2013/03/30
ぽかぽか春庭@アート散歩>写真を見る(13)記憶写真展
目黒美術館と新宿歴史博物館で、素人の撮った写真を見ました。
目黒美術館のは、「記憶写真展」2013年2月16日(土)~2013年3月24日(日)。副題は「お父さんの撮った写真、面白いものが写ってますね」
目黒区が広報用に撮った写真や、目黒区民(と思う)人たちが撮った写真、約200点を展示。大正末期~1970年代の目黒周辺が撮影されています。目黒区内、畑があったり、区内を流れる川が台風のたびに氾濫していた様子などをうかがい知ることができます。
目黒美術館「記憶写真展」の展示室内
小学校の先生が撮影してきた区内の小学校の記録もありました。先生の亡くなったあと、ネガフィルムがそっくり目黒美術館に寄贈されたのだそうです。
結婚後、私の本籍地は目黒区になりました。夫の実家があるからです。今も姑が住んでいる家を本籍地として以来、目黒区との御縁も30年以上たつのに、夫の実家と最寄り駅の間の道のほかはほとんど歩いたことがないのです。(目黒駅周辺は歩いたことありますが、目黒駅周辺は品川区です。ちなみに、品川駅周辺は港区)
夫の実家が品川区から目黒区に引っ越したのは1970年頃だと聞きました。その前後の目黒区はこんなふうだったのか、と思いながら写真を見ました。
素人が撮影したネガフィルムなど、家族が写っているものならアルバムにおさめて残すでしょうが、知り合いの顔がなければ、単なる風景とか旅の記録など、処分されてしまうものも多いでしょう。でも、記録として保存することにきっと意義があります。いらない写真ネガは、地元の美術館博物館に寄贈しておけば、役に立つときがくると思います。
目黒美術館を見てから、目黒から四谷まで地下鉄で行き、新宿歴史博物館へ。同じ主旨の写真展を開催していたからです。
「記憶の中の新宿-昭和30年代を中心に」
1970年4月、私がはじめて東京に出てきたとき、最初に住んだのは新宿でした。市ヶ谷河田町。
1970年の新宿繁華街へ足を運んだのは、4月最初の日曜日。新宿駅南口から見えた武蔵野館で『ローマの休日』のリバイバル上映を見たのが、私の最初の「東京の休日」でした。
それから40年余り、新宿の変化を見てきて、もう1970年ころの新宿がどうだったか、細部の記憶はもやの中。それでも、当時の写真を見れば、なつかしい気がする。
新宿歴史博物館「記憶の中の新宿」展示室内
新宿歴史博物館では、写真をデータベースとして公開しています。
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/
昔の新宿を思い出したい人には、役に立つサイトかも。
たとえば、「新宿」「戦後」というキーワードを入れると、「新宿西口フォーク集会」という写真などが出てきます。新宿西口に若者たちが座り込んで「友よ~」とか「ああ、インタナショナアルわれらもの~」と歌った日のことが思い出されます。
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=3689
「なつかしい」なんてノスタルジーにひたっているだけでなく、「あの日の記憶」は、自分たちが脱ぎ捨ててきた時間をつきつけてきます。
「そんな日和見主義では社会は変わらん!これだから女はダメだ」なんて叫んでいた男どもは、卒業近くなればみな就職活動に駆け回り、今じゃ立派な「資本主義走狗のなれのはての抜け殻」の定年退職組おっさんたちになりました。
ノンセクトラジカルシンパのまま結局定職も得られずに、パートタイマーで働き続けた私は、今や社会の一番左端にひっかかっているありさま。み~んな右側に寄り集まって、経済発展を第一とする政府を支持する。私は、ルイヴィトンのバッグもエルメスのスカーフも買えなくてもいいから、セシウムなんぞの不安のない空気を吸いたい。
「社会の中で安定した暮らしをするには、組織や企業に埋もれて生きるしかない」という生き方に安住できなかった私の40年は、世間からみればバカみたいな貧乏くじなのかもしれません。でも、卒業と同時に社畜となって働き続けた人達すべてが、私以上に満足した人生をおくっただろうとも思わない。
どこにも所属する職場、帰属するアイデンティティがなかったからこそ、好きなことをほざいていられる自由は確保したのだとも言える。
友よ、、、、夜明けは近いのか、、、ますます混迷の闇は深い気がするが。
展示されていた四谷三丁目交差点の古い写真(錦松梅の前)
2013年2月16日に撮影した四谷三丁目交差点の写真。(錦松梅の前)
記憶する魂、記録する魂。私は時代を記憶し、下手な写真も撮り続けていきたいと思います。10歳からの日記をとってある。百年分ためれば、何かの記録にはなるはず。
1月末に、東京博物館へ行ったときのこと。徳川の至宝展を見たのですが、1階ホールで催し物をやっていました。「2013日本を縦断する映像発表会」という日本アマチュア映像作家連盟の発表会でした。
アマチュア写真家たちの写真展は、どこに行っても出くわすほど、日本は1億総アマチュア写真家の国です。が、映像作家となると、ビデオが手軽になったといっても、普通は家族の誕生会運動会学芸会を撮影するのがせいぜいです。我が子わが孫のビデオは家族が見れば十分で、他人がみればショーモナイものばかり。ショーモナイものであっても、記録しておく価値がある。
人様に見てもらうほどの映像を個人が撮影するのはよほどの腕にちがいない、と思って、「2013日本を縦断する映像発表会」を見る気になりました。
だいたい一人の発表時間は10分で、「ドイツ老人ホーム訪問」「ネパールの行商人」といった「外国の紹介。「神領のまつり」「新薬師寺のおたいまつ」などの地域の祭り撮影、ふるさとに生きる人のドキュメントなどがおもなタイトルでした。
全部は見られませんでしたが、出たり入ったりしながらいくつかの作品を見ました。そのひとつ「冬・余部」は、今はコンクリート橋に建て替えられた余部鉄橋の、立て替え前直前のようすを撮影した映像。貴重な記録と思います。
また、特別上映された1992年カナダ国際コンクール入賞の「自問」という作品。認知症になった妻を撮影したビデオです。
アマチュアの映像も、こんなにさまざまな題材を、人様に見せられるだけの作品に仕上げているのだということに大きな感銘を受け、それぞれの作品が10分という時間なかに、美しい映像や主張をきっちりまとめあげていることに「日本は、アマチュアのカメラもビデオカメラもすごいなあ」と思いました。
記録すること、文章で、カメラで、ビデオで。自分の子や孫が立っただの歩いただのの記録であれ、書いておこう、撮影しておこう。上司に無理な仕事を割り振られて悔しいでも、今日のカレーはおいしかったでもなんでも記録しておくにしくはない。人が生きて、見たこと経験したことを記録しておいたら、きっと人類子孫に役にたつ。
人類が生き残れるのだとして。
<おわり>