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ぽかぽか春庭「2024年8月目次」

2024-08-31 00:00:01 | エッセイ、コラム


20240831
ぽかぽか春庭2024年8月目次

0801 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記真夏(1)ア・ツ・イ!
0803 2024二十四節季日記真夏(2)六義園
0804 2024二十四節季日記真夏(3)お涼み所・ 肥後細川庭園

0806 79年目に・忘れないー死んだ女の子

0808 2024アート散歩夏(1)涼を楽しむ現代日本画 in 郷さくら美術館
0810 2024アート散歩夏(2)にっぽんの里山展 in 写真美術館
0812 2024アート散歩夏(3)オールドノリタケとガラセサリーミュージアム

0815 ことばのYaちまた>79年目に・忘れないーシベリア

0817 ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩盛夏(1)「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」展 in 菊池寛実記念智美術館
0818 2024アート散歩盛夏(2)武井武雄展 in 目黒美術館
0820 2024アート散歩盛夏(3)平田郷陽の人形 in 東京国立博物館
0822 2024アート散歩盛夏(4)デ・キリコ展 in 東京都美術館
0824 2024アート散歩盛夏(5)アジア人物伝-歴史を織りなす人々 in 東洋文庫
0825 2024アート散歩盛夏(6)九曜紋展 in 永青文庫
0827 2024アート散歩盛夏(7)竹林之七妍 in 現代美術館
0829 2024アート散歩盛夏(8)現代美術私観・高橋龍太郎コレクション in 現代美術館
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ぽかぽか春庭「日本現代美術私観・高橋龍太郎コレクション in 現代美術館」

2024-08-29 00:00:01 | エッセイ、コラム


20240829
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩盛夏(8)日本現代美術私観・高橋龍太郎コレクション in 現代美術館 

 この展示のコレクター精神科医高橋龍太郎は、団塊世代の最初のほう、1946年生まれ。私はいまだに「ゲンダイゲージュツ、わからん」なのに、1990年代から収集をはじめ、いまや3500点を超える作品をコレクションになっている。値段で鑑賞するHAL方式でいえば、当初爆安の値段で購入したであろう現代美術、今では莫大な資産になっているはず。だれも買おうとしていなかった草間彌生の初期作品も村上隆も、ごっそり並んでいる。

草間彌生「かぼちゃ」1990

 草間彌生の作品、贋作展が中国で大々的に催され、贋作と知りながら押し掛けた観客に大人気でした。草間の作品を管理する財団の抗議で中止になりましたが、日本にいる私たちは高橋が収集した本物を見ることができます。(草間彌生美術館は入館料高いから入ったことなかった。現代美術館シルバーパスで見ることができてラッキー)
 近代美術館には黒い男根群がときどき展示されるが、喬橋コレクションの男根はグレーだった。アメリカ在住時代の「ハプニング動画」も古いブラウン管上のテレビモニターが映し出している。日本に帰国した当初の草間への評価は「ちょっとおかしな、いかれたアーティスト」だった。

 私、以前、草間かぼちゃがプリントされた公式グッズのランニングシャツを買ったのです。在庫一掃セールでMしか残っていなくて、無理を承知でMを買ったんですが、控えめな胸はすんなり入ったのに、控えていないこの腹は収まってくれず、草間かぼちゃを着て街を闊歩する夢は儚く、、、LL買えよ。 

 高橋龍太郎は学生闘争で挫折し、慶応大学医学部を退学。後に東邦大学医学部卒。ペルーでの国際協力事業団の医師として活動ののち、1990年にクリニック開設。1997年に自社ビル建設。コレクションを拡大していく。

現代美術館の口上
 高橋龍太郎コレクションは、現在まで3500点を超え、質・量ともに日本の現代美術の最も重要な蓄積として知られています。本展は、1946年生まれのひとりのコレクターの目が捉えた現代日本の姿を、時代に対する批評精神あふれる作家115組の代表作とともに辿ります。

 本展が手がかりとするのは、戦後世代のひとつの顔としての高橋龍太郎の視点です。団塊の世代の始まりとして育った彼は、全共闘運動に参加し、文化と政治が交差する東京の60年代の空気を色濃く吸い込んだのち、精神科医としてデイケアをはじめとする地域医療の推進に尽力します。その活動が軌道に乗った1990年代半ばより日本の現代美術のコレクションを開始し、現在に至るまで作品を収集してきた高橋は、現代美術の動向を受け手として内側から観察し、表現者とは異なるかたちでその重要な部分を体現してきた存在といえるでしょう。本展では、高橋龍太郎コレクションの代名詞ともいえる1990年代から2000年代にかけての日本の自画像のような作品群だけでなく、東日本大震災以降に生まれた新たなコレクションの流れを、時代の感覚の変化を映し出したものとしても紹介します。

 高橋龍太郎コレクションの形成は、1995年に開館した東京都現代美術館の活動期と重なっています。東京という都市を拠点に形成されたこの二つのコレクションは、互いに補完関係にあるといえるでしょう。一方それは、バブル崩壊後の日本の、いわゆる「失われた30年」とも重なっています。停滞する日本社会に抗うように生み出されたこれらの作品を、高橋は「若いアーティストたちの叫び、生きた証」と呼びます。本展は、東京都現代美術館がこれまで体現してきた美術史の流れにひとつの「私観」を導入しつつ、批評精神にあふれる日本の現代美術の重要作品を総覧する、貴重な機会となるはずです。 

 「胎内記憶」「戦後の終わりと始まり」「新しい人類たち」「崩壊と再生」「『私』の再定義」「路上に還る」の6章で構成。総勢115組という、膨大な近代から90年代生まれの作家の作品。 
  第1章に並んでいる草間彌生の作品やアラーキーの私写真は撮影禁止ですが、第2章以後は撮影できました。(一部撮影禁止マークのものもあります)。

村上隆(+田宮模型)「ポリリズム」1989 村上 隆《ズザザザザザ》1994年
  

 10年前の森美術館の会田誠展で見た「会田誠天才でごめんなさい」でも展示されていた「紐育空爆之図(戦争画RETURNS)」。え、これ高橋コレクションだったの?と思いました。展示は、会田誠展のときのように、ビールケースの上にベニヤ板というのも同じ。今回は、裏側の「廃屋解体の場から拾ってきたぼろぼろの襖」も見られる。
 会田誠が川端龍子記念館の鼎談で語っていた制作秘話によると、加山又造の「千羽鶴」に触発されて構図を決めたそう。

会田誠「紐育空爆之図(戦争画RETURNS)」1996
 「紐育空爆之図の裏側
 
会田誠「大山椒魚」2003


 ぽかぽか春庭「会田誠展 天才でごめんなさい2013」
 ぽかぽか春庭「会田誠 駄作の中にだけ俺がいる」

 もうひとり私のお気に入りの山口晃は「當卋おばか合戦」と「おばか合戦本陣図」が展示されていました。はじめて見たので、近づいて細かく見たかったのですが、山口晃、人気画家ですから次から次から画面の前に来る人がいます。人の視線を邪魔しないように観覧するようしているので、長い時間画面に近づいて見ていることはできない。本陣図の中のひとりだけ兜や陣笠じゃなくて現代の帽子をかぶっている人がいたりするのを、細かく見たかったのだけれど、、、、図録買えよ。

山口晃「當卋おばか合戦 」2001




西尾康之「Crash セイラ・マス」2008年


森村泰昌「野菜涅槃(若冲)」1990


森村泰昌「肖像九つの顔」1989

 死体解剖の博士もじっと見つめる弟子たちも全部森村の顔。ゴッホやモナリザやレンブラントに扮した森村もいいが、このように増殖した森村もいい。「夜警」全員森村とか、もっともっと増殖してみたらいいんじゃないか。 

塩田千春「ZUSTAND DES SEINS(存在の状態)-ウェディングドレス」2008


 ヤノベケンジ


森靖「Jamboree-EP」 2014
  [
    エルビス・プレスリーの巨大な像。晩年ドーナツ食いすぎで太っていたころだと思うのだけれど、胸がおすもうさんみたいに大きい。具象の肖像じゃないのだから、アーティストのいろいろな思いが入っている像なのだけれど、私には「絶大な人気スターの晩年の肉が余っているころの姿」を感じてしまったのだけれど。西尾康之「Crash セイラ・マス」と並び、ド迫力の像。でかい、ということがどれほど衝撃を与えるものか実感すれば、奈良も鎌倉も大仏作りたくなった気持ちわかります。

 鴻池朋子(1960~)「皮緞帳」 2015-2016年

 現代美術の中でも、でかい作品がどしどし展示されているのを見て、いくら自社ビルをもっている高橋龍太郎でも、これらのコレクション納めるにはでかい倉庫が必要だったろうなあ、購入費のほかに倉庫代もかかるなあ、と、年金で暮らせない高貴幸齢者はちまちまと倉庫代を計上する。

 高橋が最初に買った作品は合田佐和子《グレタ・ガルボ》。飯倉の青画廊で、5〜6万円くらいだったそう。バブルはじけて投資目的の金持ちたちの買いあさりが収まり、適正価格で買うことができた。

 展示の作品の中、倉庫に入れないものでなくて小ぶりの作品であっても、まだ売れてない現代美術を「そのうち値がでますから買いませんか」と勧められても決して買おうとは思わなかったと思う。目がない者の悲しいところ。
 ある人気タレントが、テレビ出演の記念品か何かで、草間彌生の小さいリトグラフをもらってしまいこんでいた。なんでも鑑定団出演を機に、この草間リトグラフを鑑定してもらったら数百万円だって。う~ん、私の腹が入らないランニングシャツには値がつかないものかなあ。
 
 高橋コレクションの膨大な作品の中から選びに選び抜いたキュレーターの腕がよかったのでしょうし、むろん高橋龍太郎の収集力がよかったのだと思いますが、苦手だと思っている現代アート、作品集もたくさんあって3時間ぐらい会場にいました。いい時間を過ごすことができました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「竹林之七研 in 現代美術館」

2024-08-27 00:00:01 | エッセイ、コラム

20240827
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩盛夏(7)竹林之七妍 in 現代美術館 

 8月第3水曜日シルバーディ。現代美術館に出むきました。
 現代美術に弱い、と常々思ってはいるのですが、現代美術館が第3水曜日のシルバーデイを再開したと知ったからには、出かけずにはおくものか。8月21日。平日のお昼過ぎですが、なかなかの賑わいです。私が出かける美術館は概して「本日もシルバーデイ」みたいな館が多いのに、さすが現代美術!若い人も多かった。無料ときけばどこにでも出張るジジババもいたけれど、現代美術と相性悪そうな。私もね。
 メインは高橋龍太郎コレクションですが、現代美術館所蔵作品展もついでに観覧。展示タイトル「竹林の七研」は、竹林の七賢のもじりで、七人の美女が「妍を競う」ようすを描いた絵を最初に展示。現代美術、女性アーティスト7人を特集していました。私の知っていたアーティストもあるし、はじめて見た作品もありました。

河野通勢「竹林之七研」1923

 
現代美術館の口上
 1階では、「竹林之七妍(ちくりんのしちけん)」と題し、新収蔵作品を中心に7人の女性作家に焦点を当てます。「竹林之七妍」とは、東京都現代美術館が所蔵する河野通勢の作品名に由来します。この作品では俗世を離れて竹林に集い清談を交わす古代中国の7人の賢者「竹林の七賢」が、鮮やかな衣装を纏った女性に変えて描かれています。時代や文化といった背景の異なる7人の女性たちが光の射す竹林のなかで花や鳥に囲まれて和やかに集うさまにならい、このたびの展示では、同館でこれまで紹介する機会の少なかった女性作家に光を当てることにしました。作品名にある「妍」とは、一般に姿かたちの麗しさや優美さを意味しますが、本展示では、美というものに対してどのように取り組み、作品としてきたかというそれぞれの美術家の活動を意味するものとして考えます。生誕100年を迎えた間所(芥川)紗織と高木敏子、漆原英子と小林ドンゲ、前本彰子は新収蔵作品を中心に展示します。福島秀子と朝倉摂は既収蔵作品をまとまったかたちで紹介します。

 

 高木敏子と間所(芥川)沙織は、生誕百年という記念の年の特集。高木は糸による立体作品が展示されていました。 

高木敏子(1924-1987)「花」ほか


間所(芥川)沙織(1924-1966)「イザナミノミコトの国造り」1955


間所(芥川)沙織「女Ⅺ」1955


福島秀子(1927-1997)「自画像」1940

福島秀子「Whiter BlueV」1982


小林ドンゲ「薔薇BlueMoon」1954

小林ドンゲ「青い蝶」1954


朝倉摂「群れ」1994

朝倉摂「不詳」1922-2014


朝倉摂「1963」

朝倉摂「神話の廃墟1」1964

漆原英子「The Snow Man」1956


前本敦子「深海のアネモネ」1992
 
前本敦子「パンドラの箱の中で2002」


 1階ではあわせて、コンセプチュアルな制作を通して創造行為を探求し続けてきた野村和弘の特集展示を行います。3階では「Eye to Eye—見ること」
 3階では「Eye to Eye—見ること」と題し、様々な視線の在り方に着目します。アレックス・カッツや中村宏、中園孔二などの絵画に描かれた視線を入り口に、反射する素材を用いた多田美波やモニール・ファーマンファーマイアンの彫刻、廃墟に錯視的なインスタレーションを作り出し写真に収めるジョルジュ・ルースの仕事、見えるものと見えないものとの間に遊戯性をもたらす開発好明のインスタレーションなど、多岐にわたる作品で構成します。さらに、絵画は「見るもの」ということを真摯に問い続けてきた画家、長谷川繁の特集展示を行います。  
 ついでに見た館所蔵展示だったけれど、思いがけず中園孔二の作品を見ることができました。芸大油絵科在学中から注目され、香川県移住後ひとりで材木置き場をアトリエにして描き続けた中園。私が彼の名を知った時にはもうなくなっていました。夭折の天才画家、という名を負う中園。香川の海辺へ自転車で出かけ、海に入り、そのまま行方不明になりました。25歳。生前何度かギャラリーで個展を開き、美術館での展覧会も開かれてきたのですが、私はのアンテナ感度弱く、見たことがありませんでした。中園の作品に出会えてよかったです。2024年6-9月に丸亀市の猪熊源一郎現代美術館で展覧会があるのですが、遠い。東京現代美術館での開催希望。

「無題」2010           「無題」2012
 

 竹林之七研入り口前で






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ぽかぽか春庭「 九曜紋展 in 永青文庫」

2024-08-25 00:00:01 | エッセイ、コラム

20240825
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩夏(10)九曜紋展 in 永青文庫

 永青文庫は、椿山荘前の次のバス停で降りて、坂を下っていきます。熊本細川家の下屋敷跡が、肥後細川庭園と和敬塾になっています。和敬塾本館は1936年に細川護立が建てた侯爵を邸宅を含め、実業家前川喜作が買い取りました。地方から上京する学生、留学生のための寮を設立しました。「和敬塾」西寮に、1968年4月から半年間西寮で暮らしたのは村上春樹。エエシのボンが入る寮なので、我々の御子息は入れません。(偏見&ひがみ)
 本館見学はもうだいぶ昔に行ったきりなので、月に二度実施される見学会に申し込みをしたいと思いつつ、2度目の見学できていません。 

永青文庫の口上
 細川家の家紋・九曜紋(くようもん)は、9つの星(太陽、月、火・水・木・金・土の五惑星、日月食や彗星〈すいせい〉に関係するとされる羅睺星〈らごせい〉・計都星〈けいとせい〉)を表すといわれます。星の信仰に由来し、古くから加護を願って車や衣服にあしらわれ、やがて家紋として広く用いられるようになりました。細川家では、2代忠興(ただおき、1563~1645)が織田信長より九曜紋を拝領したと伝えられ、のちに多用された9つの円が離れた紋は「細川九曜」とも呼ばれます。細川家において九曜紋は、武器武具から調度品、染織品、掛軸の表装にいたるまで、様々なところに表されました。
 当館初となる家紋をテーマとした本展では、こうした大名家の伝来品にみられる九曜紋を幅広く展示し、細川家と九曜紋の関わりを紹介します。作品のあちこちに隠された九曜紋を探しに、2024年夏は永青文庫へCome on!

 武士の衣服や武具に家紋をつけるのはわかるが、食器にも遊び道具にも化粧道具にも、細川家の持ち物には全部ついてる。戦国時代は足軽がかぶっていた陣笠も、お殿様用にあつらえると家紋が付く。 

 九曜紋散蒔絵鞍鐙17 -18世紀      陣笠(江戸時代)
 

刀掛け(江戸時代)           白糸裾紫威越中頭形兜(江戸時代)
   

 山鳥の羽をおったてた兜、派手です。ほんとに戦場に出たら真っ先に狙い撃ちされそうですが、持ち主だった細川宗孝の時代には戦乱もなかったので、タカ狩りとかにさっそうとこの兜をかぶったんじゃないかと想像します。

九曜紋と暮らす
 日常生活も、大名家奥方や姫様の暮らしだと、家紋がいっぱい。

 桜唐草九曜紋螺鈿料紙箱(江戸時代) 九曜紋蒔絵飯器杓子(明治時代)
  

九曜紋蒔絵膳椀             九曜紋銀製銚子
  

九曜紋蒔絵貝桶・合わせ貝(江戸時代)
 



 華麗な生活用品。こんな飯椀やら酒器を差し出されたら、落として壊したらこわいと思って、緊張してご飯ものどを通らない。と、庶民はびびりながら観覧。
 涼しい永青文庫でしたが、肥後細川庭園の松聲閣の休憩所のほうがのんびりできると思って、庭園へ。暑い中にも「涼しい場所で涼しくすごす」作戦を続けて、なんとか熱中症は免れて9月を迎えられそう。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「 アジア人物伝-歴史を織りなす人々 in 東洋文庫」

2024-08-24 00:00:01 | エッセイ、コラム


20240824
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩夏(9)アジア人物伝-歴史を織りなす人々 in 東洋文庫

 東洋文庫、1924年の開館から百年という節目の年にあたり、どんな展示があるのかなと出かけました。
 1階オリエントホールには、1924年生まれの阿部公房「砂の女」、加藤高明伝などが展示されていました。阿部公房は、北区西ヶ原生まれなので、東洋文庫の御近所さん、というところでしょうか。加藤高明は三菱に入社し、岩崎弥太郎の長女春路と結婚しており、政敵からは「三菱の大番頭」と揶揄されています。1924年に開館したころの総理大臣として取り上げているのだと思いますが、お身内、ということなのですね。

 2階は「アジア人物伝-歴史を織りなす人々 」の展示。ゆかりのある書物が並んでいました。2階の展示、それほど見たいと思ってはいなかったのですが、モリソン文庫の前でのんびりしたくて訪問。

 アジア人物伝


東洋文庫の口上
 教科書や専門書など、私たちが歴史の流れを知るために手に取る情報は、国や地域別にまとめられていることが多い。本展では、歴史に名を残した「人物」に着目して、日本をふくむアジア全域を対象とした広い視点で古代から近代までの歴史を通覧する。歴史上の人物が成したこととその影響を史料から見ていくことで、国、地域別ではないアジア史として、どのような時代の動きや特徴が浮かび上がってくるのかを探り、「あの人とこの人は同じ時代の人なのか!」といった気づきを楽しんでもらいたい。

 古代から現代までの「アジアを形作ったアジア人」の書物が並んでいます。読めないから、あまり面白くない。どんなこと書いてあるのか、ちょこっとでもパネルにしてもらえれば、読めない素人も楽しめるのだけれど。
 エドワード・S・モースの「日本その日その日」の挿絵頁が開いてあり、これならモースが門松なんぞを珍しく思ったんだろうなあ、と見当がつく。

 古代から現代までの「アジアを形作ったアジア人」の書物が並んでいます。読めないから、あまり面白くない。どんなこと書いてあるのか、ちょこっとでもパネルにしてもらえれば、読めない素人も楽しめるのだけれど。

 エドワード・S・モースの「日本その日その日」の挿絵頁が開いてあり、これならモースが門松なんぞを珍しく思ったんだろうなあ、と見当がつく。


イブン・バットゥ―タ(1304-1368年/69年) )の「大旅行記」

 イスラム教徒のいる地を巡り、21歳から30年もの長い期間、旅人だったイブン。1355年に旅行記を出版したあとの消息はよくわかっていない。
 イブンと同時代人として北条泰時が並んでいました。本は「御成敗式目」。中国の同時代人はクビライ。「元史」が展示されていました。 

  モリソン文庫の前にある椅子は2脚だけです。この部屋が大好きという人も多く、混んでいるときはゆったりのんびりしにくいですが、7月22日は、猛暑日の月曜日ですから、モリソン文庫前にだれもいない時間もあり、のんびりできました。2階、中3階、3階の三層に2万4千冊の本が並んでいるのを眺めていると、人類が文字を書くことを始めてから、営々と叡智を紡いできたすごさを実感できるような気になります。



 今回、はじめて知ったこと。映画『慕情』でウィリアム・ホールデンが演じたジャーナリスト、マークのモデルのイアン・モリソンは、モリソン文庫のジョージ・アーネスト・モリソンの息子だった。「慕情」の原作本がモリソン文庫のはしっこに展示されていました。
 
 モリソン書庫には、百年前にJ・Aモリソンが集めた本の挿絵やイラストも収蔵されています。その中から、「中国の服装」という絵が展示されていました。最近の研究では、「西洋人が西洋からのなまなざしで見た東洋」というようなことも含んで見るようになっていますが、私は単純に百年以上前の中国の服装を楽しみました。

使用人に付き添われた母と子      さいころ遊びに興じる農夫と水夫
 
 荷運び人              官吏と奉公人
  



<つづく>
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ぽかぽか春庭「デ・キリコ展 in 東京都美術館」

2024-08-22 00:00:01 | エッセイ、コラム

20240822
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩盛夏(4)デ・キリコ展 in 東京都美術館

 7月26日にでかけました。猛暑の中、午前中東博、午後都美、夜庭園美術館という三連続ハードスケジュール。高貴幸齢者、貧のがんばり。
 庭園の竹久夢二展、私は一度見ていますが、娘が夜間開館日に行くというので、二度目の観覧。一度目はシルバーパス利用で見て、二度目はぐるっとパス利用。高齢者は家にいてエアコン代をケチって熱中症になるから、図書館とか冷房が効いている場所ですごせ、という区報のおすすめに従ってのことです。庭園美術館は、目黒区の「高齢者避暑場所」のひとつになっています。無料じゃないけど。

 ぐるっとパスで入場できないので、見にいくかどうか迷っていた東京都美術館のデ・キリコ展。「漫画家画家文筆家」と名乗っているヤマザキマリさんが「好きな画家のひとり」とおっしゃっていた。好きな画家が好きだと言ったデ・キリコ、ヤマザキマリが好きなら見ておかなくちゃ、とミーハー基準で観覧を決定。

 ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)の形而上絵画の試みは、シュルレアリズムの先駆者となりました。
 
東京都美術館の口上
 20世紀を代表する巨匠の一人、ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)。彼が1910年頃から描き始めた「形而上絵画」(幻想的な風景や静物によって非日常的な世界を表現する絵画)は、数多くの芸術家や国際的な芸術運動に大きな影響を与えました。
 本展では、デ・キリコのおよそ70年にわたる画業を「イタリア広場」「形而上的室内」「マヌカン」などのテーマに分け、初期から晩年までの作品を余すところなく紹介。デ・キリコが描いた世界をたどる、日本では10年ぶりの大規模な個展となります。

Section1  自画像肖像画
弟の肖像1910

自画像のある静物1950年代半ば
 

Section2  形而上絵画 1910年代に描かれた形而上絵画をキリコ自身が1970年代再画したの絵を含む)
バラ色の塔のあるイタリア広場1934頃   形而上のコンポジション1916
 
哲学者の頭部がある形而上的室1926    南の歌1930頃  
 
球体とビスケットのある形而上的室内1971 不安を与えるミューズたち1950頃
  
ヘクトルとアンドロマケ1978      詩人と画家1975
 
予言者1914-1915        オレステストとエレクトラ1975
 
トロイアの前のヘクトルとアンドロマケ


Section3 1920年代の展開

ギリシャの哲学者たち1925     室内の家具1927  
   
谷間の家具1927


Section4 伝統的な絵画への回帰ー秩序への回帰とネオ・バロック
アキレウスの馬1965
 

Section5 新啓而上絵画
オデュッセウスの帰還1968      イーゼルの上の太陽1975
  
オイディプスとスフィンクス1968   瞑想する人1971 
 
放蕩息子1973           競技場の剣闘士1975
 

Topic1 神秘的な水浴 1936    
  
 
白鳥のいる神秘的な水浴1958


 

 


 見にいくかどうか迷っていたデ・キリコ展。ヤマザキマリに背を押されて見にきてよかったです。

 

 20世紀アートシーンを突っ走り続けたピカソもデ・キリコも一度は古典的表現に戻った時期があることが共通しています。21世紀のアートがどのように歩んでいくのか、「予言者」のパネルの前に撮影自由コーナーがありました。私はアートの未来なんて予言できないけれど、アートを楽しむ人であり続けたい。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「平田郷陽の人形 in 東京国立博物館」

2024-08-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20240820
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩盛夏(3)平田郷陽の人形 in 東京国立博物館

 人形好きの春庭、最初に平田郷陽(1903-1981)の作品に出合ったのは、国立近代工芸館が旧近衛師団のレンガ建物内にあったころの「桜梅の少将」を見たときです。以来工芸館で郷陽人形を見てきましたが、今回東博でまとまった作品展示がありました。

 桜梅の少将1936(国立工芸館)


 東京国立博物館の口上
 二代平田郷陽は、1955年、重要無形文化財「衣裳人形」保持者(人間国宝)に認定された創作人形作家です。その父・初代平田郷陽は、日本の伝統的な製作技法を用いて極めて写実的に造形する「生人形」作りを職業とし、二代目郷陽自身もまた、生人形作家として作家人生を スタートしました。しかし、人形もまた絵画や彫刻と同様に芸術としての価値があるという思いから、「創作人形」を志すようになります。1936年、改組第1回帝展に入選し、その後、帝展、文展、日展などで活躍するようになりました。郷陽の創作人形は、伝統的な「衣裳人形」の形態を採用し、生人形制作で培われた確かな写実性に基づきながら、人々の生活や心情を情趣ゆたかに表現しています。
 戦後は日本工芸会を中心に、創作人形の第一人者として活躍を続けました。伝統的な衣裳人形からの脱却を試み、抽象的なフォルムを持つ木目込人形へと向かう姿勢には、時代とともに変化する芸術の動向に向き合う、郷陽の姿勢が垣間見えます。
 本展では、作風の変遷に合わせ4つのテーマで郷陽の創作人形の世界を紹介し、郷陽がリードしてきた創作人形における伝統と革新の一時代を紹介します。

 父であり師匠である初代平田郷陽は、生け人形作者の安本亀八の弟子でしたから、二代平田郷陽も写実の技をしっかり身に着けました。21歳で父を失って二代目を継いだのち、節句人形などの制作で生計を維持しつつ、芸術としての人形制作に心血をそそぎました。

 第1章 創造の原点・生人形
 薬玉1933        
 
 手足の指の爪の先まで写実に徹しています。

婦女1932            朝鮮の佳日1937
   
 平田は、朝鮮服を購入して研究したと伝わります。
 
第2章 芸術としての人形を目指して
十三夜1947

 
第3章 写実からの解放
 秋韻1953         朝霜1955         
  
流れ1962              おんな1964
   

抱擁1966           香り1969    
   

第4章 人形芸術の大成
朝の庭1972            宴の花1975
   

 年代順にみていくと、平田が芸術としての人形制作をつぎつぎと革新していき、自己の表現を深化させていく過程がわかりました。物静かで上品な女性の表現が多いと感じますが、郷陽から現代の人形表現が広がっていった先に、四谷シモンもおり、昨年夏に松涛美術館で見た人形展のようなとんがった展示にもつながっていく。

 国立工芸館が金沢に移転してしまったので、まとめて人形を見る機会が減りましたが、新しい人形作家が育っていると思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「武井武雄展 in 目黒美術館」

2024-08-18 00:00:01 | エッセイ、コラム


20240818
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩盛夏(2)武井武雄展 in 目黒美術館

 政治家や政治家を目指す人が失言をしてしまうのは、今も昔も大衆にとっては「楽しみごと」の一つです。その失言をたたくのは、発言の機会がない、または少ない一般大衆にとって、失言した者を自分のレベル以下に貶めるよい材料になるからです。
 品性低い私なんぞ、政治家の失言を知ると手をたたいて大喜び。最近話題になった発言のひとつに「女子供」という発言で上げ足をとられた都知事候補者がいました。彼は「前後の文脈を無視して一部を切り取って批判することこそ問題」と反論しました。コンプラ(コンプライアンス)やらポリコレ(ポリティカルコレクトネス)全盛の昨今、久しぶりに「おんな子ども」という言葉がマスコミに氾濫しましたから、面白かった。75婆といえども「おんな」ですからね。おんな子どもという発言にはいろいろと。

 私は、武井武雄(1894-1983)を知りませんでした。
 先日観覧した竹久夢二。私の子供のころ、竹久は田舎の子供でも知っている有名画家でしたが、「所詮女子供の喜びそうな通俗画家」として扱われてきました。再評価がおこなわれるようになったのは、そう昔のことではありません。中原淳一も竹久夢二も「私の好きな画家ランキング」に入っていませんでした。武井武雄については、そもそもその名を知らなかった。

 武井武雄は、「しょせん子供相手の絵」という世評に対し、一生をかけて追及すべき分野と思い定めて、童画というジャンルを起こし、版画表現の可能性を追求しました。でも、子供のわたしが武井が挿絵を描いた絵本を見たとしても、文章の作者のほうに目を向けても、挿絵の画家の名は、一瞥後は忘れてしまっていたのだと思います。
 5歳のとき堀文子が挿絵を描いた「青い鳥」が大好きになったのに、堀文子の画業全体を知るのは「青い鳥」から50年もたってからのことでした。

「星曜日」1965


目黒美術館の口上
 大正から昭和期にかけ、子どもたちに本物の芸術に触れてもらうことを目的に「童画」という呼称を広めた武井武雄は、2024年に生誕130年を迎えます。童画の他にも、本の芸術作品「刊本作品」とその原画、版画作品などを中心に、多岐にわたる創作の広がりを紹介します。また、当館所蔵作家の秋岡芳夫の童画関連作品も併せて展示します。

 大正期、子どものための文化が目覚ましく開花しました。1918(大正7)年には児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、「童謡」が誕生します。
伝承された昔話や民話だけでなく、これらを基に新たに創作された物語、さらに全く新しい創作童話も発表されました。しかし、当時出版された挿絵は、物語の添え物としかみなされませんでした。このような状況下で、子どものための芸術こそ本物の芸術でなければならない、そのために「童画」という言葉を発案し、これを一つのジャンルとして確立することを目指し、活動した人物がいました。その人こそ武井武雄(たけいたけお 1894-1983)です。今年、生誕130年を迎える武井の豊富な創作活動をふりかえる展覧会を開催します。

 武井は「童画家」として活躍する一方、版画家、デザイナー、教育家としても大いに活躍しました。さらに、郷土玩具収集にも没頭し、『郷土玩具東の部西の部』(1930年)の出版により初めて郷土玩具を体系的に紹介するという研究者としての一面もありました。
 本展では、豊かな幻想世界を通じて子どもたちに夢を与える[童画]、銅版画や木版画など多様な技法で制作された[版画]、装丁・函(はこ)・本文・絵で構成される総合芸術で「本の宝石」とも称される[刊本作品]を軸に、原画類やデザインの仕事など、多岐にわたる武井の幻想にあふれる世界を紹介します。巡回展である本展において目黒会場のみの展示として、武井と日本童画会で志を共にした目黒ゆかりの作家、秋岡芳夫の童画作品もあわせて展示します。

 武井武雄略年譜
1919年 東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科卒業。
1922年 絵雑誌『コドモノクニ』創刊。
1923年 処女童話集『お伽の卵』出版。
1925年 初の個展「武井武雄童画展」開催。この時期に童画という言葉を創造。
1927年 日本童画家協会を岡本帰一、清水良雄、深沢省三、川上四郎、初山滋、村山知義と結成。
1929年 自ら創案した新作の玩具・小手工芸品「イルフ・トイス」展を開催。
1944年 恩地孝四郎の推薦により日本版画協会会員となる。
1946年 日本童画会結成。委員となる。文化団体「双燈社」を起こす。
1959年 紫綬褒章受章。
1967年 勲四等旭日小綬章受章。
1998年 長野県岡谷市にイルフ童画館開館。
 
 展示の作品は、ほとんどが岡谷市のイルフ童画館の所蔵です。イルフって北欧神話などでいうエルフをどこかの言葉で言ったものかと思いましたが、ぜんぜん違った。フルイの逆ヨミでイルフ。古いの反対の新しいという意味合いの、武井の造語です。

プロローグ 1階の第一室には、武井武雄の初期の作品から展示されていました。イルフ童画館所蔵の版画その他の絵画は撮影禁止ですが、出版物展示は撮影OKです。
 自画像など1910年に描いた油絵。16歳ころの風景画や桃の絵、上手ですが、この先どういう画家になるのか見当がつかない、よくある洋画でした。

 美術学校卒業後、1922年にコドモノクニの創刊表紙を描いて以後、子供のための絵を一生の仕事にすると決意を固め、 1925年、30歳を過ぎたころには「童画」を掲げて個展を開くまでになりました。

第1章 童画
 武井武雄「コドモノクニ」創刊号表紙1922 ほか
   

「アンデルセン童話集」


「ジャックと豆の木」1966

 ラムラム王 1926

近くの世界
 

第2章 版画
 武井は、版画について研究を重ねました。伝統的な紙や木版のほか、セロファン紙に螺鈿をほどこしたものなど、新しい表現に挑戦しました。

「鬼」1952            牡丹妖記 版木
 


 『人魚と嫦娥』螺鈿細工、紙・樹脂・漆 1965~66年 


「ナイルの墓」パピルス版画
 

第3章 刊本作品 雑誌
 近くの世界
 

 

 
 RRRという署名を使っていた。


第4章 デザイン

武井デザインのかるた「赤ノッポ青ノッポ」


第5章 木にとまりたかった木のはなし


 黒柳徹子さんが、童話の原作を仕上げ、知り合いを通じて武井武雄さんに挿絵を頼みました。武井さんは快諾したのですが、その2か月後に急逝。しかし、娘さんが武井の絵を精査し、「木にとまりたかった木のはなし」のお話に合う絵を選び出しました。「トットちゃん」の挿絵もいわさきちひろの既存の絵から選んで合わせたということなので、2度目の方法。

 お話の内容。鳥たちがとまりたがる枝を持った木が「わたしも木にとまってみたい」と願いました。鳥たちは木を大地から抜き、木にとまらせてやりました。木は船に乗ることになり、大海原へ。ペンギンのいるところも訪問し、最後は大きな山のあるところへ帰ってくる、というお話です。お話の流れにちょうど合う絵が並べられ、お話にぴったりで
した。

 鳥たちが止まりたがる木   木の上に花を散らす鳥たち(空飛ぶ花屋)
  

最終ページ 「このお話を考えた女の人の絵です」
 黒柳さんに出会う前に描かれたのに、黒柳徹子の雰囲気が出ているのでびっくり。


 初めて見た武井武雄の絵。子供だけでなく、大人の心も打つ絵を描きたいと願っていたという武井。はい、初めて見た75歳も心うたれました。



<つづく>
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ぽかぽか春庭「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」展 in 菊池寛実記念智美術館」

2024-08-17 00:00:01 | エッセイ、コラム


20240817
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩盛夏(1)「走泥社再考 前衛陶芸が
生まれた時代」展 in 菊池寛実記念智美術館

 大倉集古館から歩いて1分もしないところにあるのですが、これまでぐるっとパスでは、割引だけでしたから、お金を払ってまでお金持ちが収集した陶磁器を見ようという気持ちになれなかった。今回、ぐるっとパス提示だけで入館できることがわかりました。私ルールでは、ぐるっとパスは最初に2500円で買ったあと、無料で入館できるところだけ訪問する。丸の内に進出した静嘉堂文庫がぐるっとパス対象館ではなくなったのは残念でしたが、対象館がふえることもある。



 今回の展示の作品、智美術館の所蔵品は少ない。さまざまな美術館から集められた走泥社のオブジェ焼き。日本の陶芸の最前線を走り続けた団体の回顧展です。司馬遼太郎が八木一夫について語っているインタビューの再放送を見たり、日美の紹介などもみましたが、私がこれまでになじみがあったのは「ザムザ氏の散歩」だけでした。他の走泥社に集った人々の作品。ぜひ走泥社の陶芸を見たいと望んで入館しました。

八木一夫「ザムザ氏の散歩」1954

 私が撮影自由の美術館で撮影した作品は、ほとんどが下手です。専門のアート写真家にくらべ下手なのは当然ですが、私は自分の思い出のために、自分の目で見たままを映したいと願って、下手の横好きをつづけています。が、このザムザ氏は、すごく上手に撮れたと思います。

 菊池寛実記念智美術館に初めて入りました。門から入って最初に目に入るのは、私の好きな古い洋館です。この日は内部は」閉鎖中。


 菊池寛実(1885 -1967年 )は、明治から昭和まで、炭坑で大きな財をなした富豪です。菊池智(とも1923-2016) は寛実の娘で、陶磁器のコレクターでした。智は、二十歳のころ、父が炭鉱に築いた登り窯によって陶磁器に興味を持ち、収集をはじめました。2003年に、寛実が残した土地にビルを建て、一階ロビーとカフェ、地下一階を展示室としました。

 洋館は1924年に建設されました。建てられてから百年目の館、見学機会があるとき、ぜひ訪問したいです。
 美術館内1階ロビーあたりから庭に出る出入り口があるかと思ったのですが、カフェからの出入り口しかなかった。恵比寿で、ビアホールランチの「ハンバーグカポナータソース&アジフライ&海老フライ大盛ライス」というのを食べておなかいっぱいだったので、カフェに入らずに出てきてしまいました。

 らせん階段の階段手摺は、ガラス作家の横山尚人(1937~)の作品。フラッシュ禁止にすれば走泥社の展示作品は撮影OKでしたが、らせん階段の撮影は禁止とのこと。よって、下の写真は、階段を撮影したものではなく、踊り場の作品「公害アレルギー」を撮影したものです。

  

 地階の走泥社のオブジェ焼きは、「前衛」を走り続けた作品がずらりと並ぶ光景、圧巻の展示でした。

 階段の踊り場に展示された、里中英人「シリーズ公害アレルギーⅠ-Ⅵ」1971
 
 オブジェはオブジェとしてだけでなく、社会に向かって作家の意図を表現していけることを示した作品「公害アレルギー」 
 でも、私、感性にぶいから、タイトル見ないうち、この作品から公害って、即座には感じられなかった。この作品に「蛇口の変容Ⅰ-Ⅵ」というタイトルがついていたら、そう思うし「アサガオ六種」と出ていたら、マットという署名が入ったオブジェ「泉」へのオマージュかパロディと思ったろう。体内の水分放出の出口が右側から歪んでいき、一番左ではついにもげてしまって穴ぽこだけ。なるほど、公害が進んで行けば、最後はもげてなくなるんだな、ってとこまで詰めないと公害の意味が伝わらないという鈍さ。

 前期展示の第一章第二章「走泥社結成から「オブジェ焼」の誕生とその展開 1963までの作品」のうち、展示されていたのは、八木のザムザ、鈴木の「ロンド」山田の「作品」の3点のみ。

後期展示
第三章「現代国際陶芸展以後の走泥社」1964-1973

八木一夫「小町のギプス」1964  八木一夫「曲」1964
   

八木一夫「黒陶 環」1967   八木一夫「白い箱」1971
   

八木一夫「頁Ⅰ」1971     


山田光「作品」1957

山田光「塔」1964    山田光「陶壁」1969
 

鈴木治「ロンド」1950    


鈴木治「フタツの箱」1964    鈴木治「泥像」1965
 
鈴木治「縞の立像」1971  鈴木治「馬」1972 鈴木治「上を向く馬」1975
  
   
 熊倉順吉「困却」1965     熊倉順吉「風人’67」1967
  

林康夫「ホットケーキ」1971  
 ホットケーキに最初にナイフをいれたところ、という解説でしたが、私の印象では「われめ」。すごいエロチックなエネルギーを放出している感じがしました。作品をどう受け取るかは、見る人の勝手。

川上力三「荒法師」1964   川上力三「偽証」1966
   

林秀行「三つの形」1970   林秀行「作品」1973
 
 展示脇の解説プレートによると、林秀行「作品」は、三つのポットが男。ポットから注がれる器(穴?)が女であるとのこと。左右にあるのは卵管か。第二回日本陶芸展前衛の部で、文部大臣賞を受賞した作品です。この文部省方針でいけば、少子化も今ほどひどくなかったかもしれないのに、「少子化を正すには一夫多妻がよい」なんて言い出す輩がいるから、この先もあやうい。

益田芳徳「沈黙」1974


現代国際陶芸展より
ケネス・スターバート「花生」1963 ピーター・ヴォ―コス「陶彫」1963 ルーシー・リ「大鉢」1963  
 

 一部作品の入れ替えがある展示方法は他の館でも取られている方法ですが、前期と後期でがらりと入れ替えがあるとは思っていなかったので、前期作品を見ることができなかったのが残念でした。
 ポスターなどの表示に「前期は1963年までの走泥社作品を展示」「後期は1963以後」と、別々の展示であることをはっきり示しておいてほしかったです。

 走泥社、前衛陶磁器の最前線を走り続けたエネルギーに圧倒されました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「忘れないーシベリア」

2024-08-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20240815
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>忘れないーシベリア

香月泰男 シベリアシリーズより「朕」1970


 暗い画面なので、縮小してしまうとわかりにくいのですが、なかほどの白味がかった四角の中に書かれているたくさんの文字。「朕」と書かれています。この四角いものは、「軍人勅諭」です。四角い中の「朕」が人々をシベリアへ追いやり、厳寒と飢えのなかに死なせた。また原爆へ、空襲へと人々を追いやったのも「朕」の命令一下によりました。香月は日本へ帰ることなくシベリアの凍土に残された5万5千の魂をこの絵に残しました。
 朕はただ一人の人が用いる一人称ですが、たくさんの朕を書き込んだ香月の意図は。「朕」は特定の一人をさすのではなく、人々を戦争へと駆り立てた社会全体を意味すると思います。社会全体が朕の命令に従い、戦争をよしとした。
 画家のことばが残されています。 
〈画家のことば〉
 人間が人間に命令服従を強請して、死に追いやることが許されるだろうか。民族のため、国家のため、朕のため、などと美名をでっちあげて・・・・・・。
朕という名のもとに、尊い生命に軽重をつけ、兵隊たちの生死を羽毛の如く軽く扱った軍人勅諭なるものへの私憤を、描かずにはいられなかった。敗戦の年の紀元節の営庭は零下30度余り、小さな雪が結晶のまま、静かに目の前を光りながら落ちてゆく。兵隊たちは凍傷をおそれて、足踏みをしながら、古風で、もったいぶった言葉の羅列の終るのを待った。

我国ノ軍隊ハ世々、天皇ノ統率シ給フ所ニソアル・・・・・・朕ハ大元帥ナルソ、サレハ朕ハ・・・・・・朕ヲ・・・・・・朕・・・・・・
朕の名のため、数多くの人間が命を失った。
『シベリヤ画集』(新潮社、1971年)香月泰男(かづき やすお)

 香月泰夫のアトリエの一角に、鉄条網のはしきれがぶら下げられています。この有刺鉄線について、香月が語ったことばを書き留めておきます。
現代の日本に住んでいると、まるであらゆるものが、よってたかって私にシベリアを忘れさせようとしているようだ。そんなとき、私の心を刺してくれる棘が必要なのだ。それが、仕事場の中の有刺鉄線なのだ。有刺鉄線を目にするたびにシベリアがよみがえる」(日曜美術館から春庭書き起こし)

 今の豊かさと平和を享受することが悪いのではない。ただ、この平和と繁栄は、無数の死者と戦地を生き抜き捕虜生活を生き抜き戦後社会を生き抜いた私の父母たちが生涯かけて築いてきたものであることを忘れてはならない。
 私も心の中に有刺鉄線をぶら下げておく。有刺鉄線は、平和に慣れ切ってだらだらとすごす今の心を、揺れながらチクリと刺す。

 祈ることしかできないので、祈りをささげます。
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ぽかぽか春庭「となりの不思議&田口薫展 in オペラシティアートギャラリー」

2024-08-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20240813
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩夏(4)となりの不思議&田口薫展 in オペラシティギャラリー

 シュールレアリズムの絵画、好きです。
 コレクター寺田小太郎が収集した日本画家の超現実主義の作品展、高田賢三展のついでに見ましたが、なかなかよい作品が並んでいました。

オペラシティアートギャラリーの口上
 当館収蔵品の寄贈者 ・ 寺田小太郎氏(1927–2018)は、幻想的な絵画をことのほか好み、収集した。生前の寺田は雑誌のインタヴューでその理由を次のように語っている。「(超現実主義や幻想絵画の世界は)単なる想像の世界ではなく、現実の秩序を壊すことで、物事の根源に迫るひとつの筋道であると思っています」
 その前提として寺田氏はこうも語っている。「私達は、目に見える世界の中で悪戦苦闘しながら生きています。そうすると、どうしても目に見える現実の中でしかものを考えられなくなってしまいます。しかし、それだけではないはずです」
 本展では、寺田コレクションの特色のひとつである、一見ありふれた風景に見えながら、ふと現実への疑問を感じさせる作品群で構成した。「あたりまえ」と思い込んでいるものごとへの新たな視点を誘い、考えるきっかけを与えてくれる作品群を前にすると、私たちはいかに固定観念に囚われがちであるかを実感するのではないだろうか。作品を鑑賞することで、自らを律する。時には自己否定さえ余儀なくされる内省の場を、寺田はいとわず、欲した。私たちは時流や時勢に流されそうになったとき、あるいは流されている自覚すら失っている時、寺田氏の遺したこの言葉を胸に、彼がものごとの根源を知るよすがとしたこれらの作品の前に立ってみれば、自らを省みる機会になるだろう。

川口起美雄「柔らかな隕石」1993
 

ニルス・ウド「ハマナスの花」
 
 現実にはあり得ない光景やものが、画家の想像力によって目の前に出現する。私の感覚は本当に狭いものだから、シュールレアリズムによって感覚をひろげてもらい、不思議な世界を見つめていきたい。

田口薫展 オペラシティアートギャラリーの口上
 田口は、絵筆によって描くことと、彫刻刀で表面を彫ることという手順を繰り返すことで作品を制作している。実際に作品を見るとわかるように、画面の表面には、彫刻刀で削り出された無数の線が走り、図像を形づくっている。それは、木の板を刃物でえぐって彫るという直接的な接触の痕跡であり、見る者に物質性と身体性を強く意識させる。ここには、描くことで対象から距離を取り離れると同時に、近づき接触するという二つの相反する力が働いている。イメージは、「刻印」や「傷」として刻まれているのだ。
 このように、田口の絵画では、常に「離れる/近づく」、「切り離す/接続する」、「描く/彫る」という相反する運動が絶えずせめぎ合い、拮抗している。田口自身はそれを「画面の層を遡行/浮上するような運動」という言葉で語っているが、「描く」とは画面の上に絵具を重ねる行為であり、「彫る」とは画面を下へと掘る行為である。絵具によって重ねられた色面による図像と、彫刻刀で彫り出された線による図像は、画面という平面の前後関係を撹乱し、イメージは常に浮かびあがっては溶け込んでいくような揺らぎのなかにある。作家は、対象を自らと切り離し、距離を取ろうとするが、それでもなおイメージは、完全に引き剥がされる手前で留まり、分かちがたい結びつきを保持している。田口の絵画においては、アンビバレントな力が絶えず発動し、寄せては返す波のように揺らいでいる。(瀧上華)

田口薫「聖顔布」2024

 

 瀧上さんの解説を読んでも、なんだかよくわからない非見巧者なのだが、私の感性がしばし揺れたので、脳に刺激があったのだ、と思う。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「オールドノリタケとガラス in アクセサリーミュージアム」

2024-08-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20240812
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩夏(3)オールドノリタケとガラス in アクセサリーミュージアム

 アクセサリーミュージアムで、オールドノリタケの展示がありました。館所蔵品が中心でしたから、点数は多くなかったですが、陶磁器の技法の解説もあり、充実した展示でした。また、館所蔵のガラス器の展示もあって楽しく観覧。

アクセサリーミュージアムの口上
 19世紀後半のジャポニスム人気と共にアメリカの生活に広く浸透したオールドノリタケは、当時では珍しい現地での流行や需要を商品展開に取り入れたことで知られています。オールドノリタケとは、株式会社ノリタケカンパニーリミテドの前身である日本陶器と森村組が第二次世界大戦終結までの間に製造販売し、輸出した陶磁器を指します。彼らはアメリカの流行をいち早く商品に反映させるため、ニューヨークに図案部を設置し、現地で描かれたデザイン画を日本の専属画付工場で忠実に製作しました。

藤文絵皿(金盛り)


湖水のスワン アーチ型花瓶(タペストリー)
 タペストリーとは、陶器の表面にタペストリーを当て、折り目模様を写し取る技法。

ウッドランド花瓶(エナメル盛り)


リンドウ泥漿 花瓶(盛り上げ)

静物画大皿(素描き)

 

 

 

 

 

 オールドノリタケと同時代のガラス器も、エミール・ガレの花瓶やドーム兄弟のガラス製品など展示されていました。

 

 

 ノリタケもガラスも美しく目の保養になりました。使ってこその美しい器と思うのですが、もしも私がひとつ手に入れたとしても、私が使うとすぐ割ってしまうだろうから、きっと大事にしまって眺めるだけになってしまうかも。毎日使うのは百均の皿や景品のコップになるでしょうが、いつかはガレのコップでジュースを飲み、ノリタケの皿でソース焼きそばを食べましょう。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「にっぽんの里山展 in 写真美術館」

2024-08-10 00:00:01 | エッセイ、コラム

20240806
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩夏(2)にっぽんの里山展 in 写真美術館

 写真美術館、第3水曜日シルバーディに観覧。2Fの「にっぽんの里山」展、NHKの番組で写真家の今森光彦さんのお姿はよく見ていましたが、テレビで見る以外に、まとまった写真展を見るのは初めてです。

 2階ロビーの大きなパネル


写真美術館の口上
 世界の熱帯雨林、砂漠から、国内の自然環境まで、自然と人との関わりをテーマに美しい映像と親しみやすい文章で伝えつづける今森光彦。東京都写真美術館では、自然写真家・今森光彦の「にっぽんの里山」を開催します。
 幼いころから昆虫の生態と美しさに魅了された今森は、世界中の昆虫を求めて精力的に取材活動をつづけ、既成の生態写真にとらわれない独特な自然観に基づく作品は、内外で高い評価を得ています。また、故郷である琵琶湖周辺を中心とした「里山」と呼ばれる空間を見つめつづけ、自然と人との絶妙なバランスで生み出される里山を映像化してきました。本展覧会は今森が出会った日本全国200カ所以上の里山の中から、厳選した作品を紹介するシリーズ最新作です。
里山をめぐる今森の旅は、自然と人が調和する空間を鮮やかに浮かび上がらせ、美しく多様性に富んだこの国の自然に気づかせてくれることでしょう。今森光彦のライフワーク、里山シリーズの全貌が解き明かされる「にっぽんの里山」にご期待ください。

展示室




 日本の里山は、全国的に「絶滅危惧」の状態にあります。大きな町の周辺では開発の波が進み、雑木林を伐採しつしたり、低山まるまる平らにならしてしまったりして、宅地化されているようです。山にしておいたら山菜やきのこくらいしか現金化できませんが、宅地にしてしまえばひと財産手に入ります。山や森の所有者に、それを禁じることもできない今の土地管理ですが、他より高めの土地代が手に入るからと、外国資本の土地開発会社などに日本の土地がどしどし売られていることを思うと、釈然としないこともあります。土地は全国土「国有」という国家のもとでは、富裕層であっても土地を手にいれることはできません。日本の土地を私有することは、子孫への相続も考えるとこんなによい投資はありません。

 今森さんもインタビューなどで、「里山を保全することの価値に人々が気づいてほしい」と述べておられました。美しい里山の景色も、昆虫や鳥、動物たちの姿のすばらしさに感嘆しても、里山がなくなるご時世は進むことをなげきながらの写真鑑賞になりました。

 海岸を埋め立てて白砂青砂もなくなり、山は削られ、ウサギを追った山も小鮒を釣った川もなくなったこの国に、美しいふるさとは消えていくばかり。

今森の里山



 

 写真にはすべて撮影場所と撮影日時が明示してありましたが、はたして10年後に同じ写真が撮れるのは、どのくらいでしょうか。
 残ってほしい、残してほしい。かなわぬ願いでしょうか。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「涼を楽しむ現代日本画 in 郷さくら美術館」

2024-08-08 00:00:01 | エッセイ、コラム

20240806
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩夏(1)涼を楽しむ現代日本画 in 郷さくら美術館

 7月6日、郷さくら美術館で「涼を楽しむ現代日本画」を観覧。

郷さくら美術館の口上
 日本画には季節を感じる題材が数多く描かれています。夏の風物詩である蓮・朝顔や、視覚から涼を感じられる水辺・高原などの情景。自然の情景だけではなく、夏の楽しい行事であるお祭りや、浴衣・金魚などの風情。五感と思い出を刺激する作品から、涼しさ・楽しさを感じていただけたら幸いです。
本展では、当館コレクションの中から暑い夏を楽しみつつ、「涼」を感じられる作品に着目しました。現代日本画家が描く、様々な「涼」の情景・空気感をどうぞご堪能ください。

林潤一「緑林」1996

渡辺信喜「蓮池」2024」
 

野地美樹子「Uneri」と共に


 郷さくら美術館の日本画、撮影禁止マークがついたものもありましたが、ほとんどの作品は撮影可能です。
 作品の著作権と美術館などの所有権に配慮するのは当然のことですが、作品のコピー、模写などに問題がなく、館内の観覧者が映り込まないように気をつけるなどをしたうえでの作品撮影は一律に禁止すべきではない、という持論を持ってます。制限はあっても撮影自由という美術館博物館には、好感を抱きます。逆に、一律撮影禁止の美術館博物館には、アートを人に開くという館の目的を果たしていないと感じます。人に開きたくないのであるなら、美術館博物館を開館する意味はないので、閉館をお勧めする。

 現在「原則撮影自由」である東京近代美術館が、全面解禁の前にとっていた制度。受付に住所氏名を届け出て身分証明証などで確認をとったうえで、「撮影許可」という腕章(あるいは体に貼るシール)を配布される。撮影することに個人が責任をもつこのやり方を続けたうえで、なんの問題も起きなかったことで、全面解禁になった。(一部外部委託の作品は、所有権の問題から作品脇にカメラ禁止マークがでているが)
 かたくなに全面禁止を続ける美術館博物館の館長さん、ご検討を。アートを愛する者は、決して迷惑かけたりしないと思うので。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「忘れないー死んだ女の子」

2024-08-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20240806
ぽかぽか春庭ことばのYAちまた>79年目に・忘れないー死んだ女の子

 ウクライナでもパレスチナでも戦争が続いています。
 79年たっても、私には「忘れないでいること」しかできませんが、忘れずにいようと思います。

「死んだおんなの子」
あけてちょうだい たたくのはあたし
あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくの
こわがらないで 見えないあたしを
だれにも見えない死んだ女の子を

あたしは死んだの あのヒロシマで
あのヒロシマで 夏の朝に
あのときも七つ いまでも七つ
死んだ子はけっして大きくならないの

炎がのんだの あたしの髪の毛を
あたしの両手を あたしのひとみを
あたしのからだはひとつかみの灰
冷たい風にさらわれていった灰

あなたにお願い だけどあたしは
パンもお米もなにもいらないの
あまいあめ玉もしゃぶれないの
紙きれみたいにもえたあたしは

戸をたたくのはあたしあたし
平和な世界に どうかしてちょうだい
炎が子どもを焼かないように
あまいあめ玉がしゃぶれるように
炎が子どもを焼かないように
あまいあめ玉がしゃぶれるように

(ナジム・ヒクメット作詞、中本信幸訳) 

元ちとせ歌唱
youtube.com/watch?v=IsuhmkFGyaQ
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