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ぽかぽか春庭「2013年3月目次」

2013-03-31 00:00:01 | エッセイ、コラム

by PJ.TaKo

2013/03/31
ぽかぽか春庭2013年3月目次

03/02 ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>春のうた(1)明治の春
03/03 ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>春のうた(2)ひなの歌

03/05 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>新語旧語(1)青い鳥さんの辞書あそび
03/06 新語旧語(2)てふてふ
03/07 新語旧語(3)ちょうちょ
03/09 新語旧語(4)バタフライ
03/10 新語旧語(5)スネップ&雇い止め
03/12 新語旧語(6)閼伽棚

03/13 ぽかぽか春庭@アート散歩>記憶と記録・写真を見る(1)写真展「大鎚の宝物」
03/14 記憶と記録・写真を見る(2)菊池智子の中国・この世界とわたしのどこか
03/16 記憶と記録・写真を見る(3)北井一夫の北京'70~'90
03/17 記憶と記録・写真を見る(4)春庭の中国写真2007
03/19 記憶と記録・写真を見る(5)北京胡同の記憶 原直久の胡同
03/20 記憶と記録・写真を見る(6)北京胡同の記憶、春庭の胡同
03/21 記憶と記録・写真を見る(7)古写真絵はがきの北京1880-1910
03/23 記憶と記録・写真を見る(8)幕末写真を見る 夜明けまえ知られざる日本写真開拓史
03/24 記憶と記録・写真を見る(9)二人の写真家展その1ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー
03/26 記憶と記録・写真を見る(10)二人の写真家展その2崩れ落ちる兵士の真実
03/27 記憶と記録・写真を見る(11)二人の写真家展その3ゲルダの構図
03/28 記憶と記録・写真を見る(12)二人の写真家展その4戦場写真家
03/30 記憶と記録・写真を見る(13)記憶写真展 目黒、新宿
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ぽかぽか春庭「記憶写真展」

2013-03-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


2013/03/30
ぽかぽか春庭@アート散歩>写真を見る(13)記憶写真展

 目黒美術館と新宿歴史博物館で、素人の撮った写真を見ました。
 目黒美術館のは、「記憶写真展」2013年2月16日(土)~2013年3月24日(日)。副題は「お父さんの撮った写真、面白いものが写ってますね」
目黒区が広報用に撮った写真や、目黒区民(と思う)人たちが撮った写真、約200点を展示。大正末期~1970年代の目黒周辺が撮影されています。目黒区内、畑があったり、区内を流れる川が台風のたびに氾濫していた様子などをうかがい知ることができます。

目黒美術館「記憶写真展」の展示室内


 小学校の先生が撮影してきた区内の小学校の記録もありました。先生の亡くなったあと、ネガフィルムがそっくり目黒美術館に寄贈されたのだそうです。
 結婚後、私の本籍地は目黒区になりました。夫の実家があるからです。今も姑が住んでいる家を本籍地として以来、目黒区との御縁も30年以上たつのに、夫の実家と最寄り駅の間の道のほかはほとんど歩いたことがないのです。(目黒駅周辺は歩いたことありますが、目黒駅周辺は品川区です。ちなみに、品川駅周辺は港区)

 夫の実家が品川区から目黒区に引っ越したのは1970年頃だと聞きました。その前後の目黒区はこんなふうだったのか、と思いながら写真を見ました。


 素人が撮影したネガフィルムなど、家族が写っているものならアルバムにおさめて残すでしょうが、知り合いの顔がなければ、単なる風景とか旅の記録など、処分されてしまうものも多いでしょう。でも、記録として保存することにきっと意義があります。いらない写真ネガは、地元の美術館博物館に寄贈しておけば、役に立つときがくると思います。

 目黒美術館を見てから、目黒から四谷まで地下鉄で行き、新宿歴史博物館へ。同じ主旨の写真展を開催していたからです。

「記憶の中の新宿-昭和30年代を中心に」


 1970年4月、私がはじめて東京に出てきたとき、最初に住んだのは新宿でした。市ヶ谷河田町。
 1970年の新宿繁華街へ足を運んだのは、4月最初の日曜日。新宿駅南口から見えた武蔵野館で『ローマの休日』のリバイバル上映を見たのが、私の最初の「東京の休日」でした。
 それから40年余り、新宿の変化を見てきて、もう1970年ころの新宿がどうだったか、細部の記憶はもやの中。それでも、当時の写真を見れば、なつかしい気がする。

新宿歴史博物館「記憶の中の新宿」展示室内


 新宿歴史博物館では、写真をデータベースとして公開しています。
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/
 昔の新宿を思い出したい人には、役に立つサイトかも。

 たとえば、「新宿」「戦後」というキーワードを入れると、「新宿西口フォーク集会」という写真などが出てきます。新宿西口に若者たちが座り込んで「友よ~」とか「ああ、インタナショナアルわれらもの~」と歌った日のことが思い出されます。
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=3689

 「なつかしい」なんてノスタルジーにひたっているだけでなく、「あの日の記憶」は、自分たちが脱ぎ捨ててきた時間をつきつけてきます。

 「そんな日和見主義では社会は変わらん!これだから女はダメだ」なんて叫んでいた男どもは、卒業近くなればみな就職活動に駆け回り、今じゃ立派な「資本主義走狗のなれのはての抜け殻」の定年退職組おっさんたちになりました。
 ノンセクトラジカルシンパのまま結局定職も得られずに、パートタイマーで働き続けた私は、今や社会の一番左端にひっかかっているありさま。み~んな右側に寄り集まって、経済発展を第一とする政府を支持する。私は、ルイヴィトンのバッグもエルメスのスカーフも買えなくてもいいから、セシウムなんぞの不安のない空気を吸いたい。

 「社会の中で安定した暮らしをするには、組織や企業に埋もれて生きるしかない」という生き方に安住できなかった私の40年は、世間からみればバカみたいな貧乏くじなのかもしれません。でも、卒業と同時に社畜となって働き続けた人達すべてが、私以上に満足した人生をおくっただろうとも思わない。
 
 どこにも所属する職場、帰属するアイデンティティがなかったからこそ、好きなことをほざいていられる自由は確保したのだとも言える。
 友よ、、、、夜明けは近いのか、、、ますます混迷の闇は深い気がするが。

 展示されていた四谷三丁目交差点の古い写真(錦松梅の前)
2013年2月16日に撮影した四谷三丁目交差点の写真。(錦松梅の前)

 記憶する魂、記録する魂。私は時代を記憶し、下手な写真も撮り続けていきたいと思います。10歳からの日記をとってある。百年分ためれば、何かの記録にはなるはず。

 1月末に、東京博物館へ行ったときのこと。徳川の至宝展を見たのですが、1階ホールで催し物をやっていました。「2013日本を縦断する映像発表会」という日本アマチュア映像作家連盟の発表会でした。

 アマチュア写真家たちの写真展は、どこに行っても出くわすほど、日本は1億総アマチュア写真家の国です。が、映像作家となると、ビデオが手軽になったといっても、普通は家族の誕生会運動会学芸会を撮影するのがせいぜいです。我が子わが孫のビデオは家族が見れば十分で、他人がみればショーモナイものばかり。ショーモナイものであっても、記録しておく価値がある。

 人様に見てもらうほどの映像を個人が撮影するのはよほどの腕にちがいない、と思って、「2013日本を縦断する映像発表会」を見る気になりました。
 だいたい一人の発表時間は10分で、「ドイツ老人ホーム訪問」「ネパールの行商人」といった「外国の紹介。「神領のまつり」「新薬師寺のおたいまつ」などの地域の祭り撮影、ふるさとに生きる人のドキュメントなどがおもなタイトルでした。

 全部は見られませんでしたが、出たり入ったりしながらいくつかの作品を見ました。そのひとつ「冬・余部」は、今はコンクリート橋に建て替えられた余部鉄橋の、立て替え前直前のようすを撮影した映像。貴重な記録と思います。
 また、特別上映された1992年カナダ国際コンクール入賞の「自問」という作品。認知症になった妻を撮影したビデオです。

 アマチュアの映像も、こんなにさまざまな題材を、人様に見せられるだけの作品に仕上げているのだということに大きな感銘を受け、それぞれの作品が10分という時間なかに、美しい映像や主張をきっちりまとめあげていることに「日本は、アマチュアのカメラもビデオカメラもすごいなあ」と思いました。

 記録すること、文章で、カメラで、ビデオで。自分の子や孫が立っただの歩いただのの記録であれ、書いておこう、撮影しておこう。上司に無理な仕事を割り振られて悔しいでも、今日のカレーはおいしかったでもなんでも記録しておくにしくはない。人が生きて、見たこと経験したことを記録しておいたら、きっと人類子孫に役にたつ。
 人類が生き残れるのだとして。 

<おわり>
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ぽかぽか春庭「戦場写真家」

2013-03-28 00:00:01 | エッセイ、コラム

ロバート・キャパ撮影「PCと書かれた石によりかかるゲルダ」

2013/03/28
ぽかぽか春庭@アート散歩>写真を見る(12)二人の写真家展その4戦場写真家

 1937年7月25日、タローはブルネテの戦いにおける敵軍襲来の混乱の中、自軍の戦車とゲルダの乗った車が衝突するという事故にあい、亡くなりました。

 そして、彼女の死は、共和軍側、パリ人民戦線側にとって、「聖女の殉死」として大きな宣伝材料になったため、特別な墓が用意され、葬儀には反ファシズムに共感する数万の人々が連なりました。しかし、スペイン戦争がファシズム側のフランコ総統率いる右派軍が勝利をおさめると、ゲルダ・タローの名は忘れ去られていきました。スペインは、以後1977年の王制復活までフランコ独裁が続きました。

 ゲルダ・タローの墓の写真を見ていて、昨年8月シリア内戦取材中に亡くなった山本美加さんを思い出しました。山本さんは、15年間公私にわたるパートナーとしてともに取材してきた佐藤和孝さんと同行の取材中でした。なぜ狙撃手が佐藤さんのほうでなく山本さんのほうを狙い撃ちにしたのかというと、おそらく「女性であること」が原因だろうと思います。イスラムの地では、女性が男性とともに行動するというだけで反発を招きますから。それでも山本さんはパートナーと共に紛争地へ出かけた。女性でなければ写し得ないショットがあったからだと思います。

 女性戦場写真家。1937年に27歳の誕生日直前に亡くなったゲルダ・タロー。2012年8月に45歳で亡くなった山本美香。もっともっと自分の写真を撮りたかったろうと思います。でも、彼女らの写真は残ります。強烈な意志によってとり続けた一枚の画像は、人の心を動かし、何ものかを与えずにおきません。

 一連の紛争地域の写真を見るとき、私はただ、人の心のひとつの継承を感じ、「真実を伝えること」の中に消えていった美しい魂を忘れない、と写真に語りかけます。
 ゲルダ・タローさん、山本美香さん、あなたの写した真実は、私の心に届きました。

 山本美香は、著書『戦争を取材する』の中で、ひとつのエピソードを紹介しています。
 内戦に苦しむ人々を取材しながら、「医者なら目の前の命を救えるが、記者の仕事にどれほどの意味があるのか」と、自問し、やがて無力感に襲われる。そんなとき、わが子を失ったばかりの父親が言った。「こんな遠くまで来てくれてありがとう。世界中のだれも私たちのことなど知らないと思っていた。忘れられていると思っていた」

 山本は、読者に語りかける。「世界は戦争ばかり、と悲観している時間はありません。この瞬間にもまたひとつ、またふたつ…大切な命がうばわれているかもしれない-目をつぶってそんなことを想像してみてください

 日本は、「フツーに戦争できる国」を目指すのだそうだ。そして人々はその政策を支持している。選挙で選んだのだから。ナチスドイツのヒットラーだって選挙で選ばれた。
 彼は、「支持されたのだから、人々は景気回復が成功すれば喜ぶ。景気回復のためには原発も復活するし、武器も売る」と、考えている。

 私は、いかなる大義名分があろうと、武力による紛争解決を望みません。たぶん、数年後には非国民と呼ばれるようになるのかもしれませんが、私は平和を希求します。命をかけて現場に出かけて行ったゲルダや山本美香にくらべて、私は安全な場所にいてらちもないことを言っているだけ、という現実は承知していますが。

 ゲルダ・タローも山本美香も戦場に身を投じ、一身をなげうって真実の報道を志しました。ゲルダは写真のほか、著作を残していないけれど、キャパほかの友人たちに言い残したことばから、どんな気持ちで報道に命をかけたのかはわかる。
 ゲルダはナチスによって故郷を追われた一家の出身であり、故郷を出てから二度と家族と会うことはできなかった運命のなかで、難民のこどもや女たち、共和軍の女たちをとり続けました。なぜ戦争を報道するか、真実を伝えるため、そして真実を知ることにより平和への願いを人々が持ちつづけるためであったと思います。

 ゲルダ・タローの作品、写真史の上で、また写真の構図や光線の取り入れ具合とか、技術的な論評は専門家たちはいろいろするでしょう。私には、ただ、ゲルダの撮った写真から、人間存在の根源的な美しさを感じるのみ。
 彼女自身が美しいひとであったのと同じく、ゲルダの撮った写真は、美しい。(二人の写真家展の感想おわり)

<つづく>
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ぽかぽか春庭「二人の写真家展その3ゲルダ・タロー」

2013-03-27 00:00:01 | エッセイ、コラム

ロバート・キャパ撮影「共和軍兵士とゲルダ」

2013/03/27
ぽかぽか春庭@アート散歩>写真を見る(10)二人の写真家展その3ゲルダ・タロー

 横浜美術館には、これまでICP(国際写真センター)のコーネル・キャパ(キャパの弟・写真家)が寄贈した写真が所蔵されていました。今回の写真展は、開館当初から集めてきたキャパの写真に加えて、今回ゲルダ・タローの2007年回顧展のプリントを83点展示しています。

 コーネル・キャパが設立したICPがゲルダの写真を集め、2007年にアメリカで初めての「ゲルダ・タロー写真展」を開催しました。IPCなどでの研究により、ゲルダ・タローの撮影した写真の分類などが進んだことなどを受けての、横浜美術館においての回顧展。
 日本でゲルダ・タローのまとまった展示が行われるのは、初めてです。

 2007年12月に、メキシコシティで見つかった古いスーツケースの中から、126本のフィルムが出てきた、という劇的な出来事がありました。ロバート・キャパの写真スタジオから行方不明になっていたキャパ、ゲルダ・タロー、キャパの友人の戦場写真家デヴィッド・シーモア(1911-1956)のフィルムが入っていたスーツケースです。3人の写真が62年ぶりに明らかになり、2010年にICPから「メキシカンスーツケース」というタイトルで写真集が刊行されました。ゲルダ・タロー作品もこのメキシカンスーツケースからの発見写真が2点展示されていました。

 ロバートキャパは、当初ゲルダとキャパの共有の名前でした。初期のロバート・キャパ名義で発表された写真のうち、ゲルダの撮影したフィルムは、カメラの機種の違いからどちらの撮影なのか、判断できます。しかし、1937年の撮影は、ふたりが同機種のカメラを使用したため、フィルムの段階ではどちらの撮影なのかわからないものも含まれています。

 スペイン内戦時には、「女性も男性とともに行動している」ということが、「国際旅団が平等で、女性を尊重する団体であること」の象徴にもなるので、ゲルダは取材時に女であるからという理由での差別など受けずに、キャパとともに取材ができました。美女ゲルダは、兵士たちの間で人気者でしたし、女性にも信頼を受けていました。

 ゲルダ・タローが撮った写真、どんななのだろうと思って見ました。キャパの写真は雑誌や写真集などで数々見てきましたが、今回はじめてゲルダ・タローの写真をまとめて見ることができたのです。
 1936年にキャパとともに報道写真家としての活動を始めて、1937年の突然の死まで、彼女が撮影できたのは、あまりにも短い期間、1936年8月~37年7月のわずか1年間でした。

 3月13日、風が強い日でしたが、横浜まで出かけて、「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー、二人の写真家」展を14:00~16:00に見てきたのですが、3月15日金曜日16:30~18:00にもう一度見に行きました。同じ展覧会を2度見るのは、昨年の「フェルメール展」以来です。見て来たことを振り返って、気になることが出ると、確かめずにいられなくなるのです。

 何がそんなに気になったか。ゲルダの写真の構図です。
 3月13日に行ったときは、図録を買わずに帰りました。ゲルダの図録とキャパの図録は別冊仕立てで、パラパラとめくってみたとき、横浜美術館所蔵であるキャパの写真は大きな図版で掲載されていたのに、ゲルダの写真はICP(国際写真センター)の所蔵品で貸与展示であるからなのか、写真がとても小さくて、もっと大きな図版なら買うのになあと思って買わずに帰ったのです。しかし、ゲルダの写真が気になって、15日にもう一度行って図録を買いました。

 私がこの写真展を2度見たのは、「写真の構図が気になってのこと」と述べました。ゲルダは、写真を下から仰ぎ見る角度で被写体を捉えることが多く、また、ほとんどの画面に、画面を斜めに対角線を感じる構図で撮影しています。スペイン内乱の撮影、約1年という短期間に集中して撮られていますが、画面から「斜め線の構図」を感じない写真は、83点の展示写真のうち、数枚しかありませんでした。

 ゲルダ・タローの写真は、対角線上に人物や対象物を並べるものが多い。これは、ゲルダの写真を見た人がすぐに気付き、写真評論家や研究者、美術館のキュレーターたちが、こぞって述べていることです。それほど、印象的な構図。
 そして「崩れ落ちる兵士」の構図もまた、斜めの大地が写されています。

 ロバート・キャパの写真。初期の「演説するトロツキー」の写真から、ベトナムで地雷を踏む直前の写真を見ていきます。平時には斜めの構図のものもあるけれど、戦時の写真は、ほとんどが垂直水平を感じる構図になっています。

 沢木耕太郎は、CGなどの解析を通して「崩れ落ちる兵士」は、スペイン共和国軍の演習中に、足を滑らせて転んだ兵士を、ゲルダ・タローが撮影したものであり、キャパは撮影者が当時キャパの名を共同で名乗っていたゲルダであったことを心の十字架として背負い、あえて戦場にとどまった、という結論を出しました。

 私は、構図から見て、「崩れ落ちる兵士」は、ゲルダの撮影であると感じました。ただのカンにすぎませんから、なんの足しにもなっていませんが。

 今回の写真展を通して、「世界初の女性戦場カメラウーマン」に鮮烈な印象を受けました。初期は恋人のフリードマンと共同の名前「ロバート・キャパ」で発表していましたが、名前を共有して写真をとった日はそう長くはありませんでした。
 1937年、キャパのプロポーズを断り、ゲルダは単独での取材と自分自身の「ゲルダ・タロー」名義の写真発表を行うようになりました。
 ときには、キャパとゲルダは同じ場所にいて、同じ対象をそれぞれが異なる距離角度で撮影し、両方の写真が残されています。

ゲルダ・タロー「マラガからの難民、アルメリア」
(1937年2月、ICP蔵)(C)ICP

同じ対象を撮影したキャパとゲルダ。
左キャパ、右ゲルダ


 キャパは、ゲルダより一歩前に出て、異なる角度からこのマラガからの難民をとらえています。会場外にあるキャパとゲルダ・タローの年譜紹介コーナーにふたつの写真が並んで展示されていました。

 図録には、ほかにも共和国兵士を写した写真。女性兵士と男性兵士が並んでくつろいでいる写真や銃を構えている写真がキャパ撮影ゲルダ撮影の2枚並べて掲載されていますが、どちらも、キャパが一歩前に出ています。「他の人より一歩前に出る」というのが、キャパの「写真をとるコツ」になっていたことは、数々のエピソードとして残っていますが、愛するゲルダといっしょの撮影であったとしても、キャパは一歩前に出ずにはいられなかったのだろうと思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「二人の写真家展その2崩れ落ちる兵士の真実」

2013-03-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/03/26
ぽかぽか春庭@アート散歩>記憶と記録 写真を見る(10)二人の写真家展その2崩れ落ちる兵士の真実

 横浜美術館の「二人の写真家展 ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー」、第5展示室には、有名な「崩れ落ちる兵士」「ノルマンディ上陸の日」のほか、1932年に、群衆に紛れて盗撮したという「コペンハーゲンで講演するトロツキー」をはじめ、パリの人民戦線時代の写真、スペイン内乱の写真、ノルマンディー上陸作戦の写真など、有名写真が時代順に並んでいます。

 後期の写真では、中国取材、日本取材の写真もありました。1954年4月に、写真雑誌「カメラ毎日」の創刊記念に日本に招待されたときの写真です。平和な日本を撮影した写真のコーナー。小さな子をおんぶした写真や、親子連れ行楽の写真など、日本の人々を温かい目で見つめるキャパのやさしさは伝わりましたが、「これぞキャパ」と目を見張るようなショットは見当たりませんでした。

 彼はやはり戦場でこそ自分の写真が生きると考え、日本での取材のあと、インドシナの戦場へ赴いたのだろうと思います。日本取材から一ヶ月後の1954年5月、インドシナ戦線で、キャパは地雷を踏みます。

 スペイン戦争、第二次世界大戦のノルマンディ上陸作戦などの撮影で、キャパは世界的名声を手に入れました。余生は、日本での撮影のような「安全で心あたたまる」写真を撮ってすごしても、十分に写真家としての名声や冨は維持出来ただろうと思います。それなのに、キャパはインドシナ戦線に行かずにはいられなかった。

 沢木耕太郎は、キャパの最後を見つめ、なぜ、彼は戦争の中に舞い戻ったのか、を追求しました。

 ロバート・キャパ名義で発表されたこの一枚の写真。「崩れ落ちる兵士」
 この一枚は、ピカソの絵「ゲルニカ」、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」と同様に、象徴的な意味を持ってスペイン戦争を世界に知らせることになりました。

 しかし、この一枚について、「ほんとうに撃たれたところを撮影したのか、演出写真じゃないのか」という真贋論争などが続いてきました。弟のコーネル・キャパは、写された兵士について名前も割り出して「演出写真などではない。スペインでの実際に倒れる瞬間の撮影である」と主張しています。

 一方、この兵士はのちに戦死しているけれど、この写真撮影時には、足をすべらせて転んだだけ、という説も出されていて、真相はまだ不明でした。

 また、この当時キャパ(フリードマン)とゲルダが撮った写真は、どちらも「ロバート・キャパ」の名で発表されており、キャパは、ふたりの共同のフォトグラファーネームであった、という事実がわかってきました。この当時、キャパのパートナーであったゲルダ・タローは、自分自身の名での写真発表も行うようになっていたけれど、もともと「ロバート・キャパ」というのは、写真を売り出すために考え出されたフリードマンとゲルダ・タローの共同ペンネームであり、どちらが撮影してもロバート・キャパという名で発表した時期があったのです。

 沢木が持った疑問点は、撮影者はふたりのうちどちらか、ということ。コンピュータでの写真解析、CGなどを駆使して、二人の「ロバート・キャパ」のうち、どちらが真の撮影者だったのか追求していました。 
 沢木の推論では、真の撮影者は、ゲルダ・タローです。
 背景の山の形などの検証により、この一枚はローライフレックスでの撮影である確率が高いことが判明。当時、キャパはライカⅢで、ゲルダはローライフレックスを使用したことがわかっています。

 キャパが写真につけたキャプション「崩れ落ちる兵士」は、この兵士の生死について何も語っていません。「兵士が倒れかかっている」という事実を述べているだけです。でも、写真を送られた雑誌社は、この一枚に「戦場の死の瞬間を捉えた真実の一枚」として世に送り出し、キャパはこの後、この写真については一言も語りませんでした。この一枚が世界中に配信される前に、ゲルダはスペイン戦線で死んでいました。



 ゲルダが1937年にスペイン戦争の戦場で亡くなったあとキャパは『生み出される死』というゲルダとキャパの写真を集めた写真集を発行しました。その中には、「崩れ落ちる兵士」は掲載されていないのです。
 「生み出される死」は会場に展示してありましたが、中の写真全部を見ることはできませんから、「崩れ落ちる兵士」がないということは、私の目で確認したのではありませんけれど。

 ゲルダ・タローが亡くなったあと、キャパは第二次世界大戦のDデー(ノルマンディ上陸作戦)において、自分が撃たれるかもしれない状況で撮影を続け、ついにインドシナ戦争の撮影で地雷を踏んで亡くなりました。沢木は、この、「死に向かってまっしぐら」のような印象さえ受けるキャパの生き方に対して「キャパの十字架」というタイトルをつけたのです。

 このNHKスペシャルはずいぶんと反響を呼び、横浜美術館は、会期もそろそろ終了近くなった平日という日に見に行ったにもかかわらず、ずいぶんと観客が多かったです。
 しかし、人気絵画展の「絵の前に黒山をなす」という程ではなく、写真の前に立ってゆっくり眺めていることもできました。

 次回、「ゲルダ・タローの構図から『崩れ落ちる兵士』を見る」。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「二人の写真家展 ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー」

2013-03-24 00:00:01 | エッセイ、コラム

ゲルダ・タローとロバートキャパ

2013/03/24
ぽかぽか春庭@アート散歩>記憶と記録 写真を見る(9)二人の写真家展その1ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー

 作家や画家の名に比べると、知っている写真家の名の数がぐんと少なくなる私でも、「世界でもっとも有名な写真家のひとり」であるキャパの名は知っています。
 結婚した当初、夫と私と二人とも同じ本を持っているというのが何冊もあり、その一冊がキャパの自伝『ちょっとピンぼけ』でした。ふたりとも1979年の文春文庫初版を持っていました。

 ロバート・キャパ(1913-1954)本名フリードマン・エンドレ・エルネー(Friedmann Endre Ernő )

 「ちょっとピンぼけ」の中、キャパの恋人として強い印象を受けて読んだのはピンキーという女性で、最初の恋人ゲルダについては、本の中に登場したのかどうかも覚えていませんでした。
 「ちょっとピンぼけ」の内容は、第二次世界大戦の報道ドキュメンタリーなので、すでにスペイン戦争時に亡くなっていたゲルダが登場する場面がなかったのかもしれません。ゲルダはキャパと知り合って数年で亡くなってしまったし、キャパのプロポーズを断ったそうなので、キャパにとっては、心の中にだけ生かしておきたい「永遠の女性」だったのかも知れません。

 ゲルダは、結婚より「女性初の報道写真家」として生きるほうを優先した女性でした。ゲルダにとってキャパは、「夫」であるよりも、1934年に出会ったころから変わりなく、「同志」であり「対等なパートナー」であるほうが望ましかったのだろうと思います。

 ゲルダ・タロー(1910-1937)本名ゲルタ・ポホイル(Gerta Pohorylle)。
 ゲルダ・タローという写真家名は、パリで活躍していた当時に知り合った岡本太郎からとった、ということです。岡本太郎は、パリでキャパに出会い、命からがらパリに逃れてきてカメラも持っていない貧乏な若者を信じてカメラを貸しました。太郎は、流行漫画家で羽振りがよかった父親岡本一平からの仕送りで「パリの文化を吸収する」に十分な資力を持っていたのです。

 キャパほか何人かが撮影したゲルダの写真が横浜美術館にも展示してありましたし、図録にも写真が出ていましたが、女優のように美しい女性です。後年、キャパが恋愛関係になったという、イングリット・バーグマンと雰囲気がよく似ている知的な美人です。

 ゲルダがフリードマン・エンドレ・エルネーと出会ったのは、人民戦線時代のパリ。フリードマンはハンガリー生まれのユダヤ人、ゲルダはドイツ生まれのユダヤ人。二人とも、ナチスの脅威からふるさとにはいられなくなった身の上でした。

 同じような宿命を抱えた25歳の女性と、「ことばが不自由だからジャーナリストとして生きるには、写真しかない」と思い定めるようになった23歳の若者は恋に落ち、共同で写真撮影をし、マスコミへの売り込みをはじめます。アメリカの雑誌社への売り込みを考慮して、アメリカ人風の名前として選ばれたのが「ロバート・キャパ」でした。

 スイスの寄宿学校を出てドイツ語フランス語スペイン語をこなして学位も持つゲルダは言葉の面でキャパには不可欠でした。ドイツでカメラ修行をしたキャパは、ゲルダの交渉術に助けられながら、写真のノウハウをゲルダに教え込みました。
 ふたりは対等なパートナーであり、「人民の側に立って真実を伝える」という意志を共有する同志でした。

 日本の写真雑誌などが、1980年代からゲルダ・タローに注目し紹介していたということですが、写真の専門雑誌などグラビアページをパラパラとめくるだけの私は、彼女にぜんぜん注目したことがないまますぎました。私がゲルダ・タローの名にようやく気づいたのは、2007年になってから。彼女がスペイン戦争のさなか1937年に戦場死してから、70年たった後のことでした。

 2007年に開催されたアメリカでの初の回顧写真展が、「世界で最初の女性報道写真家」というキャッチコピーで日本にも報道されました。しかし、1910年生まれのゲルダ・タローの生誕百年の2010年でさえ、日本では単独の写真展は行われませんでした。もし2010年にゲルダ・タロー写真展が開催されたとして、今回の横浜美術展の会期ほど多くの観客を集めたかどうかはわかりません。日本では無名のままのゲルダでした。

 2013年、ロバート・キャパの生誕百年にあたります。キャパの生誕100年回顧展が行われるだろうとは予想していましたが、同時にゲルダ・タローの回顧展が行われると知り、横浜美術館に足を運びました。
 「二人の写真家展 ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー」2013年1月26日~3月24日


 展示室は3室に別れていて、最初はゲルダの83点の写真。次がキャパの初期中期の写真。3室目は、キャパの後期の写真です。

 今回の「二人の写真家」展。横浜美術館に観客が大勢集まったのは、理由があります。
 NHKが2月3日に放映した番組。作家の沢木耕太郎が『キャパの十字架』(2013文藝春秋)を発売するにあたって、販促番組としても大いに効果があったと思われるドキュメンタリー番組『推理ドキュメント 運命の一枚~"戦場"写真 最大の謎に挑む~』を、私も録画しておいて見ました。
 キャパの出世作であり世界中で有名になった一枚の写真、「崩れ落ちる兵士」を追求したドキュメンタリーです。

 次回、このドキュメンタリーと、キャパの写真について。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「幕末写真を見る」

2013-03-23 00:00:01 | エッセイ、コラム


2013/03/23
ぽかぽか春庭@アート散歩>記憶と記録 写真を見る(8)ツンデレ系No.1池田長発 夜明けまえ-知られざる日本写真開拓史北海道東北編  

 東京都写真美術館の「夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史」展は、2007年の「関東編」からはじまり、2009年「.中部・近畿・中国編」、2011年「四国・九州・沖縄編」と、回を重ね、今回は「北海道東北編」です。
 私は、2007年2009年のときは中国赴任中だったので、見ることができず、2011年3月-5月の会期には震災後アパシーで出かける気になれず、2013年3月20日、今回初めてこのシリーズをみました。
 今回、写真展のポスターが、イケメン土方歳三の箱館戦争時のポートレートを大きくデザインしたものなので、土方ファンも見にきて、写真展としてはなかなかのにぎわいでした。

 この写真開拓史展は、東京都写真美術館が、日本各地の博物館美術館に所蔵の古写真について、アンケートを送付し、全国にどれくらい古写真が保存されているか調査するところから始められています。地方の博物館などに、中央には知られていない古写真が数多く所蔵されていることがわかりました。
 地元にゆかりの展示などがなされるときには人目にふれるチャンスもあったし、上野彦馬や下岡連杖などの幕末写真師の研究などで知られた古写真も多いけれど、地方のまとまった古写真記録としては、このシリーズがはじめてといってよい本格的な収集展示なのです。

 写真は、日光などにさらされると痛みますから、館内の照明は暗く50ルックスに設定されています。貴重な本物の写真は保存を優先すべきです。
 私は、館内掲示は、レプリカで十分だと思っています。写真を納めた台紙やアルバムの現物など、「モノ」としての展示は、レプリカ制作にもお金がかかるし、現物を50ルクスで見るのもしかたがありませんが、画像展示は、すべてレプリカ展示またはスライド展示でけっこうだと思います。本物は、研究者などに見せるだけに限定し、私のような素人には、デジタル再生新プリントまたはコロタイプ印刷でのレプリカで十分です。

 写真帳の掲示は1ページしか出来ませんから、スライド上映がなされていました。
 ほとんどの写真をこのスライド方式で掲示し、「写真撮影ご自由に」にすればよいと思います。100年前の写真、「公の記憶」にすべきです。

 写美その他の研究者の方々、貴重な写真の収集展示をありがとうございました。これからの歴史研究、写真研究に、「知られざる日本写真開拓史」の写真が寄与していくだろうと思います。

 今回の「北海道・東北編」でも、明治期の天災被害写真とか、千島列島探検時の写真など、今まで見たことのない写真を見ることができました。
 東京都写真美術館の研究報告書を買ってきました。図録ではないので、掲載写真よりも資料や研究報告のほうが多いですが、貴重な記録です。関東編、九州編なども写真美術館4階の図書室で閲覧してきました。

「夜明けまえ」研究報告書


 幕末明治の写真術黎明期の写真師について、長崎の上野彦馬、横浜の下岡蓮杖の名は知っていましたが、今回、函館の開業写真師田本研造をはじめて知りました。冒頭の土方歳三を撮った写真師です。


 この写真は、フランスに同様の写真が残されていてフランス人が撮影したのかと思われていました。写真に写っている「徳川幕府逃亡武士(箱館戦争従軍の徳川軍武士とフランス軍事顧問団の兵士たち)」の中の、フランス人軍曹らの名前も判明しています。この写真が函館にもあったことから、撮影したのは田本研造ではないか、という説も出ています。

 肖像写真では、大月文彦が依頼して撮影された父親の大槻盤渓の肖像写真とか、押川春浪の12~13歳と思われるころの写真とか、クラーク博士、新渡戸稲造夫妻、など、興味深い写真がたくさんありました。

 幕末随一のイケメンは冒頭の「土方歳三」で、なんと言っても本人が「京都の女たちにモテてモテて、困っちゃうな」なんていう手紙を残している。
 ジャニーズ系またはジュノンボーイ系の土方に対して、「ツンデレ」系No.1と思えるのが、徳川幕府外国奉行にして1864年の幕府第2回遣欧使節(横浜鎖港談判使節)正使、池田筑後守長発(いけだちくごのかみながおき)です。東大図書館などが所蔵する上半身の肖像は見たことがありますが、全身の肖像をはじめて見ました。

第2回遣欧使節正使 池田筑後守長発(撮影:ナダール)
 

 「第二回遣欧使節」の写真。
 一行は、エジプトスフィンクスの前で集合写真を撮ったり、ユニークな視察旅行をしてきました。正使は27歳の外国奉行、池田長発(いけだながおき 1837 - 1879)。横浜港を閉鎖する条約を結ぶべきなのに、パリを見るや開港派となってしまった池田長発は、帰国後「開港」を主張したために蟄居厳封。のちに許されて軍艦奉行になりましたが、直後幕府は瓦解。体をこわして43歳で死去。

 第二回遣欧使節一行は、スフィンクスの前でベアトに写真を撮らせたほか、パリの写真師ナダール(Nadar本名ガスパール=フェリックス・トゥールナションGaspard-Felix Tournachon) に、さまざまな肖像写真を撮らせました。

 ナダールは、気球旅行を企てたり、小説、雑誌編集などさまざまなことを試みた近代人ですが、はるばる東洋の片隅からやってきた幕府派遣のサムライたちを、「奇妙な人々」と思い、見世物気分で「サムライの肖像」を撮影しました。ナダールの息子がいっしょに写っている写真が、展示されていました。


左は谷津勘四郎(小人目付)、右は斎藤次郎太郎(徒目付)中央、ナダールの息子。武士ふたりは気張って写されているのに、息子は小生意気な顔つきで、「東方から来た野蛮人どもといっしょに写されてやるか、やれやれ」という声が聞こえてきそうな。

 ナダールの撮影した肖像のなかで、「すみ」という女性がいます。
 清水卯三郎が1867年のパリ万博に茶店をしつらえ、桃割りを結ったおすみ、おかね、おさと、の3人にお茶の接待をさせたのが、パリ中で大人気だったことが記録されています。「本物のゲイシャガール」として万博のようすを報道する新聞のイラストにも登場していますが、髪型は桃割れだったいうことから、芸者になる前の半玉だったのかもしれません。徳川昭武随行員としてパリ万博に派遣された渋沢栄一が航西日誌にこのゲイシャガールについて記録しています。

 展示会場の「すみ」写真の展示の説明によると、第二回遣欧使節に同行した、おそらくは一行の小間使いとして働いた、または正使の身の回りのお世話係だった女性のひとりだろう、ということです。
 果たして1864年遣欧使節団の小間使い「すみ」と、1867年のパリ万博茶店の柳橋芸者「すみ」が同一人物なのかどうか。パリ万博の方は記録に残されていますが、第二回遣欧使節に同行した方は、幕府の記録にはいっさい表れない女性です。秘密裏に連れて行った?
 ナダールが写真を撮ったことにより、「すみ」という名と肖像が伝わりました。

 民間人で幕末に米欧へ出かけて行ったのは、奇術見世物小屋の一行です。アメリカやヨーロッパで興業して回りました。その中には女性もいたと思いますが、1864年の「すみ」は、当時もっとも早くに西欧を見た女性のひとりでしょう。なんらかの記録が残されていたら良かったのにと思います。幕末の歴史研究、女性史研究、写真映像研究のどこかで、「すみ」について発表があるなら、ぜひ読みたいです。

 幕末明治期の写真、ほんとうに興味深い展示でした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「古写真絵はがきの北京1880-1910」

2013-03-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/03/21
ぽかぽか春庭@アート散歩>記憶と記録・写真を見る(7)古写真絵はがきの北京1880-1910」

 以下に公開するのは、北京で購入した「古写真絵はがき」の複製品です。清朝時代に撮影された写真。おそらく西欧人のみやげ用の絵はがきだったと思われます。日本の幕末写真絵はがきと同様に、白黒写真に手描き彩色したものです。
 写されている人の肖像権も、撮影した人の著作権も切れていると思うので、コピーしました。

 古い時代の北京の胡同や人々の暮らしのようすが伺えて、興味深いものです。
 絵はがきの版権は「中国撮影出版社」にありますので、この絵はがきを二次利用して営利活動するのは違反と思いますが、非営利でネットUPするのは許されて良い、というのが私の信念です。これらの古写真は、公共の記録であり公共の記憶としてよい。

門前から出発する貴人の輿


胡同の人力車


胡同路地の幻灯見世物屋台


胡同路地の辮髪床屋


足を治療する店。足のタコを削ったり爪を整えたりする。


室内でくつろぐ清朝の夫婦。夫はアヘンを楽しんでいる最中と思われます。


近代文明最先端の自転車に乗る男


近代西洋絵画を模写している画家


 1880年から1910年ごろに撮影された北京の写真。公共の記憶とすべきだと思います。

 インターネットやデジタルカメラの登場以来、複製、コピーについて、考えさせられる機会がふえています。
 「20世紀最大の美術作品」の一位に選ばれたのは、既製品の便器にサインをして、「泉」というタイトルをつけた作品でしたが。以来、複製とは何か、コピーとはなにか、考え続けて21世紀になりました。

 たいていの美術館では、館内撮影禁止という所が多いですが、私は、「写真撮影ご自由に」という美術館が好きです。たとえば、松岡美術館。著作権が切れている展示品については、撮影自由です。
 東京近代美術館と国立博物館、東京科学博物館は、独立法人ですが、税金の補助も投入されている公的な施設です。所蔵品は、国民みなのものです。この3館は、館内所蔵品について「写真撮影、フラッシュをたかなければご自由に」という方針です。
 他の公共美術館博物館も見習って欲しいです。

 元は私的なコレクションであったものでも、コレクターの死後50年以上たっているか、館が財団法人とか公益法人になっていて税金についてなんらかの特典を得ているのであるなら、所蔵品について、公に公開すべき存在だと思います。館所蔵品については、個人的著作権がすでになくなっている作品については、すなわち作者が亡くなって50年以上たったものは、公共の財産と考えるべきです。

 まあ、私が言いたいのは、基本的に美術館での写真撮影自由とすべきだということ。
 美術館で、許可がないのに写真撮影した場合、場内監視の係員がすっとんできて、低い声で「館内撮影禁止です」と、にらみつける。その声音は、おそろしい大犯罪を犯した者を追い詰めるといった調子ですから、撮影禁止を知らずにうっかりシャッターを押してしまった場合、心臓の弱い人は心肺停止になるんじゃないかと思うほど。

 しかるに、私は断固主張する。美術館に納められた作品は、公のものとして「写真撮影&公開自由」とすべき。作者死後50年経っていない場合でも、営利利用せず、作者の芸術的存在をおとしめない限り、撮影を認めるべきであると。

 美術紹介ブログなどで、「この展示会場撮影は、館の許可を得て撮影したものです」というお断りが出ているサイトがあります。館によっては、有力ブロガーが美術展の紹介などをする場合、「展覧会の宣伝になるから」という理由で特別に許可しているのです。事前に申し込みをして、特別内覧会などで撮影するようです。

 コレクションには維持管理費が必要ですから、入場料をとるのはしかたないけれど、館所蔵品の撮影禁止の措置が、館内ショップで売っている複製画や絵はがきが売れなくなると困る、という程度の理由なら、無視する、というのが私の考え方です。

 損保美術館所蔵のゴッホ「ひまわり」は、撮影禁止ですが、ネット上には、たくさんの画像が出回っています。それをコピーするのは、作品をおとしめない限り自由と思います。ゴッホは亡くなってから113年たっています。
 損保美術館のひまわりは、ガラスケースの中に入ってるので、ふつうのデジカメでは光が反射してしまい、よく写りませんから、私は撮影しませんけれど、わたくし、美術館博物館で「勝手に撮らせていただきます」ってのをやっています。

 たとえば、石洞美術館には、気にいった作品の絵はがきなどは売ってうなかったので、何枚か撮影しました。
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/026332bf2517a90eeec14624e3cf681b#comment-list
に紹介した作品のうち、3つは、自分のカメラで撮影したマイセン作品を掲載しています。コレクターの土屋氏は「勝手に撮るな」と言うでしょうが、美術館で公開するなら、この美しい陶器を公の記憶としてほしい。

 私には、この「土屋コレクションマイセン展」をブログで紹介したことで、コレクターの権利利益をいささかでも損ねたとは思えない。もし、何かコレクターに不利益を与えたのなら、画像は削除します。

 3月19日掲載の「原直久 北京胡同写真展」の会場写真も、「撮影禁止」と書いてあるのに、あえて撮影した一枚です。この写真を春庭ブログで紹介したことが原直久さんに対して名誉毀損とかなんらかの不利益を与えたのなら、画像削除しますが、「4月27日までこの写真展をやっている」とお知らせすることが、原直久さんの写真にとって不利益なことをしているという自覚はありません。

 撮影許可をもとめること、ブログなどにUPしたとき必要ならば主催者に連絡すること、これらを条件に「一律撮影禁止」はなくしてもいいんじゃないでしょうか。
 図録や美術絵はがきも買いますが、館所蔵の作品のなかで、お気に入りの一枚を自分のカメラに納めるのが、万引き犯扱いされるのはどうしても納得いきません。近代美術館や国立博物館のように、写真撮影自由にすべきです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「北京胡同の記憶、春庭の胡同」

2013-03-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
 
2007年北京胡同の四合院(撮影:春庭)

2013/03/20
ぽかぽか春庭@アート散歩>記憶と記録・写真を見る(6)北京胡同の記憶、春庭の胡同

 行くたびに大きな変貌を見せた北京。
 1994年に北京に行ったときは、2月に北京に着いた翌朝、朝食前に泊まったホテル民族飯店の周囲を早起きして散歩しました。
 古い北京の住宅街「胡同フートン」がホテルの裏手に広がっていました。細い路地がくねくねと続き、伝統的な四合院(しごういん)などの住宅に大勢の人が寄り集まって住んでいました。

 このときは、北京に着いた翌朝でもあり、様子が分からなかったので、撮影はしませんでしたが、7月に夫が北京に来たときは、いっしょにこの胡同の路地を散歩しました。胡同の中の床屋で夫が髪を刈っているようすなどを撮影しました。

 1994年の9月の帰国時に、同じ民族飯店に泊まったのですが、周囲はすっかりかわっていて、ホテルの周囲の胡同は、ほとんどが取り壊されていました。
 2007年に行ったら、北京はさらに変貌していました。北京オリンピック前の時期、観光施設のほかは、町中が新しく作り替えられようとしていた印象です。

 北海(ベイハイ)地区周辺の「観光用胡同」のほかは、取り壊されており、取り壊している最中の胡同も多かったです。取り壊している最中を撮影したら、警備員に中国語で怒鳴られました。取り壊しに抵抗している北京市民もいたことを、あとになって知りました。取り壊し反対派の回し者と思われたのかも知れません。

 私が撮影した2007年の胡同の写真。
 観光客は観光用の胡同を案内されるのですが、私は一人旅で、中国語もできないのにひとりで歩きまわったので、実際の生活の場である胡同に入り込みました。しかし、そこでの見聞は、心のカメラだけに納めて、人が写り込んでしまう撮影は遠慮してしまいました。プロの写真家のように、ズンと入り込んで人物を写すには、ちょいと肝っ玉が小さかった。

 胡同の共同厠所で、隣り合わせにかがみ込んでいる婆ちゃんのイキミ声まじりの質問を聞き、話をかわしたことなどが、なつかしい思い出です。中国の共同便所、個室のしきりやドアはありませんので、隣の人と仲良く並んでかがみます。日本人が温泉に真っ裸てみないっしょに入っても恥ずかしいと思わないのと同じで、みないっせいに大部屋(?)のトイレにかがんでも恥ずかしいことはありません。今できの厠所は個室ドアを供えている所も多くなったそうですけれど、そうなると、みんなでいっしょにかがみ込んで世間話の文化もなくなるのかしら。温泉が個室に区切られてしまって、大勢でいっしょに入るお風呂がなくなったら、日本人なら「温泉くらいいっしょに入ったらいいのに」と、さびしく感じるでしょう。

 トイレで世間話といっても、私が聞き取れて返事できるのは、「どこから来たんだい」「仕事はなんだね」「給料はいくらもらっている」くらいの質問でしたが。これらの質問はどこでも聞かれるので、返答も暗記してしまった。北京には、地方から標準語の発音でない人々が大勢きているので、私のへんな発音でも「どこの山奥から出てきたのやら」くらいで、婆ちゃんは気にせず話してくれました。
 よい写真を撮ったプロのフォトグラファーでも、ドアなしトイレで地元の人の隣に並んでいっしょにかがんだ人はいない、、、、って、自慢にもなりませんけど。

 素人の私に撮影できたのは、この程度、という写真です。でも、観光客がひとりもいないところを、一人だけで歩きまわった北京の胡同。私にとっては、思い出深い写真です。

 どこかのアパートの屋上に無断で上がって、屋上から四合院の屋根をとった写真は、この角度でこの四合院の屋根を撮影している写真は、世界で私だけが撮影できたと思うので、自分では気に入っています。
 この四合院も、2013年の今では取り壊されてビルに変わってしまったと思うので、もし、この四合院に住んでいた人がこの写真を見たとしたら、懐かしいんじゃないかと思います。
 
このあたりで撮影

炒豆フートンが今残っているだろうか。


取り壊した後の胡同。この写真を撮っていたら、叱られた。

胡同の猫


胡同の路地

胡同の屋根


一部取り壊しが始まっている


北京中央のビル群は、もうこのあたりまで拡大しただろう

右下に柵がある屋上から四合院を撮影


四合院の通り

典型的な四合院の中庭





 素人の下手な写真でも、記録としては、のちのち何かの役に立つことがあるかもしれません。この四合院をこの角度から撮影した写真は、たぶん世界でこれだけですから。
 もし、この先、北京に行く機会があるとしても、もうこの胡同は取り壊されて高いビルに変わっていることでしょう。地域の記憶のひとつとして、この写真を見て、なつかしく思う人もいるのかも。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「北京胡同の記憶 原直久の胡同」

2013-03-19 00:00:01 | エッセイ、コラム

原直久「アジア紀行:北京・胡同-柝」展会場

2013/03/19
ぽかぽか春庭@アート散歩>記憶と記録・写真を見る(5)北京胡同の記憶 原直久の胡同

 映画『胡同の理髪師』は、2006年の制作。ちょうど私が2007年に胡同取り壊しの写真をとったのと同じ頃の制作です。日本での公開は2008年。この映画をどの映画館で見たのか、よく覚えていませんが、たぶん、岩波ホール。
 92歳の理髪師チン老人。素人の本物の床屋さんで、ドキュメンタリーを撮るようにチンさんと周囲の人々の生活が描かれ、長年住み慣れた胡同が取り壊しになってしまう前のようすを描いています。とてもいい映画でした。

『胡同の理髪師』予告編
http://www.youtube.com/watch?v=QNLxGwiFdyg

 原直久(1946生まれ日大写真学科教授)は、2008年に北京を撮り始めました。
 3月8日、原直久作品展「アジア紀行:北京・胡同-柝 Beijing・Hutong-Chai」を見ました。2010年2011年の撮影を中心に写真展示をしています。
 田町のフォト・ギャラリー・インターナショナルでの写真展。(3月6日-4月27日)

 胡同ということばに惹かれて見に行き、1点1点、ゆっくり見ました。平日の午前中、見ている人は私だけでした。ほかに人がいないのをいいことに、勝手に展示会場内を撮影(冒頭の一枚)。たぶん、展示会場内、撮影禁止なのだろうと思いましたが、文学作品の紹介なら文字だけでよいと思うけれど、写真展の紹介なのに、私の文章力では文字だけでは伝えきれないと思うので、勝手に撮影しました。ごめんなさい。

 点数は多くなかったですが、私が見て来て記憶にある胡同の様子が白黒プリントで並んでいました。
 作品紹介のA4版のパンフレット、1枚100円で売っていました。

 以下の作品紹介は、このパンフレットのコピーです。

原直久の胡同写真(原)
「拆」というマークは、『胡同の理髪師』の中にも出てきましたが、「この家は、近々取り壊しを行う」という印です。家も土地も国家の物である中国では、少ない立ち退き料に文句を言ったところで相手にもされず、いやもおうもなく強制立ち退きが行われるます。

胡同の雑貨屋(原)

胡同の靴直し屋(原)

 北京胡同。観光の見世物としての胡同ではなく、生活の場としての胡同がどの程度残っていくか、まだわかりません。あと50年のうちに北京中心部はほとんどがビルになっていくのではないかと思います。

 プロの写真家のきちんとした記録としてではなくとも、ひとつの時代の記憶として多様な角度から土地の記憶を残しておくことが必要なのではないかと思います。
 春庭が撮影した胡同、ピントも甘いデジカメでただシャッターを押しただけのものですが、何かの記録になればと思い、UPしてみます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「春庭の中国写真2007」

2013-03-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/03/17
ぽかぽか春庭@アート散歩>記憶と記録・写真を見る(4)春庭の中国写真2007

 私の記憶のうち、1994、2007、2009年と、3度の中国赴任は、強い印象で残っています。住んでいた町はもちろん、大連や西安、済南、延吉などの旅先で撮った写真も、今見るとなつかしい。記憶と記録。

 私も下手の横好きのひとりで写真を撮りますが、私が「写真家には、かなわないなあ」と思うのは、自分のオリジナルだと思って撮影しても、出来上がりを見たると、「いつか見たあの人の写真」を無意識になぞっていたり、どこか間が抜けていたり、同じような構成や光線の写真を写せたとしても、やはり一流のプロの写真に比べれば、「なんじゃ、こりゃあ」になってしまうのはやむを得ません。
 それでも、自分が撮った写真、思い出とともに見るから、眺めるときは、プロの写真に負けず「いい写真だなあ」と思えます。素人写真は、それでいいのです。 

以下は、春庭撮影の2007年の記憶写真。

長春の仏教寺院前に物売りや手相見が集まる


手相見の人とじっくり人生相談する


寺院裏でのんびり客待ち


寺院裏

長春牡丹街の路上麻雀


街角の雑誌店


長春道ばたの果物売り


延吉の店は、漢字とハングルを並べて表記する看板


延吉の路地


延吉の路上、薬草売り

朝鮮人参やら鹿の角やら松露、小動物の木乃伊のようなのも売っていました。

大連の海産物屋

富峰鎮大屯の夜店

 この富峰鎮大屯に泊まったときのようすは、以下に書きました。毎晩、終点行き先がどこなのかわからないバスに乗って、終点でおりて夕食を食べて帰る、という「一元バス旅行」をやっていて、帰れなくなって泊まったのです。翌朝、始発バスで市内に戻り、仕事へ。
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/f3322c8c440e1ed9c3b5bd43010278ff

農安県合隆鎮シャンユエの店(焼き肉串屋)


シャンユエの町で泊まった旅店。二階が宿泊所で、一階は保健品などの売り場

「保健品」というのは、一人っ子政策がとられている中国で、もっとも必要とされる製品のことです。薬局でも旅店でも「情趣用品」の店でも、どこでも売っています。

路地の「情趣用品店」

店の中には入らなかったので、「情趣用品」とは何を売る店なのかは、わかりませんので、各自ご想像ください。

 1972年以降で、日本人で富峰鎮大屯や農安県合隆鎮などへ出かけて行って写真撮った者はおそらく、私だけです。観光客もビジネスマンも行かない地域。少なくとも、私と会った人たちは、「日本との合弁会社ができて、自動車工場なんかに大勢日本人がいると話には聞いていたけれど、この町で日本人に初めて会った」と言っていました。
 久しぶりに、春庭の中国日記「ニーハオ春庭」を読み直したら、なつかしくて、おもしろかったです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「北井一夫の北京'70~'90」

2013-03-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
北井一夫 北京

2013/03/16
ぽかぽか春庭@アート散歩>記憶と記録・写真を見る(3)北井一夫の北京'70~'90

 北井一夫の写真展「いつか見た風景」を正月に東京写真美術館で見ました。
 北井一夫は、1944年、中国・鞍山(あんざん)生まれ。日本大学芸術学部写真学科中退。60年代後半、成田空港建設反対派農民たちの生活を撮影した『三里塚』、70年代の日本の農村の暮らしぶりに迫ったアサヒカメラ連載「村へ」などを発表し、第1回木村伊兵衛写真賞受賞作家となった。『三里塚』や学生闘争の内部からの記録『バリケード』『抵抗』の写真は、同時代を生きた私には、激しかった時代が真に迫ってくる記録です。

三里塚少年行動隊(北井)

 
 北井一夫が最初に中国を撮ったのは、日中友好が回復した直後の1973年。
 日中文化交流協会の活動を続けてきた木村伊兵衛の勧めによって中国へ渡ったのだという。このときの作品は『中国1973』となった。

上海1973(北井)

上海少年宮(北井)
 少年宮というのは、小学生たちが放課後をすごし、スポーツや音楽などを教わる施設ですが、私の印象では「超エリート養成ギプス」のようなもので、「こどもが放課後をのびのび趣味にひたってすごす」という感じではありませんでした。
 このアコーディオンの少女は楽しそうに弾いています。どんな人に成長して中国の今を生きているのでしょうか。

 北井が1990年代の中国を撮影した写真集『中国1990年代』
 私が初めて中国に赴任したのは、1994年のこと。北井一夫が「1990年代北京」を撮影した時代と重なります。
写真集「1990年代北京」


 引用の写真は、ネット内のものをコピーしているので、オリジナルプリントとは白黒の感じが異なります。オリジナルは、光の具合がもっと美しいので、写真展、写真集などで、ぜひ、オリジナルをみて下さい。
北京(北井)

 1990年代の中国。北京で着用している人は少なくなったけれど、地方ではまだ「人民服」を着ている人も多いころでした。
 ものすごい変革へのエネルギーが渦巻いていた中国。小平が口にした中国のコトワザ「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「経済成長万能時代」。どんどん豊かになっていくと同時に、おきざりにされていく人が出て空虚もひろがっていくような、あの時代の北京の空気感までも、北井は写し取っていると思います。

 1994年と、北京オリンピックの前年の2007年、オリンピックが終わったあとの2009年、3度の中国赴任は、私にとって「中国変貌の時代」を見ることができた、とても意義深いものでした。
 私も写真は撮ったけれど、94年のときは、デジカメではなかったので、手軽にネットにUPできませんが、2007,2009年の写真をすこしずつUPしようと思っています。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「菊池智子の中国・この世界とわたしのどこか」

2013-03-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
菊地智子
《バー「零点」の楽屋で踊るヤンヤン、河北省》 2007年

2013/03/14
ぽかぽか春庭@アート散歩>記憶と記録・写真を見る(2)菊池智子この世界とわたしのどこか

 写真美術館が1990年に開館したとき、「写真だけの美術館なんてわざわざ見に行く人がいるんだろうか」と思いました。私にとって写真は雑誌のグラビアで見たりカレンダーの風景写真だったり、複製で見れば十分なもので、大量に印刷されることが前提の写真を、なぜ美術館でわざわざ展示するのか、と思えたのです。写真集を図書館で見るのと、美術館に壁に並べて見るのと、どんな違いがあるのかと。

 はじめて写真個展を見たのは、『マスードの戦い』などの本で知った写真家長倉洋海の個展で、アフガンの写真を中心にした写真展でした。受付のノートに住所名前を書いたので、それ以来、写真展のお知らせハガキが届くようになり、ハガキが来たら見に行くようになりました。星野道夫の写真にも心惹かれ、娘といっしょに横浜で写真展が開かれたときに見にいったりしました。雑誌のグラビアで見るのと、壁に並べられた写真を見るのとでは、たしかに違う鑑賞の仕方があるのがわかりました。

 1994年に恵比寿ガーデンプレイスにオープンしてからは、恵比寿駅からの動く歩道がが好きということもあって、行くようになりました。(東京駅の京葉線までの動く歩道とか、サンシャインシティへの歩道とか、新宿西口とか、動く歩道があるところ、好きです)

 報道写真展や写真家の個展展示、映像作品など、季節ごとに東京都写真美術館へ行きます。というのは、「ぐるっとパス」で見ることのできる美術館のひとつが東京都写真美術館だからです。また、1月2日には無料開館されてきたので、正月のおでかけとして、初詣はしなくても写真美術館は見てきました。お賽銭上げるより、無料施設を利用したいというタチなので。

 写真美術館、正月に見たのは、3F北井一夫「いつか見た風景」、2F「この世界とわたしのどこか 日本の新進作家vol.11」、B1F「映像をめぐる冒険vol.5記録は可能か」

 2階の展示「この世界とわたしのどこか 日本の新進作家vol.11」で、一番いいと思ったのは、中国のドラッグクイーンたちを撮影した菊地智子の作品『I and I』。
菊池智子は北京に在住し、2006年から地方から都市部に集まるドラッグ・クィーンをテーマに撮影。
『I and I』より 鏡の前のグイメイ、重慶 2011


 対象の内面までを映し出す写真を撮るためには、相手からどれだけ心を許されているか、が重要だと思います。ドラッグクイーン、グイメイやヤンヤンにここまで肉薄できたのは、菊地智子という若いフォトグラファーの人間性であり、人間に関わることの才能だと感じました。

 2012年度の『第38回 木村伊兵衛写真賞』の受賞者が2月初めに発表され、どこかで見た名前だと思ったら、この中国ドラッグクイーンの写真の人だった。
 私は写真の専門家じゃないから、ただ自分の感性によって見ているだけだし、中国に関心があるから、菊池の作品に一番心惹かれたのだろうと思っていましたが、専門家が木村伊兵衛写真賞を選ぶときもこの人の才能に注目したのだと思うと、私の見方だって、そう悪くないと、菊池さんの受賞がうれしい。今回の審査員は、岩合光昭(写真家)、瀬戸正人(写真家)、鷹野隆大(写真家)、勝又ひろし(アサヒカメラ編集長)。
 菊池さん、おめでとう!

菊地智子 「農家で化粧をするパンドラとララ、四川省」2011

 
 農家の納屋かどこかで化粧するパンドラとルル。中国では、「肉体的には男性だけれど、心は女性」という存在は「正しい社会主義」の時代には許される存在ではなかった。それが、解放改革が始まって30年でようやく「認められた」とは言えないけれど、「人前に出てもよい」存在になってきた。わきからのぞき込む四川省の女の子たちにとっては、まだ物珍しい存在なのでしょう。でも、彼ら(彼女ら?)は、もう化粧をしたい自分の心を押し込めない。化粧をしてきれいになっていく自分を押し出していく。
 いい写真だなあと思います。

(このページの写真コピーライトは菊池さんにあります。引用許可範囲内であるつもりですが、引用が許可されず、削除申請があった場合削除します。以下、春庭の「写真を見る」シリーズの写真画像引用に関して、ルールは同じ)

<つづく>
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ぽかぽか春庭「大鎚の宝物展」

2013-03-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/03/13
ぽかぽか春庭@アート散歩>記憶と記録・写真を見る(1)写真展「大鎚の宝物」

 2011,3.11の被災地のひとつ岩手県三陸地方の大鎚町。被災直後は、海から内陸側に入った場所に建つ民宿の屋根の上に観光船「はまゆり」が乗り上げた写真が世界中に報道され、強い衝撃を与えました。


 町長ほか、1200人もの死者行方不明者が出ました。人口は現在12000人ほど。人口の1割が亡くなってしまったのです。

 私が地震前に大鎚町について知っていたことといえば、井上ひさしの『吉里吉里人』の独立国吉里吉里国の名前の元になった吉里吉里地区があること。『ひょっこりひょうたん島』のモデルになった「蓬莱島」があったことくらい。


 そして、地震後の大鎚町について知っていることといえば、観光船はまゆりは、民宿の上に乗ったままでは安全が保障できないというので、解体されてしまったことくらい。

 復興もなっていないまま、被災地への支援は減っていき、復興のために集められた資金のうち、他の県の産業に使われてしまったという報道もありました。被災地から遠い中部や近畿の県で工場を建てれば、被災地で職を失った人を雇えるかもしれないから、被災地対策になる、という理屈なのだそうです。ささやかながら寄付をした私だってだまされた気分なのですから、被災地の人にとっては、釈然としないお金の使い方に思えたことでしょう。いったい何人の被災者がこれらの工場に就職できたというのでしょうか。

 また、「がれき処理する」と言って、処理費用として何百億円ものお金を受け取っておきながら「住民の反対があったから、がれき処理は行えない」と、沙汰止みになってしまった自治体があり、仕事を受けたゼネコンが処理費用だけ受け取って大もうけしただけだった、というニュースも読みました。

 こんなわけのわからない復興資金の使い方に腹が立って、私はたとえささやかなお金の使い方であっても、通常の商取引として直接地元の人にきちんと届けられると思い、おもに「買い物」をしています。池袋の宮城テナントショップでの海産物買い物はときどきしていますが、岩手のものは、日本橋や銀座に出たとき東銀座まで足を伸ばして「いわて銀河プラザ」での買い物。こちらはあまり頻繁には行けません。池袋に比べて銀座は私にはちょっと遠い感じ。

 3・11の特集として、被災地の今のようすがいろいろ報道されました。私の見た番組の中でも、大鎚町ワカメ養殖産業復興へ向けての取り組みが取り上げられていました。ワカメ養殖業に携わっていた人々も津波で流され、働き手が半減してしまったのですが、夏の間はえなわ漁業に従事する漁師さんが、冬の間ワカメ養殖で働くという仕組みです。

 また、避難所の中で女性がはじめた取り組みとして、刺し子製品の制作と販売が報道されていました。職を失い、はじめは避難所でぼうっとしてすることがなかった女性たちが、伝統の刺し子を作り始め、糸と針でコースター、ふきん、ランチョンマット、Tシャツなどに刺繍をし、それを全国に販売するという「大鎚復興刺し子プロジェクト」

 もうひとつ、元気をなくしてしまったじいちゃんばあちゃんに、デジカメの使い方を覚えてもらい、写真を撮って町の様子を発信していくというプロジェクト。
 「未来のために今日を記録する」という活動のひとつとして、地元のじいちゃんばあちゃんたちがデジカメの操作を一から習い、シャッターを切って記録した写真展「大鎚の宝物」展を東京でも開催することを知り、3月8日に見に行って来ました。

 地域新聞の発行も、大事なメディアとして大鎚の今を伝えています。
 三陸では、津波で輪転機も水没し、地域日刊紙「岩手東海新聞」が休刊してしまいました。地域の情報を伝えるメディアがなくなってしまったあと、大槌コミュニティの再生、地域復興を後押しする“住民主体の地域メディア”として2012年9月に創刊号が発行されました。大鎚みらい新聞、地域の新聞です。
http://otsuchinews.net/

 忘れられてなるものか、という自己主張を形にして、じいちゃんばあちゃんたちは慣れないデジカメを片手に、地元からの発信を志しました。
 写真展「大鎚の宝物」には、じいちゃんばあちゃんにとっての「大切なもの」が撮影され、目黒の小さなギャラリー「やさしい予感」http://www.yokan.info/ に展示されていました。


 「優しい予感」は、目黒長者丸という住宅地の中の築50年民家を改装したギャラリーです。1階は岩手県立不来方高等学校芸術学系15期生による作品展「ふるさとを想う」
 9人の卒業生、現在はイタリアや沖縄に在住している人もいますが、集まってそれぞれの作品を展示しています。

 作品展示の他に、ポストカード・CDなどの売り上げ金の50%を義援金として寄付するということなので、私もささやかな協力として、気にいった絵のポストカードを買いました。


 普通の家を改装したギャラリーなので、階段も廊下も狭いのですが、2階のふたつのスペースにじいちゃんばあちゃんの撮影した「私の宝物」が展示されていました。大根が干され並んでいる写真、かわいいペット、孫の成人式などなど、宝物は人によってさまざまですが、故郷に心寄せ、人々の中で暮らしていくことの喜びが表現されていました。



 私は、菜の花の咲く川岸で親子がなかよく遊んでいるようすの絵はがきを買いました。青い鳥さんに送ろうと思って。
 大鎚みらい新聞も売っていたので購入。


 狭い会場なので、平日金曜日でもずいぶんと混み合っている感じを受けました。土日はたいへんだったんじゃないかと思いますが、見に行った方々、ちゃんと写真を見ることができたかな。

https://readyfor.jp/projects/takarabako

 復興への道のりは、決して平坦ではないようです。大鎚みらい新聞の最新号(第6号)も、一面は震災後の御神楽復活という明るい話題ですが、裏面は、復旧担当として他県から派遣されてきた職員が長時間残業で疲れ果てた末に自殺してしまったという記事でした。昨年11月と12月の残業時間は2ヶ月で180時間。8時間労働の倍の時間を仕事に費やす、一日あたり8~9時間以上の残業。正月に自殺。何があったのかは心の中までわかりませんが、疲労も大きな原因であるのでしょう。
 なんだかつらくなる地元の記事でした。

 そんな中、大槻の高齢者が元気に写真をとっているようすには励まされました。会場に写真を見にきていた女性のひとり、かって大鎚にボランティア支援で応援に行った人のようで、大鎚で出会ったおばさんと再会して、会場内で肩もみボランティアを始めました。きっと避難所を訪問して、「肩もみ隊」などで被災者の心をいやしていたのでしょう。会場での肩もみボランティア、暖かい光景でした。


 「大鎚の宝物」の紹介、ありがとう。
 ひとりひとりの宝物を大切にしていくことで、地元の人も元気づけるだろうし、写真を見せてもらった私も、私なりの心の宝物を大切にして行きたいという気持ちをわけてもらいました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「閼伽棚」

2013-03-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/03/12
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>新語旧語(6)閼伽棚

 閼伽棚(あかだな)とは、仏に供える水などを載せる棚のこと。
 子どもの頃、法事の折りになど「あかだな」ということばを聞くと、青棚や白棚やもあるのかと思ったり、「垢棚」かと思ったりしました。なんで尊い仏様にわざわざ垢のついたものをまつるのかと、子供心には不思議でした。

 高校の古典の時間だったかに、閼伽棚のアカとは「仏に供える水のことである」と、習って、へー、アカは水なのかと、よくわからないままにそれで終わりにしていました。

 津軽三味線と三線の演奏を聞いたとき、その前に能の囃子方をしていらっしゃる槻宅聡さんの能管演奏と謡の解説もありました。槻宅聡は、東京外国語大学のご出身ということで、能の詞章の解説をしながら「閼伽棚のアカは、サンスクリット語ですね。サンスクリットもラテン語もインドヨーロッパ語の同系語ですから、ラテン語のアクアと同類の語です」と、解説してくださいました。

 「アクア=水」という語は、アクアラング(潜水用具)、アクアリウム(水槽、水族館)など、水にかかわるなじみの語でしたが、これまでアクアと閼伽を結びつけて考えたことがありませんでした。
 サンスクリット語を知っている人にとってはなんでもないことなのでしょうが、アクア=水、アカ=水と習っても、アクア=アカと思いつかなかった。論理力がないので、A=B、A=C ゆえにB=Cという三段論法が応用できずにいました。「そ、そうなんだ!B=Cだよ」と、ちょっとうれしい「発見」です。

 「旦那」の語源が、サンスクリット語のダーナ=寄進する者、であり、中国に入ると、旦那寺「寄進をして先祖の菩提を託す寺=寄進をするべき寺」などの旦那になり、日本へ伝わって江戸時代には、寺請制度がとられ,すべての士農工商とも旦那寺(檀那寺)をもたねばならなくなりました。また「生活の糧をほどこす人=ダンナ様」になって、御店者からすると店のご主人はダンナ様。妻から見て給金を家に持ってくる人は旦那様。
 サンスクリット語が西へすすむと、英語のドナーとなり、外来語ドナーは、「臓器移植医療において、臓器を提供する人、寄進する人」の意味になった、という梵語話のほうは、旦那=ドナーというのを自分で気づいたので、うれしくて、何度も同じ話を書きました。

 卒塔婆はサンスクリット語のストゥーパ(塔)。貝多羅葉(ばいたらよう)とは、サンスクリット語で「木の葉」の意味を持つパットラpattra=古代インドで植物の葉が筆記媒体として用いられた)
 ほかにも、三昧ざんまい 、娑婆しゃば、 舎利しゃり、 刹那せつな 荼毘だび、南無なむ、奈落ならく、涅槃ねはん、般若はんにゃ、比丘尼びくに、菩薩ぼさつ、菩提ぼだい、瑠璃るり、など仏教関係ほか、サンスクリット語由来の語は日常生活に多く使われています。

 閼伽棚にそっと水をお供えするひととき。
 亡き人をしのび、在りし日の面影を辿る。
 68年前の3月10日、東京で身近な人を燃え上がる火のなかに失ったという人はもう少なくなってきたのかも知れませんが、東京に住まわせていただいている者として、1945年の劫火に焼かれた人々の御霊に手を合わせます。3月11日に身近な人を奪われた人は、どんな思いで3回忌のご供養をなさったでしょうか。私も幾多の御霊に手を合わせます。
 
 命は残されても、故郷を奪われ地域の絆を分断されてしまった人も多いでしょうに、その方々も「景気をよくしてもっとお金を消費する世になるためには、原発再稼働が必要だ」という考え方に賛成しているのでしょうか。

 私には、経済の仕組みの難しいことはわからないことばかりです。私はただ、祈ります。この緑の国土を美しいまま残すためには、これ以上、目には見えないセシウムやストロンチウムの汚染の危険を負わせてはいけないと、ひたすら祈ります。

 政権担当者は「安全が確認できたら再稼働」と言っています。同じ口、同じ政党が、「日本の原発は絶対安全だから、台風が来ようと地震が来ようと絶対に安全」と言いつのってきたのではないですか。その口の後始末もしないうちに、また「絶対安全」神話の復活ですか。

 私は閼伽棚にそっとに水を供え、水に押し流された人の魂も、火に追われて隅田川や荒川に飛び込んだという人の魂も、一瞬の原子の火に焼かれて水を欲しがりつつ亡くなったという人々の御霊も、どうそ安かれと祈るのみ。
 あなた方の愛した土地が再び原子の火に焼かれることのないように、と。
 武器輸出を容認し、死の商人たちが大もうけするのを政府は応援するそうです。世界が戦争でいっぱいになれば、儲かって大喜びの大富豪も増えるのでしょうね。そうなれば政治献金も増えて政治家も大喜び。

 私は私の分野でささやかに生きていくこと、これをまっとうしていくのみ。私のフィールドは「ことば」です。ことばをさがし、ことばを追って、人々の命の問題を考え続けて行きたいと思います。
 閼伽棚にそっと水を供えながら。

<おわり>
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