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ぽかぽか春庭「ファンタジーの力展 in 龍子記念館」

2025-03-13 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250313
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩あるいて探す春隣(6)ファンタジーの力展 in 龍子記念館

 大田区立龍子記念館。どの駅からも遠い住宅街の中にあり、よほど見たい展示か特別イベントがあるときじゃないと訪問しない美術館です。65歳以上無料。
 今回の展示は現代美術だからパスと思っていたのですが、現代美術館で見た高橋龍太郎のコレクションがとてもよかったので、高橋の収集の目を信じて出かけることにしました。作品の作者ではなく、コレクターに心を寄せて観覧を決めるのは、私にしては珍しいこと。

 2021年に高橋コレクションの現代美術と川端作品のコラボ展示は2021年に最初の企画があったのですが、私は高橋がどんなコレクターかも知らず、龍子記念館は遠いので、見にきませんでした。龍子記念館で高橋コレクションを展示するのは、高橋の精神科クリニックが1990年に蒲田駅の近くに開業して以来、大田区とのご縁ができたからです。

 2024年現代美術館での高橋のコレクション展「日本現代美術私観」がとても見ごたえあり、現代美術苦手の私にも高橋のコレクターセンスが心地よかった。高橋の選んだ現代美術がどんな風に日本画家川端龍子とコラボしているのかって、興味しんしん。今回の龍子記念館での、川端龍子作品と高橋コレクションの共通項は「ファンタジーの力」

 エントランス最初の龍子作品は、242.5×728という大きさに圧倒される。
「花摘雲」1940
 

 龍子が旧満州を旅した時の大地と空一杯の雲を描いたという。野の花を摘む天女の雲が浮かび、花は空へと運ばれる。龍子が中国戦線拡大に向かう世相の中で描いた連作「大陸策」の四が花摘雲です。大陸策のニ は、以前龍子記念館で見た「ジンギスカン」。ラクダの群れの中に鎧姿の源義経が座っている絵で、義経がジンギスカンに転生したという伝説を絵にしたもの。透明っぽい戦闘機に乗って香炉峰の上を飛ぶ絵「香炉峰」(大陸策三)も、義経転生ジンギスカンも、日本の大陸進出を夢見るファンタジーだけれど、大陸進出正当化という意義を含んだ「大陸策」ですが、それを取り払えば、花摘雲がいちばん毒なく現代の観客にも受け入れられる。

 第1章「旅立ち」には、「花摘雲」のほか、龍子の旅行鞄が展示されていました。第2章「そこにいるのは誰?」第3章「土と光」、風の物語。第4章「夢の領域」。
 コラボでいい組み合わせと思ったのは、第5章の「海の物語」の龍子「龍巻」と草間彌生の「海底」のコラボ。龍巻というのは、海面に立つ巨大なたつまきですが、龍子が描いたのは、龍巻の下にある海の中。イカもエイも海底に向かって下降中。海の上に立つ龍巻は、海の底にもトルネードが起こり、海中の生き物は渦巻に飲み込まれているのでしょう。草間彌生の「海底」は、車のホイールが並んでいる間を草間のおとくい、ペニス形がぎっしり埋め尽くしています。
 草間彌生「海底」「自転車と三輪車」   川端龍子「龍巻」 
 

 海の底の前に自転車と三輪車が置かれている理由はわかりませんでしたが、 勝手な解釈によると。海底で生じるエナジーが、地上に解き離れたとき、人は三輪車や自転車をこいで、自分の力で進んでいこうとする。てなことかな。

 高橋コレクションは現代美術館で見た「現代美術私観」が圧巻でしたが、今回のコラボ展示もなかなかの品ぞろえ。高橋は精神科クリニックを大田区蒲田に開業し長年診察を続けてきました。大田区とのご縁で、コレクションを大田区内の施設で公開することも多い。

 今回のコラボを企画実現したキュレーターは、木村拓哉!主任学芸員にして副館長。現代美術に合わせて龍子の作品を選出したセンス、すばらしい。展覧会を作り上げるのは、ひとりの力だけではないと思いますが、龍子記念館のキムタク、ありがとう。

<つづく>  
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ぽかぽか春庭「Curation fare Tokyo展 in 九段ハウス」

2025-03-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250311
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩あるいて探す春隣(4)Curation fare Tokyo展 in 九段ハウス

 2月10日、九段ハウスのCuration fare Tokyoを観覧。プリンスホテル紀尾井町など、他の3会場とともに行われた現代アートの展示です。
 展示ののち、お気に入りの作品は別日程で購入ができるという企画です。最初の日程では観覧するだけ、観覧で気にいった作品があったら、後期日程で購入ができる。美術館の展示とデパートやギャラリーでの販売を、ひとつの会場で順次執り行うという試みです。といっても、私に買えるはずもなく、私は観覧だけ。でも九段ハウスでの公開ですから、作品が並べられている九段ハウスをじっくりながめてきました。撮影禁止マークがついている作品以外は撮影自由なので、九段ハウスの建物を撮影することができました。九段ハウス紹介はまたのちほど。

九段ハウスの口上  
 「CURATION⇄FAIR」は、気鋭のキュレーターによる展覧会と、厳選されたギャラリー・美術商によるアートフェアの2部構成で開催し、美術品の価値を様々な角度から伝える新しい試みの美術企画です。
「本当に価値のある美術品をコレクションしたい」「どのように作品を選んだら良いかわからない」というお客様の声に寄り添い、展覧会で作品の社会的意義を読み解き、トークプログラムなど意見交換と交流の場を創出し、アートフェアで深い理解を持って作品をコレクションする機会を提供します。
 それらを通じて、日本で連綿と受け継がれ、愛されてきた美術品の質の高さを国内外に向けて発信し、次の世代へと繋いでいくことも本事業の大きな目的です。

 展示は、一軒の家が主人の好みによって飾られている、という趣で、自由な取り合わせで作品が並んでいました。エントランスを入った受付前の棚は、有元利夫と唐三彩。

 有元利夫「ドローイング」1981 唐三彩万年壺(8世紀)

 1階の部屋の壁には2001年生まれの高木大地「Rain drops」2024と、近代洋画の重鎮猪熊弦一郎「首」1952が並んで展示されています。猪熊は1902から1993まで二十世紀を生き抜いた人。二十一世紀に生まれた新進気鋭が居並ぶのも、他の美術館では見なかった配置です。

「Rain drops」2024    「首」1952
 

 2F3Fには、李朝白磁や唐津焼などの陶磁器もありつつ、私がこれまで見てこなかった若手の作品も並んでいました。
 
 見るだけの美術館と異なり、ギャラリーがそれぞれ所有する作品を売るための展示です。買える作品と言われても、お金があったら買いたいと思ったのは、香月泰男。シベリアシリーズで知られる香月の作品。洗馬は、1942年の作品。翌1973年に香月は出征し、敗戦後はシベリアのセーヤ収容所などで過酷な抑留生活を送る。戦友の多くが飢えと寒さで倒れた中、1947年ナホトカを経由して帰国。20年後、1967年『画集・シベリヤ』 を発表。 
「裸鶏」1951                      「洗馬」1942



 九段ハウス旧山口萬吉邸の展示。他の美術展示会場と異なるのは、地下空間での展示です。邸は1階の床は地上1m弱のところにあります。地下室の天井近くはガラス窓になっており、自然光がはいります。地下はボイラー室と使用人室にあてられていますが、使用人として地下に住んだとして、この窓のおかげで地下穴倉に押し込められたという感じは持たなかったのではないかという印象です。

 唯一、外光が入らず、まっくらになっていたのはボイラー室。青木陵子のビデオ作品が上映されていました。3分ごとに色や形、音が変わるインスタレーション画面が表れます。
 1階2階の展示は、現代美術が苦手なHALは、大半の作品の前はささっと通り過ぎてしまいました。しばらく見ていたのは結局、具象作品。具象以外で長く見つめたのは、ボイラー室の「I'm in the dark now」でした。3分ごとに変わっていく画面をひとまわり見ました。

 現代作品苦手な私には、「お金があったら買いたい」と思える新しい作品には出会えなかったのですが、期間中、何点かは美術愛好家や、美術はわからんが金がある、という方々に買われていったのだと思います。若手の作家が育っていきますように。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「紙の上のスタイル画 in アクセサリーミュージアム」

2025-03-09 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250309
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩あるいて探す春隣(3)紙の上のスタイル画 in アクセサリーミュージアム

 アクセサリーミュージアムは、上目黒の住宅街の中にあり、祐天寺駅西口から小道を曲がりまがりしていくのがわかりにくく、道に迷いながらたどり着く館でした。案内にでている通りに祐天寺西口から歩くとどこかの曲がり角で迷う。駅東口から東急線ゲートをくぐる道が、最適と、前回の訪問で気づきました。1月31日の訪問ではメインの通りを順調に歩き、駅近くの古本屋では新書版「フェルメール全点制覇の旅」を300円でゲット。近道しようと思わずに、メインの通りを歩けば、決して迷うような道順ではない。

 アクセサリーミュージアムは、地階が手作りアクセサリー教室とショップ。1階2階が展示室のこじんまりとした造り。今回のファッションプレート(19世紀中心のデザイン画)の展示は点数は少ないけれど、よい企画でした。

 もとより私には、冬は寒くなければよい、夏は裸でなければよい、という以上のファッション感覚はなく、今見ている「カーネーション」再放送を見るにつけ、自分がおしゃれと無縁の生活を送ってしまったことが悔やまれます。母に「身なりで人を判断してはいけない」と、厳しく言われすぎたのかとも思いますが、それは敗戦後のもののない時代に、どんな高潔な人物でも襤褸を着てすごしたときの時代のこと。同じ母に育てられても、姉と妹はおしゃれ大好き娘に育ち、服だ靴だバッグだと、伯母が定期購読していた装苑を見て喜んでいました。姉はおこずかいでセブンティーンなどのファッション雑誌を買うようになると、伯母に教わりながら自分でスカートなどをこしらえて新しいおしゃれをたのしんでいました。私は姉のお下がりをもらえば十分で、姉のミニスカートが姉より背が低い私に膝丈になるのも気にしない。

 アートとしてファッションを楽しむようになったのは、2009年に庭園美術館で開催されたポール・ポワレとマリアノ・フォルチュニィ展が開催されてからだったかと思います。以後、シャネル展(三菱一号館)ディオール展(現代美術館)ミナペルホネン展(現代美術館)高田賢三展(オペラシティアートギャラリー)など、自分が着ることなくても、見るだけでもファッションを楽しんできました。シャネルは伝記映画なども見て知っていたけれど、全く知らなかったスキャパレリを美術館で知ることができました。

 今回のアクセサリーミュージアムの展示は、ファッションプレート。19世紀を中心に20世紀初頭までの最新のスタイルを美しい彩色で印刷したもの。

 アクセサリーミュージアムの口上
 大航海時代、海外を目にした人々が、自分たちとは異なる独自の文化や服装に強い関心を持ったことから、ヨーロッパにおけるファッション史研究は始まります。17世紀以降には流行のスタイルを描いたファッションプレートが制作されるようになり、異国文化を受け入れ始めた明治時代の日本にも伝えられました。
 アクセサリーミュージアムはコスチュームジュエリーのメーカーベンダーであった田中美晴・元子夫妻のコレクションを基に設立された私立美術館であり、ファッションプレートをはじめとした資料は、戦後日本の洋装化に伴うスタイルや当時の流行研究の過程で蒐集が始められたものです。 この企画展ではコレクションの中から19世紀のファッションプレートをはじめ、アーサー・ラッカム(英)やジョルジュ・バルビエ(仏)などの挿画を「スタイル」をテーマに展示いたします

 18世紀までの西欧社会では、おしゃれを楽しむのは貴族社会でした。しかし、産業革命後のブルジョア社会が成立した19世紀、ファッションは大きく変化しました。近代化が進むにつれ、ファッションの流通方法も変化していきます。富裕層をターゲットにしていた婦人雑誌の購読層が、中流階級~一般階級へと広がり、ファッションの消費ターゲットもさまざまな階層を対象とするようになっていきました。

 富裕層相手の手彩色でのファッション画は、印刷技術の機械化により大量生産が可能になり、ファッションプレートは機械彩色へと変わりました。さらに時代が進むと写真印刷が普及し、ファッションプレートは徐々に衰退。20世紀のファッション雑誌は写真が中心になりました。

 つまり、ファッションプレートと呼ばれるデザイン画は、18世紀後半から19世紀にかけて最盛期を迎えており、今回の展示でも、19世紀20世紀初頭のもので構成されています。

雑誌Journal Gens du Monde 1834 雑誌Petit Courrier Des Dame1836 7月   
  

雑誌 Le follet 1836 7月    雑誌Petit  Courrier Des Dame1836 5月
 

雑誌Journal dens du Modes1838


雑誌Le felle 1843 5月        Le Monitear de la Mode 1864
 

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1874

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1875
    
アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1875  


アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1875
 
アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1878  1878  
  

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1877  1881
 

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1881 1881
  

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」 1884   1884
  
アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1884
  

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1886   1886
 
 


アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1888 1888
  

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1889   1889
   
アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1890   1891
    
アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1892
 
アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1894
 

 アデル=アナイス・コラン・トゥードゥーズ(Adèle-Anaïs Colin Toudouze、1822 - 1899)は、姉エロイーズとともに父の画家アレクサンドル=マリー・コランに絵の手ほどきを受けました。1845年に建築家、水彩画家、版画家のガブリエル・トゥードゥーズ(Gabriel Toudouze: 1811-1854)と結婚しましたが、3人の子供を残し夫は1854年に亡くなりました。アデルアナイスは、3人の子供を育てるために、ファッション雑誌や書籍の挿絵を描く仕事を続け、数々のファッションプレートを描きました。

 アデル・アナイスの3人の子供は母の訓育を受け、息子ギュスターヴ・トゥードゥーズ(Gustave Toudouze: 1847-1904)は文学者になり、もう一人の息子、エドゥアール・トゥードゥーズ(1848-1907)は画家になりました。娘のイザベル・コラン(Isabelle Colin)は、母と同じファッションプレート画家となり、アデル・アナイスは、32歳で未亡人となったあとは、仕事を持つシングルマザーとして一生をまっとうしました。

 女性が絵を描く仕事で生き抜く画材として、植物画またはファッションプレート以外には少なく、アデル・アナイスはファッションプレートのイラストの仕事により3人の子を育てあげたのです。父アレクサンドル=マリー・コランは、ロマン主義時代の画家として、友人ドラクロアほどの名声を得ることはありませんでした。私はドラクロアは子供のころから知っていました。生涯独身を貫いたドラクロアは、遠い日本の美術教科書にも歴史の本にも登場する大画家。フランス紙幣に「民衆を導く自由の女神」の絵と自画像を残しました。一方、コランというと、日本では、黒田清輝師匠のラファエル・コラン以外には知られていません。子も孫もそれなりに絵で生活できるように成長したコランと、紙幣に肖像を残すドラクロアと、どっちが満足のいく生涯だったのかなんて、大きなお世話でしょうが、私は、花咲く庭で絵を描いて遊ぶ孫たちに、色遣いの手ほどきなどしながら過ごすコラン爺さんを勝手に想像しています。

 アーサー・ラッカム「水の妖精ウンディーネ」1909初版


ジョルジュ・バルビア「カサノバシリーズ」1918
  
ジョルジュ・バルビア「ファッション誌『ガゼット・デュ・ボン・トン」1918
 

雑誌 La guirLand 1920   La guirLand 1919~1920 
 

La pafum de la Rose 1919~1920

 ファッションプレートを年代順に眺めていくと、衣装の変遷が年ごとに変化し、流行が大きなうねりとなっていくことがよくわかります。裾を引きずって歩くドレス。女性が日傘片手に外歩きを楽しむようになり、猟銃を手にする姿も社会に進出してくると、ひきずるスカートでは行動が制約されてしまいます。女性の足首が見えたら「はしたない」とヒンシュクを買った時代から、足首からふくらはぎまで見せるようになっていきます。女性解放運動とも連動した時代だったと思います。第1次大戦で女性の社会進出が進む時代とココ・シャネルのスーツがぴったり合ったように。
 20世紀1960年代、ひざもすねも堂々とお披露目し女性たちが生き生きと闊歩するようになるまで100年のファッションの歩み。

 アデル・アナイス・コラン・トゥードゥーズというイラスト画家を初めて知り、紙の上に表現されたファッションの歴史、楽しく観覧できました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「動物の文様 in 文化服飾博物館」

2025-03-08 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250309
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩歩いて探す春隣(3)動物の文様 in 文化服飾博物館

 オペラシティギャラリー観覧のあと、初台駅から服飾博物館前までバスがあると思ったのに、4時台5時台はバスの運行なし。徒歩で15分かかって歩きました。地図上では徒歩5~10分なんですけれど、なんせ足指骨折後の年寄りの足。

 2月14日、娘と文化服飾博物館の「あつまれ動物の模様」を観覧。
 動物模様は、原始時代から人々の身のまわりにとりいれられていました。ラスコー壁画などの見事な牛や鹿!。
 動物の力、霊力を身に備える、そのパワーで身を守るという概念は、衣服、装飾愚、家具など様々に表現されてきました。

 今回の観覧で、日本では模様として見ることが稀な山椒魚の模様とか、日本には生息していないアンテロープなど、世界の動物模様を見ることができました。装身具、衣装に動物文様がさまざまに取り入れられています。

文化服飾博物館の口上
 鳥や獣などの動物をモチーフとした模様を衣服に取り入れることは、さまざまな地域で見られます。それらの動物の模様からは、それぞれの民族がどのような動物を目にし、どのように暮らしを営んでいるのかが垣間見えます。また、空を自由に飛ぶ鳥、牙を持つ勇猛な獣など、人にはない優れた能力が備わる動物に畏敬の念や神秘性を感じ、自らの願いを託して模様に取り入れることもあります。さらに、人間の願望や創造力が現実を超越した空想の動物を作り出し、縁起の良い存在として服の上に表すこともあります。本展では、世界各地の衣服に表される動物の模様を集め、それらの持つ意味を探り、遠ざかりつつある人間と動物の本来あるべき関係を改めて考えます。

 2階展示室の最初に目に入るのは、中国皇帝の霊力を示す龍の文様。五本爪の龍は、皇帝だけが身に着けることができた衣服です。日本では水神信仰となり、祭の意匠には欠かせず、寺の天井画にも描かれてきました。世界にもそれぞれの地に生息する動物が文様に取り入れられ、布や衣服に表現されてきました。

モロッコの護符「山椒魚」20世紀中頃  掛布コートジボワール2011
                   アンテロ―プ サイチョウ 魚
       

イギリス ウェディングドレス「蝶」1902 娘から花嫁への変化の象徴として、毛虫から華麗な蝶へと変身する蝶が結婚の象徴に使われました。
          
 日本のめでたい模様として多い図象は、鶴と亀。長寿の象徴であり、さまざまな場面につかわれました。

鶴の打掛1926年       亀の袱紗19世紀前半
   

 2階ロビーに、「スカジャン」の展示と制作風景のビデオ録画が上映されていました。横須賀の米兵相手にジャンパーを売る際に、希望を取り入れてミシン刺繍をほどこしたのが始まり。ミシン刺繍は特殊な技術が必要で、横振りミシンで虎や龍、鷲などの模様を縫いこんでいきます。
 その第一人者の山上大輔さんが作業しているようすのビデオ、スカジャンの横振りミシン刺繍を初めて知りました。様々な色糸を組み合わせて、勇猛でいながらどこか愛嬌もある虎ですが、ネットで工房の値段、一着20~30万円を見て、スカジャン着用は無理とあきらめました。文化服飾博物館でスカジャンの横振りミシン刺繍を知ることができてよかったです。見るだけでも満足。

 

 文化服飾学園敷地内のカフェが、前にきたときとはことなり、コメダ珈琲になっていました。名古屋から進出してきて、東京でもすごい勢いで店舗をふやしていますが、今まで入ったことがなかった。娘と初めての名古屋カフェ体験。私はドリア、娘は味噌カツサンドを注文。娘はカツサンドを食べたあと、デニッシュパンの上にホイップクリームが乗っているシノワールというデザートを頼むつもりだったのですが、サンドイッチだけでおなかいっぱいになったので、次の機会に。
 次は500~700円のモーニングカフェ(ポタージュ含む)を頼むと、トースト、卵(orあんこ)、ジャム(orバター)がついてくる、というセットを頼んでみます。名古屋カフェ文化おそるべし。

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「ブラックジャック展 in そごう美術館」

2025-03-06 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250306
ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩2025歩いて探す春隣(1)ブラックジャック展 in そごう美術館

 2月12日、娘とそごう美術館でブラックジャック展を観覧。このところ、NHKアーカイブ放映で、手塚治虫の「わたしの自叙伝(1979)」を見たり、「新しい地図」の3人が出演するEテレの子供番組で稲垣吾郎が「絵本昔話」として手塚治虫の一生を紹介したり、私の日常にやたらに手塚治虫の名があふれ、テレビ再放送で「火の鳥」を見ています。
 手塚治虫、1928生まれ、1989年胃がんのため60歳で死去。最後の言葉は「仕事をさせてくれ」
 
手塚治虫仕事机


 昔、漫画雑誌でとびとびに読んだ「キリヒト讃歌」や「アドルフに告ぐ」など、全部は読んでいない作も読み返すべきですね。
 今回のブラックジャック展は、1973年の少年チャンピオン連載開始から50年になったのを記念しての展覧会。
 娘は小学生のとき、文庫サイズブラックジャックを全巻読んだことがあると言います。「学校の図書館だったか、学童クラブだか覚えていないけれど、全巻そろっていた」と。私は、全242話 のごく一部を読んだだけにすぎませんが、ストーリーの概略は知っています。

        

 そごう美術館、エントランスの中とプロローグの部屋は撮影OKですが、あとは撮影禁止。展示は第1話から順に並ぶのではなく、テーマ別に「動物や宇宙人など人間以外の患者」とか「手塚作品のキャラクターが患者になるシリーズ」などをひとつのコーナーにしています。

 展示は、原画が2ページ分、原画の上下にパネルでストーリーが紹介される、という構成で、242話のうち200話が紹介されていました。残りの42話は、時代が変わったので、コンプラ的に取り上げにくいストーリーだったのかな。手塚漫画の黒人描写などに類型的差別的な表現があることは批判されていますが、手塚自身は人間のみならず生きとし生けるものひいては宇宙人すらも同じ心で分かり合える存在として描いてきたこと、展示された500点の資料からも受け止めることができました。


そごう美術館の口上
 世紀前の1973年に登場したマンガ『ブラック・ジャック』は、現在第一線で活躍する医療従事者の多くに影響を与えたといわれ、作品に込められたテーマやメッセージは、今なお多くの人々に深い感銘を与えています。
 本展では、500点以上の原稿や200以上のエピソードなどから手塚治虫の情熱と執念を大解剖。『ブラック・ジャック』を深くまで知る人、初めて知る世代など、すべての人々に向けて、『ブラック・ジャック』の魅力を余すところなくお楽しみいただける『ブラック・ジャック』過去最大規模の展覧会です。


 私と娘の大誤算。何度も訪れているそごう美術館のひろさからみて、一回り観覧するのに午後8時閉店の2時間前に入場すれば会場一巡できるだろうとふんでだのですが、なにせ手塚治虫の生原稿や資料が500点もぎっしり並んでいるのです。手塚プロダクションでは、アシスタントたちの線の描き方などが気に入らないと手塚自身が全部ひとりでやり直した、という話は漫画界にうとい私でも知っていましたから、一枚一枚の生原稿、あだやおろそかには見ることができません。手書きの文字の上に活字をはりつけた吹きだしの部分でも、消し残しの手書き文字がよめるところは、ああ、これが手塚の文字なのかなどと感慨にふけりながらすすんでいったので、最後の一室は時間切れ。係員に「出口のシャッターを閉めますからお急ぎください」と追い立てられながら駆け足になりました。娘と「3時間とっておくべきだったね」と悔やみました。


 第1室 ブラックジャック(BJ)とキャストたち
 第2室 BJ曼荼羅  
 第3室 BJ蘇生
 

 第2室には、手塚治虫の医師免許状や医学専門校時代の医学ノートが展示されていました。確かな医学知識に裏打ちされてブラックなど医療物が執筆されたこと、医学生のころのノートの緻密な図などを見てもわかりました。
 「陽だまりの樹」で描かれた手塚治虫の曽祖父手塚良仙の肖像画など、貴重な資料を見ることができました。

 漫画ファン、手塚ファンなら朝から晩までひたっていたいお宝を目の前にしていながら、最後は駆け足で出なければならなくなったのは無念残念。

 第1作目、BJ登場のシーンも原画が展示されています。

 第2室には、手塚の娘るみ子と息子真のインタビュー映像もあり、虫プロ倒産後もおおらかな母のもとで、それほど不幸な思いをせずに育ったと語っていました。
 手塚治虫は勤労動員で工場労働に従事した世代ですが、大阪で空襲に遭い、多くの友を失いました。黒焦げの死体の中で生き延び、戦争を憎み平和を愛する姿勢を60歳の一期まで持ち続けました。ブラックジャックも、生き物全部の命を尊ぶ心があふれていて、全巻読んでいない私も、全部読もうと思いました。


 死の床で「仕事をさせろ。アイデアは売るほどあるんだ」と言っていたという手塚。60歳での死は、ほんとうに残念です。漫画の神様が神様と呼ばれる理由もよくわかりました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「パソコンスマホシルバー講習会」

2025-03-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250304
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記春よ来い(2)パソコンスマホシルバー講習会

 区の高齢者スマホ講座に申し込みをして、住区センターで「スマホ写真をパソコンに取り込む方法」を習いました。
 インターネットで調べて、自分でつないでみたのですが、どうしてもうまくいかず、ちゃんと習おうと思ってシルバーセンターの講習会に応募したのです。午前中2時間ずつ2日間の講習です。

 初日、2本持って行ったUSBケーブルのうち、サブ講師がこちらでしょう、というほうのケーブルをつないだのですが、スマホの写真はパソコンに反映されません。サムネイルの小さな写真は出ましたが、肝心の「スマホ写真をパソコンUSBにとりこむ」ということは2時間かかってもできませんでした。

 講習の帰りに駅前のドコモに立ち寄りました。昨年末にスマホ機種をとりかえたのですが、カメラの使い方などは「あとの使用法は有料のスマホ講習会に申し込みをしてください」ということでおわり。有料でもいいから教わりたいと立ち寄ったのです。しかし、当日はもう予約いっぱいでだめ。それでも食い下がって、このスマホカメラの何が悪いのかと尋ねたら、その教室のパソコンが古くて、スマホと同期しないのでしょう、と、パソコンのせいにして終わり。

 2日目に「パソコンと同期していないとドコモの人に言われた」と訴え、自分のケーブルではなく、2日目欠席した人の分のケーブルを借りることにしました。1日目は自前のケーブルのうち、サブ講師の先生が「こちらでしょう」というケーブルを使ったのですが、借り受けたケーブルでつなぐと何事もなくつながりました。最初から借りればよかったのです。ケーブルにはデータ転送用と充電用がある。私が持っていったケーブルは、2本とも充電用でした。

 写真が取り込めたので、講師の説明に従って、画像加工を学んでいきました。背景を消す方法、色味や明るさを変える方法など。
 最後に、取り込んだ写真の中から好きなものを選んでミニアルバムを作成しました。先生からの注意。「パソコンに取り込むのは20枚くらいにしてください、最後に保存するとき、枚数が多いと時間がかかってしまいます」
 私は取り込みを途中で止める方法を知らず、800枚くらい一度に取り込んでしまいました。

 アルバム作業を終えて、USBに保存して皆は終了しました。私だけそれからえんえん保存に時間がかかり、午後の講習会が始まる直前になるまで教室に残るしまつ。なんとか午後講習の前に退散しました。

 画像加工ができるようになったけれど、数日後、家で教わったことを復習してみたのですが、もうわすれていて、「不必要部分の消去」をなんとかテキスト読み返してやってみました。


 数年前に撮影した「レストランの暖炉前」の写真。カーディガンがふわっと広がるデザインで、腰回りがやけに太く見えるので気にいらなかったのですが、カーディガン裾周りを少し減らして、まあそれなりに。上半身もともと太いのをほっそりみせる加工方法は、まだ習っていない。たぶん、もとの太さをほっそりさせる加工もあると思います。今のスマホでは、目をぱっちりにしたりさまざまな加工もお手のものとか。


 区の係員が「同じ講座を年に何回か実施するので、何度でも受講してください」と、最後のあいさつをなさっていました。何度か同じことを習えば、ひとりでもいろいろとできるようになるかも。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「霧の中 in 椿山荘」

2025-03-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250302
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記春よこい(3)霧の中 in 椿山荘

 2月7日の毎日芸術賞授賞式を観覧した後、娘が「椿山荘の雲海」を見たいというので、お庭散歩。
 私は、授賞式前に開場までの時間を利用して三重塔を見ていたのですが、娘は「重要文化財より雲海」というので、ミスト発生まであと5分という時間、庭をめぐりながら待ちました。ミストは30分おきに発生します。


 結婚式場前の池のなかに、ミストの噴出口が並んでいます。時間になるとモクモクとミストが噴き出してきて、池の面は一面、雲海の景色になる。幻想的な雰囲気になり、娘と私は交代で「雲海と私」のスナップ撮影会。雲海の中の水車、雲海に浮かぶ三重塔など、フォトスポットはあちこちにあったのですが、雲海三重塔には行きつけませんでした。ミスト噴出の時間は3分間ほどで、ミスト出現から5分後にはまた普段の庭園に戻ったのですが、最後の数十秒は、池から溢れて流れるミストに包まれて、ホワイトアウト状態。あっという間にホワイトアウトは終わりましたが、山中などでまったく周囲が見えなくなる状態におかれたら、さぞ恐ろしかろうと理解できました。数十秒のホワイトアウトは、楽しかったです。


 椿山荘ディナーを食べるのにはふところがさみしく、護国寺までバスに乗り、護国寺ジョナサンで晩御飯を食べて帰りました。帰りの地下鉄、座りたいので、娘の座った車両の隣まで移動したら、運よく席が空いていて座れました。うとうととホワイトアウト。娘と別々の車両になったら、見事に下車駅をのりすごし、次の駅まで睡眠タイム。いつものことだけど。
 娘が「起きてください」と電話をくれました。娘は、下車駅で「母が降りてこないので少し待っていたけれど、電車が発車してしまったから、そのまま乗り換え電車に行った。一人で座っているときに寝ちゃだめでしょ」と、叱られました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「毎日芸術賞授賞式 in 椿山荘」

2025-03-01 00:00:01 | エッセイ、コラム

 
20250302
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記春よこい(1)毎日芸術賞授賞式 in 椿山荘

 2月7日に目白椿山荘へ出かけました。第66回(2024年度)毎日芸術賞の受賞式を観覧。今回の毎日芸術賞授賞式、毎度のことながら、娘の懸賞応募当選のイベントです。娘の懸賞応募マイブームは衰えず続いています。

 ホテル椿山荘は、娘が「ホテルのケーキマイブーム」だったころ利用したことがありますが、娘は近年訪れておらず「20年ぶりくらいかも」。私は永青文庫観覧のおりに、神田川側の椿山荘出入り口冠木門から庭を通り抜けて正面玄関へ、という私の「秘密の散歩コース」を楽しんできました。しかしコロナ以後神田川沿いの出入り口が封鎖されてしまい、通り抜けができなくなってしまいました。よって、私にも久しぶりの椿山荘です。
 椿山荘は明治の元勲山縣有朋の自邸でした。庭も風情あり、結婚式の写真に映えます。

 毎日芸術賞2024年度の受賞者。市村正親(俳優)ミュージカル「スウィーニー・トッド」「モーツァルト!」での演技。奥泉光(作家)小説「虚史のリズム」(集英社)▽慶徳紀子(書家)「『間』慶徳紀子書展」(東京・セイコーハウスホール)▽小島ゆかり(歌人)歌集「はるかなる虹」(短歌研究社)▽渡辺順生(古楽鍵盤楽器奏者)アルバム「フローベルガー&ルイ・クープラン:チェンバロ精華集」、J.S.バッハ:トッカータ全7曲のチェンバロ演奏会(東京・今井館聖書講堂)
特別賞:野沢雅子(声優)テレビアニメ「ドラゴンボールDAIMA」(フジテレビ系)での主人公・孫悟空の声など長年の功績
ユニクロ賞(40歳未満を対象):山中瑶子(映画監督)映画「ナミビアの砂漠」

 古楽器奏者渡辺順生三書家の慶徳紀子さんのお名前は知りませんでしたが、市村正親さんや奥泉光さん小島ゆかりさん野沢雅子さんは、その長年の活躍でお名前に親しんできました。

 山中瑤子さん。『ナミビアの砂漠』は、2024年9月6日に公開された日本映画。第77回カンヌ国際映画祭の監督週間で、国際映画批評家連盟賞を27歳で受賞しました。本作が本格的な長編第1作。主演は河合優実。河合優実も好きですし、若い女性の活躍、うれしいです。授賞者写真のいちばん右端。

 受賞者のうち市村正親さんは、2月7日は日生劇場の公演中ということで、ビデオ出演。代理でホリプロ社長が出席していました。(受賞者写真の一番左端)
 ホリプロ社長の隣の受賞者が、文学部門の奥泉光ん。『虚史のリズム』(集英社)は、原稿用紙2300枚、本も1000ページ越えの大作。自作を歴史小説であり恋愛小説であり、ミステリーでもある、と紹介し、選考委員の先生たち、読むのにたいへんな思いをさせてしまいました、とスピーチ。
 野沢雅子は、現在88歳。183歳まで声優を続けますとスピーチしました。とても元気いきいきしていて、さすがドラゴンボールの悟空。

 受賞者onステージの野澤さんと山中さん。山中さんのピンヒール!

 山中瑤子さん。自主制作映画「あみこ」で注目され、商業映画第一作でカンヌ出品。国際映画批評家連盟賞を史上最年少の女性として受賞し、一気に監督ストリート上昇です。学生が自主映画を撮るのは五万といますが、商業映画で成功するは野球少年からメジャーリーガーになるのと同じ比率。いやもっと少ないかも。野球は実力があれば甲子園にいくこともありますが、映画はなんせ金が先立つ。 それでも、2024年9月の公開から1か月で興行収入1億円を達成し、受賞スピーチで山中さんは「ずっとアルバイト生活でしたが、ようやく監督として生活できるめどがつきました」と報告していました。スピーチの中で、ユニクロ賞について「ユニクロの新採用初任月給が30万円と聞いてびっくり」という感想を述べていました。
 アマチュア監督時代のアルバイトでは時給千円、一日8時間働いても1週間で4万円。一か月16万程度の収入です。今再放送を見ている「半分青い」の中で、主人公スズメは「無収入の助監督」と結婚して結局離婚するはめになりますが、まあ、だいたいそんなもん。

 受賞スピーチに立った山中さんは、モデルも女優もできそうなすらりとしたスタイルのよい、かわいらしい方で、今どき「美人〇〇」なんていうとすぐにコンプラアウトですが、コンプラ以前なら即座に「美人監督」なんぞと冠がついたところです。コンプライアンス、大事です。フジのさわぎをみても、あまりにもコンプラ時代に合わせなかった企業に口あんぐり。75婆はイケメン好き。女性もきれいな人にはきれい!って思う。衣装は、もしかしてナミビアの砂漠の中の河合優実みたいな、だぶだぶTシャツにホットパンツで登壇したらユニークかな、なんて想像していましたが、ゆったりめの黒パンツに細身の上着で、とてもシックでした。授賞式に合わせて奮発したんだろうな。あ、もしかしたらユニクロ製品?ユニクロからの副賞は、受賞者全員にカシミアセーターでした。たぶん、ユニクロ製品の中で一番高いやつ。


 授賞式なんていうものに参加するのははじめてでしたが、よい経験になりました。

 タカ氏がおいていった毎日新聞2月7日に、山中瑤子のインタビュー記事が出ていました。インタビュアーは柳井康治(映画プロデューサー ファーストリテイリング取締役 創業者柳井正の息子)。
 柳井は、自身がプロデュースしたパーフェクトデイズの撮影期間が16日間であったことと、ナミビアの砂漠撮影期間が15日だったことを比べ、撮影のリズムについて話し合っていました。柳井は、ナミビアの中でユニクロの紙袋が画面に出たこと、主人公カナの最初のカレがユニクロエアリズムベージュを着て登場しことに言及していました。さすが、自社製品には鋭い。私はまったく気づきませんでした。うん、ユニクロ賞をとったこと、たぶん、次の山中作品の資金は心配ないんじゃないかな。オファーはたくさんきているけれど、次は好きなように撮りたいという若い才能に期待します。



<つづく>
コメント (2)
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