2014/03/12
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(8)旧華頂宮邸の宮家スキャンダル
華頂宮邸を訪問したのは、2012年4月。
邸宅のリポートはこちら。「宮邸」という建物名に文句つけているレポートです。
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/6722e863e6318932ac4b879bdf0b9586
華頂宮博信王(1905-1970)は、1926年に臣籍降下し、華頂侯爵となりました。鎌倉の華頂宮邸は、1929(昭和4)年の春に華頂博信侯爵邸として建てられたものですが、通称は華頂宮邸とされています。現在の所有管理者である鎌倉市も通称をもって正式な建造物名として重要文化財登録をしています。
今回は、建物ではなくて、そこに住んでいた人々のスキャンダルリポート。下世話なワイドショーネタです。建築史の学術的な話もいいんですが、調べていくとどうもこちらの「下世話」のほうが私の興味を引いてしまって、、、、
華頂宮邸。
邸宅の建て主、華頂博信は、閑院宮載仁親王第5女華子女王(1910-2003)と結婚。結婚の日時はおそらく華頂宮邸が竣工した前後と思われます。
旧皇族華族の結婚は勅許が必要な公的なことがらであったので、調べれば華頂博信と華子の結婚日時は正式にわかると思いますが、私としては結婚前後に鎌倉の邸宅ができたことがわかっていればOK>
玄席
太平洋戦争後、皇族華族には大きな変動が襲いました。GHQの意向で公侯伯子男の爵位廃止。直宮(じきみや=昭和天皇の弟3人)のほかの11宮家は、臣籍降下が決まりました。
きちんと財産管理できた家もありましたが、経済利殖にうとい家がほとんどで、大半は没落の憂き目を見ました。1947年の映画『安城家の舞踏会』(脚本:新藤兼人、監督:吉村公三郎、主演:原節子)は、この時代を描いています。
皇族華族たち、財産を失ったかわりに、「自由」な身分が目の前にありました。結婚とは、勅許によって家同士が結びつくための政略がほとんど、という時代から、人間同士の心の結びつきの重視、という大変換が起きたのです。
閑院宮華子が華頂博信に嫁いで、鎌倉の邸宅に住んでいた間、幸せだったのかどうかわかりませんが、夫との間に子をなし、子を育てることに幸福を感じていたと思います。
しかし、戦後、自由な社会がやってきました。華子は社会活動に進出し、「婦人衛生会」活動のなかで戸田豊太郎と出会いました。戸田豊太郎は、英国に留学。ケンブリッジ大学を卒業し、徳川慶喜の孫喜和子と結婚していました。(喜和子の従姉妹は高松宮家に嫁いだ喜久子)
華頂宮邸室内
戸田豊太郎と不倫が発覚したのは、夫・博信がクロークルームにいる妻と戸田の現場を見てしまったから。戸田は、妻徳川喜和子と離婚。華頂博信も華子と離婚。
華頂博信は、1953年12月、早川ルース寿美子と東京ユニオン教会にて再婚。渡米。心理学を学んで学者としてくらしたそうです。寿美子夫人は日本生まれ。2歳で家族に連れられて渡米し、カリフォルニアで育つも、戦争直前に日本に戻りました。夫妻はロサンゼルスに在住。博信は1970年に65歳でなくなりました。
華子と戸田は再婚したものの、その後、離婚したとか。華子は2003年に死去。共同のニュースによると(2003/05/10 11:25 【共同通信】)
「
戸田華子さん(とだ・はなこ=旧皇族、故閑院純仁氏の妹)10日午前4時32分、肺炎のため東京都調布市の病院で死去、93歳。神奈川県出身。自宅は東京都狛江市中和泉5の40の26。葬儀・告別式は12日午後2時から東京都品川区北品川4の7の40、キリスト品川教会で。喪主は長男華頂博道(かちょう・ひろみち)氏。
戦後皇籍離脱した11宮家のうちの一つ閑院宮家の7代目で、1988年6月に死去した閑院純仁氏の妹。」
1951(昭和26)年11月1日発行のオール読物 第六巻第11号」で、坂口安吾は「安吾の人生案内」でこの事件を論じています。
華頂博信の手記を引用したり華子夫人の告白記事を引用しつつ、安吾は、華子を「利口な女ではない」と評し、華頂博信については「一級の紳士」であるとしています。
華頂侯爵家のスキャンダルがマスコミの格好の話題となったのには理由があります。華頂博信は家庭内のこととしてひっそりことを処理したかったであろうに、身内の手で秘密が世間に知らされました。「
正式離婚前に、華子の兄である閑院宮春仁王が「華子は過ちを犯したが、家庭に戻るべきであり、華頂博信は、華子を許して家庭におさめるべきである」という手記をマスコミに発表したからです。「妻を寝取られる」という事態が世間の関心を集めてしまいました。
華子は最初は戸田豊太郎とは結婚などするつもりはなかった、と手記やインタビューで述べています。しかし、離婚が避けられないとわかると、戸田と結婚するつもりであると言い、発言は揺れています。結局のところ、いまで言う「バツイチ」同士の再婚にいたりました。
そして、数年後、妹の不倫をすっぱぬいた兄、閑院宮春仁も、妹以上のスキャンダルにまみれます。
閑院宮春仁王(戦後は閑院純仁 1902-1988)は、戦後、妻に逃げられました。陸軍士官(最終位は少将)時代には、当番兵を「親密な従卒」とし、戦後は彼を執事として身近におき、直子妃には手を触れることもなかった。かくあって、戦後、直子は家を出ていきました。
「妻たる者、一度嫁したれば家を守るべし」と、思っていた春仁は激怒したのだそうですが、妻の眼前でも執事との「尋常ならざる行為」を実行していたのだそうなので、逃げられても仕方がないかと。
直子夫人が離婚事情をマスコミの前で「陸軍官舎の寝室にベッドがふたつ。ひとつには自分が寝ていて、もうひとつのベッドには夫と当番兵が同衾」と語っていて、現代のワイドショーなんぞの芸能人スキャンダルなんかよりよっぽどスゴイ。
一条実輝公爵令嬢だった直子(1908-1991)は、姉の朝子が伏見宮妃となり、自身は閑院宮妃となりましたが、44歳頃、離婚を要求。10年も夫と離婚裁判を続けました。夫と執事の交情をマスコミに暴露したのも、そのような泥沼離婚を先にすすめるためであったのだろうと思います。
戦後、小田原にある閑院宮家所有の敷地に大学を誘致する運動があり、直子夫人がこの折衝にあたりました。大学側の担当者が、高橋尚民。直子は10年も離婚裁判で争ったのち、夫春仁64歳、直子58歳のとき離婚成立。
1988年に閑院純仁は85歳で死去。閑院家は途絶。
直子は、離婚成立後、一条家に戻り、直子60歳のときに高橋尚民50歳と再婚。高橋氏は一条家に入り、一条姓となりました。
宮妃としての半生の華麗にして空疎な生活に比べれば、短大講師の夫と添い遂げた後半生は貧しくとも幸福だったと想像したい。直子は1991年に83歳でなくなりましたが、千葉での葬儀は質素なものだったそうです。
下世話なスキャンダルと言いましたが、「不倫」や「離婚」が話題になるは別段不幸な社会ではありません。女性が家のためでも夫のためでもなく、自分自身の人生を選び取る、ということを社会にしらせた、ということを華頂華子や一条直子が示したのだと言えましょう。
戦後混乱期の社会をゆるがした皇族華族のスキャンダル。
壮大な洋館を見学しながら、クロークルームでの間男逢引とか、夫が従卒と同衾している隣のベッドで妻が寝てなきゃなんないとか、そういう運命には出会わずに、モテない金なし夫に不平不満を持ちながら平凡にすごしてしまった女の人生、、、、
まあ、もうちょっとお金は欲しかったなあ。広大な洋館を建てる暮らしなんぞは望まないけれど、洋館見学、無料なら大喜びし、500円の入館料取られるとなると「高い!」と文句たらたらになる我が生活、どうにもみみっちい。
<つづく>