春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2013年10月目次」

2013-10-31 00:00:01 | エッセイ、コラム



2013/10/31
ぽかぽか春庭2013年10月目次

10/01 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>街の歌声(1)T子さんのオペラアリア
10/02 街の歌声(2)女声合唱&「音楽ひろばに 夢と願いを」
10/03 街の歌声(3)水織ゆみシャンソンコンサート秋
10/05 街の歌声(4)東京ヘブンアーティスト

10/06 ぽかぽか春庭@アート散歩>アート散歩2013年9月(1)地中海展&福田美蘭展in東京都美術館
10/08 アート散歩2013年9月(2)「床に置く絵」を踏んでみた-福田美蘭展in東京都美術館
10/09 アート散歩2013年9月(3)セザンヌのりんご-福田美蘭展in東京都美術館

10/10 ぽかぽか春庭@アート散歩>近代建築めぐり2013(1)擬洋風建築を訪ねて
10/12 近代建築めぐり2013(2)棟梁たちの明治
10/13 近代建築めぐり2013(3)明治の学校建築と近代化
10/15 近代建築めぐり2013(4)折衷の近代

10/16 ぽかぽか春庭アート散歩>旧満州の建築スナップ写真(1)長春市の近代建築
10/17 旧満州の建築スナップ写真(2)大連市の近代建築

10/19 ぽかぽか春庭アート散歩>建築さんぽ2008-2013(1)内田祥三の学校建築
10/20 建築さんぽ2008-2013(2)武田五一&妻木頼黄
10/22 建築さんぽ2008-2013(3)村野藤吾の33号館その他

10/23 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記10月(1)東京よさこい池袋
10/24 十三里半日記10月(2)ローザンヌバッハ合唱団&豊島区民合唱団
10/26 十三里半日記10月(3)しょうもなしのコスモス
10/26 十三里半日記10月(4)フィギュアスケート
10/29 十三里半日記10月(5)劇団昴『本当のことを言ってください』

10/30 ぽかぽか春庭知恵の輪日記>50年間の日記(1)1960~2003年の10月末日記
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ぽかぽか春庭「1960~2003年の10月末日記」

2013-10-30 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/30
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>50年間の日記(1)1960~2003年の10月末日記

 「20年前の今日、何をしていましたか」と尋ねられたとき、パッと答えられるのはよほど印象的な日だった場合。日常茶飯事にとりまぎれた「普通の日」を思い出すことは難しいです。でも、思い出せる場合もある。私は、50年以上、断続的に日記を書いてきたので、書き残したものがあるときは、自分の行動をたどることができます。

 3年日記とか10年日記という書き方をする日記帳を売っていて、同じ日の日記を10年分まとめて見ることができたりする日記帳がありますが、私は、ただノートにつけてきただけなので、同じ日の日記をまとめて並べることが、ありませんでした。試みに、古い日記の10月31日をまとめて読んだらおもしろかったので、10年前の10月末、20年前の10月末、1977年1979年1960年10月末と、さかのぼってみます。
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 10年前の10月、私立大2校国立大2校の非常勤講師としていっしょうけんめい仕事してました。

2003/10/30 木  晴れ ニッポニア教師日誌>学生は食わぬ餃子
 日本事情作文2コマ。ワンさん、台湾における日本設置のインフラについて発表。
 台湾の人は、日本の人がびっくりするくらい「日本が作ったインフラ」に感謝しているのだという。王さんの発表の中に出てきた、後藤新平、新渡戸稲造らが、台湾の人たちに好かれていたという面もあるかもしれないし、もともとの台湾ネイティブは、蒋介石国民党より、日本の支配者のほうがまだマシだった、と思っていた人々もいるだろうから。
 一方韓国朝鮮の支配者たちは、好かれていなかった。伊藤博文は安重根に暗殺されたし。

 餃子の満州で、この前早食い完食の賞品としてもらったお食事券を使ってチンジャオロースセットを食べた。
 壁に餃子早食い参加者タイム一覧が載っていたが、私のハンドル名はなかったので、店の人に「ねぇ、この14分51秒ってのは、ベストテンにはいるタイムなんじゃない、なんで名前書いてないのさ」と、わざわざ文句をつけた。アホな記録ながら、私にとっては「全日本、大学講師50代女性の部、餃子早食い暫定日本一」の、輝かしいタイムなんだから。50代の大学講師、私以外の誰が餃子早食いに挑戦しようか。当分私の勲章は「餃子早食い暫定日本一」である。
 ただ、学生のひとりが「私はその店でアルバイトをしたことがあります。あそこのラーメンと餃子をまかないで出されても、まずくて食べられなかった」と言う。

本日の負け惜しみ:わたしはほぼ毎週、ラーメン餃子を食べてきた

2003/10/31 金 晴れ ニッポニア教師日誌>宝さがし
 ビデオ、文化中級3コマ。
 今日も、1組のビデオクラスはノリノリ。ビデオみて、ゲームなどのアクティビティをして、楽しくすごせるので、学生達もビデオクラスが大好き。「先生の授業がベストワンです。」と喜ばれて、私もいい気分。他の先生達、苦労して文型をわんさかつっこんで「こんなに覚えきれない」なんて文句言われて、学生の評判もイマイチになるのに、ビデオクラスは遊ばせてやって喜ばれて、教師は楽できて、ほんとおいしい授業だ。

 今日は、位置の言い方復習のため、宝探しをやった。持ち物をひとつづつ学生から出させて、教室のどこかに隠す。学生は習ったばかりの「どこにありますか」の文型で質問し、かくした学生が「机の中にあります」「あなたのとけいはテレビの後ろです」などのヒントを言う。みんな大騒ぎで探し、見つかると大喜び。
 「見つけられなかった宝物は、全部先生のものになるからね」と、冗談で言ってあるので、皆真剣に探す。

 もちろんおいしい授業にするために、90分ヒトコマに何時間もかけて事前準備をしなければならない。ヒトコマなんぼの仕事で、こんなに教材準備やら、作文添削コメント書きの時間をとって、いったい時給はいくらになってしまうのやら、餃子の満州で皿洗っていた方がイイも知れないと思うのだが。でも、私、皿洗いは家の中でやるだけで、もう十分だし。

本日のつらみ:独立行政法人になったら、非常勤講師のコマ数は、思いっきり減らされるというウワサ、ウェ~ンますます年収が減るよう

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 1993年10月、娘と息子の子育てをしながら必死の思いで修士課程を終えたのに、その後半年間、仕事も見つからず、もんもんとし、貧乏に喘いでいました。11月に「文部省講師として中国に単身赴任する」という仕事が決まる直前のころ。

1993年10月30日土曜日 雨 「貨荻尊者とポンペ神社」
 午前中、アルク内職(注:日本語教師養成講座受講生の質問に回答返信を書く)。
 午後、娘(9歳)が誘っても、息子(4歳)はいっしょに遊びについて行かなかった。そのくせ「早くおねえちゃん帰ってこないかなあ」と待ちくたびれている。「おかあさん、あそんで」と言うのに、「お母さんは遊び相手じゃない。おねえちゃんがいっしょに遊びに行こうって言ったのに、あんたは行かなかったんだから、一人で退屈していなさい」と冷たい母。

 こういうときに絵本でも読んでやるのが麗しき母なんだろうけど、自分の本読む時間がほしい。絵本を出して、前に娘のためにカセットに吹き込んだ朗読テープをかけてやる。家にある百冊以上の絵本にすべて母親が吹き込んだ朗読テープがついているというのも、いかにも手抜き育児らしいと思うが、息子が中学生ころになってグレたら、「小さい時にひざに抱いて絵本を読んでやる時間が不足していたのがいけなかった」と反省しよう

 『この国のかたち2』またまた、とてもおもしろかった。私は自分の中にある「宗教的なるもの」をうまく夫に説明できないのだが、その情緒的な面は石牟礼道子の文が語ってくれるし、歴史上のエピソードについて、司馬(遼太郎)がとてもいい例をを出している。『この国のかたち2』にも、江戸時代に医学を教えたポンペの恩に感じて、自宅の一隅に「ポンペ神社」を祀っている医学者一家の話が出ている。

 大江健三郎の公演記録の中に、難破船から漂着した船首飾りのエラスムス像を、どこのだれの像ともわからずとも、何か偉大なものを感じて、「貨荻尊者」として手厚く崇拝した、という話が載っていた。
 私にとっては、これぞ信仰の基本である。西行が伊勢にまいって「何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と詠んだという話、これが本当に西行の作なのかどうかという詮議より、つまり、これが日本的信仰なのだと思う。

 何かよきもの、ありがたきもの。それはおひさまであってもいいし、異国から漂着した像でもいい。日本に医学を教えてくれた恩人でもいい。自分の生をそのまま受け入れ、唯一無二の存在として認めてくれるもの、それが人にとって、母であったり仏であったり神であったり、カウンセラーであったり。
 現世利益とはまた別だし、あの世の永劫を保証するものでもなく、今の自分の生をそのものとして認め、受け入れるもの。それが人には必要であり、ときとしてそれが、信仰の形をとれば、それがその人にとっての宗教。
 夫の言う「無宗教」も、結局私の宗教と根はいっしょと思うのだけど。

1993年10月31日日曜日 晴れ 「1969年のおつう」
 久しぶりに休みがとれた夫は、娘と息子を葛西臨海公園の水族館に連れて行った。私はバレエの日曜レッスンを受けてみたかったので「お洗濯もたまっているから留守番する」と残った。

 レッスン前半はトール先生、後半はトシコ先生で、約3時間。いつもはもっと長く3時間半たっぷりのレッスンだという。正確にやろうとすると、グリッサードもピケターンも思い通りにできない。私はもうちょっとうまいつもりだったのに。

 子供たちが帰るまで、洗濯をしながら『夕鶴』を見た。1969年の録画で、今の家庭用ビデオで撮ったくらいの画像の荒らさだが、与ひょうは宇野重吉、運ずが米倉斉加年、惣ど下條正巳。すごい配役。
 中学校演劇部顧問をした最初の年1974年秋に、「夕鶴」を上演したとき、繰り返しレコード録音の『夕鶴』を聞いた。たぶん、レコードも1960年代のものではなかったか。

 20年前に中学生たちといっしょに覚えたセリフのほとんどを諳んじていた。つうの、与ひょうの運ず惣どのせりふに合わせて全部言えるのだ。驚き。それだけ、木下順二のセリフが完成されたものであったといえるのかもしれないし、昨日のことは覚えていない老人も、教育勅語はそらで言えるというのとおなじことで、若い時の暗記は脳細胞に染み付いているのだろう。

 山本は、この録画以降もつうの創出に工夫をこらしたことだろうが、この白黒の画面のつうは、これでひとつの完成を示していて、「俳優は何を演じていても基本は自分自身です」という『女優という仕事』の仲の一節がうなずかれる。千回を越えて演じ続けた「おつう」も、その一回一回が新たな出会いであり、新たな発見であったのだろうと思う。観客はそのうちの一回限りのおつうに出会い、一生の宝物にする。
 今後、おつうを演じられる女優は出るのだろうか。山本ほどの精神の高さをもって演じられる女優がでなければ、この『夕鶴』は、高校や中学校の演劇部が演じる以外に宝の持ちぐされになってしまう。

 夕方、子供たちは「水族館の次に葛西の地下鉄博物館に行って、地下鉄の運転シュミレーションをした」と、にぎやかに帰ってきた。夫に子守をしてもらって、この間バレエのおけいこ、ビデオで演劇鑑賞。主婦の休日満喫。 

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 34年前の1979年10月31日は、ケニアのナイロビにいました。実家あての手紙のうつしです。

1979年10月30日
 ワンピースをクリーニング屋に出したら2シル60円でした。いよいよタマイさんが、タンザニアにたつので、夜、セレナでビールで乾杯して壮行会をしました。タマイさんは、動物孤児院の一番えらい人にタンザニアの動物保護区のえらいさんあてに紹介状を書いてもらえたと言って、喜んでいました。

1979年10月31日
 朝、エンドさんの車でタマイさんを飛行場まで送っていきました。今までずっとYWCAに二人でいっしょに泊まって、私がボーマスに踊りを習いに行くときは、いっしょにつきあうし、タマイさんが動物孤児院に行く時は、私もついて行くし、というように仲良くしてきたので、彼女が行ってしまうと、さびしくなります。
 カメルーン航空という聞いたこともない飛行機で行くというので、もし落ちたら追悼文集を出してやると、約束して別れました。

 11月になったらすぐ、みちこの所にでも行こうかと思っていたら、YWCAの事務長らしいミセス・ジェリダという人が、私を気に入って、(浮世絵のハンカチなんかあげたからかもしれません)妹の結婚式というのが11月3日にあり、招待してくれたので、それまではナイロビにいることになりました。
 おりがみのくす玉を作って結婚いわいにあげたら、とても喜んでいました。だいたい、くす玉は好評です。

 11月2日には、ヒルトンで踊りを見ることになっています。(ボーマスじゃないことは確かだけど、どの踊りのグループかはわかりません)
 じゃ、またね。

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 1977年。中学校国語科教師を退職し、出身の私立大学大学院で演劇学を学んでいました。

1977年10月30日
 8時半に土合についたが、ロープウエイが混んで、10時すぎにやっと天神についた。天神尾根から谷川岳頂上へ。ガンゴー新道を通って降りた。本当は西黒尾根を降りるわけなのに、間違えたのだ。真っ暗な山道を歩いてこわかった。9時半に大宮に着いた。

1977年10月31日
 風邪気味と疲れで一日中寝ていた。道成寺もののまとめを考えてみるが、アイデアを実証するというのはとても難しい。ついつい小説を読む。『背教者ユリアヌス』上巻はとてもおもしろかった。しかし中巻、彼が副帝になると、彼が何を考えいかに理想の具現に努力しようと、やはり私には権力者としての姿が見え、幽閉されている王子、哲学青年の王子としての上巻の方がずっといい。いかに彼がローマの理想を述べようと、私はゲルマンの反乱軍についてしまうのだ。
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 1960年。小学生でした。

1960年10月31日
 上野さんと星野さんとえいがをみにいった。おもしろかった。三本立30円。だがし代20円。来月のこずかい50円まえがりして、さいふつきのていきいれをかった。
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 2013年10月30日のツッコミ

1960年の私へ
 1960年11月16日に見た映画は「バンビ」と「アルプスの少女ハイジ」だったことが書かれているのに、10月31日に見た映画のタイトルが記録されていません。きっと映画の中身よりも映画代と駄菓子代が50円かかったので、さいふを買うための50円を前借りしなければならなくなったことのほうが重要だったのでしょう。

1977年の私へ。
 演劇学や芸能学を学んで何も役立つことはなかったけれど、アフリカンダンス研究フィールドワークと称してケニアに行くきっかけにはなりました。その結果ふたりの子が生まれたので、無駄にはならなかったということか。

1993年の私へ。
 子供たちを食わせるために、必死で通信講座回答作成の内職をしていたころ。結局のところ、夫が子守をしたのは、この一日以外にはなく、子供たちが父親と過ごした貴重な一日になりました。この日ばかりは、一日ゆっくり休養できて夫に感謝したのですが、その後はずう~と悲惨。

 朗読テープで絵本の読み聞かせするという手抜き育児で育った息子、見事に中学高校不登校。16歳で高校卒業資格認定試験に合格して、25歳の今は博士過程の学生になったけれど、あれもこれも、膝の上にだっこして絵本を読んでやらなかたからだと反省。

2003年の私へ
 楽しい授業やれた日はうれしいよね。
 昨今、留学生のようすも変わってきて、最近の授業、なかなかたいへんです。

 2013年10月31日の日本語教室。他大学の日本語教師養成コース受講の大学生が教授に引率されて、私の授業を見に来ることになって、チョ~いやだ。最近はとんと書いてない授業案なども書かねばならず。
 でも、非常勤講師の悲しさ、常勤の教授に「月末の木曜日、授業参観に協力してください」と言われて、断って来年の受け持ちコマ数を減らされたら、生活できない、と思ってしまう弱い立場。「25年も続けているのに未だに下手くそな授業」を公開しなければなりません。

 きっと2013年10月31日の午後は「こんな授業を見られて恥ずかしい」と、打ちのめされていることでしょう。
 授業案書かなくちゃならなくて、ブログネタが種切れになったので、昔の日記をUPしたのでした。

 日記50年分並べてみて、地べたを這い回る如き低回人生だったけれど、同じ日は一日とてない飽きのこない毎日だったと思います。
 専門学校、私立大学、国立大学、国立大学大学院、私立大学大学院、3つの大学の卒業名簿に名前があります。
 職歴、地方公務員、病院検査技師、英文タイピスト、中学校教師、予備校講師、劇団女優、大学講師、その他。ふたりの子を育てながら修士号博士号をとったこと。忙しくて貧乏暇なしの生活でした。

 日記読み返して思い出せる一日もあるし、まるきり忘れていた日もあるし、まあ、こうして読み返す時間がもてたことは、まあまあよい人生なんじゃなかろうか。

 部屋のすみに放り込まれていた古いダンボール箱。日記や古い手紙のたぐいを突っ込んでおいたダンボール箱はごきぶりの巣になってらしく、箱を開けたら、ごきぶりが逃げていきました。ごきぶりの巣、まあ、私の人生にふさわしいのかも。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「劇団昴『本当のことを言ってください』」

2013-10-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/29
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記10月(4)劇団昴『本当のことを言ってください』

 10月27日、劇団昴『本当のことを言ってください』を赤坂レッドシアターで見ました。北村総一朗が病気のため公判してしまったのが残念ですが、千秋楽公演、満席でした。
 視覚障害者の友人アコさんとは、図書館の朗読ボランティアとして出会い、以来「いっしょに演劇を楽しむ仲間」としてお付き合いしてもらい四半世紀になります。今回も「はじめて行く劇場で、ひとりでは行けないので、いっしょに行ってね」というお誘いを受けて、ガイドヘルプ兼いっしょにお芝居を楽しむ友だちとして出かけました。

 実家から特急で上京するアコさんを上野で出迎え、上野駅構内でスパゲティランチ。銀座線で赤坂見附へ。ここで大失敗、ネットから取り込んで印刷した地図を家においてきてしましました。今時のケータイなら地図をすぐに出せるのに、わたしのガラケーではそんな芸当はできません。

 歩道の脇に立ててある地域案内の地図を見ながら、「ホテルグランベルの中にあるレッドシアター」とアコさんとあれこれ言っていたら、ケータイ見ながら歩いていた青年が「僕もこれからレッドシアター行くので、ごいっしょしましょう」と声をかけてくれました。親切な方のおかげで、迷わず目的地までいけました。ありがとうツチヤさん。

 劇場は200席ほど。前から2列目の席。役者の声はよく聞こえる場所でしたが、耳で演劇を楽しむアコさんには「音がひらべったく聞こえて、奥行はない舞台ね」と聞こえたそうです。

 昴の『本当のことを言ってください』は、畑澤聖悟の脚本。北海道苫小牧市に本社があったミートホープ社の食肉偽装事件をモデルにしたストーリーです。牛ひき肉のミートボールを安いくず肉や廃棄物となった内蔵などを混ぜ、安定剤、増粘剤、着色料などの添加物で見た目ととのえ、「安くてうまいハンバーグ、ミートボール」として売り出しているが、工場で働くパートさんたちは「給食にハンバーグやミートボールが出てきたら、ぜったいに食べちゃだめ」と自分の子供には教えています。

 ある時、「くず肉ハンバーグ」の偽装について告発文が投書され、新聞記事になったことから、創業者一家、営業部長、工場長などを巻き込んだ事件に発展していきます。記者会見開かれ、嘘の弁明を続けていくのですが、つぎつぎと新たな嘘があばかれます。

 創業者は大陸からの引揚者で、我が子に腹いっぱい食べさせたいという思いで食肉会社を設立したのですが、娘とその婿に会社をゆずったあとは、娘夫婦によって経営から遠ざけられていました。孫夫婦は、チケットひとり8万円のワールドカップ一等席を買って一家で見に行ったり、高級車を買う贅沢ができるのも、安いハンバーグを売りまくっているおかげと割り切っています。
 いつの間にやら、食肉工場は、従業員たちが「我が子には絶対に食べさせたくないもの」を作る場所になっていました。

  つい最近も、大手ホテルのレストランで、メニューの偽装ニュースが報道されました。安い食材を使っているのに、メニューにはブランド食材の名を騙り高級食材を使ったようにされていたという事件。「どうせ客には高級食材との味の差なんてわからない」という作り手の消費者を見くびった態度に憤懣やるかたない人もいるでしょう。

 私は偽装された高級食材なんてものに騙されたことはありません。舌が確かだから?いえいえ、高級品とされるものを買ったことないから。最初から「とびっこ」として買ってきたから、「レッドキャビア」と称されていたとびっこを高い値段で食べさせられたことがない。最初から安い肉を食べてきたから、中級品を「ブランド牛肉」と偽ったものを食べないですんでこれたってこと。

  1968年にカネミ油症事件が起き、水俣では水銀入りの魚を食べた人々の水俣病が発生。安全なものを食べたいという願いは、人にとって当然と思うけれど、食品偽装は未だに続いています。

 「返品されてきた不良品のパック詰め肉は、ひき肉にしてハンバーグに再利用すれば、コストを下げられ安いハンバーグを作れる。会社は儲かり、消費者も安いものが食べられて喜ぶ」と、劇中の経営者夫婦は言っていました。
 雇われる側の弱い立場のパートさんたちは、外部には公開できないひどい状態の工場で働きながら、その状態を語ることができないでいました。職場を失うことになったら、家族が食えなくなるから。

 日本全国、上から下まで、「バレなきゃOK」「どうせ馬鹿な消費者ばかな国民には本当のことなんかわかりゃしない」という不正が満ち満ちています。数万ベクレルもの放射能をあふれさせているのに、「完全にコントロールされている」とか。

 「本当のことを言う」のは人としての生き方の基本だと思うのですが、嘘がまかり通り、秘密をばらされるのを恐れる政府が、勝手な法案を通す。
 このまま本当のことを言わない社会が形成されていっていいのでしょうか。嘘で塗り固めた社会で景気さえよくなれば、それで皆満足できるのですか。

 貧乏にあえいで暮らしてきた我が家。確かに、お金でなければ買えないものがたくさんあります。でもお金では買えないものもたくさんある。自分の生活、自分の人生を誇りをもって人に語ることができる、どんなに貧乏な暮らしをしていても、人に嘘をつかない暮らしができることはありがたいことです。

 食肉工場のパートさんたちは、自分の作ったハンバーグを我が子には食べさせたくないと言っていました。私は自分の作った文章については誇りをもって「嘘偽りない文だから、読んでね」と、娘息子に言っているのですが、「そんなまずいもん、読めるか」と、これまた正直な感想が帰ってきます。う~ん、たしかにうまくはない。貧乏でも偽装のない生活でよかったと思うしかない。嘘偽りのない暮らしは「おいしい生活」には遠い。

 お芝居後のティータイム。アコさんの話を聞くのも、ごいっしょする楽しみのひとつ。今回は、「小さいころから楽しんできたアニメの原作を、はじめて点訳本で読めた」という話を聞きました。アニメのムーミンが大好きだったけれど、一般書籍に比べて、児童書はなかなか点訳が出ない。絵本や児童書は、語りきかせの対象にはなっても、点訳の対象になることが少ないのだそうです。

 ムーミン、日本でキャラ設定などが大幅に変更された脚本と原作は、いろいろ違うところがあるので、とても興味深く読んだ、ということでした。私もむかし読んだ原作をい出しました。アニメのスナフキンと原作のキャラクターの違いなどに驚いたことなど、アコさんに話しました。

 すべての視覚障害者が「本を読む楽しみ、芝居を見る楽しみ」を味わえるようにと、活動を続けているアコさんの努力を見て、私も元気をわけてもらいました。ガイドヘルプをさせてもらって、こちらが助けてもらっているんだなあと感じます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「フィギュアスケート」

2013-10-27 00:00:09 | エッセイ、コラム
2013/10/26
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記10月(3)フィギュアスケート

 クドカンファンの我が家、クドカンドラマを木更津キャッツアイ(2002年TBS)マンハッタンラブストーリー(2003年TBS) タイガー&ドラゴン(2005年TBS)吾輩は主婦である(2006年TBS)未来講師めぐる(2008年テレビ朝日)流星の絆(2008年TBS)うぬぼれ刑事(2010年TBS)11人もいる!(2011テレビ朝日)と見てきて、「あまちゃん」はもちろん、半年間楽しみました。

 あまちゃんが終わって、「あまロス」状態でしたが、クドカンと同じく、親子3人で楽しむもうひとつのアイテム。フィギュアスケートがはじまり、ようやくあまふす脱却です。
 10月下旬のジャパンオープンからフギュアスケートのグランプリシリーズ、来年のソチオリンピックまで、選手たちの調子に一喜一憂しながら見守ることになります。

 選手たちの今回の振り付け、ショートプログラムにもエキシビションナンバーにも、私にとってはジャズダンスで踊った曲があって、なじみの曲が出てくるので、とても楽しく見ています。たとえば、小塚崇彦のショートプログラムの曲、アンスクエアダンス。手拍子をしながら、フットステップがむずかしくて、私には踊りこなせなかった曲でしたが、小塚選手のスピンやジャンプが曲のどの部分にあらわれるのか、楽しんで見ています。

 いっしょにテレビ観戦をしていても、娘と息子は、競技として見ているので、「あ、このアクセルが3回転じゃなくて2回転になっちゃったから点数が何ポイント減った」などと計算しながら見ているのに対して、私はアートのひとつ、表現のひとつとして見ているので、3回転でも4回転でも印象は変わらないと思って見ています。振り付けの完成度のほうが気になります。

 ひとつの技を仕上げるには、こつこつと続ける基礎練習が大切なのはどのスポーツも同じでしょうが、フィギュアスケートは、技だけではなく、衣装の選び方からヘアスタイルまで総合的な印象が大切です。

 デトロイトで開催されたアメリカ大会では、男子シングル町田樹一位、女子シングル浅田真央が一位のダブル優勝で、これからがとても楽しみです。ふたりともソチまで好調を保っていけるよう。応援しています。

 10月26日には、カナダ大会があり、女子は鈴木明子、男子は織田信成、羽生結弦らがショートプログラムに出場。上位を狙える位置でショートプロブラムを終えて、26日のフリーが楽しみです。

 グランプリシリーズには出場しませんが、ネーベルホルン杯で2位になった安藤美姫も応援したいです。母になる決断をしたことが精神的にいろいろな影響を与えたことでしょう。選手としてより深い表現力を身につけたのではないかと思いますので、12月の全日本選手権ではよりよい演技を披露してほしいと願っています。
 がんばれ、フィギュアスケーターたち。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「しょうもなしのコスモス」

2013-10-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/26
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記10月(3)しょうもなしのコスモス

 しろつめくささんのブログにきれいなコスモスの写真がありました。
 以前のブログには、数年前、コスモス畑にふたりで出かけたことが再婚決意のきっかけとなったことが書かれていました。わぁ、いいなあ、と羨ましがりの春庭、そういえばこのところコスモス満開のところをみていないなあと思うと、「今年こそ見ておかなくちゃ」と、心せきたてられました。

 週末は台風27号の予報。台風後では花がみな散ってしまうかもしれないと思い、24日午後、仕事を終えてから昭和記念公園に行ってみました。閉園30分前に西立川駅着。駅から昭和公園入り口までは2,3分ほどだったのですが、あいにくと雨がふりだしました。入口の係りの人に、「ここからコスモスの咲いているところまでは、歩くと15分くらいかかりますよ」と言われました。

 予定ではサイクリングの自転車を借りれば、園内ひとまわりするのにそう時間はかからないと思ったのに、もうサイクリング車の貸しだしは終了しているし、雨が降ってきたので、傘さして歩くことになります。広い広い園内、歩いても歩いてもコスモスにいきあたりません。

 迷わずコスモスまで行き着いたとしても、すぐさま戻らなければ門が閉められてしまいます。
 急がなくちゃと、薄暗くなってきた公園の道をたどっても、もう誰もいない園内、どう行けばコスモスのところなのかもわかりません。
 「みんなの原っぱ東花畑(イエローキャンパス、サンセットイエロー)が見頃です」というネットのお知らせを見てきたのに、どこが東花畑なのやら。

 足元がぐっしょり濡れてきて、ようやくみんなの広場に着きました。私が見たのは普通のコスモス。



 広場の反対側にしろっぽい花畑があるので、あちらがイエローキャンパスかと向かったら、途中で警備員さんに呼び止められました。「もう、閉園時間です。急いで出口に向かってください」
 追い立てられて、西立川口へ。サンセットイエローというコスモス、見たかったなあ。でも、閉園ぎりぎりに入園したこちらが悪いのだし。
 すっかり暗くなった小道をたどり出口に戻りました。心残りなコスモス花見になりましたけど、まあ、しょうもない時間をすごすのがいつもの私の一日です。



<つづく>
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ぽかぽか春庭「ローザンヌバッハ合唱団&豊島区民合唱団」

2013-10-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/24
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記10月(2)ローザンヌバッハ合唱団&豊島区民合唱団

 一昨日10月22日、東京芸術劇場でのコンサート。スイスから来日したローザンヌバッハ合唱団に豊島区民合唱団が共演し、ジャズダンスサークル仲間3人が出演しました。慶應義塾大学・日本女子大学混声合唱団コール・メロディオンという学生合唱団も共演して、舞台上には私が今まで見た中でいちばん多くの人が並びました。三つの合唱団合わせて100人くらいいて、歌声は大迫力でした。

 出演者のうち、TTさんは先日足をくじいてしまい、出演するかどうか決めかねていました。TTさんは、去年「スイス・ローザンヌへ行って、地元の合唱団と共演しよう」という合唱団対象のツアーに参加し、ローザンヌの町でコンサート出演してきたのです。スイス観光も合唱コンサート出演も、という盛り沢山なツアーだったけれど、充実したひとときをすごしてきたのに、足の怪我て降板することになっては無念千万。今回の2度目のローザンヌバッハ合唱団との共演をあきらめるわけにはいきません。どうしても出演したいと、車椅子に座っての合唱参加でした。
 座っていると腹筋の使い方などが立った場合と異なるため、歌うには不自由ですが、「出演をあきらめなくてよかった、今回の舞台は一生の宝物になった」と、出演の感想をメールで語っていました。

 ローザンヌバッハ合唱団のメンバーは、豊島区の小学校を訪問して歌のプレゼントもしてきた、ということで、日瑞交流のかけはしとなって日本の滞在を楽しんでいるようでした。
 ローザンヌバッハ合唱団は、スイスでは宗教音楽を中心に歌っているということですが、今回の選曲はオペラアリア。ヴェルディのオペラとプッチーニのミサ曲。ナブッコ、ドン・カルロなどの曲をテノールバリトンなどの男性ソリストと合唱で歌い上げました。

 スイス大使など、スイスの人たちが招待されてきていました。去年教えた学生がローザンヌ出身だったので、もしかして招待客の中にいるかなと会場を見回しましたが、わかりませんでした。若者はミサ曲よりロックなのかもしれません。
 このローザンヌ出身の留学生には、スイスの基礎自治体(コミューン)について教えてもらいました。私はスイスはスイスというひとつの国だと思っていましたが、アメリカ合衆国が独立性の強い州の連合による国であるのと同じように、スイス連邦は、独立国なみの自治権を持っている基礎自治体が連合している国なのだということです。コミューンごとにことなる宗教異なる言語異なる文化を持っているという説明でした。

 以前私がローザンヌについて知っていることといえば、バレエコンクールが開催されることくらいでした。留学生のおかげで、前よりはいくらかローザンヌについて知ることが多くなりました。いっしょに合唱を聞いていたダンス仲間も「ねぇ、合唱団の団長さんや指揮者はフランス語で挨拶しているけれど、スイスってフランス語だったの?スイス語じゃないの?」とたずねてきました。「スイス語っていうのはないの。フランスに近い地域はフランス語、ドイツに近い地域はドイツ語、イタリアに近い地域はイタリア語、ほかにロマンシュ語っていうのがある」と、解説しましたが、「へぇ~、スイス語じゃないんだ」と感想を述べていましたから、彼女のスイス理解も私と同様あまりくわしくはない。

 ミサイルママ、Mさん、車椅子のTTさん、白いブラウスに黒いロングスカートで、楽しそうに歌っていました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「池袋まつり東京よさこい」

2013-10-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/23
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記10月(1)東京よさこい池袋

 今年も「おかしな気候ですねぇ」が夏からずっと挨拶に使われました。観測史上最高の暑い夏。10月に入っても気温は30度越えの真夏日という記録も。
 いったいいつ秋になるのかと思っていたら、次は24時間に800mmを越える雨が降ったという強烈な台風。
 このおかしな天気につらい思いをされた方々にお見舞い申し上げます。

 私は、台風26号の日には、山手線などの電車が止まって、大学は終日休講となったので、JR止まっても地下鉄は動くはず、と美術館に出かけました。アクティブというよりも、「人様が出かけないであろうときは、美術館はすいているだろう」という「得した気になりたい」という根性です。

 10月12日に30度を越える暑さでもめげずに13日にはよさこいを見たり踊ったり。
 8月に原宿でよさこいを見たときはひとりでしたが、10月13日ダンス仲間のミサイルママといっしょでした。
 池袋の東京よさこいコンテスト、私は4時からアゼリア通りで見ていました。5時にミサイルママが仕事を終えて合流したので、駅前のコンテスト会場に移り、コンテスト終了まで観覧。もう人がいっぱいで、よく見えない場所しか残っていなかったのですが、なんとか潜り込みました。

 表彰式も全部見ました。大賞は原宿でも大賞をとった「しん」というチーム。


 ミサイルママは、学生チームの「踊り侍」が一番気に入ったと言い、入賞しなかったのを残念がっていました。若さあふれるエネルギッシュな動きが気持ちのいいチームで元気をもらえました。

 最後は、これがおめあての「総踊り」
 ほんとうは、参加チーム全員による「シメ」の踊りなのですが、去年飛び入り参加して楽しかったので、今年もいちばん後ろで、いっしょに踊りました。今年の総踊り振り付けは、私たちのサークルの「ソーラン節」と似ている動きでした。「南中ソーラン」が元になっている、テレビの金八先生などでも踊られていた振り付けをアレンジしたものです。

 和食店で夕御飯食べながら、「来年も、総踊りに参加しようね」と約束して、ミサイルママとバスで帰りました。踊りは元気のモトです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「村野藤吾の33号館その他」

2013-10-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/22
ぽかぽか春庭アート散歩>建築さんぽ008-2013(3)村野藤吾の33号館その他

 内田祥三設計の東大校舎にはかすりもしなかったと書いたけれど、かすった方の学び舎は、残念ながら解体取り壊されてしまっています。
 村野藤吾設計の文学部33号館(1962年竣工)。村野藤吾が「出身校へのお礼の気持ちをこめて設計した」と言われる名建築でしたのに。

 今年2013年4月に新校舎ができて、新入生にとっては昔の学生たちが「国連ビル」なんて呼びつつ、行き交っていた時代は、歴史のかなたのことでしょう。学生運動真っ盛りのころ、椅子や机を積み上げてバリケード封鎖していた校舎。学生ストライキなしに4月からちゃんと授業があったのは、最終学年の4年生のときだけでした。

 4年生のときは単位取得はほとんど終わっていたので、卒論指導を受けに指導教官の研究室を訪れただけ(それも、2回だか3回だけ)でした。
 学生ストで授業ができないので、レポートを先生に郵送すると単位がもらえて、ほとんど教室に出ずに卒業できた時代でした。ぜんぜん勉強していないのに国語科教員免許を取得でき、中学校国語教師になって勉強不足を痛感しました。

 中学校国語教師をやめたあと、2年間、またこのキャンパスに通って、演劇学芸能学舞踊学などを学びました。このときのほうが頻繁にキャンパスに通い、文学部の門からスロープを登るにつけても、アジビラも落ちていないこと立て看板などはすっかり影をひそめてしまった様子に、なんという様変わりかとびっくりしました。しかし、スロープから見上げる33号館の姿は以前のままで、そのてっぺんまで登れば学問の高みが見渡せるような気分になる建物でした。

 それが、耐震性不足、耐震設備をほどこすよりは、取り壊して新しい建物を立てるほうがお金がかからない、という理由ですっぱりと解体されてしまいました。スクラップ&ビルドは近代都市の常態とはいえ、なんだか寂しいことです。いつでも見られる、いつまでもある、と思っていたので、写真を撮ったこともありませんでした。
(新33号館は、村野のデザインを踏襲し、耐震をほどこした村野そっくりさん新築にして、キャンパつの印象が変わらないよう配慮しているとのことですが、未見)

 村野藤吾設計の戸山キャンパス33号館は取り壊されてしまいましたが、村野藤吾設計の建物が都内に残っています。一番頻繁にでかけるのが、池袋駅ビルのパルコ(1957年、旧東京丸物デパート)。
 次は、有楽町のビッグカメラ(1957年、旧読売会館&そごう東京店)。年に何度か、電気製品を見にいきます。(普段は池袋の家電店を利用するのですが)。

 数年に一度出かけるのが、目黒区総合庁舎。1966年竣工、旧千代田生命保険本社ビル。同生命保険が2000年に破綻した後、目黒区が買い取り2003年から区庁舎となっています。
 結婚後の本籍地を、夫の実家がある区にしたので、戸籍抄本などが必要になると出かけていました。今では郵送やネットで戸籍請求もできるのに、わざわざ出かけるのは、区役所の建物に入りたいからです。

 (以下の写真は全部借り物)。
早稲田大学戸山キャンパス、中央の高層ビルが旧33号館。通称「国連ビル」


 現・池袋パルコとなった旧丸物デパート。改修前のこの村野の壁画「無題」を見たことないです。当初は、こんなふうだったのね。


 目黒区役所


 建物さんぽを始める前に取り壊されてしまったものは仕方ないことですが、建物を見はじめてから解体した建物だと、「ああ、見ておけばよかったのに」と、悔やまれます。これからも「○○が壊される」という情報をもっと調べなければと思います。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「武田五一&妻木頼黄」

2013-10-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/20
ぽかぽか春庭アート散歩>建築さんぽ2008-2013(2)武田五一&妻木頼黄

 東京大学建築学科教授であり東京大学関連の建築を手がけた内田祥三の建物は、都内各所に見に行けるのですが、私にはなかなか見に行けない建築家のひとりが、武田五一(1872-1938)です。(なかなか行けない理由は、遠出の旅費がないからです。

 武田五一は、京都大学建築学科の育ての親であり、建築作品も関西名古屋近辺に、京都大学本部本館、京都府立図書館、同志社女子大学ジェームズ館などが残されています。いつか、関西旅行に行けたときには見て歩きたいと思っています。

 都内に残されている武田五一の作品は、文京区本郷の求道会館(1915(大正4)年竣工)。
 浄土真宗大谷派の僧侶近角常観が、ヨーロッパの教会のように誰でも入れて僧侶の話を聞けるような宗教施設をめざしたのに応えて、武田は正面には円柱、内部にはステンドグラスが意匠された建物を作りました。これまでの仏教施設とは異なる洋風の設計です。
 明治の学校建物の紹介として、和洋折衷の話をしましたが、仏教施設でこのような思い切った和洋折衷を取り入れたのも、やはり時代の精神だったのでしょう。

 私が2011年秋に訪れたときは、本郷にある徳田秋声宅を見に行ったついでだったので、内部には入れなかったし、もう一度内部を見られるときに訪問したいと思っています。(yokochann、見学日は毎月第四土曜日だそうです)

求道会館(武田五一1915)


 

 大蔵省臨時建築部で働いていたときの武田五一の上司が、建築部部長妻木頼黄(つまきよりなか1859 - 1916)です。武田は妻木のもとで大熊喜邦とともに、旧山口県会議事堂、県庁舎(1916年竣工)を建てました。(大熊は、志半ばで死去した妻木に代わって国会議事堂を完成させた人です)

 妻木頼黄と武田五一の共同作品といえる、日本勧業銀行(1899年竣工)は、現在は千葉市に移築され、千葉トヨペットの社屋として使用されています。

旧日本勧業銀行本店1899(明治32)年竣工(現・千葉トヨペット本社)
千葉トヨペット本社HRの画像より


 妻木頼黄は、「明治三巨匠」と言われたのに、他の二人、辰野や片山に比べて地味な印象です。日本銀行本店や東京駅の辰野金吾(1854 - 1919)、東京国立博物館表慶館、赤坂離宮(迎賓館)の片山東熊(1854 - 1917)は、建築関係以外の人にも名をしられているのに、国内に大建築物がないせいかもしれませんし、建築史や近代建築がブームになるまで、誰が建てたのかなどは話題にもならない作品が多かったこともあります。たとえば、半田市に残る旧カブトビール赤レンガ倉庫も、市民による保存運動が高まるまで、「取り壊し寸前」のところでした。

 妻木は、辰野や片山とともに、コンドルに学んだ最初の6人の弟子の一人です。官庁建築の組織を作り上げ、明治大正の公の建物に数多く関わりました。国会議事堂の設計にとりかかるも、ライバルの辰野金吾が「設計を競争にし、当選作を選ぶべきだ」と反対。妻木の支持者であった桂太郎内閣がつぶれたために、妻木の計画は頓挫。国会議事堂設計競争では、宮内省技官の渡邊福三が当選したにもかかわらず、当選直後に渡辺が死去したため、官僚合同チームが議事堂の設計をやりなおし、渡辺の設計とは異なる姿に。

 妻木頼黄作品は、国内のものはあまり残っていなくて、中国・大連市中山広場に1909年竣工の旧横浜正金銀行大連支店(現・中国銀行遼寧省分行)が残っています。

戦前の古写真に残る旧横浜正金銀行大連支店


 都内に残された妻木の建物、私が毎年桜を見に行く場所です。ドイツに留学した妻木はビール党だったらしく、上記の半田市の丸三麦酒醸造所(丸三ビール→カブトビール)の建物をはじめ、醸造関係の建物に関わっています。(カブトビールはジブリアニメ映画『風立ちぬ』にもちらりと登場するそうです)

 旧醸造試験場(妻木頼黄1904年竣工 現酒類総合研究所東京事務所)花見に出かけ、桜の写真を取りに行ったら、内部の見学会をやっていました。


内部


 旧横浜正金銀行本店(1904年、現神奈川県立歴史博物館、ファイルの中で行方不明。見つかったらUPします。
 画像は、古写真絵葉書に残る戦前の横浜正金銀行本店(神奈川県立博物館のミュージアムショップで買った絵葉書です)



<つづく>
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ぽかぽか春庭「内田祥三の学校建築」

2013-10-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/19
ぽかぽか春庭アート散歩>建築さんぽ2008-2013(1)内田祥三の学校建築

 今回は、内田祥三(うちだよしかず1885 - 1972)作品の紹介です。
 内田祥三は1907(明治40))年に 東京大学建築学科を卒業しました。1911(明治44)年からは東大で後進の指導にあたり、のちに東大総長も勤めました。

 東大の本郷キャンパス駒場キャンパスに数多くの作品を残しています。内田が東大卒業直後に勤務した三菱地所で手がけたビルなどは、ほとんどが取り壊されて残されていないのに対して、東大の建物は、安田講堂をはじめ今も現役の図書館博物館などとして利用されています。

 東大構内には、学生ボランティアによる東大キャンパスツアーというガイドコースがあるので、お散歩にもうってつけ。東大にきた人、赤門を眺めるだけの人が多いのですが、ぜひ校内の見学を。文科省の大学予算の一割は東大に注ぎ込まれています。我らの税金で運営されているのに、我が家など親も子も東大にかすりもしない人生でした。せめて構内散歩でもして、少しでも税金分のモト取ろうではありませんか。(無料ですが、事前申し込みが必要)
 私はいつもふらっと自転車で立ち寄って、キャンパス内を勝手に自転車で走り抜けるのみなので、いつかはこのキャンパつツアーを利用してみようと思っています。
http://campustour.pr.u-tokyo.ac.jp/
 東大駒場キャンパスのなかにも、内田作品がたくさん残されています。

 正面の駒場本館をはさんで、左右対象に同型の講堂(900番教室)と駒場博物館がたっています。
900番教室

  
駒場本館
駒場博物館 


 内田祥三の作品は、「内田ゴシック」とも呼ばれる独特の意匠が見られます。
 私は白金植物園(東京科学博物館付属植物園)を散歩したり松岡美術館にいくときは、いつも白金の東京大学医科学研究所の構内を通り抜けることにしていました。病院にしては重々しすぎる感じの古~い建物が気になってのことです。何年も何年も建築した人もことなど知らずに建物を眺めてきました。

 2013年に旧東方文化学院(現・拓殖大学国際教育会館)を見学する前に、主催した埼玉県立近代美術館の「事前レクチャー」が行われ、見学ツアーに参加の条件がこのレクチャー受講でした。旧東方学院の設計者が内田祥三であること、内田は東大のほとんどの建築物を手がけた建築家であることなどを学びました。白金の医科学研究所も内田作品でした。

東京大学医科学研究所




 

 白金の植物園と同じくらい散歩することの多い小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)も、毎度本館前を通り過ぎて、その建物を眺めてきたのに、設計者が誰だったか気にしたこともありませんでした。ここも内田祥三の作品でした。

下の「小石川植物園本館」は、借り物写真です。


 わかってみると、都内の建物めぐりで見たことある建物のうち、東京農工大学農学部本館など、内田作品をけっこう見て回ったことに気づきました。作品の多くが学校建築であったために、戦災などで消失していない建物の多くが現役の学校校舎として使われていたためです。

東京農工大学農学部キャンパス

 

 東方文化学院 正門(現・拓殖大学国際教育会館)

階段室

正面の左側


下の東方文化学院俯瞰での写真も借り物ですが。上の下手なデジカメではわかりにくい全体の雰囲気が、こう撮ればよくわかります。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「大連市の近代建築」

2013-10-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/17
ぽかぽか春庭アート散歩>旧満州の建築スナップ写真(2)大連市の近代建築

 1994年に長春市に赴任したときは、まだ古い建物がたくさん市内に残されていたにもかかわらず、ほとんど建物写真は撮影できませんでした。はじめての中国滞在で、最初のうちは緊張していてあまりお出かけもしませんでした。仕事にありつく条件が単身赴任だったため、休日は自由につかえたのに。
 ようやく仕事にも慣れた夏になってからは、幼い娘と息子が妹に連れられて教員宿舎にやってきて、休日のお出かけも動物園や遊園地などになったこともあって、建物の写真など撮っていないのです。

 長春駅は、1907年に旧満鉄の駅として開業しましたが、1992年に旧駅舎解体。1995年に新駅舎完成。1994年に長春駅を何度も利用したのに、建設途中の駅がどんな状態だったか、記憶にありません。旅に出ることに心が集中したこともありますけれど、1994年ごろは、駅の周囲、駅の中ではカメラなぞを出してのんびり写真を撮影する雰囲気ではなかったという事情もあります。荷物をかかえて、列車に乗り込むまで、ごった返す人ごみをすり抜けるのは至難の業でした。当時は行列を作って並ぶという社会習慣は、中国に存在しませんでした。何かことあると、わっと団子になって早い者勝ち。(留学生の話だと、中国では今でもそう変わらない光景で、日本に来て最初にびっくりすることは、トイレ前や駅のホームの整然とした行列だとか)

 1907(明治40)年から1945(昭和20)年まで南満州鉄道(満鉄)が中国東北部の鉄道を運営していました。大連新京線(連京線)は、日本租借地の関東州大連市と満州国の首都新京(長春)を結ぶ鉄道路線でした。大連駅、瀋陽駅などが、建設当時の姿で残っています。

☆大連駅 1937(昭和12)年竣工。設計者:満鉄技師の太田宗太郎(外観の雰囲気は、上野駅に似ています)


 大連市・沙河口駅(さかこうえき=シャーホーコウ ヂャン)は、中華人民共和国遼寧省大連市沙河口区にあります。1909年に開業して以来、改修はされていますが、現在も現役の駅舎として利用されている建物です。
 満鉄の建築物に詳しい人がいたら、この沙河口駅の設計についても知ることができると思うのですけれど、このとき、この駅を案内してくれた友人も「日本が建てた古い建物」という以上のことは知りませんでした。


 ☆沙河口駅


 2007年に妹モモとその長女といっしょに大連ですごしたときは、旧ヤマトホテル(現・大連賓館)のスィートルームに宿泊。玄関の上に位置する部屋だったので眺めがよく、ホテル前の中山広場のようすがよく見えました。
 (1994年、中国に最初に来たとき、中山なんとかという名称の場所があちこちの町にやたらに多いので、中国に中山さんが多いのかと思っていたら、孫文(1866 - 1925)の号が中山。建国の父「孫中山」を記念しての命名でした。一通りの近代史現代史を勉強して出かけたつもりでも1994年ごろは、孫文は「孫文」としか知らなかった。中国について深くは理解していなかったなあと思います)。

☆旧ヤマトホテル(現・大連賓館)1914


 1994年の夏休みに10歳の娘と5歳の息子の世話係をしてくれた女子学生が2007年には大連理工大学の先生になって、私と妹を案内してくれました。2009年には准教授。万年非常勤講師の私、順調に出世する彼女に、もう大連のガイドを頼むのは申し訳ないと言ったのですが、2009年も大連をあちこち案内してくれました。水族館とか海岸とか、彼女にとって「ここが大連の有名なところ」というのを案内してもらい、大連名所はあらかた連れて行ってもらい、ありがたかったです。でも、彼女は建築には興味がなかったので、建物の前で止まることはせず、移動中の車中から撮ったものが多くて、ぶれている写真ばかりなのが残念。1994年に2度、2007年に4度、2009年に3度訪れた大連ですが、これぞという写真がありません。もし、次に機会があったら、もうちょっと建物の写真を上手に撮りたいと思います。

 大連賓館の前の中山広場を取り囲んで、旧満州時代の建造物がたち並んでいます。

☆旧大連市役所(現・中国工商銀行大連市分行)1919


中央の建物が、☆旧大連民政局(警察)(現・遼寧省対外貿易経済合作庁)1908竣工 設計者:前田松韻 1922年からは大連警察署として使用された。 


☆旧南満州鉄道本社(現・大連鉄道有限責任公司)
 移動車中からの撮影なので、斜めになってしまいました。中央の赤いひらひらは、広告宣伝の垂れ幕かなにか。

☆旧満鉄大連医院(現・大連大学附属中山医院)1925


☆大連市街
 右側に見えている丸いドームがロシア租借地時代の建物かと思ってシャッターを切った一枚ですが、やはり車中からなので、タイミングがずれ、ただの街中風景になりましたが、この景色も今では変わっているかもしれないので記念に。

ついでに☆大連郊外の農家(昔を思えば、農家も豊かになってきました)


 中国の東北部を語るとき、中国との15年戦争といわれる長い不幸な時代のこと、1931年建国の旧満州(中国では偽満州)のことを抜きにはできません。
 しかし、日本が建てた「近代建築」が中国の町で今も現役で、大学校舎や病院の建物として役立っているのを見ると、「新しい都市を築こう」と意欲を燃やして都市計画を行い、当時の建築技術の限りをつくして建物を設計した技術者や建設に携わった人々の心意気を感じるのも事実です。
 
 どの歴史にも光と影があります。旧満州の近代建築にも、今なお確固としたたたずまいを残して人々の役に立っている光の部分もあるし、不幸な時代の暗い影を思い出してしまうという人もいるだろうと思います。

 「古くなったから建て替える」というだけでなく、古いままでも役に立つ方法を見つけて欲しいです。長春に残っている建物は、帝冠様式などの「帝国の威信を誇示するため」のいかめしい建物もありますが、大連中山広場の旧大連市民政局(1922年からは大連警察署)の外観などは、「西洋人に、アジアも西欧に劣らないことを見せちゃる!」とでも言いたげなコケティッシュなかわいらしさを感じるのです。(このコケティッシュとは、フランス語のcoquettishではなくて、日本語カタカナ語として使われているコケティッシュです)
 大連市内の満州煉瓦会社製のレンガ、山東省産の薄紅色花崗岩を使って建てられている警察署が、「ちょいと、そこのお兄さん、あんた、挙動不審よぉ。匪賊の一味かなんかじゃないの?ちょっとケーサツ寄ってかない?あたい、可愛がてあげるわん」と、言っているような。むろん、可愛がられたあと命の保証もないのが、「かわコワイ」もんの恐ろしいところ。

 願わくは、中国の人々が、これらの建築遺産を保存することを。古い建物が観光資源になることに気づいた人々が保存運動を始めたというニュースも聞きます。実際、大連市の中山広場中央に立って周囲を眺めると、広場を取り囲む建築群は、ある感慨を呼び起こす形の美しさを持っています。ひとつひとつの建物の様式など、不統一であるにもかかわらず。

 私の中国史理解は、1994年よりはちょっとは深まったものの、まだまだ浅いものです。だから、両国の歴史についてあれこれ言うこともできないと自戒しています。「日本が中国の大地を戦場としたことは事実だが、多くのインフラを近代遺産として残した」などの論によって、歴史を正当化しようとも思いません。

 しかし、世界でもっとも優秀な飛行機を作りたかった男の情熱を、「完成した飛行機が戦闘機として使われたゆえに」否定してしまうのは、違っている、と感じるのと同様に、為政者が植民地支配しようとした、傀儡帝国を建設した、ということによって、「将来まで残るような建物を立てたい」という情熱を燃やした人々がいたことを否定するのも間違っている、と感じるのです。
 「よいものを建てて、後世に残そう」とした人々がいたことを、忘れないでいたいです。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「長春市の近代建築」

2013-10-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/16
ぽかぽか春庭アート散歩>旧満州の建築スナップ写真(1)長春市の近代建築

 これまで、建築散歩にでかけた先のリポートを何度か掲載してきたのですが、2012年より以前は、文章報告のみで写真のUPをしてきませんでした。
 今は写真の掲載方法がわかったので、以前に撮影した建物写真も含めてUPしておきたいと思います。

 今回は2007年と2009年に撮影した「中国東北部(旧満州)の建築」シリーズです。

 1994年に中国東北部の長春市に赴任した時には、旧満州時代の建物が市内に数多く残っていました。一般の人が住んでいる住居などの多くは旧満州時代のレンガ造りの建物でした。しかし、2006年に冬期アジア大会が市内で開催されたために、2007年に赴任した際は、多くの古い建物が取り壊され、新しいビルになっていました。歴史的な建造物はそのまま大学や軍の施設として利用されていますが、それ以外の古い住居などはどんどん壊されていました。

 2009年に赴任したときは、2008年の北京オリンピック後だったので、北京も大きく変貌していました。中国はこの20年でものすごいスピードでどの都市も大変貌を遂げています。中国は王朝が変わるたびに国中ががらりと変わるのを常としていたので、「社会主義毛沢東王朝」から「政治は社会主義独裁だけど経済は資本主義王朝」に変わったのだから、古いものは壊されても仕方ないとも思います。でも、壊してしまったあとの復元は容易ではありません。そろそろ落ち着いて「古い町並みを残そう」運動もあっていいと思っています。

 旧満州の建築物については、さまざまな研究書や写真集も出版されているので、今さら私が撮影した手ブレ半分の写真をUPすることもないかと思いましたが、私自身の思い出としてUPします。「私の思い出」なので、建物の説明など古い記憶のままで間違っている場合もあります。写真を見て、これは「どこそこの何々という建物」ということをご存知の方がいらしたら、ぜひご一報ください。☆は2007年に撮影 ★は2009年に撮影

 まず、長春市の俯瞰。2007年テレビ電波塔から市内を見る。
右手にあるのが旧国務院(現・吉林大学)。左手の広場奥が旧満州国地質宮(現・長春市文化広場)


南湖方面のながめ


 歴史的建造物は、私よりもずっとよいアングルで撮影している写真が、写真集にもネットにも残されています。しかし、街中の古い民家などは、私が撮ったもの以外に「この場所で古い建物が撮影されたという一枚はないかもしれない」と思うので、記録しておきます。

2007年長春市牡丹街の古い家(2013年の今はもう壊されていると思う)


2007年の長春市内の古い家。野菜や果物の店だったけれど、もう壊されているでしょう。煙突は冬の暖房用に石炭を燃やすためのもの


長春市街2007年


 以下の写真キャプションにつき。最初に書いてあるのは、建物に提示してある中国観光局の説明プレートです。「偽満州」とすべてに付けられているのは、満州国を認めないという中国側の見解によるもの。満州国については、歴史についても建築についてもさまざまな見地からの研究書も出ているので、興味がある方はそちらをどうぞ。

 国際連盟からは国家として承認されなかった旧満州国。為政者と国土はあっても国民はいなかったと、私は思います。住んでいた農民たちのうち、「自分は日本人」と思っている人と「自分は中国人」と思っている人が大半で、「自分は満州国人」と思っている人はほとんどいなかった、という意味で。

 現在は博物館となっている皇帝仮皇宮には、1994年には娘と息子を連れて、2007年2009年にはひとりで訪れました。15年の間に、入館料は10倍になっていました。内部には、蝋人形がおかれ、皇帝溥儀や皇后婉容の人形がなにやら寂しげに佇んでいました。

☆正面外観(現・偽満皇宮博物院 光復路5号) 


☆皇帝傅儀の公務執務室、典礼室があった勤民楼


☆偽満州国皇居室内(仏間だったように思う)


☆皇帝住居の中庭

 仮宮殿とはいえ、あまりパッとしない建物に思えるのは、この建物に半ば軟禁されていた状態の傅儀にとっては、牢獄にも等しい住居だったということを知っているからかもしれません。日本を利用して清朝復活を果たそうと夢見ていた傅儀は、現実には日本に利用されただけであり、満州帝国皇帝とは、実験のない傀儡にすぎないことに不満をつのらせて宮殿内でもんもんとして暮らしました。傀儡皇帝のそのまた飾りにすぎない皇后婉容(えんよう)は、愛のない生活を忘れようとアヘンに溺れていきました。哀しい皇帝と皇后の家。壮麗な紫禁城を夢見ていた傅儀にしてみれば、プレハブ住居のように思えたのではないかしら。

☆地質宮(現・吉林大学地質博物館)西民主大路938号
 新宮殿は、皇帝が移り住む前に満州国が崩壊したため、実際には宮殿としては使われないままでした。人民中国では地質学院教学楼として使用されたため、地質宮と呼ばれました。

 2007年、広場にはローラースケートリンクが設置され、市民は現在は「文化広場」となった場所での休日を楽しんでいました。

☆偽満州国・国務院旧址(現・吉林大学教学楼=教養課程キャンパス 新民大街126号)


★電波塔から見た旧国務院


☆正面と玄関
 



☆偽満州国・司法部旧址(現・ 吉林大学新民校区 新民大街828号)


 

☆偽満州国総合法衙旧址(現・人民解放軍の第四六一医院)
勤務していた大学の通勤バスは、朝夕この建物の前の角を行き来していました。

☆偽満州国交通部旧址(現・吉林大学の公共衛生学院 新民大街1163 号)
 

☆偽満州国軍事部旧址(現・吉林大学付属第一医院 新民大街1号)


<つづく>
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ぽかぽか春庭「折衷の近代」

2013-10-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/15
ぽかぽか春庭アート散歩>近代建築めぐり2013(4)折衷の近代

 県令たちが「新しいご時世」「近代化」という時代の変化を建物によって目に見える形にしよういう意気込みを持っていたことはわかったけれど、それを受け取った側はどうだったのか、私にとってもっと知りたいことのひとつです。 

 当時の新聞などを調べると、新築披露を見た人々のようすが描写されています。松本の開智学校が落成したときは、人力車が通行できなくなるほど見物人が押し寄せたそうです。
 洋風の形は備えていても、開智学校の玄関には龍の模様が彫り込まれているなど、伝統の意匠も各所に見られる建物になっています。今まで見たことのない「西洋」の出現に人々は驚きつつ見とれ、しかし細かい意匠のなかになじみの文様や建築技法を見て、「近代」や「西洋」というものが、これまでの生活から隔絶したものではない、という意識を持ったのではないかと、私は感じたのです。  

 明治初期には、血税一揆(徴兵反対に端を発する新政府への抵抗)に連動する学校焼き討ち事件なども起こったのだけれど、人々はしだいに「文明開化」を受容していきました。この過程にはさまざまな要因が複合していたと思いますが、そのひとつにこの「擬洋風建築」をあげることができるでしょう。

 身近に出現した洋風建築が、在来工法を駆使する地元の大工の手に成り、馴染みの意匠が散りばめられていたことにより、「近代文明」が自分たちが築いてきたこれまでの生活を破壊するだけのものではないことを感じ取り、明治新政府の方針を受容していったのではないかと、鶴岡の旧西田川郡役所、松本の旧開智学校などを見て、感じました。

開智学校

 擬洋風建築への評価、はじめは「西洋建築の工法を知らない地元大工が見よう見まねで建てた、まがいものの洋風建築」という評価でした。近年になって「見た目は洋風をめざしているが、在来工法で建てられて、これはこれで日本古来の伝統を生かした建築」という再評価がなされています。
 私は、さらに、「この和洋折衷こそが、近代を市民に浸透させる要因だったのだ」と積極的な評価をすべきだと考えます。

 大学で西洋工法の近代建築設計施工を学んだ辰野金吾たちが建築界に活躍をはじめた以後の建物について、私は以前「西洋においつけおいこせのものまね」と論評したことがあります。
 東京駅を「西洋キッチュ」と評したのです。この評価、訂正しなければなりません。私がこの「キッチュな近代」と評したとき、それは辰野金吾設計の東京駅ではありませんでした。戦後、焼け野原になった東京を復興させるために、GHQが命じた「当座の応急的な修復だけで開業を急ぐ」とされて、その後そのままにされていた「仮のすがた」の東京駅を見て感じたことを書いたのでした。

 東京駅は2012年10月に、建築当初(1914年大正3)の形を復元しました。
 復元途中に東京駅前を通りかかって、何度か工事中の姿を撮影しました。そのときでも、当初の姿を想像できましたが、復元なった東京駅を見て、素直に美しいと思いました。必死で「西洋文明」に追いつこうとして近代建築を施工していた建築家の気負いは感じますが、東京駅の姿も決して「西洋のものまね」ではない、これはこれで「新しい日本建築」としての美しさを持っている建物だと感じました。


 必死で西洋をおいかけ、限りなく本物に近づこうとしていながら、「まね」を抜け出すことはむずかしかったかもしれません。しかし、日本のさまざまな「近代遺産」たちをつぶさに見て歩けば、近代社会を築き上げた人々の心意気がわかってくるのだろうと思います。それまで各地の近代建築見学を続けたいと思います。

 開智学校も、旧西田川郡役所も、東京駅も、それぞれが美しいです。
 なかでも、擬洋風建築と言われる、在来技術を駆使した大工や左官たちの建物は、最初から「和洋折衷をめざした」本物の「日本建築」であると思うのです。

開智学校のドア上部の龍の飾り

 和魂洋才を標榜して突き進んだ明治の改革。
 和洋折衷は「和服を着て靴を履きシルクハットをかぶって歩く」というようなスタイルとなって写真や新聞挿絵に残されているので、これまで私は「滑稽な西洋かぶれ」のように受け取ることもあったのですが、そもそも、中国文明や漢字を受け入れた古代から、折衷方式こそが「日本の伝統」です。家のなかに洋間を作っても、決して靴のままでは上がらない。必ず玄関で靴を脱ぎ、洋間には、スリッパを履いてソファに座るという折衷が、我々にとっての「伝統的なやり方」なのであったと思います。

 文机の前に正座する寺子屋から、新築なった小学校の椅子に着座することから、「新時代」の受容がなされていったのだろうと思うのです。学校内部においても、玄関で外靴から上履きに履き替えるところがほとんどで、靴のまま校舎に入る学校は、おそらくは皆無、あってもごくわずかだったろうと思います。
 椅子にすわる生活、という西洋と、外履を脱いで上履書きに履き替えるという伝統の暮らし方、その折衷に日本の近代が成立したのだと考えます。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「明治の学校建築と近代化」

2013-10-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/13
ぽかぽか春庭アート散歩>近代建築めぐり2013(3)明治の学校建築と近代化

 江戸時代、寺子屋・手習所は、江戸中期から幕末までに飛躍的に増加しました。ひらがなの読み書きなどを教える手習い塾がほとんどでしたが、「往来物」などの教科書も普及し、一般民衆教育に有効な効果をあげ、当時の世界のなかではもっとも高い民衆識字率を持っていました。諸外国では貴族や上層の学識層を除く民衆の識字率が低かったのに対し、日本の識字率の高かったことは、江戸から明治への変革が比較的スムーズに移行した要因のひとつに挙げられるでしょう。

 明治初期に新政府文部省が教育制度改革を目指して行った調査では、全国に16000ヶ所を越える寺子屋が設置されていたそうです。現在の小学校数は全国に約2万校ですから、数だけから見たら、江戸時代の教育機関もそうひけをとっていません。明治時代の小学校の中には、寺子屋の施設をそのまま小学校としたところも数多くありました。寺院の建物をそのまま小学校としたところ、民間の手習所を小学校としたところが、明治政府設置小学校の7割を占めています。

 明治政府にとって「近代国民育成」のため、「教育」は最重要の課題でした。「藩民から国民へ」の変化は、「学校」という制度を定着させることによって成り立つと考えられました。ことに地方では学校の建物を通じて、目に見える形で「新しい時代の新しい教育」が人々に示されたのです。全国各地に学校新築の機運が広がりました。

 地元の大工たちは、伝統工法の技量のかぎりを尽くして、真新しい校舎を立てました。
 各地に次々と建設された学校や官庁の建物は、ベランダやバルコニー、両開きのガラス窓、鎧戸式雨戸、塔楼を備え、新時代をあたりに示しました。

 松本市の旧開智学校の建物は、東京小石川に建てられた旧医学校(現東京大学総合研究博物館小石川分館)の外観を参考にしたと言われています。
 開智学校建設の白羽の矢が立った大工棟梁、立石清重(1829-1894)は、1875年1月、自費で上京しました。息子の立石清吉は医師をめざしており、地元の蘭医に教えを受けたのち東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学していました。

 清吉在学当時の医学校は、新校舎の設計中でした。一学生にすぎない清吉がどのようなツテをたどったのかは不明ですが、清重は設計段階の医学校校舎の外観や構造を知ることができたのではないかと推測されます。清重は、1873(明治6)年に神田錦町で新築なった開成学校(現・東京大学)を見学したほか、横浜の西洋館なども見たそうです。

 ひと月半の西洋建築見学から郷里に戻った清重は、さっそく「開智学校新築仕様帳」を提出し、舶来品の扉把手(ドアノブ)窓ガラスなどを東京から取り寄せました。
 医者になろうとしていた息子清吉が18歳の若さでなくなってしまったあとも、清重は松本裁判所、大町裁判所、筑摩県師範学校、東筑摩中学校、東筑摩高等小学校、長野県会議事堂などを建設、長野県の近代建築に腕をふるいました。

旧開智学校 立石清重・佐々木喜十 1876(明治9)


旧開智小学校玄関
 洋風の建物の玄関には、龍の飾りが置かれ、独特の和洋折衷の意匠をほどこしています。

東京都文京区小石川 旧医学校


現在の東京大学総合博物館小石川分館(旧医学校)


<つづく>
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ぽかぽか春庭「棟梁たちの明治」

2013-10-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/10/12
ぽかぽか春庭アート散歩>近代建築めぐり2013(2)棟梁たちの明治

 「擬洋風建築」と呼ばれている、明治の大工さんが建てた洋風建築は、外観こそ塔楼やバルコニー、洋風窓などを備えた「見た目は洋館」ですが、内部の構造は、長年の大工修行を重ねて身につけた伝統工法が使われています。

 新潟県議会議事堂(現・県政記念館)を1883(明治16)年に建てたのも、大工の星野総四郎でした。県令(現在の県知事)永山盛輝が議事堂建設を命じたとき、星野は棟梁として意気盛んな年頃36歳でした。

旧新潟県議会議事堂正面


旧新潟県議会議事堂入り口

旧新潟県議会議事堂裏側


 星野はその後、関西で鉄道省関連の建設、鉄道敷設などに従事し、鉄道省を退いてからは新潟に戻り再び建築を請負いました。最晩年の仕事として、東京下落合の御留山にあった相馬子爵邸を建てたのですが、残念ながら相馬家が1939昭和14)年に所有地を売却した際に解体されてしまったそうです。
 星野総四郎の仕事として現在も見ることができるのは、現在の憲政記念館のほか残っていないようですが、相馬子爵邸などの写真はネットでも見ることができます。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-07-13

 新潟市郷土資料館みなとぴあ内の旧新潟税関庁舎のほうは、設計施工が誰だったのか、資料が残されていないようです。1896(明治29)年竣工




 私が「建築探索」という歩き方があることを知ったのは、藤森照信の一連の著作によります。最初に読んだのは『建築探偵の冒険・東京編』ちくま文庫(1989)だったと思います。それまでは、「文学散歩」が中心で、「一葉の引越し先をたどる散歩」や「荷風の日和下駄散歩」などを楽しんでいました。

 現在は、建物散歩趣味の人も大勢いるし、ネット上にはさまざまな建築写真がUPされています。また、設計施行の建築家や大工棟梁の伝記なども、郷土史研究家らによってくわしく調べられています。建物の写真も、私がデジカメで手ぶれしながら撮った写真よりもよほど上手なものがたくさんUPされているので、私がUPしなくてもいいかなと思うのですが、私自身の記念のためにあげておきます。

 幸田露伴の『五重塔』に、上野不忍池のほとりに五重塔を建てた大工の心が描かれています。また、山口県瑠璃光寺の五重塔の建築をめぐって久木綾子『見残しの塔』で読むことができます。
 明治の洋風建築を請け負った大工さんたちの話もぜひ読んでみたいです。

<つづく>
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