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春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「2014年9月 目次」

2014-09-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


20140930
ぽかぽか春庭2014年9月 目次

0903 ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩学校校舎part2(1)津金学校(須玉三代の学校)
0903 建物散歩学校校舎part2(2)旧睦沢学校(藤村記念館)
0904 建物散歩学校校舎part2(3)長野県旧松本高校
0906 建物散歩学校校舎part2(4)旧東京医学校(東京大学総合研究博物館小石川分館)

0907 ぽかぽか春庭シネマパラダイス>かあちゃん映画(1)我が大草原の母
0909 かあちゃん映画(2)アイリッシュ・ハープ-あなたを抱きしめる日まで
0910 かあちゃん映画(3)市川崑のかあちゃん

0911 ことば映画(1)王のスピーチ王女のコックニーその1
0913 ことば映画(2)王のスピーチ王女のコックニーその2
0914 ことば映画(3)国語元年
0916 ことば映画(4)奇跡の人、野生の少年
0917 ことば映画(5)華氏451度とふりがな問題
0918 ことば映画(6)舟を編む

0920 ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩学校校舎part3(1)旧福島県立尋常中学校本館(安積歴史博物館)
0921 建物散歩学校校舎part3(2)旧山形師範学校本館(山形県立博物館分館)
0922 建物散歩学校校舎part3(3)山形まなび館&旧米沢工業学校

0924 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記9月(1)敬老の日2014
0925 十四事日記9月(2)マシュマロ女子のダンス発表会
0927 十四事日記9月(3)うさぎ屋と赤城神社祭礼
0928 十四事日記9月(4)ヨコハマ散歩
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ぽかぽか春庭「ヨコハマ散歩」

2014-09-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
20140928
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記9月(4)ヨコハマ散歩

 ヨコハマ・トリエンナーレのチケットをもらったので、秋分の日の「芸術の秋」散歩は、ヨコハマを歩きました。

 横浜美術館と新港ピアとバンカートで現代アートを観覧、、、、よくわからんかった。
 実は、今回の美術館観覧は、娘息子を連れてヨコハマトリエンナーレを見るための下見です。娘も息子も私以上に現代美術には興味がありません。

 娘は、「ヨコハマにいっしょに行きたいって、母が言うなら、中華街でご飯食べるついでなら美術館に寄ってもいいけど。現代美術は、どうせ見てもわからないから、母が見て、これならおもしろがって見ていられそう」というのを、ふたつみっつ見つくろっておいてくれれば、そのへんをちゃっちゃっと見て、すませるから」と、言います。

 まあ、そうでしょうねぇ。ひとつひとつをじっくり鑑賞するほど現代アートとは仲良くしていない。中華ランチにつられて、母とつきあおうかという気になってくれるだけでも、ありがたいと思わなきゃね。

 それで、先回りして、「おもしろそうなもん」を選んでおくことになりました。
 最初に、みなとみらい駅で降りました。駅のそこかしこに、トリエンナーレ出品作家の作品が並べられています。

 こちらは、駅コンコースにあった作品。作品名「ノイズ・アーキテクツ2013」

 まあ、フツーというか、なんのひねりも変哲もない作品と思って通り過ぎたのだけれど。

 横浜美術館の入り口には、でっかいゴミ箱が設置され、アーティストたちが、失敗作とか、いらないのを捨てるパフォーマンスによってオープニングイベントを行ったとか。
 新港ピア展示場には「ゴミを固めたアート」というのが一室を占めて展示されていました。黒っぽいゴミの塊からささくれてほどけかかったロープなどが垂れ下がているオブジェが置かれています。

 「華氏451度の世界-世界の中心には忘却の海がある」というアーティスティック・ディレクター・森村泰昌は、「価値なきものとして廃棄される膨大なもの。忘れ去られて顧みられることもない記憶、その中にこそ真に記憶すべき者が埋もれている、という。

「世界(宇宙)は、そのほとんどが「忘却」のブラックホール(あるいは、広大で奥深い海)によって満たされている。それに比べれば、記憶世界など「忘却の海」に浮かぶちっぽけな島にすぎない。」

 さて、次の芸術作品は、タイトル「あるホームレスの記憶」


 この、偉大な作品の作者は、、、、、
 わかりません。バスでの移動途中に見かけたゴミの山。ゴミでないとしたら、あるホームレスの「全財産」を写したものです。これだって、タイトルとアーティスト名がつけられていれば、観覧の人々は「ふ~ん、これもアートか」と思って眺めるに違いない。
 つまり、私には、美術館の中のゴミのかたまりと、街角のゴミ(のような全財産かもしれぬもの)の堆積を区別できません、ってこと。

 トリエンナーレの期間中だけのことと思いますが、市内にいくつか点在している展示会場をつないで、無料のバスが巡回しています。無料の自転車も貸し出されているので、どちらにしようか迷いましたが、今回はバスで移動。横浜美術館、新港ピア、バンカート(Bankart1929=1929年に建てられたふたつの銀行の建物をアートスペースに転用しています)、象の鼻テラスの4カ所をまわりました。

  新港ピアには映像作品が集められていました。
 入り口近くの一室には、ヒロシマ1945の遺品を一点一点写真におさめた土田ヒロミ(1939~)の写真、インパクトがありました。土田の写真について、報道されている範囲でしか見てこなかったので、実際にまとめて見たのは、はじめてです。
 ヒロシマ市内を40年間定点撮影した風景写真、「原爆の子」に写された子ども達を20年後と50年後に撮影した肖像写真。広島平和記念資料館の収蔵資料を写した「ヒロシマ・コレクション」

 現首相はこの夏、平和記念館の前で、昨年の文言とそっくり同じ文を棒読みしました。たぶん、ヒロシマの記憶など早く忘却の海に捨ててしまいたい人なのでしょうが、一点一点の遺品を見ていくと、これらの品の持ち主たちが「忘れないで」と叫んでいるように思えます。

 午後4時ごろ、バンカートの港に面したテラスで、タイ料理店「ピー」の出店のグリーンカレーを食して、遅い昼ご飯。

 建物散歩先達のyokoちゃんが、横浜近代建築の写真をUPしてくれたのを見て、「いいなあ、もう一度見たいなあ」と、思っていた建物も夕暮れの中ささっとめぐって、「現代アート下見&横浜近代建築復習」の散歩をおひらきにしました。

 私にとっておもしろかったものは、やなぎみわ作「日輪の翼」上演用のトレーラー舞台。大竹伸郎「濾過された記憶」、noridanというパフォーマンス集団の「楽器カー」
 以上の三つ、共通点は車。記憶を閉じ込めて濾過する車、木琴や太鼓や鐘、いろんな楽器が組み合わさっており、ちゃんと動いて演奏しながらパレードできるノリダンの車。
 娘と息子がはたして私のチョイスをおもしろがるかどうかわかりませんが。トリエンナーレについては、もう一度見てから。のちほどレポートします。あ、横浜の建物レポートも。 

<おわり>
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ぽかぽか春庭「うさぎ屋と赤城神社祭礼」

2014-09-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20140927
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記9月(3)うさぎ屋と赤城神社祭礼

 9月21日のジャズダンス仲間とのおでかけ、午後の部のコンサートを終えると地下鉄で移動。夜の部は、神楽坂に新オープンの和雑貨の店「うさぎ屋」ショッピングです。うさぎ屋は、ジャズダンスサークルのメンバー、スーちゃんがオープンさせたお店。半年くらい前から開店準備に忙しそうにしていました。

 ご主人と二人三脚で続けてきたハウスクリーニングのお仕事と平行しての開店は、とてもたいへんだったと思います。長年の念願だった和雑貨の店、ずっと不動産屋めぐりをして神楽坂でよい店舗の出物がに巡り会うまで、待ち続け、お店が借りられることになってからは、改装やら雑貨品の仕入れやら、大忙しでした。

 その合間をぬって、「e-Naちゃん、夏休みのどこかの日に、ジャズダンスの自習につきあってくれない?まだ振り付け覚え切れていないところがあるから」というので、自主練の日を作って、いっしょに練習。でも、私は「振り付け覚えようとすると脳みそ沸騰してしまって、手足が動かなくなるから、いつもミサイルママのうしろの位置にいて、前の人の動きをマネして踊る」という主義でこれまでやってきたので、ミサイルママがいなければ、踊れないのです。

 それでも、なんとか部分的に覚えていたところだけ振り付けを確認して、本番当日は、スーちゃんも私も、なんとか人目につかない間違いだけで、3曲を踊りきったのです。
 スーちゃん、小柄で細くてかわいい人です。

いっしょにマイケル・ジャクソンの曲で踊りました。
スーちゃん、大病も克服しての元気なダンス。


 飯田橋の駅から神楽坂を上っていきます。途中、毘沙門天でお参りをしました。
 うさぎ屋は、飯田橋駅から神楽坂へ行く早稲田通りの途中にあります。どちらかといえば、神楽坂に近い。老舗が多い神楽坂。坂に面しているお店の権利は高くてとても手が出ないし、出物もないので、横道をちょっと入ったところに店を借りた、と言っていました。和菓子屋さんの隣のとなり。お客さんにも入りやすい、すてきなお店です。

 スーちゃんのご主人は作務衣を着て、和雑貨の店の店主らしいようすで、お客さんに商品の説明をしていました。たとえば、手ぬぐい。一般の店で売っている手ぬぐいは、片面プリントですが、うさぎ屋の手ぬぐいは、すべて手染めで両面プリントです。表にも裏にも同じ絵柄がプリントされています。表に富嶽三十六景の赤富士があれば、裏にはその反転した図柄がある、という説明でした。なるほど、、、、手ぬぐいの裏まで考えたことなかった。
 手ぬぐいとして汗ふきに使う、というより、額などにいれて飾る美術品の扱いだなあと思いました。浮世絵や鳥獣戯画のプリント、飾ったら和風の部屋が引き立つと思います。1枚2千円の手ぬぐい、私には買えないけれど。

 サクラさんは「知り合いにいろいろ配るところがあるので」と、ハンカチや手ぬぐいなどを大量に買い込んでいました。開店記念として1割引き。
 TTさんは、柿渋をつかった小さな和風バッグを「お世話になった人にあげるから」と購入。「本物の柿渋で手作りの品が1800円なら、これはお買い得」と言っていました。

 私は、何を買うにも、まずは食べ物。袋入りのかりんとう。400円。足袋ソックス400円。ブックカバー1600円。たぶん、行った人の中で一番少額の買い物客でしたが、スーちゃんは貧乏な客にも分け隔てなく愛想よく応対してくれて、おみやげに「油とり紙」をプレゼントしてくれました。

 ブックカバーは、革製とか布とか、いろいろな種類を持っていますけれど、今回もブックカバーを選んだのは、理由があります。この品を作ったのは、ノンちゃんだと聞いたからです。ノンちゃんは、ジャズダンスサークルの仲間でした。
 ノンちゃんは、ジャズダンスサークルをやめたあと、会社もやめてしまい、趣味の手作り雑貨を、ネット販売して生きていくことにしました。オリジナルバッグや雑貨などの作品制作を続け、「ネットでそこそこ売れる」ということを聞いていました。

 それが、私たちより二廻りも若いのに、昨年突然亡くなってしまいました。ブックカバーはノンちゃん最後の作品で、在庫が終わったらもうそれきりでおしまい、というのです。
 ブックカバーが必要だから、というより、ノンちゃんが手作りしたものだから、と思って買いました。布製で「毒書」という文字は糸で刺繍してあります。



 和雑貨の店、繁盛することを願って、神楽坂の赤城神社にお参りにいきました。9月21日は、赤城神社の秋の例大祭の日。神楽坂の道路は車両通行止めになっており、神社氏子の各町内が神輿をかついで練り歩いています。
 赤城神社にお参りするのは、20年ぶりくらいになりますが、境内はすっかり変わっていました。近代的なビルの神社の会館と、コングリートの社殿。まあ、これも都心の神社のあり方なのでしょう。

 ダンス仲間、みなが元気に踊り続けられますように。うさぎ屋が商売繁盛となりますように。家内安全健康長寿その他もろもろ、お祈りしてきました。
 神楽坂を降りて飯田橋駅に向かう途中、牛タン焼き肉という居酒屋で、みなで晩ご飯。私は、生ビールと牛タン焼きとタンシチュウ定食を注文しました。

 うさぎ屋は、神楽坂6丁目8番。通りに面している清閑院という和菓子屋さんの隣のとなりです。ご贔屓に願います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「マシュマロ女子のジャズダンス発表会」

2014-09-25 00:44:25 | エッセイ、コラム
20140925
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記9月(2)マシュマロ女子のダンス発表会

 9月は、年一回のジャズダンス発表会の月。
 9月発表会のリハーサルは教科書編集ミーティングの仕事のため、2回とも欠席。12日に最後の場当たりをやって14日には発表です。

 文化センター利用者による、「日頃の練習成果の発表」という場です。ジャズダンス仲間のミサイルママは、パステル画サークルにも入っているので、蓮の絵と少女の絵を出展していました。とてもすてきな絵でした。ミサイルママのやさしくかつ凜とした雰囲気が出ている絵でした。

 朝出かけるときに念入りに衣装やジャズスニーカーなどの持ち物チェックをしたつもりなのに、更衣室でくつを履こうとしたら、リュックに入っていません。入れたはずなのになあ、と、思いながら大慌てで自転車で家まで戻りましたが、家にもない。息子は「今朝、かばんに入れて確かめていたじゃない」と言います。

 文化センターに戻ると、いすの下に見慣れた靴がありました。靴を履き替えようとして、かばんから出し、いすの下に置いて、だれかに呼ばれてほかの用事をしている間に、靴をそこに置いたことはすっかり忘れてしまったのです。まあ、これは若い頃からそうなので、老化のせいと思わないですみます。子どもの頃から、ぼうっとほかのことを考えている間に財布も本も数知れず落としました。

 そんなこんなのばたばたで、メイクもいいかげんなことに。
 衣装に着替えて、14:45から本番です。30分で8曲の発表。私は3曲踊りました。
 ヘタだけれど、間違えたけれど、楽しかった。

 あとで息子が写した写真を見ると、マイケルジャクソンのThe way you make me feel、間違わずにできたのに、見るにたえないぽっこりおなかが、はっきり写っていました。だから、こういうぴっちりTシャツを着るのはいやだっていったのに。ぽっこりおなかが隠れるチュニック型の衣装にしたかったのに。3人のうち二人はすっきりスマートなもんだから、二人はTシャツに賛成なので、多数決でジーンズとTシャツに決まりました。

 見ていた娘に「今年は、あきらかに母だけが一拍遅れているってところがなかったから、よかったんじゃないの。デブは、デブだけれど、こういう人がひとり混ざっていたほうが、ジャズダンスの敷居が低くなって、私にもできそうって気になって入会希望者がふえるかもしれない」と、いわれました。

 デブは差別用語だから、女のデブの政治的に正しい言い換えは、「ふくよかな方」。男性のデブは「恰幅の良い方」と言い換える。最近のファッション用語では、丸ぽちゃ体型のことを「マシュマロ女子」と呼んでいると、娘からの情報。

 マイケルの曲に比べればおデブがそれほど目立たない衣装だったので、レディガガの歌ったテレフォンと、アストル・ピアソラのリベルタンゴの写真をUPします。前列で踊っているのはミサイルママ。とても上手です。私はそのうしろで前の人の動きを見ながらマネして踊るのです。いつも。

 リベルタンゴ。上手のほっそりスタイルいいのは、ミサイルママ。左(下手)うしろのマシュマロ体型が春庭。私は、ぼうしと手の隙間から、前のミサイルママを見ていて、彼女が一歩踏み出したら半拍遅れで一歩目を踏み出すのです。


左春庭、右前ミサイルママ


左春庭、右前ミサイルママ


 レディガガのテレフォン。左春庭、右前ミサイルママ
 太さ細さの差がはっきりわかる写真ですが、マシュマロはマシュマロなりに踊りました。

 大判のスカーフを使った振り付けなので、スカーフのほうに目が行き、観客はダンサーが太いとか細いとかそんなに気にしないだろうと信じて踊りましたが、写真で静止してみれば、スタイルのいいミサイルママのうしろで。ぼっちゃりとマシュマロしてます。 
 

 サークルの新人募集中です。ダンスレッスンを40年続けている私がこの程度の踊りですから、初心者でも安心して始められます。体型気になっている方、太めを気にせず踊れるサークルです。ぜひ見学体験レッスンにご来場ください。

 マシュマロ女子のあなた、安心して我がサークルに来たれ。アタクシ、この体型で踊りました。マイケルジャクソンのThe way you make me feel「君が僕を感じさせるやり方」.
 どんな体型でも安心だって、感じられるやり方で踊れます。

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ぽかぽか春庭「敬老の日2014」

2014-09-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20140924
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記9月(1)敬老の日2014

 毎年の敬老の日の姑訪問。今年は、16日に娘といっしょに姑の家に行きました。
 16日午後、姑がデイケアセンターの体操教室から帰ってくる時間に合わせて、ドアチャイムを押しました。

 健康自慢だった姑も、米寿から後、医者通いが続き、「お祝いをしてもらうのは、もっと元気になって何でも食べられるようになってからにしたい」という姑の希望で米寿祝いを伸ばし伸ばしにいているうち、もう卆寿祝いです。あと半年で卆寿。

 「入れ歯はいや」という姑、仮の差し歯が何度も抜けてしまい、娘はこの夏、おばあちゃんの歯医者通い付き添いであけくれました。
 16日は、圧力釜で煮た丸ごと小タマネギのスープ、冬瓜と大豆の煮物。鶏挽肉とネギの和風ミートローフという「歯茎でも噛めます」という献立を調理して、おみやげに持って行きました。
 いつもは娘が我が家のシェフですが、「ばあちゃん向けの和食」は、ひさしぶりに私が作りました。娘はどうしても若者向けのメニューが好きなので。

 デザートは、ドライフルーツを刻んで粉に混ぜて焼いただけのフルーツケーキ。バターを入れ忘れたので、ぼってりした食感になり娘には「なに、これ、まずい。私いらない」と言われてしまいました。
 見た目は良くないけれど、姑には「市販のケーキは砂糖をつかっているけれど、これは家で砂糖を使わずに焼いたんですよ」と説明して食べてもらいました。



 健康第一の姑、医師の診断で血圧の数値が高めになったと聞くと、塩辛い食べ物はぜったいに食べない。血糖値が上昇したと説明を受けると、甘い物は決して口にしません。私と違って意志強固。

 娘も夫も、「お医者さんが何を言おうと、もう90歳なんだから、これからの寿命を数年延ばすことよりも、好きなもんを食べた方が豊かな人生だと思うけどな」と口をそろえます。
 でも、健康オタクでここまで来た姑ですから、「健康を守る」という姑の信念をつらぬいてもらうのも、姑孝行かと思います。

 舅の長姉「おチヨ伯母さん」がこの夏105歳でなくなりましたが、姑には「おチヨさんの記録を塗り替えましょうね」と、励ましています。105歳まであと15年、姑なら記録を作るかも。
 9月18日も娘がに付きそって歯医者に行き、ようやく仮の歯を卒業。なんでも噛める、生きたいところに歩いていける、という元気がでてきたら、卆寿、いっぱいお祝いしたいです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「山形まなび館&旧米沢工業学校」

2014-09-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩学校校舎part3(3)山形まなび館&旧米沢工業学校

 旧山形県師範学校見学のあと、山形市での最後の見学場所は、山形まなび館になりました。
 擬洋風建築を中心にめぐっていたのですが、師範学校へ行く前に、カメラの電池が終わってしまいました。充電器を持っていかなかったミス。しかたがないので、師範学校はケータイの荒い画素の写真を撮りましたが、今後はケータイの電池が切れそうになりました。思いつきでほいと家を出てきたので、旅の準備などしていなかったのです。

 市内地図のDocomoショップをたよりに行ってみたら、入り口には「移転により、当店は閉鎖」という張り紙。う~、どうすんだケータイの充電。道路を隔てた建物を見ると「山形まなび館」と書いてあり、観光案内所もあると看板が出ているので、入りました。観光案内所の女性は、あちこちに電話をかけて、Docomoショップは駅前に移転した、ということを教えてくれました。

 係の人が電話をかけてくれている間に、この学校のパンフレットを眺めていたら、ここは、東京でいう「復興小学校」が建てられていた時期の建てものだ、ということがわかりました。
 東京は1923年の関東大震災で多くの小学校が焼失しました。そのあと、後藤新平らの策によって、学校はコンクリートの不燃校舎にすることになりました。春庭も、広尾小学校などの復興小学校を紹介してきました。
 震災に遭わなかった東京以外の地域でも、コンクリート校舎が「近代的校舎」として建てられていたこと、知りませんでした。

 山形まなび館は、東京で次々にコンクリート校舎が建設されていた同時期、1927(昭和2)年に、山形県で初めての鉄筋コンクリート造の学校建築として建てられました。
 2004年まで山形市立第一小学校の校舎として利用されてきましたが、2001年に国の重要文化財、2009年に近代化産業遺産の指定を受けたことを受けて、小学校は新校舎に移転。文化財となった旧校舎は、2010年に「山形まなび館・MONO SCHOOL」として整備され、市民の文化活動拠点になりました。伝統工芸の紹介や体験制作活動などを行っています。

 本当は、校舎内をあちこち見て歩いたらよかったのに、私はケータイの充電のことばかりが気になり、Docomoショップが閉店時間になるまえに駆け込まなくちゃと、あせりました。宿の予約もしていないひとり旅なので、娘にケータイメールで宿泊地などを連絡しないと心配をかけてしまいます。ちゃんと連絡をとらないと、あとがこわい。一人おでかけ禁止。なんてことになるかも。
 自分で撮ったのは、写真は正面からの一枚のみ。



 旧山形市立第一小学校校舎は、秦・伊藤設計事務所が設計を担当しました。伊藤高蔵は、当時流行のドイツ現代主義やアール・デコの様式を取り入れ、1927年当時には、「東京にも負けないコンクリート校舎」は、山形の人々の自慢だったことでしょう。
 秦・伊藤設計事務所(現・株式会社秦・伊藤設計)は、90年続く東北有数の設計建築会社です。

 東京から遠く離れた山形市に、東北ではおそらく最初にコンクリート校舎が建てられたのには、理由があります。第一次世界大戦が終わると、日本は長い不況時代に落ち込みました。地方都市の活力低下から、いかに脱却するか。今も昔も、人が考えることは大差なく、やれ、オリンピック景気だやれ万博景気だと。

 大正末期の山形市は、不況脱却を図るべく産業博覧会を企画しました。産業博覧会の会場として昭和2年に完成したのが、山形第一小学校校舎でした。当初は産業博覧会会場として利用され、博覧会終了後には学校として利用する、という目的を果すべく招聘されたのが、早稲田大学卒業の伊藤高蔵。伊藤とともに働いたのが、秦鷲雄。施工を請け負ったのは勝又春一と佐藤元次郎(岳南組・現岳南建設株式会社)です。
 東京の復興小学校に負けない、立派な小学校ができあがりました。

 まなび館の意匠のこまかいところなども見る余裕なく、午後、5時すぎに駅前のDocomoショップへ。
 ケータイ充電は無料でできるが、1時間かかると言われて、7日のうちに米沢に行こうと思った計画は変更。山形駅前のビジネスホテルにもう一泊することにしました。
 米沢には、8日朝到着。

 今回の旅で、カメラもケータイも電池が切れてしまうという失敗のほか、大きな失敗がありました。米沢市の旧米沢工業学校校舎は、震災後の改修耐震工事が現在もまだ続いており、見学できないことを知らずに出かけたことでした。

 もともと、宿泊の予約もなにもせずに、朝、家を出て、東北線鈍行を乗り継ぎ、お昼におなかか空いたから郡山で下車。さらに青春18切符で乗り継ぎ、山形下車。あやうく野宿になりそうなところを、「エアコンが壊れている部屋でよかったら」ということで宿泊できた、という行き当たりばっ旅を続けていたのですが、そうそう運がよくは進まない。

 結局、旧米沢工業学校本館(現・山形大学工学部)校舎は、シートに包まれた状態を見ただけでした。


 せめてのこととして、旧米沢工業学校のルネッサンス様式を模したという、米沢駅舎を撮影。



 東北の近代建築散歩、今回も見られずに残念だったところがたくさんあるので、まだまだ、これからのお楽しみにしておきたいと思います。

以下は、借り物画像です。

旧米沢工業学校本館


山形まなび館


<おわり>
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ぽかぽか春庭「旧山形師範学校本館(山形県立博物館分館)」

2014-09-21 00:00:01 | エッセイ、コラム

旧山形師範学校本館(2014/09/07)

0140921
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩学校校舎part3(2)旧山形師範学校本館(山形県立博物館分館)

 9月7日、山形駅前で無料の観光自転車を借りました。めざす学校校舎は、済生館(旧山形医学校)と、旧山形師範学校本館です。
 済生館は、設立された1877年から1887年前の10年間は山形医学校と病院が併設されていたから、学校校舎のうちに含めてもいいかと思ったけれど、のちほど「東北近代建築」シリーズで紹介することにして、今回は、旧山形師範学校をとりあげます。

旧山形師範学校の石の門柱


 山形師範学校は、1878(明治11)年に創立。旅籠町に建っていた旧本館は、当時の洋風校舎がそうであるように、時計塔をそびえ立たせたものでした。

 

 1974年に酒田県令として赴任してきたのが、前回も登場した三島通康です。酒田県は鶴岡県と名前を変えた後、置賜県山形県と合併。
 1876年に山形県令となった三島通康は、土木県令の名のとおり、内陸道路網の整備と公共施設建築に力をふるいました。1978年の師範学校建設も三島が先頭に立ってすすめたことでしょう。

 三島は、1885年に第5代警視総監の任についてからは、警視庁武術を充実させ、警察官養成に大きな功績を残しました。しかし、近代史で三島通康の名を習うときは、福島事件加波山事件の弾圧者としてですしたから、私としてはあまりいい印象を持っていなかったのです。しかし、山形でも福島でも、近代建築をめぐる旅では三島通康が功労者として出てくるので、同じ人物も一方の側からではなく、多方面から評価しなければならないなあと思います。

 三島によって弾圧された人々は、自由民権運動の壮士ばかりではありません。公共建築や道路整備を進めていくにも、地域住民には重税や労役を課し、反対する者には容赦なく弾圧をくわえました。脳門達は満足に食べていくこともできないのに、「お国のためだ、学校作るからいつもの倍額税金を払え」と言われたら、百姓一揆も起こしたくなる。

 1901(明治34)年、師範学校は、山形市緑町に移転。現在残る校舎が新築されました。ルネッサンス様式の時計塔は新しい校舎にも引き継がれ、1973(昭和48)年に国の重要文化財に指定されています。

 本館は、半解体修理を経て、現在は山形県立博物館分館教育資料館として公開されています。しかし、講堂は文化財に指定後も修理がなされていないらしく、私が見た時も、半ば朽ちたようになった姿で立っていました。



 ここも、他の洋風校舎と同じく、実際の建築にあたった大工の名などは残されていないらしく、展示の中に、建築に関わった人たちのことは、見当たりませんでした。
 展示室には、山形県教育の歴史などが、パネルや人形によって示され、山形師範卒業生として、山びこ学校の無着成恭や、藤沢周平が紹介されていました。

 藤沢周平は、1949年から3年ほど中学校の国語と社会の教師をしましたが、肺結核発病により退職。退職後は教師としては採用されなかったために、新聞記者を経て作家として大成しました。昨2013夏の山形旅行中、鶴岡市で藤沢周平記念館を見学したときにも、教え子といっしょに移した写真が展示してありました。

 山形師範学校の卒業生として、無着成恭や藤沢周平以上に私にとって身近なのは、姑の兄と姉です。
 山形出身の姑。姑の兄と姉は、山形師範学校を卒業して教師になりました。当時、士官学校と師範学校は学費免除だったので、貧しい家の子は、教育を受けたいと思えば、軍人になるか教師になるかしかなく、姑の姉の夫は士官学校に入学しました。
 姑の兄は、定年まで高校理科教師として勤務しました。姑の姉は、夫戦死のあと、一人息子を育てるために小学校教師を続けました。

 姑自身は、女学校を卒業して師範学校に入学すべき時期は、太平洋戦争の真っ最中。さまざまな事情から姑は進学せず、終戦後すぐに復員してきた舅と結婚をして、銀行員の妻として55年連れ添いました。

 姑が「この校舎で学びたかった」と思った時期もあったのではないか、と想像しつつ、古びた講堂を見上げました。



<つづく>
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ぽかぽか春庭 「旧福島尋常中学校本館(安積歴史博物館)」

2014-09-20 00:00:01 | エッセイ、コラム


20140920
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩学校校舎part3(1)旧福島県立尋常中学校本館(安積歴史博物館)

 昨年夏から続くマイブーム、近代建築ことに擬洋風建築によって建てられた学校校舎を見て歩くというテーマがまだ終わっていません。9月6日土曜日から8日月曜日まで、2泊3日の東北の建物をめぐるひとり旅に出ました。
 東北へいくというおおざっぱな目的を決めて、6日朝東北本線(在来線)に乗り、おなかがすいたので、降りたところが郡山。
 駅前の観光案内所で市内観光地図を手に入れ、見目良い校舎を求めて、郡山駅前からバスに乗りました。安積開拓の記念である開成館見学のあと、道順を教わり、歩いて県立安積高校へ。

 旧福島県尋常中学校本館。現在は安積歴史博物館として建っています。今回は、運がいいことに、地震後の修復作業を終えてグランドオープンしたその当日に訪問したのです。8月中に来ていたら、中には入れないところでした。
 オープン当日なので午前中はテープカットなどが行われたと言うことでしたが、私が中を見学したときは、地元のテレビ局が取材に来ていました。


 福島尋常中学校は、1884(明治17)に「福島県福島中学校」として設立し、現在は「福島県立安積高等学校」になっています。県下有数の進学校であり、スーパーサイエンス校に選ばれた高校でもあります。
 校舎は1889(明治22)年に建てられました。校舎は1973年に県重要文化財、1977年には国の重要文化財に指定されました。



 木造・洋風建築として教育資料などの整理整頓も進められていますが、正直なところ、博物館展示としては、「この一点があれば、ファンは必ず見にくる」という目玉の展示は見当たりませんでした。
 私にとっては、「本校出身者」の偉人紹介の部屋がいちばんおもしろかったです。歴史学者の朝河貫一(あさかわ かんいち、1873 - 1948」の資料など、興味深く観覧しました。

 校舎内の展示スペース、図書の展示や高校美術部OB会の油絵などの展示が行われていました。
 展示はおいおいと充実させていくとして、とにかく、建物自体が重要な美術品です。

玄関と廊下
    

 受付にいた方は「元安積高校の先生が退職後、安積歴史博物館の担当になって食卓としてのこりました」という感じの人で、校舎内をぼうっと見ていた私に「今ね、テレビの取材が来ていて、これから大講堂のシャンデリアの電気をつけるから」と、教えてくれました。修理復元した豪華なシャンデリア。どうせ見学するなら、電気がついたところのほうがきれいだろうと、声をかけてくれたのです。(食卓は嘱託の誤変換ですが、アントニオ木村様から、校正しなくてよいとのおおせにて、ほんと、定年後の食卓確保のために働くのが嘱託かと思いました)

復元された照明具
   

 旧福島中学校が設立された年1884年、というと、思い当たるのが当時の県令(県知事)三島通康(1835 - 1888)です。三島が福島県令として在任していたときの出来事といえば、福島事件(自由民権運動の弾圧)が思い浮かびます。

 自由民権派にとっては「鬼県令」でしたが、三島は前任地の山形県令時代にも「土木県令」として名をとどろかせ、県下の道路整備、数々の公共施設を建設していました。
 福島でも「土木県令」の名の通り、さまざまな公共施設建設を行っています。福島中学を設立させたのも、三島の仕事と思います。ただし、1986年の校舎落成時には、三島は福島にはいませんでした。越後街道、会津街道、山形街道の3つの街道を県令として整備開通させ、栃木県令として転出したあとの校舎落成でしたから。

 安積郡桑野村この校舎が落成したあと、付近の人はこの建物を学校とは呼ばず「桑野御殿」と呼んだそうです。豪華絢爛な洋風校舎、ご近所の人にとってはきらめくシャンデリアは目もくらむものだったのではないかと想像しました。

ベランダからのながめ


 安積高校では、「創立130周年文化祭」が行われているところで、生徒たちも、1884年の開校から長い歴史を振り返っていた展示やだしものを披露していました。
 生徒たちは指導が行き届いているとみえて、みなが、外来者の私にも「こんにちは」と気持ちのよいあいさつをしてくれました。
 歴史的な建物を有する学校で、誇り高く学んでいく生徒達なのだろうと、「こんにちは。東京から君たちの学校を見に来ましたよ」と、返事を返しました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「舟を編む」

2014-09-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20140918 
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>ことば映画(6)舟を編む

 本屋大賞になったとき、映画になるかもというのを知って、特に波瀾万丈のストーリーではなし、こつこつと地味に辞書作りという地味なストーリーが映画になるのか心配していたら、ちゃんと映画になっていたので、よかったよかった。私はギンレイにかかったとき息子といっしょに見にいって、テレビ放映されたとき娘も加わっていっしょに見ました。

 「ふたりして先に見ちゃったことは許すから、絶対に途中でネタバレするようなことしゃべっちゃだめだよ」と、娘に釘をさされたので、私は黙って見ていましたが、わいわいがやがやしゃべりながら見るのが好きな娘は、「う~ん、ハラハラさせるところが、プロポーズするかしないかってところのほかは、血潮が抜けた、いったいどうした、という2カ所だけなのを、こうやってちゃんと2時間の映画にするのって、すご~い」と言っていました。

 ことばがテーマの映画シリーズ。現実の世界でも、辞書作りという話題、「言海」をひとりで編集した大槻文彦とか、「大漢和」の諸橋哲治とか、辞書編纂をめぐる見坊豪紀と山田忠夫の大げんかとか、いろいろ話題になりそうななネタがいっぱいです。
 私は、松田龍平も好きだし満島ひかりのタンナさん監督も好きだから、この作品、内容は地味でもおもしろかったです。
 
 20年書けて一冊の辞書をまとめ、売り出されたその日から次の版の改訂作業が始まる。辞書作りという地味な分野ですけれど、「まじめ」にこつことが出来る人がいるかぎり、辞書は不滅です。

 スペイン人女性、マリア・モリネール。一生涯をかけて、主婦の仕事子育てのあいまに,
一語一語の語用例を集めてスペイン語辞典を作り上げました。マリアの生涯についてガルシア・マルケスが書いたエッセイ。それをもとにしたシナリオで、マリアの伝記映画ができたらいいなあと思います。

 活動写真がトーキーとなり、「カツドー」ではなく「エーガ」と呼ばれるようになって以来、ことばが前面に出て主要なテーマとして扱われる映画が多々作られてきました。
 映画の中のたったひとことが、見た人の気分を変え、あるときは一生のささえになることもあるのですから、映画を作る側はどれほどひとつひとつの台詞に気合いをこめてつくっていることでしょう。

 むろん、台詞以上に無言のシーンが満場の観客の心を感激でいっぱいにすることもあります。『シネマ・パラダイス』のラストシーン。教会の検閲で切り取られたキスシーンが延々と続きます。恋人たちがただ熱くキスし続けるくフィルムが、人間賛歌になっていました。
 でも、最後の台詞が映画をぐっと締めるってのもすてきです。魔法にかけられたように、最後の台詞を反芻しながら映画館を出る、というのは映画ファンにとって至福のひととき。

 ことばの海を渡っていく舟。大客船もあるのでしょうけれど、手こぎのボートでぎっちらぎっちらとこぎ渡るのも、ひとつの方法。途中沈没もありです。

 4月から授業の合間に取り組んできた日本語教科書の編集。これまで使ってきた教科書を文法中心の教科書から、「課題解決式」に変えていくという編集がなかなか一貫せず、夏休みもずっとかかりきりでした。私はあまり役に立たなかったですが、今日は、印刷前の最後の編集ミーティングです。
 では、私も笹舟に乗ってことばの海へ。 

<おわり>
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ぽかぽか春庭「華氏451度とふりがな問題」

2014-09-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20140917 
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>ことば映画(5)華氏451度とふりがな問題

 1970年に『野生の少年』を撮ったトリフォーが、その4年前1966年に発表した映画が『華氏451度』です。
 原作は、レイ・ブラッドベリのSF小説。タイトルは、本が自然発火する温度が華氏451度(摂氏233度)です。日本語に翻訳すると消防士となるのが「Fire man」ですが、「華氏451度」で描かれる未来社会では、Fire manは、「火を燃やす男=焼却夫」です。

 本は有害とされ、本を読んだり所有したりしていると告発され、検挙されてしまう社会。人々は記憶を失い、社会には、物質的には豊かでも心満たされぬ人々が増えています。
 そんな中、ファイア・マンのひとりガイ・モンターグは、「自分がせっせと燃やしているこの本というものは、いったいどんなものなのだろう」と、関心を持ってしまいます。

 ガイの妻は物質的な欲望さえ満たされれば、本のない世界に満足して、自分たちは幸福だと信じて生きています。しかし、活字のない世界は、記憶が薄れていくにまかせる世界であり、自分の結婚記念日の記憶もあいまいになってきています。
 ガイの興味を本にひきつけるのは、妻にそっくりな女性クラリス。本を知ることによって、ガイは追い詰められていきます。

 3年に1度の現代芸術の国際展、ヨコハマトリエンナーレ。2014のテーマは「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」です。
 「私たち現代人は今、根源的な何かを忘れて」いるのではないか?そのことに敏感に反応している芸術を集めることで、忘れていた大事なことを考える手がかりにしたい」というのが、今回の展示コンセプトです。

 横浜トリエンナーレで「華氏451度」がテーマになったからかもしれませんが、NHKプレミアムシネマで8月20日にトリフォーの「華氏451度」が放映されたので録画しておいて見ました。何度か見てきた映画ですが、これまでは映画館で見たりテレビ放映で見たりしてきて、ラストシーンに何がなしの希望を抱いて見てました。

 今回、は録画して見たので、ラストシーンに気になる部分が出てきました。録画のいいところ、繰り返しそこだけ再生しました。
 ラストシーン、森の中の隠れ里コミュニティで、ひとりひとりが「生きている本」となって本の内容を暗誦しています。
 フランス語やロシア語その他いろいろな言語の暗誦が行き交う中、ちらりと日本語が聞こえます。
 「いつも誰かに見られているように神経をとがらせ、、、、、」という日本語の本の一節。

 映画トリビアおたくたちの間では、「この一節の元ネタはなんだ」ということで、いっとき話題になったようですが、まだ確実な元ネタ本はわかっていないようです。シナリオライターのオリジナル?

 さて、この日本語の暗誦を聞いて、気になったのは元ネタだけじゃありません。日本語の暗誦そのものが気になったのです。なぜなら、日本語は、他のほとんどの国の言語が表音文字を使用しているのに対して、表意文字と表音文字の併用という書き言葉を使っているからです。

 表意文字漢字の本家はいうまでもなく、中国です。中国では、北京の宮廷言語(マンダリン)を標準語の基礎としています。これは、明代の中国語発音に、清朝すなわち元は遊牧民である満州族の発音特性が加わった近世以降の発音をもとにした標準語(普通話プートンファ)です。

 漢字は一文字が単音節(音のまとまりが一字につきひとつのみ)であるため、ひとつの発音に対して文字はいくつかが考えられます。たとえば、jiǔジウという発音の語でよく使われる単語に「酒jiǔ.」と「九jiǔ.」があります。文脈でわかることも多いですが、区別が紛らわしいとき、我买酒。Wǒ mǎi jiǔ.(私は酒を買う)と、我买九Wǒ mǎi jiǔ.(私はここのつ買う)の区別をはっきりさせる工夫があります。我买九个。Wǒ mǎi jiǔ ge.(私は九個買う)というように、九個という助数詞の入った語に変えて言えば間違えない。

 「学」(学ぶ)は拼音で (xué) です。xuéという発音の漢字は「学、穴、噱、踅、泶」の五文字あります。xuéという発音で「学ぶ」という意味に限定して伝えるためには、2音節の語にして「学习」 (xuéxí) とすれば、誤解がなくなります。我学习日语(私は、日本語を学習します)

 一方、日本語のアクセント体系は中国語とことなり、漢字ひとつひとつの四声(高低アクセント)は固定されていません。
 公園の「公」は高さが変わらない「平板」アクセントですが、「公爵」の「公」は「高低」の下降アクセントになり、中国語のように漢字ひとつに固定のアクセントがきまっていません。

 そのため、漢字熟語の同音異義語が中国語とは比較できないくらい数多くなります。
 和語での同音異義語もありますが、アクセントで区別できる語が多く、朗唱していて意味を取り違えてしまう和語はそれほど多くありません。音声とアクセントの両方が同じ和語はそれほど多くはないのです。

 「はしを あるいて いった」
 まず、動詞「いった」という発音で「言った」「行った」のふたつが考えられます。「はし」は、橋、端、箸がありますが、「箸」のみ「高低」アクセントなので、区別できます。また「はしをあるいて」という連語を作れるのは「端」と「橋」であって、「箸をあるいて」という状態が考えられるのは、一寸法師のお話をしているときくらいですから、「箸」と「歩いて」は、連語が成立しません。これは、コロケーションという連語文法が私たちの頭の中の辞書文法書の部分(脳の言語野)に、組み込まれているので、自然に選択できるのです。

 次に。「橋」と「端」は音声もアクセントも同じですが、助詞をつけると「橋を歩く」と「端をあるく」は標準語では「を」のアクセントが異なり、区別できます。
(ちなみに:一休とんち話の「この橋通るべからす」で一休さんが「端ではなく、真ん中を通りました」と答えるのは、「端通る、橋通る」で、助詞「を」つけずに言うから成立するのです)

 しかし、漢字熟語の同音意義語は、四声のある中国語に比べて大変多くなります。
 「きのう、こうえんへいった」
 「こうえん」は、公園へ行った。公演へ行った。講演へ行った。後援へ行った。が考えられます。前後の文脈で判断しても、文意を確実にすることが難しいときもあります。
 「きのう、わたしは こうへんへ いった。わたしとって うれしく たのしい こうえんとなった」という文が朗読されたとき、どのように判断すればよいでしょう。

 暗誦による音声言語として本を残すことは有意義ですが、日本語の場合、中国語以上に暗誦には不向きな本が多いのではないでしょうか。筆者が意図した意味を正確に伝えるには、同音異義語の注をいちいち入れ込まなければならないのではないか、と感じました。

 ことに、漢字のルビが特殊な場合に困ります。たとえば「煙草」という漢字にタバコとルビがつけられているときと、「たばこ」や「タバコ」と仮名表記があった場合、その表現効果はどれも異なる。それが暗誦ではどれもただ「たばこ」になり、同じになってしまう。

 「そらを とぶ」と音読したとき、書かれている文字にルビがふってあるとして「虚空を跳ぶ」「空を飛ぶ」と「宇宙を飛ぶ」と書かれているのとでは、読者が受ける読後感は異なります。でも朗読なら全部ルビがふってあるとおりに「そらを とぶ」にしか音読できません。

 文字を見ることによって感知できる言語文化も多い。この「表意文字を使う日本語」の問題、解決するのはむずかしい。
  夏目漱石が書いたエッセイのタイトル。「倫敦塔」を「ろんどんとう」と音読するだけでなく、「倫敦」という当て字の字面の効果が必要だと思います。漱石は、日本語と英語と漢文の三つを確実につかいこなせる人でした。

 漢字表記をやめて、表音文字ハングルひとつで表記することを決めて30年たった韓国で、同音異義語の区別がわからず、史記「사기」も詐欺「사기」もおなじ「サギ」という発音だけしかわからない世代が多数になってきました。
 私は史記が好きだ。私は詐欺が好きだ。どちらも韓国語では同じ発音同じ表記です。

 韓国の言語文化が変化してきていることを知ると、簡単に「音声だけでもわかるような表現をめざす」と言うわけにもいかない。

 レイ・ブラッドベリは、活字文化が衰えて、人々がテレビのおばか番組を見るだけになっている1950年代のアメリカの文化状況を憂えて「華氏451度」を書いたということです。
 21世紀、Fire man焼却士による焚書は経験せずにすんだけれど、活字文化は確実に衰えていると思います。

 活字本の自然発火は、すでに相当進んでいます。
 すべての本が燃え尽きてしまう前に、せめて一冊なりとも多く、この脳に染みこませたいのですが、ああ、悲しいことに、最近読んだ本の内容も、あらかた忘れているか、他の本の内容とごちゃまぜになってごったがえしているか。

 ごったがえしている私の脳は、華氏451度まで上昇せずとも、菓子50個程度で自然発火して、ミソが沸騰する。
 ほら、ここんところ、朗読したって「かしよんひゃくごじゅういちど」と「かしごじゅっこ」という音読では、お菓子くともなんともないでしょ。お華氏かった?

<つづく>
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ぽかぽか春庭「奇跡の人・野生の少年」

2014-09-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
20140916 
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>ことば映画(4)奇跡の人、野生の少年

 言葉は人間の基本ですから、「言葉」がテーマになる映画は、たくさんあります。
 「言語獲得」は、映画でも重要なテーマとして登場してきました。たとえば『奇跡の人』。聾障害と視覚障害の両方を持つ少女ヘレン・ケラーの言語獲得を実現したアニー・サリバンThe Miracle Worker(奇跡を作り出す働き手)の物語は、舞台でも映画でも満場の人の涙を誘いました。

 フランソワ・トリフォーが監督主演した映画『野生の少年』は、フランスの「アヴェロンの野生児」を題材にしています。10歳過ぎまで森の中で他の人間と接触せずに生きのびた少年が保護され、教育を受ける物語です。
 現実のアヴェロンの野生児は、教育者イタール医師や周囲の人のの親身の世話を受けても、ある程度の人間的な感覚は取り戻せたものの、言語は獲得できませんでした。

 アヴェロンの野生児はじめ、人間社会と接触せずに育った子どもの例はごく少ないですが、それらの症例を総合して、人間の子は、言語獲得の臨海期(0-12歳前後)に養育者や人間社会と接触をしていないと、耳や目が正常に機能していても、言語を獲得できないという仮説が出されています。

 人にとってことばは本当に不思議な存在です。
 美智子皇后が1994年にバッシングを受けたことによって失声症になったことがありました。ショック状態から心理的に声を失ってしまう症状です。ことばそのものを失ったわけではないですから、文字や手話で意思疎通ができます。

 映画『ピアノレッスン』のエイダも、心理的ストレスから声を失ったのだと推測されます。彼女は手話ではなく、ピアノの音色と文字によってコミュニケートできましたから、心理的なストレスから解放されれば声を取り戻すことはできるはず。
 脳科学の発達によって、失語症からの回復も適切な治療やリハビリがはかられるようになっています。

 人が言語を得たこと。すごい進化だったなあと、心から思います。
 ネアンデルタール人が、のどの構造の違いから、母音をうまく発生できず、クロマニヨン人ように音声言語を獲得出来なかった、というような人類進化の話を聞くと、言語獲得できたこと自体が奇跡のよう、人類全体が「奇跡の人」なのだと思えてきます。

 はたして、この宝物の言語を、人間達は有効に使えているのかどうかということになると、またそれば別のお話。
 我が言語の貧相なことには目をつぶり、目をつむったまま何を叫ぼうか。ヘレンケラーのように「水!」それともアヴェロンの野生児のようにたった一言獲得出来た「レ(牛乳)」?
 春庭、14日夜のひとことは「とりあえずビール」でしたけれど。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「国語元年」

2014-09-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20140914 
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>ことば映画(3)国語元年

 「マイフェアレディ」My Fair Ladyは、直訳すれば「私の美しい淑女」だと思っていたのですが、このタイトルも原作者バーナード・ショウのひとひねりが入っていました。

 ロンドンのメイフェア地区は、かってはイギリスきっての高級住宅街。現在は高級品商店街。eiをaiと発音する下町訛りコックニーだと、メイフェアはマイフェアになります。
 「メイフェアレディ」といえば、高級住宅街メイフェアに住んでいるレディ、という意味なのに、コックニーで発音すると「マイフェアレディ」になってしまいます。皮肉屋のB・ショウは、タイトルでもコックニーをからかっているのです。

 テレビの名探偵ポアロを見ていたら、メイフェアレディが出てきました。推理作家のアリアドネが美容院へ行って情報を集めようとしますが、店長は忙しそうで相手にしたがらないようす。どこに住んでいるのか聞かれたアリアドネが「メイフェアに住んでいますわ」と答えたとたんに、店長の態度が変わりました。店長の「これは逃してはならぬ上客だ」という豹変ぶりがおかしかったです。日本だと、「渋谷の松濤に住んでいますわ」とか、「宅は田園調布ですの」とか言っておくところかも。

 メイフェアをマイフェアとしか発音できないイライザは、キングズイングリッシュを獲得して街角の花売り娘から「ちゃんとした花屋の店員」に成り上がりたいと願って、ヒギンズの「なまり矯正」を受けることにします。階級社会イギリスでは、花屋の店員に採用されるにも、「キングズイングリッシュ」が必須条件であったことがわかります。
 また、ジョージ6世は「王者として威厳のあるスピーチをするために」吃音矯正に励みます。
 イギリスが、現在でも階級社会であり、言葉による階級差が大きい社会であるから成立するストーリーでした。

 日本では、江戸から明治に移り変わり、明治も中期になって政治情勢が安定すると、近代国家にふさわしい言語を、という大きな言語改革の波が起こりました。
 政府の中枢をしめた人たちは、西洋滞在経験を持ち、フランスなどで国家統一のために言語統一を実施して「アカデミックフランス語」とでもいうべき規範言語を作り上げたことなどを知っていました。また、軍隊などで各地から寄せ集められた兵士に命令を届けるためには、各地の方言を持つ兵士に共通言語が必要があったこと、天皇を中心とした国民一体化をすすめるには、義務教育で共通言語を推進していく必要があること、などから全国標準語の制定は、明治政府にとって急務の課題でした。

 上田万年(うえだかずとし(1867 - 1937帝国大学博言語学科の初代日本人教授)らが中心となり、明治代後半に言語政策(標準語制定や義務教育を通じての普及)などを押しすすめていきました。

 この、標準語をどのように制定するか、という明治の言語政策をドラマにしたのが、井上ひさしの『國語元年』です。

 私は、NHKで、1985年の6月8日から7月6日までNHK総合テレビ連続ドラマとして放映されたとき、リアルタイムで見ることが出来ませんでした。我が家にテレビがなかったからです。

 (娘の保育園で「きのう見たテレビ」が幼児たちの話題になってきて、テレビのない我が家ですごす娘がその話題に加われないでいることを知った姉が「親は、本さえあればいいと思っているだろうけれど、こども集団の中に我が子を放り込んでおきながら、子どもが仲間との話題についていけないような暮らしをするのは、親として失格」と、怒って、赤いテレビを買ってきて部屋に置いていきました。1986年か1987年のことだったと思います)

 井上ひさし自身が舞台版の戯曲にしてこまつ座で上演しています。私はテレビ版戯曲の『國語元年』を新潮社の単行本と中公文庫の両方を持っていますが、ドラマを見たのは、つい数年前のこと。図書館のDVD棚にシリーズがそろっているのに気づき、借りて見ました。本で読んでもおもしろかったけれど、芸達者な役者をそろえたドラマ、ほんとうにおかしくて腹を抱えて笑い、せつなくて涙ほろり。

 実際の標準語制定の作業は、このドラマとは異なっていたでしょうが、主人公の文部省役人南郷清之輔は、長州弁。薩摩弁の舅と妻、江戸山の手の武家言葉の女中頭、下町ことばの女中、津軽弁の馬丁、名古屋弁の書生、京ことばの居候、会津弁のどろぼうなどが入り乱れ、すったもんだのことば騒動が起こります。

 学生に標準語制定の話をするときに、見せたいと思っているのですが、NHKのドラマでは長すぎて、授業時間で見せられません。こまつ座の舞台なら3時間弱なので、90分の授業2回分で見せられるかと思うのですが、舞台のDVDは売り出されていないみたいです。
 標準語がどのようにして作られたのか、史実とは異なっていても、学生にとっては私の授業を聞いているより興味を持ってくれるんじゃないかな、と思います。

 映像の一部を利用することは、ときどきあります。福島県の無アクセントの響きを聞かせるには、『フラガール』の冒頭、蒼井優がぼた山のてっぺんで、女子高校生同士の会話をするところなどを聞かせて、「いいですねぇ、福島弁」と、うれしく聞き入る。ことばの多様性を保証していきたい、という希望を述べ、方言のすばらしさを伝えるにも、映像は役にたちます。

 方言や標準語の話題以外にも、「日本語学」の授業で扱うことは様々です。社会言語と言語政策、言語獲得と第二言語獲得、バイリンガル・マルチリンガルなどさまざまなことがらを扱いつつ、言語とは何かの基本を伝えていきます。

 さて、次の学期ではどんな映画を「言語学を知るために見る映画」にしていったらいいでしょうか。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「王のスピーチ王女のコックニーその2」

2014-09-13 00:00:01 | エッセイ、コラム

20140913 
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>ことば映画(2)王のスピーチ王女のコックニーその2

 最近では、イギリス国内でも正統派とされるクィーンズイングリッシュを話す人々は、人口の1%にすぎない、という調査報道もあります。
 しかし、有名人になっても労働者階級の英語で話すことを矯正せず、労働者階級の英語で語ったデビット・ベッカムに対して、一部の「上流」社会の人々は「しょせんは成り上がり者」という冷たい評価をしていた、などの報道を考え合わせると、まだまだイギリスのような階級社会では、「話し方でお里が知れる」という受け止め方が残っているんだなあと思わされます。

 ベッカムは、近年むしろ「アメリカ英語」の話し方に近づけるようにしており、少なくともコックニー英語では語らなくなっている、ということですが、私は、以前のベッカムのインタビュー英語と現在の英語を比較できるほど英語力はないので、なんともいえません。でも、ベッカムがコックニーを出さないようとしている、というのもわかるような気がします。

 マイフェアレディにおいて、ヒギンズ教授は、イライザのコックニー訛りを矯正させます。まず、母音の発音、息が強く出る有気音「H」の発音などを矯正していきます。しかし、発音矯正ができただけのころに出かけていったアスコット競馬場では「お天気の話以外するな」と、イライザに釘をさしています。

 発音がキングズイングリッシュになったとしても、たとえば、シェークスピアを引用したジョークなどを聞かされたら、当意即妙にユーモアで打ってかえす機知がなければ、社交界の会話についていけません。
 アスコット競馬場のイライザは、まだ、「ロンドン下町訛り(コックニー)が矯正できただけ」の段階でした。「スペインでは、雨は広野に降る」とか「ハートフォード、ヘレフォード、ハンプシャーでは、ハリケーンはめったに吹かない」などの、発音練習したとおりのことを言っているうちはよかったけれど、競馬に夢中になると「ケツひっぱたけ!」と大声で叫んでしまいます。

 ヒギンズは、イライザが上品な話し方を身につけていっても、「下町の花売り娘」、しょせん下層の出身者という見方を変えることはありませんでした。ヒギンズは、上流の話し方と身のこなし方は教育したけれど、彼女の成長を認めたくなかった。
 イライザは、ヒギンズの友人ピッカリング大佐からはレディとしての扱いを受け、さまざまな教養もピッカリングを通じて身につけていきました。インド滞在経験を持ち、サンスクリット語研究者でもあるピッカリング大佐は、イライザをレディとして扱い、成長を認めてやったのです。

 教育心理学では、このイライザの成長をひとつの典型として「ビグマリオン効果」と呼びます。「生徒は、教師が期待し、そうあれかしと扱う通りに成長しようとする」という効果。ピッカリング大佐がイライザをレディとして扱ったことによって、イライザはレディに成長したのです。

 上流の舞踏会に出席した日のイライザは、上品に踊ることだけではなく、「トランシルバニア皇太子」のことばに受け答えができるまでに成長しています。英語の訛りによって出自を嗅ぎ出しゆすりを行うハンガリー人の言語学者も、イライザを「おしのびでイギリスに来ている王女だ」と断言します。

 短い期間に「王女の会話」ができるまでにイライザが成長した、ということは、イライザがはもともと頭のよさと不断の努力によって、ヒギンズの音声教育だけでなく、ピッカリングが与える教養を吸収できた、ということでしょう。
 教育を受け、自分自身の立場が理解できるようになったイライザにとって、ヒギンズの自分への扱い方に納得できないのは当然です。

 映画『マイフェアレディ』のイライザは、ヒギンズのもとに戻りますが、決してこれまでのように、ヒギンズから「下品な下町娘」の扱いを受けたままにしていることはないでしょう。イライザは、ヒギンズが「甘えん坊の坊や」から成長していないわがまま息子であることも理解でき、それを受け入れてやる度量さえも身につけたのです。

 バーナード・ショウの原作「ビグマリオン」では、イライザはヒギンズを見限ります。そして、イライザを慕うフレディが破産したあと、彼と対等の立場で結婚して花屋を開きます。ショウは、ヒギンズの元に戻る結末と、フレディと結婚する結末のふたつを考え、映画ではイライザがヒギンズ家に戻るほうを採用しました。
 どちらの結末がお好みかは分かれるでしょうが、どちらにしろ、イライザが、自ら学ぶ決意をして、自分を鍛えることによって自立し、成長した、というストーリーは変わりません。

 「ことばを学ぶ」ということは、単に「ペラペラすらすらと、異なる言語を話す」というだけではないのです。学ぶことは、自分を変え、新たな自分に向かわせてくれる。
 逆に言うと、どんなに年をとっても、新たな自分と向き合うことを続ければ、脳は成長していくだろうということ。

 とは、言っても、ダイエットは明日から、学びは来週から。
 今日は、とりあえず、昼寝をして疲れをとって、疲れた脳には甘いものを補給。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「王のスピーチ王女のコックニーその1」

2014-09-11 01:00:01 | エッセイ、コラム
201409011
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>ことば映画(1)王のスピーチ王女のコックニーその1

 アリストテレスの著作『弁論術』に代表されるように、古代ギリシャでは雄弁術は、市民必須の「生きていく技」でした。
 時代が2000年もたった近代国家成立以後も、欧米社会では「いかに話すか」は、人が生きていく上で基本的な教養でした。演説(スピーチ)を知的ユーモアにまぶして朗々と伝達する技術を持っていない者には、社会階層の上部に属していることが難しくなる。

 いかに発音し、いかに話すか。
 『英国王のスピーチ』と『マイ・フェア・レディ』は、どちらも言語矯正をストーリーの要にしています。
 そのどちらにも共通して出てくる訓練法があります。ヨーク公アルバート王子が、妻のエリザベスに勧められて受けている、古代ギリシャ伝統の吃音矯正法。療法士は王子の口にビー玉を入れ、王子はあやうく飲み込みそうになって立腹します。もう、治療など受けぬ、と。

 古代ギリシャの雄弁家デモステネスは吃音者でした。彼は小石を口に入れて発音することによって、自ら吃音を矯正したと伝わっています。吃音矯正は大変難しく、近代に至っても、古代ギリシャのような方法しか手立てがなかったのだ、とわかります。

 マイフェアレディのイライザ(オードリー・ヘプバーン)も、言語学教授ヘンリー・ヒギンズ(レックス・ハリソン)によって、口にビー玉を突っ込まれ、こちらは本当に一粒飲み込んでしまうのです。自分本位にしかものごとを考えられないヒギンズは「心配するな。ビー玉は、まだたくさんある」と、平然としています。

 マイフェアレディの時代は、第一次世界大戦が勃発する1914年の数年前に時代設定されています。ヨーク公アルバート王子(のちのジョージ6世1895 - 1952)が吃音矯正を始めた第一次世界大戦後になっても、言語矯正の方法のひとつに、この「ビー玉法」が残っていたことがわかります。

 私の友人がカラオケ教室に通ったときは、割り箸を横にして口にくわえて発音練習をしたと言っていました。また現代日本の吃音矯正教室では、ビー玉のかわりにあめ玉を使うこともある、ということですから、デモステネスの方法は、現代にもちゃんと使われているんですね。

 ジョージ6世の言語矯正にあたったライオネル・ローグは、映画『英国王のスピーチ』で知られるように、オーストラリア人で俳優出身。
 ローグは、英国正規の言語療法士の資格は持っていませんでしたが、独自の方法と誠実な人柄によって、ヨーク公(ジョージ6世)夫妻の信頼を得ました。友人として接することによって吃音を矯正していき、王が56歳で崩御するまで近侍しました。

 対独戦争のさなか、ラジオを通じてジョージ6世が自国民を励ますシーンは、感動的です。
 一方、文字の国の「玉音放送」では、文字を見ずに耳できいただけでは、内容がわかりにくかったと思います。「まだ、戦争を続けるから、耐えがたきを耐えろ」という放送なのだと誤解した人もいたというのも無理はない。一般国民には聞いたこともない漢語の羅列で、「耳で聞いただけでは理解できない放送」です。

独特の抑揚によって、いっそうわかりにくくなっている朗読ではありますが、音声で伝達する技の練習を一度も受けたことがなかったであろう人の発音にしては、滑舌は思ったほど悪くないと感じました。このわかりにくい原稿を書いた人々も、この朗読の内容が、すらすらと国民に理解できることを前提としてはいなかっただろうと思います。

 明日香時代奈良時代に「書き言葉」が成立して以来、日本語は「音声言語」としては、あまり発達しませんでした。書き言葉は時代とともに成長してきたけれど、「音声で人と議論し、音声で自分の考えを伝える」という技術が重んじられたことはなく、「ベラベラしゃべる」ひとは軽んじられる風潮でした。

 現今、政治家のことばのあまりの貧しさに、唖然とすることもしばしばです。麻生太郎氏は終末期医療に関して、社会保障制度改革国民会議で、「(高額医療について)私は少なくとも遺書を書いて、そういうことをしてもらう必要ない、さっさと死ぬからと書いて渡している」と発言。麻生のような人こそさっさと死んでもらいたいですが、国民一人一人の命について「高齢者はさっさと死ね」なんていうことばしか持たない政治家を、私たちは選んでいます。

 政治家のことばが重要視されるアメリカでは、中央の政治家ともなると、スピーチを助ける専門家がついて発話訓練し、何を言うべきで何を言うべきでないかをきちんとコントロールするそうです。

 ジョージ6世がライオネル・ローグとの間に友情を育てたほどでなくてもいいから、発話能力を高める専門家をつけたらいいのに、と思います。もっとも、日本の政治家は、公式発言ではなく、裏の「失言」こそ「言いたいことを勝手に言う」場と心得ているのかもしれません。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「市川崑のかあちゃん」

2014-09-10 00:00:01 | エッセイ、コラム


20140910
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>かあちゃん映画(3)市川崑のかあちゃん

 かあちゃん映画第3弾は、タイトル「かあちゃん」
 山本周五郎の原作を、和田夏十が脚本にして、市川崑監督に残しました。市川崑は、愛妻の宿題にこたえて、2001年、「かあちゃん」を完成しました。和田夏十が亡くなって18年目のこと。

 かあちゃんを演じたのは、岸惠子。市川崑の定番ヒロインです。美人役の岸惠子が母親ののおかつで違和感ないかなという予想を見事くつがえして、岸惠子は、この役で第25回日本アカデミー賞の最優秀主演女優賞を獲得しています。
 長男うじきつよし、一家に居着く流れ者勇吉原田龍二。おかつ一家が住む長屋の住人達も芸達者をそろえ、音楽担当の宇崎竜童も同心役で出演。

 江戸後期、江戸の町は、天保のどん底不景気に覆われています。
 おかつは、たくましくも人情いっぱいに生きた5人の子持ちかあちゃん。モンゴルが遠いように、天保も遠いので、母性神話ファンタジー成立します。江戸後期の貧乏長屋を描いた美術の西岡善信も、最優秀美術賞。

 人助けのためなら、お上相手の大芝居も私文書偽造もなんのその、3年もの間、食うや食わずで金をため、出所してくる長男の友達のために貯金に励む一家のおはなし。これも現代日本を背景としたなら、ずいぶんと嘘っぽくなってしまい、「ウソでぃ、こんな友達思いの一家があるものか」と、なってしまうに違いないのだけれど、そこは大江戸ファンタジー。

 人を助けるために何の見返りも求めずに、ケチとののしられ金を貯め込んでいるだろうと疑われても、せっせと働きに働き続ける。食い詰めてどろぼうになろうとする勇吉を善意で包みこみ、立ち直らせる。5人の子ども達は母親を信じて、せっせと働く。

 でも、おかつのような生き方を、「嘘でぇ」と言ってしまわないのは、私の母もこういう人だったから。我が身を二の次にして人様のために尽くす、そういう母を見て育って、姉と妹のモモは、そっくり同じに人助けに精を出すおっかあに成長しました。
 妹のモモは、ずっと地元で暮らしているために、母が亡くなって40年たつ今でも、街を歩くと「おお、あんたはシズエさんの娘さんか。私らは、あんたのお母さんには、えらいお世話になって、ずっと感謝していたんですよ」などと言われると話す。「まったく、うちのお母さんはどんだけ人助けをしたのやら」と。

 私は伯母アヤ(母の姉)の性質を受け継いで、世間交わりができず、誰も助けず助けてもらわない人間に育ちました。同じ姉妹なのに、私だけ伯母似。
私は、おかつや妹モモとは違って、まずは自分がうまいものを食べたくて、人様が食べていたら、うらやむねたむやっかむひがむ。

 妹モモを見ていても、人助けをしないではいられない性質というのもあるのだろうと思います。人が不幸な目にあっていたら、それが気になって眠れず、助けに駆け出さないでは一日気分が悪い。

 おかつは、出所してきた長男の友人をごちそうを作って待ち、勇吉の働き口もなんとかなって、一家はこの先も人助けをしながら生きていくだろうというところで、市川崑の『かあちゃん』は、おわります。

 ベたな善意や、一点くもりもない「母心賛美」を受け付けられない人もいると知った上での、市川崑の最後まで善意のみを貫く画面。
 おかつが「どんな親であれ、オヤの悪口を言ってはいけない」と勇吉に説く場面、我が子を虐待して死なせてしまう親が続出する昨今の社会を見ても、市川はおかつにやはりこう言わせるのだろうと思います。

 市川の母性信仰、和田夏十への祈りみたいなものなんでしょう。
 脚本は市川崑と和田夏十のこどもであり、和田への無条件の愛情が、母が子に寄せる愛情の無条件の肯定となっているのではないか、という気がします。
 「日本の男は、すべてマザコン」説に従うなら、市川崑もまた。妻と言う名のママに限りなく寄り添い包まれていたい男の一人だったのだろうと。

 和田夏十が亡くなって18年後に、妻が残した脚本の映画にした市川崑。この作品のあと、『犬神家の一族』をリメイク。(2006)、『夢十夜』の第二夜を撮って、2008年に92歳で大往生。映画人として悔いのない一生だっただろうと思います。

<おわり>
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