2011/09/02
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(11)東京現代美術館サイレント・ナレーター
石田尚志の一番新しい作品は、2011年4月の「海中道路」、10分間のビデオ作品。害虫駆除の薬剤噴霧器に海水を入れ、噴出する水で沖縄の海辺の道路に線を描いていくようすを撮影した映像です。映像は線の形を追うでもなく、むしろ噴霧器を持った石田が走ったり止まったりするようす噴霧器から水が出ていくようすを延々と撮影しています。「描く行為」そのものの映像化とでもいいましょうか。う~ん、やっぱりわからん。
ディズニーランドの掃除人カストーリアルキャストは、水を含ませたほうきで、道路にミッキーマウスやミニーの絵を描いて、観客を楽しませています。これはエンターティメント。
中国の公園では、大きな筆に水を含ませて、公園の道に立派な字で漢詩や論語の文字を書き続けるおっさんがたくさんいます。水の文字は乾けば消える。特に書家として名があるわけでもないらしいごく普通のおっさんたちが、我も我もと道に達筆の字を書いているようすは、中国の公園光景のなかでも、太極拳の大群、青空麻雀の大群とともに印象深く残っています。
ディズニーランドの掃除人や公園の水筆書きのおっさんは、アーティストと呼ばれることはない。でも、石田尚志が沖縄の道路に水で線を描けば、これはアート。現代美術館に映像展示される。もし、石田が中国の公園で噴霧器の水をまき散らしながら走ったとして、だれもそれをアートと思わないでしょう。中国の都市道路で、水を撒いて埃を掃除しながら走るトラックを誰もアートと呼ばないし、水筆書きのおじさんたちを撮影しようとするビデオクルーもいないのと同じように。それがアートとなるのは、アーティストが「これはアートである」と言って行い、見る人も「これはアートなのだ」と思って見る行為だからなのかしら。どうも、シロートには現代アートわからんのです。
好きになった作品もあります。
私、海坂ときけば、一番最初に思い浮かべるのは藤沢周平の海坂藩。それしか知らなかった。
三省堂大辞林での「海坂」の解説
舟が水平線の彼方に見えなくなるのは、海に傾斜があって他界に至ると考えたからという、神話における海神の国と人の国との境界。
「海坂を過ぎて漕ぎ行くに海神(わたつみ)の神の娘子(おとめ)に/万葉 1740」「即ち海坂を塞(さ)へて返り入りましき/古事記(上)
石田尚志「海坂の絵巻」は、墨で描かれた映像作品。これなどは、もうひとつの展示室の「サイレントナレーター」のテーマと同じく、「絵や映像を見て、鑑賞者が心の中に自分だけのものがたりをつむぐ」という展示コンセプトと響き合って、私は動く墨絵を眺めて自由にものがたりを紡ぎました。海坂のはるか彼方、波の坂道を降りていくと、そこは、、、、
サイレント・ナレーターの部屋に展示してある作品のうち、唯一、前に見たことのある作品は、ロイ・リキテンスタイン(Roy Lichtenstein 1927 - 1997)の「ヘアリボンの少女」。
http://www.geocities.jp/untitled_museum/z3_3rd-gallery.html
同じような作品を見たことがある。何度見ても、アメリカの漫画の絵とどう違うのかわからない、とシロートは思う。漫画は娯楽だけれど、リキテンスタインはアート。その違いがわからない。美術史家によれば、リキテンシュタインは、マンガの含有する偶像崇拝の心理をアートしているのだという。そ、そうなのか。
市販品の便器にサインをして「泉」とタイトルをつけて、20世紀最大のアートという評価を得たデュシャン。しかし、私がオマルにサインしてもアートではない。
現代美術館がこの「ヘア・リボンの少女」を購入したとき、1枚の絵の価格、6億円だった。ワォ、私の都民税も使ったはず。6億÷1200万人だと50円分、この少女のマツゲ一本のさきっちょくらいは私が買ったのだ。せいぜいじっと眼をこらして見ておかなくちゃ。あは、どうしても芸術鑑賞のレベルが低い。
リキテンシュタインの絵、いろいろ。
http://matome.naver.jp/odai/2129729966984189701
<つづく>
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2011年09月03日
ぽかぽか春庭「東京現代美術館カオス・ポエティコ詩的な混沌」
2011/09/03
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(12)東京現代美術館カオス・ポエティコ詩的な混沌
ジュリアン・シュナーベルは、映像作家としては、第60回カンヌ国際映画祭監督賞を受けた2007年の『潜水服は蝶の夢を見る』を見たことがありますが、画家として見るのははじめて。
シュナーベルは、割れた皿やコップ、急須などを画面に貼り付けた作品で知られています。近くで見ると割れた皿やコップが並んでいて絵の具が塗りたくってあり、木の枝がくっつけられているのですが、遠くで見ると王の像が見え、王剣の前にある木の枝は蛇です。私、最初、王剣がサンマに見えました。サンマを手に掲げ持つ王なんて、シュールでいいなあと思った。
解説員が「フリーザーって知っていますか」と問うので「ええ、『金枝篇』は全巻読みました」と答えると、「あらまぁ、私はこの絵の解説をするので、フリーザーをはじめて知ったのですけど、、、、」と言うので、しまった、解説される人が解説する人より詳しいこと言っちゃイケネーや、と反省。
シュナーベルの割れた皿の絵のタイトル「森の王」とは、『金枝篇』の中に出てくる「新しい王が力の衰えた旧い王を追い払う」というお話に基づいているのだ、と解説してもらいました。
企画展示サイレント・ナレーターの展示室、あとは、全部はじめて見るアーティストばかりでした。
ゴミを拾って構成した大竹伸郎「ゴミ男」とか、デビット・ホックニー「スプリンクラー」とか、印象に残る作品がありました。
サイレント・ナレーターの最後の作品は、「Caos Poetico詩的な混沌」
メキシコの家々の「盗電」。公共の電柱から勝手に電線を引き込んで家の中に電灯を灯す光景をイメージしてアートにした、荒木珠美の作品です。空き箱の中に色とりどりの豆電球。展示室いっぱいに、400個の電灯箱が都市スラムの混沌さながらに黒いコードを絡ませながらぶら下がっています。混沌とした都市スラムに、祝祭のように輝く盗電の電灯。盗電の僥倖。饒舌の沈黙。サイレントナレーションが心地よかった。
以下、「私の紡ぎ出すものがたり-盗電祝祭」
そうよ、電気なんて、一企業がエラソーに配布するもんじゃないのよ。あれは公共のもの。雨上がりの虹や夜空の星の光は誰の私有物でもないのと同じ。電気は公共インフラって思う。前政権は、アメリカのご機嫌取りに米国通信産業や生命保険事業を日本に引き入れようと郵政民営化を掲げて、日本の通信事業を公共インフラから私企業にしてしまった。世界の情報は、グーグルやマイクロソフトなどの私企業の支配下におかれつつあるけれど、本来、基本的な生存権は、基本的インフラを公平に享受するところから出発する。生きて行くために必要な水や米や通信や電気は、公共のものであるべき。
私も東電でなく盗電しよっと。さて、どうやって。
どうやってもすてきなファンタジーにはならないせこいものがたり。
と、アートの豊かさにふれても、どうしてもみみっちい発想のままの春庭、常設展示を見終わって、せめて今日くらいゆったり百万円に座っとこうと、アトリウムの「百万円の椅子」に腰掛けました。
<つづく>
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2011年09月04日
ぽかぽか春庭「東京現代美術館"I am still alive."まだ生きている」
2011/09/04
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(13)東京現代美術館"I am still alive."まだ生きている
現代美術常設展示のボランティアガイドをいっしょに聞きながら見てまわったおやじさんが、アトリウム展示の百万円の椅子を見て「こんな椅子なら作れる」と言ったように、現代美術作品の中には、子どものいたずら書きのように見える絵がいくつもあります。殴り書きのような、ちょこちょこっとノートのはじっこに描いた落書きのような。
「これなら私だって描ける」と、思うのはシロートなんだそうですが、どんないたずら書きであってもトコトン絵が下手な私にも「これなら、私も同じような作品が作れる」と思った展示がありました。
河原温の「I GOT UPシリーズ」、絵はがきを並べた作品です。
河原はコンセプチュアルアートの重要な作家だそうです。作品の写真撮影は禁止されているので、公的な撮影をしている美術館などのサイトの写真、みな小さい紹介しかないので、どんな感じかわかりにくいと思いますが。葉書1枚だけの展示ではなく、10年分ずらりと並んでいることが大切なのだと思います。
河原が住んでいた場所や旅行先のさまざまな絵はがきに「私は○○時に起きた」とタイプで書き込み、1968年から10年間にわたって送り続けたその葉書を、日付順に並べた作品です。文面は起床時間だけ。「I got up at 8:30などの、その日の起床時間。
届けられた友人はふたりのみ。投函場所は、河原が住んだニューヨークやパリのほか、旅行に出た行く先々。洋上の船の上からも出されました。
差出人と宛先の住所氏名等は手書きでなくゴム印で押されていたのですが、1979年にゴム印の入ったかばんが盗まれたことにより、このシリーズは終了しました。
http://www.artfairtokyo.com/contents/index.php?m=SearchItem&id=261
http://plaza.rakuten.co.jp/adayontheplanet/diary/200612070002/
河原の作品に、常に同じ"I am still alive."まだ生きている、という文面の電報を世界各地から発信するシリーズもありました。
私がマドリッド・リアリズムの磯江毅に「描いている対象物を見つめ続けるその時間がすべて描き込まれている」と感じたその時間。石田尚志の描いている行為をビデオに撮影した「海中道路」の、その描かれた時間。
それと同じく河原温のI GOT UPと記された絵はがきは、河原の生きた時間を並べていました。
おお、これなら私もできるぞ。
むろん、コンセプチュアルアーティストでないシロートの私が葉書を送ったところで、毎日電報を打ったところで、それは反古にしかすぎないのはわかっていますが、私だって葉書を送るくらいのことはしておりまする。
私は今年4月から、青い鳥チルチルさんあてに3日に1枚、1ヶ月10枚。3年余、合計365枚の絵はがきを送るシリーズを始めています。8月末までの分で50枚になっています。
月の最初はその季節の花の絵はがき。あとは、美術館で買った名画絵はがきとか観光地で買った名所や風景絵はがきなどを混ぜて、365枚の全部が異なる絵柄の絵はがきと異なる文面になるようにしています。絵手紙ならもっといいのでしょうが、私にはまったく絵が描けないので、既製品の絵はがきを使っています。
月の最後は大型サイズの葉書です。たいてい手作り。美術館チラシやカレンダーの絵に白い紙を貼り付けたものなど。8月は花火大会でもらった団扇に切手を120円(定形外郵便物)貼って送りました。
切手は、季節の花の切手やピーターラビット切手、キティちゃん切手、木シリーズなど。50円切手がなるべくいろいろな種類になるようにしています。
文面は、季節の感想やらその日の出来事、絵はがきの絵柄に関する話題などを手書き。
自分の描いた絵ではないのだから、アートとは、ほど遠いと思っていました。でも、全部を並べれば、これはアートになるんです。たぶん。
365枚たまったとき、これを全部並べれば、私の「I GOT UP」シリーズになるんじゃないかしら。
河原の「I GOT UP」、ニューヨークに滞在している間はずっとニューヨークの街の絵はがきで、文面も同じですから10年分でも統一感はあります。私の「TO:青い鳥シリーズ」は、絵柄はばらばら、文字は乱雑。まったく統一感がありません。でも、それはそれで私の、"I am still alive”の証しです。
ろくでもない文面の乱筆葉書など、一回ごとに読んだら捨てられてもいいようなもので、「出すことに意味がある」と思っていたのですが、「I GOT UP」が現代アートなら、私の「TO:青い鳥」シリーズも、きっと何かのアートです。
さっそく、8月末の葉書で、青い鳥ちるちるさんに、「私の葉書、捨てないで保存しておいてね」とお願いしました。
ちるちるさんから、返信メールが来ました。8月に「足の指が動かせたので、メールを打ってみました」といううれしいたよりがきたのですが、妹さんやヘルパーさんの助けを借りての、メール通信なのだろうと思います。
~~~~~~~~~~
大丈夫です!私は、捨てません!!
No.1より、ハガキファイルに入れて、とってあります!
どんなに古い手紙でも、私は大事にしています。
うちわは、ファイルに入らないので、裏表コピーしてファイルに入れてます。
これ集めるのかなり楽しいですよ♪
まだ暑いですが、ご自愛くださいね
~~~~~~~~~~~
ありがとう、ちるちるさん。「葉書受け取り人ボランティア」になってもらっただけでも有り難いのに、読んでもらい、保存しておいてくださる。
私が毎朝起きてI got up、なんとか生きて、三日に一枚葉書を書いて「I am still alive.」と感じるその感覚を受け取ってくれる。私の生が不確かなものであるとしても、このちるちるさんが受け取ってくれた葉書の分だけ、私は確かに生きたのです。
明日は9月5日。今年もまだ生きている。まだ生きている私に、「まだ生きていておめでとうI am still alive!」
<つづく>
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2011年09月06日
ぽかぽか春庭「三井美術館「橋」展」
2011/09/06
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(14)三井美術館「橋」展
8月、「ぐるっとパス」でたくさんの美術館めぐりをしました。2000円で楽しめる東京観光、貧乏な人でも楽しくすごせる東京。
お金がある人にはお金持ちの楽しみ方があります。代表的お金持ちの道楽は、美術品収集。お金が有り余ると、名誉と芸術を欲するようになるのは古今東西みな同じ。三井も大谷も大倉も、成功した商人が財を蓄える方法のひとつとして、美術品を収集してきました。その一部を一般に公開している私立美術館。財の社会還元の方法のひとつとしてはいいんじゃないでしょうか。
8月19日は、日本橋の三井美術館で「橋」展。三井財閥の収集品のうち、日本橋架橋百年にちなみ、橋が描かれた陶磁器や絵の展示。
橋はこの世と彼岸をつなぐ場所ゆえ、古来たくさんの橋の図象が描かれてきました。
文学の中に出てくる橋を意匠とする絵や図案も多数あります。『伊勢物語』第9段の中に「そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける」と書かれている八橋は、さまざまな絵に描かれました。また、東京の橋の中でも、在原業平が詠んだ「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」という歌ちなんだ言問橋、業平橋があります。もっとも、駅名にもなった業平橋は、「スカイツリー駅」に改称の予定とか。
『源氏物語』の中にも、「橋姫」「夢の浮き橋」など、橋に関わる帖もあり、様々な画家が「源氏の橋」を絵や陶器に描きました。
北斎、広重の江戸の橋を描いた浮世絵は、江戸を始め、各地の有名な橋を描いています。
また、故人供養のため、橋を寄進する風習を知らせる展示もありました。
戦国時代18歳で戦死した息子のために母が橋供養をしたときの擬宝珠(ぎぼし:橋の欄干の柱の頭につけるねぎの花のような形の飾り)に書き込まれた願文がよかったです。本人が直接文章を考えたのか、母心がよく表れた仮名書きの文です。
豊臣秀吉の小田原北条氏征伐。この征伐で秀吉は勝利したけれど、従軍した尾張国丹羽郡(にわぐん)の堀尾金助(ほりおきんすけ)は陣中で病になり,わずか18歳で命を落としました。金助の死を伝え聞いた母親は,30年間泣き暮らす。33回忌、生きていれば息子は50歳を過ぎた壮年になっているでしょう。愛しい我が子の出陣を見送った裁断橋のたもとに立つ母も老いた。母(堀尾方泰室)は、老朽化した橋の修築をしようと思い立つ。修築が諸人の助けとなり,今は亡き息子の供養になるからです。「橋供養」というそうです。
1621(元和七)年、擬宝珠に以下の文を残しました。野口英世の母のひらがなの手紙と並んで心に残ります。
~~~~~~~
てん志やう十八ねん 二月十八日に をだわらへの御ちん ほりをきん助と申す十八になりたる子をたたせてより 又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに 今 この橋をかけるなり 母の身には落涙ともなり そくしんじょうぶつしたまへ いつかんせい志ゆんと後の世の又後まで このかきつけを見る人ハ念仏申したまへや 三十三年のくやう也
(天正十八年二月十八日に/小田原への御陣/堀尾金助と申す/十八になりたる子をたたせてより/又二目とも見ざる/悲しみのあまりに/いまこの橋を架けるなり/母の身には落涙ともなり/即身成仏し給え/逸岩世俊(堀尾金助の戒名)と後の世のまた後まで/この書き付けを見る人は/念仏申し給えや/三十三年の供養なり)
~~~~~~~~~~
名古屋市熱田区の裁断橋は、現在では廃橋となっているそうです。平仮名の供養文からは、息子を失った母の悲しみがひしひしと伝わります。33回忌は、仏教の供養の最後といいます。堀尾金助という日本史にはまったく出てこない、ひとりの若者の死。その死を、母がひたすら嘆く。
名古屋の人には知られた橋供養の文なのでしょうが、私は初めて知りました。
3月11日の東北大震災、そして今月の台風12号の大きな被害、災害で亡くなった方、また事故や病気で愛する人を失った、残された者の悲しみは癒しがたいものです。私たちにできることは、この堀尾金助の母のように、ひたすら供養し、亡き人を思い出すことだろうと思います。
<つづく>
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2011年09月07日
ぽかぽか春庭「大谷美術館と大倉集古館」
2011/09/07
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(15)大谷美術館と大倉集古館
8月23日午後、ホテルニューオオタニの大谷美術館とホテルオオクラの大倉集古館へ。地下鉄永田町からちょっと歩いてホテルニューオータニへ。オータニ美術館に初めて入りました。前回このホテルにきたのは、去年の夏、中国の友人を連れて、ぐるぐるまわる回転展望レストランに食べにきたとき。しかし、美術館は1991年の開設以来、来たことがありませんでした。
「美術館にロッカーがないから、ホテルのクロークに預けるようにいわれたんですけれど」と言ったら、クローク係はにこやかにボロいリュックをあずかってくれた。うん、従業員、きちんと教育されていますね。一流の場所は、どんなぼろい服の客もていねいに扱うよう教育が徹底しています。中途半端に高級そうなところは接客者が客の値踏みをしている目つきをするのです。本物のプロの接客者は、たとえ心の中で値踏みしたとしてもそれを顔つきに出さない。ぼろい格好をした大金持ちというのもよくいることですし。まあ、私はヨレヨレTシャツにぼろいジーパンはいた本物の貧乏人ですが。ホテルニューオオタニの創業者は貧農の出身。貧乏人をバカにしたら創業者が化けて出るにちがいない。
ホテルニューオオタニの創業者大谷米太郎(おおたによねたろう1881-1968年)は、富山県の貧農の家に生まれ、体格のよさを生かして力士を目指しました。四股名は鷲尾獄。しかし、十両昇進目前に怪我をして、出世を断念。人柄を見込まれ、国技館の酒屋に転身しました。それから立志伝を絵に描いたように成功して鉄鋼王となります。財を浮世絵収集につかい、なかでも力士であったことから相撲錦絵を収集。
今回私が見たのは、相撲絵の収集を引き継いだ次男の大谷孝吉のコレクションから、約60点の相撲錦絵の展示でした。大谷米太郎は晩年、経営してきた大谷重工業の社長の座を追われ、ホテル以外にその名が残らなかったせいか、二代目の孝吉はあまりぱっとした印象がない。相撲錦絵コレクターであったこと、はじめて知りました。
http://www.newotani.co.jp/group/museum/exhibition/201107_ootani/index.html
錦絵研究者や相撲史研究者なら、もっと細かい見方ができたのだろうけれど、私にはどの力士も区別がつかず、あまり熱心な鑑賞はできませんでした。けれど、相撲錦絵が江戸の庶民にとって、大スターのブロマイドとして大人気であったことはよくわかりました。力士や取り組みの詳しいことはわからないのですが、格闘者の肉体が大衆に熱狂的に求められていたことが展示の錦絵にもその迫力から感じられます。2メートルを超す巨漢の相撲取りもいて、さぞや驚異の肉体であったことでしょう。
娘は世界陸上の全放映を見ていました。私は室伏の金メダルはライブを見のがしたけれど、ボルトの百メートル失格はライブで見ました。ボルトも室伏の立派な体格です。
室伏は、体格だけでなく、体育学で博士号取得。2011年4月、中京大学 スポーツ科学部・競技スポーツ科学科准教授に就任しました。イケメンでいい身体で、博士。江戸の力士も平成のハンマー投げも、ジョシはうっとりその身体に見入ることでしょう。私、アンコ型力士とか、ボディビルダーのうそッポイ筋肉の作り方は好きじゃないけれど、室伏の身体は美しいと思いますヮ。室伏、世界陸上での金をみやげに早く結婚してほしいけど。あの渋面パパさんと離婚してしまったフィンランド人ママさんへのマザコン説もあるんですが、イケメン大好きだから許す。
大倉集古館は、明治大正時代の実業家大倉喜八郎が設立した、日本で最初の私立美術館です。日本と中国の古美術が収集されています。
2代目の大倉喜七郎(おおくらきしちろう1882-1963年)は、男爵を受爵した父を継ぎ、近代絵画を収集。また、音楽道楽にあけくれ、大和楽という和楽器のオーケストラを設立しました。今回の展示は喜七郎の大和楽の展示と、「楽器が描かれた絵」の展示。
大倉喜七郎も、大谷孝吉と同じく2代目の坊ちゃまだけれど、こちらは趣味人として知られてきました。坊ちゃまの趣味のひとつの大和楽、新しい楽器の発明や演奏に力を入れた。それにちなんで、楽器が描かれている絵の展示。点数は少なかったけれど、なかなかおもしろかった。
http://www.shukokan.org/exhibition/index.html#neiro
<つづく>
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2011年09月09日
ぽかぽか春庭「練馬区立美術館グスタボ・イソエ展」
2011/09/09
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(17)練馬区立美術館グスタボ・イソエ展
新聞で展覧会評を見ても、まったく知らない名前だったし、もし、ぐるっとパスを買っていなかったら、わざわざ中村橋まで見に行かなかっただろうと思うので、ぐるっとパスを買ってよかったと思います。
8月13日、お昼ご飯、中村橋駅前の大衆中華屋で餃子回鍋肉セット680円を食べてから、練馬区立美術館へ。だいたい、練馬区が区立美術館を持っていることも知らなかったし。練馬は大根しか知らぬ。
http://www.city.nerima.tokyo.jp/manabu/bunka/museum/
磯江毅、スペインでの名はグスタボ・イソエ。画業の地を日本に移転した矢先に2007年、53歳で死去。マドリッド・リアリズムの画家として、スペインでは高く評価されてきたけれど、日本での評価が高まったのは90年代に入ってからのこと。
芸大出身者などの日本の美術界アカデミズムの中にいる人にとっては、イソエは異端の人だったのでしょう。磯江は、1973年 大阪市立工芸高等学校図案科卒業したあとヨーロッパに向いました。1974年、20歳のころ、シベリア経由でスペインへ。マドリッドのアカデミア・ペーニャや王立美術学校で絵を学びました。
マドリッドの日本大使館に長年勤務して夫の画業を支えた夫人が、作品にコメントを寄せていました。普通ならキュレーターの解説が書いてある作品紹介に、奥さんの思い出話が書かれていたのが印象的でした。「このモデルさんは、夫が貧乏画家であることを知っていて、安い値段でモデルを引き受けてくれました」など。
グスタボ・イソエの年譜と絵
http://homepage2.nifty.com/saihodo/artists_isoe_2.html
絵はスーパーリアリズム。けれど、「写真みたい」なんて言ってしまったら、「絵の本質がわからない人ね」と一喝されそうなリアリズムを超えた凄味が迫ってきました。
たとえば、「新聞紙の上に横たわる裸婦」の新聞は、一字一字新聞の通りに模写され、新聞写真も丁寧に写されています。しかし、写真じゃない。その不思議なリアリズムは、見る者を異次元のリアルな世界に引きずり込むような気がします。
人物のリアルさもすごいけれど、なんと言っても静物画がスーパーリアル。スペイン語で「ボデゴン」は、英語のstill life(静かな生物)、フランス語のnature morte(死んだ自然)とも意味合いが異なり、厨房画と訳される。台所にある物と人を描くのがスペインのボデゴンです。イソエのボデゴンは、静かな生物でもあり死んだ自然でもあります。縄で吊されている羽を毟り取ったあとのウズラや毛を毟られたうさぎ。身をすっかり食べ尽くした皿の上の鰯の骨。みずみずしい葡萄やざくろ。それがしだいにしなびていくようすをリアルに写し取ったボデゴンは、生と死を深く見つめる画家の目を通して、強く訴えかける「何ものか」が絵の中に息づいています。
上手な写真家が写せば、イソエが描いたような生と死を印画紙に定着できるのだろうか。いや、やはり写真の一瞬の切り取りでは、このnature morteでもありstill lifeでもある物の生命は別のものになる気がします。磯江はしなびて腐りかけた葡萄の一房を描いている。カメラレンズで写し取ったかのように正確でありながら、カメラで写したのでは写しとれないものを絵筆は確実に描ききっています。
シャッターを押しカメラのレンズが開閉するのは、一瞬です。星を撮影した写真など、夜空に向けて一晩中レンズを向けて撮った写真もあるけれど、昼の画像でレンズを開け続ければ、印画紙には何も残らない。けれど、画家の眼は葡萄がしなびていくその時間すべてを見つめることができる。その生きて死んでまだ続いていく時間のすべてを絵筆は描きとっている。
スーパーリアリズムの形には画家の生きてきた時間のすべてが描き込まれている。裸婦を描いた絵には、画家が裸婦を見つめ続けた月日と画家の心の動きのすべてが表されている。薬瓶のラベルの落剥や、割れた硝子にうっすら映る画家の顔がキャンバスに写し取られるとき、リアルは現実を超えてしまう。
磯江毅の画業を知ることができてよかったです。
8月24日午後、三の丸尚蔵館で明治大正の献上画帳の日本画。横山大観や山岡鉄舟など知っている名もあるし、まったく知らない名もある。皇室献上の画帳に選ばれるくらいだから、当時は大家だったのだろうし、現在でも日本画史の研究者なら知っている名なのだろうが、日本画に詳しくない私には知らない名ばかり。大家というのも百年経てば、一般人には知られない人になるのだ、と感慨深い。
http://www.kunaicho.go.jp/event/sannomaru/tenrankai55.html
三の丸尚蔵館から東御苑を通り抜けて近代美術館常設展へ。5月に見たときに比べると、かなり展示替えがあった。三の丸尚蔵館のついでに寄ったのだけれど、季節に一回は常設展示も見ておくといいとわかる。
<つづく>
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2011年09月10日
ぽかぽか春庭「目黒美術館スケッチブック小川千甕と澤部清五郎の」
2011/09/10
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(16)目黒美術館スケッチブック小川千甕と澤部清五郎の
8月25日は、午後、目黒区美術館へ。展覧会タイトルが「スケッチブックの使い方-描いたり歩いたり、そしてまた描いたり」というので、私は夏休み宿題向けの子どものためのワークショップだろうと思ったのだけれど、それでも常設展示があるはずだと思って出かけました。しかし、展覧会は「小川千甕と澤部清五郎、100年前のスケッチブック」という内容でした。「スケッチブックの使い方、描いたり歩いたりまた描いたり」というコピーだけが案内に出ているので、ふたりの画家の画業紹介とは思ってもみなかった。
思いがけずこれまでその名を知らなかった画家を知ることができたのだけれど、この宣伝コピーは展示の内容がまったくわからないとアンケートに書いた。
澤部清五郎(さわべせいごろう1884~1964))は川島織物の図案係として勤務した人。川島織物会社の重役にまでなり、長寿の末に亡くなったときには社葬によって見送られたのだけれど、本人は洋画家として大成したいという本意を遂げられなかった、という思いを残しての一生だったといいます。
澤部は青雲の志を持ってパリに画家修業に出て、梅原龍三郎や安井曽太郎と研鑽を競ったのですが、梅原や安井が日本の洋画家として大成したのに対して、澤部自身は家庭の事情から収入身分の不安定な画家ではなく、家族を養うに足る給料を得るべく、織物会社の図案係になりました。自身は、2度も妻に先立たれたのち、3人目の妻に「家族運の薄い人でした」と回想される家庭生活。
1992年、目黒区美術館で澤部清五郎展が開催されたこともまったく知りませんでした。
もうひとり、小川千甕の名もこれまで聞いたことがありませんでした。デジタル版 日本人名大辞典での小川千甕の紹介。
~~~~~~~~~~~~
1882-1971明治-昭和時代の日本画家。明治15年10月3日生まれ。仏画師北村敬重の弟子となり,浅井忠に洋画もまなぶ。大正4年川端竜子,小川芋銭(うせん)らと珊瑚(さんご)会を結成。油絵から日本画へ移行し院展に「田面の雪」「青田」などを出品。昭和7年日本南画院に参加。昭和46年2月8日死去。88歳。京都出身。本名は多三郎。代表作に「炬火乱舞」など。
~~~~~~~~~~~~
澤部清五郎と小川千甕、ともに明治初期に浅井忠の弟子となり洋画をまなび、また日本画も描きました。一般には知られていない画家というか、私が知らなかったのですが、絵画修行とも言える画帳には、それぞれの20歳前後から晩年までの多数の習作が描かれています。スケッチブック(各70冊ほど)がありました。
これまで見て来た展覧会では、スケッチブックは、見開きのページだけが眼に見えて、あとのページはわかりませんでした。今回は、複写された全ページが壁のパネルに並べられ、全体を展示してあるところがよかった。西欧の旅、日本各地の旅、花や人物。眺めていると、描かずにはいられない強い情念が伝わってくる。私が文字を読み、文字を書かずには生きていけないのと同じだと思う。
http://www.tokyoartbeat.com/event/2011/0002
<つづく>
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2011年09月11日
ぽかぽか春庭「東京芸術大学美術館「源氏物語絵巻に挑む」」
2011/09/11
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(17)東京芸術大学美術館「源氏物語絵巻に挑む」
9月1日から8日まで、朝9時から夜6時まで集中講義。90分授業を一日5コマ。途中の昼休みは40分ですが、学生の質問など受けていると30分もなくなり、ごはんをゆっくり食べている余裕もない。マックのハンバーガーなどをかっこみました。
6日続いた集中講義。中学高校の先生の仕事で言うなら、45分授業を1時間目から10時間目まで、一日中ぶっ続けで喋り倒す。日本語学と日本語教育概論を喋り続けて、ああ、くたびれた。なにせ半年分、90分授業30コマ分、学生にしてみれば、一週間に2コマ授業を受けて4単位になる分を6日間で行うのですからハードワークは当然です。対象は、日本語教師養成講座に登録した学部の2,3,4年生。日本語教師をめざして真剣に授業を受ける学生たちです。
こんなに一生懸命仕事をして、がんばった私にごほうび。心に栄養与えなくちゃと、仕事が終わった翌日の金曜日にはさっそくアート散歩にでかけました。9月9日から9月25日まで、東京芸大美術館で、源氏物語の模写特別公開があるというので初日に見ることにしました。入館料500円のところ、ぐるっとパスの割引き券があるので300円でした。「6日間一生懸命仕事したごほうび」が300円とは安上がりですが、目の保養、心の栄養に、とても大きなものでした。
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2011/genji/genji_ja.htm
これまで、芸大日本画研究室は敦煌壁画の模写などを手がけてきました。敦煌の模写が一区切り着いたのを機に、次は大学院の修了制作のひとつとして、国宝『源氏物語絵巻』の模写に取り組みました。徳川美術館と五島美術館に所蔵されている絵巻を寸分違わぬよう二部模写し、一部は徳川と五島に納め、一部は芸大の所蔵として保管します。
模写は、画家の修業のひとつとして多くの画家が取り組んできました。日本画の大学院生にとって、源氏物語を模写できるとは、その絵画技術の向上にも約立つことです。またこれまで作品の劣化などをおそれて海外への作品貸し出しができなかった源氏物語絵巻でしたが、出来上がった模写作品は、「日本のすぐれた文化」を紹介するにも大いに役に立つだろうと思います。
現代では多色刷りコロタイプなど印刷技術の発達のおかげで、正確な作品コピーができるようになりましたが、模写するという人の手による方法で写し取った絵は、写真コピーとはまた別の価値があります。
徳川美術館では,現状では絵の具の剥落など劣化がある源氏絵巻を、平成復元模写として、「平安時代に描かれた当時の復元」を行っています。今回の模写は、「現状復元模写」で、絵の具の落剥や詞書の墨字のかすれなどをそのまま模写しています。
平成復元模写
http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/06/index.html
会場には、徳川美術館から貸し出されている「柏木」「宿木」の国宝も展示されていて、私は生まれてはじめて源氏絵巻の本物を見ることができました。これまで画集や絵巻解説本などで、見続けてきた源氏絵巻ですが本物を見たことがなかったのです。
絵巻は、源氏物語54帖のうち、名古屋市の徳川美術館に絵15面・詞28面(蓬生、関屋、絵合(詞のみ)、柏木、横笛、竹河、橋姫、早蕨、宿木、東屋の各帖)、東京都世田谷区の五島美術館に絵4面・詞9面(鈴虫、夕霧、御法の各帖)が所蔵されています。
そのすべてを、日本画研究室の院生が手分けして精密に写し取っていました。
<つづく>
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2011年09月13日
ぽかぽか春庭「源氏物語模写マネてまなぶ」
2011/09/13
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(17)源氏物語模写マネてまなぶ
源氏物語絵巻は保存の必要から詞書と絵の部分に切り離され、額装されて桐の箱に収められています。現状模写では、その桐の箱までそっくりに復元しているのです。展示第2室には、使用した絵の具顔料の石(岩絵の具原料)や絵筆、絵の額装に用いる金紙やプラチナ紙をを極細に切り刻んだものの見本などが展示され、元の本物とそっくりに仕上げるには、桐の箱を作る職人や元の絵との照合を行う人など、たくさんの協力者が必要だったことがわかります。
本当に見事な現状模写で、私は、「普段はこちらを展示しておき、国宝のほうは劣化しないよう展示は一年に一度、研究者に公開すればよい」と思いました。シロートの私が見るなら、模写のほうで十分ですから。もちろん「本物を見ることができた」という感激も大切ですから、たまには一般公開してほしいですけれど。
模写というのは、絵を学ぶ人にとっての大切な修行です。何事においても「まなぶ」とは「まねぶ」であり、まずは先人の業績を模倣するところからすべては始まります。赤ちゃんが養育者の発音をマネするところから言語が発達するのと同じ。学者の研究は、まず先行研究の成果を学ぶところから。そっくりの模写ができた上で、自分自身のオリジナルが発揮できるのです。
私の「日本語教授法」の授業でも、いろいろな先生の「日本語を教えている教室を写したビデオ」を見せます。その上で、学生には「まずは、さまざまな授業スタイルを知り、マネするところからはじめてください。それから自分自身で工夫してそれぞれの学生、教室にあった授業方法を考えましょう」と言っています。
集中授業「日本語教授法概論」では、いろんなワークショップを入れて教室活動を行ったので、学生達は「面白かった」と言い、「日常の読み書きは十分できているつもりだったけれど、日本語の世界がこんなに奥深いとはじめて気づいた」と感想を言っていたので、まあ、よい6日間をすごせたのだろうと、講義終了することができました。
道路に水を撒いていく姿を撮影したビデオが石田尚志のアートなら、一日に10時間しゃべり続ける姿が私のアートです。
アートとは、「う~ん、よくわからない」というものでも「これはオークションに出せば100万円の価値があるんだから、名作なのだ」でもなく、「今を生きて行くこと」「今、私がここにあること」そのもののことを言うのではないかと思います。
9月8日に集中講義が終わったあとは、ジャズダンス発表会。敬老の日は姑のご機嫌伺いもしなけりゃならず、見たい展覧会も映画もビデオもまだたくさんあります。ああ忙しい。こういう日常をつつがなくすごしていくのもひとつの技術。
「アート」の元の意味は「技術」ということです。ギリシャ語の「τεχνη techné(テクネー)」は英語のテクニックにつながる、元々は単に「人工(のもの)」という意味です。テクネーがラテン語に訳されて「ars(アルス)」となり、英語のartアート、ドイツ語の「Kunst(クンスト)」などから日本語ではartは「技術」と訳される語でした。それが近代になって、artから派生した二義的な意味、「よい技術、美しい技術」(fine art, schöne Kunstなど)がしだいに一義的な意味になりました。明治時代に「リベラル・アート」を翻訳するとき、西周が、『後漢書』5巻に見える「蓺術」の語を当てはめ、日本語訳が「芸術」として成立しました。
私はことばでのスケッチを続けます。町を山を美術館を歩き回り、歩いた道を記録していきたい。夏のアート散歩の記録、ひとまずここでおひらき。
<おわり>
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(11)東京現代美術館サイレント・ナレーター
石田尚志の一番新しい作品は、2011年4月の「海中道路」、10分間のビデオ作品。害虫駆除の薬剤噴霧器に海水を入れ、噴出する水で沖縄の海辺の道路に線を描いていくようすを撮影した映像です。映像は線の形を追うでもなく、むしろ噴霧器を持った石田が走ったり止まったりするようす噴霧器から水が出ていくようすを延々と撮影しています。「描く行為」そのものの映像化とでもいいましょうか。う~ん、やっぱりわからん。
ディズニーランドの掃除人カストーリアルキャストは、水を含ませたほうきで、道路にミッキーマウスやミニーの絵を描いて、観客を楽しませています。これはエンターティメント。
中国の公園では、大きな筆に水を含ませて、公園の道に立派な字で漢詩や論語の文字を書き続けるおっさんがたくさんいます。水の文字は乾けば消える。特に書家として名があるわけでもないらしいごく普通のおっさんたちが、我も我もと道に達筆の字を書いているようすは、中国の公園光景のなかでも、太極拳の大群、青空麻雀の大群とともに印象深く残っています。
ディズニーランドの掃除人や公園の水筆書きのおっさんは、アーティストと呼ばれることはない。でも、石田尚志が沖縄の道路に水で線を描けば、これはアート。現代美術館に映像展示される。もし、石田が中国の公園で噴霧器の水をまき散らしながら走ったとして、だれもそれをアートと思わないでしょう。中国の都市道路で、水を撒いて埃を掃除しながら走るトラックを誰もアートと呼ばないし、水筆書きのおじさんたちを撮影しようとするビデオクルーもいないのと同じように。それがアートとなるのは、アーティストが「これはアートである」と言って行い、見る人も「これはアートなのだ」と思って見る行為だからなのかしら。どうも、シロートには現代アートわからんのです。
好きになった作品もあります。
私、海坂ときけば、一番最初に思い浮かべるのは藤沢周平の海坂藩。それしか知らなかった。
三省堂大辞林での「海坂」の解説
舟が水平線の彼方に見えなくなるのは、海に傾斜があって他界に至ると考えたからという、神話における海神の国と人の国との境界。
「海坂を過ぎて漕ぎ行くに海神(わたつみ)の神の娘子(おとめ)に/万葉 1740」「即ち海坂を塞(さ)へて返り入りましき/古事記(上)
石田尚志「海坂の絵巻」は、墨で描かれた映像作品。これなどは、もうひとつの展示室の「サイレントナレーター」のテーマと同じく、「絵や映像を見て、鑑賞者が心の中に自分だけのものがたりをつむぐ」という展示コンセプトと響き合って、私は動く墨絵を眺めて自由にものがたりを紡ぎました。海坂のはるか彼方、波の坂道を降りていくと、そこは、、、、
サイレント・ナレーターの部屋に展示してある作品のうち、唯一、前に見たことのある作品は、ロイ・リキテンスタイン(Roy Lichtenstein 1927 - 1997)の「ヘアリボンの少女」。
http://www.geocities.jp/untitled_museum/z3_3rd-gallery.html
同じような作品を見たことがある。何度見ても、アメリカの漫画の絵とどう違うのかわからない、とシロートは思う。漫画は娯楽だけれど、リキテンスタインはアート。その違いがわからない。美術史家によれば、リキテンシュタインは、マンガの含有する偶像崇拝の心理をアートしているのだという。そ、そうなのか。
市販品の便器にサインをして「泉」とタイトルをつけて、20世紀最大のアートという評価を得たデュシャン。しかし、私がオマルにサインしてもアートではない。
現代美術館がこの「ヘア・リボンの少女」を購入したとき、1枚の絵の価格、6億円だった。ワォ、私の都民税も使ったはず。6億÷1200万人だと50円分、この少女のマツゲ一本のさきっちょくらいは私が買ったのだ。せいぜいじっと眼をこらして見ておかなくちゃ。あは、どうしても芸術鑑賞のレベルが低い。
リキテンシュタインの絵、いろいろ。
http://matome.naver.jp/odai/2129729966984189701
<つづく>
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2011年09月03日
ぽかぽか春庭「東京現代美術館カオス・ポエティコ詩的な混沌」
2011/09/03
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(12)東京現代美術館カオス・ポエティコ詩的な混沌
ジュリアン・シュナーベルは、映像作家としては、第60回カンヌ国際映画祭監督賞を受けた2007年の『潜水服は蝶の夢を見る』を見たことがありますが、画家として見るのははじめて。
シュナーベルは、割れた皿やコップ、急須などを画面に貼り付けた作品で知られています。近くで見ると割れた皿やコップが並んでいて絵の具が塗りたくってあり、木の枝がくっつけられているのですが、遠くで見ると王の像が見え、王剣の前にある木の枝は蛇です。私、最初、王剣がサンマに見えました。サンマを手に掲げ持つ王なんて、シュールでいいなあと思った。
解説員が「フリーザーって知っていますか」と問うので「ええ、『金枝篇』は全巻読みました」と答えると、「あらまぁ、私はこの絵の解説をするので、フリーザーをはじめて知ったのですけど、、、、」と言うので、しまった、解説される人が解説する人より詳しいこと言っちゃイケネーや、と反省。
シュナーベルの割れた皿の絵のタイトル「森の王」とは、『金枝篇』の中に出てくる「新しい王が力の衰えた旧い王を追い払う」というお話に基づいているのだ、と解説してもらいました。
企画展示サイレント・ナレーターの展示室、あとは、全部はじめて見るアーティストばかりでした。
ゴミを拾って構成した大竹伸郎「ゴミ男」とか、デビット・ホックニー「スプリンクラー」とか、印象に残る作品がありました。
サイレント・ナレーターの最後の作品は、「Caos Poetico詩的な混沌」
メキシコの家々の「盗電」。公共の電柱から勝手に電線を引き込んで家の中に電灯を灯す光景をイメージしてアートにした、荒木珠美の作品です。空き箱の中に色とりどりの豆電球。展示室いっぱいに、400個の電灯箱が都市スラムの混沌さながらに黒いコードを絡ませながらぶら下がっています。混沌とした都市スラムに、祝祭のように輝く盗電の電灯。盗電の僥倖。饒舌の沈黙。サイレントナレーションが心地よかった。
以下、「私の紡ぎ出すものがたり-盗電祝祭」
そうよ、電気なんて、一企業がエラソーに配布するもんじゃないのよ。あれは公共のもの。雨上がりの虹や夜空の星の光は誰の私有物でもないのと同じ。電気は公共インフラって思う。前政権は、アメリカのご機嫌取りに米国通信産業や生命保険事業を日本に引き入れようと郵政民営化を掲げて、日本の通信事業を公共インフラから私企業にしてしまった。世界の情報は、グーグルやマイクロソフトなどの私企業の支配下におかれつつあるけれど、本来、基本的な生存権は、基本的インフラを公平に享受するところから出発する。生きて行くために必要な水や米や通信や電気は、公共のものであるべき。
私も東電でなく盗電しよっと。さて、どうやって。
どうやってもすてきなファンタジーにはならないせこいものがたり。
と、アートの豊かさにふれても、どうしてもみみっちい発想のままの春庭、常設展示を見終わって、せめて今日くらいゆったり百万円に座っとこうと、アトリウムの「百万円の椅子」に腰掛けました。
<つづく>
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2011年09月04日
ぽかぽか春庭「東京現代美術館"I am still alive."まだ生きている」
2011/09/04
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(13)東京現代美術館"I am still alive."まだ生きている
現代美術常設展示のボランティアガイドをいっしょに聞きながら見てまわったおやじさんが、アトリウム展示の百万円の椅子を見て「こんな椅子なら作れる」と言ったように、現代美術作品の中には、子どものいたずら書きのように見える絵がいくつもあります。殴り書きのような、ちょこちょこっとノートのはじっこに描いた落書きのような。
「これなら私だって描ける」と、思うのはシロートなんだそうですが、どんないたずら書きであってもトコトン絵が下手な私にも「これなら、私も同じような作品が作れる」と思った展示がありました。
河原温の「I GOT UPシリーズ」、絵はがきを並べた作品です。
河原はコンセプチュアルアートの重要な作家だそうです。作品の写真撮影は禁止されているので、公的な撮影をしている美術館などのサイトの写真、みな小さい紹介しかないので、どんな感じかわかりにくいと思いますが。葉書1枚だけの展示ではなく、10年分ずらりと並んでいることが大切なのだと思います。
河原が住んでいた場所や旅行先のさまざまな絵はがきに「私は○○時に起きた」とタイプで書き込み、1968年から10年間にわたって送り続けたその葉書を、日付順に並べた作品です。文面は起床時間だけ。「I got up at 8:30などの、その日の起床時間。
届けられた友人はふたりのみ。投函場所は、河原が住んだニューヨークやパリのほか、旅行に出た行く先々。洋上の船の上からも出されました。
差出人と宛先の住所氏名等は手書きでなくゴム印で押されていたのですが、1979年にゴム印の入ったかばんが盗まれたことにより、このシリーズは終了しました。
http://www.artfairtokyo.com/contents/index.php?m=SearchItem&id=261
http://plaza.rakuten.co.jp/adayontheplanet/diary/200612070002/
河原の作品に、常に同じ"I am still alive."まだ生きている、という文面の電報を世界各地から発信するシリーズもありました。
私がマドリッド・リアリズムの磯江毅に「描いている対象物を見つめ続けるその時間がすべて描き込まれている」と感じたその時間。石田尚志の描いている行為をビデオに撮影した「海中道路」の、その描かれた時間。
それと同じく河原温のI GOT UPと記された絵はがきは、河原の生きた時間を並べていました。
おお、これなら私もできるぞ。
むろん、コンセプチュアルアーティストでないシロートの私が葉書を送ったところで、毎日電報を打ったところで、それは反古にしかすぎないのはわかっていますが、私だって葉書を送るくらいのことはしておりまする。
私は今年4月から、青い鳥チルチルさんあてに3日に1枚、1ヶ月10枚。3年余、合計365枚の絵はがきを送るシリーズを始めています。8月末までの分で50枚になっています。
月の最初はその季節の花の絵はがき。あとは、美術館で買った名画絵はがきとか観光地で買った名所や風景絵はがきなどを混ぜて、365枚の全部が異なる絵柄の絵はがきと異なる文面になるようにしています。絵手紙ならもっといいのでしょうが、私にはまったく絵が描けないので、既製品の絵はがきを使っています。
月の最後は大型サイズの葉書です。たいてい手作り。美術館チラシやカレンダーの絵に白い紙を貼り付けたものなど。8月は花火大会でもらった団扇に切手を120円(定形外郵便物)貼って送りました。
切手は、季節の花の切手やピーターラビット切手、キティちゃん切手、木シリーズなど。50円切手がなるべくいろいろな種類になるようにしています。
文面は、季節の感想やらその日の出来事、絵はがきの絵柄に関する話題などを手書き。
自分の描いた絵ではないのだから、アートとは、ほど遠いと思っていました。でも、全部を並べれば、これはアートになるんです。たぶん。
365枚たまったとき、これを全部並べれば、私の「I GOT UP」シリーズになるんじゃないかしら。
河原の「I GOT UP」、ニューヨークに滞在している間はずっとニューヨークの街の絵はがきで、文面も同じですから10年分でも統一感はあります。私の「TO:青い鳥シリーズ」は、絵柄はばらばら、文字は乱雑。まったく統一感がありません。でも、それはそれで私の、"I am still alive”の証しです。
ろくでもない文面の乱筆葉書など、一回ごとに読んだら捨てられてもいいようなもので、「出すことに意味がある」と思っていたのですが、「I GOT UP」が現代アートなら、私の「TO:青い鳥」シリーズも、きっと何かのアートです。
さっそく、8月末の葉書で、青い鳥ちるちるさんに、「私の葉書、捨てないで保存しておいてね」とお願いしました。
ちるちるさんから、返信メールが来ました。8月に「足の指が動かせたので、メールを打ってみました」といううれしいたよりがきたのですが、妹さんやヘルパーさんの助けを借りての、メール通信なのだろうと思います。
~~~~~~~~~~
大丈夫です!私は、捨てません!!
No.1より、ハガキファイルに入れて、とってあります!
どんなに古い手紙でも、私は大事にしています。
うちわは、ファイルに入らないので、裏表コピーしてファイルに入れてます。
これ集めるのかなり楽しいですよ♪
まだ暑いですが、ご自愛くださいね
~~~~~~~~~~~
ありがとう、ちるちるさん。「葉書受け取り人ボランティア」になってもらっただけでも有り難いのに、読んでもらい、保存しておいてくださる。
私が毎朝起きてI got up、なんとか生きて、三日に一枚葉書を書いて「I am still alive.」と感じるその感覚を受け取ってくれる。私の生が不確かなものであるとしても、このちるちるさんが受け取ってくれた葉書の分だけ、私は確かに生きたのです。
明日は9月5日。今年もまだ生きている。まだ生きている私に、「まだ生きていておめでとうI am still alive!」
<つづく>
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2011年09月06日
ぽかぽか春庭「三井美術館「橋」展」
2011/09/06
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(14)三井美術館「橋」展
8月、「ぐるっとパス」でたくさんの美術館めぐりをしました。2000円で楽しめる東京観光、貧乏な人でも楽しくすごせる東京。
お金がある人にはお金持ちの楽しみ方があります。代表的お金持ちの道楽は、美術品収集。お金が有り余ると、名誉と芸術を欲するようになるのは古今東西みな同じ。三井も大谷も大倉も、成功した商人が財を蓄える方法のひとつとして、美術品を収集してきました。その一部を一般に公開している私立美術館。財の社会還元の方法のひとつとしてはいいんじゃないでしょうか。
8月19日は、日本橋の三井美術館で「橋」展。三井財閥の収集品のうち、日本橋架橋百年にちなみ、橋が描かれた陶磁器や絵の展示。
橋はこの世と彼岸をつなぐ場所ゆえ、古来たくさんの橋の図象が描かれてきました。
文学の中に出てくる橋を意匠とする絵や図案も多数あります。『伊勢物語』第9段の中に「そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける」と書かれている八橋は、さまざまな絵に描かれました。また、東京の橋の中でも、在原業平が詠んだ「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」という歌ちなんだ言問橋、業平橋があります。もっとも、駅名にもなった業平橋は、「スカイツリー駅」に改称の予定とか。
『源氏物語』の中にも、「橋姫」「夢の浮き橋」など、橋に関わる帖もあり、様々な画家が「源氏の橋」を絵や陶器に描きました。
北斎、広重の江戸の橋を描いた浮世絵は、江戸を始め、各地の有名な橋を描いています。
また、故人供養のため、橋を寄進する風習を知らせる展示もありました。
戦国時代18歳で戦死した息子のために母が橋供養をしたときの擬宝珠(ぎぼし:橋の欄干の柱の頭につけるねぎの花のような形の飾り)に書き込まれた願文がよかったです。本人が直接文章を考えたのか、母心がよく表れた仮名書きの文です。
豊臣秀吉の小田原北条氏征伐。この征伐で秀吉は勝利したけれど、従軍した尾張国丹羽郡(にわぐん)の堀尾金助(ほりおきんすけ)は陣中で病になり,わずか18歳で命を落としました。金助の死を伝え聞いた母親は,30年間泣き暮らす。33回忌、生きていれば息子は50歳を過ぎた壮年になっているでしょう。愛しい我が子の出陣を見送った裁断橋のたもとに立つ母も老いた。母(堀尾方泰室)は、老朽化した橋の修築をしようと思い立つ。修築が諸人の助けとなり,今は亡き息子の供養になるからです。「橋供養」というそうです。
1621(元和七)年、擬宝珠に以下の文を残しました。野口英世の母のひらがなの手紙と並んで心に残ります。
~~~~~~~
てん志やう十八ねん 二月十八日に をだわらへの御ちん ほりをきん助と申す十八になりたる子をたたせてより 又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに 今 この橋をかけるなり 母の身には落涙ともなり そくしんじょうぶつしたまへ いつかんせい志ゆんと後の世の又後まで このかきつけを見る人ハ念仏申したまへや 三十三年のくやう也
(天正十八年二月十八日に/小田原への御陣/堀尾金助と申す/十八になりたる子をたたせてより/又二目とも見ざる/悲しみのあまりに/いまこの橋を架けるなり/母の身には落涙ともなり/即身成仏し給え/逸岩世俊(堀尾金助の戒名)と後の世のまた後まで/この書き付けを見る人は/念仏申し給えや/三十三年の供養なり)
~~~~~~~~~~
名古屋市熱田区の裁断橋は、現在では廃橋となっているそうです。平仮名の供養文からは、息子を失った母の悲しみがひしひしと伝わります。33回忌は、仏教の供養の最後といいます。堀尾金助という日本史にはまったく出てこない、ひとりの若者の死。その死を、母がひたすら嘆く。
名古屋の人には知られた橋供養の文なのでしょうが、私は初めて知りました。
3月11日の東北大震災、そして今月の台風12号の大きな被害、災害で亡くなった方、また事故や病気で愛する人を失った、残された者の悲しみは癒しがたいものです。私たちにできることは、この堀尾金助の母のように、ひたすら供養し、亡き人を思い出すことだろうと思います。
<つづく>
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2011年09月07日
ぽかぽか春庭「大谷美術館と大倉集古館」
2011/09/07
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(15)大谷美術館と大倉集古館
8月23日午後、ホテルニューオオタニの大谷美術館とホテルオオクラの大倉集古館へ。地下鉄永田町からちょっと歩いてホテルニューオータニへ。オータニ美術館に初めて入りました。前回このホテルにきたのは、去年の夏、中国の友人を連れて、ぐるぐるまわる回転展望レストランに食べにきたとき。しかし、美術館は1991年の開設以来、来たことがありませんでした。
「美術館にロッカーがないから、ホテルのクロークに預けるようにいわれたんですけれど」と言ったら、クローク係はにこやかにボロいリュックをあずかってくれた。うん、従業員、きちんと教育されていますね。一流の場所は、どんなぼろい服の客もていねいに扱うよう教育が徹底しています。中途半端に高級そうなところは接客者が客の値踏みをしている目つきをするのです。本物のプロの接客者は、たとえ心の中で値踏みしたとしてもそれを顔つきに出さない。ぼろい格好をした大金持ちというのもよくいることですし。まあ、私はヨレヨレTシャツにぼろいジーパンはいた本物の貧乏人ですが。ホテルニューオオタニの創業者は貧農の出身。貧乏人をバカにしたら創業者が化けて出るにちがいない。
ホテルニューオオタニの創業者大谷米太郎(おおたによねたろう1881-1968年)は、富山県の貧農の家に生まれ、体格のよさを生かして力士を目指しました。四股名は鷲尾獄。しかし、十両昇進目前に怪我をして、出世を断念。人柄を見込まれ、国技館の酒屋に転身しました。それから立志伝を絵に描いたように成功して鉄鋼王となります。財を浮世絵収集につかい、なかでも力士であったことから相撲錦絵を収集。
今回私が見たのは、相撲絵の収集を引き継いだ次男の大谷孝吉のコレクションから、約60点の相撲錦絵の展示でした。大谷米太郎は晩年、経営してきた大谷重工業の社長の座を追われ、ホテル以外にその名が残らなかったせいか、二代目の孝吉はあまりぱっとした印象がない。相撲錦絵コレクターであったこと、はじめて知りました。
http://www.newotani.co.jp/group/museum/exhibition/201107_ootani/index.html
錦絵研究者や相撲史研究者なら、もっと細かい見方ができたのだろうけれど、私にはどの力士も区別がつかず、あまり熱心な鑑賞はできませんでした。けれど、相撲錦絵が江戸の庶民にとって、大スターのブロマイドとして大人気であったことはよくわかりました。力士や取り組みの詳しいことはわからないのですが、格闘者の肉体が大衆に熱狂的に求められていたことが展示の錦絵にもその迫力から感じられます。2メートルを超す巨漢の相撲取りもいて、さぞや驚異の肉体であったことでしょう。
娘は世界陸上の全放映を見ていました。私は室伏の金メダルはライブを見のがしたけれど、ボルトの百メートル失格はライブで見ました。ボルトも室伏の立派な体格です。
室伏は、体格だけでなく、体育学で博士号取得。2011年4月、中京大学 スポーツ科学部・競技スポーツ科学科准教授に就任しました。イケメンでいい身体で、博士。江戸の力士も平成のハンマー投げも、ジョシはうっとりその身体に見入ることでしょう。私、アンコ型力士とか、ボディビルダーのうそッポイ筋肉の作り方は好きじゃないけれど、室伏の身体は美しいと思いますヮ。室伏、世界陸上での金をみやげに早く結婚してほしいけど。あの渋面パパさんと離婚してしまったフィンランド人ママさんへのマザコン説もあるんですが、イケメン大好きだから許す。
大倉集古館は、明治大正時代の実業家大倉喜八郎が設立した、日本で最初の私立美術館です。日本と中国の古美術が収集されています。
2代目の大倉喜七郎(おおくらきしちろう1882-1963年)は、男爵を受爵した父を継ぎ、近代絵画を収集。また、音楽道楽にあけくれ、大和楽という和楽器のオーケストラを設立しました。今回の展示は喜七郎の大和楽の展示と、「楽器が描かれた絵」の展示。
大倉喜七郎も、大谷孝吉と同じく2代目の坊ちゃまだけれど、こちらは趣味人として知られてきました。坊ちゃまの趣味のひとつの大和楽、新しい楽器の発明や演奏に力を入れた。それにちなんで、楽器が描かれている絵の展示。点数は少なかったけれど、なかなかおもしろかった。
http://www.shukokan.org/exhibition/index.html#neiro
<つづく>
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2011年09月09日
ぽかぽか春庭「練馬区立美術館グスタボ・イソエ展」
2011/09/09
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(17)練馬区立美術館グスタボ・イソエ展
新聞で展覧会評を見ても、まったく知らない名前だったし、もし、ぐるっとパスを買っていなかったら、わざわざ中村橋まで見に行かなかっただろうと思うので、ぐるっとパスを買ってよかったと思います。
8月13日、お昼ご飯、中村橋駅前の大衆中華屋で餃子回鍋肉セット680円を食べてから、練馬区立美術館へ。だいたい、練馬区が区立美術館を持っていることも知らなかったし。練馬は大根しか知らぬ。
http://www.city.nerima.tokyo.jp/manabu/bunka/museum/
磯江毅、スペインでの名はグスタボ・イソエ。画業の地を日本に移転した矢先に2007年、53歳で死去。マドリッド・リアリズムの画家として、スペインでは高く評価されてきたけれど、日本での評価が高まったのは90年代に入ってからのこと。
芸大出身者などの日本の美術界アカデミズムの中にいる人にとっては、イソエは異端の人だったのでしょう。磯江は、1973年 大阪市立工芸高等学校図案科卒業したあとヨーロッパに向いました。1974年、20歳のころ、シベリア経由でスペインへ。マドリッドのアカデミア・ペーニャや王立美術学校で絵を学びました。
マドリッドの日本大使館に長年勤務して夫の画業を支えた夫人が、作品にコメントを寄せていました。普通ならキュレーターの解説が書いてある作品紹介に、奥さんの思い出話が書かれていたのが印象的でした。「このモデルさんは、夫が貧乏画家であることを知っていて、安い値段でモデルを引き受けてくれました」など。
グスタボ・イソエの年譜と絵
http://homepage2.nifty.com/saihodo/artists_isoe_2.html
絵はスーパーリアリズム。けれど、「写真みたい」なんて言ってしまったら、「絵の本質がわからない人ね」と一喝されそうなリアリズムを超えた凄味が迫ってきました。
たとえば、「新聞紙の上に横たわる裸婦」の新聞は、一字一字新聞の通りに模写され、新聞写真も丁寧に写されています。しかし、写真じゃない。その不思議なリアリズムは、見る者を異次元のリアルな世界に引きずり込むような気がします。
人物のリアルさもすごいけれど、なんと言っても静物画がスーパーリアル。スペイン語で「ボデゴン」は、英語のstill life(静かな生物)、フランス語のnature morte(死んだ自然)とも意味合いが異なり、厨房画と訳される。台所にある物と人を描くのがスペインのボデゴンです。イソエのボデゴンは、静かな生物でもあり死んだ自然でもあります。縄で吊されている羽を毟り取ったあとのウズラや毛を毟られたうさぎ。身をすっかり食べ尽くした皿の上の鰯の骨。みずみずしい葡萄やざくろ。それがしだいにしなびていくようすをリアルに写し取ったボデゴンは、生と死を深く見つめる画家の目を通して、強く訴えかける「何ものか」が絵の中に息づいています。
上手な写真家が写せば、イソエが描いたような生と死を印画紙に定着できるのだろうか。いや、やはり写真の一瞬の切り取りでは、このnature morteでもありstill lifeでもある物の生命は別のものになる気がします。磯江はしなびて腐りかけた葡萄の一房を描いている。カメラレンズで写し取ったかのように正確でありながら、カメラで写したのでは写しとれないものを絵筆は確実に描ききっています。
シャッターを押しカメラのレンズが開閉するのは、一瞬です。星を撮影した写真など、夜空に向けて一晩中レンズを向けて撮った写真もあるけれど、昼の画像でレンズを開け続ければ、印画紙には何も残らない。けれど、画家の眼は葡萄がしなびていくその時間すべてを見つめることができる。その生きて死んでまだ続いていく時間のすべてを絵筆は描きとっている。
スーパーリアリズムの形には画家の生きてきた時間のすべてが描き込まれている。裸婦を描いた絵には、画家が裸婦を見つめ続けた月日と画家の心の動きのすべてが表されている。薬瓶のラベルの落剥や、割れた硝子にうっすら映る画家の顔がキャンバスに写し取られるとき、リアルは現実を超えてしまう。
磯江毅の画業を知ることができてよかったです。
8月24日午後、三の丸尚蔵館で明治大正の献上画帳の日本画。横山大観や山岡鉄舟など知っている名もあるし、まったく知らない名もある。皇室献上の画帳に選ばれるくらいだから、当時は大家だったのだろうし、現在でも日本画史の研究者なら知っている名なのだろうが、日本画に詳しくない私には知らない名ばかり。大家というのも百年経てば、一般人には知られない人になるのだ、と感慨深い。
http://www.kunaicho.go.jp/event/sannomaru/tenrankai55.html
三の丸尚蔵館から東御苑を通り抜けて近代美術館常設展へ。5月に見たときに比べると、かなり展示替えがあった。三の丸尚蔵館のついでに寄ったのだけれど、季節に一回は常設展示も見ておくといいとわかる。
<つづく>
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2011年09月10日
ぽかぽか春庭「目黒美術館スケッチブック小川千甕と澤部清五郎の」
2011/09/10
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(16)目黒美術館スケッチブック小川千甕と澤部清五郎の
8月25日は、午後、目黒区美術館へ。展覧会タイトルが「スケッチブックの使い方-描いたり歩いたり、そしてまた描いたり」というので、私は夏休み宿題向けの子どものためのワークショップだろうと思ったのだけれど、それでも常設展示があるはずだと思って出かけました。しかし、展覧会は「小川千甕と澤部清五郎、100年前のスケッチブック」という内容でした。「スケッチブックの使い方、描いたり歩いたりまた描いたり」というコピーだけが案内に出ているので、ふたりの画家の画業紹介とは思ってもみなかった。
思いがけずこれまでその名を知らなかった画家を知ることができたのだけれど、この宣伝コピーは展示の内容がまったくわからないとアンケートに書いた。
澤部清五郎(さわべせいごろう1884~1964))は川島織物の図案係として勤務した人。川島織物会社の重役にまでなり、長寿の末に亡くなったときには社葬によって見送られたのだけれど、本人は洋画家として大成したいという本意を遂げられなかった、という思いを残しての一生だったといいます。
澤部は青雲の志を持ってパリに画家修業に出て、梅原龍三郎や安井曽太郎と研鑽を競ったのですが、梅原や安井が日本の洋画家として大成したのに対して、澤部自身は家庭の事情から収入身分の不安定な画家ではなく、家族を養うに足る給料を得るべく、織物会社の図案係になりました。自身は、2度も妻に先立たれたのち、3人目の妻に「家族運の薄い人でした」と回想される家庭生活。
1992年、目黒区美術館で澤部清五郎展が開催されたこともまったく知りませんでした。
もうひとり、小川千甕の名もこれまで聞いたことがありませんでした。デジタル版 日本人名大辞典での小川千甕の紹介。
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1882-1971明治-昭和時代の日本画家。明治15年10月3日生まれ。仏画師北村敬重の弟子となり,浅井忠に洋画もまなぶ。大正4年川端竜子,小川芋銭(うせん)らと珊瑚(さんご)会を結成。油絵から日本画へ移行し院展に「田面の雪」「青田」などを出品。昭和7年日本南画院に参加。昭和46年2月8日死去。88歳。京都出身。本名は多三郎。代表作に「炬火乱舞」など。
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澤部清五郎と小川千甕、ともに明治初期に浅井忠の弟子となり洋画をまなび、また日本画も描きました。一般には知られていない画家というか、私が知らなかったのですが、絵画修行とも言える画帳には、それぞれの20歳前後から晩年までの多数の習作が描かれています。スケッチブック(各70冊ほど)がありました。
これまで見て来た展覧会では、スケッチブックは、見開きのページだけが眼に見えて、あとのページはわかりませんでした。今回は、複写された全ページが壁のパネルに並べられ、全体を展示してあるところがよかった。西欧の旅、日本各地の旅、花や人物。眺めていると、描かずにはいられない強い情念が伝わってくる。私が文字を読み、文字を書かずには生きていけないのと同じだと思う。
http://www.tokyoartbeat.com/event/2011/0002
<つづく>
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2011年09月11日
ぽかぽか春庭「東京芸術大学美術館「源氏物語絵巻に挑む」」
2011/09/11
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(17)東京芸術大学美術館「源氏物語絵巻に挑む」
9月1日から8日まで、朝9時から夜6時まで集中講義。90分授業を一日5コマ。途中の昼休みは40分ですが、学生の質問など受けていると30分もなくなり、ごはんをゆっくり食べている余裕もない。マックのハンバーガーなどをかっこみました。
6日続いた集中講義。中学高校の先生の仕事で言うなら、45分授業を1時間目から10時間目まで、一日中ぶっ続けで喋り倒す。日本語学と日本語教育概論を喋り続けて、ああ、くたびれた。なにせ半年分、90分授業30コマ分、学生にしてみれば、一週間に2コマ授業を受けて4単位になる分を6日間で行うのですからハードワークは当然です。対象は、日本語教師養成講座に登録した学部の2,3,4年生。日本語教師をめざして真剣に授業を受ける学生たちです。
こんなに一生懸命仕事をして、がんばった私にごほうび。心に栄養与えなくちゃと、仕事が終わった翌日の金曜日にはさっそくアート散歩にでかけました。9月9日から9月25日まで、東京芸大美術館で、源氏物語の模写特別公開があるというので初日に見ることにしました。入館料500円のところ、ぐるっとパスの割引き券があるので300円でした。「6日間一生懸命仕事したごほうび」が300円とは安上がりですが、目の保養、心の栄養に、とても大きなものでした。
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2011/genji/genji_ja.htm
これまで、芸大日本画研究室は敦煌壁画の模写などを手がけてきました。敦煌の模写が一区切り着いたのを機に、次は大学院の修了制作のひとつとして、国宝『源氏物語絵巻』の模写に取り組みました。徳川美術館と五島美術館に所蔵されている絵巻を寸分違わぬよう二部模写し、一部は徳川と五島に納め、一部は芸大の所蔵として保管します。
模写は、画家の修業のひとつとして多くの画家が取り組んできました。日本画の大学院生にとって、源氏物語を模写できるとは、その絵画技術の向上にも約立つことです。またこれまで作品の劣化などをおそれて海外への作品貸し出しができなかった源氏物語絵巻でしたが、出来上がった模写作品は、「日本のすぐれた文化」を紹介するにも大いに役に立つだろうと思います。
現代では多色刷りコロタイプなど印刷技術の発達のおかげで、正確な作品コピーができるようになりましたが、模写するという人の手による方法で写し取った絵は、写真コピーとはまた別の価値があります。
徳川美術館では,現状では絵の具の剥落など劣化がある源氏絵巻を、平成復元模写として、「平安時代に描かれた当時の復元」を行っています。今回の模写は、「現状復元模写」で、絵の具の落剥や詞書の墨字のかすれなどをそのまま模写しています。
平成復元模写
http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/06/index.html
会場には、徳川美術館から貸し出されている「柏木」「宿木」の国宝も展示されていて、私は生まれてはじめて源氏絵巻の本物を見ることができました。これまで画集や絵巻解説本などで、見続けてきた源氏絵巻ですが本物を見たことがなかったのです。
絵巻は、源氏物語54帖のうち、名古屋市の徳川美術館に絵15面・詞28面(蓬生、関屋、絵合(詞のみ)、柏木、横笛、竹河、橋姫、早蕨、宿木、東屋の各帖)、東京都世田谷区の五島美術館に絵4面・詞9面(鈴虫、夕霧、御法の各帖)が所蔵されています。
そのすべてを、日本画研究室の院生が手分けして精密に写し取っていました。
<つづく>
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2011年09月13日
ぽかぽか春庭「源氏物語模写マネてまなぶ」
2011/09/13
春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(17)源氏物語模写マネてまなぶ
源氏物語絵巻は保存の必要から詞書と絵の部分に切り離され、額装されて桐の箱に収められています。現状模写では、その桐の箱までそっくりに復元しているのです。展示第2室には、使用した絵の具顔料の石(岩絵の具原料)や絵筆、絵の額装に用いる金紙やプラチナ紙をを極細に切り刻んだものの見本などが展示され、元の本物とそっくりに仕上げるには、桐の箱を作る職人や元の絵との照合を行う人など、たくさんの協力者が必要だったことがわかります。
本当に見事な現状模写で、私は、「普段はこちらを展示しておき、国宝のほうは劣化しないよう展示は一年に一度、研究者に公開すればよい」と思いました。シロートの私が見るなら、模写のほうで十分ですから。もちろん「本物を見ることができた」という感激も大切ですから、たまには一般公開してほしいですけれど。
模写というのは、絵を学ぶ人にとっての大切な修行です。何事においても「まなぶ」とは「まねぶ」であり、まずは先人の業績を模倣するところからすべては始まります。赤ちゃんが養育者の発音をマネするところから言語が発達するのと同じ。学者の研究は、まず先行研究の成果を学ぶところから。そっくりの模写ができた上で、自分自身のオリジナルが発揮できるのです。
私の「日本語教授法」の授業でも、いろいろな先生の「日本語を教えている教室を写したビデオ」を見せます。その上で、学生には「まずは、さまざまな授業スタイルを知り、マネするところからはじめてください。それから自分自身で工夫してそれぞれの学生、教室にあった授業方法を考えましょう」と言っています。
集中授業「日本語教授法概論」では、いろんなワークショップを入れて教室活動を行ったので、学生達は「面白かった」と言い、「日常の読み書きは十分できているつもりだったけれど、日本語の世界がこんなに奥深いとはじめて気づいた」と感想を言っていたので、まあ、よい6日間をすごせたのだろうと、講義終了することができました。
道路に水を撒いていく姿を撮影したビデオが石田尚志のアートなら、一日に10時間しゃべり続ける姿が私のアートです。
アートとは、「う~ん、よくわからない」というものでも「これはオークションに出せば100万円の価値があるんだから、名作なのだ」でもなく、「今を生きて行くこと」「今、私がここにあること」そのもののことを言うのではないかと思います。
9月8日に集中講義が終わったあとは、ジャズダンス発表会。敬老の日は姑のご機嫌伺いもしなけりゃならず、見たい展覧会も映画もビデオもまだたくさんあります。ああ忙しい。こういう日常をつつがなくすごしていくのもひとつの技術。
「アート」の元の意味は「技術」ということです。ギリシャ語の「τεχνη techné(テクネー)」は英語のテクニックにつながる、元々は単に「人工(のもの)」という意味です。テクネーがラテン語に訳されて「ars(アルス)」となり、英語のartアート、ドイツ語の「Kunst(クンスト)」などから日本語ではartは「技術」と訳される語でした。それが近代になって、artから派生した二義的な意味、「よい技術、美しい技術」(fine art, schöne Kunstなど)がしだいに一義的な意味になりました。明治時代に「リベラル・アート」を翻訳するとき、西周が、『後漢書』5巻に見える「蓺術」の語を当てはめ、日本語訳が「芸術」として成立しました。
私はことばでのスケッチを続けます。町を山を美術館を歩き回り、歩いた道を記録していきたい。夏のアート散歩の記録、ひとまずここでおひらき。
<おわり>