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春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2014年6月目次」

2014-06-29 23:59:59 | エッセイ、コラム



2014/06/29
ぽかぽか春庭 2014年6月目次

06/01 ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩なつかしの学校校舎(1)鎌倉御成小学校講堂
06/03 建物散歩なつかしの小学校校舎(2)広尾小学校・昭和復興小学校
06/04 建物散歩なつかしの小学校校舎(3)愛恵学園愛の家
06/05 建物散歩なつかしの小学校校舎(4)未来へ

06/07 ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち (1)シャガール版画展 in 目黒美術館
06/08 20世紀の画家たち(2)マリー・ローランサン展in三鷹美術ギャラリー
06/10 20世紀の画家たち(3)バルチュス展 in 東京都美術館
06/11 20世紀の画家たち(4)猫たちの王バルチュス
06/12 20世紀の画家たち(5)賞賛と誤解だらけのバルチュス
06/14 20世紀の画家たち(6)バルチュスと少女
06/15 20世紀の画家たち(7)私の誤解によるバルチュス
06/16 20世紀の画家たち(8)プロレタリア・アート in 吉祥寺美術館

06/18 ぽかぽか春庭感激観劇日記>梅雨どきのかんげき(1)あめつちはじめの物語~古事記よりin シアターカイ
06/19 梅雨どきのかんげき(2)コーカサスの白墨の輪2回目
06/21 梅雨どきのかんげき(3)水無月の水族館劇場

06/22 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記6月(1)梅雨時の第九
06/24 十四事日記6月(2)詩のつぶて「街をかえせ」
06/25 十四事日記6月(3)森まゆみトークショウin岩波BookCafe
06/26 十四事日記6月(4)大往生
06/28 十四事日記6月(5)朴ノ木の花と失せもの(半分終わりました、という愚痴)
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ぽかぽか春庭「朴ノ木の花と失せもの・半分おわりました、という愚痴」

2014-06-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/06/28
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記6月(5)朴ノ木の花と失せもの・半分おわりました、という愚痴

 毎年6月末日になると、「あ~あ、今年も半分終わっちゃった。元日の目標、何一つ達成していないのに」と、思います。毎年のことなのだから、元日に目標たてなければいいのですが、元日には、9月のジャズダンス発表会までに、1か月に1kgずつやせていけば、9kgの減量になり、ちょっとはスリムな体型で踊れる、と思うのです。

 でも、半年過ぎてみると、体重はむしろ増加しているという事実に気づき、「あらま、あと2か月で9kg減量めざすなら、1か月で5kgもやせなくちゃならない」となり、こりゃ無理だわ、とあきらめるのが毎年6月。

 無病息災とはいかなくても、有病息災でなんとか生きているのだからいいじゃないのと、自分をなぐさめつつ、毎日のこまごまとした雑事に追われて、あれもこれもできないまま、一日が終わっていく、その繰り返し。

 でも、でも、そうやって「どうでもよい日常」を積み重ねていけることが「平凡な暮らしの幸福」なのだからと、納得しつつ、昨今のきなくさい世相に身震いも感じてしまいます。

 醜いセクハラ野次をうやむやに済まそうとする都議会。「平和の党」を標榜してきながら政権にしがみつきたいために「平和」とは自国を守るための戦争することと、平和の中身まで変えてしまいそうな政党。何が何でも戦争できる国にしたい与党。被災者に支払うお金を拒否して自社の社員にはどこよりも高いボーナスを支払う電気会社。
 就活に走り回っている学生を見ると気の毒になるような、正社員の数を減らして非正社員の労働者ばかりが増えていく社会。
 もはやこの世は「失われた社会」になりなんとしている、、、、、

 と、憤っている間に、身の回りからいろんなものが失われています。
 加速度的に脳の働きは悪くなっているとはいえ、私の脳に欠陥があるのは子供のころからのことで、いろんなことをすっぱりと忘れてしまうのも、もの心ついたらそうだった。今更「認知症が始まったので物忘れするようになった」とは思えないので、はたしていつからが「認知に不自由なお方」となりつつあるのか、なって久しいのか、区別がつかない。

 ぽっとしたことで、まったく無意識に行動することがあり、無意識にものをどこかにおいてしまうと、その置き場所をきれいさっぱり忘れてしまうのです。鍵、めがね、財布、ケータイこれらのものは、毎日行方不明になります。

 ジャズダンス発表会に使う大判スカーフ。ミサイルママが買ってきてくれたのを、どこかにしまい忘れてしまったので、もう一度買ってきてもらうという余計なお手間をかけさせて、これで発表会も安心と思ったら、スカーフ、生協宅配の保存食品が積み重なっているところにホイとおいてあるのが見つかりました。
 スカーフが出てきたら、今度は衣装の青いシャツが行方不明。ミサイルママに見放されて、「もうこのシャツはお店に売っていない」と、突き放されてしまいました。うぇ~ん泣。

 飯田橋の銀嶺ホール映画パスポート。夫から借りてきたのをパソコンの横においてあったはずが、見当たらないので、「そして父になる」を見るために、千円だして再発行してもらいました。映画見た次の日に出てきました。

 青い鳥さん宛てに、一か月に10枚送る絵ハガキの束、6月後半と7月分をまとめて入れておいたビニール袋がどっかにいってしまった。
 やっちゃんの送ろうと思っていた「酒類研究所」の醸造についてのパンフレットを封筒に入れて宛名も書いたのに、その封筒がなくなった。不思議。

 キャンパスの中の朴の木に白い大きな花が咲いているのを見つけて、写真を撮ろうと思ったら、カメラがない。たぶん、探せばどこからか出てくるのだろうけれど。腕時計が見当たらなくなったけれど、2週間して出てきましたから。

 朴ノ木の花、神代植物園で撮影したのがあったはずですが、写真ファイルを見てもみつからないので、借り物の写真。こんな花です。


 何もかもが私の身の回りから消えてしまう。
 そのうち、この国も私のまわりから消えてしまうのだろう。
 そんな「失せもの」ばかりの日常です。あ、なくならないで増えていくものもあるのでした。私の体脂肪。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「大往生」

2014-06-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/06/26
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記6月(4)大往生

 サッカーワールドカップ、残念でした。
 我が家、基本的にチームスポーツは苦手なのですが、ふだんはJリーグ見ない娘息子も、オリンピックやワールドカップではサッカーを見ます。25日朝は、私も身支度をしながら横目で見ていました。

 1対1の時点では、ギリシャvsコートジボワール戦の結果しだいでは決勝トーナメント出場の可能性もあるかな、と応援していたのですが、3点入れられた時点で、選手たちがあきらめてしまったことがわかったので、仕事に行きました。そしたらエレベータのなかでいっしょになった人が「4点め取られましたよ」と。
 あきらめてしまうと、そのあとはもう総崩れでがたがたになるのだと、よくわかりました。

 我が人生も、「一病息災でなんとか細々でも生きていこう」と思っているうちは生きていけるけれど、もうダメ、と思った時点で総くずれになりそうです。
 でもでも、大川ミサヲさん、1898年3月5日生まれで、現在116歳。世界最高齢。私もあやかりたい。あきらめないぞ!

 舅の長姉が亡くなりました。夫の伯母、お千代伯母さんは、末っ子の舅が82で死んだとき、「まだ若いのに」と惜しんでくれました。長姉から見ると82歳はひよっこ。舅が亡くなってからさらに12年生きて、105歳の大往生でした。一族のドンとして、親戚一同に事あると、お千代伯母さんは「我が一族の方針は○○であるぞよ」と、巫女の託宣のごとく決定し、みな、そのお告げに従って行動してきたという長老です。

 近隣の困っている人に対して、自分の食事を欠いても世話をする、という人柄で、慕う人は大勢いましたけれど、ずっと姪(夫の従妹)の一人と同居。しかし、その姪も80歳を超えると、同居も難しく、晩年は介護ホームのお世話になっていました。
 105歳での大往生.

 私の友人の出身地では、傘寿以後の大往生は赤飯を炊いて近所に配るのだそうです。「うちのバーサマ(ジーサマ)にあやかって、長生きしてください」と挨拶し、葬式はむしろめでたいことなんですって。そうだよねぇと、私も賛成。
 しかし、姑の「義姉が亡くなったのに、わたしのための祝い事はできない」という気持ちを優先することになりました。「亡くなった夫の姉」の服喪期間がどれほどになるのかは、知らないですが、姑の卒寿祝いは延期。敬老の日くらいまで延期するほうがいいんじゃないか、ということになりました。卒寿になるのは、来年の2月なので、それまでプランを練り直しましょう。還暦だと赤いちゃんちゃんこなんぞを贈ったりするけれど、卒寿って何色でいわうのでしたっけ。

 長生きも芸のうち。
 勝てなければ意味がない、という人もいるでしょうが、さ、明日から気を取り直して出直しです。再出発は何度でも。そして、人生は負けっぱなしでも生きていくに値する。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「森まゆみトークショウ in 岩波BookCafe」

2014-06-25 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/06/26
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記6月(3)森まゆみトークショウin岩波BookCafe

 A子さんのお誘いをいただいて、岩波ブックカフェに参加しました。6月19日木曜の仕事が終わってから、神保町へ。早めについて、コーヒーでも飲みながら待っていようと思ったのに、やっぱり地図を見ながらまったく違う方向へ行きました。「あれ、へんだな、高齢者センターなんてところに来てしまった」と、思って岩波ホールまでもどり、受け付けの人に「岩波本社はどこですか」とたずねました。最初からこうしていればよかったのに。

 もう喫茶店で一休みする時間もないので、コンビニで缶コーヒーを買ってブックカフェ会場へ。開演30分前のオープンになっていたので、前から2列目の椅子確保。まもなくA子さんも到着して、開演まではしばし近況報告。近況といっても、私のほうはまったく何の変化もない相変わらずの貧乏生活がグダグダと続いているだけ。

 A子さんは、ひとり息子さんが大学に入学し、ご自身は翻訳会社を退職して今のところフリー翻訳者として仕事を得ている、という近況でした。高校生活はバスケット選手として練習と試合の日々だった息子さん、勉強もよくがんばりました。世間では「あら、いいところにご進学ですこと」と言われる有名校に入学したのですが、A子さんは、「第一希望じゃなかったけれど、息子が学校を見てから気に入ってくれたので、ほっとした」ということでした。これで、母親としての子育ては一段落。

 岩波ブックカフェは、岩波から本を出版する著者の販促のトークショウ。今回の講演者の森まゆみさんは、私もA子さんもお気に入りの作家で、ひとり親として子育てを仕上げたという境遇がA子さんや私とも共通しているので、共感もあります。といっても、私はダメンズを切り離せていないので立場弱いですけれど、ひとりで育てたという点は同じ。

 新刊の著作は「女のきっぷ」というタイトル。
 この日の授業で青春18きっぷを紹介して、留学生が安く日本中を旅するなら、この切符で24時間乗り続けて移動せよ、とおすすめしたところだったので、タイトルだけ見たとき、「女の切符」かと思ってしまいました。私は、ローカル線鈍行列車の旅ばかりで、特急とか新幹線の「女の切符」には無縁だったなあ、と思ったのですが、切符ではなく「女の気風」のほうでした。それなら、私だって、少々の気風は持ち合わせています。準シングルマザーだから気風というより「スキップ」程度のもんですけれど。

 「女のきっぷ」には、森さんが「見事な生き方、すごい気風をみせてくれた女性」と感じた明治から昭和までの17人の女性が取り上げられており、一人分10ページほどの短い評伝にまとめられています。
 講演は、これらの女性の紹介と、取材の苦労話のあれこれ。森さんはこれらの女性の友人や子孫にインタビューし、おもしろいエピソードが聞けたけれど、存命中の人のことは、オフレコになった話のほうが多く、書きたいエピソードもまだまだいろいろ残されているのだそうです。

 森まゆみが「気風のある女」と感じた17人の女性。
 樋口一葉、与謝野晶子、宇野千代、吉野せい、林きむ子、知里幸恵、ラグーザ玉、和田英、相馬黒光、石井筆子、神谷美恵子、野村かつ子、林きむ子、河きみ、沢村貞子、淡谷のりこ、谷洋子。
 17人全員知っている人ばかりだったら、本を買わなかったところでしたが、野村かつ子、河きみ、谷洋子の3人について、何をした人なのかも知らず、初めて聞く名前でした。

 河きみ(1896-1971)も、いっさい表に出ることなく日陰の身を通し、「縁の下から主人をささえる」一生を貫きました。後藤新平(1858-1929)の、内縁の後妻さん。15歳のときに55歳の新平と出会って結ばれ、以後、40歳年上新平を尊敬し、新平が71歳でなくなるまで身辺の世話を15年間つづけました。新平との間に五男二女をもうけても、1918(大正7)に亡くなった正妻和子が新平の恩人の娘であったことをはばかったのか、正式な後妻として直されることはありませんでした。

 しかし、きみにとっては立場が正妻であるかどうかより、新平の世話をすることそのものに生きがいを感じていた、というのです。新平の死後は里子に出されていた子供たちを手元にひきとり、「新平の子」として恥じることない教育をしそれぞれを立派に成人させました。
 新平の外孫に当たる鶴見俊輔は「うちの家系は傍系(正妻でないきみの子たち)のほうが優秀な人が多い」と、語っていたのだそうです。

 野村かつ子(1910-2010)は、消費者運動生協活動をつづけた人。主婦連とか生協活動とか、消費者運動をやってトップに立った女性は、議員になるとかの転身をする人が多かった中、かつ子は、最後の最後まで「一消費者」という立場でものごとをとらえて活動しました。

 明治天皇の侍従としてつかえた山岡鉄舟に対して、西郷隆盛が彼を評して言うことに「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人」しかし、結局、山岡鉄舟も、子爵、勲二等を受けました。それに比べれて、本当に金もいらぬ名もいらぬ、という一生をつらぬき、子を捨ててもやるべき運動を完遂した人です。本当に「金もいらぬ名もいらぬ一生」を過ごすのは、志ある女のほうです。

 谷洋子(1928-1999)は、戦前戦後、フランスで活躍した女優。フランス生まれですが、学齢期には日本で育ち、津田塾大卒業後、ソルボンヌ大学へ。自分の才覚で女優としてフランスで名を知られるまでになりました。しかし、日本では谷洋子の名を知る人も少なく、私もまったく知りませんでした。晩年は、ライター製造販売の富豪ロジェ・ラフォレのパートナートして過ごし、同じお墓に入ったそうです。

 極北に生きるイヌイットを描いた映画「バレン(1960)」、アンソニークインの妻アジャク役の谷洋子


 トークショウ終演後、本を買ってサインしてもらいました。宛書をメモ用紙に書いて差し出したのですが、「春庭」という名を見て、森まゆみさんは「本居春庭?」とおっしゃいました。「春庭」と名乗ったとき、本居春庭の名を知っていた人に初めて会いました。本居宣長を知っている人は多いですが、江戸期国学や日本語学研究者以外の人で息子の本居春庭を知っている人は、あまりいません。ますます森まゆみファンになりました。

 これまでに自分で買った本は、『明治東京畸人伝』『一葉の四季』『鷗外の坂』くらいで、あとは図書館で借りて読みました。お金儲けはできなくとも、凛として執筆を続けている森さんに、あまり印税貢献もしてこなかったので、申し訳ないことでした。

 森さんは、現在東京オリンピックの競技場建て替え反対運動を続けています。東京オリンピック開発利権に群がる人々の間で、「勝ち目のない戦い」と森さんはつぶやきましたが、私も「開発より神宮の緑を残したほうが、都民国民のためになる」と思いますし、「古きよきものの保存」を願うひとりです。東京国立競技場を取り壊し新築する費用は、決して東京都民のためになりません。神宮の緑を損ねてまで新しい競技場を作る必要なし。新しい競技場を作りたいのは、それで稼ぎたい人たちが望むから。
 ぽかぽか春庭、本居春庭の名を知っていてくださった森まゆみさんに賛同し、あらためて宣言します。国立競技場は、建て替えなくてもよい!!!

 図書6月号に載っていた「著者からのメッセージ」に載っていた森さんのことば。
 「女性の品格」という言葉にメディアが注目したころ、私は品格という言葉に相当違和感があった。自分から品格だというなんて品がないんじゃないの。案の定、上司とか世間に「品がある」と評価されるにはどんな振る舞いや衣服や挨拶がいいのか、というような成功のノウハウばかりが語られていた。他人同士の見栄ばかりでは生きる意味がない。

 そうそう、それで、私は「女性の品格」が100円本になっても、ついに買わず読まずだったんだよ!

 人生の目的は成功ではない。信念と真心だ、と信じている私は「いばるやつは許せない、困っている人は見ちゃいられない」という生き方が好きだ。自分を傍観者や高みにおくのでなく、弱みもさらけ出す。思い切りよく我を忘れて飛び込み、どんな結果になろうとも潔く引き受ける。そんな女が好きだ。それが「女のきっぷ(気風)」。

 ああ、気持ちのいいタンカの斬り方やねえ。
 愛想ふりまけず、空気読めず、ずいぶんと損な生き方をしてきてしまったと思ってきたけれど、「そうにしか生きられなかったのよ、ははは、、、」と、空の上から笑いとばしている女性たちにつづきたい。

トークショウの開演前「著者席」


<つづく>
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ぽかぽか春庭「詩のつぶて街をかえせ」

2014-06-24 07:45:00 | エッセイ、コラム
2014/06/25
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記6月(2)詩のつぶて「街をかえせ」

 6月15日に、合唱団コールシャンティ定期演奏会に出かけました。それぞれ別の区の合唱団に属しているTTさんとkozuさんがふたりとも「招待状もらったから行きます」というので、今は合唱をやっていない私も、まあ、それじゃ聞きにいこうかと、出かけて行ったのです。私は、合唱よりは合奏、合奏よりはダンス、ダンスよりは演劇。同じ見るなら演劇が一番楽しい。しかし、演劇は招待券がもらえないし、チケットは高い。ダンスも同じ。合唱合奏は、時々招待券をもらえるし、無料で演奏するアマチュアコンサートも多い。日本のオーケストラと合唱団は、アマチュアでも非常にレベルが高いです。

 コールシャンティは1957年に都立城北高校音楽部OB合唱団として発足し、1963年に一般合唱団となりました。豊島区、北区、文京区などの在住者が多いのは、城北高校出身者が集まってはじめたから、自然と通学区域の在住者が多くなったのでしょう。
 シャンティとは「船乗りの歌」という意味だそうです。

 今回の第47回定期演奏会は、午後2時から北とぴあさくらホールで。
 ミサ曲、エストニアの民謡、3・11を詩作モチーフとした和合亮一作詞「つぶてソング」そして、さだまさしメドレー。
 エストニアは、バルト三国の中で、一番フィンランドに近いところ。
 さだまさしの歌はよく聞くけれど、エストニアの民謡もつぶてソングもはじめて聞きました。

 3・11以後、反原発の運動を続けているTTさんが和合亮一の「詩の礫」について解説してくれました。3・11直後の現場からツイッターで140字の詩を発信。福島の人、東北各地の津波被災者、放射能避難民となった被災者にも、ことばを届けました。

 和合亮一は、福島市出身。高校国語教師をしながら詩作。第4回中原中也賞、晩翠賞、花椿賞などを受賞。3・11で被災。現場から「詩の礫」をつぶやく。
 コール・シャンティの演奏では、新見徳英作曲の「なぜ生きる」「涙が泣いている」「失うことは悲しい」「夢があるのなら」「街をかえせ」「重なり合う手と手」の6曲を歌いました。

 今回のコール・シャンティの歌声ではありませんが、「F21」の合唱で聞いてください。
「なぜ生きる」https://www.youtube.com/watch?v=R_PYMY530SU
「涙が泣いている」https://www.youtube.com/watch?v=cmlgnmPCg1w
「街を返せ」https://www.youtube.com/watch?v=Amxi5M5qJRw

 6月17日、石原伸晃環境相(57)は、福島原発事故の処理で生じた除染廃棄物などを保管する中間貯蔵施設建設をめぐって「最後は金目でしょ」という与党の本音をさらけだし、住民をいからせました。「親も親なら子も子」という親子2代の「本音発言」ですけれど、辞任もせずに謝罪だけですむのですから、世の中甘い。むろん私は謝罪だけでは許しません。福島被災者は、本物の礫を手に手に永田町に投げ入れたらいい。被災者は「金」ではなく、元のふるさとでの静かな暮らしを返してほしいだろうに。

 かっては反原発運動をやっている人々に対し「集団ヒステリー状態」と評し、今度は「金目でしょ」発言。こういう人が環境問題をどうしようというのか。しかし、こういう人が属する党を与党として当選させたのは選挙民。「金で解決すればいいだけの民」と指摘された福島の人たちは寛容かも知らないが、東京住人の私は、ものすごく腹を立てています。

 国の施策に従ったためにふるさとを奪われた人に、「金もらえば文句ないでしょ」と言ってのける人たちに、私たちは国のゆくすえを任せているのです。
 
 鈴木章浩都議の女性蔑視発言。この人、だれの発言なのか特定されることはないと思っていた間は、「ヤジをとばした議員は辞職すべきだ」と言っていたのですが、いざ自分だということが隠しおおせないとなると、謝罪ですませて「辞職はしない」ですと。セクハラ発言そのもにも問題ですが、こういう二枚舌はもっと議員の資質を欠いていると判断されます。石原環境相とこの人、早く辞任してほしい。
 腹が立つニュースばかりですが、ひととき、合唱を聞いて、心落ち着けてからニュースを見ようと思います。

「夢があるのなら」https://www.youtube.com/watch?v=MyMZhHdTHjQ
「重なり合う手と手」https://www.youtube.com/watch?v=lWbwlH0c1TA

<つづく>
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ぽかぽか春庭「梅雨どきの第九」

2014-06-22 22:22:22 | エッセイ、コラム


2014/06/22
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記6月(1)梅雨時の第九

 ジャズダンス仲間のミサイルママ、TTさんkozuさんは、都区内の合唱団にも入っていて、いろいろな公演の合唱に参加しています。
 6月7日は、錦糸町のトリフォニーホールで、「吹奏楽団によるベートーベンの交響曲第九番」という演奏会があり、TTさんkozuさんが合唱に出演しました。

 私は、3時からの東京ノーヴィーレパートリーシアターの「コーカサスの白墨の輪」が終演するとダッシュで両国駅へ。JRで錦糸町に行き、なんとか7時開演に間に合いました。
 東京リサーチ合奏団は1973年に発足し、東京北部の練馬板橋北などの区在住者を中心に活動しているということですが、私ははじめてコンサートを聞きました。

 7時開演しょっぱなの曲は、 ワーグナー「楽劇ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲」10分ほどの曲が終わるとすぐに20分の休憩。1階にすわったのですが、合唱団の顔が見たいと思って、1階バルコニー席に移動。ここからだと、指揮者の顔と合唱団の顔がよく見えます。
 難点は、独唱者については背中しか見えず、ソロの歌はよく聞こえないこと。しかし、独唱者の歌を聞きに来たコンサートではなく、合唱団の出演者を見るためにきたので、いい席でした。

 私も、吹奏楽によるアレンジでの第九は初めて。どんな響きになるのか、興味津々でした。アレンジは、合奏団指揮者の近藤雅俊。近藤さんは会社勤めをしながら活動を続け、吹奏楽アレンジと指揮を続けてきました。北区在住だそうです。
 前身は「金管バンド」という名前だったという合奏団で、弦楽器は、ベースがいるだけで、ホルンが11人もいるし、アマチュア合奏団ながら、とてもよい音を出していました。

 もらったパンフレットには、合唱の歌詞がドイツ語と日本語訳と両方ついていました。合唱は、いくつかの合唱団からの寄せ集めでしたが、吹奏楽指揮者のほか、合唱指揮者が別について指導を受けたとのことで、きれいなハーモニーでした。

 最近、年末になるといろんなオーケストラや合唱団に属する知り合いから「第九やるから来て」というお誘いがあって、なんで日本では第九といえば年末にやることになっちゃったのか、と思っていて、あまり積極的に聞きたいと思わなくなっていたのですが、思わぬ梅雨時の第九、しかも吹奏楽+合唱、ということで、新鮮な感激でした。

第九演奏が終わったあとの合唱団とリサーチ合奏団
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ぽかぽか春庭「水無月の水族館劇場」

2014-06-21 23:23:23 | エッセイ、コラム

水族館劇場「嘆きの天使」

2014/06/21
ぽかぽか春庭感激観劇日記>梅雨どきのかんげき(3)水無月の水族館劇場

 5月木曜日の仕事が終わって、新宿渋谷を回って三軒茶屋へ。キャロットタウンでミサイルママと待ち合わせ。去年いっしょに見た水族館劇場を見るためです。
 2013年の6月に見た水族館劇場「あらかじめ失われた世界へ」の観劇リポートはこちらに。 
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/85804113e1afa70429ebc0d5fd113310#comment-list

 今回も、昨年と同じ、世田谷区太子堂八幡神社境内にテント小屋の野外劇場「化外の杜」が建てられています。仮設劇場とはいえ、100名前後を収容でき、階段状の観客席ははじっこに座っても見にくいことはないように、しつらえてあります。演劇を作る側の座長自らがレンチ、トンカチを握って自分で建てた小屋なので、自分がやりたい演出に合わせて建設されているのです。

 日も落ちて、八幡神社の境内も暗くなったころ、開演前の野外劇がはじまりました。ギターとアコーディオンの鳴物係りが練り歩いた後、肩に大きなフクロウを止まらせた姐さん(千代次)がセリフを語りながら観客が固まっている中を歩いていきます。セリフはあまりよく聞き取れませんでしたが、ときどきバサバサと大きな羽をはばたかせるフクロウ、動物園の鳥小屋の前に行っても、こんなに羽ばたいたりしないので、見とれてしまいました。

 野外劇はシロートっぽい神楽芸が続きましたが、いくら前座の時間つなぎとしても、あまりにへたくそでしたが、この下手芸になにか意味あるのかと見ていました。登場人物の顔見世が終わって全員で歌ったあと、プロローグが終わり。小屋の横に整列して客入れです。私とミサイルママは、昨年より早めに来て、待っていたかいあり、前半で入場でき、前のほうの中ごろに座りました。開演前の口上では、数日前の公演では、近隣住民の通報かなにかで、消防車4台が八幡神社を取り囲むという大騒動になった、という経緯が語られ、本日は終演まで無事に公演ができるように願っているというあいさつがありました。

 以下はネタばれ紹介です。東京公演はすでに終了しているのですが、地方公演があるのやもしれず、地方で見る予定があるのだったら、結末がわかるので、ご注意を。もっとも、あらすじを全部読んだとしても、水族館劇場の舞台はストーリーではなく、大量の水こそが主役であるともいえるので、ストーリーを知っていようと知らなかろうと、なにはともあれ舞台を見ないことには、意味がない。毎公演数十トンの水がテント小屋に流れ落ち吹き上がる。主役の渾身のセリフに対してより、この水落のシーンに一番大きな拍手が沸き起こるのですから、水が主役といっても、桃山邑もおこらないでしょう。

 舞台の作り方は、昨年と同じく、上手と下手に小さなまわり舞台があり、真ん中に池。今回もたっぷりと水が吹上がり、滝のごとく水が流されるのだろうと期待できます。
 入場整理券を受け取ったときに、芝居のパンフレットをもらったのですが、芝居の前に何の情報も持ちたくない。何も知らずに舞台を見たいので、読んでいませんでした。

 帰りの地下鉄のなかでパンフレットを読むと、座長桃山邑やプロデューサー梅山いつきのエッセイなどが載っていました。梅山いつきは、早大演劇研究所助手、演劇雑誌シアターアーツ編集などをこなす演劇研究者。野外テント劇場を研究フィールドにしています。

 舞台の構造も昨年と同じだし、時間構成も同じ。プロローグ。客入れ。第一部。第二部までの休憩の場つなぎ。今回のはざま芸は、山谷の玉三郎というジーサンが河内男節に手踊りをつけていました。玉三郎ジーサンは、公演の間中は酒を断つと約束したらしいですが、踊っていないと手が震えているので、アル中であることはミエミエでした。元アングラ劇に出ていたらしいこの人の個人史を劇団の人たちは知っていての出演だったのでしょうが、知らない観客である私には、酒の上の失敗でアングラ劇団を追放され、今はただの飲んだくれになっているらしい玉三郎を物悲しい気分で眺めつつ、流れてくる河内男節に陽気に手拍子を打つというアンビバレンツな気分で第2部に突入。

 大量の水落のほか、雪がけっこう降るのですが、この降雪装置がすごい雑音をたてる。ウィーンと音がするので、あ、この後雪が降ってくるな、とわかるのがちょっと興ざめで、この騒音はなんとかならなかったか。雪がふる前はなんでもいいから、たとえば河内男節が鳴り響くのでも、「ほら、これから雪を降らしますよ」の機械音よりはましな気がする。

 プロローグで肩にフクロウを止まらせて歩いていた看板役者千代次は、「路地裏にひそむ黒いぼろ=ノリオとセツの幻の母」を演じます。前回の役も今回も、そこに立っているだけで傷痍軍人とその情人のパンパンの二面性を持つような聖なる娼婦の存在感。
 「贋の蝦夷錦をでっちあげる糸・縫」を演ずる風兄宇内は、強烈な個性の役者で、ただ、去年の役も今年の役も、その存在感がまったく同一でした。つまり、役ではなく風兄宇内として存在している。

 ミサイルママご贔屓の鏡野有栖(ノリオの姉セツ)は、第一部の終わりに赤い檻に閉じ込められて池の中から現れ、檻は大量の水とともに舞台中空にのぼっていきます。
 七ツ森左門が演じる「幻の姉セツを求めて列島をさまよう家出少年・ノリオ」は、終演近く、銃弾を撃ちこみます。銃声が聞こえてはじめて、わたしはノリオが永山則夫をモデルにしていたことに気づきました。
 貧しさの中でもがきながら、母と姉を追い求め、ついに銃弾を撃つことになるノリオ。
 最初から「板柳町」という地名が出ていたにも関わらず、私は「板柳町」を劇中の架空の町と思っていたので、ノリオと板柳町に生まれ育った永山則夫を結び付けていなかった。

 ミカドにあらがう国栖(くず)一族の長も、帝政ロシアとの密貿易を重ねる毛皮商人も、その帝政を倒そうとする革命家も、その革命家を付け狙う密偵も、時代と時をごちゃ混ぜにしためまぐるしい舞台に、ミサイルママは「今回もストーリーがよくわからなかった」と言いながら帰りました。

 最後までノリオが永山則夫だったことがわからなかった私ですが、この劇団を応援している高山宏の本公演アジテーションの意味が、今はわかりました。

刑死者鎮魂(高山宏)
奈落の底にそのさなぎ、まどろみ夢む、
我執の空に怨み舞うてふてふ、豪奢。
やみがたきそのパッシオンを人は受苦、
間違いの喜劇と称す、無知の涙と

野のはてにその虫、まろびつ夢む。
理に溺れた韃靼のうからの海を
驚かせわたる血の色の蝶とならまし


「無知の涙」は、永山則夫の最初の著作です。はたして、この、消防車がかけつける騒ぎになるほどの数十トンの水が豪奢に流れるお芝居によって、弾丸は浄化され、刑死者は鎮魂されたのか。この大量の落水は、ノリオが流した無知の涙だったのでしょう。

嘆きの天使、劇場外でのプロローグ(このプロローグだけなら無料で見ることができます)
https://www.youtube.com/watch?v=RvUZbPAWLuE

 来年もおそらく水族館劇場はどこかで上演するに違いない。九州小倉まで水族館の芝居を見に行ったミサイルママのようにはいかないけれど、都区内でやるなら、見に行きます。

水族館劇場の紹介ビデオ(2012年九州公演を中心に)
https://www.youtube.com/watch?v=6b7UPvEGiwQ

水族館劇場「NADJA 夜と骰子とドグラマグラ」野外プロローグ
https://www.youtube.com/watch?v=Kxna0eajfm4

<おわり>   

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ぽかぽか春庭「コーカサスの白墨の輪2回目」

2014-06-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/06/19
ぽかぽか春庭感激観劇日記>梅雨どきのかんげき(2)コーカサスの白墨の輪2回目

 東京ノーヴィレパートリーシアターのレパートリーのひとつ『コーカサスの白墨の輪』を2013年春に見て、1年ぶりに6月7日に再び観劇しました。
 今回の上演は、シアターカイが続けてきた「よい演劇を千円で見る」シリーズのひとつで、毎月2回の上演を半年ずつつづけてきました。その間に、役者も演出も変化して、より深化した掘り下げが行われたと、思います。

 昨年の鑑賞記とあらすじはこちら。
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/426b5859cef8dc0f502173bacaa5617e
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/74e7b6c6ed80e25028084b2b023c09bb

 東京ノーヴィは、レパートリーとなっている演目を繰り返して上演して改変していくという「演目の進化」を目指しています。昨年見た『白痴』と『コーカサスの白墨の輪』も、シアターカイで毎月上演されてきて、私は、『白痴』を2回見て、『コーカサス~』も6月7日が2度目です。

 『白痴』は2度目に見たとき、どこが変わっているのかよくわかりませんでしたが、『コーカサスの~』は、裁判官アツダクがいかにして裁判官になったか、というサブストーリーがかなり短くなっていると感じました。

 こまかい点で1年前とは演出やセリフが変化している部分もありました。たとえば、前回見たときはシャンソン歌手の渡辺歌子さんが、劇中歌を歌っていましたが、今回はなし。
 最後のグルジアンダンスを出演者全員で踊るシーンでも、役者たちの「今日が千秋楽」という高揚と安堵の気分が伝わってきました。

 しかし、私の印象では1年前の初見のときのほうが、新鮮な感動がありました。
 『コーカサスの~』も、ブレヒトの定番劇として、何度見てもよいもののはず。では、この、「薄められた感動」は、何によるのだろうかと気になりました。

 ブレヒトにとって、演劇とは「人々に異化作用をもたらし、社会への目を変化させる」できごと。観客が登場人物や物語に感情同化せず、距離をおいて批判的に観察するために、劇中のできごとを「劇中の出来事であること」をはっきりさせ(叙事的演劇)、社会を変革する視点を観客に与えることを強調しました。演劇は、単に人々の娯楽、気晴らしとして楽しむものではなく、「異化効果・異化作用」によって、これまでと異なる視点で問題点を考えられるよう、観客に働きかけるもの、とブレヒトは考えました。

 『コーカサスの白墨の輪』の主人公グルシエは、領主夫人が捨てていった赤ん坊ミハイルを、苦労に苦労を重ねて育て、愛情をもって接しています。しかし、ミハイルの将来を考えると、遺産を受け取る立場にしてやったほうが、幸福になれるのか、自問します。
 グルシエは、結論します。愛情もないくせに、遺産相続の権利を我が手ににぎるためだけにミハイルを取り戻そうとしている領主夫人の手に渡したら、ミハイルは決して真の幸福にはなれない。貧しくともミハイルを心から愛し守ってやれる自分こそがミハイルを真にしあわせにできる。

 裁判官は、実の親と育ての母のグルシエがミハイルの手を右と左からひっぱって、自分のほうに引き寄せたほうが、強く母になりたいと願っている証明である、言います。
ミハイルの手を領主夫人とグルシエがひっぱり、ミハイルは泣いて痛がります。ミハイルの泣き声を聞くと、グルシエは思わず手を離してしまいます。勝ち誇る領主夫人。しかし、アツダクは、真の母の愛情を持っているのはグルシエだと判断します。

 領主夫人と弁護士は「莫大な財産を受け継いだほうがミハイルのためになる」と主張します。しかしグルシエはその言い分に惑わされず、裁判官という権威者が「我が子の腕を強くひっぱって自分にひきよせたほうが本当の親」と決めたことにも従わず、ただ、我が子を思う、その真の愛情の発露によって行動しました。

 グルシエは「長いものに巻かれる」ことなく、そして「楽なほうを選ぶ」ことを拒否し、自分自身の感覚と感情で行動しました。このグルシエの行動は、観客を異化したのでしょうか。

 ブレヒトは「同化するな、異化しろ」と、言ったけれど、私たちはグルシエに同化して「ミハイルを取り戻せてよかったよかった」で終わってしまう。観客が、ひとときの心のなぐさめを得て、「よい劇を見たね」と満足して家路につくのを拒否して、ブレヒトはこの劇をつくったはずだけれど。
 
 ブレヒトが観客に「異化せよ」と望んだのは、「権威権力や財力にひれ伏すな。他者の価値観に巻き込まれるな、自分の頭で考えて、真実をつかめ」ということでしょう。一人の人として生きていくことを恐れずに、強く生きること。人間の弱さ醜さを知りつつ、それを超えて生き抜くこと。

 私が、今回物足りなく思ったのは、「おそらく観客たちは、グルシエがミハイルをとりもどすことができてよかった、よかった」と家路につくに違いない、と感じたからです。ひとときの楽しみを味わい、それでおわるだろうと。
 私は、この劇を見て楽しんだし、グルシエの思い、考えたこと、こころに響いた、でもそれで満足することで、ブレヒトがこの劇を書いたことに答えているのだろうかと心もとなくも思ったのです。

 長いものに巻かれたほうが楽だから、戦争したいという人が旗ふれば、そうだそうだといい、残業代は払わぬといえば、ごもっとも、と納得する。原発再開といえば、「そうね、私も電気代安いほうがいい」とうなずく。異議申し立てをしても無駄だとあきらめる。
 豚小屋で餌を与えられてすごすほうが、荒野にひとり立つより安楽安逸に生きていけるのに、何を好き好んで荒野へ向かうのか。みな豚小屋に住みたがっているのに。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「あめつちはじめの物語~古事記よりin シアターカイ」

2014-06-18 00:00:01 | エッセイ、コラム

シアターカイ国際舞台芸術祭ポスター

2014/06/18
ぽかぽか春庭感激観劇日記>梅雨どきのかんげき(1)あめつちはじめの物語~古事記よりin シアターカイ

 6月14日土曜日のシアターカイの「あめつちはじめの物語~古事記より」のチケットをメール予約しておきました。『古事記』は、私の最初の大学での卒論テーマですから、K子さんの劇団の演出、どんなふうになるのだろうと興味がありました。ロシア人演出家が中心になっている劇団なので、『ワーニャおじさん』とか「白痴」などはお得意でしょうが、『古事記』をどのように演じるのか。

 メール予約をしたあと、K子さんからのご招待が届いていました。「ぎりぎりご招待。出演するから見にきて」というお知らせでした。ご招待があることを知っていたら、予約しなかったのに。ま、いいか。シアターカイの「千円でみる演劇」のシリーズ。国際舞台芸術祭のオープニング作品です。

 そこで、ダンス仲間のTTさんをおさそいしました。K子さんからのご招待があるから、いっしょにみませんか、というメールに「行きます」という返事。
 午後2時開場と同時に入って、自由席を確保してから、待ち合わせの領国駅改札へ。いっしょに一番前の席で見ました。

 開演までの時間、TTさんは、「きのう、反原発の集会で出かけたの。いつもの集会だと思って出かけたのだけれど、思いがけず関野吉晴さんの講演会があったので、よかった」という話をしていました。

 講演会を知っていたとしても金曜日私は仕事でしたから、私には関野さんのお話を聞くことができなかったところですが、関野さんファンの私としては、ちょっと残念。TTさんは、高校講師の仕事を退職されて以来、さまざまな活動を続けているので、退職者の自由時間をうらやましく思ったことでした。
 私は、関野吉晴に関しては1970年代からのファンなのですが、ドキュメンタリー番組や写真集で見ただけで、生関野を見たことない。同じ時期に同じキャンパスで、知らずに出会ったことはあったのかもしれないけれど。

 その同じ時期に同じクラスに在籍したK子さんが、定年退職後の活動として若いころに携わったことのある演劇を再開し、劇団に所属するようになりました。K子さん主演の劇も、TTさんといっしょに見ました。

 K子さんからのメールご招待の説明によると、今回の出演は、「コロス」の一員としてで歌うのと、劇中効果音の音楽担当としての参加、ということでした。
 劇の概要は3月に芝増上寺で会ったときに聞いていました。劇団のワークショップの課題で、「次回公演の『古事記』にふさわしい音を探している。アイヌ・ムックリの演奏を習いにいくために出かけてきた」と、そのとき言っていました。
 私は、アイヌのムックリの音は、毎年「日本語音声学」の授業でとりあげています。日本語音声学の講義のブレイクタイムとして、世界各地の民族音楽を聞かせるのですが、その第一番が。アイヌの神謡歌とムックリ演奏。ビヨヨ~ン、びょ~ンを響く音、魂を呼び起こす音色です。 

 終わったとき、ともこさんと「パラちゃんの歌、どこで聞こえたのか、わからなかったね。声を変えてた?」と質問しあいました。公演後、K子さんに直接確認したところ、K子さんの歌は本公演までのお待たせになったと、今朝のメールに書いておいたとのこと。メールをみていないので、知らなかった。
「むっくり」の音はよくきこえて、効果的でした。古代のひびき、原始のひびきがしました。

 TTさんの感想。後ろに座っていたK子さんの姿、上演中は見えなかったけれど、カーテンコールで挨拶するために前に出てきたとき、白い古墳時代の衣装がすごく似合っていて、古代の人そのもののように見えた。
 そうそう、K子さんは「古風な美人」なのに、前回主演の舞台では、白髪のおばあさん役で、美貌が生かせなかったのが残念なところでした。今回は古代美人の雰囲気がすてき。

 今回の公演は、ロシア語に翻訳されている『古事記』をもとに、鎌田東二の「超訳古事記」によって戯曲化。ロシア人演出家レオニード・アシニモフが、声の響きを前面に出す実験的な手法をとりいれていました。
以下は、K子さんに出した感想メールです。

6月14日の公演、よいひとときをすごすことができました。
2:30-3:30の公演が終わったとき、あれ、これで終わり?と思ったのですが、本公演では伊邪那美伊弉諾のその後の物語まで進むということなので、楽しみにしています。

 冒頭の神々の名の読み上げるところ、オデュッセイアのカタログみたいですよね。ああやって、固有名詞を羅列していくこと、古代にはとても大事な神事だったのだろうと、いうことがよくわかりました。。
注:オデュッセイアのカタログ=神々の名や戦闘参加武将の名をずらずらと羅列して朗誦していく部分

 母音を長く伸ばして発声するうちに、役者に「さとり」の瞬間が訪れるというアニシモフさんの発言、さもあらん、と納得。修験者の発声も、声明も、御詠歌も、念仏お題目もみなそのための発声ですから。

 最初の太安万侶の発声法、おもしろかったし、効果的でした。ただし、重箱のすみをつつきますが、日本語音声学の授業を12年続けてきた結果のトリビア知識を言うなら、アフタートークで、あの発声を「破裂音」と紹介していたのは、まちがいです。破裂音とは、[t][p]などの、発声器官の破裂による発音をいうのであって、太安万侶の息を強くだす発音は「有気音」というのです。一般の観客にとっては、どうでもいいことですが。

 アフタートークでは、「古代の日本語は、太安万侶登場のときのような、強い発音があり、いのちがけの発声が行われていたのではないか」という演出家アニシモフの説を出していました。
 太安万侶は渡来人であるという説がありますから、朝鮮半島の有気音を太安万侶も持っており、文字の読み書きができる渡来系の人々の発声には、有気音があっただろう、という説はうなずけます。
 ただし、本来の縄文以来の日本語には、有声音(濁音)も有気音(強く息を出す音)もなかったというのが、私の受け止めている古代日本語です。
 あの発声法をするということは、アニシモフは、太安万侶渡来人説に賛同した、ということですかね。

 アニシモフさんの友人という方(ハンプティダンプティみたいな人)が、「ソ連時代に、古事記はロシア語に全訳されており、子供向けの絵本も出版されている」ときいて、ロビーのトークショウに集まった人たちは驚いていました。
 ソ連時代の日本語教育は世界のなかでも高いレベルを保っていました。日本文学の翻訳も盛んだったこと、一般の人が知らないのだ、ということがわかって、逆に私には新鮮でした。
 うちの日本語教育センターは、来年からはロシアの大学との提携をはじめるそうで、私のボスは昨年からロシアへの出張を繰り返しています。ロシアから日本に派遣されてきたロシア人の女性教授(ハートの女王みたいな人)が、私の授業を覗いて行ったりしました。

 ハンプティダンプティさんの、「ウクライナ語はサンスクリット語から発生した、という説がある」という発言に、観客たちは「へぇ!」と、驚きの声をあげていました。言語学徒としては、あらま、こまっちゃうな、と思いました。ウクライナ語がサンスクリット語から発生したというのなら、ロシア語もそうで、インドヨーロッパ語は、どれもサンスクリット語の親戚です。たぶん、ロシアとの関係を遠ざけたいがためにサンスクリットとの関係を持ち出したのかと思いますが。
 ただ、ハンプティダンプティさんのいうとおり、ロシアウクライナ関係は、新聞報道でプーチンのやりかただけに非難が集まるようなことではなく、それ以上に根深い問題があることはわかりました。

 アニシモフさんのトークで、古事記のなかで、天皇の歴史について書かれている部分は、天皇家に都合よくつくりかえられた歴史であるけれど、神話の部分は本物、という解釈が述べられていました。
 かって、神話学研究、古事記研究をやったものとして、このアニシモフさんの解釈はまちがっていると思います。神話部分こそおおいに書き換えられているのです。稗田阿礼の口承を太安万侶が採録し、万葉仮名でかきとめる過程で、どれだけの書き換えが行われたのか、まだ研究は続いているところです。

いざなみいざなぎの黄泉の国伝説にしても、オルフェウス物語との関連が従来より議論されてきましたが、きっと比較神話学研究の分野では何か新しい所見が出されていることでしょう。

 神話研究、古事記研究からみれば、セルゲイ・ズーバレフの『豊葦原の国にて』にも、鎌田東二さんの「超訳古事記」にも、不満はありますが、演劇として東京ノーヴィの演出はひとつの解釈として、演劇技法の実験として、とてもおもしろい試みと思いました。

では、10月にKこさんの歌をきけますように。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「プロレタリア・アート in 吉祥寺美術館」

2014-06-17 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/06//16
ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち(7)プロレタリア・アート in 吉祥寺美術館

 吉祥寺美術館で2014年05月17日(土)~2014年06月29日(日)開催の「われわれは〈リアル〉である 1920s -1950s プロレタリア美術運動からルポルタージュ絵画運動まで:記録された民衆と労働」という長いタイトルの展覧会。6月5日と12日の2度見ました。2度も見たのは、この美術館がいつでも、入場料100円という料金設定をしているからです。ほかの美術館もこうあるべき。無料ではないところがミソ。

 最初に見たとき、図録は650円で安いですが、図録とも呼べないような、ただ出品作の小さな写真図版と画家の略歴がある30ページにも満たないパンフレットだったので、これなら出品目録をみるだけでもいいや、と買わなかったのです。でも、これまで知らなかった画家の名と作品、やはり出品目録だけでは、見て印象に残った絵と画家の名を結び付けて思い出せないのです。思えば、プロレタリアアートをまとめてみる、ということを、これまでどの展覧会でも経験したことはありませんでした。
 やっぱり図録を買うことにしました。

 2度めのときは図録を買うために立ち寄ったのですが、100円だからもう一度見ました。この展覧会に出品している画家のうち、私が名前を知っていたのは、利根山光人と飯田善國だけでした。飯田は彫刻家としての名を知るのみ、利根山の名は、メキシコを描いた画家として知っていたのであって、プロレタリア・アート運動と結びつけたことはありませんでした。

 プロレタリア文学については、徳永直『太陽のない町』は、1954年6月に山本薩夫監督によって映画化(日高澄子主演)されたことがあるし、近年、小林多喜二『蟹工船』がリバイバルヒットしたりするなど、研究者ではない私もこれらの作品の名や、連載されていたナップ(全日本無産者芸術連盟Nippona Artista Proleta Federacio、NAPF)の名は知っていたのですが。そのほかの1920s~1950sの労働者美術、特に漫画の多様な表現について、まったく知らなかったので、おおいにおもしろく観覧しました。

 また、利根山光人の「佐久間ダムシリーズ」の版画は、1954年の岩波映画「佐久間ダム」の記録に感動した利根山が、ダム建設現場に行って、労働者とともに住んで制作された、というエピソードにより、「佐久間ダム」がビデオ上映されていました。他の観客への配慮から、音声がごく小さい音になっていたため、耳のきこえが、年齢以上に悪くなっている私の耳にはききにくい、という難点はありましたが、こんな機会でもなければ、岩波記録映画をじっくり見るなんていうこともないでしょうから、見てきました。私は見たことなかった記録映画「佐久間ダム」ですが、1950年代には、観客動員数300万人だったということで、驚きでした。

 炭坑労働や水俣を描いた作品も出されていましたが、自然と人間、産業開発と人間をありのままに記録していて、秀逸でした。ダム工事映画としては、むろん石原裕次郎主演の「黒部の太陽」のほうが大ヒットでしたけれど。

 労働運動に携わった人々のことが「遠いかなた」のことになっていく昨今、
「戦後の娘」であり、「鉄鋼労働者の娘」として育った私としては、これまで、まとまったプロレタリア・アートの展覧会の開催が行われてこなかったこと、もっと意識的に考えるべきでした。一億総中流になって以後、だれもが「自分の暮らしに満足」という社会になって以後、「人としてリアルな存在でありたい」「子供たちの世代には、今よりももっと豊かな社会を譲り渡してやりたい」と願いつつ絵筆を握った無名の画家たちのことを、もっと知りたい、と思います。

中村宏「射殺」1957

 群馬県の相馬ケ原米軍演習場で、鉄くず売買するための弾丸薬莢拾いをしていた日本人農婦が、米軍兵士に射殺された事件(ジラート事件)を題材にして描かれました。

高山良策「漁夫」1958

水俣の漁師を題材にした絵。この時期はまだ水俣の魚たちが危険なことになっているということに気づいていない人のほうが多かった。私も知ったのは、石牟礼道子『苦海浄土』を読んで以後のことです。

 中村や高山の名をまったく知りませんでした。絵ハガキがあったら買おうと思ったのですが、売っていませんでした。

 絵ハガキは、日本画家の小畠鼎子のものしか売っていなかったので、「増産」を買いました。これは、戦意発揚増産運動のために描かれた作品ですが、芋を掘る女学生の姿、戦時中の画題としては珍しいものだと思って買いました。

 「農民と労働者が主人公」だったはずの旧ソ連でも、ドイツの労働者のための党、だったはずの、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)も、「抽象画も超現実派も立体派も認めぬ、リアリズムだけが労働を描ける」としていました。この意味においての「リアル」については、展示解説にも図録にもなんのコメントもありませんでした。

 しかし、日本の労働者美術界においては、戦前も戦後も、シュールレアリズムもキュビズムやほかの抽象画も盛んに表現されていました。日本のプロレタリア・アートにとって、リアリズム以外の表現が重要であったのは、旧ソ連とも中共とも主張をことにしていた党派性によるのか、シロートの私にはわからないことなので、こういうことの解説こそ図録にほしいところです。この展覧会をまとめたキュレーター、よい目のつけどころだったのに、図録に関しては、ちょいと残念。プロレタリア・アートは散逸作品も多く、残されている作品も著作権関係がクリアできていないものもある、というおことわりがあるので、そんなことからキュレーターの「解説ページ」がなかったのか。

 「20世紀の画家」シリーズ、今回は、これにておひらき。
 おそらく、これからも無名のもくもくと描き続けた画家たちが発掘されてくるだろうと思います。(無名といっても、私が知らなかっただけ、という画家も多いのですが。)

<おわり> 
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ぽかぽか春庭「私の誤解によるバルチュス」

2014-06-15 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/06//15
ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち(7)私の誤解によるバルチュス

 バルチュスの絵についての私の誤解その1.
 「美しい日々」の少女(モデルはオディル・ビニョン)の右手は椅子のわきに下げられています。左手は、白い柄をにぎっています。

 私は、この白い柄を「ナイフの柄」と思っていたのです。少女が、自身の成熟を嫌って、少女のままに自分をとどめておくために、脇腹にナイフを突き立てている、と、私には見えたのです。これが手鏡であるとしたら、首をひねって観客のほうに向けられている顔は、画面後方に向けられている手鏡に、耳しか映らないではないか。

 オディルの目は横目をむいていて、手鏡を見つめているようにはなっていますが、オディルはいったい鏡の中の何をみているというのでしょうか。画面の左端に描かれた白い洗面器は少女が純潔であることを象徴しているというのですが。右端に描かれた「暖炉の火をよりいっそう強く燃え立たせている男」の燃え上がる火の前に置かれたアフリカっぽい黒檀彫刻?は、いったい何?

 誤解その2。
 1933年に描かれた「鏡の中のアリス」。


 椅子に片足を乗せ、髪をくしけずる裸体の女性。髪をとかすとき、自分を姿を見るであろうに、その目は白目をむいているようで、瞳は描かれていません。
 片方の乳房をはだけており、下半身には下着をつけていない。足を椅子に乗せているので、アリスは無防備に性器を露出させています。

 これが日本の実写写真だったら、一般の人が見るための雑誌グラビアには掲載できないと思います。ヘアヌードにはだいぶ寛容になった日本の出版界ですが、女性性器の割れ目がこのようにはっきり見える写真、一般雑誌のグラビアでは、まだ見たことありません。

 絵は全体を鑑賞すべきであり、性器だけをクローズアップして見るべきではないのですが、クローズアップして見た感想では、「美しくないっ!」でした。

 私とて日本で性器が写っている写真を見たことはなく、1980年にナイロビで「プレイボーイ」のグラビアを見たのが唯一の性器写真です。ごく普通に、普通の本やで一般雑誌といっしょにプレイボーイも売られていました。ただし、当時のナイロビの物価から考えれば、とても高かったと思います。観光ガイドをしていた知り合いが、観光客からもらったプレイボーイを見せてもらったのです。
 当時プレイボーイのグラビアモデルの採用条件は、「性器が美しい女性」だったそうで、写真で見る限り、それはそんなにいやらしくも醜くもなかったです。

 しかし、「鏡の中のアリス」の性器は美しくない。

 「アリス」を書いたルイス・キャロルは、今では「少女愛」の人として名高く、大人の女性は愛せない人だったことが、研究者のみでなく一般人にも知られています。バルチュスの「鏡の中のアリス」のモデルは兄の学友の妻ベティ・レリスですから、人妻であり少女ではないので、使用前使用後という範疇でいうなら、「絶賛使用中!」
 同じ1933年に描かれた「キャシーの化粧」のほうは、無毛に描かれています。なぜ、わざわざ美化していない性器を執拗に描写したのか。
 女性の性に対して「なにか恨みでも?」と、思ってしまいました。たぶん、私の誤解ですけれど。

 誤解その3.今回の展覧会のポスターにも使われている「夢見るテレーズ」。
 1937年に描かれた同じモデル、テレーズ・ブランシャールを描いた「猫と少女」(シカゴ美術館所蔵。今回は出展されていません)は、少女が正面を向いており、頭の後ろに両腕を組んでいます。バルチュスの分身と言われる猫は、座ってななめ前方を見つめています。

 「夢見るテレーズ」は、片足を椅子にのせるポーズは同じですが、テレーズは目をつむって横を向き、指を組んだ両手は頭の上にのせられています。「猫と少女」のときよりいくぶん長めの赤いスカートをはいており、その下に白い下着(ペティコート?スリップ?シュミーズ?)をつけています。「猫と少女」と異なるところは、テレーズの履いている白いパンティに黒い汚れがあることです。

 観客の視線が中央に集中するその部分が、両足の間になるような構図。その視点の中心にある黒い汚れ。図版で見ていたとき、「ちょっとした影」を描きこんだのか、とも見えました。今回、閉館時間まぎわの時間、私ひとりが「夢見るテレーズ」の観客になったとき、思い切り顔を寄せて、画面中央を凝視しました。バルチュスは、なぜこの黒いしみを黒い絵の具で描きいれたのか。影ではない、これは経血だ、と感じました。

 私の誤解かもしれません。夢見るテレーズに言及しているいくつかの論評、コメントを見ましたが、「テレーズの初潮」に関して述べているものは、専門家の言説には見当たりませんでした。(日本語の文だけですが)
 少女が、大人の女性へと移り変わっていくその象徴として、初潮を迎えたテレーズが描かれたのではないか。テレーズは白いパンティに初潮の汚れをつけたことを知っているのか、知らないのか。目をとじたテレーズは、ただ夢見ています。

 もうひとつ、「猫と少女」と異なっていることは、猫が一心不乱に皿の上のミルクを飲んでいること。机の上に、細いガラスと黒い陶器の花瓶と円筒形の筒(缶?)が乗っていること。「猫と少女」では椅子にのっている黒っぽい布。「夢見るテレーズ」の白い布は、テーブルの花瓶と筒の間に置かれて、この置かれようでは、まもなくずり落ちると思うことです。
 テレーズは、第二次世界大戦後まもなく25歳で亡くなっているそうです。



 少年のころからのあこがれであったアントワネット。16歳のバルタザールは、12歳のアントワネットを見初めました。しかし、良家の子女のアントワネットはやがて別の人と婚約。婚約解消を待って1937年に彼女と結婚したとき、バルチュスは29歳になっていまいた。
 12歳のとき見初めたアントワネットも、長男スタニスラス、次男タデを生んで10年たつと、すっかりいいお母さんです。

 46歳のバルチュスは、アントワネットと別居し、義理の姪フレデリック・ティゾンと暮らし始めます。しかし、フレデリックが成長したころ、20歳の日本人形のような出田節子と出会います。バルチュスは節子をローマに招き、以後、節子をモデルとして描いていきました。
 1967年、59歳のバルチュスと25歳の節子は晴れて結婚。

 誤解だ、と言われても、私はバルチュスは少女を愛する人だったと思います。バルチュスにとって、なによりの人生の幸運は、節子さんが、「日本人形のような永遠の少女性」を持ち続けたこと、あるいは、そういう自己演出ができる人であったこと。

バルチュス展のために来日した節子クロソフスカ・ド・ローラ

未亡人となって13年。今でもとても美しい72歳です。バルチュス財団の維持という仕事のほか、ご自身でも絵をかいたり陶器を制作するなどの制作活動を行い、スイスでの生活スタイルについての本を出すなど、ご活躍です。

 招待券で入場したときは図録を買うけれど、入館料を自前で払ったときは、節約のために図録は買わない、というポリシーで、会田誠展も図録を買わなかったし、ずいぶん「我慢」の節約をしてきましたが、今回このバルチュス展では、「自分の誤解の目」に、自信がもてなくて、展覧会を見た6月8日から5日後、仕事帰りに上野によりました。図録を買うだけのために。

 「猫たちの王バルチュス」と、「賞賛と誤解だらけのバルチュス」は、図録を見ないで記憶だけで書いたのですが、「バルチュスと少女」「私の誤解によるバルチュス」は、図録を見て、年表を確認し、モデルの名前などに間違いがないように、気をつけて感想を書きました。ただし、図録を見ても、私の「誤解」は誤解のままです。つまり、この誤解が、私の「感想」です。(バルチュス展の項おわり)


<つづく>
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ぽかぽか春庭「バルチュスと少女」

2014-06-14 10:15:01 | エッセイ、コラム
2014/06//14
ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち(6)バルチュスと少女

 「賞賛と誤解だらけのバルチュス」というキャッチコピーがつけられた東京都美術館でのバルチュス展。しかしながら、今回の展覧会で述べられているのは賞賛がほとんどで、誤解による言説は、私が雑誌や新聞で見た範囲ではきづかなかった。
 人が絵を見るのは、それぞれの人が自分の目で見たいように見るのだから、誤解もまたその人の見方なのだ、と思うけれど、美術評論家とか新聞の美術記者とかは、誤解に基づく自分の感じ方を、述べたくてもできないのかもしれません。

 だから、私は私の誤解したことを述べておきます。美術評論家ではないんで。
 私は、バルチュスの絵、本物を見るのは今回が初めてでした。これまでは図版だけでバルチュスを見てきました。
 たとえば、若い節子夫人をモデルにした「日本の女シリーズ」、図版で見る限りでは、画面の女性に少しも魅力を感じませんでした。浮世絵の影響が表れているというような解説を読んでも、写真で見る節子夫人の「永遠の少女」の美しさに比べて、鉢巻をしめて、着物をずるりと肩肌脱ぎにして這っている「朱色の机と日本の女」も「黒い鏡を見る日本の女」も、他の少女の絵に比べて惹かれるところがありませんでした。

 図版では何か、私には見えていないものがあるのかもしれない、本物を見たらきっと違って見えるだろう、という期待を込めて「朱色の机と日本の女」を見たのですが、やはり魅力を感じませんでした。



 今回の展示には、バルチュスがはじめて出田節子に出会ったときの、20歳の節子をスケッチした素描が出展されていました。こちらはとても魅力的な少女の輝く美しさが出ています。
 バルチュスが好んだ日本。浮世絵は多くの西欧の画家に影響を与えたことが知られていますが、バルチュスはそのほか勝新太郎の座頭市シリーズもお気に入りだったことが知られています。

 「お前のごどきシロートにバルチュスの神髄はわからぬのだ」と叱られることは承知で言うと、バルチュスの日本理解は、たとえば、アンドレ・マルローの日本理解に比べると、いくぶんか浅いものであったように思えてしまうのです。むろん、これは私自身が浅いものの見方しかできぬ者であることからくる誤解でしょう。なにしろ私は、長いことアンドレ・マルローとマルセル・マルソーを同一人物だと誤解していたくらいですから。

 バルチュスを日本に派遣したアンドレ・マルローは、フランス文化大臣として、1961年に、バルチュスをローマにある「アカデミー・ド・フランス」の館長に任命しました。「ヴィラ・メディチ」は、メディチ家が所有していた古い館でしたが、バルチュスがローマに赴任した時は荒れ果てていました。バルチュスはマルローの改修依頼を受けて、石組みの補修、壁の色選定から改修をやり遂げました。

 バルチュスの初来日は、1962年。旅行のガイドとして選ばれた出田節子に惹かれ、翌年にはローマに招待。当時はまだアントワネットと法的には夫婦であるけれども別居しており、義理の姪であるフレデリックと同居している、という状態でしたが、アントワネットともフレデリックとも別れたうえ、節子と結婚。以後、40年間を共に暮らします。

 私の誤解であろうけれど。フレデリックが大人の女に成熟していったのに対して、節子夫人は、バルチュスにとって、娘を生んで母になっても終生「永遠の少女」として目に映っていたのではないかと思います。ファンの目には、原節子が「永遠の処女」であり吉永小百合が「永遠の乙女」であるのと同じように、90歳のバルチュスにとって、55歳の節子夫人は、若く美しい女性だったろうと思います。

 「ロリータコンプレックス」の画家ではないか、と思われているけれど、それは誤解である、と「絵を深く鑑賞できる」人々は言いたげです。
 でも、絵画を浅く直感や印象批評でしか見ることができない私には、バルチュスにとって、少女は未完の美であり、未完の性であるがゆえの欲望の対象であった、としか思えません。誤解なのでしょうけれど。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「賞賛と誤解だらけのバルチュス」

2014-06-12 00:44:49 | エッセイ、コラム

読書するカティア


2014/06/12
ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち(5)賞賛と誤解だらけのバルチュス

 東京都美術館のバルチュス展のキャッチコピーは、「賞賛と誤解だらけの20世紀最後の巨匠」です。
 画家の作品に毀誉褒貶はつきものだけれど、惹句になるほどの誤解を受けた、とするなら、その誤解とは、どんなものだったのか。

 図録も買わなかったし、ガイドイヤホンも借りなかったので、美術館側が「誤解」をどのようなものと考えていたのかはわからないですが、これまでバルチュスに付きまとってきた「誤解」のひとつは、彼が画家として独り立ちしたころにつきまとった「シュールリアリズム派の作品」という誤解。バルチュス自身は、自分の作品を「超現実」とはぜんぜん考えていなくて、超現実派の絵に対して批判的だったということですが、作品を発表し始めた時期が超現実派流行のころだったゆえ、画商などが絵を売り込むためには、「シュールリアリズムの新人」と銘打ったほうが、売りやすかったのだろうと思います。

 もうひとつの誤解は、彼の描く少女をテーマとした絵に対して「ロリコン絵画」という見方がされてきた、ということだろうと思います。

 「誤解」が生ずるだろうということは、バルチュス自身承知していました。
 最初の個展のときに、バルチュスは少女の絵が誤解を生むこと予想して、画廊内にカーテンで仕切られた特別な展示箇所をしつらえ、画家自身が「この人になら見せてもだいじょうぶ」と思った人にしか見せませんでした。この事実については、会田誠展について報告したときに、述べました。バルチュスが「誤解を生む」と考えてカーテンの後ろに隠した「ギターレッスン」は、今回は展示されていませんでしたが、他の少女たちの絵も、「ロリコン絵画」と誤解する人がいたとして、それは個人個人の感じ方だからとやかく言ってもしかたがない、というところ。

 風景や静物画の展示もありますが、風景や静物だけだったら、「20世紀最後の巨匠」という惹句はつかなかったのではないかと感じます。少なくとも私は、あまりひかれない風景画、静物画でした。
 猫につづいて、バルチュスが「少女」を重要なモチーフとしたことは、展示を年代順に追っていけばわかることで、バルチュスといえば、なんといっても少女の絵です。
 
 晩年のバルチュスは、少女について「この上なく完璧な美の象徴」と言った、ということばは、バルチュスを語るとき、たいてい引用されるフレーズです。しかし、少女が挑発的なポーズを見せるバルチュスの絵を見て回ると、やはりバルチュスにとって「未完成であるがゆえに完璧な美」であったのだろう、と思いました。

 一般的には「完璧な美しさ」ととらえられているモナリザもミロのビーナスも、バルチュスにとっては美ではない。なぜなら、彼女たちは完成された大人の女性だから、
 バルチュスが女性を描くとき、未完成でなければ、美を感じなかったのかもしれない、と、思ったことでした。
 こういう見方こそ「誤解」なのだ、と言われるかもしれませんが。

 幼馴染だったアントワネット・ド・ワットヴィル (Antoinette de Watteville) に恋をし、婚約者のいたアントワネットと「略奪愛」によって、1937年に結婚。スタニスラスとタデをいうふたりの男の子をもうけます。しかし、母親となり女として成熟したアントワネットとは、別居。バルチュスは義理の姪(兄ピエールの結婚相手の連れ子)フレデリック・ティゾンと同棲します。

 フレデリックが大人の女性として自立するころ、バルチュスは「永遠の日本人形」そのもののような二十歳の出田節子と出会います。節子とは、娘晴美をもうけたあとも40年の歳月を共にすごします。
 今回の展覧会に合わせて来日した節子夫人、テレビや写真で見る限り、「永遠の少女性」を失わなかった人なのだなあと感じました。  

 節子夫人はインタビューで、バルチュスにとって「少女」は、「聖なるエロス」なのだ、とに答えています。
 兄ピエールが、カトリック修道士からイスラム教徒に改宗するという変化を経たのに対して、バルチュスは最後まで敬虔なカトリック教徒であり、篠山紀信が撮影した赤い修道士服を着た肖像も最後のブースに展示されていました。
 バルチュスは意識下では「少女は完璧な美の象徴」であり「神に近づいていくエロス」と、考えていたのだと思います。しかし、キャンバスの中の少女たちがとる挑発的なポーズの作品のいくつかを見ていくうち、バルチュスは、ほんと、少女が好きであり、大人の女にエロスを感じなかった人なんだろうと思えてきます。

 神に通ずるエロス。少女たちは、無垢で無邪気なエロスを発揮し、バルチュスはその無意識のエロスを拾い上げ、画布に定着させる。
 誤解を解かなけえばならないか。いいや。バルチュスは、はかなく消えゆくものを「美」として追い求め続けた。それがバルチュス。失われたミツの面影を追い求めて、40枚の絵にミツを定着させた10歳のときから、バルチュスのモチーフは「やがて失われてしまうもの」なのだろうと思います。

 画集などではそれほど気にならなかったのに、本物を見て感じる疑問点がもうひとつ。たとえば、嵐が丘のキャシーを描いた本の挿絵。キャサリンの頭は、他の誰よりも大頭に描かれています。赤ちゃんは4頭身で、美女とされる大人の女性は8頭身だと言われているのに、なぜキャサリンは頭を大きくえがかれてしまったのか。バルチュスにとって、キャサリンは大人の女性ではなかった、ということなのだと思います。

キャシーの化粧


<つづく>
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ぽかぽか春庭「猫たちの王バルチュス」

2014-06-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
猫たちの王1935

2014/06//11
ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち(4)猫たちの王バルチュス

 バルチュスの母バラディーヌ(本名エリザベート・ドロテア・スピロ Elisabeth Dorothea Spiro)を生涯最後の恋人とした詩人リルケ(1875-1926)は、作家である友人シャルル・ヴィルドラック(Charles Vildrac、(1882 - 1971)に宛てて、手紙を書きました。日付は、1920年12月13日。
 「私の小さな友人(12 歳)が,この度チューリッヒのある出版社から素敵なデッサン集を出すことになったのですが,小生がその序文を書くことになりました。つたない序文です。小生は序文を書くことを誇らしく思っています。というのも,序文をフランス語で書くなんて初めてだからです。

バルチュス少年(ポーランド出身)は画家エリック・クロソウスキー氏の息子さんです。エリックは一頃サン=ジェルマンに住んでおられました。懐かしいでしょう。若干12 歳にして,40 枚の版画で,猫との出会いと別れを,頭の中に残っている残像を拾いながら物語ってくれるのですが,実に魅力的な作品です。この子には天才があります。だから,ささやかですが,出版して世間の目に触れさせてやろうという気になったのです。バルチュスはデッサンしか描いておらず,文章は一切書いていません。ですから,小生が数ページの序文をつければよろしいかと思います
(リルケ書簡集)」

出会いーベンチの上で鳴いている捨て猫


喪失ーミツがいなくなり、泣く少年


 バルチュスが90歳を過ぎてから回想した幼年時代の記憶によれば、バルタザール少年とリルケは、本当の親子以上に心を通わせあえる仲だったそうです。当時、詩人としてはスランプにあったリルケは、無垢な少年の天分を応援することで、自分自身の才能の復活を探っていたのかもしれません。

 「マリアの生涯(Neue Gedichte、1913年)」を世に出してから実に10年も詩が書けないできたリルケは、バルタザール少年の画集「ミツ」にフランス語での序文を書いて以後、復活します。バラの棘に指をさされて死ぬという運命に見舞われるまでの短い復活の時間に、「ドゥイノの悲歌(Duineser Elegien、1923年)」「オルフォイスへのソネット(Die Sonette an Orpheus、1923年)」という傑作を世に出して、バラの棘による敗血症、さらに白血病を病み、1926年、51歳で詩人はなくなります。

 バルタザール少年がリルケと交流した年月は、ちょうど少年が、「少年の日々」を喪失し、大人の世界に入っていく年ごろでした。
 リルケは、東洋美術にあこがれる少年に、中国宋時代の山水画集をプレゼントし、バルタザール少年は、東洋の美にますます傾倒していきました。

 バルチュスは、猫への偏愛を終生持ち続けました。。1935年の自画像には「猫たちの王」というタイトルをつけました。バルチュスにとって猫はペットでも動物でもなく、「自分の同類」でした。絵の上に現れる猫の姿は、自分自身を投影させている、いわば猫の姿の自画像です。
 シャシー古城にひきこもり、義理の姪フレデリック(兄の結婚相手の連れ子)と生活を共にしている間にも、30匹もの猫が城に出入りしていたそうです。
 「少女と猫」はバルチュス作品の大きなモチーフでしたが、モチーフというより、「自分自身」でした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「バルチュス展 in 東京都美術館」

2014-06-10 01:00:01 | エッセイ、コラム

会場入り口のポスター

2014/06//10
ぽかぽか春庭@アート散歩>20世紀の画家たち(3)バルチュス展 in 東京都美術館

 6月8日日曜日、コンサートの招待券を握りしめて会場に入ったら、受付の人に「これ、違います」と言われて、ありゃま目的のコンサートは来週の日曜日15日でした。1週間まちがえちゃった。こんな呆けは、若いころからのいつものことなので、特に年取ったから呆けたんじゃありません。と、いばってどーする。

 せっかく家を出てきたのだしと、仕切り直し。上野の東京都美術館でバルチュス展を見ることにしました。バルチュス展の招待券が手に入らないので、見るか見ないか迷っていたのですが。

 5月28日には来館者が10万人突破したというニュースも見ていたので、日曜日だと混むだろうとの予想通り、3時半に入場したときは、チビの私は、人の頭越しに、あるいは人と人が重なり合っている隙間からでないと絵が見えない。まずは、頭越しに地下1階、1階、2階とちらりと見ながら一巡して、ゆっくり見たい絵の目星をつけておきました。会場内のベンチにおいてある図録を見ながら、足を休めました。コンサートに行く予定で、歩かないつもりだったので、雨の日パンプス(履いてきてしまいました。いつも展覧会に出かけるときはいっぱい歩くのでウォーキング用のスニーカーを履いてくるのですが、雨の日パンプス(すなわち古くて、雨に濡れてだめになっても惜しくないやつ)で歩くと疲れます。

 2巡目、少しすいてきたので、フロアの中で人が少ないところをとびとびに歩いて、好きな絵を見ていきます。
 ねらい目はいつもの通り、閉館30分前。もう入場者は入ってこないので、ほとんど人がいないところをゆっくり見ることができます。そのかわり係り員の「まもなく閉館時刻となります」という声に追い立てられるのですが、閉館時間までは見ててよいはずなので、あせることはない。
 自画像「猫の王」や「夢見るテレーズ」などの、図版でなじみだった絵の前で、じっくり見ることができました。

 「ピカソがバルチュスを評して”二十世紀最後の巨匠”と言った」という宣伝文句がチラシにも美術館の解説ページにも書いてあって、いかに偉大な画家であるかということにつき、さまざまな人がコメントを寄せています。ポスターの惹句は「賞賛と誤解だらけの20世紀最後の巨匠」

 しかし、私はピカソは知っていても、20世紀のうちはバルチュスの名を知りませんでした。彼の名を知ったのは、2001年にバルチュスが93歳で亡くなったあと、遺産相続をめぐって、先妻の子供と若い後妻の間で裁判になっている、という下世話なニュースによってでした。その後妻さんが日本人女性であることから、週刊誌などの話題になったのです。

 遺産は、バルチュス財団を設立して節子クロソフスカ・ド・ローラ夫人が管理することになった、ということを報道で知り、ピカソのときのように、相続人たちが熾烈な遺産争いをした、ということでもなく、うまく決着がついたのだなと、思いました。他人の遺産問題で私があれこれ詮索することもないのですが、奥さんが日本人と思うと、あまり壮絶な争いになってほしくないと思っていたので。まあ、なったでなったで、金持ち家族の争いっていうのは、傍の貧民にとっては楽しい見ものでもあるのですけれどね。

 節子夫人、その後ちょくちょく雑誌やテレビで見かけるようになりました。今回のバルチュス展でも、会場に展示されているパネルに「節子夫人の力が大きかったと」とのあいさつ文がでていました。

 上智のフランス語科で学び、絵も修行中の20歳の出田節子が、来日したバルチュスの通訳として同行し、25歳の時35歳年上のバルチュスの2度目の妻となりました。子供のころから浮世絵などの日本文化に親しんできたバルチュスは、ますます日本に傾倒し、夫人には和装で通すよう願いました。

 展示作品の中に、何点かは先妻の息子スタニスラス(Stanislas Klossowski De Rola)が所蔵している「スタニスラス・クロソフスキー・ド・ローラ・コレクション」からの出展作があったので、ああ、相続でもめたということだったけれど、一生仲たがいするほど喧嘩したわけじゃなかったのね、と、またほっとしました。ピカソのところは、莫大な遺産をめぐって、母親の異なる子供たちその孫も巻き込んでの相続争いとなりましたが、バルチュス展に、節子コレクションとスタニスラスコレクションの両方からの作品が並んでいるということは、バルチュス展のために、双方が協力したということでしょうから。

 今回の展覧会では、バルチュスの作品のほか、スイス山中にあるバルチュスのアトリエの一部が再現展示されており、また、最後のブースでは、バルチュス愛用品とともに、バルチュスと節子夫人、娘の晴美さんの一家の写真(篠山紀信撮影)が飾られていて、画家バルチュスを私生活の面からも理解できるように企画されていました。それで、ついつい私もバルチュスの私生活に関心が向いてしまって。
 いや、私の絵の見方だと、絵と同じくらい画家本人がどのような生涯をすごした人だったのか、というストーリーのほうにも関心が向くのが常なのですけれど。

 バルチュスの羽織はかま姿などが撮影され、彼が好きだった勝新太郎にあてた「市さんへ」という献辞つきの画集なども展示されていましたし、勝新太郎や里見浩太朗がプレゼントした和服もありました。愛用の英和辞典や仏日辞典はぼろぼろになっていて、しょっちゅう辞書を見ていたのだろうなあと想像されました。

 バルチュス(本名:バルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ Balthasar Michel Klossowski de Rola)は、 1908年 に生まれました。2月29日生まれというのもなにやら希少価値の感じ。一家は当時モンパルナスに居住。パリに亡命したポーランド貴族の家でした。
 バルチュスの父エリックは美術批評家、母バラディーヌ(Baladine)は画家で、財産を失う前の一家には、作家アンドレ・ジッド、画家ボナール、マチス、作曲家ストラヴィンスキー、舞踊家ニジンスキーら、そうそうたるメンバーが出入りしていました。

 両親も、兄も、芸術に関連して生涯をすごした芸術一家の一員として、バルタザール少年も。早くから絵の才能を発揮しました。最初にバルタザールの絵を認めたのは、詩人のリルケでした。母バラディーヌは、エリックと離婚したあと、リルケと恋仲になっていたのです。
 リルケは、バルタザール少年が描いた猫の物語を出版へと取り計らってくれました。バルタザール少年10歳の絵による、少年と猫の物語です。バルチュス12歳のとき、本が出来上がりました。

 今回の展示でも、その本「ミツ」のコピーが、展示の最初のコーナーにありました。「ミツ」と名付けられた猫。漢字で書くと「光」だそうで、「クーデンホーフ=カレルギー光子」に由来するのじゃないかなと想像しました。

 今回の展示では母親が息子バルタザールと猫のミツを描いた水彩画が出展されています。バルチュスの先妻の息子のひとりタデ・クロソフスキー・ド・ローラの所蔵。この絵が出展されたということも、節子夫人と先妻の息子たちの仲がいいのだと感じます。

 バルタザール少年の表情はちょっと悲しげに見え、芸術活動に忙しい両親の間にあって、猫だけが親友の孤独な少年だったのかなあ、なんて思いました。
 リルケがバルタザール少年に才能の発露を見出したのは本当でしょうが、わずか10歳の男の子の作品を本にして、序文を書いてあげたというのは、幼い坊やの母親を恋人として奪ったことへの贖罪もあったのではないかな、と感じる表情でした。

バルチュスの母バラディーヌ・クロソフスカが描いた「バルチュスとミツ」1916(バルチュス8歳)


 バルチュスの作品については、次回紹介します。

<つづく>
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