときにはポケットに券が入っていることなどすっかり忘れていたから、たちまち落としてしまい、一日乗るはずが、最初の230円区間につかっただけで、一日券が終わり、、、、とか、ちゃんと傘を持って出た時は雨が降らず、傘を持っていないときに限って出先で雨が降るので、安物傘を何本も買うはめになったり。

 お台場の科学未来館。プラネタリウムに入って暗くなるとたちまち寝てしまい、目が覚めたらもうほとんど終わっていた。娘に「おひとり様で行くと、しゃべる相手がいないので、プラネタリウムで寝ちゃった」と話したら、「母は昔いっしょにプラネタリウム見たときだって、ソッコー寝てたよ」と言うのです。くやしいので、府中郷土の森博物館で、もう一度プラネタリウムに挑戦。しかし、やっぱり場内が暗くなって上映がはじまったら、すぐに寝てしまいました。よくよく「暗いところではすぐに寝る」というのが身についているのでしょう。いやいや、明るいところでも、電車に乗って座れればすぐに寝ますけど。

 10月29日に、庭園美術館の改修閉館前の特別夜間公開に出かけたら、5時に入場門に着いて入館券を買うのに20分待ちの列。さらに、玄関に入るまでに40分待ち。6時にやっと中に入ったら、それぞれの部屋を見るために一列になって待っている。2階ロビーの椅子に座ってしばらく待っていたけれど、7時になってますます混んできたので、あきらめて外に出ました。庭園美術館、今年は春に「森と芸術」展、夏休みには「ロシア皇帝の愛したガラス」展には2度も見に行って、旧朝香の宮邸、展示のない書斎などはたっぷり見ていたので、無理に人混みの中列に並ぶことはないと思って、そのまま帰ることにしました。入館料はもったいなかったけれど。ケチな私が、入館料払ったのに何も見ないで出てくるってのは、午前中、午後、2ヶ所徘徊してきて疲れていたからですけれど。 

 失敗も多々ありましたが、よかったこともいっぱい。
 淡島千景がお力を演じた映画『にごりえ』や浅丘ルリ子がお力を演じた舞台の『にごりえ』を録画で見たあと、一葉記念館に行ったら、ちょうど朗読の会の人たちが「にごりえ」の朗読発表会をやっているところに行きあって、朗読でも「にごりえ」を楽しむことができましたし、出かけた先々でいろいろ有意義な見もの聞き物に出会うことができました。

 「見てまわること」「物見遊山」ということについていろいろ考える契機も与えられて、この夏の「ぐるっとパス」めぐりは、大成功だったと思います。
 旅することは命がけであった時代から、江戸270年の太平の間に、庶民までがお伊勢参りなどの物見遊山を楽しむことができるようになり、21世紀の今では物見遊山に宇宙旅行を予約する人さえいる時代です。
 物見遊山が「ただの気晴らし」にとどまらず、「見ること」が何らかの変化をもたらすダイナミズムを持っていることに注目し、これからも徘徊を続けるつもりです。

 今日は、地球上の人口が70億人に達する日なのだそうです。70億人、多すぎると言われても、私が減るのはいやだし。人口ひとり減らすまで、せいぜい歩きまわりましょう。

<おわり>

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劇団昴公演『坩堝』

2010-03-20 07:39:00 | 映画演劇舞踊
2011/10/26
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>秋のおでかけレポート(4)観劇『坩堝』

 10月09日、大阪から友人のアコさんが上京し、いっしょに劇団昴のお芝居を観ました。
 前回アコさんといっしょにおでかけしたのは、3月10日のことです。アコさんは、翌日の震災のさなか、たいへんな状況下に帰阪したのでした。またこうしていっしょに演劇鑑賞ができてうれしいです。

 池袋駅から池袋グリーンシアターまでの視覚障害外出ヘルパー、相務めるために、まずは、下見にグリーンシアターまで歩きました。よし、このルートで案内しよう、と納得して待ち合わせの「池ふくろう」の前へ。

 アコさんは茨城の実家に一泊してからの上京で、水戸市に住んでいるというお友達のエミさんが外出ヘルパーとして付き添っていました。エミさんは高校生の息子さんのお母さんとは思えないとてもかわいらしい人で、安達祐実そっくり。「安達祐実に似ているって、人から言われるでしょう」と尋ねると、安達祐実が子役でデビューしたころからずっと言われっぱなしだと言っていました。

 アコさんの道案内をエミさんが担当し、私はアコさんの友人のワカコさんの案内をしました。腕につかまってもらったり、肩に手を置いてもらって案内する方法も、アコさんに教わりながら覚えたのです。しかし、途中、横断歩道の段差があるところでうっかり「段差があります」と声をかけるのを忘れてしまい、ワカコさんがちょっとよろけてしまうことがありました。わずか1.5cmほどの段差だったので、私には差が感じられずに通りすぎてしまったのです。どうも私は盲導犬より能力が低い。

 劇団昴の公演は、アーサー・ミラーの『坩堝るつぼ』。映画化されたときは原題の「クルーシブル」で、ミラーが自ら脚本を担当しています。アメリカのニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で起きた魔女裁判を題材にして、1950年代米国のマッカーシズム「赤狩り」を思い起こさせるようにして、ミラーの激しい台詞が舞台を飛び交います。

 さまざまな文化と思想がるつぼの中のように渦巻くアメリカ。
 坩堝の中のものは解け合って溶融・合成を行う。金属だって解け合って合金ができるはず。果たして「人種のるつぼ」と呼ばれたアメリカは、解け合ったことがあるのか。
 現在は、「混ぜても決して溶け合うことはない」という意味から、多民族が暮らす地域を、「サラダボウル(salad bowl)」と呼ぶそうです。並立共存の状態を強調しているのだというのですが、ほんとうに併存共存できているのか。

 セイラム魔女裁判とは、1692年、セイラム村の200名近い村人が魔女として告発され、19名が処刑され、1名が拷問中に圧死、5名が獄死。無実の人々が次々と告発され、裁判にかけられた事件です。
 現在では「集団心理の暴走」の例として広く知られています。ミラーの『るつぼ』はセイラムの魔女裁判を素材にしていますが、彼は、人間社会に起こりうる悲劇のひとつの姿としてこの魔女裁判を取り上げました。背景には、「現代の魔女狩り」として著名人が「赤狩り」によって次々に弾劾された1950年代のアメリカ社会があります。

 裁判劇の進展を見ていると、人が人の罪を告発していくことのこわさが身に染みます。罪無き人もいったん罪人として追い詰められたとき、どれほど弱い立場になるのか。私など冤罪に巻き込まれたりしたとき、我が身の保身しか考えないような人間になるのではないかと恐ろしく思います。
 
 終演後、アフターショウトークがあり、主役のジョン・プロクターや牧師役の俳優の、作品にかける思いなどを聞きました。また、次回作の前宣伝のための「リーディング・ショウ」もありました。昴の次回作音楽担当の坂本弘道のチェロ演奏をバックに、若手俳優が乙一の『暗いところで待ち合わせ』を朗読しました。

 舞台に登場したチェロがボロボロなので、え~、人前で演奏するのに、こんなぼろいチェロ持ってこなくても、と思いました。と、見る間に、チェロは弓で弾く弦楽器としてだけでなくギターのように演奏したり、打楽器になったり。弓ではなくグラインダーで擦ったり、凄まじい演奏方法で、びっくり。チェロの坩堝って感じでした。
 こんな感じ。
http://www.youtube.com/watch?v=DNEaKn-vb14&feature=related

 アコさんは赤羽のホテルに一泊するというので、ホテルのカンバンが見えるところまで案内し、あとはエミさんに任せました。

<つづく>

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建物散歩-作家の家

2010-03-19 12:22:00 | 日記
11/01 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(1)開高健記念館
11/02 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(2)開高健の海
11/04 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(3)武者小路実篤邸
11/05 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(4)徳田秋声旧居
11/06 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(5)林芙美子落合の家
11/08 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(6)和敬塾本館
11/09 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(7)旧細川侯爵邸
11/11 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(8)旧三井男爵家本邸別邸
11/12 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(9)旧岩崎邸のケーナ
11/13 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(10)アールデコのおやしき朝香宮邸
11/15 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(11)旧前田侯爵家駒場本邸
11/16 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(12)佐伯祐三アトリエ
11/18 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(13)東京農工大学本館
11/19 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(14)東京農工大学で虫を食す
11/20 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(15)流転の王妃ゆかりの家
11/22 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(16)ゆかりの家いなげ
11/23 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(17)愛新覚羅溥傑仮寓
11/25 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(18)偽満州皇宮
11/26 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(19)デンキブランの家(旧神谷伝兵衛稲毛別荘)
11/27 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(20)デンキブランの店カミヤバー
11/29 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(21)蜂葡萄酒で乾杯
11/30 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(22)建物巡り散歩ひとくぎり


2011/11/01
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(1)開高健記念館

 10月1日、茅ヶ崎へ行きました。
 茅ヶ崎市美術館で開催されている「音二郎没後100年貞奴生誕140年記念、川上音二郎・貞奴展」という展覧会のイベントで、小川稔館長と木下直之東京大学教授との対談があったのを聞くために出かけたのです。
 茅ヶ崎は、50年も昔に海水浴に行って以来、一度も出かけたこともなかったので、町の中を少し見物したいと思いました。50年経って、どんな海になっているんだろう。

 小学生のとき、ひさお叔父に連れられ、妹や従妹たちと茅ヶ崎の海岸に行きました。
 私は、小学校1年生のとき鎌倉で初めて海で泳いで、「海の水はしょっぱくてイヤ、川がいい」と泣きました。そのあとの海水浴は、毎年新潟の海でした。新潟の海がしょっぱくなかったわけではないのだけれど、群馬は太平洋に出るのも日本海に出るのも、汽車に長時間ゆられなければならない海無し県です。同じ長時間電車に乗っていくなら、日本海のほうがまだ浜辺がきれいで人出が少なかったから、ほとんどの海水浴は新潟の鯨波海岸でした。

 私は小学校1年生のときに海水浴デビューできたのに、妹は身体が弱く、私と姉が海水浴に連れて行ってもらうときも、母とお留守番していました。妹は、1年生の夏にはまだ「自家中毒」と診断された虚弱体質が向上していなくて、2年生の夏、やっと電車旅行に耐えられると判断され、ようやく「海水浴デビュー」となりました。昔、「子どもの自家中毒」といったのは、周期性嘔吐症(アセトン血性嘔吐症)のことで、虚弱体質の子どもがなる病気でした。

 群馬から横浜へ出て、ひさお叔父の家に泊まり、そこから茅ヶ崎までなら電車で1時間もかかりませんから、なんとか大丈夫ということになり、茅ヶ崎海岸へ出かけました。私は新しい水着がうれしくて、妹の体調など気にせずに泳いでいましたが、この日の写真を見ると、妹は泣きそうな顔をして写っています。きっと疲れが出てそれでも海にいたくて、我慢していたのでしょう。

 そんななつかしい海辺が50年もたって、どういう風になっているのだろう、茅ヶ崎の町のことなどまったく覚えていないけれど、どういう町だったのだろうと思い、茅ヶ崎駅から町の中をぐるりとまわるコミュニティバスに乗りました。どこにもあるような住宅街をぬけて、海辺へ。途中の開高健記念館前で下車。

 開高健記念館は、一家が1974年から住んできた住宅をそのまま記念館として残した施設です。開高健の仕事部屋などが、ありし日のまま保存されています。開高夫人の牧羊子さんが亡くなったあと、遺産継承者である夫人の妹の馬越君子さんが土地建物を茅ヶ崎市に寄贈し、記念館として保存されることになりました。瀟洒な住宅で、海辺へは300mくらいのところに建っています。

 私は庭をまわって、ベランダ側から入館しました。土曜日の昼頃。私のほかに入館者はありませんでした。著作も全作品が棚の本棚にありました。

<つづく>
06:57 コメント(1) ページのトップへ
2011年11月02日


ぽかぽか春庭「開高健の海」
2011/11/02
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(2)開高健の海

 開高健は、夫が大好きな作家で、よく読んでいました。夫は、岡村昭彦とか開高健とか、とにかく本当にベトナム戦争を見てきて書いたジャーナリストや作家を尊敬していたのです。『南ベトナム従軍記』を書いた岡村昭彦にあこがれて新聞記者になったのに、フリージャーナリストを目指すも「チャンスがあったのに、結局タイ奥地からゴールデントライアングルに密入国取材する決意ができなかった。本当に従軍取材できたってことは、それだけでたいしたことなんだ」と、私に言ったことがありました。岡村はベトコンの捕虜となって生死あやうかったし、開高は激戦にあってかろうじて生き残ったひとりです。

 私は、『パニック』『裸の王様』『ロビンソンの末裔』など初期の作品は読んだのに、『ベトナム戦記』以後の開高健を読まなくなった。「男は外へ出ていく者」という開高健が遠い存在に思えたからかもしれません。私はドメスティック人生。身の回り5mの範囲で生きています。「男は危機と遊びに生きる」と言い切る開高健、夫にはあこがれの人でしたけど。
 今、本棚を見ると、水漏れ事故でも大震災後でも「捨てる本」のほうに入れずの残された、夫が買った開高健の文庫本は16冊。きっともっとたくさん買ったのでしょうが。せめて残った文庫は、私が活用しましょう。

 開高健記念館のガラスケースの中、ベトナムから家族に宛てたハガキも展示されていました。200人のアメリカ人部隊と行動をともにしてベトコンの襲撃にあい、17人しか生き残らなかった、その17人のひとりが開高健。そんな戦場に家族を残して出かけて、そのさなかに、家族にユーモアあふれ愛情こまやかな文のハガキを書く。

 遺品などの展示のほか、モニターに開高健がインタビュアーを相手に語っているところが映されていました。「男はね、危機と遊び」とパイプを吹かしながら語っている。
 9月22日にNHKBSで放映された、「釣って、食べて、生きた!作家 開高健の世界(1)巨大オヒョウを食らう」を録画しておいて、10月15日に見ました。記念館で放映されていたインタビューがこのドキュメンタリーでも使われていました。

 アラスカのセントジョージ島での巨大オヒョウ釣りに挑んだ開高健の足跡を、開高健といっしょにすごした料理人谷口博之がたどるという番組。アラスカで開高とともに過ごしたガイドのトムさんとか、アリュート人の大工さんたちが開高健の人柄をなつかしみ、谷口がオヒョウを料理してセントジョージ島の人にふるまったりする。旅番組としてはよい出来だし、開高健の人柄がとてもすばらしかったことはよくわかったけれど、なぜ、開高健がそこまで「釣って、食べる」ことにこだわったのか、という作家魂に迫る作りではなかった。それを知りたいなら、本棚にある『オーパ』ほかを読む方がいいのだろう。

 開高健記念館を出たあと、300m歩いて海岸へ行きました。なにやら子どもがいっぱいのイベントが開催されていました。「海をきれいに」というようなエコロジー団体の催しらしい。
 子どもの頃の私にとって、「海へ行く」というのが1年1度の「夏休み最大の行事」でした。海無し県の山のふもとの田舎町では「海水浴に行ってきた」というのが何よりの自慢のタネになったころの私と、海辺に育ち海が日常である茅ヶ崎の子どもと、巨大魚と格闘しながら海を渡った開高健と、それぞれに海のイメージは異なるのだろうなあと思いながら、茅ヶ崎海岸を歩きました。

 帰るときになって、私が昔をなつかしみながら歩いた浜辺は菱沼海岸であって、子どもの時泳いだ海岸ではなかったことに気づきました。昔泳いだのは、もっと江ノ島に近い鵠沼(くげぬま)海岸でした。ま、いいか。
 子どもの頃泳いだ鵠沼海岸も、開高健が散歩した菱沼海岸も、アラスカの海も、み~んなつながっている。

<つづく> 
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2011年11月04日


ぽかぽか春庭「武者小路実篤邸」
2011/11/04
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(3)武者小路実篤邸

 10月29 日午前中、新宿から京王線に乗って千川駅へ。武者小路実篤邸を見学しました。1955(昭和30)年、実篤が晩年70歳のとき、「水辺のある庭」に住みたいと希望して設計したお気にいりの住まい。実篤は「仙川の家」と呼び、90歳で大往生するまでの20年間をこの家で暮らしました。夫人の死後、調布市に寄贈され、庭は実篤公園となって公開されています。

 今回は、実篤邸を見学しただけで、記念館は見ませんでした。
http://www.mushakoji.org/info24.html
 実篤の書斎などが往時のようすを再現して保存されていました。おなじみのカボチャやナスの絵が描かれた画室、お気に入りの絵筆なども展示されています。

 私は若い頃に「友情」などを読んだきりで、再読もしていないので、細かいところは忘れています。
 団塊の世代が生意気盛りのころは、何につけても「仲良きことは美しきかな」とつけると冗談のタネにできたほどで、「老人はすっこんでろ。仲良きことは美しきかな」「男だからって威張るな。仲良きことは美しきかな」「だれが、お前みたいな甲斐性なし男と結婚するもんかよ。仲良きことは美しきかな」なんて言って笑っていたのです。武者小路実篤などは「古い作家」と思っていました。
 ちなみに、今日この頃、発言をおちゃらかしたいときは「人間だもの」または「人間だもの。泥鰌(どじょう)」をくっつけます。「年金ちゃんともらえるかなあ。人間だもの、どじょう」「健康被害のない野菜が食べたい。人間だもの」「東電はちゃんと補償しろよ。人間だもの」などなど)

 共同体の意味を考え直すべき今、実篤と同志たちが宮崎に建設した「新しき村」のこととか、埼玉県毛呂山町に現在も存続している共同体「新しき村」のことなど、もう一度実篤を読み直すのも必要かも。

 実篤が愛し丹精した庭をしばし散歩しました。調布仙川の南斜面に広がる1700坪約5,000平方メートルの庭です。池のまわりに黄葉がはじまった木々や赤い木の実をつけた木々が立ち、四阿では中高年ウォーキンググループが休憩していました。

 千川駅に戻ると、2時から始まるという「ハローウインパレード」に参加する子どもたちが魔女のコスプレで集まっていました。商店街の服屋にはちゃんと「ハロウイン用魔女の衣装」が売られていて、三角の帽子や長い飾り爪がついた手袋やらも売られています。
 みんな楽しげに「魔法の杖」などを手にしていました。魔女っこたちのパレードも見たかったけれど、午後は旧岩崎邸にまわる予定だったので、残念。
 
 もともとはケルト人の行う収穫感謝祭だったというハローウイン。クリスマスだってセントバレンタインデーだって面白そうなことは何でも自分たちの行事にしてしまう、折衷取り入れ民族、われら。
 仲良きことは美しきかな。

<つづく>
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2011年11月05日


jぽかぽか春庭「徳田秋声旧居」
2011/11/05
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(4)徳田秋声旧居
 
 11月2日水曜日。午後の授業が文化祭準備日休講となったので、午前中の授業を終えると東京本郷に駆けつけました。1年に1度たった半日だけ公開される徳田秋声旧居を見るためです。
 徳田秋声、私は、山田順子とのスキャンダルのみ知っていて、作品は文庫本になっている『あらくれ』以外に読んだことがありませんでした。それほど愛読した作家ではなかったのに、旧居を訪れたのは、東京都内に残されている数少ない木造平屋建ての明治時代民家だからです。正岡子規の子規庵などは復元された家なので、明治時代の木造建造物がそのまま残されているのは、戦災でほとんどが焼けてしまった東京では貴重なものです。

 秋声は、1905(明治38)年から1943(昭和18)年に没するまで文京区本郷森川町の家で暮らしました。この家が貴重であるのは、今も子孫が住み続けているということです。多くの古い民家が取り壊されてきた東京。残された数少ない家も、移築や復元、記念館などの形で保存されています。明治時代の民家に、実際に人が住み、暮らしを続けている、いわば「呼吸している家」は、おそらくこの徳田秋声旧居以外にないかもしれません。

 普段ご家族が暮らしている家だから、通常は公開していません。1年に1度、半日だけの公開です。これまでの年は、平日公開だと仕事があるので、見学できませんでした。今年、11月2日の午後は休講となり、ようやく見学できたのです。

 10時から13時までの公開と「東京都文化財ウィークリー特別公開」というパンフレットに書いてあったのですが、授業を早めに終えて、急いで電車に乗ったのだけれど、本郷三丁目の駅に着いたらすでに13時5分前。駅から徒歩7分と書いてあったのですが、徒歩だと13時過ぎてしまうので、タクシーに乗りました。こんなに近い距離、タクシーに乗ることなど、私にはなかったことですが。
http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_shiseki_haka_tokuda.html

 徳田秋声旧居の玄関を入ると、受付に若い男性が座っていました。あとでうかがうと、受付係は徳田秋声の曾孫さん。秋声の長男徳田一穂さんの長女の息子さんだそうです。
 居間に訪問者を迎え、対応して下さったのは、知的な美しい方。私より10歳ほども年下の方かとお見受けしてお話を伺っていたら、戦災の火の粉をかぶった思い出話などが出てくるので、おやっと思っいました。50代の方かと思っていたのですが、1941(昭和16)年のお生まれだそうです。皺一つ無い若々しい表情で、とても今年70歳とは思えません。いっしょにお話を聞いていた訪問者の女性も、「私も同じ年頃なのに」と、驚いていました。居間でお話して下さっていたのは、秋声の孫、徳田一穂さんの次女の章子さんでした。お姉さんは早くに亡くなっていて、現在はお姉さんの息子さん(受付をしていた青年)といっしょにこの旧居に住み続けているのだそうです。

 秋声の故郷にある記念館などでも、たびたび秋声についてお話をしてきたという徳田章子さん、訪問者への説明でもいろいろなお話をしてくださいました。
 私が唯一知っているエピソードである山田順子とのいざこざについても、「秋声の妻(章子さんの祖母)が亡くなったあと、林芙美子さんや平林たい子さんが、「秋声先生、お子さんがたくさんおありでたいへんでしょう。何でも手伝えることを言ってください」と申し出たこと、秋声としては妻亡き後、幼い子を抱えて困っていたときに山田順子から熱烈な手紙をもらったので、ついほだされてしまったのでしょう、など、身内から見た「順子もの」についてのお話しをなさいました。

 山田順子からの手紙は現在も保存してあるけれど、公開の予定はない、ということでした。秋声の後期の作『仮装人物』は、順子との恋愛を描いています。講談社文芸文庫でも青空文庫でも読めるので、いつか読んでみなければと思います。
http://iaozora.net/cards/000023/files/1699/1699_1923.html

 また、林芙美子が養子を探していたとき、「一穂さんは女の子が二人おありですから、小さいほうの方(章子さん)をください」と申し込まれ、お断りしたことなど、とっておきのエピソードもお聞きしました。

 秋声旧居は東京都の指定文化財になっています。文化財指定を受けると改築などには制限がつきますが、耐震などの工事はできます。本郷界隈でも古い建物はどんどん壊され、ビルが建っていきます。徳田秋声旧居のとなりは、ふたき旅館でしたが、現在シートが貼られて、取り壊し工事の真っ最中でした。1960年代の東大闘争のときは、全学連の指令基地になったというふたき旅館。時代は変わるのだと言うしかないのでしょうが、徳田秋声旧居は「残したいと思っています」というご家族の意志、ありがたいことです。

徳田秋声旧居を写真で紹介しているサイト
http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/zinbutu/tokuda/

 木村荘八の描いた秋声小説の挿絵が絵はがきになっていたので、買いました。5枚500円。また、秋声の長男、徳田一穂さんの 『秋声と東京回顧 森川町界隈』(日本古書通信社、2008年。秋声の『大学界隈』を併録)も購入。
 11月4日の夜は金沢駅前に宿泊したのですが、これから黒部ダムに向かうので、金沢の徳田秋声記念館に立ち寄る時間はなさそうです。またの機会に。

<つづく> 

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2011年11月06日


ぽかぽか春庭「林芙美子落合の家」
2011/11/06
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(5)林芙美子落合の家

 BS2の「帝国劇場百年」という番組で、2009年に『放浪記』が2000回公演を達成したときの中継録画を見ました。2009年5月の2000回公演のときも7月の国民栄誉賞受賞のときも、私は中国赴任中で日本のニュースが遠かった。やっと今年になって舞台中継を見ることができたのです。

 森光子が1961年から主演を続けてきた舞台「放浪記」。森は41歳で初の主役公演。今年2011年に91歳。2009年5月9日の帝国劇場公演で節目となる「2000回」を達成したときの88歳での舞台が、帝国劇場100年を記念してノーカットで放映されました。録画しておいたのを、1幕ごとに区切って見ました。

 『放浪記』は、昔、まだ白黒テレビの放映で見たのが最初。森光子のでんぐり返しが評判になっていたころ。
 次は奈良岡朋子が日夏京子を演じていたバージョンや池内淳子バージョンを見ました。上演記録を見ると、2005年のが池内淳子の出演で、森光子85歳のときの公演です。

 2009年の2000回達成、健康不安や妹死去のショックから立ち直ったあとの88歳での上演。ちょっと痛々しい場面もあった。滑舌が悪くなり、台詞がまわっていない部分があったし、若い頃の林芙美子には見えない背の丸まりようが気になった。小説家としてのスタートを喜ぶでんぐり返しは、バンザイに変更。

 ラストシーンの晩年の芙美子の姿はさすがの貫禄だし、最後のカーテンコールで手をあげ、お辞儀をする姿には神々しささえ感じました。林芙美子は47歳で亡くなっているので、晩年と言っても、今の森光子よりはずっと若いのですけれど、流行作家の悲哀や疲労が全身から感じられる演技でした。

 終演後は2000回達成と森光子89歳の誕生日が祝われました。89歳でこの演技、すばらしいものでしたが、2009年の大晦日紅白歌合戦に出場したときの衰えぶりには皆びっくりしたし、2010年の公演にドクターストップがかかったのはやむを得ないことでしょう。
 
 舞台の第5幕、落合の家のシーン。実際に林芙美子が住んでいた落合の家を再現した美術です。
 10月30日、落合の林芙美子記念館へ行きました。3度目の訪問になります。
 家は山口文象の設計。居間客間、台所、浴室などの生活部分と、緑敏アトリエ、芙美子書斎(もとは納戸だった)と書庫などの仕事部分の二棟に別れています。これは戦時中、資材節約という国策により30坪以上の家は建てられなかったから、芙美子所有の30坪と夫の緑敏所有30坪に分けて建設したためです。下落合は戦火に焼かれずに残りました。

 流行作家になって以後の芙美子は、養子として迎え入れた一人息子泰の養育と気晴らしの家事、夜も寝ないで書きまくる作品執筆に忙しい日々をおくっていました。
 舞台『放浪記』のラストシーンで、菊田一夫は芙美子のライバル日夏京子に「おふみさん、あんたちっとも幸せじゃないのね」とつぶやかせます。この台詞の意味については、ぜひ春庭「花の命は短くて」をお読みくださいませ。
 
 前回の春庭・林芙美子記念館訪問記「花の命は短くて」はこちらに
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0506a.htm

 今回は、ボランティアガイドさんの説明を受けながら、舞台に登場する居間や客間を見ました。女中部屋の廊下には屋根裏収納庫へ上がる隠し梯子があることなど、見ただけではわからないことも説明してもらいました。

 また、展示室(芙美子の夫、林緑敏のアトリエだったところ)のテレビで、NHKアーカイブスから林芙美子の晩年の姿を見ることができました。死去直前のラジオインタビュー番組。女子中学生たちが著名人に質問をし、答えるという番組で、「若い頃、なにをめざしていましたか」とか、「これからの女性はどう生きたらいいのでしょう」というような、内容を女の子たちが真面目そうな表情で質問し、林芙美子がにこにこと答えています。芙美子は画家になりたかったと答えており、展示室にも芙美子の自画像がかけてありました。

 このインタビュー番組は、ラジオ放送録音が残されているのですが、番組広報のために、一部フィルム撮影が行われ、林の死の直前の姿が1分ほど映像記録されています。
 このインタビューでの芙美子について、「晩年の姿」と言えるのは、私たちが芙美子の47歳での死が迫っていたことを知っているからであって、芙美子自身は健康に不安を持っていたとはいえ、自分がこれほど早く死ぬとは予想していなかったことでしょう。芙美子は明るく楽しそうに女生徒の質問に答えていました。
 芙美子の葬儀委員長だった川端康成が「芙美子を憎む人も多かった」と葬儀で挨拶したように、芙美子の友人関係は決して良好なものばかりではなかったけれど、ビデオの映像から感じられる人柄は、率直で快活な生き生きしたものでした。

 今回は、この映像を見ることができたことが大きな収穫でした。
 芙美子の家の庭。玄関前の孟宗竹はますます太くなっていました。まっすぐに己の信じる道を邁進した芙美子の姿を思い浮かべさせるような、すっきり立つ竹でした。

 今年は1951年に林芙美子が亡くなってから没後60年の年です。神奈川県近代文学館で芙美子の回顧展が開催されています。11月13日で会期終了となるので、なんとか時間を作って見に行きたいです。

<つづく>
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建物散歩-華族のおやしき2011年11月

2010-03-17 16:46:00 | 日記
ぽかぽか春庭「和敬塾本館」
2011/11/08
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>画家のアトリエ作家の家、華族のおやしき(7)和敬塾本館

 徳田秋声旧居で年配の女性と中年の男性といっしょに、徳田章子さんの説明を聞き、3:30の公開時間が終了したあとも、しばし門の前で立ち話。ふたりとも建築探訪を趣味にしていて、あちこちの古い建物を見て歩いているようです。
 先月亡くなった北杜夫のエッセイで、昆虫採集好きの人同士は、かみ切り虫の三番目の足について語るだけで、一日中語り尽くせないものだ、と書いていましたが、建物探訪好き同士も、「あの建物はこうだった」「こちらはもう取り壊されてしまった」などの情報を交換していると、あっという間に時間がすぎました。

 しかし、それぞれが「夜までに次の建物へ移動しなければ」というスケジュールを抱えています。男性は「これから早稲田のスコットホールを見に行きます」と言って急ぎ足で去りました。
 私も、東京都文化財ウイーク特別公開の日々、建物探訪に忙しい。10月29日武者小路実篤邸、旧岩崎邸、旧朝香の宮邸。30日和敬塾、林芙美子邸、佐伯祐三アトリエ。31日前田侯爵邸、駒場東大構内をめぐり歩いています。男性が「すぐこの先が求道会館ですよ」と案内してくれたので、11月2日は、徳田秋声旧居見学のあとは、求道会館の外観の写真を撮ることができました。そのあとは、東大本郷構内を歩きました。東大内もどんどん古い建物が壊されて新しいビルが建てられています。徳田章子さんは、「新しい建物で研究したかったら、柏キャンパスとか広いところに高いビルを建てたらいいじゃないですか。本郷の建物は古いまま保存して欲しい」と力説していました。ほんとうにその通り。

 10月30日は、往復葉書応募しておいたので、和敬塾本館(旧細川侯爵邸)を見学しました。建物探訪趣味が共通しているウェブ友ヨコちゃんとごいっしょできるのを楽しみにしていました。去年は北区飛鳥山公園の渋沢栄一邸の見学でごいっしょしました。

 午後は次の訪問地があるので、9:30の回に応募しました。ヨコちゃんと建物ガイドさんの解説を聞きながら、1階2階を見てまわりました。
 旧細川侯爵邸が古いまま残されたのは、和敬塾という地方の学生用宿泊施設を設立した財団法人によって買い取られ、そのまま使用されずに残されていたことによります。
 前川製作所の創業者である前川喜作によって1955(昭和30)年によって創設された和敬塾。6つの寮に東京の大学に通う地方の学生や留学生約450名が寄宿しています。村上春樹も早稲田大学入学後、滞在していました。前川が細川邸敷地を買い取ったあと、侯爵邸は寮としては使用されず、内部は手つかずのまま残されました。

 また、前川の買い取り前、戦後、前田侯爵邸や朝香の宮邸がGHQに接収され、貴重な金唐革の壁紙にペンキを塗り立てられるなど文化財破損の被害を受けたときも、細川邸は、文化に理解のあるオランダ軍高級将校が在住したため、内部はそっくり保存されたという解説がありました。現在は結婚式などに使用されています。

 見学料金千円で高いと思い、これはお茶付きだろうと推察したとおり、40分ほどの見学のあと、広間でケーキと飲み物が出ました。大急ぎでケーキを食べたあと、「写真を撮りたいのですが、もう一巡してもいいですか」と係員に訪ねると「もう10;30からの見学グループが入館しますから、お茶を飲み終わったら、出ていただきます」と言う。私は説明は聞かずに写真をデジカメで撮りまわっていたのだけれど、ヨコちゃんは解説を聞いたあとゆっくり写真を撮りたかったようで、「まだ写真撮ってないところがあるのに」と、残念そうです。
 そこで、私のいつもの奥の手「ずうずうしさ」をヨコちゃんに伝授することにしました。

<つづく>
18:55 コメント(2) ページのトップへ
2011年11月09日


ぽかぽか春庭「旧細川侯爵邸」
2011/11/09
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>画家のアトリエ作家の家、華族のおやしき(7)旧細川侯爵邸

 和敬塾本館旧細川侯爵邸の玄関を出ると、「ヨコちゃん、帽子ぬいで。そのオレンジ色のダウンジャケットも脱いで」と言って、私も青いジャケットを脱ぎました。30名の見学グループ、9:30のグループに誰とだれが参加していたか、なんて、係員もひとりひとりの顔を覚えている分けじゃないだろうから、10:30のグループにもう一度もぐり込む作戦。

 前と同じまま二度参加するのは気がひけるけれど、帽子と上着をとれば、「別の人」に変装した、というつもりになれる、という程度の変装ごっこです。二人して10:30のグループの最後尾にもぐりこみました。解説ガイドさんは同じ人なので、なるべく柱の陰などに隠れて顔を合わせないようにして、一番後列を歩き、写真を撮りました。ほんとうは二度参加してはいけないのだろうけれど、見つかったらヤバイと、ちょっとドキドキしながらの撮影なので、私はおもしろかった。

 たぶん、係員は2回目の見学だとわかっても、「出て行け」なんてことは言わないだろうと思うのですが、ひとりだったら、心細くてできない2度目の見学も、ふたりだから、「みんなでやれば恐くない」方式です。
 天井の意匠や欄間の彫刻、柱など、細かいデザインがとても興味深かった。

 写真は、「個人の記念に撮影するのはかまいませんが、許可を得た場合以外、インターネットやブログで公開するのはご遠慮ねがいます。以前、ブログに間違った情報を書かれて迷惑したことがありますので」というご注意がありました。
 確かに、個人のブログはテキトーな情報が多い。以前、ヴォーリズ作品を見に日本獣医生命科学大学に行ったときのこと。多くのブログに大学本館の写真に「ヴォーリズの設計」というキャプションがつけられていたのを思い出しました。本館はヴォーリズの設計作品ではないのです。
 こちらのサイトの写真も外観のみ。
http://maskweb.jp/b_wakei_1_0.html

 10:30のグループが広間でのお茶とケーキの時間になったので、玄関から抜け出して、3階の見学に行きました。3階は新しく建てられた別の階段から上がるようになっていて、結婚式や展覧会が行われるスペースです。3階屋根裏部屋がこのように改修されたのは最近のことだそうです。
 和敬塾のカルチャーセンターに通う人々の絵画展がありました。絵は、そっちのけで、建物内部の写真を撮ったり、3階ベランダからの眺めを楽しんだりしました。

 外観の写真もたくさん撮影できました。建物の北側、玄関の付近の窓。窓外側の鉄格子は、戦争中の金属供出で取り去られたのに、南側、細川夫妻の寝室の窓には鉄格子が残されています。これは2.26事件のあと、暗殺を恐れたために寝室の鉄格子だけは外部からの侵入を防ぐため残されたのだそうです。寝室の前は鉄扉で仕切られていて、万が一の侵入者乱入に備えたのだとか。お金持ちの生活も楽じゃありません。

 元首相の細川護煕は、戦前、幼少時をこの館で成長しました。邸内を改修するときなどは、意見を述べてきたようです。
 細川家の文物は和敬塾の隣の永青文庫に収められていますが、現在は改修中です。新江戸川公園は細川家下屋敷の庭園だったところ。和敬塾、永青文庫、新江戸川公園と三ヶ所に別れてしまってはいても、大名屋敷がこのようにそっくり残されているのは

 ヨコちゃん、私の2度目の見学におつきあいしてくだり、ありがとう。2回見学して写真もいっぱい撮れたので、「千円払った甲斐があった」というところです。
 どこにでも潜り込もうとする悪童の建物探訪、まだまだ続きます。

<つづく>
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2011年11月11日


ぽかぽか春庭「旧三井男爵家本邸別邸」
2011/11/11
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(8)旧三井男爵家本邸別邸

 文化財ウイーク特別公開、11月6日月曜日午後は、旧三井家拝島別邸(啓明学園北泉寮)を見ました。
 北泉寮、元は、1892(明治25)年、千代田区永田町に建てられた鍋島直大(なおひろ)侯爵家和館で、江戸時代の大名屋敷の伝統を残しています。この和館を、1927(昭和2)年に三井八郎右衞門高棟が買い受け、三井家別荘として東京都下拝島に移築しました。
 昭島市の観光HPより
http://www.akishima-kanko.org/study/entry-70.html

 啓明学園は、1940年に三井高維(みついたかすみ)によって港区赤坂台町に創立されました。財閥系商社などの会社員が海外赴任する際、日本に残された子女の教育を担当する学校として設立され、1943年、拝島の土地建物が啓明学園に寄贈されました。拝島の三井別邸は、寄宿舎のひとつとして使用され、北泉寮と呼ばれるようになりました。
 千葉県知事を勤めた堂本暁子とジョン・レノン夫人オノヨーコは、同級生として在学していたことがあるそうです。

 金谷高、高村雅彦による日本建築学会大会学術講演集梗概を読み、北泉寮の歴史が詳しくわかりました。設計は坂本復経(1855(安政2)~1888(明治21)。坂本が若くして死去したため、辰野金吾と片山東熊が施行の監督を務めました。おお、ここも辰野金吾と片山東熊かい、と思いました。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110008113578

  月に1回程度、一般公開が行われていますが、ハガキ申し込みが必要です。仕事が早く終わったときに突然訪問の時間が取れるといった、私のような不規則な勤務の者には、なかなかハガキ申し込みするチャンスがありません。
http://www.keimei.ac.jp/hokusenryo_kokai/hokusen_kokai_2011_02.htm

 文化財ウイークの期間は、申し込みをせずに直接見に行ってよいので、11月6日は8時半から2コマの授業を終えると、お昼を食べずに宿題の点検や漢字テストの採点を大慌てですませて、立川からのバスに乗りました。

 啓明学園の校門は、大名屋敷だったころのものなのか、数寄屋門です。14:30の見学受付最終時間が迫っていたので、門の写真は後回しにして、北泉寮の受付へ。
 なんとか間にあいました。受付の人が「解説の担当者が2階に行っています」と言うので、2階から見学しました。

 欄間の模様など、鍋島家の趣味なのか、三井家の趣味なのかわかりませんけれど、ちょっとゆがみを残す昔のガラス板の障子とか、格天井の一枚板とか、大名屋敷だった頃の和館らしい風情があります。寄宿生たちのシャワー室だったところなど、湯気が天井から抜けて出るための換気の工夫など、細かいところにきちんとした設計が感じられました。

 北泉寮内部を紹介しているサイト
http://blogs.yahoo.co.jp/qazxswedcvfr2004jp/57503585.html
(ただし、このサイトも、三井高維の名を高雄と誤記しているなど、「ブログに間違った情報が書かかれてしまうので、写真公開おことわり」と和敬塾で言われたことが現実になっています。自分の見たこと聞いたことを公の場に発表する際は、ウラトリをして、複数の情報源を確かめて、確実なことのみをUPしたいものです。ブログは、書く方の意識では「日記ような私的なもの」という感覚ですが、ネットに公開する以上、公的な責任もあるのだと自覚したいと思っています)

 現在では、寄宿舎は別に建てられており、北泉寮が生徒の日常生活につかわれることはありません。学園の生徒のうち小学3年生が夏にお泊まり会を行う際にこの歴史的な建物を使用しているそうです。
 移築保存された建物には「暮らし」の匂いがなくなってしまいますが、歴史的な建物も、実際に使いながら保存されていくことで、きっと柱や天井もこどもたちの声を吸収していくのだろうと思います。

 小金井の江戸東京たてもの園には、三井本家本宅が移築保存されています。
 三井八郎右衛門高公(みついたかきみ三井不動産相談役)が死去したあと、相続税として麻布の土地の一部が物納され、建物は解体され、江戸東京たてもの園に移築されました。
http://www.geocities.jp/jm1jer/constract/mitsui.html
 (このページのトップはhttp://www.geocities.jp/jm1jer/)

 三井財閥の惣領家は、1906(明治39)年に麻布今井町に本宅を構えましたが、戦災により焼失。1952(昭和27)に新本邸を麻布笄町(こうがいちょう)の1200坪の敷地に建築しました。戦後の物資不足の中、京都油小路・神奈川大磯・世田谷用賀などにあった三井家の別邸などから建築部材・石材・調度品、植木などが集められ、財閥解体期であり、男爵の爵位も失った戦後間もないころの建物としてはたいへん贅沢なつくりです。
 こちらは移築復元の建物だし、たてもの園にいけばいくらでも写真が撮れます。拝島別邸と見比べるのもおもしろいかも。

 たてもの園の復元工事のため、麻布笄町本邸の調査は行き届いていますが、拝島別邸については、「学校法人の教育施設として利用してきたので、建築学や建築史での調査はほとんど行われていません。文化財指定を受けるときに東京都と昭島市の調査が入ったくらいで、学園としてはこれまで調査を行ってきませんでした」という受付の若い職員の説明です。間取り図さえ、学園からきちんとした報告がだされたことはない、ということでした。
 春庭の教え子には日本建築史を専攻する留学生もいます。「博士論文書くなら拝島の三井別邸は穴場だよ。まだほとんど調査されていないから」って、提案してみようかと思います。

<つづく>
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2011年11月12日


ぽかぽか春庭「旧岩崎邸のケーナ」
2011/11/12
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(9)旧岩崎邸のケーナ

 旧岩崎邸は何度も来ているので、わざわざ東京都文化財ウイークの混み合う時期に来なくてもいいようなものですが、10月29日午後に訪れたのは、14:00から庭園内で田中健のケーナコンサートがあるというポスターを見かけたからです。

 田中健は、26年前にペルーのマチュピチュ遺跡を旅したときにおみやげとしてケーナを持ち帰り、それ以来ケーナ演奏を続けているのだそうです。
 田中健がケーナコンサートを始めた頃、「何年も演奏に打ち込んでいる音楽家だってなかなか独奏者としてコンサートを開くことは難しいのに、俳優が片手間に練習した程度で有名人特権行使して、演奏者でござい、って顔するのか」と意地悪な感想を持ったことがあるのです。ほんと、私はねたみ僻み根性が強いので。

 でも、田中健の演奏を聴きもしないで、「シロート上がりが」なんて思ったりするのはよろしくない。ちゃんと演奏を聴いてからにしよう、でもコンサートチケット5000円とか払うのはいやだ、というケチな根性で、田中健のケーナ、聞いたことなかった。旧岩崎邸の演奏会、入館料を払えば、コンサートは無料なのです。無料が大好きな私、「建物見学は混んでいるだろうけれど、庭は広いから、オバハン一人くらい芝生に座れるだろう、と、14:00少し前に庭にでました。ケーナの音は小さいからたぶんマイクで拡声した音だろうと思った通りでしたが、芝生に座ろうとしていたら、「前のほうの関係者席が空いておりますので、お立ちの方々、お座り下さい」という案内があったので、前のほうの椅子に座って聞くことができました。

 演奏は、ケーナといえばこの曲という「コンドルは飛んでいく」にはじまり、田中健も大好きだという映画『ニューシネマパラダイス』のメインテーマ曲。私も大好きな映画です。そのあと、健さんは観客の間におりてきて、「小さい秋みつけた」「紅葉」などの秋らしい童謡や『天空のラピュタ』のテーマ曲「君をのせて」を演奏しました。最後は田中健作曲の『街』という曲。アンコールは「サウンドオブミュージック」でした。

 ケーナはもともとアンデスの山岳地帯に住む現地の人々の民族楽器です。尺八と同じく、竹に穴を開けただけの素朴な楽器なので、音を出せるようになるまでがむずかしい。田中健さんも、26年演奏をしているうち、満足に音が出せるまで10年かかったとおっしゃる。なかなか見事な演奏だったと思います。「俳優の片手間」という偏見はやめて、ケーナ奏者田中健を評価したいと思います。日本でケーナがポピュラーになったのは、田中健さんのおかげかもしれません。 

 田中健のケーナ演奏がBGMに使われているyoutube
http://www.youtube.com/watch?v=lzzJm3C7cms
 ペルーの観光写真と現地の人のケーナ演奏「コンドルは飛んでいく」
http://www.youtube.com/watch?v=M_gSydN_BYM&feature=related

 テレビニュースで「コスキン・エン・ハポン」を見ました。福島市に近い川俣町で、町おこしとして行われている中南米音楽祭です。今年は10月8、9、10日の3日間。
 34回目の今年、川俣町も東北大震災の被災地なので、開催が危ぶまれました。しかし、全国の中南米音楽ファンの熱意によって今年も開催ができました。津波被害を受けた海辺の町から川俣町に避難している子ども達も、民族衣装をつけたパレードに参加して大成功だったというニュースでした。

 その中で紹介されていたのですが、川俣町の住民はだれでもケーナが演奏できる、なぜなら町をあげて中南米音楽に取り組んできたからだそうです。町中の人がケーナを愛し、演奏できるなんて素敵です。町民全員で「コンドルは飛んでいく」を演奏したら、ギネスブックに載るかも。

 ケーナが流れる芝生の庭から眺める、旧岩崎邸の洋館、和館。
 コンドルの設計に注目する人、建築探訪建物めぐりが趣味の人、昨年の「龍馬伝」で語り手役だった岩崎弥太郎に興味を持っている人、「戦前のお金持ちの暮らし」に興味がある人、金唐革の復元に興味がある人、田中健ファンの人、さまざまな人が岩崎邸に集まってケーナを聞いています。
 私は、今回はケーナ演奏を聞くのががメインだったので、建物はガイドグループのうしろにくっついて説明を聞きながら、ささっと一巡しただけ。今回も玄関ホールの柱のニスにできた結晶模様の美しさにみとれました。決して人工では作れない、百年の時間が作り出す美です。

 2006年8月に岩崎邸を訪れたときの記録は8/19~8/22の「コンドル近代建築探訪散歩」に書きましたので、お時間あったらのぞいて下さいまし。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200608A

<つづく>
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2011年11月13日


ぽかぽか春庭「アールデコのおやしき朝香宮邸」
2011/11/13
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(10)アールデコのおやしき朝香宮邸

 今年は3度、庭園美術館へ行きました。5月に「森の芸術」展。7月8月に「皇帝の愛したガラス」展に2度いきました。最初はひとりで、二度目はミサイルママといっしょに。
 絵やガラスの展示のほか、十分に旧朝香宮邸内部を見ましたから、「アールデコの館旧朝香宮邸」という邸宅改修前の建物展示は、見なくてもいいかなと思っていました。でも、11月1日から2年間は改修中閉館されると思うと、やはりもう一度見ておこうかと出かけました。「森の芸術展」も「ガラス展」も招待券やぐるっとパスで入館したのですが、今回は入館料払っての自腹。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/museum/index.html

 10月29日土曜日夜の「夜間開館」に行ったのが失敗でした。いつも平日にいけば見学者まばら、ゆったり館内を歩けるのに、まず、入場券売り場で30分並び、玄関前の入場の列に60分並び、5時に門をくぐってから入館まで90分。6時半に入館してからも、各室の前に一列に見学者が並んでいます。列を作らなくても見られるところだけさっさと一巡したあと、2階のロビーソファでしばし座って人が減るのを待っていましたが、7時半過ぎてますます混んできたので、あきらめて、外にでました。

 「しばらく閉館する」というニュースが流れたからこれほど混んだのか、みんなが急にアールデコ様式の建物に興味を持つようになったのか。
 館内は、玄関に入ってすぐに目に付くガラスの仕切り、玄関ホールの香水塔。ルネ・ラリックやアンリ・ラパンらのガラス作品、暖炉前の鉄のスクリーン。天井、階段室の手すりのデザイン。そこここにアールデコ(Art Déco)の装飾がほどこされ、直線のシンプルな建物の形とともに「1925年様式」「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」で世界的な流行となった美の形が息づいています。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/museum/artdeco.html

 玄関前の長い列に立って入館を待っている間、玄関脇の外壁に映し出された戦前のニュース映画をぼうっと見ていました。朝香宮妃(明治天皇の第8皇女允子内親王)がパリ・アールデコ博覧会を視察しているようすとか、成人式に臨む若宮や鍋島侯爵家へ降嫁するときの紀久子さんとかの映像がエンドレスで流れていました。お庭を散歩する姫さま方、かわいらしいようすで、お花を手に女官達と歩いている。
 皇族といえば絶対的な価値があると教えられていた時代の映像、人々は雑誌に載る皇族や華族の邸宅、内装、衣装、装飾品などを眺めて、手の届かぬ雲の上の暮らしを見つめてはため息をついていたのでした。

 10月16日の旧朝香宮邸を押すな押すな状態で見ている善男善女。
 「へぇ、これ、きれいじゃん、昔の人ってけっこうしゃれてるね。うちのご先祖もこんな家だったかな」と、デート中らしいアンちゃんがオネーちゃんに話しかけている。あ~、君きみ、ぜったいに君のご先祖はこういう家じゃあなかったと思うよ。昔の人が全員こんな家に住んでいたって思わないでね。今こうして、シモジモの我らがどやどやと見て歩けるだけでもありがたいと思わなくちゃ。

 美は美です。私もきれいなものが好き。華族皇族のおやしきの美しさにうっとりすることもありです。でも、同じ時代を、貧しさに呻吟しながら生きた層がはるかに多かったことは、次代の若者たちにもわかってもらわねば。

 ほら、そこのアンちゃん、あんたの先祖は、屋根かたむき壁からすきま風入る家だったかもしれないよ。あんたが履いているジーンズ、わざとぼろぼろに引き裂いて風通しよくしてるグランジファッション。先祖代々、すきま風が似合う遺伝子受け継いだのかも知れないね。私なんぞも「傾いた家」の遺伝子じゃによって、おつむがスースーすきま風だらけだけどね。

 すきま風の頭で書きっぱなしにするから、間違いだらけ。人のブログには「記載が正確でない」なんて文句タラタラですが、自分のは、脳の穴からすきま風ピューピューで、、、、、どうせシモジモは、やりっぱなし言いっぱなし、テキトーですみません。

 でもね。公開された原発事故現場での報道を見て感じました。現場の下で働く人々は命がけで死ぬかも知れないと思って働いているのに、会社幹部はのうのうとテキトーな記者会見を繰り返してきたみたいだし、現場の生産者がどれほど日本の農業に心くだこうと、国際会議ではTPPへの態度が曖昧模糊だったり。
 無責任なシモジモも責任を負うべきウエツカタも、やっていることはそう変わりないような、、、、

<つづく>
08:09 コメント(0) ページのトップへ
2011年11月15日


ぽかぽか春庭「旧前田侯爵家駒場本邸」」
2011/11/15
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(11)旧前田侯爵家駒場本邸」

 駒場の旧前田侯爵邸が近代文学館として使われていた時代に、訪れたことがあったのですが、近代文学館が新館に移転したあとは洋館には入れず、何度か和館だけを見学しました。洋館の見学は10年ぶりくらいになります。文化財ウイーク特別公開期間中、ボランティアガイドの説明がありました。10月31日月曜日午後の訪問です。

近代建築紹介サイトより
http://maskweb.jp/b_maeda_1_0.html

 1階は、男性のボランティアガイドさんでした。2階は「今日がボランティアガイドのデビューなんです」というちょっと緊張気味の女性が案内をしてくれました。ときどき「前田侯爵」と言うべきところを「前川侯爵」と言ってしまったり、こちらから建築関係のことや前田家について質問すると、「あ、それはまだ勉強していないので、先輩ボランティアガイドに聞いてみます」と、大慌てになったりしましたが、いっしょうけんめいで、感じのよいガイドさんでした。

邸内の紹介サイト
http://allabout.co.jp/gm/gc/25270/

 今回、文化財公開ウイークであちこちのボランティアガイドさんの説明を聞きながら感じたこと。皇族華族のおやしきでガイドボランティアをする人々に、共通する傾向があります。これらの皇族華族の暮らしを無条件に賛美し、よき時代の美しき暮らしぶりとして紹介する人が多いことです。
 旧岩崎男爵邸、旧前田侯爵邸、旧細川侯爵邸、旧朝香宮邸。どのガイドさんも自分が紹介するおやしきに愛着があることは理解できますが、無条件の賛美を聞かされると、ひねくれ者の私はちょっと鼻白むことがあります。

 広大な敷地に贅を尽くした家を建て、銀の食器で優雅においしいご飯を食べる皇族華族がいた、それはそういう時代であったのだから、歴史的な事実でしょう。しかし、その下には、食うこともままならない暮らしが膨大に広がっていたことは、戦前の小説ひとつ読んでもわかること。女工哀史も東北地方の飢饉で餓死者が出たことも知った上での邸宅見学でありたいと思っています。
 旧古河男爵邸はコンドル設計の見事なものですが、古河財閥の下には、足利銅山鉱毒によって苦しみ抜いた幾万の人々がいたことを忘れてしまうわけにはいきません。他のお屋敷も同じこと。
 
 前田家第16代目当主の前田利為(まえだとしなり)は、陸軍大将としてボルネオに出征し戦地病死しました。利為の娘、美意子には、親亡き後の戦後社会を長子として家族のためにもしたたかに生き抜く必要がありました。利為の後添えとして酒井家から前田家に嫁いだ菊子夫人と長女美意子は、社交クラブ経営などに手腕を発揮して、戦後の混乱期を生きていきました。多くの華族が没落した時代、母と娘は自分たちの手腕で暮らしを維持しました。

 母の実家の縁戚酒井家に嫁いだ美意子さんは、テレビ時代になると「マナー評論家」とか「皇室関係コメンテーター」として頻繁にマスコミに登場しました。
 私は、テレビなどで見かけた酒井美意子が、あまり好きではありませんでした。コメントの端々に、自分が侯爵家の家柄出身であることを押し出したいようすがうかがえて、好感が持てなかったのです。

 皇后になる前の美智子皇太子妃に対して「妃殿下は民間のご出身でいらっしゃるから、ご存じなかったのでしょう云々」というコメントをテレビで聞いたことがあります。ご自分の出自を誇りたい気持ちはわかりましたが、なんとまあ上から目線でエラソーにコメントするなあと感じたものです。

 その美意子さんの部屋というのも2階「家族のプライベートスペース」の西側にありました。兄弟姉妹のなかで一番広い部屋。
 自伝的小説『ある華族の昭和史』『元華族たちの戦後史』。書評によれば、戦前の華族の暮らしぶりが、「失われた佳き日々」へのレトロスペクティブと自己賛美によって綴られている、ということです。読まずに批判はできませんが、あまり読む気にはなれない。写真集『華族の肖像』は、機会があったらパラパラと写真を眺めてみたいと思います。

 旧前田侯爵邸、戦後はGHQに接収され、第5空軍司令官ホワイトヘッドの官邸、続いて26年4月からは、極東総司令官リッジウェイ(マッカーサーの後任)の官邸となったため、内部もかなり改装された部分がありますが、各室ごとに設けられている暖炉、天井につられたシャンデリアなどは、ほぼ洋館建築当時のままということです。

 ボランティアガイドさんの説明のあと、1階のカフェ・マルキスで休憩。あれ、こんなカフェ、前もあったかしら、と思ったら、2011年5月にオープンしたところでした。店名のマルキスmarquisとは、「侯爵」の意味です。フランス語ならマルキです。マルキ・ド・サドは「サド侯爵」ですね。
  コーヒー350円を注文。カフェからの眺め、前田邸のベランダ越しに見える庭園は、駒場公園になっています。

 武蔵野の自然を残す駒場公園は、チューダー朝様式の洋館や和館とともに、目黒区が管理しています。駒場公園を、小さなお子さんを連れたお母さんたちが公園を散歩していました。公園と前田邸ベランダは柵もなく続いていますから、散歩途中の親子がベビーカーをベランダにあげてベンチで休憩中。ほっと和む光景です。

 和館は、洋館が閉鎖されていた時もときどき見てきたので、今回は寄らなくてもいいかなと思ったのですが、ま、ついでだし、と思って上がりました。こういう建物めぐり趣味は圧倒的に中高年が多いのですが、若い男の子がいたので聞いてみたら、駒場ご近所の東大生でした。建築志望?とたずねたのですが、特にそういうことでもなかった。

 帰りは、東大駒場キャンパスを通って歩きました。元、一高図書館だった東大駒場博物館をのぞく。一高から東大教養課程に至るドイツ語教育についての展示がありました。
 http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/exihibition.html#ichiGer
 デルデスデムデン、ディーデルデルディー、ダスデスデムダス、ディーデルデンディー というのが覚えきれずにドイツ語を諦めた私などと、おつむの構造が違うのだろうなあ、と僻みながら東大駒場口から井の頭線に乗りました。どうもお金持ちとか秀才とかに出会うとやたらにひがみっぽくなる、しがない人生の来し方行く末。
 老い先短い明日も、僻みながらの建築めぐり。明日も外出。出るです、出む出ん。

<つづく>



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建物散歩ー画家のアトリエその他2011年11月

2010-03-13 18:07:00 | 日記
2011/11/16
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(12)佐伯祐三アトリエ

 佐伯祐三(さえきゆうぞう1898~1928)の絵、好きです。竹橋の近代美術館にも佐伯が何点か所蔵されていて、見ることができます。上野芸大の所蔵作品展で、卒業制作に必ず一点は残す自画像も見ました。
 しかし、まとまった展覧会を見にいったことがない。私の美術展鑑賞は、基本的に「新聞販売店などからの招待券をもらった展覧会に行く」というものですから、「誰それの展覧会なら絶対に行く」というのではないのです。
 2008年に開催された「没後80年佐伯祐三展」は、招待券もらったとしても、会期中は、ちょうど足を痛めていて出歩くのに不自由していたころだったから行けなかったでしょうけど。
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/08/0510_saeki/index.html

 去年2010年3月27日~5月9日に新宿歴史博物館で開催された「佐伯祐三・下落合の風景」展に行けなかったのは、単純に展覧会開催に気づかなかったから。新聞の「美術館博物館スケジュール」を毎週チェックしているのに、歴史博物館というあまりスケジュールなどが報道されない場所での開催だったために、気づいたときには会期が終わっていたのです。この展覧会では、佐伯米子夫人が亡くなったあと、遺族から新宿区に寄贈された佐伯祐三アトリエの一般公開に伴って、アトリエの近辺下落合を描いた作品を中心に展示されました。

 佐伯祐三は大阪でお寺の子として生まれました。東京美術学校(現:東京芸大)で藤島武二に師事。在学中に同じ画家志望の池田米子と結婚。卒業後はフランスに在住し、ブラマンク、ユトリロらの影響のもと、30年で終わった短い生涯にパリの街角をモチーフにした作品を残しました。

 佐伯の作品というとパリの町が思い浮かびます。第1回のパリ渡航は1924(大正13)年~1926(大正15)年の2年間。しかし、祐三の健康状態がよくないので、家族の説得に応じて帰国。日本に建てた新宿下落合のアトリエで、下落合近辺の風景画を残しました。しかし、パリへの思いが断ちがたく、健康不安を押し切って、2度目のフランス渡航。1927~28年1年間をすごしますが、病が悪化し、フランスで客死。

 祐三夫人米子は、画家としては祐三より早くに公募展入選をはたしており、パリでも祐三とともにサロン・ドートンヌ入選しています。祐三死後も下落合のアトリエに住み続け、絵を描き続きました。夫人の死後、アトリエは新宿区に寄贈され、2010年4月、祐三の誕生日4月28日に合わせて開館されました。庭は小さな「佐伯公園」になっています。
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/?p=1667

 祐三自身がこのアトリエ(豊多摩郡落合村下落合661番地、現・中落合2丁目4 番)で絵を描いたのは、結婚後、2度のパリ行きの前後4年ほどにすぎませんが、米子夫人は1972(昭和47)年に亡くなるまで、画家としてアトリエを使用しました。
 祐三の絵の大半は、相続した大阪の祐三の実家から画商に売られ、現在多くの作品が大阪市立近代美術館設立準備室の所蔵になっています。しかし、近代美術館設立予算が凍結され、開館そして佐伯の作品公開はいつになるやら。

 下落合近辺の風景画のうち、一枚は近所の小学校校長室に残っています。しかし、ほかに新宿に残されている絵はほとんどありません。
 前府知事は、図書館とか美術館とかが嫌いだったらしく、それらの予算を減らしました。(大阪を改革するためだとか。選挙戦真っ最中)そのため、大阪の近代美術館完成がいつになるのか、わからず、佐伯祐三の絵の公開もいつになるのやら。

 絵はがきやクリアファイルになった下落合風景がアトリエ記念館でも販売されていました。
 アトリエの場所は、一般の住宅街の中、路地の奥にあり、私は林芙美子の家から歩いて行ったのですが、まっすぐな道でさえ迷ってしまう方向音痴のため、大いに迷いながらやっと到着しました。
 下落合の風景は、佐伯が絵を描いたころとはまったく様変わりしています。

 アトリエは三角屋根のしゃれた木造で、米子夫人がこのアトリエで描き続けた作品も展示されていました。夫人の実家は、銀座に店を構える象牙商だったそうです。
 祐三との間に生まれた長女の彌智子は、祐三30歳での死去の半月後に亡くなってしまっています。ふたつの遺骨を抱えての帰国となったあとは、ひとり住まいだったと思うのですが、絵を描いている間は祐三や彌智子の面影とともに生きることができたのではないかと思います。

 10月30日午後、林芙美子の家から佐伯祐三アトリエまで歩く途中で、雨がぽつぽつ。雨傘を持ってこなかった日に限って雨が降る。途中、オリンピックというスーパーがあったので、傘を買いました。300円とかのビニール傘はすぐダメになるので、丈夫なほうがいいと思って、千円の傘にしたのですが、佐伯アトリエに着くころには雨は止んでいました。

 帰りは池袋行きのバスに乗って、案の定、バスの中に傘を忘れました。くやしいので、池袋ジュンク堂で本を1万円分買いました。「1万円分本を買ったレシートを11月に千円分の図書券と交換」というセールをやっていたので、千円戻ってくれば、傘の分の損を取り戻せると考えたのですが。計算、あってる? 
 ああ、素敵な絵を見ても、優雅な華族のおやしきを見ても、どこまでいってもセコイ私の生活。

<つづく>
05:47 コメント(2) ページのトップへ
2011年11月18日


ぽかぽか春庭「東京農工大学本館」
2011/11/18
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(13)東京農工大学本館

 病身を押しても、パリに出たかった佐伯祐三。画家としては、何が何でもパリで絵を描きたかった、そういう気持ち、よくわかる。昔の田舎の女子高校では、「何がなんでも東京の大学に進学したい!!」と、クラス中の女子が叫んでいました。
 とにかく大学名に東京がついていてほしかった。東京大学はまずもって無理、せめて名前に東京が入っているところへ行きたい、と乙女達はもえていました。

 東京女子大学が第一志望だったクラスメートの今朝子には「よしなよ、高校が女子校なのに、大学も女子大なんて悲惨だよ」と、忠告して、今朝ちゃんは、東京農業大学へ。え~、どうして農業なの?と聞くと、食品栄養学専攻なんだとか。今朝ちゃんは、家庭科の先生になりました。私は、東京教育大学が第一志望。でも、見事不合格。翌年は教育大の入試は中止。東京なら何でもいいということになって私立に潜り込む。名前に東京がついていないところでしたけど、校歌が「みやこの~」と始まるから、ま、東京っぽいかなって妥協。

 しかるに、男女共学の学校に入った私は4年間まったくもてず、女子大に行った級友は、他大学との合同サークルなどで恋人を作り、卒業後さっさと結婚した人が多かった。ちなみに、今朝ちゃんは、東京農業大学の先生と結婚。

 東京農工大学?高校生のころは、まったく名前を知らず、東京にそういう名の大学があることに気づいていませんでした。
 
 今年の文化財ウイーク建物公開、個人の邸宅を中心に見て歩きましたが、唯一「公共建築物」見学だったのが、東京農工大学本館です。
 東京農工大は、国立大学ですが、一般には知名度が低い。東京農業大学は、スポーツで活躍したり、文化祭の大根踊りが有名なので、農工大は農業大とごっちゃにされていて、影が薄い。実は私もどっちがどちらやらとわからずにいました。農工大は国立、農業大は私立で、どちらも、大学祭で大根を売ります。紛らわしいったらありゃしない。

 東京農工大学農学部は、1949年に設置されました。前身は1874年に設立された内務省勧業寮内藤新宿出張所設置の学問所「農事修学場」です。その後、東京帝国大学農科大学乙科となり、1935年に東京高等農林学校として東京帝国大学から独立しました。
 農工大工学部の出発点は、内務省勧業寮内藤新宿出張所の蚕業試験掛。日本の重要産業だった絹の繊維工業を研究してきて、1944年には東京繊維専門学校となりました。1949年に東京高等農林学校と東京繊維専門学校が合併して、新制大学として出発。
http://www.tuat.ac.jp/

 府中市と小金井市にキャンパスがありますが、私が訪問したのは、府中市幸町の大学本館です。文化財ウイーク公開のうち、「11月12日、13日は大学祭実施中、内部も公開」、とあったので、内部が見られる日にしようと、大学祭見物を兼ねて出かけました。国分寺から府中行きバス、明星学園前下車。
http://genki365.net/gnkf04/pub/sheet.php?id=680

 東京農工大学の本館は、1934(昭和9)年竣工の3階建てです。東京高等農林学校・府中校として建設され、現在も研究室事務室として使用しているので、普段は、内部公開はしていません。

 私、学園祭なんぞというところに出かけこと、数少ない。学園祭に燃えるべき年齢のころ、学園闘争真っ盛りの時期とて大学祭は4年間とも中止でした。2度目に入った国立校、名前に「東京」が入っているので、昔の「東京ってついてる所に進学したい」という気持ちのリベンジができたのはいいけれど、ママさん学生だったから、いろいろたいへんでした。

 学部生のときは「語科別の語劇」や「各国料理レストラン」の一員として参加はしたけれど、ノルマの「お当番」を果たしたあとは、いそいで保育園に駆け戻らなければならない。学園祭を楽しむ余裕はありませんでした。

 卒業後、母校が現在のキャンパスに移転してから、一度だけ「卒業生が新キャンパスを見る会」みたいな催しで学園祭を楽しんだことがありました。各国料理を食べまくった。週2回、仕事で通うようになった今は、母校の学園祭は「1週間、授業が休みになってうれしいな」という期間です。

 東京農工大の学園祭、大根や葱など、大学農園で取れた野菜を近所の人がたくさん買っていました。「ブルーベリージャムを最初に作った」のも農工大なんですって。

<つづく>
06:32 コメント(4) ページのトップへ
2011年11月19日


ぽかぽか春庭「東京農工大学で虫を食す」
2011/11/19
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(14)東京農工大学で虫を食す

 東京農工大府中キャンパスの大学祭模擬店。研究室やサークルごとの店も、「農工大で取れた野菜使用」なんぞを売り物にしています。
 私は、「農工大試験林の間伐材」を串にした焼き鳥っていうのを食べました。串は、握り部分はゴルフのグリップ部分くらいあって、串の長さは30cmほど。半身の鶏肉がささっていて、塩、醤油、辛子マヨネーズの3種類から味が選べます。「ごみステーション」に串を持って行くと、焼き鳥代500円のうち、100円が返金される仕組み。

 焼き鶏と豚汁をお昼ご飯がわりにしたあと、模擬店めぐりをして、たこ焼き、たき火バームクーヘン、モンゴル肉まんなどを食べました。食べ過ぎだっちゅうねん。たき火の上で太い竹をぐるぐる回し、その上に小麦粉を垂らして焼いていくバームクーヘン、面白いから買ったのだけれど、200円で小さなかけらがふたつ。売っている方の労力からすると、こんなものなんだろうけれど、食べるほうからすると、う~ん、もうちょいと大きいかけらを食べたい。
 ほかにも、バラ研究会のバラクッキーとか食べてみたいもの、たくさんあったのだけれど。本日の目的は食べることじゃなくて、近代建築公開なので、、、、

 小腹を満たしたあと、本日のメインイベント。本館公開。
http://maskweb.jp/b_tuat_1_0.html

 東京農工大学本館3階は、ミニ博物館になっていて、昆虫生理学・応用昆虫学の碩学という石井象二郎博士の事跡を展示していました。2002年に博士から寄贈された研究資料を公開しているのだそうです。
 国際昆虫学会議の会長を勤めた立派な先生で、著書は紹介しきれないくらいたくさんあるのですが、最も有名なものは、ゴキブリの集合フェロモンを発見したことです。
石井象二郎『ゴキブリの話』北隆館(1976年)

 私、昆虫好きなほうだけれど、虫を捕まえて標本を作るより、どっちかと言えば、昆虫を食べるほうに興味がある。どこまでいっても、食い気の私。
 そしたら、さすが農工大。ちゃんとありました。昆虫を食べさせるところ。2号館304号室の昆虫機能生理化学研究室展示「昆虫料理試食会」

 ゆでた蚕の幼虫、「醤油をたらして食べて下さい」と研究室の大学院生が言ったけれど、私は虫そのものの味が知りたかったので、醤油つけずに食す。蚕さなぎの唐揚げなどもいただきました。おみやげに蚕さなぎ唐揚げ4粒100円と蚕粉末入りクッキーの袋100円を買いました。

 私は、子どもの頃、おばあちゃん特製のイナゴ佃煮を食べたことあるし、薪のなかに潜んでいた幼虫を風呂炊きしながら食べたことあった。薪の中の幼虫はこんがり焼けて香りがよく、美味でしたが、姉と妹に「そういう人はそばに寄らないで」と、宇宙人扱いされました。
 大人になってからも、北京動物園内のレストランで「蝦エビ」の文字と見間違えて「蠍サソリ」の唐揚げを注文してしまい、食べるはめに。滋養強壮の薬膳で、高級食材なんだそうです。まあ、サソリもザリガニもイセエビも見た目は同じ。長春赴任中は、スーパーで普通に売っている蚕さなぎの佃煮を買って食べた。

 昔、西丸震哉の「昆虫を食べよう。ハエの幼虫をデンブにしてタンパク源にすれば、地上の飢え問題は解決」という論を読んで、その通りと思ったのですが、ハエのウジデンブは今だに実現していません。
 しかし、長野など中部地方のハチの幼虫を食べる「ハチの子」は珍味として有名ですし、最近では世界の民族食文化として、昆虫食が見直されてきたので、「昆虫を食べる」というのも、一概に「気持ち悪い」と疎まれることもなくなりました。めでたし。

 農地周辺の昆虫は、農薬の影響を受けているので野生の虫はむしろ食べない方がよい、と言われている昨今ですが、昆虫食研究者の本も売れてきて、昆虫食啓蒙活動は続いています。2011年5月には、日本初の昆虫食を科学する研究会が発足しています。
 http://e-ism.jimdo.com/
  
 近代建築を見学に来たはずだけれど、生来の食いしん坊で、食べることばかりの報告でした。いつものこっちゃけど。
 みなさん、虫はおいしい!昆虫食は人類を救う。
  昆虫食の本紹介
 ・野中健一 『虫食む人々の暮らし』NHKブックス
 ・梅谷献二 『虫を食べる文化誌』創森社

 農工大で一番有名な人。昆虫学の先生とかじゃありません。
 農工大有名人といえば、生協の白石さん。でも、白石さんは私が行った農学部府中キャンパスではなく、工学部小金井キャンパスの生協勤務なので、府中キャンパスでは見かけることはありませんでした。残念。

 東京農工大、大根はどちらのもおいしいだろうけれど、みなさん、東京農大と間違えないでやってください。


<つづく>
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2011年11月20日


ぽかぽか春庭「流転の王妃ゆかりの家」
2011/11/20
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(15)流転の王妃ゆかりの家

 19日は大雨になったので、心配していましたが、20日はよく晴れました。少し暑いくらいの横浜で開催された「横浜国際女子マラソン」をテレビ観戦しました。最後まで尾崎、木崎両選手がデッドヒートを演じるレース。木崎選手がマラソン初優勝を果たしました。優勝選手はロンドンオリンピックの代表選考に有利ということで、1万メートルの選手からマラソンに転向して、マラソン経験はまだ少ない木崎選手、初優勝、さぞうれしいだろうと思います。

 今年は2月に姑や娘息子と横浜へ行ったほか、9月19日には一人で横浜散歩をして、山下公園のあたりを歩きました。選手達が横浜の街を駆け抜ける、その沿線の風景にもなじみがあって、娘と「ああ、あの赤レンガ倉庫のあたり、歩いたね」などと、見覚えのある景色を楽しみながらのマラソン応援になりました。

 9月の横浜散歩では、近代建築、西洋館めぐりと神奈川近代文学館の安野光雅展を楽しみました。近代建築めぐりも、たいていは都内の散策ですが、たまには神奈川や千葉、埼玉などへもちょっと足を伸ばして行きたいです。
 11月は、千葉市内の建物を見ました。

 「ゆかりの家・いなげ愛新覚羅溥傑仮寓」は、千葉市稲毛区にあります。溥傑が嵯峨浩と結婚して、新婚時代に暮らした家が保存されているのです。
 千葉市の稲毛駅は、稲毛総武鉄道(千葉両国間)の「稲毛停車場」として1901(明治33)年に開設されました。1921(大正10)年には京成電車(千葉押上間)の「京成稲毛駅」ができたこともあり、稲毛近辺は東京の人々にとって、電車で行ける保養地別荘地、海水浴場として人気が高まりました。
 「ゆかりの家いなげ」 は、東京市神田区の鈴木家(水飴商「笹屋」)が購入した保養施設で、その後、愛新覚羅溥傑夫妻が結婚後、1937(昭和12)年に半年ほど住んでいました。
http://www3.plala.or.jp/gallery-inage/aboutus/yukarinoie.html

 私は浩の自伝『流転の王妃』を読んだし、旧満州の首都だった長春に赴任した縁もあり、旧満州帝国の歴史には興味がありました。
 愛新覚羅溥傑と浩は、戦後長く日本と中国に引き裂かれていました。しかし、その間にもこまめに文通をして絆を深めていたことを、自伝『流転の王妃』やそれをもとにしたテレビドラマで知っていたので、いつか書簡集が出るのではないかと思っていました。

 福永嫮生『流転の王妃 愛新覚羅溥傑・浩 愛の書簡』は、2011年10月に文藝春秋社より発刊。
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163742502

 著者の福永嫮生(ふくながこせい)は、中国清朝そして満州帝国のラストエンペラー愛新覚羅溥儀の姪にあたります。父は皇弟溥傑。母は嵯峨侯爵家から嫁いだ浩。嫮生は、母の実家嵯峨家で育ち、福永健治と結婚。健治の叔父の妻福永泰子は浩の妹で、香淳皇后に仕えた女官です。(嫮生の生涯は『流転の子-最後の皇女愛新覚羅嫮生』(本岡典子)に詳しい)
http://www.honzuki.jp/book/book/no184590/index.html

<つづく>
15:27 コメント(2) ページのトップへ
2011年11月22日


ぽかぽか春庭「ゆかりの家いなげ」
2011/11/22
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(16)ゆかりの家いなげ

 テレビ朝日開局45周年記念のスペシャル番組『流転の王妃 最後の皇弟』、2003年11月29日11月30日の二夜放映。常盤貴子が愛新覚羅浩、竹野内豊が愛新覚羅溥傑を演じました。
 いつもは「戦争のシーンがいや」と言って近代史に関係したトラマはあまり見たがらない娘でしたが、『流転の王妃』は、常盤貴子の浩と竹野内豊の共演が見たいと言い、息子と3人で見ました。(娘は、関ヶ原とか源平の合戦なら「遠い歴史のこと」として槍や鉄砲での戦シーンも見ていられるのに、近代史だと身につまされるので見たくない、と言うのです。戦争や原爆を描いた映画やドラマでも娘は涙滂沱となり、ドラマと割り切っている私までついもらい泣き)

 ドラマの『流転の王妃』、フィクション部分もありますが、おおむね史実や浩の自伝に忠実に作られていました。再放送はBS朝日2009年1月2日。
http://www.bs-asahi.co.jp/ruten/

 溥傑は、愛新覚羅溥儀の弟です。溥儀は清朝のラストエンペラー。革命によって清朝皇位を失った後、日本が無理矢理成立させた満州国の「執政」として新京(現在の長春)に入り、ついで皇帝となりました。
 満州を支配しようとしていた日本軍幹部は、愛新覚羅溥傑の妃に皇女降嫁を画策したのですが、皇室典範の規定でそれはできませんでした。皇室典範によると、皇女は日本の皇族又は華族に降嫁する以外に結婚できず、溥傑は皇族扱いではなかったから。

 旧大韓帝国の日本併合後、李王家は準日本皇族としての待遇を受け、王世子(皇太子)李垠の妃は皇族の梨本宮家から方子女王が嫁ぎました。しかし、満州国は独立国として扱われたので、溥傑は皇族出身の女性を妃に迎えることは出来ず、浩が愛新覚羅溥傑妃として選ばれました。嵯峨浩の父方の祖母仲子(南加)は、明治天皇生母中山慶子一位局の姪で明治天皇のいとこにあたるゆえ、華族の中でも皇室に近いとみなされたためです。

 満州国崩壊後、浩は次女嫮生を連れて敗戦後の旧満州を1年半にわたって流浪し、辛酸をなめました。戦後も家族の悲劇は続き、溥傑は中国に浩は日本にと引き裂かれたまま。さらに嫮生の姉の愛新覚羅慧生は、学習院在学中、同級生の大久保武道に同道し、天城山で頭をピストルで撃たれ死亡しています。(天城山心中事件として知られています。嵯峨家側愛新覚羅側から言わせると心中ではなく、無理心中またはストーカー殺人。真相は不明のまま)

 そんな家族をつなぎ止めた、愛新覚羅溥傑と浩との手紙のやりとり。浩と溥傑は、政略結婚で結ばれたにもかかわらず、本当に心から愛し合っていた夫婦だったのです。手紙に登場する関係者が生存しているうちは、この書簡集が活字化されることはないかと思っていましたが、次女の嫮生が71歳ですから、浩と溥傑に直接関わった人々に迷惑をかけることもなくなった時期になったのでしょう。
 書簡集は、歴史の一断面の証言でもあり、希有な人生を歩んだ夫婦の愛の記録でもあります。

 私は11月8日、この「ゆかりの家」を見て来ました。行きはJR稲毛駅から歩いて行ったのですが、思ったより遠かったので、帰りはバスで駅に戻りました。京成稲毛駅からなら、もっと近くて歩くのが楽。
 http://www.kyoikusinko.or.jp/sisetsu/04.html

 1937(昭和12)年に結婚した愛新覚羅溥傑と嵯峨侯爵家長女の浩。ふたりが新婚の住まいとして住んだ家は、他の華族のおやしきに比べるとごく簡素な普通の家です。日本の皇族に準ずるとされた朝鮮王家の李垠(りぎん)が、赤坂に華麗な宮殿を建てた(旧赤坂プリンスホテル旧館)に比べると、まさに「仮寓」という印象の小ぶりな家です。
旧朝鮮王世子李垠邸
http://maskweb.jp/b_riouke_1_0.html

<つづく>
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2011年11月23日


ぽかぽか春庭「愛新覚羅溥傑仮寓」
2011/11/23
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(17)愛新覚羅溥傑仮寓

 1932年3月1日、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を元首(満洲国執政)として成立した満州国。2年後、1934年に溥儀が皇帝として即位したものの、国際的には承認されませんでした。「満洲帝国は日本の傀儡国家」とみなされ、溥儀も皇帝たる自分に何の権限もなく、日本軍部の意のままに満州国が扱われることにいらだちを深めていきました。皇后はアヘンに溺れ、もうひとりの正妃は満州国入りする以前に離婚を要求して溥儀を離れていました。

 後継男子を持たなかった溥儀のもとには、跡継ぎ候補の親族が養育されていましたが、もし、日本人である浩と溥傑の間に男子が出生していたら、日本軍部は跡継ぎにゴリ押ししたことでしょう。
 きな臭い政略結婚であったにもかかわらず、浩と溥傑は仲むつまじく、娘ふたり慧生(すいせい)嫮生(こせい)も誕生しました。

 溥傑夫妻の長女慧生は日本の母の実家嵯峨家で育ちましたが、自分に流れる中国の血を意識し、中国語を学びました。慧生は周恩来首相に手紙を書きました。両親が日本と中国に引き裂かれたままでいる悲しみについて書かれた手紙に、首相は心打たれたそうです。日本と国交がなかった時代でしたが、周恩来首相は、浩が溥傑とともに暮らせるよう計らいました。夫婦が海を隔てて引き裂かれてから16年たち、ようやくいっしょに中国で暮らすことができました。

 ゆかりの家には、書家としても著名であった溥傑の書が掛け軸にありました。また、浩が死去したあと、晩年の愛新覚羅溥傑が次女の福永嫮生とともに新婚時代の家を訪ねた写真が、「ゆかりの家」に飾られていました。新婚当時の婦人雑誌に掲載された「名家の新婚夫妻特集」というようなシリーズで溥傑夫妻が仲良く写っている写真もありました。

 離れなどを見ていると、係員が「離れは、夫妻の書斎で、ふたりだけでくつろぐ時やごく親しい友人を招くときに使われていました。トイレは陶器製なんですよ」と、和式のトイレを鍵を開けてみせてくれました。有田焼きの便器でした。建具や照明器具など、当時のまま残されているものも多い、という係員の説明でした。

 「ゆかりの家」内部写真紹介のブログ(ただし、ここにも誤情報が。浩を「皇族」と書いています。浩は華族ではあったけれど、皇族ではない。いつもの「個人ブログは間違い多し」の例。春庭サイトにも間違いがいろいろあると思いますので、情報についてはそれぞれご自身にて確認なさってください)
http://vicroad.blog31.fc2.com/blog-entry-746.html

 庭のしつらえも当時と同じにしていると、いうので、お庭も拝見。 
 玄関の裏庭に、「白雲木」という木が新しく植えられています。これは、浩が結婚するときに貞明皇后が下賜した木の子孫の木だということです。
 それほど広い庭ではありませんが、柚の木の下にゆずの実が一個落ちていました。「ゆかりの家」の「ゆかりの柚子」と思って拾いました。小さな柚子から香りが広がりました。
http://area.rehouse.co.jp/r-chiba-bay/151

 過酷な運命に翻弄された溥傑と浩ですが、晩年は夫婦仲良く中国で暮らすことができ、ふたりしてこの稲毛の新婚時代の家をなつかしむこともあったことでしょう。浩は「日中の架け橋」として両国の友好に勤め晩年をすごしました。
 旧満州の首都新京(現在の長春)に3度も赴任したという縁を持つ私。私も友好を願って、ゆかりの家から火曜日の出講先へ向かいました。

 火曜日は2クラス50人の中国人留学生相手に、「日本で報道されている新聞雑誌のなかの中国像」というテーマで授業をしています。日本語読解の練習として、今、目にできる新聞雑誌の表現の中から、「せめて、漢字を中国語読みでなく、日本語の発音でなんと読むのか、読めるようになりましょう」という意図の授業であり、日中関係分析とかそんなところまではとてもじゃないけれど、行きつきません。「今日」と書いてあれば、意味だけ理解して読み方は「ジンリー」とか「ジンティエン」で済ませてしまうレベルの学生のクラスです。「今日」は、キョウと読むときとコンニチと読むときで使い分けがあることをわかってもらう、という段階の授業。

 11月8日の学生発表は、「一人っ子政策、是か否か」という新聞記事。また、中国の宇宙進出に関する記事、中国が世界でもっともCO2排出量が多くなってしまった、という記事でした。

 クラスのほとんどの留学生が一人っ子です。小皇帝、小公主と呼ばれる、わがままいっぱいの今時の中国人留学生たち。いっしょうけんめい日本語学んで、日中の架け橋になってほしいです。

<つづく>
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2011年11月25日


ぽかぽか春庭
2011/11/25
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(18)偽満州皇宮

  「売り家と唐様で書く三代目」という川柳。初代が苦労して作った家屋敷も、 3代目となると売りに出すことになる。商いをおろそかにし中国風の書体で優雅に手習いを続けたはいいが、財産使い果たし「売家」のはり紙をするハメになる、ということわざになっています。
 平成の世でも三代目のアホボン、紙屋の若旦那がマカオのギャンブルに入れあげて、会社の金を106億円も使い果たしてしまった、という。
 アホボンはどこにでもいつの時代にもいるものだとは思うけれど。それにしても、100億とは。

 清朝11代目の光緒帝。中国に赴任して中国近代史に親しむようになるまでの私のイメージでは、光緒帝はアホボンのように思っていたのです。伯母の西太后に牛耳られて、清朝崩壊に手をこまねいていた11代目。しかし、浅田次郎原作のドラマ『蒼穹の昴』では、時代の波に飲み込まれようとする清朝を、自分なりに懸命に立て直そうとして果たせなかった悲劇の帝王として描かれていて、私も西太后や光緒帝へのイメージを改めました。
 愛新覚羅溥傑仮寓を見て来て、旧満州の首都新京(現在の長春市)で溥儀の皇宮を見たときのことを思い出しました。

 私は、1994年と2007年に、北京の紫禁城、長春の満州国皇居、2009年にヌルハチの瀋陽故宮を訪ねました。2007年に長春や大連市内の近代建築めぐりをしたことが、私の「近代建築めぐり」のきっかけでした。それ以前は「庭めぐり」「博物館めぐり」のほうが散歩の中心で、建物は「庭に付属する建物」という感じで見ていました。たとえば、旧古河庭園の中に建つコンドル設計の邸宅、という見方です。

 長春市内には、満州国時代の建物が数多く残されており、近代建築がそのまま現代まで役所や病院として使用されていました。私が住んでいた宿舎も、1930年代に建てられた官舎をそのまま修理しつつ使用していた2階建てでした。(1930年代の都市インフラとしてはたいへんすぐれた設備であった上水道も、そのまま使い続けられていたので、水道管がさびていて、水道をひねるとしばらくは赤い鉄さびまじりの水が出るのが玉に瑕でしたが)。

 長春市内の近代建築のうち、ラストエンペラーに関わる建物ふたつだけ、思い出の「建物めぐり」として紹介しておきます。2007年の「ニーハオ春庭中国日記」の「偽満皇宮博物院(元満州国溥儀皇居)」の訪問記です。2007年5月25日~31日。
 でも、読み返して見たら、建物紹介などあまりしていなくて、おみやげを値切り倒した話とかでした。2007年の偽満皇宮博物院訪問記は、ラストエンプレス、最後の皇后婉容の話が中心なので、興味があったらごらんください。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200705

 2007年に訪問したときは、博物館の展示についていた解説の日本語、間違いだらけでしたが、その後きちんとした日本語表示になったでしょうか。
 中国東北旅行した方々のブログから、写真を拝見。
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tour3/08.html
http://uenotblog.jugem.jp/?eid=187
http://blog.goo.ne.jp/meytel999/e/9591bcdbf2e6bdc111e44b39e347bde2
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/tyosyun_019.htm
http://www.jmcy.co.jp/~goto/photo2005/ETC/O050516.htm

 満州帝国の首都新京は、現在では中国吉林省の省都長春市となっていますが、満州時代に建てられた建物がそのまま役所や大学として使用されており、歴史的文物として保存されています。しかし、つい最近まで残されていた満鉄社宅などの一般住宅は、どんどん取り壊されて高層ビルになっていることが多いので、私が住んでいた宿舎もいつまであの繁華街の中心地に残されているか、心配です。

 溥儀が皇位復辟を成し遂げようとして傀儡皇帝とならざるを得ず、悶々として過ごしたという新京皇宮。それほど広くもなく豪華でもない皇宮の中、見果てぬ夢の残骸だけが冷え冷えと広がっていました。
 
 夫婦引き裂かれても絆を信じ、ついに再会をはたして晩年は仲むつまじく暮らすことができた溥傑夫妻。皇后はアヘンの禁断症状にのたうちながらの死。側妃は自ら離婚を望んで去る。唯一、溥儀が愛したとされる妃は謎の死を遂げる(溥儀は関東軍による暗殺と信じていた)。戦後、共産党からあてがわれた妻は看護婦兼共産党へ溥儀の動向を報告する役割の女性、この女性に頭が上がらなかったという溥儀。

 人の幸福は、皇帝の地位や106億円でも買えません。引き離されても決してほどけない絆を得た人が、もっとも幸福なのかもしれません。
 ほどけっぱなしの絆の我が夫婦愛。絆を結ぶにはそれ相応の努力が必要なのでしょうね。夫婦愛、、、、夜の絆のためにはエリエールを買っておきましょう。って、最後は「お気をつけあそばせその女下品ですから」と言われるようなことになってしまって、やはりお里は隠せませんですわ。
 それにつけても、欲しいな106億円。
 
<つづく>
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2011年11月26日


ぽかぽか春庭「デンキブランの家・旧神谷伝兵衛稲毛別荘」
2011/11/26
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(19)デンキブランの家・旧神谷伝兵衛稲毛別荘

 千葉市稲毛区の「ゆかりの家」の近所にある「旧神谷伝兵衛稲毛別荘」。
 「愛新覚羅溥傑ゆかりの家」を地図で確認したとき、同じ千葉市の管理文化財として旧神谷伝兵衛邸があることを、はじめて知りました。
http://www3.plala.or.jp/gallery-inage/aboutus/kamiyabeibesso.html

 神谷伝兵衛(1856(安政3)~1922(大正11))は、電気ブランで有名な浅草のカミヤバーやワイン醸造の牛久シャトーを設立した実業家です。
http://maskweb.jp/b_kamiyavilla_1_0.html

 1885(明治18)年に「蜂印葡萄酒」、翌年「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」の名で売り出し、1898(明治31)年に茨城の原野を開墾して神谷葡萄園を開園しました。1903(明治36)年、ワイン醸造場を設立。この建物は、現在シャトーカミヤとして国の重要文化財になっています。
http://www.ch-kamiya.jp/

 神谷伝兵衛稲毛別荘は、千葉市内で最も古い鉄筋コンクリート建築で、1918(大正7)年に、晩年の神谷伝兵衛が、来賓歓待用に建てた洋館です。建物は1階が洋室、2階が和室の和洋折衷の造りは、当時のお金持ちの洋館と同様のデザイン(コンドル設計の旧古河男爵邸も1階が公のスペース洋室。2階が私的スペースで和室でした)。

 邸内の各所に葡萄がデザインされた意匠が見られます。欄間に葡萄房を表現した彫刻があり、床の間の柱には葡萄の古木を用いています。伝兵衛がいかに「葡萄酒」に心をくだいたかが、この葡萄意匠へのこだわりにもうかがえます。
http://www.geocities.jp/chiba_bunka/kamiya.html

 2階階段をあがった次の間スペースに牛久シャトーで葡萄酒醸造を始めた頃の写真とか、ハチ葡萄酒の宣伝ポスターなどが展示してありました。牛久にはワイン博物館があります。シャトーカミヤの建物もみたいので、そのうち訪ねてみようと思います。
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumSearchDetail_jp.jsp?im_id=1354

 ハチワインポスターの美人モデルは、グラスをあげてとろんとした目をながしています。ハチワイン、飲んでみたくなりました。
 旧前田侯爵邸に「カフェ・マルキス」をオープンさせたように、神谷伝兵衛別荘でも、カフェ・カミヤなんぞをオープンして、ハチ葡萄酒や電気ブランを売り出したらよさそう、と思いました。カミヤ邸のとなりは千葉市の市民ギャラリーになっているので、ギャラリーで絵を見た帰りに一杯というのもよさそうです。

 11月14日夕方、はじめて浅草カミヤバーに入り、デンキブランを飲んでみました。このカミヤバー、バーという名がついているので、これまで浅草に来て店の前を通っても、入ったことがなかったのです。おひとり様で「バー」なる所へ入る勇気がなかった。気が小さいもんで。
 14日午後は、浅草寺で開かれた「油絵茶屋」という催しを見に来てにわか雨に遭い、「雨宿り」の軒を借りるつもりで、おひとり様でカミヤバーに入りました。

 カミヤバーは、創業は明治時代ですが、今残る浅草の店舗は、1921年(大正10年)の竣工。2011年7月に国登録有形文化財として新登録された建物です。
 以下の文化庁のページの2番目にカミヤバーの登録が記載されています。
http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/yukeibunkazai_toroku_110715.pdf

 次回、つづけて、カミヤバー報告。

<つづく>
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2011年11月27日


ぽかぽか春庭「デンキブランの店カミヤバー」
2011/11/27
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(20)デンキブランの店カミヤバー

 大正時代の建物、カミヤバーの紹介サイト
http://maskweb.jp/b_kamiya_1_1.html

 世間を知らない私。テレビドラマでしかバーを知らないので、バーってのは、きれいに着飾った女性がお酌をしてくれて、ビール一杯で万札が飛ぶような感じだった。
 現実のバーは、30年も前に池袋場末のバーにタカ氏やアフリカ旅仲間といっしょに入ったことがあるだけ。結婚後は、夜6時以降は外に出ることもない生活でした。タカ氏はまったく飲まない人だし、妻といっしょに出かける何てことはまったくしない。
 娘が夕食係になるまでは、仕事がおそくなっても「早く帰って子ども達に夕ご飯作らねば」と大急ぎで帰宅するような生活だったので、おひとり様で出かけることもなかった。世間一般の「夜遊び」というものを知らない。

 カミヤバーは相席方式で、どんどん客を詰め込んでいく。1階の相席で、4人掛けのテーブル。二人連れのおば様と杉戸町在住メーカー営業マンというごま塩紳士といっしょになりました。相席男性の説明によれば、ここは女性おひとり様でもふたり組でも、気楽に立ち寄れる西洋居酒屋で、一般にいうバーとは違う、とのこと。

 デンキブランは、アルコール30度という割には飲みやすく、けっこう飲めました。蜂印ワインもいっしょに飲みました。カミヤバーのおすすめはビールと電気ブランを交互に飲む方法らしいのですが。
 レジで配布している「デンキブラン今昔」というカードによれば。浅草名物の電気ブランは、ブランデーをベースにしたカクテルで、当時最もハイカラなことばだった「電気」をつけて「電気ブラン」と命名されたそうです。
 ブランデー、ジン、ワイン、キュラソー、そして薬草を混ぜたカクテル。120年間、変わらずに愛飲されてきたカクテル。おいしゅうございました。といっても、おいしいお酒というのがどういうものかも知らずに風呂上がりにビール飲むくらいが関の山だったので、たぶん、おいしいのだろうと思うのですが、はじめて一人でバーにはいったうれしさの味だったのかも。

 カミヤバー相席のおばはんのうち一人は「若い頃は銀座有楽町で遊び回ったのよ」とおっしゃる恰幅のよい方。お連れさんは「浅草お酉様の二の酉でこれ買ってきたの」と、小さなお飾りを見せてくれました。稲穂や金色のミニチュア米俵があるデコレーションです。「あら、いいですね。これで来年もご一家繁栄ですね」と、相づちを打つ。

 遊び慣れたようすのおばはんを前に、「私は苦労のしっぱなしで、これまで夜遊びしたこともなく、カミヤバーに入ってみたのも初めてなんですよ」と、遊び知らずに生きてきてしまったことを愚痴りました。男性は、「苦労の多い人生なんて、みんなそう。ここで飲んでいる人、全員が自分が一番苦労した人生だと思っていますよ。あなたなんか、こうして飲んでいるんですから、幸運な人なんです」と言う。ほんとにね。喰うや食わずで生きてきて、バーと名の付く所に何十年ぶりからで入った、とはいうものの、まだ生きているんだから、確かに幸運なのだと思います。
 
 営業マンという男性のほうは、カミヤバー常連さんらしく、「この店の奥のほうには常連さんのテーブルがあって、70代、80代、90代のご老公もいて、話好きだからおもしろいよ。次にきたら、奥の10人掛けテーブルに座るといい」と、カミヤバー指南をしてくれました。

 午後3時半に入店したというので、平日の午後、退職後のひまつぶしかと思ったら、今も現役営業マンという。「バブルはじける前は、接待費使い放題。銀座でも派手な飲みっぷりでならしたもんですが、今はここで一杯300円500円の酒です。部下を誘っても、近頃の若いもんは、上司の誘いを平気で断るもんで」と、愚痴もこぼれる。

 カミヤバーで相席になった男性、浅草から東武線一本の杉戸町に住んでいるので、生ビールやデンキブランを数杯傾けてから帰るのだとか。育ったのは浦和市というので、「あら、私も浦和に10年間住んでいました」と、御当地トークがはずみました。

<つづく>
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2011年11月29日


ぽかぽか春庭「ハチ葡萄酒で乾杯」
2011/11/29
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(21)ハチ葡萄酒で乾杯

 カミヤバー相席のおっさん、そのうち、ポケットから写真をとりだして、家族自慢&愚痴がはじまった。奥さんといっしょに飲むのは正月二日だけ。娘ふたりのうち、ひとりは五大湖近くのキングストン出身カナダ人と結婚、ひとりはテキサス出身アメリカ軍人と結婚して、婿二人は日本語を覚えようとしないので、話が通じない。

 アメリカ婿は横田基地に住み、カナダ婿はカナダ大使館に勤務なので、孫達も英語オンリーだったのだけれど、一番年上の孫は少し日本語が話せるようになった。アメリカンスクールは6月から夏休みなので、日本の小学校が7月末に夏休みになるまでの間だけ、杉戸町の小学校に一ヶ月通わせて、なんとか日本語で話が通じるようになったのだそうです。田舎町のこととて、最初は「あいのこ」なんてイジメも受けたけれど、日本語が上手になった、と男性は孫4人の写真を見せる。

 孫たち、みな美形。子役やモデルになれそうですね、と誉めると、さらにポケットから地方の衣料店の広告チラシを出して、「ほら、これ、うちの孫。モデル始めたんです」と、見せて「こんな田舎のスーパーの衣料品チラシですが」と、まんざらでもなさそう。
 営業の仕事も最近はさっぱりで、女房は自分の世界で好きにやっているし、孫達とは会話が通じないという男性、カミヤバーでたまたま相席になった客相手に、孫自慢に励む、そういう人生もまたよきかな。

 カミヤバーで話した相手のことを手帖にメモしているのだと、見せてくれました。私のことは、「息子が23歳という話から推察して50代前後と思われる婦人と相席。子どもは息子のほか娘ひとり。夫は酒も飲まずタバコも吸わない。群馬生まれで、結婚まで埼玉に住んでいた東京在住の女性」と記録するそうです。

 私と話しての印象は、「テニオハがはっきりしていて、しゃべり方に曖昧な点がなく、インテリゲンチャの雰囲気がある」とのこと。「インテリゲンチャって、そりゃ完全に昭和語ですね。そういう死語は、若い人には通じないでしょう」と混ぜっ返すと、「ワカイモンとは、仕事の話も通じなくなってきた」と、愚痴。だいぶ職場では浮いているごようす。

 バブル後、営業の成績も右肩下がりになって、職場で孫の衣料品店チラシモデル写真なんぞを見せても、受けるのは1回だけ。それ以上は「また孫自慢だよ」と敬遠されてしまいます。けれど、この相席テーブルで毎回違った相手に見せていれば、その都度自慢できる。孫のモデル姿がある広告チラシはだいぶヨレヨレになっていました。

 「これから池袋行きのバスに乗って、練馬まで帰る」というおばはんふたりが立ち上がったので、「私もそのバスに乗って帰ろうと思っていたのですが、バス停がわからないので、ごいっしょさせて下さい」と、バス停まで行く。バス路線があるのは知っていたのですが、これまではバス停の場所がわからないので、雷門前から上野行きのバスに乗っていたのです。池袋行きのバス停は東武浅草駅のすぐ裏手でした。

 バスは、吉原大門、日本堤、三ノ輪などを抜けて夜の下町を走ります。
 吉原から三ノ輪投げ込み寺へ直行した幕末明治の女の人生もあったろうし、戦災で散った昭和の女の人生もあったろう。津波でなにもかも流された平成の女の人生もまた。

 今生きている私は幸運なのだ、と思って、池袋行きのバスを途中下車。
 東京農工大学のおみやげ「昆虫クッキー」は、案の定娘息子に嫌がられたので、駅前で「おみやげ、ミスタードーナツとマックどっちがいい?」と聞いたら、娘はハンバーガーがいいというので、マックを買って帰りました。娘は夫からの遺伝で、お酒はまったく飲めません。息子は一応は飲めるけれど、人中ですごすのが苦手なので、いっしょにバーに連れてもゆけない。ま、これからもひとりで飲みに行こうかと思います。

 あ~、ひとり飲むのもオツだけど、ふたりでしみじみ飲むのも大勢でワイワイと飲むのも好きです。お誘いあらば、どこにでも。
 酒は焼酎でもワインでもデンキブランでも。おつまみはキャビアでもトリュフでも昆虫でも。

<つづく>
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2011年11月30日


ぽかぽか春庭「建物巡り散歩ひとくぎり」
2011/11/30
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(22)建物巡り散歩ひとくぎり

 歩くことで健康維持を図りたくはあるのですが、一日何万歩というような目標を定めてもくもくと歩き続けるとか、山の頂上を極めて達成感を得るとか、そういう目標達成型の建設的な歩き方ができません。美術館の中をぶらぶらと好きな絵を眺めて二巡三巡するような歩き方、気に入りの建物を探して道に迷いながら、ようようたどり着くというような歩き方しかできないのですが、これでも歩く動機付けにはなっているから、いいのでしょう。

 いろんな生き方があっていいし、いろんな趣味があっていい。これからもプラプラと気ままに歩いて、気ままに絵を見たり建物を見たり、何もせずにただ景色をぼうっと眺めながら歩いていきたいと思います。
 
 今回の文化財公開で、見逃した建物もたくさんあります。たとえば、新宿区の旧島津家アトリエ。現在は中村邸として住んでいる方がある文化財なので、公開日時が決まっていて、その日を逃してしまったら、来年までおあずけ。ま、来年まで生きていようというモチベーションになりますから、よしとします。

 武者小路実篤邸などはなぜか11月中に2度も訪問したのに、行こうと思っていた三鷹の山本有三邸には11月には行く時間がとれなかった。まあ、ここもいつでも公開しているのだから、そのうち行って、『路傍の石』の作者の家、ゆっくり見てこようと思います。

 未完に終わった『路傍の石』。中学生のときに私が書いていた日記を読んだら、『路傍の石 続編』というのが書かれていました。未完のままなのを残念に思い、続編を勝手に付け足したのです。自分で書いたのにすっかり忘れていて、けっこう面白く読みました。『風とともに去りぬ』とか『明暗』は、著作権が切れてから続編が出版され、ヒット作にもなりました。私が中学生のとき書いた『路傍の石』続編、著作権が切れる2024年まで長生きできたら、公開できるかも。
 長生きのためにも、せっせと歩いて健康維持。でも、風邪を引いても何だし、寒い北風吹く間は外歩きも一休みして、日だまりでひなたぼっこがよろしいかも。

 急に寒くなって、あわてて灯油券を買ってきました。インフルエンザ予防注射もすませて、いよいよ12月。冬よ僕に来い、、、、って、あたしんとこには来なくていいから、僕のところへ行ってあげてね。ことしの冬はラ・ニーニャ(スペイン語で「女の子」という意味。「あたい、おんにゃのこよ」って言うようなちっちゃな女の子の感じがします)の影響で厳冬だそうです。みなさまご自愛のうえ、12月をお迎え下さい。
 じゃ、あたいも冬ごもり。

<おわり>

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アート散歩ー美術という見世物2011年12月

2010-03-12 08:32:00 | 日記
2011/12/02
春庭@アート散歩>美術という見世物(1)浅草寺境内の油絵茶屋

 11月14日の仕事帰り、浅草に寄り道したのは、浅草寺境内で行われていた「油絵茶屋再現」を見るためでした。月曜日だから、土日よりは混雑していないだろうと思って出かけたのに、鷲(おおとり)神社の二の酉があったので、境内、平日の夕方とは思えない人出。
 おまけに途中で天気予報にはまったく出ていなかったにわか雨。浅草寺五重塔の先、西の方にはお日様が見える天気雨ですが、かなり強くふったので、境内の人々はそれぞれ本殿や門のひさしに寄り集まって雨宿り。境内には菊の展示会なども開催されていたのですが、なんとも予報外の雨で、菊の花見もままならず。

 油絵茶屋再現は、10月15日から11月15日までの催しとしてGTA(芸大、台東、墨田観光アートプロジェクト実行委員会)が主宰し、芸大の小沢剛(油絵科非常勤講師)が中心となって行われました。
 日本で初めて一般の人が油絵を目にした見世物「油絵茶屋」を、1875(明治7)年の新聞記事などの資料からできる限り当時のままに再現してみよう、という試みです。
 油絵茶屋再現を紹介しているサイト
http://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/4b97252396444c9d5a45c073bac58060

 浅草浅草寺参詣を済ませた人々が物見遊山に集まる「奥山」。文化文政から幕末、そして明治以後も、浅草界隈は東京でもっとも賑わう盛り場でした。手品、からくり人形からろくろっ首まで、さまざまな見世物小屋が呼び込み口上を張り上げ、人々は看板を見上げてどこが一番面白そうか、浅草遊山のみやげ話に一番よさそうなのはどれかと、楽しんでいました。
 明治時代も娯楽の殿堂浅草は、文明開化を囃し立て、西洋サーカスから人間ポンプまで、さまざまな見世物が客を集めました。

 幕末、明治の油絵について。
 鎖国中の江戸にも、オランダなどから油絵が伝来して将軍に献上されたり、長崎に出て油絵を習う者もいたし、江戸後期になれば西洋風に遠近法などを用いて絵を描いた司馬江漢や平賀源内もいました。しかし、一般の人にとって、絵といえば浮世絵、大和絵などであり、油絵を親しく見ることができる層は限られていました。

 五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)1827(文政10)~1892(明治25)は、10歳ころ、歌川国芳に入門し、20歳ごろには長崎で油絵を見ています。そののち、日本画に用いる絹地に西洋風の絵を描いて「横浜絵」として、横浜居留地の外国人への「日本土産」として売り出すようになりました。
 1873(明治6)年には浅草に進出し、ジオラマや油絵を弟子とともに制作、明治天皇や皇后の肖像画を描くなど、上野に美術学校ができる以前の、明治最初期の画家として活躍しました。

 入り口で配布されていたこの催しの解説のを引用コピーします。(by木下直之・東京大学文学部教授文化資源学)「油絵茶屋と浅草寺」第3~7段からコピー。
~~~~~~
 横浜から 五姓田芳柳という画家が門人らを連れて浅草に移り住み、「西洋画工」を名乗り、二度にわたって奥山で油絵を見せました。門人の証言が残されており、その内容がわかります。明治7年のそれは役者絵が多く、翌年のそれは、当時「東京日日新聞」が出版し人気を博した新聞錦絵を油絵にしたもので、市井の事件を伝えるものでした。まだ日本のどこにも美術館というものがなかった時代です。いわば、庶民に向けた最初の美術館でした。
 
 明治9年に、写真師として知られる下岡連杖(しもおかれんじょう)が、やはり奥山で開いた油絵の見世物については、その様子が次第に明らかになりつつあります。屋屋を会場にしたこと、コーヒーを出したことなどがわかり、新聞は「油絵茶屋」と名付けました。箱館戦争と台湾戦争の大作2点が評判になり、それらは奇跡的に靖国神社の遊就館に現存しています。「鮭図」(重要文化財 東京藝術大学蔵)で有名な高橋由一も、この見世物に参加しています。

 しかし、明治10年代に入ると、上野寛永寺の焼け跡が公園として整備され、繰り返し博覧会が開かれ博物館が開館し、美術学校が開校することで、上野は美術のメッカになっていきます。それは、浅草から上野に、美術の中心が移ったことを意味しています。

 現在、浅草寺五重塔内に大切に保管されている高橋源吉(由一の息子)のヤマサ醤油の絵馬奉納(明治27年)は、その最後の時代をしますものです。油絵を神仏に捧げるということが、その後の美術品の制作や展示と決定的に異なっています。近代の武術は神仏不在、人年中心、さらにいえば作者中心となるからです。
~~~~~~~~~
 以上は、木下教授の「油絵茶屋再現」のための口上です。

<つづく>

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2011年12月03日


ぽかぽか春庭「油絵茶屋の時代」
2011/12/03
春庭@アート散歩>美術という見世物(2)油絵茶屋の時代

 今年の夏休みの、ぐるっとパスでのアート散歩、初めて入った美術館がいくつかありました。前々から行きたいとは思っていたのだけれど、駅から遠い所にあったり、興味のある展覧会がなかったりして足が向かなかったところに、この夏はせっせと行って絵をたくさん見ました。
 美術の先生でもないし、ましてや画家や美術評論家でもないのに、単に絵を見るのが好きというだけで、どうしてこんなにも美術館通いを続けたのだろうと思っていたとき、ちょうど必要があって『美術という見世物 油絵茶屋の時代』(講談社学術文庫)を読みました。 

 江戸と明治の美術界を、細工物、油絵、写真掛け軸、生人形(いけにんぎょう)、西洋目鏡、戦場パノラマなど、見世物小屋で観客に供された、かっては「これを美術と呼ぶなど、美術への冒涜」として扱われたものを通して、造形美術の再評価を行った画期的な美術評論です。
 著者の木下直之(東大教授・文化資源学)は、1990年に兵庫県立近代美術館学芸員として「日本美術の19世紀」というユニークな展覧会を企画し、美術界に衝撃を与えた人です。その図録解説から発展したのが、筑摩書房から1999年に発行された『美術という見世物 油絵茶屋の時代』で、ちくま学芸文庫になり、さらに去年講談社学芸文庫になって、ようやく私はこの本を読むことになりました。ほんと、面白かった。

 私は「昭和の子」ですから、「美術」というのは高級なアートであり、見世物小屋の見世物なんてのは、子どもが見ちゃいけないような低級なもの、という「まともな」美術教育を受けて育ってしまっており、昔かろうじて残っていたお祭りの見世物小屋だって、覗いたこともありませんでした。(ささやかな小遣いを有効利用するにあたって、見世物を見るより屋台の食べ物を買いたい子であった、という理由もありますが)。
 ちゃんとした「美術」を美術館で見ることが「よい観覧」だと思っていたのです。中学3年生のとき、西洋美術館で「モロー展」を見た時から私の美術館巡りがはじまりました。

 木下は、江戸と明治の見世物を「アートシーン」の中にとらえ、生人形や細工物を高く評価しました。「生人形(いけにんぎょう)」という造形物が幕末明治の世を席捲する評判を取っていたことすら、私はまったく知りませんでした。木下自身、生人形を「なまにんぎょう」と読むのか「いけにんぎょう」と読むのかも知らなかった、というところから出発し、各地から再発見されてきた生人形や細工物を収集展示し、再評価したのです。
 明治初期の工芸品と同じく、これらのものは日本国内には保存されていないことが多く、近年になって西欧からの里帰りや、寺に寄進されたものの再発見などが続いたことが再評価につながりました。

 私は、美術館巡りをしながら、「私の絵の見方は、結局は江戸時代の人が見世物小屋に集まって、珍しい動物や石の標本なんかをおもしろがるのと、あまり変わっていないなあ」と思うことがしばしばでした。恐竜の骨を見るのも、絵を見るのも、単に「非日常を楽しむおもしろがり」だと感じていたからです。そういう感じ方に対して、「専門の美術の先生から見たら、シロートのしょうもない観覧態度なのだろうなあ」とうしろめたさも感じていたのです。物見遊山、見世物小屋めぐりと同じような態度で、真の芸術たる美術館の絵、画家が精魂傾けて描いた絵をオモシロ半分で見ちゃいかんなあ、という気持ちもあったのです。

 見世物小屋で「河童のミイラ」なんかを見るのと、科学的な発掘を経た「恐竜化石」を見るのは違わなければならないし、おどろおどろしいのが売り物の「お化けや妖怪の絵」や「地獄図」、売り物買い物のカタログである「吉原花魁図」「新吉原図鑑」なんぞを見るのと、「ちゃんとした美術」の美人肖像画を見る視線は、同じであってはいけないんじゃないか、という「きちんとした美術鑑賞教育」を受けて育った者の、指導要領風の「鑑賞の心構え」が根強く残っていたからです。
 でも、そうじゃないことがよくわかりました。

<つづく>
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2011年12月04日


ぽかぽか春庭「見世物vs美術」
2011/12/04
春庭@アート散歩>美術という見世物(3)見世物vs美術

 子どものころ「見世物小屋」に近づくこともできなかった私ですが、舞台芸術の面からは「見世物小屋」について興味を持つようになりました。
 1977~79年頃、私が演劇学を学んでいたころの教授のひとりが、郡司正勝先生です。先生は、『見世物雑志』の編集を行っています。(1991年12月発行 三一書房  関山和夫との共同編集)

 この本は、1818(文政元)年から1843(天保13)年までの24年間、名古屋の、主として大須の清寿院、若宮神社の境内で行われたさまざまな種類の興行物の詳細を、文章と絵で記録したものです。日本で最初に見世物を記録した大衆芸能に関する資料で、たいへん貴重な記録です。記録したのは、小寺玉晁(1800-1878)。名古屋藩の家臣であり、好事(こうず)家として、さまざまな分野の随筆を150冊も書き残しました。

 演劇学を学んでいた頃、見世物小屋芝居小屋の芝居と西洋流の「演劇」の違いを鮮明にしたかったのが、明治の演劇改良運動であったことも教わりました。しかし、美術界での見世物小屋から美術館への移行については、ほとんど知りませんでした。

 見世物小屋で供覧された、生人形、西洋油絵、細工物など、奇々怪々な造形表現のかずかずは、市井の人びとや外国人を驚かせ、惹きつけました。そのほとんどの作品は、明治初期に日本の異国情緒に惹かれた外国人が買って、自国へ持ち帰りました。国内には菩提寺に寄進されたものなど、わずかに残されただけで、ほとんどの作品が海外流出してしまいました。

 しかし、近年西欧での発掘発見が続き、日本へ里帰りする作品が多くなりました。西洋文明模倣の近代化渦中で排除され忘れ去られ、「美術」という基準からはずれされた造形美術が、ようやく「幕末・明治の驚くべき想像力」として、木下らの手によって再評価がはじめられたのが1990年代。百年間の「眠れるお宝」状態でした。

 松本喜三郎が1871(明治4)年から1875(明治8)年に浅草奥山で興業した「西国三十三所観音霊験記」は、4年も続く大人気の見世物となりました。この興行は、松本喜三郎が10年の歳月をかけて計画し150体以上の生き人形が出展されたということです。しかし、それらの人形も散逸し、興業を伝える報道記録も多くはありません。

 以下の浮世絵は、歌川国芳が「浅草奥山の生人形」と題して幕末の生人形の興業を描いたものです。これは、松本喜三郎が、1855(安政2)年に興業した「異国人物」を浮世絵に描いたものです。
 お腹に穴があいていたり、足が極端に長いなどの奇妙な「異国人」が描かれています。外国を見知らぬ幕末日本の庶民にとって、異国の人々の姿がどのようにイメージされていたかがよくわかるとともに、生人形の興業が大評判であったことがわかります。
http://www.minpaku.ac.jp/e-news/89otakara.html
http://camk.glide.co.jp/artist/kisaburomatsumoto/index.html

 松本喜三郎の傑作のひとつ谷汲観音像は、お寺(熊本県浄国寺)に寄進されたため、保存状態もよく現在まで残され、熊本県の有形文化財に指定されています。
http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/kyouikuiinnkai/bunka/65_ikini.htm

 喜三郎は67歳で亡くなるまでに、数百体の人形を作っています。
 しかし、明治政府は、官が主導した西洋美術の彫刻は保護したのに対して、見世物小屋の人形など顧みなかったために、保存が行き届かず、空襲で焼かれたり、海外に流出したりして、現在日本で見ることができるのは、多くはありません。
 大阪歴史博物館で開催された特別展「生人形と松本喜三郎」
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2004/ikiningyo/tuika/html/ikiningyo_it-01.html

<つづく>
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2011年12月06日


ぽかぽか春庭「生き人形」
2011/12/06
春庭@アート散歩>美術という見世物(4)生き人形

 スミソニアン博物館やライデン博物館などに所蔵されている生き人形に評価が高まったのちになって、日本の美術界も、ようやく「生人形」も日本の重要な美術品であったことに気づくようになりました。今まで私は、美術の教科書に生き人形が掲載されているのは見たことがありませんし、東京近辺の美術館博物館で生人形展が開催されたというニュースも聞いたことがありませんでした。(熊本と大阪では生人形展が開催されていますが)
(「生人形」は、江戸明治の時代には「いきにんぎょう」として知られていましたが、この名の呼び方すら忘れられた時代を経たため、「なまにんぎょう」と誤読される恐れもあり、「生人形」とカギ括弧つきで示す場合以外には、”生き人形”と送り仮名「き」を入れることによって読み方をはっきりさせようと思います。)
 
 スミソニアン自然史博物館に所蔵されている『貴族男子像』は、松本喜三郎が2年かけて作りあげ、毛髪、陰毛、脇毛は人毛が使われているという「写実」を徹底した生き人形です。
 スミソニアンには「各国の人種」を集める部署があり、『貴族男子像』は日本人の典型として収蔵されました。『貴族男子像』は、アメリカ合衆国農務局長を勤めたホーレス・ケプロン(Horace Capron 1804~1885)が、北海道開拓使顧問として日本に在住していた時代、1878(明治11)年、スミソニアン博物館人類学部門(Department of Anthropology, Sumithsonian Institution)のために、松本喜三郎に発注したもので、注文書から納品、領収書まできちんと保存されている作品です。
 現在は裸体で展示されているのですが、本来は衣装をつけた姿で納品されました。

 松本喜三郎「貴族男子像」や三代目安本亀八「人形頭部」の写真が掲載されているサイト。安本亀八の俳優の似顔による生き人形が浅草花やしきで興業されていることを知らせる浮世絵の興業チラシが一番上にあり、その下に生人形の写真があります。リアルです。 
http://web.me.com/jimoto/ilife/Blog1005/Entries/2010/5/27_0527.html

 練馬美術館の「松岡映丘展」を見たのは、日本画家松岡映丘への興味というより、映丘が「柳田国男の弟」にあたるという興味からでした。日本民俗学の泰斗柳田国男は、方言学(社会言語学)の分野でも『蝸牛考』「方言圏周論」の論者として重要です。(松岡五兄弟は、養子に出た泰蔵と圀男を含め、五人ともそうそうたる立身出世をとげた兄弟として有名です。長兄は、医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、農商務省高官にして民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学言語学者の松岡静雄、末子松岡輝男が日本画家映丘。
 小川芳樹東大教授冶金学、貝塚茂樹京大教授東洋史学文化勲章受章、湯川秀樹京都大学教授ノーベル物理学賞文化勲章受賞、小川環樹京大教授中国文学、という小川四兄弟と並んで、すんごい兄弟!)

 松岡映丘の作品では、新進スター初代水谷八重子をモデルにした、1926年の作品『千草の丘』が印象的でした。二代目を襲名した娘の現・水谷八重子が練馬美術館を訪れ、「実物の母より美しいです」と評したと報道されています。21歳の水谷八重子が秋の野に立つ、匂い立つような美人画で、映丘の日本画家としての力量がよくわかる絵でした。
 若い八重子がもともと美人であることは確かですが、画家の目を通した「理想の美」が顕現していました。この絵は個人蔵で、普段は美術館などで見ることができないので、練馬美術館の映丘展で見ることができ、よかったです。
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumEventDetail_jp.jsp?event_no=75260

 『千草の丘』の八重子像は、八重子の実際の面影がよくわかり「モデルに即しすぎている」という悪評もたったそうです。しかし、映丘が追求したのは、単なる「モデルの似顔絵」ではなく、「理想の美」を追求することにありました。美術界ではすでに「モデルそっくりに生きているように写す」ということが「美術の本道から外れた」ことになっていました。「生人形」は「芸術」の枠からはずされ、肖像画や人物彫刻像と「生人形」が同じ美術としての価値を持つとは思われなくなっていたのです。

 練馬美術館の1階に、展覧会の参考出品として、松岡映丘をモデルにした「生人形」の写真が展示されていました。写真ですから実物の「生人形」を見るのとは印象が異なりますが、生き人形いうのがどのようなものであったのか、知ることができました。映丘本人に生き写しの等身大の人形。写実に徹し、生きているその人がそこにいるとしか思えないように作り出す生き人形の写真でした。

<つづく>
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2011年12月07日


ぽかぽか春庭「生人形師」
2011/12/07
春庭@アート散歩>美術という見世物(5)生人形師

 国内にはごくわずかしか作品が残されなかった生人形。
 現在知られている人形師は、江戸時代末から明治にかけて活躍した人たちです。
 初代安本亀八(やすもとかめはち1826(文政9)年~1900(明治33)年)と、松本喜三郎(まつもときさぶろう1825(文政8)~ 1891(明治24)年)は、生人形師の双璧で、人気を競いました。

 安本亀八は、1880(明治13)年に内務省博物局開設の「観古美術会」創設に参加して審査員をつとめるなど、「文化人」として著名な存在でした。しかし、上野に美術学校が開設され、官主導の美術界編成が進むと、生人形など「見世物小屋のアート」は排除され、世間から忘れ去られていきました。

 2004年に「生人形と松本喜三郎 反近代の逆襲」展が熊本市現代美術館と大阪歴史博物館で巡回展示されたとき、私は「生人形」という言葉すら知らず、その第2弾、2006年の「生人形と江戸の欲望」展の開催も知りませんでした。
http://www.camk.or.jp/event/exhibition/ikiningyou/index.html
http://www.camk.or.jp/event/exhibition/ikiningyou2/index.html

 私は、造形作品としては近代美術館に展示されている「彫刻」よりも、工芸館に展示されている「人形」のほうが好きです。鹿児島寿蔵、堀柳女、四谷シモンから、村上隆のフィギュアまで、人形作品を楽しみつつ眺めてきました。近代美術館工芸館に展示されている四谷シモンの『解剖学の少年』は、松本喜三郎らの生き人形の精神を現代に引き継いでいる感じがします。医学用の人体を造型するのも、生き人形の重要な分野でした。
 四谷シモン『解剖学の少年』
http://www.simon-yotsuya.net/oeuvre/galerie07.htm

 「生人形」は「写実の極地」の人形です。
 千葉のホキ美術館のように、写実絵画だけを集めた美術館も設立され、近年写実の復権が著しい。この夏練馬美術館で見た磯江毅(スペインでの名はグスタボ・イソエ)も、すぐれた写実の絵画でした。一時期、写実絵画はカメラで描写する写真にはかなわない、という見方がされていました。しかし、写真は写真としての描写があるし、写実絵画には絵としての表現方法があるのです。
 生き人形には、「西洋美術流の彫刻」とは異なる表現方法をとった造形作品であり、これはこれでひとつの表現として価値あるものです。

<つづく>
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2011年12月09日


ぽかぽか春庭「高級芸術vs大衆娯楽」
2011/12/09
春庭@アート散歩>美術という見世物(6)高級芸術vs大衆娯楽

 映画もまた、初期は爆走する機関車が客席側に向かってくる、というような映像をキャーキャー言いながら楽しむ「見世物」として出発しました。映画はたちまち進化して、芸術性を獲得するようになったけれど、見世物、娯楽としての要素を捨て去ったことはなかった。それは、映画が常に大衆の側にあったからだと思います。多数の大衆から見物料金を徴収することによって制作費回収を見込むという興業形態が、映画の娯楽性見世物性を保持する要因のひとつでした。

 映画が常に娯楽としての要素を保持したのに対して、彫刻や絵画は、見世物・娯楽としての要素を極力減らし、「高級な芸術」になっていきました。たとえば、五姓田芳柳が「娯楽としての油絵」興業を2回の開催でやめてしまったのは、庶民の側にいることがはばかられる立場になったからではないか、と思います。五姓田は、1873(明治6)年、明治天皇と美子皇后の肖像画を描くよう依頼されました。また、1977(明治10)年には、「明治天皇傷病兵御慰問図」を描き、この絵は靖国神社の所蔵となっています。宮内省御用を退官してからは、もっぱら高位高官の肖像画を描き、もはや見世物とは無縁の人になりました。

 美術は権威あるものとなり、見世物小屋などという「下賤の娯楽」とは相容れないものになっていったのです。彫刻は、偉人の姿を造型し、国や企業、お金持ち個人がそれを高値で買い上げる、という方向に進み、「高級な芸術」であるほど尊ばれました。

 明治中期以後、美術界は内紛に次ぐ内紛で、己の立場を有利にするためには官の側を取り込むことが必要でした。政府は、各国博覧会への工芸品出展などを通じて、海外への国勢誇示には日本の工芸技術や絵画の紹介が有力な宣伝材料となることに気づき、美術発展に力を注ぐようになっていきました。文部省が入選を決める文展を開催し、文展についで帝展へと、官の展覧会が開かれるようになっていきます。

 1984年から1893年まで9年にわたるパリ留学から帰朝するや、黒田清輝は1896年に東京美術学校の西洋画科を設立し、「油絵の権威」を確立したのです。子爵にして貴族院議員の黒田の権勢は、明治大正の美術界に大きな存在となっていきました。国家権力による芸術の統制も行われるようになり、美術は「庶民の娯楽」の要素を切り捨てました。

 1907年、政府による初めての公募展、文部省第一回美術展覧会(文展)開催後、美術アカデミーが構築され、絵画は黒田清輝を中心とする「官」の側が権威をふるうものになっていきました。

 油絵はもはや「見世物」ではなく、西洋文明の最先端としての芸術を高尚な気分で鑑賞するものとなりました。画家も、浮世絵師などの在野の絵描きとアカデミズムの中にいる画家は区別されました。たとえば、日本画家松岡映丘は、1908(明治41)年に東京美術学校助教授となり、1933(昭和8)年には、明治天皇の肖像画を描いています。「恐れ多くも主上のお姿を写す光栄」を持つ存在となった「高級な画家」は、在野の見世物興行に関わるような人形師や浮世絵師とは別種の存在として扱われなければならなかった。
 
 現代の我々にもまだ「官」の側がエライという感覚は残っています。「お笑い芸人と大学教授」を比べたら、教授のほうがエラソーだと感じる人が多いのではないでしょうか。芸人ビートたけしが映画監督北野武として東京藝術大学教授に就任したとき、映画を撮る人としての「北野武」の中身は変わっていないのに、なんだか急に遠い人、エライ立場の人になったような感覚がありましたもの。

 芸人たけしが、相変わらずかぶり物をつけてテレビの中でおちゃらけたことをすると何だかホッとしながら見てしまうのは、たけしからの「おいらはエライ人の立場なんか気にしちゃいないよ」というメッセージ発信に安心するからでしょう。たけしは、頭のいい人ですから、大学教授というエラソーな立場になってしまうことが、自身の映画の大衆性を損なうことを危惧し、巧妙にそれを避ける方法をとっているのです。

<つづく>
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2011年12月10日


ぽかぽか春庭「物見遊山的鑑賞法」
2011/12/10
春庭@アート散歩>美術という見世物(7)物見遊山的鑑賞法

 木下直之の『美術という見世物 油絵茶屋の時代』を読んで、恐竜化石の復元骨格を見て「わぁ、デカイ」と驚くのも、現代美術館、最先端のアート造型(たとえば、ヤノベケンジ『ロッキング・マンモス』)を見て、なんだか笑いたくなるような気持ちになりながら、「スゲェ」と思うのも、私自身の感覚で見て楽しめばよいのだ、と納得されました。

豊田美術館に展示されたときの「ロッキングマンモス」 
http://www.youtube.com/watch?v=T_M7WXtkHLg

 シベリアの凍土から掘り起こされたマンモスの化石復元標本も、ヤノベケンジが廃車スクラップから作り上げた「ロッキングマンモス」も、動物園の象さんも、わたしにとって「わぁ、デケェ、すごい!」でよいのだと、自己流に解釈。これまでの「私の単純な見方は、アートの見方がわかっていない者の鑑賞法なのだろうなあ」と思っていたのですが、これでイイのだ、と納得することができたのでした。

 また、見世物小屋にはそれなりの存在価値があり、「子どもがそんなもの、見るんじゃありません」と顰蹙を買うものだとしても、それが大勢の人の興味を集めたのなら、供覧する価値のあるものであったのだと思います。
 見世物小屋で展覧された生人形や油絵の中にもすぐれた表現があったことを改めて認識しました。見世物小屋であっても、美術館であっても、展覧の方法はさまざまで、表現の方法もさまざまですが、それぞれの存在意義があるのです。

 江戸後期から明治時代にかけて、人々は浅草奥山などの盛り場や村祭りに出かけていきました。さまざまな見世物小屋で珍奇な動物や植物標本を見たり、油絵を見世物の一つとして見たり、生人形の相撲取りや役者を見て、「わあ、生きているみたいだ」とびっくりしました。
 はじめて象を見たあと、世の中の生き物への見方に以前とは異なる感覚が付け加わった人もいただろうし、のぞきカラクリ眼鏡で外国の風物を見て、世界の広さや文化の違いに驚いた人もいたでしょう。

 美術館博物館で「高級なアート」として「精神の向上」に寄与するような見方もある。それはそれでいい。物見遊山のひとつとして、絵や工芸品を見て楽しむのも、自由な感覚で見て良い。工芸館の茶碗や着物の展示を見ながら、ひとつひとつに「これ、デパートの美術品売り場に出したらいくらかな」と、値札をつけながら見て歩いていた人がいたけれど、それもひとつの見方です。○○展入選とか○○展無審査というような「肩書き」によって絵の価値を決めるのもそういう見方が必要だからでしょう。
 見たいものを見たいように見ればいい。

 「生人形」などの「見世物小屋のアート」は日本の美術界から一掃され、大部分の生人形は散逸焼失して、国内にはほとんど残されていないということになりましたが、百年を経て、江戸や明治初期には「見世物」として人々に供覧されていた生人形などが、ようやく復権を果たしました。油絵を、見世物小屋で「見世物」として供覧する、ということの復元も、浅草寺境内油絵茶屋復元によって体験することができました。油絵見世物はとってもキッチュで偽物っぽくて、たぶん、それが狙いなのかも知れません。
 機会があれば、生人形もジオラマも、覗きからくり写真も、楽しんで見ていきたいと思います。 

 私が美術館博物館へ行って、絵画や工芸品を見たり、動物標本を見るのも、そのときどきの感じ方でいいのだと思う。私の「物見遊山的美術鑑賞」も、「これでいいのだ」と納得した上で、これからもあちこちの美術館博物館で、私なりに絵も彫刻も人形も楽しんで見ていきたいと思います。

<おわり

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2011年歳末・満月復活日はまた昇る

2010-03-01 11:16:00 | 日記
2011/12/11
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(1)満月復活&日はまた昇る

 真央ちゃんのいないフィギュアスケートファイナルグランプリは、ちょっと寂しいけれど、フィギュアスケート大好き一家なので、ショートもフリーも放映される全種目見ます。
 10日夜の放映では、男子SPでは羽生結弦が4位、高橋大輔は5位でしたが、フリーでの挽回を期待しましょう。女子は、鈴木明子が2位になって、メダルに期待。

 浅田真央選手、21歳でのお母さんとの別れは、どれほどつらいことでしょう。私も、母と永訣したのが23歳のとき。真央ちゃんとお母さんがそうだと言われているように、母娘一体型の親子(美空ひばりもそうだった)だったので、自分も死んだようになってしまって、生きる気力を取り戻すのには、3年かかりました。
 真央ちゃんが再びリンクで舞う日の一日も早くなることこそお母さんへの供養だと信じて、冥福を祈りたいと思います。

 10日夜、っていうか、11日のミッドナイト、月の復活に祈りました。
 月と地球と太陽が一直線に並んで、月を地球の影が覆う皆既月食。
 10日午後6時ごろ、自転車で池袋から明治通りを走り、満月が輝くのを見ながら帰宅しました。
 深夜、ベランダから見上げる月は地球の影によって欠け、午前1時すぎには再び満月にもどりました。復活満月。
 真央ちゃんも、再び満月のように笑顔を輝かせ、美しい舞を見せてほしいです。

 10日土曜日、池袋へ行ったのは、ミサイルママほか、ダンス仲間が3人所属している合唱団のコンサートがあったから。K子さんと隣の席で、「少年時代」から「世界にひとつの花」まで、年の瀬の夜に美しい歌声にひたって過ごしました。
 合唱団の歌った中の一曲。『日はまた昇る』、合唱団を指導している指揮者坂本和彦さんが歌詞を朗読してくれました。

谷村新司作詞作曲『日はまた昇る』
http://www.youtube.com/watch?v=RVtJspVe0E0&feature=related

夢を削りながら 年老いてゆくことに
気がついた時 はじめて気付く 空の青さに
あの人に教えられた 無言のやさしさに
今さらながら 涙こぼれて
酔いつぶれた そんな夜
陽はまた昇る どんな人の心にも
ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと
冬晴れの空 流れる煙 風は北風

鉢植えの紫蘭の花 朝の雨にうたれ
息絶えだえに ただひたすらに 遠い窓の外
もしかして言わなければ 別離ずにすむものを
それでも明日の 貴方のために
あえて言おう「さよなら」と
陽はまた昇る どんな人の心にも
ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと
春まだ遠く 哀しむ人よ 貴方を愛す

陽はまた昇る どんな人の心にも
ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと
春まだ遠く 哀しむ人よ 貴方を愛す
春まだ遠く 哀しむ人よ 貴方を愛す
~~~~~~~
 (歌詞引用は、引用の許容範囲内と思うので、JASRACに文句付けられることはないと思うけれど、youtube谷村新司の歌唱は、そのうち著作権で文句が出てyoutubeから削除されるかも。お聞きになりたい方はお早めに)。

<つづく>
01:37 コメント(5) ページのトップへ
2011年12月13日


ぽかぽか春庭「回顧2011」
2011/12/13
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(2)回顧2011

 12月に入れば、世には「今年の漢字」だの「十大ニュース」発表だのがあふれ、誰もこの1年を振り返る気分になる。世の流れには一応首をつっこんでおきたい、はやりモノ好きとしては、12月には私なりの2011年を振り返っておかずばなるまい。
 とは言うものの、誰も私の十大ニュースなどに構っているヒマはないことは承知のすけですが、世の中には御用とお急ぎでないムキもあろうかと、世界70億の人々にはまったく影響のなかった「私的2011」を回顧する。

 私的十大ニュースとは言っても、大震災では倒れてきた本棚で頭を打って、たんこぶをこしらえた程度の私、世の中に寄与することもひとつも行わず、誉められもせず苦にもされぬ1年であったことを言祝ぐべきでしょう。

 つらつら思い返すに、2011年1月から「日録」の記録を復活させたことが1月1日から変わったことのひとつ。
 私は小学校入学以来、断続的にではあるけれど、日記をつけることを継続してきました。「日記大好き民族」のひとりです。しかし、ブログに日々の記録も書くようになった2003年以来、この「Hal-niwa annex」ブログ更新を優先させているうち、日録(日々雑記)のほうは、断続的になり、更新しないことも多くなっていました。毎日の、何をしたか、どこに行ったか、だれに会ったか、という日々の記録より、見たこと聞いたこと考えたことをブログ上で開陳するほうを優先するようになったのです。

 どんな日にどんなことをしたのか、なんぞあったときに、アリバイを主張する役には立つ。ただしネットの中の記録は証拠としては採用されないんじゃないかしら。あとから書き直しが出来るから。
 証拠にはならぬが、読み返して見れば、姑の誕生日祝いとして、娘息子と横浜散歩したのは、2月14日とわかる。わかったところで、何の得もないけれど。
~~~~~~
 2011年1月1日の日録。
 8時起床。9時まで寝床で朝刊。9~12時までメール、ブログ管理。3年近く放置していたヤフージオログにたどり着く方法がやっとわかった。「ゴールデンライフ」に付けられたトラックバックを削除するのに時間がかかった。日記のタイトルに気をつけないとあやしいトラックバックがどっさりくることがわかった。「ヌレエフ栄光と悲惨」というタイトルに50コもトラックバックがくっついていた。タイトルに気をつければ、タイトル検索でトラックバックする連中はこないことに気づいた。
 12時、ブランチ。夕べの残り物の蕎麦を息子と分ける。娘だけ豆餅を焼いて食べた。
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 自分で読み返しても、なんだか情けないような元日の記録です。そういえば、この日やっとわかったというヤフージオログはその後、また放置。まあ、毎年こんなふうでショーモナイ1年がはじまり、しょーもない1年が終わっていくのです。

<つづく>
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2011年12月14日


ぽかぽか春庭「私的10大ニュース」
2011/12/14
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(3)私的10大ニュース

 2011年を振り返って見るに。
1)3月11日の震災と原発事故。
 わが家の物的被害は、本棚の倒壊と食器棚の食器が落ちて割れたこと。私の頭のたんこぶ程度だったけれど、精神的には落ち込む気分が5月ごろまで続きました。つらい被害を受けた方に比べれば、一ヶ月間崩れた本の山と格闘した程度の者が落ち込んではいけないと思っても、気持ちの落ち込みが回復しませんでした。危ないとは思いつつ、これまで何の行動もとらず電気を使ってきたこと、安全神話を信じこもうとしてきたことへの落ち込み、多くの人が感じたみたいです。

 夏、東京に咲く花の花びらが、変に捻れて咲いていました。この捻れた花びらは、雑誌で見た藤原新也の写真コラムに「フクシマ近くの野原の花が、放射能の影響で捻れていた」と掲載されていたのと同じ形。藤原新也が撮影したのは、ハンカイソウというキク科の植物で、本来、その花びらは放射状に伸びている。その花びらがよじれているのです。私が見た雑誌の藤原新也の写真とたぶん同じ時期の撮影と思われるものが、9月に朝日新聞にも載ったそうですが、こちらは気づかなかった。私が見たのは、『トリーノToriino』という日本野鳥の会が出している小冊子の2011Autumn号で、「流の章 花は語る」と題されたフォトエッセイです。

 藤原や私が目にした花のねじれが本当に放射能の影響なのかどうか、検証した報告は読んだことがありません。でも、これまで見たことが無かった奇妙な捩れ方の花を見ると、今さらながら、目に見えないものの怖さが身にしみました。
 震災のあと、皆が復興へ向けて力を合わせているけれど、原発の後始末は、まだまだ先の長い話のようです。染井吉野はクローン栽培育ちだからか、放射能の影響を受けやすいそうです。原発付近の桜の花の異常率、新潟の調査では、2011年4月の開花時には、平年より花の異常が多かったということなのですが。

2) 3月に博士号を授与される。
 自分的には、3年間博士論文と格闘してやっと提出したものが評価されたのですから、うれしかったですが、祝賀会も中止になったし、家で何のお祝いをするわけでもなし、出版する予定もなし。非常勤講師の時給が上がるわけでもなし。単純に自己満足のための博士号。「バカセ、おめでとう」と自分でチャカして落ち着く程度の。

3) 息子が卒業。
 息子が大学を卒業し、大学院に進学。やれやれです。ちゃんと育ち上がった子の場合、卒業したら就職して、親にも初月給の一部なんぞをプレゼントして、長い間の養育に感謝するってなことがあるみたい。親として養育者の肩の荷を下ろす感慨にもふけれるってもんですけれど、私はまだまだ食い扶持稼ぎを続けねば。ただ、学費と本代など勉学に掛かる費用は、いっさいを奨学金とアルバイトでまかなうことになったので、その分は楽になった。

 息子、水曜日と金曜日は授業を終えてから大学事務のバイト、木曜日は授業補助者として、学部学生の世話をするバイト。週3日のバイトでなんとか本代やらゼミ研修旅行費用など間に合わせています。4年間の学部在学中は夫の会社でのアルバイトしかしたことなくて、よそ様のところで働けるものかと案じていたのですが、「学生相手の木曜日はつらいけど、コンピュータあいてに仕事していられる水曜日金曜日は、別段つらくない」というので、対人関係が苦手な息子でも、なんとか働くことができそうなことがわかってほっとした気持ち。この先はまたどうなるかわからないけれど。

<つづく>
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2011年12月16日


ぽかぽか春庭「絆」
2011/12/16
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(4)絆

4)一人旅、一人歩きの復活。
 11月のはじめに、ひとりでバスツアーに参加し、立山周辺、黒部ダム周辺のバスハイクを楽しみました。
 一人で参加していると言うと、バスの同乗者は「あらぁ、勇気がありますね」とか、「思い切りましたね」と驚く。バスツアーにひとりで参加するのはそんなに驚かれるようなことなのか、と世間を知らない私のほうが驚く。これまでこの種のバスツアーにひとりで参加したのは、白川郷に行った1回だけだったので、これが2回目。

 娘に聞いたら、「ひとりで参加したら、友だちもいない人、と思われそうだから、みんな嫌なんじゃないの」と言います。え~、そうだったの?私、ごくわずかだけれど、友達いるし、たまたま友達と旅行のスケジュールあわなかったときは一人で参加するってだけで、別段勇気ふりしぼって参加したんじゃないのに。

 ほんとうの一人旅だったら、ホテル予約とか電車の切符手配とか面倒だけれど、バスツアーなら申し込むだけで、何の面倒もないってだけじゃないの。私の周囲の人は、ミサイルママは一人で登山にでかけるし、みな一人旅が普通、という人ばかりなので、特別なことと思ったこと無かった。
 まあ、格段の勇気もなく参加した立山ツアー。トロッコ電車に乗ったり、ロープウエーに乗ったりして、黒部ダムやら立山周辺やらを歩いて、たのしゅうございました。

 夏休みから11月にかけて、ぐるっとパスやら招待券やらを活用して、東京都内のおひとり様散歩、楽しく続けました。スケジュールが合えば、ミサイルママといっしょに出かけたり、ヨコちゃんとごいっしょできたり、二人連れもまた楽し。無理に合わせることもないので、一人で出かけることがほとんどだけど、別段それが「残念な人」になるとも思わずに、せっせと歩きます。

5)絵葉書「青い鳥通信」、年末に90号を送付
 震災が人々に与えた影響のひとつとして「絆」の大流行。同棲中のカップルの多くが、婚姻届を出したそうですし、これまで音信がなかった人たちの間にも、手紙やらメールの通信復活が多くなったと聞きます。予想通り「今年の漢字」に選ばれたのは「絆」でした。

 友達がごく少ない私も、4月から人とのつながりのひとつとして「青い鳥通信」を始めました。3日に1枚、1ヶ月に10枚のハガキを、ウェブ友のちるちるさんに送ることにしたのです。ちるちるさんに「私のハガキを受け取るボランティアになってください」とお願いして、これまでで85枚の絵はがきを送りました。12月30日付けで90号。
 異なる絵柄の絵はがきに異なる文面をと、心がけています。と言っても、たいしたことは書いていません。季節のことだったり、絵はがきの絵柄にまつわることだったり。

 ちるちるさん、ハガキ受け取りのボランティアをしていただくことによって、こうして春庭に生き続ける気持ちを与えてくれて、ほんとうにありがとう。
 ちるちるさんからは、ヘルパーさんボランティアさんが協力してくれたという2012年のカレンダーをいただきました。毎月1枚、ちるちるさんの書いた詩にボランティアさんが絵をつけたカレンダーです。えへへ、海老で鯛釣ったのかも。ありがとう、ちるちるさんの詩を机の前に貼って、2012年をすごします。。

<つづく>
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2011年12月17日


ぽかぽか春庭「国民総幸福度」
2011/12/17
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(5)国民総幸福度

 さてはて、10大ニュースと言いながら、1年間を振り返って見ても、去年と変わったことが10コもなかったことが判明。5大ニュースで終わりです。
 ほんと代わり映えのない1年、変わりばえのない人生を送っているもんだと実感。でもね。かわりばえのないことこそ幸せなのだと痛感させられた1年でもありました。

 月蝕を見上げて宇宙進行の恙なきを喜び、なかなか紅葉しない楓の葉を見れば異常気象かと心配する。暑い日が続けば暑いと文句を言い、寒い日には寒いと嘆く。そんな繰り返しで、こうして平凡に日常が過ぎていくことが、何よりの幸福なのだと、それぞれが身に染みた1年でもありました。自分がかわりばえのない分、よそ様が親しい人を失った悲しみや、住み慣れた家を離れなければならない苦しみの中にあることのつらさも、いっそう身にしみました。

 変わらぬ1年。私自身は持病はあれど入院などの大きな病気もなく、87歳の姑も7歳の黒ウサギも、それなりに元気にすごしていて、娘息子が飢えもせず毎日を暮らしているのですから、それでよしとしましょう。夫は、、、、、ま、いてもいなくてもおんなじってとこがこれまでの年といっしょ。

 国王夫妻が強い印象を残したブータン王国。国民総生産では世界の中で低い方のランクだけれど、「国民総幸福」では、世界トップレベなのだそうです。国民の97%が「私は幸福者」と思っているのだとか。3%くらいは、お身内を亡くした方とか、悲哀のさなかにいる人もいるでしょうから、幸福と思えない人もいるでしょう。それ以外の人はみな自分が幸福だと思っているって、ほんとうかいと思ってしまうのも、年間3万人が自殺する国に住んでいるからゆえか。

 NEFというイギリスのシンクタンクが生活満足度・寿命・環境負荷などから算出した「幸福度指数、Happy Planet Index、HPI2.0」によると、2009年に143カ国地域対象で行った新指標によると、幸福指数トップ15位に入ったうちの11ヶ国は中南米の国々です。アジアの中ではベトナム5位、フィリピン14位、ブータン17位、中国20位。日本は75位。アメリカは114位、最下位143位はジンバブエ。こう見ると、ラテンアメリカの陽気な人々は皆しあわせいっぱい。
 1位にランクインしたコスタリカは、戦争放棄・平和主義」を憲法にし、非武装中立、環境保全、教育重視の平和政策を薦めています。(オスカル・アリアス・サンチェス大統領は、ノーベル平和賞を受賞)
 物質的には最も恵まれているように見えるアメリカが114位というのもわかる気がします。

 幸福指数では17番目にすぎないブータンの国民が、気持ちとしては97%が「私は幸福」と感じるのも、ヒマラヤ山中の豊かな自然、隣近所の交流などを総合してのことなのでしょう。
 日本蝶類学会調査隊が「ブータンシボリアゲハ」を追うドキュメンタリーをBSで見ました。新発見以来80年間「幻の大蝶(おおちょう)」とされてきた「ヒマラヤの貴婦人」と呼ばれる蝶の再発見を記録している番組でしたが、そこに写されたブータンの人々は、ほんとうにすてきな笑顔を見せていました。

 さて、大災害に揺れた今年のこの国全体の幸福度はいかに。「環境負荷」が幸福指数に関係するとするそうですから、やっと原発処理第一段階が終わったとはいえ、完全廃炉まであと40年50年かかるとすると、日本の幸福指数は今年大きくさがったのだろうと予測がつきます。
 
 さはさりながら、私の幸福度。物質的に恵まれたことは何ひとつなかったし、仕事もこの先の先細りは見えていて不安はいっぱい。幸福度指数からいえば低ランクになりそうだけれど、ブータンのように、指数ではなく、気持ちが感じる幸福度から言うと、まあまあそこそこだったと思います。とりあえず来年度は、週5日、国立2校私立大3校を日替わりで教える日雇い教師、続けていけそうだし、持病の急激な悪化ということもなさそうだし。

 さまざまな場所を探して最後に家の中の幸福を見つけるメーテルリンクの『青い鳥』。青い鳥通信を出し続けることができる私は、幸福者です。
 つらいことも多かった2011年。きたる日々には、「国民総幸福度」が、ブータンの「国民の97%が幸福者」には及ばないまでも、ひとりでも多くの人の幸福度が上がりますように。

<つづく>
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2011年12月18日



2011年12月20日


ぽかぽか春庭「遺されたもの」
2011/12/20
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(7)遺されたもの

 北朝鮮の金正日総書記、17日に死去。移動の列車中での心筋梗塞という。病体であることは何度か報じられてきたけれど、この年末とは思わなかった。びっくり。
 北朝鮮の重要ニュースを報道する女性アナウンサー、独特の調子でニュースを読み上げるので、印象が強い人だったけれど、50日ほど前からパッタリテレビに出なくなり、19日になって突然「重大ニュースの発表がある」と言ったあと喪服で「偉大なる将軍様のご逝去」を報じました。もしかしたら、すでに50日前に亡くなっていて、この50日間は、事後処理のおおわらわだったのではないかなあ、なんてかの国の事情を勝手に想像しています。
 学生時代には海外ですごすことが多かったという将軍さまの三男金正恩坊ちゃま。学生時代とは顔がすっかり変わりました。偉大なる初代そっくりに整形したとの報道。ほんとかどうか知りませんけれど。初代の威光と二代目の権力を三代目がすんなり継承できるのかどうか。はたして今後の混乱必至だろうとの観測から、韓国の株価も一時下がったし、来年アジアの情勢は予断を許さないでしょう。

 2007年に中国の北の国境の町から川をはさんで対岸の北朝鮮を眺めたときのことを思い出します。あの川を必死で泳ぎ、中国側に逃れてくる人々が続いていたそうですが、これからあの川はどうなるでしょうか。難民が増えることが警戒され、国境警備が強化されているそうです。

 年末に喪中葉書も来て、今年もお悔やみを述べなければならない人がいました。3月の震災で亡くなった方々をはじめ、ひとりひとりの命が消えていくこと、重くつらいことです。無名人も有名人も、家族や親しい人にとっては、かけがいのない大切な命です。
 金正日のほかにも、世界史的にもその死去が大きく記憶される有名人も多かった。10月5日に56歳で没したスティーブン・P・ジョブズとか、10月20日に殺されたことが確認されたリビアのカダフィ大佐(ムアンマル・アル=カッザーフィー)とか。

 個人的には、12月に亡くなった脚本家市川森一さんとか、7月10日に亡くなった振付家のローラン・プティなどの死、もっと作品を残して欲しかった、と残念に思います。プティ振り付けの『ダンシングチャップリン』を草刈民代が踊った映画を見たところだったり、市川脚本で『蝶々さん』を見たところだったので特に。「蝶々さん」市川森一さいごの作品。宮崎あおい、けなげでよかった。

 27歳で戦死した山中貞雄は「『人形紙風船』が最後の作品では寂しい」ということばを残したそうですが、市川森一は「『蝶々さんが遺作なら、いいかな」と言ったそうです。生涯に満足のいく作品が残せたのなら、その寿命も、以って瞑すべし。

 今年、私の生は、「もしここで命運尽きるとも満足できるものだった」と言えるものであったかというと、まだまだ「何も満足のいくものは残せていない」という状況です。
 来年こそは、きちんと「仕事」を残せるよう、亡くなった方々ひとりひとりの貴重な一生に敬意を払いつつ、決意したいと思います。

<つづく>
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2011/12/24
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(9)冬休み

 多くの小学校中学校は、22日に2学期が終わり、23日から冬休み。大学のいい所は、小学校中学校より1週間2週間早く冬休み夏休みになることだったのに、文科省が「1年通年で30週、セメスター(半年)の場合には15週の授業時間を確保することが望ましい」なんていう「ご指導」をしたようで、大学も22日まで授業をして23日から冬休みってところが多くなりました。私なんぞ21日まで授業をしたあと1月6日から授業です。冬休みが大幅に減りました。と、愚痴を言いつつ、22日からようやく冬休み。

 22日は一日、洗濯やらお茶碗洗いやら。世間様は働いているのだからと、たまった家事にいそしみました。ただし、掃除はあいかわらずやらない。服は脱ぎ散らかされたまま、本は部屋に散乱したまま。

 23日は祝日で、みんなお休みですから、ようやくのんびりと冬休みを楽しみました。22日に録画しておいた『34丁目の奇跡』1996年版リメイクを見ました。とってもすてきなクリスマス映画でした。私は1947年のオリジナルを見たことがなかったのですが、1996年リメイク版、アッテンボローのサンタ役がとてもよかった。
 私も、目に見えないものを信じる心を持ちたい。本物のサンタに会ったことはないけれど。
 
 そのほか、録画しておいた「ピカソ青の時代」と「画家堀文子93歳の決意」を見ました。ピカソと親友カサヘマスについて。また、カサヘマスの死後、娼館に出入りして娼婦達を描いたころの青く沈鬱な絵を紹介していました。
 私も2009年1月に「ピカソとカサヘマス」についてのエピソードを書いたことがあります。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d1725#comment

 ピカソがピカソとして確立するために、青の時代の暗く沈んだ年月が必要だった、と番組は、ピカソのつらく悲しい時代を紹介していました。

 敬老の日の放映を見逃してしまって、再放送を今か今かと待っていて、ようやく「画家・堀文子 93歳の決意」を見ることができました。
 1918年生まれというので、私の父より1歳年上です。父は76歳で亡くなりましたが、それから20年以上、堀さんは93歳の今も現役画家として、毎年個展も開いています。

 東京のど真ん中、麹町区平河町に生まれ、女子美術専門学校に入学したのも、「絵はそれほど上手とは思っていなかったけれど、他の仕事なら女というだけで差別があったけれど、絵描きなら女でも出来上がる作品は平等に見て貰えるだろうと思ったからだそうです。

 学校からの帰り道、2・26事件に出くわして、「早く帰れ」という命にさからって、一部始終を見届けようと思ったというそのころから、反骨と自由に生きる心を絶やしたことがない生涯。
 29歳のときに外交官の男性と結婚、43歳のときに夫と死別。1961年から1963年にかけ世界放浪の旅へ出て、絵を描き続け、それ以来、「群れない、慣れない、頼らない」生き方を貫き通し、画壇とはいっさいかかわらずに、権威やお金には関わらずに93年を貫き通しました。

 1987年、古稀を迎える前にイタリアに移住。アレッツオ市で堀文子個展を開催し、1995年には75歳でアマゾン川、マヤ遺跡・インカ遺跡へスケッチ旅行。2000年、82歳のときには、高山植物ブルーポピーを描きたいと、ヒマラヤ山脈の高地を走破しました。
 2001年に病に倒れて以降、長期間の取材旅行に出かけられなくなりましたが、友人のアーティスト坂田明が自身が飼育している「ミジンコ」を見せたことから、微生物の美しさに魅了され、生命をテーマに描き続けています。

 親子のような親友という戸井十月のインタビューに答える堀文子は、足腰は弱ったとはいえ、凛としてとても美しかった。孤独を己の芸術の糧とし、権威によりかからず、自由な精神を失わずに生きる。口では言えるけれど、それを貫くには強く大きな精神が必要なことでしょう。
 憧れるけれど、私などヘナヘナよぼよぼの愚痴オバアになることは目に見えている。でも、一歩でも憧れの生き方に近づきたい。

 絵も、いっぱい見たい。散歩もしたい。冬の冷たい風に出渋る日が多くなるとは思うけれど、冬休み、楽しく過ごしたいです。

<つづく>

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