春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2015年11月目次」

2015-11-29 00:00:01 | エッセイ、コラム


20151130
ぽかぽか春庭>2015年11月 目次

1101 ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記11月(1)2003年の旧友邂逅
1103 2003三色七味日記11月(2)2003年のイメージキャラクター
1104 2003三色七味日記11月(3)2003年のアバカス指導
1105 2003三色七味日記11月(4)2003年の動物園授業
1107 2003三色七味日記11月(5)2003年のトークトゥハー
1108 2003三色七味日記11月(6)2003年の雨かんむりの漢字
1110 2003三色七味日記11月(7)2003年の童謡コンサート
1111 2003三色七味日記11月(8)2003年の模擬授業、殺陣
1112 2003三色七味日記11月(9)2003年の作文発表会

1114 ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>晩秋のことば(1)冬隣
1115 ことばのYaちまた>晩秋のことば(2)秋の馬
1117 ことばのYaちまた>晩秋のことば(3)青もみじ
 
1118 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2015十五夜満月日記11月(1)絹産業近代化遺産・田島弥平旧宅
1119 2015十五夜満月日記11月(2)絹産業近代化遺産・田島武平家&高山社跡
1121 2015十五夜満月日記11月(3)七日市藩邸&こんにゃく工場

1122 春庭@アート散歩>千葉市の近代建築(1)千葉監獄&千葉大学医学部
1124 春庭@アート散歩>千葉市の近代建築(2)千葉教会&さや堂ホール
1125 春庭@アート散歩>千葉市の近代建築(3)稲毛ゆかりの家&旧神谷伝兵衛別荘
1126 春庭@アート散歩>千葉市の近代建築(4)千葉トヨペット本社のさすらい物語

1128 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2015十五夜満月日記11月(4)ニッポンの日常
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ぽかぽか春庭「ニッポンの日常」

2015-11-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151128
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2015十五夜満月日記11月(4)ニッポンの日常

 23日勤労感謝の日は、姑の家へ。
 ヤンゴン渡航前に姑に挨拶して、姑が平日に通っているデイケア・センターの家族見学日に参加してきました。

 姑は、3月に病院から退院したあと、日中はデイケア・センターで過ごしています。
 夜は一人息子である夫が泊まります。夫は、姑が寝入ってから帰り、姑がデイケアの迎えのバスに乗ったあと起きてくるので、なんの役にも立たないようですが、姑にとっては、かわいい息子が夜の間、同じ家の中にいるというだけでも安心できるというので、タカ氏、これまでの無沙汰を解消できる親孝行になっています。これまでは、ばあちゃん孝行は孫とヨメに任せて、親をほったらかしていた長男だったので。

 デイケア見学、我が家は、娘息子私と3人で行って、おばあちゃんがデイケアセンターでどのようにすごしているか、施設内を見学したり、ヘルパーさんの仕事ぶりを見たり。

 塗り絵作品のコンクールをやっていたので、娘と息子と私で、姑の塗り絵に「組織票」を入れました。
 姑、「塗り絵とか、幼稚園みたいで嫌なんだけれど、やらされるのよ」と、ぼやいていた活動です。でも、紅葉のはっぱ一つ一つにグラデーションをつけて塗り分けている塗り絵がきれいだったので、誉めたら「私は絵心ないから、塗り絵なんかじょうずじゃないのよ」と言いながらもうれしそうでした。

 姑は地域の老人会では「留学生と交流する会」などに参加し、区民講座の「平家物語を読む会」に出席するとかの活動が好きだったのです。デイケアセンターの活動には「体操も本格的なものじゃなくて、ヘルパーさんがちょこっと指導するだけ。お習字は、墨なんかすらないで、墨汁でやるだけ」と、不満があったのですが、お友達ができておしゃべり仲間ができてからは、毎日を楽しみに参加するようになりました。はじめのうちは「年寄りばっかりなので、気がめいる」なんて、自分も90歳の年寄りなのに言っていましたが。

 2階ではカラオケをやっているグループ、1階では体操をやっているグループがありました。しかし、1階の食事テーブルの周りには、何もしないでじっと虚空を見つめているお年寄りも数名いました。人生の最後をこのように「何もしたいことがない」かのように見える姿で時間をやり過ごしている、、、、、見ている側からは、せつなくなる姿です。しかし、もしかしたら、本当は、心の中でいろいろ考え事があったり、これまでの人生をふりかえる貴重な時間を過ごしているのかも知れない。それを発信して表現してくれないことには、なにもしないでいるように見えてしまうのは、こちらの感受性がにぶいだけ。

 茨城県の教育委員だった女性が、「障害児が生まれないようにしたほうがいい」という発言をしました。姑もペースメーカーを装着した今は、障害者手帳を持つ身となりました。障害を持ち、「国策に沿う労働力」「一億総活躍」に該当できない人間は不要、と、お偉い方々wは思っているのでしょう。
 障害があって労働力になれない人、老齢で働けない人を「カネがかかるだけの余計者」と考える人もいるのだと理解はしています。でも、ナチスが精神病の人や障害者を排除していった先の結果がどうなったか。
 多様な考え方を認める、というなら、「役に立たない人は生きていなくてもいい」という考え方も認めるべきでしょうか。
 「人を殺すな」は、普遍の倫理です。それと同じくらい「働けない人、動けない人も、すべての命あるものには普遍の価値があり、同じ人として尊重される」ということだけは譲れません。

 玄関のバザーコーナーで、手作りのお手玉やぬいぐるみを買いました。
 買い物と言っても、作品の値段は、100円とか50円とかですが、本当のお金でやりとりするので、作品を作った人には「売れた」という満足感があります。売上金は、次の作品作りの材料費代になります。

 姑は、米寿までお習字やら童謡を歌う会やらに参加していましたが、去年89歳を過ぎると足もとが不安になってだんだん外に出なくなりました。今年は1月に入院、90歳誕生日は病院でむかえました。心臓ペースメーカー手術して3月に退院したあと、デイケアセンターのお世話になり、バスに迎えに来てもらって通所するようになりました。平日、火木金に通所しているデイケアと水曜日に行くデイケア二ヶ所利用です。水曜日のデイケアセンターには、スポーツジムのような運動機器がそろっているので、熱心に参加しています。身体を動かし、少しでも元気に動けるようになることが目標。
 しかし、水曜日のデイケアには看護師さんが常駐していないので、火木金は隣町のデイケア通所。土日月は、看護ステーションからの訪問を受け、買い物などのつきそいには娘がお相手をしています。

 デイケア・センターから姑の家に帰宅して、部屋の模様替えのことなど娘息子と相談していました。家族のつきそいなしの階段上り下りが禁じられているので、1階に服を置かなければなりません。2階と3階の納戸や洋服入れから冬服を1階に下ろしたのだけれど、1階には小さなプラスチックタンスしかないので、もっとおおきいタンスを買いたい。それを1階に置くには、どう模様替えしたらよいか、という相談を、メジャーで測りながら検討していました。
 姑の目標は日野原重明さん。104歳でも現役で講演や執筆に活躍しているお医者さんを見習って、最後まで元気でいたいと言い「ミャンマーにも行けるといいのだけれど」と、希望を持っています。

 娘がちょっと残念がったこと。
 「母がさあ、敬老のプレゼントとして、なんでも好なものをかってくださいっておばあちゃんにプレゼントしたお金あったでしょ。あのお金で、おばあちゃんが何を買ったと思う?ぜったいに母は腹立つと思うよ」「なんでも好きなものって言ったんだから、何を買おうとおばあちゃんの好きでしょ」「あのね、おばあちゃんは、あのお金で、お父さんのカーディガン買った」「うわっ、そりゃ腹たつ。おばあちゃんのものを買ってほしかったのに。なんで私がプレゼントしたお金がタカ氏のカーディガンになっちゃうかな」
 てなやりとりもありました。

 確かに「何でも好きなもの」を買えばいいと言ってあげたんだから、いいんだけれどね。おばあちゃんにとって、なにより買いたいものは、「かわいい息子に着せるカーディガン」だったとは。
 「おばあちゃんにとっては、何も世話してくれなくても、泊まっていくだけの父がありがたいんだよ。孫ふたりがせっせと世話してあげても、やっぱり息子が第一なんだね」と、娘も釈然としないようす。

 90歳のばあちゃんにとって、60歳の息子が何よりかわいくて、カーディガン買ってあげる。くやしいから夫に電話して「あなた、おばあちゃんからカーディガンもらったでしょ。それね、私がおばあちゃんにプレゼントしたお金で買ったんだからねっ」って、言ってやった。夫は「うん、ばあちゃんも、これ、ヨメさんのお金で買ったって言っていた」と。
 ほんといくつになっても、息子の世話をやきたい母親、ありがたいことです。

 土日のデイケア通所が休みの日は、孫である娘と息子につきそわれて過ごしています。娘と買い物に行くのが、今は一番の楽しみ。
 私は、デイケアの催しに顔を出して、手作り作品を買い上げるくらいがおばあちゃん孝行で、ふだん何もしないヨメですが、姑は「内孫ふたりがこんなにやさしい子に育ったのも、ヨメさんの育て方がよかったから」と言ってくれます。私から見ても、世間一般の「孫」という存在に比べて、ばあちゃん孝行な孫達だなあと思います。
 娘は「おばあちゃんは、世間の孫もみんなこんなもんだと思っていて、特別感謝もされていないんだけれど、世間の孫は、こんなに毎週ばあちゃん孝行していないよね」とぼやきながらもおばあちゃんの世話を続けています。

 姑ががんばって生活し、娘と息子がばあちゃんの世話をしてくれるおかげで、私も働けるのだから、感謝しつつ出稼ぎしてこようと思います。

 11月27日、成田発。28日からヤンゴン生活です。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「千葉トヨペット本社のさすらい物語」

2015-11-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151126
ぽかぽか春庭@アート散歩>千葉市の近代建築(4)千葉トヨペット本社のさすらい物語

 稲毛最後の見学は、「千葉トヨペット本社(旧日本勧業銀行本店)」です。妻木頼黄(つまきよりなか)と武田五一(たけだごいち)の共同設計。



 武田五一は京都帝国大学工学部建築学科創立時の教授であったから、ほとんどの作品は、京都とその周辺にあります。唯一、東京本郷にあるのが「求道会館」。
 妻木と武田の建物紹介をした春庭のページ
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/444806642b028a00c574f988014cbe46

 旧日本勧業銀行本店1899(明治32)年竣工。数度の移築を経て、現在地への移転は、1965年。建築当時と同じ木造銅葺の姿は、正面から見える外観だけで、内部はすべてコンクリートの建物に改修されています。外観だけでも残されたことを嘉とするか。

 この建物に関しては、妻木頼黄と武田五一の師弟コンビがどんなふうに関わり合ってひとつの建物を作り上げたのか、という興味もありますが、それ以上に、この建物がひとかたならぬ遍歴をたどったことが「物語」になっています。

 千葉トヨペットのパンフレット置き場にあった「旧日本勧業銀行本店の移築物語」によれば。
・1890(明治32)帝国ホテルの隣に、日本勧業銀行本店として竣工
・1926(大正15)京成が払い下げを受け、谷津遊園に移築。楽天府という娯楽施設となり、演芸場、遊技場、食堂などを設置した。
・1940(昭和15)千葉市が買収し、1961年まで市庁舎として使用。
・1965(昭和40)千葉トヨペット本社として千葉市稲毛区に移築。

 なんだかさすらいの旅芸人のように移動を続けた建物です。
 「京成電鉄85年のあゆみ」という社史に、昭和初期の楽天府時代を写した写真があり、「移築物語」に転写されていました。楽天府の隣に阪東妻三郎プロダクションが設立した映画会社、大日本自由映画プロダクションが建っています

 千葉トヨペット本社のサイトの表現では、
(http://www.chibatoyopet.co.jp/corp_profile/index.html)
 (旧楽天府は)大正15年(1926年) 京成電鉄軌道に譲渡され、坂東妻三郎のプロダクションとして撮影現場に使用
と書いてありますが、それは違うと思います。

 1931(昭和6)年から1936(昭和11)年にかけて、阪東妻三郎は谷津遊園内の敷地に阪東関東撮影所を開設しました。しかし、それは楽天府とは別の建物です。(京成谷津遊園の写真の中のかまぼこ型の建物)。楽天府には、もしかしたら事務所などは置かれていたかもしれません。しかし、「撮影現場」として使用されたかどうか、検証が必要です。

 1931~1936という昭和初期の撮影は、実際の建物の中で行うには不自由でした。大きな撮影スタジオにセットを組んで、強力なライトで照らし、ようやく撮影が可能になる。実際の建物の中での撮影はどれほど可能だったのか。
 楽天府の外観は撮影に使われたことがあったかもしれないですが、楽天府の建物そのものについて「坂東妻三郎のプロダクションとして撮影現場に使用」と、書いてしまうのは、千葉トヨペットの調査不足と感じます。

 もっとも、私が「昭和初期の撮影現場はこんなふうだった」と知るのは、田中絹代の伝記映画(吉永小百合主演)などで見た間接的な印象にすぎません。

 習志野市のサイト
https://www.city.narashino.lg.jp/konnamachi/walk/sansaku/h14/sansaku054.html
に書かれている「大日本自由映画プロダクション阪妻関東撮影所」についての記述のほうが、「楽天府が撮影現場として使用された」という千葉トヨペット本社サイトの記述より正確な気がします。(私が検証したわけではないので、専門家の意見やら映画史にくわしい人の調査を知りたいところです)。

 戦後は千葉市中央区に移築。千葉市役所として市民に利用されました。
 現在は稲毛区に移築され、トヨタの車がたくさん並べられたショウルームも兼ねた社屋として千葉トヨペット本社になっています。

 フツウの建物なら、2度目のおつとめを終えたくらいで取り壊されるか廃屋ところでしょう。
 銀行、遊園地、市役所、車販売会社、と利用の仕方は変わっても、建物が保存されてきたのは、左右対称の和風の姿が、威厳がアリソでいて親しみやすい雰囲気を作っていた、という点がキモだったのかなと思います。



 この形の建物の中に、車ならべてショウルームにしようと思いついた人は、かなりキッチュセンスがあるように思います。嘘っぽさを楽しむ、というような。
 和風意匠の建物なのに、中には最新の車が並べられている。私が見学したのは、傷がいを持つ人々のための、福祉車両のスペース。一人乗りの車、85万円でした。

 千葉中央公園で見た、小田原城を真似てコンクリで作った郷土博物館の建物もキッチュな「うそっこお城」だったし、旧川崎銀行千葉支店の建物がそっくりサヤの中に入り込んでいるのも、千葉市のキッチュ感覚からいうと、「そりゃ、トーキョーには負けるけどさ、オラたちだってそこそこ都会だしぃ」みたいな千葉のがんばりようを見た気がします。がんばれ千葉市民、がんばれチーバくん。

 ここで言うキッチュは、ドイツ語本来のkitsch(俗悪、まがいもの)ではなくて、サブカルで意味上昇したキッチュだからね、と言い訳。1995年から20年間千葉市で仕事をした春庭のチーバ愛の表現と思ってください。私は「私がいた場所」大好き人間です。あ、稲毛には、今も毎週かよっていましたが、24日、今月最後の稲毛出講を終えました。

 千葉県のゆるキャラ、チーバくんは、千葉県の形から造形されています。「鶴舞う形の群馬県」に対し、千葉県のかたちはチーバくん。うん、そのまんまやんけ、というところが千葉のいいところ。
 どこにでも出没して千葉県イメージキャラとして活躍しているチーバくんは、千葉監獄見学のおりも、本館の入り口にいて、そのでかい腹が狭い入り口をふさいでいて、出入りしたい見学者に挟まれていました。

 千葉市は、チーバくんののど元あたりです。


次に稲毛にくるのは、だぶん、さ来年です。がんばれチーバくん、がんばれワタシ。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「稲毛ゆかりの家&旧神谷伝兵衛別荘」

2015-11-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151125
ぽかぽか春庭@アート散歩>千葉市の近代建築(3)稲毛ゆかりの家&旧神谷伝兵衛別荘

 yokoちゃんと歩いた千葉の町。最後は稲毛で3つの建物を見ました。
 京成稲毛駅から歩いて行くと、ちょうど11月15日日曜日。何組かの親子連れに出会いました。千葉浅間神社にお参りに来た七五三の子供。ハレの衣装に「お姫様みたいなワタシ」に喜んでいる顔もあるし、駅の電車時間を気にしているのか、歩き慣れないぽっくり姿の手を引っ張っている親御さんもいるし。

 浅間神社の森の南側に、「稲毛ゆかりの家」と「旧神谷伝兵衛別荘」があります。毎週稲毛に来ている私。授業は午後からなので、朝早く家を出て建物見物をしたことが2度ほどあります。今回の訪問は3回目です。

 yokoちゃんと建物巡りをしていると、よくわかってきたのですが、同じ建物を見ていても、関心のありどころは違います。
 yokoちゃんは、建築様式や建築家のデザインにも興味を持ち、専門的な見方もできる。一方、私は「この建物がルネサンス様式であるかゴシック様式であるか」ということは、建物の説明パンフレットを見てから、へぇ、そうなのかと思う程度で、建築の専門的なことはほとんどわからずに、ただ見ています。建築家の名前を見ても、その得意とする建築様式などよりも、誰と結婚したとか、誰と仲違いしたとか、この家に住んでいた誰と誰が不倫関係だった、とか、人にまつわる物語を面白がる方です。いわば、ゴシップ鑑賞法。

 建物の写真も、yokoちゃんは、一眼レフ駆使して建物の細かい意匠やレンガの色合いまできれいに撮影できる腕を持っているます。私が撮ったコンパクトカメラの写真は、備忘録的な意味で撮るのみ。建物写真を見たい方は、yokoちゃんサイトへ。
千葉監獄
http://blog.goo.ne.jp/midnight-blues-yoko/e/8cc783b73b21e12a75c07072fef4979b#comment-list
千葉教会
http://blog.goo.ne.jp/midnight-blues-yoko/e/f612514abdd1c03230072e5d465db1cc#comment-list
千葉美術館・神谷伝兵衛・千葉トヨペット
http://blog.goo.ne.jp/midnight-blues-yoko/e/f4fbbc2ed23aeed5ca9b26f3171ca2c6#comment-list

 「ゆかりの家(愛新覚羅溥傑仮寓)」。
 建築史的には、大正年間に建てられた稲毛周辺別荘群のひとつ、ということらしいです。戦災にも遭わず、屋根瓦なども建築当初のものが残されているというので、貴重な建築です。



 私が好きな「ゴシップ鑑賞法」によるならば、この「ゆかりの家」の物語は満州皇弟夫妻のハネムーンハウスだった、ということに尽きるでしょう。ラストエンペラー溥儀の弟溥傑と嵯峨浩が、満州国に渡る前の新婚初期の半年をすごした家なのです。

 溥傑は、1929年に日本に留学。満州国建国(1932年)後、皇弟という立場になり、結婚も兄皇帝溥儀と満州国を牛耳る関東軍によって取り図られました。しかし、政略結婚ではあったけれど、溥傑と浩は夫婦愛を貫きました。

 このへんのいきさつは、竹野内豊が溥傑を演じ常盤貴子が浩を演じたドラマ『流転の王妃・最後の皇弟』(2003)が、脚色はあるにせよ、夫妻の愛の遍歴がわかる物語になっていました。
 私は、2003年に娘息子といっしょに見たあと、再放送を録画して今年2015年にも見ました。(ケニアロケをしているから、という理由でさだまさし原作大沢たかお主演の『風に立つライオン』を見たり、旧満州の光景がちょっとでも見られるかと『流転の王妃』を見たり、私は自分がすごした地域が写されている映画やドラマをできる限り見ようとする「私のいた場所」大好き人間です)



 この「愛新覚羅溥傑仮寓」でもドラマロケが行われました。
 ドラマの原作『流転の王妃の昭和史』によれば、この仮寓で浩は長女を妊娠したということなので、夫妻にとっては短い新婚生活とはいえ思い出深い住まいだったことと思います。

 仮寓には、離れが一間ついており、以前来たとき解説員から聞いた話だと、母屋のほうには来客や使用人、溥傑の従卒当番兵もいる状態だったけれど、この離れではふたりきりですごすことにしていた、ということでした。



 大官貴顕の家では、家を保ち体面を整えるための結婚が多く、表向きだけの結婚生活をおくる家庭が多かったことを思うと、敗戦によって中国と日本に引き裂かれた期間があったとはいえ、夫婦愛を貫けた嵯峨浩は、幸福な妻であったと言えましょう。

 そんな物語に思いをはせながら見ているのが、私の「建物探訪」です。
 ゆかりの家の近くにある旧神谷伝兵衛別邸も、ワイン王と呼ばれた神谷伝兵衛にまつわる物語がいろいろ。

 神谷伝兵衛(1856-1922)は、名主の家に生まれましたが、江戸時代末期には家は傾き、さまざまなところに奉公に出て働き苦労を重ねました。1873(明治6)年に、兄の勧めにより横浜に出て、フランス人経営のフレッレ商会酒類醸造場で働いたことから、ワインに興味を持ちました。1880年、東京浅草で、一杯売り家「みかはや銘酒店」(後の神谷バー)を成功させ、1886(明治19)年に、日本人向けに甘い味を加えた「蜂印香竄葡萄酒」 (はちじるしこうざんぶどうしゅ)を製造販売、大ヒットとなりました。儲けた金で茨城牛久の土地を買ってぶどう園とし、1903(明治36)年にはワイン醸造場の神谷シャトー(現シャトーカミヤ)を設立しました。

 という物語は、以前に神谷伝兵衛別荘を紹介したときにもUPしました。
 2011年にはまだブログに写真をつけていなかったので、2014年にもう一度写真付きの建物紹介をしました。
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/568524a56aa07f288b9f5eacb5d2fb45



 今回撮った写真を見たら、2014年に撮ったのとまったく同じアングルでした。3度目なのだから、もうちょっと違うアングルで撮ったらいいのに。どうも好みの角度というのが決まっているるみたいです。脳が固定化していますね。

玄関前

ベランダ

東側


 私の見方は、神谷伝兵衛別荘の「コンクリート洋館」という建築洋式の興味はそこそこにして、神谷伝兵衛が上層階級にしか飲まれていなかったワインを、甘みの強い「ポートワイン」として大衆の飲料にしていった、その人物伝への興味を持つことのほうがおおきい。
 床柱に葡萄のの木を使い、欄間には葡萄の木を彫らせる、そのこだわり方も含め、ほんとうに葡萄酒が大好きだったのだろうなあと思います。

欄間の葡萄房


シャンデリアの付け根も葡萄意匠ということですが、なんだかよくわかりませんでした。


障子の桟の組み方デザインも心地よいですが、埃をためないようにお掃除する人はたいへん、と思ってしまう貧乏性。


 いつか、茨城牛久のワイン醸造所、シャトーカミヤ(重要文化財)の建物も見に行きたいです。

<つづく>

~~~~~~~~~~~~~~
(つけたし)
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記12月(1)流転の王妃

2003/12/01(月)
ジャパニーズアンドロメダシアター>『『流転の王妃・最後の皇弟』

 漢字作文2コマ。

 愛新覚羅浩と溥傑を主人公にしたドラマ『流転の王妃』を見た。ビデオの前半。
 娘が常盤貴子のファンなので、常磐貴子が浩を演じるのを見たいというし、息子は、5歳のとき一ヶ月をすごしたけれど、自分の記憶が薄れてしまった長春の町のようすが、テレビに映るかも知れないという興味があったので、見ることにした。

 ドラマ化にあたっては、浩の自伝と溥傑の自伝から脚色という。私は渡辺みどりの『、『愛新覚羅浩の生涯・昭和の貴婦人』を読んだだけで、ふたりの自伝を直接には読んでいない。

 どのような脚色になるのか、竹野内豊が溥傑なのだから、絶対に超美化されているだろうとは、予測がつくが、中国と日本の暗黒時代の交流史をどの程度描ききれるのか興味があった。

 予測通り、浩がひとりで新京の町を歩き回ったりする「アリエネー」という設定もあったが、ドラマとしてのできはそうひどくもなり。中国側の歴史観もふまえて、浩と溥傑を「日本と中国のかけ橋として努力した人」として描いている。

本日のそねみ:16年離ればなれになっていても愛を貫いた夫婦


2003/12/02 (火)
ジャパニーズアンドロメダシアター>『『流転の王妃・最後の皇弟』

 漢字、会話2コマ。

 流転の王妃の後編ビデオ。
 長春は、現地ロケじゃないと思うが、町の雰囲気はよく出ていた。

 満州皇帝の皇居であったところが、博物館になっていた。そこで娘と息子が、満州皇帝と皇后の衣装をつけて記念写真を撮ったけれど、写真はついに送られてこなかったことなどを話したり、故宮、天安門の前で息子が大泣きしたことなどを話したり。

 中国を舞台とし、満州国の成立と消滅に関わる歴史だから、描くのが難しい面もあったろう。

 架空の人物の描き方。中国人留学生と結ばれ、抗日運動をする夫に従って新京へ流れていった「ハル」。新京で浩と関わることは「アリエネー」設定だが、最後にロシア兵から「女をさしだせ」と命じられた満州開拓地避難民が、妻や娘を守るために遊郭で働いていた女達をさしだした、というエピソードは実話を聞いたことがあった。「おかげで、娘や妻を狼藉にあわせずに帰国できた」という新聞投書を読んだことがあるのだ。

 形勢不利の情報をつかむや一般人を見捨てて逃げた関東軍幹部に比べて、みずから志願してロシア兵のもとに同行し、避難民の女子どもを守った娼婦たちがいたことを、ドラマではあっても、テレビで知らせることができてよかったと思う。

 16年の間、夫と妻が日本と中国に離ればなれにされ、安否もわからない。夫と離れている間に、大事な長女が、恋愛のもつれから無理心中へ至り、死んでしまう。
 ほんとに、実話じゃなければ「アリエネー」というくらいの大波乱の末、浩は、夫の国中国へ行き、夫と共に暮らすことを選んだ。

 敗戦後の逃避行を体験した浩、その逃避行のつらい経験こそがお姫様育ちの皇弟妃殿下を成長させ、16年間の夫との別離を耐えさせたのだろうと思う。

 浩が日本で父親の経営する女学校の教師として、静かに在る程度のゆとりのある暮らし続けたとしてもだれも非難はしなかったろう。しかし、浩は、まだ激動の中にある人民中国へ渡ることを決意した。日本と中国が国交回復する前。中国に渡れば、二度と日本の家族親戚とは会えないかもしれないことを覚悟で、夫の待つ中国へ戻った。

 夫との日々をとりもどし、死ぬまで「日本と中国の架け橋」となるべく努めた。
 この一点だけでも、浩を評価したい。

 溥儀の皇后婉容が阿片中毒だったこと。清朝において女性達が阿片をたしなんだのは王朝末期の習慣として、日常的なものだったと思う。王朝に限らず、金持ち階級の暇な奥方が阿片中毒になっていた話は、いろいろな物語からも推察される。

 しかし、関東軍にとっては、皇后に跡継ぎが生まれないようにすること、皇后を阿片付にしておくことは必要だったろうから、甘粕や川嶋芳子を通じて皇后に阿片が潤沢に与えられていたことは考えられる。

 逃避行がはじまり、阿片が供給されなくなってからの婉容の廃人としての生活を思うと、この人もまた歴史の暗部によって殺された人なのだと気の毒に思う。最後は看取る人もなくたった一人で自分の糞便にまみれて死んだと伝えられる一国の皇后。
 国を代表する人間と結婚した女の運命。

 
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ぽかぽか春庭「千葉教会&さや堂ホール」

2015-11-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151122
ぽかぽか春庭@アート散歩>千葉市の近代建築(2)千葉教会&さや堂ホール

 yokoちゃんとの千葉市建築散歩。千葉大医学部から、千葉文化会館や千葉郷土博物館(小田原城を真似た形にしたというコンクリート城)のある公園を抜けて、千葉教会へ。

千葉郷土博物館


 日本基督教団千葉教会。千葉県指定有形文化財。
 竣工:1895(明治28)設計:リヒャルド・ゼール(ドイツより1888年ごろ来日、1903年ごろ帰国)


 ドアから中をのぞいて見ていたら、係の女性が「どうぞ、中にお入りください」とすすめてくれて、「写真もどうぞ」と言ってくれました。小さな礼拝堂にはぎっしり聴衆が座り、牧師さんらしい人のお話を聞いています。説教は「地球の温暖化がどうたら」という内容でした。

 しばらくすると、この礼拝堂いっぱいに座っている人々のうち、半分以上は信者ではなく、「建物見学ツアー」のグループが集まって内部を見ているのだとわかりました。聴衆のうち、何人かは席をたって動きだし、写真を撮りだしました。フラッシュをたかなければいいかなと、私も部屋の中を撮影させてもらいました。



 yokoちゃんは、節度ある人だから、外側だけ撮っています。信仰の場を大切にして、撮影でお邪魔虫になったりしません。
 私は「写真、撮っていいですよ」という案内の人のことばで礼拝堂内部を撮影したのですが、前のほうに座っていたであろう本当の信者さんの迷惑にならない範囲だったと、自分に言い訳しつつ。

 地図を見てちゃっちゃっと歩くyokoちゃんのあとをモタモタとついて歩く。ひとりだったら絶対に目的地にたどりつけないなあと思いながら、さや堂ホールに到着。



 さや堂ホールは、旧川崎銀行千葉支店の建物を、すっぽりとさやで覆ってしまった設計です。さやが豆粒を覆うようだから、さや堂。
 古い建物を保護するために、さや堂ですっぽり覆う、というのは、早くも鎌倉時代には平泉中尊寺金色堂をさや堂に包み込んだ、という例があります。けれど、この銀行建物をさやで覆うという設計、私にはとても違和感がありました。
 旧川崎銀行千葉支店は、さやの中に隠れてしまい、ほとんど全体像がわかりません。さや堂ホールは大谷幸夫の設計。う~ん、建物を残すなら、外から全体像が見えるようにしてほしかったなあ。 

 旧第一銀行横浜支店は、槇文彦設計の超高層ビル横浜アイランドタワーに組み込まれてその前面に移築されました。古い建物の保存方法として、アイランドタワーのほうがずっと見栄えがよいし、見学も楽しい。このアイランドタワーも建設当初は旧第一銀行横浜支店の保存方法をめぐって賛否両論があったけれど、私には、さや堂よりはよいように思えます。

さやの中の旧川崎銀行千葉支店


 旧川崎銀行の内部では、若者のグループがメークをしているところでした。撮影許可を得て、この古い建物の雰囲気を生かしてモデルの写真撮影を始めようというところ。
 銀行内部は修理修復を経て、きれいに保存が成されていました。



ドアと床


<つづく>
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ぽかぽか春庭「千葉監獄&千葉大学医学部」

2015-11-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151122
ぽかぽか春庭@アート散歩>千葉市の近代建築(1)千葉監獄&千葉大学医学部

 建物散歩先達のyokoちゃん、これまで「東京都文化財ウィーク」に何度かごいっしょしていただきました。この11月、文化財ウィークに出かけることがなかったのですが、yokoちゃんが京都旅行から帰ったあと、いっしょに千葉市内を歩いてくれるという約束ができて、楽しみにしていました。

 最初の見学場所は、千葉刑務所(旧千葉監獄)。
 9時半の正門オープンに間に合うように飯田橋を出発したつもりでしたが、正門前に着いたときは、もうお目当ての品物をゲットして門を出てくる人もいるほどで、雨の中、矯正制作品の販売テントは大勢の人で賑わっていました。矯正制作品とは、懲役刑を受けた受刑者が技能習得するために制作した品々で、丁寧に作られた品が格安で販売されます。ほぼ材料費のみの木工製品や革製品、人気です。

 私とyokoちゃんは、年に一度だけ正門から入れるチャンスなのでやってきたのですが、私は買う気マンマン。「無料と格安」が大好きなので。

 傘を差して不自由な写真撮影になりましたが、正門や本館を撮影。デジタル一眼レフを使いこなすyokoちゃんに比べると、防水機能がついただけで、私のカメラは「押すだけ」のコンパクトタイプ。建物写真はあとでyokoちゃんのサイトで見せてもらうのを楽しめばいいからと、「刑務所の部屋」なんぞを撮影しました。

 本館の中、玄関ホールには「模擬刑務所室内」がしつらえてありました。3畳間にふとんがたたんで置かれ、テレビも備わっています。1畳分の板の間に洋式便器設置。昔はくみ取り式だったので、室内に臭いがありました。監獄に入ることを「クサイメシを食う」と通称したけれど、現在では個室で食べるにせよ食堂にせよ、臭いなどない、と説明の人。
 刑務所の生活環境がよくなったと説明されても、ここで暮らしたいとは思わないけれど。

本館


 でも、シャバで生活できない年寄りが、無銭飲食や万引き、寺社の賽銭ドロなどの軽犯罪を繰り返し、刑務所で暮らす、という「高齢受刑者」の存在が話題になって久しい。都会の刑務所では受刑者の70%が65歳以上の高齢者になっているという。
 国民年金額は1ヶ月数万程度、アパート家賃を払えば食費にさえ事欠く高齢者が、暴力団の「麻薬運び屋」や振り込め詐欺のケータイ名義人に使われたりして、犯罪者の仲間になり、刑務所に入ってくる。入ってきても、認知症その他の病気になる人も多く、作業は出来ないこともある。

 そんな刑務所ですが、なんとか作業ができ、陶芸なり革細工なりの技術習得に励んだ人もいて、その方達の作品を販売するのが「矯正展」の目的です。私は本革トートバッグを買いました。このバッグを作った人が、罪をつぐなって社会復帰した後、革細工で生活していけるといいですけれど、、、、、というのは建前で、市販品の革バッグに比べればぐんと安いから買ったのだけれどね。

旧千葉監獄本館・正門1907(明治40)竣工。設計:山下啓次郎(1868-1931)。


 山下は、辰野金吾の弟子。同期の弟子は伊東忠太。山下は司法省営繕として、監獄設計を行う。山下が設計した五大監獄のうち、現在も使用されている建物は、この千葉監獄と奈良監獄(現少年刑務所)のふたつ。(ケームショというより、カンゴクと発音する方が、ずっと響きがおそろしげで、いたずらっ子を脅すには「カンゴクに入れるゾ」のほうが迫力ある)
 (山下啓次郎の孫であるピアニスト山下洋輔は、祖父の作った監獄の門をめぐる『ドバラダ門 』を1990年に出版)。



 山下啓次郎が設計した五大監獄のうち、金沢監獄は千葉監獄と同じ年に竣工しました。金沢監獄正門は、1977年に明治村に移築されています。私は、1975年1976年に2度明治村に行ったのに、監獄を見ることがなかった。
 金沢監獄の門、写真で見ただけですが、門柱にあたるレンガ塔が四角です。千葉監獄正門のレンガ塔は丸い。そのため、金沢監獄のほうが厳つい重さを感じます。

金沢監獄正門(明治村移築・明治村サイトより)


 監獄の設計、近代国家の成立にとって、「国家が国民の罪障を監視する」という権力構造の具現であったろうと思います。レンガの建物は、厳かで威圧的でもあるけれど、美しい。それを目にした者が、その威厳にひれ伏すように設計されたのだろうと思います。
 
 刑務所から千葉大学亥鼻キャンパスの医学部へ。
 医学部の建物のうち、本館は、旧千葉医学校校舎。竣工:1936(昭和11)設計:柴垣鼎太郎(文部省建築課長)



 本館は、関東大震災のあと、各地の学校建物が木造からコンクリートに変わっていった時期の建築です。当時の鉄筋コンクリート造の建物の中でも、もっとも大きなもののひとつだろうと思います。ただ、柴垣鼎太郎の作品のうち、上田市の信州大学繊維学部講堂(旧上田蚕糸専門学校)の木造建築のほうが感じがいい。写真で見ただけだけれど。

上田市サイトより
  

 現サークル会館(旧千葉大学医学部神経科精神科病棟)は、1927(昭和2)年竣工。
 武蔵境にある日本獣医生命科学大学のヴォーリス設計の建物も、学生サークル部室として使用されていてぼろぼろになっていたので、同じ理由と思うけれど、サークル会館の内部はかなりぼろくなっていました。古い建物だから、使い勝手が悪くて学生の部室にするくらいしか使い道がないと思われているのでしょうが、学生には今出来の新しいビルを与えて、このような古い建造物は、資料館とか記念館にして保存用にしたほうがいいと思う。学生に使わせておくと、ぼろくなる一方です。



 次回、千葉教会、さや堂ホールへ

<つづく>
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ぽかぽか春庭「七日市藩邸&こんにゃく工場」

2015-11-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151121
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2015十五夜満月日記11月(3)七日市藩邸&こんにゃく工場

 七日市藩は、旧甘楽郡(現富岡市)にあった1万3千石の小藩です。初代藩主は、前田利家の五男利孝(1616-1637 )。本妻まつ(芳春院)の生んだ長兄利長が100万石の加賀藩を受け継いだのに比べて、芳春院とともに江戸で人質生活をして苦労した五男が1万石ではずいぶん差があります。でも、大名家でも次男三男以下は養子に出されるか部屋住みで一生を飼い殺しになるか、というのが実情。そこを、庶腹の五男坊なのに、小藩といえども一国の主になれた、と思うべきか。

 廃藩置県後、藩邸(陣屋)跡地は群馬県立富岡高等学校となっています。正門そばに、遺構として正面玄関付近1棟、中門1棟が残されています。富校生徒には「御殿」と呼ばれて、大切に保存されています。




 富校正門には、立派な校章がついています。群馬県の私立高校の先生だったやっちゃん、門から出て行こうとする男子生徒に、「この校章の由来を教えてくんねーかい」と、上州弁で尋ねました。「はい、この紋の矢印は鏑矢で、木の葉は、そこに立っている槻の木の葉です、、、」と、すらすらと答えてくれました。
 きっと入学時に、学校の伝統について教え込まれるのでしょうが、生徒ひとりひとりがこの学校と校章に誇りをもっているから、しっかり記憶が残っているのでしょう。「うん、さすが西毛一の高校だ、いい生徒だ」と、やっちゃんも感心。

校門の富岡高校校章


 七日市藩の藩校由来の文武両道を伝統にしている男子校ですが、生徒数減少の昨今、富岡女子高校との合併が控えているとか。群馬県の主な市の公立高校は、ほとんどが男子校女子校の両校を並立させるのが伝統です。公立高校の男女別学率が全国最高。共学化に反対するOB・OGも多い。現在は、8市が男女別学。男子校女子校並立)私の出身市も男子校女子校が別々にありました。富岡高校共学化を聞くと、時代の趨勢かなと思います。私は女子校で学べてよかったと思っているひとりですが、出身校が男子校と合併して共学化しても反対はしません。

 高校理科教師だったやっちゃん、校門の脇にたつ大ケヤキについて「え?ケヤキのことを槻の木っていうのか、知らなかった」と言います。「槻の木」はケヤキの古名。「やっちゃん、生物も教えたんでしょ?」と聞くと「弱小私立校だったから、生物地学物理化学、全部教えなきゃならなかったけど、ケヤキはケヤキって教えた。槻の木なんて初めてきいた」と、言います。大学で乗馬部だったやっちゃんは、高校教師になったあとは、高校乗馬部の指導が大きな仕事で、ケヤキの古名まで手がまわらなかった。

 「別段理科が得意で理科教師になったんじゃなくってさ。酪農学科じゃ理科教師免許宇しかとれなかったから。女子校のとき、物理も大の苦手だったなあ。でもさ、私は物理のテスト40点で、せっちゃんは70点なのに、通信簿はふたりとも3だったから、せっちゃんは怒っていたなあ」
 やっちゃんは、スポーツ少女で、生徒からも先生からも好かれていたので、物理の先生もやっちゃんには少しでもいい評価をあげたかったのだろうと思います。

 私も、少しでもやっちゃんと仲良しになりたくて、「来週試合があるから試験勉強できない。化学わからないところを聞くから、試験の前にテスト出そうなところをまとめて教えてくれねーか」と、やっちゃんに頼まれて、必至ににわか勉強をしました。完全文系だった私だって、化学なんて苦手だったのです。化学が少しでもわかるように、高校1年生のときは音楽部と文芸部に入っていたのをすっぱりやめて、2年生から科学部化学班に入りました。やっちゃんに化学を教えるためです。やっちゃんの実家に行って、テスト前の勉強をしたのも高校時代の思い出のひとつ。

 私もやっちゃんも、高校時代には教師になろうとは少しも思っていませんでした。
 やっちゃんは、「牛飼いになろうと思って」酪農学科のある大学に入るため北海道に渡りました。結婚後、結局はやっちゃんのお父さんもお兄さんもそうであった高校教師になりました。ご主人を早くに亡くして、女手ひとつで息子さんを育てていくためでした。
 私も教師になろうと思ってなってのではなく、「とりあえず、女がひとりで生きていく食い扶持を稼ぐために」と思って教師になったのに、女ひとりだけじゃないパラサイト娘パラサイト息子の食い扶持稼ぎのため66歳でまだ教師。

 やっちゃんといっしょの「大人のえんそく」。社会科見学の最後は、こんにゃく工場見学です。
 群馬県は、全国一のこんにゃく生産地。全国の生産量(56,100t)の97%をしめているのが群馬県です。北毛(群馬県北部)と西毛地方は、その中心地。
 やっちゃんとふたりで見学したのは、富岡製糸場から車で15分ほどの甘楽郡甘楽町小幡にある、ヨコオフーズの「こんにゃくパーク」です。無料で楽しめる工場見学&こんにゃくバイキング。

こんにゃく工場見学


 こんにゃく・白滝工場ゾーン、ゼリー工場ゾーンを見学してから、無料のこんにゃく食べ放題。こんにゃくラーメン、こんにゃくゼリー、シラタキ煮もの、こんにゃくサラダ。味噌田楽。どれも少しずつ取り分けて、最後に気に入った味のものをおなかいっぱい食べようということで、やっちゃんとお皿2枚ずつ取りました。
 やっちゃんは「ふだん、家ではこんにゃくを揚げたことないから」と、こんにゃくから揚げが気に入りました。私はオーソドックスに、油揚げとこんにゃくの煮物。



こんにゃく食べ放題、思いっきり食べてこんにゃくでおなかふくれても、夕食は別腹。


 おみやげゾーンで、やっちゃんにお礼のこんにゃくと、東京の自宅用の分を買いました。スーパーの特売に比べて特別安くはないけれど、おなかいっぱいこんにゃくを食べたのだから、このくらい買わなきゃ悪いかなと思って。やっちゃんには車運転してもらったほか、野菜もいろいろもらったのです。

 高崎市内に戻って、夕ご飯。こんにゃくでおなかいっぱいになったけれど、「こんにゃくはゼロカロリーだから、別腹」ということにして、魚ソテーを食べながら、やっちゃんがヤンゴンに遊びに来るならいつがいいか、という相談をしました。

 定年退職後の年金生活だから「毎日が日曜日」というやっちゃんですが、ヤンゴン勤務の私には、年末年始の休みはありません。暮れは12月31日まで休みなし。1月1日が新暦正月。1月4日は農民休日。ミャンマーの正月は4月です。
 1月1日から11日まで、10日間のヤンゴン滞在はどうだろうか、ということになりました。

 ミャンマーを旅行する場合、ツアーに加わってそこそこのホテル宿泊、移動は飛行機というのなら、1週間楽しく旅できると思います。でも、やっちゃんは一人旅で、ホテルではなく、私の部屋に泊まりたいという。他の人には、ネズミも虫も出て、水シャワーだけの外国人宿舎に泊まってもらうのは躊躇します。でも、やっちゃんならきっと大丈夫。今でも必要ならば厩舎に泊まり込むというワイルドやっちゃんです。

 次回のヤンゴン勤務が少しでも楽しくなるように、いろいろ計画しなければ。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「田島武平桑麻館&高山社」

2015-11-19 00:00:01 | エッセイ、コラム

高山社跡に立つ養蚕農家復元

20151119
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2015十五夜満月日記11月(2)絹産業近代化遺産・田島武平家&高山社跡

 伊勢崎市境島村の絹産業遺跡めぐりサイクリング。
 田島弥平の本家にあたる田島武平さんの家は、家の内部参観可能でした。ちょうど家の中を解放して、見学者を受け入れている期間に来合わせたみたい。らっき~。
 2階の蚕室を見せていただき、現当主の田島信孝さんに解説していただきました。





 母の実家は、私が小学校に入るくらいまで養蚕をやっていました。
 ときどき母の実家に遊びに行く子供の目線でしか理解していませんでしたが、母の弟ヨメの愚痴「毎朝の桑摘みがたいへんだ」などを聞いて。養蚕のたいへんさのごく一部だけでも、見知ったことでした。

 黒っぽいゴミみたいな1齢の「おこさま」が、脱皮を重ねて5齢幼虫にまで育つと大人の指くらいの太さになることなど、覚えていることはわずかです。でも、サワサワという蚕が桑の葉を食む音を記憶に残すことができたのは、幸運だったなあと思います。
 そんな記憶をたどりながら、田島さんのお話をうかがいました。

 輸入のシルクに押されて、群馬の養蚕は規模が縮小してしまいました。しかし養蚕技術はしっかりと受け継がれ、現在皇居の中で行われている紅葉山御養蚕所で、美智子皇后のお手伝いをしている人も群馬の人だそうです。

田島武平桑麻館2階蚕室と繭の蔟 (まぶし)


 皇居東御苑散歩のおり、休憩所のビデオでながされていた紅葉山御養蚕所のようすを見たことがあります。東御苑を歩いて疲れた足を休ませるにちょうどいい休憩所。ベンチの前のテレビモニターを見るともなく見ていたら、「皇后陛下のご養蚕」(2014年宮内庁制作)という番組で美智子さまの養蚕が紹介されていました。

 正倉院の絹織物修復が行われたときのこと。現在国内で飼育されている外国種の大型蚕の絹は古代の織物を修復するには、糸が太すぎました。
 美智子さまが御養蚕所で飼育なさった国産伝統の「小石丸」という種類、繭が小型で糸が細く、すっかり廃れていた繭でした。御養蚕所でも他の品種の蚕に切り替えようか、という案が出たとき、美智子さまは、「古いものを残したい」と、小石丸の飼育を続けました。

 小石丸の糸が正倉院国宝の絹織物修復に最適であることがわかり、修復の担当者がおそるおそる皇居の絹を使いたいと申し出ました。通常の年は、年に数キロ程度の生産量で、国賓などへの贈り物として使われていたという御養蚕所の絹。修復には少なくとも40キロは必要になります。
 翌年、皇居で増産された小石丸の絹48キロが下賜されました。同じく皇居内で栽培された日本茜の染料を用いて、劣化していた正倉院絹織物を修復することができました。

 田島さんは、このビデオ番組ができたとき上映会で見たことがあるけれど、東御苑で放映していることは知らなかったので、次ぎに上京したら、ぜひ見てみたいとおっしゃっていました。

 産業としてはの絹産業は、安い海外の絹に押されてしまったのですが、文化としての養蚕の伝統が残されていてよかった、と思いました。お金儲けにはならないことが、皇居の中で残されていた。やたらに「金儲け金儲け」という風潮の現代社会に、お金にはならなくても価値ある仕事、皇居の中だけでなく、存続させること、必要だと思います。

 やっちゃんの車で、伊勢崎市境島村から藤岡市へ。高山社跡見学。
 高山長五郎(1830-1886)は、清温育という養蚕法を開発し、その技術を「養蚕学校」で教え、全国に普及させました。

 非常に繊細な温度管理などが求められる蚕の飼育。江戸時代に群馬に養蚕が普及しても、その年々の天候により、蚕全滅が繰り返されました。高山長五郎は、科学的なデータをとりながら安定した蚕飼育方法の研究を続け、清温法を開発したのです。

 藤岡市にある高山社は、その養蚕学校の跡です。建物は明治時代のものは残されておらず、再建されたものですが、養蚕学校の史料などを展示してありました。
 高山社で養蚕技術を習得し、全国に伝えた伝習生は、19000人にのぼったそうです。

 高山社蚕室の蚕棚


 やっちゃんは高山社を前に見学したことがあるというので、高山社はあまりゆっくりしないことにしました。次の富岡製糸場まで行くために、高山社建物内を一回りしたあとは、高速に乗って富岡市へ急ぎました。

 製糸場近くの駐車場に車を置くと、4時5分前。最終入場時刻が4時というので、やっちゃんといっしょに200メートル先の製糸場正門めがけて走りました。ところが。
 水曜定休日でした。

 11月11日水曜日。何度も「入場のご案内」を見直して「4時で入場おわり」というところをチェックして、「4時に門が閉まっちゃうから、急いで」と、やっちゃんと言い合っていたのに、観光案内チラシの「4時閉門」の上に書かれている「水曜日定休」の一行は、ふたりの目に入っていなかったのです。ふたりして大笑いでした。
 合わせると132歳のバーサンふたりが全力疾走したあげくに、「定休日!」

 他の施設がどこも「無料」「年末年始以外は無休」だっので、休場日を考えていなかったのです。入場料千円を「世界遺産になったからって、高い!」なんぞと文句言いながら、定休日があるということには思い至りませんでした。

 富岡市内は、世界遺産効果で、15年前とは打って変わった繁盛ぶりでした。お土産屋さんも、手仕事工房も食堂もいっぱい並んでいます。世界遺産さまさまとみえました。
 気を取り直して、やっちゃんは「七日市藩邸」に案内してくれることになりました。「古い建物見るのが好きだっていうから、ここもいいだろうと思って」と。

見ることかなわぬ富岡製糸


<つづく>
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ぽかぽか春庭「絹産業近代化遺産・田島弥平旧宅」

2015-11-18 00:00:01 | エッセイ、コラム

田島弥平旧宅 

20151118
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2015十五夜満月日記11月(1)絹産業近代化遺産・田島弥平旧宅

 女子校のクラスメートやっちゃん。高校教員を定年退職した後は、悠々自適の暮らしを続けています。午前中は、大学馬術部をボランティア指導。午後は昼寝や読書。「家の中を片づける時間はないから、足の踏み場もないんだ」と、言います。我が家と同じ。我が家と違うのは、やっちゃんの家は、やっちゃんが自分で基礎工事をして、棟上げだけ大工さんにちょこっと手伝ってもらったけれど、内装も含めて文字通り手作りした家だ、ということです。

 やっちゃんは、昨年は2度、これまでになかったほどの病気をしたので、この先の人生、友達とのつきあいも旅行もやりたいことを全部やってしまおう、という気持ちになったのですって。私とは「東欧自転車旅行をする」「日本全国キャンピングカー旅行をする」という約束をしました。来年早々に「ミャンマー旅行する」という約束、やっちゃんは早速ヤンゴン往復航空券の予約をすると言っていました。

 私が「まだ世界遺産の富岡製糸場を見学していない」と言ったら、やっちゃんが案内してくれることになりました。車で「富岡製糸場と群馬絹産業遺跡群」を一回りし、おまけとして、上州名産こんにゃく工場の見学と無料こんにゃくバイキング。食べ放題でもこんにゃくやシラタキだったら、カロリー取り過ぎの心配もない、第一に無料というのがうれしい。

 群馬県で生まれ育った者にとって「富岡製糸」は、郷土史が誇る近代化遺産でしたが、娘息子と16年前に甘楽町に一泊旅行したときは、富岡製糸場はまだ「操業を停止した古い工場」にすぎず、富岡の町も「過疎化が進んできた田舎町」でした。
 甘楽町や富岡市、どんなふうに変わっていることでしょう。

 高崎線本庄駅、はじめて降りました。やっちゃんの指示通りに駅前交番の脇で待っている間、やっちゃんの旅程計画を確認。

 やっちゃんの案内計画では。
①10:30高崎線本庄駅で下車し、駅前交番の前でやっちゃんの車を待つ。
②群馬絹産業遺跡群の中の、養蚕農家遺跡(伊勢崎市境島村)を見学。
③藤岡市高山の養蚕学校「高山社跡」見学
④富岡製糸場見学
⑤こんにゃく工場見学とこんにゃくバイキング試食
⑥夕食とりながらヤンゴン旅行計画
と、盛りだくさん。全部まわり切れなかったら、次回のお楽しみ、ということにして出発です。

 やっちゃんの車に同乗して、まず、群馬絹産業遺跡群のうち、田島弥平旧居へ。
 世界遺産のひとつになったので、案内所なども整備されています。案内所は、島小学校(伊勢崎市立境島小学校)の隣にありました。

 島小学校は、斎藤喜博先生による総合教育が有名になり、全国から授業参観が押し寄せた、いわば「群馬教育のメッカ」のような小学校でした。その小学校も、児童数は現在10名となり、来年は統廃合されるそうです。
 やっちゃんと島小の前で記念写真を撮りました。

 案内所へ行き、ビデオで田島弥平の生涯と事跡について学習しました。
 「弥平」は代々の受け継ぎ名前で、明治初期に養蚕事業を行ったのは、田島邦寧(くにやす)1822(文政5)-1898(明治31)です。
 蚕室の換気窓(櫓=やぐら)を備えた農家、清涼育という飼育法を考案し『養蚕新論』を著して養蚕の改良に努めました。
 櫓は、二階蚕室の屋根の上に空調のための換気小屋根をつけたものを言いますが、さまざまな形の櫓がありました。



田島弥平旧宅(屋号:遠山近水邨舎)1863(文久3)築造


 江戸末期から明治にかけて、群馬県は「労農」と称される篤農家(農業改良研究者)を輩出しました。群馬の子供達が小学校で暗記する『上毛カルタ』でも、「ろ」「ローノー、フナツデンジヘー労農船津伝治平」は「い」「伊香保温泉日本の名湯」の次ぎに覚える札です。しかし、田島弥平はカルタになっていませんので、私が田島弥平の名を知ったのは、2003年に読んだ丑木幸男『蚕の村の洋行日記―上州蚕種業者・明治初年の欧羅巴体験(1995)』によってです。

 田島弥平(邦寧)は、1879(明治13)年、56歳のとき、蚕種輸出推進のために欧米旅行を行っており、『伊太利国未蘭在蚕種売捌日誌』を書き残しています。
 私は、「日本事情」という教科を担当した時期に、日本と諸外国の交流をテーマに授業を実施していました。近代化の時期に、欧米から日本にやってきた御雇外国人の事跡と幕末から明治初期に欧米に洋行した日本人の記録について、自分もまなびながら留学生に交流史の発表をさせていたのです。
 田島弥平を知ったのも、このころでした。

 やっちゃんといっしょの大人のえんそく、大人の社会科見学からの帰宅後、久しぶりに『蚕の村の洋行日記』を本棚から引っ張り出して、著者の丑木幸男先生の経歴欄を見ました。先生は、私とやっちゃんが卒業した女子高校の教諭をしていた方だったことがわかりました。


 私たちが卒業したあとに赴任されたのだろうと思いますが、もし丑木先生に日本史を教わっていたら、私は日本文学日本語学を専攻せずに、「群馬県の近代史」なんぞを専攻していたのではないかと思います。残念。
 私が日本史を教わった先生は、高校定年後は「土屋文明記念文学館」に勤務されたということなので、文学寄りの方だったのだろうと思います。

 案内所では、解説員の松村辰博さんが、たいへんていねいに詳しく説明してくださいました。島村の田島姓の人々と渋沢栄一の渋澤一族との関わりについても、私の質問したことに詳しく解説していただきました。
 とてもよい解説なので、ついつい「次のところに回る予定がありますので、もう解説はけっこうです」と言い出せないまま、弥平と蚕について、いろいろ教わりました。

 弥平旧宅の周辺には、櫓を備えた農家が十数棟も残されているというので、やっちゃんと案内所のレンタル自転車(無料)で回ることにしました。
 どの家も、間口9間~12間、奥行き5間、という大きな農家。今はもう農業や養蚕をやっていない家もありましたが、たとえば、医院の家も、昔ながらの家をそのまま残して開業していました。

田島医院


主立った家には、進水館、栄盛館、有隣館、對青廬などの館名がついていて、案内板が出ていました。



 でも、たくさんの大きな家があったので、帰宅して写真を見たら、どれがどの家だったか、わからなくなりました。

有隣館:1968(明治元)年築 写真を撮るやっちゃん。左はしにある自転車2台で回りました。


對青廬:1966(慶応2)築






進水館:幕末頃の築




 群馬県は、車がないと移動が不便な土地柄。車1台あたりの使用人数は、1.14人(全国第1位)、つまり、人口の数と車の数がほぼいっしょ。やっちゃんも自宅から大学馬術部への行き帰りは車です。久しぶりに自転車に乗るというやっちゃんに対し、私は東京都内どこに行くのも地下鉄がほとんどで、自宅近所の交通手段へは自転車。自転車に毎日乗っています。

 秋の日差しさんさんと注ぐ田園地帯を自転車で走るのは、とても気持ちよくて、利根川の川風もまだ冷たいほどではなく、快適なサイクリングでした。

 利根川、島村の土手で

 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「青もみじ」

2015-11-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151117
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>晩秋のことば(3)青もみじ
 
 東京のありがたいところ。「65歳以上無料」や「65歳以上100円」という低料金で美術館に気楽に行けるところ、「無料」で楽しめるのが好きです。ヤンゴンには絵画の美術館がないので、東京でめいっぱい楽しんでから出かけます。

 美術館の楽しみは、気に入った絵の前に立って、しばしゆったりと絵と対話する時間を作ること。そして、どの絵はがきを買って青い鳥さんに出そうかなと、絵はがきを選ぶ時間です。

 青い鳥さんに出している1ヶ月に10枚の絵はがき。11月15日づけでNo.555。
 555枚目は、ミレーの「洗濯物を干す女」という絵の葉書でした。青山のユニマット美術館で買った絵はがきです。ユニマット美術館は、経営母体が傾いて閉館してしまいました。今でもユニマットグループの所蔵品のようで、山梨県立美術館その他で開催されたミレー展には貸し出し展示がなされていました。しかし、美術館常設展示とことなり、「あの美術館に行けばあの絵に出会える」という安心感がなくなってしまい、閉館は残念です。

 「洗濯物を干す女」は、農家の庭先で洗濯物を干しているようすと、庭先に並ぶ小麦の藁山が晩秋らしい静かな光景を見せています。


 11月5日付けは、鎌倉で買った長谷寺と色づいた桜もみじの絵はがき。


 11月7日付けのNo.552の絵はがきは、minako Kawauchiの版画「青もみじ」。くすんだ緑の濃淡のもみじ葉が重なり合う図柄です。
 「青もみじ」を11月に送る絵はがきとして選んだあと、はたと心配になりました。私は、秋の色づく前のもみじ葉」の絵はがきと思って選んだのに、もしかして秋じゃないのか?と思って。

 最近の観光パンフレットなどで、「京都の青もみじ見物」などと使われていて「新緑の青もみじ葉」「夏の青もみじ葉」の意味で使われるようになっていたので、今は「青もみじ」は夏のことばになっているのかもしれません。


 辞書を確かめると、
1)まだ紅葉しないカエデ。
2)襲(かさね)の色目の名。表は萌葱(もえぎ)、裏は朽葉色。秋に用いた。
 とあって、青もみじ、今のところ、まだ秋でいいんだ、とわかりました。

 でも、ことばのイメージは、人が感じ取り、人が作り出すもの。「青もみじ」を多数の人が夏のことばと思うなら、夏を感じさせることばになっていくのでしょう。
 私は秋と思って使うけれどね。「鹿火屋」がすたれてハロウィーンが台頭するのと同じく、青もみじが夏の季語になっていくのも時代の趨勢。

・青もみじ襲の色目を脱ぎ捨てて金色夕日に手かざしてみる<春庭

 ミャンマ-の12月平均気温は30度。そして気温以上に、総選挙による政権交代の動きに熱いヤンゴンだろうと思います。暑いヤンゴンに出かける前、しばしの秋。晩秋の日本を楽しんでいます。日本の四季、ほんとうに美しいです。
 
<おわり>

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ぽかぽか春庭「秋の馬」

2015-11-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151115
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>晩秋のことば(2)秋の馬

 新しく知ることば、専門用語というのは、どの世界のことばでも、とても幅広く奥深く、知るたびにとても利口になった気がします。

 「ギヒンダイ」ってご存じでしょうか。牧畜関係者には日常茶飯事のことばなのでしょうが、聞いただけではなんのことやら、一般人にはわかりません。漢字で書けば意味がわかるかも。擬牝台と書きます。

 種馬や種牛から精液を採取するときに、牡馬や牡牛がのしかかるための台です。見た目は、器械体操のあん馬。こんな台にのっけられて、精液を搾り取られちゃう種馬もなんだかなあ、という気がする。種馬といえば、多数の雌馬に囲まれたハーレム状態なのかと思っていました。

 京都御所の壁を修理する左官の仕事紹介や「伊豆の長八」展に出かけて、入江長八の仕事を見たあと左官用語事典などパラパラと見ていて、「馬」という左官用語を知りました。

 「馬」という語も、左官用語では別のもの。「脚立と同じ4本足の踏み台ですが、脚立より足が短くて上に乗るのに安定している、、、」なるほど。
 馬=足の短い四本足の脚立。

 天高く馬肥ゆる秋。「馬肥ゆる」は秋の季語。私は一年中肥えていますが。

 ・牧の馬肥えにけり早雪や来ん<高浜虚子
 ・馬尿す音岩山の秋の昼<加畑吉男
 ・馬跳びの子ら天に跳ね秋日濃し<春庭

左官の入江長八の作品「近江のお兼」
下駄でたずなを踏んづけ、馬を取り押さえている女傑、近江のお兼の姿も馬もいいですね。


 新しいことばを知るとうれしくてつい、吹聴したくなります。仕事柄新しいことばへのアンテナはいつも磨いているつもりですが、最近のアンテナにひっかかるのは新出来のカタカナ語ばかり。あとは、古い本を読んだときの、今では使われることの少ない漢語や熟字訓。

 「救恤金キュウジュツキン」。ジュツの字、読めませんでした。義捐金(ぎえんきん)や寄付金が現代語として残り、救恤金が廃れてしまったのは、やはり「恤」が常用漢字から落ちてしまったことが原因だろうか、とか考えて、何の得にもならぬことをぐだぐだ思い巡らせて秋の日を浴びています。

 「騏驥キキ」この語を、自分の文章で使ったことなかったです。
 「騏驥」とは、
1 よく走るすぐれた馬。駿馬(しゅんめ)。
2 すぐれた人物。
のことですって。

 漢字表記、私は、副詞や接続詞などはできるだけカナ書きしたいし、平仮名表記をしても意味が伝わることばは、仮名書きしています。でも、これまで使ったことのない漢字を知ると、面白く思います。

 牛が6つで「犇犇ヒシヒシ」という漢字見て、じゃ、午や馬が6つあったら何になるだろう、なんて思っていたら、同じこと考える人もいるもんですね。ネットで探せば、「三つ以上同じ形を並べる漢字集」が出てきました。(外字が多いので、文字化けするかも)

人-众 女-姦 子-孨 心-惢 手-掱 口-品 目-瞐 耳-聶 舌-舙 
牛-犇 犬-猋 羊-羴 馬-驫 魚-鱻 鹿ー麤 虫-蟲 貝-贔 龍-龘
日-晶 木-森 屮-芔 土-垚 水- 泉-灥 火-焱  雷-靐 風-飍 石-磊 金-鑫
田-畾 原-厵  
白- 刀- 力- ム-厽 又-叒 吉-嚞 止-歮 直-矗 言-譶 車-轟 隹-雥 飛-飝

 おお、ありました。馬が三つで驫。音は「ヒョウ」で、意味は「多くの馬が群れるようす」です。

 こんなことをして遊んでいるから、文化系の学部は潰すべきだ、と文科省のお役人が考えてしまうのですね。ノーベル賞とれるようなモノツクリができない学問は不要だと。
 日本のモノツクリもすばらしいけれど、言語文化もすばらしいのだ、とわかってもらわねばなりませんが、、、、
 天高く、、、、馬以上に肥ゆる秋、をもちっと節制して、脳に栄養を行き渡らせなければ成りません。「騏驥」なる人物にはなれそうもないので、せめて「驥尾に附す青蝿」くらいには頑張ります。

 「驥尾に附す」とは。ただの青蝿であっても、優れた馬のしっぽにつかまっていれば、千里を走る馬と同行できるたとえ、、、、、ですと。今、知った。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「冬隣」

2015-11-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151114
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>晩秋のことば(1)冬隣

 今年の木枯らし1号は、例年より早く10月24日の晩に吹きました。2015年、立冬は11月8日。歳時記もすでに「秋」ではなく、「冬」をひもとくべきなのですが、私の感覚では、東京の木々が紅葉するまでは秋。東京の木々、色づくのは11月下旬です。冬は12月1月。11月は晩秋の気分です。

 最近は季語にもさまざまに新しい趣向が出ていて、カタカナ季語も、アイスクリーム、キャンプ、ビアホールは夏、カーペット、コート、クリスマスは冬。カタカナ語のエイプリルフールは、「四月ばか」でもよし、「万愚節」でもよし。

 秋の季語、カタカナことばがないなあと思っていたら、ハロウィーンが秋の行事として定着しそうな昨今です。10月31日の夜、東京の繁華街は仮装した若者のグループでごった返していました。和製英語のコスプレ(コスチュームプレイ)は、「アニメ」「カワイイファッション」と共に、海外輸出コンテンツの最前線にまで出てきています。

 ウタは世につれ、なので、秋の季語といっても、まったく身の回りにないものも多い。 「鹿火屋(かびや)」といっても、どんなものかすぐにわかる人も、今では少ないだろうと思います。秋の収穫物を荒らしに来る鹿や猪を寄せ付けないために、火をくすぶらせる山畑の小屋のこと。

 「俵編む」という季語、秋の収穫に備えて、稲わらで俵を編む生活が身近にあった時代は秋を強く感じさせることばだったのでしょうが。

・寂しさにまた銅鑼打つや鹿火屋森<原石鼎
・俵編みやめたるままに座りおり<高野素十

 「穭(ひつじ)=禾ヘン + 魯」という秋の季語。稲の刈株から芽生える青い穂。さっと思い描ける人、すごい。私は久しく刈り取ったあとの田んぼを見ていないし、見ていたはずの子供のころには、「穭」なんて語があるとも知らなかった。「俵編み」を秋の日常生活として経験した人とともに、絶滅危惧種になっている。

・らんらんと落日もゆる穭かな<富安風生 

 だから、若者の生活に親しいハロウィーンが季節のことばになったらなったで歓迎します。そして、それでもなお、古いことばを残したくもあります。

 秋の花の中、ウェブ友すみともさん掲載の紫苑、外来種だとはじめて知りました。コスモスは明治中期の外来種だと知られているけれど、紫苑は平安以前に韃靼海峡を渡って来た花なのだと。

・紫苑活けありてひそやかな墓ひとつ<星野立子
・ふるさとの廃家の庭の紫苑花に韃靼越えて蝶の寄り来る<春庭

 私の故郷の家は取り壊されて妹一家は引っ越し、跡地にはアパートが建てられました。庭に咲いていたのは、母が植えた紫色の都忘れという花でした。都忘れは秋の花ではないのに、紫苑とごっちゃになって脳裏にあります。 

 ブログ友達のサイト訪問の楽しみのひとつは、自分は知らなかったことばを教わったり、漢字を知ったりすること。
 ドウダンツツジについても、やはりすみともさんの庭のドウダンツツジの鮮やかな紅葉の写真を見て、はて、ドウダンは、言語道断のドウダンだったっけ、と、漢字を知らなかったことに気づいた次第。

 漢字は「灯台躑躅」「満天星」という字。どちらも、昔の灯り台の形に似ている枝振りなので、灯台躑躅。花の付き方が満天の星に見えるので、満天星。当て字の理由はあるのですが、私の疑問は「灯台トーダイ」が「ドーダン」に転訛した過程です。

 動詞の撥音便は「遊びて」が「あそンで」に、「死にて」が「しンで」というように、動詞語中の/ni/、/bi/、/mi/の音が/n/に変わることをいいます。
 名詞も、語中の/ni/、/bi/、/mi/の音が/n/の音に変わります。髪に挿す「カミサシ」の/mi/の音が/n/に変化し「かンざし=簪」に変わる。「兄(アニ)さん」も、ちゃんづけとなると「あンちゃん」になりますね。

 トウダイの後ろにツツジがつながることによって、イの音が語中化し、ンに変わったのだろうと思います。

 しかし、語頭の「ト」が「ド」に変わった理由がわかりません。ふたつの語が組み合わさって新しい語(複合語)となるとき、後ろの語の語頭が濁音化する現象を連濁といいます。しかしトウダイのトは語頭です。連濁の法則ではありません。トウダンではなくドウダンになったのはなぜか、、、、と、考えてもラチ開かないことをうつらうつらと考えてみる晩秋のひととき。

・灯台(ドーダン)の躑躅紅葉を照らす日は黙(モダ)して眺める縁側にも射す<春庭

 この週末ぐっと寒くなってきました。
 晩秋のことば。「冬隣」私にとっては、俳句ではなく、ちあきなおみの歌です。連れ合いを亡くした女性が、強くもない酒を飲みながら亡き人をしのぶ歌です。地球の夜更けは寂しい、と。

・くらがりへ人の消えゆく冬隣<角川源義
・冬隣いまだ亡びず女です<春庭
・冬隣地球の夜明けもまた寂し<春庭 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年の作文発表会」

2015-11-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151112
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記(9)2003年の作文発表会

 2003年の三色七味日記再録です。
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2003/11/27木 晴れ 1063
ニッポニア教師日誌>作文発表会

 作文、日本事情2コマ。今日は作文の後半で「いままで書いた作文の発表会」を行った。
 今年、システム変更で作文クラスの学生数が半分になった。おかげで、添削する時間もとれたので、今までになくたくさんの作文を書かせた。

 学生は「A4版原稿用紙50枚つづりを買ったときには、こんなにたくさん紙があっても余ってしまうだろうと思った。まさか50枚全部紙が終わるとは思わなかった」という。下書きと清書で全部で50枚が終わり、足りなくなった人もいる。

 丸谷才一の持論「子どもに作文を書かせて、添削してやろうとか、感想を一言かいてやろうと思うから、教師は子どもに作文を書かせたがらなくなる。添削も感想もいらないから、ただひたすらどんどん書かせれば、自然に上達する。」

 私は自分の方針として、書かせたら必ず添削をして、つまらないコメントでもひとこと書き添える。時間がかかるが、どんどん書かせる。
 それで、「読めば読んだ分だけ読解力がつく」「書けば書くほど作文力があがる」と、いうことは実感できる。量が質をたかめることといういうことは、2チャンネルロゴだけでなく、いくらでもあある。

 ひとつずつ気に入った作文を選んで、朗読発表を行った。本当はひとこと感想を言うことができたらよかったが、来週文集作りの時間があまったら、感想コーナーを作ろう。

本日のかみ:原稿用紙50枚書くうちに上達する作文。教師の指導ではなく紙のおかげ


2003/11/28 金 曇り 1062
ニッポニア教師日誌>デパート買い物シーン

 ビデオ会話3コマ。
 今日から中国からの学生がひとり増えた。ちょうど12課のビデオに「ひさしぶりに会った友人に、新しい友だちを紹介する」というシーンがあったので、ビデオを見てから「ともだちを紹介する」という練習。

 新入生は食品安全学専攻。中国にとって、必須の学問だろうと思う。農薬や添加物の混ざった食品を輸入したら、自分のクビを絞める結果になりかねないから、中国の農産業にとって必要不可欠。

 大学院院生として留学している他の学生と異なり、彼女は研究留学生だから、日本語学習は必須ではない。しかし、研究のためには日本語学習が必要と自分で判断し、指導教官を通じて申し込んできたのだという。「みんなのにほんご」を7課までしか終わっていないが、熱心な人なのでこれまでの遅れに追いつくだろう。文法事項の理解はしているが、会話経験がないので、まだ発話に慣れていない。

 今日は、SFJ10課のビデオのデパートシーンを見てから、買い物ごっこを再現。新入生に客の役を、ジジとニューにデパート店員の役をやらせる。私がエレベーターガールの役。
 行き先の階をエレベーターガールに告げるところから、スタート。「東京デパートご利用ただきましてありがとうございます。はい、3階でございますね。かしこまりました。3階紳士服売り場、とまります。おあとございませんか。」と、エレガ口調。新入生ショウおずおずと「5カイ」「はい、5階、婦人服売り場へまいります」

 婦人服コーナー担当のニューは「いらっしゃいませえ」とはりきる。ショウさんもまわらない口でいっしょうけんめい「もう少し大きいサイズのセーターがありますか」「色はいいけど、デザインがちょっと」など、10課の文型を言う。

 ジジはレジ係りの役。「○○円お預かりします」「○○円のおかえしです」などの、買い物ごっこセリフはすっかり忘れていたが、なんとか無事買い物がすんだので、「ジジさんはとてもよいデパート店員でした。ジジさんは、国にかえったら、デパートの店員になります」と、今日のもうひとつの新文型「~になります」を使ってほめると、みな笑う。
 将来ジジがなるとしたら、デパートのオーナーか、商業大臣くらいであろうと、学生達は承知している。

本日のひがみ:教える教師は、しがない非常勤講師でも、教わる学生たちは、各国家よりぬきのエリートたち


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20151113
 まだ全開票確定したのではないのですが、大方の予想通り、ミャンマー総選挙はアウンサンスーチー女史率いる国民民主連盟(National League for Democracy、NLD)の大勝利に終わりそうです。現在の政権とその基盤である国軍は、選挙結果を尊重すると言っていますが、来年1月の政権正式交代までは何が起こるかわかりません。1990年の選挙NLK勝利の結果を軍部によってムシされたから。
 軍事政権が定めた現行憲法では、家族に外国国籍者がいる者は大統領にはなれないという明らかにアウンサンスーチーさんを標的にした決まりがあります。結婚相手が英国人であり息子ふたりの国籍もイギリスであるアウンサンスーチー女史は、現行憲法では大統領になれません。おそらくは別の大統領を立てて、NLD党首として実権を握ると予想されます。党は勝利したけれど、大統領の問題を含めて、NLDの課題はおおきい。地方の選挙区など、数合わせの候補者で玉石混淆の人もいるというので。

 政権担当トップがだれを教育省大臣にするのか、また、大学学長はどうなるのか、まだわかりません。
 ヤンゴン大学はアジア地域の教育史においても、137年というトップの歴史を誇る名門大学なのですが、学生の政治活動参加を押さえるために軍事政権によって封鎖されて以来、大学自治は復活していません。
 日本の大学もじわじわと自治権を事実上失ったかのように、文科省の意向どおりになりつつあります。教育学部その他の文系学部を閉鎖し、横文字の多い新学部を設立する大学も増えてきました。直接お金に直結しない学問を必要としないという考え方、これから増えていくのでしょう。自主独立という建前も、時の権力によって左右されてしまうのが、お金をもたない大学の宿命。

 せいいっぱい仕事をしようと思っている春庭ですが、いつクビになるのやらわからぬままのブラックバイト。
 ブラックでもホワイトでもがんばりますけれどね。
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ぽかぽか春庭「2003年の殺陣」

2015-11-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151111
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記11月(8)2003年の模擬授業、殺陣

 2003年三色七味日記の再録です。
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2003/11/26 水 晴れ 1060
ニッポニア教師日誌>模擬授業、殺陣

 教授法2コマ。今日から3週連続で、模擬授業を行う。
 学生には、
 1)日本語学校、ボランティア日本語教室、大学の日本語別科など、どこでもいいから日本語教育機関のクラスを見学し、レポートを提出(日本語学校へ電話をかけ、見学申し込みを受け入れて貰うのも、勉強のうち
 2)4人組の班ごとに「自分たちが運営しようとするクラスのコースデザイン」を提出 
 3)50分授業の個別指導案提出

 以上の3点セットを義務づけた。それだけでも相当ハード。
 それに加えて「表現力」養成として「自慢じゃないけど自慢です」という自慢話コーナーで、3分のスピーチ。ほかの人の発表を聞いたら、必ずコメントを書いて提出、というスケジュールを組んできた。

 模擬授業、前半の班は、先週急遽ピンチヒッターで順番をかわったHiチーム。Yaチームのひとりがインフルエンザでずっと欠席なので準備の連絡がとれないというので、順番を変更してもらった。

 ピンチヒッター、しかもトップだったので、準備不足の部分もあったが、チームティーチングを3人でやった。「動詞の名詞化」を教える授業。「こと」と「の」の使い分けなど、留学生には混乱が起きやすい文法項目だ。泳ぐという動詞を名詞化(nominaraization)すると、「泳ぐこと」「泳ぐの」のふたつの名詞ができる。
 
 「泳ぐのが好きです」は、「泳ぐことが好きです」と、言うことができる。しかし、「私の趣味は泳ぐことです」という分を「私の趣味は泳ぐのです」と、言うことはできない。

 そのあたりの文法事項を、学生もきちんと把握していないから、もし、留学生が「私の趣味は泳ぐのです」という発話をしたときに、教師として対処できなくなる。名詞化の「の」は、コピュラ「だ」「です」と共起できないことを、教授者が把握している必要がある。

 学生発表が終わってから、「私が、『こと』と『の』を導入するときは、こうやります」というサンプルを見せる

 「動詞の名詞化」を教える授業。「こと」と「の」の使い分けなど、留学生には混乱が起きやすい文法項目だ。泳ぐという動詞を名詞化(nominaraization)すると、「泳ぐこと」「泳ぐの」のふたつの名詞ができる。
 
 「泳ぐのが好きです」は、「泳ぐことが好きです」と、言うことができる。しかし、「私の趣味は泳ぐことです」という文を、「私の趣味は泳ぐのです」と、言うのは不自然だ。

 そのあたりの文法事項を、きちんと把握していないと、もし、留学生が「私の趣味は泳ぐのです」という発話をしたときに、教師として対処できなくなる。名詞化の「の」は、コピュラ「だ」「です」と共起できないことを、教授者が把握している必要がある。

 cf:「だれがなんと言おうと、私はいくのです」という場合の「の」は、また別。「いくんです」「だれが撮っても上手に写るんです」の「ん」は、説明的終助詞(ecplanated finel particle)の、「の」である。あ、話がややこしくなった。逃げないで下の授業実践を読んでね。春庭、「横綱土俵入り」を披露しているから。

 「私が、『こと』と『の』を導入するときは、こうやります」というサンプル。あくまで一例であり、さまざまな授業方法が存在する。

 以下の授業実践は、直接法(日本語だけで授業をする)に、媒介語(このクラスでは英語)を加えた、「折衷直接法」の授業である。

1,文字カードを準備。
 カードに「ピンポン」「バレーボール」「バスケットボール」「テニス」「ボクシング」「すもう」「Swimming」「Walking」「Watching」「Standing」「Taking photograph」などと書いてある。

2,日本語学習者をふたつのチームに分ける。カードを配り、ふたり一組になってジェスチャーを出題し、相手チームに何をしているか、あてさせる。あたったら、ポイントゲット。
 これは、カードの語句の意味を理解しているかどうか、確認するための遊び。

 「泳ぐこと」「写真をとること」などは、ジェスチャーで当てられるが、「立っていること」「見ること」などは、ジェスチャーが巧みでないと、答えが出にくい。ただ、じっと立ち続けるジェスチャーでは「立っていること」という答えが出ないのだ。

 「すもう」のジェスチャーなどは知らない学生もいるので、できそうな人にあてておく。学生ができないときは、教師がジェスチャーすると、みな大喜び。私は調子にのると、横綱土俵入りのジェスチャーまでサービス。

3,「I'd like you ask a question. Do you like this sports. Please answer it。質問します。答えてください.スポーツが好きですか」スポーツが好きそうな学生に質問する。学生は「好きです」と答える。

①テニスが好きそうな学習者に質問「テニスが好きですか」学習者の答え「はい、好きです」

②女子学生に質問「ボクシングが好きですか」好きだと答えたら「ボクシングができますか」「いいえ、できません」「そうですか、○○さんは、ボクシングができません。○○san can not play boxing.」

③ わざと、すもうができるか聞いてみたりする。冗談で「できる」と答える学生がいたら、「Let's play the game. I am a Takamisakari , You are Asashoryu.」と、のせる。ふたりで、立ちあい「みあって、見合って、はっけよいのこった」と、立つまでをジェスチャーでやったり。がっぷり四つに組むのは、ちょっと遠慮。

4,教師「○○san, do you like watching TV?」
  学生「Yes, I do」
 教師「そう、好きなのね。日本語で言ってください」
 学生「好きです」
 教師「Please say full sentence.」
 学生「わたしはテレビを見るが 好きです」

5,教師「今の日本語は正しい日本語ではありません。もういちど、言ってください」
 学生「わたしはテレビをみるが、、、、」
 教師「ちがいます。『みるが』は、正しい日本語ではありません」
 学生「Ah!わかりません」

6,学生が間違えたら、すかさず、「こと」「の」を導入する。「Japanese verb nominaraization」の説明。「の」と「こと」の使い分けなどを説明。

7,「こと」を用いた、動詞の名詞化の練習。カードをみせながら、あるいは口答練習で「Walking →あるくこと」「Watching →みること」の変換練習

8「動詞~のが好きです/~のは好きじゃありません」の代入練習。「公園を歩くのが好きです」「テレビを見るのが好きです」「電車の中で立つのは好きじゃありません」などの文型を練習。

9「趣味は、動詞~ことです」の代入練習。
①「趣味はお酒を飲むことです」「趣味は映画を見ることです」「趣味は絵を描くことです」などの例文を練習。

②調子にのりやすい男子学生がいるクラスだと、「趣味は、女の人の写真をとることです」「趣味は女の人と話すことです」「趣味は、女の人といっしょにホテルへ行くことです」まで、エスカレート。

③乗りやすいクラスと、そうでないクラスでは、例文を使い分ける。やたらに「うけねらい」の文を発表しようと、はりきる学生がいるクラスがある。また、ちょっとでもふざけた文を言うと、ブーイングを出すまじめ学生のいるクラスも。
 教師も、クラスの個性にあわせて臨機応変に。

 今回の、私のデモンストレーション授業でも、いちばん受けたのは、すもうのジェスチャーだった。学生のひとりが、「日本語教師はジェスチャーの練習もしておかなきゃなりませんね」というので、「日本語教師は芸人を目指さなければ、やっていけません!」という、私の持論を披露。

 後半のOhチームは、各人工夫をこらして上手に授業をしていた。絵カード、復習プリント、CDプレーヤーなどの「教材教具」を使って、それぞれが持ち時間いっぱいに授業した。

 今日の学生の「自慢話」発表も、面白かった。
 3000円しかお金がなかったけど、大阪のたこやきを食べたくなって、京都までヒッチハイクで行き、帰りは夜行鈍行を乗り継いで、品川駅で駅員に「大井町から乗ったけど、切符落とした」といって、150円払って家に帰ったという話。

 ジャンボ尾崎の出身高校に在学していたという学生。「スポーツが盛んな学校で、自分も高校のとき剣道大会で優勝した」という話。

 そして演劇をやっている女子学生は練習を続けている殺陣を披露。
 始める前に黒板に殺陣と書いたので「ああ、たてやるの」と尋ねたら、「もう、先生は、すぐ言っちゃうんだから、これクイズなのに。ま、仕方がない、みなさん、これ、なんと読むかご存じですか、今のセンセのつぶやきは聞かなかったことにして考えてください」と、おこられちゃった。
 で、殺陣の型を見せてくれて、とてもかっこよかった。彼女が出演する次の公演も見にいく約束をしている。

本日のうらみ:「殺陣」の文字がクイズと思わなくて、つい読んでしまった。ごめんね、たまに読める漢字があると、うれしくて

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

20151111
 殺陣という技術、私には舞踊の型と同じように好きです。
 歌舞伎や大衆演劇の様式化された殺陣も見事なものですが、映画の殺陣は、真に迫る斬り合いをしているように見える刀の打ち合いでも、相手に怪我させぬ計算され尽くした動きによって演技されています。その動きを考える殺陣師の仕事、すごい技だと思います。
 (子供の頃は、チャンバラ映画とテレビのプロレス中継を見ることはありませんでしたが)

 五万回斬られた男、橋本清三主演の『太秦ライムライト』の中の殺陣師もよかったですし、
『るろうに剣心』のスピード感ある殺陣もよかった。
 殺陣師の名前が面に出ることは、一般にはが少ないので、映画『殺陣師段平』の段平のほか、殺陣師の名前も知らず、この世界の人に詳しくはありませんでした。
 最近では『るろうに剣心』のアクション監督谷垣健治に注目が集まるなど、殺陣師も陰の存在というばかりではなくなってきています。が、私が殺陣が好きなのも、「縁の下の力持ち」的なところが「表舞台の主役」以上に好きだからかも知れません。
 
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ぽかぽか春庭「2003年の童謡コンサート」

2015-11-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151110
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記11月(7)2003年の童謡コンサート

 2003年三色七味日記11月の再録です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~


2003/11/24 月 晴れ1058
日常茶飯事典>童謡コンサート、好きな声の質

 たこさん掲示板に書き込んだ。「夫が妻の顔を見て叫んだ話」
(イラストbyTAKO)

Re: 新車納入~ 投稿者:春庭  投稿日:2003/11/24(月) 00:13:03
 ログなくなる前にと、転載再録した用意周到な春庭です。これでたこログも春庭頁に永久保存版です。ばかな冗談を書き殴った二人の恥は一生もの。
 転載許可ありがとうございました。っていうか、うむを言わせず載っけてしまった力ずくを許してくれて、どうもありがとう。
 それから、いろいろアドバイスありがとう。直接コピーすると、重くなるってことも知らないウブな私。こうして人は経験を積み、ウブな乙女からやり手婆になっていくのね。 削除要請の部分は切り取りました。確認の上、さらなる修正部分を指摘してください。

 連休最後の一日私は姑のおともです。区の生涯教育で「童謡を歌う会」というのに入った姑が、松島とも子のコンサートに行こうってチケット買ってきたの。松島とも子っていえば、ライオンに指食われた人、ミネラル麦茶の人。私の世代の人にとっては、少女雑誌の表紙は、すべてこの人だった大スターなの。
 でも、いまさら指食われたのどうしたかって、確かめる気もないしナー。けなげな嫁だね。実を言うと、夫に会う回数より、姑に会う回数のほうが多い。

 この間夫の事務所に行ったら、夫は私の顔を見て「わーっ!!!」と叫び声を上げた。普通妻の顔を見て叫ぶのは、他の女とベッドで人命救助の人工呼吸をやっている現場をみつかった人だけだろうに。仕事をしている事務所で叫ばれた私は、どうやって事務所に入ればいいのか、、、、。
 と、同じネタを10回は使い回す気の「夫が妻の顔を見て叫んだ話」

 夫と会う回数より多く会っている姑との待ち合わせは、12時。いっしょにお昼ご飯を食べるつもりだったが、姑は「休みの日は、朝ご飯とお昼を兼用でいただくから、コンサートの前はお茶くらいでいい」というので、ヒメにケーキを焼いてもらったのだ。

 都立大前で待ち合わせ。パーシモンホールまで歩く。自由席なので早めに来たつもりだったが、けっこう満席で、やっとはじの方に二人で並んで座れる席を確保した。ロビーでりんごケーキを食べる。姑は「ほんとうはりんごはケーキに焼いてしまうより、生のほうがビタミンCがとれる」と食べながらも栄養学講義。
 もう、それを承知で「りんごは生で食べられない」娘がケーキにしたのだから、おいしいって言うだけでいいのに。
 ひとこと栄養学をつけたさなければ、気が済まない姑。それに20年つきあってきた嫁のわたしもえらいね。
 
 童謡コンサートは、幼稚園のこどもの合唱。地元のママさんコーラスと交流がある島根県のコーラスグループの歌、早稲田と慶応のシニア合唱団、などが、本居長世などゆかりの人の作曲した歌を歌う。

 私にとって、この催し最大の収穫は、交流参加している島根の岩井温泉が尾崎翠のふるさとであることがわかった、ということだろう。白石加代子主演の映画が岩波ホールで公開されたとき、見ようと思っていて見る機会がなかった。ビデオさがして、絶対にみよう。
 
 コンサートの目玉は、松島トモ子ショー。松島トモ子は50年前の女の子たちにとっての最大のスター。華やかな衣装で登場した松島トモ子は、ほっそりしたスタイルを保ち、かわいらしい容姿も保ち、自分で「昭和20年7月の生まれ。生まれる半年前に父親が満州から出征し、シベリア抑留中に戦死。」と言っていたから、58歳のはず。
 舞台の上に立っていれば30代といってもいいくらい、若若しかった。

 一般の58歳と芸能人の58歳を比べることはできないが、人間みがきにおかねをかけ、エステに整形、心身の鍛錬があれば、美しさ若さを保てるなあと実感。
 テレビの中の芸能人がいくら若々しく見えても、自分とは関係ない世界のことだと思うが、目の前で歌っている姿をみると、「若々しくいることが可能だなあ」と実感できる。

 松島トモ子は、車椅子ダンスの普及にも力を注いでいるので、好き。でも、声は好きじゃない。歌はうまいが、声の質は私好みじゃなかった。

 お父さんがシベリアで戦死した話をふり、「これは、私の父と母の物語」と言って、満場のじじばばの涙をさそってから「さとうきび畑」をうたった。「シベリアにさとうきび畑があったんかい」なんてツッコミは、誰もしません。
 みんなしんみりとさとうきび畑を聞き入りました。しかし、私はさとうきびなら、直太郎ママ。次の曲「百万本の薔薇」を聞くなら、生の松島トモ子より、CDでもいいから加藤登紀子。

 私の「好きな声」ランクがある。1番好きなのは「風邪ひきハスキー声」と「風邪ひき鼻づまり声」の中間の声。 

 1番好きなのが、内藤やす子。西田さち子「アカシアの雨がやむとき」は少し鼻にかかりすぎ、りりぃ「私は泣いています」は、ハスキーさが多すぎ。和田アキ子のパンチの効かせ方は好き。

 2番目に好きなのが、「透明感あるアメイジンググレイス声」ジョーン・バエズ森山良子、本田ルツ子、白鳥英美子、など、アカペラでアメイジンググレイスを歌ったら似合う声。

 4時に終わった。姑に「お茶でも飲みましょう」と、言うべきなのか、と思ったけれど、1時から4時まで3時間すわって歌を聴いたので、いささか疲れた。歌のおばさん松田としの指導で、観客も歌ったし。78さいの姑にはけっこうハードだったのじゃないかなと思い、そのまま別れた。

本日のそねみ:58歳のスリムボディ


2003/11/25 火 雨 1059 
日常茶飯事典>亡き母の年を数えて三島の忌 

 お母さんの誕生日。生きていれば86歳。
 50年前から「私は体が弱い」と言っていたアヤ伯母さんは88歳過ぎても生きていて、お母さんは55歳で死んでしまう。つくづくと不平等だなあ。

 アヤ伯母にも長生きはしてほしいけれど、自分の体の心配をするだけが、人生の主な仕事だった伯母が長生きできて、「末娘が高校卒業したら、自分も子育て卒業して、障害者施設のボランティアをする」と言っていた母が、卒業式の二日前に死んでしまった。生きていてほしかった。娘と息子のことを、話したかった。仕事の悩み、夫への不満、聞いて欲しかった。

 「自分さえよければいい」という、どこかのゴウツク婆は生きていて、自分のことは後回しで、人のために心をくだいた母や姉が死んでしまう。どうしてだ! いい人はみんな先に死んでしまって。

 私が生き残っているのは、もちろん私がいい人じゃないからだけど。

 三島由紀夫忌に、三島の感想文メールが届いた。

本日のうらみ:私が死ぬまで、何度でも恨みを書き続ける。くれよんしんちゃんが名誉市民になっている市の市立病院「『行く』の英単語、to不定詞」医師、あなたが藪だったせいで、姉は死んだ

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20151110
 9月5日、ヤンゴンのお寺のトイレに落として、カメラ壊れてしまいました。息子が誕生日プレゼントとして数年前に買ってくれたカメラだったので、とても残念な思いでした。
11月9日、池袋の家電店で、今年の誕生日9月5日のプレゼントとしてまた同じメーカーの似た機種を買ってもらいました。今度は防水タイプにしたので、もうトイレに落としても大丈夫と思います。って、もうこれ以後、トイレに入るときにフタを閉め忘れたカメラケースにいれたままのカメラを持って入るなんてことはしないと思いますが、水深30mまでの水に耐えるということなので、トイレの深さが水深30mでも大丈夫。めでたしめでたし。
コメント (8)
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