春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2024年11月目次」

2024-11-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241130
ぽかぽか春庭2024年11月目次

1102 ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>憲法

1103 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記秋(1)虎に翼再び
1105 2024二十四節季日記秋(2)千代田区散歩
1107 2024二十四節季日記秋(3)散歩ハニワとキティ

1109 2024ぽかぽか春庭アート散歩みのりの秋(1)はにわ展 in 東京国立博物館
1110 2024アート散歩みのりの秋(2)田中一村 奄美の光魂の絵画展 in 東京都美術館
1112 2024アート散歩みのりの秋(3)水の情景月の風情展 in 三の丸尚蔵館
1114 2024アート散歩みのりの秋(4)明治時代の歴史物語月岡法然を中心に in 町田市立国際版画美術館
1116 2024アート散歩みのりの秋(5)「両大戦間のモダニズム1918-1939煌めきと戸惑いの時代」展 in 町田市立国際版画美術館
1118 2024アート散歩みのりの秋(6)シュルレアリズム、芥川(間所)沙織ほか小特集 in 近代美術館
1119 2024アート散歩みのりの秋(7)野見山暁治展前期 in 練馬区立美術館
1121 2024アート散歩みのりの秋(8)野見山暁治展後期 in 練馬区立美術館
1123 2024アート散歩みのりの秋(9)わたしの言葉をあなたに届ける展 in 目黒美術館

1124 ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋の工芸(1)ルネ・ラリック in 近代美術館
1126 2024アート散歩秋の工芸(2)旧朝香宮邸のアールデコ
1128 2024アート散歩秋の工芸(3)庭園美術館のあかり
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ぽかぽか春庭「庭園美術館のあかり」

2024-11-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241128
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋の工芸(3)庭園美術館のアールデコ

 庭園美術館、今回秋の建物公開では、「あかりともるとき」というタイトルのもと、照明具やアールデコ装飾が、カーテンをあけ広げた普段は見られない環境の中で展示されていました。通常は作品保護のために暗幕で閉ざされている室内のようすを、日常の光とともに見られる展示方法です。
 照明具は一部復元で、家具も当時の室内写真などをもとに復元されたものです。

 玄関のあかり    エントランスロビー脇の家具と照明具ミニチュア飾り
 

1階 小客室テーブルランプ    大広間 天井のあかりと家具
 

 香水塔も、いつものカーテンがなく、外の景色が見える展示。庭ベランダ側からも窓の中に香水塔が見えます。
  

大客室あかりルネ・ラリック  大食堂あかりルネ・ラリック
  
  
姫宮居間のあかり       妃殿下寝室あかりとワードローブ
  
朝香宮鳩彦殿下寝室と居間のあかり
   

若宮居間             若宮寝室
  

2階階段上の照明      2階階段上ロビーの照明
  

 何度か訪れている旧朝香宮邸。窓を開けた部屋のようす、煌々と輝く灯り。それぞれ美しい姿でした。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「旧朝香宮邸のアールデコ」

2024-11-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241126
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋の工芸(2)旧朝香宮邸のアールデコ

 旧朝香宮邸は、パリ万博アールデコ博の意匠を気に入った鳩彦允子夫妻によって、室内のすみずみまでアールデコデザインを取り入れました。室内設計を担ったアンリ・ラパンが日本を訪れることはありませんでしたが、朝香宮夫妻や宮内省内匠寮の技師 との綿密な打ち合わせを重ね、1931年に竣工しました。

アンリ・ラパン デザイン「花瓶」 絵付けカミーユ・タロー窯(リモージュ)1925頃         アンリ・ラパン「蓋付壺」(セーブル製陶所)1925
    

アドリアン=オーギュスト・ルデュク製造セーブル製陶所デザイン1931
              ジャン・マヨドン「花瓶」1940年ころ
   

レイモン・シュブ「大食堂サイドボード」1920-1930
            フランソワ=エミール・デコルシュモン「鉢」1925
  

  

2階書斎
ルネ・ラリック「花瓶インコ」1919    殿下書斎の棚の壺
  

 新館には、個人所有などのアールデコのランプが、ドームほか作品など多数展示されていました。

 アールデコの照明具や陶磁器を堪能して、18時の閉館時間には、あたりはすっかり暗くなっていました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ルネ・ラリック in 近代美術館」

2024-11-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241124
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋の工芸(1)ルネ・ラリック in 近代美術館

 旧近衛師団本部にあった近代工芸館が金沢に移転して以来、近代工芸に親しむ機会が減りました。江戸時代までの工芸は東京国立博物館本館にありますけれど。
 
 近代美術館常設展示の一角にルネ・ラリックの小特集がありました。
 関西の実業家井内英夫美佐子夫妻が収集したコレクションは、ほぼすべて国内の美術館に寄贈されました。

 私は根がひがみ者ですから、富にあかして収集して囲い込む金持ちや、値段があがることだけを楽しみにオークションで落札するようなコレクターによい感情を持っていません。しかし、図書館員と郵便局員の夫婦がこつこつと給料の中から現代美術を買い集め、すべてを美術館に寄贈した、ハーバートとドロシーのヴォーゲル夫妻とか、尊敬するコレクターもいます。井内夫妻のことまったく知らなかったですが、夫妻は財団を設立し、ミャンマーをはじめアジアの留学生を支援する団体も運営していると知り、お金を儲けるだけでなく、使い道を知っている経済人と尊敬できます。バカ息子がマカオあたりで、一晩で5億円もすったりする金持ちに爪のアカでも飲ませたい。
 と、金持ちへの妬みひがみはさておき。井内夫妻のコレクション。ルネ・ラリック。

「花瓶つむじ風」1926      「花瓶野ウサギ」1923        
 「花瓶ダリア」1923         
 
「花瓶カワセミ」制作年不詳   「花瓶いんこ」制作年不詳
 

「香水瓶アンバーアンティーク」1910「香水瓶四匹のセミ」1910 「香水瓶美しい季節」1920「香水瓶ツバメ」1920「香水瓶光に向かって」1926 

「カーマスコット」1928   「カーマスコットロンシャン」1929
 

 カーマスコット、庭園美術館にも同じものが飾られていました。朝香宮邸の車はどんな車種だったのでしょう。

 ラリックの展示はあちこちで見てきましたが、井内夫妻のコレクションも収集家の情熱がガラスから伝わってきて、冷たい無機質のガラスなのに、ラリックが目指した新しいガラスの表現、技法の苦心の情熱が伝わってくるような気がしました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「わたしの言葉をあなたに届ける展 in 目黒美術館」

2024-11-23 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241123
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(10)わたしの言葉をあなたに届ける展  in 目黒美術館

 目黒美術館、開館記念日無料公開の日に出かけました。「わたしの言葉をあなたに届ける」展。
 「静かに無言で絵を見る」という美術館のありかたを変えてみようという試みを含む展示でした。

 見る人が感想を即時に発することを試みた双方向性や、絵のモチーフの契機となった音楽を聴きながら鑑賞するなどの企画。私が観覧した日は、絵のそばのスピーカーから、その絵をどう受け止めたか、見た人のことばが朗読されました。絵を一方的に展示するのではなく、「見た人の気持ちを届ける」というコンセプトでしたが、私は参加せず、ただ黙って見てまわりました。双方向という美術館側の企画はよいと思いましたが、その作品について、見てすぐにいまその場で述べたいということがなかった。私は、写真をとったり絵葉書を買って、家に帰ってからもう一度反芻する方式なので。胃はひとつだけど、脳はぐるぐると反芻する。

目黒美術館の口上
 制作されてから何十年、何百年と後の時代に生きる私達に、当時の日常はどのように映るでしょうか。今とそれほど変わらないと感じるものもあれば、新鮮で、どこか特別な風景に思える場合もあるだろうと思います。それらは、日々刻々と変化していく現実のありのままの姿というよりも、作家の目によって捉えられたその瞬間の世界であり、多くのことを語っているのです。 鑑賞する私達は、そうした作品を前に何を思うでしょうか。

 例えば、作家の対象への眼差しや、描かれた人物たちの関係性、心の機微や感情などに思いを巡らせることができます。しかし、見方は一通りではありません。美術館では、時が経っても作品の状態が変わらぬように保管していますが、それらを鑑賞する私達の受け 止め方や作品の価値は、時代とともに変化しているはずです。  本展は、そうした変化を視覚化、聴覚化し、自分以外の他者がどのように鑑賞しているのかを知る機会とするために、「静かに見る」 という美術館の鑑賞マナーを緩めてみたいと思います。作品と対峙して感じた言葉を紙に書きとめて壁面に貼り付けていくインスタレーションや、それらを朗読した音源の展示などをとおして、他者の言葉が当たり前にそばにある展示空間を作ります。展示室を介して様々な人が関わり合い、相互に鑑賞を深めていく見方の実験を、コレクション展を通じて試みます。
1 身の回りのいつもの風景
2 日常のふとした瞬間
3 細やかな生活感情と親密さ
4 没頭する姿、その時間
5 かたちを探るよろこび 

 ささやかな日常の姿、いつも見ている普段の光景なので気に留めずにいた景色が、画家によってどのように受け止められ、観覧者はそれをどう受け止めるのか。

 たとえば藤田嗣治(1886-1968)の「静物(インク壺)」。
 身の回りにある日常生活で、使いこんできたハサミ、ペン、磁石、インク壺、マッチ箱、鍵などが置かれている。藤田はこれら愛用の文房具に自分を投影して描いたのだという。ペンやインクは筆まめな自分の投影。針やピンを引き付けている磁石は、5回の結婚を重ねた自分の分身でしょうか。いわば自画像のひとつの表現としての日用品。ふむふむ。でも、封筒を押さえている手は何?石膏かなんかの手形なのでしょうか。

 藤田嗣治「静物(インク壺)」1926-1928(画像借り物)


 第1次世界大戦の間、日本からの仕送りが途絶え極貧時代も経験した藤田。大戦後のベルエポック時代に急速にFoujitaの人気が高まり、絵も売れるようになりました。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られました。Tsuguharuという本名がフランス式だとhが消え、「つぐある」となってしまうのを嫌い、Tsugujiと名乗る。周囲の人たちはFoujitaから「Foufou(お調子者)」と呼び、藤田は時代の寵児になりました。

 銅版画インク壺は「私が描けば、日常のつまらぬ文房具でさえ芸術なのだ」と、有卦に入っていた藤田がおかっぱ頭をなでていたかもしせん。
 この「静物(インク壺)」は、100枚限定プリントされた銅版画です。当時の値段はいくらくらいだったのでしょう。百年たった今、オークションでは200万-300万円くらいだって。手に入るような機会があったら、買っておきましょう。100年後には1000万になるかもしれないので、子孫のために。と、思って買っても、あなた、それ高精細プリントの複製品ですからね。(byなんでも鑑定団)どうしても値段で鑑賞してしまうHALなので、感想を書いてくださいと美術館に言われても、「お金があれば、本物買いたい」くらいしか書けない。買えないけど。

藤田嗣治「接吻」1904


 最初の妻登美子はフジタの留学のため別居。その間フジタは月に5通も手紙を送ったそうです。しかし、留学延期のため登美子と離婚。フランスでフェルナンド、リシュー(ユキ)、マドレーヌなどと華やかな女性遍歴を続けた最後に、フジタ50歳のときに迎えた5番目の妻、25歳年下の君代(1911年 - 2009年)。戦後、日本を離れてフランスに定住して晩年をすごした藤田に、最後まで連れ添った君代は、フジタの死後、夫の作品と名誉を守り抜きました。

「君代のプロフィール」1938 (出会って間もないころの君代のスケッチ)


 藤田と31年間連れ添い、藤田が81歳で亡くなったあと、君代は、98歳まで生きて藤田の絵を守りました。大勢の画家が戦争協力の絵を描いたのに、自分一人に戦争責任を負わされた藤田は、フランスに帰化し、終生日本にこころ開きませんでした。自分亡き後、君代夫人が少しずつ絵を売って生活していけるよう、晩年は、売りやすい小品をたくさん描いて残したそうですが、藤田を知る君代夫人は、藤田の絵が日本に戻されることを嫌い、「君代コレクション」として日本に流出させませんでした。藤田の絵が日本で再評価され知られるようになったのは、夫人の死後のこと。

 最近売買された藤田の絵は、何でも鑑定団で10億円という評価がついた、と買い取った似鳥美術館が価格こみで展示していました。今年3月に小樽へ行ったとき、値段のお知らせつきで公開されていたのを見ました。
 小樽芸術村似鳥美術館「カフェにて」
  

 写真撮影OKの第5展示室には池田満寿夫(1934-1997)の作品が特集されていました。
 著作権が切れていない画家の作品が多かったので仕方ないのでしょうが、館所蔵作品なのだから、練馬区立美術館が野見山暁治展の展示のほとんどを撮影OKにしたように、もう少し撮影OKの作品を増やしてほしいです。フラッシュ禁止スマホ撮影音禁止にして、混んでいない平日に受付で住所氏名提出した撮影希望者に、撮影許可の腕章かリボンをつけさせるなどの処置をすればよいと思います。どうしても写真を撮りたい、記憶にとどめておけない婆の願い。

 「真珠の耳飾り」といえばフェルメールを思い出し、「大波」と聞けば『神奈川沖浪裏」を思い出すことはできるけれど、池田満寿夫の「日光浴をする貴婦人たち」と聞いても、あれ?どの絵だったかなって、思い出せない。写真とっておきたい。
 図録買えよ、無料入館の日に来たのだから、とは思うものの、「シルバーパス+無料入館」の高貴幸齢者行楽を追及している身としては、一日のお出かけがゼロ円ですむと達成感が得られる。(単に貧乏&ケチ)

池田満寿夫「日光浴する貴婦人たち」1962  「飾り窓の中」1963
  
池田満寿夫「黒い女」1964        「夏Ⅰ」1964          
  
「ベッドに横たわる女」1964


 今回展示の中でいちばん大きな画面は、草間彌生(1929~)のアミアミ点々絵画。畳3枚弱の大きさ、3枚組190×390cm。

草間彌生「無限の網B」1964

 後年、自己模倣かと思う絵も量産された中、1964年の制作はバリバリ「前衛の女王」としてアメリカを闊歩していたころの作です。 「形を探る」というテーマの第5室に、どど~んと迫力の展示でした。細かい網目が無限に広がっていきます。1986年に目黒区美術館が購入。
 1973年に体調を崩して帰国した直後は、「前衛の女王」どころか「へんな絵を描く頭のへんな画家」という評価だったという学生だった頃の記憶があります。当時は統合失調症を患ったことへの偏見が大きかったのだと感じます。

 このころ草間の絵をもらったとしても、たいしてありがたくもないと思ったでしょうから、ようやく評価が高まってきたころとはいえ、開館1年前の1986年の時点で草間の購入を決めたのは、開館に向けて絵を収集していたころのスタッフのお手柄。今じゃ、とても区立美術館なんかじゃ手に入れられないと思う。エッチングなどのプリント類でも数百万円、アクリル画には5億円のねだんもついている。あ、やっぱり値段で絵を見るHAL鑑賞法。

 「わたしの言葉をあなたに届ける」という企画にその場では応じられず、家に帰ってからの数点の絵の感想を書くとして、値段のことばかり。こんな鑑賞しかできない老婆にも無料の展示公開、ありがとうございました。
 権現坂下から目黒駅までシルバーパスで1停留所だけですが、乗車。行きは目黒駅から下り坂だから歩けるけれど、帰りは上り坂になるので、シルバーパスありがたい。
 雨もよいの一日でしたが、よい時間をすごすことができました。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「野見山暁治展後期 in 練馬区立美術館」

2024-11-21 00:00:01 | エッセイ、コラム

  (展示室頭上の壁面のパネル)
20241121
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋(8)野見山暁治展後期 in 練馬区立美術館

 練馬区立美術館での野見山暁治後期展示、行きたかったけれど、ちょい遠いなとか、前期展示はyokoちゃんがお連れで観覧後のおしゃべりもできて楽しかったけれど、yokoちゃんが野見山を気に入ったかどうか判断つかなかったので、後期の観覧お誘いが正解かどうか判断つかず、後期はあきらめようかと思ったけれど。なんせ75歳以上は無料だし、野見山の絵は、後期の抽象画が野見山らしいと思うし、えいやっと、おひとり様で11月13日に観覧。

 4章 風景を見つめて1964-1990年代
 1969年に再婚後、糸島と練馬のアトリエを往復する生活は、野見山の画業ものっていた時期と思われます。1981年に芸大を辞職したあとは、好きな絵を好きなように描いていました。一度売り渡した絵が展覧会などに出品されたあと、アトリエにもどされる機会があると、また手を加え、絵を返却された持ち主が「この絵は私の持っていた絵じゃない」と言い出すほどでした。

「森」1969            「知らない季節」1970             
  
「異邦人」1973          「海坊主誕生」1978
  
「浮かぶもの」1979頃     「山の上」1980
  
「ある日」1982              「創世のはなし」1994
 
「目にあまる景色」1996


5章 うごめく風景2000年代 
 野見山は、練馬と糸島のアトリエで、複数の絵を同時進行して描くことが多く、横長のキャンパスに描いていた絵を出展するときには縦長に変えてしまうなど、自由な絵筆でした。↓の「束の間」も、2004年から2016年までおりにふれて筆を入れた作品です。

「思い出すこともない」2008頃   「束の間」2004-2016
  

 野見山は、個人所蔵の絵が展覧会などに貸し出された後、アトリエに戻される機会があると、どんどんと手を入れ、絵の具を足したりはがしたり。持ち主に返却されたとき「これは私が持っていた絵じゃない」と怒り出す、というぐらい、自作を「永遠に完成はしない」と思っていました。

「当てにはならない」2021  「題不詳」(最後までアトリエに残されていたうちの1枚)2023
 

練馬のアトリエの一部再現

 入り口に入って最初に目に入る「思い出すこともない」の絵の前で。


 野見山暁治の17歳から102歳までの画業、すばらしい展示でした。練馬区立美術館は、これから改修立て直しになるそうですが、館所蔵品の展示があるときはまた野見山の特集を並べるでしょうから、きっとまた会える。それまで「思い出すこともない」なんてことなしに、ときどき見たくなると思います。
 アンケートに書いたのは「75歳がよれよれと練馬まで来るのはたいへんだった。前期後期いちどに見たかった」

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「野見山暁治展前期 in 練馬区立美術館」

2024-11-19 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241119
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋(7)野見山暁治展前期 in 練馬区立美術館

 野見山暁治(1920-2023 )は、2021年100歳まで画業を続け2023年に102歳で没しました。美術学校繰り上げ卒業で満州に出征して、からくも帰還できたことを忘れず、戦没学生の描いた絵画収集を行うなどの活動も続けました。文化勲章受章などの栄誉も得て画家としてに生涯をまっとうし、練馬区と福岡県糸島に建てたアトリエを行き来して作品を描き続けました。

 練馬区立美術館の口上
 練馬区立美術館では開館準備中から野見山の作品の収集を続けてまいりました。1996年と2007年には野見山の個展を開催、近年では、2021年・2024年に新たに作品を収蔵しコレクションを充実させてまいりました。「追悼 野見山暁治 野っ原との契約」展では、当館への収蔵後、初公開の作品を含む、油彩画、ドローイング、版画に加えて、練馬区のアトリエでの野見山の愛用品など、前後期を通じて約80点を展観いたします。2025年に開館40周年を迎える練馬区立美術館は同年より建て替えを予定します。建て替えを目前に控えた本展覧会は、2階のみの展示となりますが、1930年代の最初期から2020年代の最晩年までの野見山の画業をご覧いただくまたとない機会です。 
 本展覧会では池袋モンパルナスで過ごした東京美術学校時代から、戦後の炭坑や骸骨といった具象的なイメージを描く時期を経てフランス留学にいたる[前期]と、帰国後、自然や身近な事物をモチーフに独自のイメージを展開させ追究し続けた晩年までの[後期]に分けて展観します。絶筆作品を含む油彩画や版画、ドローイングおよび関連資料等、前・後期を合わせた約80点を通じて、野見山の画業の軌跡を辿ります。併せて、野見山の暮らしと制作の拠点となったアトリエの風景にも焦点をあてます。野見山は、1971年に練馬区に、ついで1976年に福岡県糸島市に住居兼アトリエを構えました。ともに建築家の篠原一男(1925-2006)の設計によるものであり、柱のない広いアトリエ空間や開口部が切り取る風景、特徴的な階段などは、野見山の制作を支えただけではなく想像力を掻き立てるものであったと考えられます。本展覧会では、アトリエに残された制作の道具や愛用の品等を展示するとともに、アトリエでのインタビュー映像やこの度新たに撮影した練馬と糸島のアトリエ内部をご紹介いたします。 

 一章 池袋モンパルナスから戦地へ1930~1943
 「自画像」1937      渋谷風景1938
  

「札幌の冬」1939      「糸満」1940    
   

「佐野の道」1943


 東京美術学校卒業後、応召し満州で発病。帰国入院し、敗戦後に退院しました。戦没画学生の慰霊美術館である「無言館」の設立に奔走したのも、この応召経験によるものです。戦病兵となって帰国できた自分と比べ、多くの美術を志した若者が戦死しました。
 
2章 焼け野原でみつけたもの1940年代後半~1951
 1948年、妹(田中小実昌夫人)の同級生内藤陽子と結婚。
 
「植木鉢と燭台」1948    「花と骸骨」1948頃
    

「静物 牛骨」1949      「横浜郊外」
 

「街はずれ」1949頃         「炭鉱」1951
 

「廃坑D」1951            
「青年」1952          「坑内」1952
  

3章 渡欧時代 人間像と風景の探求1952~1964
 1952年渡仏。1956年、妻陽子はがんを患い、病死。1964年帰国。
 渡欧前は暗い色調が多かった野見山の画風が、ヨーロッパの人と光景にふれ、妻の死というつらい時期を乗り越えて、しだいに明るい色調へと変化していきます。12年間の渡欧時代、作風は具象から抽象的になっていく過程がよくわかります。

「セーヌ川」1955          「ロアール河ノ町」1955
 

「シーナの部屋」1957頃       「岩上の人」1958
 
 
 シーナとは、本の装丁家になっていた椎名其二(1887-1962 )のこと。野見山の「自選の作品を語る」で「低い天井には製本用にとりどりの色の紙がつるしてあった。そこは地下室で奥が暗く、部屋というより奇妙な空間だった」(アトリエ659号1982年1月号)と語っている。日本で知ってきたキュビズムやフォービズムの色彩や形に、渡仏以来さらに強い印象を得ていたことはむろんだろうが、当時のどの日本人よりもフランス文化を語りうる晩年の椎名に影響を受けたように、私には見える。椎名の頭上にひらめくいろとりどりの紙は、野見山を色の世界にいざなっているように思えるのだ。
 椎名が1962年に亡くなった後、野見山は日本に帰国する。
 
「落日」1959              「花」1961            
   

「青い景色」1963-1964


 1964年に帰国後、芸大教授として後進を指導しつつ、1971年に練馬にアトリエ「海の階段」、1976年福岡県糸島に「糸島の家」を建て、50歳で再婚した福岡のクラブ「みつばち」のママ武富京子と、東京福岡を往復しつつの別居結婚を30年続けました。毎年初夏から秋は糸島ですごしていたそうです。80歳のとき京子もまたがんで失う。
 102歳まで描き続けた野見山暁治の後期の展示は11月12日-12月25日

<つづく>
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ぽかぽか春庭「シュルレアリズム、芥川(間所)沙織ほか、小特集 in 東京近代美術館」

2024-11-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241118
ぽかぽか春庭アート>2024アート散歩みのりの秋(6)シュルレアリズム、芥川(間所)沙織ほか小特集  in 近代美術館

 東京近代美術館、館所蔵のMOMAT展は、65歳以上どの日も無料です。年に数回は展示替えがあり、毎回初めて見る作品に出会います。購入品、作家本人や遺族からの寄贈、委託品など。
 10月10日、4階3階2階それぞれに興味深い特集展示があり、よい作品を見ることができました。

 4階1室肖像画特集
オスカー・ココシュカ「アルマ・マーラー像」1912
 ココシュカが描いたのはグスタフ・マーラーの妻アルマ(1879−1964)。アルマは従兄との結婚を最初に、画家クリムト、作曲家ツェムリンスキー、など数々の男性との恋愛を得てグスタフ・マーラーと結婚。19歳年上のマーラーが50歳でなくなったあと、またまたココシュカはじめ数々の男性に取り巻かれますが、グロピウスと再婚。グロピウスと離婚後作家ヴェルフェル と再再婚。

 ココシュカはグスタフ・マーラーの死後、1912年頃にアルマと恋愛関係になりましたが、結局はふられました。どれだけ追いかけても手に入らないアルマの肖像。ふられた後だったのか、とても冷たいまなざしに思えます。アルマにとっては7歳年下のココシュカは物足りなかったのでしょうか。ココシュカは妄執といえる激しい気持ちを持ち続け、彼女をモデルにした人形とともに生活したとその奇行が伝わります。

 アルマ像は長年4階に展示されていました。ちょっと怖い女性だなあと思いましたが、今回はじめて、ココシュカの恋焦がれてついに実らなかった恋物語を胸に眺めました。ココシュカは描き上げた喜びを「私の最高傑作!」とアルマに告げたそうですが、この絵の完成後ふられたことを知ってみると、ココシュカの及ばない恋の気持ちが画面に投影されているように感じました。


 ココシュカは1919年に、胸をあらわにしたアルマ実物大の人形をつくり、服を着せて、22年にこの人形の首を切り落とすまで片時も話さず「同居」したという。すさまじい執着。人形と自分を描いた肖像も残ります。凡人には怖い愛です。

長谷川利行「岸田国士像」1930

 岸田国士の次女岸田今日子が生まれた昭和5年の作。国士は、詩人岸田衿子と女優今日子姉妹の父。演劇人あこがれの賞にその名を冠していることを知ってはいましたが、岸田國士の顔とか想像したこともありませんでした。長谷川は好きな画家のひとりですから、長谷川の手になる肖像画で「ああ、こういう方でしたか」と知り合えた気がします。

梅原龍三郎「高峰峰子嬢」1950


 「銀座カンカン娘」が完成し、戦後のはつらつとした娘の姿をスクリーンに定着させていたころの高峰秀子。自身も「日曜画家」として絵を描くことから梅原と知り合い、ほどなくモデルとなりました。高峰は、完成した絵の目が飛び出ているのでこの絵を「カニ」と呼ぶようになり、梅原も「ああ、あのカニの絵ね」と、御大みずからカニと認めていたのですって。エッセイに梅原のことも書き残している高峰ですが、このカニの顔はちょっと怒っているように見えます。

 4階で、草間彌生の1950年の作品を見ました。1952年松本市で草間初個展に出品されたものです。個展後、草間は1957年に渡米します。渡米後の草間は現代美術のトップランナーとして活躍を続けました。
 「集積の大地 」


 キャンバスではなく、麻袋に描かれています。さまざまな幻覚幻視の症状があらわれていたというころの草間ですから、画面下のニョロニョロっぽいものは、ミミズでしょうか、庚申の夜に人間の体から這い出してきて天帝にその人の悪行を告げ口するという三尸(さんし) という虫でしょうか。目の前に現れる幻視の丸い形を画面に定着させることによって己のスタイルを確立していった草間の、丸い点々ではなくニョロニョロの絵、

 4階第3室には「変貌していく都市」の姿を描いた絵画が並んでいました。
岸田劉生「道路と土手と塀(切通写生)」1915(大正4)


 110年前の代々木。劉生は「土のエネルギーを表現したかった」そうです。そのエネルギーが、見る目のない私には土に由来するのかどうかはわからないのですが、近代という坂道を明治大正の人々が駆け上がっていくエネルギーを感じます。この坂道を登って、坂道の上から近代というものを見たくなります。坂の上の空は青い。「のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう 」という司馬遼太郎の声が聞こえてくるような。

中川一政「板橋風景」1919(大正8)

 中川の住まいは、このころ巣鴨付近だったというので、川岸にスケッチに出かけることも多かったでしょう。左上の赤い鉄橋、空、川面、両岸の枯れた草原。冬の光景ながら、寒々とした印象ではなく、鉄橋の赤と空に広がる光から暖かさも感じます。

木村荘八「新宿駅」1935
 1923年の関東大震災後、被害の大きかった東京の東側から、都市のにぎわいが西側に移っていったころの新宿駅。

 日本橋生まれで江戸情緒にシンパシーを持っていた木村にとって、新宿駅は雑多な都市の魅力をはらむ場所であったかと思います。都市の持つ華やかな祝祭性を感じるよりも、1929から1933あたりまで続いた世界大恐慌の後、人々がまだうつむき加減で駅に行きかっているような気がします。

織田一麿「銀座(六月)」1925リトグラフ
 この銀座も華やかな都会のにぎわいよりも、2年前の震災の暗さが残っているような色彩。

織田一麿「ほていや六階から新宿三越遠望」1930リトグラフ


小泉癸巳男「三井と三越」1929  小泉癸巳男「築地勝鬨渡し」1931
 
 
長谷川利行「タンク街道」1930

 3つ目の小特集は、「シュルレアリズム百年」。
 アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表した1924年から100年。百年の間に超現実はさまざまな方向に広がり深まってきました。日本でも多くの画家が超現実の世界観を画面に表出しています。

マックス・エルンスト「砂漠の花(砂漠の薔薇)」1925(新収蔵)

マックス・エルンスト「マルスリーヌ・マリー(『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』より) 」1929-30 
 

 福沢一郎「四月馬鹿」1930


 北脇昇「独活」1937
 

 靉光《作品》1940

イヴ・タンギー「賢者の耳」1938


マックス・エルンスト「つかの間の静寂」1953-1957 

 シュールレアリズム100年のほか、芥川(間所)沙織の生誕100年の特集もよかった。現代美術にうといので、私は、芥川(間所)沙織の作品をこの夏はじめて見たのです。現代美術館の「現代美術の女性作家7人」のひとりとして作品が展示されており、強いインパクトを受けました。現代美術館で見たのは、「イザナギノミコトの国造り」「女Ⅺ」。
 芥川(間所)の生誕百年の展示は、全国の美術館8館が、それぞれの所蔵品を展示して、全国で芥川(間所)沙織の生誕百年を記念する、という美術館縦断のプロジェクトです。
 近代美術館の小特集には染色作品4点と油彩作品2点が展示され ていました。

 芥川(間所)沙織 「女Ⅷ」1950       「女Ⅰ」1955 
 
 芥川(間所)沙織「神話 神々の誕生」1956  「神話より」1956
 

 芥川(間所)沙織 「黒と茶」1962  「スフィンクス」1964
 

 旧姓山田沙織は、1924年愛知県(現豊橋市)に生まれ、芸大声楽科で学びました。芥川也寸志と結婚後は音楽活動を禁止され、家の中で歌うことを封印。長女次女をもうけたのち、音を出さない表現活動として油絵と染色を学ぶ。前衛画家として活動を始め、1957年芥川と離婚し、1959年渡米。帰国後。1963年建築家間所幸雄と再婚。1966年、妊娠中毒症のため死去。享年41歳。

 生誕百年を記念して刊行された「『烈(はげ)しいもの。燃えるもの。強烈なもの。 芥川紗織 生涯と作品』により、作品243点が紹介されています。
 最初の結婚相手「芥川龍之介の息子」の苗字と再婚後の夫の苗字を両方並べる作家名にしていたのは、本人の名乗りなのかどうか知りたいところ。作家名を記録するにはちょっと面倒な。結婚まえの作品には山田、1963年前に仕上げた作品には芥川、再婚後の作品には間所にするか、「アーティスト名をつける」でいいんじゃないかと思います。私なら、妻の芸術活動を禁じた夫の姓など名乗りたくもないけれど、人それぞれだからいいけど。

 4階3階2階では戦争画の小特集もあり、明治絵画の小特集もあり、フェミニズム映像の特集もあり、盛りだくさんな展示でした。谷中安規の版画小特集もよかったし、65歳以上は無料の近代美術館常設展で、ただでこんなに楽しめて超おとく。

 有料の企画展は見ていません。近代画家が土偶埴輪からどんなインスピレーションを得て描いたか、という展示ですが、夫と東博の「はにわ展」を見にいく約束をしているので、ま、いいかなとパス。写真だけ撮影しました。昔、娘と見ていたハニ丸ヒンべえと。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「両大戦間のモダニズム1918-1939煌めきと戸惑いの時代 in 町田市立国際版画美術館」

2024-11-16 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241116
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(5)「両大戦間のモダニズム1918-1939煌めきと戸惑いの時代」展 in 町田市立国際版画美術館

 10月第4水曜日の美術館散歩は、町田市国際版画美術館をぶらり。

 町田市立国際版画美術館の口上
 1920年代のフランスとアメリカは、第一次世界大戦後の好景気に沸き「狂騒の時代」と呼ばれる華やかな時代を迎えました。自動車や飛行機といった工業的なモティーフ、サーカスやキャバレーの喧騒、最新のファッションを身にまとうモダンガールなどからインスピレーションを得たアーティストたちの作品は、現代への賛美ともいえるものでした。
 一方でこの時代にはドイツを中心に、戦争の惨禍を深く刻み込んだ作品や、享楽的な世相への皮肉、あるいは近代化に対する不安感を表現した作品も生まれました。事実、世界恐慌やファシズムの台頭によって平和な時代は10年ほどで終焉を迎え、1939年の第二次世界大戦勃発によってアートシーンは大きく揺さぶられることとなります。
 本展覧会では、ふたつの世界大戦の狭間にあたる約20年間に焦点を当て、モダニズムの時代を版画に表したアーティストたちの作品230点を展示します。パリのファッション雑誌を彩った色彩豊かなポショワール(ステンシル)、市井の人々の生活を描き出したドイツの版画集、シュルレアリストの実験的な銅版画など、社会の変革期につくられた作品は100年後を生きる私たちに何を問いかけてくるでしょうか。

1  両大戦間に向かって:Before 1918
2  煌めきと戸惑いの都市物--
3  モダニズムの時代を刻む版画
4  「両大戦間」を超えて:After 1939

 会場の章立ては時系列に沿っていましたが、無料日のせいか思ったより混んでいて、人のいないところを縫って見ていたので、どの版画がどの時代だか覚えていません。ほとんどは撮影OKでしたが、撮影禁止マークの絵については、買い求めた絵ハガキなどからの引用です。

フェリックス・ヴァロットン「街頭デモ レスタンプオリジナル」1893木版


ファン・グリス「彗星清算人」1910

 ハレー彗星が地球に近づいたとき、衝突するのではないかと右往左往するパリの人々。

ブリゾー「私の車」1912-1913 ジャビエ・ゴゼ「薔薇の中の薔薇」1912-1913
  

ラブルールean-Émile Laboureur 1877-1943) 「前線の小さな売り子たち」1917


ラブールド&ファルケ 「百貨店」


エドゥアール・G・ベニート「ディアナ」1920頃 「キルケ」1920頃
  

シャルル・マルタン「愛の死」1920頃  「ためらい」1920頃
  

シャルル・マルタン「ヨット遊び」1920頃 「テニス」  
 
シャルル・マルタン「恋のかけひき」


エドゥアール・アルーズ《使者》1925 
 

 日本の印刷文化も進展し、大正昭和初期の雑誌やポスターに華やかなイラストで飾られました。

竹久夢二「雪の風」(婦人グラフ)1924  「七夕」1926
  

山六郎「女性13巻6号」1928


藤田嗣治「ある女」1932    「少女と小鳥」絵葉書を買いました。」
 
 
アンリ・マティス「寝椅子の上のオダリスク赤いタイルの床」1929


フェルナン・レジェ「花瓶」1927 リトグラフ


モンドリアン「色面によるコンポジション」1927原画(19577スクリーンプリント)

ソニア・ドローネー「赤いプロペラ」


ツビンデン「スステン道の建設」1941


イヴ・タンギー「棒占い」1947エッチング


ハンス・アルプ「5つのフォルムの星座」1956リトグラフ


フェルナン・レジェ「サーカス」1950


 ふたつの世界大戦の間の時期、1918-1939年のヨーロッパは、1929年の世界恐慌もあり、不安や焦燥の満ちた時代でもありましたが、市民生活は消費文化が広がり、雑誌などの出版物を通してスポーツもファッションも華やかな時代でもあったのです。印刷の広がりによって、版画は出版物に欠かせない要素となり、さまざまな画家や挿絵画家のイラストがポスター、雑誌などの媒介によって一般大衆にもいきわたっていきました。
 キュビズムやシュールレアリズム、フォービズムなどの先端的な絵画技法も、印刷物を通して日本に浸透していき、絵画の楽しみ方をひろげていきました。

 山六郎など、初めて目にする挿絵画家の作品も初めて見て、印刷文化の中で活躍した画家たちも多かったことを知りました。
 第4水曜日、65歳以上無料の日、また出かけたいです。

 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「明治時代の歴史物語月岡法然を中心に in 町田市立国際版画美術館」

2024-11-14 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241114
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(4)明治時代の歴史物語月岡法然を中心に in 町田市立国際版画美術館

 第四水曜日65歳以上無料入館の町田市立国際版画美術館に出かけてきました。JR町田駅前から第四水曜日のみ、シャトルバスが出ます。シャトルバスが休止していたとき、路線バスで版画美術館に一番近いと言うバス停まで行ってみたことがありました。広い公園の中を延々と歩き、美術館に着いたときはぐったり。シャトルバスがないとき、高齢者には行き着くまできつい美術館です。

 昔と停車位置が変わった駅前発の乗り場がわからずうろうろしましたが、高齢者が並んでいる列を見つけたので「美術館行のバスを待っていらっしゃいますか」と列の人にたずねて確認。私は9人目の乗客で、もうひとりきて10人定員いっぱいになりました。11時に出発。

 美術館について、まずはレストランけやきで日替わりランチを注文。腹ごしらえをしてから絵を見る。朝ご飯もたっぷり食べたのだけれど、早めのランチもすんなり腹に納まる。

 2階の館所蔵版画の企画展「明治時代の歴史物語」
 現在は主流の説ではない伝説なども含む明治時代に人々が「日本の歴史」として求めていた場面が描かれています。

 町田市立国際版画美術館の口上
 月岡芳年 (1839-92)は幕末・明治期を代表する浮世絵師です。歌川国芳の高弟として名を馳せ、現在その評価は一段と高くなっています。本展では、「歴史」に取材した作品に焦点を当て、芳年の画業を紹介します。
 とはいえ、「歴史」とは非常に曖昧な存在です。学術研究で未解明な領域は数限りなく、また同一の出来事であっても、見る者によってその意味は大きく異なります。芳年が描く「歴史」も今日の私たちが思い浮かべる歴史と比べると、少しばかり違和感を覚えるかもしれません。明治10年代における芳年の作では、天皇を国家の中心とした明治政府の歴史観を踏まえ、『古事記』に綴られる神々や、忠義を重んじる賢臣が多く登場します。他方、晩年にあたる明治20年代の作では、講談や謡曲など芳年が好んだ文芸趣味が色濃く反映され、そこに描かれるのは虚実入り混じる幽玄な世界です。静と動の表現を巧みに使い分け、今なお人々を魅了しつづける芳年の作品を通じ、「歴史」を描くことがいかに創造的であるのかを探ります。
 あわせて本展では、芳年門下の水野年方と右田年英のほか、回顧的な作風に長じた尾形月耕、そして芳年に私淑した風景画の名手・小林清親の作品を紹介します。彼らが描いた「歴史」には、芳年の影響だけでなく、独自の作風を模索した新時代の息吹が感じられます。
 明治の浮世絵師が織り成した様々な「歴史」。その豊かな物語性をお楽しみください。

月岡芳年「上毛野八綱田 狭穂姫」 

 第11代垂仁天皇の最初の后、狭穂姫。第10代の崇神天皇以後は実在も考えられるという古代の大王ですが、140歳で崩御したという古事記の記事からも、伝説を集めてまとめた支配者のひとりと考えられます。垂仁天皇の后狭穂姫は、兄狭穂彦の謀反を天皇に打ち明け、兄と共に焼き滅ぼされる。上毛野八綱田は古代の地方豪族のひとりとみられ、狭穂姫が燃える火の中生んだ一人子の皇子誉津別命(本牟智和気御子 応神天皇) を託される。古代の伝承の中でも、劇的な物語であり、上毛野八綱田が「大日本名将」のひとりとされるのも納得。上毛野にそんな豪族がいたという古事記日本書紀の記事があり、古墳が上州に多く存在すのも納得です。

尾形月耕「縫乃工」1929

 呉織、穴織という姉妹が応神天皇の時代に大陸から織物を伝えた、という伝説に基づいて描かれました。織物の原型は縄文時代にだってあったと思いますが、高度な織物技術が伝えられたのが、古代の大王の時代だったのでしょう。

 月岡芳年「雄略天皇」1879

 狩りのさなかに突進してきた猪をひと蹴りで仕留めたと言う雄略天皇(大泊瀬幼武 )の伝説を描きました。勇猛な豪傑にして冷酷無比だったというワカタケル。富国強兵へと向かう時代には英雄として求められたのだとわかります。  
 伝説の初代神武や実在の可能性もあるという崇神よりも、中国の史書にも登場する倭の五王の武が、万葉集の歌のはじめとして名を遺す。こもよみこもちの万葉集の第一首目が雄略天皇の求婚歌に擬せられているのも、さもあらん。
 
月岡芳年「月百姿 石山の月」1898

 石山寺に参篭中、月を眺めて源氏物語を構想する紫式部の姿。
 NHK「光る君へ」も残り6回。石山寺参篭の回は、ドラマでは道長とあれこれあってゆっくり月なんか見ていたシーンがあったかどうか、もう忘れていましたが、伝説では石山寺で執筆を始めたって信じられてきました。

月岡芳年「最明寺時頼」1878
 
 鎌倉幕府第5代執権北条時頼が佐野の里で吹雪にあったとき、所領を奪われた貧しい一家が盆栽を火にくべて暖を取らせてくれた。後に上野国松井田荘を褒美を与えたという謡曲「鉢木」で知られた伝説。黄門様が全国漫遊を行ったという伝説もそうだけれど、その伝説を求める社会だった、ということでしょう。

 月岡芳年「地獄大夫悟道の図」1890 
           右は背景のどくろ花魁道中が見える版(画像借り物)
   
 室町時代の遊女の図。衣服には地獄変相の図を繍り、常に心に念仏をとなえていたという地獄大夫。古代の皇后も室町江戸の遊女も、仏法の前には同じ価値ある存在として描かれ、明治の庶民はその絵図を求めました。

 西洋化著しい近代社会の荒波のなかで、伝説も含む歴史ですけれど、日本の歴史をたどることで人々は西洋に収斂されない心のふるさとを確認してきたのでしょう。
 今またAIはじめIT全盛の世の中で、私たちは自分とは何かを問われ続けています。自分のできることなんぞAIがもっと上手にやり遂げるに違いない、と思ってしまいます。

 久しぶりに本名エゴサーチしたら、私の修士論文博士論文が、けっこういろんな日本語文法論者の論文末に参考文献として名があがっているのを発見。何事もなさない人生と思っているけれど、つたないながら書き上げた論文を、どこぞのだれかが参照しているのを知って、明治の人が、室町の地獄大夫の絵を眺めてほっとしているような気分になりました。だれかの一生は、別のだれかにとってまったくの無ではないと。ま、無でもいいんだけど。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「水の情景月の風情展 in 三の丸尚蔵館」

2024-11-12 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241112
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(3)水の情景月の風情展 in 三の丸尚蔵館

 私の好きな散歩コース。皇居大手門から入り、三の丸尚蔵館の展示をながめて、東御苑の中をぶらつく。平川門から出て東京近代美術館の常設展を見る。これで、一日の無料行楽。

 三の丸尚蔵館の新築工事が終わり再開されたとき、以前は「どなたも無料」公開だった皇室所蔵品の展示だったのに、運営会社がかかわることになり、入館料千円となっていました。しかも、ネット予約制になっていたので、え~お金とることになったんだ、え~、年寄りにネット予約は難しいのに、と落胆。再開第1回目展示の「皇室の雅」展は見に行きませんでした。

 しかしながらよくよく入館案内を読んでみたら、70歳以上は無料でした。なんだ、無料大好きのHAL、これなら見に行きたい。「花鳥風月―水の情景・月の風景」を観覧。

 三の丸尚蔵館の口上
 私たちの生活のなかで美しい自然をあらわす言葉、「花鳥風月」。日本には四季折々の美しさがあります。美しい自然のなかでも水は、生命をつくりあげる重要な要素。気象では雨となり「花の父母」と言われるように、植物を育む恵みとなります。雨が集まり、川や滝となって、やがて海へと流れます。そして、月は、太陽とともに季節や暦を示す情報として、人間の生活に欠かせない標しるべでした。秋は空気が澄んで月が一年で最もきれいに見えると、江戸時代の書物にもあります 。
 本展では、自然の景色のなかで、雨などの水の景色や、月をあらわした風景などの作品を、皇室伝来の収蔵品のなかからご紹介します
 

 伊藤若冲「《動植綵絵 梅花皓月図 」

 ショップで売っていた若冲動植綵絵30枚組絵葉書セット、改築前はセット1200円でしたが、1300円に値上がりしていました。何度か買ったセットのうち、ハガキとして使わず、観賞用にとってある1セット、だいじに眺めます。

 平福百穂「朝露あさつゆ(左隻)」 1915

平福百穂「朝露あさつゆ(右隻)」 1915


 西村五雲「秋茄子」1932


 川合玉堂「雨後」1924

上村松園「雪月花」1937

萬古焼き「金烏玉兎図花瓶」1915


 絵にも工芸にも、日本の花鳥風月があらわされ、人々は四季の移り変わりをめでてくらしてきました。野にも田にも四季の楽しみがあり、山にも海にもそれぞれの美しさがある。

 我が家から最寄り駅への2分強の道のりのアスファルトの道のわきにも、さまざまな草が生えています。今は猫じゃらしが秋っぽい色になってきて、風に揺れているのを見るだけでも、楽しい。

 70歳以上は無料だもんで、観覧者は圧倒的にじじばばだった。私も保険証を示して入館。じじばばが安心して楽しめる場所があるって大事。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「田中一村展 in 東京都美術館」

2024-11-10 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241110
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(2)田中一村 奄美の光魂の絵画展 in 東京都美術館

 2021年2月24日、娘といっしょに千葉市美術館で田中一村展を見ました。

 それから3年で一村はメジャーな画家になり、ファンも広がったと思います。何度も応募を繰り返しては落選の通知を受け続け、中央画壇の動向とは無縁を貫き、ひたすら己の画風を極めようと格闘した画家一村。
 11月1日金曜日、東京都美術館はけっこう混んでいたけど、金曜日は20時までやっているから、気持ちはゆったり。

 東京都美術館の口上
 自らの芸術の探究に生涯を捧げた画家・田中一村(たなか・いっそん/1908-1977)。
 本展は、一村の神童と称された幼年期から、終焉の地である奄美大島で描かれた最晩年の作品まで、その全貌をご紹介する大回顧展です。
  世俗的な栄達とは無縁な中で、全身全霊をかけて「描くこと」に取り組んだ一村の生涯は、「不屈の情熱の軌跡」といえるものでした。
 自然を主題とする澄んだ光にあふれた絵画は、その情熱の結晶であり、静かで落ち着いた雰囲気のなかに、消えることのない、彼の魂の輝きをも宿しているかのようです。
 本展は、奄美の田中一村記念美術館の所蔵品をはじめ、代表作を網羅する決定版であり、近年発見された資料を多数含む構成により、この稀にみる画家の真髄に迫り、「生きる糧」としての芸術の深みにふれていただこうとする試みです。

 地下1階は一村がまだ米村と名乗っていた時代の若い作品など、7歳のころからの作が並んでいます。父に手ほどきを受け、神童と呼ばれていたのもうなずける達者な筆です。
 1階は、「ここから一村の号を使い始める」という分かれ目もあり、画風を確立しようと格闘している見ごたえのある作品が続きます。2階は、奄美大島へ移住後の絵を含め、島で染め物工房で働きながら画材を買うお金を貯め、孤独極貧の中で描いた魂の絵に心奪われます。
 半分は千葉市美術館で見た絵でしたが、 半分は個人蔵などの初めて見る作品でした。
   
「秋色」1930年代    「秋色」昭和10年代
       

「棕櫚」昭和10年代「柿に懸巣」昭和20年代「枯れ木にきつつき」昭和20年代 
  
 一村が描く鳥は、スズメもキツツキも、丹念に観察し細かい描写もおろそかにしない、鳥類図鑑に載せてもいいような描写だそうです。

「白い花」1947(昭和22)
 
 一村の作品の中で、唯一公募展当選の記録が残る作品。翌年も同じ川端龍子主催の青龍展に応募しました。しかし、2点応募したうち自信作のほうが落選したことに腹をたて、入選作のほうも応募取り消しを申し出ました。一村のプライドの高さがわかる逸話ですが、ために中央画壇に名を遺した絵は、「白い花」のみ。
 
「千山競秀図」昭和20年代半ば
 

「千葉寺 春」昭和20年代


「秋色虎鶫」昭和50年代


「桜下軍鶏図」昭和20年代      「流水に楓」1950年代
   

「忍冬に尾長」1950年代
  

「写生スジブダイ」                     
 

「不喰芋と蘇鐵」1973       「アダンの海辺」
  

 一村の描いた奄美。波も緑の葉も花も生き物も、南国の光に満ちていました。「アダンの海」に描かれた空には灰色の雲が伸びているのですが、それでも
海は光輝いています。

 脳溢血からのリハビリにつとめて、再び筆をとる日を目指していた一村でしたが、69歳で亡くなりました。個展の開催を願いながらついにかなわなかった一村。亡くなったあと、回顧展が、何度も開かれました。一村の家族が長く千葉寺に住んでいた縁から、千葉市美術館が作品収集につとめ、奄美大島にも一村美術館が開館しています。

 一村は生涯独身を貫き、清貧を貫きました。終生一村を励まし、働きながら島への送金を続けた5歳年上の姉喜美子が60歳で亡くなったあとは、奄美の小さな小屋で絵を描きづけました。

 身一つで南の島に渡った一村を「日本のゴーギャン」と呼ぶ人もいます。しかし、フランスに妻子を置き去りにしてタヒチに渡り、タヒチでは現地の女性との間に子をもうけて、タヒチを出るときにはその子をおきざりにして顧みなかったゴーギャンに比定するのは、私には不満です。

 喜美子と一村の姉弟愛を思うと、テオとヴィンセントのゴッホ兄弟のほうが近いように感じます。画商であったテオに比べると喜美子は絵に関しては素人でしたが「お前がよい絵を描くことが私の喜び」と一村を励まし続けました。 
 今、一村の展覧会に大勢の観覧者が集ったのを天から見て、弟の画才を信じて弟を励まし続けた、つつましかった喜美子の生涯も決して無駄になっていない、と思います。

 タカ氏が私のコンパクトカメラのシャッターを押すとたいてい斜めってしまう。斜めっているとか手振れでぼけてる、と言うと、「カメラが悪い」と不機嫌になるので、不満は封印。昔ながらのフィルムの焦点や照度を自分で決める一眼レフが「本当のカメラだ」と信じているタカ氏。スマホもパソコンも拒否して仕事を続けている昔ニンゲンで、息子がプレゼントした簡単スマホも「どこかにいっちゃった」と、なくしてしまう始末。こういう年寄りも生きていける世の中であってほしいですが、こんなアナログ人間に仕事を依頼してくださるところもあり、ありがたいことです。「11月は忙しい」というので、いっしょにモネ展に行くのは12月以後を予定。
 
 タカ氏撮影だと、私も斜める。被写体が美しく写らないのは、、、これはモデル側の問題か。
 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「はにわ展 in 東京国立博物館」

2024-11-09 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241109
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(1)はにわ展  in 東京国立博物館

 11月1日。夫タカ氏と東京国立博物館で「はにわ展」観覧しました。タカ氏は、美術展で絵を見るのは、美術の教科書でみたことあるなじみの画家以外はパス。科博や東博で人類学や歴史関連を見るならつきあうと言う。今年2024年は、娘と東京都美術館で「永遠のローマ展」を見て、私とは東博で2023年に「古代メキシコ展」を見ています。
 
 東京国立博物館の口上
 埴輪とは、王の墓である古墳に立て並べられた素焼きの造形です。その始まりは、今から1750年ほど前にさかのぼります。古墳時代の350年間、時代や地域ごとに個性豊かな埴輪が作られ、王をとりまく人々や当時の生活の様子を今に伝えています。
 なかでも、国宝「埴輪 挂甲の武人」は最高傑作といえる作品です。この埴輪が国宝に指定されてから50周年を迎えることを記念し、全国各地から約120件の選りすぐりの至宝が空前の規模で集結します。素朴で“ユルい”人物や愛らしい動物から、精巧な武具や家にいたるまで、埴輪の魅力が満載の展覧会です。東京国立博物館では約半世紀ぶりに開催される埴輪展にどうぞご期待ください。
第1章 王の登場
第2章 大王の埴輪
第3章 埴輪の造形
第4章 国宝 挂甲の武人とその仲間
第5章 物語をつたえる埴輪
エピローグ 日本人と埴輪の再会

 「 挂甲の武人 」が埴輪として国宝に指定されてから50年を記念する本展の目玉は、日本各地の博物館やアメリカのシアトル美術館に離れ離れに展示されている5体の武人をそろい踏みで」展示すること。
 第4章の「国宝挂甲の武人とその仲間」の展示に大勢の埴輪ファンが集まっていました。
 武人5体の勢ぞろい(画像借り物。観覧時には人の頭で武人が隠れてしまっていて5体いっしょの姿は撮れなかった)


 5体の武人は、全部同じ場所で作られたことが判明しています。鶴舞う形の群馬県の鶴の首にあたる地域。現在の群馬県太田市あたりに埴輪工房があり、5体は少しずつ衣服や武具のちがいを表しながらも、同じ地域の工房で作られたであろうという解説。
 武人像を眺めていると、古代の上毛野で馬を飼ったり埴輪を作ったりしながら暮らしていたご先祖さまを思い浮かべることができました。もっとも母方のご先祖は鶴舞う形の羽の上のほう、父方のご先祖は魚沼こしひかりの出身ですけど、想像する分には馬飼いだろうと埴輪工人だろうと自由。


 混みこみの観覧客が途切れなくてカメラを向けられない。アングルによっては光が反射してしまって思うような姿にとれない。素人はすっこんでいろ、というところですが、数点の撮影禁止のほかは撮影自由なので、下手でも撮りたくなる。埴輪は素朴な素焼きのイメージだったけれど、表面に残されていた塗料を分析し、古代の彩色を復元した武人像も展示されていました。白と赤の彩色、思った以上に派手でした。

 国宝・群馬県太田市飯塚町出土6世紀 東京国立博物館蔵 
                   復元古代の彩色
      

太田市出土シアトル美術館・太田市世良田町相川考古館・伊勢崎市歴史民俗博物館


 埴輪のはじめは、円筒埴輪です。王の死後を守るために、古墳の周囲に立てめぐらされました。顔がついている円筒など、きっとにらみをきかせて墓泥棒などに供えたのかもしれません。

最大の円筒埴輪は2m40cm。背比べのために、タカ氏に並んでもらう。

 強大になっていった大王が広い地域を統治するようになると、王権の象徴としてさまざまな宝物が古墳に埋蔵されました。
 

金象嵌銘大刀(天理市東大寺山古墳)4世紀(刀身後漢2世紀)
 
(銘文)
中平□□(年)五月丙午 造作文刀 百練清剛 上応星宿 □(下)辟不□(祥)

 刀身は後漢時代の作だということですが、大陸や半島から島にもたらされ、鉄製の刀が地上に出土するまでよくぞ眠っていてくれたと思うと、千数百年の時間の流れに思いが寄せられます。

 円筒埴輪の次に王墓に配されたのは、古墳の頂に載せられた家形埴輪だそうです。王の御霊が死後も安寧に暮らすための家。
 誉田御廟山古墳(応神天皇陵墓に比定)から出土した家型 埴輪、現在も伊勢神宮などの千木や鰹木 に同じ形が残されています。
   
 

 

 古墳時代の後期になって墳墓に配されたのが、祭祀の場などに王の権力を示すために「物語」を表すようにおかれた、人の形の埴輪や動物の形。それぞれとてもすばらしい造形で、魅力的な埴輪でした。
<人の像>」
 乳をふくませる母と子を背負う母。子の健やかな成長を願う古代の人の心、伝わります。
  

王に仕え跪く人        
 

 琴を弾く人   踊る人(または馬の口取り) 捧げものを持つ人 
  

武人と巫女(?)        杯を持つ人     捧げものを持つ人                      
  
さまざまな役割をはたす人 
  
鷹匠       力士
  
<王の身の回りの器物>
いす                船     船レプリカ  
 
<動物>
馬                  旗指物をつけた馬
   

 鹿            水鳥         羽を広げた鳥       
  
   
 大山古墳(仁徳天皇陵に比定)とイヌ     サル
   

 古代王権の宗教的な面を受け持つのは卑弥呼のような巫女。卑弥呼とコンビで邪馬台国を納めていた男弟など、王権者は、軍事と米作に欠かせない治水をつかさどりました。王が水を管理していたのをしめすのではないか、という「囲型埴輪」に木槽樋(もくそうひ) が出土しており、「治水のようすを表す」「水洗トイレを表す」「古墳が築かれるまでの殯(もがり)の宮 」などの説が出ている、というのが、興味深かった。トイレ説の根拠は、囲型埴輪の出土から寄生虫卵の痕跡も見つかっているからだというのですが、どうでしょうか。
 


 埴輪というと画像にでてくる「踊る人」。最近の説では、馬の口取りをしているのではないかと。腰の紐は、馬をつなぐ紐であったろう、という説。
 

 平成館1階の休憩所でお茶休憩。タカ氏は、私のコンパクトカメラはつかいづらいと文句を言い続け、夫が私を撮ると手ブレや斜めっている絵になる。


 東洋史専攻のタカ氏は、娘といっしょに兵馬俑展を見たと思い出し「埴輪は、兵馬俑とは関係ないのか。兵馬俑を作った人々が大陸からやってきて埴輪を作ったってこともあるかも」と馬が大陸や半島からもたらされたのといっしょに埴輪工人も島にやってきたのかもしれないという説をのべる。学生時代に騎馬民族説に魅了されたことがあるタカ氏っぽい説だけど、私は2007年に西安の始皇帝陵で兵馬俑を見てきて、ひとりひとりの兵士の姿を忠実に写しているリアルな兵馬俑と素朴な見た目の埴輪では作風が違う、と思いました。で、東博の兵馬俑展を見たタカ氏説に賛同せず。「前3世紀の秦の始皇帝の墓の兵馬俑と後3世紀から6世紀につくられた埴輪では5,600年の隔たりがあるので、秦の滅亡で亡命してきた工人が直接大陸から来たとは考えられない」と、反論。タカ氏不満そうでしたけれど。
 私は、テレビの関連番組で「埴輪は大王の墓奥深くに埋められていたのではなく、人々に王の権威を示すために、墓の前の祭祀場に物語を上演するように並べられていた」という説に大いに共感しました。だから、始皇帝とともに土中深く埋められており二千年以上人目にふれずに墓を守る兵馬俑と、人々の目に触れるように墓前に並べられた埴輪では、役割が異なると思えたのです。

 東博のエピローグは、近代以後の埴輪像の受け入れについての章でした。「日本人と埴輪の再会」に展示されていたのは、大正元年に作られた明治天皇の陵墓、伏見桃山陵を守る土人形のレプリカです。挂甲の武人の衣服に鎌倉武士のようなカブトをかぶった姿にかたどられた武人が守る天皇陵。


 明治期以前に描かれた古事記などの古代説についた挿絵。坂上田村麻呂は鎌倉武士のような恰好で描かれるし、衣通姫や神功皇后は宮中女官の緋袴小袿の姿で描かれることが多かった。しかし、小学校の歴史本にヤマトタケルや神武天皇がミズラを結い、埴輪武人のような衣服を着た姿で描かれるようになると、たちまち日本中に挂甲の武人の姿がいきわたりました。日清・日露以後の軍拡の世相に乗って、人々は千五百年前の勇ましい武人に「大和魂」を重ねて武力拡大に熱狂していきました。

 この「エピローグ」のつづきは、東京近代美術館の「ハニワと土偶の近代」に引き継がれています。近代以後の芸術家たちが埴輪や土偶からインスピレーションを得て創作した彫像や絵が飾られています。
 「日本の歴史」の源流として土偶や埴輪が受け入れられ、日本の原始・古代のイメージが定着していく近代を知りたければ、東京近代美術館の「ハニワと土偶の近代」へ。

 平成館前で

 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「ハニワとキティ散歩」

2024-11-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241107
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記秋(3)ハニワとキティ散歩

 東洋史専攻の歴史好きタカ氏が「はにわ展」を見るというので、同行。タカ氏の事務所からタクシーで東京国立博物館へ。

 はじめに、東博の庭へ。東洋館まえから本館東側の日本庭園を通り抜けて平成館へ行く「通り抜け散歩」を歩く。タカ氏は東博には何度も来ているけれど、日本庭園を通って平成館へ行くのは初めてだと。そもそも東博に日本庭園がくっついていることを知らなかった。庭園公開は時期によりけりなので、いつも開いているわけじゃないし、私も急いで観覧、というときには庭はパス。

 タカ氏は「上野公園や動物園だけでもけっこう広いのに、東博もこんな広い日本庭園を持っていたんだなあ」と、日本庭園の広がりを見て「ここ、マンションなんぞ建てないで、よくぞ緑のまま残したなあ」と感心しています。
 家康が江戸鬼門の守りとして建立した東叡山寛永寺の広大な寺域。勝てば官軍の明治政府兵部省は、寛永寺の敷地を陸軍病院と陸軍墓地の用地として決定しました。しかし、これに猛反発をしたのがオランダ人軍医・ボードワン博士。彼は、上野の山を緑豊かな公園として残すよう提言しました。

 敗残側の人々をちゃんと祀らないと祟りがあるというのは日本古来の思想ですから、彰義隊の死体が200体もごろごろと残されたままになっていたという上野の山に寛永寺由来の緑を残し、明治10年の敗残側である西郷隆盛銅像を建てたのは、平将門やら崇徳天皇やら「祟り神」の思想が江戸の町によく知られていて、明治政府も祟りを恐れただろうと、私は想像しています。菅原道真やら 祟り神はちゃんと祀れば守り神になります。ボードワン博士は、たぶん祟り神のことなんぞ知らずに、「近代都市には、民衆の憩いの場となる公園が必需」と思っていたのでしょうが、博士の提言をただちに受け入れた政府側には、きっと自らが敗走せしめた人々を鎮めたいとの気持ちがあったろうと、これはだれも記録にも残していないことですけれど、私の、民俗学的文化人類学的神話学的、勝手な想像。
 
 平日の午後だというのに、東洋館の前が大行列でした。キティちゃん展をみるための列です。


 あとで娘に聞くと、1日はキティ展の初日に当たり、グッズなどが売り切れる前に手に入れようとするファンが押し掛けたのだろうと。娘はキティ展の前売り券を買っていましたが、13時半に最後尾240分待ち15時半に120分待ちという私の話を聞いて、「ほとぼりさめてからいくことにする」と。
 キティにまったく関心のないタカ氏は、世の中にこれほどのキティファンがいることに驚いていました。11月3日にはサンリオ側からおわびのことばが発表されました。転売ヤーが希少グッズの高値転売を狙って長行列になったのを、事前にうまくさばく運営ができなかったことをわびたのです。

 娘は保育園にキティちゃんがついた赤い通園バッグを持って通っていましたし、キティちゃんの絵本も何冊も持っていましたが、何度か引っ越しするときに処分したものも多い。娘が言うには、初期のキティちゃんグッズはそれほど数がでていなかったので、通園バッグも使用済みのものであっても、今オークションにだせば、そこそこの値段がついただろうと。
 ネットで調べると赤いキティバッグ、三千円でオークションに出ていました。惜しかったな。とっておきゃよかった。

 処分してしまって惜しかったと私が後悔しているのは、埴輪の複製品「踊るはにわ」です。東博所蔵品の実物大レプリカが学生時代から長年大事にもされずに部屋のすみにころがっていました。2011年3月に部屋の中がぐちゃぐちゃになったのを片付ける際、食器棚から落ちて欠けた皿やコップといっしょに捨ててしまいました。「これは今すぐ役立たないものは捨てるように」という天のお達しだろうと感じて。
 40年前に処分したキティちゃんバッグも、13年前に捨てた「踊る人はにわ」も、心の中に残っているからいいと思うのですが。

 はにわにあまり関心がない娘は、11月1日は西洋美術館のモネ展観覧。私は、はにわ展の後、東京都美術館の田中一村展へ。一村にあまり興味を持たなかったタカ氏と別れ、ゆっくり一村展を見た後、モネ展を見終わった娘と、上野駅中の下町洋食屋で待ち合わせ。私はビールハムカツセット、娘はオムライス。

 エキナカの上野みやげショップで見ると、「はにわ踊る人」のレプリカには2万5千円の値札がついていました。ぎょえっ。捨てるんじゃなかった。日頃、天の声も夫の声も無視して生きていたのに、震災後も揺れが続く気がする「震災酔い」の中で聞いた天の声。天が捨てろっていうから、二万五千円分捨てちゃったよ。 
 

 娘がひとりで見てきた西洋美術館のモネ展、タカ氏と年末あたりの混んでいなそうな時期に行くことにしています。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「千代田区散歩」

2024-11-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241105
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記秋(2)千代田区散歩

 明治大学博物館へ行くついでに、お茶の水神保町界隈を歩きました。帰宅までの歩数13000歩。

 10月24日木曜日。地下鉄神保町駅の改札にシルバーパスを通す。学士会館を見学してから神保町古書街を歩く。矢口書店のゾッキ本棚から「西欧建築様式史」300円を買う。建物を見て歩くのが好きといっても、知識ゼロですから「きれい、すてき」という感想しか出ないスカスカ頭。少しは勉強してみようかと思って購入したのですが、たぶん、ツンドク。
 矢口書店の建物は取り壊しにもなっておらず、昔のままなのがうれし。


 朝ごはんしっかり食べてきたので、昼ご飯は12-13時のいちばん混む時間をさけようと思っていました。しかし、丸香といううどんやの前が長蛇の列になっていたので、列を見ると何か掘り出し物があるのかと思ってしまう引きずられやすい性格だもんで、並ぶ。待っていた30分の間にネットチェックすると、出しもこしのあるうどんも高評価。でも、私にとって最高のうどんは、母が粉を捏ね、かまどの火でゆでたうどんです。こどものころは「夕飯、またうどんか」と文句を言っていましたが、いまになってみるとあれ以上のうどんに出会うことはありません。丸香のかまぼこ天ぷらトッピングのうどん、おいしかったけどね。650円。

 明治大学博物館の展示を見た後、久しぶりにニコライ堂見学。見学者献金300円。見学者案内係のおじいさんの建物解説はぼそぼとと小さな声で私には聞き取れなかったのでパス。

 聖橋の上で大勢の人がスマホを手に待っていたので、またまた掘り出し物かと思って、聖橋でしばしカメラを構えてみた。ネットに、地下鉄丸ノ内線の赤い電車の上り下りと総武線の黄色い電車が聖橋前で交差する写真がネットにのっているのを知ったインバウンド組が同じ構図で撮影しようと待っていたのです。山梨のコンビニ越しの富士山を撮影しようとして道路に飛び出すインバウンド組よりはおとなしい撮影風景でしたが、何かあってもいやだから、よい画角の絵はとれなかったけれど、早々に退散。


 神保町お茶の水散歩、最後に立ち寄ったのは、ドラマ「虎に翼」にたびたび登場した、女子部学生のたまり場「竹もと」のモデル店「竹むら」
 最終回に本物の竹むらの写真が出たためか、店の前には長い列。店の人に聞くと、最近は平日でもいつもこうなんだって。明治大学女子学生受験生増加の前に、竹むらの客激増を実体験。55分並んだ。アホやね。
 あんずクリームみつまめを注文。880円。桜湯が最初にだされ、お茶もつく。
 

 食べ終わってかえるときには、待ち客は減っていました。

 
<つづく>
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