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アジサイ&あやめ散歩2011年6月

2010-05-23 09:33:00 | 日記
ぽかぽか春庭「府中郷土の森博物館」
2011/06/21
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011年6月>紫陽花&あやめ散歩(1)府中郷土の森博物館

 5月のバラ散歩につづき、6月は紫陽花散歩あやめさんぽを楽しみました。
 紫陽花は、私のふるさとの市の花にもなっていて、好きな花のひとつです。都内には紫陽花名所がたくさんあり、その何カ所かめぐってみました。
 紫陽花については、かって蘊蓄を書いたことがありました。自分ではいつ書いたのか忘れているけれど、Googleはちゃんと調べてくれる。「春庭 紫陽花」で検索してみると2004年に書いたのだとわかりました。
 http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0407a.htm

 6月4日土曜日は、4月の始業が遅れて授業が出来なかったかわりの土曜授業でした。
 「土曜日まで働いたのだから、がんばった私にごほうび」と思って、仕事帰りに寄り道して、紫陽花さんぽを楽しみました。バスで府中市へ。「ここから歩くといいですよ」という運転手さんのアナウンスで「府中郷土の森」の裏手で降り、しばらく柵に沿って歩きました。博物館正門へ。私は「府中郷土の森」の植物園部分と博物館は別物だと思っていたのですが、入場チケットはいっしょでした。せっかくなので、博物館も見ることにしました。根が貧乏性ので、料金一緒なら全部見ておこうというセコイ考えです。

 博物館で府中の郷土史を見てから、宮本常一の土佐源氏コーナーへ。『土佐源氏』は、宮本が高知県へ民俗調査に出かけた折に出会った80歳の老人からの聞き書きをもとにした作品です。馬喰をしていた男の、幼い頃からの一代記を、聞き書きの原稿は戦災で焼失したのですが、記憶と残されたメモを元に『忘れられた日本人』の一章として描かれました。その「土佐源氏」は坂本長利の一人芝居として、上演が続けられています。私はいつか見たいと思いながら、まだ見たことがありません。

 宮本の土佐源氏レコード解説用「馬喰爺さんとの出会い」自筆原稿がとてもよかった。坂本長利へあてた井上ひさしの劇場パンフレット用原稿もあり、それぞれの筆跡がとてもすばらしい。太宰の「自筆原稿で読む人間失格」や漱石の「自筆原稿で読む坊っちゃん」などは出版されている。筆跡から作品への作者の思いも伝わってきて、自筆原稿というのは、貴重だと思います。春庭は20年来手書きはせず、ワープロで間に合わせているのだけれど。

 井上ひさしの字は、とくに意識して書いてあるのだろうけれど、そのまま出版してもよい読みやすい文字で、これはテレビ台本を書く端から印刷しなければ制作が間に合わなかったテレビ草創期の作者による現場への気遣いによる筆跡なのだろうと感じました。石原慎太郎の筆跡が「専属筆跡解読者」による判読がないと誰にも読めないという「オレ様文字」であるというのとは対照的。私、悪筆ですが気が小さいので読めないような筆跡を人様に見せるほどの勇気はありません。

 府中郷土の森の公園の中には、江戸~昭和初期の府中市内の建物が復元展示されています。
 旧府中尋常高等小学校は、村山四郎記念館になっていました。村山四郎は多磨村(現在は府中市白糸台)の旧家に生まれた詩人です。村山四郎の作品でもっとも一般に知られているのは、童謡「♪ぶんぶんぶん、蜂がとぶ お池の周りに御花が咲いたよ~」の歌詞。

 園内には茅葺き農家、水車小屋などが点在し、かっての多磨村の農村光景がしのばれます。
 めざすアジサイはまだ少し早くて、満開ではありませんでしが「アジサイの小道」には青い花が咲いていてきれいでした。土壌によるのだろうけれど、ピンクや白の花は見当たらず、青一色の小道でした。土曜日の午後のさんぽを楽しむ家族連れやカップルとすれ違いながら、かって多磨地域には、このような森がひろがり、たきぎ拾いや山菜採りの家族も行き交っていたのだろうと思って、森の間を歩きました。森は開墾されて田畑に、田畑はつぶされて住宅地に。土地はどんどん変わってしまったけれど、府中郷土の森で、ぽんぽこ狸が住んでいた頃をしのびました。
http://www.fuchu-cpf.or.jp/museum/event/2011_ajisai.html

 帰りのバスは京王分倍河原駅着。駅前には、新田義貞の騎乗銅像が立っています。子どもの頃親しんだ上毛カルタの「れ」は、「歴史に名高い新田義貞」ですが、こんなところで義貞公にお目に掛かるとは。そういえば、新田義貞が太平記で活躍するのは分倍河原の戦いだったなあ。駅前のマックでコーヒー飲んで、しばし足を休めてから電車に乗りました。6月4日の行楽費、バス代郷土の森博物館入館料、館内レストランのあまりうまくないカレー蕎麦、マックのコーヒー代、合計1400円。

<つづく>
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2011年06月22日


ぽかぽか春庭「皇居東御苑の花菖蒲」
2011/06/22
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011年6月>紫陽花&菖蒲さんぽ(2)皇居東御苑の花菖蒲

 6月9日、仕事帰りの花さんぽ。東京駅から和田倉門をめざして歩きました。和田倉門の手前には、青い紫陽花が咲いていました。和田倉門内の噴水は、節電中のため中止。大手門へ御堀端を歩きました。皇居一周コースを走るランナーたち、我が物顔でスピードを出し、仕事帰りに疲れ切ってとぼとぼ歩くオバハンに遠慮もなくぶつかりそうになる。ええい、この道はランナーの専用道路じゃない!歩く人をよけて走らんかい!

 都内の散歩コースのなかでも、東御苑はしばしば訪れる場所のひとつ。(三の丸尚蔵館を含めて無料なので)
 天守閣や松の廊下跡など、かっての江戸城をしのぶことのできるところであり、大手門から同心番屋、百人番所、大番所を経て石垣の間を登っていくと、お宿下がりの「おはした」がしばしの休暇を終えて親元から大奥へ戻っていく気分。ああ、大奥勤めだとしても、自分は上臈お年寄りとか「大奥総取締役」とかではなくて、雑用係のおはしただろうとしか思えないところが残念です。御右筆くらいにはなりたいですが、なにせ生来の悪筆で、、、、、。

 今、手書きでものを書くのは、ウェブ友の「青い鳥」さん宛の葉書のみ。字が下手なので手書きは大嫌いなのですが、「願掛け、お百度参りのかわり」として、青い鳥さんへ毎月10枚の葉書を3年間送ることにしたのです。365枚送り届けると誓願成就という自分なりの願掛けです。
 季節にあった絵はがきを選び、切手を選ぶところまではよいのですが、文面は、はたして読めるのかという乱筆乱文で書き散らし。今は36枚目を送ったところです。三の丸尚蔵館で伊藤若冲の「動植綵絵」の絵はがきを買いました。若冲展をやっていたときは一枚100円だったのに、一枚50円になっていてお買い得。若冲の花の絵、そのうち青い鳥さんに送ります。

 東御苑の草花と樹木は「武蔵野の復元」「江戸の植物の復元」というコンセプトのもとに管理されています。大芝生のわきにある果樹古品種園は、江戸時代の人々が口にした果樹が植えられていて、今上御製の「江戸の人味ひしならむ果物の苗木植ゑけり江戸城跡に」という歌が掲げられていました。

 今回の目玉は、東御苑の菖蒲田。以下のサイトの写真では大勢の人が菖蒲に見入っていますが、私が訪れた木曜日の夕方、閉園時間まぎわには誰もおらず、一人でこの鮮やかな菖蒲の花々を楽しむことができました。セルフタイマーで写真をとりました。いずれ菖蒲か杜若、とはいかず、う~ん、あやめの中に姥○○一輪。(姥百合、うば桜、姥春庭、、、、)
http://www.flickr.com/photos/seagate/4695435765/
http://tokyoite.biz/year/06/syoubu_koukyohigashigyoen/index.shtml

 あやめとかきつばたは見分けが難しいとされ、「いずれ菖蒲か杜若」と、どちらも劣らぬ美しさの例えに使われる花。しかし、私にはあやめもかきつばたも花しょうぶも区別がつきません。専門家によると見分け方は「花びらの基のところに、花菖蒲は黄色、カキツバタは白、アヤメは網目状の模様がそれぞれあることで区別」という方法でわかるのだそうですが。

 仕事帰り、午後おそく入園し閉園ぎりぎりまでいて、園内パトロールの係官に「早く門を出て下さい」と追い立てられました。係官に「閉園までに門にたどり着けなかったときはどうなるのですか」と質問したら、「閉園後は皇宮警察の管轄になり、パトロールの警察犬によって人の気配をキャッチします」という答えです。さすが、警備は万全なのですね。犬に咬みつかれたら嫌だから、時間厳守で退園しなければ。急ぎ足で大手門を出ました。
 本日の行楽費。おみやげの若冲絵はがき6枚300円のほかは無料なり。

<つづく>
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2011年06月24日


ぽかぽか春庭「菖蒲沼公園、水元公園」
2011/06/24
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011年6月>紫陽花&菖蒲さんぽ(3)菖蒲沼公園、水元公園

 6月12日。自転車での紫陽花菖蒲さんぽ。朝早くでかけました。水元公園まで行くには、トロトロ走るママチャリだと90分はかかりそうで、ちょっと遠出です。いろいろな道順がありますが、方向音痴なのでひたすら環七を東に向かう道を行きました。
 途中、北綾瀬駅の前(足立区谷中二丁目)までくると、しょうぶ沼公園で「しょうぶまつり開催中」とあったので、立ち寄りました。
 花菖蒲が6000株。さまざまな種類にそれぞれ品種を書いた立て札がかかっています。

 9時半ごろ着いたのですが、いろんなイベントが10時から開催されるというので、10時まで花を見ていました。「野点」と「ラベンダーポプリ作り」のどちらに出ようかと迷ったのですが、まだ「花よりだんご」は早かろうと、ポプリ作りに挑戦。
 以前、友人宅の庭のラベンダーをきれいなポプリに仕立ててプレゼントしてもらったことがあります。それと同じリボン巻のポプリなので、作り方を知りたいと思ったのです。

 ラベンダースティック(ラベンダーバンドル)の作り方は、下記のほかいろいろなサイトに出ていますが、不器用な私には見ただけでは無理です。ふだんは都市農業公園のお手伝いをしているという若い方が、見本を見せながら教えてくれたので、私もじょうずに作ることができました。青いリボンの素敵なラベンダースティック。ハーブの香りで安眠を誘うことができる、と説明してくれました。あ~、私は香りがなくとも目をつぶって3分で寝てしまう人ですが、枕元に置くことにしましょう。材料費200円。
http://www.log-kamloops.com/HERB.htm

 環七から離れ、中川にかかる飯塚橋を渡って、水元公園へ。子どもが幼い頃に来たことがあるのですが、電車で行くと乗り換え乗り換えバスにも乗ってえらく遠回りなので、しばらく来ていませんでした。一度菖蒲の花盛りに来た記憶があるのですが、いつのことだったか、さっぱり思い出せません。この時はひとりで歩いたような気がします。
 ここでも「葛飾菖蒲まつり」が行われていて、すごい人出でした。こちらには花の種類を示す立て札がなく、紫黄色白の花が混ぜて植えられています。葛飾区の花は花菖蒲で、江戸時代から花菖蒲名所として知られ、特に堀切菖蒲園が有名です。

 水元公園では約100品種1万4千株20万本の花菖蒲が咲き競い、また、睡蓮や紫陽花もとてもきれいでした。広い菖蒲田に、スケッチコンクールに出品すべく画架をたててスケッチをする人、モデルの撮影会で、浴衣美人を写している人など、さまざまなイベントがありました。演芸広場では演歌歌手が歌っています。1時半からの橋幸夫公演が目玉らしい。
 私は「水生植物センターで、江戸文化と花菖蒲について講演会が開催されます」という放送を聞いて、講演会に参加することにしました。12時半、おなかもすいてきましたが、講演会が終わってからゆっくりお昼ご飯をたべようと、「おなかの虫押さえ」として園内の出店で「シュウマイ3個200円」というのを買って食べました。

 「水生植物センターで、1時半から、郷土と天文の博物館学芸員橋本直子講師による講演会、江戸文化と花菖蒲が開催されます」という案内放送でしたが、水元公園入り口で配られた「菖蒲まつり」のチラシには、歌手が歌う時間は詳しく書かれているのに、水生植物センターが園内地図のどこであるのかは、記載がありませんでした。おそらく葛飾の地元の人は、水生植物センターがどこであるのか皆知っている、という前提での放送だったのでしょう。

 はるばる遠くから来た私は、地図を見てもわからないので、園内整理をしていた係の人に聞きました「さあ、私らにもわかりません」と言う答え。「公園のいちばん北はしに水生植物園というのがあるけれど」というので、水生植物園をめざして広い園内を走りました。以前来たころには訪れたことのなかったメタセコイアの森ほか、いろいろな木々の森が生い茂っています。森やバードサンクチュアリを抜けて水生植物園へ行ってみましたが、水生植物センターはありませんでした。

 しかたないので、駐車場入り口の係員に尋ねたら、南の端の方にあるという。もと来た水元大橋にもどりました。周囲を見渡してもそれらし建物がないので、警備の警察官に再び質問。園内地図の看板を見ながら、北のはしの水生植物園の方向にグリーンプラザというのがあるから、そこだろうというので、再び北の端をめざして、今度はポプラ並木の間を走りました。グリーンプラザの係員に聞くと、水生植物センターとは、最近できたのだけれど、旧水産試験場のことだろうと、地図をくれました。

 園内地図を見ると確かに「旧水産試験場」という場所があります。再び南のはしへ。結局広いひろい園内を2周して旧水産試験場へたどり着きました。地図にも載っておらず、警備係の人も警察官も知らなかった水生植物センター。結局90分、ぐるぐる水元公園内を走り回ったことになります。北のほうは走れたのだけれど、菖蒲田の付近では人出が多くて、自転車は押して歩いたので、時間がかかりました。

 でも、こんなことでもなければ広い園内を2周することなどしなかったでしょうから、いい運動になったと思うことにしました。
 講演会場には開始時間を30分すぎた2時に着きました。最初の講師紹介の部分には間に合わず、古利根川の時代という郷土の歴史解説から聞きました。

<つづく>
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2011年06月25日


ぽかぽか春庭「江戸文化とハナショウブと彩り御膳」
2011/06/25
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011年6月>紫陽花&菖蒲さんぽ(4)江戸文化とハナショウブと彩り御膳
 
 「江戸文化と花菖蒲」の講演はとても面白かったです。講師の橋本直子さんは、「葛飾郷土と天文の博物館」の学芸員。葛飾の歴史や花菖蒲園芸史を研究しているそうです。葛飾を描いた浮世絵をスライドで映しながら、江戸の花卉文化園芸ブームについて解説してくれました。歌川広重(初代から5代目までいたそうです)の浮世絵による堀切菖蒲園。明治の手彩色写真による菖蒲園など、とても興味深い内容でした。

 講演の内容を家に帰ってから確認しました。
 江戸の花菖蒲、新品種の育種で名高いのは、花菖蒲中興の祖、松平菖翁です。江戸末期に生きた二千石の旗本松平左金吾定朝、通称「菖翁」は、300種にものぼる新品種を開発したといいます。国立国会図書館に菖翁の書き表した『花菖培養録(『花鏡』から改題)』など栽培記録が残されています。

 静岡県掛川市、「加茂花菖蒲園」の花菖蒲園芸史サイト
http://www.kamoltd.co.jp/kakegawa/syoubu.html
 『花菖培養録』の意訳サイト
http://www.kamoltd.co.jp/kakegawa/baiyourk.html

 出講している大学のひとつには園芸学部があり、毎年、園芸学専攻の大学院留学生数名に日本語を教えます。今年の園芸学専攻留学生はエチオピアからのふたり。ひとりは園芸環境学で、ひとりは育種学の専攻です。
 留学生の専攻は、米や小麦など直接食糧増産に役立てたいという研究のほうが多いですが、花卉栽培も空輸の発達した現代では重要な輸出産業になります。日本の花卉園芸学は、近代園芸学だけでなく、江戸時代以前から数百年の歴史を持つことをよく学んで、自国の園芸発展に役立つ留学生に育ってほしいです。

 自転車で園内走り回っているとき、遠くに橋幸夫が「潮来笠」歌っているのも聞こえたし、水元公園の花菖蒲まつり、楽しかったです。講演会が終わった3時すぎ水元公園を出ました。

 帰りは、来たときと同じ道を猛スピードで走りました。足立区都市農業公園の人にポプリ作りを教えてもらい、「そうだ、帰りに都市農業公園に寄ろう」と思ったからです。
 都市農業公園は、自転車の前後に娘と息子を乗せてよく通ったところ。ちょうど紫陽花が見頃だろうと寄ってみました。

 私としてはこれ以上はないというスピードで自転車を漕いだのですが、なんということか、環七と交差する信号がいちいち全部赤でした。私が走るスピードとシンクロする赤信号、これは新記録かと思っていたら、最後のふたつは青信号。新記録ならず、中途半端な赤信号なり。

 門が閉まる4時30分ぎりぎりに都市農業公園に入ることができました。昔はなかった「古民家」が移築されていて、前から見たいと思っていたのです。
 http://www.kankyo-kan.or.jp/park/kominka/p-kominnka.htm

 長屋門の前には紫陽花が色とりどりに咲いていました。今まで見た中で一番色が鮮やかな紫陽花でした。
都市農業公園のあじさい紹介サイト
http://blogs.yahoo.co.jp/izumiiinn/41637001.html

 いっぱい走ってカロリー消費したので、自分に許可。都市農業公園近くの和食ファミレス「華屋与兵衛」で「彩り御膳」というのを食べました。午後5時すぎまで昼ご飯を食べずにいたので、鰹たたきやてんぷらなど10品の御膳を大盤振る舞い。1869円。やっぱり最後は「花よりだんご」の春庭でした。

 本日の行楽費用。ポプリ作成費、シュウマイ、彩り御膳、合計2200円。

<つづく>
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2011年06月26日


ぽかぽか春庭「白山神社と六義園」
2011/06/26
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011年6月>紫陽花&菖蒲さんぽ(5)白山神社と六義園

 6月13日の仕事帰り散歩は、文京区あじさい祭りの会場になっている白山神社に寄ってみました。都営地下鉄に乗り換えて、白山駅から歩くと、いつもの「平日の花散歩」で出会うのと同じような、中高年カップル、中高年女性ふたり連れ、中高年女性数人のグループがぞろぞろ歩いていたので、そのあとをついて行き、地図を片手に迷ってしまう方向音痴の私も、すぐに白山神社に行き着きました。いつもは「こんなに駅から近いのに、どうやったら迷えるのかわからない」と嘆かれている私です。

 それにしても、中高年女性たち、「グループで花見をして、おいしいもの食べながらおしゃべりする」というのが何よりの行楽らしい。そういう自分も同じことしているのですが、「私は家族養うために働いた帰り道だから、奥様方みたいにすてきなフレンチのコースとか、懐石御膳とかは食べられない。せいぜいファミレスランチよ」と勝手にひがみながら白山神社につきました。

 白山神社のあじさいは、思ったほど花の数もなく、色もきれいではありませんでした。裏手の白山公園もまわって、水元公園や都市農業公園の紫陽花のほうがきれいだったなあと思いながら、白山駅へもどりました。おなかがすいたのですが、白山駅の周辺にあるいくつかの食べ物屋さんのどこも特別おいしそうでもなかったので、本駒込駅へ向かいました。

 しかし、本駒込駅周辺には、見事なまでに飲食店がなく、たまにあっても3時~6時は準備中、という入り口の掲示。しかたないので、駒込駅めざして歩いてみることにしました。いつも自転車さんぽで通過している本郷通りですが、たいてい道路の同じ側を走る。駒込の諏訪山吉祥寺とか東大赤門がある側を走ってきたので、今回はその反対側を歩いて見ました。これまであまり意識したことがなかったのですが、この本郷通りの本駒込から駒込まで、飲食店がほとんどない道筋でした。周辺がお寺や住宅地なので、商業街ではないことはわかりますが、クリーニング屋ばかりが目に入り、飲食店がない通り。結局駒込に近づくまで手頃な食べ物屋がありませんでした。

 途中、山野草の専門店がありました。山アジサイやホタルブクロの鉢が店先に並んでいます。「やまくさ信濃 文京店」という花屋さん。世の中には庭を山野草でしつらえるという野草ファンも多くて、山野草専門の店も商売成り立っているのですね。

 おなかがすきましたが、せっかくここまで歩いたので、駒込六義園に寄っていくことにしました。六義園はしだれ桜とつつじサツキが終わると、夏のこの時期の花はあまり知られていないのですが、紫陽花はどうかなと思って寄ってみたのです。

 六義園の「あじさい山」には、「やまくさ信濃」で見た山アジサイのいくつかの種類が植えられていました。私はこれまで、西洋アジサイと、日本原種のガクアジサイの二種があるという程度の認識でした。西洋アジサイはアナベラとかさまざまな品種が生み出されているけれど、山アジサイは「野生の山アジサイ」ということしか知らなかったのです。しかし、山アジサイはこの系統で、またたくさんの園芸品種が作り出されていることがわかりました。雨が降り出しそうな空模様、閉園まぎわの薄暗くなった園内で、六義園のあじさい山は、寂しく薄暗い雰囲気のなかでひっそりと花を見せていました。池の周囲もほとんど人がおらず、広い園内を独占した気分で歩きました。泰山木の大きな木が,白い花をつけているのが池の向こう側に見えました。
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/info031.html
六義園タイサンボク紹介サイト
http://blog.goo.ne.jp/mizukawa-tomo/e/3e117c1b37eb2786b7de90431de09061

 六義園5時閉園後の駒込駅周辺は、ランチのあといったん店を閉めて6時にならないと開かない店が多く、開いているのはチェーンのラーメン屋や牛丼屋。しかたないので、結局、駒込駅JRホテルメッツの2階のデニーズへ。いつも地下鉄なら2分で着いてしまう駒込と本駒込間を、30分もかけて歩いてカロリー消費したのだから「ごほうびに何かおいしいもの」と思ったのに、デニーズでは芸がない感じ。

 午後5時半のおそい昼食です。アボガド添えハンバーグ780円と、マンゴーガレットココナツ風味580円、ドリンクバーで合計1500円。今日も結局ファミレスの昼ごはんでした。私にはとことん「優雅なマダム御用達のフレンチランチ」なんかは似合わないってことでしょう。
 13日の行楽費。六義園入園料とデニーズの食事で1800円。

<つづく>
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2011年06月28日


ぽかぽか春庭「深大寺城跡、飛鳥山あじさい小径」
2011/06/28
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011年6月>紫陽花&菖蒲さんぽ(6)深大寺城跡、飛鳥山あじさい小径

 6月16日は、アジサイ目当てと深大寺蕎麦リベンジのために神代植物公園へ。六義園と同じように山アジサイやガクアジサイが中心のあじさいコーナーでした。丸く花をつける手まり型の青や濃いピンクの花もありましたが、植物園としては日本原産のガクアジサイを中心に育てていく方針なのでしょう。

 「松葉」で10割蕎麦せいろを食べたあと、水生植物園へ。池の周りの低地と、深大寺城の跡を残す高台を組み合わせている植物園の分園です。池の周りには花菖蒲目当てらしい人も何組かは歩いていたのですが、菖蒲田はボチボチの咲き具合。田植えが済んだ田んぼも水が張られておらず、「陸稲?」と思いました。稲は水管理がもっとも大事なのに、水のない水田でいいのかしら。高台の側へ上がる崖にはアジサイが咲いています。

 崖の坂道をのぼって、深大寺城の遺構を見ました。掘を復元したり、柱跡を復元したりしてあります。中世の城の様式がよくわかる遺構なのだそうです。古城めぐり趣味の人には有名な場所みたいですが、私には初めての場所。案内板などを読んでみると、16世紀ころの城で、北条氏が関東を制圧したときにはもう滅ぼされていた、ということでした。ここも「夏草や兵どもが夢の跡」の地。
 深大寺城跡の紹介サイト
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Tokyo/Jindaiji/index.htm

 城跡の広場には、深大寺蕎麦の名所の名目を保たんと蕎麦畑が作られていたのですが、深大寺蕎麦店商工会の管理と書いてありましたが、管理が悪い。これじゃおいしい蕎麦はとれない、というような畑でした。出講先の埼玉の田舎にある大学への学バス。途中に蕎麦畑があり、今白い花が盛りです。蕎麦の花を見ることができて楽しみな通学バス。

 深大寺城跡のアジサイも蕎麦の花もあまりパッとしなかったですけれど、城跡というのはいつでも歴史の風を感じることができる場所。またゆっくり散歩してみたいです。

 6月19日、雨上がりの日曜日。飛鳥山公園の「あじさいの小径」を散歩しました。
 私はJR王子駅側のさくら新道から小径に入り、地下鉄南北線の西ヶ原駅へぬける坂道までを歩きました。
 アジサイの小径は、JR線路と飛鳥山公園の間のとても狭い路地にあります。雨上がりの日曜日、アジサイ花見の人は押すな押すなのにぎわいで、人が一列ずつやっとすれ違える狭い道で、写真撮影の人がいると列が止まってしまい、渋滞。
 駒込から本駒込まで歩いたときはお腹もすいていたし、一駅分の道がとても遠く感じたのですが、アジサイを眺めながらの一駅分は、楽しく歩けました。

 6月。梅雨のさなか。雨模様の日が続きます。雨に濡れた、あじさいはきれいに咲いていました。
http://www.enjoytokyo.jp/id/toukyou_itabasiku/216317.html
http://www.f-banchan.net/tokyo/asukayama_ajisai/ajisai.htm

<つづく>
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2011年06月29日


ぽかぽか春庭「白金自然教育園」
2011/06/29
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011年6月>紫陽花&菖蒲さんぽ(7)白金自然教育園

 6月25日、土曜日の授業を終えて白金にある自然教育園をさんぽしました。隣の庭園美術館に来るたびに、ついでに寄ろうと思うのですが、美術館でゆっくりしてしまうことが多く、なかなか閉園時間前に立ち寄ることができません。今回は、白金住宅地周辺+自然教育園+古本屋カフェというメニューでさんぽ。

 自然教育園は、上野の国立科学博物館の附属施設です。都立公園である神代植物園や東京大学の付属施設である小石川の植物園とも雰囲気が異なるのは、「森林の自然な移相」の研究の場でもあることです。20ha(6万坪)の敷地内、散策路が通っている地域は半分だけで、あとの半分は樹木相の推移を観察する研究森林になっています。自然林はコナラ・ケヤキ・ミズキなどの落葉樹からしだいにスダジイ・カシ類・マツ類などの常緑樹へと変遷していくそうです。うっそうとした木々、都会の真ん中にあるとは思えない森を形成しています。

 一般の公園に植えられている樹木などは、枝を整えたり、木が年老いて枯れそうになると樹木医が診断して手入れをするなど、さまざまな保存方法がとられますが、白金自然教育園の木々は、枯れて倒れてもそのままにされています。そのため1952年の開設以来、植物相は年年変化してきており、当初の針葉樹林が紅葉落葉樹を経て極相である常緑樹の森へ移り変わっていきつつあります。サクラの老木が倒れてそのままになっているところもあり、園の外を走る高速道路の車の音を気にしなければ、深い森の中を歩いている気分になります。

 入園するとすぐに「路傍の植物園」の小径がつづき、道ばたで見られる植物の名前を確かめながら歩いて行きます。園内で縄文時代の貝塚も発見されており、白金台の土地は長い歴史をもっているそうです。室町時代に、このあたりには「白金長者」という土地の豪族の館がありました。館にめぐらされていた土塁のあとが園内のあちこちに残されています。江戸時代は黄門様こと徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷になっていたそうで、おろちの松、物語の松など園内の松の老木はこのころの木で、樹齢400年くらい。

 水鳥の沼、武蔵野植物園、水生植物園などを歩きました。土曜日といっても、雨の予報が出ている午後で、園内の小径をすれ違う人もごく少ない。家族連れやカップルとたまにすれ違うだけで、薄暗い森の中をひとりで歩きました。迷子になることはないですが、本当の山の森でこのようにひとりきりで木々の間を歩いたら、ふっと森の精に出会うのではないかという思いがしてきます。

 水鳥の沼のほとりにガクアジサイが咲いていましたが、そのほかにはオレンジ色が鮮やかなノカンゾウ、黄色いハンカイソウなどが目に入るくらいで、6月のこの時期、目立つ花もない時期です。どこにでもあるドクダミの白い花は、ここでもたくさん咲いていて、ドクダミ、どれだけ繁殖力がつよいのかよ!と思います。

 そのなかで、これまで植物園を歩いたときには気づかなかった案内板のひとつ、トラノオスズカケの説明をじっくり読んでみると、、、
 「トラノオスズカケは四国、九州の限られた地域に希に見られるゴマノハグサ科の半常緑の植物で、絶滅危惧種に指定されています」と書かれていました。
 「自然教育園のトラノオスズカケは御料地時代の1942年(昭和7年)に牧野富太郎によって発見され、1949年の開園の頃に絶えたとされていましたが、昨年秋に芽生えを発見し今回の開花を見るに至りました。自然教育園は江戸時代松平讃岐守(香川県)の下屋敷でしたが、同郷の平賀源内が下屋敷の一部に薬園を作ったという記録があります。おそらく当時故郷から種子を運んで栽培していたものが野生化したのだろうと推察されます。50年ぶりの再発見なのですが、生きた植物が生存していたとは考えられず、おそらく休眠生の高い埋土種子が、最近のミズキなどの高木の枯死によって林床に光が差し込むようになったことで、発芽が促されたものと考えられます。」

 自然のままに保たれている植物園なので、休眠していた種子が50年ぶりに目をさまし、2007年の発芽の翌年2008年には花も咲いたということです。あれ?私は2008年から来ていなかったからこの案内板を初めて見たのかもしれません。この3年間は東京散歩もままならず、白金自然教育園を歩くのも久しぶりなので。

 水生植物園の前まで来ると、雨が降り出しました。午前中カンカン照りだったときは「午後雨が降るなんて予報して、これじゃ当たらないかも」と思って植物園さんぽをはじめたのですが、おお、予報がちゃんと当たっているじゃないか。本日の目玉である「クサフジ」を見ることなく、出口に向かいました。傘を持ってくるのを忘れてしまったからです。濡れたらゼロコンマ何ミリシーベルトか浴びることになるのかも。

 遠くに雷も聞こえたので、急ぎ足。
 帰りにゆっくり眺めようと思っていた路傍植物園の草も、一瞥のみで出口へ。まだ小雨で、散策路の上の木々の葉が傘代わりになったので、それほど濡れることはありませんでしたが、今年の梅雨。例年とは違う雨。この雨にもベクレルだかシーベルトとかいう放射能は含まれているのでしょう。

 東京都健康安全研究センターは「この値は健康に影響を与える数値ではありません」という注釈付きで測定数値を掲げてきましたが、素人でも自分の住みかの測定値をつぎつぎに発表している現代。原発から60km離れている福島市の放射能数値も相当高い。子ども達は公園で遊ぼうとせず、水遊びは「危ないから」と親に禁じられ、体育の水泳授業も中止のところが出ているそうです。原発事故から3ヶ月たって「事故対策ステップ1は終了する」と発表されていますが、専門家によると「現在の状況でも、水素爆発の危険性がなくなったわけではなく、大量放射能拡散の可能性はある」ということです。

 事故現場で必死に作業している方々の努力は尊いと思い感謝しています。しかし、株主総会で頭を下げているだけの「責任を負うべき人々」は、年収を半分に減らされても、「1年間の役員報酬数千万円」だそうです。電気代値上げになったら、怒るよ!
 私が「水元公園を散歩した」と言うと、娘に「都内でも水元公園は、放射能数値が特に高いホットスポットのひとつだって」と言われましたけど、、、、

 私がこの春「花巡り」をして歩いたのも、地球のうつろいを今のうちに味わっておこうという深層心理なのかもしれません。できるものなら、この花散歩を来年も続けられますように。

<おわり>


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チャリティコンサート2011年7月

2010-05-14 22:55:00 | 日記
2011/07/01
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年6月>チャリティコンサート(1)夏至のキャンドルナイト

 6月22日水曜日、「明治の輸出工芸品展」を見るため渋谷へ行き、帰りはNHK前を通って代々木公園へ行きました。
 代々木公園野外ステージでなにやらやっていました。毎年夏至の日にあつまって、キャンドルを灯し、自然保護とか環境とかを考えるイベントらしいです。
 そうだ!今日は夏至なのだった。夏至の日の東京の日の出は4:24、日の入り19:01。一年で一番昼間が長い日。

 日本各地で「100万人のキャンドルナイト。電気を消してキャンドルを灯し、エネルギー問題を考える」という催しなのだそうです。8時のキャンドル点灯の前、6時には人々が集まりだしていたのです。
 全国の300カ所近くで、電気を消してキャンドルの灯りのもとで夜を過ごすムーブメント「100万人のキャンドルナイト」、反原発の活動としてこれまでずっと行われてきたそうです。(昨年は中止されたのだということですが)
 今年は「反原発」意識が一般の人にも行き渡ったので、このキャンドルナイトもツイッターなどで知る人も増え、これまで以上に参加者の増加があると見込まれているとのこと。
 しかし、私は、キャンドルナイトがあるということなど知らず、代々木公園にやってきたのも偶然のことでした。

 バンド演奏が始まっていました。私が通りかかった6時ころは、hununhum、toto、SUIKA with降神というグループの演奏でした。ラップのような「朗読+演奏」のようなことをしていました。1曲15分かかる『タマキハル』という曲で、創世神話のような、絵巻物のような物語を語っていく、という曲だということですが、遠くでぼんやり聞いていた私には、物語の内容は理解できませんでした。

 歌と直接関係ないのだけれど、「魂きはる」とは枕詞のひとつで「命」にかかることばです。来年の大河ドラマの登場人物のひとり、平滋子(落飾後は建春門院)。滋子は平清盛の妻時子(二位尼)の妹で、後白河院の妃。高倉天皇の生母となりました。滋子につかえた女性に女房名中納言がいます。藤原俊成の娘で、定家の姉にあたる。たいへんな才媛で、弟の定家の日記『明月記』にもしばしば言及されている人です。彼女の作品『建壽御前日記』は『たまきはる』という名で伝わってきました。冒頭の和歌「たまきはる命をあだに聞きしかど君恋ひわぶる年は経にけり」から筆が書き起こされているためです。
 「たまきはる」という言葉一つで、いろいろ思い巡らすことができる。言葉が伝わっているっていいなあと思います。

 集まっている若い人々。自然や環境、エネルギー問題を考えよう、という主旨に賛同している人々で、エコライフやロハスライフを実践していたり共感しているとおぼしき人々。アフリカや南アメリカの民族衣装っぽい服装の人もいて、ちょっと渋谷センター街あたりの若い人とは雰囲気がちがう。また、花見めぐりの中高年たちとも違って、ある種の意識が感じられる若者たちでした。
 テントの中のテーブルには、カンパ箱とキャンドルがおいてあります。好きなキャンドルを選んで、カンパ箱に志を入れる方式。カンパだけ参加しました。

<つづく>
05:38 コメント(2) ページのトップへ
2011年07月02日


ぽかぽか春庭「ゲシフェスGeshiFes2011」
2011/07/02
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年6月>チャリティコンサート(2)ゲシフェスGeshiFes2011

 ゲシフェス(GeshiFes2011)の代々木公園野外ステージでは、エネルギーシフトフォーラムというイベントが行われる予定で、出演者は、南兵衛@鈴木幸一(アースガーデン代表)、辻信一(文化人類学者ナマケモノ倶楽部世話人、明治学院大学教授)、マエキタ ミヤコ(「サステナ」代表)、藤田和芳(大地を守る会代表)、枝廣淳子(環境ジャーナリスト「イーズ」代表)といった人々が話したそうです。う~ん、なにやらロハスっぽい面々。

 枝廣淳子さんは「電気はどこでどういうふうに作られていたかが今回明らかになった。その時にこれまでと同じように電気を使っていいのだろうか。計画停電でろうそくの明かりの中、これぐらいの薄暗さでもいい、という新しい発見もたくさんあったはず。GDPなどの目に見えるものではなく、目に見えないものをどう大事にしていこうかということを考えたい」と述べたそうです。
 辻信一さんは「原発事故が起こり、絶望感を共有し、そこから何ができるかを考えていきたい。私たちは、政府や電力会社に頼らなくても電気を消すことを選ぶことができる」と話したそうです。

 私は、ヤジ馬精神で8時のキャンドル点灯まで待っていようかとも思ったのですが、毎朝5時に起きて6時57分発の地下鉄に間に合うよう出かける生活が続くので、7時には公園を出ました。100万人規模という大きなイベントなら、新聞等で何らかの報道があるだろうから、あとで新聞でも見ようと思ったのです。しかし。
 朝日新聞の例でいうと、6月22日夕刊素粒子欄に「今夜はキャンドルナイト」という紹介が4行のっていましたが、「地震津波被害者追悼」という主旨のみ載せ、「反原発」という本来の主旨は報道なし。キャンドルを灯したようすの写真は、翌日の朝刊にも夕刊にもいっさいの報道なし。

 このような集まりに、テレビで見かけるような顔のタレントは、誰も参加していませんでした。「反原発」のデモに参加した山本太郎は、たちまち芸能界追放となってしまいました。原発の製造元である東芝が提供しているドラマの出演から降板させられ、所属の芸能事務所シス・カンパニーを「自分の意志でやめる」と、辞めさせられ、芸能活動停止。この一件だけでも、芸能人が自分の意志を発信することは「芸能人生」をかけてやることで、多くのタレントは「被災者にお見舞い申し上げます」とは言えても「原発はいらない」と言えないのだとよ~くわかる。原発を製造している電気会社や電気を作っている会社、新聞にとってもテレビにとっても、莫大な広告費を落とすお得意さんであり、お得意の不利になることにはいっさい口をつぐむのが新聞テレビなどの報道会社。
 
 代々木公園の芝生広場では、夏至の日に家族や仲間とバドミントンをしたり、太鼓を鳴らずアフリカ系のグループがいたり、思い思いに最も長い昼のあとのたそがれを楽しんでいました。
 代々木公園の「花の小径」バラ園は、もう盛りを過ぎていましたが、きれいな花を楽しむことができたし、キャンドル点灯は見なかったけれど、よい夏至の夕暮れだったと思います。

 このような「野外で楽しむ夏至の夕暮れ」を、いつまで保っていられるのか。「原発冷却した放射能汚染水が溜まって、漏れ出している」という現状で、このまま放射能流出が止まらないのでは、来年の夏はフクシマから300km以内の地域では室外へ出ると危険」な夏至になっていないとは、誰にも言えない。事故処理の詳細は報道が遠のいていますが、事故の後始末、収束までほど遠いことだけは報道されています。同じレベル7規模の事故だったチェルノブイリでは、100km圏まで避難対象地域になりました。現在60km圏の福島市の放射線数値が高いことを、親たちは心配しています。

 「電気を消してキャンドルナイト」を新聞もテレビも報道しなかったし、放射線量の発表報道も、どれが真実なのか、私には判断がむずかしい。発表機関ごとにマチマチなので。おまけに「低線量被爆」とやらもあるそうで、科学に弱い人間には何を信じるべきなのか、さっぱりわかりません。

 夏至の日の代々木公園に降り注いだ日の光にも、シーベルトやらベクレルやセシウムやらが含まれていたのだろうと思いますが、これからどう生きてどう暮らしていくのか考える契機のキャンドルナイト、夏至の一夜になりました。

<つづく>
04:12 コメント(1) ページのトップへ
2011年07月03日


ぽかぽか春庭「小さな祈りの灯コンサート」
2011/07/03
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年6月>チャリティコンサート(3)小さな祈りの灯コンサート

 「お金持ちの花」のイメージがあった薔薇に対して、「わたしには野辺に咲く野草の花のほうが似合う」と、斜に構えた態度でいたのですが、この春は素直に薔薇の美しさを鑑賞できました。年の功です。
 「チャリティ・コンサート」に対しても、「お金持ちさん、余裕があったら慈善にいそしんで、貧乏人から搾取している罪滅ぼしをしたらいいさ」と、思ってきました。実際、結婚以来「働けど働けど貧乏生活」が続いてきたのですから、チャリティということばに「なんとはなしのうさんくささ」「金持ちの自己満足」というイメージを持ってきたのです。

 この春、各地で「チャリティコンサート」が活発に行われました。有名な歌手やタレントが関わると、大きく報道もされ「震災復興支援」は「錦の御旗」のように感じられて、またまたちょっと斜に構えてしまいました。自分なりのささやかな寄付も続けてきたから、ことさらチャリティとぶち上げなくても、聞きたい音楽があれば聞きに行くし、寄付したければ、どこの募金箱に寄せてもいい、と思っていたのです。

 私が参加しているジャズダンスサークルの仲間のひとり、ユミさんが、「6月にチャリティコンサートをするから、チケット買ってね」とチラシをくれたのは、4月のことでした。
 ユミさんは、プロのシャンソン歌手で、NHKのシャンソンの祭典「パリ祭」にも20年来出演している方です。

 私は1984年に、ジャズダンスサークルの忘年会でユミさんの歌をはじめて聞いたときに、「なんてまあ、歌がじょうずな人なんだろう、素人とは思えない」と感じたものでした。そしたら、数年後には「専業主婦からプロ歌手へ」という転身を果たし、現在までシャンソン歌手として演奏活動やシャンソン教室主宰者として活躍を続けています。私たちにとって、ダンスの練習中は昔も今も、「仲間のひとりのユミさん」で、歌手として見るときは芸名の「水織ゆみ」さんです。

 チケットは2000円で、そのほか、募金箱に寸志を入れる、という形式で、6月1日にコンサートが行われました。ゆみさんが東北地方へ慰問に行ってきたときのスライドレポート上映も含めて、2時間のコンサートでした。
 スライド上映では、瓦礫の山になっている現地の状況や、ゆみさん差し入れのどら焼きとスイートポテトを、笑顔で受け取る人々の様子が映されていました。

 衣類ほかの生活用品は支援物資として全国から送られて、炊き出し支援も続きました。しかし、直接すぐさま必要でない生活のうるおいは、忘れられがちです。ゆみさんはボランティアとともに炊き出し支援をし、そのほか、生活の喜びのひとつである「甘い物」を直接届けました。被災者への甘い物のさしいれ、とても喜ばれたそうです。

 ゆみさんは、ご家族が仙台に住んでいるということで、震災後家族の無事を確認するまではとても不安だったと、ジャズダンスサークルで練習のあいまに話していました。家族の無事が確認できたあと、自分でできることとして、復興支援コンサートを思い立ったということです。行動力があり、各方面への人脈を持っている方ですから、すぐに地元の議員さんや教育委員会へ働きかけて支援をとりつけ、ホールを借りたり出演協力の歌手や演奏家を探し、チケットを売り、コンサート実現となりました。すごい行動力です。

 コンサートでの歌は、これまで聞いてきたゆみさんの歌声の中でもとりわけ命の重さや生きて行くことのすばらしさを感じさせる力強くも情感溢れるもので、ゆみさんはときに涙ぐみながらも、たっぷりとシャンソン、カンツォーネ、自作の歌などを聞かせてくれました。ゆみさんが作詞した「小さな祈りの灯」という歌がコンサートのタイトルにもなっていました。

 カフェ日記で本の紹介などを書いているhawkさんが被災地の復興ボランティアに参加した、という記録を読ませていただきました。休暇を利用し、岩手県被災地の瓦礫片付けボランティアに参加したということです。「あれこれ言う前に、まず体を動かしてできることからやってみる」という姿勢で、若者が現地に飛び込み、寝袋持参の雑魚寝をしながら活動。瓦礫で埋まってしまった用水路を片付け、水が流れるようになったのを見て、思わず心の中でガッツポーズをとってしまった、と書いているホークさんのようす、頼もしくさわやかなボランティア活動記でした。

 それぞれの人が、自分にできる範囲での支援をしていく、政治の混迷をよそに、庶民は自分なりの支援を細くとも長く続けて行ければいいなあと思います。
 ゆみさんの「小さな祈りの灯コンサート」会場の募金箱に、ささやかな気持ちばかりですが寄付させてもらいました。チャリティもボランティアも、あれこれ言うまえに参加してみること。
 薔薇の豪華さへもチャリティへも、だいぶ素直に向き合えるようになりました。

 ゆみさん、今年のNHKパリ祭7月2日(土)3日(日)にも出演しています。youtubeにUPされているのは、パリ祭に参加し始めた頃の歌だそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=YKQ-uF-omSM

<つづく> 
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2011年07月05日


ぽかぽか春庭「トウキュウミュージックライブ」
2011/07/05
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年6月>チャリティコンサート(4)トウキュウミュージックライブ

 今期、土曜日も仕事があり、金曜日は10時半から午後7時半まで90分授業が続くという変則勤務ですが、水曜日は午前中1コマだけ。水曜日の午後は美術館へ行ったり公園散歩をしたり、「1週間のうちのホッとできる一日」です。

 6月15日にトーキューミュージックライブという無料コンサートがあり、娘が「出演者のひとりの、松たか子が好き」と言うので、ネットで応募しました。正式名は「東北関東大震災被災地支援コンサートTOKYU MUSIC LIVE」。
 火曜日2000人水曜日2000人の招待という、トウキュウのメセナ活動で、合計4000人もの招待なので、ほとんど当選なのかと思っていたら、当選はがきと座席券の引き替えの列に並んでいると、「あのぅ、一人でいらっしたのなら、いっしょに入場させていただけませんか」と、何人かに声をかけられました。あとでネットを見ると「トウキュウミュージッククライブの当選券をお譲り下さい」という掲示板もあったので、全員が当選するわけではないらしい。
http://www.tokyu.co.jp/group/tml-2011/profil.html

 6月15日、渋谷文化村のオーチャードホール。ピアニスト塩谷哲のプロデュースのコンサート。塩谷のピアノ演奏、上妻宏光の津軽三味線演奏も、松たか子、宮沢和史の歌もとてもよかったです。
 松たか子はとてもきれいで、歌もよかったです。娘は図書館で借りたCDアルバムをプレステ3の中に録音しておいたのに、プレステ3が壊れてしまい、「これまでに4年間せっせと借りては好きな曲を録音しておいたのが全部だめになってしまった」と、がっかりしていたところだったので、「こんなに前の席でよく見えてよかった」と大喜びでした。
 
 当選葉書と入場券の交換は、午後4時から。私は、水曜日午前中の仕事を終えて、お昼ご飯を食べてから入場券交換の列に並ぼうと思いました。念のため、チケット交換の場所を確かめてからご飯を食べようと、文化村へ行ったところ、すでに長い列ができていました。みんな早く並べば並ぶほど前方の席がとれると思って、早々に並んでいるのです。こりゃあ、私も並ばなければ、と、あわてて近くのコンビニでおにぎりとコロッケを買って、並びました。2時半ですでに100人くらい並んでいました。

 用意のいい人は携帯の椅子を持っているのですが、私はこんなに早くから並ぶとは思っていなかったので、列にカバンを置き、わきの階段に座って、おにぎりを食べました。2000人入る大ホールなのですが、早くに並んだおかげで、前から6列目の席を手に入れました。
 席が確保できたことを電話連絡し、娘が渋谷へ到着するのを待ちました。息子は15日水曜日の夜は、大学院学生たちの新入生歓迎コンパがあるというので、娘とふたり、早めの夕ご飯を食べてからコンサートをゆっくり見よう、という計画です。

 娘は5時に渋谷に着き、東急本店8階の洋食屋で夕食。娘は「感じのいい店だったけれど、味はフツー。特においしくもなし」という評価でした。娘は「前に食べた池袋の2100円のランチコースのほうが、おいしかった」と言います。ひとり3000円のコース、二人分で6000円。おひるはコンビニおにぎりで済ませた私にしてみたら大奮発だったですけれど、味は「デパート利用の客相手」の気がしたのは確か。常連客など望まないデパートレストランではこんなものでしょう。

 最後にわかったことは、私が「こんなに早くから並んでいるのか」と思った人々は、ほとんど宮沢和史のファンクラブの人たちで、集団で最前列を陣取り、「島唄」などの宮沢の歌のときは大熱狂ぶりでした。娘は、「コンサートに来て、椅子席なのに立ったまま演奏を聴くのは大嫌い」という人です。しかし、前列の宮沢ファンが皆立ち上がったので、フィナーレの「風になりたい」のころは、「松たか子が見えない」と、立つことになりました。

 バックバンドはこの日のために編成されたキャラメルバンド。その中の最年長のパーカッション奏者カルロス菅野さんの、コンサート報告ブログによると、義援金は2日間で200万円集まったそうです。
http://nettaijazz.exblog.jp/

 菅野さんのブログにもあるように、出演者それぞれが、とても気持ちよくコンサートに参加していたことがよくわかる演奏でした。来年のトウキュウミュージックライブはだれのプロデュースでどんな出演者になるのかまだわかりませんが、また応募してみたいです。
 6月15日の演奏曲目。
オープニング 塩谷哲ピアノ「Morning Bliss」、2塩谷哲「ラプソディ」3上妻宏光「田原坂」、4ピアノと三味線コラボ 5Home、 6松たか子「真昼の月」、7松たか子「黄昏のビギン」、8松たか子「みんなひとり」、9「 」、10宮沢和史「からたち野道」、11宮沢和史「みだれ髪」、12宮沢和史「イパネマの娘」、13宮沢和史「島唄」宮沢の三線+上妻の三味線演奏、14全員で「風になりたい」、15フィナーレ

 チャリティコンサート、毛嫌いせずに、これからも機会があったら、参加してみます。

<おわり>
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青い鳥を探して2011年7月

2010-05-08 18:24:00 | 日記
2011/07/06
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011/07>青い鳥を探して(1)七夕の願いごと

 松尾芭蕉は、7月7日(旧暦)の七夕を前にして、「文月や六日も常の夜には似ず」という句を吟じました。「明日は、織り姫彦星が一年に一度の逢瀬を遂げる日と思えば、前の夜の六日の今晩もいつもと趣が異なって感じられる」と言うのです。芭蕉にも、「明日の逢瀬を思うと、前の晩も気持ちが高ぶってくる」という思いをした若い日々があったのかもしれません。
 芭蕉の句を下敷きにして、読むと「この味がいいねと君が言ったから、七月六日はサラダ記念日」という一世を風靡した俵万智の七月六日の日付が納得される。(もともとは六月七日だったのを、七月六日に直したのだということですが)

 仙台など大規模な七夕祭りは、月遅れの開催で8月7日前後に開催されるところも多いですが、東京は新暦で、7月7日に七夕まつり。震災後の今年の七夕は、復興のシンボルとして、「鎮魂と復興の思いを込めて作られている」という報道を見ました。
 6月30日、娘と出かけた先の公園にも竹飾りにビニール製の短冊がたくさん下がっていました。「あんぱんまんになりたい」などの願い事がマジックペンで「覚えたての字でいっしょうけんめい書いたのだろうなあ」という筆跡で書かれていて、「かわいいね」と、娘と笑いました。

 白金ブックオフの「座り読みできるカフェ」で、岸本佐知子『気になる部分』。笑いをこらえながら、半分くらい座り読みで読んだのですが、その中に「ヒトサマの欲望をおおっぴらに覗くチャンス」として、七夕の短冊を読んでいく楽しみ」があげられていました。「金持ちになりたい」とか「カレシと結婚できるように」とか、人々はそれぞれ己の欲望を全開にして願い事を書きつけています。

 正月初詣の絵馬は、直接神様に願うので「合格祈願」「家内安全」とかが多いですが、七夕短冊のほうは、「天神様に字の上達を願う」ってことが一応「正統派」らしいですけれど。もともと中国から伝わった7が重なる節句行事に、日本のいろいろな民間習俗や盂蘭盆会などの仏教行事が複合してできたということですが、由来はともあれ、1年1度の逢瀬を果たす星の姫の恋成就を祈って夜空を見上げるのは楽しいものです。
 留学生には「お星様に願いましょう」と言っています。神社の絵馬には「宗教行為」と感じる学生も、七夕の竹飾りは「日本の文化、習俗」として宗教的な抵抗もないので、厳格なクリスチャンもイスラム教徒も楽しく参加できます。

 就学生や留学生がいる教育機関では、毎年竹飾りが用意されます。日本語の練習として、「短冊に願い事を書きましょう」と、字を書く機会を作っています。筆を持って「書道」の文化体験とし、「お習字の一日入門」にしているところもある。
 学生達の願い事。「日本語をじょうずになります」そうね、じょうずになったら「日本語がじょうずになりますように」って書けるかも。「漢字テスト100てん」「せかいは平和ほしい。私は恋人ほしい」など、留学生の願いもさまざまです。

 私の願い事。「平和で安全な日常生活が守られますように」これに尽きます。むろん、岸本佐知子を笑わせてやれる、あまたの欲望を持ち合わせています。「せめて電気代が払えるほどの収入がほしい」とか、「ストロンチウムとかセシウムに無縁の食べ物が食べたい」とか。俗なる願いがいっぱいです。

<つづく>
05:55 コメント(4) ページのトップへ
2011年07月08日


ぽかぽか春庭「七夕誕生日」
2011/07/08
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011/07>青い鳥を探して(2)七夕誕生日

 
 昨夜は雨だったみたいですが、天の川は白鳥に乗って渡れるんですよね。
 群馬にお住まいのnanjaiさんのご子息は、七夕を「入籍記念日」になさるとか。結婚式の日は周りの人も覚えているけれど、入籍の日は忘れてしまいがち。でも、七夕の日なら確実に思い出しますから、よい日をお選びですね。
 うちの亭主は、入籍の日も結婚式の日も忘れたままの30年ですけど。

 忘れられない日付。3月11日。 
 3月大震災のあと、私はしばらく無気力状態になりました。ひとつには、これまで何も行動せずに電気を使ってきたことへの自分自身への無力感。ひとつは「神がいるなら、なぜ無辜の東北の民を津波で押し流すのか」という怒り。クリスチャンは「何も悪いことをしていないヨブにも試練が与えられたではないか」と考えるのかもしれませんが、クリスチャンのいう神が試練を与えたいのだとしたら、なぜ彼の民ではなく、無辜の東北の人々がその試練を受けなければならないのか、と思ってしまった。東北の人たち、ほとんどが1年最初は初詣をし、お盆には墓参りをし、七夕には短冊に願い事を書くという人々と思います。
 大災害のあと、哲学者でも宗教家でも大きな精神的影響が与えられたそうですから、私如き精神の弱い人間が無気力になったのも、当然なのでしょう。

 1755年11月1日のリスボン地震のあと、西欧社会の精神世界は、大きな影響を受けました。ヴォルテールの『リスボンの災害についての詩』もそのひとつ。ヴォルテールは、「災害によってリスボンが破壊され、10万もの人命が奪われたのだから、神(創造主)が慈悲深いわけがない」と主張しました。ヨーロッパ社会に無神論が大きな位置を占めてくるのは、リスボン大震災が契機のひとつとなっています。

 「神学上のゆるぎない硬い根拠」を大地に例えて「ground」ということばで表すことが18世紀までの比喩の代表例でしたが、もはやこれ以後は「神の意志の揺るぎなさ」に対して「ground」が使えないことが、哲学者にもはっきりわかりました。「大地は揺るぐ」からです。
 イマヌエル・カントはこの地震のあと、人間の力の及ばない自然の巨大さなどへ対する感情である「崇高」という概念を哲学の重要な概念としました。

 大震災のあとの影響は西欧精神世界でも顕著であったということですが、そこから新しい精神が生まれてきた。私も無気力状態脱出作戦をたてて、復活をめざそうとしました。
 心弱い自分を奮い立たせるためのひとつとして、「願掛けの一種」をすることにしたのです。「3年間茶断ち」とか「お百度参り」とか、いろいろな願掛けのかたちがあります。「あることを続けて行う」という「心の中の神様との契約」は、目標としてわかりやすい。
 私のお百度参りは、「三日に一度ハガキをおくる」というプロジェクトです。

 青い鳥ちるちるさんは、私のウェブ友のひとり。顔を合わせたのは2度だけですが、私の心の友のひとりです。脳性マヒの改善をめざしての手術を受け、その後、首から下がまったく動かなくなる、というたいへんな事態になりました。しかし、ちるちるさんは懸命にリハビリを続け、今では「手の指が動かせた!」ということです。

 3月末、ちるちるさんに「私が出す葉書を受け取るボランティアさんになってください」とお願いしました。1ヶ月に10枚のハガキを出し、3年で365枚に達したら大願成就、という願掛けをして、そのハガキの受け取り人にちるちるさんになってもらうことにしました。私の勝手な願いを引き受けて、ちるちるさんは「春庭からの乱筆乱文ハガキ」を受け取るボランティアになってくれたのです。

 2011年7月7日づけでは、42枚目のハガキを送りました。相も変わらず乱筆の葉書は「ちるちるさん、誕生日おめでとうございます」という文面。7月7日は、ちるちるさんの誕生日です。
 お星様にいっぱい願いをかけましたけれど、願いのひとつは、ちるちるさんのリハビリが順調に進んで、指が動かせた次には手首も、次は腕もと、動かせて、以前のように自分でパソコンの入力ができるようになるまで回復が進むこと。できるなら、ちるちるさんが手術を受ける前に望んでいたように、車椅子なしでも自分の脚で立ち動けること。
 ちるちるさんが、楽しい誕生日をすごしていることをお祈りしています。

<つづく>
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2011年07月09日


ぽかぽか春庭「葛西臨海水族園」
2011/07/09
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011/07>青い鳥を探して(3)葛西臨海水族園

 6月30日、仕事帰りに、娘と待ち合わせて葛西臨海水族園へ行ってきました。本当は3月の春休み中に親子3人で出かける予定でしたが、津波のあとだったので、「海に近づくのは恐い」と思って、もらってあった招待券をムダにしました。

 今回、息子はいっしょに行きませんでした。大学院生にもなって母親といっしょにお出かけするってほうがフツーじゃないのですが、うちの息子22歳、彼女いない歴22年の上、絶対権力者の姉に頭が上がらないので、姉が「お前もついて来るべし」と誘うと、おとなしくついてきます。しかし、今年は、水曜日は大学事務のアルバイト、木曜日はTA(ティーチングアシスタント)として学部生の世話をするアルバイトをしており、30日木曜日はTAの日でした。

 おまけに7月2日は「大学史学会」という場での発表することになっていて、史学科の先生、引退退職した教官、卒業した先輩、院生、学部生が総動員される中での「初めての発表」。発表前の1週間は食事もノドに通らないほど極度に緊張していました。
 5月6月の二ヶ月間、夜遅くまで古文書の読解や資料のまとめを続け、他大学の図書館へ資料のコピーに出かけたり、都立図書館へ行ったり、卒論を書くのと同じくらいレジュメのまとめにエネルギーを注いでいました。

 いつも手抜き発表をしていた私は、「学内の学会発表なのだし、修士1年の最初の発表なんて、卒論をちょっと短くして発表すればいいじゃないの」と、言ったのですが、息子は「卒論のテーマについては資料が少なくて、もうこれ以上発展させることができないので、修士の研究は時代を少し古くしたんだ」と言うのです。
 織田政権下の守護職研究から足利義昭政権下の守護職研究へシフトしたのだそうです。そう言われても、私には「地頭は泣く子も黙るのだろうけど、守護は誰が黙るのやら」という程度のイメージしかないので、息子が古文書を必死で読んでいて、「母、この字はなんだと思う?」と聞いてきても、地方の古文書に出てくる漢文くずし字などはさっぱりわかりません。

 娘は、学内学会の発表者に選ばれたときのことを思い出し、「私は学部生発表だったし、グループ研究のひとりとして発表したから気楽だったなあ。発表後の質疑応答の極意を教わったから、伝授します」と、弟に教えていました。どんなイジワルな揚げ足取り質問をされても「ご質問の件についていは、研究が行き届いておらず、もうしわけございませんが、即座の回答ができません。貴重なご意見をありがとうございます。今後の課題としていきたいと思います」と言えば乗り切れる、というのが「極意」でした。

 娘と「どうしてあんなに真面目に研究する子がわが家に生まれてきたんだろう」と不思議がるほど、超まじめッ子の息子。真面目すぎて自分を追い込んでしまうことがないように、適度にコントロールしていく方法を身につけていけるといいのですが。
 私と娘は、「手抜きが日常生活」と言えるほど、掃除も片付けも手抜き放題です。

 息子のことなど話しながら、娘とふたりしてぷらぷらと水族園をめぐりました。木曜日の午後おそく、おまけに雨が降り出したので、見学者が少なくゆったり回れます。
 ぐるぐる泳ぎ続けるマグロ水槽の前では「あ~、泳ぎ続けていないと死んじゃうってのも不自由だな」、鰯の群れの前では「うまそうだ」。南の海の鮮やかな魚たちの水槽では「こんな派手な模様、どうやって思いついて進化させたのか」と、水族館を見るたび同じ感想を言う。ゆらゆら揺れる海草そっくりなリーフィーシードラゴンの水槽まえでは「擬態ってすごいねぇ」と、毎回感心する。

 北の海の高脚蟹の前では「あれ、この蟹、脚が10本ある。蟹は脚が6本にハサミが2本だろうが」と驚くと、娘は「あのさ、この前も同じこと説明したよね。食用のタラバガニなんかは、ハサミのほかの4対の脚があるけど、そのうち1対は鰓(えら)の中にかくされているんだよ」と、同じ説明をしてくれる。「あれ、そうなんだっけ」と私。何度きいてもすぐ忘れるから、水族館、何度来ても驚きに満ちていて、毎回「発見!」と思えて楽しい。単なるボケとも言えるが。

 雨がふってきたので、建物の外にいるペンギンのところにはちょっとしかいられませんでした。雨に濡れるのはシーベルトやらがちょいと心配です。
 ペンギン舎の外に広がる海は世界中とつながっているのですから、フクシマの海に放射線を含む水が漏れているのだとしたら、東京湾の水の放射線量も高くなっているでは、と心配になります。
 外洋の魚たち、無事に泳いでいるといいのですが。

<つづく>
06:26 コメント(2) ページのトップへ
2011年07月10日


ぽかぽか春庭「アクアマリン・フクシマのエトピリカ」
2011/07/10
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011/07>青い鳥を探して(4)アクアマリン・フクシマのエトピリカ

 娘とふたりの水族館さんぽ。 
 岩の上でじっとしている魚、トビハゼの水槽の前では、「おまえら、来月来たら両生類になってるんだろうな」と言う感想も、いつもの通り。
 「脳を持っていない」というミズクラゲの水槽前で、「体の95%が水分っていうのは、自分が生き物だって自覚することないんだろうね。自分は海そのものだって思えるんだろうね」「思いたくても、クラゲには脳みそがないから思えないし」なんていう毎度おなじみの会話をしながら、ぼけ~っとしているのもリラックスできる。ぼんやりすごせる日々のありがたさ。

 7月2日まで、青い顔をして準備していたわが家の息子、なんとか大学史学会発表を終えて、いつもの日常生活に復帰しました。
 日常生活が平穏無事におくれることのありがたさを感じること、3月の被災からしだいに人々の脳裏が「平穏無事があたりまえ」になってきている時期かも知れません。東京は節電節電とやかましいので、夏中「平穏」ではいられそうにないですが、「いつもの日常」が恙なくおくれるよう、大規模停電ブラックアウトだけは避けたい。東京中が真っ暗に停電になったときの混乱を思うとぞっとします。そして停電になったとき、水族館は水管理ができなくなって、水生動物は死んでしまいます。

 アクアマリンフクシマから避難し、東京の葛西臨海水族園に移住していたエトピリカたちも、ようやく元の環境に戻れることになり、飼育員さんたちもさぞかしほっとしていることでしょう。
 アクアマリンフクシマは、「環境水族館」というコンセプトで、海の生態系や海洋環境をテーマに「海を通して、人と地球の未来を考える」ことを目指してきました。しかし、3月の津波のため館内に海水が侵入し、電気系統の施設が壊滅。飼育生物の9割を失ったそうです。

 20万匹もの魚や海生生物が失われたアクアマリンフクシマですが、生き残った1割は、提携関係のある水族館が分担して飼育を続けました。葛西臨海水族園ではエトピリカやアメリカカブトガニなどの生き物を受け入れ、預かってきました。
 水族館の飼育員、係員、ボランティア一丸となって復旧作業をすすめ、7月15日、4ヶ月ぶりに再開する見通しとなったそうです。

 もうすぐフクシマへ里帰りする海の生き物、葛西臨海水族園で「避難生活」を送っているエトピリカを見ました。エトピリカとはアイヌ語で「くちばし(etu)が美しい(pirka)」という意味です。海に潜って魚を捕る鳥で、一年の大半を海で過ごし、繁殖期だけ陸地で営巣します。北方の島では繁殖が確認されているけれど、北海道の中にあった繁殖地には、現在では姿が見られなくなっている鳥です。

 エトピリカは、海ガラスといっしょのコーナーにいました。ウミガラスは、ペンギンに似ている海鳥。水深50メートル以上潜水でき、魚を捕って食べ、飛ぶこともできるけれど、歩くのはヨチヨチしていて、ペンギンと同じ。エトピリカと同じく、日本国内での繁殖地が絶滅状態で、2010年に北海道天売島で繁殖が確認されたのは19羽のみ。水族園での保護と繁殖が重要な動物のひとつです。

 地球にはさまざまな自然の脅威があり、地震も津波も動物たちにとっても過酷な試練です。でも、動物にとって一番の脅威は、人間の自然破壊なのだろうと感じました。ウミガラス、かっては鳴き声から「オロロン鳥」と呼ばれて、北海道に多数生息する海鳥でした。しかし、漁網による混獲、観光による影響、エサ資源の減少などにより、しだいに減少し現在のように絶滅の危機になってしまいました。

 津波に負けず、放射能にも負けぬ丈夫な体を持ち、いつも静かに笑っている。フクシマアクアマリンへ戻っていくエトピリカやウミガラスにバイバイを言いました。フクシマに帰っても元気にすごしてね。やっぱり元の自分の家がいいんでしょう。

 メーテルリンクの『青い鳥』のチルチルとミチルは、青い鳥を探して遍歴し、最後にわが家に戻ると、家の中の鳥が青いことに気づきます。チルチルが「家の中にいた鳥が幸せの青い鳥だったのだ」と気づいて、籠に戻そうとすると、鳥は逃げていってしまう。
 私たちは、家の中にいる鳥がほんとうは青いことを知りながら、青い鳥を探さずにはいられない人間という生き物です。

 青い空へ飛び立つ鳥も、青い海を泳ぐ魚も10本脚の蟹も、海に潜るエトピリカも、自分自身の日常をせいいっぱい生きている。
 私も「節電せつでん」となきながらこの暑い夏をなんとか乗り切ろうと思います。

<つづく>
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2011年07月12日


ぽかぽか春庭「インドネシアフェスティバル2011」
2011/07/11
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011/07>青い鳥を探して(5)インドネシアフェスティバル2011

 今期も7月に入ると、学生達もそろそろ期末試験のスケジュールが気になりだします。
 着実に復習を重ねている留学生あり、なんとか「欠席多し」の状態をオマケしてもらおうと言い訳を考えている日本人学生あり。よい夏休みを迎えるために、まずは試験をクリアして単位がほしいと、出来る学生もできない学生もそれなりに四苦八苦する季節です。
 教師のほうも、試験問題作りやら採点やらで7月いっぱいたいへん、毎日の授業に加えて、日曜日も試験問題作りをしなければならない。おまけに、来週の海の日7月18日は、授業日に設定されていて、出講しなければなりません。

 7月9日は、午前中、土曜日授業があったので、午後はちょっとは楽しいことをして暑気払いをしてから帰宅しようと、寄り道をしました。
 代々木公園でインドネシアフェスティバルが開かれているというニュースを見て、それならば、お昼ご飯は、出店でナシゴレンでも食べて帰ろうか、という気になったのです。
 午後2時すぎの代々木公園は、木陰はいくらか涼しいけれど人がいっぱい。日が照りつける広場は、インドネシアの熱帯ジャングルに負けない暑さ。

 フードコートには、スラバヤとかバリとか、いろいろな地方の屋台が出て、それぞれの味を売り込んでいます。ほとんどがイスラム教徒のインドネシアですが、ちゃんとインドネシア地ビールの缶も売ってました。
 代々木公園に集まっている客は、半数以上がインドネシア人。日本人とインドネシア人のカップル、家族連れ。ほう、こんなにもインドネシア人との国際結婚組がいるのか、と思うほど。日本人グループは、旅行などでインドネシアに親しみを持っている人が多いようで、私のようにただごはん食べるために一人できている客は珍しいみたい。

 私はバリ料理の屋台で、インディカ米の上にシーフードの煮込みをかけた料理を注文しました。それほど辛くはなく、おいしかったです。
 あまりに暑かったので、一度渋谷へ行って、マックの冷房で頭を冷やす。そのあと、もう一度代々木公演の野外ステージに行って、インドネシアの人気歌手の歌を聞きました。ほんとうは、インドネシアの舞踊や伝統音楽の演奏を聴きたかったのですが、それらは土曜日日曜日の午前中の演目で、夕方は人気歌手の登場で盛り上がっていました。

 17:30ごろからリオ・フェブリアン(Rio Febrian)という男性歌手の歌がはじまると、ステージのまわりにはインドネシアの人々がびっしり集まってすごい熱狂ぶりです。歌手はうまいこと聴衆をのせて、みなで声をあわせて合唱したり、叫んだり。リオ・フェブリアンは1981年生まれ。1999年、18才のときオーディション番組アジア・バグースで優勝して2001年にアルバムデビューしたという、インドネシア屈指の人気歌手なのだそうです。インドネシア女性はスカーフで髪を覆い、大人しいイメージを持っていたのですが、アイドル歌手に対する反応は、日本と同じ。たいへんな熱狂ぶりでした。

 そんな熱狂ぶりの聴衆の中に見覚えのある顔が。あれ、このインドネシア人、私は知っているなあ、きっと留学生だなあ。でも名前も思い出さないし、ふたつの出講先国立大学のうち、どちらで教えたのかもさっぱり思い出せないので、声をかけようかどうか、迷いました。
 「お久しぶりですね。私を覚えていますか。あなたに日本語を教えた先生ですよ」と言うと、びっくりして、「あ~、先生。私の顔を忘れないですね」
 どうやら、まちがいなく、教え子だ。でも、まだ名前を思い出さない。「前は留学生の寮に住んでいましたね。今はどこに住んでいますか」とたずねると、「今は,駅の近くのアパートに住んでいます」という答え、駅名から、たしか、園芸学部の大学院に進学したのだということを思い出しました。

 インドネシア人の連れのアフリカ系学生のほうは、ウガンダ出身だと思い出した。日本語がさっぱりできなかった彼。でも、なんとか研究は進んでいるようで、安心しました。いっしょにケータイで写真を撮りました。新入生との出会いがあり、コースが終わった修了生ともこうして思いがけない再会もある。ちるちるとみちるが探した青い鳥。幸福とはこんな人との出会いを言うのかもしれません。人と人がふれあって、ひとときいっしょにすごす。生きて行くってことは、こんな出会いの積み重ねなのでしょう。
 ご飯を食べるために寄った公園でしたが、なつかしい留学生にも会えたし、寄り道もいいもんです。
  
 夏の夜、暑さも残っていましたが、7時近くになってもまだ明るく、人々の熱狂はこれから本番、というときでしたが、インドネシア、ウガンダのふたり連れにバイバイをして帰宅しました。

 暑くても例年通りエアコンは28度設定のわが家。う~ん、これじゃ、青い鳥が家の中にいたと気づいたとしても、暑くて逃げていってしまうだろうな。ま、明日は明日で、青い鳥おいかけて出かけて行きましょう。

<おわり>
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工芸散歩2011年7月

2010-05-02 10:55:00 | 日記
2011/07/13
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(1)たばこと塩の博物館「明治の輸出工芸品」

仕事帰りの散歩、6月後半と7月は「アートさんぽ」をしています。サマータイムを導入した会社が多い今年の夏、4時には会社からひけて、バーやビヤホールは繁盛がみこまれているのだそうですが、バーにお金を落とすこともできない「もともと節約生活」の私、午後の過ごし方もこれまでと同じく、「無料!」「It's free!」「ご自由にどうぞ!」が必須です。寄り道先は、入場料100円の「たばこと塩の博物館」だったり、入場無料の「三の丸尚蔵館」だったり。

 幕末明治初期の工芸品を見て歩こうと思い立ったのは、NHK・BSプレミアムの『極上美の饗宴 シリーズいのち映す超絶工芸▽金属に刻んだ一瞬 彫金家・正阿弥勝義』という番組の再放送を見たからです。(5月28日(土)NHK BSプレミアム 午後12時00分~12時58分)

 正阿弥勝義(1832-1908)は、岡山藩お抱えの彫金・金工師でした。幕末、殿様の刀の鍔などを作って安定した暮らしを送っていたのですが、明治になって世が変わり、殿様は東京へ行ってしまうし、廃刀令が出されて刀の鍔などは需要がなくなってしまいました。
 45歳になって、勝義は金工芸を新しい方向へ向かわせます。

 おりからの19世紀末万国博覧会ブームで、日本の金工の高い技術力芸術力は海外のコレクターの目を集めました。正阿弥勝義ら金工彫金の作品が国内ではほとんど知られることなく今日まで来たのは、その作品のほとんどが海外へ輸出されてしまい、国内に残された作品は「知る人ぞ知る」ものだったからです。私はまったく正阿弥の名も彼の作品も知りませんでした。
 正阿弥勝義の彫金技術は、現代の人間国宝彫金師も再現できない複雑な技法が使われていて、空前絶後の作品なのだそうです。

 同じ江戸幕末明治期の作品でも、浮世絵は大量印刷が可能になり、茶箱を輸出する際の包み紙に使われたりしたほどの大衆品でしたが、ひとつひとつ彫金していく金工象眼などの細工は、もともとそう大量には出回っていなかった。現在、海外流出作品の買い戻しを行っているコレクターや美術館博物館によって買い戻されお里帰りした作品を見ることができるようになりました。世が世なれば私なんぞ見ることもできなかった七宝工芸、金工、象嵌などの工芸品の品々を、今回見ることができました。
 
 6月22日、たばこと塩の博物館で「明治の輸出工芸品」を見ようと思い立ったのも、正阿弥勝義の金工にびっくりしたからです。
 たばこと塩の博物館の展示は、日本輸出工芸研究会会長の金子皓彦氏が収集した幕末明治を中心とした工芸品の数々です。芝山細工、真葛焼、麦藁細工、寄せ木細工などから特にすぐれた精緻な工芸品を展示しています。芝山細工など、私ははじめて見たのですが、とても美しく見事な作品でした。

 芝山細工は象牙や貝を素材とする象嵌のついたてやタンス、宝石箱などで、現代にこれらの作品を再現しようとしたら途方もない値段になってしまうと思います。明治初期には、日本から欧米へ向けた輸出品としてせっせと海外へ送られていきました。

 作品のほとんどは無名の職人達の手になるもので、職人達は芸術家とたたえられることも誉められることもなく、ひたむきに日々の手技として己に与えられた業をなしていたのでしょう。名が残ることなど考えもせず、毎日毎日こつこつと鏨を打ち鑿をふるい、細工に精魂こめた職人達。
 無名の職人たちの作品は、こうして百年後に私たちの目の前にあります。かれらの多くが、代々受け継がれて大切にされるほどの作品を残せたことを誇りに思い、矜持を持って仕事をしていたのだろうと思います。

 樋口一葉の次兄虎之助は、薩摩焼の絵付け職人でした。陶器の絵付け職人とその妹を主人公にした『うもれ木』は、この兄をモデルにしたといわれています。「うもれ木」とは、長い間地層の中に埋もれていて、化石のようになった樹木のことを言います。今回見た工芸品の中にも、横浜絵付け薩摩焼という花瓶が展示されていました。
 うもれ木のように人々の目から遠ざかっていた輸出工芸品が、百年後の今、無名の職人達の魂の表現として展示されている。作り上げた無名の職人に敬意を捧げつつ、ひとつひとつの作品をゆっくりと見てまわりました。
 
<つづく>

もんじゃ(文蛇)の足跡
訂正 (誤)塩とたばこの博物館→(正)たばこと塩の博物館

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2011年07月15日


ぽかぽか春庭「三の丸尚蔵館「美術染織の精華-織・染・繍による明治の室内装飾」 」
2011/07/15
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(2)三の丸尚蔵館「美術染織の精華-織・染・繍による明治の室内装飾」

 皇居大手門の中にある三の丸尚蔵館。皇室財産から国に寄贈された品々を展示しており、いつでも入場無料です。
 いつもよい企画なのですが、会場がせまいので、たいてい一期二期三期と分けての展示になり、展示品を全部見たいとなると、ひとつの企画に対して3回足を運ぶことになります。東京に住む私でもなかなか三期全部見に来る機会がないのですから、地方にお住まいの方だったら、私以上に「全部をまとめて見たい」と思うことでしょう。東御苑の中に今の三倍の広さの展示館の設立を望みます。

 「美術染織の精華ー織・染・繍による明治の室内装飾展」は第一期3月29日~4月24 日、第二期4月29日~5月22日、5月28日~6月19日の3回展示でした。私は2期と3期の展示を見ました。

 染め物織物は、大和朝廷に機織部(はたおりべ・はとりべ)がおかれたときから、皇室にとって重要な部署であり、服部(はとりべ・はっとり)という地名人名は各地に残されています。
 近代化を急ぎ、諸制度や鉄道技術などを西欧から移入した明治時代。明治宮殿を飾るタベストリーやカーテンに輸入品が使われるということも可能だったことでしょう。しかし、明治宮殿や離宮を飾ったのは、多くは日本の染め物、織物、刺繍の壁紙やタペストリーでした。

 日本には古代からの染め物織物の技術があり、各時代の新しい染め織り技術を導入しながら、技術革新を行ってきました。
 幕末から明治、京都西陣を中心に、フランスなどから新しい染め織りの技術導入に苦闘した人々がいました。万国博覧会などにも出品され、日本の染織技術のすばらしさを西洋社会に認識させて来たのです。友禅技術を改良した天鵞絨(ビロード)友禅、フランスのゴブラン織りを取り入れた綴れ錦などが、改良を重ね、すばらしい織物染め物、刺繍の作品が残されています。

 川島織物の川島甚兵衛の綴れ織壁掛け『桐牡丹に孔雀図』『楓芙蓉に鶏図』も見事でしたし、飯田新七の刺繍屏風『四季草花図』も壁掛け『孔雀図』も精緻な刺繍に目を見張りました。
 作品として残りやすい屏風や壁掛けのほか、地味ですが壁張布の織物にも美しい織りがありました。壁張裂の展示に、群馬県の三人の織師の名前が書かれていました。メモなどはとっておかなかったので、名前をおぼえていませんが、「無名の職工」として生きたのかも知れない三人の名が、「皇室御用達」の壁張を作ったことによって記録され、こうして名とともに展示されている、、、、川島甚兵衛のように事典にもその名が記録される有名人もいるし、無名のままひたむきに織機を動かし刺繍の針を動かした人々もいた。
 彼らは名を残すことを目的としたのではなく、日々の小さな針の一刺し、織り糸の一段一段の良し悪しを判断しながら己のすべきことを続けたのでしょう。仕事とはそのようなものであろうと思います。

 私の仕事も、文化に大きな足跡を残すような大家ではなく、日々の小さな日本語の上達をめざしてこつこつと職人魂を持って取り組むささやかな積み重ねです。日本語学に大きな足跡を残した本居春庭の名を借りていますけれど、小さな小さな無名の春庭です。群馬の三人の織り工が織った壁張の布、親しみを込めて見入りました。

<つづく>
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2011年07月16日


ぽかぽか春庭「シマしま工芸館」
2011/07/16
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(3)近代美術館工芸館「シマしま工芸館」

 駒場の日本民芸館、上野の東京博物館にも、好きな工芸品がたくさんありますが、一番よく行くのは竹橋の近代美術館工芸館です。よく立ち寄るのは、地下鉄東西線を利用しているので竹橋で降りやすいことと、工芸館の建物が私の好きなレンガ作り近代建築だということ、もうひとつは、工芸館の所蔵作品だけを見るなら、入館料は200円ということによります。(近代美術館本館常設展といっしょの料金は400円)

 旧近衛師団司令部庁舎であった工芸館のたたずまいは、激動の日本の歴史を感じさせ、また歴史の試練に耐えてきた風格を感じさせるものがあり、好きな建築のひとつです。
http://maskweb.jp/b_konoeshidan_1_0.html

 今回の展示テーマは「シマしま」。
 渦巻きや縞は、人類がものを作り出した最初の時期から、紋様として道具にほどこされていました。土器や石器の持ち手に原始の人々は願いを込めて紋様を飾ってきたのです。縞模様はもっとも単純な紋様であり、かつ江戸小紋などの染め物に見られるように精緻で複雑な縞模様もあります。「シマしま工芸館」は、陶器、染め織りなどに見られる縞模様をさまざまな角度から展示しています。(会期は8月31日まで)
http://www.momat.go.jp/CG/11summer/index.html

 「シマしま工芸館」の展示、大好きな志村ふくみの染織きものにも、すてきなシマがありました。「水瑠璃」と題された紬や、「暈し段(ぼかしだん)」という紬振り袖。ほんとうにすばらしい着物でした。
 ほかにも陶磁器やガラス工芸品、漆など、さまざまなシマ模様の表現があり、どれも見応えがありました。

 この展示を担当した学芸員の解説によると、「縞」はもともと、「渡りもの」や「島もの」、「島布」などと呼ばれ、南蛮貿易によってインドや東南アジアなどの遠方の島々からもたらされた、筋模様の織物を意味したそうです。
http://www.bunka.go.jp/publish/bunkachou_geppou/2011_06/series_01/series_01.html

 古語辞典(岩波)で「しま」を確認してみると、島嶼の意味のつぎに「島物の略」と出ています。「島物」とは、南蛮諸島(現在のフィリピンやインドネシアの島々)を含む東南アジア~インドなどの地域から輸入された物、という意味です。
 中世末期から近世初頭にかけて、茶入れや、絵などが盛んに輸入され、南蛮のどこであれ産地不明の物は、「島物」と総称されていました。この時代に盛んに記録された茶会記にも、「瀬戸肩付き、島物」などと、茶碗の由来が書かれています。

 今、息子がいっしょうけんめい読んでいる『多門院日記』にも、天正15年6月18日の記録として、「島物、壺二斤半入り」と書かれています。(『多門院日記』とは、1478(文明10)年から1618(元和4)年にかけて140年の間に、奈良興福寺多聞院の僧が書き継いだ記録です)。南蛮からの輸入がさかんであった戦国末期、信長も秀吉も島物を愛用したことでしょう。

 「南蛮の島からの輸入品」の意味だった「島物」が、近世後期になると、南方諸島から渡来した布の意である「島渡り物」を特に「島」と呼ぶようになり、さらこれらの輸入布地に、筋文様(すじもよう)が多かったことからこの模様を「島」と呼ぶようになりました。「縞」の文字が「しま」に当てられるようになりましたが、これはもともとは当て字なのです。中国語での「縞」は、「絹の織物」という意味であり、「縞衣」とは、白絹の衣のことです。
 以上、「しま」に関わる「日本語の歴史」でした。今まで気にも留めずに使ってきた「シマ」という「模様を表すことば」でしたが、「シマしま工芸館」を見にいったことから、ことばの由来をくわしく調べることができました。

 では、「シマ模様」という語が近世に定着するまで、この模様は何と呼ばれていたのでしょうか。
 「しま」という語や「縞」という文字は江戸時代くらいからのものであるとして、それなら、奈良時代平安時代にはこの模様はなんとよばれていたのか、という疑問がわき上がります。

 答え「筋 すぢ」です。
 細く長く一続きのものがすべて「すぢ」と言われたので、筋肉の繊維も「筋すぢ」ですし、血筋・家系も「すぢ」、芸風の継承も「すぢ」。習い事をしていて「すぢが良い」と誉められるのもここから。さらに、趣向、おもむき、因縁なども「すぢ」。「すぢ」は、いろいろな意味を持つ多義語であったゆえに、紋様を表す語として新しい表現が求められ、結果、輸入品の衣装の縞模様から「しま」が定着した、というわけです。

 江戸時代は特にシマ模様の衣装が好まれた時代でした。唐桟縞、親子縞、孝行縞、鰹縞、真田縞、乱縞、うねり縞、滝縞、吹流し縞など、江戸時代の染め物に使われたシマ模様は、数百種類にものぼるそうです。
 縞模様の紹介サイト
http://www.viva-edo.com/komon/komon_touzan.html

 縞の名前を全部知りたければ、『縞事典―日本の縞名百相』という本も出ています。縞の名前だけで辞書が一冊作れるくらいですから、いかに日本の文化に縞模様が深くなじんでいるか、ということでしょう。文庫本なら、『日本の染織 (2) 縞・格子』(青幻舎文庫)

 江戸時代から「縞張」という縞柄の見本帳が出版されていたのですが、さて、私はいくつくらい縞柄の名を言えるでしょうか。井上ひさしは、「盲縞めくらじま」という縞の模様名が、「盲」という語が「差別語」としてマスコミから追放されたことによって、作品の中にかき込むことが出来なくなった、と嘆いていました。「つんぼ桟敷」とか、差別用語忌避のために使えない言葉はたくさんありますが、伝統模様としての盲縞くらい気にせずに使えるのが、真の言語文化というものでしょう。

 シマしま工芸館を見て、久しぶりに「ことば蘊蓄」を楽しみました。語彙論という分野には、いろいろの面がありますが、ひとつの語について、いつからこの語は日本語として使われているのかという語の由来、語構成、意味、派生語、使用状況(若者ことばなのか、地方方言なのか)、文字表記の変化など、さまざまな角度から追求することができます。春庭は語彙論が専門ではありませんが、現在の「言語文化研究」というフィールドは幅広いので、どんなことも「芸のこやし」。
 「シマ」一語の探索もたのしい「ことばのさんぽ」になりました。

<おわり>

2011/07/27
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(4)庭園美術館「皇帝の愛したガラス」

 フランス語で「隠者の庵」「隠れ家」を意味するエルミタージュ。
 18世紀、ドイツ貴族の娘ゾフィは、又従兄にあたるロシア皇太子ピョートルに嫁ぎました。当時のロシア宮廷社会ではフランス語が公用語でしたが、夫ビョートル(のちにビョートル3世)は、ドイツ語しか話そうとしませんでした。ロシア皇帝ピョートル1世の娘アンナとスエーデンの公爵との間に生まれ、アンナの姉エリザベータ女帝の後継者に指名されたピョートルだったけれど、おもちゃの兵隊ごっこにしか興味を持たず、結婚相手にも関心を持ちませんでした。

 ゾフィは、結婚前から堪能だったフランス語に加えて、民衆のことばにすぎなかったロシア語も猛特訓で身につけ、ロシア正教に改宗して、エリザヴェータ女帝から認められ、エカチェリーナの名を与えられました。

 エカチェリーナは、不仲だった夫の死後、女帝として即位、啓蒙君主としてロシアを近代国家として発展させるべく力をふるいました。(エカチェリーナの、日本語慣用発音はエカテリーナ、ドイツ語読みではカテリナ、カザリン。英語読みではキャサリン。私は、エカチェリーナとエカテリーナ、どちらも使っています)。

 エカチェリーナ2世がドイツなどから買い取った美術品を展示する館として、そして恋人との秘密の逢瀬を遂げる隠れ家として贅を尽くして作り上げた場所が、サンクトペテルブルグにあるエルミタージュ。現在は、国立エルミタージュ美術館です。

 エカチェリーナ女帝の愛人の数は、子をなした相手が少なくとも4人。(最初の子パーベル1世は、公式には夫ピョートル3世との間の子とされてはいるが)。寵愛を与えた相手は、10人説もあり20人説もある。その中でも、女帝最盛期の相手だったのはポチョムキン公爵(映画『戦艦ポチョムキン』の軍艦名の由来となった軍人)。エカチェリーナとポチョムキンの間で20年ほどの間に交わされた手紙は、現存するだけでも1062通が発見されており、秘密の関係とは言っても、ポチョムキンの死まで二人は夫と妻として互いを認めていたことが知られています。

 5つあるエルミタージュの建物のうち、小エルミタージュにある一番ふるい展示品は「」“孔雀の時計」です。これは、ポチョムキン公からエカチェリーナ2世に贈られたからくり時計です。ポチョムキンは、36歳のとき10歳年上のエカチェリーナ女帝と結ばれました。パートナーとして女帝を支え、男女の関係でなくなったあとも、52歳で亡くなるまで生涯を女帝のために捧げました。

 エカチェリーナ女帝がポチョムキンのために建てた施設のひとつが、ガラス工場です。ヨーロッパでは、ヴェネチア、ボヘミアなど、ガラス工芸が盛んでした。ロシアでも11世紀前半から国産のガラス器が生産されるようになりましたが、大変高価で、貴族や大商人でもなければ、手にすることはできませんでした。エカチェリーナ女帝の時代、ロシアのガラス製造は円熟期を迎え、晩餐会用食器セット(セルヴィス)などが生産されました。

 18世紀末、女帝エカチェリーナ2世はガラス工場を設立し、ポチョムキンへ贈与されました。エカチェリーナ時代ののちは、ロマノフ王家による帝室ガラス工場として整備され、製造された鏡やガラス製セルヴィスは、外交的な贈答品としても活用されました。エングレーヴィング(ガラス彫刻)によって紋章やモノグラムを彫刻したセルヴィス、金を用いたルビー・ガラスなどの色ガラス、華麗で精緻なガラス製品が作られるようになったのです。

 この頃から、20世紀のアールヌーボーのガラス工芸品までを展示した「国立エルミタージュ美術館所蔵・皇帝の愛したガラス」展を、7月20日、庭園美術館で見ました。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/glass/index.html
 第3水曜日シルバーデイ(8/17、9/21)は、65歳以上の方は無料!!!

 どの展示品もたいへんに美しく、華麗豪奢。きらびやかな金と真っ赤なガラスの花器、皇妃や貴族の名を彫り込んだワイングラス、クリスタルガラスのシャンデリアなどを見ていると、美しさにうっとりし、そして、このような贅沢品を貴族のみが独占する暮らしが続いたのでは、国民の大半が農奴として過酷な生活を続けていたロシアに革命が起きても当然だったのだろう、と思えてきます。
http://www.artimpression.co.jp/exhibition-23.html

 私は、光を透す、透明なガラスになんとも言えない魅力を感じます。現在では、百均のグラスでも質のよいものがあり、お気に入りのグラスを百円で手に入れたりするとうれしいです。
 3月の震災で、食器棚の食器が落下し、大半が割れた中、去年の夏に娘と息子が箱根の「吹きガラス制作体験」で手作りしたガラスが割れなかったのは奇跡的でした。娘は皿を、息子はビアジョッキを作ったのですが、ちょっといびつな形に仕上がった、手作りらしい雰囲気のガラス、私にとっては、高価な品が並ぶ「皇帝の愛したガラス」以上に大切なもの。世界で1点だけのわが家の宝物です。女帝エカチェリーナや、ロマノフ家の人々が愛したガラス製品も貴重ですが、私は我が家の貴重な手作りジョッキでビールを飲みましょう、、、、おっと、この夏はビール節制中なのでした。29日に区民健診を受けることになっています。また「体重オーバー。肥満対策が必要です」なんていう結果が出ないようにしなければ。

<つづく>
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2011年07月29日


ぽかぽか春庭「泉屋博古館「書斎の美術」」
2011/07/29
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(5)泉屋博古館「書斎の美術」

 招待券をもらったので、7月27日水曜日、仕事帰りのさんぽとして、久しぶりに泉屋博古館を訪れました。泉屋博古館(せんおくはくこかん)は、住友家が蒐集した美術品を展示しています。(なんど読み方を聞いても、泉屋とみると「いずみや」と読んでしまうのですが)
 地下鉄六本木一丁目駅を出て、屋外に設置されたエスカレーターを乗り換えながら上っていきます。エスカレータはたいていビルの中にあって、屋外エスカレータは、他の場所にはあまりないので、空を見上げながら上下するのは面白いです。エレベーターのまわりの木々に、セミの鳴き声がにぎやかでした。

 今回の泉屋博古館の第2展示室は、明清時代に制作された工芸品を中心にしています。中国で、文人達は書斎の必需品として花器、文鎮、香炉などを部屋に置き、愛玩しました。「書斎の美術品」は、日本に移入され文人墨客たちの書斎や煎茶席などを飾る逸品として珍重されてきました。
http://www.sen-oku.or.jp/tokyo/program/index.html

 無名の職人たちが作り上げた、すばらしい工芸品の数々。明代、清代の職人達が、殷の時代から伝わる青銅器を模倣した作品など、名工の技術のかぎりを尽くして古代の工芸を再現しようとしている心意気が伝わりました。

 特に気に入ったのは、かぎ煙草の粉を入れる鼻煙壺(びえんこ)です。鼻煙壺とは、嗅煙草の粉を瓶の中に入れ、ふたについた小さな匙で粉をすくえるようになっている、ミニチュアの瓶です。現代で言うと香水瓶のようなかんじ。5cm~8cmくらいの小さな瓶が玉(Jade)やガラス、陶器などでできていて、その表面に精緻な模様がつけられている。コレクションがずらりと並んでいる鼻煙壺のケースは圧巻でした。

 小さく愛らしい形、華麗でさまざまな意匠を楽しめる瓶の柄、模様。今でもコレクター垂涎の品らしく、中国、香港、台湾には専門の販売店がたくさんあり、コレクターは世界中に逸品を求めて、目を光らせているそうです。ヨーロッパの香水瓶は、中国のこの鼻煙壺を応用して作られたのだとか。
 第2展示室の玉器や硝子、金工の工芸品、ほんとうに見事でした。

 第1展示室は、常設展示の青銅器コレクション。紀元前13世紀の商時代から清時代までの中国の青銅器を見ることができます。

 青銅器の紋様も興味深かったですが、一番楽しかったのは、古代青銅器の中で、楽器として用いられたという「素文鉦(そもんしょう)」です。 英語解説にはhand bellと書いてありますが、現代のハンドベルのように、手でベルを振り、舌がベルに当たって音がでるのではなく、片手に持ち、片手の槌で叩いて鳴らします。古代には、神に通ずるための音として、鳴らされたそうです。

 硝子ケースには、古代の本物がありますが、展示場の隅にレプリカがおいてありました。小さなバチが添えられていて「叩いてみて下さい。ひとつの鉦の異なる場所で違う音階の音が出ます」と解説がありました。参観者は、だいたいバチを手にとって、復元品の素文鉦をカンカンと鳴らしています。もちろん、私も何度も小さく鳴らしてみました。澄んだ音が響き、叩く場所によって異なる高さの音が出るのが、とても楽しい。
 楽器だったとはいえ、古美術品の本物を叩くわけにはいかないけれど、こうして復元品があれば、みなが叩いて音を確かめることができます。

<つづく>
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2011年07月30日


ぽかぽか春庭「鼻煙壺の美」
2011/07/30
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(6)鼻煙壺の美

 鼻煙壺の小さな精巧な作りを見ていて、さて、私は、このレプリカが本物といっしょにケースの中に並んでいたとして、どちらが本物でどちらがレプリカなのか、区別がつかないだろうなあと感じました。
 中国、明・清時代の青銅器や玉器の逸品を眺めながら、私が思ったことは、無名の職人技への賞賛がひとつ。もうひとつは、ガラスケースの中に、全部模造品が並べられていたとして、ここに集まったほとんどの鑑賞者は「へぇ、すごいね」と感心しながら眺めるだろうということでした。

 ロシア・ガラス展を見ながら、ヴェネチアンガラス、ボヘミアンガラス、ロシアンガラスなどの古ガラス製品、また、近代のエミール・ガレ、ルネ・ラリックらのすぐれたデザインのガラス製品、あまりにも美しく、かつガラスの持つ透明で純粋ではかなさを含む魅力に圧倒されました。と、同時に感じたこと。ガラスショップには数十万円のヴェネチアングラスやボヘミアングラスを売っている。百均店にそれを模倣した中国やアジアで作られた100円のグラスもあったとき、私の目では、即座には区別がつかず、100円と思ったら高額だったり、骨董品かと思ったら100円だったりするだろう、なにせ私は、「目利き」とは真逆なんだから、と思いました。

 陶磁器でも、復元不可能とされてきた品があります。たとえば、国宝の曜変天目茶碗は、中国でも技法の伝承者が絶えてしまい、これまでいろいろな人が復元を試みたけれど、うまくいきませんでした。2002年にようやく「オリジナルに近い」とされる作品が復元されたたのですが、まだ完全な復元品はできていないようです。
 明治時代の正阿弥勝義の彫金のように、いくら研究しても復元できなくなっている技法を用いた作品もあり、「絶対的なオリジナル」という工芸品もあります。しかし、工芸品の多くは複製が可能です。

 複製された陶磁器や織物について、「これは偽物、コピーにすぎない」と言えるとしたら、どんな根拠があるのでしょうか。たとえば、青銅器や陶磁器なら、原料の分析をして、この青銅の成分は、古代のものではなく、現代の銅を使っている、とか、この磁器の釉薬の成分がオリジナルとは違う、とか、科学的な偽物判断もできるのでしょうけれど、素人の目には、ガラスケースの中の素文鉦と、叩いてよいレプリカ素文鉦の区別がわからない。

 贋作騒動の中でも有名な「永仁の壺」事件。1959年、「永仁二年」(1294年)の銘をもつ瓶子(へいし)が、鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして国の重要文化財に指定されました。陶芸家加藤唐九郎は、1954年に自ら編集発刊した『陶器辞典』に「永仁の壺」の写真を掲載し解説を執筆して、「鎌倉時代の作品」と主張しました。しかし、「永仁の壺」実は、加藤唐九郎が作った現代の作であったということが判明し、重文指定を推薦していた文部技官が引責辞任をしました。

 重要文化財指定を取り消された後、この壺は価値を失ったのでしょうか。山田風太郎は「この事件ののち、重要文化財級の作品を作れる男として加藤唐九郎の名声はかえって高くなった」と書いています。(山田風太郎『人間臨終図巻』)しかし、加藤は、1961年(昭和36) 国の無形文化財有資格者(人間国宝)の認定取り消されたました。順調にいけば、文化勲章ほかさまざまな芸術の賞を受賞することもできたはずの唐九郎が、1965年(昭和40)毎日芸術賞を受賞したものの、あとは無冠であったのは、贋作騒動が響いたとしか思えません。

<つづく>
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2011年07月31日


ぽかぽか春庭「レプリカと百均もの」
2011/07/31
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(7)レプリカと百均もの

 ある作品を「工業工芸製品」と呼ぶのか「美術品」として扱うのか。作家の個的な作品としていわば「一点もの」であるなら美術品、大量生産によって製造され、商品として売ることができるなら工業工芸品という分け方でよいのか、素人の私にはわかりません。
 近代美術館工芸館にある着物や花瓶などは、着物として身にまとうことをせずに、展示してその染めと織りの美しさを愛でる、花を生けることをせずに、花瓶そのものの形や色を眺める、そういう「美術品」です。一方、百円ショップに売っている茶碗や花瓶は、大量生産品として「使い捨て」にされている。

 テレビのバラエティ『はねるのトびら』の中の名物コーナー「ほぼ百円ショップthe ダイタイソー」は、「だいたい、そう」いう値段(ほぼ100円)の商品20点ほどの中に、骨董品、レア商品などの高額商品が混じって並べられ、出演者が高額商品を選んだ場合は、自腹で買い取らなければならない、という番組です。

 我が家、娘と息子のお気に入り番組で、放映されると全部じゃないけれど、私もだいたい見ています。だいたいそう。7月27日水曜日も、大笑いしながらいっしょに見ました。
 高額そうに見えて、100円で買えるものだったり、100円かと思うと数万円ときには数十万円の品だったりする、出演者のやりとりや、がっかりしたりする顔が面白いし、何より、意外な値段に「へぇ、これが100円で買えるの」と思ったり、「世の中、こういうもんに何万も出すレアもの好きもいるんだなあ」と思ったり。

 27日の出品では、古いレアもののスニーカーや、映画で使われた小道具が高額商品でした。ヴィンテージ・スニーカーは7万円。映画『オーシャンズ11』で使用された車の「吊り下げ芳香剤」が、9万5千円。俳優の佐藤隆太が、百円ショップの品と思って選んだ手鏡も高額商品。御蔵島や三宅島の伊豆諸島でとれる桑の木「島桑」で作った手鏡は、桑の木肌の模様が美しく、4万5千円という値段も納得。調べてみたら、ネットオークションでもだいたいそういう値段していました。約100年前にガーナの王族が着用していたという民族衣装も5万円。お金があれば、民族衣装コレクションをしたい私、欲しかった。
 北大路魯山人の作っぽく見せかけて「北」と銘が入っている古そうな壺は、骨董市で百円の品。

 テレビの「なんでも鑑定団」もときどき見ることがあります。自信たっぷりに「先祖伝来の○○」として持ち込まれたものが、たちどころに「贋作」と鑑定されて二束三文だと言われたり、古いがらくたおもちゃと見えたものに意外な高値がついたり。「ものの価値」について、考えさせられます。

 私の結論では、自分が見て気に入り、いいなと思ったら、100円のものでも、それは自分にとって価値があるものであり、いくら高い値段がついていても、気に入らなければ100万円のものでもいらない。あ、いらないっていうのはウソです。100万のものなら何でも喜んでいただきますから、ください。あとでネットで転売しますから。

 というわけで、結局のところ、私の、このさもしくいじましい精神が美術工芸品鑑賞の眼力を狂わせ、目利きなどとてもできないのだとわかります。そういう自分をさておいて、鑑定者がつけた値段に驚いたり喜んだりするのも娯楽のうち。

 紀元前1300年の青銅器の職人も、清時代の鼻煙壺の職人も、ヴェネチアやロシアの硝子職人も、いやあ、いい仕事していました。

<おわり>
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