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ぽかぽか春庭2013年9月目次

2013-09-29 00:00:01 | エッセイ、コラム


ぽかぽか春庭>2013年9月目次

09/01 ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003年9月(1)2003年の介護
09/03 2003年9月(2)歴史リテラシー&ジュラシックパーク
09/04 2003年9月(3)2003年のフリーリレー
09/05 2003年9月(4)2003年の親子喧嘩
09/07 2003年9月(5)2003年のダンス発表会
09/08 2003年9月(6)2003年のファミリーコンサート
09/10 2003年9月(7)2003年のピンポン
09/12 2003年9月(8)2003年のアフリカの日々

09/12 ぽかぽか春庭ダンス・ダンス・ダンス>踊る阿呆に見る阿呆(1)スーパーよさこい原宿表参道元気祭
09/14 踊る阿呆に見る阿呆(2)ダンス甲子園
09/15 踊る阿呆に見る阿呆(3)マイヨーのLac
09/17 踊る阿呆に見る阿呆(4)土方巽疱瘡譚inベーコン展

09/18 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記2013年9月(1)ジャズダンス発表会
09/19 十三里半日記9月(2)青春18切符2013夏
09/21 十三里半日記9月(3)鶴岡-日本海旅行1
09/22 十三里半日記9月(4)松本-日本海旅行2
09/24 十三里半日記9月(5)新潟-日本海旅行3
09/25 十三里半日記9月(6)酒田-日本海旅行4

09/26 ぽかぽか春庭ニッポニアにっぽんご教師日誌>留学生の日本文化体験教室(1)日本家庭細見
09/27 留学生の日本文化体験教室(2)畳の部屋で日本体験
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ぽかぽか春庭「畳の部屋で日本体験」

2013-09-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/27
ぽかぽか春庭ニッポニアにっぽんご教師日誌>留学生の日本文化体験教室(2)畳の部屋で日本体験

 留学生の日本文化体験教室、レッスン2は、「How to cook Japanese chirashi-sushi」。
 ちらし寿司は、お彼岸によく家庭で作られる「日本のソウルフード」というような話をしながら、3人それぞれに、鮪、鮭、鯛、厚焼き卵を切ってもらいました。
 上に散らす材料はなんでもよく、最近はアボガド散らしなどもあるし、各家庭それぞれに家庭の味がある、などを話しながら、炊き上がったご飯半分にすし酢を混ぜて、うちわでパタパタ仰いでもらい、まず、てまり寿司を作りました。丸やら楕円やら好きな形にご飯をまるめて、上に刺身をのせる。あとの半分には「イージー、インスタントクッキング」と言いながら、「ちらし寿司のもと」を混ぜ合わせ、切った刺身やきゅうり、しそなどを散らし、きれいなちらし寿司ができました。

 あとは、それぞれが自由にレタスやきゅうり、ゆで卵などを組み合わせて「わたしサラダ」を作ってもらいました。既製品の茶碗蒸し、いわしマリネの和物などを並べて、ランチの出来上がり。既製品を利用することで、難しいのかと思っていた和食も案外簡単にできることがわかって、自分が作った手鞠寿司も「おいしい」と嬉しそう。
 食べ終わると大満足で「すし酢」の瓶や「ちらし寿司のもと」パッケージの写真を撮り、寮のキッチンで作ってみる、と張り切っていました。


 レッスン3は、「How to wear Japanese Yukata」。
3階の和室で、着物を来てみる体験です。家にあった娘の浴衣2枚と卒業式の着物と袴を用意しておきました。
 私は着付けなど習ったことはありませんので、結べるのは文庫帯とお太鼓だけ。暑い中、四苦八苦しながら、ゆる~い着付けで浴衣に文庫を結んだり三尺帯でちょうちょ結びにしたりしました。ひもがゆるいと着崩れするのですが、今は、着てみて写真を撮るだけなので、昼ごはんを食べたばかりの留学生に苦しくないようにゆるく結んだのですが、すぐに気崩れました。

 正しい着付けの方法ではなかったですが、「私は日本に来てすぐに浴衣を買ったのだけれど、どのように着るかわからなかったので、夏のあいだも着られなかった。これで着方がわかった」と、喜んでいたので、まあ、良しとしましょう。
 皆で大騒ぎして写真を撮りあっていました。



 畳のへりを踏まない歩き方、正座して三つ指ついておじぎをする挨拶など、所作をひととおり教えましたが、なに、私だって日頃は両手に物もってドアをしめるとき足で閉めたり、畳のへりなんぞ当然踏んづけて歩き、作法も所作もない生活をしています。まあ、気はこころ。

 おみやげに西アフリカの民族衣装の布をもらったので、着付けを教わりました。一枚の長い布を肩のところで二ヶ所小さく結び、頭と肩にかぶせます。昔、ケニアで着た着付け方とはやはり異なる方法で、私にも、よい文化体験になりました。

 ここで姑が帰宅したので、いっしょに写真撮影。姑は、体操教室のあとお昼寝するので、留学生が作ったちらし寿司は、夕食に食べてもらうことにしました。

 最後に「着物のたたみ方」
 私自身は「たたみ方」を母が着物しまうときに見ていただけで、見よう見まねで覚えたのですが、自転車と同じように、一度覚えると忘れないので、来年の夏は浴衣を着たいという留学生にも、きっと覚えていてもらえると思います。

 最後のレッスンは「How to cook Japanese sweets」
 白玉粉をお湯でこねて、各自好きな形に丸めてもらいました。これを茹で、既製品の小豆ぜんざいに入れて、出来上がり。超かんたんおやつ。
 これで、今日の日本文化体験レッスンは全部終了です。
 盛り沢山なプログラムで留学生は疲れたと思いますが、とても喜んでくれたので私も嬉しかったです。
 
 学生のfacebookには、さっそくちらし寿司がのった食卓と、浴衣姿のポートレートがUPされました。

 袴の着付け、どうしてもモスレムベールを脱ぐのはできないというので、襟元などぐずぐずになってしまいましたが、気にせず撮影。「楽しかった」の一言で、すべてOKです。

 夏休みの最後、留学生との再会が続きました。
 25日には、2009年に来日した中国の学生たちと、帰国前のさよならの会。
 この年月博士号取得のために大学院で研究を続け、晴れて9月27日に安田講堂で博士号を授与されました。大学ロゴ入りブックカバーをプレゼントしてもらいました。うれしいです。

 25日午後、後楽園の日本庭園をひとめぐりして、池の前のベンチでしばし歓談。中国の大学で教師として採用された報告などを聞きました。
 教え子が立派に博士号を取得し故国の有能な人材として育ってくれたこと、うれしくおもいます。

 もうひとり、15年前に教えた女性との会食。彼女には私立大学で日本事情と文章表現を教えました。私の出身校に転学し、10年の研鑽を経て博士号を取得しました。そのままオーバードクターで残って就職先をさがしています。
 彼女は、故国ではなく日本で大学教師になりたいのだけれど、日本にはポストが少なく、オーバードクターがごろごろいる状態なので、新任教師の募集を見て応募してもなかなか採用にいたらない、という悩みを話してくれました。

 うん、うん、そうなのね。若い博士号取得者が増えているのに、専任大学教師のポストはごく少なくて奪い合い。有力コネクションのある人から決まっていきます。ほとんどのオーバードクターは非常勤講師や予備校講師などの職で食いつなぐ毎日。
 悩みは聞いてあげられたけれど、彼女の就職に役立ちそうな情報は私にはまったくないので、有効な手立ては講じられませんでした。

 青雲の志を抱いて日本にやってくる若者たち。みなが将来の希望に向かってすすんでいけますように。
 私は10月に新しい留学生を迎えます。この秋に来日する新しい学生たちにとっても、日本が住みよい学びがいのある環境でありますように。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「留学生の日本文化体験教室」

2013-09-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/26
ぽかぽか春庭ニッポニアにっぽんご教師日誌>留学生の日本文化体験教室(1)日本家庭細見

 21日土曜日、前期に教えた留学生を招いて「日本の一般家庭を見る」という文化体験コースを企画しました。
 前期のクラスの女子学生、台湾の学生は夏休み中は実家に帰省。ミクロネシアの女性はハワイに滞在中。
 西アフリカ・モーリタニアと北アフリカチュニジアの女性は、イスラム教徒なので、食習慣の違いなどから、なかなか日本旅館に泊まったりできません。ホームステイで自分だけ別仕立ての食事になるのも気兼ねです。長野で行われたサマーキャンプに参加したと言っていました。キャンプの自炊ならムスリム(イスラム教徒)の食事が自分たちで作れます。

 これから7年後に向けて、きっとムスリム向けの食事サービスもずいぶん進展するのではないかと思います。厳しい宗派では、ハラルミート(イスラムコーランの教えを唱えてから決まった作法により肉になったもの)を食べる、というほかにいろいろな制限があります。スープが豚骨だしなのを知らずにベジタリアン向けかと思って「野菜ラーメン」を頼んで、豚のスープなので食べられなかった、というようなこともあります。

 同じイスラム教と言っても、アフリカモーリタニアの女性は、教室にも必ずスカーフをかぶってきましたが、チュニジア女性にはそのようなしばりはなし。宗派によっていろいろです。

 これまで、中国で教えた学生な何度か招いたことがありましたが、国立大学の国費留学生を招くのは初めてのことです。国費留学生のためには、ホームビジットやホームステイなど、大学側のプログラムが充実していて、日本人の家庭を見る機会も多いからです。でも、今期の学生、イスラム教ということと、病気がちで病院通いが忙しかったということもあって、ホームステイにでかけたのはタジキスタンのひとりだけというので、「日本の年金暮らしの老人が住む普通の暮らしを見る」という機会を作ることにしたのです。

 レッスン1からレッスン5までの日本文化体験教程を事前に知らせておきましたので、玄関チャイムを鳴らすところから「How to enter a Japanese house 」の学習です。玄関で靴を脱ぎ、内側に向けて揃えるところから。玄関でスリッパに履き替える家が多いけれど、足が冷たくなければ、履かなくてもいいと教えたのですが、これって正しいマナーかしら。

 居間で、姑にご挨拶。4月に日本に着いて、あいうえおの「あ」を読み書きするところから学習をはじめた西アフリカの女性。漢字の読み書きもこなして、修了式には、他のクラスの先生方も「ゼロスタートの初級クラス学生でよくぞこんな立派なスピーチをしたものだ」と、感心されるほど上達しました。「今日は、お招きありがとうございます」という口上もそつなくこなし、お花、キャンプに出かけた先の土地のゆべし菓子折りなどを姑にプレゼント。

 しばしお茶を飲みながら、姑と日本語で歓談。姑は、東京に出てきてから60年になるけれど、ずっと舅と米沢弁で話して暮らしてきたから、留学生にはちょっと伝わりにくく、ときどき私が通訳。留学生には、「彼女をユキ子さんと呼んでください」と伝えてあります。私は姑を呼ぶとき、「家族内の一番小さい人から見た親族名称で呼びかける」という日本家庭の習慣に従って「おばあちゃん」と呼びますが、この日本家庭の親族呼称ルールをよく知らない外国人が聞いたら、私の祖母かと誤解します。

 おばあちゃんがいただいた花を仏壇に備えたので、祖先を祀る日本の習慣などについてレクチャー。お彼岸の話などをしながら、おみやげにもらったお菓子の箱をあけ、舅が好きだったゆべしを仏壇に供えました。学生のお茶にも供し、日本の習慣では、おみやげにもらったお菓子を客に出すとき、「お持たせですみません」と断ること、目上の客の場合、おもたせのお茶菓子を出したら失礼に当たることを説明しました。すると、モーリタニアの習慣でも、客の持ってきたおみやげは、その場では出さない、同じ習慣だというので、私のほうも勉強になりました。欧米ではおみやげをその場で開けなかったら失礼になるというところが多いので、やはり世界にはいろいろな文化習慣があるなあと思いました。

 次に緑茶を急須で入れる方法について実演し、学生におかわりを注いでもらうことに。以前に日本の家庭に行ったことのある学生が、「ホームステイ先でお茶を入れたとき、最初の茶碗には濃すぎるお茶を注ぎ、順に注いでいって、最後の茶碗は薄くなってしまって、困った。でも、ホストマザーは何も言わなかったので、そのまま飲んでもらったけれど、今日、急須からひとつの茶碗に一度に入れるのでなくて、お茶碗を並べて少しずつ均等に注ぐのだとわかりました」と、喜んでいました。

 ホストファミリーは、「お茶が薄い」とか文句を言ったら悪いと思って言わなかったのでしょう。留学生を歓迎してくれる心遣いですが、お茶の入れ方も、学生にとっては勉強です。近頃は日本人学生でもペットボトルのお茶かティーバックの紅茶くらいしか飲まないので、お茶の入れ方ひとつでも習う必要があります。年寄りの集会などがあっても最近はもっぱらペットボトルを配るだけです。

 お茶のあと、姑はおにぎりを食べて、デイケアセンターの体操教室に出かけていきました。お昼ご飯を留学生と作るという文化体験、姑がいると何かと気を使わせてしまうので、姑が体操教室に出かける日を選んだのです。

 ゆべしは問題なかったのですが、あっとあせったのが、こちらで用意したフルーツケーキ。一口食べてみて、あ、失敗した。このフルーツケーキのレーズン、ラム酒か何かにつけてあるかも、と心配になりました。ストップ、と言って、菓子箱に書かれている材料記載をもう一度点検。材料に洋酒とか酒精とかあったら大問題。お菓子の中にアルコール分が含まれているだけでもNo!の宗派があるからです。材料一覧にはアルコール類が書いてなかったので、一応OKにしましたが、あぶないところでした。

 娘は「もし、日本人が海外でおせんべみたいな唐揚げを食べて、おいしいと思っても、あとでそれがゴキブリのから揚げだったと知ったら、すごく嫌な気分になるでしょう。母はなんでも食べる人だから平気でも、弟なら吐き出してしまう。だから、母も、ちょっとでもお酒とか豚肉系のものが含まれていないか、表示にようく注意して買い物するように」と、言われてきて、目をこらしてちらし寿司のモトなんぞにお酒がつかわれていないかどうか、見て買ったのです。
 お酒を飲まなくても、豚肉を食べなくても、材料に含まれている場合があるので、要注意です。

 ランチをいっしょに手作りすることにして、ちらし寿司を選んだのも、魚と卵などのちらしなら、心配ないから。
 さて、お料理がはじまりました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「酒田-日本海旅行4」

2013-09-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/25
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記9月(6)酒田-日本海旅行4

 9月9日朝、新潟から酒田へ向かいました。
 朝の電車は乗り鉄撮り鉄がいっぱいです。撮り鉄さんたち、私がやりたい「かぶりつき」をやっています。「乗り鉄かぶりつき」とは、電車の一番前に立って、運転士さんの見る風景を見ることです。
 撮り鉄さんがいなくなったとき、すかさず、かぶりつきました。


 羽越線の中、ちょっとうれしい出会い。羽越線のなかにいた若い車掌さん、顔に見覚えがありました。8月31に羽越線に乗ったとき「あの建物の最寄駅は?」という質問に答えてくれた人。ネームプレートは村井さん。「先週の土曜日に、ポスター見て質問した私に、最寄駅は鶴岡と教えてくれた車掌さんですよね」と確認すると、そういう回答をしたことを覚えていてくれました。
 酒田終点で下車するとき、この親切な車掌さんと記念撮影。運転手さんもいっしょに写真に入ってくれました。若いコンビ、JRの星です。

 酒田市に着いて駅で無料の自転車を借りました。お天気も晴れ時々曇りで、暑いことは暑いけれど、自転車をとばす風が気持ち良い。
 まず、郵便局へよって、この地方ならではの切手を売っていないかチェック。東京で買いそびれた何種類かの切手を2500円分買ったら、キッチンペーパーの箱をくれました。
 それから海鮮センターへ行きました。ランチは 11時からというので、どうしようかと思いましたが、センターの魚市場をぶらついて、わかめせんべいとかおみやげに買って、魚屋で鮪のサクを切ってもらいました。居酒屋なら3人前になるくらいの分量でした。

海鮮センター魚市場

 海鮮センターの食堂「とびしま」で、とびしま定食を注文。天ぷらや刺身がつくとびしま定食は人気とみえて、12時前に完売でした。
 私は、オプションで「うまづら刺身」をつけて 1470円。魚屋で買った鮪を加えて2550円。うまづら刺身と鮪で豪華ランチになりました。豪華といっても、日頃ワンコインランチで済ませている身にとっては、ということですけれど。


 酒田市は、庄内藩酒井家がお殿様ですが、庶民の戯れ歌に「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と歌われたほど、大商人本間家が財力においても権勢においても殿様を圧倒するほどだったと言われています。
 本間家本邸は、苗字帯刀を許され武家に取り立てられた格式を示して半分は武家造り。藩の重役などを迎えるための部屋。半分は商家造りで、家族が生活する部屋。
 ここでも、案内のボランティアガイドさんが説明してくれました。

 自転車で行きつ戻りつしながら、山居倉庫、六角灯台、山王クラブ、相馬楼などを見物。
 酒田市の本間家本館や美術館は月曜日でも開館していることを確かめて自転車で回ることができたのですが、光丘文庫は、月曜閉館で、外観だけ撮影。

山居倉庫

六角灯台


山王クラブ

 本間家三代目の本間光丘が書物庫寺院建設を念願したのに幕府に許可されなかったのを、八代目の本間光弥が1925(大正14)年に建設し、先祖伝来の蔵書2万冊を収めました。現在でも現役の図書館として市民に利用されています。
  鉄筋コンクリートの社殿造りで、破風の玄関意匠は、内務省神社局建築課長 角南隆(すみなみたかし)によります。本間家から酒田市に寄贈され、さまざまな文化財を所有する光丘文庫ですが、月曜休館、残念。


 帰り、日本海の夕日を見るのを楽しみにしていたのですが、8月31日には夕日が落ちる前に村上についてしまい、今度は海辺に出る前に陽が落ちてしまいました。うまい具合にはいかないものです。

 電車相席になった男子高校生に「あれは鳥海山ですか」とたずねたのをきっかけに、高校生が下車する駅まで2駅間、おしゃべりできました。日頃大学生大学院生と接していますが、それは教師と学生という関係の中でのこと。フツーのおばはんとして高校生と話すのは、楽しかったです。高校生にとっては、東京からきたというへんなおばさんに話しかけられて、本音ではうざかったのかもしれませんが、工業高校で学んでいるという3年生、とても気持ちのよい、素敵な青年でした。おばさんと話してくれてありがとうね。

夕暮れの車窓から鳥海山を見る


 JRの車掌さんと運転士さん、工業高校の男子生徒、うん、日本の未来も捨てたもんじゃないかも、という気持ちになりました。
 美しい落陽を見るのと、笹川流れ夕日会館での食事はまたのお楽しみということで、新潟からムーライトえちごにのって、9月10日朝に東京につきました。

 青春18切符2枚(4200円)利用の移動距離合計1200km。楽しい旅になりました。擬洋風建築紹介はのちほどゆっくり。

<おわり>  
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ぽかぽか春庭「新潟-日本海旅行3」

2013-09-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/24
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記9月(5)新潟-日本海旅行3

 建築紀行新潟編。新潟駅前から「ドカベン号」という市内循環バスに乗りました。
 最初は、新津記念館。新潟で石油王として成功した実業家の立てた洋館(迎賓館)の見学。昭和の洋風建築で、国の登録有形文化財ですが、室内撮影禁止とのことで、外観だけ撮影。500円。

新津記念館南側


 ドカベン号の順路に従って、1895(明治28)年の建築で、大地主伊藤家の別邸(北方文化博物館)の外観を見てから、斎藤家へ。
 斎藤家は、1918(大正7)年建築、豪商の和館です。現在は新潟市の所有になり庭と屋敷が公開されています。

斎藤家庭園側から

二階から庭を見る

 斎藤家の次に旧小澤家住宅(北前船の時代館)へ。


 入口で、斎藤家で私の前になったり後ろになったりしながら歩いていた一人旅のおばさんが、「ここ、見ますか」と声をかけてきました。「ええ」と答えると「じゃ、ごいっしょに」と言う。あれ?「ごいっしょ」はちょっとしんどいかも。ま、いいか。

 おばさんは、川崎に住んでいると自己紹介し、佐渡の薪能を見に来たのに雨がふって会場が室内に変更になり、その変更地がわかりにくい場所で往生した、というような話をひとりで語り続けます。私は相槌をうつだけでよかったので、それほどしんどくもありませんでした。彼女は一人旅をよくするのだけれど、行く先々でお連れを探して、薪能もどこかのおばさんと偶然いっしょになって見たのですと。こういう誰とでもすぐ友達になれる人もいるし、話しかけられるだけで疲れてしまう、私のような非社交人もいる。

 小澤家の内部をボランティアガイドさんが説明してくれました。
 博物館や美術館のボランティアガイドさんはみな勉強熱心な方が多いのですが、困るのは、ときとして、こちらのほうが美術や歴史にくわしいとき、ガイドさんの間違っていることを指摘するような場合です。
 この日のガイドさんは、ボランティアガイドを定年退職後の生きがいにしているとおぼしき年配の男性でした。このときあとから地元の奥様二人連れがガイドさんに追いつき、前後しながらガイドさんの説明を聞いていました。奥様のひとりのほうが、時折ガイドさんの説明に付け加えをしたり、訂正をしたりしていました。とてもさりげない付け加えなので、美術館のガイドさんに訂正を言うとき、私はいつも「言うべきか言わざるべきか」とさんざん悩んだり緊張したりするのに、こういうふうにさりげなくいうのがスマートだなあと参考になりました。

 ガイドさんより詳しいのも道理で、この日お藏の展示「船箪笥」の所有者で、小澤家の展示に貸出をしている方でした。小澤家の学芸員さんの知り合いとのことで、展示物についても学芸員さんから毎度説明を受けているので、ガイドさんより詳しいのでした。ガイドさんが、陶器製の灯篭の作者を「シミズ何がし」と名前を言うと、「キヨミズですね。きよみずの舞台とか、きよみず焼きとかの」と訂正を入れていました。ガイドさんは「はあ、勉強になりました」と言っていました。

窪田家所蔵の船箪笥


 ドカベン号で向かった次の見学地は、みなとぴあ。新潟市歴史博物館です。
 歴史博物館本館(旧新潟税関庁舎を模して新築)、旧新潟税関石庫、旧第四銀行住吉町支店などが公開されています。

 同行の川崎おばさんは、博物館に入ると「ミュージアムシアター、何分から」と係員に聞いて、「じゃ、その時間まで館内ひと回りしてから見ましょう」と予定を立てる。私は「建物を見に来たのであって、シアターに入るつもりはなかった」とは言い出せず、気弱くおばさんのあとについてシアターへ。「黒鳥伝説」というタイトルなので、オデット白鳥に対するオディール黒鳥の伝説でもこの地にあるのかと思いました。なにせ、イエスキリストの墓までちゃんと存在する日本なので、オディールの墓なんかもあるのかと。

 「黒鳥伝説」は、平安末期に新潟を支配していた「黒鳥兵衛(くろとりひょうえ)」が、源家の誰か(義経、義綱、義家など諸説)に討ち取られるまでの軍記もの。朝廷側が成敗する話なので、黒鳥は思いっきり極悪非道の悪役に仕立てられています。安倍貞任の残党ということなので、地方豪族のうち、朝廷にまつろわぬ者のひとりであったのでしょう。あくまで伝説であって、史実とは異なるらしいですが、私の知らない地方史の一幕を見ることができました。

 川崎おばさんに声かけられたときは、一瞬「ごいっしょに、が面倒だから一人旅してんのに」と思ってしまったのですが、おばさんといっしょでなければがシアターに入らなかったところでした。おかげで、これまで知らなかった黒鳥兵衛について知ることができました。ひとりで行動することは気楽ですが、いつも自分の興味だけで行動してしまうから、思いがけない出会いが少なくなるのかもしれません。「旅は道連れ」も、やってみれば、自分の狭い見識をほぐしてくれて、ありがたいことなのです。

 川崎おばさんは、これから次のバスに乗るというので、私は「まだ建物の写真をとっていきますから」と、今度は自己主張できました。おばさんは、バス停で次のお友達を探して、連れ立って行きました。

 旧新潟税関の建物や旧第四銀行住吉町支店などの撮影をしてから、しばし海を眺めて、駅へ戻りました。

 白山公園にある憲政会館(旧新潟県議会旧議事堂)へ。
 5時を数分過ぎてしまっていたので、閉館したあと。中は見ることができませんでした。
 循環バスも次のはまだこないので、歩くことにしました。
 ドカベン通り、古町商店街の中を歩きました。ドカベンやあぶさんの銅像が通りに置かれています。
   

 宿泊はまた駅前のビジネスホテル。もう歩き疲れたので夕食はホテルの2階にあるシャングリラというレストランで、魚沼産こしひかりの釜だき定食というのを食べました。てんぷら、さしみ、ノドグロ塩焼き、山形牛と野菜のデミグラス煮込み。私にしてみれば、一回の食事に3500円というのは、大盤振る舞いのうちなんですが、味と値段の兼ね合いは、う~ん、釜だき御飯はおいしかったですが、海の幸を味わうには、ちょっと物足りないラインナップでした。



<つづく>
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ぽかぽか春庭「松本-日本海旅行2」

2013-09-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/22
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記9月(4)松本-日本海旅行2

 擬洋風建築探索というテーマが決まったので、9月最初の週末は、きちんと計画を立てました。ビジネスホテルをインターネット予約し、9日夜のムーンライトえちごの座席指定券も予約。いざ、「おいしい日本海リベンジ」&「擬洋風建築探索」&「青春18切符でできるだけ長い時間電車に乗っている」という欲張りな旅行に出発です。
 計画は以下の通り。

<9月7日(土)>
1)05:30四谷発06:26八王子着06:36八王子発10:17松本着 青春18切符利用(225km、4080円)
2)松本市内散歩 市内路線バス利用
 旧開智学校、旧松本高校などを見学。
3)17:34松本発 長野直江津乗り換え22:08柏崎着  青春18切符利用(180km2940円)
4)柏崎駅前 ホテルサンシャイン シングル宿泊4500円

<9月8日(日)>
5)07:46柏崎発09:18新潟着 80km1620円(現金で切符購入)
6)新潟市内散歩
  新潟市郷土資料館みなとぴあ(新潟税関庁舎 第四銀行住吉町支店)、新津記念館(新津恒吉邸洋館&和館)、新潟県政記念館などを見学
7)新潟駅前東急イン宿泊4200円

<9月9日(月)>
8)6:08新潟発06:46新発田06:49~09:30酒田着 青春18切符利用(390km2940円)
9)酒田市内散歩  自転車レンタルまたは市内循環バス
  六角灯台、本間家本宅、本間美術館など見学
10)酒田発17:22~新発田乗り換え19:30新潟着 青春18切符利用(390km2940円)  
11)新潟発23:38ムーライトえちご  
   新潟-新津青春18切符(15km530円)新津で日付変更。青春18切符の利用終わり。新津-新宿 5,250円
(青春18切符2枚(4200円)利用の移動距離合計1200km。

<9月10日(火)>
12)新宿着05:10 

 以上の青春18切符旅行計画をたてて、9月7日朝、出かけました。
 10:30に松本駅に着いて、駅の観光案内所へ。無料の貸自転車があるというので喜んで借りて街へ出たら、怪しげな空模様。ま、いいかと、一番の目的地である旧開智学校へ向かいました。途中松本城は、前に中を観光したことがあるし、今回は明治初期擬洋風建築というテーマなので、外から見ただけで終わり。

横から見た松本城

 旧開智学校は、1873(明治6)年に建てられた小学校です。この夏、軽井沢静養中の天皇皇后両陛下が視察されたということなので、ニュースで建物を目にした方もいると思います。自転車で向かうと、旧開智学校の手前に現在の開智小学校があり、生徒が元気にサッカーをしていました。


旧開智小学校




 旧開智学校の見学を終えて入口にもどると、雨が強くなってしまい、いったん駅に戻ろうとしました。ところが生来の方向音痴、自転車を借りた松本駅前ではなく、北松本駅に行ってしまいました。雨は強くなる一方で、途中車に追い立てられてころぶし、さんざんな思いで、もとの道に戻るのが鉄則と思って開智学校に戻って、やっとこさ松本駅前に自転車をかえしました。濡れたシャツ、夏向き冷却シャツになったと思うことにしました。

 市内循環バスを利用(300円)。あがたの森公園旧松本高校へ。旧制高校の校舎、今でもいろいろな教育関係のイベントに利用されています。
 山辺学校歴史民俗資料館も見たかったのですが、バスの本数が少ないのであきらめ、かわりに松本美術館に入館。草間彌生の展示室があったので。鏡を使った展示など、草間らしい「増殖していく」イメージの作品が展示してありました。

草間彌生のオブジェ作品 美術館入り口脇の野外展示


 信州に来たら蕎麦食べないと、と思って夕食は松本駅舎のなかにある「榑木野」という蕎麦店へ。駅ナカの蕎麦屋というと立ち食いそばのようなところでしか食べたことのない私ですが、この「榑木野」は、地元の人も通うという店らしかったです。
 私はエビ天ぷらとかけ蕎麦。雨に濡れたシャツがまだ湿っていて温かい蕎麦が食べたくなったので。

 特別快速妙高5号などを乗り継いで柏崎へ。夜の移動だったので景色は楽しめませんでしたが、柏崎手前の鯨波でしばし郷愁に浸りました。子供の頃の私にとって、海といえば鯨波だったので。

 駅前のビジネスホテル。特にすることもないので、格別見たいわけでもなかったけれど、テレビをつけて「達人達 佐渡裕×羽生善治」を缶ビール飲みながらぼうっと見ていました。つけっぱなしにしていたら、次にETV「ガタロさんが描く町~清掃員画家のヒロシマ~」の再放送がありました。評判がよくて何度も再放送されてきた番組とのことですが、ほんとうに心打たれるドキュメンタリーでした。

 30年間広島市内の団地商店街で清掃員として働きながら、ゴミの中からクレヨンや絵具を拾い集め、ぞうきんやモップを画材にして絵を描き続けてきたガタロさん。被爆2世として広島の街を見つめ、清掃道具を見つめてきました。ガタロさんの描いた雑巾やモップは、ゴッホが描いた古びた靴の絵を思い出させました。古びた雑巾が、すごい存在感でした。ガタロさんに言わせると、雑巾が古く黒くなるのは、他のものをきれいにしてやった結果だと。働き続けた雑巾を「愛おしい存在」という目で見つめていることが、絵からにじみ出ていました。

 家にいると夜のドキュメンタリーなど見ることもなかったでしょうから、こんなテレビ番組との出会いも、旅先だからこそと言えるでしょう。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「鶴岡-日本海旅行1」

2013-09-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/21
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記9月(3)鶴岡-日本海旅行1

<8月30日(金)>
 大宮駅構内で缶ビールつまみなど買い物 23:48ムーライトえちご乗車。女性専用車は最後尾の6号車です。

<8月31日(土)>
 4:51新潟着 04:56~05:52白新線快速村上着  羽越線05:56~07:35 鶴岡着



 8月31日朝、鶴岡駅から出発。鶴岡公園を中心に擬洋風建築を探索しました。擬洋風建築というのは、明治初期に作られた「地元の大工さんの手によることが多い、西洋建築を模した建物」です。建築の報告はのちほどまとめて。
 サブテーマの「日本海、海の幸満喫旅行」。どんな旅も「おいしいものを味わう旅」になってしまうのですが、まずは、こちらのご報告。

 早朝でバスもレンタル自転車もなかったので、歩いて鶴岡市内を探索。駅に置いてあった観光マップを片手に、駅前の通りをまっすぐ歩いて日吉町商店街へ。シャッター下りている店が多いので、「これが噂の地方都市シャッター商店街か」と、一瞬思ったのですが、よく考えたら私の近所の店だって、土曜日の7時半にはまだシャッター開いてません。むしろ、鶴岡では開いている店もあったということが驚きなのでした。土曜日の朝7時半には営業開始。早起きさんの街です。

 山王神社脇を通って、市内を流れる川の橋に出ました。芭蕉が鶴岡に来たとき乗船した場所というのを見物してから、三雪橋を渡り、鶴岡カトリック教会へ。他の観光地はまだオープンしていないとしても、教会なら朝早くてもオープンしているだろうと思って。
 信者さん世話係のような人がいて、黒い顔のマリアさまのことなどの説明テープのスイッチをいれてくれました。司祭さんもお顔が黒い方でした。フランシスクス・スリ・ワルヨという神父さん。お名前から見て、インドネシア出身の方かなあと思います。



 教会から旧風間家へ。明治年間に建てられた豪商の家で、ひわだ葺きの屋根に石を並べた石屋根造りが特徴です。


石を並べた屋根

 藤沢周平原作の映画『蝉しぐれ』。主人公文四郎と幼馴染おふくとの再会シーンにこの家の座敷が使われたそうです。


 文四郎がおふくへのせつない思いを隠しながら対面するシーン、私もしばし佇んでみました。文四郎みたいなイケメンと対面している気分なんですが、傍から見れば蝉しぐれというより、セミの抜け殻がたたずんでいるみたいな。


 藩校の致道館を見学したおり、土曜日のイベントなのか、論語の講読が行われていました。まず師匠が音読し、広間に集まった人々はそれに唱和していきます。「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや」などの音読の声を聞いていると、高校時代の漢文授業を思いだしなつかしかったです。高校時代は、音読なんぞしなくても、黙読して意味を理解すればそれでいいじゃないの、なんで先生の発声どおりに真似しなけりゃならぬのかと思いましたが、人々の唱和音読を聞いているのはいい気分です。「学んでる!」っていう気分。

 致道館の門

 羽越線車内ポスターにあった建物を見学するため、鶴岡公園へ。明治初期~大正期の建物が移築復元されています。至道博物館、大宝館などを見学。
 市内博物館共通券を買ったので、観る予定のなかった藤沢周平記念館にも入館。藤沢周平好きなのに、館内でUVカットの帽子がなくなっていることに気づき、さっと一巡しただけであわててもとの道を戻ることにしました。公園内を散歩中落としたと見えます。ゆっくり歩いて戻ると、公園内のベンチの脇に落ちていました。だいたい、一回旅をすると、本やら傘やら、何かしら忘れ物落し物をしてくるのが常ですが、今回は落としたものを拾うことができて、よかった!
 博物館脇の茶店で「山形桃アイス」を食べました。

 羽越線からの庄内平野のながめ


 羽越線は、海を眺めるには最高の路線です。線路が海ぎりぎりのところを通り、打ち寄せる波、岩場で釣りをする人などが眺められます。

 新潟へ戻る途中、桑川駅近くに「道の駅笹川流れ夕日会館」を目にしました。下車して日本海の海の幸を食べたかったのですが、時刻表を持ってこなかったので、後続の電車予定がわかりません。電車すれ違い待ちの間に、駅舎の時刻表を眺めに出て、在来線の後続は50分後に1本あるだけとわかりました。はたして50分で食事を注文して食べて帰る時間があるかどうかわからなかったので、残念ながら桑川での食事をあきらめました。

 目についたのは、「ちどり」という食堂です。「ちょっと寂れた海の家、民宿」という雰囲気がして、海水浴シーズンが終わると寂しそうな印象ですが、あとでネットで調べると、岩牡蠣ほか海鮮料理で地元では有名な店らしかった。
 岩牡蠣やうにを食べたかったのに、岩牡蠣の旬は夏みたいで、次に食べるチャンスは来年になってしまいます。

 夕食は安全策で新潟についてからにしました。駅の周辺をうろうろ歩いて、女性客がひとりで入れそうな店をさがしましたが、居酒屋が多い。ひとりで入るにはちょっと気がひける店構えのところが多くて、どうしよかと躊躇していたら、急にどしゃぶり。まさしくゲリラ豪雨。
 あわてて目の前の店に飛び込みました。この店の屋号も覚えていないのです。
 生ビール、烏賊の一夜干し、煮魚、栃尾の油揚げを焼いたのをいただきました。栃尾の油揚げは、関東でいう厚揚げです。

 ともかく、私にとっては「一人居酒屋デビュー」でした。友人といっしょだったり宴会では居酒屋に入ったことがありますが、一人では東京でも地方でも入ったことなかった。
 お寿司屋などではたまにひとりでカウンター席ににすわることもありました。しかし、ひとりで飲食店に入るのは、牛丼チェーンやラーメン屋なら平気なのに、居酒屋は今まで入るチャンスがありませんでした。ひとりでお酒を飲みたい、ということがなく、ひたすら食べるのが趣味なので、食べる店にはひとりで入ってきたのですが。

 雨も小ぶりになったので、新潟駅へ。
 日本海のおいしいものをもっと食べたかったなあ、リベンジしなくちゃ、と思い、9月最初の土日も新潟に来ることにしました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「青春18切符2013夏」

2013-09-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/19
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記9月(2)青春18切符2013夏

 私、乗り鉄歴55年です。一日中、電車に乗って、移動していくことそのものが楽しいのです。ですから、観光に切符を使うというより、電車を乗り継いていくことそのものが目的。降りなくてもいいのです。

 鉄道で一回りするために、時々「青春18切符」を買います。全部使い切ることもあるし、なんだかんだと忙しくて、結局使い切らないことが多い。買って大切にしまっておいたら、どこにしまったのか忘れて、一枚も使わないで無駄にした年もありました。

 青春18切符は在来線普通にのみ利用できるので、ご用とお忙し方には向きません。のんびり旅したい人向きですが、時刻表の組み合わせ方によって一日中乗り放題で、乗り鉄にはうれしい切符です。深夜に東京を出発して、一日中電車に乗って、夜8時前には博多までいくことができます。飛行機なら3時間弱、新幹線でも5時間ちょっとのところに、17時間かけて延々電車に乗り続けるのが楽しい、という人が乗り鉄なのです。

 今年は、8月に清里へ行く時1枚つかいました。新宿小淵沢経由の中央線と小海線。4時間半の乗車で、一日分の移動距離としてはちょっと物足りない。この時は移動が目的ではなくて野外バレエ鑑賞が目的だったのでしかたなかったですが、このあと、蕁麻疹で体調を崩し、一人旅に自信が持てなかったので、8月中には出かけられませんでした。
 残りは9月10日までに使わないと無効になります。そこで、8月末の土日と9月最初の土日に、「青春18切符消化旅行」を企画しました。

 8月31日(土)9月1日(日)の旅行は、夜行のムーンライトえちご往復の座席指定券を購入したほかは、何も予定を立てずに、「行き当たりばっ旅」でした。8月30日の朝、「みどりの窓口」で座席指定券の残席を調べてもらい、女性専用車の隣の席があいているシートを選びました。

 8月30日夜、7時から9時までジャズダンス練習。終わって9時半までミーティング。急いで家に帰って、シャワーを浴びてリュックサックかついでJR駅へ。京浜東北線で大宮へ。大宮駅ナカのショップで缶ビールやおつまみを買い込み、いざ出発。大宮駅からムーライトえちごに乗車しました。

ムーンライトえちご 

 夜行列車ですが、寝台車ではありません。リクライニングシート2席分つかって、どこでもいつでもすぐ寝られるという私の早寝付き本領発揮し、缶ビール一本ですぐに寝ました。しかし、改札がまわってきて12時前に起こされた。日付変更ラインの高崎までの料金を払い、8月31日付のはんこを青春18切符に押してもらいます。これで、31日の夜24時まで、JR在来線は乗り放題です。

 朝4時56分に新潟駅に着いたら、ムーンライトえちごを降りた他の客がホームを走っている。なんで走るのかなと思ったら、となりのホームに新潟発村上行きの電車が待っていました。つられて私も乗り込みました。村上からまた皆が走る方へ行ったら、羽越線酒田行きでした。青春18切符利用者たちは、ガイド本やネット情報で、どうやったら在来線を乗り継いでより遠くまでいけるかよく研究しているので、彼らはおそら、青森あたりに着く夜6時ころまで電車に乗り続けることでしょう。

羽越線村上発酒田行き


 羽越線の車内中吊り広告を見ていると、すてきな建物の写真がポスターにありました。車掌さんに「あの建物の最寄駅はどこですか」と質問。車掌さんは、「鶴岡だと思いますが、もう一度問い合わせをして確認します」と、調べてくれました。そこで今回の旅のテーマ決定。
 「東北近代建築巡り~擬洋風建築を中心に」。サブテーマは「日本海、海の幸満喫旅行」

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ジャズダンス発表会」

2013-09-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/18
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記2013年9月(1)ジャズダンス発表会

 台風18号、被害を受けた地域の方々、お見舞い申し上げます。
 東京は、15日の日中は、東の空に虹が出て、ときおり陽も射すという程度で、16日未明が一番台風の風が大きくなりました。16日には台風一過となり、あまり被害を感じませんでした。
 台風のためにお客さんがほとんどこないのではないかと思っていたジャズダンス発表会も、無事実施できました。

 9月15日、あすかホールで行われた文化センター祭上演の部。30分のジャズダンス発表のうち、マイケルジャクソンのThe way of you make me feel と、美空ひばりのIt's only paper moon に出演しました。
 
 今回は、前に所属していたAダンスィングにゲスト参加として踊りました。
 ミサイルママは、水曜日午前中と金曜日夜のふたつのダンスサークルに所属していて、発表会も両方に出演します。私は金曜夜のサークルが今年は9月の文化センター祭には参加しないという方針だったので、水曜日のサークルに混ぜてもらったのです。みそっかすです。

 Aダンスィングは、1982年のサークル発足以来、ほぼ同じメンバーで31年間踊り続けているというジャズダンスの会です。発足時30代だったメンバーが全員60代になり、最高齢の人は、69歳70歳になっているけれど、今でもはつらつとフラメンコやジャズダンスを踊っています。

 普通なら、60代のおばはんのダンスなんぞショーモナイもんだろうと思うでしょうけれど、このサークルのダンスはほんとうにみな上手ですし、なにより素人のジャズダンスサークルが31年続いているということ自体がすごいと思います。

 私はへたっぴぃなので、いつもは発表会に誘われたりしないのですが、今回は、仕事や親介護のため「今年の発表会には参加しない」と決めた人が2人いて、参加すると言っていた人がひとり怪我をするという事態で出演者が不足し、急遽、元メンバーの私にゲスト参加のお声がかかりました。7月中旬から9月13日までの練習でなんとか曲を覚えました。

 私が所属している金曜日のサークルは「今年の発表会は不参加」と決めたのですが、メンバーは、この秋にそれぞれ「オペラアリア発表会」「区民合唱祭」などでの発表があって忙しく、何も発表の機会がないのは私だけでした。
 「メンバー足りないから、E-Naちゃん、出てくれない?」と誘われて、ふたつ返事で出ることにしました。下手なのに。

 1年に1度くらい、人前に出て自分の姿をさらす緊張感があることは、肉体にも精神にも大きな影響を及ぼします。
 みなが上手なのに、私が加わると踊り全体のレベルが下がってしまうことを、先生は承知の上で指導してくれました。私のおなかをポンポンたたいて、「E-Naちゃん、このおなかを発表会まえになんとかしないとね」と、先生はおっしゃったのですが、発表会前に「海の幸満喫日本海旅行」をしたので、おなかのポンポン太鼓の音はますます響きがよくなりました。
 それでもめげずに舞台にたちました。 

 13日の午後、あすかホールでリハーサルが行われた段階で、私はまだ振り付けを覚えきれておらず、メタメタに間違えておどりました。
 これじゃあんまりだ、と思ったので、リハーサルのあと、2時間ひとりで振り付け順番を特訓して、すっかりくたびれましたが、なんとか覚えました。
 14日土曜日は、金曜日のサークルメンバーが豊島区と北区で合唱団の一員として出演するというので、王子と池袋をかけめぐっての鑑賞。歌を聴きながらも、足でステップをとりながらで必死で振り付けを確認しました。

 そして9月15日当日。
 シャンソン歌手のゆみさんは、練習中はみそっかす参加の私に振り付けを教えてくださり、発表当日は、「E-Naちゃん、そんなメイクじゃダメッ」と、メイクを全部やりなおしてくれました。踊る私、つけまつげして気分だけはダンサー「E-Na(イーナ」です。

 ゆみさん、ありがとう。お世話になりました。
左がゆみさん右がダンサーのE-Na


 マイケルジャクソンのThe way you make me feelの方はひとつも間違えずに踊れてやれよかった、と思ったら、美空ひばり歌唱のIt's only paper moonは、めためたに間違えてしまいました。
 見に来てくれた娘は、「間違えても平気な顔して踊っていれば、そういう振付かと思ってわからないのに、母は、あれ、間違えちゃったテヘッっていう顔して笑ってごまかそうとするから、間違えたことが振付知らない私にもよくわかったよ」と評されてしまいました。
 カメラ係をしてくれた息子には、細く見えるように写してね、と頼んだのですが、隠しようもない太さ。

 ペーパームーン、左の太いのが私、真ん中はミサイルママ。本当は、私が真ん中で左がミサイルママの立ち位置でした。本番になったら位置が逆転してしまったのです。


 金曜日夜のダンスサークルの仲間も見にきてくれて、「E-Naちゃん、かわいかったよ」と、髪につけたかわいいリボン飾りを褒めてくれました。トホホ。


 ラストのごあいさつ。向かって一番右が私。



 毎年9月のジャズダンス発表会出演の話を書いていて、毎年「今年じょうずに踊れなかったのは、この体重のせい。来年こそはダイエットに成功してもっとじょうずに踊れることを証明しよう」という決意を書いて終わっていました。
 毎年代わり映えないことを、今回も深く反省。もうちょっとやせたら、きっともっとじょうずにおどれるはず、、、、

<つづく>
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ぽかぽか春庭「土方巽疱瘡譚inベーコン展」

2013-09-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/17
ぽかぽか春庭ダンス・ダンス・ダンス>踊る阿呆に見る阿呆(4)土方巽疱瘡譚inベーコン展

 5月、近代美術館でベーコン展を見ました。招待券で入館したのでを図録も買いました。



 好きになれそうな画家とは思っていなかったのですが、「値段で絵を見る」というシロート鑑賞法の私。調べてみると、2011年6月のロンドン・クリスティーオークションで、ベーコンの「肖像習作Study for a Portrait」(1953年)は落札価格約1800万ポンド(1ポンド150円で計算すると27億円)。ありゃりゃ、そんなに高い絵だったのね、それじゃ、招待券無駄にしちゃもったいない。

 フランシス・ベーコン(1909-1992)。
 フランシス・ベーコンは、20世紀芸術のもっとも重要なひとりとして挙げられる芸術家です。でも、日本で展示されている作品が5点のみで、私は見たことがありませんでした。1984年に近代美術館で没後10年の回顧展というのが行われたときは、娘がまだ1歳で子育て中心の生活、回顧展開催のニュースすら知りませんでした。

 フランシス・ベイコンの生涯を描いた映画『愛の悪魔/フランシス・ベイコンの歪んだ肖像』が1999年に公開されたときも、坂本龍一が音楽担当しているというので、ニュースになったのかもしれませんが、まったく知りませんでした。知っていたとしても、ベイコンと、彼のモデルであり恋人でもあったジョージ・ダイアーとの仲を描いた「ゲイの愛憎」を描いた映画と思って、少なくともお金を出しては見なかったでしょう。
 ダイアーは、上掲のポスターに描かれている顔の人。映画では、「もとコソ泥」で、ベイコンの部屋に盗みに入ったところを見つかってベイコンの恋人になった、と描かれています。ダイアーは、天才破壊型のベイコンのモデルとして恋人として生きるのに疲れたのか、自殺してしまいました。

 「スフィンクス-ミュリエル・ペルチャーの肖像」は近代美術館の所蔵作品なので、展示してあった時期もあったのでしょうが、私が常設展を見た中では記憶にありません。
唯一の近代美術館所蔵作品「スフィンクスーミュリエル・ペルチャーの肖像」

 描かれているベイコンの友人ベルチャーは「スフィンクス」という名前のゲイ・クラブを経営し、ゲイであることを公表していたベイコンを「私の娘」と読んでいた女性経営者だそうです。

 ゆがんだ顔が印刷されいる招待券を見ても、そんなに見たくてたまらない、という絵でもありませんでした。でも、30点余りの展示作品を見たあとでは、27億円払っても所有したいという人がいるのが納得できる現代美術でした。
 「人間がここに存在する」ということをとことん突きつめ、ねじれゆがんだ姿で映し出す。抽象画全盛の時代に具象を貫いて、描き出された肖像の数々。法王の姿あり、元コソ泥の恋人あり、ゲイバーのマダムあり。どれもがひりひりするような存在感をつきつけてきます。

 ベーコン展のもうひとつの収穫。暗黒舞踏の土方巽(1928 - 1986)の舞踏譜が展示されていたこと。
 振り付け師はダンサーに体の動きを見せながら振り付けを覚えさせていきますが、譜面にも振り付けを残します。自分の頭にある踊り方の手足の動かし方移動の方法などを細かく描写し、ときに絵をそえて、ダンサーが振り付け師がいなくても踊れるようにするのです。舞踊譜Choreography Note)は、映画撮影もビデオカメラもない時代からあり、古くはエジプトピラミッドの時代から舞踊の記録が残されています。

 クラシックバレエや雅楽など、古くからのある踊りの振り付け譜には、形式が整っているものもありますが、土方らが創始した舞踏(暗黒舞踏butoh)の記譜法とはどんなのだろうと興味津々でした。

 土方の舞踏譜は、イメージを得た絵画をスクラップして貼り付けていたり、自分のことばでイメージを書き付けていたりしています。

 土方の舞踏フィルムや舞踏譜は、慶應義塾大学アート・センターの「土方巽アーカイヴ」で収集研究が行われており、今回はベイコン展に合わせて、土方の舞踏譜の中からベイコンの絵画作品からインスピレーションを得て作譜された舞踏譜が展示されていました。

 展覧会には、土方の「ベーコン初稿」のほか、「材質篇」「なだれ飴」が展示されていました。また、慶応アーカイブ所蔵の「疱瘡譚」の一部がエンドレスで映写されていました。

 ベーコン展図録に掲載されている土方巽『疱瘡譚』
スチール撮影by小野塚誠

 慶応アーカイヴの森下隆さんによる土方舞踊譜の解説。

 土方の「舞踏譜の舞踏」ではすべての動きに名前が付けられています。つまり記号化されているのです。その動きを繋げていけば作品になっていくというのが土方の「舞踏譜の舞踏」の創作方法でした。だから、いわゆる台本の類はなくて、「舞踏譜」と呼ばれるものが残されています。
 「舞踏譜」として、土方が画集や美術雑誌などのからの絵画作品の切り抜きを貼り付けたスクラップブックがあり、これらに新しい動きの原理についてのメモがあり、絵画を動きのリソースにしたり、動きの名前や切り抜きのどこをどう使うとか、どういう衣裳にするかといった書き付けを見ることができます。また、大きな模造紙に記したもの、ちょっとした紙切れに書き付けたものなどいろいろあります。「舞踏譜」の中でその内容が一番はっきりわかるのは、稽古のときに土方が喋ったことをお弟子さんが筆記したノートの類です。ここに、動きの名称と動きの注釈というか、暗喩的な詩的な表現ですが、イメージをインスパイヤーする言葉が残されています。


 
「疱瘡譚」1972/10/25 inアートシアター新宿
 http://www.youtube.com/watch?v=ks8bCtAyRUY

 youtubeにUPされているのは慶応所蔵映像ではなく、海外で上映されたものらしくアナウンスは英語。
 外国の方がupした映像で「上演場所はkyoto」となっているのですが、フィルムの最初に「東京・アートシアター新宿」というタイトルが最初にあるので、外国のbutohファンが東京と京都をまちがえたものらしい。留学生もよく間違えます。でも、「東京」という字が読めない外国人にもbutohのすごさは伝わるんだ、ということだろうと思います。

 土方没後27年。若い人には土方がどれほどの衝撃をもって世界のダンスシーンに登場したのかを知らない人のほうが多くなっているでしょう。ベーコン展に入場した人の何人かでも舞踏に興味を持ってくれればいいなと思います。
 我が家の娘息子も、麿赤兒といえば、「大森南朋のお父さん」としか知らないのです。「昔、浮世絵、今アニメ」が、日本から発信されたアートの一番有名なものでしょうが、ブトーも世界に誇る日本の身体文化。ダンスアートです。

 モダンバレエ、ジャズダンス、ベリーダンス、フラダンス、フラメンコと、ジャンルを問わずなんでも習ってきた私ですが、舞踏だけは見る専門で自分で踊りたいと思ったことはありません。ほんとうは、白塗りで顔見えなくしたほうが私には合っていたのでしょうに。

 田中泯、ギリヤーク尼崎などの舞踏を見てきたのに、元祖土方巽のダンスは生で見たことがなかった。
 40年前。舞踏全盛期、私の舞踊論の師匠であった市川雅先生が「僕、スケジュールがいそがしくてこの公演行けないから、これあげるよ」と、券をくれたもののみ見ました。舞踏を自分でお金を出して見たことがなかった。土方巽の公演は、雅先生がどんなスケジュール忙しくても必ず見たので、私にはチケットが回ってこなかったのです。

 そうそう、書きたいことのひとつが舞踊評論だった時期もあったんでしたっけ。(遠い目)。自腹切ってbutohみようという心がけもなかった者に舞踊評論ができるはずもなし。若い頃に、ただで見ようなんて根性で、映画見てもダンス見ても身につかないってことでしょう。

 井上ひさしの若い頃の映画鑑賞法。朝一番に映画館に入る。昔の映画は入れ替え制ではなかったので、握り飯かじりながら、そのまま夜まで5回くらい同じ映画を見る。一度目は普通に面白がって楽しむ。二度目はどこで客が笑い、涙するか客の反応をうかがう。三度目は画面の作り方に注目する。画面はアップなのか、引きなのか、どこでパンしているのか、などの作画術。三度見るとだいたいセリフを暗記してくる。四度目はセリフをノートに速記しながら見る。五度目は、写し取ったセリフに過不足ないか校正しながら、画面説明ト書きを加えながら見る。これが映画鑑賞スタイルであったと。

 ダンスも同じ。本当に舞踊について書きたいなら、ひとつの公演を続けて5度や6度は見て、自分で舞踊譜を書いてしまうくらいでなければ、舞踊評論なんて書けなかったでしょうに。見る阿呆の私はほんとうに阿呆なだけでした。

 阿呆でもなんでも、よさこいソーランもクラシックバレエも、楽しむことができて、人生楽しみが多いほうがいいなあと思うのですが、なんと言っても一番の楽しみは、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊ること。
 9月15日、日曜日。駅前「あすかホール」で、春庭のダンス、披露してきました。楽しかったです。次回は、踊る阿呆の報告です。 

<おわり>
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ぽかぽか春庭「マイヨーのLac」

2013-09-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/15
ぽかぽか春庭ダンス・ダンス・ダンス>踊る阿呆に見る阿呆(3)マイヨーのLac

 『ジゼル』は『白鳥の湖』と並ぶ古典中の古典バレエで、ロシアのマリウス・プティパによる振り付け構成校生演出が、継承されて上演されています。8月に清里のフィールドバレエで見たバレエシャンブルによる『ジゼル』もプティパ版でした。こうした古典は確固としたイメージを作り上げているので、新しい振り付けをするのは振付家にとって意欲もわくでしょうが、失敗の可能性も大きく、挑戦のしがいがあることだろうと思います。マシューボーンの『白鳥の湖』は、白鳥が姫ではなく男という大胆な変更で大成功を収めました。

 3月に録画したのに、春休み中に見る時間がとれず、夏休みになってようやく見ることができたバレエの録画(NHK2013/3/18)。ロンドンロイヤルバレエ団が上演したアシュトン作品集と、モンテカルロ・バレエ公演 ジャン・クリストフ・マイヨーの 「LAC(白鳥の湖)」
 どちらもたいへん印象的なバレエでした。

 フランス語のLacとは、英語のLakeすなわち「湖」のこと。バレエ『LAC』は、モナコ公国モンテカルロバレエ団を率いるジャン・クリストフ・マイヨーがチャイコフスキー作曲『白鳥の湖』の新演出新振り付けに挑戦した作品です。斬新で見事な現代の作品に仕上がっていました。

 Lacの主役は白鳥オデットではなく、黒鳥オディールでもありません。古典の『白鳥の湖』だとロッドバルトと呼ばれている悪魔。可憐なオデットに呪いをかけ、白鳥の姿にしてしまう魔法使いなのです。
 Lacの主役、夜の女王をバレエ団のトッププリマであるベルニス・コピエテルスが演じます。白鳥=アニヤ・ベーレント、黒鳥=エープリル・バール、王子=ステファン・ボルゴン、王子の腹心=イェルン・フェアブルッヘン、国王=アルバト・プリエト、王妃=小池ミモザ

一番左が小池ミモザ


 マシューボーンの白鳥の湖と異なり、登場人物の設定は古典のとおりなのですが、主役が夜の女王であること、王と女王が重要なダンサーであること(古典版では王と女王はパントマイムをするだけで普通は踊らない)、古典版ではオデットとともに白鳥の姿に変えられた侍女たちがコールドバレエ(群舞)をつとめますが、マイヨー版では鳥たちは白鳥ではなく、灰色の羽の衣装です。夜の女王に完全に支配されていてオデットをいじめたりします。四羽の小さな白鳥の踊りも三羽の白鳥の踊りもなし。

 古典版では王と女王は王子の花嫁探しに一生懸命なだけで、キャラがたつ役ではないのですが、マイヨー版では、王は宮廷の侍女や王子の花嫁候補にちょっかいを出したり、夜の女王の色香によろめいたりする際立ったキャラ。スキンヘッドのアルバト・プリエトが権威もありながら人間的な王を演じていてとてもよかったです。女王は王子を愛していますが、王子の花嫁はことごとく気に入らず、夜の女王が花嫁候補に押し付けてくるオディールに王子が心動かされたりすると、激しく嫉妬する複雑な役どころ。日本人ダンサーの小池ミモザが見事に演じていました。

 王子は、第1幕では遊び好きであまり深刻に物事を考えない軽いキャラです。夜の女王にオディールを紹介されるとたちまちウキウキしてしまう。しかし、夜の湖でオデットに出会い、少しはものを考える大人になっていきます。しかし、第3幕の仮面舞踏会で夜の女王に騙され、オデットに化けたオディールに愛を誓ってしまいます。オディールは途中で白鳥の羽が黒い羽混じりに変わる演出。黒鳥の見せ場である32回転のグランフェッテもなし。

王子と灰色の鳥のコールド


 第4幕にも王と女王が出てきて踊ります。最後、王子はオデットとの愛を貫き、死をもって夜の女王に対抗します。
 クラシックとモダンバレエ、コンテンポラリーダンスの技法で振りつけられていますが、ダンサーたちの見事な演舞で振り付けが生きていました。

 クラシックでは気にならなかったことが、マイヨー版で気になりました。なぜ夜の女王はこれほどまでに王室に娘を押し込もうとし、王と女王をコケにしたかったのか。前に王室によって何かひどいことでもされたことの復讐なのか、ということ。

 舞台中継ではなく、最初から映像作品として撮影されているビデオで、バレエの前に昔の白黒映画風の映像がありました。幼い王子がオデットと仲良くなると、夜の女王が自分の娘を王子と仲良しにさせようとしてオデットを排除しようとする、という映画なのです。この映画部分を含めても、夜の女王が娘を王室にいれて王室を乗っ取ろうとするのはなぜなのかわかりませんでした。

 古典バレエでは、なぜロットバルトがオデットや侍女たちを白鳥に変えたのか、なんてことはまったく気にならなかったのに。主役が夜の女王だから気になってしまいました。

 ロンドンロイヤルバレエ団のアシュトン振り付け作品の上演。「アシュトンセレブレーション」
 「ラ・ヴァルス」「モノトーンズⅠ&Ⅱ」などに日本人ダンサーが起用されていて、小林ひかる、平野亮一、高田茜、それぞれ美しいプロポーションで表現力もあり、活躍しているようす、うれしかったです。

 1949年木下惠介作品『お嬢さんに乾杯』で、主人公がお嬢さんといっしょにバレエを見るシーンがあるのですが、出演している貝谷八百子バレー団のダンサーたち、揃いもそろっておでんにもふろふきにもよさそうな大根足なのです。これが1949年の日本人女性の体型なのだと感慨深く映画を見ました。
 それから60年。よいバレエダンサーの条件とは足の長さだけではありませんけれど、モンテカルロの小池ミモザもロンドンロイヤルの日本人ダンサーたちも、「足、長っ」と思いましたもん。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ダンス甲子園2013」

2013-09-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/14
ぽかぽか春庭ダンス・ダンス・ダンス>踊る阿呆に見る阿呆(2)ダンス甲子園

 踊る阿呆の私は、クラシックバレエもジャズダンスも、ベリーダンスもフラダンスも習ってきて、どのジャンルのダンスも好きなのですが、若い人に人気のストリート系のダンスは無理。そして日本が世界に発信したユニークなジャンルである舞踏Butohも踊ったことがありません。ほんとうは、私の脚短く重心低い体型から思うに、ブトーが一番適したダンスであろうと感じます。

 しかるに、見る阿呆の面からいうと、一番好きなジャンルは創作舞踊、モダンダンスです。中学校のときテレビでポール・テーラー振り付け作品を見て、大感激。こういう作品を作りたいと思いつつ中学校や女子高校のダンス授業を受けました。

 学校の科目に音楽と美術や書道があるから、両親は妹をオルガン教室や絵画教室に通わせ、姉はお琴や書道を習いに行きました。私はピアノを習いに行きましたが、お稽古事で一番習いたかったのは、バレエでした。しかし、学校の教科に舞踊というのはないという理由でバレエを習いたいという希望は却下されました。
 2012年4月から、ダンスが中学校体育授業の必修科目になりました。あ~あ、60年前から学校授業必修科目であったなら、よかったのに。

 私が学校でダンスを習ったのは、中学校と女子高で女子体育授業選択科目のひとつとしてでした。私の育った地域では、女子体育教育において創作ダンスが盛んで、「校内創作ダンスコンクール」も行われていました。
 私は、ダンスの振り付けをするのが好きでした。自分の足の短さ胴の太さは子供のときから自覚していて、ダンサーになりたいとは思わなかったのですが、身体によって表現することに無限の広がりを感じました。

 2013年第26回高校大学創作舞踊フェスティバルは、神戸市文化ホールで行われました。全国の高校40校大学20校が選抜され、練習の成果を披露しました。高校野球にも伝統の強豪校や初出場校があるように、ダンス甲子園も毎年出場する常勝校あり初出場の初々しいダンスあり。

 8月25日にNHK放映された録画を見ました。受賞チームのダンスのみの放映でしたが、できれば参加校全部見てみたい。BS深夜帯でもいいから、全校のダンスを放送してほしい。


 受賞校の作品は、それぞれにすばらしい振り付け構成、舞踊でした。表現したいひとつのテーマに沿って、先生が振り付けるチームもあるし、学生がアイディアを出し合って動きを決めるチームもある。

 ローザンヌバレエコンクールなどと違い、個人の舞踊技術が審査されるのではなく、チームの動き全体を評価されるので、8人で踊ったところも30人の大所帯で美しい群舞を見せたところも、チームみなが心を合わせて踊っていることがよくわかりました。

 会田誠の「灰色の山」、草間彌生の作品など、現代アートを主題にしているところもあり、歴史的な「踏み絵」をテーマにしたところ、親に愛されず育つアダルトチルドレンを表現したところあり、見ごたえがありました。

 今年もダンス甲子園、見ることができてよかったです。ダンス甲子園が終わった翌日から、来年の出場めざして、高校生も大学生も練習が始まります。
 来年はどんな表現に出会えるでしょうか。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「スーパーよさこい原宿元氣まつり」

2013-09-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/12
ぽかぽか春庭ダンス・ダンス・ダンス>踊る阿呆に見る阿呆(1)スーパーよさこい原宿表参道元気祭

 8月の最終土日、原宿と表参道でよさこいフェスティバルがあります。今年は8月24日25日。雨が降っていたり用事があったりで毎年というほどではないですが、用事がなければ、見に行きます。たいてい、明治神宮文化会館ステージでの演舞を、椅子に座って見ることにしています。

 今回は、8月末に帰国するという留学生とランチするという約束が25日にあったので、午前中に明治神宮文化会館ステージ1時間ほど見て、吉祥寺でランチ、また原宿に戻ってどのチームが大賞を得たか原宿ステージの踊りを見届けるという変則観覧でしたが、例年にも増して力をつけたチームの演舞を楽しみました。



 「よさこい」は本来は土佐地方の民謡とその踊りであり、振りも盆踊りや祭り踊りとして誰でも踊れる素朴なものだったと思うのですが、各地で「よさこいソーラン」とか「よさこい八木節」とか、地域おこしも含めてさまざまに踊られるようになり、振り付けも年々複雑に派手になっています。

 小さい子供からお年寄りまで「家族みんなで踊っています」的な「心あったか、踊りはゆる~く」という雰囲気のチームも楽しくていいのですが、若いパワーにあふれた躍動感ある振り付けを見ると、わくわくしてきます。
 「よさこい」の振り付けは、あでやかな衣装や傘ちょうちん扇子などの小道具の扱い方も大事ですし、それほど高い舞踊技術がなくても振り付けの善し悪しや構成力によって華麗な演出が可能です。



 原宿元氣祭りでのよさこいも、12,13年前の見始めのころからみると、各チームの踊りの技術が格段に上がっていると感じます。踊りの基礎的な訓練を全員が着実に身につけていると感じるチームが増えました。クラシックバレエでもジャズダンスでも基礎訓練はほぼ同じです。

 踊りの基礎的な訓練、いろいろな基礎がありますが、たとえば、普通の人がくるくると体を回転させると目が回ってしまいます。ダンサーは何度回転しても目を回したりしない訓練を積んでいます。よさこい踊りでも回転を取り入れる振り付けをするチームもありますが、回転のあと目を回していたら、次の踊りができない。それが、全員でくるくるりと勢いよく回転する振り付けなどを見ると、ああ、ちゃんと訓練できているなあと思うのです。

 観客たち、青山通りやNHK前の流し踊りのパレードを見るのが好きな人もいるし、私のようにステージで踊るのを見るのが好きな人もいます。審査員はNHK前のパレードを見て採点しているとのことなので、移動しながらの流し踊りのほうがステージ用の振り付けより重視される、ということなのでしょう。
 受賞しなかったチームも、日頃の成果を観客に喜んでもらえることが何よりのごほうびと思うので、私もいっしょうけんめい拍手しました。

 受賞作品の採点の基準も、踊りの技術が上かどうかよりも、全体の調和や構成を見ているように思いました。今年は参加90チームのうち、ほんの一部しか見られなかったのですが、ビデオカメラを回しているファンが大勢いて、翌日26日には早くもyoutubeにアップされていたので、いくつかのチームの踊りをパソコンで見ることができました。

 大賞は東京の「しん」というチームが受賞しましたが、入賞15チームのうち、8チームは高知県のチーム。関東以北のチーム、10月には池袋でよさこいコンクールがあるから、次がんばってね。

「しん」のウィニングダンス


<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年のアフリカの日々」

2013-09-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/12
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003年9月(8)

 2003年日常茶飯辞典日記コピーつづき。
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2003/09/26 金 曇り 
トキの本棚>『アフリカの日々』

 NUBAの話で、『アフリカの日々』を思い出した。ケニアに行くまでのNo1は『NUBA』だったが、帰国後No.1は、ディネーセン『アフリカの日々』だった。

 レニにも、アイザック・ディネーセンことカレン・ブリクセンにも、「ヨーロッパで教育を受けた女性」からの一方的な視線がアフリカに注がれているという批判もあるそうだ。私はそうは思わないが。

 シュバイツアーや『野生のエルザの』のジョイ・アダムソンについて、「あれは、白人文明側の視点でアフリカを見ているのだ」という批判をするのが、ひところのはやりだった。そうは言っても、シュバイツアー以前にアフリカの医療を志す人はいなかったし、アダムソン以前にアフリカの野生動物保護について広報効果がこれほどある作品をヒットさせた人はいなかった。

 柿実さんを誘ってロードショウを見にいった映画『愛と哀しみの果て』は、最初のシーンから涙があふれて見続けるのがたいへんだった。レニの『ヌバ』とディネーセンの『アフリカの日々』は、いわば私の「青春のアフリカ」とともにあるのだ。

本日のつらみ:子供たちが動物園大好きなうちに、ケニアのゲームパークへ連れて行こうという約束はとっくの昔にほご。今ではテレビゲーム専門の子供たち

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2003/09/27 土 晴れ
ニッポニアニッポン事情>匿名と家族のプライバシー

 4度目のページ更新をするために、朝からパソコン編集。気を付けて地名個人名の匿名化をしているつもりなのに、アップしてブラウザで見ると、本名のままのところが残っていたりする。2003年3月分をアップ。

 匿名についての感想。
 ある弁護士がプロバイダーを訴えた事件で、数日前に、勝訴のニュース。
 自分を誹謗した記事が掲示板に載った。書き込みした人の名前の公開をプロバイダーに要求し、勝訴したのだ。
 別の裁判で、この弁護士が原告側として担当した会社は、「自分の会社を誹謗され損害を被ったので、掲示板に誹謗記事を書いた人間の本名住所を公開せよ」とプロバイダーへ要求した。こちらは、敗訴となった。だから、弁護士の裁判は逆転勝訴とも言える。

 ウェブの問題が裁判となったとき、まだ判例がない問題について、裁判官の意識やウェブについての関わりようで、裁判がひっくり返る可能性がある。判例がない裁判の判断を下せる能力を持つ裁判官は少ない。みんな前例主義。過去の判例を繰り返していれば定年まで安泰の職業。

 私が匿名で日記をウェブに載せているのは、娘と息子が「母の趣味で日記公開するのは、自分の人生だから好きにしていい。でも、絶対に子どものプライバシーが保てるように個人情報を管理しろ」と言われれているからだ。

 それにつけても、日本文芸のお家芸である「私小説」に関して、家族はどう思っているんだろう。作家が家族親戚友だちについて書くこと。

 柳美里のプライバシー問題では、柳美里敗訴。これは「表現の自由」とは別問題だと感じた。原告は作者の知人だったとはいえ、一般生活者であり、作者の家族でもない。作品を発表した金で生活を支えてやれる範囲の人が家族、という意味で、家族は、作家が自分をモデルにすることに対し、ある程度、作家自身と一心同体の面がある。
 しかし、印税をモデルにすべて渡すという契約をかわしたわけでもない、一般人であるなら、作品中のモデルが特定できないようにするのが、作者の「書くことに一生をかけるための倫理規定」だと思う。それをしないで、安易に個人特定できる書き方をしてモデルの心を傷つけることは、やはり避けるべきではないか。難しいな、表現の自由とプライバシー。

 政治家や芸能人など「人に我が身を晒してナンボ」という人のプライバシー問題でも、最近プライバシーを侵害されたという側の勝訴が多い。個人情報管理への配慮から勝訴が多くなっているようにも感じる。
 個人情報管理法などと言わずに、「政治家がヤバイ問題を起こしたときに、やたらにすっぱ抜かれずに済む法」と言えばわかりやすのにね。通信傍受法は「警察が、勝手に盗聴して個人情報を盗む法」だし、「住民基本台帳の一部を改正する法」は、「情報が漏れてしまうことはみんなに我慢してもらって、国家が国民の情報を管理する法」だ。

 作家と家族の情報問題。
 車谷長吉は、親戚中から総スカンで、母親からも「家族の恥を世間にさらして」と、責められ続きだという。どこまでが「作品をさらすことによって、利益をえることのできる家族」なんだろう。少なくとも、長吉の母親は、すでに「車谷長吉の母」という「社会的な地位」を得た人、と言える。車谷がもらいたかったのは芥川賞の方で、直木賞は不本意だったとはいえ、世間的には「直木賞作家の母」になったのだ。「直木賞作家の母などになるより、世間から視線を集めることなく静かに暮らしたい」と思っていたお母さんなのかも知れないが、息子が賞をとってしまった以上、もうこれは運命と思ってもらうしかない。

 松本人志の母親が「松本人志の母」という資格で講演やバラエティ番組で稼いでいたり、金八先生武田鉄也の母が「こらぁ、鉄也!」のタバコ屋の母として、亡くなるまで講演しまくったように、書かれることによって、家族親戚の人生がいい方へ向くなら、書かれたことが付加価値をもたらし、被害より得たものが大きいと言える。

 古くは、逍遙、鴎外、漱石、八雲、茂吉、朔太郎の子孫たち、近くは中上紀、阿川佐和子&檀ふみコンビ。ばなな。露伴のところなんか、文、玉に続いて四代目まで文章で食べている。持つべきは文豪の父、母。
 大江健三郎のように、「知的障害を持つ息子」について書くことが、「一家総出の産業」のごとき様相になっていれば、それはそれで「家族みんなで、ご精がでますね」と言える。

 結論。文学が価値を持てば、必ずその周囲の人に恩恵はある。書かれた人間はどんなに悪口書かれようと、それを「自分の資産」として、自分の人生に付加価値をつければいい。

 さて、資産にもならないウェブ日記の場合。無料で公開し、収益といえるものは、書いた人の「自己満足」だけである。「だれかに読んでもらってうれしい」「だれかとネットワークで繋がったかも知れないからうれしい」というバーチャル人間関係構築のはかない夢のうれしさ。
 そんなバーチャルうれしさは、自己満足の範囲にとどまっていて、家族には何の足しにもならん。これじゃ、ただ書かれっぱなしの家族はたまらんぞ。

 ゆえに、私は匿名にしている。せめて、しがないパート仕事を解雇されないよう、気をつけなければ。パート先の上司の悪口など、書いてしまっているからなあ。

本日のひがみ:プライバシーが問題になるほど読まれもせず

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2003/09/28 日 晴れ
ニッポニアニッポン事情>スポーツ選手の赤い髪

 一日中OCNカフェ。去年の夏、秋は旅行したくてたまらなかったが、今年は旅行パンフレットをながめても、ぜんぜん出かける気にもならず、ひたすら日曜日も朝からネットでスゴしている。そうとう重症かな。ニュースコメントコーナーをはじめた。

 私のニュースコメントといっても、ネタ元は新聞テレビのほかはない。新聞は、ラストのテレビ欄から見始めて、漫画がある社会欄、だんだん前へ行って、最後は題字のある一面。時間があるときはベタ記事、広告欄、求人広告まで全部読む。時間がないときは、見出しをながめて、おわり。同じ新聞を読んでも、娘と息子ではそれぞれ興味が違うので、お互いに面白かった記事を紹介しあうと、見逃したところがわかる。

 今朝の新聞ネタ、息子が熱心に読んでいたのはコスタリカの戦争放棄憲法について。「コスタリカは識字率95%だって、すごいな。軍事費を使わないで、教育費に充てたから達成できたんだ」と、感心する中坊息子。これという産業もない途上国で、国民の識字率を95%にした国がほかにあるだろうか。
 娘が興味を示したのは、十勝沖地震で、ぐずぐずに崩れた十勝川の堤防の写真。液状化現象によって、川の堤防がグジャグジャになっている。かろうじて水が漏れ出すことはなかったが、地震の方向や大きさ次第では、洪水になる。
 「これじゃ、東京に地震があったら、我が家のまわりは海になるなあ」普段、川の土手はよい散歩コースだが、災害になれば、ひとたまりもない。

 渡辺オーナーとの軋轢から原監督が辞任したというニュースがスポーツ欄のトップ記事だった日、我が家のトップスポーツニュースは、最下段のベタ記事「ハーフタイム」に書かれていた、柔道連盟が、選手の身だしなみに関するガイドラインを作成、というニュースだった。「柔道選手としての品位を保つために、ガイドラインに反したら代表に選考しない」という。3人してあきれ果てた。

 世界柔道選手権を見て、ヤワラチャンの連覇以上に、我が家で好評だったのは、お堅い柔道界にも、ついにレッドヘアの選手が登場したことだった。「これって、絶対にあとで、苦情とかがよせられるんだよ、きっと」「でも、こうして代表になって出場しているってコトは、柔道連盟が公認したんだろう」「やっと、柔道界も開けてきたか」と話していた。

 水泳連盟が、古橋トップのお気に召さない態度をとったからと、千葉すずをシカトした。水泳部員の娘と息子「これじゃ、日本の水泳は強くなれない。いつまで精神論だの、日本魂だので勝てるつもりなのか」と、嘆いていた。

 柔道も、やっと「赤い髪で戦いたければ、そうしたらいい、黒かろうが赤かろうが、勝てばいいんだ」と、開放されたのかと思っていたら、そうではなかった。

本日のたたみ:畳の上の勝負、髪が黒ければ、有効が一本に変わるとでも

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2003/09/29 月 晴れ、朝ひつじ雲
日常茶飯事典>「おい!老い、笈の小文」

 カフェ日記のタイトルは「おい!老い、笈の小文」。
 コンテンツをニュースコメントと本の紹介一日一冊、と決めた。毎日更新目標。さて、いつまで続くか。ニュースの中でも、「老人ネタ」がメイン。

 「七味日記妬み嫉み僻み」のほうは、毎日のすべったころんだ、うらみつらみを書いて憂さ晴らし、「笈の小文」は、来し方振り返っての自分語り。1977年以前に読んだ本を著者名「あいうえお」にたどりながら、本の思い出と、「老い」や「高齢者」に関わるニュースを連結させて自分語りをするというのがコンセプト。

 高齢者ニュースネタと、本のタイトルの「連動」を考えるのが難しい。難しいから面白い。無理矢理なこじづけにもなるし、うまく行って、「フッフッフ、お主、芸人やのう」と、うまくいき具合を自分で楽しめるときも。あいうえお順じゃなかったら、ニュースから本を思い浮かべればいいのだけれど、自分の「しばり」として、著者名あいうえお順を決めたから、最初の「あ~わ」は、50日分やってみる。

本日のなじみ:古い本を本棚から引っ張り出すと、昔なじみにばったり出会った気がする

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2003/09/30 火 5
ジャパニーズアンドロメダシアター>『タイタニック』

 ビデオにとって見始めたのに、前編をみただけで娘が「私、もうパス、後編見なくてもいいや。ローズが両手を広げて船の先頭に立ち、デカプリオが押さえている、あのシーンさえ見れば、あとはどう沈んでいって、どう助かったかなんて、どうでもいいや」と投げ出したので、ひとりで後編を見た。
 実際に「どうでもいいや」の内容だったけれど、船の中に水がどんどん入ってくるシーンや、船がまっ二つに割れて、船が直立したり水平に戻ったりするシーンは、特撮効果がよかった。

 一番カッコ良かった人は、デカプリオじゃなく、最後まで演奏を続けた室内楽団の人たち。船上の演奏に雇われたのだから、ヨーロッパ本国やアメリカでそれほど名のある演奏家たちではなかったろう。たとえ三流の音楽家ではあっても、音楽を続けることが彼らの人生であり、演奏することが生きることであった、というミュージシャンの姿に涙した。

 氷の海に投げ出されて、零下の水温に心臓を止められた人々が幽鬼のように浮いているシーン、怖かった。
 貴族や上流夫人と言われている人々が、自分のことだけしか頭にないエゴイストで、下品な成り上がり女と思われていた女性が一番人間の高貴な心を持っていたという部分は、ストーリーが始まってすぐ予想できたが、ローズが最後にネックレスを海に沈めるシーンは、予想できなかった。おいおい、美しい思い出を海に沈めたりせんと、それを売って、タイタニック遺児の奨学資金にしろっていうの。

本日のひがみ:私は一番下の船室にいて、ぜったいにボートに乗れない側だからなあ

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2013/09/11

 2003年の日記コピー「ブログ事始めの夏」。
 一日千字を10年間書き続けることができたら、自分を「物書き」としてスタートしてよいのだ、とは、宇野千代が雑誌だったか新聞だったかの「人生相談」に書いていました。
 「どうやったら作家になれますか」という作家希望の青少年の相談へ、千代が回答したことばでした。

 「身の回りのことでも、身の上話でもいいから、何か一つテーマを決めて、テーマに沿って毎日新しい文章を書き続けることができたら、1年で1000枚の作品になる。それを10年続けて、それでもまだ書きたいことがたくさんあったら、それはそのテーマに対して「書き手」の資格を得た、ということで、そこからスタートする。それから10年は、よりよく書く、よりよい文章をめざす、そういう期間。最初のどんどん書く10年、次のよりよく書く10年。20年書き続けたら、もう立派な作家です、、、、と、宇野千代は回答していました。

 さて、私のテーマはこの10年、「日本語と日本語言語文化」についてでした。日本語の文法について、日本語音声について、社会言語について、言語作品について、よくぞ10年あきずに書き続けたなあと思います。
 これも、書いたことに対してなんらかのコメントをいただくことが励みになっていたためと思います。おもしろくもないことを書きなぐっても、読んでくださる方がいて、反応を寄せてくださる、ありがたいことです。

 これからの10年、よりよく書いていきたいと思います。まだまだ書きたいことはたくさんあるので。 

<おわり>
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ぽかぽか春庭「2003年9月のピンポン」

2013-09-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/09/10
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003年9月(7)2003年のピンポン


 2003年日常茶飯事日記コピーつづき
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2003/09/23 火 晴れ 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『ピンポン』

 台風一過で、空は秋の鱗雲。

 夜、テレビ放映の「ピンポン」を見た。
 原作、ビッグコミックスピリット連載中、娘は毎週見ていたが、私は読んでいなかった。松本大洋のくせの強い絵柄と相性が悪いので。『鉄コン筋クリート』のときも、内容は面白かったから途中まで連載を読んでいたが、途中で絵柄に疲れた。ピンポンも同じ。

 だから、脚本クドカン、ペコ窪塚洋介、ドラゴン中村獅童の組み合わせに大いに期待してみた。卓球場のオババ夏木マリも、コーチ、バタフライジョーの竹中直人も好きだし。

 結論、面白かった。監督はまったく知らない人だったが、CG画面の使い方もよかった。ピンポンをちょっとでもやったことのある人にとって、試合CGシーンがしらけるんじゃないかと心配していたが、すくなくとも、私のような「温泉ピンポン」程度の人間には、「アリエネー」としらけるより、「スゲー」と喜んでいられる程度のCG。もちろん実際にはアリエネー!なんだけど。ちゃんと、卓球の技術指導者が参加しているなって、感じるCGだった。

 そして、いつものことながら、私は敗者が好きなのだ。「こんなに努力したのに、どうして俺じゃなくて、スマイルなんだ!」と卓球をあきらめる「神に好かれなかった子」のアクマ君。ニヒルに「努力?天分の問題でしょ」と、軽くいなす天才スマイル君よりも、「こんなに!こんなに卓球大好きでがんばったのに!」才能なく破れていくアクマに「オトモダチ」を、感じました。連帯!
 スマイル対アクマ、アマデウス・モーツァルト対アントニオ・サリエリ。

本日のうらみ:神はどうして、えこ贔屓が強いんだ!私ども下々の教師にとって、クラス内で贔屓は御法度なのにさ

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2003/09/24 水 曇りのち雨9
ニッポニア教師日誌>後期最初の授業

 日本語教育研究クラス第一日。春学期のメンバーの半分が残った。新顔に、Bの単位を取っていない人にはご遠慮願っていますという。何人かは教室を出ていった。

 ラポール形成ワークショップとして、エンカウンター改良版。私流エンカウンターに、娘から仕入れたネルトンお見合い方式を加えて実施。
 ひとり、「Bの単位未取得だが、どうしても日本語教員養成クラス修了証がほしい。このクラスをとらないと単位が足りない」という女子学生がねばっている。しかたがないので、「そのかわり、Bでやったことは全部習得済みと見なすから、日本語教育用語は、自分で覚えてください。日本語文法の本を一冊読んで、要約レポートを提出」を言い渡す。

 夏休み前に、Bクラス全員に「Cクラスを受講する人は、日本語教室見学レポート」を提出するように言ったが、今日提出したのは、多摩川おじさんと、ホイさんだけ。
 エンカウンター、学生には好評だった。自己紹介、クラスメートとの交流、グループ作り。発表順番決め。

 途中、助教授が教室にやってきて、「BクラスとCクラスは、どちらを先にとってもいいことになっている。Bの単位未取得者でもCクラスに登録できることは、学科の方針で決められていることなので、勝手に仕切るな」といわれた。

 ま、登録するのは勝手だが、私がやりずらいのよ、日本語教育のイロハを分っていない学生が混ざるのは。もっとも、春学期にBクラスをとった学生だって、授業でやったことをちゃんと理解した学生は半分もいないだろうし、理解したことを夏休みを経ても覚えている学生はもっと少ない。
 「最初にラポール形成ワークショップをやります。ラポールって、なんだっけ」ときくと、覚えていたのは半分。
 ラポール形成して、ピアラーニングって、流行ってきた。時代が私に追いついてきたんだよ。

 出席カードに、いつもの「声だしポイント欄」と、「今日のアピール」欄を設けた。今日一日の授業の印象、感想、自己アピールのコメント欄。「今日も楽しく授業が受けられました」「先生の話、大いに笑いました」などの感想。
 自分をトリックスターにして、クラス内に笑いを満たす努力も知らず、「バカばっかり言うせんせ」と思われているのだが、いいんです。私は重厚長大な学者ではなく、一介の語学教師。おバカが「ウリ」です。

 一番受けたのは、私の新キャッチコピー。自己紹介の例として、「自分のキャッチコピーをつけてください。春学期、私のコピーは何でしたか」
 学生「ええっと、転職7回、、、だっけ」
 「ちがうでしょ、卒業7回、転職13回、です。音声表現大会で、私、ケニアに行った話をしましたね。アフリカに着いた初日に迷子になって、道案内してくれた男と結婚したって。秋学期の、新コピーはこうです。ナイロビで、迷子になって、愛を拾った。いまでは愛が迷子になってる」
 みんな大笑いだった。

 一昨年に教えた男子学生が教室の外で、授業が終わるのを待っていた。3月の卒業を単位不足でのがし、今日は、「9月卒業式」なんだって。袴姿の女子学生を構内で見かけたので、何事かと思ったら。半年遅れても、めでたい卒業。
 卒業後は、大学経営の生涯教育施設、カルチャーセンターだか、エクステンションセンターだか、そういうようなところで働くという。「おめでとう、よかったね」

 指導教官のところならいざ知らず、1年間授業でいっしょだっただけの非常勤講師の所まで挨拶に来てくれて、こちらも感激。しばらく話していたが、Bクラスを取らずにCクラスを受講するという学生に、Bで配布したテキストプリントを渡す約束をしたので、講師室に戻る。

本日のひがみ:冗談聞いて笑ってるだけでなく、教授法もおぼえてね

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2003/09/25 木 雨 
ニッポニア日本事情>101歳大往生

 夜、有馬秀子の訃報。享年101歳。9月19日まで、銀座のバー「ギルビーA」のママとして、働いていたそうだ。そのあと具合が悪くなり、25日に死去。なんて見事なんだろう。ギルビーAで飲むような高級なお酒は我が家にないけれど、秀子さんの一生に乾杯!拍手!!
 おお、それに、本日は21世紀が始まってから1000日たったところだ。切りのいい日。
20世紀を98年、21世紀を1000日生き抜いた有馬秀子さん、安らかに。

 9月はじめには、レニ・リーフェンシュタールが101歳で亡くなった。(現地時間9月8日)
 私がレニを知ったのは、映画『意志の勝利ベルリンオリンピック』をリアルタイムで見たからじゃない。いくら私が「学生からみたらおばあさん」でも、そこまではさかのぼれない。

 1979年、ケニアに出発する前、アフリカに関係する本をいろいろあさった。その中で一番感激した本が『NUBA』だった。80年の日本での写真展『ヌバ』は見ていない。
 レニは、「ナチ協力者」などの汚名をこの一冊で払拭した。すばらしく美しい写真だった。その後の海中写真は、美しいとは思ったが、ヌバほど感激はしなかった。私にとって、アフリカの人々は、『ヌバ』の美とともにあった。

本日のおやすみ:ゆっくり休んでください

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<つづく>
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