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ぽかぽか春庭「2017年7月目次」

2017-07-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


20170730
ぽかぽか春庭2017年7月目次

0701 ぽかぽか春庭日常茶飯事>2017十七音日記梅雨的花束(1)梅雨時の花束
0702 2017十七音日記梅雨的花束(2)アルジャノンに花束を
0704 2017十七音日記梅雨的花束(3)はらぺこあおむしが食べる花、エリック・カール展in 世田谷美術館
0706 2017十七音日記梅雨的花束(4)花あかり命の花・笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ
0708 2017十七音日記梅雨的花束(5)青いケシを描く・入江一子と堀文子
0609 2017十七音日記梅雨的花束(6)入江一子シルクロード記念館
0711 2017十七音日記梅雨的花束(7)タイラス・ウォンのバンビ in 科学未来館

0713 ぽかぽか春庭シネマパラダイス>未来への花束(1)わたしはダニエル・ブレイク
0715 未来への花束(2)未来を花束にしてSuffragette
0716 未来への花束(3)沈黙1971vs2017

0718 ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(1)ミサイルママ応援ランチ
0720 2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(2)光琳鶴と遊んだ後は、ライチビールでひとり乾杯
0722 2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(3)私も「こんな人たち」のひとり
0723 2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(4)直虎展in江戸東京博物館
0725 2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(5)発掘された日本列島2017
0727 2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(6)夏のコンサート&庭園散歩
0729 2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(7)夏の乾杯、、
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ぽかぽか春庭「夏の乾杯」

2017-07-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170729
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(6)夏の乾杯

 わーい、夏です。
 前期15週15回はきっちり授業をするようにとの文科省のお達し以来、昔は7月早々に夏休み入りしていた大学が、小中学校よりも遅い夏休み入りとなって、春庭も26日まで授業を続けました。日本語教育研究というのを15回。昔とちがって、教室はどこも冷房完備とはなりましたが、学生も教師もようがんばりました。

 みんな、みんな、がんばって、自分の生を輝かせている。だから、生ビールで乾杯!まあ、輝いていなくても「とりあえず生!」なんですが。 
 
 28日金曜日。毎週のジャズダンス練習、この日は練習を早めに始めて早めに終わり、恒例の納涼会。パスタ屋に集まっての晩ご飯会です。飲み会とは呼ばないのは、私のほかに飲める人は一人だけで、そのkuniさんが今回は欠席なので、私ひとりで生ビール。あとはソフトドリンク勢です。ミサイルママ、家では日本酒やワインを飲むこともあるのだそうですが、今回はe-Naにつきあって生ビール。ハッピーフライデー割引きで半額でした。

 私にとっては、「ダンス仲間」というより、リアル社会でことばを交わし合える数少ない友人達。貴重です。私の欠点も笑って受けいれてくれます。数字の計算ができない、片付けができない、よくものをなくすなどはまだいいとして、すぐにいじける、人をうらやむ、コンプレックスの塊のくせに、攻撃口調でものを言う、などなど、性格の悪いことが一番の欠点。
ブログでは、性格悪いところはあまり書きませんけれど、現実の私の、いじけていじましい性格につきあうには、よほど心が広いひとたちでないと、きっと嫌になってしまうだろうと思います。だからリアルつきあいは極力さけてきました。
 娘は「母みたいな性格悪い人と仲良くしてくれる人たち、大事にしなさいよ」と忠告してくれます。もちろん大事にしたいです。

 話題は、女性の平均寿命、世界2位の女性87.14歳、男性80.98歳,(世界1位は香港)。
 それにしても長生きですねぇ。ジャズダンス仲間たち、平均寿命まであと20年前後。
 現在の日本最高齢田島ナビさん、1900年生まれ、あと1週間で117歳。ナビさんまではあと50年。

 あと20年は健康でいたいと、ジャズダンス仲間と健康談議。みな、踊ることで生き生きしている、というのは共通しています。

 仲間たち、みな、重い現実を抱えています。
 認知症がどんどん重くなっていくご主人の介護に尽くすTTさん。ミサイルママは、8月28日金曜日まで、ダブルワークで朝6時半から夕方5時まで、昼休みもなしにぶっ続けで働いて、やせてしまいました。私のお肉を分けてあげたい。一番新しいメンバーのミヤちゃんも、勤務している会社のほか、土日に別の会社で働くこともあるという働き者。離婚後にご主人が亡くなったことで、息子さん娘さんにつらい思いをさせてしまったことを心のしこりにしていますが、仕事が終わったあとバレーボールも続けていて、踊りも急速に上達している、すごいがんばり屋さんです。

 TTさんとみやさんと私、子供が教師からイジメを受けた経験があり、それぞれの対処法を話しました。
 みやさんは、小学校の担任から「お宅の息子は犬畜生にも劣る」と言われて納得がいかず、生まれたばかりの赤ん坊を背負って、毎日毎日息子といっしょに小学校の教室に座り、担任の言動をメモしたそうです。小学校1年生なのに、みやちゃんの子供以外は手を脇にぴちっと固め、硬い表情で椅子に固まっている教室。みやちゃんの子供だけが、担任の話がつまらなければ窓の外を見たり、ぐてっとなったり、きょろきょろしたり、1年生としては当然の態度をとっていたので、教師にとっては、それが「担任の言うことをきかない犬畜生にも劣る」と見えたのだと。1ヶ月後にこのことに気づいた校長から穏便に済ませて欲しいと謝られ、教室通いを終了したのだそうです。

 TTさんの娘さんも、担任に反抗的な態度をとったからと、大型三角定規で頭を叩かれ、頭に傷をつけて帰宅し、翌日から不登校。TTさんはそれを認め、いっしょに博物館へ行ったりしてすごしたそうです。
 TTさんの娘さんは1週間の不登校で学校に戻ったそうですが、生活指導教師と対立した私の娘は、中2の2学期から卒業式まで1年半不登校を続けました。制服を着てこなかった「不良」を学校内に入れない、と言った生徒指導の教師に対して、生徒会会長をしていた娘は「制服を着ていなくても、登校してきたら授業に出席させるべきだ。公立中学校は、制服ではなく標準服であり、標準服以外の服を着ていても罰せられるべきじゃない」と言ったために、生徒指導教師から、凄絶な精神的イジメを受けたのです。
 
 ミサイルママの長男は、クラスメートからのイジメを受けたけれど、担任がいい先生だったことと、長男がいじめっ子に逆襲できたので、イジメはおさまった、など、みな子供の成長過程にさまざまな苦労があったことを「昔話」として打ちあけあいました。
 
 5人いたうち、TTさんがご主人の介護を続けているほかは、死別ひとり、離婚ふたり、離婚はしなかったけれど母子家庭同然ひとり(私です)で、4人がシングルマザーで子供を育てた。なので、それぞれ経済的な苦労は大きかったけれど、その分、これからの20年間は、好きなコトして楽しもうと一致しました。
 3年間おつきあいしてきたボーイフレンドと、この春お別れしたミサイルママ、またボーイフレンドを募集中だそうです。やさしくて美人のミサイルママ、きっとすてきなボーイフレンドがみつかるでしょう。

 踊る太陽、danse du soleil。発表会まで40日。がんばります。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「夏のコンサート&庭園散歩」

2017-07-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170727
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(5)夏のコンサート&庭園散歩

 東京は世界有数の「音楽都市」です。無料のコンサートも情報集めれば、ほぼ毎日のようにあちこちで開催されています。無料大好き春庭、クラシックでもポピュラーでも、聞いて楽しんでいます。

 7月24月曜日。滝野川会館の「第4月曜日コンサート」を聞きにでかけました。道中薄曇りなのでまだしも直射日光ではなく、助かりました。

 いつも開演まぎわに到着するのだけれど、今回は少しでも暑さが少ないうちに到着するようにと思って、少し早めに家を出たので、開場前に到着。今回のロビーコンサート、会場の真ん中にピアノが置かれていて、ピアノの両側に椅子が並んでいました。このごろアリーナ形式でのコンサートがはやりなのかも。普段は正面からしか演奏者を見られませんが、せっかくだから、演奏者の背中を見る席にしました。左手の動きはよく見えました。右手は背中に隠れていましたが。

 演奏者は、浅賀優子さん。桐朋卒で、現在はピアノ教室を主宰しながら演奏活動をしているという方です。前回4月に滝野川会館でコンサートを聞いたおりは、フルート奏者の伴奏者として出演なさっていました。

 今回の曲目は。
・ベートーベン ソナタ第14番「月光」
・シューマン(編曲リスト)献呈
・リスト ため息「三つの演奏会用練習曲」より
・カッチーニ アヴェマリア
・モーツァルト(編曲ファジル・サイ)トルコ行進曲
・ショパン バラード第1番
・ベートーベン エリーゼのために

 どれもおなじみの曲でしたが、ファジル・サイが編曲したトルコ行進曲はジャズ風なアレンジで、楽しかったです。(ファジル・サイは、トルコ出身の作曲家・ピアニスト)

 浅賀さんは、曲目の紹介も一曲一曲ていねいに解説してくださったので、「カッチーニのアヴェマリア」として知られている曲の、実際の作曲者はロシアのウラディーミル・ヴァヴィロフ(Vladimir Vavilov 1925-73)である、ということもわかりました。

 ヴァヴィロフは、自作曲を発表するとき、有名作曲家の名前で売り出すという方法をとっていました。アヴェマリアは、「作者不詳」の曲として発表しましたが、ヴァヴィロフの死後「カッチーニ作曲」としてレコーディングし売り出されたのだそうです。
 カッチーニ(1545年頃-1618)は、自作のオペラの中に、他人が作曲した曲を平気で混ぜ込むという作曲家だったので、名前を持ち出しやすかったのかも。

 そういえば、日本でも本当の作曲者は表に出ないで、「耳が不自由な現代版ベートーベン」という人が作曲者としてふるまっていた事件がありましたっけ。
 
 滝野川会館第4月曜日コンサートの出演者は、原則ボランティア出演ということです。朝賀さんが出演なさったのは、主催コンサート宣伝のために無料出演なさったのだと思います。無料でよい音楽を聴かせていただいたので、宣伝のお手伝い。「サロンコンサートのチラシをお持ち帰りください。ぜひ、こちらにもおいでください」と、最後に宣伝してなさっていたチラシ掲載します。田端駅近くの、主催するピアノ教室サロンでのフルートピアノデュオコンサートです。
 
 

 夏の暑さをしばし忘れる心地よいピアノの音色を楽しんだあとは、道路反対側の旧古川庭園へ。
 真夏に庭園散歩をしたことがなかったので、夏のお庭はどんなんかしらと思ってひとめぐりしましたが、めちゃ暑かった。

 桜もバラも紅葉もない時期ですから、庭師さんたちが仕事に励んでいました。
 バラのころはきれいだった池が、葉っぱがたくさん浮かんでいるのはいいとして、ペットボトルが浮かんでいたのにはがっかり。池にペットボトルを投げ込む人がいけないのだけれど、そうか、花が見事ではない時期には池の手入れも怠りがちになるのだなあとわかりました。

 池に青いトンボが飛んでいました。昆虫にうといですが、たぶん塩辛トンボ。2匹がつがいで飛び、子孫繁栄に励んでいました。池が貴重な繁殖場所になっているのなら、そうそうは掻い掘りなどもできないのでしょう。


 「緑陰で一休み」と思って入園したのですが、木陰のベンチすら暑くて座っていられず、ゆっくりはできませんでした。


 冷房ききすぎの蕎麦屋で「天もり」食べた後、冷房がほどよい図書館へ。昨年なくなった近藤富江さんの『日本美術に見る着物』を眺めて、『ぼくらの近代建築デラックス』を借りて帰宅。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「発掘された日本列島2017 in 江戸東京博物館」

2017-07-25 00:00:01 | エッセイ、コラム

発掘された日本列島2017 水中遺跡のようす

20170725
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(4)発掘された日本列島2017

 7月19日水曜日。江戸東京博物館「直虎から直政へ」展を見た後、ほんとうは、こちらが本命の「発掘された日本列島2017」展へ。

 毎年日本全国の考古学発掘成果を展示しているのですが、ちょうど見る機会があった年もあるし、見逃すことも多いです。前回見たのは、2014年8月、息子と一緒に見ました。
 今回は、ひとりです。ひとりだけれど、母といっしょに見る気分。

 生きていれば今年百歳になるのだけれど、54歳で早々と世を去った母。考古学の素人ファンでした。新聞に新しい発掘のニュースが出ると大喜びで、「ほら、こういうのが出土したんだって。すごいねぇ」と、何がすごいのかよくわからないままの子供たちに「土の中から昔々の人々の暮らしのようす」が現れることの興奮を語るのでした。

 群馬県は、岩宿遺跡から旧石器が発見されたことから、いわば県民こぞって考古学ファンとなっていました。最初は考古学界から「学歴のない素人」として、旧石器発見の功績が認められていなかった相沢忠洋さんの業績が広く知られるようになると、不遇にもめげずに発掘に情熱を燃やした相沢さんファンは、ますます考古学に興味をふかめました。実際、群馬県には古墳も多く、さまざまな遺跡遺物の発見のたびに、小学校中学校の先生方も得意そうに「昔の日本」についてうんちくを傾け、子供たちにも考古学の楽しさは伝わりました。

 父の妹、「ハツ叔母」も、子育てが一段落すると地元の発掘現場で遺跡堀りのパートをはじめて、20年くらい掘り続けていました。20年も土を掘り続けていれば、パートのオバはんとはいえ、少しずつは知識も深まってくるようで、法事の折に顔を見ると、私が発掘に興味を持っていることを知っているので、「こんなん、でました」と、得意になって教えてくれました。
 1年掘り続けても、出てくる多くは土器の破片ばかりなのだそうですが、なかには、復元してみると立派なツボになった、なんていうのもあって、郷土の博物館などに展示されている壺を見て、「裏側の底の近くのあれが自分が掘り出したかけら」と、誇らしい気持ちになるのだとか。その叔母もとうになくなりましたけれど。

 今回展示の目玉は「海中遺跡」についてです。
 日本は世界の中でも考古学の発掘が盛んな国ですが、水中の遺跡については、これまであまり発掘が進んでいませんでした。ようやく近年、発掘の成果がまとまって、「発掘された日本2017」展では、元寇来襲時に、台風のために沈没した元の軍船の発掘成果が展示されていました。

 元の最新の武器、「てつはう(鉄砲)」がどのようなものであったのか、実物を見ることができました。歴史書などの記載では、火縄銃と「てつはう」の違いがいまひとつわからなかったのですが、水中から出土した「てつはう」は、直径15cmくらいの鉄の玉で、中に火薬が詰めてある、手りゅう弾のような武器でした。火器を知らなかった鎌倉武士たち、こんなのを投げられたら、びっくり仰天であったろうと思います。
 中国語では「震天雷」なので、鎌倉武士もさぞや天から雷が落ちてきたように感じたのではないかと、さび付いてはいるものの、往時の威力やさぞかしと思う「てつはう」を眺めました。

海からの発掘品「鉄砲」


 もうひとつ、今回の「復興のための文化力–東日本大震災の復興と埋蔵文化財の保護」という特集。解説員の方が力説していました。安倍内閣が行ってきた政策、どれもろくなことはなかったけれど、考古学をやっているものにとっては、たったひとつ「安倍内閣がよいことをした」と言えることがある。それは、宮城県栗原市の「入ノ沢遺跡」を国指定の史跡として認定してくれたことなのだそうです。

 入ノ沢遺跡は2014年の調査で、古墳時代前期では国内最北の集落で、ヤマト政権がこの時代に東北地方まで勢力を広げていたことを知るための貴重な遺跡であることがわかりました。
 入ノ沢遺跡は4世紀ころの集落で、ヤマト政権が権威の象徴とした銅鏡などが集落跡から出土しています。集落は周囲380mにわたって、深い溝が掘られ、外敵への守りを固めています。集落から、当時としては貴重品の鉄製品も出土しています。

入ノ沢遺跡出土の鉄製品。ヤマト政権範囲の北限集落の証拠


 貴重な「ヤマト政権最北端集落」の遺跡はバイパス道路になる予定でしたが、国の史跡となったので、これからも発掘を続けることができるようになりました。

 東北一帯に縄文文化は広がっていました。栃や栗、アワなどの雑穀の栽培によって高度な文明を築いていた縄文文化の集落。すでに4世紀には、ヤマト政権の勢力が東北地方まで伸びていて、鉄製品を持ち、堀を深くし、戦闘も辞さない構えの入ノ沢集落。
 周囲の縄文集落とは、どのように共存していたのか、あるいはどのようにいがみ合ったのか。入ノ沢集落の住居のうちに、焼けた家が内部の家財そのままに残されているものもあったそうです。(竪穴住居は、草ぶき屋根の上に土をかぶせることも多く、火事の場合、上の土がそのまま覆いとなって、内部の道具類などが残される)

 中国の史書に5世紀の日本を支配したと記された倭の五王の時代。そこからさらにさかのぼった4世紀。古事記の神話によれば、神功皇后や応神天皇の時代に当たります。
 3世紀239年に魏へ親書を送った卑弥呼の邪馬台国がどこであったかの論争はまだ決着がついていませんが、4世紀の入ノ沢集落がヤマト政権支配下であったことが出土品から確認できるとすると、3世紀には東北を支配権におこうとする政権ができていた、ということ。

 歴史研究、考古学発掘がこの先も研究成果をあげて、古代の姿が鮮明になってきたら、古代史に関してわけのわからぬ「日本は神の国」なんて発言をする人もいなくなると思うのですが。
 
 「発掘された日本2017」展、閉館5時半まで駆け足でしたけれど、見ることができてよかったです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「直虎展 in 江戸東京博物館 」

2017-07-23 00:00:01 | エッセイ、コラム


20170723
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(4)直虎展in江戸東京博物館

 娘が「私の知らない間に、着るもんが勝手に縮んでしまった」と、大量の衣服下着を「断捨離」しました。まあ、あれだけ食べ続けているのだから、知っていても知らなくても、着るものは縮んでしまうだろうよ。
 まだ包装ビニール袋に入ったままのブラジャーだのTシャツ、LだのLLだのが、着ることないまま「縮んで」しまった。当然、もったいながりの私が引き取りました。

 普段は衣料スーパーの安売りブラジャーで間に合わせている春庭。娘のお下がり「寄せてあげてブラ」なるものを身につけてみる。レレレ、くっきりと谷間が、、、、
 「見て、みてぇ、母のお胸に谷間出現」と、パソコンに向かっている息子に声かける。息子は、パソコンから目を離しもせず「ほうほう、それはよかった、めでたい」と。
 ふん、母の胸を無視するとは、なんたる恩知らず。生まれてより1年間のおまいの命は、このおっぱいで保たれていたのにさあ。こいつが垂れ下がったのは、おまえが飲んだからだに、ひとりで大きくなったような顔をして。
 
 息子、パソコンにインストールした古文書と格闘中。まだまだ博士論文提出には至りませんが、土曜日に研究所で発表しなければならず、むずかしげな古文書を読んでいます。
 息子のターゲットは、「戦国史織田政権論」。

 我が家、大河ドラマは、録画しておいて何週遅れかで見ています。「江」「官兵衛」「真田丸」などは、息子の解説を聞きながら楽しみました。「どこそこの寺からこれこれの古文書が見つかって、新説が出されたので、それをさっそく取り入れてドラマにしているんだ」などと、解説を聞いて歴史を面白く知ることが出来ました。

 今年の「女城主直虎」については、ドラマ化が決まったとき息子は、「実在を示す資料がたったひとつしかなくて、なんのエピソードも知られていないのに、よくもまあ、大河ドラマにしようと思ったなあ」と言っていたのですが、放映から半年たった今は「何もわかっていないってことは、自由に描けるので、シナリオ作者は楽しいだろうなあ」と、言っています。

 歴史監修者がついているから、今川や武田の動向など、当時の史実を無視はしていないけれど、井伊谷の出来事、ほとんどが創作エピソード。直虎は、盗賊の頭にちょっとときめいたり、自由に振る舞っています。

 江戸東京博物館で「直虎から直政へ」展を見ました。
 毎月第3水曜の東京都施設65歳以上入館無料日のお楽しみ。今月は、珍しく江戸東京博物館にしました。

 いつも、第3水曜に江戸東京博物館に行くことはなかったのは、ホームページに「第3水曜、65歳以上の方常設展のみ無料」と出ていたからです。特別展を見に行ったときに常設展も見ているから、わざわざ水曜日に常設展をを見なくてもよい。
 今回は、常設展の中に「発掘された日本2017展」をやっているので、仕事を終えてから出かけることにしたのです。

 2014年に、江戸東京博で息子と「発掘された日本2014」を見ました。特別展の「種田陽平マーニー展」も見たくなったので、別料金払って見ました。だから、特別展は別料金だと思い込んでいたのです。
 受付の人にたずねると、外部資料中心の展示は別料金だけれど、江戸東京博収蔵品を主とした館主催の展示は原則無料、ということでした。あらま、無料大好きの私としたことが、これまで見逃していました。

 娘に言わせると、「母は、博物館に無料で入るなんてことするよりも、いつもお金を落っことしたり、おつりもらわずにお店出てきたり、買った品物をお店に置いてきたりとか、そういううっかりをなくほうが節約になると思うよ」
 ま、そんなことはわかっているけれど、どうせうっかりミスは減らないだろうし、私としては、「東京に住む年寄りが、お金を使わずに楽しく過ごす」という「楽しみ方」を探っているのですからして、、、、はい、無料が大好きです。

 で、「次郎法師直虎」に関する歴史資料は、たったひとつしかない、と息子に解説されていたので、いったい何をどう並べて見せるのかしら、という興味で「直虎から直政へ」展に入場しました。

 件の古文書、たったひとつの「次郎直虎花押」の文書「井伊直虎関口氏経連署状」(浜松市博物館所蔵)も展示されていました。

 右中央寄りに、「次郎」「直虎」の著名と花押が見えます。
 
 
 井伊直虎が女性であるという記述は、江戸中期に龍潭寺の和尚、祖山が、寺に伝わる寺の由来を井伊家と結びつけて記した『井伊家伝記』の記載によっています。この祖山が伝承をもとに「次郎直虎は井伊直盛の娘で、女地頭であった」と書いたことから,それ以後,「直虎は女性」ということになっていたのです。

 井伊直盛の娘である次郎法師(直虎)が「女地頭」であり、直盛の従弟にあたる直親と許嫁であったことは、この祖山の記述のみが記録したのであり,他の資料にはこれらの記載はありません。最近見つかった井伊家の古文書では、直虎を男性であるとしています。
 しかしNHK大河ドラマ連動企画ですから、ドラマの筋書きと異なる展示物はいっさいなし。

 展示は、直虎周辺の実在の人物、今川氏や武田氏、徳川氏、織田氏などの関連資料を並べていました。前半一番の目玉は、横笛の展示。ドラマでは春馬くんがさわやかに吹き鳴らしていた笛、直親暗殺直前に神社に奉納されたものであるとか。

 じっくり読みこめば、貴重な古文書などもあったのでしょうが、どうせ読めないし、ささっと通り抜けて、ゆかりの武将達の鎧や兜、龍潭寺の僧、傑山のものと伝わる弓矢などをながめて出口へ。う~ん、やっぱり直虎がどういう人だったのかは、まったくわかりませんでした。

 あと半年、いったいどういうエピソードをひねくり出すのか。主人公が史実不明のままの大河ドラマって今回が初めてなのかも知れませんが、オリジナルキャラを楽しむことにいたします。
 春馬くん亡き後、イケメン度が下がっています。高橋一生は、直虎を支えているって描き方をされていますが、史実としては井伊家にとって疫病神みたいな存在。尾上松也の今川氏真は、井伊家にとってほんとに敵役だし。
 井伊直親の遺児虎松、現在は子役ですが、成長後の井伊直政役は菅田将暉。ほかにもイケメンを大量に投入して欲しいなあ。どうせ史実にはないことをあれこれ筋書きにするのでしょうから,井伊谷にはイケメンがわんさか集まっていた,というストーリーでいいと思います。

 息子に「ねぇねぇ、この人はほんとにいた人なの?」なんて質問をしながら、ほとんど合戦シーンがない戦国ドラマを楽しみたいと思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「私も、こんな人たちのひとり」

2017-07-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170720
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(3)私も「こんな人たち」のひとり

 ジャズダンス、自主練習を続けています。
 練習曲、新しく覚える振り付けは『朝日のようにさわやかに』。
 1928年、シグマンド・ロンバーグが作曲、作詞オスカー・ハマースタイン2世。
 振り付けに使用している曲は、Wynton Kellyのピアノ演奏による『Softly, As In A Mornings Sunrise 』です。

https://www.youtube.com/watch?v=Wh6JbpWhYSo

 「Softly」という語を「さわやかに」と訳したのは、当時としては洋楽を売るために、必要なことだったのでしょうが、誤訳と思います。

 以下、「歌うためのこなれた歌詞」ではなく、曲理解のための、直訳による春庭拙訳。
ジュリークリスティの歌でどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=L33LYC0n5rA&index=2&list=PLC05E9F74A25CAF9B

(Written by Oscar Hammerstein)
Softly as in a morning sunrise(朝日のようにそっとやさしく)
The light of love comes stealing into a newborn day(生まれてきた一日に、愛の光は静かに忍び込んでくる)

Flaming with all the glow of sunrise(日の出の輝きすべてとともに炎となって)
A burning kiss is sealing a vow that all betray(燃え上がるキスは、偽りの誓いを覆い隠す)

For the passions that thrill love(震える愛の熱情は)
And take you high to heaven(人を天へと昇らせもする)
Are the passions that kill love(愛を殺すその熱情は)
And let it fall to hell (地獄へとつき落とすものなのだけれど)
So ends the story(それが恋の終わりってもの)

Softly, as in an evening sunset(夕日のようにそっとやさしく)
The light that gave you glory(輝きを与えてくれた光は)
Will take it all away(すべてを奪い去ってゆく)

Softly as it fades away(消えていくようにそっとやさしく)
Softly as it fades away

 名曲と思いますが、複雑で入り組んだミワ先生の振り付けを踊るには難しすぎる。
 夏休み、もっともっと練習します。そして、、、少しはポンポコリンのおなかがそっとやさしく消えていきますように。

 『Softly, As In A Mornings Sunrise 』は、朝の光のなかで情熱的なキスではじまった恋が、たちまち色褪せ夕日と共に消え去っていく光のなかに描かれています。
 恋ってそんなもの。

 さて、与党が進めてきた安保法案、共謀罪法案(テロ等準備罪)、原子力政策などなど、現政権の進めるほとんどの政策に、政権発足時から反対であった春庭。
 「丁寧な説明」と口先だけでなにもかもごまかし、ウソをウソで隠そうとしている人々が政権を担っていることにうんざりしている国民の一員です。すなわち、ab首相にとっては「こんな人たち」のひとりです。

 このままいくと「こんな人たち」に負けるわけにはいかないと気負うabさん、自分に反対する人は国家転覆をはかるヤカラ、『こんな人たち』は、テロリストである」などと言い出すかもしれません。

 当初は政権に恋をしていた人々、そろそろ「夕日の光のなかですべてを奪って去っていく人」に愛想づかしをしてもいいのではないかしら。恋のはじまりには最高の人に見えた恋人も、一日たてば去って行くのです。

 「こんな人たち党」の声をひとつにして、うそのない政治をしていけるといいなあ。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「光琳鶴と遊んだ後は、ライチビールでひとり乾杯」

2017-07-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170720
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(2)光琳鶴と遊んだ後は、ライチビールでひとり乾杯

 7月8日土曜日、ミサイルママとのランチ会おえてから、上野へ行き、東博の常設展を見ました。本館常設展は、定期的に「国宝室」の展示が変わるので、季節ごとにチェックしています。今回は、国宝室では「華厳宗祖師絵伝 元暁絵 巻中」を見ることができました。

 また、夏休み企画「びょうぶとあそぶ、つるとあそぶ」がよかったです。
 東博所蔵の長谷川等伯「松林図屏風」の高精度複製展示と、アメリカのフリーア美術館所蔵尾形光琳「群鶴図屏風」の複製と映像のインスタレーションが展示され、絵の中に入り込んだような気分で屏風絵の世界を体感できる、という試みです。

 「本物」を、静かに厳粛に見ることも大切でしょうが、子どもも大人も、気楽に楽しく絵をながめている空間がほしいと、私もずっと思ってきました。
 屏風の長谷川等伯を、子供たちには、畳の展示コーナーで寝転んで見ています。この東博の企画は、「気軽にアートを楽しもう」という方向をめざしている展示になっていました。

 言うてはなんですが、私を含めて、本物と「高精度複製」を並べておかれたとき、本物はどちらか言い当てるクイズに正解できる人、少ないと思います。私ような素人には、複製でも十分。普段は、複製を展示しておいて、どうしても本物を見て研究したい人などに、特別公開日を設ける、という展示の方法もありと思います。
 
 長谷川等伯『松林図』高精度複製 左隻

 長谷川等伯『松林図』高精度複製 右隻


 映像インスタレーションでは、光琳のつるが羽ばたいて飛来し、えさなどつつき、また飛んで去っていくようすを動画で見ることができます。光琳の原画はフリーア美術館で門外不出になっているので、日本では見ることができません。でも高精度複写の技術で、十分光琳のすばらしい筆の動きを感じることができました。楽しい展示でした。

フーリア美術館(スミソニアン博物館 アートオブフーリア)所蔵の尾形光琳「群鶴図」


 東博と複写機会社のコラボレーション。高精度複製 尾形光琳『群鶴図』左隻


 高精度複製 尾形光琳『群鶴図』右隻


 本館のほか、東洋館も見て、夕暮れ時、東博をでました。
 土曜日の上野公園を通り抜けること少ないですが、なかなかの賑わいでした。


 東博を6時に出て、上野公園を通ると、「台湾フェア」をやっていました。
 その中で台湾地ビールの店というのがあったので、。「ライチビール」というのを飲んでみました。見本とちがい、へんてこりんな緑色の飲み物。アルコール度が低いし、「ライチエッセンスをいれすぎた」と、店の人が言い訳したビール、あまりおいしくはありませんでした。まあ、全部飲んだけれど。

台湾地ビールというふれこみのライチビール


 それから、西洋美術館の夜間開館の常設展を見ました。第1土曜日なので、「常設展はだれでも無料」です。7月8月の金曜日土曜日は夜9時まで開館しています。閉館時間までゆったり静かなルコルビジェ空間ですごしました。

 上野駅駅中の店で娘のリクエストのメルヘンサンドイッチを買って帰りました。
 ダンス練習、ランチとおしゃべり、博物館、ライチビール、美術館。盛り沢山な土曜日でした。

 ミサイルママも私も、心に栄養たっぷりとって、来週も元気に踊れます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ミサイルママ応援ランチ」

2017-07-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170718
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>2017十七音日記7月(1)ミサイルママ応援ランチ

 ジャズダンスの練習は毎週金曜日の夜。7月7日金曜日夜の練習を最後に、指導のミワ先生は毎夏恒例、2か月のバリ島バカンスに出かけていきました。4月から5月に春のバリ島、12月から1月は冬のバリ島。ミワ先生はご主人とともに、バリ島と日本を行き来しています。先生の言では、バリ島で暮らすのは、日本の物価さでは、生活できないからだそうです。

 先生がいない間は、自主練習を続けます。今年の新しい曲「朝日のようにさわやかに」は、ジャズスタンダード。振付がむずかしすぎて、みな覚えられません。
 金曜日に加えて、7月8日土曜日から「自主練習オプション」も追加されました。金土の2日連続練習です。
 自主練習のリーダーは、ミサイルママ。一番長くミワ先生に指導を受けているし、振付の覚えもいい。ダンサーネームはKazu。

 ダンサーネームe-Naイーナの春庭は、「振付を覚えよう」という気がありません。いつもミサイルママのうしろに立つようにして、「半拍おくれでマネして踊る」という方法でこれまで踊ってきました。「振付を覚えようとすると覚えられない自分がストレスになって、踊る気なくすから、覚えなくてもいいの」と強弁しています。

 いつもKazuのうしろに立ち、前を見ながら踊るe-Na(2014年9月)


 中国に赴任しているときは、ベリーダンスを習ったりして、毎週1回は踊るようにしていたのですが、ミャンマー赴任の2015年と、昨年2016年、私は仕事以外で動くことをまったくせずにいました。すると、1年の不摂生でたちまち筋肉が落ち、腹筋もなくなって、身体の老化がすすみました。今回の「朝日のようにさわやかに」は、立ったりすわったりすることが続く振付なので、私はその部分は「パス」と宣言して出演しないことにしました。一曲のうち、3分の2は上手すそに引っ込んでいて出番はありません。

 復習曲の「ソーラン節」は、伊藤多喜雄の曲に振付けられた「南中ソーラン」をもとにしています。南中ソーランは、テレビドラマ「金八先生」の文化祭シーンでクラス全員が踊って有名になりました。今も運動会文化祭などで、全学年とか全校とか、みなが気持ちをひとつにして踊る学校が全国にあります。

 私たちのジャズダンスサークルのソーランは、ミワ先生独自の振付です。2008年の発表会のビデオを見ながら自主練習で踊っています。こちらは振付をだいたい覚えていますから、ストレスなしに踊れます。

 もう一曲の「ロドリコベイ」も、何度か発表会で踊った曲なので、ミサイルママのマネをしていれば、自然に踊れます。
 問題点がひとつ。3人で踊る曲なのに、ミサイルママももうひとりのkuniさんもとても細いこと。ダイエットは宣言してきましたが、宣言だけで食べるのをやめないから、いっこうに細くならないイーナとしては、そのあたり、困ったもんだと思っています。

 ミサイルママは、もともと細いのに、この6月7月は、ハードワークすぎて、とてもやせてしまいました。
 4月から働き始めたホテルルーム係りの仕事があまりにきついので、6月から図書館クリーンスタッフの仕事を始め、ホテルは退職する予定でした。一般的には退職を申し出てから一か月すれば仕事を辞める権利が労働者にあるはずですが、ホテルのほうも人手不足。「スタッフが足りないから、7月末までは仕事を続けて」と要請されました。円満退社をもとめて、ミサイルママは、6月7月は、ダブルワークでがんばることにしました。

 早朝6時半から10時までは図書館清掃スタッフ月~金。日、水、金は、11時から4時まではホテルのルーム係り。水金は、朝6時半から夕方4時、ときに5時までダブルワーク。私とちがって小食のミサイルママですから、2か月の間に目に見えてやせました。

 7月8日土曜日午前中の自主練習のあと、ミサイルママをランチに誘いました。「ダブルワークでがんばるDancer・Kazu応援ランチ」というお誘いです。
 ランチは、本日の日替わり定食「豚の角煮丼」サラダ、スープ、コーヒーつきで850円。おごる、というほどのランチじゃなかったけれど、ミサイルママは、12時半から14時半までしゃべりっぱなしでした。
 ダブルワーク、体はきついけれど、どちらもひとり体制での勤務なのでしゃべることはないとのこと。しゃべることで、精神的にはストレス解消になったみたい。

 ミサイルママが疲れすぎて練習に出てこられない、ということになったら、私は見ながらマネする人がいなくなるので、踊れなくなってしまう。ミサイルママには、元気を保って踊ってもらわないと。

2017年4月の「大人の遠足旧古河庭園の花見」


<つづく>
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ぽかぽか春庭「沈黙1971vs2017」

2017-07-16 00:00:01 | エッセイ、コラム


20170716
ぽかぽか春庭アート散歩>未来への花束(3)沈黙1971vs2017

 6月26日月曜日に、飯田橋ギンレイホールでマーチン・スコセッシ『沈黙』鑑賞。12時からの回と4時からの回、2回見ました。(間の併映『淵に立つ』も見て、6時間ギンレイの椅子に座っていました)以下、ネタバレを含む感想文です。

 遠藤周作(1923-1996)は、1966年に『沈黙』を発表しました。
 『沈黙』は、16世紀末からのキリシタン弾圧を描いており、師の消息をたずねにマカオからやってきたポルトガル人宣教師の受難が描かれています。

遠藤は、12歳の時伯母の影響で母とともに受洗しましたが、終生「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」を考え「キリスト教信者とは」と、問い続けました。
 遠藤の両親は、遠藤が10歳のとき離婚しました。実業家である父は、離婚以前から囲っていた若い女性と再婚したこともあり、父親に愛情を持てずに成長したと、遠藤は回想しています。父親は、遠藤に医者になることを命じ、文学部に進学したことを知ると、学業援助を打ち切ります。
 ヨーロッパ留学中から、キリスト教の父性原理に違和感を持ったことの一因には、父親との長い確執があった、ということもあるだろうと思います。

 キリスト教が「父」を第一原理とすることについて、遠藤は、日本人であり母性原理を内蔵している自分にはしっくりこない、と感じていました。遠藤のカトリック信仰が安定したのは、自分の中の母性原理をカトリック信仰の中に位置づけることができたときから、と、さまざまなキリスト教関連のエッセイの中で語っています。

 私が原作を読んだのは、篠田正浩監督作品『沈黙』を見たあとでした。原作を読んだあと、篠田版『沈黙』がかなり脚色されていることがわかりました。
 原作者の遠藤周作との共同脚本ですから、遠藤も納得しての脚色だったのでしょうが、岩下志麻が演じる岡田三右衛門の妻、菊の姿を詳しく描いていること、原作には描かれない人物でした。なるほどなあ、岩下を美しく画面に存在させる役は原作にはない。原作に出てくる女性は、キリシタン側の農婦ばかり。岩下が演じるには、衣装も地味になるし顔は汚れメークだろうし。女優で客を呼ばないと興行収入が見込めない時代、菊を登場させるのはやむをえない脚色だったのでしょう。三田佳子演じる長崎丸山の女郎も原作外。
 遠藤周作も脚本に参加したのだ,という言い訳があるとしても,岩下志麻の菊は余計だったかなあと思います。

 このポスター、いったいどういう売り方をしたかったのか。「沈黙」をどう見てもらいたかったのか。「いやあ、岩下志麻さん、何を演じても美しいですねぇ」という観客の反応があれば、大成功の映画と言えたのか。


 このポスターのキスシーンのあと「この日からロドリゴは岡田三右衛門と名乗った」というナレーションが入ると、それまでのロゴリゴの心の葛藤はなんだったのか、という気になる。
 篠田は「岩下志麻の魅力は、イエスの許しと同義である」と表現したかったのかもしれないけれど。
 役者の顔アップ一覧。岩下志麻が一番上。主役ロドリゴは下。

 原作のキリシタンへの拷問描写も、原作に比べれば「映倫などにひっかからない程度」の描写になっていたのも、やはり仕方なかったのかとおもいますが、スコセッシは、アメリカでの公開がR指定になっるもやむなしと、原作の描写にかなり近い暴力描写になっていると思います。

 マーチン・スコセッシ(1942~)は、カトリック信者であり、子供のころの将来なりたいものは神父であったという。(神学校に入学したものの,1年で退学してしまったけれど)
 28年前に『沈黙』を英語版を読み、映画化を希望。映画化が不可能に思える時期であっても、手に入れた映画化権を決して他に譲ろうとはぜず、ついに2016年に完成。2017年1月に『沈黙』は日本公開されました。

 私が、「スコセッシとジェイ・コックスの共同脚本」に懸念したのは、カトリック理解の違いについてでした。イタリア移民の家庭にカトリック信徒として生まれ、神父をめざすほど篤い信仰を持っていたスコセッシが、遠藤が感じ、最終的に遠藤の「日本人のカトリック」が「母性原理」に寄っていったことを、どのように原作から受け取るのか、という点でした。日本でスコセッシ『沈黙』が公開された2017年1月には、「スコセッシ版が原作から大きくはずれていたらどうしよう」という心配も持っていたのです。

 スコセッシは、「キリシタン弾圧」について、公開記念記者会見で語っています。
 アジア人のイエズス会神父のことばに賛同した、と述べている部分
 「日本の幕府が。隠れキリシタンに暴力で対処したのは歴史上の事実である。しかし、西洋からやってきた宣教師たちもまた。暴力を持ち込んだのだ。「これが普遍的な唯一の真実である」という思い上がりによってキリスト教を持ち込んできたことも、ひとつの暴力だったのだ
 という、イエズス会神父のことばを受け止めているスコセッシの描き方ならば、大丈夫、と感じるスコセッシの「沈黙」理解でした。

 スコセッシは、原作(英語翻訳版)を読んで以来、日本の歴史や文化全般についても、日本のキリスト教についても、理解を深めてきた、ということです。『沈黙』を見て、スコセッシの原作理解は、とても的確で深いものだろうと感じ入りました。スコセッシが原作読了してから映画完成までの四半世紀は,作品の多くの実りを与えたと思いました。

 スコセッシの日本公開記念記者会見より
 「どちらかというと、キリスト教の中の女性性をもって説くのが日本で受け入れてもらうやり方なんじゃないかと。だから今の隠れキリシタンの方たちは、そういうところに惹かれて受け継いでいるんじゃないかと、僕は思います
 遠藤周作が「日本のカトリック受容」として行き着いた「キリスト教のなかの女性性」という点を,スコセッシはきちんと理解して映画を撮影したのだとよくわかりました。

 隠れキリシタン拷問シーンの篠田vsスコセッシ。
 キリシタンのモキチと村おさが海の中で磔になるシーン。
 篠田の海は,比較的穏やかで波もなく、時間がたつにつれて,潮が満ちてくるのが「静かな怖さ」を感じさせます。やがて確実にやってくる「潮が頭の上まで覆う刻限」までのひたひたとした時間の怖さです。
 スコセッシのシーンは。大きな波がモキチたちが磔になっている十字架に押し寄せています。このシーンの撮影は,波が鼻に入って咳込んで声が出せなくなった、とモキチ役の塚本晋也が語っているように,ほんとうに見ているほうも苦しくなる強い印象のシーンでした。
 この海中の磔シーンは,スコセッシのほうに軍配を上げる。勝ち負けじゃないんだけれど。

 音楽については。
 スコセッシは,BGMをほとんど使わず,波の音,虫の鳴き声など自然の音のみにしました。意図的にそうしたのだろうと思います。篠田版音楽担当の武満徹を超える音楽,難しかったろうと思います。あえてBGMなしにしたのではないかと勝手に思っています。
 ただし,冒頭にかすかに響き渡る虫の音。大部分のアメリカの観客には,ただの雑音にしか聞こえなかったろうと思われます。小鳥のさえずりは音楽ととらえる西洋人の脳でも,虫の音は脳の雑音を聞く領域でのみ感知するからです。音楽については,篠田版の勝ち。勝ち負けじゃないんだけれど。

 配役。だんぜんスコセッシの勝ち。
 フェレイラを丹波哲郎にしたのは,外国人俳優の起用が難しかったからかもしれませんが,主役のロドリゴ,相棒のガルペを演じた俳優があまりうまいとはいえない無名のガイジン役者だったので,そのたどたどしい日本語セリフの部分はいいとして,後半の棄教の苦悩部分が表現しきれていないように思いました。
 スコセッシ版ロドリゴのアンドリュー・ガーフィールドとガルペのアダム・ドライヴァーは,若手ながらスコセッシの要求によく答えていたのではないかと思います。前半のロドリゴの立ち姿が頼りなく、不安そうに見えるところも,役柄の表現だとすれば。

 通詞。この通詞は,元はキリシタンであり,ポルトガル人宣教師の傲慢さによって棄教した過去を持つ。浅野忠信は,その陰影も表現していたと思います。篠田版の戸浦六宏も,悪くはないけれど,キリシタンへの理解があまり深くないように見えてしまう。

 キチジロー。準主役の重要な役を,スコセッシ版では窪塚洋介が獲得。窪塚は撮影時に36歳だった。篠田版では,共同制作者であるマコ岩松。篠田版に出演時は33歳。マコ岩松の方が,実は年齢的には若いのに,ずっと老獪に見えた。窪塚は「ヤンキーわかぞーがやんちゃしてダメダメな子だけど,最後はよい子になるのよね」感が強くて、キチジローの弱さダメさも,「いいよ,いいよ,おまえはホントはいい子だから」と思えてしまうので,弱い人間の悲しみが今ひとつ伝えきれなかった。とはいえ,1998年『GTO』のキクチ君からウォッチングしているファンとしては,オウ,オウ,よくぞ育ってくれましたと,涙なみだのキチジローです。

 井上筑後守,モキチも,篠田版の岡田英次,松橋登よりも,イッセー尾形,塚本晋也の方が,私には断然いいと思えました。セリフのあるシーンはワンシーンだけだったけれど,告解をロドリゴにせがむ片桐はいり,とてもよかった。

 フェレイラ。丹波哲郎は、英語セリフもよかったし、奥目に見えるメイクのおかげで、ポルトガル人を演じても、市村正親がローマ皇帝を演じるのと同じくらい、違和感なく演じていました。ただし、日本語部分、日本語うますぎ。また、ロドリゴとフェレイラの対面シーンで、ロドリゴより小さいことが見た目ダメージでした。
 リーアム・ニーソンの無駄なほどのガタイのよさが、対面シーンでとても生きている。師の圧倒的な大きさは、ロドリゴを揺するに必要と思います。
 
スコセッシ版の出演者たち,無料ボランティアとは言えないまでも,各人破格の低いギャラで出演したそうです。
 アカデミー賞では撮影賞のみの受賞で終わったけれど,この映画の出演者みなに「出てくれてありがとう賞」など差し上げたいです。

 スコセッシ版では,ロドリゴとガルぺは,前半,キリシタンたちとの会話でも,日本語を「ありがとう」や「こんにちは」さえ言わなかったこと。神父が日本語をひとことも話さない,という設定は,宣教師側の傲慢さを表すひとつの方法だろうと思いますが,篠田版では,日本人と会話するシーンでは,ロドリゴとガルぺはへたな日本語をしゃべリました。発音悪くて、セリフがよくわからなかったけれど。音声指導者をつける予算などなかった時代とは思います。

 エピローグシーン。原作にはなく,スコセッシ&コックスのオリジナルシーン。カトリック信者スコセッシは,このシーンをぜったいにつけ加えたかったのだろうなあと感じました。
 1988年の「最後の誘惑」が教会からの猛反発を招いてしまったのに対して,スコセッシ版「沈黙」がカトリック関係者からも高い評価を得られたのは、エピローグのわかりやすい描写ゆえだろうと思います。

 原作発表当時、遠藤周作はカトリック側から強い非難を浴びました。時代の流れもあるし、カトリック本山のバチカンもこの50年で大きく変わったこともあるけれど、今回のスコセッシ版がカトリックからも支持されたこと、ラストエピローグが大きいと思います。

 以上,1971年篠田版もとてもよい映画と思いましたが,私は2017年スコセッシ版のほうが好き。
 ただ、アメリカでは、興行成績ふるわないだろうなあと思います。半年たって、興行収入、どうなっているだろうか。スコセッシは、撮りたかった映画をようやく撮れて満足でしょうが、モトとっておかないと、次回作が作れない。製作費$51,000,000、回収できますように。

 (注:昔見た映画、細部はほとんど忘れていました。私が再鑑賞したのは、youtubeにUPされているロシア語字幕の映像です。英語の台詞には日本語字幕がついているのですが、それとロシア語字幕が重なってしまったので、ロドリゴとフェレイラの英語対話部分、理解が行き届いていないかもしれません)。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「未来を花束にしてSuffragette」

2017-07-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170715
ぽかぽか春庭@アート散歩>未来への花束(2)未来を花束にしてSuffragette

 映画原題のサフラジェットSuffragetteとは、婦人参政権論者のことです。特に、20世紀初頭の英国での、過激な運動家を指します。以下、映画『未来を花束にして』のネタバレを含む感想です。

 
 19世紀末、ニュージーランド、オーストラリアなど、女性に参政権を認める国が出てきたにもかかわらず、イギリスでは女性の親権、参政権を認める法律は成立しませんでした。イギリスでは19世紀中頃から50年にわたって、静かで平和的な女性参政権運動が続けられてきましたが、男性社会は、「女性は、気まぐれで深く考えることができない存在で、父親や夫の庇護のもとのみ生きられる」と見なされていたのです。

 女性参政権を主張する団体のいくつかは、少しも進展しない「静かな運動」に飽き足らず、ハンガーストライキや女性参政権に否定的な男性が経営する店舗への器物損壊行動(店のショウウインドウガラスへの投石など)へと、過激な運動へ走る者たちが出てきました。
 映画「未来を花束にしてサフラジェット」は、そのころの実話をもとにした物語です。

 主人公モード・ワッツ(演:キャリー・マリガン)は、サフラジェットの活動した女性達のひとりとして造形されていますが、実在の多くの女性達の中に、モードのような女性がきっといたことでしょう。
 モードと行動をともにしたエミリー(Emily Wilding Davison1872–1913演:ナタリー・プレス)らは、実在の運動家です。サフラジェットのリーダー、エメリン・パンクハーストも実在の女性。(1858-1928 演:メリル・ストリープ)。エメリンは、「実働部隊」ではなく、陰で指導する方なので、映画の中で登場するシーンは少ないですが、メリルストリープの存在感、この人なら過激な運動もひっぱっていけるだろうと思わせました。

 エメリンの理論に励まされた過激派女性たちは、郵便ポスト襲撃(通信を国家が支配する事への抗議)や、建築中の政府要人別宅爆弾テロを実施します。
 「人を傷つけないこと」をモットーにしていたとはいえ、やはり過激な行動だったことには変わりはありません。
 エメリンたちの行動は、今後どのように評価されていくのかは、私にはわかりませんが、もし、現在の日本でエメリンたちが行った行動をとろうとしたら、たちまち共謀罪でしょっぴかれ、団体はつぶされることは確か。

 実在のエミリーは、イギリス女性史の有名人です。女性参政権の主張のために、ダービーにおいて国王ジョージ5世の持ち馬の前に身を投げ出すという過激な行動によって「女性参政権運動の殉教者」となったのです。

 エメリンが、爆弾テロに走るほどの過激な行動も辞さなかったこと、エミリーの自己犠牲による主張、これらが他の女性参政権運動と比較して、実際の女性参政権法案成立にどれほどの影響を与えたのかは、確実な研究があるのかどうか、私にはわかりません。

 しかし、歴史の記録では、数千人のサフラジェットがエミリーの棺に付き添って行進をし、それを数万人のロンドン市民が見守ったという事実は厳然として残っています。
 ダービーにおけるエミリーの事件以後、男性が女性参政権運動に加わるようになったのも、確かなことです。

 映画のストーリーは、劣悪な労働条件で7歳から働き続けた貧しくモードが、偶然にも女性政治社会連合 (WSPU=Women's Social and Political Union )に参加するようになった過程を描いています。活動によって、モードが人間として成長する物語でもあります。

 モードは、政治運動に関わったことで、近所の人々からは白い目で見られることになり、夫からは離婚され、最愛の息子は親権を持つ夫が勝手に養子に出してしまう。それでもモードは信念を貫くことになります。

 エミリーが、自らの命を投げ出すことによって女性参政権運動を認めさせようとしたという行動の是非は、今後も論じられていくでしょうが、人間が人間らしく生きようとした時、その人々が生み出した「人間としての尊厳」を、私たちは、必ず、花束として渡されているのだ、と映画は主張していると思いました。

 サフラジェットたちは、運動参加の意思を、帽子に花を飾ることで表現してます。また、映画のクライマックス、エミリーの葬列には、手に手に白いユリを掲げて行進します。

実際のエミリーの葬儀行進1913年6月に撮影された映像。


 サフラジェット活動家のまとめ役、薬剤師イーディスを演じたヘレナ・ボナム=カーターは、当時のイギリス首相で婦人参政権運動を弾圧していたハーバート・ヘンリー・アスキス伯爵のひ孫にあたるそうです。ヘレナにとっては、曾祖父が弾圧した女性達への贖罪にもなった演技だったでしょうか。

 映画は最後に、各国の女性参政権がいつ成立したかを年表にしていました。
 残念ながら、この年表に日本は載っていませんでした。

 日本でも、戦前から女性達は戦い続けてきたのです。しかし、実際に女性に参政権が与えられたのは、戦後、マッカーサー率いるGHQの意向を汲んだ幣原内閣によってでした。

 GHQ女性対策を担当した民間情報局婦人課長エセル・ウィード中尉(1906-1975)は、同じ女性として、たびたび戦前からの女性活動家市川房枝らと面談を重ね、女性参政権についての報告をまとめました。女性達が戦前から根強く「女性にも人間としての権利を」と活動してきたことを理解したのです。
 一部の男性がいうように、けっして「棚ぼた」の参政権ではなく、長く続けられてきた女性参政権運動の結果による参政権付与なのです。

 私たちは現在、既存の権利として投票権、参政権を行使しています。でも、それは天から落ちてきたように、偶然与えられた者ではありません。
 長年この権利が女性にも与えられるよう活動した人々からの「未来への花束」として受け取り、次世代にも手渡していくこと、それが、「女性が、人間として女性として輝きつつ自分らしく生きていく権利」を得た私たちの義務と思います。

 サラ・ガヴロン(Sarah Gavron 1970~)監督が目指した、自らの人生を自分の手で切り開く女性像の描出、よかったです。洗濯工場の劣悪な労働環境や、ダービー競馬場の上層階級との対比、女性達の過激な活動、活動家の妻を支えようとする夫と、妻を捨てる夫。きちんと描いていると思います。47歳のサラ、次回作、楽しみにしています。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「わたしはダニエル・ブレイク」

2017-07-13 00:00:01 | エッセイ、コラム


20170713
ぽかぽか春庭@アート散歩>未来への花束(1)わたしはダニエル・ブレイク

 百歳までがんばって生き抜こうと決意している春庭。
 資産なし、貯金なし、介護保険天引き後の国民年金じゃアパート代にもたりない、という現状で、長く生きれば生きるほど、みじめなつらい老後が待っていることは承知です。どんなにみじめであろうと、つらかろうと、身体ふしぶし痛かろうが心が病もうが、とにかく、これからの20年30年を見届け、世の中がどのように変化していくのか、この目で観察したいのです。よい方向へ変わる希望はほんのわずか。たぶん、このあと、底なしに沈んでいくか、ある日突然の破局か。

 どんな老後であれ、18歳から働き続けきちんと納税してきた人間が、人としての尊厳を持って生き続けて行ける世の中であるのかないのか、見届けるつもりでいます。
 もしも、病気などでどうしても働けず、食べていけないにときが来たら、行政に対して、これまで納税してきた分の福祉をきっちり要求します。

 私の親の世代は「お上の世話になるような人間」に対して、「恥ずかしい」という意識があったように思います。
 これまで一生懸命じぶんのできる限りの働き方で働き続けた人間が、ある日、力尽きたとき、行政に助けを求め福祉の恩恵を受けること、当然のことと私は思います。私は恥などと思いません。堂々と福祉がなされるべきと主張します。 

 7月9日飯田橋ギンレイホールで『未来を花束にしてSuffragette 』を見に行きました。続けて、同時上映作品『わたしはダニエル・ブレイク』を見ました。

 イギリスの福祉政策。「ゆりかごから墓場まで」とは打って変わった昨今の緊縮福祉政策のため、まじめに一生懸命生きてきた人々がどれほど過酷な運命を背負わされているか。
 一度は引退したケン・ローチが引退撤回してメガホンをとった作品です。第69回カンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞。ケン・ローチ監督は、2度目のパルムドール受賞です。以下、ネタバレを含む作品紹介です。

 イギリス北部のニューカッスル。衰退する産業のなか、ニューカッスルもかっての繁栄は取り戻せない。
 その街で、ダニエルは長年心を病む妻を介護しつつ大工の仕事を続けてきました。しかし、60歳を目前に心臓発作を起こし、現場の足場から落下。ドクターストップがかかって大工の仕事を引退せざるを得なくなりました。

 ダニエルは、福祉の援助を要請しようとします。しかし、担当の役所は、入り組んだ仕組みの要請書を書くよう命じるだけ。パソコンなどさわったこともないダニエルに、パソコン要請のみ受け付けると言うのです。

 図書館でパソコンを習おうとするダニエル。「マウスを画面に当てて動かす」と言われると、ダニエルはマウスを手に持って、モニター画面に押しつけようとします。
 求職者手当、傷病者手当、どちらの仕組みもよくわからないまま、福祉のはざまにおいてけぼりになります。

 ダニエルと同じように、福祉制度から、はじきとばされてしまっているケイティ母子。
 ケイティは、2度の結婚の末、娘デイジー、息子ディランとロンドンのアパートを追い出され、はるばる北国のニューカッスルのボロアパートをあてがわれて引っ越してきます。
 ダニエルは、ケイティのボロアパートを修理してやり、無料の食料配給所を紹介します。しかし、無料食糧配給所を利用していることで、デイジーは学校でいじめにあいます。自分たちよりさらに貧しい者をあざ笑いおとしめようとするのは、底辺社会の常套手段です。それ以外に自分の惨めさを救い出す方法を知らないのです。

 ダニエルもケイティも、まじめな働き者として生きてきたのです。それなのに、福祉の恩恵はふたりには与えられません。
 生理ナプキンを買うお金もないケイティは、ふたりの子を飢えさせないのために、万引きに手を染めてしまします。その罪を問われないというかわりに、いかがわしい場所で働くことを余儀なくされます。それを知ったダニエルは、必死でケイティを止めようとしますが、ダニエルも追い詰められていきます。

 ダニエルの隣室のチャイナとその相棒は、有名メーカーのスポーツシューズが中国製であることをしり、中国工場につとめているネット仲間と共謀してシューズの個人輸入でひと稼せぎしようと計ります。黒人のチャイナと同居人にとって、それ以外に泥沼から這いでる方法がないのです。(直接の描写はありませんが、彼らがやがてその手の商売を牛耳るブラック組織によって排除させられるであろうことは、観客には想像がつきます。)

 ダニエルはケイティを助けようとして、できる限りの優しさを一家にふりそそぎます。手作りの木彫りの飾りをデイジーに贈り、ディランには物作りの楽しさを教えます。ケイティには、互いの尊厳を守ろうとする言葉を投げかけます。
 しかし、福祉の手はあくまで遠い。

 日本でも、福祉の現実はどんどん厳しさを増していることと思います。人をみじめにさせる福祉行政の話ばかり伝わってきます。
 経済ケーザイ、、、、、人は寄ると触ると金儲けに一喜一憂。金のない人間は馬鹿にされ、人としての尊厳すら踏みにじられる。いいのでしょうか。そんな世の中にどんどん変わっていく。荒廃し続ける人々の心。
 貧乏人が馬鹿にされる社会。自分と異なる考え方の人を排斥する社会。政府の言うことを聞かない奴らは、密告によってあぶり出そうという社会。
 
 ケン・ローチがイギリス社会を舞台に描き出した現実。格差と差別が世界中に広がるなか、つらい現実を見聞きします。
 ますます世の中が荒廃していこうとする今、何をすべきなのか。
  
<つづく>
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ぽかぽか春庭「タイラス・ウォンのバンビ in 科学未来館」

2017-07-11 00:00:01 | エッセイ、コラム


20170711
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記梅雨的花束(7)タイラス・ウォンのバンビ in 科学未来館

 7月3日、娘息子と、お台場の科学未来館へ行きました。ティズニー原画展を見るためです。


 娘と息子、子供の頃の休みの日のお出かけというと、群馬の実家に行って、従姉達といっしょに連れて行ってもらうキャンプなどを別にすると、東京での我が家のお出かけは、無料イベントに応募してあちこち出かけたほかは、荒川河川敷とか近所の公園とか、お金がかからないところにお弁当を持って出かける、というのがほとんどでした。その中で、毎夏、豊島園プールとディズニーランドは、友達に「お出かけしてきた」と言える数少ない場所。バブル時代真っ盛りの頃、「ご近所の公園」では、お出かけしたことにならなかった。
 娘息子には、「ディズニーリゾートは楽しいところ」という刷り込みがしっかりとなされたので、成人しても春夏秋冬、季節ごとにディズニーランドとディズニーシーに出かけています。イベントが変わるから、何度出かけても楽しいのだそうです。

 「ディズニー原画」展も、ふたりで出かけるのかと思っていたら、「母の分のチケットも買ったよ」というので、いっしょに出かけることになりました。

 千葉大学の倉庫から、古いディズニーの原画やアニメのセル画が発見されたとき、私は、修復に携わった人の講演を聴いたり、原画の展示を千葉大学図書館で見たりしています。(2007年秋)
 この時の図書館展示ホールでの展示は、千葉大学で修復された原画のみだったので、2006年に見逃した東京現代美術館での展示のようなディズニーアニメ全体の原画をぜひ見たいと思っていました。

 会場はお台場の科学未来館。どうして、原画展示が美術館ではなくて科学未来館なのかというと、今回の展示は、「アニメ制作上、画期的な新技術を紹介、解説する」ということに主題がおかれているからのようでした。
 過去の技術を繰り返した作品は、大ヒットしたシンデレラやアラジンも展示されておらず、「ラテンアメリカの旅」のように、日本ではあまりヒットしなかった作品も展示されていました。

 アニメの技術革新、たとえば『ファンタジア』で初めて、ファンタサウンドという画期的な録音技術が開発され、映像と音響の完全な融合や一致が可能になりました。サラウンド音響システムはディズニーアニメから始まったのです。

 日系の男の子ヒロ・ハマダが主人公の『ベイマックス]
 新技術は、レンダリングソフトHyperion。どういう内容の技術か、私にはイマイチわかりませんでしたけれど、Hyperionによって、光の表現が画期的になったんだそうです。


 最新作は「モナと伝説の海」
 最新の3DCDの活用による水の表現が刷新されたのだそうです。


 私が一番心引かれた原画は、『バンビ』の背景画でした。アニメは子供の頃劇場で見て以来、テレビ放映のたびに見てきましたし、子供といっしょにビデオでも見てきたのですが、今回の原画展ではじめて、原画の背景を手がけたのは、中国系アメリカ人のタイラス・ウォン(Tyrus Wong 1910-2016)であったことを知りました。

 タイラス・ウォン(黃齊耀)は、2015年にその一生をたどるドキュメンタリーが公開されましたが、残念ながら2016年12月に106歳で大往生。
 ディズニー社でアニメーターとして活躍したのは、1938-1941という短い期間のみ。ディズニー社の従業員ストライキ騒動の影響で退社したので、ウォンが関わったディズニーアニメで、世に知られているのは、『バンビ』一作だけのようです。しかし、彼の東洋的な水墨画の背景画は、その後のディズニーアニメの背景に、これまでとは全く異なる概念を残し、大きな影響を与えるものでした。

 中国宋代の古典絵画をイメージした背景画


 タイラス・ウォンは、1910年に中国広東省泰山市で生まれました。1920年、9歳のときに両親に連れられてアメリカ移住。中国からの移民に厳しい「中国人排斥法the Chinese Exclusion Act)」によって両親は苦労を重ねましたが、タイラスはロサンゼルスのパサデナ中学校で、オーティス美術学校夏期講座の奨学金を得ることができ、その後、この学校の管理人として掃除などの仕事を引き受ける条件で、学校卒業までこぎつけました。卒業後は、グリーティングカードデザイナーなどをしながら、しだいに映画の絵画セットやストーリーボードを手がけ、1931年にディズニー社に入社。「バンビ」の主任アーティストに抜擢されると、中国宋時代の中国古典画を取り入れた背景画を描き、画期的な画面を生み出しました。





 1941年、ディズニー社では、労働条件への従業員の不満からストライキが起き、ウォンは他のストライキ賛同メンバーと共に解雇されました。
 ウォンはその後はワーナーブラザースに入社し、長く映画界で仕事をしたのですが、ディズニーアニメへの貢献は、その背景画が大きな影響を残したにもかかわらず、数十年も無視されていました。

 2001年、ウォンは中米博物館によって歴史賞(芸術)を与えられ、 ディズニー伝説として迎え入れられました。90歳を過ぎてようやく、ディズニーアニメへの貢献が認められたのです。
 1930年代から表にでることなく、作品も知られてこなかったウォンでしたが、回顧展が企画され、彼が絵付けをした陶器、凧なども展示されました。
 2013年には、ディズニーファミリー美術館でタイラス・ウォン作品が展示され、「ディズニーの伝説」のひとりとして認められました。103歳でようやく日の目を見たのです。
 2016年、家族に見守られて老衰のため106歳で死去。

 1937年に結婚した妻は、1995年に85歳で先に旅立っていました。妻は、中国系の移民2世です。ルース・ニン・キム(Ruth Ng Kim、金露絲(この漢字表記は、音訳で、伍流珍または伍梅珍という漢字名もあるので、どれが正しいか不明))。妻との間に3女、孫にも恵まれ、タイラスは、妻亡きあとを20年を生き抜きました。
 功績を認められたウォン、最後にはきちんと評価された自身の生涯を「幸福な人生」だったと回顧しています。

 原画展で、タイラス・ウォンの業績を知ることができてよかったです。
 『ワイルドバンズ』『理由なき反抗』などの絵コンテやセットデザインを担当したワーナーブラザースを68歳で引退してからも、クリスマスカードや凧の絵を描くなど絵を描く日々は続いていました。とはいえ、人生の最後に『バンビ』への功績が認められたことは、彼にとって大きな喜びだったことでしょう。



 今回のシリーズ「梅雨的花束」では、白寿百寿画家を特集しました。
 百歳まで生きれば、なんぞいいことあるかもしれず、なんのとりえもない人生ですが、とりあえず、百歳めざして生きていきます。

百歳までは、まだまだ道遠し



お台場の夕日


<おわり>
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ぽかぽか春庭「入江一子シルクロード美術館」

2017-07-09 06:17:13 | エッセイ、コラム
20170609
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記梅雨的花束(6)入江一子シルクロード記念館

 1916年生まれの入江一子さんは,1969(昭和44)年、50歳を過ぎてからシルクロードへの旅をはじめ、中国から南欧まで、30カ国を訪れたそうです。

 1992年には,中国の成都よりチベットに向かう四姑娘(シークーニヤン)山麓に出かけました。青いケシが咲く高原があることを知り,76歳の入江さんは,雨のため飛行機もバスも通らなくなってしまった山道を,耕運機で進み,耕運機が入れなくなった道は徒歩で4000m高原の山道を歩き続け,青いケシをスケッチしたのだそうです。

 「入江一子シルクロード記念館」(杉並区阿佐谷北2-8-19)に行けば,常設の展示を見ることができるということなので,出かけることにしました。
 7月2日,都議選に行ってから阿佐ヶ谷へ。

 我が家恒例の「ピースの法則。選挙の日、うちじゃなぜか、投票行って 外食するんだ」は、いつものランチではなく、晩ご飯になりました。娘息子は,午後4時からさいたまスーパーアリーナでのJujuのコンサートに出かけるというので,別行動投票になったからです親子別々の投票ははじめてのこと。(夫は必ず期日前投票ですが)

 阿佐ヶ谷駅北口から歩いて5,6分だというシルクロード記念館ですのに、うっかり物の私は、地下鉄の南阿佐ヶ谷に降りてしまい、だいぶ余計に歩くことになりました。でも、昔懐かしい散歩になりました。

 今から45年も昔のこと。私は姉といっしょに阿佐ヶ谷のアパートで暮らしていたのです。
 アパートから一番近い最寄駅が南阿佐ヶ谷駅でしたが、私は国鉄の阿佐ヶ谷駅で降りてパールセンターという商店街をとおって成田東のアパートまで歩いていました。そのパールセンターを通り、変わった店もあるし、変わらない店もあるなか、JR阿佐ヶ谷駅まで歩きました。JR阿佐ヶ谷の南口は、昔なじみの場所。

阿佐ヶ谷南口パールセンター入り口


 阿佐ヶ谷駅北口には、初めて降り立ちました。住宅街を通り、入江一子シルクロード記念館まで5分ほど。
 入江一子の住まいを改修し、記念館にしています。

入江一子シルクロード記念館


 玄関には、絵葉書や図録を並べています。玄関から靴を脱いで入り、入館料500円を払います。受付などはないので、この人が係だろうと目星をつけてお金を渡しました。

 客間、居間などに、入江一子の大作や小品がだだ~と展示されています。
 居間の棚には、入江さんがスケッチ旅行で手に入れた人形や雑貨、楽器などがぎっしりと並べてあります。

 記念館は、今でも入江さんの住まいでもあるので、入江さんは、玄関を入ったところの客間のベンチに座り、立てかけたキャンバスに向かって絵筆を走らせ、疲れたら横になって休む、という生活を続けている、という日曜美術館での紹介がありました。

 シルクロード記念館のHPに「入江一子と会える」と書かれていたので、一回り、1階の絵を見てしまってからも、なんだかすぐに出るのは惜しいので、ビデオで流された「入江一子VS日野原重明対談」を見ていました。すると。
 入江一子さんが客間に出ていらした。午後のお昼寝が終わったようです。

ファンにサインをして、ひとやすみの入江一子101歳


 居間の展示物について、観覧のオバサマたちが質問します。
 展示の鎧をさして「先生、入江家って武家だったのですね」
 入江さん「そう、長州のね、家老だった」とおっしゃる。

 百歳超えれば、何を言うのも自由だと思うけれど、長州毛利藩の歴史を知っていれば、入江家は、家老の家柄ではない。
 長州藩の出身、家老から足軽まで、ほとんどの家名が記録に残っています。明治維新で活躍した人々の出身は、もっとも身分が上であった桂小五郎と高杉晋作も「大組」という中位の武家。山県有朋は、蔵本の中間(ちゅうげん=召使い)出身であり、福沢諭吉のように「身分制度は親の敵」というくらい、身分が低いほど活躍しました。

 幕末の志士、禁門の変で久坂玄随とともに死んだ入江九一(「花燃ゆ」では要潤が演じた)とは別の家系みたいだけれど、入江九一は足軽身分。
 一子さんが「入江家は家老」とおっしゃったこと、百歳すぎても、ちょっと「話を盛る」てのは、なんだかかわいらしいなあ、と感じました。

 入江さんの父親は朝鮮半島へ渡り、大邱で貿易商として成功しました。一子は、小学校のころから画才を発揮し、女子美術学校へ進学。丸善の図案部などで働いたあと大邱に戻り、教師として働きました。敗戦後、日本に戻り、中学校美術教師をしながら林武に師事。

 1957年、独立美術協会会員となって以後、旺盛に作品を制作し、1969年 中国新疆ウイグル自治区(シルクロード)に取材し、2000年にモンゴルを訪れるまで、アジア、北アフリカ、南欧など、30ヶ国を訪問。

 1992年、中国四川省の四姑娘山に取材して「青いけし」を描きました。青いけしは、何度もモチーフとして描かれ、最新作は2016年に描き、2017年4月~5月の東京都美術館「第71回 女流画家協会展(2017年5月29日~6月4日)に展示された「青いケシ」
 シルクロード記念館には「7月末より展示します」とお知らせが出ていました。もうちょっとあとに来たら見ることができたのですが、残念。その代わり「生入江一子」を拝めたので、こちらの寿命も伸びた気分。

 サインをしてくださるというので、あわてて、玄関に置いてある図録を買いました。
 サインをお願いすると、快く観覧者の求めに応じて、何人ものファンに「入江一子」とサインしてくれました。



 室内でのファンの質問にも、にこにこと答えてくださる。
 世界文化賞受賞のおり、同時受賞のソフィアローレンといっしょに写した写真には、いっしょにお孫さんが写っていました。イケメンのすてきなお孫さんです。オーストラリアシドニー在住で活躍されていらっしゃり、英語ペラペラだから、通訳をお願いしたのだ、と自慢していらした。

お孫さん、ソフィアローレンと


 私が、棚の中のコレクションをさして「旅先で集めてこられた思い出の品がいっぱいですね」と声をかけると「いろいろ買いました。この楽器はね、買って買ってとむこうの人が言うから、買いました」などと、思い出話も。

室内、入江一子の雑貨コレクション


 ほんとうに耳も良く聞こえていらっしゃり、お元気そうでした。
 制作中の200号キャンバスに描きかけの絵は花の絵。

 室内には、これまでの作品が並んでいました。




百寿記念自選集の図録


図録から「緑陰・雲南少数民族」


「緑陰」の前でファンと交流する


玄関入って一番手前に置かれている「ジーエルフナー広場(マラケシュ1978)」


「薔薇とルーマニア人形」


 100歳を過ぎたら、もう生き仏様と拝みたくなる。
 入江一子が、現役の画家として、毎日絵筆を握っている姿、すばらしいです。生きる力をいっぱい分けてもらいました。



<つづく>
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ぽかぽか春庭「青いケシを描く・堀文子と入江一子」

2017-07-08 00:00:01 | エッセイ、コラム

入江一子「四姑娘山の青いケシ1992」立川中央病院エントランスに掲示

20170708
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記梅雨的花束(5)青いケシを描く・入江一子と堀文子

 何年か前に、日本画家堀文子が、青いケシを描くためにヒマラヤへ出かけた、というドキュメンタリー番組を見ました。
 番組の制作は2000年。幻の高山植物ブルーポピーを求め、ヒマラヤ山脈の高地を走破する堀文子の姿を追っていました。
(「アーティストたちの挑戦 ヒマラヤ 高き峰をもとめて 日本画家 堀文子」)

 1918年生まれの堀文子、82歳のときの旅登山です。私が見たのは2000年だったのか、その後の再放送だったのか、わかりません。
 その後、2011年9月に放送されたのも、2015年放送の「心の時代・堀文子『シリーズ、私の戦後70年・今、あの日々を思う』」も見逃してしまって、残念な思いをしました。

 どうして堀文子ファンなのかというと。
 私が4歳か5歳のとき、毎月こども雑誌を買ってもらっていました。ちょうど妹が生まれたころで、妹の世話で手一杯の母が、本さえ与えておけばおとなしくしている私を「だます(幼児をなだめる、あやすという意味で使っていました)」ために乏しい家計から購読していたのです。毎月届くこども雑誌ではなく、単行本として初めて買ってもらった絵本が堀文子挿絵の『青い鳥』でした。

 以前ネットで探した時は見当たらなかったけれど、今回のサーチではトッパンの絵本(昭和29年発行)が見つかりました。汚れ傷みあると注釈されている古本、5400円で売り出されていました。
 実家が引っ越しをしたとき失われてしまった私の宝物を、とりもどすチャンス。高いけれど衝動買いです。いつもは百円古本しか買わないけれど、たまにはね。専門書では高くても買ってきたけれど、自分の楽しみのための本では、一番高い買い物になりました。
 息子がネットで注文してくれました。

 展覧会情報もゲット。葉山へ出かける気、マンマンです。前後期の入れ替えもあるから2回は行かなくちゃ。
 堀文子、1918年7月2日生まれ99歳、白寿です。
 『白寿記念 堀 文子展』
 会期: 2017年11月18日(土)~2018年3月25日(日)
     前期 11/18-1/21  後期 1/25-3/25
 会場: 神奈川県立近代美術館 葉山館 〒240-0111 神奈川県三浦郡葉山町一色

 堀文子のスケッチ旅。69歳から5年間は、イタリアのトスカーナにホームステイで滞在。
 82歳のヒマラヤ行きの翌年、堀文子は解離性動脈瘤を患い、その後長期のスケッチ旅行などはできなくなりました。現在は大磯の山側に居を定め、99歳の今年まで絵を描き続けています。絵の題材は、顕微鏡でのぞいた微生物の世界や、花になっています。母屋をアトリエにし、別棟の一間で寝起きして、家事の助けを借りながら独り暮らしを続けているそうです。

 5歳のときに好きになった画家が、現在でも現役で活躍しているのを知るとうれしくて、生きる元気が沸いてきます。
 堀文子のモットーは、「群れない、慣れない、頼らない」です。
 彼女の描くヒマラヤの青いケシも、孤高の美しさを見せて咲いています。
 図書館で堀文子画文集『』を借りてじっくり眺めました。

堀文子「青いケシ」


 5歳のときから堀文子の絵が好きだったのに比べて,私は入江一子をまったく知りませんでした。6月18日の「日曜美術館」で紹介されていたのを見て,初めて,わぁ,こんなすごい人がいたんだ,と知ったのです。
 「青いケシを描く~洋画家・入江一子 101歳のアトリエ~」

  近代美術館にも作品が収蔵されているので,もしかしたら作品を見たことがあるかもしれないのに,名前と絵が一致しておらず,今年1月~2月に上野の森美術館で「入江一子 100歳記念展 ―百彩自在―」という展覧会があって,1月2月,私は上野に何度か出かけているのに,見ていないのです。本当に視野が狭いなあ。

 入江一子は、1916(大正5)年山口県萩生まれ。子供時代を韓国天邱(テグ)で過ごす。
 2017年で101歳。現役の画家として毎日絵筆を握っています。1時間描いては1時間横になってウトウトする、という生活だそうです。

 日曜美術館では、大作「青いケシ」の制作に取り組む入江さんの姿を映していました。この作品は、東京都美術館で開催された第71回 女流画家協会展(2017年5月29日~6月4日)に展示されました。

入江一子「四姑娘山の青いケシ2017」


 6月2日日曜日、杉並区阿佐ヶ谷の「入江一子シルクロード記念館」へ行ってきました。
日曜美術館を見たオバサマ方が、わいわいと押しかけていました。私もそのひとり。
 きんさんぎんさん以来、100歳超えて矍鑠の方は、もうアイドルです。そばに寄って声をきかせてもらうだけで、こちらもあやかって寿命が伸びる気がします。

 次回、シルクロード記念館の報告です。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「花あかり命の花・笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ」

2017-07-06 00:00:01 | エッセイ、コラム

映画『笑う101歳笹本恒子むのたけじ』より、2014年、最初で最後のツーショット

20170706
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>2017十七音日記梅雨的花束(4)花あかり命の花・笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ

 6月の第3水曜日。毎月のお楽しみ、65歳以上東京都施設の無料日です。水曜日の授業を終えて、大急ぎでバスとJRを乗り継いで恵比寿へ。強風と強雨。恵比寿ガーデンプレイスでも傘がおちょこになった人、みかけました。

 今回は、国際報道写真展を見たくて、恵比寿の写真美術館にしたのです。報道写真展、今年もとても迫力のある写真が並んでいました。
 インドの女性写真家ダヤニータ・シンの作品展など、写真美術館の各階、見ごたえがありましたが、今回はさらさらっと会場一巡。

 前回写真美術館へ来たとき、 6 月に「笑う101歳×2笹本恒子むのたけじ」が1階ホールで上映されることはポスターを見て知っていましたが、水曜日は授業が終わってから写真美術館に駆けつけるので、報道写真展を見るだけで閉館時間になってしまうだろうと思っていました。しかし、映画は、閉館時間後も上映されていたのです。知らなかった。

 笹本恒子。1914年9月1日生まれ。今年の9月に103歳になります。日本初の女性報道写真家として知られています。
 むのたけじ。1915年1月2日ー2016年8月21日没。満101歳でした。101歳を超えてなお講演活動を行っていましたが、2016年5月の講演を終えると体調崩して入院し、いったんは退院したものの、8月になくなりました。

 同学年のふたりは、人生の中で、ただ一度、対談しています。  
 笹本恒子の「笹本恒子100歳展」が横浜の日本新聞博物館で2014年4月5日に始まり、同日、笹本恒子とむのたけじの「100歳対談」が行われました。

 対談の冒頭、笹本が赤い薔薇の花束をゲストのむのたけじに贈ると、むのは「命の花だね」と、喜んで受け取りました。
 この時の対談は、日経のサイトに一部が上・下に分けて掲載されていますが、新聞に載ったほか、別の成果も生みました。河邑厚徳はこの対談を撮影し、ふたりの百年を映画にまとめることを決意したのです。

写真美術館の1階ホールのポスター


 むのたけじは、敗戦の日、朝日新聞社を辞職しました。従軍記者として戦意高揚の記事を書いたジャーナリストとしての責任をとったのです。
 日本中、戦争中は戦争協力した人も、なかんずく戦争を命じた人も、責任をとろうとはしなかった、その中、高村光太郎は岩手花巻の山奥に引きこもって自省の後半生をおくり、むのたけじは故郷の秋田に引きこもり、ガリ版刷りの週刊新聞「たいまつ」を発行。78年の廃刊(最終号780号)まで、社会をふたたび戦争に巻き込まないように論陣を張りました。

 「たいまつ」廃刊後も、むのは単行本や講演活動によって平和な社会の実現のために活動しました。今、安保法案や共謀罪が国会で成立し、政府は「戦争ができる国」をめざしています。さまざまな不祥事によって政府の支持率が、下がってきました。(新聞社など調査機関によって支持率の調査は異なります。首相から「この新聞を熟読せよ」と誉められた御用新聞の調査では支持率依然として高いですし。はっきり書けば読売と産経です)

 むのがめざした「戦争をしない世」とはことなる社会となって、むのたけじが生きていたらさぞ無念であったろうと思います。
 森友がどうなろうと、加計がどうしようと、「こんな問題、国民はすぐに忘れる。わが政権は安泰」と、ふんぞり返っている「官邸のトップレベル」さん、いつか思い知るがいい。

 むのたけじは、夫のアイドル(偶像)でした。
 結婚して、夫の持ち物の中にむのたけじの本、『詞集 たいまつ・人間に関する断章604』やら『たいまつ十六年』やらがあるのを見て、むのたけじを読んでいるなら、ジャーナリストであろうとするにしても方向は間違っていないだろうと思ったのでした。

 夫は地方新聞社の記者をやめ、1979年にケニアに行きました。ナイロビ周辺で、現地で知り合った人々や旅先で出会った人などを撮影して、帰国後は雑誌に写真を載せたりし、フォトジャーナリストを目指すという初志に向かってはいたのです。が、できちゃった婚という計画になかった人生に突入し、フォトジャーナリストへの道は頓挫。
 結婚以来、旅行関連出版物下請け零細会社の自営を続けています。会社で出た利益はすべて会社の運転資金に費やされ、家計にまわすほどの余裕は出てこない会社でしたけれど

 笹本恒子について、私は何も知らなかったです。
 「女性報道写真家第一号」「日本最初の女性フォトジャーナリスト」という肩書き。
 1940(昭和15)年4月に、財団法人・写真協会に入ったとき「日本の女性報道写真家第一号になりませんか」と呼びかけられたのだ、と、笹本はあちこちのインタビューで語っています。
 
 当時の写真協会は、報道写真家の林謙一(1906-1980)を中心に設立された内閣情報部による国策機関。(ちなみに、林謙一の母は、朝ドラ『おはなはん』のモデル。おはなはんの息子謙一郎役は津川雅彦)。

 笹本は「写真週報」の編集などを手伝いつつ、報道写真撮影を行いました。
 笹本は、戦争中の「戦意高揚協力写真」の撮影を命じられたとき、「戦争はいやだったし、反対だったから、戦地などへ行くのは断り、軍事工場へ行って、働く女性を撮影した」と語っています。
 100歳を過ぎてから過去を振り返れば、「私は戦争反対だった」ということになるのでしょう。それは、戦争中は「聖戦勝利」「日本は神国」と、みなが信じていたのが敗戦となると、みなが「私は戦争はいやだった」になったのですから、当然、笹本の気持ちもそうだったと思います。

 大多数の日本人は、開戦時には万歳三唱し、戦争中は戦争に反対することはなかった。敗戦後は、みなが「私は戦争はいやだったが、反対はできなかった」と語っています。大多数の従軍記者達も、「戦意高揚の記事を書いた」ことで、職を辞する者はほとんどいませんでした。自らを律し、大新聞の記者を辞職したのはむのたけじくらい。

 戦争中に「反戦」を語れば、治安維持法によって特高につかまり、拷問を受けて死ぬことになりました。
 治安維持法。今では「テロ等準備罪処罰法案」と名前も変わり、「一般の人には影響しない」と、政府は説明しています。1925年に治安維持法が審議されたときも、同じ説明が国会でなされていましたけれど。(国会答弁の中身がそっくりそのまま1925年と同じなので、笑える)

 笹本恒子が「パラシュートを縫製している女性労働者を撮影した」と述べていることも、戦時中は、「聖戦と大東亜の勝利」を信じてパラシュート工場の写真を撮ったのだろうと推察します。写真が反戦的であったりしたら、撮影は許可されず、写真協会を首になっていたでしょうから。

 笹本の「女性報道写真家代1号」の仕事は、1年ほどで終わります。女性が働くことへの家族の反対を押し切るほどのことはせず、退職、結婚。
 敗戦後、離婚した笹本は、1946年に「婦人民主新聞」の嘱託カメラマン、1947年からはフリージャーナリストとして写真撮影の仕事を再開しました。三笠宮一家の写真撮影など、日本写真家協会の創立会員として写真雑誌などに掲載を続けました。

 しかし、1965~1985年には写真雑誌の廃刊などで仕事が途絶え、その間、フラワーアレンジメントなど、さまざまな活動に手を染めました。
 写真撮影の仕事を再開したのは、1985年、71歳のころ。

 以後、102歳まで、カメラウーマンとして活躍し、独り暮らしをつづけてきました。
 2015年に転倒骨折して以後は、施設に入っていますが、車いすで散歩し、散歩しながら、目にとまったものを撮影しています。

 笹本は、これまで共にすごした人々の思い出を書き記し、その本のタイトルとして、祖母の俳句のなかから「花あかり」というフレーズを選びました。

 映画『笑う101歳×2』には、早稲田大学ジャーナリズム専攻の学生に向かって、声高く戦争反対を論じるむのたけじと、車いすで近所の公園に出かけ、子供や花を撮影する笹本恒子を写していました。

 河邑厚徳は、入院して食事が十分にとれず、干からびたようになったむのの姿を映し出していました。101歳の人間が死のうとしている姿を、撮影する方も、撮影を許可した家族(むのたけじの次男、武野大策(1952生まれ?)もすごい。

 むのたけじは、ミイラのようになりながら、ふと目をあけたとき、世話をしている息子に語りかけました。「自分はこれまで命について書いたり話したりしていたが、自分がこのような状態になってまだまだ考えが足りないことに気づいた。命については改めて考えていきたい」あえぎ、あえぎ、そんなふうにむのはベッドで語り、またことんと目をつむりました。

 しかし、自宅に戻って1ヶ月後、むのは力尽きてなくなりました。
 命について改めて考えたこと、映画では明らかにはなっていませんでしたが、映画の冒頭、「2014年笹本との初対面の挨拶」で、薔薇の花を贈られ「命の花だ」と喜ぶ姿も、むのが考えていく「命」の答えのひとつだったのかも知れません。

 むのが残した「たいまつ」の炎を受け継いでいきたいし、むのが得た「命の花」についても、私たちは確かにこの手にバトンされたのだと感じます。

 むのたけじさん、命の花、受け継ぎたいです。
 笹本さん、103歳、104歳とご活躍ください。

<つづく>
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