20201121
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020秋映画虹のかなたに(1)リメイクとパスティーシュ・赤毛のアン
東京MXで「再々再々」くらいの再放送がされていた高畑勲版の『赤毛のアン』が最終回となりました。前回再放送されていた時も録画しておいたのですが、まとめて一気視聴しようと思っているうちに、見ないまま。
まとめ視聴だとやはり長い時間かかるから、じっくり時間がとれないと見る機会が無い。ことし東京MXでの再放送がありました。今度はまとめて見ようと思わず、毎週月曜日の夜に楽しんできました。最初の高畑アニメは1979年の放映。娘は何度目かの再放送をみていました。
小学生のころ、母は世界名作全集という本を、子供たちのために毎月購入してくれました。(ポプラ社だったのか講談社だったのか忘れました。60年以上前のことですからね)若草物語や怪盗ルパンシリーズなど、文章を暗記するくらいなんども読み返しました。
赤毛のアンは、母が村岡花子訳の文庫本を先に読み、私が読んだのは高校1年生になってからでした。子供用に編集しなおされた名作全集は字も大きくフリガナもありましたが、母が先に読んだ文庫本は漢字のフリガナが少なくて、ある程度漢字が読めるようになってから母のおさがり本を読んだのです。
物語初登場のアンは11歳でした。15歳すぎてからアンを読んだ私は、どうして11歳の時アンに出会わなかったのかとても悔しく思いました。ダイアナとままごと遊びしたり、物語クラブで物語ごっこをしたりする年齢を、もうすぎていました。15歳16歳の年齢になってからアンと出会ったのが残念だったのです。クイーン学院で学ぶアンもアボンリーで教師生活をするようになった年頃のアンも好きですが、できればアンとままごとしたかった。
母は、最初からマリラの視点で読んでいましたから、赤毛のアンから炉辺荘のアンまで、まったく違和感なくアンを愛し、マリラと同化して読んでいました。私はグリーン・ゲイブルズにやってきた11歳のアンに対してはお姉さんのような視点で愛し、教師になった青春以後のアンは、年齢に合わせて成長しながら読みました。
高畑勲のアニメ『赤毛のアン』は1979年に登場して以後、娘は1987年の再放送を見ました。保育園児だった娘はところどころを覚えている程度。私は夫の仕事の手伝いと大学での日本語学の勉強で、テレビは子守替わり。座って子供と一緒に見た覚えがありません。
子育て一段落したころ、アンを主人公とする映画も見ましたが、ミーガン・フォローズ主演だったのか、よく覚えていないのです。それとは別のテレビドラマだったのかもしれません。成長したアンが従軍したギルバートを追って戦場に行くストーリーにはびっくり。モンゴメリーの原作にはそんな話はありませんでしたから。
2017年のエラ・バレンタイン主演の映画は見ていません。
2020年、Netflixで制作された『アンという名の少女Anne with an E 』がNHKでテレビ放送されたので、娘といっしょに見ています。娘は4歳のとき見たアニメをほとんど忘れていたので、あまり違和感なく見ているのですが、高畑アニメと同時進行で実写ドラマを見た私は、違和感が大きく、モンゴメリー原作への冒涜のようにさえ感じました。
Netflixドラマが原作と異なる部分はたくさんあるのですが。例えば、アンがカスバート家に迎え入れられたとき、教会の家族誌に名前を書き入れるシーンがあります。正式に家族の一員となり、名字もカスバードになった、というシーン。アンの名はアン・シャーリー-カスバートです。
モンゴメリー作村岡花子訳の物語で、マリラは親友のレイチェル・リンド夫人に語ります。「私とマシューがどうして法的にアンを養子にしなかったかわかるかい。アンの人生をしばりたくなかったからだよ。アンにできるだけの教育を受けさせ、アンが自立する助けはするけど、アンには自分の将来はカスバート家にしばられることなく、自由に選んでほしいと思ってね」
カスバートの名を名乗り、アン・シャーリーからアン・シャーリー・カスバートとなったのでは、モンゴメリーが託したマリラの「アンをしばることなく育てたい」という思いが踏みにじられてしまったように思います。
アンは、原作より「こましゃくれていて意地っ張りで自己主張が強い」女の子に設定されています。たくましく生き抜いていこうとする少女を描きたかったのかもしれませんが、私から見ると違和感があります。
Netflix版。最初に登校したアンがプリシラと教師がふたりでいるシーンを目撃したエピソードが出てきました。
「男の人はズボンの中にネズミを飼っていて、女の人がそれにさわると子供が生まれる」と、得意そうにアンがクラスの女の子達に語ると、女の子達はそれが「汚い話題」と感じて反発し、アンは仲間はずれにされます。ネズミのエピソードは原作になく、「アンが見なくてもいいことを見せられて育ち、それを無邪気に語った」というマリラやマシューの解釈でアンを救おうとするフォローがあったにしても、私には嫌な感じのする「原作離れ」でした。
アンがクラスに受け入れられていく過程は、秋の葉が色づいていくように、少しずつ溶け込むのが原作。Netflixではアンが火事の家に飛び込んでいき、火事の被害を少なくする、という劇的なシーンの結果、アンがアボンリーの村人に受け入れられることになっています。
現代の化学物質が多い建材では、火事で焼けて亡くなるより煙の排気を吸うことが原因で亡くなるのですが、百年前の木造家屋は、有害な煙が出ないから火事の中に飛び込んでも大丈夫、という解釈があったのでしょうか。たとえ百年前の火事であっても、燃えさかる家の中に子供が飛び込むシーンは描いてほしくなかったと思います。アンが英雄となって村人に受け入れられる必要はない。
このシーンから子供が教訓を受け取るとしたら。「自分を嫌っている人たちが多い中に受け入れてもらうには命がけで英雄的な行為をする以外ない」ということ。
原作のアボンリーの村人たちは時代遅れといえる素朴な人々ですが、ネットフリックス版の村人は、みなが孤児に蔑視と悪意を持つ実に偏見に満ちた人々になっています。カナダ、プリンスエドワード島の人々は、こんなふうに描かれて反発しなかったのでしょうか。
そのほか、「マリラのブローチ紛失事件」も原作とは大きく異なるエピソードに変えられています。高畑版を忘れていた娘も「こんなふうに盗人扱いされたら、グリーンゲイブルスに帰ったとしても、アンは決してマリラに心を開かないんじゃないかな」と心配していました。
これほど原作と異なる脚本にするなら「語尾にEをつけたアン」というタイトルにしないで、「赤毛のアンのキャラクターを借りた新作」としてほしかった。
9月末に掲載した春庭の「引用とインスパイア」にも書きましたが、古来すでにある物語を引用し新しい物語を作ることは悪いことじゃない。シェークスピア作品もたくさんの他の物語の引用からなりたっています。和歌の本歌取りもしかり。
モンゴメリの英語版原作は、中世から19世紀にかけてのイギリス文学のパロディが詰まっているそうです。(私は英語版原作を読んだことがなく、村岡花子の訳で読んだのみなので、モンゴメリの引用について語れませんが)
引用やリメイクは、大いに結構。しかし、たとえパロディとして書くにせよ、もとになるお話への敬意が必要と思うのです。モンゴメリー原作からリメイクするなら、原作者が書きたかった世界観をぶち壊しにしてほしくない。新しい自分なりの世界観を生み出したいなら、まったく新しいキャラで新しい世界を描けばよい。
有名な「赤毛のアン」を持ち出せば、ある程度の視聴率はとれるだろう、という虫のよい原作利用で、「現代に合わせた」と製作者たちが考えた作り変えのために、アンはひねこびたいやな女の子になってしまいました。
ネットフリックス版のいいところは、「原作どおり」「そばかすだらけで少しも器量よしじゃない」というアンが画面にうつされていることだけ。
原作「グリンゲイブルスのアン」は、「神は天にいまし、世はすべてこともなし」という詩の一節で幕を閉じます。平穏な静かなささやかな日常の中に「この世のよきこと」がちりばめられているのです。
少女アンの成長は、駅で詩の朗読を押し売りして小銭を稼ごうとするたくましさや、火事のさなかに飛び込む無謀な行為よるのではないのです。
行商人に騙されて髪を緑色に染めてしまったり、お茶会のケーキに香料とまちがえてひまし油をいれてしまったり、はじめてのピクニックアイスクリームのおいしさに感激したり、意地の張り合いで屋根から落ちたり、、、、ほんとうにささやかでどこにでもあるエピソードの積み重ねによって、マリラとマシューの愛に包まれることによって成長していくのです。
ルーシー・モード・モンゴメリ(Lucy Maud Montgomery1874-1942)は、20世紀初頭という時代背景を持つゆえの、保守的な思想や女性の生き方への固定観念が色濃く残る文章を書いていますが、それは仕方がないことでしょう。まだ、女性はコルセットでからだをしばりつける衣装を着ていたのですから。
私は、子供のすこやかな成長には愛着対象が必要だ、という母子密着説を読んで、疑問に感じたことがあります。アンは、これほど想像力ゆたかで心優しい子供に育ったのはなぜか。生まれてすぐに両親を熱病で失い、他人に引き取られて育ったのに、どうしてこのように愛にあふれる育ちができたのだろうと不思議だったのです。
発達心理学の専門家と同席した折、赤毛のアンの話題が出たので質問してみました。
子供のなかには、ごくまれにではあるけれど、自己愛着によって自分を育てることのできる、いわば「児童発達の天才」とでも呼ぶしかない子どもが存在する、との回答でした。その自己愛着の具現化した姿が、洋服ダンスの扉ガラスに映るアンの話し相手「ガラスに映る親友ケイティ」だったのだと思います。アンは、自分に話しかけ想像の中で自分を肯定し、自分を愛した。「自分育ての天才」です。子供が自分を肯定し、自分に誇りをもって育っていくために必要な自己愛。一般の子供は周囲にいる養育者によって自己愛を持ち育っていくけれど、アンは自分を愛し自分を肯定できる天才だった、という発達心理学者の説。納得。
高畑勲版アニメで、ひとつだけ違和感が残ったシーンについてあげておきましょう。
「ネットフリックス版への姑の小言」みたいな文章になっていますからね。
アンがマリラに縫物を習うシーン。アンが使うはさみが、親指を入れるところとほかの指を入れるところのふたつがあるハサミではなく、握って使う和鋏だったのです。ほんの一瞬うつっただけのはさみですが、広瀬すず主演の「なつぞら」の時代にアニメ制作者にイメージされた「はさみ」が和鋏だったこと、とても印象に残ったことでした。それとも20世紀初頭のカナダでは、握りばさみが一般的にお裁縫に使われていたのかしら。
以上、本歌取りには元歌への敬意が必要であると考えること。ネットフリックス版「アンいう名の少女」には、モンゴメリーの世界観への共感がなく、原作の世界を壊していること、について申し述べました。
NHKの放映では第1シリーズ8回が放送されます。ネットフリックス版は第3シリーズ27回分が製作されているそうですが、NHKが続けて第2第3シリーズ放送したとして、ちょっと見るのがつらくなりそう。
<つづく>