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ぽかぽか春庭「2023年目次12月」

2023-12-31 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231231
2023年12月目次

1202 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばで遊ぶ(1)再録ちがくて
1203 ことばで遊ぶ(2)再録・霾る曀曀虺虺
1205 ことばで遊ぶ(3)再録・形而学上悖理の垣根
1207 ことばで遊ぶ(4)おとなとややこ
 
1209 ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩ぐるっとパス使い倒し(1)日本画の棲み家 in 泉屋博古館 
1210 2023アート散歩ぐるっとパス使い倒し(2)偉人たちの邂逅―近現代の書と言葉 in 大倉集古館

1212 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>再録花の名前(1)野菜の名前 再録・四葉きゅうり
1214 再録花の名前(2)花の名前・漢字と和名
1216 再録花の名前(3)花の名前和名洋名
1217 再録花の名前(4)再録・カタカナ名の花

1219 ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩拾遺(1)牧野の植物

1221 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記12月(1)人参畑収穫体験
1223 2023文日記12月(2)水戸観光

1224 ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩拾遺(1)水戸市の建物
1226 アート散歩2023拾遺(2)東大医学研究所と港区立郷土歴史館
1228 アート散歩2023拾遺(3)キンスキー・イムレ写真展 in 港区立郷土歴史館ギャラリー

1230 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記年末(1)20周年忘年会
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ぽかぽか春庭「20周年忘年会」

2023-12-30 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231230
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記年末(1)20周年忘年会

 年末、友人から電話を受ける。27日、高校クラスメートのやっちゃんと、28日に最初の大学のクラスメートK子さんと。久しぶりの電話になったK子さん、2024年5月に上演を予定しているお芝居の話、上演後に参加したいと計画している朗読サークルの話など、おしゃべりは尽きません。
 29日には、二つ目の大学同窓のクロアさんの住まいに出向き、お話しすることができました。ごく限られた人としか話すことができず、人付き合いが苦手な友達少ない私が、まがりなりにも20年もの間、友達としてお付き合いさせていただけたのも、クロアさんのお人柄によるものと感謝感謝。
 
 2003年夏にHPをたちあげて、ネットの知り合いもでき、2003年12月にはじめてオフ会に出向きました。HPの文言から私と同窓であることに気づいたクロアさんから連絡をもらって、お付き合いをはじめてから20年たちます。
~~~~~~~~
2003/12/17 朝雨のち曇り(水)日常茶飯事典>ワンペアOFF会
 10:30にジュンク堂の喫茶室で待ち合わせ。特に目印など決めないで、なんとなく雰囲気で当てようと思っていたが、ほかに誰もいないので、とにかくやってきた人にあいさつしたら、その人がクロアさんだった。
 大学では、クロアさんが卒業してから私が入学したことになるが、もし、大学の構内で出会っていたとしても、私のほうからは絶対に声をかけることはできないような、才女の雰囲気がする人。

 喫茶室で11:30まで話し、近くのイタリアンの店で1:30までパスタとサラダ食べ放題、コーヒーなどで話を続けた。
 クロアさんは、ロシア語学科卒業後は英語の翻訳者になり、週4日は会社勤務で仕事をする。あとは、在宅勤務。
 一人息子は2年生。とてもいい子に育っているらしいが、学級でイジメの対象にされたことも。担任に力がなく、学級崩壊状態。校長も有効な手を打てず、このまま3学期もこの状態だとすると、子ども達にとって4月からの1年間は「無駄で心痛む1年間」だけの思い出しか残らないという。
 私も、娘の不登校のことや、娘が5年生のときのクラスが学級崩壊状態となったことを話す。

 ネットで出会った人と、初めて話した。
 人見知りで、よく知らない人と話すことができないので、offチャットを心配していたが、とてもいい時間が持ててよかった。
 off会で初めて出会う人と話すのは、けっして初めての出会いではないとわかった。隣近所の、毎日顔を合わせて挨拶していても、何考えているのかわからない人と話すより、よっぽどお互いにわかりあったのち、話すのだから。

~~~~~~~~~
20231230
 クロアさんと初めて出会ったとき10歳だった息子さんは、スポーツ少年として成長し、大学理系学部を卒業後就職。親元を離れて独立、結婚しました。
 「おひとり様」の暮らしを試行錯誤していたクロアさんは、田舎暮らしを経験したのち、東京でのシェアハウス入居を決めました。フリーで翻訳の仕事をしながら、おひとり様の暮らしをこなしています。
 夏の引越し時に「シェアハウス暮らしが落ち着いたら会いましょう」とお話がありましたが、「暮れの29日に忘年会」ということになりました。
 12時、ビールと「五目御飯のもと」をおみやげに持参して最寄り駅に到着。駅から徒歩5分のシェアハウスです。

 10階建てマンションの3階4階が、女性入居部分。10畳分くらいのキッチン、トイレ、シャワー室が、共同利用部分。それぞれの個室は6畳弱の洋室。2段ベッドの上が寝床、下が収納スペース。仕事の机とミニ冷蔵庫などで部屋はいっぱいなので、岐阜への引っ越しと今回の引越しで、本などはかなり処分したとのことです。おひとり様の暮らしの断捨離は覚悟の上だったと思いますが、翻訳の仕事には本が必要ですから、本の処分はたいへんだったことでしょう。

 私も日本語教育関連の本は大きな段ボール3箱、その他の本も段ボール入れたまま積みあがって整理がついていません。捨てていいかとも思いますが、古い日本語関係本などは絶版になっている本も多く、捨てたら二度と手に入らないと思うと、捨てるに捨てられず。

 牡蠣オイル付け入りパスタ。花豆の煮ものなど、手作りのお料理もとてもおいしく、ビールを飲みつつおしゃべりしつついただきました。
 クレアさんからおひとり様暮らしの生活や翻訳の仕事の進展をうかがい、HALから退職後の暮らしが破綻し、明日の生活が成り立たないところまで追いつめられていることを告白。55年間労働を続けてきたけれど、「実質シングルマザーのその日暮らし」が続き、老後の蓄えなどない人生だったこと。退職金も貯金もない働き方だったこと。自分自身の選択だったから、人様からは「自業自得」と言われても仕方ないことではあるけれど、ひとりの人間が誠実に働き続けても老後の暮らしが立ちいかない人生であったなあと、ため息ばかりが出ます。「社畜」といわれるような滅私奉公はしないで済んだ代わりに、つらい老後が待っていたのだ、と今さら嘆いても仕方ないことです。

 シェアハウスに居住者以外の者が入るには管理室への届け出が必要なうえ、個室の仕切り壁が薄いために自室でのおしゃべりは、「ささやき声」にするなどの隣室への配慮が必要。シェアハウスの居住にいろいろな制限があることもわかりました。

 駅前のスタバにおしゃべりの場を移して、お仕事の翻訳についてなど。紙の本、特に翻訳物は出版が難しい今の時代です。クレアさんの翻訳出版企画も、必要な人に広く読んでもらうためには工夫が必要という弱点を承知で、出版社に持ち込み、思いがけなく、今読まれるべき本だから検討するとの返事をもらい、打ち合わせ、試訳提出に進んだものの、年末になってやはり難しい、と見送りの返事が来たそうです。
 良心的な著作がもっと社会に認められるとよいのですが。

 みなみなさま、よいお年を。 

2023年の日の入り


<おひらき>
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ぽかぽか春庭「キンスキ・イムレ写真展 in 港区立郷土歴史館ギャラリー」

2023-12-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231228
ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩2023拾遺(3)キンスキー・イムレ写真展 in 港区立郷土歴史館ギャラリー

 写真美術館でも見たことのない写真家の展示を、9月24日港区立郷土歴史館の4館ギャラリーで観覧。
 ハンガリー出身のキンスキ・イムレ(1901-1945)は、ナチスの犠牲になり、44歳で亡くなったユダヤ人写真家です。ハンガリーの裕福な家庭に生まれ、兄ふたりは医者になりました。キンスキも医学部に進みましたが、2年生のとき、ユダヤ人ゆえ大学を追われ、事務員として働くことになりました。

 その事務室でタイピストとして働いていた労働者階級の娘がガールドニ・イロンカ でした。シャイで人と話すのが苦手なキンスキーは、紙に「仕事のあと会えませんか」と書いて紙飛行機に折ってガールドニの机に飛ばしました。ガールドニの答えはOK。
 しかし、OKじゃなかったのがイムレの家族。貧乏階級の娘との結婚は許さないと、事務室にへ申し入れをしてガールドニを解雇させてしまいました。しかし、優秀なタイピストだったガールドニは、翌日にはほかの事務所に就職をきめていました。家族のやり口を聞き及んだキンスキはガールドニの新しい事務所に行き、その場でプロポーズ。ふたりの間には息子ガーボルと娘ユーディトも生まれ、貧しくても幸福な家族の時代も短いありました。

 キンスキは、妻から贈られたカメラによって撮影を開始。光と影をテーマとして写真家として自立しました。しかし、その頃、ナチスの威力はハンガリーにも及んできました。ナチスのハンガリー侵攻後、キンスキ自身の亡命手段はできたのですが、なんとしても家族といっしょにと画策しているうちに機会を逃し、キンスキは強制収容所へ。息子ガーボルもナチによって拷問をうけて死ぬ、という運命でした。

 かろうじて死をまぬがれたガールドニ夫人と娘ユディットが守り抜いたネガによって、写真展が開かれました。守られたネガはごく一部なので、作品展のタイトルも「欠片(かけら)」

 以上のイムレ伝は、港区郷土歴史館でもらったパンフレットと、娘のユーディトが語っているyoutubeに出ていたインタビュー動画からまとめました。
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=KTeef3IYbHs

 初めて知った写真家。初めて見た写真でしたが、美しく清新な画面でとてもよかった。
「メリーゴーラウンド」1934      「霧のくさり橋」1930頃
 
                 ハンガリー国立社会保険局本部1931
 

 「運搬中」1937
 荷車馬車の馬はエサの袋に首をつっこみ、運搬人のおっさんはすべての荷を運び終えたところなのか、荷台で眠っています。
             
 

「イムレ肖像セルフポートレート」
 イムレはきっと前を見据え、対象をみつめています。


 イムレの表現は、美しい「光と影」が見る人の心にとどきます。
 戦後ハンガリー社会を生きたなら、どんな写真を撮ったかと残念に思います。
 全然知らなかったイムレ・キンスキを知り、よい写真を見せてもらいました。

 郷土歴史館配布の解説ページに出ていたイムレの写真の説明。(筆者名なし)
 キンスキの革新的な作風は、テーマを選択することではなく、新しい発想に基づく形式言語であった。すなわち生物写真やストリート写真、そしてスナップ写真の形を作り上げ、光と影の割合を調整し、特に「窓の遠近法」を作り上げた。それは、雨や光の中に浮かんだ、生きた町の心を揺さぶる鼓動、あるいはそれを傍観する市民、日常的な街路の姿をファインダー越しに捉えた。

 学識豊かな学芸員さんが書きそうな文体で、なんだよ「新しい発想に基づく形式言語」って。なんだよ「窓の遠近法をつくりあげた」って。「窓の遠近法」という美術用語がわからないおバカ観覧者は、自分で検索しろっていう文章!知るか!イムレの写真がすばらしかっただけに、この解説の文体に「無知な観覧者の悲哀」を感じてしまいました。自分の無知を棚に上げて、「小さい者として生きるHAL」が、またまた学識豊かであろう学芸員さんに文句付けをしました。(学芸員もしくはハンガリー大使館の学術芸術担当広報の人かもしれない)

 2024年はもっといい人になって生きていきたいです。毎年同じ、1年終わりの所感です。
  
<おわり>
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ぽかぽか春庭「東大医学研究所と港区立郷土歴史館」

2023-12-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231226

ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩2023拾遺(2)東大医学研究所と港区立郷土歴史館

 港区郷土歴史館(旧公衆衛生院)は、1923(大正12)年に建築家内田祥三の設計により、隣に立つ東京大学医学研究所と対の建物として完成しました。公衆衛生院の埼玉県移転により、建物は港区に移管され、2018年に修復され港区立郷土歴史館として一般公開されました。

 一般公開されたのは報道で気づきましたが、港区の郷土や歴史ならば期間限定の展示と異なり、いつでも見にいけると思っていて、地下鉄の白金台駅すぐ前という立地なのに、なかなか訪問せずにいました。娘が誘ってくれたので、2022年2月いっしょに港区郷土歴史館の建物(旧公衆衛生院)を訪れました。  

 となりの内田祥三ふたご東大医学部研究所を眺めたのは、郷土歴史館が一般公開される前で、歴史館はずっと修復工事中でした。2022年2023年、庭園美術館を観覧して時間があるときには郷土歴史館に立ち寄ることもありましたが、今度は東大医学研究所が入れなくなっていました。2023年2月に白金台駅側の正門から東大医学研究所に入ろうとしたら、正門の守衛さんに「東大医学研究所に御用の方ですか」と怖い顔で問いただされ、ブロックされました。コロナの入場制限の時期でしたから、守衛さんはやたらに入門させないように指令を受けていたのでしょう。

入門不許可になった東大医学研究所の門  東大医学研究所正面
 

 内田ふたご建物を一度に眺めたいと思っていました。2023年11月にはコロナの制限もなくなったので、正門からも入れたのだと思いましたが、松岡美術館から庭園美術館へ向かう途上、東大医学部研究所西門から中に入りました。おとがめなし。
 
 せっかく用もないのに東大医学部研究所に入ったので、すれ違う人の顔をながめて「なんやらウチらとはちゃう、かしこそうな顔つきやなあ」と思いながら、ついでに生協食堂でカツカレー600円を食べ、北里柴三郎記念博物館の中を眺めました。コロナの間は閉館していた伝染病研究の展示も久しぶりに眺め、医学研究に興味のある人みたいになることができました。

東京大学医学研究所
  

医学部の出入口(2013)と(2023)
 

港区立郷土歴史館
 

 

 

 



 港区立郷土歴史博物館、隣の東大医学研究所とツインだからこその存在感。おんなじ建物が並び立っているのを遠くから並びで見たいけれど、通り道から少し遠くに離れないと、ふたつを同時に見ることはできませんでした。もう少し離れた場所で、高いビルなどがあったら、上に登ってふたつ並べて見たいです。

 オマケ。小石川植物園(東京大学大学院理学系研究所)本館。
 内田祥三作品の中で、この本館の外観は、医学部研究所の重厚とは一味違い、バウハウス風モダンテイストになっています。

 内田作品の中で、この植物園研究所がいちばん親しみやすい。
 ただ、東京大学の建物には重厚さが求められた時代だった、ということもわかります。医学研究所で外地の伝染病研究などがなされているということは、兵となって見知らぬ土地へ出かけていく者に、国が病気の研究もしているという国家の威信を示す建物である必要があったのだと思います。

 その点植物学園の柴田記念館の中に展示されていた牧野博士の標本展示などを見ても、重々しくはなく、この植物園本館の両翼を広げる軽やかさのイメージと響き合う展示でした。牧野博士も東大在籍中に何度も追い出し運動を受けるような存在だったことが知られていますが、今から見ると、柴里記念館の中に、伝染病研究用に飼われていた馬の剥製展示などに比べると、さまざまな植物の標本は平和な気分がしてきます。表向きには「お国の役に立つ薬草発見の研究」とか飾っていたでしょうが、ただただひたむきに植物を追い求めた標本展示、柴田研究室でも軽やかでした。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「水戸市の建物」

2023-12-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231224
ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩拾遺(1)水戸市の建物

 12月のお出かけ、東京都内以外は久しぶりです。娘が当選した人参収穫体験イベントの前に水戸市観光をして、水戸市の建物歩きをしました。

水戸弘道館表玄関
 

弘道館近くの三の丸地区
茨城県庁三の丸庁舎
 

 1930(昭和5年に建設された近世ゴシック建築様式の旧県庁舎。建築家・置塩章(おきしおあきら)の設計 、
 三の丸庁舎として県の外郭団体などが使用中です。重厚なイメージで、映画やドラマのロケに使われています。耐震工事もほどこされて、今後も残されていくことはうれしいことです。
 階段室

旧水戸市低区配水塔
 
 水道技師後藤鶴松の設計・市の直営工事により1932(昭和7)年に完成し、2000(平成11)年度で現役給水塔としての役割をしゅうりょうしたけれど、登録有形文化財、近代化遺産、土木遺産として美しい姿が残されています。

 水戸市歴史公園の中に、旧水海道小学校本館が移築されています。

 1881(明治14)年に建築、1971(昭和46)年、本館は水海道市(現常総市)から当館に寄贈されました。そして、1973(昭和48)年建築当時の設計図などをもとに、当初の姿に復元され、1974年歴史公園開園とともに公開されました。

 校内のステンドグラスなど
議洋風建築に在来工法の大工が腕をふるった彫刻が残されている。 
   


 水戸農業高等学校旧校舎
 銀杏散り敷く校舎前はきれいでしたが、残念ながら内部の見学はできません。1899(明治32)年から1970(昭和45)年まで、農業研究に取り組む若人の声が響いた校舎、復元された木造校舎です。 
  

 歴史公園の中には、もうひとつ移築復元の建物があります。18世紀前半に建てられた直屋(すごや)型の農家。潮来市(旧行方郡牛堀町)から歴史公園に築されました。
 

 水戸偕楽園好文館の建物


 

  今回は水戸三の丸近辺と歴史公園内、偕楽園内を中心に建物をけんがくしましたが、市内にはまださまざまな近代建物が残されています。
 次の見学の機会がありますように。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「水戸観光」

2023-12-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231223
ぽかぽか春庭日常茶飯事事典>2023文日記12月(2)水戸観光

 水戸の偕楽園に2度おとずれたことがあります。1度目は、40年前。女子高クラスメートのやっちゃんが日立市の乗馬クラブに勤務をはじめて「遊びにおいで」と連絡をくれたので、嬉々として出かけました。やっちゃんが北海道の大学に進学して以来会っていなかったので、ほんとうにひさしぶりの邂逅でした。

 やっちゃんの住まいは、1970年代に20代の給与少ない若者が住むのには当然だった、古いアパートでした。大学で乗馬に夢中になり、日立市にある乗馬クラブに就職したやっちゃんは、生き生き働いていました。
 木造のアパートに入ってびっくりしたことに「今いっしょに暮らしている人」という男性がいたことでした。一生結婚することなどないだろうと思って20代を暮らしていましたが、私以上に結婚することはありえなかったやっちゃんに「同棲の彼」がいたこと、私にとっては青天の霹靂でした。まもなく結婚したやっちゃんは、一人息子を得たのち早々に未亡人になりました。高校理科教師をしながら育ててきた息子さんも40代となり、今は年金生活を楽しんでいます。

 日立市に泊まった前の日かあとだったか覚えていませんが、日立市へ行ったついでに水戸市の偕楽園に立ち寄った気がします。
 2度目の偕楽園は、青春18きっぷを利用して関東東北中部をめぐる旅をしたときに、常磐線を利用して水戸へ行き、偕楽園を訪れた気がしているのですが、いつだったか、覚えていません。
 二度の偕楽園がどちらも梅の季節じゃなかったことだけは覚えているのですが。

 三度目の水戸市訪問。娘が当選した水戸市郊外のカゴメ工場見学のついでに水戸観光をしようと言うことになりました。娘がたてた観光スケジュール。カゴメ農園と工場見学の前日水戸市に宿泊し、水戸市観光に出かけました。

7:43発 特急ひたち3号
9:18 水戸着 水戸駅前ホテルテラスガーデンにスーツケースを置き、水戸駅で水戸1日乗車券購入
10:00 10番乗り場から弘道館へ。

 どうして弘道館へ一番に来たかというと、娘が集めている「日本百名山」のスタンプ帳に「水戸城」のスタンプを押したかったからです。水戸城は戦国遺風が濃い連郭式の城でしたが、水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府大名であったため、水戸城は城代が居住するのみで、藩主の居城として使われることはほとんどなく、城の建築物は江戸時代を通じて質素で戦国の城の風格を残すものでしたが、明治政府が命じた「城解体」により残されてきたのは「御三階櫓」のみ。御三階櫓は太平洋戦争時の水戸空襲で焼失し、以後再建されていません。
 そのため、水戸城のスタンプは弘道館の入場券売り場で押すことになっています。

 再建されたの大手門。


 弘道館入場券売り場で水戸城スタンプを押したのち、弘道館見物。

弘道館正門              
  

 弘道館内            縁側の扁額
  

 弘道館表玄関と手間の御所桜


 弘道館玄関前には、京都御所から移植した御所桜が植えられています。有栖川宮織仁親王(霊元天皇皇孫)の第12王女登美宮吉子女王(1804~1893 )が水戸藩第9代藩主徳川斉昭(1800~1860)の御簾中(正室)となった際、仁孝天皇から桜を賜った、という説明書きが出ていました。
 吉子の異母姉は、12代将軍徳川家慶の御台所(楽宮)喬子 。京都の皇族から徳川への降嫁が続いていたのです。公武合体の前駆ともいえる結婚でした。吉子自身は姉が12代将軍に降嫁していますから、水戸藩江戸屋敷に嫁ぐことにそう不安はなかったとみえて、すでに30歳を過ぎ側室も多数いた斉昭との結婚はよいご縁になりました。13代当主となる長男慶篤や七男の七郎麿(慶喜)、五女唯姫(以以姫 早世)を設けています。斉昭には22男15女37人の子を持ちました。(うち16人は早世)。吉子は側室所生の庶子の教育にも心砕いたと伝わっています。 

 吉子は大河ドラマ『青天を衝け』でに出てきました、斉昭は正月に、吉子を上段に据え、藩主より身分が上の方として挨拶をしたというエピソードが描かれていました。斉昭は吉子を大切に扱い、夫婦仲もよかったとのこと。斉昭の写真が展示されていました。娘は「竹中直人に似ている」という感想。メイクなどで斉昭によせる工夫はあったでしょうが、ほんとに似ている風貌でした。

 公武合体によっ孝明天皇妹の和宮が有栖川熾仁親王との婚約を解消しましたが、そのかわりといっちゃなんですが、斉昭と側室万里小路氏との間に生まれた茂姫(徳川貞子)が有栖川熾仁のもとに輿入れしています。(貞子は結婚後2年23歳で死去)。

 吉子の写真も展示されていました。隠居している徳川慶喜が、水戸藩を継いだ昭武(斉昭十八男)の隠居後の屋敷(松戸の戸定) を訪ねたおりの一族写真。吉子は慶喜の子どもたちや昭武の子などの孫とともに写っています。吉子は1873(明治6)年(1873年)まで、水戸偕楽園内の好文亭に住みました。その後、旧水戸藩下屋敷 向島小梅邸で暮らし、90歳の長命を保ちました。幕末明治のほぼ一世紀を生き抜いた生涯でした。
撮影者:江崎礼二 1890(明治22)撮影

 早世した子をのぞいても20人の子があった斉昭ですから、息子は各地へ養子に出し娘は嫁入りさせて、子孫をばらまきました。

 水戸斉昭が弘道館をたてたので、館内はなんと言っても斉昭称揚。黄門様称賛。
 水戸光圀が編纂をはじめ、明治年代に完成した『大日本史』


 「斉昭オシ」の弘道館見学でも、心に残るのは、歴史を支えつつひっそりと生き残ってきた幕末の女性たちの生き方、そして各地の藩校や私塾で黙々と学び続ける人々の姿でした。弘道館は最盛期に1,000人 の門弟が学び、武芸、儒学や歴史のほか、算学・医学・薬学・天文学・洋学などの教育がほどこされました。試験は斉昭隣席のもと口頭で行われ、試験につかわれた部屋も見学できました。
 弘道館に学んだ人々は、近代化に貢献する人材ともなりましたが、1872(明治5)年の学制発布で弘道館はその歴史に幕を閉じました。

歴史に思いをはせながら歩いてみる弘道館廊下


 大手門前に立つ斉昭像と


 水戸市内の建物散歩。茨城県庁三の丸庁舎、水戸市水道低区配水塔 を眺めてから弘道館前バス停から歴史館方面へ。青少年会館前で降りて、青少年会館レストランココリコでランチ。
 ランチ後は歴史公園内を観光。旧水海道小学校(移築:疑洋風)や、旧水戸農学校、旧茂木家住宅については、のちほど報告します。

 歴史公園内に建つ茨城県立歴史開館で開催中の「ドラマ10大奥衣装展」を観覧。大奥で使用された衣装がたくさん並んでいるかと思ったら、松平定信、将軍吉宗、天璋院の衣装が三体のマネキンに着せられて立っていました。
 
 歴史公園の中の紅葉がきれいでした。
  

 歴史館前で
  
 歴史公園内に移築された旧水海道小学校本校


 旧水海道小学校校舎の中に置かれていたピアノは、1859年という刻印のあるスタインウエイ&サンズ。1965年製造1871年横浜に輸入された現存する国内最古のグランドピアノです。調律されて、現在もコンサートや子供たちの演奏体験に利用されています。


 歴史公園から徒歩で偕楽園好文館へ。
 水戸観光にここは外せないという偕楽園ですが、園内は冬枯れで、娘は「梅の時期に来たかった」と心残りのようす。
 斉昭夫人吉子が維新後にしばらく暮らしたという好文館の見学を中心にして、偕楽園の中は好文館二階から眺めだだけ。

 好文館表門            好文館室内
 
 好文館から偕楽園をながめる   二階から千波湖 噴水をながめる  
  

 好文館の中のカフェ「樂」 でぜんざいと梅ジュースで休憩。


 出口までの梅林の間を歩きながら、梅の時期の写真が出ていたのをながめました。

 17時にホテルテラスガーデンにチェックイン。ホテル内の温泉でほっこり。


 19時 ホテルテラスガーデンで晩御飯。青少年会館のランチがボリューミーすぎたせいか、あまりおなかがすいていなかったのですが、せっかくの常陸牛ローストビーフディナーを残してなるものかと、やっとの思いでたいらげました。

 アミューズと前菜
 パスタにはウエイターさんが「このチーズのホールひとつは15万円」と自慢していたパルミジャーノレッジャーノをチーズおろしでゴリゴリして常陸牛のミートソースパスタにかけてくれました。

 タイのソテーと常陸牛ローストビーフ


 さいごのデザートが出てきたときはもうおなかいっぱいでしたが、デザートは別腹と娘と言い合って、むりやり詰め込みました。茨城名産のメロンはおいしかったです。チョコケーキやプリンそのほかは「おなかいっぱいすぎじゃなかったら、もっとおいしかったろうに」と残念。

 ホテルテラス6階のツイン
 

  ディナーに苦しいほど詰め込んだのに、朝ごはんビュッフェはまた山のよいうに盛り合わせて、大食い貧乏症はどこにいってもかわりません。
 
 
 朝10時にホテルチェックアウト、カゴメにんじん収穫ツアーの集合場所に向かいました。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「人参畑収穫体験」

2023-12-21 00:00:01 | エッセイ、コラム


20231221
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記12月(1)人参畑収穫体験

 懸賞生活を続けている娘、今年最後の幸運は生協カゴメコラボイベント。「人参収穫体験と野菜ジュース工場見学ツアー」に当選しました。
 イベント「にんじん畑で収穫体験」に応募した娘、30年以上生協やスーパーでカゴメの商品を買い続け応募し続けて初めての当選ですから、娘の籤運がよかったということもあるし、毎月食材費のほとんどは生協に支払った甲斐もある。カゴメ製品、息子はジュース「野菜生活」を一日1本以上は飲みます。

 イベントの正式名は、「収穫しよう!不思議の畑の冬にんじん。体験ツアー」。カゴメの契約農場で人参の収穫体験をして、人参を使ったランチ&「野菜生活ジュース」の工場見学、というスケジュールです。
 スケジュールは、2023年12月7日(木)水戸駅 南口10:30集合   石岡駅15:30解散(予定) 

1)茨城県内 契約農家さんの畑(水戸駅からバスで約30分)
 にんじんの収穫体験(「つぶより野菜」や「冬しぼり」等の原料となるにんじん“ほれぼれ”を作る契約農家さんの畑)
2)にんじん“ほれぼれ”と野菜を使った昼食
3)カゴメ茨城工場   〒319-0123 茨城県小美玉市羽鳥2652

 10時半 水戸駅前集合。当選した参加者11名に対して、カゴメの社員、イベント企画会社の社員などスタッフが11名。


 バスで移動し11時すぎ、カゴメ契約農家の人参畑に到着しました。
 まず、農家さんが人参栽培や他の野菜の栽培について、説明をしました。 「ちかごろホウレンソウなどは1年じゅう出回っていますが、やはり、秋から冬にかけてのホウレンソウが一番おいしいし、栄養もある」などのお話、畑は連作を避け、今栽培している人参畑も今期の収穫が終われば別の作物に切り替わる、などのお話をしてくださいました。

 人参は、葉っぱの根元をつかんで、少し回すようにして抜くという指導を受けましたが、はじめて人参の葉っぱをつかんだ体験者にはそうそううまくいきません。葉っぱだけがちぎれてしまったりしましたが、配布されたビニール袋に入るだけ詰め込んでよい、というので、欲深い私は持ちきれないほど収穫しました。出発前の予想で「きっと野菜ジュースを半ダースくらいおみやげに持たされるだろうから」と、帰り道は重くなる予想でカラのキャリーケースを持ってきたので、娘の分と私の分併せて10Kgぐらい詰め込んだ気がします。

 私や娘が一本抜く間に、プロはさっさか抜いていきます。早い!


「ほれぼれ」という種類のにんじん。料理用にスーパーでうられているものより、はるかに大きく甘みが強い。


 ツアー一行は、老夫婦、中年夫婦、小学生女の子とママ、中年老年の母子2組。どちらかというと高齢者が多い一行で、畑では無邪気に人参を引っこ抜く小学生のハナちゃんがみなを笑顔にしました。1本500~600gになるという太くて大きな人参を引っこ抜くたびに「大きい!」と大喜びするので、皆が明るい気持ちになれてよかったです。 左側にんじん色のTシャツ毛糸帽子はスタッフさん。


 農家さんが引っこ抜くスピードはすごいものですが、日ごろは収穫機を使います。
 「収穫機に乗ってみたい人」と言われて、娘といっしょに記念撮影。
 

 カゴメは商品開発や営業などたくさんの部署に人材がいますが、「野菜事業部フィールドマン」という職種があるそうです。「フィールドマン」とは契約農家さんの畑を回りトマトなどの生育状態にあわせて的確なアドバイスを行う、いわば農業のプロ。野菜は、土壌管理、気候雨量にあわせた栽培管理などで野菜の品質や収穫量が異なるので、農家さんの長年のカンとフィールドマンさんの的確な指導で安定した仕事ができ、農家さんは経済的に安定した収入を得ることができます。契約した畑の野菜は全量カゴメが買い取るそうです。カゴメのキャッチフレーズは「畑は第一の工場」

 私たちが収穫したのは、健康直送便「つぶより野菜」や「冬しぼり」等の原料である“ほれぼれ”という名前のにんじんです。スーパーなどで売っている細身の先がとがっている種類ではなく、ずんぐりと先が丸い太くて大きい種類で甘みが強い。1本が500gくらいある大きさ。

 楽しく収穫したのち、高速道路を通って、途中友部サービスエリアにより、13時すぎにカゴメ茨城工場へ移動。研修室で、人参たっぷりのカレーランチをいただきました。食べている間にも、スタッフさんからカゴメ製品のあれこれについてレクチャーがあり、茨城工場紹介の動画と解説もありました。カレーランチ、さすがにニンジンの大きな切り身がごろごろ入っていました。手に持っているのは人参ポタージュ。ほかに野菜由来乳酸菌のつけ汁利用の人参大根のつけもの。人参ほかのゼリー。
 

 14時すぎから工場見学、「ラブレ」という野菜由来乳酸飲料のラインは、「本日の稼働は終了」しており、製造過程機械の見学と説明だけ。「野菜生活1L紙パック」のラインは動いていて、ライン上を充填された野菜生活1Lが流れていくところが見えました。広い工場の大きなラインなのに、働いている人で見学者の目に見えるところにいたのは数名。コンピュータ管理によって自動化されている工場です。


 楽しく有意義な工場見学。食品がどれほど清潔に管理された工場で製造されているのかもわかったし、ひとつの製品を開発し営業し、消費者の手にわたるまで社員が努力しているかもわかりました。 
 15時半に工場見学終了し、16時前にJR石岡駅で解散しました。

 娘息子が幼いころ、かこさとし「にんじんばたけのパピプペポ」という絵本がが大好きでした。子豚と親の20匹がおいしい人参を畑で育てる話でした。絵本の中の人参は娘も息子も大好きでしたが、テーブルの上の料理は別。私は根菜は全般好きで、にんじんも大好き。でも、夫はカレーの中の人参をよけて残すし、息子もこどものころは母親に「野菜を食べないと大きくなれないよ」と責められていやいや食べていましたが、成人後は「もうこれ以上大きくならなくてもいいから、自分の食育は自分で管理する」と、さっぱり野菜を食べたがらない。息子、今は野菜はほとんど食べず、「野菜生活100」という野菜ジュース摂取のみ。それも人参が中心のもの(オリジナル)はダメで、マンゴーサラダとかアップルサラダなど。娘も人参味のジュースはだめ。

 私は、ニンジンジュースやトマトジュースはあまり好きではありませんが、生の人参をサラダにしたりトマトをそのまま食べるのは好き。逆に娘は、生のものはトマトもにんじんも食べません。人参料理は、気に入った味なら食べるけれど、おいしくないと思えば一口食べてあとは残す。だいたい和風煮物系は食べない。トマトはトマトケチャップやパスタのトマトソースは食べます。
 工場見学の試飲会で、娘は三種のニンジンジュースにギブアップ。「人参ジュース工場見学なのに、申し訳ないと思ったけれど、ダメでした。ごめんなさい」


 収穫したにんじんのサイズ測定。
 直径7cm長さ24cm重さ500g


 もう一本、おもしろ人参を収穫しました。八百屋さんなどには出回らない、畑ならではの人参くん。
 ミスター・セクシーキャロット君。かわいいでしょ。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「牧野の植物」

2023-12-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231219
ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩拾遺(1)牧野の植物

 2017年に練馬区立牧野庭園を訪れました。2023年4月-9月の朝ドラ「らんまん」が大人気のうちは混みこみでしょうから、2度目の訪問は、ドラマが終了し、人気が冷めてからと考え、2024年の春くらいには行きたいです。

 手持ちの小型サイズ「学生版牧野植物図鑑」はカラーではなかったので、カラーの図譜が欲しいと思っていたら、娘が今年の誕生日プレゼントのひとつとして、三才ブックス版の牧野植物図譜を贈ってくれました。カラーのページもあり夜寝る前のお楽しみに図譜をながめています。カラーといっても、牧野図譜は白黒の石版印刷のための図ですから、もともと墨の線で描かれています。三才ブックス版には、牧野愛用の筆や製図道具などの写真がありました。図譜の中にカラー版は多くなく、牧野手書きのカラー図は、コオロギラン、ヒメキリンソウなど限られていました。ドラマの中で槇野万太郎の母が「いちばん好き」と語り、幼い万太郎が絵に描き母に見せていたバイカオウレン梅花黄連の1892(明治25)年、全体像は白黒ですが、秋の色づいた葉が赤く着色されていました。

 今年出かけたおりにも、らんまん人気を当て込んだのか、出かけた先々で牧野富太郎の植物標本や図譜を見ることができました。

 練馬区美術館「植物と歩く」展に展示されていた牧野「ユリ」図
 1902(明治35)年㈹日本植物誌第1巻第2集第7図版掲載の図です。
 三才ブックス版には106頁に載っていました。

 牧野富太郎亡き後、標本は家族から東京都立大学に寄贈されました。都立大の最寄り駅、南大沢駅のショッピングモールの壁に標本の一部が展示されていました。

 牧野「イブキスミレ」1881年6月(年月がわかる最も古い牧野標本。上京する前のもの)


 牧野「ぼたんきんばえ」として1903年8月利尻島「アルタイキンバイソウ亜種」


牧野「イッスンキンカ」1909年9月鹿児島県屋久島宮之浦岳

牧野「ミチノクフクジュソウ」1945年3月に標本作成


 牧野「ふくじゅそう」1945年3月に標本作成中、空襲を受け自宅一部破損する。疎開後4月7日に作成終了。


 牧野「つくしはぎ」1945年疎開先の長野県穂坂村で作成


牧野 1954年練馬区自宅の庭で採取




 牧野博士が残した標本は、全国各地から寄せられたものを含めて80万点にも及ぶそうです。標本の保存には、植物のほかもうひとつ貴重な価値が生まれています。きちんと保存がなされてきた中央の大手新聞に比べ、地方新聞などは保存されていない場合が多い。標本を挟んだ新聞紙は、地震や空襲を潜り抜けてきた貴重な歴史資料になっているということで、ほう、そういう活用法もあるのかと思いました。

 「らんまん」のドラマで、家族が総出で標本作りに協力していた画面を思い出しました。ドラマでは、妻の壽恵子が54歳で亡くなるまでのストーリーでしたが、実在の牧野富太郎は、娘息子の世話を受けながら妻の死後30年も生き抜きました。
 今回、展示されていた標本の解説を見ると、1945年3月の東京大空襲の最中にも牧野博士は標本作りをやめず、ようよう説得されて長野に疎開したことがわかりました。

 ひたすら植物採集に歩き回り、家で標本作りに熱中する。家族の食べ物が無くても気にしないで、植物研究さえしていれば幸福な人だったようですが、ほんとうに植物一筋のよい人生だったろうなあと思います。
 常人にはまねのできない天才の人生ですが、こんなふうに一筋に好きなことだけ貫く生き方は、ただただ見上げるばかりです。

 見上げている凡人


<つづく>
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ぽかぽか春庭「カタカナ名の花」

2023-12-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231217
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>花の絵花の名(4)再録・カタカナ名の花

 2017年UPの花の名前再録です。花の絵は、再録UPと新UP
~~~~~~~~~
20170615
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>花の絵・花の名(3)カタカナ名の花
 日本に渡来した当時の発音のまま、カタカナで定着した花の名を確認してみます。
 日頃カタカナで呼ぶ花の名の和名、通用名を調べると、通説の他に諸説あるのですが、春庭は、植物素人なので、通説や通用名のみを記します。カタカナ花名の和名についての私的なメモです。カタカナ名前の花たち、和名で呼ぶと聞き慣れないので、花のイメージがわきません。和名で呼びたいのはデージーの和名ヒナギクくらいです。
 学名や原産地について抜けがありますが、ご存じの方、ご教授いただければ幸いです。

・アカシア 英語名:Acacia 日本では明治時代に渡来したニセアカシアと房アカシア、銀葉アカシアの名が混用されている。
ニセアカシア和名:針槐(はりえんじゅ)
ゴッホ「花咲くアカシアの枝」


・アカンサス 原産地:地中海沿岸 英語名:Acanthus
和名:葉薊(はあざみ)
ウイリアム・モリス「アカンサス」


・アスター 原産地:中国東北部からシベリア 英語名China aster 日本渡来は江戸時代中期
和名:蝦夷菊(えぞぎく)
クールベ「アスターの花束」


・アネモネ 原産地:地中海沿岸 学名:Anemone coronaria 英語名:Anemone, Wind flower
和名:牡丹一花(ぼたんいちげ)、紅花翁草(べにばなおきなぐさ)
「アネモネ」オーギュスト・ルノワール(ポーラ美術館)


・アマリリス 原産地:中南米、西印度諸島 学名:Hippeastrum 英語名:Amaryllis、Knight star lily) 江戸時代末期に三種のアマリリスが渡来。三種の和名は以下の通り。
和名:金山慈姑(きんさんじこ) 紅筋山慈姑(べにすじさんじこ) 咬吧水仙(じゃがたらずいせん)
「金山慈姑と花虎の尾」明治期の木版画

 金山慈姑といわれてもアマリリスのことだとわかりません。

・エーデルワイス 原産地:ヨーロッパアルプス地方 学名:Leontopodium alpinum 英語名:edelweiss ドイツ語の edel(高貴な、気高い)と weiß(白)に由来。
和名:西洋薄雪草(せいよううすゆきそう)


・エリカ 原産地:南アフリカ 学名&英語名:Erica
和名:えりか(和名は学名をそのまま用いた)

 Curtis Botanical Magazine No.2084 ツツジ科 エリカ属 ERICA FASTIGIATA 1819年


・カーネーション 原産地:南ヨーロッパから西アジアにかけての地中海沿岸 学名:Dianthus caryophyllus L 英語名:Carnation  江戸時代初期以前に渡来したが、日本に定着したのは、江戸中期。
和名:麝香撫子(じゃこうなでしこ)、和蘭石竹(オランダせきちく)

和田英作「麝香撫子」


・ガーベラ 原産地:熱帯アジア、アフリカ 英語名Gerbera, African daisy 
Gerberaは、発見者のドイツ博物学者ゲルベル(Traugott Gerberに由来する。
和名:大千本槍(おおせんぼんやり) アフリカ千本槍(アフリカセンボンヤリ) 花車(ハナグルマ)

・カモミール 原産地:西アジア、ヨーロッパ 学名:Matricaria recutita 英語名:Chamomile,カモマイル フランス語 camomille 江戸時代にオランダ経由で渡来。
和名:加密列カミルレ、カミツレ(オランダ語に由来)

・カンナ 原産地:熱帯アメリカ 学名Canna:ギリシャ語の「葦」の意味から)
和名:檀特(ダンドク) 江戸時代前期17世紀頃に渡来したカンナ・インディカが花カンナとして定着し、栽培種のほか、野生化したものもある。
須田克太「カンナ」


・グラジオラス 原産地:アフリカ、地中海沿岸 英語名:Gladiolus, Sword lily
和名:阿蘭陀菖蒲(おらんだしょうぶ) 唐菖蒲(とうしょうぶ)

クロード・モネ「グラジオラス」1876年 


・クロッカス 原産地:西アジア 学名&英語名:crocus 学名はギリシャ語のクロケ(糸)に由来。紀元前より薬用、香辛料として栽培が始まったサフランの一種が江戸時代に渡来。そのうち観賞用に栽培されたのが、花サフラン=クロッカス。
和名:番紅花(ばんこうか) 
 Sweet Ornamental Flower Garden Pl.211 アヤメ科 クロッカス1854年


・コスモス 原産地:メキシコの高原地帯 学名:Cosmos bipinnatus Cav 英語名:Cosmos)18世紀にメキシコからスペインへ。スペインからヨーロッパへ移入。日本渡来は明治20年頃。
和名:大春者菊(おおはるしゃぎく)秋桜(あきざくら コスモスの当て字としても秋桜が用いられる)
中島潔「秋桜」


・サボテン 原産地:南北アメリカ 英語名:Cactus 16世紀後半に南蛮経由で渡来。
和名:仙人掌(せんにんしょう) 覇王樹(はおうじゅ) 仙人掌、覇王樹のどちらもサボテンの当て字として用いられる。
川端龍子《伊豆の覇王樹》1965 


・シクラメン 原産地:地中海地方 学名:Cyclamen persicum 英語名:Cyclamen 明治時代に渡来。
和名:篝火花(かがりびばな)、豚の饅頭(ぶたのまんじゅう)
Curtis Botanical Magazine No.44 サクラソウ科 シクラメン CYCLAMEN  PERSICUM 1787年


谷上広南(1879-1928)木版画シクラメン


・ジギタリス 原産地:ヨーロッパ 英語名:Digitalis, Fox glove
和名:狐の手袋きつねのてぶくろ(Fox glove直訳
ポール・ランソン「ジキタリス」(西洋美術館所蔵) 


・ジャカランダ 原産地:中南米 学名&英語名:Jacaranda
和名:桐擬きりもどき 紫雲木(しうんぼく)空に広がる雲のように咲くところから
 Curtis Botanical Magazine No.2327 ノウゼンカズラ科 キリモドキ属 JACARANDA OVALIFOLIA 1822年


・スイートピー 原産地:イタリアシシリー島 学名:Lathyrus odoratus 英語名:Sweet pea 1695年に修道僧クパーニが発見し、イギリスで栽培化された。
和名:麝香連理草(じゃこうれんりそう)
杉浦非水 麝香連理草 木版画


・ゼラニューム  原産地:南アフリカケープ地方 英語名:Ivy geranium
和名:天竺葵てんじくあおい 
ベルナール・ビュッフェ「 ゼラニウム」 

ダリア 原産地:メキシコ 学名:Dahlia 英語名: dahlia
 植物学者リンネの弟子でリンネの弟子であったアンデシュ・ダール (Anders Dahl) にちなむ。1789年にスペインのマドリード王立植物園にもたらされ、オランダ経由で1842(天保13)年に長崎出島に渡来。
和名:天竺牡丹てんじくぼたん
クロード・モネ「アルジャントゥイユのモネの庭(ダリア咲く庭)」1872年


・チューリップ 原産地:トルコ(中近東、西アジア高原) 英語名:Tulip 江戸時代後期に渡来するも定着せず、大正時代に栽培種が普及
和名:鬱金香(うこんこう)
ヤン・ブリューゲル 「チューリップ」 


・デージー 原産地: 学名:Bellis perennis 英語名:Daisy 明治時代初期に渡来。
和名:雛菊(ひなぎく)、延命菊(えんめいぎく)、長命菊(ちょうめいぎく)
ゴッホ「花瓶のひなぎく」1887年 フィラデルフィア美術館所蔵


・ハイビスカス 原産地:ハワイなど 英語名:Hibiscus 
 芙蓉(mallow)の一種。
和名:仏桑花、仏桑華(ぶっそうげ)
尾形光琳「仏桑花図」


・パンジー、ビオラ  原産地:19世紀イギリスで野生のスミレからの交配種として作成された。 学名:Violax 英語名:Pansy, Viola tricolor
和名:三色菫(さんしきすみれ)
岡鹿之助「三色スミレとナナカマド」


・ヒヤシンス  原産地:西アジア、地中海 学名: Hyacinthus orientalis 英語名:Hyacinthus
和名:風信子、飛信子
ルドゥーテ「ヒヤシンス・ブルー」


・ブーゲンビリア 原産地:中央アメリカ、南アメリカの熱帯地方 英語名:Bougainvillea 
 1768年にブラジルで木を見つけたフランス人の探検家ブーガンヴィルに由来する。
和名:筏葛(いかだかずら) 九重葛(ここのえかずら)

・フクシア  原産地:南米、熱帯亜熱帯地方 学名:FuchsiaxHybrida英語名;Fuchsia(フゥシャ)ドイツの植物学者レオンハルト・フックスに由来。日本語のなまりホクシャ。
和名:釣浮草(つりうきそう)。
エゴン・シーレ「フクシア」 
     
 
・フリージア 原産地:南アフリカ 学名:Freesia refracta 英語名:Freesia  
 発見採集したデンマークの植物学者エクロン (Christian Friedrich Ecklon) が親友のドイツ人医師フレーゼ (F・H・T・Freese) の名をつけた。
和名:浅黄水仙(あさぎずいせん) 菖蒲水仙(アヤメスイセン、ショウブスイセン)、香雪蘭(こうせつらん)

・ベゴニア  原産地:熱帯亜熱帯。英語名:Begonia 発見地フランス領アンティル諸島総督ミシェル・ベゴン(Michel Begon, 1638-1710) の名に由来。
 中国原産の同属の種は、秋海棠しゅうかいどう。学名 B. grandis ssp. evansiana

・ポインセチア 原産地:メキシコ、中央アメリカ 学名:Euphorbia pulcherrima 英語名:Poinsettia
和名:猩猩木(しょうじょうぼく)

・マーガレット 原産地:カナリア諸島 学名:Argyranthemum frutescens 英語名:Marguerite 明治末期に渡来。
和名:木春菊もくしゅんぎく
ジョン・エヴァレット・ミレイ 「マーガレットの花束」    

花の背後に立つお針子らしい女性がこわい。

・ミモザ 原産地:  学名&英語名:mimosa  イギリスで南フランスから輸入されるフサアカシアの切花を"mimosa"と呼んだことから、mimosaという名が広まった。
和名:銀葉アカシア 房アカシア
キスリング 「ミモザの花」 リトグラフ


・ライラック 原産地:ヨーロッパ 学名: Syringa vulgaris 英語名:Lilac フランス語名lias
和名:紫丁香花(むらさきはしどい)

「ライラック」ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテPierre-Joseph Redoute19世紀
 

・ラベンダー  原産地:ヨーロッパ、北アフリカ、インド 英語名:Lavender 江戸時代初期にオランダ経由で「ラーヘンデル」として、油用に渡来。鑑賞花ラベンダーは昭和期から。
和名:薫衣草(くんいそう)
エドルアール・マネ「白いラベンダー」


・ルピナス  原産地:地中海沿岸、南北アメリカ 英語名:Lupinus, Lupine
和名:昇藤(のぼりふじ) 葉団扇豆(はうちわまめ)
シャガール「青いルピナス」


・ローズマリー 原産地:地中海沿岸   英語名:Rosemary
和名:まんねんろう 中国語:迷迭香

「ローズマリー」イタリアの壁掛け
 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「再録・花の名前和名洋名」

2023-12-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
202312016
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>花の名前(3)再録・花の名前和名洋名

 2017年にUPした「花の名前」を再録します。2023の付け足しとして、花の絵も和洋を並べてみます。
~~~~~~~~~
20170611
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>花の絵・花の名前(1)花の名前和名洋名

1)木蓮マグノリア
英語のマグノリアは、木蓮科に属する花全般を指すので、日本の木蓮に当たるのはMagnolia quinquepeta もしくは Magnolia liliiflora、なのだそうですが、それにしても、マグノリアと木蓮がまったく結びついていませんでした。
 「マグノリアの花たち」英語タイトル「Steel magnolia」についてもっと理解していれば、映画の舞台ルイジアナ州の州の花がマグノリアであり、南部女性の代名詞が「マグノリアの花」だったことがわかったのかもしれません。
 原題Steel Magnolias鋼のマグノリアとは、外見は花のように愛らしく優しいが、中身は鋼(Steel)のように頑強な芯が 一本通っている女性という意味になります。元ファーストレディーの社会活動家ロザリン・カーターは、南部ジョージア州から初めて選出された米大統領ジミー・カーターの妻。しばしば「鋼のマグノリア」と呼ばれたそうです。
 
 もっとも、私の木蓮のイメージは、奥村土牛が描いた紫木蓮や白木蓮なので、欧米でマグノリアと呼ばれている花とは見かけが異なり、「マグノリアの花たち」の中、たとえば結婚式のシーンで、花嫁の髪を飾っていたり手に持つブーケの中にマグノリアがあったとしても、私はそれを見て「木蓮」とは気づかなかったと思います。
 マグノリアと名付けられている花木は150種類にも及ぶのだそうです。私が普段見ているのは、冬に葉を落とす落葉樹ばかりだったので、常緑のマグノリアもあるのに、たぶんそれを目にしても木蓮とはおもわなかったのでしょう。

 花の名前を知らない春庭ですが、Steel magnolia という女性の代名詞は大いに気にいりました。私も「鋼の花」でありたいと思っていますから。
 あはっ、「芯は強いsteelであれ」という希望はかなうかもしれないけれど、「みかけはたおやかな優しい花」ってのはすでに「願っても手にとどかぬ「高嶺の花」ですね。以上、木蓮の英語名がマグノリアだったこと、今頃わかった、ということを述べました。

 ピエール=ジョゼフ・ ルドゥーテ「マグノリア(サラ・モクレン)」
  
小林古径「白花小禽」 


2)椿カメリア
 英語の花の名前、バラがローズ、ユリがリリーくらいは子供の頃から知っていましたが、あとは、おいおいと知ったのもあるし、全く知らないままだったのもあります。


 椿=カメリア。
 子供の頃読んだ子供版世界名作集かなにかで、「椿姫」というのはマルグリットのあだ名で、胸にカメリアの花=椿をつけている、というような文があったからだとおもうけれど、子供向けの翻案で、マルグリットの商売をどんなふうに描いていたのか、記憶無し。純真な子供は、病気で死んでしまう美しい女の人にひたすら同情したのだったかと思います。

ルドゥーテ「カメリア」

速水御舟「椿ノ花」山種美術館所蔵 


3)菊=クリザンチーム英語chrysanthemum フランス語chrysanthème。
 ジャポニズムの本の中に、明治初期に来日したフランス人作家ピエール・ロティ(1850-1923)の小説「お菊さんMadam Chrysantheme(1887)」があったので、菊=クリザンチームと覚えたのだったと思います。
 鹿鳴館で踊る日本人について「黄色い猿たち」と書いたロティの作なので、「お菊さん」読んでませんけれど。日本在留1か月の間だけ「かわいい人形のような女性」を傍らに置くことを望んだロティ。18歳のお兼さんが、1か月間だけの「日本妻」になって、お菊さんのモデルになった
と知ると、ロティについて、ますます印象が悪くなります。
ルノワール「菊」

酒井抱一「菊小禽図」山種美術館所蔵
 
 
3)立葵=ホリホックhollyhock
 6月4日に山種美術館で「「花*Flower*華―琳派から現代へ―」の「植物名解説」を見て、へぇ、タチアオイのことホリホックというんだ、と知りました。6月8日に、ブロ友くちかずこさんの記事にお庭に咲いたホリホックの写真が載りました。淡いピンクの八重咲きです。私は一重のタチアオイしか見たことなかったので、これは初めてと思ってコメントすると、「ホリホックは西洋立葵」と、コメ返がありました。ホリホックは、日本の花葵よりも広い範囲を指すみたいです。マグノリアが広く木蓮科全体を指すのと同じです。
 日本には古くから移入されましたが、これはタチアオイには薬草としての効能があったから。万葉集にも葵が詠みこまれています。棗や黍、粟などの食用植物と共に読まれているので、若葉を食用にした冬葵に比定されるけれど、牧野富太郎博士は、タチアオイ説を主張。
 
「梨(なし)棗(なつめ)黍(きみ)に粟(あは)つぎ 延(は)ふ葛の 後(のち)も逢はむと葵花(あふひはな)咲く(巻16-3834 作者未詳)」
 (梨が生り棗や黍、粟も次々と実り、時節が移っているのに、あの方に逢えません。でも、伸び続ける葛の先のように、後々にでも逢うことが出来ますよ」と言うように、葵の花が咲いています。)
 恋しいキミ(キビ)に「逢ふ日あふひ=葵」に願いを託すのなら、やっぱり冬葵よりもタチアオイのほうがいいように思います。
フレデリック・カール・フリーゼケ「ホリホック」

荒木十畝「四季花鳥」より《「夏(玉樹芳艸)」山種美術館所蔵 

4)水仙=ダフォディルdaffoddil
 1964年にリリースされたブラザースフォアの「7つの水仙」」でDaffodils=水仙と知りました。(1957年リー・ヘイズ&とフラン・モズリーによって作られた)。
 60年代後半、アメリカのフォークやポップスを英語で歌いたいと思ったのですが、曲にカタカナで書いた歌詞を当てはめていくと、どうしてもカタカナ英語が余るのです。それで、英語はきっぱりあきらめました。
ラトゥール「バラと水仙」

小茂田青樹「水仙」山種美術館所蔵

 
5)芥子=ポピーpoppy
 花屋に並んでいるかわいらしいポピーと、阿片をとる危険なイメージの芥子が同種のものだと、長い間一致していませんでした。別の植物だと思っていたのです。阿片を採取するopium poppyは白い芥子だけ。いつ一致したのか、記憶がありません。
 阿片(ピンインでは: a piàn アーピエン)の発音が、英語だとopiumとなり、日本語では阿片を音読みしてアヘン。

クロード・モネ「アルジャントゥイユ周辺のポピー」


土田麦僊「芥子図」山種美術館所蔵
 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「花の名前・漢字と和名」

2023-12-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231216
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>花の名前(2)花の名前・漢字と和名

 花の名前の再録、つづき
~~~~~~~~~~~~~
20170617
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>花の絵・花の名(4)花の表記

 ネアンデルタール人が墓に花を供えていたことは、発掘された古い人骨の周辺に、花粉の痕跡がたくさん見つかっていることから推察されています。
 現生人類になる以前から、人は亡き人を葬る際に、花をお供えしてきたこと。花の色や香りは人の心に安らぎや癒やしを与えてきたのだろうと思います。
 日本でも、旧石器時代岩宿遺跡の人々も縄文時代の人々も、花を飾り野の花に名前をつけたことと思います。

 方言の中に、縄文の人々の草花ことばのなごりがあったらうれしいと思うのですが、わかりません。万葉集東歌の中に、「うけらが花」などが登場します。野菊の一種かという説が有力ですが、諸説あります。
 花の名前、万葉東歌を詠んだ人々にとっての花。東歌を採用した大伴家持らにとっての花。
 古今集、源氏物語など、それぞれに花が登場します。中国の漢詩に詠み込まれた花もあります。
 
 中国から伝わった名称が、日本語に残った花の名もありました。中国の発音が少し変化した形で伝わっています。
 たとえば、梅。中国メィ→日本ゥメィ→ウメ。
 牡丹。中国ムーダン→ボーダン→ボタン(mとbは入れ替わる音。寒いがサムイとサブイ、どちらも使われるように)

 以下、湯浅浩史さんの分類による花の名前漢字表記をもとに、花の和名の漢字表記について考えます。
引用元。http://taka.no.coocan.jp/a5/cgibin/dfrontpage/fudemakase/SYOKUBUTUkanmei.htm
 たいへん有意義な分類だと思い、引用させていただきます。中国語のピンイン表記は、四声を省略してあります。

一、漢字の表記も発音も中国名に由来
菊(キク)、紫苑(シオン)、桔梗(キキョウ)、竜胆(リンドウ)、夾竹桃(キョウチクトウ)、凌霄(ノウゼン・ノウゼンカズラ)、連翹(レンギョウ)、木瓜(ボケ)、梅(ウメ)、鳳仙花(ホウセンカ)、牡丹(ボタン)、芍薬(シャクヤク)、南天(ナンテン)、睡蓮(スイレン)、水仙(スイセン)、蘭(ラン)。

 「竜胆」の現代中国語発音はlongdanロンダン。リンドウというのが呉音であったか漢音であったのか、わかりませんが、中国語の花の名がそのまま日本語になったことがよくわかります。

久保村正村「りんどう」


 「木瓜」の現代中国語発音はmuguaムークゥァ。上に述べたように、m音とb音はいれかわる音。木の発音、現代中国語発音はmuですが、古代にはbu,boだったのでしょう。

山口蓬春「木瓜」


 「凌霄花」の現代中国語発音はlingxiaohuaリンシャォファです。ノーゼンカズラが中国の南の地方から伝わったことがわかります。中国南部ではr音とn音は異音(言語音としては同じ音に聞こえる)です。日本語ではl音とr音は異音なので、rightもlightも同じライトに聞こえるのと同様に、中国南部では、rとnの音は同一のものと聞こえます。凌(音読みリョウ)という漢字に「ノウ」という読み仮名がついていることから、春庭は「凌霄花は中国南部からの渡来だろう」と、推察いたしました。
 ノウゼンカズラは、平安時代以前に渡来しています。漢や唐からの移入ならリョウゼン花になると思われるのに、ノウゼン花だったので、南方からの移入だろうと思ったのです。夏の季語であることも、暖国育ちであることを思わせます。
 
 鳳仙花、現代中国語発音ではfenxxianhuaフェンシェンファ。韓国語朝鮮語では봉선화(ポンソンファ。東南アジア原産という鳳仙花が、旅して広がっていったようすが感じられます。

 Van Houtte ノウゼンカズラ(ヨーロッパの温室と庭園の植物誌 )1856年


 菊の現代中国語発音は菊花juhuaジュファです。古代には菊はkikuに近い発音であったのかどうか、古代中国語の発音研究者に聞いてみたいです。

 牡丹と芍薬。英語ではどちらもpeonyピオニー。英語では「立てば芍薬座れば牡丹」翻訳できませんね。

葛飾北斎「芍薬」


二、漢字の表記は中国と同じ、読み方が全く異なる
桃(モモ)、桜(サクラ)、李(スモモ)、薔薇(バラ)、藤(フジ)、百日紅(サルスベリ)、蓮(ハス)、忍冬(スイカズラ)、百合(ユリ)

 桜の「さ」は、「咲く」の「さ」と同じ語根とされ、クラは「座=くら」なのだという説が有力。日本の数百万年前の地層からも桜花粉化石が出土しているそうです。ウメが中国渡来であるのに対して、桜はもともとの日本の花なのです。
 漢字が伝わって以後、山桜などの自生の桜に「桜」の漢字を当てはめました。訓読みです。音読みの桜花オウカは、現代中国語の桜花yingfuaインファと共通しています。

 百合。現代中国語ではbaiheバイヘ。日本語ユリの語源諸説あるうち、「揺れる花→ユリ」が有力らしいですが、漢字渡来後、中国語の百合をそのままユリの表記に宛てました。

 百日紅、蓮、藤など、同様です。もとからあった花の名前に、漢字表記を当てた、当て字訓読みです。現代語でいえば、電脳という漢字にパソコンとルビをふるようなものです。

 百日紅。中国では花期が長いことが意識され、日本ではツルツルの幹を見て、「猿が上ろうとしても滑り落ちるだろう」ということに注目した。英語では「crape myrtleちぢれているギンバイカ」六枚の花弁に縮れがあることに注目。それぞれ目をつけるところが違っておもしろいです。(ただし、現代中国語では「紫薇ziweiツィウェィ」の方を主に用います)。

 王若水「百日紅図」

 王若水は大正後期から昭和初期にかけて活躍した版画家というのですが、生涯も画歴もわかりません。

三、同じ漢字だが日本と中国では別の種類
紫陽花(ライラックか)、萩(ヨモギの類)、椿(センダン科のチン)、山茶(ツバキ)、桂(キンモクセイの仲間)、楓(フウ)、石楠花(バラ科の一種)、杜若(ショウガ科の一種)
.
 萩は、万葉集で一番たくさん詠まれている花です。
追加:万葉集に約4500首の歌が数えられ、その約3分の1が何らかの植物を詠んでいるといわれる。 150種をこえる植物が登場するが、最高歌数を誇る花は萩の137首である。

ただし、万葉仮名で「ハギ」を表すのは、「芽」「芽子」であって、「萩」という漢字表記はありません。
 「萩」は、中国では「ヨモギ」の種類を指す語である、と、湯浅さんの漢字表記説にありますが、牧野富太郎は、中国語の萩と、日本語の萩は、別の漢字である、という説。「春」と「舂」とか、見た目似ているけれど違う漢字というがよくあるから、その類いなのかと思います。

長谷川等伯「‘萩芒図屏風」(右隻 17世紀初期 京都・相国寺)


四、漢字の表記も読みも日本で作出
 矢車草(ヤグルマソウ)、日回り(ヒマワリ)、松虫草(マツムシソウ)、蛍袋(ホタルブクロ)、朝顔(アサガオ)、沈丁花(ジンチョウゲ)、桜草(サクラソウ)、万両(マンリョウ)、月見草(ツキミソウ)、弟切草(オトギリソウ)、山吹(ヤマブキ)、雪柳(ユキヤナギ)、苧環(オダマキ)、鉄線(テッセン)、撫子(ナデシコ)、千日紅(センニチコウ)、月下美人(ゲッカビジン)、鈴蘭(スズラン)

 ひまわりに「向日葵」という漢字表記を宛てた場合、「中国語の花の漢字を日本語に当てはめた、ということになります。江戸時代に中国経由で渡来した当時は、中国語の「向日葵シャンリークィ」として移入されたのでしょうが、日本に定着した後は、ちゃんと「日回り」という日本語名が残りました。
 
五、誤つた漢字表記が日本で作られる。( )内が本来の意味。ただし諸説あり
口無し・クチナシ(嘴梨)、女郎花・オミナエシ(女飯)、藤袴・フジバカマ (不時佩)、吾亦紅・ワレモコウ(割木瓜)、雪下・ユキノシタ(雪舌)、紫式部・ムラサキシキブ(紫敷実)

 植物園などでムラサキシキブを眺めるたびに、どうして「紫式部」という名がつけられたのかなと、疑問に思っていたことが、ようやく解決しました。もともと「紫敷実ムラサキシキミ」と呼ばれていた植物。「シキミ」とは「落ちて敷き詰めるように重なる実=実がたくさんなる」という意味だったものが、いつのまにやらm音とb音の交代があり、シキミがシキブになった。シキブなら式部だ、ということで、紫式部になった。ほほう、これで納得。

六、日本で作られ、表記と読み方が不一致
紅葉(モミジ)、馬酔木(アセビ)、柊(ヒイラギ)、白粉花(オシロイバナ)
 六は、熟字訓という「当て字」が定着したものです。
 日本にもともと自生していたアセビ。毒性植物で、馬が食べるとふらふらと酔ったようになるところから、馬酔木という当て字が創られました。柊という漢字は、日本で創られた「日本国字」です。魚偏や木偏の漢字には、日本で創られた字が多いです。

「紅白蓮・白藤・夕もみぢ図」酒井鶯蒲(山種美術館所蔵)


 以上、湯浅浩史さんの分類をもとにして、古代中国語、現代中国語の発音などを春庭が考察しました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「野菜の名前 再録・四葉きゅうり」

2023-12-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231212
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>再録花の名前(1)野菜の名前 再録・四葉きゅうり

 2023年4月-9月の朝ドラ、牧野富三郎をモデルにした『らんまん』でした。植物をながめていることが幸せ、新種を発見すれば幸福Maxな主人公。私も、2017年3月に訪問した練馬区の牧野富三郎庭園にまた行ってみたいと思っています。牧野の出身県にある高知県立牧野植物園に行けるのはいつになるかわかりませんが。

 最近では、名前のわからない草花を写真に撮ってスマホで検索するとすぐにその植物の名前や栽培法まで教えてくれるサイトがあるのだそうで、便利な世の中です。牧野学生植物図鑑を片手にページをめくったのは遠い昔。
 15年前の春庭ブログをチェックしていたら、知らない植物名を覚えた話を書いていました。
~~~~~~~~~~~~
2008/05/19
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>検索は虹を渡る(2)四葉きゅうり
 ホームセンターでパート勤務している方のサイトに書いてあったのは
園芸の苗を買いに来たお客さんが「四つ葉のキュウリが欲しい」と注文したけれど、四つ葉キュウリって何のこと?」
 さあ、何でしょう。私は双葉の時期をすぎて四つ葉になった頃の苗と推察したのですが。検索してみると「四葉(スーヨー)キュウリ」。本葉が4枚付いた頃から実がなるのでこの名があるんですって。

 「美味で有名な白イボ系キュウリ。普通の白イボキュウリの1.5倍ぐらいの大きなキュウリです。イボとシワが多く見た目が悪い上に鮮度落ちが早いのですが、歯切れが良く漬物にもむきます。四川キュウリは、四葉キュウリの改良型。大きさは普通の白イボキュウリと同じぐらいですが、 四葉と同様にシワが多い。美味です。」
 と、わかりました。へぇ~、四葉キュウリ、鮮度落ちが早くても、味がいいなら、自家用で食べる人にはぴったりの品種。私も食べたいです。
~~~~~~~~~
 20231207
 品種改良などで新しい野菜がぞくぞく登場しています。スーパーに並んでいるのを見て、おっ、初めて見る野菜、どんな味なんだろうと思うものの、「見切り品半額」の買い物をしているので、なかなか新しい野菜にチャレンジすることができません。以下、食べてみたい新野菜。

・オレンジチェリー(食用ほうずき)。色味と形からオレンジ+チェリーというネーミングですが、味はパイナップルとマンゴーと桃風味というので、スーパーで見かけたら食べてみたいと思います。

・アイスプラント 。スーパーで見かけたことがあるのですが、また手が出ない。狭義のアイスプラントは耐寒マツバギク属の植物を指すそうですが、八百屋でのアイスプラントは、鮮やかな緑色で表面に水滴のような粒が無数についてい るので、氷の粒にように見え、アイスプラントの名がつきました。ハマミズナ科メセンブリアンテマ属の葉物野菜で、原産はヨーロッパ、西アジア、アフリカというので、え、いったいどこやねん、です。スーパーで見かけますが、さすがに見切り品半額コーナーにはないので、まだ食べたことない。もともと塩味を含んでいるので、サラダでそのまま食べらえるというので、ぜひ。

・ヤーコン 南米原産というキク科スマランサス属 。サツマイモのように甘みのある根茎というので、食べてみたい。お芋大好きなので。スーパーで見かけたことはあるけれど、未食。

・アンチョビ菜 ブロッコリーとキャベツの掛け合わせでできたそう。茎がおいしいという茎ブロッコリーも出まわっているというのですが、アンチョビ菜はまだ見かけたことがありません。

・グラパラリーフ 中南米原産の多肉植物。別名葉リンゴ。青リンゴのような食感と味わいがある。観葉植物として人気の高い多肉植物の一種、グラプトペタルムをアグリアシストジャパンという農業会社が食用に品種改良した新しい野菜。柏市で栽培されているそうですが、見かけたことないです。りんごやぶどうのような酸味と甘みがあるというので、食べてみたいです。 

 新しい野菜の名前、食べるチャンスを楽しみに。

武者小路実篤「我野菜を愛す」


<つづく>  
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ぽかぽか春庭「偉人たちの邂逅―近現代の書と言葉 in 大倉集古館」

2023-12-10 00:00:01 | エッセイ、コラム

20231210
ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩ぐるっとパス使い倒し(2)偉人たちの邂逅―近現代の書と言葉 in 大倉集古館

 11月25日、大倉集古館の「偉人たちの邂逅」展は、大倉集古館を設立したの大倉財閥の喜八郎喜七郎が、内外の偉人たちと交流して収集した書を中心としたお宝の展示です。明治から昭和にかけて、政界財界の大物や中国の政治家の書が大倉家に贈られました。

 大倉集古館の口上
 今から150年前の1873(明治6)年10月、大倉喜八郎によって大倉組商会が設立されました。大倉組商会は後に15財閥の一つに数えられる大企業に成長します。本展では大倉組商会設立から150年を数えた本年、創設者・大倉喜八郎と、嗣子・喜七郎による書の作品とともに、事業や文雅の場で交流した日中の偉人たちによる作品を展示し、詩作や書の贈答によって結ばれた交流の様を展観いたします。
 大倉集古館には、大倉喜八郎と交流をもった中国清時代や、明治大正の偉人たちの書が所蔵されています。彼らは折に触れ歌を詠み、それを贈り合いました。また、喜八郎自身は、光悦流と称する自らの書風によって歌を書きあげ、嫡子の喜七郎は、松本芳翠に書を学び、友とともに漢詩を作り軸に仕立てました。大倉財閥150年をめぐる偉人たちの交流の跡を示す書の数々を展示いたします。

 ぐるりと展示室をながめわたし、書をしたためた伊藤博文、渋沢栄一、勝海舟とか、歴史的な名前はわかる。それぞれ雄渾な字であるなどの、文字の形の美しさは感じる。大倉喜八郎喜七郎が幅広い交友関係によって支えられていたこともわかる。


 

 応募していた講演会が14時から大倉集古館地下1階の講堂ではじまりました。大倉財閥の歴史を、東京経済大学名誉教授村上勝彦(大倉文化財団理事長)先生がレクチャーするということで、応募しました。14時から15時半までの予定でしたが、最初から「予定時間は超過します」というイクスキューズで始まりました。

  講演の内容は。1873(明治6)年に設立された大倉商会が150年商売を続けて、ホテルも経営しいろいろ稼いできたけれど、三井住友や三菱と違うところは銀行業に関わらなかったことで、そのため戦後の財閥解体の際は他の財閥に比べてえらい苦労してしまったけれど、なんとか会社組織を保つことができたという企業自慢話をいろんな資料のレジメも配られてつらつらと語り、最初の言い訳通りチラシに出ていた時間より30分以上オーバーしておわりました。
 私はぐるっとパスのついでに聞いたのですが、聴衆の半分くらいは村上先生のかっての教え子らしい高齢者が多く、講演後は「じゃ、〇〇亭は何人プラスで」と、ゼミ同窓会っぽい集りがあるようでした。

 私はそもそも経済にはうといし、もうけ話には縁もなく、歴代の社員優秀で会社を支えたと言う大倉財閥の栄枯盛衰にも興味が薄い。喜八郎と喜七郎の間に父と息子の軋轢でもあれば興味持てるのに、けっこう親子仲はよかったみたい。渋沢栄一の跡取りがダメ息子で経済活動そっちのけで趣味に生き、華族出身の妻を捨てて芸者と暮らし廃嫡されたとかいうような話なら面白いのに。喜七郎は長唄から西洋音楽まで得意、スポーツはカーレース、スキーなど、あらゆる趣味をつくし、経営は番頭にまかせて破綻なく生涯をすごしたという、やっかみひがみの庶民には面白みのない一族でした。やはり一族の中にひとりやふたりは道を踏み外してほしいというのが、庶民のこころもち。

 喜八郎喜七郎は、光悦流と名付けた書をよくしていたため、光悦の書も所蔵されていました。


 光悦の書、美しい文字でした。よいものに出会えば、その日はよい日になります。光悦の書に会えて、9月25日はよい日になったと思って、六本木一丁目駅から帰りました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「日本画の棲み家 in 泉屋博古館」

2023-12-09 00:00:01 | エッセイ、コラム


20231209
ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩ぐるっとパス使い倒し(1)日本画の棲み家 in 泉屋博古館 

 9月25日土曜日、泉屋博古館の「日本画の棲み家」展に出かけました。

 泉屋博古館の口上
 明治時代における西洋文化の到来は、絵画を鑑賞する場に地殻変動をもたらしました。特に西洋に倣った展覧会制度の導入は、床の間や座敷を「棲み家」とした日本絵画を展覧会場へと住み替えさせました。その結果、巨大で濃彩な作品が増えるなど、日本絵画は新しい「家」にふさわしい絵画表現へと大きくシフトしていきます。このような時代のなかで集められた泉屋の日本画は、むしろ邸宅を飾るために描かれたもので、来客を迎えるための屏風や床映えする掛軸など、展覧会を舞台とする「展覧会芸術」とは逆行する「柔和な」性質と「吉祥的」内容を備えています。
 本展では、かつて住友の邸宅を飾った日本画とその取り合わせを再現的に展観し、床の間や座敷を飾る日本画の魅力を館蔵品から紹介します。また現代の作家が「床の間芸術」をテーマに描いた作品もあわせて展示し、いまの「床の間芸術」とは何かを考えます。

 明治初年まで、日本画は襖絵か床の間を飾る掛け軸、絵巻物として鑑賞されてきました。明治期、洋画の影響を受け、和室や洋室の壁、展覧会場の広い壁面に飾るための日本画が描かれるようになると、日本画の画法が変わったのだそうです。学芸員のスライドレクチャーを聞きました。

 主任学芸員の椎野晃史さんが、展示されている絵画や住友家茶臼山邸平面図を示しながら解説してくれました。建坪1千坪を超える邸内に、床の間は10カ所以上あったそうで、それぞれの座敷や季節に合うよう掛け軸が選ばれ、掛け軸に合わせる花瓶や壺が飾られました。今回の展示品の多くは、住友家第15代住友友純(すみともともいと1865-1926)が収集したもの。住友家15代当主は、12代13代が相次いで亡くなり男系の絶えたところに、徳大寺家から養子に入12代妹と結婚した人が友純です。(12代母がつなぎの14代)友純は東山天皇の男系7世子孫にあたります。徳大寺からは、友純の兄が西園寺家に養子に入り西園寺公望になり明治の元勲として存在。

 友純は春翠と号し、茶人、風流人として生き、住友家の経営は番頭に任せる人であったそうです。春翠は男爵を授かり、三井家とは何重もの婚姻関係を結び、相互に持ち株会社で株を持ち合う。三井住友銀行は、もとをたどれば一族会社なんですね。

住友家茶臼山邸平面図


邸内を飾った屏風
木島櫻谷「雪中梅花」1918(大正7)


望月玉泉「雪中蘆雁図」1908(明治41

床の間を飾った掛け軸

 自館所蔵の日本画を、「どのように飾るか、どう見せるか」という視点で展示された展覧会でした。学芸員のレクチャーも聞かせていただいたのだけれど、どうにも私にはピンとこないものでした。なにせ、私が育った庶民の家、一階6畳の床の間にはタンスが置かれて物置状態でしたし、2階6畳の床の間1畳分には、私がふとんを敷いてベッドのようにしていたのです。掛け軸どころか、カレンダーから切り抜いた好きな絵を張り付けていました。床柱は父がどこからか譲り受けた自慢の銘木だったそうですが、子供には銘木だろうとわからない。たぶん、私の「日本画を観賞する感性」が育たなかったのは、床の間ベッドで寝起きしてきた子供時代にあると思います。いまさら育たない「日本画を飾る感性」。

 ぐるっとパス消化の泉屋博古館でしたから、ピンとこないまま出て大倉集古館へ。大倉集古館もさらにピンとこない「書」の展示だったので、11月25日はめったにない「おもしろくなかったなあ」という観覧日になり、「ぐるっとパスで楽しむ美術館めぐり」を唯一の娯楽にしている私としてはあまり満足できない一日でした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「おとなとややこ」

2023-12-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231207
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばで遊ぶ(4)おとなとややこ

 動詞の形容詞化の話をしました。「違う/ちがいます/ちがって(動詞)→違い/ちがいです/ちがくて(形容詞)」
 形容詞の造語法について、本編に書いておらず、コメント欄に書いていたことを、再録します。

 形容詞には、形状形態の表現を本務とする赤い、長い、丸いなど「い形容詞」があります。そして、心に感じる感覚感情の表現を受け持つのが「しい形容詞」です。「面白い話」などの「い形容詞」にも、心の中の感情感覚を表現できるものもあります。
 物そのものも状態を表すときと心理的なものを表すときと両方に使える形容詞、寂しい、苦しい、激しい、悲しい、惜しい、楽しいなど。「寂しい田舎」という表現は、田舎そのもののようすを表現していると考えられますが、「恋人に会えないから寂しい」というと、主体の心理的な感情と言えます。主語以外のひとの感情をあらわすときは「がる」をつけます。「彼女は
恋人に会えないので寂しがっている」 
 形状形容詞には、丸→丸い、四角→しかくい、黄色→きいろいなど、もともとの名詞が形容詞化しているものあります。
 ウェブ友すみともさんからの質問に答えた「ややこしい」についての回答です。
~~~~~~~~
2017-06-19 16:00:37
「ややこしい」
 野村萬斎がNHKのこども番組「にほんごであそぼ」の中で「ややこしや、ややこしや」と言っていたので、てっきり狂言の中に出てくることば、室町以来のことばと思ったら、萬斎がシェークスピア劇を狂言アレンジにしたときに使ったことばなのだそうです。「NHKのアナウンサーが使っているから標準語」という思い込みもダメですが、狂言師が使ったからといって、古語ではない、ということですね。
大人→おとなしい(分別があり落ち着いている)
からの類推で、ややこ(赤子)→ややこしい(幼い思考のまますじみちだっていなくて、混乱している)という造語らしい。私の持つ古語辞典には「ややこしい」は、ありませんでした。
~~~~~~~~
 上記に追加情報。「ややこしい」が使われ始めたのは幕末からという(出典不明)。

 「騒がしい」という形容詞は「騒ぐ」という動詞に由来することは推察できますが、では「騒々しい」という形容詞はどうでしょう。騒騒は万葉集の中に用例があります。
読み方:さいさい(さゐさゐ)
[副詞]物が揺れ動いてさわさわと音を立てるさま。
「玉衣(たまぎぬ)の騒騒しづみ家の妹にもの言はず来にて思ひかねつも」〈万・五〇三〉

別読み:さえさえ〔さゑさゑ)
[副詞]「さいさい(騒騒)」に同じ。
「あり衣(きぬ)のさゑさゑしづみ家の妹に物言はず来(き)にて思ひ苦しも」〈万・三四八一〉

 万葉集は、各地各家に伝わった歌をまとめた歌集ですから、異伝もさまざまにありますが、万葉集No.503(相聞歌)「さゐさゐ」と、No.3481(東歌)「さゑさゑ」に、騒々のふたつの読み方が出ています。現在も東北地方では「い」と「え」の発音はその中間的な音で、母音の数は4母音です。「さゐさゐ」「さゑさゑ」のふたつは、元は同じ発音で、東歌として伝わった歌が、相聞歌の部類にも採用されたのかと思います。
 「騒騒」は、現代中国語での発音は、「Sāo sāo」なので、おそらく漢詩の中に記述された「騒騒」を日本語が取り入れた語がもとになっているのかなあと思われます。出展などを調べる余裕はありませんが、東歌に「さゑさゑ」が出てくるということなら、かなり早くから日本語に取り入れられたに違いなく、東歌に入っている漢語由来のことばを調査するのも、思い白いテーマと思います。

 日本語研究をするとき「日本語の起源」と「語源調査」をテーマにすると、一生かかっても結論が出ず、研究を成就することができない、と日本語研究科の師匠たちは口々に学生に注意をしていました。短い人生を結論の見えない果てしない研究に使うべきではないと。東歌における「さゑさゑ」を調べた人がいるなら、教えてほしいです。

 語源がはっきりわかる語もあるけれど、わからない語はわからないまま使っていけばよい。ある語に新しい意味が付与されたときは、新しい意味を使うか使わないかは、個人の自由。「やばい」と言う語を、若者が使っているように誉めことばとして使いたくない「大人」は使う必要はない。

 「ややこ」たちは、どんどん言葉を変えていくし、言葉の意味も変容させていく。ややこしい言葉が生まれ、日本語の局面を変えていきます。私は大人しく言葉の変化をウォッチングして楽しみます。

草光信成「成長・母子」1936


<つづく>
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