2009/03/31
2010年3月
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(1)女とホウキ
私と同世代と思われる月曜日の講師室でごいっしょするA先生が、留学生の漢字クラスの話をしていて「私、婦人の婦って漢字、大嫌いなのよ。左側が女偏で、右側はホウキって意味なわけでしょ。なんで女とホウキをくっつけると婦なのかしらって、腹が立つじゃないの。留学生に教えるとき、私はこの字は大嫌い、って言ってから教えるの。女だからってホウキ持って掃除していなさいとか、家事は女がするものって、決めつけるの古いじゃないの。女を掃除婦と思わないでほしいわ」と憤慨口調でおっしゃった。
あ、それって違うんじゃないの、と思ったけれど、講師室ではいつも黙っている私が急に口を挟んでもよろしくなかろうと思って黙っていました。
家事は女がするもの、なんて確かに古すぎます。宇宙飛行士山崎直子さんのご主人は、高収入の勤務先を退職して、妻を支えて子育てと家事を引き受ける主夫になりました。(専業主夫じゃなくて、ベンチャー企業を立ち上げた兼業主夫なんですけれど)
イマドキ、「家事は女がするもの」なんて発言したら、セクハラ・パワハラで総攻撃を受けます。
私が「違うんじゃないの」と思ったのは、「家事=女がする」の部分ではなくて、「女と掃除を結びつけた語が婦人の婦」という部分です。「帚」は、掃除のホウキの意味だけではないのです。
帚は、箒(ほうき)の異体字であるのはその通りですが、ほうき=掃除ではありません。よしんば帚が掃除と同じ意味だとして、掃除を「大学の教師として働いているアタクシにはそんなつまらない家事を押しつけないでほしい」とでも言いたそうな、「アタクシの夫は十分な収入を得ている男ですが、アタクシ自身の生き甲斐のために講師をしているんザマス」風な奥様先生に、チト言われなき反発を感じてしまったのです。この反発は、奥様A先生にとってはお小遣い稼ぎになる程度の薄給で、ふたりの子を育ててきた非常勤講師のヒガミにすぎません。
掃除は「つまらない女の仕事=家事」で、大学で教えることは「つまらなくない女の高級な仕事」というように聞こえてしまったこと、「大学で言葉を教えることは、大学の教室を掃除する仕事より上等」というように言われたと感じて、私の考え方とは相容れない、と感じてしまいました。ちょいと過剰反応だったのかもしれませんが、これは、母が私に厳しく躾たことのひとつに関係しています。
「屑拾い」という不要物を集めて回る人が我が家に「くず~い、おはらい」と言ってときどき回ってきた。あるとき幼い私は「屑拾いになりたくない、きたないもん」と言ってしまった。母は「屑拾いも便所の汲み取り屋も、世の中をきれいにしてくれる尊い仕事なのに、おまえのように人を見下す者の心が一番汚い」と怒った。「百姓家のもんが会社員の妻になって、成り上がりだね」と農家出身の母を見下す人もいた町の暮らしの中で、「仕事に貴賤はない、百姓生まれで何が悪かろう」と心に繰り返して、なにくそと思っていたころのことだったのでしょう。
(今の生活で、私自身は掃除が大の苦手ですが、掃除を「つまらない家事」と思って嫌いな訳じゃないのです。洗濯とお茶碗洗いはちゃんとやってます。掃除好きな人がうらやましいですし、松井棒などを考案したりする掃除名人を尊敬しています)。
ホウキとは、「掃除の道具」の意味だけではないだろうと私が感じていたのは、子供のころのおマジナイに関係しています。
母は世話好きで人好きな性格で、いつもよそ様の相談に乗ったり、愚痴を聞いてやったり、午後のひとときは、近所の人と「お茶のみ」をして話し込むか、知り合いの相談に乗って就職を世話したりもめ事を解決したり、子供のころ私が育った家には来客が絶えませんでした。いつまでも帰ろうとしない「長っ尻」の客がいると、私と姉は客座敷の裏手に座敷ホウキを逆さまに立てかけておきました。姉が「こうしておけば、お客さんすぐ帰る」というのです。姉は、母方の実家の祖母やアヤ伯母に教わったにちがいありません。
今ではすっかり廃れてしまったこのマジナイ、群馬の田舎の風習というだけでなく、全国的なものだったようです。東京山の手暮らしのサザエさん一家もやってました。
なぜホウキなのかさっぱりわかりませんでしたが、バケツでもなく、ぞうきんでもなく、ホウキってことがミソのようでした。姉は「客を掃き出すため」と言っていましたが、だったら、掃き出す形にして置いたほうが効果がありそうなのに、なぜ逆さまに置くのかがわかりませんでした。
さて、帚はなぜ女偏と結びついて「婦」になったのか、次回解説で「逆さ帚」の謎を解決。
<つづく>
2010/03/02
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(2)女とホウキ
箒は古くから神聖なものとして考えられ、箒神〔ははきがみ〕という神様が宿ると思われていました。ホウキの古語ハハキが「母木」と見なされたり、「掃き出し清める」ことが「母から子を出す」こととつながるとして、箒神は、産神(うぶがみ=出産に関する神)の一つと考えられていました。出産と結びつき、妊婦のおなかを新しい箒でなでると安産になると言われたり、ホウキをまたぐと罰が当たるという言い伝えもありました。
茶道では、蕨の茎葉や棕櫚の葉を束ねて作る葉箒を露地にかけておくそうです。実際の掃除には用いられないこの葉箒は、「箒神」に通じるものがあるのかどうか。茶道の奥義を極めた人なら、葉箒の故事来歴をご存じなのかもしれません。教えてください。
日本最古の箒は、2004年2月に出土した奈良県橿原市の西新堂遺跡の出土品。5世紀後半の河川跡から小枝を束ねたほうきが見つかりました。発掘を行った橿原市教育委員会の発表によると、霊魂を運ぶ鳥形木製品や雨ごいのため殺した馬の歯など祭祀具と一緒に出土していることから、掃除用ではなく、祭祀用と見られています。
奈良時代の御物が保存されている正倉院には、孝謙天皇が758年正月、神事で蚕室を掃くため使ったと万葉集の歌に詠まれる箒2本があります。奈良市の平城宮跡からも3本の箒が出土しています。これは8世紀中ごろのもの。
文献で「ハハキ」の語が出てくるのは上記の万葉集のほか、古事記の「帚持ハハキモチ」「玉箒タマハハキ」があります。「玉」とは人間の魂(霊魂タマ)のことを指し、「帚持」とは、葬列を組む際に祭具の箒を持って加わった人を呼び、その役目を指しました。
奈良時代における箒は、祭祀用の道具として用いられるなど宗教的な意味があったものが、平安時代には掃除の道具としての記録も出てきて、室町の文献では「箒売り」が職業として成り立っています。ホウキが日常的な生活用品になったあとも、ホウキに宿る神への民俗意識は残り、長居の客にホウキを立てかけるような習俗も、私が子供のころまで実際に行っていました。今では電気掃除機やモップはあっても、ホウキで座敷を掃く家が少なくなってきたから、ホウキの民俗も忘れられていく運命にあるでしょう。
漢字が作られた古代中国では、棒の先端に細かい枝葉などを束ねて取り付けて箒状にしたものを「帚(そう)」といい、酒をふりかけるなどして、廟(びょう)の中を祓い清めるのに使用していました。この箒の形を竹で作れば「箒」、「草」で作れば「菷」。「帚」を「手」にとって廟の中を祓い清めることを「掃」という。掃き清めて汚れを除くことが「掃除」。この「帚」の仕事を行うのが巫女などであることから、「帚」を付帯した「婦」の字ができ、女性全般を表すことになった。
今では「婦人」という表現が、古くさい女性のイメージを持ってしまい、「婦人○○」と呼ばれていた言葉のほとんどは「女性○○」に代わりました。
1994(平成6)年に国連「世界婦人会議」の名称が「世界女性会議」に変わり、近年では雑誌などで「婦人」よりも「女性」という表現が目立つようになりました。労働省は1996年度に「婦人局」の名称を「女性局」に変え、1949年から続けられてきた4月10日からの一週間を「婦人週間」から「女性週間」と変えました。1994(平成10)年には「女性週間」もその意義を終えたとして廃止。
というわけで、「女だからって、掃除婦と思われてこの漢字ができた」とA先生が憤慨するは、少々事情が異なるようです。A先生の怒りを聞いていて、昔のウーマンリブの主張を思い出しました。
ウーマンリブの人たちは、「社内掃除を女だけが当番として早出してまでするのは差別だ」とかミスコンテストは女性を顔やスタイルだけで見ようとするから反対」と主張していたころのこと。
確かに「女性だけが○○しなければならない」ということはないと思います。でも、ミスコンテストがあるなら、ミスターコンテストもしたらいいだけのことであって、ミスコンテストを批判してもミスコンがなくなりはしなかった。需要があれば供給がある。
<つづく>
2010/03/03
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(3)ひな祭り男女論
ひな祭りの起源や伝承については
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200703A
に書いたので、興味があったら読んでください。
婦人週間を女性週間と名称変更したものの、「女性週間があるなら、男性週間があってしかるべき」という意見が出されたのかどうか、女性週間は廃止されました。今や家事ができない男など結婚相手として見向きもされない、、、といわれていますが、現実の女性の地位は、果たしてどれほど男性に追いついたのでしょうか。
現実はともかく、理念たてまえとしては男女差別をしている企業があったら批判されてしまうし、同一の仕事をしていて女性だけが給料が低いレベルや昇進に不利だったら、法律違反です。でも、現実にはシングルマザーの家庭の収入や生活水準はGNP上位国のなかで最貧ですし、女性の国会議員数や会社役員数でもまだまだ「後進国」です。
春庭は「ウーマンリブ世代」です。いまやウーマンリブってのも死語の世界に行ってしまいましたが、昨今の論壇界ではフェミニズムバッシングも一段落したらしいので、「婦人」以外にも女が関わる文字やことばについて、一回り散歩してみようかと思います。
ウーマンリブというのは、女性解放運動Women's Liberationの省略外来語。1970年11月14日に第一回ウーマンリブ大会が東京都渋谷区で開催され、アメリカなど世界各地での女性解放運動は、1979年に国連総会で女子差別撤廃条約が採択されるなどの成果をあげました。日本での運動は、男女雇用機会均等法の制定など、一定の役割を果たしましたが、ウーマンリブという言葉そのものは、1980年代に入ると急速に廃れて揶揄の対象になってしまいました。ミスコンテストに反対して各地のミスコンを中止させようとしたり、ウーマンリブの活動家としてマスコミで名前を売っていた榎美沙子(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合、略称「中ピ連」代表)が日本女性党という政党党首として選挙活動を始めるなどして、心あるフェミニストたちが「ウーマンリブ」という言葉に拒否反応を示したためと思います。
最近の男女問題に関して、2010年1月に放送されたNHK「ためしてガッテン」の中で放送された「男女の脳構造の違い」ということが、講師室で話題になったことがあります。男性と女性では脳の構造に違いがあり、個人差はあるものの、女性の多くが脳梁が男性より大きい。女性の脳は「コミュニケーション言語野」「模倣あそび」「他者への共感能力」などの脳部位が発達していて「井戸端会議おしゃべり」「ままごと」などが女性に好まれることがわかった、という内容でした。男性は「空間認識」「理論構築」などが女性より発達することがわかっているそうです。
この「ためしてガッテン」は、2009年1月に放送されたNHKスペシャル女と男シリーズの内容を焼き直しながら「女性に不得意なダイエット方法」と「女性にもできるダイエット」として放送していました。私も「ダイエット」というキャッチコピーに惹かれて見たのです。
女性ホルモンや男性ホルモン、そして脳の発達部位の違いから、平均的な男女の間の平均的な差というのがあることはわかる。しかし、個人差というのはどうしても残るから、男性的女性がいても女性的男性がいても、男性になりたい女性がいても女性になりたい男性がいてもいっこうにかまわない。
姉の最初の夫の従妹は、前は従妹であったけれど、性同一障害の診断と手術を受けて男性として戸籍も作り直し、人生を生きなおすことにしました。
留学生に日本語ディベートの話題として「次に生まれるなら女性がいいか男性がいいか」というのを出すことがあります。最近の傾向として「女性がいい」という留学生が男女を問わず増えているので、日本以外でも昔とは男女問題の質が違っているのだろうと思います。私?もう一度女性がいいのだけれど、次は「甲斐性のある男性と結婚できる女性」に生まれたい。
<つづく>
2010/03/04
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(4)去年のジャイカニュース
検索大好きなので、用もないのにときどき知り合いの名前を検索してみます。自分の名前や家族の名前で検索すると「へぇ!こんな同姓同名の人が世の中にはいるんだ」と思うこともあるし、ときに知り合いがらみの思いがけないニュースに出会うこともあります。
従妹の名前で検索してみたら、ケニアの話がでていました。
従妹の名前が出ていたニュースは、中国赴任中の2009年の5月のことだったので、まったく気づかなかった。ジャイカボランティアニュースを読んだのは、2010年1月のこと。
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ジャイカボランティアニュース 第2号 2009年5月1日より
「去る1月28日、ミチコさん(ケニア派遣/理数科教師))のもとに、嬉しい一報が舞い込んだ。それは、30年前のミチコさんの教え子が連絡を取りたがっているというものだった。「知らせを受けたのが私の誕生日の翌日でしたので、これは神様からのプレゼントだと思いました」と、ミチコさん。30年という長い年月を一気に飛び越え、ミチコさんと、教え子の一人であるセレム氏とのメールのやり取りは始まった。
当時、中学生だったセレム氏が、現在はケニア園芸公社の総裁となり活躍していることを知り、ミチコさんは、「自分の子どもが立派になったような気分で本当に嬉しいです」と話す。現在、ミチコさんの娘さんが25歳で、セレム氏の娘さんが14歳。これは、当時のミチコさんとセレム氏の年齢にあたる。このことに長い時の流れを感じながらも、再び繋がった絆に感謝をしつつ、いつか再会できる日を二人とも強く待ち望んでいる。」
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30年前に私がケニアに出かけていったのは、従妹のミチコがJICAの海外青年協力隊に参加して、ケニアのハイスクールで理数科教師をして1年たったころでした。
ミチコはケニアについて早々、研修で出かけた村の人からふるまわれた水を飲んで入院してしまいました。「女の人が遠くの水場まで何キロも歩いて水くみに行くような地区で、せっかく村の人が貴重な水をふるまってくれたのに、飲まなきゃ悪いと思って、思い切って飲んだ」あげくの災難。現地の人には大丈夫な水でも、生水は飲むべきでなかった。
一ヶ月の入院生活ののちにようやく任地での仕事を始めることができたのですが、入院したため、辺鄙な赴任場所は避けてもらい、水道電気のある町の学校に赴任できました。ミチコの同僚のサイトウさんは、水も電気もない村に赴任しました。サイトウさんは、明るくてかわいい女性でした。小柄で見た目は強うそうではありませんでしたが、海外協力隊員らしいバイタリティを持って活躍していました。
ミチコやサイトウさんといっしょにトゥルカナ湖を旅行したり、ミチコが勤務するハイスクールのある町に泊まりに行ったりしました。
東海岸のモンバサやラム島へ行ったときは、ミチコ、私、タカ氏、クロさん、あと誰がいっしょだったかしら。マリンディという海辺の町で青年協力隊の隊員さんの家に泊まらせてもらって、サークル合宿のようなノリで楽しかった。ここでも、生水はぜったいに飲むな、と隊員さんから注意されました。冷蔵庫に入っている沸かし水を飲み、飲んだ分は薬缶で沸かして補充しておく、というルールを守れば、冷蔵庫の中のものを食べたり飲んだり自由にしてかまわない、という人のいい隊員さん。海岸地帯で稲作指導をしている方でした。
<つづく>
2010/03/05
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(5)ケニアではモテ女
ミチコはケニアで出会ったジャイカ同僚のマサミさんと結婚し、ミチコとマサミさんの結婚式の半月後に私とタカ氏の結婚式。ミチコの結婚は親戚縁者に祝福され、結婚式から10ヶ月後にハネムーンベビーが生まれたときも皆に祝ってもらいました。私とタカ氏、結婚式から半年後には娘が生まれました。ちょいと早めに出産した私、非難囂々でした。「そんなふしだらな娘とは思わなかった」なんて言われました。
今なら珍しくもないことで、「おめでた婚」とか、子宝を授かってのめでたい「さずかり婚」と呼ばれるようになっているいうようになっている「できちゃった婚」ですが、たった四半世紀前の時代は「親類の面汚し」扱いでした。
アヤ伯母の葬儀の席でいっしょになったミチコは、トゥルカナ湖にいっしょに行ったサイトウさんは癌になって早世したと教えてくれました。ケニアですごした青春の日々から30年。それぞれの人生がすぎていきました。
ミチコはマサミさんとの間にハネムーンベビー誕生の次の年には年子で双子を出産し、子育主婦業を続けました。マサミさんは堅実なエンジニアとして仕事をつづけ、ときには単身赴任で海外へ。ときには一家でネパール赴任などもありました。ミチコは次男を東大に入れ、またまた親戚縁者から祝福を受けました。一家で堅実な人生を歩んで、マサミさん定年退職のあとも、優雅に年金暮らしをするのでしょう。
私は、夫が「趣味の会社経営」を続けるのを横目で見ながら働きづめです。相変わらず「祝福」なんぞには無縁の人生。同じケニアで出会った夫婦ふた組ですが、堅実で幸福な人生を歩んだミチコと、フラフラ自由ではあったけれど、貧乏暮らしを続けた私。ま、これも持って生まれた運命というものでしょう。
まあ、私にいいことがあったとすれば、端から見れた「ダメダメ」な人生だったとしても、私自身は自分の歩んできた茨道をおもしろがってきたことだけでしょう。年金もない老後不安定な人生になってしまいましたけれど、今まで過ごしてきた日々は、私にとってはどの一日も大切な時間です。
ミチコへ届いたというケニアからのメールは30年という時を超えて、なつかしい赤道直下の太陽を思い出させてくれました。1979年と1980年のケニア。
私は、日本では「女だからといって、男に負けてなるものか」と肩肘張って生きてきて「こわい女」と思われていました。太陽直射日光の下で、私はそんなツッパリもとれて、ケニアの男性達にモテモテでした。「あなたは色が白くて美しいから結婚してほしい」なんて申し込まれたのだけれど、『私の夫はマサイの戦士』という本を書いた永松真紀さんのように、思い切ってマサイ族男性の第二夫人になる、っていうような大胆なことをする勇気もなく、ナイロビで出会った日本人と結婚するハメになって青春時代は終わりとなりました。
ケニアでの青春の日々、ますます遠くなっていきますが、なんといっても、私が唯一男性にモテモテだった日々の重いでは、永遠の輝ける日々です。
生まれてはじめて「モテ女」の生活を楽しんだおかげか、「女偏」の漢字、嫁も姑も、妹や姉と同じ感覚で受け入れることができるようになりました。女が古びたのが「姑」ですって?と眉つり上げずに、「古」には、女性が長い間身につけた経験への尊敬が込められている、と解釈すればいいのです。年老いた女性の子育てや家事の経験が生かせたから、人類は類人猿よりちょっと脳が発達した、という話は2009年
2月5日~11日に連載しました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200902A
「婦」も、別段「女に掃除を押しつけるな」というように肩肘はらずとも、ホウキの持つ呪力を支配して家庭内を納めることのできる人が「婦人」というふうに解釈しておけばいいんじゃないかと思います。
<つづく>
2010/03/06
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(6)かかあ天下
故郷群馬県は、「上州名物、嬶天下(かかあでんか)と空っ風」と言われています。「群馬で強いもん、3雷(ライ)2風1かかあ」とか。夏の雷冬の空っ風は、ともにたいへん強い自然現象で、夏は赤城山と榛名山の間に毎夕雷が走るし、冬は谷川武尊から強い北風が吹いてきます。でも、それ以上に強かったのは、上州のカカアたち。
女偏に鼻をつけて嬶(かかあ)。嫁とか姑とか姉妹とか、女偏をつけた家族関係語は多々あるものの、「嬶」は国字だったということを、今頃知りました。
これまたなぜ故に「かかあ」または「かか」は、女の横に「鼻」がくるのやら、かかあともなるといびきでもかくのかと、由来がわかりません。
一家のなか、嬶座(かかざ)と言えば、家内を取り仕切る「主婦権」を持つ者の座るところを意味し、いろりに面した横座(主人の座席)のわきで、台所に近い席が主婦の座席として定められていました。「北の方」とか「北の政所」に倣って北座と呼ぶ地域もあったし、食べ物を分配する鍋の前に位置することから鍋座(なべざ)鍋代(なべしろ)と呼ぶ地方もありました。
主婦権の象徴として、「しゃもじ」を受け渡す地方もあり、姑が嫁に家政をまかせることにしたときを、しゃもじ渡し、へら渡し、飯匙渡(いがいわたし)などと呼び慣わしてきました。一家の家長である主(あるじ)の法的な権限は、明治民法で法文化されましたが、一家の家政を取り仕切り、食べ物の分配を司る主婦権は、民俗研究の対象になり柳田国男などが調査したのですが、法的な権限とはなっていませんでした。家庭内のことを取り決める裁量権が主婦にあり、家庭内の事は妻が全ての決定権を持ち、夫は妻に従わなければならない、ということを「嬶天下」の語で表してきたのです。
群馬県が伝統的にこの権利を強く保持してきたのは、江戸時代から養蚕業、織物業が盛んとなり、家庭内手工業を女性が取り仕切り、現金収入を女性の手で得てきたことが大きいと言われています。上州の女性は、家庭社会において家長に従属的な位置に甘んじることなく、養蚕織物業による自立をはたしていた、ということ。
私の母の実家も、私が子供のころは桑畑持ち、屋敷内に蚕棚を作っていました。私は蚕たちがシャワシャワと桑をはむ音を聞いて育った最後の世代にあたるでしょう。また、家の中で、出荷した繭の残り、祖母たちが屑繭を煮て家族の衣装のための絹糸を紡ぐのを見ていた最後の世代。蚕が育つ時期、「おこさま」というのは「お子様」ではなく、「お蚕さま」を指すことばです。
現代は女性も現金収入を持ち、家政を取り仕切るのは当然になっています。父は会社のから給料をもらうと月給袋を未開封で母に渡すのを「男の甲斐性」と思っていたようです。母は、その中から父の小遣いを渡していました。母の世代は「主婦は自分の思い通りにならなくてつまらない」という一方、「嬶座」「主婦権」がきちんと残っていた世代だったとも言えます。
私?家に寄りつかない瘋癲夫を持ったために、最初から天下もへったくれもなく、自分で稼いで食べ物の采配をするほかなかったのだけれど、自分の人生、自分で決定してきました。愚痴は言うけれど、それは誰のせいでもなく、自分で決めた人生だからしょうがない、という「上州女の嬶天下」の覚悟があったからかなと思います。
幸福な人生を送るためには、ひたすらナヨナヨと「あなただけが頼りなの」と、しなだれかかる風情を見せながら、結局はしっかりと夫を支配している女性のほうが有利だ、と諭されたこともあったけれど、まあ私にはできない芸当だったので、私は私で、空っ風に立ち向かっていくしかありません。
空っ風がいつ春風に替わるのか、天気は春の気配が近づいていますが、私の懐具合はいまだ寒風のなか。
<つづく>
2010/03/07
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>土偏(1)よい一墻を
自分では使ったことのない熟語がメール中にあったりするとびっくりします。
育児休暇をとるというお知らせのメールに「なにかとご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうかご海容ください」という結語があり、「海容」が実際に手紙の中で用いられているのを初めて見ました。私自身は使ったことはなくとも、海容なら、意味も読み方もわかる。
同期生からメールをもらい、その結語に「ではどうぞよい一墻を」とあったので、目を丸くしました。「一墻」というのは、読み方も意味もわかりませんでした。
辞書を見ても意味が出ていないので、発信者へ返信のついでに、意味を尋ねました。日本語教師、知らないことを恥とせず、わからないことをそのままにすることを恥とせよ、の精神です。
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メール末尾のご挨拶に「ではどうぞよい一墻を」と書いてありました。「一墻」なんていう語をはじめて見て、どうも浅学非才の身、吝嗇のショクに土偏で「墻」、「いっしょく」と音読みするのか「ひとがき」と訓読みするのかも知らず、意味もわからず、辞書ひいちゃいました。角川漢和辞典、大修館現代漢和、三省堂漢辞海には「墻」が搭載されておらず、小学館現代漢語辞典にのみ「牆」の異体字として搭載されておりました。
発音は漢音ではショウ、意味は垣根とわかりましたが、「一牆」となると、どのような意味になるのか、私手持ちの辞書には載っておりません。お教えいただければ、今後の学習の励みにもいたしますので、よろしくお願いいたします。
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メール返事によると、「ただの誤変換!」
「ではどうぞよい一週間を」のつもりで書いたら、なぜか「一墻を」となったのですって。
字引辞典を引くのが好きだから、あれこれ探ってついにわからず、けっきょくは誤変換とわかった、という検索の結果でした。「牆」などという漢字が存在することだけでもわかって、「日本語教師、なんでも調べて損はない」と思うことにいたしましょう。
哲学者の廣松渉の本を読んでいるとやたらに見たこともない熟語が出てきます。「旧来の発想法の地平そのものを剔扶(てっけつ)し」とか「形而学上悖理(けいじがくじょうはいり)」とか。悖理は背理とどう違うのかと思ったら同じだったし、内容自体もなんだか小難しくてさっぱり理解できない。
「廣松の本、むずかしくてわかりません」と嘆いたら、退官を迎えた教授「ああ、あの人は衒学趣味で、やさしく書けば誰でもわかるようなことをやたらにわかりにくく難しく書くのが趣味なんだから、わからなくてもよろしい。ああいう文体読まされて難しそうで高級そうなこと書いていると思いこむのは愚の骨頂」とおっしゃる。それを聞いて「なあんだ、やっぱりそれでいいんだ」と安心しました。「赤信号、みんなで渡れば恐くない」を廣松式にいうと「世界の共同主観的存在構造における現象的世界の四肢的存在構造」ってなるんです。あ、ちょっと違うか。もう、私には牆、墻、かきね、、、、の世界です。
私は、難しいことをより難しく書くのより、難しいことも中学生にもわかるように書く人が好きです。とは言うものの、私が「中学生にもわかるように書いた」授業レジュメの中の熟語、漢字検定2級に出てくる熟語より難しいのは使わないと決めているのに、昨今の南瓜頭大学生たち、まあ、読めないこと。「南瓜」だって読めないんだから。きっと彼らは私が廣松の熟語使いに頭を悩ませたように、「読めネー、イミ、ワカンネー」と思っているのだろう。ただし、私は読めない漢字があれば辞書を引くけれど、彼らは「ワカンネー」で終わり。
では、みなさまにおかれましても、どうぞよい一墻を。
<つづく>
2010/03/08
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>土偏(3)ぐいち
ネット散歩、日本中どこにでも飛んでいけます。散歩をしていると、関東で生まれ育った私にはお初のいろいろな地方のことばを知ることができます。昔は方言研究者が家々を回って集めた地方のことばを、東京に居ながらにして読むことができ、楽しみも大いに広がりました。
「彼岸の入り」に対して彼岸のおわりの日を「はしりくち」と呼ぶ地方もあると知ったのも、ネット散歩中のどなたかの日記によってなのですが、2005年3月25日に、「はしりくち」という言葉を新しく知ったと書いているのに、どなたの日記で知ったのか書いてありません。5年前のことですが、誰の日記に書いてあった言葉だったかもうすっかり忘れてしまいました。
今回は、忘れないように書いておきましょう。「ぐいち」ということばをmomosuke2seiさんの2010年2月20日のカフェ日記で知りました。モモスケママさんが、子供の頃につかっていた「ぐいち」と言う言葉を広辞苑でひいてみたら、ちゃんと載っていた、という日記です。
私にとっては、初めて見る言葉なので、私も広辞苑を引きました。「手元にあった広辞苑」と書きたいところですが、正確には「足下にある広辞苑」です。重たい辞書なので、本箱の下のほうに置いといたら、どんどん増える駄本が本箱の前に積み上がっていって、広辞苑が取り出せなくなってしまったので、本箱に戻さずに重たい辞書を椅子の下に置いておくことになった、それで足下にある広辞苑。
広辞苑「ぐいち【五一】ばくちで采の目の五と一がでること。たがいちがい」
大辞林には用例まで載っていました。「(1)博打(ばくち)で、さいころの五の目と一の目。(2)〔さいころの目は五と一が向かい合っていないことから〕食い違っていること。ちぐはぐなこと。「ぐいちに生えたが歯違ふの歯の見所/浄瑠璃・菅原」
関西では、ものごとがぴったり合わずにくいちがいが起こることを「ぐいちやワァ」などと表現するようです。関西弁のコーナーでの解説。「ぐいち」は「位置がずれてはまっている様子。掛け違え。「釦(ぼたん)がぐいち」、「歯がぐいち」などと使う。
金型を扱う業界での専門用語としては、成形品に段差ができ、製品が食い違うことを言うのだそうです。ゴム金型で食いきりがずれてしまうなど。
「ぐいち」の語源をいくつかの辞書はさいころの目の「五一」だとしているのですが、金型業界の用語解説では「くいちがい」の略語が「ぐいち」だとしています。
広辞苑といえども、語源に関してはまちがいが多いことを、ことばの達人柳瀬尚紀『広辞苑を読む』で知りました。「ぐいち」のような方言や職人言葉などだと、広辞苑だとてあてにはならず、「五一」という語源が正しいかどうかは、わかりません。
『広辞苑を読む』は、百円本コーナーにあったので、買いました。私も辞書愛好派のひとりで、ときどき各種辞書類の「辞書全読」という「あ」から「ん」まで全搭載単語を読んで知らない語があるかどうかチェックする、ということを職業訓練としてきたのですが、ここ最近、辞書全読をしていませんでした。かわりに『広辞苑を読む』を読みましたが、ほんとに辞書を読むのは楽しいと、再確認。
柳瀬さんは英語の達人にしてだじゃれや新語造語満載のジョイスの『ユリシーズ』を見事な日本語に翻訳したことで知られています。広辞苑も英語辞書もすり切れるまで引き倒す、といいます。私の辞書など手あかにまみれてしまっているものの、まだページがすり切れてはいない。本箱の下に並べてあった本は、以前部屋飼いしていたウサギが囓ってぼろぼろになっているけれど。
柳瀬さん、広辞苑の語釈や語源説明にあれこれ注文をつけています。英語の語源説明や和製英語の説明にも難があると。
さて、「ぐいち」の語を調べて、これから先にどんな知らない日本語に出会えるやら、老い先短いとはいえ、まだまだ私の辞書に新語は増える。脳内土蔵には、まだまだ本棚があります。
<つづく>
2010/03/09
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>土偏(2)幸い
「ハッピィ」という外来語もずいぶんと日本社会に定着したので、新年の賀状に「ハッピィニューイヤー」とあるのも、祝日のお祝いに「ハッピィホリディ」と挨拶するというのも、ずいぶんと耳慣れてきました。私のお気に入りの留学生ブログ「I am a happy song私は幸福な歌」は、苗字のピンインがsongになるところから名付けられたブログタイトルです。毎日サイトを訪問して、彼が日々日本の生活を記すのを楽しんで読んでいます。彼の「幸福な歌」は、私にたくさんのハッピィを与えてくれます。
もうひとつのお気に入りに入れてあるブログ「my happy talkingしあわせなおしゃべり」は、私の最初のウェブ友ちよさんのブログですが、2009年の年末から更新されていません。カフェコラムも年末から更新されていないのですが、1月に予定されていた娘さんの結婚式のことで忙しいだろうし、いろいろたいへんなのだろうと推察して更新をまっています。
娘の結婚式と言えば、母親にとっては、一生で一番の幸福と寂しさを味わうときでしょう。娘の幸いを願うひとときでもあり、手元から飛び立たせる寂しさのひととき。ちよさんにとってはひとり娘ですから、寂しさもひときわでしょう。結婚式が予定されていた日から一ヶ月を過ぎても更新がないので、ちょっと心配になってきました。子供は、女性にとって人生の手枷足枷のようなものだと言う人もいますが、その手枷が取れてみると、ぽっかりと心に大きな穴があく感じがするのではないかと想像しています。手枷がとれる状態を「幸い」と、漢字ではいうのですけれど。
「幸」という文字、私は長い間「土」と「羊から横線を一本とった字」の形成文字と思いこんでいました。漢和辞書をひいてみると、今は「幸」の部首は「土」になっていますが、元の部首は「干」だったとあります。
「幸」の漢字のかたち、実は「手枷の形を表した象形文字」なのです。びっくり。 「幸」は、甲骨文字の時代にすでに骨の上に刻まれていた文字で、罪人にはめる手枷の形を表しています。手枷をはめられてしまえば「執」ですが、幸いにも罪を逃れて、手枷が手にない状態が「幸」であり、「幸い」なのだと知りました。
幸を偏にしている「執」は、人が捉えられて手枷をはめられてしまった、という形成文字です。手枷の絵文字「幸」と、人が崖の下で背を丸めて手を前に出してかがんでいるようすを表した文字である「丸」を合わせています。「執」の部首も「土」です。
はたして手枷は、手のうちにあるほうが幸いなのか、ないほうが幸いなのか。姑は、舅がホスピスに入院していた六ヶ月は、手枷足かせの中の半年だったことでしょう。その手枷がとれた状態が「幸い」で、お習字の会だ童謡の会だ詩吟だと、生き生きと未亡人生活をおくって8年になります。
ご主人の介護を続けておられる方の日記。介護者のほうが病気になるくらい、介護はたいへんな毎日なのだと日記から推察されますが、ご本人は、こうして介護ができなくなる日のことを思うと今からつらくなり、今、介護という手枷をはめられた状態こそが自分にとっては幸福なのだ、と書いていらっしゃる。
私は、子育ての間20年近く、夕方以後は外にでることもなく、子供中心の生活でしたが、それを手枷と感じることもなくすごしてしまいました。今、夜おそく帰っても夕ご飯は勝手に作って食べているし、「母がいないほうが気楽」と思っているくらいでなんの心配もなくなりました。手枷はなくなったものの、まだこのスネには需要があるので、足かせはとれていないのですが、こちらの枷は、一生とれそうにありません。稼ぎのない亭主は家に寄りつきませんが、稼ごうとしない子供が臑に齧り付いたまま。まあ、働けるうちは食い扶持稼ぎに励まなければなりません。これが私にとっての幸いなのでしょう。
<おわり>
2010/03/10
ぽかぽか春庭十年一日日記3月>
今シーズン娘息子と見ている連続ドラマのひとつ「コードブルー・ドクターヘリ」。看護師の恋人の元医師が、ALS筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう、amyotrophic lateral sclerosis)の患者となったというエピソードが登場していた。自分自身、筋肉がしだいに動かなくなっていく病であるのに、隣のベッドの患者を励まし生きる気力を与え、医師として自分の寿命を冷静に受け止めている。ドラマだからあんなふうに立派にできるのか、と思うのだけれど、現実の患者さんの中にも、病気と向き合って生きている人はいる。
テレビニュースで報道された篠沢秀夫学習院大学名誉教授の闘病。ALSのため、介護保険の手当では足りず、新宿区に身体障害者として介護の申し込みをしようとしたら、65歳以上の人に障害者介護を認めないと断られてしまった。篠沢名誉教授はテレビ番組の人気者だった有名人だから、報道も動き、新宿区は謝罪したのだけれど、現実には介護利用を断られている一般の人は大勢いるのでしょう。
首から下が動かなくなってベッドで寝たきりになっているウェブ友。ご主人の介護を続け、デイサービスも「万が一の事故を考えて受け入れられない」と断られたと疲れ切っている友。それぞれのつらい立場を思うと、胸がつまります。
この国では、老いることも病むことも受け入れてもらえず、これまでどれほど一生懸命働いてきたとしても、病気になれば「早く死ね」と国家から言われてしまう。
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(1)女とホウキ
私と同世代と思われる月曜日の講師室でごいっしょするA先生が、留学生の漢字クラスの話をしていて「私、婦人の婦って漢字、大嫌いなのよ。左側が女偏で、右側はホウキって意味なわけでしょ。なんで女とホウキをくっつけると婦なのかしらって、腹が立つじゃないの。留学生に教えるとき、私はこの字は大嫌い、って言ってから教えるの。女だからってホウキ持って掃除していなさいとか、家事は女がするものって、決めつけるの古いじゃないの。女を掃除婦と思わないでほしいわ」と憤慨口調でおっしゃった。
あ、それって違うんじゃないの、と思ったけれど、講師室ではいつも黙っている私が急に口を挟んでもよろしくなかろうと思って黙っていました。
家事は女がするもの、なんて確かに古すぎます。宇宙飛行士山崎直子さんのご主人は、高収入の勤務先を退職して、妻を支えて子育てと家事を引き受ける主夫になりました。(専業主夫じゃなくて、ベンチャー企業を立ち上げた兼業主夫なんですけれど)
イマドキ、「家事は女がするもの」なんて発言したら、セクハラ・パワハラで総攻撃を受けます。
私が「違うんじゃないの」と思ったのは、「家事=女がする」の部分ではなくて、「女と掃除を結びつけた語が婦人の婦」という部分です。「帚」は、掃除のホウキの意味だけではないのです。
帚は、箒(ほうき)の異体字であるのはその通りですが、ほうき=掃除ではありません。よしんば帚が掃除と同じ意味だとして、掃除を「大学の教師として働いているアタクシにはそんなつまらない家事を押しつけないでほしい」とでも言いたそうな、「アタクシの夫は十分な収入を得ている男ですが、アタクシ自身の生き甲斐のために講師をしているんザマス」風な奥様先生に、チト言われなき反発を感じてしまったのです。この反発は、奥様A先生にとってはお小遣い稼ぎになる程度の薄給で、ふたりの子を育ててきた非常勤講師のヒガミにすぎません。
掃除は「つまらない女の仕事=家事」で、大学で教えることは「つまらなくない女の高級な仕事」というように聞こえてしまったこと、「大学で言葉を教えることは、大学の教室を掃除する仕事より上等」というように言われたと感じて、私の考え方とは相容れない、と感じてしまいました。ちょいと過剰反応だったのかもしれませんが、これは、母が私に厳しく躾たことのひとつに関係しています。
「屑拾い」という不要物を集めて回る人が我が家に「くず~い、おはらい」と言ってときどき回ってきた。あるとき幼い私は「屑拾いになりたくない、きたないもん」と言ってしまった。母は「屑拾いも便所の汲み取り屋も、世の中をきれいにしてくれる尊い仕事なのに、おまえのように人を見下す者の心が一番汚い」と怒った。「百姓家のもんが会社員の妻になって、成り上がりだね」と農家出身の母を見下す人もいた町の暮らしの中で、「仕事に貴賤はない、百姓生まれで何が悪かろう」と心に繰り返して、なにくそと思っていたころのことだったのでしょう。
(今の生活で、私自身は掃除が大の苦手ですが、掃除を「つまらない家事」と思って嫌いな訳じゃないのです。洗濯とお茶碗洗いはちゃんとやってます。掃除好きな人がうらやましいですし、松井棒などを考案したりする掃除名人を尊敬しています)。
ホウキとは、「掃除の道具」の意味だけではないだろうと私が感じていたのは、子供のころのおマジナイに関係しています。
母は世話好きで人好きな性格で、いつもよそ様の相談に乗ったり、愚痴を聞いてやったり、午後のひとときは、近所の人と「お茶のみ」をして話し込むか、知り合いの相談に乗って就職を世話したりもめ事を解決したり、子供のころ私が育った家には来客が絶えませんでした。いつまでも帰ろうとしない「長っ尻」の客がいると、私と姉は客座敷の裏手に座敷ホウキを逆さまに立てかけておきました。姉が「こうしておけば、お客さんすぐ帰る」というのです。姉は、母方の実家の祖母やアヤ伯母に教わったにちがいありません。
今ではすっかり廃れてしまったこのマジナイ、群馬の田舎の風習というだけでなく、全国的なものだったようです。東京山の手暮らしのサザエさん一家もやってました。
なぜホウキなのかさっぱりわかりませんでしたが、バケツでもなく、ぞうきんでもなく、ホウキってことがミソのようでした。姉は「客を掃き出すため」と言っていましたが、だったら、掃き出す形にして置いたほうが効果がありそうなのに、なぜ逆さまに置くのかがわかりませんでした。
さて、帚はなぜ女偏と結びついて「婦」になったのか、次回解説で「逆さ帚」の謎を解決。
<つづく>
2010/03/02
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(2)女とホウキ
箒は古くから神聖なものとして考えられ、箒神〔ははきがみ〕という神様が宿ると思われていました。ホウキの古語ハハキが「母木」と見なされたり、「掃き出し清める」ことが「母から子を出す」こととつながるとして、箒神は、産神(うぶがみ=出産に関する神)の一つと考えられていました。出産と結びつき、妊婦のおなかを新しい箒でなでると安産になると言われたり、ホウキをまたぐと罰が当たるという言い伝えもありました。
茶道では、蕨の茎葉や棕櫚の葉を束ねて作る葉箒を露地にかけておくそうです。実際の掃除には用いられないこの葉箒は、「箒神」に通じるものがあるのかどうか。茶道の奥義を極めた人なら、葉箒の故事来歴をご存じなのかもしれません。教えてください。
日本最古の箒は、2004年2月に出土した奈良県橿原市の西新堂遺跡の出土品。5世紀後半の河川跡から小枝を束ねたほうきが見つかりました。発掘を行った橿原市教育委員会の発表によると、霊魂を運ぶ鳥形木製品や雨ごいのため殺した馬の歯など祭祀具と一緒に出土していることから、掃除用ではなく、祭祀用と見られています。
奈良時代の御物が保存されている正倉院には、孝謙天皇が758年正月、神事で蚕室を掃くため使ったと万葉集の歌に詠まれる箒2本があります。奈良市の平城宮跡からも3本の箒が出土しています。これは8世紀中ごろのもの。
文献で「ハハキ」の語が出てくるのは上記の万葉集のほか、古事記の「帚持ハハキモチ」「玉箒タマハハキ」があります。「玉」とは人間の魂(霊魂タマ)のことを指し、「帚持」とは、葬列を組む際に祭具の箒を持って加わった人を呼び、その役目を指しました。
奈良時代における箒は、祭祀用の道具として用いられるなど宗教的な意味があったものが、平安時代には掃除の道具としての記録も出てきて、室町の文献では「箒売り」が職業として成り立っています。ホウキが日常的な生活用品になったあとも、ホウキに宿る神への民俗意識は残り、長居の客にホウキを立てかけるような習俗も、私が子供のころまで実際に行っていました。今では電気掃除機やモップはあっても、ホウキで座敷を掃く家が少なくなってきたから、ホウキの民俗も忘れられていく運命にあるでしょう。
漢字が作られた古代中国では、棒の先端に細かい枝葉などを束ねて取り付けて箒状にしたものを「帚(そう)」といい、酒をふりかけるなどして、廟(びょう)の中を祓い清めるのに使用していました。この箒の形を竹で作れば「箒」、「草」で作れば「菷」。「帚」を「手」にとって廟の中を祓い清めることを「掃」という。掃き清めて汚れを除くことが「掃除」。この「帚」の仕事を行うのが巫女などであることから、「帚」を付帯した「婦」の字ができ、女性全般を表すことになった。
今では「婦人」という表現が、古くさい女性のイメージを持ってしまい、「婦人○○」と呼ばれていた言葉のほとんどは「女性○○」に代わりました。
1994(平成6)年に国連「世界婦人会議」の名称が「世界女性会議」に変わり、近年では雑誌などで「婦人」よりも「女性」という表現が目立つようになりました。労働省は1996年度に「婦人局」の名称を「女性局」に変え、1949年から続けられてきた4月10日からの一週間を「婦人週間」から「女性週間」と変えました。1994(平成10)年には「女性週間」もその意義を終えたとして廃止。
というわけで、「女だからって、掃除婦と思われてこの漢字ができた」とA先生が憤慨するは、少々事情が異なるようです。A先生の怒りを聞いていて、昔のウーマンリブの主張を思い出しました。
ウーマンリブの人たちは、「社内掃除を女だけが当番として早出してまでするのは差別だ」とかミスコンテストは女性を顔やスタイルだけで見ようとするから反対」と主張していたころのこと。
確かに「女性だけが○○しなければならない」ということはないと思います。でも、ミスコンテストがあるなら、ミスターコンテストもしたらいいだけのことであって、ミスコンテストを批判してもミスコンがなくなりはしなかった。需要があれば供給がある。
<つづく>
2010/03/03
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(3)ひな祭り男女論
ひな祭りの起源や伝承については
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200703A
に書いたので、興味があったら読んでください。
婦人週間を女性週間と名称変更したものの、「女性週間があるなら、男性週間があってしかるべき」という意見が出されたのかどうか、女性週間は廃止されました。今や家事ができない男など結婚相手として見向きもされない、、、といわれていますが、現実の女性の地位は、果たしてどれほど男性に追いついたのでしょうか。
現実はともかく、理念たてまえとしては男女差別をしている企業があったら批判されてしまうし、同一の仕事をしていて女性だけが給料が低いレベルや昇進に不利だったら、法律違反です。でも、現実にはシングルマザーの家庭の収入や生活水準はGNP上位国のなかで最貧ですし、女性の国会議員数や会社役員数でもまだまだ「後進国」です。
春庭は「ウーマンリブ世代」です。いまやウーマンリブってのも死語の世界に行ってしまいましたが、昨今の論壇界ではフェミニズムバッシングも一段落したらしいので、「婦人」以外にも女が関わる文字やことばについて、一回り散歩してみようかと思います。
ウーマンリブというのは、女性解放運動Women's Liberationの省略外来語。1970年11月14日に第一回ウーマンリブ大会が東京都渋谷区で開催され、アメリカなど世界各地での女性解放運動は、1979年に国連総会で女子差別撤廃条約が採択されるなどの成果をあげました。日本での運動は、男女雇用機会均等法の制定など、一定の役割を果たしましたが、ウーマンリブという言葉そのものは、1980年代に入ると急速に廃れて揶揄の対象になってしまいました。ミスコンテストに反対して各地のミスコンを中止させようとしたり、ウーマンリブの活動家としてマスコミで名前を売っていた榎美沙子(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合、略称「中ピ連」代表)が日本女性党という政党党首として選挙活動を始めるなどして、心あるフェミニストたちが「ウーマンリブ」という言葉に拒否反応を示したためと思います。
最近の男女問題に関して、2010年1月に放送されたNHK「ためしてガッテン」の中で放送された「男女の脳構造の違い」ということが、講師室で話題になったことがあります。男性と女性では脳の構造に違いがあり、個人差はあるものの、女性の多くが脳梁が男性より大きい。女性の脳は「コミュニケーション言語野」「模倣あそび」「他者への共感能力」などの脳部位が発達していて「井戸端会議おしゃべり」「ままごと」などが女性に好まれることがわかった、という内容でした。男性は「空間認識」「理論構築」などが女性より発達することがわかっているそうです。
この「ためしてガッテン」は、2009年1月に放送されたNHKスペシャル女と男シリーズの内容を焼き直しながら「女性に不得意なダイエット方法」と「女性にもできるダイエット」として放送していました。私も「ダイエット」というキャッチコピーに惹かれて見たのです。
女性ホルモンや男性ホルモン、そして脳の発達部位の違いから、平均的な男女の間の平均的な差というのがあることはわかる。しかし、個人差というのはどうしても残るから、男性的女性がいても女性的男性がいても、男性になりたい女性がいても女性になりたい男性がいてもいっこうにかまわない。
姉の最初の夫の従妹は、前は従妹であったけれど、性同一障害の診断と手術を受けて男性として戸籍も作り直し、人生を生きなおすことにしました。
留学生に日本語ディベートの話題として「次に生まれるなら女性がいいか男性がいいか」というのを出すことがあります。最近の傾向として「女性がいい」という留学生が男女を問わず増えているので、日本以外でも昔とは男女問題の質が違っているのだろうと思います。私?もう一度女性がいいのだけれど、次は「甲斐性のある男性と結婚できる女性」に生まれたい。
<つづく>
2010/03/04
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(4)去年のジャイカニュース
検索大好きなので、用もないのにときどき知り合いの名前を検索してみます。自分の名前や家族の名前で検索すると「へぇ!こんな同姓同名の人が世の中にはいるんだ」と思うこともあるし、ときに知り合いがらみの思いがけないニュースに出会うこともあります。
従妹の名前で検索してみたら、ケニアの話がでていました。
従妹の名前が出ていたニュースは、中国赴任中の2009年の5月のことだったので、まったく気づかなかった。ジャイカボランティアニュースを読んだのは、2010年1月のこと。
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ジャイカボランティアニュース 第2号 2009年5月1日より
「去る1月28日、ミチコさん(ケニア派遣/理数科教師))のもとに、嬉しい一報が舞い込んだ。それは、30年前のミチコさんの教え子が連絡を取りたがっているというものだった。「知らせを受けたのが私の誕生日の翌日でしたので、これは神様からのプレゼントだと思いました」と、ミチコさん。30年という長い年月を一気に飛び越え、ミチコさんと、教え子の一人であるセレム氏とのメールのやり取りは始まった。
当時、中学生だったセレム氏が、現在はケニア園芸公社の総裁となり活躍していることを知り、ミチコさんは、「自分の子どもが立派になったような気分で本当に嬉しいです」と話す。現在、ミチコさんの娘さんが25歳で、セレム氏の娘さんが14歳。これは、当時のミチコさんとセレム氏の年齢にあたる。このことに長い時の流れを感じながらも、再び繋がった絆に感謝をしつつ、いつか再会できる日を二人とも強く待ち望んでいる。」
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30年前に私がケニアに出かけていったのは、従妹のミチコがJICAの海外青年協力隊に参加して、ケニアのハイスクールで理数科教師をして1年たったころでした。
ミチコはケニアについて早々、研修で出かけた村の人からふるまわれた水を飲んで入院してしまいました。「女の人が遠くの水場まで何キロも歩いて水くみに行くような地区で、せっかく村の人が貴重な水をふるまってくれたのに、飲まなきゃ悪いと思って、思い切って飲んだ」あげくの災難。現地の人には大丈夫な水でも、生水は飲むべきでなかった。
一ヶ月の入院生活ののちにようやく任地での仕事を始めることができたのですが、入院したため、辺鄙な赴任場所は避けてもらい、水道電気のある町の学校に赴任できました。ミチコの同僚のサイトウさんは、水も電気もない村に赴任しました。サイトウさんは、明るくてかわいい女性でした。小柄で見た目は強うそうではありませんでしたが、海外協力隊員らしいバイタリティを持って活躍していました。
ミチコやサイトウさんといっしょにトゥルカナ湖を旅行したり、ミチコが勤務するハイスクールのある町に泊まりに行ったりしました。
東海岸のモンバサやラム島へ行ったときは、ミチコ、私、タカ氏、クロさん、あと誰がいっしょだったかしら。マリンディという海辺の町で青年協力隊の隊員さんの家に泊まらせてもらって、サークル合宿のようなノリで楽しかった。ここでも、生水はぜったいに飲むな、と隊員さんから注意されました。冷蔵庫に入っている沸かし水を飲み、飲んだ分は薬缶で沸かして補充しておく、というルールを守れば、冷蔵庫の中のものを食べたり飲んだり自由にしてかまわない、という人のいい隊員さん。海岸地帯で稲作指導をしている方でした。
<つづく>
2010/03/05
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(5)ケニアではモテ女
ミチコはケニアで出会ったジャイカ同僚のマサミさんと結婚し、ミチコとマサミさんの結婚式の半月後に私とタカ氏の結婚式。ミチコの結婚は親戚縁者に祝福され、結婚式から10ヶ月後にハネムーンベビーが生まれたときも皆に祝ってもらいました。私とタカ氏、結婚式から半年後には娘が生まれました。ちょいと早めに出産した私、非難囂々でした。「そんなふしだらな娘とは思わなかった」なんて言われました。
今なら珍しくもないことで、「おめでた婚」とか、子宝を授かってのめでたい「さずかり婚」と呼ばれるようになっているいうようになっている「できちゃった婚」ですが、たった四半世紀前の時代は「親類の面汚し」扱いでした。
アヤ伯母の葬儀の席でいっしょになったミチコは、トゥルカナ湖にいっしょに行ったサイトウさんは癌になって早世したと教えてくれました。ケニアですごした青春の日々から30年。それぞれの人生がすぎていきました。
ミチコはマサミさんとの間にハネムーンベビー誕生の次の年には年子で双子を出産し、子育主婦業を続けました。マサミさんは堅実なエンジニアとして仕事をつづけ、ときには単身赴任で海外へ。ときには一家でネパール赴任などもありました。ミチコは次男を東大に入れ、またまた親戚縁者から祝福を受けました。一家で堅実な人生を歩んで、マサミさん定年退職のあとも、優雅に年金暮らしをするのでしょう。
私は、夫が「趣味の会社経営」を続けるのを横目で見ながら働きづめです。相変わらず「祝福」なんぞには無縁の人生。同じケニアで出会った夫婦ふた組ですが、堅実で幸福な人生を歩んだミチコと、フラフラ自由ではあったけれど、貧乏暮らしを続けた私。ま、これも持って生まれた運命というものでしょう。
まあ、私にいいことがあったとすれば、端から見れた「ダメダメ」な人生だったとしても、私自身は自分の歩んできた茨道をおもしろがってきたことだけでしょう。年金もない老後不安定な人生になってしまいましたけれど、今まで過ごしてきた日々は、私にとってはどの一日も大切な時間です。
ミチコへ届いたというケニアからのメールは30年という時を超えて、なつかしい赤道直下の太陽を思い出させてくれました。1979年と1980年のケニア。
私は、日本では「女だからといって、男に負けてなるものか」と肩肘張って生きてきて「こわい女」と思われていました。太陽直射日光の下で、私はそんなツッパリもとれて、ケニアの男性達にモテモテでした。「あなたは色が白くて美しいから結婚してほしい」なんて申し込まれたのだけれど、『私の夫はマサイの戦士』という本を書いた永松真紀さんのように、思い切ってマサイ族男性の第二夫人になる、っていうような大胆なことをする勇気もなく、ナイロビで出会った日本人と結婚するハメになって青春時代は終わりとなりました。
ケニアでの青春の日々、ますます遠くなっていきますが、なんといっても、私が唯一男性にモテモテだった日々の重いでは、永遠の輝ける日々です。
生まれてはじめて「モテ女」の生活を楽しんだおかげか、「女偏」の漢字、嫁も姑も、妹や姉と同じ感覚で受け入れることができるようになりました。女が古びたのが「姑」ですって?と眉つり上げずに、「古」には、女性が長い間身につけた経験への尊敬が込められている、と解釈すればいいのです。年老いた女性の子育てや家事の経験が生かせたから、人類は類人猿よりちょっと脳が発達した、という話は2009年
2月5日~11日に連載しました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200902A
「婦」も、別段「女に掃除を押しつけるな」というように肩肘はらずとも、ホウキの持つ呪力を支配して家庭内を納めることのできる人が「婦人」というふうに解釈しておけばいいんじゃないかと思います。
<つづく>
2010/03/06
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(6)かかあ天下
故郷群馬県は、「上州名物、嬶天下(かかあでんか)と空っ風」と言われています。「群馬で強いもん、3雷(ライ)2風1かかあ」とか。夏の雷冬の空っ風は、ともにたいへん強い自然現象で、夏は赤城山と榛名山の間に毎夕雷が走るし、冬は谷川武尊から強い北風が吹いてきます。でも、それ以上に強かったのは、上州のカカアたち。
女偏に鼻をつけて嬶(かかあ)。嫁とか姑とか姉妹とか、女偏をつけた家族関係語は多々あるものの、「嬶」は国字だったということを、今頃知りました。
これまたなぜ故に「かかあ」または「かか」は、女の横に「鼻」がくるのやら、かかあともなるといびきでもかくのかと、由来がわかりません。
一家のなか、嬶座(かかざ)と言えば、家内を取り仕切る「主婦権」を持つ者の座るところを意味し、いろりに面した横座(主人の座席)のわきで、台所に近い席が主婦の座席として定められていました。「北の方」とか「北の政所」に倣って北座と呼ぶ地域もあったし、食べ物を分配する鍋の前に位置することから鍋座(なべざ)鍋代(なべしろ)と呼ぶ地方もありました。
主婦権の象徴として、「しゃもじ」を受け渡す地方もあり、姑が嫁に家政をまかせることにしたときを、しゃもじ渡し、へら渡し、飯匙渡(いがいわたし)などと呼び慣わしてきました。一家の家長である主(あるじ)の法的な権限は、明治民法で法文化されましたが、一家の家政を取り仕切り、食べ物の分配を司る主婦権は、民俗研究の対象になり柳田国男などが調査したのですが、法的な権限とはなっていませんでした。家庭内のことを取り決める裁量権が主婦にあり、家庭内の事は妻が全ての決定権を持ち、夫は妻に従わなければならない、ということを「嬶天下」の語で表してきたのです。
群馬県が伝統的にこの権利を強く保持してきたのは、江戸時代から養蚕業、織物業が盛んとなり、家庭内手工業を女性が取り仕切り、現金収入を女性の手で得てきたことが大きいと言われています。上州の女性は、家庭社会において家長に従属的な位置に甘んじることなく、養蚕織物業による自立をはたしていた、ということ。
私の母の実家も、私が子供のころは桑畑持ち、屋敷内に蚕棚を作っていました。私は蚕たちがシャワシャワと桑をはむ音を聞いて育った最後の世代にあたるでしょう。また、家の中で、出荷した繭の残り、祖母たちが屑繭を煮て家族の衣装のための絹糸を紡ぐのを見ていた最後の世代。蚕が育つ時期、「おこさま」というのは「お子様」ではなく、「お蚕さま」を指すことばです。
現代は女性も現金収入を持ち、家政を取り仕切るのは当然になっています。父は会社のから給料をもらうと月給袋を未開封で母に渡すのを「男の甲斐性」と思っていたようです。母は、その中から父の小遣いを渡していました。母の世代は「主婦は自分の思い通りにならなくてつまらない」という一方、「嬶座」「主婦権」がきちんと残っていた世代だったとも言えます。
私?家に寄りつかない瘋癲夫を持ったために、最初から天下もへったくれもなく、自分で稼いで食べ物の采配をするほかなかったのだけれど、自分の人生、自分で決定してきました。愚痴は言うけれど、それは誰のせいでもなく、自分で決めた人生だからしょうがない、という「上州女の嬶天下」の覚悟があったからかなと思います。
幸福な人生を送るためには、ひたすらナヨナヨと「あなただけが頼りなの」と、しなだれかかる風情を見せながら、結局はしっかりと夫を支配している女性のほうが有利だ、と諭されたこともあったけれど、まあ私にはできない芸当だったので、私は私で、空っ風に立ち向かっていくしかありません。
空っ風がいつ春風に替わるのか、天気は春の気配が近づいていますが、私の懐具合はいまだ寒風のなか。
<つづく>
2010/03/07
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>土偏(1)よい一墻を
自分では使ったことのない熟語がメール中にあったりするとびっくりします。
育児休暇をとるというお知らせのメールに「なにかとご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうかご海容ください」という結語があり、「海容」が実際に手紙の中で用いられているのを初めて見ました。私自身は使ったことはなくとも、海容なら、意味も読み方もわかる。
同期生からメールをもらい、その結語に「ではどうぞよい一墻を」とあったので、目を丸くしました。「一墻」というのは、読み方も意味もわかりませんでした。
辞書を見ても意味が出ていないので、発信者へ返信のついでに、意味を尋ねました。日本語教師、知らないことを恥とせず、わからないことをそのままにすることを恥とせよ、の精神です。
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メール末尾のご挨拶に「ではどうぞよい一墻を」と書いてありました。「一墻」なんていう語をはじめて見て、どうも浅学非才の身、吝嗇のショクに土偏で「墻」、「いっしょく」と音読みするのか「ひとがき」と訓読みするのかも知らず、意味もわからず、辞書ひいちゃいました。角川漢和辞典、大修館現代漢和、三省堂漢辞海には「墻」が搭載されておらず、小学館現代漢語辞典にのみ「牆」の異体字として搭載されておりました。
発音は漢音ではショウ、意味は垣根とわかりましたが、「一牆」となると、どのような意味になるのか、私手持ちの辞書には載っておりません。お教えいただければ、今後の学習の励みにもいたしますので、よろしくお願いいたします。
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メール返事によると、「ただの誤変換!」
「ではどうぞよい一週間を」のつもりで書いたら、なぜか「一墻を」となったのですって。
字引辞典を引くのが好きだから、あれこれ探ってついにわからず、けっきょくは誤変換とわかった、という検索の結果でした。「牆」などという漢字が存在することだけでもわかって、「日本語教師、なんでも調べて損はない」と思うことにいたしましょう。
哲学者の廣松渉の本を読んでいるとやたらに見たこともない熟語が出てきます。「旧来の発想法の地平そのものを剔扶(てっけつ)し」とか「形而学上悖理(けいじがくじょうはいり)」とか。悖理は背理とどう違うのかと思ったら同じだったし、内容自体もなんだか小難しくてさっぱり理解できない。
「廣松の本、むずかしくてわかりません」と嘆いたら、退官を迎えた教授「ああ、あの人は衒学趣味で、やさしく書けば誰でもわかるようなことをやたらにわかりにくく難しく書くのが趣味なんだから、わからなくてもよろしい。ああいう文体読まされて難しそうで高級そうなこと書いていると思いこむのは愚の骨頂」とおっしゃる。それを聞いて「なあんだ、やっぱりそれでいいんだ」と安心しました。「赤信号、みんなで渡れば恐くない」を廣松式にいうと「世界の共同主観的存在構造における現象的世界の四肢的存在構造」ってなるんです。あ、ちょっと違うか。もう、私には牆、墻、かきね、、、、の世界です。
私は、難しいことをより難しく書くのより、難しいことも中学生にもわかるように書く人が好きです。とは言うものの、私が「中学生にもわかるように書いた」授業レジュメの中の熟語、漢字検定2級に出てくる熟語より難しいのは使わないと決めているのに、昨今の南瓜頭大学生たち、まあ、読めないこと。「南瓜」だって読めないんだから。きっと彼らは私が廣松の熟語使いに頭を悩ませたように、「読めネー、イミ、ワカンネー」と思っているのだろう。ただし、私は読めない漢字があれば辞書を引くけれど、彼らは「ワカンネー」で終わり。
では、みなさまにおかれましても、どうぞよい一墻を。
<つづく>
2010/03/08
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>土偏(3)ぐいち
ネット散歩、日本中どこにでも飛んでいけます。散歩をしていると、関東で生まれ育った私にはお初のいろいろな地方のことばを知ることができます。昔は方言研究者が家々を回って集めた地方のことばを、東京に居ながらにして読むことができ、楽しみも大いに広がりました。
「彼岸の入り」に対して彼岸のおわりの日を「はしりくち」と呼ぶ地方もあると知ったのも、ネット散歩中のどなたかの日記によってなのですが、2005年3月25日に、「はしりくち」という言葉を新しく知ったと書いているのに、どなたの日記で知ったのか書いてありません。5年前のことですが、誰の日記に書いてあった言葉だったかもうすっかり忘れてしまいました。
今回は、忘れないように書いておきましょう。「ぐいち」ということばをmomosuke2seiさんの2010年2月20日のカフェ日記で知りました。モモスケママさんが、子供の頃につかっていた「ぐいち」と言う言葉を広辞苑でひいてみたら、ちゃんと載っていた、という日記です。
私にとっては、初めて見る言葉なので、私も広辞苑を引きました。「手元にあった広辞苑」と書きたいところですが、正確には「足下にある広辞苑」です。重たい辞書なので、本箱の下のほうに置いといたら、どんどん増える駄本が本箱の前に積み上がっていって、広辞苑が取り出せなくなってしまったので、本箱に戻さずに重たい辞書を椅子の下に置いておくことになった、それで足下にある広辞苑。
広辞苑「ぐいち【五一】ばくちで采の目の五と一がでること。たがいちがい」
大辞林には用例まで載っていました。「(1)博打(ばくち)で、さいころの五の目と一の目。(2)〔さいころの目は五と一が向かい合っていないことから〕食い違っていること。ちぐはぐなこと。「ぐいちに生えたが歯違ふの歯の見所/浄瑠璃・菅原」
関西では、ものごとがぴったり合わずにくいちがいが起こることを「ぐいちやワァ」などと表現するようです。関西弁のコーナーでの解説。「ぐいち」は「位置がずれてはまっている様子。掛け違え。「釦(ぼたん)がぐいち」、「歯がぐいち」などと使う。
金型を扱う業界での専門用語としては、成形品に段差ができ、製品が食い違うことを言うのだそうです。ゴム金型で食いきりがずれてしまうなど。
「ぐいち」の語源をいくつかの辞書はさいころの目の「五一」だとしているのですが、金型業界の用語解説では「くいちがい」の略語が「ぐいち」だとしています。
広辞苑といえども、語源に関してはまちがいが多いことを、ことばの達人柳瀬尚紀『広辞苑を読む』で知りました。「ぐいち」のような方言や職人言葉などだと、広辞苑だとてあてにはならず、「五一」という語源が正しいかどうかは、わかりません。
『広辞苑を読む』は、百円本コーナーにあったので、買いました。私も辞書愛好派のひとりで、ときどき各種辞書類の「辞書全読」という「あ」から「ん」まで全搭載単語を読んで知らない語があるかどうかチェックする、ということを職業訓練としてきたのですが、ここ最近、辞書全読をしていませんでした。かわりに『広辞苑を読む』を読みましたが、ほんとに辞書を読むのは楽しいと、再確認。
柳瀬さんは英語の達人にしてだじゃれや新語造語満載のジョイスの『ユリシーズ』を見事な日本語に翻訳したことで知られています。広辞苑も英語辞書もすり切れるまで引き倒す、といいます。私の辞書など手あかにまみれてしまっているものの、まだページがすり切れてはいない。本箱の下に並べてあった本は、以前部屋飼いしていたウサギが囓ってぼろぼろになっているけれど。
柳瀬さん、広辞苑の語釈や語源説明にあれこれ注文をつけています。英語の語源説明や和製英語の説明にも難があると。
さて、「ぐいち」の語を調べて、これから先にどんな知らない日本語に出会えるやら、老い先短いとはいえ、まだまだ私の辞書に新語は増える。脳内土蔵には、まだまだ本棚があります。
<つづく>
2010/03/09
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>土偏(2)幸い
「ハッピィ」という外来語もずいぶんと日本社会に定着したので、新年の賀状に「ハッピィニューイヤー」とあるのも、祝日のお祝いに「ハッピィホリディ」と挨拶するというのも、ずいぶんと耳慣れてきました。私のお気に入りの留学生ブログ「I am a happy song私は幸福な歌」は、苗字のピンインがsongになるところから名付けられたブログタイトルです。毎日サイトを訪問して、彼が日々日本の生活を記すのを楽しんで読んでいます。彼の「幸福な歌」は、私にたくさんのハッピィを与えてくれます。
もうひとつのお気に入りに入れてあるブログ「my happy talkingしあわせなおしゃべり」は、私の最初のウェブ友ちよさんのブログですが、2009年の年末から更新されていません。カフェコラムも年末から更新されていないのですが、1月に予定されていた娘さんの結婚式のことで忙しいだろうし、いろいろたいへんなのだろうと推察して更新をまっています。
娘の結婚式と言えば、母親にとっては、一生で一番の幸福と寂しさを味わうときでしょう。娘の幸いを願うひとときでもあり、手元から飛び立たせる寂しさのひととき。ちよさんにとってはひとり娘ですから、寂しさもひときわでしょう。結婚式が予定されていた日から一ヶ月を過ぎても更新がないので、ちょっと心配になってきました。子供は、女性にとって人生の手枷足枷のようなものだと言う人もいますが、その手枷が取れてみると、ぽっかりと心に大きな穴があく感じがするのではないかと想像しています。手枷がとれる状態を「幸い」と、漢字ではいうのですけれど。
「幸」という文字、私は長い間「土」と「羊から横線を一本とった字」の形成文字と思いこんでいました。漢和辞書をひいてみると、今は「幸」の部首は「土」になっていますが、元の部首は「干」だったとあります。
「幸」の漢字のかたち、実は「手枷の形を表した象形文字」なのです。びっくり。 「幸」は、甲骨文字の時代にすでに骨の上に刻まれていた文字で、罪人にはめる手枷の形を表しています。手枷をはめられてしまえば「執」ですが、幸いにも罪を逃れて、手枷が手にない状態が「幸」であり、「幸い」なのだと知りました。
幸を偏にしている「執」は、人が捉えられて手枷をはめられてしまった、という形成文字です。手枷の絵文字「幸」と、人が崖の下で背を丸めて手を前に出してかがんでいるようすを表した文字である「丸」を合わせています。「執」の部首も「土」です。
はたして手枷は、手のうちにあるほうが幸いなのか、ないほうが幸いなのか。姑は、舅がホスピスに入院していた六ヶ月は、手枷足かせの中の半年だったことでしょう。その手枷がとれた状態が「幸い」で、お習字の会だ童謡の会だ詩吟だと、生き生きと未亡人生活をおくって8年になります。
ご主人の介護を続けておられる方の日記。介護者のほうが病気になるくらい、介護はたいへんな毎日なのだと日記から推察されますが、ご本人は、こうして介護ができなくなる日のことを思うと今からつらくなり、今、介護という手枷をはめられた状態こそが自分にとっては幸福なのだ、と書いていらっしゃる。
私は、子育ての間20年近く、夕方以後は外にでることもなく、子供中心の生活でしたが、それを手枷と感じることもなくすごしてしまいました。今、夜おそく帰っても夕ご飯は勝手に作って食べているし、「母がいないほうが気楽」と思っているくらいでなんの心配もなくなりました。手枷はなくなったものの、まだこのスネには需要があるので、足かせはとれていないのですが、こちらの枷は、一生とれそうにありません。稼ぎのない亭主は家に寄りつきませんが、稼ごうとしない子供が臑に齧り付いたまま。まあ、働けるうちは食い扶持稼ぎに励まなければなりません。これが私にとっての幸いなのでしょう。
<おわり>
2010/03/10
ぽかぽか春庭十年一日日記3月>
今シーズン娘息子と見ている連続ドラマのひとつ「コードブルー・ドクターヘリ」。看護師の恋人の元医師が、ALS筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう、amyotrophic lateral sclerosis)の患者となったというエピソードが登場していた。自分自身、筋肉がしだいに動かなくなっていく病であるのに、隣のベッドの患者を励まし生きる気力を与え、医師として自分の寿命を冷静に受け止めている。ドラマだからあんなふうに立派にできるのか、と思うのだけれど、現実の患者さんの中にも、病気と向き合って生きている人はいる。
テレビニュースで報道された篠沢秀夫学習院大学名誉教授の闘病。ALSのため、介護保険の手当では足りず、新宿区に身体障害者として介護の申し込みをしようとしたら、65歳以上の人に障害者介護を認めないと断られてしまった。篠沢名誉教授はテレビ番組の人気者だった有名人だから、報道も動き、新宿区は謝罪したのだけれど、現実には介護利用を断られている一般の人は大勢いるのでしょう。
首から下が動かなくなってベッドで寝たきりになっているウェブ友。ご主人の介護を続け、デイサービスも「万が一の事故を考えて受け入れられない」と断られたと疲れ切っている友。それぞれのつらい立場を思うと、胸がつまります。
この国では、老いることも病むことも受け入れてもらえず、これまでどれほど一生懸命働いてきたとしても、病気になれば「早く死ね」と国家から言われてしまう。
2009/08/31
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>大連再訪 (1)帰国・チェンジ?
8月26日大連空港から帰国。
大連空港の手荷物検査で、今度は電池とお粥缶がひっかかりました。水などのペットボトルは持ち込み禁止と知っていたのですが、お粥も?電池は六個入りのを2パックもっていたら、没収されました。なんで?係り官は「あなたの安全のために」とか日本語で言っていました。大連空港は日本人客が多いので、日本語を話せる人が受け付けにも安全検査のところにもいます。それにしても、毎回毎回、何かしら没収される。ちょっとは学びなさい、というところ。トホホ。
帰りのフライト、大連空港は雨でしたが、日本海上空では晴れてきたので、窓側の席に移動。日本列島上空の飛行で、はじめて、空から富士山を見ました。これまで何度飛行機に乗っても、天気が悪かったり位置が富士山側の窓ではなかったりして、雲の上に頭を出す富士山を見たことがなかったのです。雲海の上に富士の姿が出ています。
♪頭を雲の上に出し~
初めて見る雲上の富士、これは帰国したら何かいいことあるかな?と、思ったのですが、そう甘い富士山じゃない。
前回7月に帰宅したあと、夫は「おかえり」でも「おつかれさん」でもなく、顔みるなり「会社の運転資金が不足。10万、ちょっとだけ貸しておいて」と、言いました。出稼ぎして家族の食い扶持をやっと稼いできたのに、それすらもはぎ取ろうとする。娘は「貸してって言っても、返してこないのだから、父にお金渡すのやめたら」と言うし、妹からは「夫を甘やかしすぎた」と、毎度非難囂々だけど、、、、。夫の「会社経営道楽」のために、私、今までどれだけ苦労してきたか、、、、、、。ギャンブル狂いやら女道楽よりマシと思ってきたのだけれど。
いつも「忙しい」しか言わない夫。私が8月26日に帰国した夜、珍しく家族4人で外食することになりました。どこが珍しいかというと、「夫・娘・息子」の3人の外食と、「夫・姑・私・娘・息子」の5人の外食はあるのに、「夫・私・娘・息子」という4人での外出はめったにないので。
近所の和食店で夕食をとり、さて、妻が出稼ぎした「10万、ちょっとだけ借りた」分を返すのかと思いきや「お金がないから、夕食代はそっちが支払って」という。帰国お疲れさん会の夕食は、働いて帰ってきた私のおごりになりました。
こういう夫だっていうこと、1979年にケニアで出会って以来、わかっていたはずなのですが、、、、、トホホ。お粥の没収以上に、一生の不覚。ナイロビの町で出会ってから今年は30周年。
まあ、無事に帰宅できたのですから、文句は言うまい。4回目、二週間の中国滞在、シンポジウムでの発表も大成功、長白山ツアーもシャンユエと遊んだのも楽しかったし。
ショーモナイ夫がひっついている人生であっても、楽しく生きていられるのだから、よしとしましょう。、、、、。
娘は「こんな父といっしょになった母が不憫だ」と言うのです。
不憫な私、帰国してさっそく仕事。前期に中国へ行っていた間の授業を穴埋めしなければなりません。9月1日から、集中講義の第1陣。日本人学部生への日本語学の授業を2単位分、一日4コマ4日間続け、9月15日からは一日4コマ6日間、日本語教育学の講義4単位分を続けます。
働き者やねぇ。そしてお金は残らない、、、、、、不憫です。
政権担当の党は国民の意思で「チェンジ!」できるけれど、チェンジしようにもヒョータン社長のほか、私の夫に立候補する人がいなかったので、、、、不憫です。チェンジしたいですが、、、、トホホ。
<つづく>
2009/09/01
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>大連再訪 (1)観光塔
8月25日、同僚のリグン先生に車で空港へ送ってもらい、飛行機で大連へ。手荷物検査でひっかかり、ハサミが没収されました。ああ、どうしてスーツケースのほうに入れておかなかったんだろう。いつもの失敗。
大連では、友人ハンさんの教え子が迎えてくれました。ハン先生は、一人娘のシンシンちゃんのダンスコンテストが一泊二日で行われるため、見送りができないからと、教え子を紹介してくれたのです。教え子の田くんは、1988年生まれで、私の息子と同い年。九月から軟件学院(ソフトウエア学部)の三年生です。
ソフトウエア学部では、一年生は日本語、二年生は英語を学びます。彼は一年生のときハン先生から日本語を習いました。今は英語学習をしているので、一年間ならった日本語を忘れかけているから、日本人と日本語を話すチャンスは自分にとってとてもありがたいと、ボランティアを引き受けてくれたのでした。
彼の所属するソフトウエア学部は、全国の大学の中でも難関学部のひとつで、中国各地から優秀な学生が入学してきています。大連出身者で大連にある重点大学の難関学部に入学している人は数少ないので、田くんに「日本人ご案内」の役があたりました。
「私は、情報の授業やプログラミングの成績はよかったですが、日本語の成績は悪かった」と、言いながらも忘れた言葉をいっしょうけんめい辞書をひきひき案内してくれました。
ホテルに荷物を置いたあと、市内の高台にある観光塔へ登りました。高いところから市街を眺めるのが好きだと私が話していたので、ハンさんが、田さんにガイドを申しつけていたのです。田さんは「大連で生まれて大連で育って、今も大連に家があるのですが、観光塔に登ったことはありませんでした」と話していました。「観光客は登るけれど、東京人はあまり登らない東京タワー」みたいなもんでしょう。入場券はひとり50元。
大連市の中心部にある労働公園の南側の小高い山の頂上に塔がたち、元はテレビ塔だったのですが、今は新しいテレビ塔が建ったので、こちらは観光用になっています。登って、ぐるりと一周して市街を眺め、1元コインを入れて望遠鏡を眺めるともうすることもないので、30分もしないで、「さあ、降りましょう」となる。観光塔は、塔のてっぺんは東京タワーより高いですが、展望室は288m。
土産物やでシルク製品を売っていたので、ネクタイをひとつ買いました。ハンさんから「学生は日本語の勉強のために案内するのだから、ボランティア」と言われていたので、お礼を現金であげる代わりに、ネクタイを買い、「お父さんへのおみやげ」ということにしました。
塔の前から、労働公園へ降りるリフトに乗りました。一人40元。リフトで降りるほか、ロング滑り台もありました。
タワーの写真を紹介している「看看大連」
http://www.kankandl.net/dwkanm-tv.htm
労働公園をぶらぶら散歩。田さんは、子供の頃、この労働公園内の遊園地で遊ぶのが楽しみだったと話していました。中山広場の近くにある中山園沌品店というレストランで中華料理の夕ご飯。アワビのスープがおいしかった。二人で3菜1湯(おかず3品とスープ1品)を注文し、ちょっと量が多かったので、残った分は打包(ダーパオ・テイクアウト)しました。
田さんが家に持って帰ってくれます。
<つづく>
2009/09/02
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>大連再訪 (2)田さんのお宅
夕食後、ネットカフェを探してメールチェックをしようと思いましたが、ふと気づいた。中国のネットカフェでは、日本語ソフトを備えていないかもしれない。「日本語が使えるネットカフェがありますか」と、田さんにたずねると、「さあ、私はいつも自分のパソコンを使うので、ネットカフェの事情を知りません。パソコンが必要なら、私の家へ行って、うちのパソコンでメールしたらどうですか。私のは日本語が使えます」というので、お言葉に甘えることにしました。
大連を案内してくれた田さんの家は、大連空港の北方住宅街にあり、両親と一人っ子の家族です。市内といっても、彼の在学するソフトウエア学部は、郊外の開発区にあるので、家から通学しているのではなく、授業のある平日は寮生活。週末や夏休みには実家に戻っているということです。
両親共働きのお宅にいきなり押し掛けたら迷惑をかけるだろうと思ったのですが、彼はお父さんに電話をして、許可をもらってくれました。
雨が降り出したため、中山広場をぶらぶらする、という夕食後の予定はキャンセルして田さんの家へ。途中で果物を買っておみやげにしました。
田さんの家は団地の3階。お父さんの書斎、田さんの部屋、両親の寝室のほか、DKは日本式に言うと20畳くらい。急におじゃましたのに、すっきり片づいています。ご両親は飲み物や果物で歓迎してくれました。
パソコンで「予定通り帰国」というメールをしたあと、田さんの通訳でしばらくお話をしました。お父さんのお仕事は、ドイツとの合弁会社での電車車両開発で、最新の車両を作っているのだということでした。
中国では、同僚のリグン先生のお宅と旧友のハン先生のお宅を訪問したことがありますが、なかなか中国のふつうの人の暮らしをかいま見ることはないので、田さんのお宅を訪問できて、よかったです。
ふつうの人と言っても、「中国新興中産階級の暮らし」という点ではリグン先生やハン先生と同じ条件です。中国13億人の暮らしの中では上層部に属する人々でしょうから、これだけで「中国のふつうの人の暮らし」といえません。
6月に訪問した集安市郊外朝鮮族自治区の村の金希紅さんのおうちは、6畳くらいの広さの一間だけでした。でも温かい歓待の気持ちは同じ。都市の中産階級も、地方の農村の暮らしも、私には貴重な中国を知る機会となりました。
個人のお宅を訪問できたということが、観光旅行ではできない中国を知る旅になって、私にとってはどんな名所旧跡を巡るより印象深い思い出です。
田さんは、2008年6月にプログラミングのコンテストに初出場したのをはじめ、2009年11月にもプログラミングコンテストに参加すると言っていました。大学卒業後は大学院にすすむ希望を持っており、できれば日本へも留学してみたい、というので、日本に来たら今度は私が東京を案内します、留学中にご両親が来日したら、ご両親も案内しますよ、と約束して田さんの家から空港二階にあるホテルへ行きました。
ホテルの部屋はちょっと古かったけれど、空港二階というのが、翌朝8:40のフライトのためには便利。
朝、ふたたび田さんが来てくれて、チェックアウトなどの世話をしてくれました。保証金としてホテルに預けていた60元が戻されたので、タクシー代として彼に渡し、旅客ゲートへ。またまた機内持ち込み荷物検査ですったもんだやってから帰途の空へ。
日本上空、変化はあるのか、チェンジチェンジのまっただ中に着陸しました。
<おわり>
2009/09/03
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>長白山ツアー (1)中国十大山岳・長白山
中国と北朝鮮との国境にそびえる長白山(チャンバイシャン)、標高2,744mの火山で、北朝鮮側の呼称では白頭山です。褶曲山岳が多い中国では珍しい火山で、巨大な玄武岩質の山です。頂上には大きなカルデラ湖「天池」が満々と水をたたえています。周囲を一周すると14km、一番深いところは384mという天池を14の峰が取り囲んでいて、いつも湖には霧が降りていて、3回天池にきたけれど、3回とも天池がみられなかったという運のない人もいます。
天池のまん中が国境となっているため、入山にはいろいろな制限があります。また、中国と北朝鮮の国境となっている鴨緑江や豆満江は、長白山を水源としています。火山であるため、温泉もあり、国をあげて観光開発中です。
1994年の赴任のときも2007年のときも、この長白山へ行くチャンスに恵まれなかったし、2009年7月に同僚の20代の先生が参加した学生向けのツアーは、一泊二日の強行軍だったので、年寄りの体力ではついていけないだろうと判断して参加しなかった。今回こそは是非と思って、国際日本語シンポジウム参加者のために企画されていた長白山ツアーに申し込みました。二泊三日のゆっくりコースで、行きに一日、帰りに一日を要し、山登りは中の一日です。
8月17日、宿泊していた5つ星ホテル(学校側が用意し、シンポジウム発表者は無料で宿泊できたので、貧乏な私、中国で初めて5つ星に宿泊した)を7時半に出発。500km以上の道のりを延々とバスに乗り続けました。東京からの感覚でいうと、区内のホテルを出発して八甲田山に着いた、というところでしょうか。夕方5時半に長白山の山中にある虎林山荘に到着。ここは3つ星ホテルです。
翌日7時半出発。あいにくと土砂降り。山の天気は変わりやすいから、山頂では晴れる信じてバスで登山口入り口までいきました。レインコートを用意していったのですが、持っていった登山用レインコートは、私のおなかだと、リュックサックをしょって着た場合、ボタンがはまらないことが判明。息子のレインコートを試着して「うん、着られるから、借りるね」と言ったときは、そうだ、リュックサックは背負っていなかった。トホホ。しかたがないから、20元だしてビニールレインコートとビニールのレインパンツを買いました。これって、市内のスーパーだとセットで10元なんだけどね。
登山口で、政府観光局が経営している登山バスに乗り換えます。この登山バスと天地の見える頂上へ向かうジープの乗車券は、入山券をかねていて、180元です。北朝鮮との国境問題があるので、自由に山中を歩くことは禁止されていて、決められたコースを歩くことになっています。
2009年7月に長白山に植物採集のために入り、決められたコースをはずれてしまった大学生は行方不明となりました。山中で拉致されたのではないか、という噂です。
最初の目的地は長白瀑布見学。天池の北側から発する川が落差70mの滝となって流れ落ちています。ただし、滝壺へは危険防止のため近づくことができず、下流から記念写真を撮って終わり。雨の中、レインコートとフードで、誰がだれだかよくわからない写真を撮りましたが、滝が写っていたのでよしとしましょう。
<つづく>
2009/09/04
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>長白山ツアー (2)長白山登山はジープで
次は火山である長白山の周囲に点在するカルデラ湖めぐり。滑りやすい山道をゆっくり進みました。山道と言っても、中国の山道はすべて階段。これは2007年に泰山に登ったときに経験済みでしたが、平地や坂道を歩くのは長時間でもがんばれる私が、苦手とする階段なので、かなり疲れました。
階段の途中できれいな景色があると写真を撮りたくなります。引率の先生からは「歩いている途中で立ち止まったり写真を撮ることはできません。危険ですから」と、再三注意を受けたのですが、ときどきこっそりシャッターを押しました。
深い緑が重なる中に、神秘的な水色をたたえた湖が見えると、つい写真を撮りたくなってしまう。
昼食は山中の朝鮮レストランへ。平壌館のように、北朝鮮のウエイトレスが食事の間に歌を歌うショウがついていました。アリランは朝鮮語「北国の春」「津軽海峡冬景色」などは日本語で歌ってくれました。日本人が半分中国人が半分の一行だったので、日本人向けサービスだったのでしょう。
昼食後はお目当ての天池見物。果たして天池は見えるのか。雨はだいぶ小降りになり、ときどき日が差して、天気雨状態になります。
山頂へは、ものすごいスピードでキキキキーッと車輪をきしらせてカーブを曲がって上っていくジープに乗ります。途中の下界を眺める景色はとても美しかったのですが、カーブで必死に車にしがみついていなければならず、写真どころではありませんでした。
一番高い将軍峰は標高2744mですが、天池を眺める山頂は2700mくらい。そのうちのほとんどをジープで上ってしまうのです。登山客は残りのわずかを100mくらいを10分ほどで上ってします。登山客というのに、サンダル履きの人もいて、最初は「中国人は登山をなめとんのか」と思っていましたが、なるほど、これなら日本の白山をサンダルで登る観光客と同じです。
ジープで上る人のほか、歩いて上る人のための登山道を見かけましたが、ずっと階段。私は徒歩はご遠慮します。
ジープが用意されているのは80元の入山料を確保する意味もあるでしょうが、観光客が勝手に山道を登らないための方策でしょう。13億人ジンミンどもをしっかりと管理してやるのが政府の方針ですから。自分たちで地図と磁石を広げて登山計画を練る、なんて自由はありません。
昼ご飯を食べたレストランの北朝鮮ウエイトレスを見て、ツアー一行の中国人エライさんは、気の毒そうに「彼女たちには行動の自由がないのです。集団生活をして、常に監視されています」と説明していました。私から見ると、山に登るのもきっちり管理されているってのも、自由がないことのひとつだろうと思うのですが、岡目八目。きっと日本人の生活を外から見ている人は、「世間の思惑に常に気をつかって生活している日本人の人生は、自由がなくて気の毒」と、見えるのではないかと思います。世間の思惑など気にしないという人、ためしに、ご近所のお葬式に赤いパジャマを着て参列してください。他人の目にどう映るか、他人にどう評価されるかを常に気にしてい生きているのが日本人の人生です。
「人生は重き荷を背負って山道を登るごとし」って徳川家康高が言ったことばですが、長白山のところどころには「不登長白山終生遺憾。(長白山に登らないでいたら、一生残念に思い続けるだろう)」という小平の言が石碑になって建てられていました。彼は1983年に長白山に登り、それ以来、長白山は中国十大山岳に数えられ、観光開発が盛んになったのです。
<つづく>
2009/09/05
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>長白山ツアー (3)長白山天池
天池が見えるはずの頂上に着くと、ものすごい風。尾根から吹き飛ばされそうになり、危険を感じた引率の若い先生は「すぐ下山しましょう」というのです。引率の先生には「一行を安全に誘導する」という責任がかかっているので、天池なんぞどうでもいいから安全に下山してほしいという気持ちだったのでしょうが、皆「一瞬でもいいから天池を見たい」と、風のなか、霧の晴れ間を待っています。
しばらく風に耐えていましたが、30分ほど粘ったのちあきらめて降りかかったら、ワーッという歓声が聞こえました。一瞬霧が途切れ、天池の湖面が見えたのです。私もあわてて尾根に戻り、また霧の切れ間があるかと待ちました。
二度ほど霧が途切れて、ほんの5秒ずつほどですが、きらきらと波が輝く湖面が見えました。写真を撮ろうとして、レインコートの中からカメラを出している間に、すぐ霧が閉じてしまう。
たった5秒でも、見えたのと「天池が全然見えなかった」のでは、せっかく登ってきた気持ちに大きな違いがあります。皆で「見えたねぇ」「よかったあ」と声かけあってジープ乗り場の山小屋まで下山しました。
山小屋の前で、引率責任者の副校長テイ先生が太極拳をして体をほぐしていました。私も24式太極拳を2年前にテイ先生に教えていただいたのを思い出して、先生のまねっこをして、いっしょに動きました。
テイ先生は下山して市内のホテルにもどってから、留守役のもう一人の副校長に「二人して長白山の山頂で太極拳をしたんだ」と、おもしろそうに話していました。
天地見物のあとは、「地底森林」「谷底森林」の見学。深い谷底まで原生森林が広がっています。きっちりと木道がしつらえてある森の中を、木の階段、石の階段を上ったり降りたりしながら、「谷底森林」をながめ、「白河バイフゥァ」を見たりしました。白河は、私にはどうということもない、ふつうの山中の急流です。日本の河はたいていこのような白い川波をたてて流れ落ちていく。しかし、大陸をゆったりと流れていく河が川だと思っている中国の人にとって、このような白い川波を沸き立たせながら流れる急流は珍しく思うのか、皆、さかんに写真を撮っていました。
ツアー同行者は、日本の大学を定年退職した老名誉教授とか、昨年まで東京にある在日本中国大使館の一等書記官だった女性がお孫さんを連れて来ているとか、老人子供の一行なので、ゆったりペースで行動できました。一日で歩いたのは合計しても6時間ほどで、それほど疲れはありませんでしたが、夜、ひまなので、足裏マッサージを部屋に呼んで揉んでもらいました。どうやら見よう見まねの素人のおばさんだったようで、足裏の壺はぜんぜん理解してなかった。マッサージおたくの妹なら怒り出すところですが、私は「肩揉みもサービスでしてくれたし、ま、いいか」と45分で60元という「観光地値段」を払いました。
帰りは一日かけて、朝7時半に虎林山荘を出て500キロを走り、午後3時半にホテル着。ツアーの一行は続けて5つ星ホテルに宿泊しますが、私は4ヶ月半住んでいた大学外国人宿舎に移動。今までとは別の部屋ですが、台所と、六畳間くらいの広さのバスルーム、15畳くらいの書斎、12畳くらいの寝室です。5つ星もいいけれど、古い宿舎のほうが広くて居心地がよい。こちらに一週間宿泊しました。
宿舎の近くの盲人按摩は60分20元(300円)で足ツボマッサージができますので、帰宅した後、按摩屋に出かけてまた揉んでもらいました。こちらはツボをぐいぐいで、かなり効いた。
天地も見えて、楽しかった長白山ツアー。小平の言う「不登長白山終生遺憾。長白山に登らないでいたら、一生残念に思い続けるだろう。」にはならず、一生の満足になって、よかったよかった。
本日還暦記念日なり。暦が一巡してかえり見れば、「一生の満足」と言えるかどうか。まあまあ、可もなし不可もなし。たいした人生ではなかったものの、不幸といえば人生後半にショーモナイ夫がひっついてしまったことくらいで、、、、天池を5秒間眺めることができたってところが、人生の成果なのでしょう。
<ニーハオ春庭 おわり>
2009/08/23
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(1)謝謝3班の仲間たち
4回目の中国滞在の1番の目的は、勤務校の創立30周年記念の国際日本語教育シンポジウムでの発表です。
3月から7月まで勤務した学校は、1974年に田中角栄訪中で国交回復したあと、日本中国の国家共同の日本語教育施設として1979年に開校して以来、中国有数の日本語教育の場となっています。今年は、学校をあげて30周年記念イベントの準備が続けられてきました。盛大な記念行事の場で発表できることになって、ラッキーでした。
担任した博士コース3班の学生たちには、メールで「発表を聞きに来てください」と連絡しておきました。
16日の発表の前日、8月15日、元の担任クラスの教室で学生たちと再会。日本に帰国中、8月1日から12日まで連日、授業資料を作る以上の熱心さで取り組んだ「3班思い出のアルバム」を披露しました。
クラスの集合写真や、生け花、浴衣姿、縄跳び大会、カラオケなどのクラスイベントでの写真、また「3班の仲間たち」と題したひとりひとりの写真にコメントをつけて編集したアルバムです。
写真につけたコメント、たとえば、出席番号1番のレイトウさんの写真には「加油!世界中には30億人の女性がいる、がんばって!」と、コメント。まだ恋人いないレイトウさんへのエールです。
在学中に恋人を得た出席番号2番のコウキさんへのコメントは、いっしょに動物園へ行ったときの写真に「コウキは、縞馬よりキリンより、リンリンが好きです」というコメントをつけました。リンリンはコウキさんのガールフレンドの名前です。
アルバムをコンピュータ・プロジェクターで見た後、大学食堂の宴会室でランチ会。
16日、学生たちは、私の発表のとき、盛大な拍手をしてくれました。日本や中国各地からのシンポジウム出席者のすぐれた発表が相次いだなか、拍手の音量だけなら、私が1番でした。サクラのみなさん、ありがとう。
いえいえ、拍手だけでなく、私の発表は、各方面か好評を得ることができ、3月から7月まで、食事する時間も惜しんで授業資料を作り続けたことの甲斐があったといえます。ドストエフスキーの新訳で名高いロシア文学者の学長先生からも「よい発表でした。このような授業をしてもらえるなら、学生たちは毎日楽しいでしょうね」と、言っていただき、面目をほどこすことができました。
サクラ役をしてくれた博士コース3班の学生は、最初17名でしたが、4月に一人、7月に一人、途中からクラスに加わって、基礎日本語課程終了時には19名でした。
19人、いつも仲がよく、助け合って学習しており、グループラーニング、ペアラーニングの実践にとって、この上ない環境でした。
そして学生たちは「先生、センセー」と慕ってくれるので、教材作りにも熱が入り、授業もよい実践ができました。
21日には、私の宿舎の宴会室で専門日本語教育担当の先生方との夕食会を行いました。
学生は、「センセーとなら緊張しないで日本語で話せるけれど、専門日本語の先生とは緊張してしまう」と言っていたのですが、夕食会がはじまると、それぞれいっしょうけんめい日本語で話していました。
<つづく>
2009/08/24
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(2)教授方との夕食会
私が夕食会にお招きした専門の先生方、東大、東工大などの教授たちです。非常勤講師にすぎない私、普段ならご一緒することもないエライ先生方なのですが、私のシンポジウム発表のときお世話になったので、夕食にご招待することになりました。
「シンポジウム発表のレジュメは各自でプリントして配布する」ということを私は理解していなくて、レジュメは主催者側で作成するものとばかり思っていたのです。そのためにシンポジウムが始まってから慌ててプリントを作るはめになりました。
ところが、こんなときに限って基礎日本語講師室のコピー機が紙詰まりを起こして使えなくなり、専門日本語講師室のコピー機を借りることになりました。講師室にいた先生方、皆さんで窮地に陥った私を助けてくださり、教授たち皆で「印刷係」として手伝ってくださったのです。日頃は秘書を使っているような先生方を印刷係にしてしまって申し訳ないことだったので、「夕食ご招待」で勘弁してもらうことにしました。
学生と教授、教授夫人2人。合計16人で夕食をいただきました。実をいうと、中国でお金を使った一番の高額消費が、このときの宴会費用です。アワビ、伊勢エビ、刺身、上海蟹など、日頃は食べないような豪華メニューがつぎつぎにテーブルに並びました。
テーブルについた学生たちも「教授のお話をうかがう接待」に、緊張しながらもがんばってくれました。専門日本語課程の先生の日本語は、日本人大学院生に話すのと同じ日本語なので、彼らにはちょっと難しい。日本語2級レベル試験に合格したというものの、今までは基礎日本語教師が語彙コントロール文型コントロールをして、彼らに理解できないことは話さないようして会話が成立してきたのですから、いきなり「ふつうの大学院レベルの会話」をしても、理解できないことが多い。
エンテイさんは、彼の日本語ブログに正直に「隣の席になった教授のお話は、ぜんぜん理解できなかった」と書いていました。このとき、エンテイさんの隣に座った教授は、ご母堂の学友が森鴎外の娘や夏目漱石の娘さんだったというお話しをなさっていました。明治の文豪たちを「鴎外さん、漱石さん」と親しげに呼ぶお母さんの影響で文学を志したのですが、お父様に「文学では将来食っていけない」と諭されて理系になったのが、生涯の心残りで、本来は文系にすすみたかったのだ、と語っていたのでした。「森茉莉(まり)さん、杏奴(あんぬ)さん」と、なつかしげに文豪の娘たちの名を呼び、明治文学を語る教授の話、たしかにエンテイさんには難しかったと思います。
専門日本語教育は、留学先である日本各地の大学の教授たちがチームを編成して文科省派遣教師団として、8月1ヶ月を「専門日本語教育」として特別に授業を編成しています。8月の1ヶ月間で、医学や工学などの専門分野についての講義をして、日本の大学院での研究生活ができる日本語力を養成します。
学生たちの専門は多岐にわたっているので、自分の専門の教授が派遣されている学生はいいですが、違う専門にあたる学生もいます。エンテイさんの専門は薬学ですが、薬学専門家は今回派遣されていないので、「材料化学」の教授に教わることになりました。
その材料化学の教授から「明治文学」の話しをあれこれ伺うことになったのです。私は基礎日本語の授業のとき「お札になった日本人」紹介として夏目漱石について教えたことがあるのですが、森鴎外については、「日本人の住まい」という読解の授業のときに明治村の森鴎外旧居を紹介したくらいで、文学上の紹介をしていなかったので、エンテイさんにとって、鴎外文学の話は「ぜんぜんわからなかった」のもしかたがありません。
日本語教師たちは、学生の日本語力にあわせて語彙や文型をコントロールしながらゆっくり話すように訓練されているのですが、教授たちは大学の学部生や院生に教えるのと同じ日本語で授業をしますから、毎年学生たちは8月になるといきなり難しくなる日本語に苦労してきたのですが、今年も「専門日本語は難しい」と、メールがきていました。
英語教育に置き換えてみると、英語を習っている日本の高校生が、夏休みにいきなりオックスフォードやケンブリッジ大学の教授の授業を英語で受講し、その場で英文で感想レポートを書かされる、と思ってください。
しかし、教授たちは「午前中に専門のレクチャーをして、午後内容要約と感想を発表させているのだけれど、なかなかしっかりと発表しているので、最終プレゼンテーションもこのぶんなら全員合格するだろう」と、お話ししてくだったので、一安心です。
<つづく>
2009/08/25
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(3)シャンユエに会いたい
専門の先生たちとの夕食会がおひらきになったあと、「私の宿舎に泊まってください。2室にシングルベッドとダブルベッドがあるから、みなで泊まれますよ」と言ったのですが、「まだ、発表の準備が完成していません」と、大学の寮に帰って行きました。
今週末には、学生たちは日本語で自分の専門分野についてのプレゼンテーションをします。その発表成果が最終試験となっていますから、みな発表原稿やパワーポイントファイルの制作に余念がありません。
ひとりルールーだけ「私はもう準備が終わりました」と、宿泊することになり、週末いっしょに遊ぶことになりました。ルールーの専門は遺伝子学です。クラススピーチのとき、額の形が富士額になる場合や耳の形について、遺伝子の要素の説明をして、クラスでおでこや耳を見せ合って、みな楽しく遺伝について学びました。
ルールーに泊まってもらったのは「日本語が話せない私の友達を招いているので、通訳をしてください」とお願いするためでした。中国語を話せない私に、日本語も英語も話せない友達がいるって、不思議なようですが、、、、
前回2007年の中国赴任の思い出の中、もっとも印象深かったことのひとつが、13歳のシャンユエと友達になったことでした。
シャンユエは、バスで1時間ほど行った先にある郊外の小さな田舎町、合隆鎮に住んでいます。2007年の7月には中学1年生でした。8月には2年生に進級するという「少年」シャンユエと友達になって、動植物公園や「長影世紀城」というテーマパークでいっしょに遊びました。動物園でシャンユエの「祥[王月]」という字は女性の名によく使われる文字なので、「男の子なのに、親御さんはどうして祥[王月]という文字を選んだのか」と質問したら「我是女児」と、言ったのでびっくりしたのです。
2007年6月7月に私が楽しんでいたことのひとつに、「どこへ行くのか知らないバスにひとりで乗り込んで終点で降り、そこにある食堂で夕食を食べて帰る」という「プチ冒険」がありました。ときには、店も何もない畑の真ん中が終点、ということもあったのですが、「1元バスツアー」と称して、どこへ着くのかドキドキしながらバスに揺られて夕食を食べに行ったのです。
シャンユエの家は、合隆鎮のバス停終点の前で「魏味佳」という食堂を営んでいました。バスを降りて夕食をとった食堂がシャンユエの家だったのです。
シャンユエの写真を撮ってプリントしたものをこの食堂あてに送付したのですが、写真が届いたという返事はこないまま2年が過ぎ、はたしてシャンユエは写真を受け取れたのかどうか、わからないままになっていました。
2009年の赴任で、毎週「今週こそはシャンユエに会いに行こう」と思いながら、毎週末、ひたすらパソコンに向かって、食事はワープロをたたきながら食べるという暮らしを続けたため、ついに一度も会いに行くことができないまま終わってしまいました。4回目に中国に来た目的のひとつは「シャンユエに会いたい」ということでした。
今回の中国滞在目的の1番目は国際日本語教育シンポジウムでの発表、2番目は長白山ツアー、3番目がシャンユエに会いに行く、ということ。
2007年8月の「合隆鎮の魏味佳」は、以下に。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200708A
<つづく>
2009/08/26
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(4)高校生シャンユエ
2年たって、はたして「魏味佳」が同じ場所にあるのかどうかもわかりません。私の宿舎の周囲では2年間に多くの店が入れ替わりました。私が洗濯物を出していた「天使干洗店」はペットショップに変わっていたし、宿舎の隣のさえない食堂は「時尚旅館」になっていました。
合隆鎮行きのバス、駅前の185番に乗って小一時間。終点の前には。あらまあ、「魏味佳」の店は、はやりのケータイ電話屋になっていました。やっぱりね、、、、、、
魏味佳のとなりのとなりにあった「旅店」のおばさんに「となりのとなりの串焼き店は、どこへ行った?」と、聞いてみましたが、私の発音ではさっぱり通じなくて、おばさんは「一泊は30元だよ、ビタ一文まけないよ」と、繰り返すばかり。2年前は一泊20元だったのに、ま、それはいいや。
しかたがないから、ぶらぶらと通りを歩いていきました。5分ほど歩いてみて、ま、仕方がない。2年の歳月がたっていたのですから、合隆鎮も変わったのだ、と納得して、さて、帰るまえに念のためにケータイ電話屋に聞いてみることにしました。
私の四声はどうにも通じないので、筆談で「2年前には、ここにあった串焼き店に、シャンユエという子がいて、今は15歳になっているのだが、知らないか」と聞いてみました。ケータイ屋は、私が話が通じないことが分かると、英語がわかる若者を呼んできました。私が人捜しをしていることがわかると、シャンユエを知っている人を探してきてくれました。「このケータイ屋の場所は、前は串焼き店だった」「シャンユエ」この二つのキーワードだけで、なんとか通じたのです。
男の人が先に立って、案内してくれました。私がさきほどぶらぶら5分歩いた道をどんどん進んで行きます。5分歩いてあきらめて引き返した、そのちょっと先に、「魏味佳」は移転していたのでした。
あとで聞いたら、移転したのは、今年4月だったということです。合隆鎮のバスターミナルは2か所あって、移転先は、長距離ターミナルの前です。(といってもマイクロバスが数台停まっている、というだけのところですが)
シャッターが閉まっていましたが、男の人は人を呼んで来て、シャッターを開けさせてくれました。店の中で待っているように言われ、しばらく待っていました。
シャンユエが、店にとびこんで来ました。背が伸び、ちょっと大人びていましたが、相変わらずショートカットの「少年」です。
筆談で「中学3年生になったんだっけ」と訪ねると、「8月25日から高級中学(高校)の1年生だ」というのです。大きくなっているなあ。
高校に入学したけれど、勉強はきらいで、スポーツが好きと言います。英語も好きじゃなくて話せない、というのですが、「I like sports.」これは英語で言えました。
店にいた親戚の女の子といっしょに、前に店があった場所の近くにある市場へ行き、入学祝いを買いました。最初、服の売り場をブラブラして、「puma」とか「adidas」のスポーツシャツはどうか、ときいたのですが、シャンユエは「いらない」と言います。親戚の女の子がフラフープがほしいというので、おもちゃ屋へ行きました。
<つづく>
2009/08/27
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(5)シャンユエとルールー
フラフープにはいろいろな大きさのがあったので、どれがちょうどいいか、いろいろ見ているうち、女の子はお人形セットに目うつりして、「これがほしい」と、言います。15元の「ナース人形セット」で、おもちゃの注射器や聴診器、ナース服の人形がセットになっています。彼女はナース人形に大喜びでした。
おもちゃ屋にスケートボードがおいてありました。シャンユエは「スポーツが好き」というので、「乗ってみて」と勧めました。シャンユエがボードに乗って試してみると、できそうなので、「これにしよう」と、買うことにしました。スケートボードは100元。高校勉強に必要なものは両親が買ってくれるでしょうけれど、遊び道具はどうかわからない。スケートボードは、「親にはおねだりしにくいけれど、自分のこずかいで買うにはちょっと高い品物」ですから、旧友の日本人のプレゼントとして高校入学のお祝いにちょうどよかったかと思います。
シャンユエの「合隆高級中学」へ行って見ました。魏味佳から200メートルほど先にあり、走っていけば1分で高校に着く。始業ベルが鳴ってから走っていける場所にあります。
煉瓦作り1階建ての校舎が6棟あり、その先は雑草の生えているグラウンド。入り口に近いところが「3年級」真ん中が「2年級」。そうするとグラウンドに近いほうが1年級なのでしょう。
「化学」の教科書を抱えた眼鏡をかけた女の人が通りかかったので、「この高校の化学の先生ですか」と訪ねてみたら、その通りでした。「この子は、8月にこの学校に入学するんです。私はこの子の友達です」と、聞かれもしないのに自己紹介。勝手に校庭に入り込んだので、あやしいものではないことを言っておかないと。
「魏味佳」の店に戻ると、シャンユエの」お父さんとお母さんが店に来ていました。今日の開店は夕方からのようです。両親に筆談で、8月26日に日本へ帰ること、22日23日の土日にシャンユエと遊びたいと話し、許可を得ました。
21日に私の部屋に泊まっていっしょに遊ぶことになったルールーには、「シャンユエは日本語がぜんぜんわからないし、私は中国語が話せないので、通訳になってください」とお願いしました。
2年前にシャンユエといっしょに遊んだときは、私の中国語家庭教師役だったジョウさんがいっしょに動物園や南湖公園で遊んだのでした。
22日に、合隆までシャンユエを迎えに行きました。ルールーは、その間桂林路の美容院で髪の手入れ。
シャンユエには、10時に迎えに行くからと行って、日本人らしく10時ぴったりに魏味佳の店につきましたが、シャンユエは中国人らしく、10時半に店にやってきました。
12時にマクドナルドの店の前で会う約束でしたが、12時半になりました。ルールーは「中国語わからない先生がひとりでバスに乗っていったので、迷子になったかと心配した」と言うので、申し訳なかったです。
「古本吉田」という牛丼店で「日式どんぶり飯」を食べたあと、かっては市内で一番高い建物であったテレビ塔へ登りました。現在はテレビ塔より高いビルもどんどんできているのですが、まず、シャンユエに「高いところから市内を見渡す」という経験をしてもらいたかったのです。
シャンユエは望遠鏡を覗いて、南湖や市内のビル群を見ていました。2年前は、私が中国語を理解していないことに遠慮なしにどんどん中国語で話しかけてきたのに、高校生になったシャンユエは、とても寡黙になっていて、ルールーが通訳するから大丈夫と言っても、あまり話さない。
<つづく>
2009/08/28
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(6)シャンユエ大熊猫を見る
テレビ塔を降りて、次は動植物公園へ行きました。前回担任クラスの学生たちと動植物公園へ行ったとき、ルールーは来られなかったし、シャンユエもパンダを見たことがないので、まずはパンダ(大熊猫ダーシューマオ)見物です。
動物園では動物ショウで熊、山羊や猿が芸を見せていました。白虎(アルビノ遺伝子による白い虎)は、馬に乗って登場。
前回、昼間にパンダ館を見たのでずっと寝ていましたが、今回は夕方だったので、パンダは室内で笹の葉を食べていました。おしりを床につけておすわりをして、ムシャムシャ笹を食べ続けています。
パンダ部屋の中に、サツマイモのような大きな茄子のようなものが、ころんと転がっています。パンダの糞でした。上野動物園では、このようなパンダの糞を見たことがなかったので、写真にとったら、シャンユエは笑っていました。
22日の夕食は平壌館へ。
朝鮮料理はシャンユエの住む合隆鎮にも朝鮮族の店があるから珍しくないですが、北朝鮮のウエイトレスの歌唱ショウは、シャンユエも楽しんでくれるだろうと企画した夕食です。昨年10月から市内に住んでいるルールーも、郊外にあるキャンパスから外に出て、繁華街である桂林路に来ることは少なかったし、平壌館に入るのは初めてと言っていました。
ジャガイモ餅や鶏手羽フライを食べながら待っていると、7時半にショウが始まりました。朝鮮や韓国、中国の歌が美人ウエイトレスたちによって歌われました。テレサテンの「時の流れに身をまかせ」の中国語バージョンもありました。
料理と歌を楽しんで、22日は宿舎にルールーとシャンユエが泊まりました。
22日、動物園見物のあと、動物園の向かい側にある大学本部キャンパスへ行きました。
シャンユエに将来何になりたいかたずねたのですが、「わからない」と言います。「大学に入りたいか」とたずねても「スポーツは好きだけれど、勉強はあまり好きじゃない。大学に行くかどうかわからない」と言います。
両親の意見は?と、聞くと、「弁護士になれと言っている」と言います。まあ、だいたいの親は日本も中国も、文系なら「法律を学んで弁護士になれ」理系なら「医者になれ」というのです。
エンテイさんも「医者になれ」と親に言われて、医学の隣接科目である「薬学」を選んだのだそうですし、ルールーは医学部に入学して遺伝子治療に興味を持ち、現在の専門は遺伝子学です。
合隆鎮に住むシャンユエは、「大学」というのがどういう場所なのか具体的なイメージを持ったこともない。日本のように、大学が「オープンキャンパス」なんてイベントはしないし、中学生が大学見物するという機会もない。
私はぜひ、シャンユエに大学見物をしてほしかった。
新しくできた郊外キャンパスの中で過ごしてきたルールーも、本部キャンパスの中を見たことがなかったので、まずはキャンパスのなかを歩いて見ました。立派な(というか、ばかでかい)図書館(どの大学も図書館を大学象徴の建物として建てるので、大学図書館の建物はやたらにでかい)、物理学部、生命科学部などの校舎。正門近くの外国語学部校舎は、私にとっては、なつかしい建物です。
「1994年に私がはじめて中国で教えたときは、この外国語学部の校舎だったのよ」と、ルールーに言い、ルールーは中国語でシャンユエに説明しました。
<つづく>
2009/08/29
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(7)シャンユエの大学見物
23日は、友達と桂林路で会う約束ができたルールーと分かれて、シャンユエと郊外キャンパスへ行きました。大学が設置している博物館を見せようと思ったのです。ルールーはエンテイさんに電話をして、エンテイさんが通訳として博物館をガイドしてくれました。
1階は恐竜の骨格標本や動く恐竜レプリカ。2階は馬の進化のようすを模型で展示してある。3階は世界の蝶の標本。4階は中国東北の自然を再現した剥製標本の展示。エンテイさんは、いっしょうけんめいシャンユエに説明をしてくれました。
大学の中にある食堂で昼ご飯を食べました。元3班の学習係だったチョウカショさんと北京からカショをたずねてきた恋人と食堂であったので、いっしょに食べることになりました。カショさんのルームメートのイヨウさんとカショウマンさんもいっしょです。
カショさんは、「元3班のヨウショウさんとエイケイさんに、招待所で専門の教授たちとの夕食会で食べたごちそうの話をしたら、うらやましがっていました」と言います。ほんと、私だって日頃食べたことのないごちそうでしたよ。
カショさんは最初は機械工学を専攻し、農機具開発を研究するはずでしたが、中国農業の将来を考えるようになり、大学院に入るときに専攻を替え、農業史や農業経済を研究することになりました。日本では東大の経済学部で博士号をめざします。
ランチのあと、イヨウさんとエンテイさんがシャンユエにキャンパスの中を案内してくれる間、私は元の担任していた教室で、学生たちの最終プレゼンテーションのパワーポイントファイルのチェックをしました。専門の工学や化学の部分は私には理解できない難しい化学式や数式がありますが、日本語の部分で、やはり手直しした方がいいことが見つかるのです。教室に来ていた学生のpptをチェックしていると、シャンユエが教室にやってきました。
私が勤務していた校舎は、語学教室としては中国でも最先端の設備を誇っている学校なので、教室設置の大型コンピュータセットとプロジェクターは、シャンユエには珍しいものだろうと思います。シャンユエが大学について具体的なイメージを持てるようになるといいと思いました。
シャンユエに「本部キャンパスとこの郊外キャンパスのどちらが気に入ったか」とたずねると、新しい郊外キャンパスのほうが気に入ったということでした。
中国では、高校3年生は卒業前に略称「高考」を受けます。この「普通高等学校招生全国統一考試験」の点数によってどの大学に入学できるか決まります。なかでも重点大学と呼ばれる一流大学への入試の点数は高い基準があるので、金持ちの親はあの手この手で我が子の入学を画策し、毎年不正事件が新聞に載ります。
替え玉受験なんてのは序の口です。
同級生のなかに、頭はいいけれど大学へ出してやる金のない親を持つ子がいると、金持ちの親はその子の親に不正をもちかけます。自分の子と前後の席になるように受験番号を獲得して、「大学に入るお金をだしてやるから」という条件で、入試のとき、そっくり答案を写させる、なんてのも序二段くらい。
幕内クラスになると、お金が無くて大学進学をあきらめた子の戸籍を不正手段で入手して、その子になりすまして、優秀な成績の子が受けるべき「推薦入試」をそっくりもらってしまい、大学入学後もその子になりすましている。戸籍を盗まれた子が、一念発起して通信教育で教員資格を取得しようとしたら「あなたはすでに大学を卒業しているし、教員資格を取得しているではないか」と指摘され、はじめて自分の戸籍が他人に使われていたことを知る、他人が自分になりすましていたことに気づく、なんてことも起こっています。
中国は日本以上に学歴がものを言う社会だから、不正手段もこれからあの手この手の秘術がつかわれることでしょう。
<つづく>
2009/08/30
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(8)シャンユエの将来
日本の大学受験者は現在では70万人前後。日本の大学・短大の数は1200校あり、どの大学でもいいという条件なら、全員が入学できる定員数があります。一方、中国の「高考」の受験者数は2009年には1020万人。中国の大学・短大はこの10年で急激に増加し、現在は2000校にのぼっており、入学定員はこの5年間で倍増したのですが、それでも大学及び短大に入学できるのは600万人ほどですし、重点大学(プロジェクト211大学)ともなれば、将来のエリートコースが約束されているのですから、親の大学進学熱は、一人っ子に対していやがおうにもヒートアップしています。
08年の当局からの発表によれば、大学での生徒募集人数は599万人、大学院では44万9000人と、07年比でそれぞれ5%、6%増加しています。在学中の大学生総数は1738万8000人、大学院生数は110万5000人に達しており、高等教育機関の在校生数は世界第1位となっています。大学・大学院への総入学率は22%に達し、「中国の大学経営」は、中国で有数の「成長産業」です。
シャンユエの親が「弁護士になれ」というのも、親がイメージする「高学歴のエライ人」というのが「弁護士」か「医者」だからです。
日本では村上龍が編集した「13歳のハローワーク」のような本があり、中学生高校生が具体的に将来のビジョンを持つことができますが、シャンユエのような環境で、さまざまな仕事や進学のイメージはテレビなどで見る以外に持ちにくく、自分自身の目で実際に大学を知る機会がない。
今回の「シャンユエの大学見物」は、高校入学祝いのスケートボードよりももっと意義ある私からのプレゼントでした。
シャンユエが将来大学に入るかどうかはわかりません。「もし大学生になったら、夏休みに必ず日本へ招待する、日本への航空券を郵送し、私の家に滞在できるようにするから、勉強に励みなさい」とエンテイさんに通訳してもらいました。
シャンユエの将来はシャンユエのものだから、彼女は自分自身でなりたいことを見つけるのがよい。しかし、田舎町の環境で大学へのイメージを持ちにくい彼女に、できるかぎり広い世界の入り口を見せてやりたくて、大学案内をエンテイさんたちに頼んだのでした。
シャンユエの両親は串焼きの食堂を営んでいるのだから、シャンユエは特に努力しなくても、両親の店を受け継いで、田舎町の中では裕福な層として暮らしていくことができるでしょう。でも、高校在学中に将来への夢が芽生えたとき、その入り口にさまざまな可能性があったほうがいい。大学進学もその可能性へのひとつのドアです。
大学見物のあと、近くにある浄月潭公園を散歩しました。浄月潭は、市内の水源するために開発された大きな貯水公園を散歩です。1994年に初めて学生たちと遠足に来たころは、ただ広い森林と湖が広がる静かな場所でしたが、現在は開発されて公園として整備され、周辺は住宅エリアになってたくさんの家が建ち並んでいます。
公園の中には日曜日とあって、結婚前撮り写真をとるカップルが大勢いました。専門の業者が、まもなく結婚式を挙げるカップルにさまざまなポーズを撮らせて写真集を作るのです。
シャンユエと頭上を飛び交うとんぼや花のまわりをひらひらするチョウチョを指さしたり、広々と広がる湖水や湖に影を映す森林をながめ、青空と白い雲を眺めてすごしました。帰りは160番のバスに乗ったのですが、疲れて眠ってしまい、下車する予定のバス停からだいぶすぎてしまいました。慌てて降りて、結局タクシーで宿舎まで戻りました。写真屋で昨日動物園で撮ってプリントした分を受け取り、写真とクッキーなどのおみやげを持たせ、ちょっとおそくなったのだけれど、駅前まで送って185番のバスにシャンユエを乗せました。
13歳のシャンユエに偶然出会い、今回は15歳のシャンユエとまたまた運良く出会えた。
シャンユエは私を他の人に紹介するとき「我的朋友。わたしの友だち」と、言います。言葉が通じない、そして年齢差が大きいふたりですが、二人の間に友情成立。これから20歳のシャンユエ、30歳のシャンユエに出会うことを楽しみに、「再見」を言いました。
<つづく>
2009/08/01
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(30)帰国&帰省
カレンダーに書き入れた、私から学生へのメッセージ。キンセイさんへは「結婚おめでとう。二人で力を合わせて研究してください」、エイケツさんへは「古箏の弾き方を教えてくださって、ありがとう。いつかまたいっしょに合奏しましょうね」と、ひとりひとりへの思いを込めたことばを書きいれました。
学生から家族へのメッセージには「必ず博士号をとって日本から帰るから、体に気をつけて待っていてください」とか「一家が平安でありますように」などの思いを込めたことばが中国語で書かれています。それぞれが「世界にひとつだけの手作りカレンダー」になって、よい記念品になったと思います。
学生から私への記念品は、ひとりひとりの手書きメッセージに写真を添えた記念アルバムです。授業最終日の7月16日に、班長さんが代表になってプレゼントしてくれました。
全任務を終了し、基礎日本語終了を祝うカレンダーを配りながら、来し方を振り返る。3月中旬から7月下旬まで4ヶ月半の短い赴任期間でしたが、成果はいろいろありました。
1)本務。担任クラス19名の2級レベル試験合格(受験した5クラス全員が合格し、国費留学生の資格を保持しました。さすが、中国全土から選抜された修士修了者たちです)
2)4ヶ月半の間に、文科省視察団の授業参観、日本語教師団団長の授業参観、中国人教師の個人的授業参観2回、勤務校中国人日本語教師総見の授業参観、他校の教師による参観、都合6回、参観授業を実施した。
3)本務に付随する仕事。教師としての実践報告。「文型教育及び読解教育のなかで行うパワーポイント利用の日本事情教育」という日本語教育実践報告論文を1本仕上げ、勤務校の「創立30周年記念論集」に応募。査読にパスして、国際日本語教育シンポジウムでの発表者に選ばれました。8月16日発表日に併せて再び中国へ行くことに決定。
4)大学院博士課程学生として。日本語言語文化に関する紀要論文を1本仕上げ、大学院のジャーナルに掲載。
5)「村上春樹研究」で博士論文を提出する中国人日本文学研究者の論文添削をはじめ、3人の中国人日本語教師の日本語日本文化研究論文の添削をした。学部4年生日本語科学生(日本人講師室アシスタントを務めてくれたかわいい女子学生ふたり)の卒論を添削。都合、論文4本卒論2本の添削。皆、私のところに添削希望を持ち込んできます。気安く頼みやすいからだと思います。
6)勤務地の日本語教師勉強会で、「日本語教育実践報告-パワーポイントファイルの読解教育利用-その利点と欠点」について発表。
7)東北地方の三か所の世界遺産見学。集安市、好太王石碑と将軍墳ほかの遺跡。遼寧省葫蘆島市の九門口長城。瀋陽市のヌルハチ陵や盛京故宮。
8)ベリーダンス習得
私としては8番目のベリーダンス習得をおおいに誇るところです。おお、すばらしい活動成果!と、自分で誉めておく。娘&息子からは「ああ、あ、暑苦しいハハオヤが帰ってきちゃったよ」というふうに迎えられているのですから、せめて自分で自分に「よくがんばりましたで賞」くらい贈ってあげないと。
<つづく>
2009/08/02
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(31)健康第一
7月31日午後は、健康診断。区の無料診断の締め切りが7月31日でした。朝から食べてはいけないというので、ダイエットになるからがんばれと、自分を励まして午前7時に目覚めてから午後5時の検診開始まで空腹に耐えました。えらいなあ、私。って、みんな検査のときはこれくらいやっているよね。普段空腹に耐えることないので、えらい大仕事した気になっています。
血液検査は、外部検査に出して結果が戻るまで5週間かかるということですが、あとの結果は、X線レントゲン、血圧、心電図、尿検査すべての数値が理想的な範囲に収まっていて、何の問題もない健康体であると、内診の若いお医者さんが保証してくれました。母と妹が患っていた糖尿病について心配していたので、今回の数値ではその心配もなかったことがわかり、ほっとしました。
無事、中国での任務を全うすることができ、元気に帰国できたのも健康であったればこそ。同僚の先生方、みな一度はおなかの調子が悪くなり「脂っこい中国料理はこれ以上食べられない」という状態になったのに、一番年寄りの私ひとり、最後まで中国料理を食べ続けました。
レストランで日本料理を食べたのは5ヶ月で6回。「古本吉田」というチェーン店の牛丼屋に1回、「888ラーメン」という北海道ラーメンのチェーン店に3回(安いから)、「プチ北国」という和食レストランで刺身定食1回。長白山ホテルの中にある「紅葉」という和食レストランで「200元で和食食べ放題」というのに1回行きました。
自炊で和風料理を作ったのも、みそ汁を何度か作り、菜っぱのお浸しを作ったのやカレーライスを一度作っただけで、あとは大学職員食堂のセルフサービス中華ランチと宿舎食堂のテイクアウト中華おかずで暮らしました。中国の野菜料理、油炒めが多いので、たまには野菜をゆでただけの物に醤油だけでさっぱりと食べたくなりましたが、あとは特に、刺身が食べたいとか肉じゃがが食べたいとか思うこと無かった。東北地方料理も、湖南料理も北京料理も、何でもおいしくいただきました。健康で過ごせたのも、鉄の胃袋を持っているおかげと思います。
また、今回特に人間関係のトラブルがなく過ごせたのも、快適に過ごすために大いに役立ちました。2009チームの先生方のお人柄のよさに助けられての5ヶ月間でした。
最初に中国で仕事をした1994年のときは、いっしょに赴任した男性助教授と女性助教授の折り合いが悪く、毎日のように机をたたき合って口論していたことを思うと、今回の派遣では6人のチームワークがたいへんうまくいき、机を叩くことも意地を張り合うこともなく過ごすことができたこと、ひとえに私の人徳のおかげ、、、、ってことはまったくなくて、、、。私は、最年長なのを掲げて、いつも「私は年寄りだから」と言い訳しつつできるだけ楽をしようと考え、皆に助けてもらうばかり。
特にパソコン関係ではわからないことだらけなので、何かというと若い先生にパソコンの設定やらをお尋ねしながら仕事をしました。親切な同僚のおかげでなんとか任務全うできたのです。
私が何か役にたったとしたら、ダメだめぶりを皆に見せ続けて、あんながさつな人間でも何とかやっていけるのだ、ってことを示せたことくらいかな。年中ばたばたとあわてていて、何かと忘れ物が多く、1回の授業で教室から2度3度忘れ物を取りに講師室に戻ってくる。毎日のドタバタぶりをみせて、年取ってもあんな程度でやっていけるのだ、という安心感を与えることができたかもしれません。
また、誰一人中国語が話せなかった2007年の派遣チームと異なり、今回は中国滞在歴2年の先生や、以前中国で仕事をしたことがあり、中国語韓国語両方話せる先生もいらっしゃった、ということも、ストレスが少なかった理由だろうと思います。もっとも、日本語を教える学校の中にいる限りでは、中国語を一言も話すことができなくても仕事はやっていけます。でも、町にでると、片言でも中国語が必要になる。そんな時でも、中国語ができる先生は、一人で着々と暮らしていて日常生活がスムーズにいくので、私も安心ました。
<つづく>
2009/08/03
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(32)みなさんありがとう
今回の中国滞在中、宿舎の生活でのトラブルは、道路工事のため3日間水が出なかったことと、2日間お湯がでなかったことがあった、ということくらいです。私の部屋では風呂場のシャワータンクから漏水したこともありましたが、おおむね生活は快適でした。
漏水のときは、シャワータンクの絵を描き、水がぽたぽた垂れるようすを描いて、ただ「水、シュイ」と言いました。「明白了、ローシュイ、明天修理」と、受付の人に言われて、あれ、漏水は中国語でローシュイっていうんだ、と気づく程度の中国語力の私が何とか暮らせたのも、複雑な話になったら、同僚の中国語に助けてもらったおかげ。
前回、前々回の滞在中は、中国語の家庭教師を頼んで、少しでも中国語を覚えようとしたのですが、今回は「もう年寄りだから、これ以上中国語覚えられない」と、完全に投げていました。そんな私でも、任務完了できたのは、同僚の先生たちに恵まれたからと感謝しています。
おなかの調子をくずした人がいるといっても、病気で病院に行った人がいなかったというのも、今回のチームがなごやかにすごせたひとつの理由。
私もベリーダンスで踊ってストレス発散できたし、みなが体調よくすごせたことが、一番よかったことでしょう。中国人の同僚先生にもいろいろ助けてもらいました。
担任クラスの学生たちにも恵まれました。前回前々回の学生たちももちろん非常に優秀な人たちで、よいクラスでしたが、今回も優秀で人柄のよい学生のクラスであって、たいへん助けられました。
班長(バンチャン=クラス委員長)のキンセイさんは、皆から「シーバンチャン」と慕われ、リーダーシップを発揮しても決して強権的ではなく、なごやかにクラスをまとめていました。
学習委員のカショさんは、頭がよく親切でクラスの皆の学習に役立ってくれました。体育委員のヨーショーさんは、明るく元気に縄跳び大会やバドミントンのとき活躍していたし、学芸委員のソケツさんは、人妻らしい落ち着きを見せながら、教師歓迎の学芸会をとりまとめていました。生活委員のエンテイさんは、クラスメートの寮生活やみなでお金を集めてパーティをするときなど、きちんと配慮して対処していました。その他の学生たちも、皆なかよく、楽しくクラスの中でお互いを認め合って互いの個性とそれぞれの専門分野では優秀な人であることを尊重しあっていました。
8月の専門日本語は、今までの基礎日本語のクラスがバラバラになり、専門ごとに10クラスに分かれる編成になります。医学専攻のクラス、化学専攻のクラスなどになるので、また違う雰囲気のクラス作りとなるでしょうが、基礎日本語クラスの3班は、8月に私が再び中国に行ったときは、もう一度元のクラスでクラス会ができるかもと、期待しています。
みなさん、本当にありがとうございました。
<つづく>
2009/08/04
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(33)論文発表会
帰国してのんびりはしていられません。
8月中旬には、国際日本語教育シンポジウムで発表するために、再び中国へいくことになったし、9月には前期お休みした分の授業の集中講義。学部日本人学生向けに1週間は日本語学概論、2単位分。2週間は日本語教授法4単位分。朝から夕方まで、一日に90分4コマの授業を集中して行います。声が枯れそう。
さらに、学生としては、大学院の単位にする英文学との比較文学論のレポート執筆が2本。9月末日にはもう一度博士論文中間発表を行う。
6月にパソコン故障のため失敗した「博士論文中間発表会」の再実施が7月30日に実施され、拙い発表でしたが、なんとかこなすことができました。昨年9月の第一回目の歯票に続き第二関門突破。
6月4日に予定されていた私の「中国からサイバー方式で博士論文中間発表を行う」というイベントが、その6月4日当日の朝にパソコンハードディスク損傷というアクシデントで、すべておじゃんになりました。
指導教官は私のために何度も大学院教官の会議を要請し、前例のないことはしたくないという他の教官を説得して「中国からの発表を認める」ということにしてくださったのに、パソコンが壊れたという情けない事情で、先生の努力も無駄にしてしまったのでした。
指導教官は、なおかつ「7月30日に再度、発表の機会を与える」という結論を教官会議で決議してくださり、チャンスを残してくださった。ですから、30日の発表はぜひとも成功させなければなりません。
30日の発表、今度こそうまくいきますように、と祈りつつ迎えました。それでも、学生たちが試験を前に緊張していたほどではありません。学生たちは試験に落ちたら日本への留学ができなくなり、人生が変わってしまう。彼らと異なり、私は博士号とったからといって、残り少ない人生がよくなるわけでもありません。
私が博士号を取ろうと志したのは、ただ、還暦記念として自分の学業に記念のメダルが欲しかっただけ。還暦記念にエルメスケリーの60万円のバッグを買うのも、1カラット60万円のダイヤの指輪を買うのも、博士号を取るのも、同じことです。私にはブランドバックよりもダイヤモンドよりも博士号が欲しかったというだけです。
実は、ハカセゴーというのは、けっこう高い買い物です。私立大学の博士課程在学には3年間で合計300万円の学費をつぎ込むことになる。しかも、ダイヤはお金を出せばかえるけれど、博士号はお金を払っただけでは買えない。
お金で買える博士号もあります。ディグリーミルと呼ばれるインチキ博士号にだまされて大枚はたいてしまった人もいる。ご注意あれ。海外からの迷惑メールの何割かはこの「博士号を手に入れませんか」というディグリーミルからの宣伝です。
博士課程在学の学費をつぎ込まないで、論文執筆のみで博士論文審査に提出することも可能でしたが、怠け者の私は、コツコツ論文を仕上げるより、レポートや発表、紀要論文などで尻をあおられるほうが、確実に課題をこなしていけると考えたのです。今のところ、とりこぼしは、6月の中間発表、サイバー発表の失敗だけ。
中国で、アラカン(アラウンド還暦)の記念品に、還暦祝い赤いちゃんちゃんこがわりの赤いポロシャツを25元(約400円)で買いました。これを着て近くのスーパーに買い物に行ったら、スーパーの店員がみな似たような赤いポロシャツを着ていた。スーパーのお仕着せとそっくりのシャツで、偽スーパー店員になってしまった。
私は「本物の価値ある博士」をめざして中国に単身赴任し、日夜授業を研究し論文を執筆し、がんばってきました。
7月30日には、なんとか「博士論文中間発表」を終え、第二関門のクリアです。研究の不備を指摘され指導されたのは当然のこととして、次の発表9月末までにもっとよい論になるよう、まとめていかなければなりません。ファイナルステージまで、元気に持ちこたえていきたいものです。
<おわり>
2009/08/05
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(1)旧友と再会
中国滞在最後のイベントは、帰国の前の大連旅行でした。
大連には友人のハンさんが住んでいます。ハンさんは、若いながら大学で準教授に昇進して半年たったところです。たいへん優秀な人ですが、「学部によっては、私の年齢ではなかなか昇進のチャンスがなく、上の世代の人が大勢チャンスを待っているところも多いのに、私の所属する学部では、ちょうど世代の穴があったので、うまく昇進できました」と謙虚に語っていました。
昇進のためには、英語試験や論文審査のほか、学長ほかお歴々の前での口頭発表や口頭試問を繰り返し、研究学会での発表の評価など、たくさんの関門があったということです。 ご主人の理解もあり、お姑さんが、11歳の娘シンシンちゃんの世話をしてくれる、という恵まれた環境もさることながら、彼女自身が努力家であることが、若い準教授の誕生となったのだろうと思います。
2007年に大連に滞在したときは、ハンさんの受け持ちクラスで飛び入り日本語授業をしたこともありました。今回はすでに期末試験を終えて、あとは期末の教員会議のみというところにおじゃましました。
今回、私のパソコンもケータイも壊れてしまったという状況のなかで、連絡が行き届かなかったのですが、私が夜行寝台の列車を降りて出口に向かうと、ちゃんとハンさんが「センセー!」と、待っていてくれました。
今では準教授の彼女のほうこそ「センセー」なのに、15年前と同じように、「センセー」「ランリン」と呼び合う二人です。
15年前、彼女は私が勤務した大学の日本語学科学生で、私の中国語家庭教師を務めてくれたり、幼かった娘と息子のシッターとして世話をしてくれました。その後、彼女が日本に来て働いていたときは、日本の我が家にも遊びに来てくれました。2007年には、久しぶりに旧交温めることができました。
7月23日の朝、大連駅からまずは、大学本部キャンパスの近くにある彼女の住まいに向かいました。ご主人の会社から支給されている社宅と、彼女の勤務先大学から支給されている職員住宅は人に貸し、現在は娘のシンシンちゃんが通っている大学附属小学校に徒歩数分という地に家を買って住んでいます。大学の元教授たちが住んでいる古いマンションで、若い世代はハンさん一家くらいということですが、おばあちゃんおじいちゃんが孫の世話をすることが多い中国なので、小学生くらいの子どもの姿もたくさん見かけます。シンシンの世話をしているのも、すぐ近所に住んでいるハンさんのご主人のお母さん。部屋は、リビングルーム、夫妻の部屋、シンシンの部屋と台所です。
大連など大都市では、「有名進学校に近いこと」が、親の家探しの第一条件なのだそうです。進学校の区域に住民票があることが進学に有利とされているので、進学校の周囲の住宅の値段は金融危機があろうと不況だろうと、どんどん高くなっているのだそうです。
自身が準教授への昇進を果たした今、彼女の一番の関心事は一人娘の進学。現在付属小学校の生徒なので大学附属中学校への進学は難しくないけれど、歩いて数分のところにある超有名進学校への入学を狙っているので、受験はたいへんだと話していました。
<つづく>
2009/08/06
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(2)中国教育熱
シンシンちゃんやお姑さんといっしょに、朝市へでかける途中、その有名進学校の前を通りました。北京大学、清華大学など、中国のトップクラスの大学への進学率がたいへん高いという学校の門の横の掲示板に、生徒の写真付きで今年の進学者たちが張り出されていました。ずらりと並んだ大学名を見ていると、ウァア、スンゴイ!と目を見張らされます。
中国ではかっての「重点大学」という国家の重要大学の呼び方が、1995年以後は「211工程」(Project 211)と変わりました。中国でも大学の数は増えているけれど、重点大学であるかどうかによって、就職にも差がでます。
私のクラスに集まってきていた国費留学生候補者の所属大学もこの「プロジェクト221」の大学でした。日本以上に学歴社会である中国では、「211工程」の大学に進学できるかどうかは、人生を左右します。
シンシンちゃんの教育のため、ハンさんは一ヶ月2400元をつぎ込んでいると語っていました。一般の大学卒業生の月給にあたる金額です。一週間のうち、ピアノ、一回110元、英語家庭教師一回100元、卓球教室一回60元、ダンス30元。一週間に4回のお稽古事で、300元、一ヶ月ではトータル2400元になるのだということです。
中国上層社会での教育熱について聞いてはいましたが、実際目の前に「大切に育てられている一人っ子小公主(リトルプリンセス)」がいると、中国で進学するのもたいへんだなあという気持ちになります。教育にお金をかけるかわりに、衣服はお下がりですませるのが、ハンさんの子育て方針だと言っていました。
シンシンちゃんは、2年前に会ったときに比べるとだいぶ背が伸び、眼鏡をかけたことで、ちょっと大人っぽい印象に変わりました。
本が好きでよく読んでいたせいか、目が悪くなってしまったと、ハンさんの嘆き。今いちばんのお気に入りの本は『窓辺的小豆豆(窓際のトットちゃん)』だそうです。2年前はディズニーの絵本がお気に入りでしたから、読書の面でも成長ぶりが分かります。
マーマにならって、私を「センセー」と呼び甘えてきます。今回は「ジャンケンポン、あっちむいてホイ」が気に入って、何度も「センセー、アッチムイテ」と、遊びたがりました。
大連に着いた日の午前中、雨模様でしたが、星海広場という海岸を散歩しました。大連はさまざまな地層が露出していることで有名な都市で、海岸にも、黒石礁などの貴重な地層があちこちにあり、観光名所になっています。
黒石礁風景区の写真のサイトをリンク
http://people.icubetec.jp/special/mapchina/liaoning/pm/a778f01952ef4051a5ac6aa72889d426
これらの地層を見ているうち、雨がぱらついたので、星海広場に建っている自然博物館で雨宿り。私が「中を見たい」というと、ハンさんは、博物館に勤務している知り合いに電話をかけて、入館許可をもらってくれました。
この博物館は3日間以前に予約しておかなければ、すぐには入れない場所だったのですが、特別に許可されて中に入れることになりました。貴重な展示品の保護の意味もあり、3日以上前に予約をして身元確認ができてからやっと見学が許可されるということでしたが、博物館研究者の知り合いで身元は確かなハンさんですから、すぐに見学できることになり、ラッキーでした。
知り合いという人は、ハンさんとは「登山の会」の仲間です。大連付近の山を歩いて植物採集を続け、つい最近、新種を発見したという女性植物研究者でした。
中国でコネを利用して得をしたのは、はじめてのことです。何のコネもない春庭だったので。
<つづく>
2009/08/07
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(3)大連自然博物館
自然博物館の内部は、東京上野の科学博物館と似たような展示でした。階ごとに岩石と地層、植物、ほ乳動物、海の生き物などのコーナーがあり、さまざまな標本が展示してあります。中国の子どもたちが自然科学の一端に触れられるようになっていますが、上野の科博に比べると、まだまだ展示に工夫の余地がありそうです。
最近の日本の博物館は、研究の機能のほか、教育の機能も充実してきていますが、中国では博物館の普及、教育の機能はこれからだろうと感じました。ただ、予約は必要なものの、博物館の入館は無料。これは日本も見習うべきでしょう。日本の国立の博物館は独立法人になったとはいえ、入館料は国民の財産として無料にすべきと思います。
岩石や地層を展示している1階、2階以上の植物、動物、海洋生物など、テーマごとにしっかりした展示でしたが、現在の上野の科博などの展示方法からみると、少し専門的な展示が多いように思えました。
専門的知識のない者にもおもしろく興味を持って見せる、という点では、上野の科博は展示方法も洗練されていて、小さな子どもでも、科学への興味を持てる館内構成になっています。
中国の博物館から日本へ研究留学する学者は少なくないだろうけれど、専門の学芸員、キュレーターの養成にも、科博や国立博物館への留学生を送り出せたらいいのになあと、思いました。展示方法ひとつで、ひとつの科学的な展示品が「へぇ」と眺めるだけのものから、無限の科学への興味をひきおこす魔法の品に変わるからです。
日本にはない展示として、海岸に打ち上げられた鯨をそのまま剥製にして展示してある階が、迫力ありました。ミンクくじら、ナガスクジラ、マッコウクジラなどが、巨大な体躯が展示されていました。鯨といっしょに写真をとりました。剥製の制作に薬品処理を行っているせいか、においがきつかった。
博物館から歩いて、ちょっと早めのランチに、人気の火鍋店へ。おいしい火鍋(シャブシャブ)ですが、昼時夕食時はいつも列を作って人々が待っているため、ウエイトレスたちは何を勘違いしたのか、非常にいばっていて、このごろ注文してもサービスが最低だと、ハンさんは怒っていました。サービス悪いけれど、中国ではサービスの質はどこも悪いから、結局おいしい店が繁盛する。それでますますサービス悪くなる。
私は、夜行寝台車を降りる前にちょこっとパンケーキやナッツを食べて朝ご飯代わりにしたので、早めのお昼がちょうどよく、おなかいっぱい食べました。薬味のおかわりやお水を頼んでもすぐには持ってきてくれなかったりしたけれど、肉も野菜もおいしくいただきました。
<つづく>
2009/08/08
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(4)少女と子犬
シンシンちゃんは、小学校の正式科目でも英語授業を受けていますが、ほかに、アメリカ人教師から、毎週英語のレッスンを受けています。英会話がとても上達していて、私とはもっぱら英語で会話しました。読むのは複文OKだけれど、会話では複文が出てこずに単文だけで話す私の英語力とちょうどいいくらいのシンシンちゃんの英語会話力なので、2年前にはジェスチャーでコミュニケーションをとっていたのに比べると、いろいろなおしゃべりができました。
かわいいシンシンちゃんに、「センセー、Do you like dog?」と質問されて「Of course, but do you mean dog as a pet or dog as a meat? In my childhood, I had a cute dog. I like dog very much. But,in the Korean restaurant I like dog meat 」と、答えたら、おばあちゃんが飼っている子犬を私に見せたいのだと言います。あはは、犬肉が好きかどうかではなく、ペットのことだったのね。シンシンは学校から帰ってくると、近所に住んでいる父方のおばあちゃんといっしょにすごしていますが、おばあちゃんは、最近犬を飼い始め、今シンシンは子犬に夢中で、「リリヤ」と呼び、かわいがっています。
おばあちゃんが夕食準備をし、マーマが大学の会議に出かけていた午後、いっしょにシンシンの小学校まで散歩に行きました。住まいは5階ですが、エレベーターがないので、ちょっと上り下りがきついですが、道路を隔てて、空き地を越えていくと、目の前が小学校です。空き地には、近所の人が思い思いの野菜を植えています。トウモロコシ、ピーマン、トマト、南瓜などが育っていました。ここもやがては整備されて何らかの建物が建つのかもしれませんが、ちょっとした空き地があれば、たいていそこは畑となるのが、東京などの空き地と違うところかも。
空き地でリリヤを放しましたが、まだよちよち歩きの子犬はあまり歩きたがらず、歩かせると行き先とは反対の方向に行きたがる。シンシンは手提げ袋の中に子犬を入れて抱えて散歩しました。
小学校はすでに夏休みになっているので、校門から中へは許可された人しか入れないというので、門の前で何枚か写真をとりました。
家に戻って、シンシンが習っているダンスの発表のビデオを何本か見ているうち眠くなったので、お昼寝。夜行寝台車でも十分に眠れたと思っていましたが、朝5時起きだったので、少し睡眠不足だったのか、2時間ほど眠りました。
シンシンと「あっちむいてホイ」をして遊んでいると、家庭教師のエリスがやってきました。エリスは大連の外国語大学のひとつで英語教師をしています。
名前は、アリスかと思ったらエリスだというので、ドイツ系のアメリカ人なのかと思いました。
私の勤務校で、アメリカ人英語教師のトムは日本語教師の2倍の給料を得ており、その金額の差を知ったとき、私たちは「うぁあ、どうしてアメリカ人教師は2倍ももらえるのよっ」と思ったものですが、中国に来たがる英語ネイティブの教師はまだまだ少ないので、希少価値分が給与に反映されているということです。中国で仕事をしていた日本人ビジネスマンが、退職後に中国で日本語教師になったりする例も多く、日本語教師はいくらでも補充がきくと思われている。
日本語教師、日本国内だけでなく大陸でも待遇は悪い。
と、愚痴はともかく、シンシンが英語レッスンを受けている間にハンさんが大学の会議をすませて帰宅し、ハンさんのご主人も帰宅しました。
ハンさんのご主人は大連開発区に本社がある化学の会社に勤務しています。お姑さんを大事にするハンさんなので、家族はとても仲良く暮らしている様子でした。
<つづく>
2009/08/09
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(5)大連海鮮料理と海辺のリゾート
ご主人が帰宅したので、シンシンが英語を終える前に食事を始めました。ハンさん、ご主人のリューさん、ご主人のお母さん、私。ビールで乾杯し、テーブルには、朝市でお母さんが品定めした大連特産品の海鮮のごちそうが並んでいます。蒸しあわびがメインディッシュ。山葵醤油でおいしくいただきました。
あわびやなまこ、わかめは、大連の海岸での養殖が盛んで、大連の漁業は近海の漁以上に養殖産業が発達しています。日本で鮑をおなかいっぱい食べるなんてできないことなので、「どうぞ、どうぞ」の声に甘えて、どんどん食べました。蝦の炒め物、魚の蒸し煮もおいしい料理でしたが、なんといっても鮑がごちそうです。
水餃子はセロリと牛挽肉。これもおいしかった。
夜は、大学本部キャンパスの中にあるホテルに泊まりましたが、大連観光シーズンのため満員で、「一泊ならあいている部屋があるけれど、二泊はできない、満員」と言われて、一泊だけ宿がとれました。
大連2日目は、海浜リゾートへのピクニックに出かけました。ご主人が会社に行ったあと、お姑さん、ハンさん、シンシンちゃん、私の3人で、新交通路線で大連郊外の金石灘リゾート地区(金石滩国家风景名胜区)へ。快軌3号線に乗って、金石灘駅まで50分ほど。
いつもは星海広場の海岸がすぐ近くにあるので、大連のある遼東半島の反対側に位置する金石灘へはあまり出かけることがなかったので、今回はシンシンちゃんにとっても、初めての海岸リゾート遊覧になるということでした。
金石灘駅で、ハンさんは「リゾート半日遊覧」のチケットを購入。一枚60元です。このチケットに、遊覧バスのほか、蝋人形館、地層公園、中国武術館などの入場券が含まれています。
最初は蝋人形館。ほんとうは、私としては蝋人形はパスしてもいいかなという気分でしたが、たぶん、シンシンちゃんやお姑さんにとっては、中国の有名人や世界の有名なお話しの主人公を見るのは楽しみなことだろうと思っていっしょに入館しました。
最初のコーナーは、北京オリンピックのメダリストたち。また、バスケットの姚明の人形と写真を撮るコーナーなどがありました。姚明、身長228cmということは新聞などで見ていたし、写真も見たことあったのですが、蝋人形の前に立ったら、あまりのデカさに、圧倒されました。蝋人形館をちょっと馬鹿にしていましたが、姚明のデカさを実感しただけでも、入ってよかった。
メダリストコーナーのあとは、毛沢東、周恩来ら偉人コーナー、歴史上の人物コーナーには、ヒットラーからビルゲイツまで。中国人はお金持ちが大好きなので、ビルゲイツはどこに行っても人気者です。
世界の有名なお話コーナーでは、ロミオとジュリエットとか、白雪姫とかの蝋人形。ここらへんは、さっさと通り過ぎました。
正式名称は「金石世界名人蝋像館」というのでした。
<つづく>
2009/08/10
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(6)金石園の巨石
次は、私には興味津々の金石園(金石縁公園)へ。大連にはさまざまな地質の標本が露出しているのですが、この金石園は、5億年前の海底の地質が海岸に隆起して、さまざまな形の石のオブジェになっています。
「岩の上に上ること禁止」と書いてありますが、見物客はどしどし登っていって、写真を撮りあっている。石が層になっているようすがよくわかるのですが、そんなに大勢の人が登っていったら、層の部分が削れてしまうではないか、と心配になったのですが、3万㎡という園内の、研究用には保存された場所があって、こちらは観光客用に公開されている場所なのだ、と思うことにしました。
北京オリンピック前には、政府はやっきとなって観光地のマナー向上キャンペーンを繰り広げましたが、どこにでもゴミを捨てる、ちょっとした暗がりでは誰かしらが立ち小便をしているという中国マナーは、どうも改善の見込みはないらしい。
金石園の写真リンク
http://japanese.dda.gov.cn/2009/06/14/1080.shtml
次は、「海の恋海岸」へ。ここは、大連で結婚式を挙げるカップルが、結婚前に婚礼前撮り写真を撮影するときの名所です。私たちが海辺で一休みしている間にも、プロによる写真をしている若いカップルがいました。私のクラスの班長さんキンセイさんも5月の休暇の際に大連で結婚写真を撮影したということでした。撮影は何カ所かを移動して行うのでとても疲れたと言っていましたが、この海の恋海岸でも撮影したかどうか、8月に再会したら聞いてみましょう。
海辺にシートを広げて、大の字になって私とハンさんが寝ている間、シンシンちゃんはおばあちゃんといっしょに膝まで海に入って大喜びです。波と戯れている少女の姿、ほんとうにほほえましく、ほのぼのとしてきました。
私もちょっとだけ海に足を浸して、波の満ち引きを味わいましたが、すぐに貝と石を拾い集めるほうに回りました。日本の地質学の先生たちへのおみやげの石。
葫蘆島市の海辺に行ったときも渤海湾の石を拾いました。大連市も渤海湾のはしっこの半島ですから、基本的にそれほど変わった石の構成ではないとは思うものの、専門家が見たら、葫蘆島の浜辺の砂と大連の浜の砂を比較したら興味深いものであるかと思います。日曜地学ハイキングでお世話になった先生方にいつかお渡ししたいと思って、石や砂を持ち帰ることにしました。
お姑さんがゆでてくれたトウモロコシやソーセージを食べ、桃をむいてお昼ご飯を潮風と共に味わいました。
<つづく>
2009/08/11
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(7)地質公園と武術館
地質公園。大連の海岸に、さまざまな地質の岩があります。
金石灘は、海岸線が20キロも続く天然の地質博物館です。金石縁公園は、5~7億年前につくられた太古の地質地層を見ることが出来ましたが、このあたりの海岸全部が、岩礁や岸壁の形や色彩など海触暗礁林と呼ばれるさまざまな奇岩があります。
数億年という年月と風雨に晒された岩は、珍獣奇獣を連想させる形や、小豆色や黄金色など鮮やかな色を見せており、岩というより天然の芸術品です。
地質学の専門家でない一般の観光客に人気なのは、見立ての岩。日本でも「烏帽子岩」とか「夫婦岩」とか、海岸の岩がいろいろな形に見える場所が観光名所になっていますが、大連でも同じ。「ベートーベンの頭」という名の岩あり、「恐竜が海を飲み込む」という岩あり。恐竜が首を伸ばして海に口をつけているように見える岩、ほんとうに海水を飲み込もうとしているように見えます。
地質公園の中でシンシンちゃんが一番喜んだのは、白鳩の群れが観光客の頭すれすれに飛んできて、ぐるぐる回っていたこと。ちょうど鳩が頭の上をかすめたところを写真にとろうとしてシャッターチャンスをねらったのですが、なかなか思い通りの写真は撮れません。シャッターを押そうとするともう鳩は通り過ぎている。
金石灘最後の観光スポットは、中華武館という場所での武術ショウ。昔の武術館を模した大きな建物。中の舞台にスモークがたかれ、武術ショウが始まりました。少林寺、カンフーなどの中国伝統武術が見た目も鮮やかに、次々に繰り広げられます。
山東省の武術大会でチャンピオンになったという若い女性武術家は、鎖鎌や棒術で華麗な技を披露していました。そのほか、剣山の上に横たわって、腹の上にまた人が乗って剣山を重ねたり、ガラスを粉々に割ってその上で武術を行ったり、これでもかってぐあいに「すんごい!」技が披露され、日々鍛錬を怠らない中国武術の伝統を見せつけました。
この武術館の隣は、「大連模得芸術学園」です。「大連モデルアートスクール」というのは、中国で有数のファッションモデル学校。校長は中国出身者で世界的に活躍したモデル出身の方で、ハンさんは、大連のタウン情報誌記者として働いていた頃にインタビューをしたことがあると話していました。とても華やかで美しい人だったそうです。
この校長の薫陶のもと、中国全土、そして世界的に活躍するモデルの多くがこの学校の卒業生なのだそうです。
ハンさんと、武術もいいけれど、このモデル学校も観光コースに入れて、ファッションショウを見せてくれればいいのにね、と話し合いました。
海辺リゾートの夕暮れを身ながら、大連中心街に戻り、夕食は近頃評判という満族料理の店へ。満州八旗の貴族だった祖先を持つ人が、最近のエスニックブームにのって、満州族の貴族料理の店を開き、大評判なのだとか。久光という日系企業のデパート(旧イトキン)内に新しくできた、「多雨褒王府」という店です。
の
入り口には満州貴族の衣装をつけたウエイトレスが迎えてくれて、席につきました。ハンさんは、「ここも人気店になるにつれ、サービスが悪くなった」と言います。電話予約をし、少し遅れるという連絡をしてあったにもかかわらず、「時間に客が来なかったから」と言う理由で予約席がなくなっており、別の席が用意されるまでちょっと待たされました。
料理は、一般の中華料理とはひと味変わったメニューもあり、おいしかったです。
「多雨褒王府」を紹介しているブログをリンク
料理の写真など
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuaki930jp/18373706.html
店の内装とウエイトレスの衣装
http://www.dalian2.cn/1/viewspace-323#xspace-tracks
おいしい満族料理を堪能し、夜10時発の夜行寝台車に乗車しました。ハンさんには、8月の再会を約束し、今回の中国滞在最後の楽しい旅を締めくくりました。
<つづく>
2009/08/12
ニーハオ春庭・九年母日記0908>(7)再見中国
8月25日には、4ヶ月半を過ごした宿舎の荷物整理。半分は8月に再訪したときのために夏服や日用品を残しておくことにして、一番重い本と書類は段ボールにつめて、郵便局へ。SAL便で380元で送り出しました。あとは、適当にスーツケースにつめて、25kgの飛行機荷物制限内になるだけにしました。あとは手荷物。手荷物はパソコン2台。おみやげのうち壊れ物と、石は手荷物。重たいものは、スーツケースに入れると超過料金を取られるから、手荷物のカートに入れます。
25日夜は、同僚と最後の晩餐。桂林路のちょっとこじゃれたレストランバーで、4ヶ月半の思い出を語りながら中国最後の夕食をいただきました。
雪も降った3月から、過ぎてしまえばあっという間の4ヶ月半でした。それぞれクラスや町のなかで、いろいろな思い出があったのをふりかえり、しみじみビールやカクテルを飲みました。
一番楽しかった思い出は?いつばんたいへんだったことは?など、お互いに披露し合い、それぞれ別々に出かけた旅行の写真を見せ合いました。
一番若いバンブー先生は、最初私が企画した「内モンゴル出身の学生といっしょに、帰省する村へ着いていく」という旅行を実施しました。私の希望は「伝統的なゲル(包・パオ)」に住んでいる人がいたら、そこにホームステイしたい」というものでしたが、相談した内モンゴル出身のボタンさんは、「モンゴル共和国(外モンゴル)にはまだ包で暮らしている人もいるけれど、内モンゴルでは中国政府の定住政策があるので、遊牧生活している人はほとんどおらず、皆、定住の住宅に住んでいる。包(パオ)は、ホテルしかない」ということでした。
バンブー先生はボタンさんとともに内モンゴルへ行き、彼女の家や、羊牧場を経営しているおじさんの家にホームステイをしたと、写真を見せてくれました。モンゴル族伝統の衣装を着て白馬に乗って写真をとっているバンブー先生、カッコいい。
一家は羊を一頭解体して、ごちそうしてくださったということです。
「やはり、日本人だから、羊をしめるのを逐一見ているのはつらかったけれど、せっかくの好意で羊をごちそうしてくれるのだから、見ているのが礼儀かと思って、最初から最後まで見ていた。血も腸につめてソーセージにして、これは日本では絶対に作らない料理だから、貴重なシーンと思って見ていた」と話していました。
若くて優秀なバンブー先生、4ヶ月半の授業でもさまざまなアイディアを出して、工夫しており、パワーポイントファイルの作成でもがんばってよいものを作っていました。
「~できるように」という可能形と意志形の組み合わせ文の練習のときに、私も彼のアイディアの「絵馬に願い事を書き入れてみよう」という教室活動をいっしょにやらせてもらいました。
絵馬の形を印刷して、「学生の日本語が上手になりますように」「家族が健康に暮らせるように」という見本を見せ、学生たちに、絵馬に願い事を書かせたのです。書き上げた絵馬は、教室に張り出し、最後は学生に「願い事が叶えられたら、お炊きあげといって、燃やすんですよ」と、解説して持ち帰らせました。
そんなこんな思い出をよみがえらせながら、中国最後の夜はふけ、26日の便で成田へ。
4ヶ月半ぶりの我が家は、洗濯物の山に埋もれていました。「下着は着替えがいるから洗濯したけれど、シーツとかタオルとかは、替えがまだあるから、ためておいた」という息子。帰宅した1時間後から洗濯を始め、洗濯し続けました。次は茶碗の山と格闘。洗い続けました。
「ハハウエ、帰国した日くらい、休んだらいいよ」と、殊勝げな言葉をかけてくれる娘と息子。働き者のハハは、26日も27日も空き缶空き瓶の始末とか、4ヶ月半の留守の間にたまったゴミと格闘し、28日にようやく持ち帰ったスーツケースを開けることができました。29日は、銀行まわり、30日は博士論文中間発表会、31日は健康診断。
そんなこんなで、中国帰りの後始末をしているうちに、早、もう一度中国へ向かう日が近づきました。
2009/03/15
2009/07/20
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(18)授業参観のごほうび
授業参観は、学生たちにとってやはり緊張するものです。私としては、できる限り学生が何らかの発言したらほめてやり、発言の訂正などは、参観の場で行うのではなく、のちほど自分たちの授業の中で行えばいい、と考えました。参観者の前で「間違っている」と、なおされるより、「よい、文が作れました」とほめられたほうが、ただでさえ緊張している学生にとって、負担が少ないからです。
他のクラスでは、1度も誰からも授業参観がなかったクラスが2クラス。文科省が10分ほど覗いていったクラスが2クラス。私のクラスだけが、文科省視察団の参観のほか、日本人教師団ダンチョー先生の参観、中国人日本語教師の授業参観が2度、中国人日本語教師の総見参観1度、他の大学の先生たち4人の参観、都合6回も授業参観を行いました。
授業参観のまえに、うまく答えられるよう「予行練習」をさせる先生もいますが、私は普段のままで、間違ったら間違ってでいいや、と言う考え。縄跳びの「特別栄誉賞」の授与を参観の場で行うというのもサプライズ企画で、学生たちは知らされていなかったので、手作り賞状をもらって、とても喜んでいました。
だだし、「賞状の受け取り方」というのは、前に「卒業式」の話題でふれたことがありました。「練習と人生」読解のなかで、日本では卒業式の練習を何度も繰り返し、予行練習を行って式が滞りなく進むようにお辞儀の練習や賞状受け取り方の練習をする、と話し、日本と中国の違いについての話題が出ました。学生たち、中国ではそのような賞状受け取りの練習はしない、と言うので、賞状はこういう具合にもらうのだよ、と、実演して見せたのです。
私からの賞状授与では、班長のキンセイさんが上手に受け取りをして、拍手喝采でした。
総見授業参観が、なごやかに終了できたのも、学生たちが緊張しながらもいっしょうけんめい答えていたおかげ。私から学生にごほうびをあげることにしました。
ごほうびは「浴衣姿の写真」のプレゼント。
学内の他コースの先生が保有している浴衣を借りて、クラスの学生たちに着付けをしてやり、浴衣姿の写真撮影大会をやる、というクラスイベントを開催したのです。
私は、娘の浴衣着付けをしたとき文庫帯の結び方を練習したのですが、忘れているので、もういちどネットの「帯結び」のサイトを開いて復習。だいたい思い出しました。
着物は、女物の単衣の着物が3枚、黄八丈や花柄です。浴衣は女物が4枚、男物が1枚だけ。これは、和服を着たがるのは、女子学生が多いので、女物のほうが多く集められてきたからでしょう。
実は、「浴衣で写真撮影」は、生け花教室の次の「日本文化体験教室」として、5クラス共通のイベントとして予定されていたのですが、諸般の都合により、5クラス全体ではしないことになってしまいました。
だから、私のクラスだけ浴衣を着て写真をとったら、他のクラスから不平が出るところでした。
でも、「参観授業を何度もしたごほうび」ということにすれば、他のクラスは参観授業を実施していませんから、あきらめてもらえます。
クラスの学生には、「他のクラスが、3班だけ浴衣着付けをしてもらって、ずるい」と言い出したら、「3班は授業参観をしたから、そのごほうびなのだ、と説明しておきなさい」と、言い含めておきました。
<つづく>
2009/07/21
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(19)浴衣姿の撮影大会
我がクラスは、女性が10人、男性9人。浴衣は、女物が7枚に対して男物は1枚しかない。男性は、女物を流用したり、男物浴衣を交代で着ることにして、浴衣着付け教室を行いました。浴衣の枚数が足りないので、3回に分けて実施。
第1回目は、男性3人、女性5人が参加。私が文庫帯をふたりの女性に結び、あとは、付け帯です。一番人気は付け帯のお太鼓帯でしたが、じゃんけんで勝った人から好きな着物を選び、負けた人から帯と下駄草履を好きな順に選ぶと言う方法で、まずそれぞれの着物と帯を選びました。
第1回目のときは、私がひとりで文庫帯を結んだので男性にまで手が回らず、男物浴衣は自分で帯を締めさせたところ、心配したとおりに胸高に締めて、「ツンツルテンに胸高帯」で、見事に「天才バカボン」になっていました。
2回目3回目は、「帯はズボンのベルトの下に締めること」を徹底して、なんとか見られる姿になりました。
1回目、ひとりで着付けをしたら、大変でした。それで、他学校の先生から授業参観希望を伝えられたとき、授業参観の一環として「学生と会話しながら、浴衣の着付けを手伝う」ことを条件に参観希望に応じることにしました。2回目は、短時間に着付けが終了し、たっぷり写真をとることができました。参観の先生方ともいっしょに写真をとり、よい記念になりました。
浴衣は、本当は裸の上に直接着るのだ、湯上がりの衣装だった、という解説は事前にしてありましたが、1回ごとにクリーニングに出す予算がないので、Tシャツとズボンの上に羽織ることにしました。
浴衣はまだしも、ウール黄八丈などは、Tシャツの上に着ると、7月の気温で、かなり暑い。しかも、日頃なれない帯をぎゅっと締めた女子学生は「毎日着るならたいへんだ」と言いましたが、互いに写真を取り合って、「きれいね」「日本女性みたい」とほめ合って、大喜びでした。
男性組も、腕組みをしてポーズとるやら、恋人同士が並んでラブラブ写真を撮るやら、楽しそう。
他のクラスからのぞきに着た学生もいっしょに撮影していました。他クラスの女性陣はちょっとうらやましそうです。
3回目は、「女物でも写真にとってしまえば、男物の浴衣とたいした違いはない」ということで、残った男性たちの和服撮影大会。実際、男物の浴衣も、平均身長180センチの我がクラスの男性陣にはツンツルテンです。女物でも、着流しにすれば、膝の少し下くらいの長さには達する。ゆきが短いので、袖は肘が出るけれど、写真は、膝から上だけを撮影すれば、ツンツルテンはごまかせる。
<つづく>
2009/07/22
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(20)浴衣姿の感想
ブログのニックネームを「白ちゃん」にして、3月から「日本語ブログ」を書いてきた我がクラスの男子学生の日記を紹介します。
彼はとても穏やかなやさしい性格で、他の女子学生のスピーチコメントにも「いつもやさしいエンテイさん、大好きです」と書かれていました。
女性にもてそうですが、親友レイトウさんの短作文によると「エンテイさんはチャイなので、女性と話そうとすると、すぐ真っ赤になってしまう」そうです。うん?チャイナので?中国人はすぐ真っ赤になるのか、と思いきや、「彼はシャイなので」と表現したかったのでした。「~ようとすると」「~そうとすると」という文型の練習文としてレイトウさんが作った文。
レイトウさんとエンテイさんは、クラスのなかで、「まだ恋人がいない男性3人」のうちのふたりです。
ブログのなかでは、私のことを本名で呼ばず、春庭かHAL先生と書いておいてね、と話したので、彼のブログで、私は「春庭先生」で登場しています。
エンテイさんの日本語ブログ、誤用はありますが、私は「書き続けるうち必ず上手になるから、初期の間違った文を直さない方がいいですよ。そのうち、だんだん上手になったとき、最初はこのように間違えていた、ということがわかったほうがいいから」とアドバイスしました。
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7月8日
昨日、授業が終わった(あと)、春庭先生は六つの着物を持って来ました。着物の中で、五つのが女の着物、一つしか男の着物ではない。
着物は日本の伝統の服だ。現在、正月や成人式、結婚式など特別な時に着物を着る。私たちは初め(て)この着物を着る。男の着物を着方が簡単(だ)が、女のが複雑だ。春庭先生は優しいので、私たちを助けた。着物を着終わったとき、私たちのイメージが完全(に)変わった。また、私たちは先生と一緒に写真を撮った。この写真を見るのを楽しみにしている。
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着物を着たあとでは、鏡に映る自分の「イメージが完全に変わって」日本人のようにみえることを、かわるがわる写真を取り合って楽しんでいました。
私のブログコメント
「白ちゃんは背が高いので、着物のサイズが少し小さかったことはちょっと残念でしたが、白ちゃんの着物姿は、とてもカッコよく、男前でした。教室のコンピュータに着物の写真が入っています。USBを持ってきて、コピーしてください。」
<つづく>
2009/07/23
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(21)美人新入生
美人揃い、ハンサム揃いの我がクラスの、「美人平均値」が一段と上がったのは、7月6日に、新入生が加わったから。他のクラスの男性陣も「美人新入生」に注目。
修士課程修了後、大学の教師をしていた女性で、自己紹介スピーチとして、生まれ故郷の無錫の紹介をしてくれました。大学教師を辞めてこちらに来る前の、自分の教え子学生たちとの記念撮影では、学生に囲まれた写真のようすから、皆に慕われた先生だったことがよくわかりました。修士の専門は日本経済。同志社大学の博士過程では経済学を専攻する予定です。
彼女は学部では日本語日本文学を専攻し、日本語能力試験1級に合格していますから、本来は、日本語教育の受講は免除されています。しかし、彼女は「日本語の復習をしたいから、クラスに参加したい」と自分から希望して授業に出席することになりました。
中級の2級レベルを学習しているクラスですから、彼女にとっては、すでに習ったことばかりのはず。でも、彼女は熱心に授業に参加し、クラスメートたちにはよい刺激になりました。
自己紹介のスピーチでも、1級レベルになると、このようになめらかに豊富な語彙を使って表現できる、と言うことがクラスの学生たちにわかって、よい刺激になりました。
他のクラスの「まだ恋人いない軍」の男子学生たちも、美人新入生が3班に入ったことをうらやましがっています。
2007年のときのクラスは、大学若手教師がほとんどを占めていて、21名の学生のうち、独身は5人だけでした。(そのうちの2人は日本に行ってから恋人同士になったようです)
2009年の今年のクラスは、2008年6月に修士課程修了する前に「国費留学生試験」にパスして、就職経験を持たずに日本語教育を受講している学生がほとんどなので、班長のキンセイさんと、学芸委員のソケツさんが結婚しているだけで、あとは独身。
といっても、美女美男の我がクラスですから、ほとんどの学生は、学部時代、院生時代にすでに恋人を得ています。クラスの中には、院生時代から恋人同士になったカップルがいて、ふたりが仲良く並んでいるようすは、恋人同士というより、むしろ「長年連れ添った夫婦」のような互いの信頼感と落ち着いた愛情が感じられます。
男性の「恋人いない3人組」のうち、ショウケンさんは最近「学食デート」して女性といっしょに食事している姿を見かけたのですが、交際申し込みが受け入れられたという噂はないので、まだ恋人成立には至っていないらしい。彼は84年生まれで、一番若いので、これからいくらでも恋人を得るチャンスはあるでしょう。
男子学生で一番年上のレイトウさんは、学部を卒業した後、数年会社で働いてから修士課程に進学した人です。とてもよい性格で落ち着いた優しい人柄なのに、なぜか今まで恋人はいなかった。
レイトウさんは、宿題の「習った文型を使って短い文を書いてください」という課題に、クラスメートの学習委員について、話題にすることが多かった。
レイトウさんは、女性の中で一番若くて日本語が上手な学習係が、気になってならないようすでした。たとえば、「~ばかりでなく」というフレーズをつかって文を書いてください、という宿題を出すと、「私のクラスの学習委員は、頭がいいばかりでなく、美人だ」と、書いてくる。「~はずがない」というフレーズの作文では、「カショさんは、頭がよくてきれいなので、男性は彼女が嫌いであるはずがない」と書きました。
<つづく>
2009/07/24
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(22)シングルたち
ある日の作文、「~べき」「~か、どうか」というフレーズを使って作文を書きなさい、という宿題ではレイトウさんは、「もうすぐ、中級の授業が終わりになり、クラス替えがある。残念なことにならないよう、自分の気持ちを言うべきだろうか。告白をするべきかどうか、、、、」と、書いてきました。私は、「勇気をだして告白したほうがいいですよ」と、コメントを書き込んで宿題を返しました。さて、どう進展したか。
学習委員のカショさん、修士号取得者クラスで一番若い(84年生まれ)。彼女は、とても活発で親切。歌と踊りが上手で、日本語も上手です。彼女が、文法問題や日本語類義語の微妙なニュアンスの違いなどを質問してきたときなど、私が日本語で説明し、彼女が理解した後、それを中国語でクラスの人に解説してもらう、という場面もよくあり、学習係としてクラスの日本語学習の向上に役立ってきました。
彼女には北京に恋人がいて、今は遠距離恋愛中です。中国でも最近の学生遠距離恋愛は、スカイプ利用でパソコンで会話ができ、互いの気持ちを伝えあうのでも、すれ違いはないようです。彼女に恋人がいることは皆知っていました。
コメントに触発されたのかどうか、レイトウさんは思い切って学習係に告白したみたい。結果は、、、、、、残念。「今、恋人がいるから、ごめんなさい」でした。仕方がないですね。今のカショさんの恋人もとてもすてきな人のようです。レイトウさんもとってもいい男なんですけれど、先約済みを覆すには至らなかった。
レイトウさんは、「結果は残念だったけれど、告白しないで心残りになるより、思い切って言ってよかった」と前向きにとらえて、クラスの中では「ふられてスッキリ」とふるまっています。クラスメートたちも皆それを知っていて、温かく見守っています。頭がよく、背が高くハンサムなレイトウさん、いつか必ずすてきな恋人と巡り会うことでしょう。
もうひとりの「恋人いない歴26年」のエンテイさん、彼とは、毎日学校で顔をあわせているほか、「運命の出会い」がありました。7月4日に宿舎のすぐそばのスーパー近くで、偶然会ったことがあります。エンテイさんは先輩と近くの繁華街桂林路で食事を済ませたところでした。
エンテイさんは、動物園散歩をしたおりに、私の宿舎へきたことがあるので、「宿舎はすぐそこだから、いっしょにお茶でも飲みましょう」と、部屋でおしゃべりすることにしました。先輩の四喜さんは、日本語は全くわかりませんが、エンテイさんが通訳してくれました。英語が少しはわかるというので、英語で話しかけてみても、エンテイさんが中国語に通訳するので、しばらく、英語日本語中国語のチャンポン会話を続けました。
エンテイさんの先輩、四喜さんは、近くの大学病院で働いています。二人は薬学を専攻し、先輩の四喜さんは大学病院に職を得て働くようになり、エンテイさんは、大学院へ進学しました。
エンテイさんは先輩をたて、とても優秀な人だと紹介してくれましたが、四喜さんは、東京大学に国費留学することが決まっているエンテイさんの境遇のほうが、大学病院で働くよりいいと考えているらしく、「大学病院の仕事はあまりおもしろくない」と、こぼしていました。
確かに、博士過程に進学する国費留学生は、博士号をとって帰国して中国の大学で働くとしたら、薬学部教師のポストが与えられるでしょうから、四喜さんからみると、エンテイさんはエリートコースに乗ったと見えるのでしょう。四喜さんも「まだ恋人いない」でした。
恋人いない歴○○年のレイトウさんもエンテイさんも四喜さんも、きっといつかすてきな出会いがあるだろうと思います。それまではシングル男の自由さを楽しんでください。
自分の気持ちをきちんと告白したレイトウさんを見習って、私も「運命の出会い」をしたエンテイさんにプロポーズしておきました。「あなたを私の息子にしたいです。日本に行ったら、私の娘と付き合ってね」
回答は、「お友達から始めましょう」でした。
<つづく>
2009/07/25
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(23)民族楽器音楽会
6月末の学内縄跳び大会で学内イベントは最後かと思っていたら、7月10日に校舎1階の多目的ホールで「民族楽器音楽会」という盛大なイベントがありました。大学教職員芸術団楽団の演奏による、民族楽器の紹介と演奏。6時から8時までありました。
勤務校のテイ先生の肝いりで、教職員芸術団楽団のメンバーが、学生と教職員のために、演奏会を開いてくれたのです。
テイ副校長は、皆から「書記」と呼ばれている大学の重鎮です。日本の小中学校生徒会とかPTAでは、役員の中に会長副会長の次くらいに「書記」という係があって、会議の記録などを書いていくのが書記ですが、中国で書記といったら、政治局のエリートであり、とてもエライ人。トップは総書記と呼ばれ、現在の総書記は胡錦涛(ホゥー・ジンタオ)です。
我が校の「書記」テイ先生は、政治のエリートというより、芸術家の雰囲気がする人で、中国語や中国文化を学ぶために中国に留学している外国人学生に、中国文化を教えるなどしています。私も2007年に、太極拳を教えてもらいました。テイ先生は二胡の演奏にも秀でており、大学教職員芸術団楽団のメンバーでもあります。
演奏会は、「紅楼夢選曲」から始まり、次にテイ先生による民族楽器紹介がありました。私は二胡は知っていましたが、二胡の同類の楽器に、高胡、板胡、京胡、中胡と、何種類もあることをまったく知りませんでした。これらは拉線楽器の種類。
| 吹奏楽器には、竹笛、笙などがあります。日本の篳篥(ひちりき)に似た管楽器、また、巴烏(バーウー)という雲南省の少数民族の楽器も紹介されました。巴烏は、竹の管に銅のリードをつけ、低音の含みのある音が出ます。
あとは、さまざまな種類の打楽器。京劇でなじみの打楽器が多い。
弾撥楽器の種類には、日本と同じ琵琶(中国の琵琶が日本へ伝えられたのだから、同じというのは当然だが)のほか、中阮、大阮というバンジョーに似た楽器が紹介されました。
楊琴と古箏は、以前ブログで紹介したことがある私の好きな弾撥楽器です。楊琴はピアノのように鋼線を張った上を、木琴のように棒で叩いて音を出す。私が習ってみたい楽器のひとつです。
古箏は21弦で、私はクラスの学生の持ち物である古箏を弾かせてもらい、「里の秋」が上手に弾けるようになりました。
日本にある中国伝統楽器専門店のサイトをリンク。日本では、どの伝統楽器も20万円ほどしますが、中国で買っても、よい品は5千元くらいして、中国物価からすればとても高い。初級者用は千元くらいから。
二胡の類 http://www.13do.com/product-list/11
中阮 http://www.13do.com/product-list/22
竹笛 http://www.13do.com/product-list/15
巴烏 http://www.catalog-shopping.co.jp/shop/shop14/china/bawu/
テイ先生の板胡独奏では、「東北風吹月児明」という曲の見事な演奏に聞き惚れました。司会をしていたチャンリー先生は、初級コースのときに博士コースの担任だった先生で、男子学生あこがれの美人教師。ダンスも上手だし歌もうまい。チャンリー先生は「好日子」という曲を独唱して拍手喝采を受けていました。
<つづく>
2009/07/26
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(24)里の秋
中国人学生にとって、エレキギターなどの現代風の曲を聞く機会はよくあるけれども、民族楽器オーケストラを聞く機会はそれほど多くなく、中国民族楽器音楽会は、中国の伝統文化を知る貴重な機会となりました。
二胡の演奏では日本の「荒城の月」の演奏もあり、歌や演奏はよく知られた中国の伝統曲ということで、学生たち、2時間の民族楽器演奏会をおおいに楽しんでいました。
演奏会が終わってから、日本人教師は、中国伝統楽器の試演奏をさせていただき、私はあこがれの楊琴を弾いてみました。調律がたいへん難しい楽器だというので、買って帰ることはあきらめましたが、いつか習ってみたい楽器のひとつです。
古箏、近所の楽器店で2千元という格安ものが展示されていました。日本円に換算すれば3万円くらい。でも、古箏は大きくて持って帰るのが大変そうだし、狭い家ではいったいどこに楽器を広げて弾いたらいいのかわからないから、これまた買ってかえるのはあきらめることに。
古箏は、クラス一の芸術家、エイケツさんの楽器を借りて練習しました。エイケツさんに、古箏はドレミソラの五音階であることを教わり、基本的な弾き方、糸の押さえ方をならいました。日本の十三弦の琴と同じです。あとは、さぐり弾きで「里の秋」を練習しました。「里の秋」は典型的な「ヨナ抜き」つまり、ファとシの音が出てこない曲で、しかも音が順番につながって出てくるので、たいへん弾きやすい。
クラスのカラオケパーティでも、私は「里の秋」を歌いました。スクリーンには中国語の歌詞が出るので、学生は中国語で、私は日本語で「♪し~ずかな静かな、里の秋、お背戸に木の実の落ちる夜は~」と、歌いました。
「里の秋」は、敗戦直後のラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」や「復員だより」のテーマソングであり、外地から帰る人々を待つ思いが込められている歌です。遼寧省葫蘆島市の「中国及び満州からの引き揚げ者帰国記念碑」の前で歌おうとおもっていたのですが、行くことができずかないませんでした。
「里の秋」は、中国ではテレサ・テン(麗君デン・リージュン)の持ち歌「又見炊烟」として知られ、女性が恋人のことを思う歌となっています。
(「又見炊烟」春庭拙訳)(簡体字を日本漢字に変換)
想問陣陣炊烟 你要去那里 あなたがこの里を去ってから、私は夕ごはんを炊くかまどの煙にさえ、あなたを思っています
夕陽有詩情 黄昏有画意 夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你 絵のように美しい景色を見ても、私の心の中には、ただ、あなただけがいる
又見炊烟升起 勾起我回憶 かまどの煙を見てはあなたを思い、あなたの追憶にひたる
願你変作彩霞 飛到我夢里 朝焼けの中に、あなたが飛んで私の元へ来ることをどれほど願い夢みたことだろう
夕陽有詩情 黄昏有画意 夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你 詩歌や絵画に美しい境地はあれど、私の心の中には、ただ、あなたへの思いだけがある。
詩情画意雖然美麗 我心中只有你
テレサテンの歌声はこのサイトで。
http://www.haoting.com/htmusic/21022ht.htm
私も「里の秋」を歌いながらまもなく「引き揚げ」です。
<つづく>
2009/07/27
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(25)肚皮舞発表
おみやげに楽器を買うことはやめましたが、自分のために、「よくお仕事がんばりました」の記念品をいくつか買い込みました。今回、買って帰ることにしたのは、ベリーダンス衣装です。コインをつなぎ合わせた腰巻き(ヒップスカーフ)と、スカート、胸を覆うコインをつなぎ合わせた上着。(上着というより、ブラジャーに近いが)
3度目の中国滞在の今回、東方肚皮舞(ベリーダンス)を3ヶ月間習って、けっこう上手に踊れるようになりました。(あくまでも主観的な意見ですが)
あ、ダンスの老師も、「このリーベンレン(日本人)は、私の説明は听不懂(聞いてもわからない)のに、うまくまねをして踊っている」と、誉めてくれたんですよ。(信じがたい人は、来年のダンスィングソレイユの発表会を見にくるように)
所属しているジャズダンスサークルへのおみやげとして、ベリーダンスの衣装を買い込みました。来年の発表会のとき、皆で「ベリーダンス風」の踊りを発表するのもいいかなって思って。
あ、私は臍だしはしませんから、大丈夫。もっとも私が臍を見せても、だれもドキリともしやしません。自慢じゃないが、まったく色気を感じさせることのない腹です。インストラクターの劉先生が踊ると、同性でもドキドキするくらいセクシーなのに、同じ動き(をしているつもり)でも、私が踊ると、オバハンの健康体操。
衣装はこんなイメージ。
http://www.tolcore.com/shopdetail/025000000022/
いっしょに肚皮舞を練習してきたリグン先生からも腰巻き(ヒップスカーフ)をプレゼントしてもらいました。私が買ったのとは違う種類のコインがじゃらじゃらついているヒップスカーフです。
こう言っちゃなんですが、リグン先生も、お人柄そのままの非常にまじめな踊りで、少しもセクシーではない。リグン先生はやせていてほっそりタイプですが、本場のベリーダンスダンサーは、丸くてふくよかであるほどよし、とされており、やせていて細ければ細いほど美しく見えるクラシックバレエやジャズダンスとは違います。私がベリーダンスを気に入った一番の点は、この「ふくよかであるほうが色っぽい」とされる点にあります。むろん、「ふくよかであるのに、少しもセクシーじゃない」って場合もあります。
ベリーダンス練習も成功しましたが、、、、もちろん、日本語教育も大成功だったんです。
我がクラスは、7月17日に実施された「中級終了最終試験」において、全員合格点で「専門日本語」への進級が決まりました。昨年10月にアイウエオから始まったクラス。私たち日本人教師が中国人の先生とペアになって日本語を教えるようになった3月には、4級レベルだった学生たちが、4ヶ月の間に急速に進歩して、2級レベルの試験に合格したのです。
<つづく>
2009/07/28
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(25)最終試験
7月に入るとまもなく、学生たちはカリカリピリピリしてきました。それもそのはず、2週間後に迫った中級日本語最終試験に合格しなければ、8月の専門日本語の授業が受けられず、専門日本語授業の最終日本語プレゼンテーションに合格しなければ、1年間日本語を学び続けた努力は泡と消えてしまうのです。
日本への国費留学ができるかどうか、この試験にかかっています。いわば、一生の問題が試験一つにかかっているのです。試験に合格すれば、日本で博士号をとり、中国に帰国後は「エリート」としての将来が開ける。不合格ならせっかくのチャンスをふいにして、どこかに就職口を探すことになる。中国でも修士修了者が増えている現在、おいそれと望み通りのポストはないし、一般会社の就職口もよい条件のところは限られています。
動物園散歩をしたあと、私のクラスから6人の学生が私の部屋に遊びに来たのですが、その後、私が日本語教師勉強会で発表しなければならなかったり、論文を提出しなければならなかったりで、時間がなかなかとれなくて、学生を部屋に招待することができませんでした。
「先生の部屋に行って、おしゃべりできなくて残念だった」という学生がいたので、「試験前ではありますが、もし来られるなら、週末に遊びに来てください」と、クラスの人たちに言っては見たものの、「先生の部屋に行きたいです。でも、試験はもっと大切です」と、ソッコー断られました。もっともなことです。
学生たちは放課後も週末も、ぴりぴりしながら猛勉強を続けました。私は、学生たちの不安を少しでも取り除きたいと、連日「必ず合格するから大丈夫」と言い続け、「ダンチョー先生が去年の修了生の試験平均点との比較をしたところ、3月の4級レベル試験の平均点でも5月の3級レベル試験の平均点でも、今年のほうがずっと点数が高い。そして去年、最終試験に不合格だった学生はいないのだから、今年も絶対に全員合格します」と、合格できるという暗示をかけ続けました。
むろん、心配な人もいました。私に古箏の弾き方を教えてくれた芸術家のエイケツさんは、これまでの試験すべて合格点に達したことがなく、百点満点で90点80点とるのが当たり前というクラスの中で、一人だけ日本語がなかなか上達しませんでした。さぼっているわけでもなく、授業にはまじめに出席するし、教科書にはびっしり書き込みをして、一生懸命勉強しているようすが伺えました。でも、私が中国語を覚えられないのと同じように、相性の悪い言語はあるもので、英語ドイツ語フランス語ができるのに、エイケツさんは日本語が覚えられない。
コミュニケーションをとることが語学上達の要なのに、彼女はクラスの中で孤高を保ち、クラスメートともルームメートとも交流しないでいました。友達と教えあうことは、教える人にとっても理解を深めることになるので、ペア学習、グループ学習は語学学習を成功させる重要な方法ですが、彼女だけは誰とも話さずいっしょに勉強せず、ひとりでいました。
誰彼と無く面倒を見てきた学習係のカショさんも彼女だけはお手上げ。
エイケツさん、芸術家風で変わり者ではありますが、純粋な心根を持つ、いい子です。中国語で執筆されている彼女の「昆曲のリズムと造園法」という修士論文も、その道の人に高い評価を受けています。私の願いは、なんとか彼女が合格点をとること。いっしょうけんめい励まして、17日を迎えました。
<つづく>
2009/07/29
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(27)合格
息子の大学入試(センター試験)の時もハラハラドキドキしました。息子は高校不登校生で、16歳のとき「高校卒業認定試験」に合格して以来、家の中に引きこもり、ゲーム漬けのまま、ひとつも勉強せずにセンター試験を受けたのです。試験当日、母にできることは祈ることのみ。それでも母の祈りが通じて、息子はセンター試験利用の都内の私立大学2校に合格し、好きな日本史を学べる方を選んで3年生になっています。大学の成績はほぼ全優です。成績はいいけれど、息子もまた他者との関わりが苦手な性格なので、大学で友人ともほとんどつきあいません。
ですから、クラスの中で一人で過ごしているエイケツさんのことがいつも心にありました。息子が大学で仲間とつるむことができない性格だからといって、決して悪い子ではなく、ただ人とのつきあいが苦手なだけなのと同じく、エイケツさんも本来はとても純粋なよいひとです。音楽や芸術を愛する女性です。
なんとかエイケツさんが仲間と円満にすごして最終試験を迎えられるよう願ってきました。しかし、エイケツさんは日本語学習がうまくいかないというイライラが昂じたのか、あと授業は残すところ10日、という時点でクラスメートとトラブルを起こし、クラス全員と対立してしまいました。
担任のシャ先生や日本語教育主任のマー先生が学生との面談を繰り返して、なんとかエイケツさんとクラスの対立を宥和しようとしてくださったのですが、うまくいきませんでした。
エイケツさんが変わり者でクラスになじもうとしないとしても、それは彼女が芸術家であるからなのであって、縄跳びやカラオケに参加しようとしなくても、クラスは彼女の個性を認め、決して排除しようとしたりしなかった。しかし、最後になって、エイケツさんはクラスから完全に浮いて結果になってしまいました。
残念な結末でしたが、それでもエイケツさんも、きっと私の祈りが通じて合格するに違いないと信じて、17日の試験当日となりました。私の試験監督担当は
学生たちには、再試験もあるし、絶対に不合格にはならないから、不安なく試験を受けるように言ったのですが、小学生のときから常にトップの成績を取り続けてきた学生たち、万が一、最初の試験で合格点に達せずに再試験にでもなったら、恥ずかしくて仕方がない、と考えているのです。
恥ずかしくないよ、語学試験なんて、その時の運、不運によってうまく自分の勉強したところが出ればよくできるし、運悪く勉強していないところがでる場合だってあるんだから、それでその人の全能力が判断されるわけでもない。百メートルを10秒以内で走れる人ばかりではないし、42kmを2時間で走れる人ばかりではないのと同じく、語学が不得意だからとしても、皆、それぞれの専門に関しては優れた業績を残してきた人ばかりなのだから、落ちたら堂々と再試験を受ければいいのさ、と、学生には言いましたが、実は私のクラスで再試験を受ける可能性があるのは、エイケツさん一人。
結果。エイケツさんを含め、クラス全員、他のクラスでも全員が一発で日本語能力試験2級レベルにごうかくしました。ばんざ~い!
全員合格の知らせを、郵便局で帰国荷物送り出しの作業中に電話連絡で受けました。荷物の段ボールに宛名書きしたり、ヒモがけしたり作業をしながら、涙がぼろぼろこぼれました。2007年のときも全員合格でしたが、こんなに泣けてきたのは、やはりエイケツさんの結果が心配だったからでしょう。
クラスの皆は、トラブルがあったあとも、決してエイケツさんを排除するような態度はとらず、クラスの班長の結婚祝いビデオクリップを撮影するときも、仲良くいっしょにお祝いのビデオを撮影していました。このようなよい人柄の学生たちばかりであったことが、今回の私の赴任にとっては、最大の幸運でした。
<つづく>
2009/07/30
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(28)帰国
というわけで、「日本の博士課程に留学する中国修士修了生への日本語教育」の全任務を終了し、無事帰国いたしました。
「だだいま!」
3月中旬から7月下旬まで4ヶ月半の短い赴任期間でしたが、成果はいろいろありました。
1,言語文化に関する紀要論文を1本仕上げ、大学院のジャーナルに掲載。
2,「文型教育読解教育のなかで行うパワーポイント利用の日本事情教育」という日本語教育実践報告論文を1本仕上げ、勤務校の「創立30周年記念論集」に応募。
3,「村上春樹研究」で博士論文を提出する中国人日本文学研究者の論文添削をはじめ、3人の中国人日本語教師の日本語日本文化研究論文の添削をした。都合、論文4本の添削。
4,4ヶ月半の間に、文科省視察、日本語教師団団長の授業参観、中国人教師の個人的授業参観、勤務校中国人日本語教師総見の授業参観、他校の教師による参観、都合6回、参観授業を実施した。
5,当地の日本語教師勉強会で、「日本語教育実践」について発表
6,東北地方の三か所の世界遺産見学。集安市、好太王石碑と将軍墳ほかの遺跡。遼寧省葫蘆島市の九門口長城。瀋陽市のヌルハチ陵や盛京故宮。
7,担任クラス19名の2級レベル試験合格
8,ベリーダンス習得
おお、すばらしい活動成果!と、自分で誉めておく。子どもたちからは「ああ、あ、うるさいハハオヤが帰ってきちゃったよ」というふうに迎えられているのですから、せめて自分で自分に「よくがんばりましたで賞」くらい贈ってあげないと。
しかも、帰国してしばらくのんびりしたいどころか、6月に失敗した「博士論文中間発表会」の再実施が7月30日。
9月には前期お休みした分の授業の集中講義をやらねばならず、大学院の単位にするレポート執筆が2本。
休んでいられません。
じゃ、これから発表、がんばります。
<つづく>
2009/07/31
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(29)記念のメダル本物と偽物
帰国したからと言ってのんびりしていられませんでした。その第一弾は博士論文中間発表。
6月4日に予定されていた私の「中国からサイバー方式で博士論文中間発表を行う」というイベントが、その6月4日当日の朝にパソコンハードディスク損傷というアクシデントで、すべておじゃんになりました。
指導教官は私のために何度も大学院教官の会議を要請し、前例のないことはしたくないという他の教官を説得して「中国からの発表を認める」ということにしてくださったのに、パソコンが壊れたという情けない事情で、先生の努力も無駄にしてしまったのでした。
指導教官は、なおかつ「7月30日に再度、発表の機会を与える」という結論を教官会議で決議してくださり、チャンスを残してくださった。ですから、30日の発表はぜひとも成功させなければなりません。
30日の発表、今度こそうまくいきますように、と祈りつつ迎えました。それでも学生たちが試験を前に緊張していたほどではありません。試験に落ちたら日本への留学ができなくなり、人生が変わってしまう彼らと異なり、私は博士号とったからといって、残り少ない人生がよくなるわけでもありません。
私が博士号を取ろうと志したのは、ただ、還暦記念として自分の学業に記念のメダルが欲しかっただけ。還暦記念にエルメスケリーの60万円のバッグを買うのも、1カラット60万円のダイヤの指輪を買うのも、博士号を取るのも、同じことです。私にはブランドバックよりもダイヤモンドよりも博士号が欲しかったというだけです。
実は、博士号はダイヤより高い買い物です。私立大学の博士課程在学には3年間で合計250万円の学費をつぎ込むことになる。しかも、ダイヤはお金を出せばかえるけれど、博士号はお金を出しただけでは買えない。
お金で買える博士号もあります。ディグリーミルと呼ばれるインチキ博士号にだまされて大枚はたいてしまった人もいる。ご注意あれ。
私は「本物の価値ある博士」をめざして中国に単身赴任し、日夜授業を研究し、論文を執筆し、がんばってきました。
7月30日には、無事「博士論文中間発表」を終え、第二関門のクリアです。ラストステージまで、なんとか持ちこたえていきたいものです。
私の授業実践での課題、「文型授業・読解授業に取り入れて日本の文化歴史を紹介する、パワーポイント画像利用の可能性をさぐる授業」というテーマ、まだまだ課題は大きい。日本の歴史や文化を紹介しだすと、私はついついあれもこれも学生に伝えたくなってしまいます。
「自国の文化歴史に誇りを持ち、留学先で紹介できること」ということも、学生に課していることのひとつなので、会話授業に西安が出てくれば兵馬俑や始皇帝陵の写真をだして、「日本人は始皇帝と兵馬俑についてよく知っているから、質問されたら、中国の世界遺産として、ちゃんと説明してあげられるように、しておいてね」と、学生には言っています。
この実践報告については、勤務校の創立30周年記念論集に応募したところ、8月16日に行われる創立30周年記念日本語教育シンポジウムの発表者のひとりになってよいと許可されました。
7月末に帰国してすぐまた8月中旬には中国行き。ずっと中国にいられたら楽ですけれど、公用パスポートを受けているので、任務終了とともに帰国することが必要であり、また、自分の博士論文発表をしなければならないこともあって、いったん帰国。またすぐ中国へとんぼ返りです。
<おわり>
2009/07/20
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(18)授業参観のごほうび
授業参観は、学生たちにとってやはり緊張するものです。私としては、できる限り学生が何らかの発言したらほめてやり、発言の訂正などは、参観の場で行うのではなく、のちほど自分たちの授業の中で行えばいい、と考えました。参観者の前で「間違っている」と、なおされるより、「よい、文が作れました」とほめられたほうが、ただでさえ緊張している学生にとって、負担が少ないからです。
他のクラスでは、1度も誰からも授業参観がなかったクラスが2クラス。文科省が10分ほど覗いていったクラスが2クラス。私のクラスだけが、文科省視察団の参観のほか、日本人教師団ダンチョー先生の参観、中国人日本語教師の授業参観が2度、中国人日本語教師の総見参観1度、他の大学の先生たち4人の参観、都合6回も授業参観を行いました。
授業参観のまえに、うまく答えられるよう「予行練習」をさせる先生もいますが、私は普段のままで、間違ったら間違ってでいいや、と言う考え。縄跳びの「特別栄誉賞」の授与を参観の場で行うというのもサプライズ企画で、学生たちは知らされていなかったので、手作り賞状をもらって、とても喜んでいました。
だだし、「賞状の受け取り方」というのは、前に「卒業式」の話題でふれたことがありました。「練習と人生」読解のなかで、日本では卒業式の練習を何度も繰り返し、予行練習を行って式が滞りなく進むようにお辞儀の練習や賞状受け取り方の練習をする、と話し、日本と中国の違いについての話題が出ました。学生たち、中国ではそのような賞状受け取りの練習はしない、と言うので、賞状はこういう具合にもらうのだよ、と、実演して見せたのです。
私からの賞状授与では、班長のキンセイさんが上手に受け取りをして、拍手喝采でした。
総見授業参観が、なごやかに終了できたのも、学生たちが緊張しながらもいっしょうけんめい答えていたおかげ。私から学生にごほうびをあげることにしました。
ごほうびは「浴衣姿の写真」のプレゼント。
学内の他コースの先生が保有している浴衣を借りて、クラスの学生たちに着付けをしてやり、浴衣姿の写真撮影大会をやる、というクラスイベントを開催したのです。
私は、娘の浴衣着付けをしたとき文庫帯の結び方を練習したのですが、忘れているので、もういちどネットの「帯結び」のサイトを開いて復習。だいたい思い出しました。
着物は、女物の単衣の着物が3枚、黄八丈や花柄です。浴衣は女物が4枚、男物が1枚だけ。これは、和服を着たがるのは、女子学生が多いので、女物のほうが多く集められてきたからでしょう。
実は、「浴衣で写真撮影」は、生け花教室の次の「日本文化体験教室」として、5クラス共通のイベントとして予定されていたのですが、諸般の都合により、5クラス全体ではしないことになってしまいました。
だから、私のクラスだけ浴衣を着て写真をとったら、他のクラスから不平が出るところでした。
でも、「参観授業を何度もしたごほうび」ということにすれば、他のクラスは参観授業を実施していませんから、あきらめてもらえます。
クラスの学生には、「他のクラスが、3班だけ浴衣着付けをしてもらって、ずるい」と言い出したら、「3班は授業参観をしたから、そのごほうびなのだ、と説明しておきなさい」と、言い含めておきました。
<つづく>
2009/07/21
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(19)浴衣姿の撮影大会
我がクラスは、女性が10人、男性9人。浴衣は、女物が7枚に対して男物は1枚しかない。男性は、女物を流用したり、男物浴衣を交代で着ることにして、浴衣着付け教室を行いました。浴衣の枚数が足りないので、3回に分けて実施。
第1回目は、男性3人、女性5人が参加。私が文庫帯をふたりの女性に結び、あとは、付け帯です。一番人気は付け帯のお太鼓帯でしたが、じゃんけんで勝った人から好きな着物を選び、負けた人から帯と下駄草履を好きな順に選ぶと言う方法で、まずそれぞれの着物と帯を選びました。
第1回目のときは、私がひとりで文庫帯を結んだので男性にまで手が回らず、男物浴衣は自分で帯を締めさせたところ、心配したとおりに胸高に締めて、「ツンツルテンに胸高帯」で、見事に「天才バカボン」になっていました。
2回目3回目は、「帯はズボンのベルトの下に締めること」を徹底して、なんとか見られる姿になりました。
1回目、ひとりで着付けをしたら、大変でした。それで、他学校の先生から授業参観希望を伝えられたとき、授業参観の一環として「学生と会話しながら、浴衣の着付けを手伝う」ことを条件に参観希望に応じることにしました。2回目は、短時間に着付けが終了し、たっぷり写真をとることができました。参観の先生方ともいっしょに写真をとり、よい記念になりました。
浴衣は、本当は裸の上に直接着るのだ、湯上がりの衣装だった、という解説は事前にしてありましたが、1回ごとにクリーニングに出す予算がないので、Tシャツとズボンの上に羽織ることにしました。
浴衣はまだしも、ウール黄八丈などは、Tシャツの上に着ると、7月の気温で、かなり暑い。しかも、日頃なれない帯をぎゅっと締めた女子学生は「毎日着るならたいへんだ」と言いましたが、互いに写真を取り合って、「きれいね」「日本女性みたい」とほめ合って、大喜びでした。
男性組も、腕組みをしてポーズとるやら、恋人同士が並んでラブラブ写真を撮るやら、楽しそう。
他のクラスからのぞきに着た学生もいっしょに撮影していました。他クラスの女性陣はちょっとうらやましそうです。
3回目は、「女物でも写真にとってしまえば、男物の浴衣とたいした違いはない」ということで、残った男性たちの和服撮影大会。実際、男物の浴衣も、平均身長180センチの我がクラスの男性陣にはツンツルテンです。女物でも、着流しにすれば、膝の少し下くらいの長さには達する。ゆきが短いので、袖は肘が出るけれど、写真は、膝から上だけを撮影すれば、ツンツルテンはごまかせる。
<つづく>
2009/07/22
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(20)浴衣姿の感想
ブログのニックネームを「白ちゃん」にして、3月から「日本語ブログ」を書いてきた我がクラスの男子学生の日記を紹介します。
彼はとても穏やかなやさしい性格で、他の女子学生のスピーチコメントにも「いつもやさしいエンテイさん、大好きです」と書かれていました。
女性にもてそうですが、親友レイトウさんの短作文によると「エンテイさんはチャイなので、女性と話そうとすると、すぐ真っ赤になってしまう」そうです。うん?チャイナので?中国人はすぐ真っ赤になるのか、と思いきや、「彼はシャイなので」と表現したかったのでした。「~ようとすると」「~そうとすると」という文型の練習文としてレイトウさんが作った文。
レイトウさんとエンテイさんは、クラスのなかで、「まだ恋人がいない男性3人」のうちのふたりです。
ブログのなかでは、私のことを本名で呼ばず、春庭かHAL先生と書いておいてね、と話したので、彼のブログで、私は「春庭先生」で登場しています。
エンテイさんの日本語ブログ、誤用はありますが、私は「書き続けるうち必ず上手になるから、初期の間違った文を直さない方がいいですよ。そのうち、だんだん上手になったとき、最初はこのように間違えていた、ということがわかったほうがいいから」とアドバイスしました。
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7月8日
昨日、授業が終わった(あと)、春庭先生は六つの着物を持って来ました。着物の中で、五つのが女の着物、一つしか男の着物ではない。
着物は日本の伝統の服だ。現在、正月や成人式、結婚式など特別な時に着物を着る。私たちは初め(て)この着物を着る。男の着物を着方が簡単(だ)が、女のが複雑だ。春庭先生は優しいので、私たちを助けた。着物を着終わったとき、私たちのイメージが完全(に)変わった。また、私たちは先生と一緒に写真を撮った。この写真を見るのを楽しみにしている。
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着物を着たあとでは、鏡に映る自分の「イメージが完全に変わって」日本人のようにみえることを、かわるがわる写真を取り合って楽しんでいました。
私のブログコメント
「白ちゃんは背が高いので、着物のサイズが少し小さかったことはちょっと残念でしたが、白ちゃんの着物姿は、とてもカッコよく、男前でした。教室のコンピュータに着物の写真が入っています。USBを持ってきて、コピーしてください。」
<つづく>
2009/07/23
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(21)美人新入生
美人揃い、ハンサム揃いの我がクラスの、「美人平均値」が一段と上がったのは、7月6日に、新入生が加わったから。他のクラスの男性陣も「美人新入生」に注目。
修士課程修了後、大学の教師をしていた女性で、自己紹介スピーチとして、生まれ故郷の無錫の紹介をしてくれました。大学教師を辞めてこちらに来る前の、自分の教え子学生たちとの記念撮影では、学生に囲まれた写真のようすから、皆に慕われた先生だったことがよくわかりました。修士の専門は日本経済。同志社大学の博士過程では経済学を専攻する予定です。
彼女は学部では日本語日本文学を専攻し、日本語能力試験1級に合格していますから、本来は、日本語教育の受講は免除されています。しかし、彼女は「日本語の復習をしたいから、クラスに参加したい」と自分から希望して授業に出席することになりました。
中級の2級レベルを学習しているクラスですから、彼女にとっては、すでに習ったことばかりのはず。でも、彼女は熱心に授業に参加し、クラスメートたちにはよい刺激になりました。
自己紹介のスピーチでも、1級レベルになると、このようになめらかに豊富な語彙を使って表現できる、と言うことがクラスの学生たちにわかって、よい刺激になりました。
他のクラスの「まだ恋人いない軍」の男子学生たちも、美人新入生が3班に入ったことをうらやましがっています。
2007年のときのクラスは、大学若手教師がほとんどを占めていて、21名の学生のうち、独身は5人だけでした。(そのうちの2人は日本に行ってから恋人同士になったようです)
2009年の今年のクラスは、2008年6月に修士課程修了する前に「国費留学生試験」にパスして、就職経験を持たずに日本語教育を受講している学生がほとんどなので、班長のキンセイさんと、学芸委員のソケツさんが結婚しているだけで、あとは独身。
といっても、美女美男の我がクラスですから、ほとんどの学生は、学部時代、院生時代にすでに恋人を得ています。クラスの中には、院生時代から恋人同士になったカップルがいて、ふたりが仲良く並んでいるようすは、恋人同士というより、むしろ「長年連れ添った夫婦」のような互いの信頼感と落ち着いた愛情が感じられます。
男性の「恋人いない3人組」のうち、ショウケンさんは最近「学食デート」して女性といっしょに食事している姿を見かけたのですが、交際申し込みが受け入れられたという噂はないので、まだ恋人成立には至っていないらしい。彼は84年生まれで、一番若いので、これからいくらでも恋人を得るチャンスはあるでしょう。
男子学生で一番年上のレイトウさんは、学部を卒業した後、数年会社で働いてから修士課程に進学した人です。とてもよい性格で落ち着いた優しい人柄なのに、なぜか今まで恋人はいなかった。
レイトウさんは、宿題の「習った文型を使って短い文を書いてください」という課題に、クラスメートの学習委員について、話題にすることが多かった。
レイトウさんは、女性の中で一番若くて日本語が上手な学習係が、気になってならないようすでした。たとえば、「~ばかりでなく」というフレーズをつかって文を書いてください、という宿題を出すと、「私のクラスの学習委員は、頭がいいばかりでなく、美人だ」と、書いてくる。「~はずがない」というフレーズの作文では、「カショさんは、頭がよくてきれいなので、男性は彼女が嫌いであるはずがない」と書きました。
<つづく>
2009/07/24
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(22)シングルたち
ある日の作文、「~べき」「~か、どうか」というフレーズを使って作文を書きなさい、という宿題ではレイトウさんは、「もうすぐ、中級の授業が終わりになり、クラス替えがある。残念なことにならないよう、自分の気持ちを言うべきだろうか。告白をするべきかどうか、、、、」と、書いてきました。私は、「勇気をだして告白したほうがいいですよ」と、コメントを書き込んで宿題を返しました。さて、どう進展したか。
学習委員のカショさん、修士号取得者クラスで一番若い(84年生まれ)。彼女は、とても活発で親切。歌と踊りが上手で、日本語も上手です。彼女が、文法問題や日本語類義語の微妙なニュアンスの違いなどを質問してきたときなど、私が日本語で説明し、彼女が理解した後、それを中国語でクラスの人に解説してもらう、という場面もよくあり、学習係としてクラスの日本語学習の向上に役立ってきました。
彼女には北京に恋人がいて、今は遠距離恋愛中です。中国でも最近の学生遠距離恋愛は、スカイプ利用でパソコンで会話ができ、互いの気持ちを伝えあうのでも、すれ違いはないようです。彼女に恋人がいることは皆知っていました。
コメントに触発されたのかどうか、レイトウさんは思い切って学習係に告白したみたい。結果は、、、、、、残念。「今、恋人がいるから、ごめんなさい」でした。仕方がないですね。今のカショさんの恋人もとてもすてきな人のようです。レイトウさんもとってもいい男なんですけれど、先約済みを覆すには至らなかった。
レイトウさんは、「結果は残念だったけれど、告白しないで心残りになるより、思い切って言ってよかった」と前向きにとらえて、クラスの中では「ふられてスッキリ」とふるまっています。クラスメートたちも皆それを知っていて、温かく見守っています。頭がよく、背が高くハンサムなレイトウさん、いつか必ずすてきな恋人と巡り会うことでしょう。
もうひとりの「恋人いない歴26年」のエンテイさん、彼とは、毎日学校で顔をあわせているほか、「運命の出会い」がありました。7月4日に宿舎のすぐそばのスーパー近くで、偶然会ったことがあります。エンテイさんは先輩と近くの繁華街桂林路で食事を済ませたところでした。
エンテイさんは、動物園散歩をしたおりに、私の宿舎へきたことがあるので、「宿舎はすぐそこだから、いっしょにお茶でも飲みましょう」と、部屋でおしゃべりすることにしました。先輩の四喜さんは、日本語は全くわかりませんが、エンテイさんが通訳してくれました。英語が少しはわかるというので、英語で話しかけてみても、エンテイさんが中国語に通訳するので、しばらく、英語日本語中国語のチャンポン会話を続けました。
エンテイさんの先輩、四喜さんは、近くの大学病院で働いています。二人は薬学を専攻し、先輩の四喜さんは大学病院に職を得て働くようになり、エンテイさんは、大学院へ進学しました。
エンテイさんは先輩をたて、とても優秀な人だと紹介してくれましたが、四喜さんは、東京大学に国費留学することが決まっているエンテイさんの境遇のほうが、大学病院で働くよりいいと考えているらしく、「大学病院の仕事はあまりおもしろくない」と、こぼしていました。
確かに、博士過程に進学する国費留学生は、博士号をとって帰国して中国の大学で働くとしたら、薬学部教師のポストが与えられるでしょうから、四喜さんからみると、エンテイさんはエリートコースに乗ったと見えるのでしょう。四喜さんも「まだ恋人いない」でした。
恋人いない歴○○年のレイトウさんもエンテイさんも四喜さんも、きっといつかすてきな出会いがあるだろうと思います。それまではシングル男の自由さを楽しんでください。
自分の気持ちをきちんと告白したレイトウさんを見習って、私も「運命の出会い」をしたエンテイさんにプロポーズしておきました。「あなたを私の息子にしたいです。日本に行ったら、私の娘と付き合ってね」
回答は、「お友達から始めましょう」でした。
<つづく>
2009/07/25
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(23)民族楽器音楽会
6月末の学内縄跳び大会で学内イベントは最後かと思っていたら、7月10日に校舎1階の多目的ホールで「民族楽器音楽会」という盛大なイベントがありました。大学教職員芸術団楽団の演奏による、民族楽器の紹介と演奏。6時から8時までありました。
勤務校のテイ先生の肝いりで、教職員芸術団楽団のメンバーが、学生と教職員のために、演奏会を開いてくれたのです。
テイ副校長は、皆から「書記」と呼ばれている大学の重鎮です。日本の小中学校生徒会とかPTAでは、役員の中に会長副会長の次くらいに「書記」という係があって、会議の記録などを書いていくのが書記ですが、中国で書記といったら、政治局のエリートであり、とてもエライ人。トップは総書記と呼ばれ、現在の総書記は胡錦涛(ホゥー・ジンタオ)です。
我が校の「書記」テイ先生は、政治のエリートというより、芸術家の雰囲気がする人で、中国語や中国文化を学ぶために中国に留学している外国人学生に、中国文化を教えるなどしています。私も2007年に、太極拳を教えてもらいました。テイ先生は二胡の演奏にも秀でており、大学教職員芸術団楽団のメンバーでもあります。
演奏会は、「紅楼夢選曲」から始まり、次にテイ先生による民族楽器紹介がありました。私は二胡は知っていましたが、二胡の同類の楽器に、高胡、板胡、京胡、中胡と、何種類もあることをまったく知りませんでした。これらは拉線楽器の種類。
| 吹奏楽器には、竹笛、笙などがあります。日本の篳篥(ひちりき)に似た管楽器、また、巴烏(バーウー)という雲南省の少数民族の楽器も紹介されました。巴烏は、竹の管に銅のリードをつけ、低音の含みのある音が出ます。
あとは、さまざまな種類の打楽器。京劇でなじみの打楽器が多い。
弾撥楽器の種類には、日本と同じ琵琶(中国の琵琶が日本へ伝えられたのだから、同じというのは当然だが)のほか、中阮、大阮というバンジョーに似た楽器が紹介されました。
楊琴と古箏は、以前ブログで紹介したことがある私の好きな弾撥楽器です。楊琴はピアノのように鋼線を張った上を、木琴のように棒で叩いて音を出す。私が習ってみたい楽器のひとつです。
古箏は21弦で、私はクラスの学生の持ち物である古箏を弾かせてもらい、「里の秋」が上手に弾けるようになりました。
日本にある中国伝統楽器専門店のサイトをリンク。日本では、どの伝統楽器も20万円ほどしますが、中国で買っても、よい品は5千元くらいして、中国物価からすればとても高い。初級者用は千元くらいから。
二胡の類 http://www.13do.com/product-list/11
中阮 http://www.13do.com/product-list/22
竹笛 http://www.13do.com/product-list/15
巴烏 http://www.catalog-shopping.co.jp/shop/shop14/china/bawu/
テイ先生の板胡独奏では、「東北風吹月児明」という曲の見事な演奏に聞き惚れました。司会をしていたチャンリー先生は、初級コースのときに博士コースの担任だった先生で、男子学生あこがれの美人教師。ダンスも上手だし歌もうまい。チャンリー先生は「好日子」という曲を独唱して拍手喝采を受けていました。
<つづく>
2009/07/26
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(24)里の秋
中国人学生にとって、エレキギターなどの現代風の曲を聞く機会はよくあるけれども、民族楽器オーケストラを聞く機会はそれほど多くなく、中国民族楽器音楽会は、中国の伝統文化を知る貴重な機会となりました。
二胡の演奏では日本の「荒城の月」の演奏もあり、歌や演奏はよく知られた中国の伝統曲ということで、学生たち、2時間の民族楽器演奏会をおおいに楽しんでいました。
演奏会が終わってから、日本人教師は、中国伝統楽器の試演奏をさせていただき、私はあこがれの楊琴を弾いてみました。調律がたいへん難しい楽器だというので、買って帰ることはあきらめましたが、いつか習ってみたい楽器のひとつです。
古箏、近所の楽器店で2千元という格安ものが展示されていました。日本円に換算すれば3万円くらい。でも、古箏は大きくて持って帰るのが大変そうだし、狭い家ではいったいどこに楽器を広げて弾いたらいいのかわからないから、これまた買ってかえるのはあきらめることに。
古箏は、クラス一の芸術家、エイケツさんの楽器を借りて練習しました。エイケツさんに、古箏はドレミソラの五音階であることを教わり、基本的な弾き方、糸の押さえ方をならいました。日本の十三弦の琴と同じです。あとは、さぐり弾きで「里の秋」を練習しました。「里の秋」は典型的な「ヨナ抜き」つまり、ファとシの音が出てこない曲で、しかも音が順番につながって出てくるので、たいへん弾きやすい。
クラスのカラオケパーティでも、私は「里の秋」を歌いました。スクリーンには中国語の歌詞が出るので、学生は中国語で、私は日本語で「♪し~ずかな静かな、里の秋、お背戸に木の実の落ちる夜は~」と、歌いました。
「里の秋」は、敗戦直後のラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」や「復員だより」のテーマソングであり、外地から帰る人々を待つ思いが込められている歌です。遼寧省葫蘆島市の「中国及び満州からの引き揚げ者帰国記念碑」の前で歌おうとおもっていたのですが、行くことができずかないませんでした。
「里の秋」は、中国ではテレサ・テン(麗君デン・リージュン)の持ち歌「又見炊烟」として知られ、女性が恋人のことを思う歌となっています。
(「又見炊烟」春庭拙訳)(簡体字を日本漢字に変換)
想問陣陣炊烟 你要去那里 あなたがこの里を去ってから、私は夕ごはんを炊くかまどの煙にさえ、あなたを思っています
夕陽有詩情 黄昏有画意 夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你 絵のように美しい景色を見ても、私の心の中には、ただ、あなただけがいる
又見炊烟升起 勾起我回憶 かまどの煙を見てはあなたを思い、あなたの追憶にひたる
願你変作彩霞 飛到我夢里 朝焼けの中に、あなたが飛んで私の元へ来ることをどれほど願い夢みたことだろう
夕陽有詩情 黄昏有画意 夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你 詩歌や絵画に美しい境地はあれど、私の心の中には、ただ、あなたへの思いだけがある。
詩情画意雖然美麗 我心中只有你
テレサテンの歌声はこのサイトで。
http://www.haoting.com/htmusic/21022ht.htm
私も「里の秋」を歌いながらまもなく「引き揚げ」です。
<つづく>
2009/07/27
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(25)肚皮舞発表
おみやげに楽器を買うことはやめましたが、自分のために、「よくお仕事がんばりました」の記念品をいくつか買い込みました。今回、買って帰ることにしたのは、ベリーダンス衣装です。コインをつなぎ合わせた腰巻き(ヒップスカーフ)と、スカート、胸を覆うコインをつなぎ合わせた上着。(上着というより、ブラジャーに近いが)
3度目の中国滞在の今回、東方肚皮舞(ベリーダンス)を3ヶ月間習って、けっこう上手に踊れるようになりました。(あくまでも主観的な意見ですが)
あ、ダンスの老師も、「このリーベンレン(日本人)は、私の説明は听不懂(聞いてもわからない)のに、うまくまねをして踊っている」と、誉めてくれたんですよ。(信じがたい人は、来年のダンスィングソレイユの発表会を見にくるように)
所属しているジャズダンスサークルへのおみやげとして、ベリーダンスの衣装を買い込みました。来年の発表会のとき、皆で「ベリーダンス風」の踊りを発表するのもいいかなって思って。
あ、私は臍だしはしませんから、大丈夫。もっとも私が臍を見せても、だれもドキリともしやしません。自慢じゃないが、まったく色気を感じさせることのない腹です。インストラクターの劉先生が踊ると、同性でもドキドキするくらいセクシーなのに、同じ動き(をしているつもり)でも、私が踊ると、オバハンの健康体操。
衣装はこんなイメージ。
http://www.tolcore.com/shopdetail/025000000022/
いっしょに肚皮舞を練習してきたリグン先生からも腰巻き(ヒップスカーフ)をプレゼントしてもらいました。私が買ったのとは違う種類のコインがじゃらじゃらついているヒップスカーフです。
こう言っちゃなんですが、リグン先生も、お人柄そのままの非常にまじめな踊りで、少しもセクシーではない。リグン先生はやせていてほっそりタイプですが、本場のベリーダンスダンサーは、丸くてふくよかであるほどよし、とされており、やせていて細ければ細いほど美しく見えるクラシックバレエやジャズダンスとは違います。私がベリーダンスを気に入った一番の点は、この「ふくよかであるほうが色っぽい」とされる点にあります。むろん、「ふくよかであるのに、少しもセクシーじゃない」って場合もあります。
ベリーダンス練習も成功しましたが、、、、もちろん、日本語教育も大成功だったんです。
我がクラスは、7月17日に実施された「中級終了最終試験」において、全員合格点で「専門日本語」への進級が決まりました。昨年10月にアイウエオから始まったクラス。私たち日本人教師が中国人の先生とペアになって日本語を教えるようになった3月には、4級レベルだった学生たちが、4ヶ月の間に急速に進歩して、2級レベルの試験に合格したのです。
<つづく>
2009/07/28
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(25)最終試験
7月に入るとまもなく、学生たちはカリカリピリピリしてきました。それもそのはず、2週間後に迫った中級日本語最終試験に合格しなければ、8月の専門日本語の授業が受けられず、専門日本語授業の最終日本語プレゼンテーションに合格しなければ、1年間日本語を学び続けた努力は泡と消えてしまうのです。
日本への国費留学ができるかどうか、この試験にかかっています。いわば、一生の問題が試験一つにかかっているのです。試験に合格すれば、日本で博士号をとり、中国に帰国後は「エリート」としての将来が開ける。不合格ならせっかくのチャンスをふいにして、どこかに就職口を探すことになる。中国でも修士修了者が増えている現在、おいそれと望み通りのポストはないし、一般会社の就職口もよい条件のところは限られています。
動物園散歩をしたあと、私のクラスから6人の学生が私の部屋に遊びに来たのですが、その後、私が日本語教師勉強会で発表しなければならなかったり、論文を提出しなければならなかったりで、時間がなかなかとれなくて、学生を部屋に招待することができませんでした。
「先生の部屋に行って、おしゃべりできなくて残念だった」という学生がいたので、「試験前ではありますが、もし来られるなら、週末に遊びに来てください」と、クラスの人たちに言っては見たものの、「先生の部屋に行きたいです。でも、試験はもっと大切です」と、ソッコー断られました。もっともなことです。
学生たちは放課後も週末も、ぴりぴりしながら猛勉強を続けました。私は、学生たちの不安を少しでも取り除きたいと、連日「必ず合格するから大丈夫」と言い続け、「ダンチョー先生が去年の修了生の試験平均点との比較をしたところ、3月の4級レベル試験の平均点でも5月の3級レベル試験の平均点でも、今年のほうがずっと点数が高い。そして去年、最終試験に不合格だった学生はいないのだから、今年も絶対に全員合格します」と、合格できるという暗示をかけ続けました。
むろん、心配な人もいました。私に古箏の弾き方を教えてくれた芸術家のエイケツさんは、これまでの試験すべて合格点に達したことがなく、百点満点で90点80点とるのが当たり前というクラスの中で、一人だけ日本語がなかなか上達しませんでした。さぼっているわけでもなく、授業にはまじめに出席するし、教科書にはびっしり書き込みをして、一生懸命勉強しているようすが伺えました。でも、私が中国語を覚えられないのと同じように、相性の悪い言語はあるもので、英語ドイツ語フランス語ができるのに、エイケツさんは日本語が覚えられない。
コミュニケーションをとることが語学上達の要なのに、彼女はクラスの中で孤高を保ち、クラスメートともルームメートとも交流しないでいました。友達と教えあうことは、教える人にとっても理解を深めることになるので、ペア学習、グループ学習は語学学習を成功させる重要な方法ですが、彼女だけは誰とも話さずいっしょに勉強せず、ひとりでいました。
誰彼と無く面倒を見てきた学習係のカショさんも彼女だけはお手上げ。
エイケツさん、芸術家風で変わり者ではありますが、純粋な心根を持つ、いい子です。中国語で執筆されている彼女の「昆曲のリズムと造園法」という修士論文も、その道の人に高い評価を受けています。私の願いは、なんとか彼女が合格点をとること。いっしょうけんめい励まして、17日を迎えました。
<つづく>
2009/07/29
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(27)合格
息子の大学入試(センター試験)の時もハラハラドキドキしました。息子は高校不登校生で、16歳のとき「高校卒業認定試験」に合格して以来、家の中に引きこもり、ゲーム漬けのまま、ひとつも勉強せずにセンター試験を受けたのです。試験当日、母にできることは祈ることのみ。それでも母の祈りが通じて、息子はセンター試験利用の都内の私立大学2校に合格し、好きな日本史を学べる方を選んで3年生になっています。大学の成績はほぼ全優です。成績はいいけれど、息子もまた他者との関わりが苦手な性格なので、大学で友人ともほとんどつきあいません。
ですから、クラスの中で一人で過ごしているエイケツさんのことがいつも心にありました。息子が大学で仲間とつるむことができない性格だからといって、決して悪い子ではなく、ただ人とのつきあいが苦手なだけなのと同じく、エイケツさんも本来はとても純粋なよいひとです。音楽や芸術を愛する女性です。
なんとかエイケツさんが仲間と円満にすごして最終試験を迎えられるよう願ってきました。しかし、エイケツさんは日本語学習がうまくいかないというイライラが昂じたのか、あと授業は残すところ10日、という時点でクラスメートとトラブルを起こし、クラス全員と対立してしまいました。
担任のシャ先生や日本語教育主任のマー先生が学生との面談を繰り返して、なんとかエイケツさんとクラスの対立を宥和しようとしてくださったのですが、うまくいきませんでした。
エイケツさんが変わり者でクラスになじもうとしないとしても、それは彼女が芸術家であるからなのであって、縄跳びやカラオケに参加しようとしなくても、クラスは彼女の個性を認め、決して排除しようとしたりしなかった。しかし、最後になって、エイケツさんはクラスから完全に浮いて結果になってしまいました。
残念な結末でしたが、それでもエイケツさんも、きっと私の祈りが通じて合格するに違いないと信じて、17日の試験当日となりました。私の試験監督担当は
学生たちには、再試験もあるし、絶対に不合格にはならないから、不安なく試験を受けるように言ったのですが、小学生のときから常にトップの成績を取り続けてきた学生たち、万が一、最初の試験で合格点に達せずに再試験にでもなったら、恥ずかしくて仕方がない、と考えているのです。
恥ずかしくないよ、語学試験なんて、その時の運、不運によってうまく自分の勉強したところが出ればよくできるし、運悪く勉強していないところがでる場合だってあるんだから、それでその人の全能力が判断されるわけでもない。百メートルを10秒以内で走れる人ばかりではないし、42kmを2時間で走れる人ばかりではないのと同じく、語学が不得意だからとしても、皆、それぞれの専門に関しては優れた業績を残してきた人ばかりなのだから、落ちたら堂々と再試験を受ければいいのさ、と、学生には言いましたが、実は私のクラスで再試験を受ける可能性があるのは、エイケツさん一人。
結果。エイケツさんを含め、クラス全員、他のクラスでも全員が一発で日本語能力試験2級レベルにごうかくしました。ばんざ~い!
全員合格の知らせを、郵便局で帰国荷物送り出しの作業中に電話連絡で受けました。荷物の段ボールに宛名書きしたり、ヒモがけしたり作業をしながら、涙がぼろぼろこぼれました。2007年のときも全員合格でしたが、こんなに泣けてきたのは、やはりエイケツさんの結果が心配だったからでしょう。
クラスの皆は、トラブルがあったあとも、決してエイケツさんを排除するような態度はとらず、クラスの班長の結婚祝いビデオクリップを撮影するときも、仲良くいっしょにお祝いのビデオを撮影していました。このようなよい人柄の学生たちばかりであったことが、今回の私の赴任にとっては、最大の幸運でした。
<つづく>
2009/07/30
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(28)帰国
というわけで、「日本の博士課程に留学する中国修士修了生への日本語教育」の全任務を終了し、無事帰国いたしました。
「だだいま!」
3月中旬から7月下旬まで4ヶ月半の短い赴任期間でしたが、成果はいろいろありました。
1,言語文化に関する紀要論文を1本仕上げ、大学院のジャーナルに掲載。
2,「文型教育読解教育のなかで行うパワーポイント利用の日本事情教育」という日本語教育実践報告論文を1本仕上げ、勤務校の「創立30周年記念論集」に応募。
3,「村上春樹研究」で博士論文を提出する中国人日本文学研究者の論文添削をはじめ、3人の中国人日本語教師の日本語日本文化研究論文の添削をした。都合、論文4本の添削。
4,4ヶ月半の間に、文科省視察、日本語教師団団長の授業参観、中国人教師の個人的授業参観、勤務校中国人日本語教師総見の授業参観、他校の教師による参観、都合6回、参観授業を実施した。
5,当地の日本語教師勉強会で、「日本語教育実践」について発表
6,東北地方の三か所の世界遺産見学。集安市、好太王石碑と将軍墳ほかの遺跡。遼寧省葫蘆島市の九門口長城。瀋陽市のヌルハチ陵や盛京故宮。
7,担任クラス19名の2級レベル試験合格
8,ベリーダンス習得
おお、すばらしい活動成果!と、自分で誉めておく。子どもたちからは「ああ、あ、うるさいハハオヤが帰ってきちゃったよ」というふうに迎えられているのですから、せめて自分で自分に「よくがんばりましたで賞」くらい贈ってあげないと。
しかも、帰国してしばらくのんびりしたいどころか、6月に失敗した「博士論文中間発表会」の再実施が7月30日。
9月には前期お休みした分の授業の集中講義をやらねばならず、大学院の単位にするレポート執筆が2本。
休んでいられません。
じゃ、これから発表、がんばります。
<つづく>
2009/07/31
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(29)記念のメダル本物と偽物
帰国したからと言ってのんびりしていられませんでした。その第一弾は博士論文中間発表。
6月4日に予定されていた私の「中国からサイバー方式で博士論文中間発表を行う」というイベントが、その6月4日当日の朝にパソコンハードディスク損傷というアクシデントで、すべておじゃんになりました。
指導教官は私のために何度も大学院教官の会議を要請し、前例のないことはしたくないという他の教官を説得して「中国からの発表を認める」ということにしてくださったのに、パソコンが壊れたという情けない事情で、先生の努力も無駄にしてしまったのでした。
指導教官は、なおかつ「7月30日に再度、発表の機会を与える」という結論を教官会議で決議してくださり、チャンスを残してくださった。ですから、30日の発表はぜひとも成功させなければなりません。
30日の発表、今度こそうまくいきますように、と祈りつつ迎えました。それでも学生たちが試験を前に緊張していたほどではありません。試験に落ちたら日本への留学ができなくなり、人生が変わってしまう彼らと異なり、私は博士号とったからといって、残り少ない人生がよくなるわけでもありません。
私が博士号を取ろうと志したのは、ただ、還暦記念として自分の学業に記念のメダルが欲しかっただけ。還暦記念にエルメスケリーの60万円のバッグを買うのも、1カラット60万円のダイヤの指輪を買うのも、博士号を取るのも、同じことです。私にはブランドバックよりもダイヤモンドよりも博士号が欲しかったというだけです。
実は、博士号はダイヤより高い買い物です。私立大学の博士課程在学には3年間で合計250万円の学費をつぎ込むことになる。しかも、ダイヤはお金を出せばかえるけれど、博士号はお金を出しただけでは買えない。
お金で買える博士号もあります。ディグリーミルと呼ばれるインチキ博士号にだまされて大枚はたいてしまった人もいる。ご注意あれ。
私は「本物の価値ある博士」をめざして中国に単身赴任し、日夜授業を研究し、論文を執筆し、がんばってきました。
7月30日には、無事「博士論文中間発表」を終え、第二関門のクリアです。ラストステージまで、なんとか持ちこたえていきたいものです。
私の授業実践での課題、「文型授業・読解授業に取り入れて日本の文化歴史を紹介する、パワーポイント画像利用の可能性をさぐる授業」というテーマ、まだまだ課題は大きい。日本の歴史や文化を紹介しだすと、私はついついあれもこれも学生に伝えたくなってしまいます。
「自国の文化歴史に誇りを持ち、留学先で紹介できること」ということも、学生に課していることのひとつなので、会話授業に西安が出てくれば兵馬俑や始皇帝陵の写真をだして、「日本人は始皇帝と兵馬俑についてよく知っているから、質問されたら、中国の世界遺産として、ちゃんと説明してあげられるように、しておいてね」と、学生には言っています。
この実践報告については、勤務校の創立30周年記念論集に応募したところ、8月16日に行われる創立30周年記念日本語教育シンポジウムの発表者のひとりになってよいと許可されました。
7月末に帰国してすぐまた8月中旬には中国行き。ずっと中国にいられたら楽ですけれど、公用パスポートを受けているので、任務終了とともに帰国することが必要であり、また、自分の博士論文発表をしなければならないこともあって、いったん帰国。またすぐ中国へとんぼ返りです。
<おわり>