春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「2020年11月目次」

2020-11-29 00:00:01 | エッセイ、コラム


20201129
ぽかぽか春庭2020年11月目次

1101 ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩秋(1)大原美術館
1103 2020アート散歩秋(2)ランス美術館展 in 島根県立美術館
1105 2020アート散歩秋(3)松江興雲閣と倉敷の建物
1107 2020アート散歩秋(4)日本美術の裏の裏 in サントリー美術館

1108 ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020秋映画虹のかなたに(1)リメイクとパスティーシュ・赤毛のアン
1110 虹のかなたに(2)マイライフストーリー私の若草物語
1112 虹のかなたに(3)アストリッド
1114 虹のかなたに(4)ジュディ虹の彼方に
1115 虹のかなたに(5)ジョジョ・ラビット
1117 虹のかなたに(6)イマジナリーフレンド
1119 虹のかなたに(7)はちどり

1121 ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>2020二十重日記秋色の空(1)スカイツリー
1122 2020二十重日記秋色の空(2)横須賀ストーリー
1124 2020二十重日記秋色の空(3)大相撲11場所観覧
1126 2020二十重日記秋色の空(4)お台場未来館と大江戸温泉
1128 2020二十重日記秋色の空(5)しながわ水族館
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「しながわ水族館」

2020-11-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201128
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>2020二十重日記秋色の空(3)しながわ水族館

 しながわ水族館にでかけたのは25年も前のことになります。夫、息子、娘と一家そろってのおでかけは珍しいことでした。
 水族館は娘息子と3人でサンシャイン水族館、葛西臨海水族園にはよくでかけたのですが、子ども達が大きくなってからは、私一人で都民の日などの無料日に葛西臨海水族園に出かけたくらいで、いっしょのお出かけはなくなりました。

 にわかに思い立って、10月31日しながわ水族館に娘とふたりででかけてきました。久しぶりの水族館。大井町からバスに乗って行く、という行き方は覚えていました。

 

 娘のお目当てはアシカショウやイルカショウ。イルカたちは、ジャンプしたくてたまらないらしく、アシカがショウをしている最中にもプールで泳いだりジャンプしたり自由にふるまっていて、「おいらの方が芸がたっしゃなんだよ」と、アシカに見せつけているようでした。もちろん、アザカも芸達者でしたけれど。

 ペンギンの餌やり
 

 イワシの回遊をみれば、いつものように「美味そー」


 くらげのフワフワをみれば、ぼうっと癒やされる


 品川の名物は泳ぎ回る魚を下から眺めるトンネル水槽


 久しぶりの水族館。家族連れもデートカップルも水族館を楽しんでいましたが、老母と老嬢ペアも楽しく一日をすごしました。

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「お台場未来館と大江戸温泉」

2020-11-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201126
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典<2020二十重日記秋色の空(4)お台場未来館と大江戸温泉

 11月7日、お台場に出かけました。久しぶりのお台場です。ゆりかもめに乗ってお台場未来館へ。日時指定が必要だったため1週間前に予約しました。7日は未来館無料入館日です。予約したあと、ぐるっとパスを買ったので未来館もパスで入館できるところでしたから、無料でない日を選んだ方がよかったのですが。
 ゆりかもめは、一本見送って先頭に座る。先頭からみる景色が大好きな71歳。


 日時指定で入館人数は制限されているので、無料日といっても、それほどの混み混みではなく、常設展を興味のある部分だけみてまわりました。


 私は館内のミ二講座「昆虫食」のお話を聞きました。子供の頃いなごの佃煮を食べたことのある私は、昆虫食がもっと普及すればよいと思っています。中国やミャンマーに赴任していた時、市場で昆虫おかずを買う機会がありましたけれど、日本では「長野県の蜂の子食」のほかはあまり普及しないのが残念。世界の人口爆発と食糧不足の解決策は昆虫食普及だと思っています。

 今回の未来館で一番楽しめたのは、二足歩行ロボットアシモのパフォーマンスでした。片足けんけんをやってみせたり、サッカーのキックを決めたり、昔と比べて性能が多いに向上していることがわかりました。ロボットが家庭の一員となって共に暮らす日も近いのかも。




 お台場のミナトリエ(東京みなと館)という施設に初めて入り、展望室からお台場の景色を楽しみました。こんな施設があるのを初めて知りました。


 さて、今回お台場に出かけたのは、大江戸温泉に行くため。


 東京都民は半額になるキャンペーンが実施中というのを娘が知り、はじめて大江戸温泉に行ってみようということになりました。温泉といえば群馬の山の中の温泉で育った私、海が見える温泉も好きなのですが、お台場の温泉入浴料3500円は高いと感じて、いったことがなかった。二人分で3500円ならまあまあかと。でも、あとで若い同僚に聞いたら「友達からもらう社員福利厚生用」のチケットだと一人400円なんだって。それ聞いちゃうと、半額もあまりお得感はなくなったけど、温泉は露天風呂も楽しみ、館内の店では天丼うどんセットなど食べて帰りました。



<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか「大相撲11月場所観覧」

2020-11-24 00:00:01 | エッセイ、コラム

2020年11月場所両国国技館館内三段目の取り組み中

20201117
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>2020二十重日記秋色の空(3)大相撲11場所観覧

 大相撲2020年11月場所は大関貴景勝の優勝で終了しました。今場所は娘と私にとって、特別な場所となりました。というのも、私は3度目ですが、娘がはじめて両国国技館で大相撲観戦できたからです。
 テレビの大相撲はそのときによって見たり見なかったり、好きな力士の取り組み以外はそれほど熱心に全取り組みを見ると言うことも無かった娘でしたが、今年11月場所に「観覧申し込み」をしたところ抽選に当たって、思いがけずマス席での観覧ができました。

 いつもの東京両国での大相撲マス席は、年間予約をしているところがほとんどだそうで、マス席が買えるとしても、1階のうしろの方しか席があいていない、と聞いていました。しかし、今年はコロナ自粛のため、7月の名古屋場所と11月の福岡場所は地方場所ではなく、東京場所となりました。そのため、いつもなら買うのも難しいマス席が抽選とはいえ一般の人も買えることになりました。11月11日水曜日4日目の取り組み。白鳳鶴竜両横綱も大関朝の山も休場という残念な報があり、「横綱土俵入りを見たかったのに」と、娘はいいますが、何はともあれ、娘にとっては初めての両国国技館での大相撲生観戦です。

 国技館櫓から太鼓が打ち鳴らされている時に入館


 私のマス席での観戦は、2004年に仕事帰りににわかに思い立っての両国での「ひとりマス席」での観覧。朝青龍がひとり横綱でかんばっていました。
 2度目はやはり仕事帰り2013年の1月場所11日目に「4人マス席ばら売り」があったので、4時すぎから観覧。このときは4人分のマス席に一人で座っての観覧。
 2013年の観覧はこちら
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/5fc78a6cb3786e508815ff8158674d39

 観覧申し込み日の前日にならないと、どの席に座れるのかはわからない、ということだったけれど、国技館に入ってみると東の前から3列目のマス席、今まででいちばん土俵に近いマスです。
 4人マス席に2人分の座布団が用意されていました。

 声を出しての応援は控えるように、という案内なので、力士タオルを振って応援しようと、娘はご贔屓の遠藤のタオルを購入。しかし、学生相撲のころから応援してきた宇良は再十両なのでタオルが間に合わなかったらしく、売っていませんでした。

 三段目の終わり数番からの観戦。幕下からじっくりみることができました。テレビ観戦と違い、土俵の上の力士の「ウォー」という声も行司の声も迫力満点で聞こえるし、バシッとぶつかり合う音がすごい。テレビではそれほど気にならない行司の衣装の違いなども楽しめます。

 十両土俵入りも宇良がはっきり見える席でよかった。


 宇良の化粧まわしは、難病を患っているファンの女性からの手作りのプレゼントだと、いうことでした。宇良の好きなピンクで「技」という字が入っています。

 取り組み前の集中。この日、宇良は勝ちました。


 十両の取り組みは、幕下よりずっと力が入ります。やはり関取と幕下では、格が違う感じ。

 幕内土俵入り


 小柄力士が大きな人を倒すのが大好きなので、幕内のご贔屓のひとりは炎鵬。



 炎鵬は今場所は残念ながら負け越し。

 大相撲11月場所4日目、午後1時半から6時の打ち出しまで、たっぷり楽しむことが出来ました。


<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「横須賀ストーリー」

2020-11-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201121
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>2020二十重日記秋色の空(2)横須賀ストーリー

 土曜日日帰りの行楽として娘が計画したのは「横須賀散歩」。
 私が知っているのは「♪これっきりこれっきりこれっきり、これっきりですかあ~」という山口百恵の出身地であること、軍事にかかわり深い港町であること、横須賀浦賀沖にペリーが来たことくらい。
 東京から日帰り圏内であるのに、鎌倉や葉山の神奈川県立美術館などは何度も訪れているのに、三浦半島の反対側の横須賀は訪問したことがありませんでした。

 娘が横須賀を訪れたくなったのは、横須賀美術館に行くため。
 上田薫展に展示されているという「超リアリズム絵画」の代表作「割れた卵殻から落ちる黄身と白身」の「写真以上のリアリズム」にびっくりしたからです。上田薫展の報告はのちほど(埼玉県立近代美術館で2度目の上田薫展を観覧)

 京急が「三浦半島満喫切符」「横須賀満喫切符」など、電車+ごはん+行楽(施設入場料またはおみやげ)がセットになっている券を売り出しています。

 朝8時半に家を出て、横浜行き特急、乗り継いだ京急も急行だったので10時には馬堀海岸駅につき10時10分にはバス停に着きました。ところが馬堀海岸から三浦海岸行きのバスは5分前に出たという時刻表。次のバスは10時半。それじゃ待っているのもなんだから、目の前にあるスーパーで何か買おうと店へ。10時半前に戻っても、延々待ち10時50分に到着。これじゃ、前のバスも20分くらい遅れたのかも、スーパーへ行かないで待っていればよかったと思ったのが、本日の失敗第1の巻。

 防衛大学校のキャンパスや寮がある街なので、通りを歩く大学校生の制服姿を見ることができたことが待ち時間の収穫でした。昔は士官学校の制服を着た姿が女性のあこがれのマトだった、というのもわかるカッコいい制服の防衛大学校生でした。

 バスは混みこみでしたが、なんとか座る席はありました。進行左側に座った娘の座席からは海が見えたというのですが、右側の私の席からは横須賀の住宅街、特に目につく建物もなし。

 美術館から見る横須賀の海


 11時過ぎ、横須賀市立美術館入館。娘1000円私シルバー券650円。「上田薫展」と常設展、別館の谷内六郎展を観覧できます。

美術館内


 最初にレストランのぞいて、「けっこう空席があるから、ランチ時もだいじょうぶそうだね」と思ったのが第2の失敗。
 常設展を見ている途中で「おなかすいたね」ということになりました。
 今日一日のうちなら何度も観覧自由というので、1時近くになってにレストランに行くと、ウエイティングボードには、ずらりと順番待ちの名前。わあ、失敗した、先に名前を書いてから観覧すべきだった、と思ってももう遅い。谷内六郎館を見てくることにしました。

 谷内六郎(1921-1981)は、長く週刊新潮の表紙絵を描いていた画家です。1956年から26年の間に1336枚の原画を描き、59歳で亡くなりました。

 1975年に横須賀市内にアトリエ構えて制作してきた縁で、遺族が横須賀市に作品を寄贈しました。遺族は「作品アドバイザー」として25年間年間22万円のアドバイザー料金を受け取ってきたのですが、2012年に市はアドバイザー料金の停止を決定したため、遺族は作品の返還を求めまた。裁判になりましたが、2013年に市側の「寄贈されたものは返還しない」という主張が勝訴。市の財政悪化のため、というのですが、市の予算を22万円けずってどんなメリットがあったのかわかりませんが、少なくとも著作権がある間は年間22万を支払ってもよかったんじゃないかしら。もしくは、遺族は寄贈ではなくて貸与にしておくほうがよかったかと。

 そんないきさつは知らないままでしたが、季節ごとに展示側が変わる谷内作品、毎週発行の週刊誌で見かけていたころは「特別大好き」とも思わなかったのですが、亡くなって40年たった今から見直すと、昭和の子供たちの姿が季節ごとに現れていて、ノスタルジーあふれ、かつ私にはなつかしい絵でした。

 谷内六郎館入り口



 コロナ感染予防に役だつ図柄「やつ手も手を洗っている」


 ランチの席を待っている間に谷内六郎展示館を見て帰っても、ボードに書かれた名前の減り具合はなかなか進みません。空いているテーブルがけっこうあるから大丈夫思ったのは、ソーシャルディスタンスとかで、利用していないテーブルがあったからでした。

 ランチにありついたのは3時近くになっていました。待ち時間、私は美術館前に広がる芝生に寝転がり、横須賀の海を眺めて過ごしたのですが、娘は「名前呼ばれたときにそばにいないと後回しにされるかもしれないので、心配だから」と、ずっと立って入り口近くに立って待っていたので、すっかり疲れてしまいました。
 でも、名前呼ばれたときにそばにいなかった人があとからやってきて、すぐに案内された例もあって、「立って待っていて疲れた」と。コロナ対策のためにウエイティングチェアを撤去中なんですって。だったら、整理券を渡すなどの工夫をすべきだと思いました。
 3時にレストランアクアにようやく入れました。ランチコース、待ちくたびれておなかぺこぺこ状態で食べたので、「空腹は最高の調味料」

 パスタランチ
前菜&サラダ、パスタ2種(娘と私)、デザート




 食べ終わって常設展をゆっくり回り、上田薫展が人が少なくなっていたのでもう一度見て、美術館をあとにしたのは5時。もう暗くなっていました。絵を見ている間に夕暮れの東京湾景を見逃してしまったのが第3の失敗。

 夕暮れの横須賀美術館


 美術館の向かい側にある「スパッソ」という油壷温泉から湯をひいているという温泉に入りました。
「東京湾夕景色」を見ながら露天風呂につかる、という予定だったのですが、もう海はまっくら。対岸に横浜の明かり東京のあかり千葉のあかりが並んでいるのをtながらお湯につかりました。
 岩盤浴は追加料金なしで入れました。25分たつと係員が「時間ですよ」と呼びにくる。娘は横浜プリンスホテルの岩盤浴や川口のスーパー銭湯の岩盤浴と比べて、ここが一番自分に合っているという感想。

 風呂上りは、お楽しみ晩御飯。ホテルのレストラン浜木綿で「海軍カレーセット」


 海軍カレーを賞味。

 21時過ぎにホテルを出て、22時半に帰宅。
 一日の日帰り行楽。「京急横須賀満喫ツアー切符」3200×2=6400円。美術館入場券1650円。美術館ランチ6000円。美術館図録代ほか5000円。海軍カレー追加のジュース650円。合計ふたりで14時間たっぷり楽しんで2万円ちょいの日帰り行楽でした。

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「スカイツリー」

2020-11-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201119
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>2020二十重日記秋色の空(1)スカイツリー

 9月30日、娘と初めて東京スカイツリーへいきました。スカイツリーが2012年に創業して以来8年目のことです。
毎年、今年こそはスカイツリーにも行ってみようと思ったのですが、入場料ひとり3500円、3人で行くとなるとちょっとした出費になります。とうとう8年間スカイツリーからの景色をみませんでした。

 2020年秋、9月中旬から10月4日までという期限の中「開業8周年記念入場料金半額イベント」がありました。ひとりのチケット1750円。ようやく「それなら行ってみようか」という気になりました。娘とふたりだけですから、ふたりで3500円。

 前日の予約でとれたのは30日午後3時の入場。スカイツリータウンの中でランチをとりました。ミッドタウンから見上げると、タワーの全体像はよくわかりませんが、体を低くして撮影してみました。文京区のシビックセンター展望室からも上野公園からもスカイツリーを見てきましたが、間近で見るとまた違う迫力があります。

 スカイツリータウンから見たスカイツリー


 スカイツリー建設の工程をまとめたドキュメンタリーを見たことがあります。狭い土地にどのように600mを越す高さのタワーを立てることができるか、設計の段階でも建設の作業でも、東京タワーともまた異なる苦労があったことがよくわかり、すごい技術だなあと思っていましたから、シースルーのエレベーターからタワーの鉄骨が見えると、設計した人作業した現場の人の苦労が思い出されて感慨もひとしおでした。

スカイツリータウンのゆるキャラ「ソラカラちゃん」と


 スカイツリーエントランスに行ってみると、当日入場者の長い列。娘は「平日だから予約しなくても入れるんじゃないの」と言っていたのですが、私は「半額にひかれてくる人がどれくらい増えるかわからないから、ネットで予約しておいて」と頼んだのです。名前やメールの登録が必要で「かなり面倒」とぶつくさ言いながらも娘がスマホ予約してくれたので、当日入場の列を横目に3時入場回にすいすいと入場。娘も「予約しておいてよかったあ。ファストパスの気分だね」とエレベーターに乗り込みました。エレベーター、早!高速です。
 第1展望台に到着。

 スカイツリーの影が眼下に見えるところで


 ぐるりと一周する間に、写真撮影スポットで記念写真撮影。台紙のプリントのほか、データは娘のスマホに送られてくるというので、娘から私にも転送してもらいました。
 お天気は絶好のスカイツリー晴れ。残念ながら富士山は見えませんでしたが、眼下に広がる東京を見渡すことができました。

 アサヒビールのシンボルが見えた

 隅田川の北方向


 1階したのエリアでは足元が透けているシースルー床があります。絶対安全な強化ガラスだとわかっているのに、私は足をガラスの上にのせることができず、娘に笑われました。高いところは平気なのに、足元が透けているとこわいのです。

 夕暮れてきたので、最上階までエレベーターで昇りました。展望回廊。スカイツリーからの夕焼けを見ようとすでに大勢の人が集まっています。「こりゃ完全に密だなあ」と娘と話しましたが、ええい、400mの高さだとコロナは上ってこられないと思うことにして、密のひとりになって、窓辺を一周しました。
 娘が台北の101階建てのビルに上ったとき、天気が悪くて、台北の景色はまったく見えなかったとのことで、娘にとっては横浜のランドマーク以来の高さからの眺め。すごいすごいと喜んでいました。

 夕暮れの景色、そして中秋の名月の前日「14日の月」もくっきりと見えて、ほんとうによい「スカイツリー日和」になりました。

 夕食はスカイツリータウンの中の「オザミ」へ。池袋店が閉店になってスカイツリータウンへ移転してしまって以来、オザミで食べたことがなかった。
 予約がしてなかったので、最初は窓際のテーブルじゃなかったのですが、食事が終わってデザートになったころ、窓際席が空いたので、店員さんが「こちらへどうぞ」と、移動を勧めてくれました。ツリーに近すぎて上までは見えにくい長めですが、間近からのツリーをたっぷり楽しむことができました。ライトアップの色が変わる様子、近すぎてちょっとわかりにくくはあったのですが、「あ、今レインボーになったね」など、色変わりも面白かったです。
 スカイツリータウンの中のレストランオザミから見るスカイツリー


 東京住民なのに、これまで訪れるチャンスがなかったスカイツリー。10月4日までの「半額期間」を利用できて入場料分をオザミのディナーに回せたので、コースを食べることができました。

 オザミのディナーコース
アミューズとパン


前菜とコンソメのジェリー

ポタージュとメイン

デザート


スカイツリーの模型と




<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「はちどり」

2020-11-19 00:00:01 | エッセイ、コラム


20201117
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020虹のかなたに(6)はちどり

 2019年公開の韓国映画。第69回ベルリン国際映画祭インターナショナル審査員賞グランプリ
(ジェネレーション14プラス部門)を受賞した、キム・ボラ監督の長編映画監督デビュー作です。

パク・ジフ(朝鮮語版):ウニ
キム・セビョク(朝鮮語版):ヨンジ
チョン・インギ(朝鮮語版):ウニの父 
イ・スンヨン(朝鮮語版):ウニの母
パク・スヨン:スヒ…ウニの姉 
ソン・サンヨン:デフン…ウニの兄
パク・ソユン:ジスク…ウニの親友

 アメリカでは初の女性副大統領が誕生しました。しかし、世界では、まだまだ「ガラスの天井」から頭を出すことなく仕事を続けている女性も多いし、女性が教育を受ける権利を得られないままの地域もあるのです。

 韓国の1990年代も、多くの女性は男性優位社会に抑圧を感じながら暮らしていました。1994年に14歳だった少女。キム・ボラ監督の少女時代の追憶を基本に据え、ゆれる思春期を描き出しています。

1994年、中学2年生のウニは学校でも周囲になじめず、小さな餅屋を営む家庭にも自分の居場所はないと感じています。父は稼ぎの少ない家業のうっぷんを家父長の支配力を振るうことで晴らしているし、兄は親の期待にそう進学先には行けそうにないイライラを妹を殴ることでストレス解消をする。姉は学校の勉強より恋愛に夢中。ウニはボーイフレさンドとキスしてみたり下の、学年の女子生徒に好きだと告白されたり、ささやかな日常のなかで悩みながら暮らしています。

ウニの気持ちを理解しようとしてくれたのはただ一人、漢学塾の先生ヨンジだけ。ヨンジは名門ソウル大学を休学中。当時の韓国社会の通念上女性には許されていない喫煙も堂々としています。
ウニはヨンジに心を寄せますが、ヨンジには思いもよらぬ運命が待っていました。

町の人々が「死なないと思っていた」という金日成が死去し、落ちることはないと思っていた橋が崩落する。騒然とした社会の中、揺れる繊細な思いを抱えて、ウニは「殴られたら声をあげて」というヨンジの言葉をかみしめます。

1994年、ポケベルで練習できるようにはなっていたけれど、まだ一般社会にケータイは普及していない。
私は1994年にようやく大学講師の職を得て中国に単身赴任した年でした。女性が働く環境はまだまだ整えられてはいませんでしたが、ともかくも荒波の中家族を守るために必死だった。ウニも自分の場所は自分で作り上げるために歩きだすでしょう

ウニを演じたパクジフは監督作品の前作~「リコーダーのテスト」でも主演。このまま成長して監督の自伝的作品を演じてほしい。韓国の現代史を描くことと重なりながら少女の成長を見たいです。

<おわり>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「イマジナリーフレンド」

2020-11-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201201
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>虹のかなたにが(6)イマジナリーフレンド

 「虹のかなたに」シリーズのはじめ、「赤毛のアン」が「自分育て」をするのに必要だったのが、「想像上の友達イマジナリーフレンド」だということを述べました。アンは、タンスのガラスに映る自分の姿に「ケイティ」と名前をつけ、悩みを打ち明けたり相談したり「友達」として話し相手にしていたのでした。
 戦時下ドイツの少年『ジョジョ』の「想像上の友達」は、英雄ヒットラーでした。

 この児童心理学、発達心理学で論じられている「想像上の友達イマジナリーフレンド」が一般にもよく知られるようになったのは、最近のことです。
 子供にとっては重要な「心の友」。
 目に見える形で現れることも、完全に空想の中だけのこともあるけれど、多くの場合、他の人には見えないその子供だけの存在です。他の人には見えず理解もされていない存在ですが、子供の心にとっては、目に見える現実以上に大切な存在であるのです。

 春庭の場合、「心の友」は、ペットの「ころ」でした。60年前の女の子にとって、目に見える「ころ」が犬であることはわかっていましたが、大事な友でした。
 我が家は町内の他地区とは高い土手の上の国鉄の線路で区切られていた「畑の中の一軒家」でした。私は、近所の子供たちが集団遊びをしている区域には行きにくい環境で育ちました。姉や妹とのままごとのほかは、友達少ない環境で、本を読むか、ころを相手の空想遊びがなにより大切な時間でした。
 65年前の幼稚園でイマジナリーフレンドを相手に一人遊びをしていると「変わった子」とみなされましたから、イマジナリーフレンドの存在が一般に知られるようになった現代は、子供の心にとっては、生きやすくなった時代。

 11月14日土曜日に放映されたフジテレビのドラマ「世にも奇妙な物語」にも、『イマジナリーフレンド』が登場しました。広瀬すず主演。以下ネタバレを含む『イマジナリーフレンド』の紹介です。
 子供のころ、想像上の友達がピンクのウサギぬいぐるみの姿でサキの前に現れていました。サキはうさぎを「ユキ」と呼び、つらいこともうれしいことも心の中を話し、だれより親しい友でした。意識したつもりはないけれど、深い友達付き合いをあえて避けてきたのも、ユキがいれば特に友達は必要なかったからです。大人になるとユキはあらわれなくなっていました。しかし見知らぬ男に付け回される不安からか、ユキが再びサキの前に現れました。

 しかし、大学生ケンゴから交際を申し込まれたあたりから、ユキとの関係がぎくしゃくしてきました。ケンゴへの嫉妬からか、ユキは部屋中をめちゃくちゃにするように暴れるのです。サキの母親も何事かと驚きますが母親ユリエは飲み代が無くなるとサキに無心するような、ちょっと頼りないシングルマザーです。

 ケンゴとの交際を迷っていると、クラスメートのカオリがケンゴについて情報を伝えてくれました。「サキ、最近へんな男にあとをつけられたりしなかった?そして男に絡まれてこまっていると、ケンゴが現れて助けてもらったことあったでしょ」。サキがその通りだと答えると「それ、ケンゴが新しい女の子落とすときの手口だよ。女の子を助けて自分の彼女にすると、暴力をふるったりして女性を服従させる関係をもとうとする。私、被害にあった人たち何人も知っている」
 サキがケンゴに交際を断ると、予想通りケンゴは豹変して暴力的な面をあらわにしました。ケンゴの暴力から救ったのはピンクのうさぎでした。



 サキの母親はうさぎのぬいぐるみの名が「ユキ」であると聞くと、驚きます。サキが幼いころに死んでしまった姉娘の名が「ユキ」だったのです。
 働く母だった原田友里恵は、ユキが熱を出した夜、疲れ果てていたため「明日病院へ行くから」と、寝てしまいました。翌朝ユキはつめたくなっていました。その罪悪感から、家の中のユキの痕跡をなくし、サキが姉を思い出すことのないようにしたのです。しかしサキはの姉ユキの喪失をカバーするためにぬいぐるみのうさぎユキを心の友としてすごしてきたのでした。

 サキは大人の女性への第一歩を踏み出すために、ケンゴについて忠告してくれたカオルに寄り添うことにします。「人とかかわるのが苦手」だったサキは、人のかかわりの中へと踏み出す決意をしたのです。カオリはきっと良き「リアルフレンド」になれることでしょう。

 『世にも奇妙な物語』シリーズ、30年続いてきた人気番組です。タモリの司会も変わらず30年。我が家はホラーが嫌いなのであまり見たことがなかったのですが、今回は、ちょうどイマジナリーフレンドについて考えていたところだったので、見ました。広瀬すず、かわいかった。

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ジョジョ・ラビット」

2020-11-15 00:00:01 | エッセイ、コラム


20201128
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020虹のかなたに(4)ジョジョ・ラビット

 少女の成長物語を追いかけてきた今回のシリーズですが、今回は少年の成長物語、壁のすきまにかくまわれているユダヤ人少女の成長物語でもあります。

 『ジョジョ・ラビット』を娘といっしょに見ることにしたのは、「戦争の時代をコメディタッチで描いた笑える映画」というふれこみがあったからです。戦争シーンは大嫌いな私と娘ですが、笑える映画ならいいかとみることにしたのです。

 第92回アカデミー賞では作品賞を含む6部門(作品、助演女優、脚色、編集、美術、衣装デザイン)にノミネートされ、うちアカデミー脚色賞を受賞。

監督・脚色:タイカ・ワイティティ

ヨハネス・"ジョジョ"・ベッツラー: ローマン・グリフィン・デイヴィス - 10歳の少年
エルサ・コール: トーマシン・マッケンジー - ユダヤ人の少女。
ロージー・ベッツラー: スカーレット・ヨハンソン- ジョジョの母親。
アドルフ・ヒトラー: タイカ・ワイティティ - ジョジョの空想上の友達。
クレンツェンドルフ大尉: サム・ロックウェル
フロイライン・ラーム: レベル・ウィルソン-ヒットラーユーゲントのキャプテン
フィンケル: アルフィー・アレン-キャプテンの部下
ヨーキー: アーチー・イェーツ-ジョジョの友達。

 ユーモアにあふれた描き方はよかったと思いますが、笑って済ませられなかったのも、描かれた時代が「敗色濃厚な戦争末期のドイツ」だから。以下ネタバレ含む紹介です。
 映画の最後では「ヒットラーは自殺した」ということも語られます。

 当時のドイツの子供たちがみなそうであったように、ヒットラーの信奉者であったジョジョ。映画の冒頭、ビートルズの歌にのせて、当時の記録フィルムがうつされます。集まった群衆がヒットラーの姿に熱狂し、ヒットラーの演説を聞いて心酔する姿が出ていました。まるでビートルズに世界中が熱狂したように、ヒットラーはスターでした。

 アドルフ・ヒットラーは、少年ジョジョの「心の友」。ジョジョは想像の中でヒットラーと親友になり、ヒットラーに励まされヒットラーを崇拝して暮らしています。
 ジョジョが「イタリア戦線に従軍している」と信じている不在の父親は、実はナチスに抵抗する勢力の一員であり、すでに殺されているのかもしれません。顔の傷が目立つのでいやだという息子に、母親ロージーは「目立つのは悪いことじゃないわ。わたしなんて美人すぎて、、、、」とジョジョをなぐさめる、ロージーは超美人。そりゃスカーレット・ヨハンソンが母親なら目立つことこの上なし。

 ジョジョがけがをしたのは、ヒットラーユーゲントの訓練に参加した結果。訓練でウサギを殺せと命じられ、逃げ出したために「臆病うさぎのジョジョ」と馬鹿にされてしまいました。想像のヒットラーに励まされて、使い方もよくわからないのに、手榴弾を投げて失敗し、顔に傷跡が残るけがをしてしまったのです。
 この「ヒットラーユーゲント」も、ゆるいボーイスカウトのように描かれていますが、もちろん本物のヒットラーユーゲントは日本の予科練なんか目じゃないほどの難しい試験をくぐり抜けた眉目秀麗な若者(金髪青い目のアーリア民族!)だったはずですが、そこはお笑いで。

 ジョジョがけがをする手榴弾投げも、一歩間違えれば死んでいたであろう訓練ミスですが、責任者キャプテンKは降格されただけ。ほんとうのヒットラーユーゲントなら、責任者は銃殺刑。
 この時期のドイツ少年がだれもあこがれたヒットラーユーゲント。日本の同じ年頃の少年なら予科練の「七つボタンは桜に錨」にあこがれていた。

 ヒットラーユーゲントキャンプ


 訓練を仕切るのは、キャプテンK(サム・ロックウェル)。戦傷で片目を失い戦線から「子供のお守り」に降格されたキャプテン、どうやらジョジョの母ロージーには頭があがらないらしい。
 ロージーは密かに「反ナチス」の運動を続けており、自宅の壁の隙間にユダヤの少女をかくまっています。亡くなったジョジョの姉によく似ている少女エルサを、ロージーはもうひとりの娘のように思っているのです。

 少女の両親はすでに収容所に送られおり、生きて帰ることはない。エルサも見つかれば収容所行き。ジョジョに見つかったエルサは「もし、私が見つかれば、あんたもあんたの母親もユダヤ協力者として殺される」とおどし、ジョジョは母にも少女を見たことを言えません。

 ジョジョはユダヤ人は頭に角を生やしている怪物で、子供を捕まえて食うと教えられており、その「ナチスの教え」を信じて、「ユダヤ人の真実の姿」というレポートを書き進めています。子供を洗脳するのは簡単だけれど恐ろしいなあと感じます。
 ジョジョは少女エルサと話す時間が増えるにつれ、教えられたユダヤ人とエルサはまったく違っており、自分たちと同じだということを知っていきます。ジョジョはエルサと話すとき、「おなかの中でたくさんの蝶ちょが飛び回る」ようになっていきます。恋の芽生えです。

 ジョジョは、少女が婚約者だといった胸のロケット写真ネイサンのふりをして少女をなぐさめる手紙を書いて渡すようになりました。
 「戦争が終わったらいっしょにパリで暮らそう。それまでがんばれ」と。エルサはその手紙はジョジョが書いていることを最初から知っています。
 エルサは「戦争が終わったら一番先に何がしたい」とジョジョに問われて、「ダンス」と答えます。
 エルサは決して頭に角のある怪物ではなく、話を交わせばかわすほどわかりあえる相手になっていきました。

 キャプテンKはヒットラーユーゲント事務所の事務職に降格され、ジョジョに戦意高揚ポスター張りや、ヤカンなどの金属供出の仕事を与えます。ジョジョは「これもヒットラーのためになる協力」と信じて屑鉄集めに励みます。

 しかし、ある日、反ナチスの活動を続けていた母ロージーの運命をジョジョは知ります。
 そしてジョジョの町は連合軍の空爆を受け、町はがれきの山に。

 幸いジョジョの家は空爆地帯からはずれたのですが、キャプテンKは、進軍してきたアメリカ軍にジョジョを「この子はドイツ人じゃない、ユダヤ人だ」と告げてアメリカ軍に逮捕されないようにして、自分は敗軍の運命を受け入れます。
 ヒットラーもジョジョも映画の中では英語で話していました。ハリウッド映画だからね。アメリカ軍の兵士にジョジョが英語で「ことばがわからない」というので、おかしかったけど。

 戦争が終わったことを知った少女は家の外に出てきます。「戦争が終わったらしたいこと」は、ダンス。エルサのダンスの姿を見て、ジョジョもぎこちなく体を動かしてみます。

 大好きな「心の友」であったヒットラーでしたが、ジョジョは最後にヒットラーではなく、エルサを信じようと思います。
 ヒットラーを心から追い出したとき、ジョジョは一歩成長したのです。父も母もいなくなったジョジョがこれからどう成長していくのかわかりませんが、鬼か怪物だと思わされていたユダヤの少女が、異なる考えをもっていたとしても、話し合っていけば寄り添えることに気づいたとき、少年は確かに人生に踏み出したのだと言えます。

 「不謹慎な戦争風刺」という評もあったそうですが、私は2019年映画の傑作と思いました。

<おわり>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ジュディ虹の彼方へ」

2020-11-14 00:00:01 | エッセイ、コラム


20201126
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020虹のかなたに(4)ジュディ虹の彼方に

 ♪虹のかなた、どこか遠く、幸せの国があるという
  子守歌で聞いたその国へ 青空高く 超えていく
 
 1939年にこの歌を歌って人気絶頂となった少女は、1960年代後半、マネジャーも雇えない「落ち目の歌手」として幼い娘と息子も舞台にあげてドサ周りを続けています。家賃も払うことができなくなり、娘と息子は離婚した夫がひきとることに。
 ジュディの子役時代のエピソードが挟み込まれる形で、最晩年のジュディ・ガーランドが描かれます。

 晩年のジュディが薬物依存から抜け出せなかったのは、なぜか。
 13歳の子役が肥満体質であることを危惧した映画会社MGMが、社長命令としてアンフェタミンを飲ませ続けたことからはじまっています。アンフェタミンは覚せい剤の一種でしたが、当時のハリウッドでは、ダイエット効果があるとされていたのです。幼いジュディは、命じられるままに毎日薬を飲み続けました。

 ジュディ・ガーランド(1922 -1969)は、1941年に作曲家のデヴィッド・ローズと結婚、まもなく離婚。1945年には映画監督ヴィンセント・ミネりと結婚し、1946年に娘ライザをもうけます。
 しかし、薬物中毒により心身痛めつけらえたジュディは入退院や自殺未遂を繰り返し、人気は下降していきました。

 何度か映画での復活はあったものの、1960年代後半には、先に記したように3度目の夫との間に設けた娘息子も父親の元で暮らすことを余儀なくされます。愛してやまない子供たちなのに、お金がないために奪われる。やりきれない思いの母に、世間は「やっぱり母親としての」役目は果たせない女なのだ」と、追い打ちをかけます。

 そんなおり、ロンドン公演の話が舞い込み、ジュディはロンドンへやってきます。映画は、このロンドンでの復活公演と47歳という年齢での死去を描いています。
 ロンドンで年下の男性と5回目の結婚をしますが、相手の、ミッキー・ディーンズは彼女を支えることはできませんでした。エディット・ピアフの晩年を支えた20歳年下の夫は、エディットの死後も彼女の名声を守り続けました。あっさりとジュディから離れてしまうミッキーを見て、彼がもっとジュディを支えてあげれば、再復活もできたのに、と、残念に思ってしまいます。

 監督:ルパート・グールド
 ジュディ:レネー・ゼルウィガー 

 吹き替え無しで、全曲レネーの歌声であることも評価され、レネーは92回アカデミー賞の主演女優賞を獲得。

 何度も見てきた『オズの魔法使い』
 ジュディはひたすらけなげでかわいらしく、歌がうまい。まさか、肥満防止のためにアンフェタミンという覚せい剤を飲まされ続けていたとは、今作を見るまで私は知りませんでした。
 晩年の彼女について、長年のわがまま気ままな生活の乱れのために人気が下降し、薬物接種により死去した、という表面的な伝記しか知らなったのです。

 「オズの魔法使い」


 ジュディがロンドン公演を成功させたとき、イギリスで暮らす男性カップルがジュディを自宅での食事にさそいます。同性愛が犯罪とされてきたイギリスではゲイとして生きるのは、とてもつらいこと。ゲイであるために、投獄されたことさえあるのです。しかし、ジュディの歌がふたりを支えました。自分の歌がだれかの人生の支えになりうることが、ジュディにもわかりました。
 ジュディはLGBTの人々に偏見を持たない人であることが、このカップルをはじめ多くのつらい人生を送ってきた人たちに届いていました。現在、LGBTのシンボルカラーが「虹色」であるのは、ジュディの「虹のかなたに」へのオマージュでもあるのです。 

 レネーの演技はすばらしく「超新星のように最晩年に輝いて命を終えた大女優」の悩み悲しみ、歌への情熱を演じていました。歌がうまいのはもちろんですが、落ちぶれて涙するときも、歌い上げるときの高揚感も、心の襞の表現が伝わりました。
 
 「オズ」の国は夢の中の王国です。オズ国の旅のなかで冒険を重ねて少女が成長できたように、少女ジュディが成長出来たらよかったですが、ハリウッド王国はセクハラやら薬物やらの王国で、少女の成長はゆがめられてしまいました。46歳での早すぎる死は惜しまれますが、人々の心の中にジュディは虹をかけ、皆が虹を追いかけている。

 「オズ」シリーズの原作者ライマン・フランク・ボーム(1856-1919)が1900年に出版してから100年を超え、原作は著作権が消滅しパブリックドメインになっています。何度も映画やミュージカルでリメイクされていますが、どの作も原作を塗り替えてしまったりはしていません。それだけ原作の力が大きいともいえるし、1939年のジュディ・ガーランドが演じたドロシーが、第2次世界大戦中の苦難と戦後の復興期を「虹のかなたに」の歌によって人々を励まし続けたという「魔法」の物語をみながしっかり共有してきたからこそだと思います。
 帰る家が見つからないドロシーと犬のトト、考える頭のないカカシ。勇気のないライオン、心がからっぽなブリキ男。そんな行き場のない仲間たちが、助け合い励ましあうことで居場所を得ていく物語。
 ジュディの魂が今は居場所を得てレインボーフラッグが振られている場所を見つめてくれてうと思います。

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「アストリッド」

2020-11-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「マイライフストーリー私の若草物語」

2020-11-10 00:00:01 | エッセイ、コラム


20201122
春庭シネマパラダイス>虹のかなたに(2)マイライフストーリー私の若草物語

 私の世代の女性にとって、「少女必読書」だった本。「若草物語」「赤毛のアン」「足長おじさん」。小学生の時、「少年少女世界名作集」というような名のシリーズを買ってもらい、繰り返し読みました。

 私の母のお気に入りはなんといっても「アン」でしたが、私は若草物語の次女ジョーが大好きでした。文学好きな少女はもれなく「将来はジョーになる」と感じていたのかも。長女の姉が「将来はジョーがいい」と言ったときは「ジョーは次女だもん、次女は私だよ。長女はメグじゃないか」と、くってかかったこともありました。60年前の姉妹喧嘩。

 三女の妹はこどものころ体が弱く、いつも「自家中毒」というのを患っていましたから、べスのように若くして亡くなったらどうしようとひそかに案じていたのですが、どうしてどうして、今では私より体重多いどっしり婆になって孫の世話に忙しい。
 私たちの父は、三姉妹まとめて呼ぶときは「お~い、かしまし娘」と言っていました。姉妹漫才トリオの名でしたけれど、父に言わせると、まさしく女3人で「姦しい」のだと。

 「Little Women 4人の女性たち」とは、南北戦争に牧師として従軍したマーチ家の父親が、4人の娘たち全員に呼びかけるとき用いたことば。娘たちは父親からこう呼びかけられると、子供ではなく、一人前の女性としてみなされているという真剣な気持ちになって父の言葉を聞くことができました。
 作家となったジョー(次女ジョゼフィン)が自分の育ってきた一家を描くときにタイトルに「Little Women」を用いたのは、娘たちを尊重していた父の意思と愛情深かった母を敬愛する気持ちによるものだったと思います。

 日本では最初の邦訳は1906年。タイトルは「小婦人」でした。しかし、戦後は長く「若草物語」として親しまれてきましたから、2019年の映画も、原題の「Little Women」は使わないまでも、「マイライフストーリー私の若草物語」という長たらしい邦題は残念に思います。せめて後半だけにできなかったか、と。
 
 何度目かの「Little Women」の映画化。私は1949年版の(ジョー:ジェーン・アリソン、エイミー:エリザベス・テイラー)は何度か見返していますが、ジョーがキャサリン・ヘプバーンだった1933年版は1度見ただけなので、あまり覚えていません。

 2019年版。
次女ジョー・マーチ: シアーシャ・ローナン
四女エイミー・マーチ: フローレンス・ピュー
三女エリザベス・マーチ(ベス): エリザ・スカンレン
長女メグ・マーチ: エマ・ワトソン
母ミセス・マーチ: ローラ・ダーン
マーチおばさん: メリル・ストリープ
セオドア・ローレンス(ローリー): ティモシー・シャラメ
ミスター・ローレンス: クリス・クーパー
ジョン・ブルック: ジェームズ・ノートン
フリードリヒ・ベア: ルイ・ガレル
ミスター・ダッシュウッド: トレイシー・レッツ
ミスター・マーチ: ボブ・オデンカーク
ハンナ: ジェイン・ハウディシェル 
アニー・モファット: アビー・クイン

 92回アカデミー賞は、受賞衣装賞、ノミネート主演女優賞シアーシャ・ローナン、助演女優賞フローレンス・ピュー、脚色賞、作曲賞。

 2019年版は、作家として独り立ちしたジョーの回想として少女時代が描かれます。いっしょに見た娘は「私の中の若草物語は、保育園のときのアニメシリーズだから、ほとんど忘れていた。アニメではエイミーは小さな少女のイメージだったから、最初はフローレンス・ピューが大きすぎると思ったけど、結婚までを描くならあまり小さな少女では子役と成長後を分けなきゃいけないものね」と納得。初登場のエイミーは9歳なので、1949年の映画も、エリザベステーラーは3女ということにしてあり、最初は13歳、20歳でローリー結婚。(原作ではべス3女エイミー4女)

 2019年版でもエイミーは13歳-20歳の設定で、フローレンス・ピューが演じましたが、実はピューの実年齢は2女ジョー役のシアーシャ・ローナンと同じ年齢だというのでびっくり。わがままで気取り屋の幼い感じもローリーと結婚する初々しい若妻までをとても自然に演じていました。

 シアーシャ・ローナンは23歳にしてアカデミー女優賞に何度もノミネートれている実力派。キャサリン・ヘプバーン、ジェーン・アリソンなど、名だたる名女優によって演じられてきたジョーですが、シアーシャのジョーも、活発な部分も繊細な感情の部分、とてもよかったと思います。
 だれもが知っている物語のだれもが大好きなジョーを生き生きと演じていました。

 原作者のルイザ・メイ・オルコットは生涯独身で、執筆活動とフェミニズム活動に邁進しました。映画の中、作家として活動を始めたジョーに出版業者が忠告します。「生涯独身の女性を主人公にした作品など、読者はだれも読みたがらない」
 それで、オルコットはジョーとベア先生のロマンスを書きました。ほんとうは生涯独身の作家の物語を書きたかったことでしょう。

 ジョーではなくエイミーをヨーロッパ旅行につれていったマーチおばさんは「私は独身をつらぬいてもよかったんだよ。お金があったから」と言っていました。(メリル・ストリープがじょうず)オルコットの時代には資産を持たない女性が独身をつらぬくのは大変なことだったでしょう。

 そういえば、「赤毛のアン」のともだちのひとりは「将来は未亡人になりたい。そうすればオールドミスのそしりを受けることなく、夫の世話に振り回されることもないから」と言ってましたっけ。
 
 「マイライフストーリー私の若草物語」というまわりくどいタイトルをのぞけば、2019年版
若草物語は、気に入った映画のひとつになりました。

<つづく>
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「リメイクとパスティーシュ・赤毛のアン」

2020-11-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201121
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020秋映画虹のかなたに(1)リメイクとパスティーシュ・赤毛のアン

 東京MXで「再々再々」くらいの再放送がされていた高畑勲版の『赤毛のアン』が最終回となりました。前回再放送されていた時も録画しておいたのですが、まとめて一気視聴しようと思っているうちに、見ないまま。
 まとめ視聴だとやはり長い時間かかるから、じっくり時間がとれないと見る機会が無い。ことし東京MXでの再放送がありました。今度はまとめて見ようと思わず、毎週月曜日の夜に楽しんできました。最初の高畑アニメは1979年の放映。娘は何度目かの再放送をみていました。

 小学生のころ、母は世界名作全集という本を、子供たちのために毎月購入してくれました。(ポプラ社だったのか講談社だったのか忘れました。60年以上前のことですからね)若草物語や怪盗ルパンシリーズなど、文章を暗記するくらいなんども読み返しました。

 赤毛のアンは、母が村岡花子訳の文庫本を先に読み、私が読んだのは高校1年生になってからでした。子供用に編集しなおされた名作全集は字も大きくフリガナもありましたが、母が先に読んだ文庫本は漢字のフリガナが少なくて、ある程度漢字が読めるようになってから母のおさがり本を読んだのです。

 物語初登場のアンは11歳でした。15歳すぎてからアンを読んだ私は、どうして11歳の時アンに出会わなかったのかとても悔しく思いました。ダイアナとままごと遊びしたり、物語クラブで物語ごっこをしたりする年齢を、もうすぎていました。15歳16歳の年齢になってからアンと出会ったのが残念だったのです。クイーン学院で学ぶアンもアボンリーで教師生活をするようになった年頃のアンも好きですが、できればアンとままごとしたかった。

 母は、最初からマリラの視点で読んでいましたから、赤毛のアンから炉辺荘のアンまで、まったく違和感なくアンを愛し、マリラと同化して読んでいました。私はグリーン・ゲイブルズにやってきた11歳のアンに対してはお姉さんのような視点で愛し、教師になった青春以後のアンは、年齢に合わせて成長しながら読みました。

 高畑勲のアニメ『赤毛のアン』は1979年に登場して以後、娘は1987年の再放送を見ました。保育園児だった娘はところどころを覚えている程度。私は夫の仕事の手伝いと大学での日本語学の勉強で、テレビは子守替わり。座って子供と一緒に見た覚えがありません。

 子育て一段落したころ、アンを主人公とする映画も見ましたが、ミーガン・フォローズ主演だったのか、よく覚えていないのです。それとは別のテレビドラマだったのかもしれません。成長したアンが従軍したギルバートを追って戦場に行くストーリーにはびっくり。モンゴメリーの原作にはそんな話はありませんでしたから。
 2017年のエラ・バレンタイン主演の映画は見ていません。

 2020年、Netflixで制作された『アンという名の少女Anne with an E 』がNHKでテレビ放送されたので、娘といっしょに見ています。娘は4歳のとき見たアニメをほとんど忘れていたので、あまり違和感なく見ているのですが、高畑アニメと同時進行で実写ドラマを見た私は、違和感が大きく、モンゴメリー原作への冒涜のようにさえ感じました。



 Netflixドラマが原作と異なる部分はたくさんあるのですが。例えば、アンがカスバート家に迎え入れられたとき、教会の家族誌に名前を書き入れるシーンがあります。正式に家族の一員となり、名字もカスバードになった、というシーン。アンの名はアン・シャーリー-カスバートです。

 モンゴメリー作村岡花子訳の物語で、マリラは親友のレイチェル・リンド夫人に語ります。「私とマシューがどうして法的にアンを養子にしなかったかわかるかい。アンの人生をしばりたくなかったからだよ。アンにできるだけの教育を受けさせ、アンが自立する助けはするけど、アンには自分の将来はカスバート家にしばられることなく、自由に選んでほしいと思ってね」
 カスバートの名を名乗り、アン・シャーリーからアン・シャーリー・カスバートとなったのでは、モンゴメリーが託したマリラの「アンをしばることなく育てたい」という思いが踏みにじられてしまったように思います。

 アンは、原作より「こましゃくれていて意地っ張りで自己主張が強い」女の子に設定されています。たくましく生き抜いていこうとする少女を描きたかったのかもしれませんが、私から見ると違和感があります。

 Netflix版。最初に登校したアンがプリシラと教師がふたりでいるシーンを目撃したエピソードが出てきました。
「男の人はズボンの中にネズミを飼っていて、女の人がそれにさわると子供が生まれる」と、得意そうにアンがクラスの女の子達に語ると、女の子達はそれが「汚い話題」と感じて反発し、アンは仲間はずれにされます。ネズミのエピソードは原作になく、「アンが見なくてもいいことを見せられて育ち、それを無邪気に語った」というマリラやマシューの解釈でアンを救おうとするフォローがあったにしても、私には嫌な感じのする「原作離れ」でした。

 アンがクラスに受け入れられていく過程は、秋の葉が色づいていくように、少しずつ溶け込むのが原作。Netflixではアンが火事の家に飛び込んでいき、火事の被害を少なくする、という劇的なシーンの結果、アンがアボンリーの村人に受け入れられることになっています。

 現代の化学物質が多い建材では、火事で焼けて亡くなるより煙の排気を吸うことが原因で亡くなるのですが、百年前の木造家屋は、有害な煙が出ないから火事の中に飛び込んでも大丈夫、という解釈があったのでしょうか。たとえ百年前の火事であっても、燃えさかる家の中に子供が飛び込むシーンは描いてほしくなかったと思います。アンが英雄となって村人に受け入れられる必要はない。
 このシーンから子供が教訓を受け取るとしたら。「自分を嫌っている人たちが多い中に受け入れてもらうには命がけで英雄的な行為をする以外ない」ということ。

 原作のアボンリーの村人たちは時代遅れといえる素朴な人々ですが、ネットフリックス版の村人は、みなが孤児に蔑視と悪意を持つ実に偏見に満ちた人々になっています。カナダ、プリンスエドワード島の人々は、こんなふうに描かれて反発しなかったのでしょうか。

 そのほか、「マリラのブローチ紛失事件」も原作とは大きく異なるエピソードに変えられています。高畑版を忘れていた娘も「こんなふうに盗人扱いされたら、グリーンゲイブルスに帰ったとしても、アンは決してマリラに心を開かないんじゃないかな」と心配していました。

 これほど原作と異なる脚本にするなら「語尾にEをつけたアン」というタイトルにしないで、「赤毛のアンのキャラクターを借りた新作」としてほしかった。

 9月末に掲載した春庭の「引用とインスパイア」にも書きましたが、古来すでにある物語を引用し新しい物語を作ることは悪いことじゃない。シェークスピア作品もたくさんの他の物語の引用からなりたっています。和歌の本歌取りもしかり。
 モンゴメリの英語版原作は、中世から19世紀にかけてのイギリス文学のパロディが詰まっているそうです。(私は英語版原作を読んだことがなく、村岡花子の訳で読んだのみなので、モンゴメリの引用について語れませんが)

 引用やリメイクは、大いに結構。しかし、たとえパロディとして書くにせよ、もとになるお話への敬意が必要と思うのです。モンゴメリー原作からリメイクするなら、原作者が書きたかった世界観をぶち壊しにしてほしくない。新しい自分なりの世界観を生み出したいなら、まったく新しいキャラで新しい世界を描けばよい。
 有名な「赤毛のアン」を持ち出せば、ある程度の視聴率はとれるだろう、という虫のよい原作利用で、「現代に合わせた」と製作者たちが考えた作り変えのために、アンはひねこびたいやな女の子になってしまいました。

 ネットフリックス版のいいところは、「原作どおり」「そばかすだらけで少しも器量よしじゃない」というアンが画面にうつされていることだけ。

 原作「グリンゲイブルスのアン」は、「神は天にいまし、世はすべてこともなし」という詩の一節で幕を閉じます。平穏な静かなささやかな日常の中に「この世のよきこと」がちりばめられているのです。

 少女アンの成長は、駅で詩の朗読を押し売りして小銭を稼ごうとするたくましさや、火事のさなかに飛び込む無謀な行為よるのではないのです。

 行商人に騙されて髪を緑色に染めてしまったり、お茶会のケーキに香料とまちがえてひまし油をいれてしまったり、はじめてのピクニックアイスクリームのおいしさに感激したり、意地の張り合いで屋根から落ちたり、、、、ほんとうにささやかでどこにでもあるエピソードの積み重ねによって、マリラとマシューの愛に包まれることによって成長していくのです。

 ルーシー・モード・モンゴメリ(Lucy Maud Montgomery1874-1942)は、20世紀初頭という時代背景を持つゆえの、保守的な思想や女性の生き方への固定観念が色濃く残る文章を書いていますが、それは仕方がないことでしょう。まだ、女性はコルセットでからだをしばりつける衣装を着ていたのですから。

 私は、子供のすこやかな成長には愛着対象が必要だ、という母子密着説を読んで、疑問に感じたことがあります。アンは、これほど想像力ゆたかで心優しい子供に育ったのはなぜか。生まれてすぐに両親を熱病で失い、他人に引き取られて育ったのに、どうしてこのように愛にあふれる育ちができたのだろうと不思議だったのです。
 発達心理学の専門家と同席した折、赤毛のアンの話題が出たので質問してみました。

 子供のなかには、ごくまれにではあるけれど、自己愛着によって自分を育てることのできる、いわば「児童発達の天才」とでも呼ぶしかない子どもが存在する、との回答でした。その自己愛着の具現化した姿が、洋服ダンスの扉ガラスに映るアンの話し相手「ガラスに映る親友ケイティ」だったのだと思います。アンは、自分に話しかけ想像の中で自分を肯定し、自分を愛した。「自分育ての天才」です。子供が自分を肯定し、自分に誇りをもって育っていくために必要な自己愛。一般の子供は周囲にいる養育者によって自己愛を持ち育っていくけれど、アンは自分を愛し自分を肯定できる天才だった、という発達心理学者の説。納得。

 高畑勲版アニメで、ひとつだけ違和感が残ったシーンについてあげておきましょう。
 「ネットフリックス版への姑の小言」みたいな文章になっていますからね。
 アンがマリラに縫物を習うシーン。アンが使うはさみが、親指を入れるところとほかの指を入れるところのふたつがあるハサミではなく、握って使う和鋏だったのです。ほんの一瞬うつっただけのはさみですが、広瀬すず主演の「なつぞら」の時代にアニメ制作者にイメージされた「はさみ」が和鋏だったこと、とても印象に残ったことでした。それとも20世紀初頭のカナダでは、握りばさみが一般的にお裁縫に使われていたのかしら。

 以上、本歌取りには元歌への敬意が必要であると考えること。ネットフリックス版「アンいう名の少女」には、モンゴメリーの世界観への共感がなく、原作の世界を壊していること、について申し述べました。

 NHKの放映では第1シリーズ8回が放送されます。ネットフリックス版は第3シリーズ27回分が製作されているそうですが、NHKが続けて第2第3シリーズ放送したとして、ちょっと見るのがつらくなりそう。

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「日本美術の裏の裏 in サントリー美術館」

2020-11-07 00:00:01 | エッセイ、コラム


20201107
ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩秋(5)日本美術の裏の裏 in サントリー美術館

 10月14日、サントリー美術館リニューアルオープン記念所蔵品展の第2弾に行ってきました。
 今回の「日本美術の裏の裏」は、私も娘も特に「これを見逃してなるものか」という見たくてたまらない作品はなかったのですが、年間会員券を購入したので、展示替えがあるたびに訪れて「モトをとらなきゃ」の精神です。

 会期:0年9月30日(水)~11月29日(日)

 さて、「日本美術の裏の裏」というテーマ設定で何を展示するのか。裏の裏は、ふつうなら表に戻っちゃうと思うのだけれど。
 「裏」には裏側の意味のほか、表には表れていない「隠された部分」という意味もあります。「政界の裏」「警察の裏事情」など。今回の展示では、大きく変わってきた日常生活の中でどのように「生活の美」の愉しみを見出していくのか、その「隠された部分」に光を当てた展示だそうです。
 メインのポスターの絵は、第1室に入ってすぐ目に入ります。全室撮影可能。
 丸山応挙「青楓瀑布図」


・第1章「空間を作る」
 屏風は、実用の「仕切り」として生活に用いられるのは当然ですが、屏風によって部屋の中に「異空間」を作り出すのが「裏」の役割。四つの季節を同じ屏風に同時に書き込んだりするのは、実際にはありえない「仮想空間」の演出なのですって。

 第2章: 小をめでる
 江戸時代の上野七澤屋で人気の「雛道具」をはじめ、清少納言が「小さきものはみなうつくし」と書いた美意識が現在でも、若い女性たちの「カワイイ!」文化につながっています。
 雛道具を写真に写しても、あまりに精巧に作られていて、よくあるようにボールペンやシガレットと大きさを比べて写さないとミニチュアサイズだということがわからないくらいです。
 実際の茶道具の椀と雛道具の椀、花入れとミニチュアサイズの花入れと、並べて展示してある展示方法のガラスケースもありました。

 七澤屋の雛道具。小さくても蒔絵も本格的


第3章  心でえがく
 著名な画家の作品ではなくても、素朴な絵の中に心打たれるものもあります。
第4章 景色を探す
 焼き物のうち、自然釉でできた作品に自分好みの模様を見出すことを「景色をみる」というのだそうです。
 第5章 和歌でわかる
 生活の中に和歌の引用があふれていた時代とことなり、現代では百人一首の和歌でも若い人には通じなくなっています。日本美術は和歌をモチーフとした図柄が多いのに。モチーフのもとになっている和歌を考えてみよ、という企画。

色絵桜楓文透鉢 仁阿弥道八 
 桜と紅葉の両方をデザインにとりいれている椀


 私が思い浮かべたのは「見渡せば花も紅葉もなかりせり~」という和歌だったのですが、、、 

 娘が一番気に入った鶴の水さし

 
 サントリー美術館入り口で
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「松江市興雲閣と倉敷の建物」

2020-11-05 00:00:01 | エッセイ、コラム


20201105
ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩秋(3)松江興雲閣と倉敷の建物

 近代建築、特に偽洋風と呼ばれてきた「明治期に日本人大工の建てた見様見真似洋館」が好きな春庭。観光ガイドブックをじっくり読む娘に、松江市には興雲閣という明治時代の洋風館があることを教えてもらいました。娘が松江城天守閣に登っている間、興雲閣を見学。

 興雲閣は、1902(明治35)年に着工、翌1903(明治36)年に完成。
 当初、明治天皇の行在所にする目的でつくられたため、装飾・彫刻などは豪華華麗なつくりにしてありました。しかし、明治天皇の巡幸は実現せず、1907(明治40)に、皇太子嘉仁親王(大正天皇)の山陰道行啓時に3日間迎賓館として使用。その後は松江市工芸品陳列所として使用されました。
 改修を経て、2016(平成27)年から歴史的建造物として一般公開されています。







 松江城前で娘と記念写真を撮ってから、娘といっしょに興雲閣をじっくりと見学しました。八雲立つ松江市にふさわしい雲が湧き上がるような建物でした。

 小泉八雲が松江に住んだのは、1891年 に小泉節子(1868-1932)と結婚して住んだ借家での1年ほどだけです。八雲が亡くなる1904にはまだ建っていなかった興雲閣でしたが、節子のふるさとに洋館が建つという噂くらいは聞いたことがあるかもしれません。たぶん、洋館建設さを知ったとしたら「あの町にはふさわしくない」と、反対したかも。古い小さな借家のたたずまいを心から愛した八雲でしたから。

 今となってみると、江戸の威風を示す松江城のわきに立つ木造洋館の興雲閣、これはこれでいいなあと思います。興雲カフェで食べたチーズケーキおいしかったし。

 倉敷市にもよい建物がたくさんありました。今回はひとつひとつの建物をじっくり見る時間がなかったのですが、旧大原家住宅は大原美術館を見たあと、ゆっくりとお茶などいただきました。
 旧大原家住宅は、クラボウ一族の本宅です。現在は「語らい座大原本邸」として一般公開され、地域の人のコミュニケーションスペースになっています。
 建てられた年代は割烹「鶴形」の建物のほうが古いのですが、割烹営業のためにたびたび改築が行われたため、「改築なしの建物」としては、大原家住宅が倉敷で一番古いとのこと。
 江戸時代後期の1795(寛政7)年からつい最近まで、大原家の人々が代々住んでいました。
 2018年から倉敷市の施設として一般公開。

 旧大原家入り口


 旧大原家の中にたくさんの建物があります。


 旧大原家離れ

 離れでお茶とお菓子をいただく

 
 旧大原家住宅と有隣荘の間から大原美術館を見る。


 中橋から見る大原美術館
 

 旧中国銀行倉敷本町支店 。
 改築中なので、中の見学はできませんでしたが、改修後は大原美術館別館として公開される予定。
 大原孝四郎が設立した旧倉敷銀行本店の跡地に、大原孫三郎によって建築された第一合同銀行倉敷支店→中国銀行で、1922(大正11)の完成。
 設計は陸軍技師の建築家薬師寺主計。(1884-1965)。薬師寺は陸軍を退役し、大原孫三郎に招かれ倉敷絹織株式会社の役員となり大原美術館、倉紡中央病院などの設計を担当しました。

 旧中国銀行


 旧中国銀行も改修がすんだあと、大原美術館別館としてオープンするそうですから、倉敷の建物も、次はもっとゆっくり見る機会を作りたいと思います。

 今回、ゆったりした気分で倉敷美観地区ですごすことができたのは、遊覧船にのって船頭さんの解説を聞きながら建物を見ることができた20分余り。歩いて見るのとはまた違う風情があってよかったです。

 遊覧船に乗って


 川から眺める美観地区の建物




 川から見上げる大原美術館
 

 旧大原家住宅と隣に建つ大原家別邸となる有隣荘は、1928年(昭和3年)に 大原孫三郎が、病弱な妻を気遣って建てたもの。来客の多い本邸ではなく、妻が落ち着いて暮らせるように、として建てた住まいだそうです。春秋の期間限定で内部公開が実施されるそうですが、今回は見ることかなわず。
 有隣荘の川沿い側の塀

 旧大原家住宅と有隣荘塀


 遊覧船上の顔


<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする