春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭2019年2月目次

2019-02-28 00:00:01 | エッセイ、コラム


2019028
ぽかぽか春庭2019年2月目次

0202 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018年11月(12)松尾大社・重森三玲の庭園
0203 2019十九文屋日記京都旅行2018(15)京都外国語大学・東寺
0205 2019十九文屋日記京都旅行2018(16)京都駅から

0207 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記きさらぎ(1)光の春に
0209 2019十九文屋日記きさらぎ(2)半額飯の日々

0209 ぽかぽか春庭シネマパラダイス>輝ける人生の映画(1)自分の足をみつけること
0212 輝ける人生の映画(2)フジコ・ヘミングの時間
0214 輝ける人生の映画(3)判決、ふたつの希望
0216 輝ける人生の映画(4)プリティウーマン

0217 ぽかぽか春庭アート散歩>2018に見た絵拾遺(1)ムンク展in東京都美術館
0219 2018に見た絵拾遺(2)斉白石展in東京国立博物館
0221 2018に見た絵拾遺(3)藤田嗣治展in東京都美術館

0223 ぽかぽか春庭アート散歩>2019冬のアート散歩(1)藤田嗣治本のしごと展in富士美術館
0224 2019冬のアート散歩(2)西洋絵画ルネッサンスから20世紀まで in 富士美術館
0226 2019冬のアート散歩(3)岩本拓郎すべてのいろとかたち展 in 吉祥寺美術館
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ぽかぽか春庭「岩本拓郎展」

2019-02-26 00:00:01 | エッセイ、コラム

 岩本拓郎すべてのいろとかたち展ポスタ―

20190226
ぽかぽか春庭アート散歩>2019冬のアート散歩(3)岩本拓郎展 in 吉祥寺美術館

 2月7日、仕事帰りに吉祥寺美術館に寄りました。吉祥寺駅で下車するのも久しぶり。駅前のごちゃごちゃ戦後闇市的な飲み屋さん街は相変わらずのごちゃごちゃぶりでなつかしかったですが、そこには寄らず、まっすぐコピス吉祥寺へ。

 久しぶりに行ったので、何度も間違えてきた間違いを今回もまた繰り返しました。
 コピス吉祥寺のエスカレータで6階まであがっておもちゃ売り場に出た後、あれ、美術館はどこかなと、カラフルなおもちゃの間をぐるぐる回ってしまいました。売り場のお姉さんに聞いて、エスカレータは6階までしか上がれない、美術館は7階、ということを思い出す。エレベーターを探して、7階にあがりました。

 武蔵野市立吉祥寺美術館。65歳以上無料。夜7時まで開館。
 なので、前の職場の帰り道にちょくちょく寄っていたのですが、最近は10時半から夜8時まで仕事をする生活になったので、閉館時間には間に合わず、遠ざかっていました。
 ラッシュがきつくなったからと、自分で出勤時間をずらし通常の勤務時間より遅くしたのですが、「アフター5」という活動はゼロになりました。家に帰ったらご飯食べて寝るだけ。
 前の職場で8時半から授業をするためには、6時半に家を出ていました。そのかわり、帰りに美術館などに寄る時間がとれました。どっちがいいか、思案中の現在。

 2月7日の吉祥寺美術館は、「岩本拓郎 すべての いろと かたち展」開催中でした。(2月24日まで) 
 岩本は1951年生まれ。私とほぼ同世代ですのに、私はまったく知らない画家でした。もしかしたら東京近代美術館所蔵の2点を、常設展示の中に見たことがあったのかもしれませんが、抽象画、現代絵画の展示をすっとばして見て回るので、心にとどめなかったのかもしれません。

 ミロとかモンドリアンとかクレーとか草間彌生とか、一目見て作者がわかる絵の前では足を止めますが、日本の現代作家の抽象画、だれの作品も同じように見えて、心に残った作品少なかったです。昔は、「日本画って、だれが描いても同じような景色同じような人物に見えて、どれがどれやらわからない」と思っていたのですから、ようは、見方が不十分ということなのですね。(もっとも、今でも、宗達を模写した光琳と抱一の風神雷神、どっちがだれやら区別つかないし、曽我蕭白の龍も伊東若冲の龍も区別つきませんけど)。

 岩本拓郎「茶色の小瓶」2002 紙に油絵具69×36cm関口美術館蔵


 いつもは、ロビーに展示してある作品は撮影自由で、展示室内は撮影禁止です。しかし、岩本拓郎展では逆で、ロビー内は撮影禁止、展示室内は撮影自由、ただし「岩本拓郎という作家名を明示する」という条件つき。

 ロビー展示作品は、美術館や個人の所蔵作品、つまり「売れた」作品。借り出し作品ですから、所蔵権により撮影できない。展示室内の11cm作品は、2018,2017年の新作で、これから売ろうという作品。だから、作家名作品名を書いて「販売促進の宣伝してください」というわけです。1mスクエアの大きな作品が11点。11cmのが36点。
 以下、近作の紹介です。

 2018年2017年の作、11cm正方形のなかに、油絵具やアクリルペイント、アルキド樹脂絵具で、さまざまな色と形を描いていく、という作品。「SQUARE-11シリーズ」
 展示室の中には、11cmの正方形の中のさまざまな色が表現されていました。
 吉祥寺美術館展示室内


 詩情あるタイトルがついていますが、作品が出来上がったあとに、その画面からイメージされるタイトルをつけるそうです。

 黄色くよみがえるもの 2018紙にオイルパステル、アルキド樹脂絵具


 蒼く立ち上がる 2018紙にオイルパステル、アルキド樹脂絵具


 まあ、このふたつは、色味からいって、タイトルがわかる。

 プラハからⅢー色彩のバロック 2018紙にオイルパステル、アルキド樹脂絵具


 画家の詩心、どうしてプラハだったのやら。私には、下の作品が「プラハ色彩のバロック」だと言われても、その違いはしかとはわからぬが。


 抽象画について、昨年おもしろかったのは、中国で大規模に開催された「草間彌生&村上隆展」贋作騒動。展示されたすべてが贋作だったけれど、日本側から指摘を受けて展覧会が閉鎖されるまでファンは気づかずにニセモノを「鑑賞」していた、ということ。質の悪い贋作だったので、見る人が見ればすぐに偽物とわかったそうですが。

 具象画だって贋作は山のように出回っていて、中国には「贋作村」という場所があって、かっては、村を挙げて贋作つくりに励んでいるのだとか。あ、現在では「絵画村」として観光名所にもなり、模写として堂々おみやげになって売られているそうです。油絵作家10000人が描きまくる村の年商700億円。大芬油画村へは、深圳市からツアーも出ていて、おみやげゴッホとか500円くらいから。

 「画家のサインを模倣して入れてはいけない」というのが模写のルールだそうですが、本物そっくりサイン入りやら、現代の絵具とわからないような「19世紀の組成とおなじにしてある時代物風絵具」もあるそうで、絵具の化学分析でもわからない本物そっくり作品もあるのだとか。

 村上隆ルイヴィトンコラボのバッグだの草間彌生かぼちゃTシャツだの売られている時点で、贋作出現は宿命かも。(私が持っている彌生かぼちゃ柄タンクトップ、Mサイズなので、胸は入るがおなかがはいらなくなりました)

 少なくとも、私は岩本拓郎の贋作を「格安だから」とかなんとか売りつけられても、本物なのかどうか、まったくわからない程度の鑑賞眼しか持っていない。鑑定書だって偽造だからなあ。

 あれこれと偽物の心配をしているより、抽象画を見るときは無心にその形や色を楽しめばそれでいいんだと思います。でも、ついつい値段で鑑賞するビンボー人なので。画廊などの個展では作品に値段がついているけれど、美術館展示室の作品にはついていなかった。(画廊のオークションでは23.5×32.5 cm F4号油彩が3万円で落札されていました。本物かどうかは定かでありません)

 吉祥寺美術館の岩本拓郎展、その色と形はとてもここちよかったです。
 岩本作品、じっくり見たので、これからどこかで作者名掲げてなくても、あ、これは岩本拓郎かなって、わかるようになっていたらうれしいかも。
 村上隆も草間彌生も、美大生の贋作だされても深圳の大芬油画村製作品でも、今のところ私にはわからないです。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「西洋絵画ルネッサンスから20世紀まで in 富士美術館」

2019-02-24 00:00:01 | エッセイ、コラム


20190224
ぽかぽか春庭アート散歩>2019冬のアート散歩(2)西洋絵画ルネッサンスから20世紀まで in 富士美術館

 「藤田嗣治本のしごと展」を見たついでに、同時開催の常設展を見ました。今回の特集は「西洋絵画ルネッサンスから20世紀まで」という展示です。
 富士美術館が開館したのは1983年。都内にあるのに、開館してから20年以上も見に来なかった。ときどき「見にいきたいなあ」と思う展覧会もあったのだけれど。

 実をいうと、宗教団体が設立した美術館に対して、斜めに構える気持ちがあり、熱海のMOA美術館と富士美術館、これまで観覧の機会を持ちませんでした。
 むすめが「尾形光琳の紅白梅図屏風が見たい」と言い出して熱海に行くことになりました。MOA美術館所蔵の国宝です。世界救世教設立のMOA美術館に行くなら、創価学会設立の富士美術館にもいきましょう、という、なんだかよくわからない「宗教設立美術館OK」です。

 創価大学正門前の富士美術館


 宗教団体、税金はかからないし、信者からのお布施たっぷりで、MOAも富士もよい作品買い放題。充実した所蔵品です。
 「西洋絵画ルネッサンスから20世紀まで」も、なかなかの品ぞろえでした。

 富士美術館現代美術展示室


 テレビドラマ「メアリー・スチュアート」に出てくるメアリーの舅にあたるフランス王アンリ2世。テレビの中では女に目がないギラギラ絶倫系のアンリ2世ですが、肖像画ではきまじめそうな、ちょっと線の細い感じで描かれています。

 アンリ2世像 1553-59頃 フランソワ・クーリエ工房


 私のとぼしい古代ヨーロッパ史の知識。アレクサンドロス大王は、アジア遠征半ばで32歳の若さで亡くなった。
 しかし、↓の絵では、アレクサンドロスは、かなりの老人に見えます。ルネッサンス時代の画家にとって、慈悲にあふれる大王といえば、威厳のある堂々とした姿で描くものと思われていたのか、32歳にしちゃ老けすぎだろっと、突っ込み入れたくなりました。

 「アブドロミノに奪った王冠を返還するアレクサンドロス大王」1615-17年頃ベルナルド・ストロッツィ(1581-1644)


 そのほか、他の美術館では見たことのない肖像画がたくさんあり、興味深かったです。
 マリーアントワネットのお気に入り女性肖像画家だったエリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン(1755-1842)。
 アントワネット肖像画はよく目にしますし、自画像も西洋美術館に常設展示されています。
 マリーアントワネットとりまきのひとりで、貴族たちの肖像画を描き、マリーの力で王立アカデミー会員にもなりました。

 マリーのほうは女王と肖像画家という関係を超えた親友と思っていましたが、画家のほうは、ブルボン一家が落ち目になると、さっさと宮廷を逃げ出して、イタリアやオーストリアへ。さらにロシアのエカテリーナ2世の肖像も手掛けるなど、マリーアントワネットの不器用さに比べて、立ち回り方ははるかに上手。

ロシア滞在中にはエカテリーナ女帝のあとおしで、ロシア王立アカデミーの会員にもなっています。なんて立ち回り上手。画商の夫との仲はうまくいかなかったものの87歳の長寿全うしました。明日の運命はわからない激動の時代を生ききったことは見事と言うべきでしょう。

 フランス宮廷時代、彼女は、マリーアントワネットの小姑にあたるルイ16世の妹の肖像も描いていました。

 ルイ16世妹エリザベス王女1782エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン


 革命後、ロシアやイギリスでも貴族やブルジョア階級の肖像画を描きまくりました。美化術に長けていたので、誰でも、彼女に描いてもらえば2倍は美人になりました。マリーアントワネットがハプスブルク家遺伝の受け口であった事実も、彼女の腕で上手くごまかされていて、残された肖像画は、マリーアントワネットの魅力を十分に伝えています。

フランスが王政復古するとルイ18世に手厚く迎えられ、フランスを安住の地としました。生涯に660の肖像画と220の風景画を残し、画家としての名声を保った一生でしたが、画商の夫は賭博好き、ひとり娘は素行不良という家庭。そりゃ、苦労も背負わなきゃギロチンに散った「親友」に悪いよね。

 近代絵画現代絵画もよい作品が並んでいました。
 クロード・モネはフランスノルマンディー地方の避暑地ブールビルの砂浜と断崖の風景を愛し、たくさんの同名の作品を残しています。

 ブールビルの断崖1882 クロードモネ(1840-1926)


 この絵より15年後1897年に描かれた「波立つブールビルの海」は西洋美術館常設展示なので、いつも見てきました。灰色の空と波頭が白く立つ画面。それに比べると1882年のブールビルの断崖は、空も青いし、海も穏やかです。

 現代絵画から。キース・へリングが収蔵されているのが目を引きました。
 2月8日に創価大学の学生によるボランティア解説がありました。学生が一生懸命自分が選んだ絵を説明するのををききながら各展示室を回りました。私が知らなかったことを教えてくれる解説もあり、興味深い時間になりましたが、だたひとつ、私の疑問に思ったことについて「それは調べていません」となったのが、収蔵されているキースへリングの絵がふたつに割れていること。

 キース・へリング(1958-1990 Keith Haring)は、ストリートアーティストとして知られるようになりました。地下鉄の掲示板や街角の塀に絵を描いていくスタイルで有名になり、作品が売れるようになると、自分自身が同性愛者でHIV感染者だったこともあり、恵まれない子供やエイズ患者救済のために力を注ぎました。エイズの発症により52歳で死去。

 もともと仏教系は在来宗教も新興宗教も、同性愛をとがめだてするようなことは少なかったと思います。親鸞が妻帯をはじめるまで、仏教のお坊さんたちはお寺のなかにいるお稚児さんの体を女性のかわりにしていたのですし。
キリスト教系新興宗教は、統一教会など絶対に同性愛を許さないところが多いみたいですが。

 それにしても創価学会美術館である富士がマン・レイやキースへリングを収蔵していることは、ちょっと意外でした。
 おりこうそうな創価大学女子大生は「同性愛とか、エイズ患者とか、自分とは違うと思っていましたが、自分とは違う人を受け入れていくことが大事だと思いました」という感想をキースの作品の前で語っていました。お利口なことば、メーヨ会長様が認めてくださった見解なのだと思います。

 で、私の質問「人物のあるコンポジションの下三分の一のところに亀裂があるのは、どこかの壁から剥がしたために生じたのでしょうか」
 担当の学芸員の先生も「ここに収蔵されたときにすでに亀裂はあったので、どのような経緯で亀裂が入ったのかはわかりません」という答えでした。 

 人物のあるコンポジション1982 キース・へリング 
 

 富士美術館でのひととき、充実していました。これからは「シューキョ―ケー」と回避せず、女子学生が解説したように「自分と違うことを受け入れて」いかなければなりませんね。

 45年も前のことですが、母が死んだとき、ヒトの不幸を見つけるとワラわらと寄ってくる宗教勧誘者のなかで、創価学会がもっともしつこくて、母が死んで弱り切っている一家に、「早死にしたのは先祖のたたり。大しょうにんさまにすがれば、よくなる」なんてかわるがわる言いにくる。あなたたちの押し付け、一生許さない、と、徹底的に嫌いになってしまったのです。大聖人様ごめんなさい。あなたが悪いわけじゃない。

 私の宗教は「宇宙幸福原っぱ教」といいます。私が教祖で、信者は私ひとり。宇宙のどこかに幸福な原っぱhappy fieldがあって、そこに私の父も母も姉も犬のコロもいます。私を見守って助けてくれる原っぱの人たち。死んだらそこに行くかもしれないし、行かないかもしれない。信ずる者こそ幸いなれ。

 きらいなのは、(1)「自分にとっていい宗教だから」と、ヒトに押し付けてくる人。あなたにとって、いい宗教なら、あなたがそれを心の糧にすればいい。私に押し付けるな。
(2)新しい信者を勧誘することで、教団内の地位が上がる仕組みになっている教団(こうなっているから(1)が生じる)
(3)寄付金をがっぽりもうけても、それを社会福祉に使わない教団。

 で、これからは富士美術館にも、ときどき行きたいと思います。65歳以上入館料千円でした。高い!できれば、上記(3)のために、70歳以上は無料にしてほしい。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「藤田嗣治本のしごと展in富士美術館」

2019-02-23 00:00:01 | エッセイ、コラム


20190223
ぽかぽか春庭アート散歩>2019冬のアート散歩(1)藤田嗣治本のしごと展in富士美術館

 目黒区美術館で開催されていた「藤田嗣治本のしごと」を見逃していたら、巡回展が八王子の富士美術館でも行われるので、今度は見逃さずに行ってみることにしました。
 以下、「没後50年藤田嗣治展」と「藤田嗣治本のしごと」の観覧報告です。



 2019年2月8日に観覧した富士美術館の「藤田嗣治本のしごと」展には、藤田がGHQ民政官フランク・エドワード・シャーマン(Frank Edward Sherman、1917-1991)にあてたたくさんの手紙が展示されていて、興味深かったです。
 シャーマンは、もともと藤田のファンでした。シャーマンは、広く文化人と接し、戦後日本文化復興のために働きましたが、なかでも藤田を積極的に支援し、藤田嗣治と君代夫人の戦後のアメリカ・フランス行きを手配しました。
 シャーマンあての手紙は、八王子市富士美術館に数通展示されていました。どれも挿絵つきでアメリカホテル生活のようすや、君代夫人の早期渡米を願う気持ちが書かれていました。

 藤田遺品の愛用品。戦後渡仏した藤田は、日用品も家具も手作りしたそうです。
 自作のテーブル(制作年不明 旧シャーマンコレクション)と、愛用の旅行鞄


 藤田は君代夫人を日本に残して渡米したため、シャーマンにあてて、早く君代にビザを出して、自分のもとに寄こしてほしい、という意味の手紙を何通も出しています。
 文面は、駄々っ子が母親の胸に抱かれたいと、身をよじって懇願するような調子です。藤田はシャーマンの厚誼に対して数々の作品を贈っており、これらはシャーマンコレクションとして知られています。(シャーマンコレクションは、他の画家の作品やシャーマンが撮影した文化人たちの写真とともに、目黒区美術館や伊達市アートビレッジ文化館に所蔵されています)

 藤田は本業の油絵のほか、本の挿絵や装丁作品も多数残しています。
 藤田が初めて手がけた挿絵本の仕事は、1919(大正8)年の 小牧近江『詩数篇』でした。小牧近江はフランス文学者、翻訳家、社会運動家。1910年から1919年ま でパリに滞在し、藤田とも交友がありました。1920年代から30年代にかけて、藤田は数多くの挿絵本装丁本をフランスで手がけており、部数限定のこれらの本は、コレクター垂涎の希少本になっています。

 藤田嗣治「腕(ブラ)一本(昭11)東邦美術協会 講談社文芸文庫で再版されています。


 エコールドパリの光景、アーティストとの交流を書いています。異国の地で腕一本をたよりに異国の地で画家として立つことができた自負がうかがえます。キュビズムっぽい絵をさっそく取り入れているところが、パリについて最初にやったことが「黒田清輝推奨の絵具を床にたたきつけた」と書く藤田の「最新の絵画に直にに触れている」という気分の表れかと。

 藤田嗣治「地を泳ぐ」
 1911年にパリに渡 以来20年のフランス時代、南米北米などを旅行してまわった時代を経て、1933年から1941年までの随筆を集めた本。


 レオンフラピエ「母の手」深尾須磨子訳
 1934年に深尾須磨子によって訳され平凡社から出版された。原題は『ラ・マテルネルLa Maternelle保育園1905』



 ポール・クローデル「三つの聲」1935立命館出版部


 戦後の本。佐多稲子(1904-1998)の「素足の娘」1940年初版当時は離婚前の窪川稲子名で出版したので、↓は佐多稲子となっているので、初版ではないようです。


 展示されていた藤田の書簡集のなかで、意外に思ったこと。
 最初にパリに行ったときの、藤田から最初の妻とみに宛てた手紙です。イラスト入りのこまかい字でパリの印象や自身の動向を事細かに妻に伝えています。女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚しましたが、藤田渡仏の翌年には第1次世界大戦が勃発したため、とみはパリに来ることはありませんでした。

 1917年にはパリで出会ったモデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚をしていますから、その前に離婚が成立していたのでしょうけれど、そのあたりの資料は、私はまだ調べていません。林洋子監修でとみ宛ての書簡集は「藤田嗣治 妻とみへの手紙 1913-1916」(上・下、人文書院2016)にまとめられていますので、そのあたりを調べればわかるのでしょうけれど。

 とみ夫人が渡仏しなかったことから、藤田の愛情はもともと薄かったのかと勝手に想像していました。
 戦時下のパリで仕送りも途絶えて極貧生活をしている間の藤田を支えたフェルナンドに藤田の気持ちが移り、縁の薄い結婚生活が自然消滅したのかと。
 パリにわたる前からとみ夫人との仲は冷えていたので結婚まもなく別居したのかと思い込んでいたのですが、藤田の手紙に見る限り、とみに対しての愛情が感じられる文面に思えました。

 とみは、離婚後実家鴇田家に戻りましたが、藤田からとみにあてた封書109通と葉書72通が鴇田家に大切に保管されていました。とみと藤田が不仲になっての離婚であったら、とみも離婚した夫の書簡類を大切に保管しておくことはなかったのではないかと思えるのです。

 藤田の手紙、とみがパリに来たら、こんなヘアスタイルをさせたいこのような服を買って着せたい、という絵が描かれていたりして、藤田の愛情もなみなみならず、という印象でした。
 
 「妻とみに宛てた書簡」1914.3.11付 平野政吉美術館蔵


 東京美術学校在学中に描かれた「婦人像」1909は出会って間もないころのとみの肖像ではないかと推測されています。

若い婦人の肖像1909東京芸大蔵


 藤田の装丁や挿絵、ひとつには生活を支えるための仕事という面があったでしょうけれど、白い肌の美女や猫と同じくらい、藤田が本のしごとに力を入れていたことを知り、とても興味深く見ることができました。 

 次回、富士美術館のもうひとつの展示「西洋絵画ルネッサンスから現代まで」

<つづく>
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ぽかぽか春庭「藤田嗣治没後50年展in東京都美術館」

2019-02-21 00:00:01 | エッセイ、コラム

 藤田嗣治没後50年展ポスター

20190221
ぽかぽか春庭アート散歩>2018に見た絵拾遺(3)藤田嗣治展in東京都美術館

 2018年、藤田嗣治没後50年の大回顧展が東京都美術館で開催されました。8月の第3水曜日。65歳以上無料の日に、ミサイルママといっしょに観覧。
 ジジババ押し寄せ混み混みだったので、もう一度見ようかなと思っているうちに東京の会期は終わり、ちょうど京都に行っている間に、京都近代美術館に巡回していました。しかし、ケチな春庭は、無料の常設展のほうに10点ほどの藤田が「京都近美所蔵品」として展示されていたのを見て満足してしまいました。特別展のほうは「東京で同じ展示を見たのだから、今回は、ま、いいか」と、見なかった。チケット1600円をケチらずに、もう一度見てもよかったのに。

 2018年8月第3水曜日。旧盆の時期、東京のお盆は7月が多いので、ヒマなジジババ多い。30分ほど列に並んで入場。藤田の東京芸大卒業制作の自画像からテーマ別年代順に作品が並んでいました。
 没後50年展は、キュレーター渾身の品ぞろえ、という感がある作品が並んでいて、充実した展覧会でした。藤田の展覧会はかなり見てきたつもりですが、日本初公開という絵もあり、藤田の全貌回顧の意気込みは成功していたと思います。

 日本初公開「エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像」1922シカゴ美術館(アメリカ)蔵」
 銀箔、金粉を用いた華やかな肖像ですが、どこか寂しい感じを受けます。

 エミリー・クレイン=ジャドボーンの肖像1922シカゴ美術館蔵


 藤田嗣治(1886-1968 フランス国籍取得後はレオナール・フジタ)の生涯は、近現代画家の中でもよく知られています。
 エコールドパリの寵児。世界放浪。4度の結婚。戦争画家。洋画界の戦後処理をめぐって日本を追われるように渡仏後、二度と日本の土を踏まなかったこと、、、、などなど。

 今回の「没後50年~」は、フジタの生涯を追いながら、風景画、肖像画、裸婦、宗教画など、テーマ別に作品が並べられていました。

 二人の少女1918プティパレ美術館蔵


 藤田の最後の妻、25歳年下の君代夫人はフランスの地で81歳の藤田をみとったのち、藤田の作品を守ることに生涯を使いました。
 藤田の作品公開には大きな信念を持ってあたり、藤田の名誉を少しでも傷つけるような事態を避けていました。藤田が日本を出たいきさつには、洋画壇との軋轢もあるとされ、君代夫人は藤田の名誉を守るということを第一にしてからです。ためになかなか大きな回顧展は実現せず、藤田展が日本国内で頻繁に開催されるようになったのは、君代夫人の死後になりました。

 ただ、100点以上の展示に対し、90分たったら出口で待ち合わせという約束をミサイルママとしてしまったために、晩年の宗教画のコーナーは、パパっと駆け足観覧になってしまったのが残念。レオナールフジタはキリスト教に改宗後、教会の壁画など宗教画を数多く残しているので、日本ではあまり紹介されてこなかった晩年の作品をじっくり見るべきでしたのに。

 何点か出ていた自画像も、各時代の相貌の変化から藤田の心理までうかがえておもしろかったです。

 東京芸大の卒業制作自画像。
 当時の洋画ボス黒田清輝からは不評を受け、自信家の藤田は、日本を離れパリ留学で見返してやる、と思ったそうです。


 ちょっと前にテレビで見た藤田のドキュメンタリーで、本邦初公開という藤田の声の録音が興味深かったです。都都逸だか常磐津だか、藤田が自分でテープレコーダーに吹き込んでいます。全部で12時間分。日本語部分は6時間分。これまで君代夫人がしっかり抱え込んできて調査が行き届いていなかった遺産遺物の中からの新発見なのだとか。

 君代夫人が大切に残してきた遺品からは「日本への思い残し」という藤田の思いも伝わってきます。渡仏以後二度と日本に戻らなかった藤田の思いはどのようなものであったのか、手紙や日記などにより、研究者によって明らかになりつつあります。

 日曜美術館で聞いた録音内容には「私が生きている間にどんな声をしていたか残しておいて、後世の人に聞かせておくこともまんざら無駄なことじゃないと思います」という声が残されていて、数多く残っていたおかっぱ頭の写真とともに、藤田嗣治という人物を「後世の人に知らせておく」という藤田の思いは、届いたと思います。

 毀誉褒貶はげしく、「戦争中は軍に積極的に協力したのに、敗戦後はGHQのごきげんとりに終始して、アメリカ経由でパリに逃亡した」などと評されてもきた藤田嗣治。藤田を名指しで非難する論も美術雑誌その他にかなり出回りました。

 藤田は、戦時体制の日本洋画壇代表にかつぎだされました。軍幹部の父を持ち、親戚一同が軍人であった藤田は、軍部へのコネクションを生かせる人物とみなされたからです。しかし、画家の多くが軍部に協力したにもかかわらず、戦後は一転して、戦争責任を藤田ひとりに負わせた、という伝聞が残されたました。

 藤田がパリへ渡ったことも含めて藤田の行動を非難した人たちがいた、という戦後画壇の「政治」状況があった、ということでしょう。おゲージツ゚も、コネやらかけひきやらがたいへんみたいです。よく知らないけれど。
 
 藤田自身がこのあたりのいきさつにつき語った、とされることばがあります。
 「私は内田にこう言った。・・・私が戦犯と極まれば私は服しましょう。死も恐れませんが出来れば太平洋の孤島に流してもらって紙と鉛筆だけ恵んで貰えれば幸です。答えて後は一切その話は打ち切って小竹町から駅迄自転車で出かけて何か買って内田にだけ、私は酒は一口呑まないからってすすめて話がいろいろはずんで来た。 何んな事があっても私は先生を見捨てたり致しません。必ず私一人丈でお世話をいたします。何うか先生皆んなに代わって一人でその罪を引き受けてください。酒が入って内田は直ぐに泣く、涙もろい人だった。」(夏堀全弘著『藤田嗣治芸術試論』より)

 このエピソードは、藤田側から出されたものですが、内田夫人は「夫はそんなことは言っていません」と反論、藤田の妻君代夫人が内田夫人に再反論するなど、本当のところはわからないまま、すべては靄のかなた。

 戦時下においては「アッツ島玉砕」や「サイパン島同胞臣節を完うす」など、大画面の戦争画を描きました。戦争協力画は日本全国を巡回し、藤田は、自分の絵の前で老婆が合掌し祈りをささげている姿を目撃したことを書いています。

 竹橋の近代美術館で藤田の戦時中の絵が一堂に展示されたとき、藤田の戦争画のうち、初期にはたしかに戦意高揚の役目を果たそうとする意気込みがありますが、戦争末期の「サイパン島同胞臣節を完うす」などは、戦争の悲劇的な最後を描き、むしろ反戦画とも受け取れる作品だと思いました。

 藤田の研究と評価は、今後も新資料の発見と考察が続いていき、新知見による新たな藤田像も出てくると思います。

 私は、パリでの自分の名前を「fujita」ではなく、「foujita」という綴りにしたこと、親しい友達には「フーフーfoufou」と呼ばせていたこと、ということが藤田の本質のように思えます。フランス語でfoufouとは、「お調子者、おばかちゃん」というほどの俗語だそうです。エコールドパリの大狂乱時代。お酒を飲めない体質であるのに、酔って大騒ぎする仲間に調子を合わせて「お調子者」としてパーティでふざけまわった藤田。戦時下の日本では、大政翼賛に走る画壇のトップに担がれて戦争画を描いたのも同じことだったと思います。

 戦後の渡仏以来、フランスの田舎町で君代夫人とふたり、カトリックに改宗して教会の壁画や宗教画を描いて静かに暮らした。この時代がいちばん「藤田自身」として暮らした年月であったでしょうか。

 私は、戦後の宗教画のなかに描かれている聖母子や聖人の姿、子どもの絵があまり好きではありません。藤田の子ども、かわいいと思えない。なにか人生の底意地の悪さを見通しているような子供の顔が多いように思えます。

 藤田自身の自画像を含む、聖母マリアの絵1962-63パリ市立美術館蔵


 この中に描かれたうさぎも、猟で撃ち殺された「Nature morte死んだ自然。日本語では静物画」のmorteうさぎに見えます。白い肌の美女も、子供も動物も、どこか死をまとっているかのように感じるのです。今回はじめて見た↑の「エミリー・クレイン=ジャドボーンの肖像」も、死にそうな顔に思えます。
 このNature morteを心地よく感じる人と、違和感を感じる人によって、藤田に心酔するか否かの分かれ目がくるのでしょう。

 生誕120年の節目で開催された2006年の回顧展、没後50年の2018年の今回の展示。次回生誕130年の2026年になるのか、没後60年の2028年になるか。藤田人気はたぶん、そのときまで続くと思います。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「斉白石 in 東京国立博物館」

2019-02-19 00:00:01 | エッセイ、コラム


20190219
ぽかぽか春庭アート散歩>2018に見た絵拾遺(2)斉白石展in東京国立博物館

 2018年11月10日土曜日に、ミサイルママを誘って東京国立博物館で恒例の「大人の遠足」に出かけました。8月の第三水曜日、東京都美術館で藤田嗣治展にいっしょに出かけて以来、9月は私が脚を痛めて歩けなかったし、10月は仕事があったので、なかなかいっしょにすごす時間がとれなかったので、11月の土曜日に会うことになりました。

 斉白石は、京都にいる朋友が「現代中国絵画で一番有名な人で、中国人ならだれでも知っている画家です。東京で展覧会があるから、ぜひ見に行ってください」と勧められた画家です。
 斉白石(1864-1957)は「人民芸術家」の称号を与えられた、現代中国で最も有名かつ人気のある画家なのだそうです。

菊花群鶏図


 しかし、もともと中国絵画には縁が薄く、東京国立博物館の東洋館に展示してある中国美術も、陶器磁器、古代出土物、仏像などは熱心に見て回りますが、絵画は「日本の南画との影響関係」というようなつながりのある絵以外に、見ることが少なかったです。

 2012年1月13日に「清明上河図」を見て以来、久しぶりに中国絵画を鑑賞する機会になりました。ブログ確認したら、清明上河図を見るために、東博で3時間も並んだことが書いてありました。チケット自腹1500円払ったので、「見ないで帰るもんか」とがんばったのです。

 その点、斉白石展は、常設展入館料のみの料金で観覧できました。
 本館と東洋館法隆寺館は常設展示。斉白石展は、東洋館4階での展示でした。

 斉白石の作品、日中平和友好条約の締結40周年を記念した日本では初公開となる北京画院の所蔵品です。
 北京画院ふとっぱら。作品は写真撮影OKでした。(一部不可もありましたが)



「桃花源図」1938


 斉白石は、湖南省湘潭(こなんしょうしょうたん)の農家に生まれ、はじめは大工・指物師として生計を立て、のちに画譜や古画を学び、北京に出て画家として大成しました。

 伝統画法を師から受け継ぎ、構図や色使いは古画に則って描かれてきた中国絵画。しかし斉白石は、それらの細かい技法を師に学び、師の教え通りに描くところからは出発していません。大工仕事指物仕事を続ける中で、さまざまな絵を見て学び、篆刻などの仕事を続けながら自分の感性によって描きました。そのため、斉の絵は初期には「西洋絵画をまねている」などの非難が寄せられたそうです。しかし、中国伝統絵画にも変革の波が押し寄せ、斉白石の絵はしだいに人気高くなり、評価も受けるようになりました。

 北京画院は、設立当初に初代名誉院長として斉白石を迎え、斉の作品を数多く所蔵しています。

秋荷図


 ミサイルママは、中国絵画にあまり興味がないので、ささっと斉白石を鑑賞したあとは、いっしょにと東洋館テラスへ。
 このときは知らなかったのですが、斉白石の作品、2011年5月の中国のオークションで、近現代中国絵画では最高落札額となる4億2550万元(約54億円)で落札されたというのをあとで知りました。値段で鑑賞する春庭。あら、そんなに高いのなら、もっとゆっくり見て回ればよかったと思いました。

 ゆうぐれの東博東洋館のテラス。

 
 いつもおしゃれなミサイルママと「来年の発表会のために、もうちょっとダイエットしなさいよ」と言われ続けているe-Na。
 ジャズダンスの練習は、膝関節炎のために9月10月11月と3ヶ月と休みました。しかもストレス解消のために食べ続けているから、筋肉落ちて脂肪増加。
 「ダイエットは来年から」



<つづく> 
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ぽかぽか春庭「ムンク展in東京都美術館」

2019-02-17 00:00:01 | エッセイ、コラム

ムンク展チラシ(東京都美術館)

20190217
ぽかぽか春庭アート散歩>2018に見た絵拾遺(1)ムンク展in東京都美術館

 東京都美術館で開催されたムンク展。会期は2018年2018年10月27日(土)~2019年1月20日(日)。最終日までの入場者は67万人。
 
 ムンク展、混みあいました。1度め、2018年12月19日午後にはあまりの混雑でよく見ることができなかったので、2019年1月16日にもう一度東京都美術館に出向き、2度目の観覧。2度見たのは、どちらも第3水曜日、65歳以上は無料公開の日だったからです。タダで見ようとするからヒマなジジババ集まる日の観覧になるのであって、ちゃんとお金を出せば、ゆっくり見られる時間帯の日もあったでしょうに。でも、「無料で楽しむ東京シルバーライフ」というのが、私の方針。

 1997年4月から6月に開催された世田谷美術館「ムンク展」は見ていませんが、2007年西洋美術館の「ムンク展」は見ています。
 しかし、春庭アーカイブの中の2008年の総目次には「美術館徘徊この1年」という美術散歩について記録してあるのに、2007年は、前半が中国赴任日記で、後半の目次を見ても、ムンク展観覧の記録が残されていませんでした。ちゃんとメモしておかないと、何をどう見たのかわすれてしまう。

 2007年に見た少女の絵「思春期」は、今回は展示されていませんでした。前回も今回も見たのは、「マドンナ」「接吻」「生命のダンス」ほか。有名どころも多かったし、初めて見る「星月夜」「マラーの死」など、今回展示された100点は、見ごたえのある絵が多かったです。

 2018年12月の1度目の観覧は、ミサイルママとの「大人の遠足」の半日でしたから、絵を見ることよりも、ミサイルママとのおしゃべりが目的。東洋館のテラスで、見た絵についてしゃべったり、ご飯を食べながらミサイルママの熟年恋愛の進展やら私の貧乏ライフ報告をまじえてあれこれと。

 1度目に見たときの、観覧者のお目当て「叫び」混みようは。
 「最前列で見たい方は、こちらにならんでください」という列にならび、しばし列順をぐるぐると移動して、「叫び」の前を通過するのは5秒ほど。それ以上絵の前に立っていると、「立ち止まらずに、前へお進みください」と係官に叱られるので、ゆっくりは見ていられません。2列目以後の観覧は、たくさんの頭越しになり、背の低い私は、上部のオレンジ色の空だか雲だかの部分しか見えない。

 2度目、仕事を終えて上野にむかい、4時くらいから1時間ほどささっと、前回見て「もう一度ゆっくり見たい絵」と、思っていた絵をチェック。5時半閉館の30分前、5時に入場締め切りとなってだれも入ってこなくなってからのひとまわりで、「叫び」もゆっくり見ることができました。

 「ムンク展─共鳴する魂の叫び」に出品されたのは、5種類ある「叫び」のうち、オスロ市立ムンク美術館所蔵のテンペラ・油彩画です。ムンク自身の記録はないのですが、研究者の説によると1910年制作なんですと。

 ムンクは、死後、ほとんどの作品をオスロ市に遺贈しており、今回の「叫び」も遺贈作品のひとつ。
 ちなみに、他の「叫び」のうち、ノルウェー人実業家ペッター・オルセンが所蔵していたものが、2012年5月2日にニューヨークのサザビーズで競売にかけられた際、最終落札価格は96憶円だったそうです。世界の高額絵画のひとつとなりました。
(現在までの最高落札額作品は、ゴーギャンが1892年にタヒチで描いた「Nafea Faa Ipoipo(ナファエ・ファア・イポイポ いつ結婚するの360億円)
]
 値段で鑑賞する春庭ほかの善男善女。オスロのムンク美術館の「叫び」も、競売にかけたとすれば100億円以上になるでしょうから、5秒間の鑑賞であっても、1秒20憶円と思えば、ありがたやありがたや。

 ムンクの自画像も興味深い作品群でしたが、たいていの人は「叫び」以外の他の作品はささっと見て出口へ。
 「叫び」を見て「これであの有名な絵を見た」と満足してしまう人多数。日本の中学校美術教科書には、たいてい「ミロのビーナス」「モナリザ」が掲載され、近現代彫刻ではロダンの「考える人」絵画ではゴッホとピカソとこのムンクの「叫び」が標準ラインナップになっています。美術の授業で「鑑賞教室」なんていうスライドを見せられた人々は、ほとんどがこの絵を知っている。
 絵のポーズをとるだけでタイトルを当てられる作品「考える人」「モナリザ」の次に「叫び」でしょうね。耳に手を当てて口をあける顔面だけで、みな「叫び」と答えると思います。

 今回展示されている「叫び」の展示には、ムンクの「作者のことば」が壁に展示されていました。混雑しているとき、私は絵の横の解説文は読まないのですが、2度目の観覧5時すぎでには人も少なかったので、ゆっくりムンク日記のことばを読みました。
 この「画家による叫びの解説」は、いろんなところに引用されています。

 ムンクは日記に「友達二人と道を歩いていた──太陽が沈もうとしていた──物憂い気分のようなものに襲われた。突然、空が血のように赤くなった──僕は立ち止まり、フェンスにもたれた。ひどく疲れていた──血のように、剣のように、燃えさかる雲──青く沈んだ港湾と街を見た──友達は歩き続けた──僕はそこに立ったまま、不安で身をすくませていた──ぞっとするような、果てしない叫びが自然を貫くのを感じていた」と書き残しました。
 叫んでいるのは、画面手前の耳に手を当てている人じゃありません。この人は、自然が発する幻聴の叫びに不安を感じてぞっとして耳をふさいでいるのです。

 エドヴァルド・ムンク(1863-1944)は、5歳の時に母・ラウラ・カトリーネを失い、14歳の時に姉・ソフィエを結核で亡くしました。許されてパリ留学したものの、26歳のとき経済的に頼っていた父クリスチャンが死去。父は、オスロの名家出身の医師で、エドヴァルドには理解があったそうですが、理解者を失い、経済的な支援も失ってしまいます。
 エドヴァルドは、次々と家族を失ったことからか、婚約者トゥラ・ラーセンとの結婚を躊躇します。婚約者は婚約履行を求めてエドヴァルドに銃を向け、不運にもその銃が暴発。エドヴァルドは左手中指の先を失います。
 不安の中の生活。戦争。エドヴァルドはアルコール依存症、神経症に悩み、入院することに。

 そんな人生の中、死と生のはざまで、19世紀から20世紀の美術を代表するたくさんの絵が生まれました。
 孤独に徹した生涯。家族のなかでは長命でしたが、自らの死もやはり悲劇的な運命のもとにありました。1943年12月のナチスドイツの爆撃により家がこわされ、真冬の寒風にさらされたあげく重い気管支炎にかかり、1944年1月に死去。

 ムンクは死ぬ直前までひとり家にこもって絵を描き続け、遺言により、死後2万点もの絵がオスロ市に寄贈されました。

 ゴッホのひまわりが明るい黄色で塗られていても、大きな花にどことなく不安と悲しみを感じてしまうのは、ひまわりが秋には枯れてしまうように、絵が完成したあと、いくばくもなくゴッホは自分に銃口を向けることを私たちが知っているからでしょうか。

 同じように「物語」を通して絵を見ているからかもしれませんが、明るい黄色で描かれた「太陽」という絵、私には世に言われているように「ようやく不安から解放され、大学の壁を飾る壁画として明るくつよい光を描いた」とは思いませんでした。

 「ムンクは、この太陽の光を自己の苦悩の消滅と自然との和解合一として描いたのである」「左右対称の構図。黄色の細い縞模様で描かれた太陽光は、海面や剥き出しの岩を照らし、反射している。空と海の境界には、水平な地平線が見える。神々しい太陽の光はあらゆる方向へ拡散し、空から海や大地を照らしている」、、、、そうなんでしょうか。

 若者の集う大学の壁画ですから、明るい図柄と思いたい人は多いと思いますが、ムンクの絵、そう単純とは思えません。
 たとえば、ムンクの精神病院の主治医ヤコブ・ジョンソンの肖像。
 自分を治療してくれたジョンソン博士を的確に描写し、博士の威厳や医者として誠実な人柄も描き出しているかのように見えます。しかし、右側の足、よく見ると、ズボンの中に馬の脚とひづめが書き込まれているのです。これって、どんな意味?

 精神的にどん底だったエドヴァルドが、ものすごくジョンソン博士に世話になりました。ふたたび絵を描くまでになったのも、ジョンソン博士のおかげとは思います。でも、その恩人が持つのは馬の脚。日本のことわざ通りなら「馬脚を表す」ですけれど。
 精神病から救ってくれた恩人のジョンソン博士の肖像画の右足。靴にもみえるけれど、ひづめにも見えるように描かれていて、ズボンの脛は馬の脚にも見えます。これは、「私の目にそう見えた」というだけでなく、絵の隣に貼られている解説版にもそう書いてあるのです。



 エドヴァルド・ムンクは、精神病院から退院後、親戚からの勧めで大学壁画公募に応募しました。そのとき提出した壁画の下絵が今回展示されていました。(壁画実物を見たい人は、ノルエーへ行き、オスロ大学でご覧ください。)
 絵葉書は買いましたが、↓の絵はネットからの借り物画像です。実際の大学壁画の画像なのか、下絵画像なのかよくわかりませんが、だいたいこんな感じの太陽、ということが伝わりますかね。

 ムンク「太陽」


 「大学壁画の公募のなかから選ばれたことによって、ムンクは暗い抑圧的な絵から解放され、明るくなったのだ」と、評する人が多いです。
 でもね、私はこの太陽の光線は「暗い時代から解放されて明るくなったムンク」という見方だけじゃないような気もします。
 恩人の足が馬であるように、決して「社会を明るく照らす」ばかりの太陽ではなかったと思うのです。
 生も死も、森羅万象を照らすのが太陽。この太陽の光線には、「光を受ける者の悲しみ」も含まれているんじゃないか、と私には見えたのです。太陽の光は、広がるにつれ寒色を帯びてくる。
 たぶん、私自身の心理の反映なんでしょうね。

 1回目のムンク鑑賞のあとのミサイルママとのおしゃべり。いよいよ今カレのジンさんとの仲が進展してきて、入籍→ミサイルママの現在の部屋に同居→新規募集の住宅抽選にあたったら、10月ごろ新住宅へ転居、という流れができたのですって。
 結婚が決まって、めでたいことです。でも、いっしょに「大人の遠足」を楽しむ時間はますます減るんだろうなあ、という自分勝手な悲しみも。そうか、ムンクの太陽が悲しいのは、私にとっての太陽光線のひとつが、ちょっと光少なくなるかもしれないからなのか。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「プリティウーマン」

2019-02-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190216
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>輝ける人生の映画(4)プリティウーマン

 映画先達のまっき~さんから、「たまには古い映画のDVD鑑賞記録も」という提案もあり、録画機能の容量がいっぱいになって、新しい映画が録画できなくなってしまった、という事情もあり、お正月に「どれを消そうか」とリストを見て、『プリティウーマン』なら正月気分で浮かれてみても、大丈夫だろうとふんで見ました。

 さいしょに見てからどれくらいたつのか忘れてしまったけれど、とにかく最初は「単純なシンデレラストーリー」としてみたことだけ覚えています。マイフェアレディの焼き直し現代版かと。

 まっき~さんが「最悪映画」と酷評する理由も「映画見巧者だから、私の単純な見方とはちがうのだろう」くらいに思っていました。

 2度目に見て、私も少しは「シンデレラストーリーから遠く離れて」の世代になったせいか、単純なおとぎ話とは思えなくなっていました。まっき~さんの嫌悪感とはことなるかもしれませんが。

 私の「嫌な感じ」は。
 主人公ビビアン(ジュリア・ロバーツ)は「白馬の王子に救い上げられる存在」であり、ビビアンの職業を、白馬の王子エドワード・ルイス(リチャード・ギア)も会社の顧問弁護士も「まともな仕事じゃない」として扱っていて、この職業を仕事とする女性を軽蔑していることからきています。

 ビビアンは、ラストで「高校を出てまともな職業につこう」と決意するところは、彼女自身の選択だからよいと思ったのに、白馬の王子が迎えにくれば、嬉々として馬車のほうを選んで乗り込む。

 世界最古の職業への一片の敬意もなく、ひたすら「抜け出すべき仕事」としてあつかわれていることが、実はすべての女性尊厳にかかわることに、映画製作者のだれも考えもしない点が気色わるいのでした。1990年の映画だから?女性の尊厳にまだ映画界が気づかないころの映画だったから?Me too運動なんか起きていない頃のハリウッドだから?

 さて、この映画を見て一ヶ月もしないうち、「そういうお前もなー」という自分自身に跳ね返る「天につばする」の事件がありました。
 新井浩文の「出張マッサージ女性への性的暴行により逮捕」事件です。

 この記事を目にしたとき、「たぶん、世間様と同じ反応」を私もしました。「えっ?出張マッサージって、そういう店じゃなかったんだ。性的行為が逮捕につながるんだ」という感想。

 私は『ゲルマニウムの夜』に新井が主演したころから注目してきました。順調に個性派俳優としてキャリアを築いていた新井です。
 特別ファンじゃないけれど、在日コリアン出身を隠さないできたことも、日本の俳優にしては珍しいなあと思ってきました。力道山も松田優作も死ぬまで隠し通しましたからね。
 
 で、出張マッサージ店。健全店(ほんとうにマッサージのみ)、グレイゾーンの店(表面上は健全店だけれど、裏では、、、)、そういう店(出張サービスのなかには、マッサージ以上の部分も含むことをかくさない)という3種類があるんだそうです。

 本当にマッサージ専門店なら「容姿端麗セラピストがそろっている店」なんてことをキャッチコピーにして、「マッサージセラピスト」の写真付きページに3サイズや「好みの男性タイプ」なんていう自己紹介、必要なんでしょうかね。

 新井が事件を起こした店は、一応「健全にマッサージだけ施術する」という店らしい。マッサージ施術者をセラピストと呼び、派遣するセラピストに対して「健全に対応する」という誓約書まで客に書かせるらしい。(ネット情報なので確実じゃないことを書いています)

 しかし、、、、私は「出張マッサージの女性」という文字を見ただけで「そういう仕事」と思ってしまった。
 私自身は「セクシャルセラピー」を仕事として認めるという意識できたつもり。本当に自分の意思で仕事を選び、搾取されることなく仕事の報酬を得ているのなら、職業の選択は自由です。

 仕事に誇りを持っていて、本職として生きている女性なら、そして、自分の尊厳を失わずにいるのならよい。しかし、これまでの時代、女性の尊厳が尊重されない職業であったことは確か。
 この職業を選んだ女性に出会ったとして、まず聞きたいのは「その仕事、本当に好きで、楽しく仕事していますか」
 自分に誇りを持ち、「人助けセラピスト」と思って働いているのなら問題ないけれど、もしも「今より収入が多く、より労力少ない仕事が他にあるなら変わりたい」と思っているのなら、転職すべきだと思う。労力少なくて収入多い仕事ってないけれど。

 一般の整体のマッサージに比べて「出張マッサージ」のほうが高い。30分で1万円とかの料金。ピンハネ分を差し引いて、「セラピスト」に渡されるのは、いくらくらいになるか知らないけれど。
 私が通っている整体院のマッサージよりはるかに高いのだとしたら、「出張マッサージ」がなぜ高いのか、交通費などの出張料金の差だけではないのではないか、と疑ってしまう。

 ちなみに友人が通っている整体の「保険はきかない料金」は、60分で5000円です。私の通う整体は、整形外科の先生が診察してから施術する保険内マッサージで、15分320円(国保3割負担。保険をつかわなければ、15分1000円くらいだから1時間換算なら4000円。けっこう高いけど、出張マッサージよりは安い)。

 プリティウーマンのビビアンは自分が差別される職業の人間であることを、いまさらながらに自覚します。(高級洋服店のシーンなどで)
 ビビアンは、「まともな仕事」につきたい、と願っています。
 それはそれでいい。でも、ビビアンを1週間3000ドルで雇ったエドワードは「かわいいプロスティチュート」としてみなすのみ。ビビアンを「自分より下の人間」として扱っています。顧問弁護士に簡単にビビアンの素性をあかすなんて、ビビアンを対等な人間と思っていない証拠。自分の立場を守るためには簡単に彼女をさらすようなことをする。

 ビビアンの職業を知ったふとっちょ顧問弁護士に至っては「売春婦なんだから、おれにもやらせろ」という、人を踏みつけにし、暴力をふるうのヤカラで、弁護士の暴力をエドワードが救ったかのようなシーンがあります。しかし実は、どっちもどっち。弁護士が「俺にも」と言い出した原因は、エドワードがビビアンの職業を弁護士に言ってしまったゆえの結果ですから、ほんとうに悪いのはエドワードのほうかも。
 ビビアンに親切なホテルの支配人は、いくらかはビビアンを対等な人間として真正面から向かい合ってはいたのか、それとも大金持ちのお得意様エドワードの相手だから優遇したのか。

 ビビアンはエドワードとの出会いによって、自分を変えていきます。
 「マイフェアレディ」原作のイライザが、最後はヒギンズ教授を蹴飛ばして自分の世界を切り開いていこうとするように、「ティファニーで朝食を」原作のホリーが、彼女に興味津々の作家の卵なんか袖にして、自由に南アメリカくんだりまで行こうとするように、ビビアンも自分の足をみつけて自分の足で歩いて行ってほしかったなあ。
 Finding your feet!!
と、ここで最初の映画に戻るという落ちで終わり。フォックストロットぐるぐる回って最初に戻る。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「判決、ふたつの希望」

2019-02-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190214
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>輝ける人生の映画(3)判決、ふたつの希望

 ギンレイで見るシネパスポート活用映画。仕事帰りに、気分を変えたいからと見た映画、憂さ晴らしどころか、重い感触を残す映画でした。
 「判決、ふたつの希望 2017 レバノン/フランス 」と「運命は踊る 2017 イスラエル/ドイツ/フランス/スイス 」

 そもそもレバノンが舞台の映画も見た覚えがない。(『レバノン(2009)』は戦争映画なので、見なかった)。レバノンの街のようすなぞ見るだけでもいいか、と思ってみました。

 「判決、ふたつの希望」は、レバノンの首都ベイルートで働くパレスチナ難民とレバノンの庶民、ふたりの男性が裁判で争う法廷映画です。それぞれについた弁護士が、レバノン人の大御所弁護士の父。難民保護を主張する弁護士はその娘、という父娘の争いでもあります。2018年度アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品。

 レバノン出身の監督、ジアド・ドゥエイリは、クエンティン・タランティーノのアシスタント・カメラマンとして出発し、1998年の『西ベイルート』で監督デビュー。
 2017年べネチア国際映画祭にて、本作主演のカメル・エル=バシャが最優秀男優賞を受けました。

 以下、ネタバレ含む紹介です。
 パレスチナ人ヤーセル(カメル・エル=バシャ)はイスラム教徒。難民ながら実直に働くので認められ、住宅修理屋の現場監督を任されています。ベイルートの一角、違法にベランダをつけ、水の排水が道路に撒かれるというアパートがあり、ヤーセルは配水管をきちんとつけかえる補修を行います。しかし、家の主であるレバノン人のキリスト教徒トニー(アデル・カラム )は激怒し、せっかく補修した配水管を叩き壊します。

 トニーは妊娠中の妻から「あなたの故郷のダム―ルに引越ししましょう」と言われてもかたくなに拒みます。この町で今のまま自動車修理の仕事を続けていきたいと。トニーも妻と生まれてくる子のために懸命に働く男です。

 ヤーセルは怒りまくるトニーと一度は和解しようと謝りにいきますが、トニーがパレスチナ難民を侮蔑することばを吐いたために、ぶん殴ってしまいます。
 単なるケンカが、弁護士双方の思惑もあり、イスラム教徒対キリスト教徒、パレスチナ対レバノンの民族そして国家的争いになっていきます。

 双方の弁護士の「父娘の意地の張り合い」もあり、根深い争点もあきらかになっていきます。トニーはレバノン内戦によって一家皆殺しにされ、家から離れていた幼いトニーだけが助かった、という過去を抱えていました。トニーが怒りにまかせてヤーセルに投げたことば「シャロンに抹殺されていればな」という言葉は、法廷でヤーセルが証言するなかには出てきませんでした。トニーの暴言を法廷でだせば、暴言に対する怒りのあまりの暴力だということで無罪になるかもしれないのに、その言葉を出さない。口にすることもできない激しい侮蔑のことばだったのです。

 ちなみにヤーセルは、パレスチナ解放戦線アラファト議長の名前でもあるので、監督は「すべてのパレスチナ人の代表」という意味をこめて、西側諸国にもっとも浸透しているパレスチナ人の名ヤーセルを出したのだと思います。
 
 シャロンはイスラエルの元首相。
 軍人時代はパレスチナ人を敵として作戦を指揮し、権力を握ってからは、徹底してパレスチナを抑え込みました。シャロンが国防相だった1982年に起きたパレスチナ人大虐殺。「シャロンに殺されていれば」という言葉は、パレスチナ人にとって、民族抹殺を意味する「絶対に許すことのできない民族の怒り」のことばでした。

 想像してください。アメリカ人のだれかから「おめーら、ジャパ公はよう、ピカドンで皆殺しにしておけばよかったよな」と言われて、どんな気持ちがする?
 もっとも、いまだに争いが続くパレスチナとイスラエルの確執に比べれば、敗戦後はたちまちGHQのために「慰安所」まで設置してサービスにつとめた日本とでは比較になりませんが。
 では、「日本の女を全員紛争地帯に連れていき、兵士のために慰安所で働く女性にさせたらいい」と、お隣の国のだれかが言ったとしたら、どんな気分でしょう。女性には「私がここで働くのは自由意志によってです」という一筆を入れさせて。強制ではなくて、自分から働きに来たことになるから、という方法をとって。

 シャロンは、2002年にパレスチナ自治区ヨルダン川西岸の占領地(ユダヤ・サマリア地区)とイスラエル領土の間に、長大な分離壁の建設し、国際的な非難も浴びました。(マネをしたがるどっかの大統領、壁の建設費用、OKがでなくて政治的にピンチですが)
 シャロンは、パレスチナ人にとっては、絶対にゆるせない仇敵です。

 レバノン内戦(1975-1990)では、ダム―ルをはじめたくさんの町で一般市民が1万人も虐殺されました。トニーが故郷へ帰りたくないのは、そこが虐殺の地であり、しかも「真相は分からず、加害者は自由の身。正義も結末も何もなし」という地であったからです。

 民族同士、宗教が違うもの同士の争い、しかし、個人と個人は民族がちがっても、過去のいさかいがあっても、助け合える存在だ、という「ふたつの希望」という日本語タイトル通りのラストになっています。

 映画レビューを見ていたら、一般からの投稿レビューの中に、レバノンと書くべきところを終始「ヨルダン」と記している記事がありました。つまり、極東の日本にとって、西のはじっこはヨルダンもレバノンも区別がつかない遠い国。内戦やってようが、民族で争うこと80年の歴史だろうと、対岸の火事。

 この争いは、だれにでもどこにでもある火種なのに、遠い国の対岸の火事としか思えないからこそ、東アジアもいつまでもくすぶり続けるのだろうなあと感じてしまいました。
 『判決、ふたつの希望』いい映画でした。

 併映のイスラエル映画『運命は踊る』は、半分寝ていたこちらが悪いのだけれど、よくわからない映画でした。私は見ていない「レバノン」の監督、サミュエル・マオズの最新作。

 息子が戦死したのいや生きていただのという知らせを受ける夫婦の話と、20歳で徴兵され、砂漠の国境警備に従軍している息子の生活が出てきます。息子の兵舎は傾いていて、国境の遮断機を通過するのはラクダがほとんど、という地帯。

イスラエルやアラブの世界って、ほんとうに砂漠だなあ、という感想。普段テレビで見る映像はエルサレムとかの都会だけだから、国境の殺伐とした地域を画面で見ることができたことが収穫といえば収穫。

 砂漠の真ん中の道の遮断機をまもる若い兵士たちの生活、殺伐としています。
 国境を通ろうとしてまちがって射殺されてしまった夫婦がいました。軍の幹部は「なかったこと」にしてしまいます。だれも見ていなかったのですから。それが軍というもの。
 
 原題の「フォックストロット」は、社交ダンスのステップのひとつ。クイックステップと呼ぶことも。ぐるぐる回って最初に戻る。人生も運命の歯車の中でぐるぐる回って振り出しに戻る。
 イスラエルは金持ちなんだから、もう少し国境警備に従軍する若者にいい暮らしさせてやればいいのに、というのが最大の感想。
 ドローン撮影かなんだか、真上からとるショットが何度も出てきて、いったいこれは何?神の視点?というのもよくわかりませんでした。おわり。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「フジコ・ヘミングの時間」

2019-02-12 00:00:01 | エッセイ、コラム


20190212
ぽかぽか春庭シネマパラダンス>輝ける人生の映画(2)フジコ・ヘミングの時間

 1999年2月11日にNHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映され、フジコは一夜にして大スターピアニストになりました。

 フジコブームが起こったとき、私はちょい斜めに見ていました。ブーニンブームとか、日本の聴衆は音楽を聞きにいくのではなくて、ブームになった有名人を見にコンサートへ出かける、というのがいやだったので。いまでは、それも楽しみ方のひとつと思っていますけれど。

 テレビで見たコンサートの中継録画では、やたらにミスタッチをする指使いで、落ち着いて聞いていられなかったし、生で見たいと思ったことがなかった。この「ミスタッチ多し」は、フジコスタイルのひとつで、この弾き方を「魂のピアニスト」と持ち上げて評価する人もいるし、好き好きだとは思うのですが。
 「正確にひくだけじゃ芸術じゃない」というフジコさんの主張もわかりますが、私は「正確にひいたうえでの個性」と思うほうなので、好みじゃなかった。

 「フジコ・ヘミングの時間」も期待はしていなかったのですが、思った以上に心にしみました。

 この映画ではじめて、フジコヘミングの弟の大月ウルフを知りました。1934年生まれ84歳の俳優ウルフ。特撮ドラマの悪役とかで見た気がするけれど、俳優名を記憶することもなかった。ともあれ2歳年上の姉以上に個性的。今ではフジコヘミング記念館の館長も兼ねているそうで、姉の七光りもあるみたい。少なくとも私は、姉つながりでウルフを知ったのだから。
 
 ピアニストの母から厳しく教え込まれたピアノを唯一の武器として、無国籍者としてよるべない暮らしを送った時期もありました。難民として国籍を父の国スェーデンに得てドイツ留学中、食べ物にも事欠く極貧の生活に耐えたいうフジコの人生を、フジコ自身が子供のころから書いてきた絵日記をはさみながらフジコの時間がつむがれます。

 子ども時代の絵日記すてきでした。日記が残ったのは、母が残した世田谷の家が空襲にあわなかったから。現在は、世田谷の家のほかパリ、ニューヨークなど世界5か国に家があり、世界中をコンサートに飛び回っているそうです。

 60歳すぎて世に知られ、80歳すぎても精力的に演奏活動を続けるフジコさん、苦しかった時代を含めて、輝ける人生だと思います。

 フジコさんの激動の人生を、華々しい画面でなく、絵日記をもとにした落ち着いた画面作り、いいと思いました。菅野美穂がフジコ、ウエンツ瑛士がウルフを演じたテレビドラマも見てみたくなりました。

 ミスタッチも味のうち、というフジコスタイルを味わうために、一度はコンサートに行ってみようかしら。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「自分の足をみつけること」

2019-02-10 00:00:01 | エッセイ、コラム

20190209
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>輝ける人生の映画(1)自分の足をみつけること

 昨年から今年、見た映画は、飯田橋ギンレイのシネパスポートで見たか、録画しておいたテレビ放映の映画。もう録画の容量がいっぱいになっているので、年末年始休みに消化しようと思ったのに、年末29日も正月4日も出勤して仕事する働き者(と、自分だけが思っている)。働けど、我が暮らし楽にならざる、なんでやねん。

 そんな自分の労働者人生、輝いているとは思わないけれど、働くのはいやじゃない。負け惜しみでなく。
 いつもは、「稼ぎのいい夫に寄り添って(あるいは尻に敷いて)夫の年金で悠々老後人生を楽しんでいる同年配ごフジン方」に、ねたみひがみで生きているのだけれど、まあ、それもこれも自分で選んだことだから。

 去年は膝を痛めたけれど、足ひきずりながらも、自分の足で歩いてきた。on my feet.
「Finding your Feet あなたの足をみつけること」という映画、「輝ける人生」なんていうよくあるタイトルにしたために、目立たないおばさん映画かと思ってスルーするところだった。「ホップ!ステップ!ダンス!!」というタイトルでも平凡な感じはするけれど、まあ、こちらのほうが内容にはあっていると思う。ラストは大ジャンプがあるし。

 あらすじ。ネタバレです

 サンドラ(イメルダ・スタウントン)は、警察畑で黙々と働いて謹厳実直だと思われている夫に35年寄り添い、子どもを育て上げ孫もかわいい。文句のない順風満帆の人生のつもりでした。その日までは。
 勤め上げた夫が女王からナイトの称号を授与され、サンドラも“レディ・サンドラ”と呼ばれるお祝いの席。

 ド派手なパーティを抜け出したサンドラがバスルームを覗くと、夫と親友パメラが〇〇中。浮気は数年続いていたのだと。
 夫は開き直って親友と再婚したいと言う始末。そうなるとレディの称号も再婚相手のもの。
 傷心のサンドラは大きな荷物を担ぎ、ロンドンに住む姉ビフ(セリア・イムリー)の家に転がり込みます。何年も音信不通で仲たがいしたままの姉でしたが、サンドラは夫にたよるだけの人生でしたから、ほかに行くところなし。

 ビフは、金や名誉とは無縁の気ままな人生を謳歌していました。うわべの真面目さを誇るサンドラの夫を認めないために、サンドラとは疎遠になっていましたが、妹が頼ってきたからにはと、快く迎え入れます。

 ビフの親友チャーリー(ティモシー・スポール)は、認知症の妻を見舞にケア病院へかよいますが、妻はチャーリーを忘れ、毛嫌いするようになっていきます。
 ビフとチャーリーはサンドラをダンス教室に誘います。無理やり連れだされたサンドラですが、実は若いころコーラスラインのダンサーオーディションを受けたこともあったことがあかされます。

 ダンスは人とのつながりを呼び起こし、サンドラの心は回復していきます。
 チャーリーとの交際もはじまり、街でモブダンス、友達とパーティー、そして仲間たちとローマへ。ダンスコンテストに出場するための旅でしたが、ビフが結婚しなかった理由もローマでわかります。ビフはイタリア人の恋人を失い、彼の思い出を守っての独身生活でした。

 サンドラの夫は、浮気相手と再婚したものの、たちまちうまくいかなくなり、サンドラとよりをもどそうとします。
 しかし、サンドラは、もう自分の足で歩き、自分の足で踊ることに目覚めたのです。
 一方チャーリーは、彼を忘れてしまった妻がケア病院で亡くなり、すべてのしがらみを捨てておんぼろ船で長年の夢だった航海に出ようとします。チャーリーの船出を知り、サンドラは、、、、。

 中高年にとって、ダンスが生活を生き生きとさせ、人生を輝くものにしていくというストーリー、わかりやすくて、「いぎな~し!」という映画でした。
 なにより高齢者たちが、踊ることで生溌剌とする姿がいい。
 映画としては平凡な作り方だとは思ったけれど、私は気に入りました。

 私が所属しているジャズダンスサークルも、平均年齢60ン歳です。一番若い人63歳、一番年上は73歳。もう足は上がらず、2回転するとよろける。「アティチュード、もっと足を後ろにあげて!」と、先生叫べど、みな、せいいっぱいやっても動きは悪くなる一方。でも、いいんです。心が生き生きしてくるから。

 私など、膝が完治していない、という理由をつけて、90分のレッスンのうち半分も動かず、一人休憩の時間が長い。踊るというより、仲間に会いに行っていることのほうが大きい。
 今年の発表会では、荻野目洋子が歌うダンサブルな「コーヒールンバ」にのって、「コーヒードンバタ」なダンスを。

 我が人生、ジャンプアップはなかったけれど、よろけていてもホップステップダンス!です。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「半額飯の日々」

2019-02-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190209
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記きさらぎ(2)半額飯の日々

 仕事先の事務所の床で2泊しました。
 夏にひとりで事務所の留守番をしていたとき、眠くなると床にごろりとして昼寝をした、という話をしたら、娘が「夏はそれでもいいけれど、寒い時期に眠くなったら必要でしょう」と、携帯用のマットを買ってくれたのです。いくら小さくなるタイプの折り畳みマットだと言っても、電車で運ぶときは気がひけた代物でしたが、ここにきて役に立つとは。

 6日、書類提出の締め切りぎりぎりに追加書類分をメール貼付送信して、夜9時に行政書士からOKをもらいました。なんとか出せたと。

 もう帰宅する気力もなくなり、2日連続「お泊り」になると、娘にメール。「お疲れ様、頑張ったね」という返信はきたけれど、娘と息子は「らっき~!母がいないなら、ピザの出前とろう」と喜んだんじゃないかな。日ごろ「母は、パスタやピザより和食が好きだから、母といっしょに晩御飯食べるときは、ピザ注文したりしないけれど、母が外で食べてくるときは連絡してね。私たちピザとるから」と言われているんです。

 いつもワンコインランチを食べる居酒屋に、晩御飯を食べに行きました。生ビール2杯と枝豆、もつ煮込み。
 居酒屋のヨーコママから、近所のスーパーが11時まで開いていること、9時すぎるとお弁当などが半額になることを聞き、生ビール2杯の酔い覚ましと思って「朝ごはんの分」を買いにいきました。

 ちょうど店員さんが「半額シール」をお弁当などに張り付けている時間帯でした。
 おもしろいから、定員さんが半額シールを貼っていく順に次々に籠に入れていく。ほうれん草おひたし、コロッケ、イワシ煮つけ、巻きずし、朝ごはんの分。幕ノ内弁当、きんぴらごぼう、レバニラいため。以上、昼ご飯の分。おやつとして、タコ焼き。以下は半額にはなっていなかったけれど、デザートとして、プリン。あまおうイチゴ、アボカド。ヨーグルト2種。ほかに買い置きとして歌舞伎揚煎餅、甘栗むき身。飲み物、牛乳。
 全部で3500円。朝と昼の分にしては、買いすぎでした。半額シールが貼られるとうれしくなって、つい買い込みすぎるんです。さっきまで600円で売っていたお弁当が300円で買えると思うと、すごく得した気分になる貧乏性なので。

 でも、「半額シールのものを買うのに抵抗がある」という知り合いもいました。「なんだか貧乏っぽくて、みじめな気分になる」のだそうです。
 そういう人は買わなければいいだけ。貧乏っぽいのではなく、本当に貧乏な春庭は、日ごろ喜んで半額飯を買ってきました。

 新聞に、この「半額シールもの」を買うことをためらっていた人の投書が載っていました。「半額食品を買うことで、スーパーやコンビニの廃棄食品を減らし、食品ロスを少なくできるというメリットもあることがわかり、抵抗なく半額品を買うことができるようになった」と。
 ええっ、わたしなぞ、食品ロスも廃棄食品も関係なく、半額だからうれしがって買っていたのに。私は別段半額シール品を買うのに、みじめな気分も抵抗もない!!と思っていました。

 しかし、ある日のこと、近所のスーパーで。
 半額シールが貼られている寿司折りをレジに出したところ、レジの女性から「お得な品が残っていてよかったですね」と、声をかけられました。「はい、6カン1200円する寿司折り、元の値段なら買いませんよ」と、答えたあと、なにがなし、いやな気分になりました。

 レジの女性が客の買い物を論評し、安物買いをしたことを指摘したこと。もちろんお客さんへの親しみを込めたことばがけだったことはわかっていますが「客が何を買おうと、店がそれをいちいち論じることはない」という思いが1点。あとは、「1パック千円以上の寿司おりは、半額にならないと買えない生活」を指摘されたような気分になったことが1点。
 なんだ、半額飯を買うことに躊躇する人を「見えはり」と笑っていたくせに、自分だって半額ものを買うことを「貧乏っぽい」と思っていたんじゃないのか、という「心の奥」が覗かれた気分。

 とは言っても、やっぱり本当に貧乏な私は半額ものが好き。昨晩スーパーで買った2割引き「高級ヨーグルト」を食べます。100g334円値引き後267円という、これも元値なら買わないもの。日ごろは400g158円ブルガリアヨーグルトというのを2日に分けて食べています。バナナといっしょだったり、夏みかんマーマレードをのっけたりして。1度に200g?多いかもしれませんが、私の朝ごはん。
 100g300円ヨーグルトはアボカドにのせて。製作者の姓名住所が書いてあるスペシャルでしたが、、、、うん、味はおいしいけど、元値じゃ、やっぱり買わんな。

 半額飯とともに、2月3月は無料おたのみに出向こうと思います。

2/07木 仕事帰りに吉祥寺美術館「岩本拓郎」展(夜7時まで65歳以上無料)
2/08金 八王子富士美術館「藤田嗣治本の仕事」展。夜はジャズダンス練習があるので、夕方までには美術館を出ます。
2/09土 東京都美術館「奇想の系譜」展午前中。東京国立博物館「顔真卿」展(昼は大混雑だというので、夜間展示を見る予定。常設展をのんびり見てから平成館へ)
2/10日 六義園・旧古河庭園 観梅 雨天中止
2/13水 科学博物館 (たぶん常設展だけ65歳以上無料13時半館内で無料コンサート有)
2/20水 白金植物園 庭園美術館 江戸東京博物館(いずれも65歳以上無料)

 1月はお正月に出かけたほかは仕事に専念したので、春庭の出遊び好き、2月に炸裂。3月は上旬熱海温泉で娘と観梅。中旬フィギュアスケート世界大会さいたまアリーナ観覧。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「光の春に」

2019-02-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190207
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記きさらぎ(1)光の春に

 立春もすぎ、中国の春節(旧正月新年)もすぎ、いよいよ世の中は春へ向かっていく気配。立春の日は暖かかったですが、また寒の戻りもあり、寒さはまだまだながら、日差しが真冬より伸びてきたことが感じられるし、まだ葉はない木立にそそぐ光も、真冬よりは光らしい光に感じ取れる。気持ちがそう思ってみるせいでしょうけれど。

 春庭も懸案の仕事がひとつ山を越えたので、ようやく「これで風邪ひいてもドンとこいだ」と、北風に向かって立ち尽くす、、、、ってほどじゃないけれど、うまくいったのやらいかなかったのやらわかりませんが、とりあえず一区切りです。

 2017年の夏から始まった春庭の「新しいおしごとプロジェクト」、法務省文科省という手ごわい相手に四苦八苦、難儀しました。
 いいかげんな労働調査をしてすませて、のらりくらりと国会審議もかわしていくところもあるし、お役所仕事はテキトーなところもあるのに、下々にはやたらに高飛車に出て、おどしをかけるのがお役所というもの。
 われらはひたすら恐縮しつつ、なんとかお許しを願うしかない。昨年は惨敗。お許しが出ませんでした。

 提出した書類の山。ファイルは紙の厚さが10センチを超えましたが、さらに追加書類も
出すことを命じられ、作業続行。
 2月5日の締め切り前日は、仕事場に泊まり込みで作業しました。

 これまでテレビなどで泊まり込みで仕事して、翌日もしゃもしゃの髪で出勤してきた人に「おはよう」なんて言うシーンを見てきたけれど、69歳になってそんなシーンになるとは思いませんでした。
 でも、片道90分、往復3時間の行き来を考えると、泊まってしまったほうが楽かなと。
 
 ようやく細かいスケジュール調整が終わり、2月6日の提出期限に滑り込みセーフ。なんとかなるといいけれど。

 世は光の春。梅もほころび、各地から梅だよりが届きます。
 我が家の春のお楽しみは。3月はじめに娘と熱海温泉へ。梅園観梅と温泉。
 3月中旬には、フィギュアスケート世界大会を埼玉アリーナで見る予定。2枚ずつしか注文できなかったので、娘と息子はプレミアム席で私だけS席。いいけどね。
 羽生結弦がでるかでないかわからないけれど、とにかく男子席はチケット発売1分で完売。娘はチケット争奪戦、男子をあきらめて、女子ショートをゲット。よい試合になることを期待しています。

 一歩ずつ春へ。

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「京都駅から」

2019-02-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190205
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記京都旅行2018(16)京都駅から

 京都旅行中、地理に弱いので、京都市内をバスでめぐるときに、いちいち京都駅にもどって、そこから次の目的地に乗り換えました。京都駅は市の真ん中にないので、時間のロスはありましたが、近道をしようとするとたいていおかしな具合になるので、京都駅を基点にするのがいちばん確実な方法でした。

 それでもめざしていた建物に巡り合わなかったなど、いろいろ失敗も多かったけれど。
 たとえば、「京都にあるうどん店「なか卯」は、元富士ラビットの建物の中に入っている」という有力情報を建物散歩先達のyokoちゃんに教わっていたのですが、、、、。
 10月25日の朝、5時着の夜行バスを降りても京都駅前は閑散としています。どこも開いていない中、一軒だけ電気がついていた店、京都駅前の八条口にあるなか卯に入り、牛タン丼を注文。ビルの写真もとって、「京都に着いて、いの一番に富士ラビットのビル写真撮れたなあ」と、思い込んでいたのです。
 富士ラビットは、京都七条新町駅前のなか卯でした。

 京都駅の中側、けっこう好きでした。完成当時は賛否両論で、古都にふさわしくないという批判も大きかったそうですが。原広司の設計。
 とにかくコンコースのババ~ンと広い空間に身を置くのは、旅行者にとって気持ちがよい。


 私の生まれ故郷の駅前建物群を設計したのも原広司だということ、知らなかった。こちらもできた当座は、「変哲もない田舎町の駅前にしては、こじゃれすぎ、きどった光景だ」と、評判悪かったみたい。

 京都タワーも、「古都京都にふさわしくない」という不評続出でした。今では京都のシンボルになっていて、京都駅前でタワーを背景に写真を撮る人大勢いました。



 ハンさんは「先生、せっかく京都に来たのですから、タワーといっしょに写真撮りましょうよ」といいます。何度も京都駅にきていたのですが、あまりの定番ショットが気恥ずかしくて撮らないでいましたが、最後の夜、夜行バスを待つ間にハンさんがシャッターを押してくれた1枚、京都の最後のいい思い出写真になりました。タワーちょい斜めっているけれど。

 京都最後の夜に


 たくさんの思い出を残せた京都ひとり旅。
 往復夜行バスで宿泊はカプセルホテルと友人宅、という節約旅行でしたが、「着物を着て観光、宿泊は老舗旅館」なんて構えずに気楽な貧乏旅行でも楽しめると分かったので、また旅行したいと思います。

10月25日から11月5日まで、12日間の京都旅行。楽しかったです。案内してくださったアントニオ兄、ハンさん、そのほか出会ったすべての人に感謝。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「京都外国語大学・東寺」

2019-02-03 00:00:01 | エッセイ、コラム

 東寺五重塔は京都のシンボル

20190203
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018(15)京都外国語大学・東寺

 11月5日、京都旅行最終日。午前中松尾大社参拝のあと、ランチは近くの京都外国語大学学食で。ハンさんと校門前で待ち合わせしました。
 京外大は広くはないですが、キャンパスに外国人も多く、外国語大学の雰囲気がある落ち着いた大学でした。

 1年間の研究留学の間、ハンさんはゼミでの研究ももちろんですが、京都という歴史ある町のなかで、日本文化について多くのものを得た、と言っていました。テレビ番組や本の中で、日本についてほとんどのことは知っているつもりになっていたけれど、実際に住んでみると、新しく知ることの連続で、四半世紀前に日本に2年程会社員として滞在したとき以上に多くのことを学ぶことができた、と話していました。

 ハンさんのゼミ教室や図書室などを見学し、キャンパスカフェでランチ。ランチタイムが終わって、午後のゼミがあるハンさんと別れて、ひとり東寺へ。

 ハンさんは、「発表者じゃないので、ゼミはお休みできます。私がついていかなくても大丈夫ですか。先生のように旅行中ひとりで歩き回る日本の女性、私はほかに知らないです」というのです。しかし、私の友人たちは、みな一人で旅し一人で山に登る人ばかりなので、自分がそんな珍しい存在だとも思わなかった。だれかといっしょも楽しいし、一人で好き勝手に歩くのも楽しいと思うのですが。

 最後の訪問地は東寺。ゆうぐれ近く、秋の特別公開中の東寺、五重塔の中を拝観できて、よかったです。

 東寺は真言宗総本山。別名として「教王護国寺」があり、ほかにも正式な寺名があるそうですが、東寺も正式名称のひとつ。

 平安初期、嵯峨天皇が空海に寺を下賜。以来、密教寺院の根本道場として栄え、現在は世界遺産のひとつになっています。寺の建物はたびたび火災にあい、創建当時の建物は残っていませんが、金堂は豊臣秀頼の寄進により1630(慶長8)年に再建されたもの。五重塔は、1644(寛永21)年に建てられた5代目の塔です。建物は何度かの再建を経ていますが、伽藍の並びなどは平安初期の形式を伝えており、現代まで弘法大師のお寺として信仰を集めています。私も、立体曼陀羅の仏様たち、五重塔の中の仏様たち、弘法大師様に念入りにお祈りしてきました。家内安全国家安泰世界平和宇宙長久、、、、それにつけても金の欲しさよ、、、って、毎回同じやねん。

<きょうの建物>
 金堂



 食堂
 

 五重塔


 夜叉神堂 文殊菩薩の化身雄夜叉と本地虚空蔵菩薩の化身の雌夜叉をまつる。歯痛にご利益あるそうです。今のところ歯は痛くないので、建物を見学しただけでお参りはしませんでした。 


 東門(不開門)


<きょうの庭園> 東寺庭園


<きょうの工芸> 
 仏像を作り上げた仏師たちは、もとより「工芸」として仏像を彫るのではなく、そこにおのずと仏の姿を見出し、仏に出会うために一体の像と向かい合う。像が完成したとき、僧侶による「開眼供養」などしなくても、仏師によりすでにホトケの魂は入っているのだと私は思います。
 五重塔の中のみほとけ


立体曼陀羅のみほとけ裏側


 金堂のご本尊薬師様


 夕暮れの東寺。全部は見る時間がなかったので、またゆっくり来たいです。
 大急ぎでハンの家にもどり、買ってきたお弁当を食べて京都駅へ。

<きょうの京ごはん>京都外大学食で。定食に小鉢を付け加えたらちょっと大盛に。むろん、完食。


<きょうの京わたし>京都外大の校門近くのなにやらの記念碑前。

 
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