2013/10/17
ぽかぽか春庭アート散歩>旧満州の建築スナップ写真(2)大連市の近代建築
1994年に長春市に赴任したときは、まだ古い建物がたくさん市内に残されていたにもかかわらず、ほとんど建物写真は撮影できませんでした。はじめての中国滞在で、最初のうちは緊張していてあまりお出かけもしませんでした。仕事にありつく条件が単身赴任だったため、休日は自由につかえたのに。
ようやく仕事にも慣れた夏になってからは、幼い娘と息子が妹に連れられて教員宿舎にやってきて、休日のお出かけも動物園や遊園地などになったこともあって、建物の写真など撮っていないのです。
長春駅は、1907年に旧満鉄の駅として開業しましたが、1992年に旧駅舎解体。1995年に新駅舎完成。1994年に長春駅を何度も利用したのに、建設途中の駅がどんな状態だったか、記憶にありません。旅に出ることに心が集中したこともありますけれど、1994年ごろは、駅の周囲、駅の中ではカメラなぞを出してのんびり写真を撮影する雰囲気ではなかったという事情もあります。荷物をかかえて、列車に乗り込むまで、ごった返す人ごみをすり抜けるのは至難の業でした。当時は行列を作って並ぶという社会習慣は、中国に存在しませんでした。何かことあると、わっと団子になって早い者勝ち。(留学生の話だと、中国では今でもそう変わらない光景で、日本に来て最初にびっくりすることは、トイレ前や駅のホームの整然とした行列だとか)
1907(明治40)年から1945(昭和20)年まで南満州鉄道(満鉄)が中国東北部の鉄道を運営していました。大連新京線(連京線)は、日本租借地の関東州大連市と満州国の首都新京(長春)を結ぶ鉄道路線でした。大連駅、瀋陽駅などが、建設当時の姿で残っています。
☆大連駅 1937(昭和12)年竣工。設計者:満鉄技師の太田宗太郎(外観の雰囲気は、上野駅に似ています)
大連市・沙河口駅(さかこうえき=シャーホーコウ ヂャン)は、中華人民共和国遼寧省大連市沙河口区にあります。1909年に開業して以来、改修はされていますが、現在も現役の駅舎として利用されている建物です。
満鉄の建築物に詳しい人がいたら、この沙河口駅の設計についても知ることができると思うのですけれど、このとき、この駅を案内してくれた友人も「日本が建てた古い建物」という以上のことは知りませんでした。
☆沙河口駅
2007年に妹モモとその長女といっしょに大連ですごしたときは、旧ヤマトホテル(現・大連賓館)のスィートルームに宿泊。玄関の上に位置する部屋だったので眺めがよく、ホテル前の中山広場のようすがよく見えました。
(1994年、中国に最初に来たとき、中山なんとかという名称の場所があちこちの町にやたらに多いので、中国に中山さんが多いのかと思っていたら、孫文(1866 - 1925)の号が中山。建国の父「孫中山」を記念しての命名でした。一通りの近代史現代史を勉強して出かけたつもりでも1994年ごろは、孫文は「孫文」としか知らなかった。中国について深くは理解していなかったなあと思います)。
☆旧ヤマトホテル(現・大連賓館)1914
1994年の夏休みに10歳の娘と5歳の息子の世話係をしてくれた女子学生が2007年には大連理工大学の先生になって、私と妹を案内してくれました。2009年には准教授。万年非常勤講師の私、順調に出世する彼女に、もう大連のガイドを頼むのは申し訳ないと言ったのですが、2009年も大連をあちこち案内してくれました。水族館とか海岸とか、彼女にとって「ここが大連の有名なところ」というのを案内してもらい、大連名所はあらかた連れて行ってもらい、ありがたかったです。でも、彼女は建築には興味がなかったので、建物の前で止まることはせず、移動中の車中から撮ったものが多くて、ぶれている写真ばかりなのが残念。1994年に2度、2007年に4度、2009年に3度訪れた大連ですが、これぞという写真がありません。もし、次に機会があったら、もうちょっと建物の写真を上手に撮りたいと思います。
大連賓館の前の中山広場を取り囲んで、旧満州時代の建造物がたち並んでいます。
☆旧大連市役所(現・中国工商銀行大連市分行)1919
中央の建物が、☆旧大連民政局(警察)(現・遼寧省対外貿易経済合作庁)1908竣工 設計者:前田松韻 1922年からは大連警察署として使用された。
☆旧南満州鉄道本社(現・大連鉄道有限責任公司)
移動車中からの撮影なので、斜めになってしまいました。中央の赤いひらひらは、広告宣伝の垂れ幕かなにか。
☆旧満鉄大連医院(現・大連大学附属中山医院)1925
☆大連市街
右側に見えている丸いドームがロシア租借地時代の建物かと思ってシャッターを切った一枚ですが、やはり車中からなので、タイミングがずれ、ただの街中風景になりましたが、この景色も今では変わっているかもしれないので記念に。
ついでに☆大連郊外の農家(昔を思えば、農家も豊かになってきました)
中国の東北部を語るとき、中国との15年戦争といわれる長い不幸な時代のこと、1931年建国の旧満州(中国では偽満州)のことを抜きにはできません。
しかし、日本が建てた「近代建築」が中国の町で今も現役で、大学校舎や病院の建物として役立っているのを見ると、「新しい都市を築こう」と意欲を燃やして都市計画を行い、当時の建築技術の限りをつくして建物を設計した技術者や建設に携わった人々の心意気を感じるのも事実です。
どの歴史にも光と影があります。旧満州の近代建築にも、今なお確固としたたたずまいを残して人々の役に立っている光の部分もあるし、不幸な時代の暗い影を思い出してしまうという人もいるだろうと思います。
「古くなったから建て替える」というだけでなく、古いままでも役に立つ方法を見つけて欲しいです。長春に残っている建物は、帝冠様式などの「帝国の威信を誇示するため」のいかめしい建物もありますが、大連中山広場の旧大連市民政局(1922年からは大連警察署)の外観などは、「西洋人に、アジアも西欧に劣らないことを見せちゃる!」とでも言いたげなコケティッシュなかわいらしさを感じるのです。(このコケティッシュとは、フランス語のcoquettishではなくて、日本語カタカナ語として使われているコケティッシュです)
大連市内の満州煉瓦会社製のレンガ、山東省産の薄紅色花崗岩を使って建てられている警察署が、「ちょいと、そこのお兄さん、あんた、挙動不審よぉ。匪賊の一味かなんかじゃないの?ちょっとケーサツ寄ってかない?あたい、可愛がてあげるわん」と、言っているような。むろん、可愛がられたあと命の保証もないのが、「かわコワイ」もんの恐ろしいところ。
願わくは、中国の人々が、これらの建築遺産を保存することを。古い建物が観光資源になることに気づいた人々が保存運動を始めたというニュースも聞きます。実際、大連市の中山広場中央に立って周囲を眺めると、広場を取り囲む建築群は、ある感慨を呼び起こす形の美しさを持っています。ひとつひとつの建物の様式など、不統一であるにもかかわらず。
私の中国史理解は、1994年よりはちょっとは深まったものの、まだまだ浅いものです。だから、両国の歴史についてあれこれ言うこともできないと自戒しています。「日本が中国の大地を戦場としたことは事実だが、多くのインフラを近代遺産として残した」などの論によって、歴史を正当化しようとも思いません。
しかし、世界でもっとも優秀な飛行機を作りたかった男の情熱を、「完成した飛行機が戦闘機として使われたゆえに」否定してしまうのは、違っている、と感じるのと同様に、為政者が植民地支配しようとした、傀儡帝国を建設した、ということによって、「将来まで残るような建物を立てたい」という情熱を燃やした人々がいたことを否定するのも間違っている、と感じるのです。
「よいものを建てて、後世に残そう」とした人々がいたことを、忘れないでいたいです。
<おわり>