20220726
ぽかぽか春庭アート散歩>2022アート散歩夏(1)ガブリエルシャネル展 in 三菱一号館美術館
日本人が「ブランド大好き民族」であることは、ハウスオブグッチの中でも「笑いのタネ」にされていました。アルドグッチが日本進出を果たすために「コニチワ」と日本語のあいさつでロドルフォを迎えたり、ゴテンバにモールを出す話をしたり。
エルメスとかローレックスとか、ブランドの刻印がついていれば無条件で「よい品」と信じ、大金を出す。買えない人はあこがれる。
そんなビッグネームを確立したブランドの総大将のひとりがグッチであることは、ブランドにうとい私にもわかります。
そして、ファッションブランド界において、日本でもっとも広く認知されているのが「シャネル」だと。はい、私でも知っていますから。
ひところ、PTAなんかに集まるおマダ~ムたちが、子供が制服きてるのと同じように、そろってシャネルスーツを着込んできて、制服かよ!と、突っ込みいれたくなる時代もありました。本物のシャネルもあったし、「シャネル風」もあったことでしょうが。
ガブリエル・シャネル通称ココ・シャネル(1883-1971)は、ファッション界において、3つの大きな変革を成し遂げた人物として知られています。
20世紀の女性として最も顕著な功績をファション界のみならず、広く社会全体に与えたのです。
よく言われているのは、「ココシャネルは、女性の身体をコルセットから解放した」
20世紀になるまで、女性は「いちばん女らしく見えるように」コルセットを身に着け締め付けることでより細いウエストを確保しようとしてきました。細い腰と豊かなヒップを持つことが「子を産むのにふさわしい女らしいスタイル」とされてきたからです。
しかし、コルセットを用いないファッションを発表していたのは、シャネルが最初ではありません。
2009年に庭園美術館で「ポワレとフォルチュニィ」展を観覧し、シャネル以前にもコルセットを使わないファッションが生み出されていたことを知りました。しかし、シャネルの名はファッションにうとい私でも知っているのに対し、庭園美術館の展覧会までポワレの名もフォルチュニィの名も知りませんでした。
ココシャネルがブランド確立者としてあまりにも有名であるのに対して、ポワレもフォルチュニィも、ブランドとして生き残る道はとらず、一代かぎりのファッションデザイナーとして時代の中に埋没してしまったからです。
シャネルは卓越したデザイン感覚の持ち主であると同時に自分のブランドを立ち上げ維持する経営感覚も持っていた稀有な女性でした。
シャネルの伝記物語は、さまざまなメディアの中に描かれており、私もドキュメンタリー番組などで幾度となく、彼女が後年封印して語りたがらなかったその貧しい生い立ちや修道院での悲惨な暮らしなどについて、細かく調査されているのを見てきました。以下は「映像の世紀ー世界を変えた女たち」ほかのドキュメンタリーで知りえたシャネルの生涯です。
ガブリエルは、貧しく子だくさんな両親の間に生まれました。12歳のとき、生活力のない父にかわって働きづめだった母が貧困の中に亡くなります。父親は男の子は農場に働きに出し、女の子は修道院に放り込みます。
修道院で6年間裁縫を仕込まれたことが、のちに役立つことになります。
18歳から20歳すぎまで、昼はお針子として働き、夜は騎兵部隊の集まる店でチップを稼ぐ暮らしを続けます。店での役目は、出し物と出し物の入れ替えの間に舞台でポーズをとってチップをもらう仕事でした。
一時歌手をめざしますが、自分に歌手として成功する道はないことを自覚。23歳の時、騎兵部隊にいたエチエンヌ・バルサンの愛人となりました。バルサンは親の資産を馬の飼育に使う金持ちでしたが、下層出身のココと結婚する気はまったくありません。バルサンにとっては「馬と同じ、道楽のひとつ」
バルサンとの暮らしの中で、ココは乗馬を覚えましち。これが洋裁の変革につながります。当時上流社会の女性は、ロングスカートで横乗りをしていました。シャネルは、男性と同じようなズボンの乗馬服を自分のために作成します。裁縫技術が役にたったのです。この斬新な乗馬服を望む女性のために、やはり人気を得ていた新しい帽子とともに、制作に乗り出します。
やがて、ココはバルサンの友人のカぺルに乗り換えます。カぺルはイギリス人上流階級の金持ちで、やはりココと正式に結婚する気はなく、貴族の娘ダイアナと結婚後もココを愛人のままにしていました。
1913年、30歳になっていたシャネルは、アーサー・カペルの資金提供でドーヴィルにブティックを開業し成功をおさめます。 シャネルの製品は当時主に男性用下着に使用されていたジャージー生地や下着用のトリコットのような安手の生地で作られていました。高級な生地を仕入れる資金に不足していたからです。
ドーヴィルのブティックは立地がよかったことに加え、妹と叔母(父親の年の離れた妹にあたる)の協力のもと、帽子、ジャケット、セーター、そしてセーラーブラウスなどのデザインを売り出します。ドーヴィルの目抜き通りを、妹アントアネット と、父方の叔母アドリエンヌ(アントアネットと同い年)は、新しいデザインのドレスを着て歩き、人目を惹いたのです。
1918年には、ビアリッツの店舗を「メゾン・ド・クチュール 」として登録しました。
この当時、35歳になっていたココの愛人は、ロシア貴族のドミトリー・パヴロヴィチ大公 。大公はロシア皇帝ニコライのいとこです。
店の大繁盛によって、ココはカぺルから得てきた資金を返済できるようになりました。しかし、1919年ココ36歳のとき交通事故でカペルは死去。
バルサン、ドミトリーなどの愛人遍歴の中、カぺルを「私がいちばん愛した人」と後年語りますが、それはカぺルが亡くなっていて、ココにとって「不滅の愛」として神話化されていたからでしょう。
ココはバレエリュスのディアギレフ、作曲家ストラビンスキー、ピカソ、コクトーなどの芸術家と交流を深め1922年よりシャネルNo.5の販売もはじめます。
詩人やイラストレーターらとの恋愛を経て、40歳からココはイギリス貴族ウェストミンスター公と交際。彼はシャネルに別荘や宝石を与え、正式な結婚を望んだけれど、ココは仕事を捨てて家庭の中にはいることを選びませんでした。いわく「ウエストミンスター公爵は何人もいるけれど、ココはたったひとり」つまり、「愛人として侍らせることができるような男は何人もいるが、デザイナーココはこの世にたったひとり」という強烈な自己主張自己愛の持ち主がココでした。仕事を捨てて「上流階級の妻として枠にはまって生きる」ことなど論外でした。
1924年5月、交際していたウェストミンスター公爵とグランドナショナル(障害競走)を見物するシャネル。
第2次世界大戦中、ドイツからの侵攻が強まると、ココはドイツ人将校を愛人としました。外交官・諜報員であったハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ との親密な交際によって、ドイツに協力的人物として逮捕されます。釈放されたのち、1944年から10年間、スイスに隠遁し、社会から身を潜めて暮らしました。
1954年、71歳のココは、逼塞していたスイスからパリに舞い戻り、自身のブティックを復活させます。しかし、パリでは「ドイツ人軍人との交際によるスパイ疑惑」の悪評はぬぐい切れませんでした。
そんなシャネルのデザインを熱狂的に支持したのは、アメリカ人女性たちでした。アメリカにとって、ドイツフランスの確執やスパイ疑惑なんか関係ないからです。
第2次大戦に出征していた男性に変わった社会進出を果たすようになったアメリカ女性は、シャネルの機能的で軽やかなデザインを好みました。その一人がジャクリーヌ・ケネディです。(JFKが撃たれたときに、オープンカーでジャクリーヌが着ていたピンクのスーツもシャネル製)
ジャクリーヌのシャネル愛用の効用もあって、アメリカでの人気はどんどん高まり、パリのオートクチュールも劇的に復活しました。
1971年に87歳で亡くなるまで、ココシャネルはファッションの最前線に君臨したのです。
最晩年のココ・シャネル
以上のココシャネル伝記は、シャネル自身が自己美化してマスコミに語ったことも含まれますが、おおむね彼女の生涯に沿っていると思います。
自己美化のひとつとして、「父によって修道院に放り込まれた」という生い立ちのかわりに、ココは「アメリカへ旅立った父のもとから、父の姉妹に預けられた」という神話を語りましたが、父がアメリカへ行ったこともないし、ココの世話をしたという伯母も叔母も実在していません。
シャネルがブランドとして生き残ってきた理由のひとつとして「自社素材」を取り入れた点があげられます。たとえば、服地は1928年から「シャネル織物社」がシャネルのコレクションのために特別なプリントを制作しています。自社のみのライセンスにできなかった香水も、さまざまな変遷を経てシャネル社の事業になっています。
三菱一号館美術館での「ガブリエル・シャネルManifeste de mode展」は、32年ぶりのシャネル回顧展。おもな出品元は、ガリエラ宮パリ市立モード美術館とパリ・ミュゼ。両者の協働による国際巡回展のひとつとして開催されました。そのほかパトリモアンヌ シャネル、ガリエラ宮、そして日本のさまざまな美術館から集められた、1910年代~1971年までの130点以上の貴重な作品 が展示されています。春庭は、7月20日に観覧。
会期:2022年6月18日(土)~ 9月25日(日)
美術館の口上
ガブリエル・シャネル(1883~1971)は、「20世紀で最も影響力の大きい女性デザイナー」といわれます。 シャネルのシンプルかつ洗練された服は着る人に実用性と快適さを与えながら、1920年代の活動的な新しい女性像の流行を先導しました。戦後に流行したシャネルのスーツを着こなすことで、彼女自身がファッション・アイコンとして、そのスタイルを象徴しています。本展は、ガリエラ宮パリ市立モード美術館で開催されたGabrielle Chanel. Manifeste de mode展を日本向けに再構成する国際巡回展です。ガブリエル・シャネルの仕事に焦点を当てる回顧展を日本で開催するのは32年ぶりのことです。 シャネルのスーツ、リトル・ブラック・ドレスを代表に、どれも特徴的な服はシャネルのファッションに対する哲学を体現しています。さらにコスチューム・ジュエリーやシャネル N°5の香水といった展示に当時の記録映像が加わることで引き立てられ、鑑賞者をシャネルのクリエイションの魅力へと誘います。
婦人服へのジャージー生地の導入、日常生活における利便性とファッション性を両立したスーツ、リトル・ブラック・ドレス(LBD)の概念の普及など、彼女がファッションに残した遺産は現代のファッションにも多大な影響を残しており、これらを通じてスポーティー、カジュアル・シックな服装が女性の標準的なスタイルとして確立されたとされています。
展示構成
新しいエレガンスに向けてースタイルの誕生ーN°5:現代女性の目に見えないアクセサリー抑制されたラグジュアリーの表現ースーツ、あるいは自由の形ーシャネルの規範(コード)ージュエリーセット礼賛ー蘇った気品
1930~1936年に、シャネルは「シャネルスタイル」の服を発表。
以後、シャネルスタイルは規範としていつの時代にも「決して古びない流行」となる。
喪服の色とされた「黒」の生地をつかったドレスもつぎつぎに発表。
1936-1937年秋冬 蝋引きしたレーヨンのクロッケのドレス
パリ、パトリモアンヌ・シャネル
シャネルのドレス
いっとき、だれもが肩にぶら下げていたシャネルバッグ。レプリカも多かったと思うけれど。
私自身は、レプリカも含めてシャネルの靴も香水もバッグも身に着けたことはなかったけれど、こうして「見るファッション」として眺めて歩けば、とても楽しいひとときでした。
私が身に着けた場合、絶対に本物には見えず、中国製とかのレプリカにみえるだろうから、以後も買う予定はないが、プレゼントは喜んでいただきます。ください。
三菱一号館入館者へのミニプレゼントとしてシャネル5番のミニボトルが配布されていたのに、7月10日から24日までの間は「予定以上にプレゼントをももらう人が多かったために配布中止」という憂き目にあいました。
せっかくのプレゼントだったのに、間が悪いこと。もう一度行ってもらうぞ、と決意。(年間パスがあるのでね)
<つづく>