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ぽかぽか春庭「2019年5月目次」

2019-05-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


20190530
ぽかぽか春庭2019年5月目次

0502 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記新緑令和(1)ツツジと一万円

0503 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>5月のことば(1)第3章確認

0504 2019十九文屋日記新緑令和(2)ピアノとクラリネット
0505 2019十九文屋日記新緑令和(3)ゴスペル&パイプオルガンとチェロ
0507 2019十九文屋日記新緑令和(4)みどりの日散歩
0509 2019十九文屋日記新緑令和(5)みどりの日散歩その2
0511 2019十九文屋日記新緑令和(6)旧新橋停車場
0512 2019十九文屋日記新緑令和(7)母の日に
0514 2019十九文屋日記新緑令和(8)母業卒業&留年 
0516 2019十九文屋日記新緑令和(9)東京楽友協会交響楽団第106回定期演奏会

0518 ぽかぽか春庭シネマパラダイス>樹木希林映画(1)あん
0519 樹木希林映画(2)万引き家族
0521 樹木希林映画(3)日日是好日
0523 樹木希林映画(4)モリのいる場所

0525 ぽかぽか春庭アート散歩>薫風アート(1)ギュスターブ・モロー展その1 in パナソニック美術館
0526 薫風アート(2)ギュスターブ・モロー展その2 in パナソニック美術館
0528 薫風アート(3)藝大名品展 in 東京芸大美術館
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ぽかぽか春庭アート散歩「藝大コレクション展2019」

2019-05-28 00:00:01 | エッセイ、コラム

藝大美術学部正門の奥のコレクション展ポスター

ぽかぽか春庭アート散歩>薫風アート(3)藝大コレクション展2019 in 東京芸術大学美術館

 5月18日、上野散歩に出かけました。国際博物館協会が制定した「博物館の日」なので、上野動物園(ここも博物館のひとつ)や東博・科博などは、通常展無料になります。

 初めに東京芸大へ向かいました。藝大コレクション展2019は、美校/藝大が所蔵してきた作品の公開ですが、特に、これまで所蔵されていながら注目されてこなかった作品を展示するということなので、楽しみに入館、、、、おっと、こちらは無料にはなっていませんでした。藝大の付属施設なので、博物館協会のお仲間じゃなかったみたい。まあ、大人430円ですから、帰りに上島珈琲でコーヒーでも飲んで休んでから、と思ったコーヒーを我慢することにして入館。展示は地下一階の一室のみ。前期と後期で作品入れ替えがあり、後期作品のみの閲覧になりました。

 入場するとすぐ目の前に、どど~んと大きな作品。今回の展示ポスターにもなっている、ラファエロ・コラン(1850-1916)の「田園恋愛詩」です。


 コランは、草創期美術学校のボス黒田清輝の師匠です。
 黒田にとっては、弟子たちに自分が学んだ師匠の絵を見せることも、重要な指導だったのだと思います。
 コランの作品は、何点か黒田清輝記念館で見たことがあります。フランスではなかば「忘れられた画家」であり、パリで回顧展などが開かれた話も聞かないという画家ですが、明治の洋画壇形成期にフランスに留学した、黒田清輝・久米桂一郎・岡田三郎助・和田英作らを指導し、明治後期の洋画に大きな影響を与えました。
 
 「田園恋愛詩(1882)」は、ダフニスとクロエをモチーフにしており、元は府中美術館の所蔵作品だった、ということなので、黒田がパリから持ち帰った師匠の絵、というわけではなさそうです。黒田がフランス留学する直前に完成した絵ですから、留学中に一度くらいは目にしたことがあったかもしれません。

 花咲く木の近くですごす初々しい恋人同士、、、、のはずですが、ダフニスがクロエの腕にすがっているかのように見えるにもかかわらず、目をつむったクロエの顔は無表情。それもそのはず、コランは、能面を思い浮かべてクロエの顔を描いたのだそうです。
 印象派が優勢になっていた当時のフランス画壇で、古典派のコランは「流行おくれ」と思われてきた画家でした。コランがはるばる日本から留学してきた黒田らを弟子にしたのは、黒田が新興の印象派よりもアカデミックな古典派に学ぼうとしたことと、コランが当時盛んだった「ジャポニスム」を作品に取り入れたいと思った双方の思惑が一致したからかもしれません。

 印象派による浮世絵模写は、マネ・モネ、ゴッホらの作品が残され、日本での展示もされていますが、コランのジャポニスム傾倒作品を見たことがありません。フランスでは忘れられた画家になっていたため、コランの浮世絵模写などは散逸してしまったのかも。

 弟子の黒田清輝(1866-1924)の滞仏中(1884-1893)の作品「婦人像(厨房)」が、コランの「田園恋愛詩」の隣に展示されていました。
 黒田は、パリ南東70キロほどに位置する小村グレー・シュエル・ロワンで過ごすことを好み、農家の娘マリア・ビョーをモデルにした作品を描きました。
 黒田は、ビョー家で「婿」として遇され、マリアと公認の仲となってすごしました。マリアは「読書」「編み物」などのモデルとして知られています。

 婦人像(厨房)(1892)



 森鴎外がドイツ留学を終えて帰国した後、ひと悶着が起こりました。恋しい森林太郎を追って来日した舞姫エリス。すったもんだの末、森家によって、エリスはドイツへ帰国させられました。
 しかし子爵家嫡男の清輝が帰国したあと、「婿」扱いだった農家ビョー家との間には騒動がおきなかったところからみると。貧乏士族森家とはことなり、資産家黒田家では、ビョー家にしかるべき手厚い「滞在中に世話になった謝礼」(つまり手切れ金)を手当てしたのじゃないかなあと、これは、貧乏人ひがみ空想です。

 私の世代の美術教科書には必ず「明治初期の洋画」として載っていた高橋由一の「鮭」が掲載されていました。高橋由一(1828-1894)は、日本画を学んだのち、幕末に来日していたワーグマン(1832-1891)に38歳で弟子入り。50歳のときにはフォンタネージに学びました。
 私は、高橋の『花魁』(1872)を見たときはあまり感動しませんでした。花魁がちょっときつめの顔に描かれていて、由一さんは花魁に対して「美」を感じなかったのかとさえ思います。モデルの花魁は「私はこんな顔じゃない」と、気に入らなかったそうです。
 ゴッホは雑誌に載った渓斎英泉の花魁の絵を見て、1887年に「ジャポネズリー:おいらん」を画いています。由一さんの花魁はおそらくパリには伝わっていなかったでしょうね。

 しかし「鮭」は、美術教科書の刷り込みがあるから、「わぉ、ほんものだわ」と思います。鮭の肉質も皮もリアルです。

 黒田清輝は、高橋由一の門人細田季治に、1878年に絵を習ったのが絵画修業のはじめでした。高橋は、明治画壇のボス黒田清輝の先生の先生ですから、「明治初期の洋画家大先生」として洋画史に残りました。

 一方、外光派黒田らがフランス留学から帰国した後、「旧派」として画壇から追い払われたのが五姓田義松(1855-1915)です。五姓田は、わずか10歳でワーグマンに入門。翌年に入門してきた高橋由一よりも28歳年下の「兄弟子」でした。最初期にフランス留学を果たし、帰国後は明治天皇の肖像画を描き明治天皇の巡幸に同行して各地の絵を描くなど活躍しました。しかし、黒田清輝ら新帰朝者らが明治洋画を席捲すると、しだいに片隅に追いやられます。

 2015年に見た「没後100年五姓田義松展」の感想はこちら
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/4ab9b32bdb111b7812a2b18c141d1f2b

 五姓田は、明治洋画史にきちんと残すべき画家でした。しかし、晩年はみやげ物の絵を描く生活。黒田に「絵を買ってほしい」と懇願する書簡も残されていますが、不遇なまま60歳でなくなりました。

 五姓田義松「操芝居」1883


 私は「貧乏」とか「不遇のまま世を去った」というところに気持ちを入れ込みすぎるので、子爵にして貴族院議員、洋画壇のボスであった黒田清輝に対しては、少々点が辛くなります。日本洋画に大きな足跡を残した黒田清輝ですし、遺産によって「黒田清輝記念館」も建てられていて、無料観覧できるのでありがたいと思ってはいるのです。

 「イギリスに学んだ画家たち」が特集されていました。そのひとりが、1904年に渡英し、1907に帰国した原撫松(1866-1912)。
 滞英中は、名画の模写に励み、その技量は高く評価されたということですが、帰国後、作品を発表する機会に恵まれず47歳で病没。作品の多くは肖像画であるため、子孫が所蔵を続け、美術館などに出ることは少なく、教科書に載る画家にはなりませんでした。私は、東京国立博物館で1点、原撫松の作品を見たことがあるだけです。

 原撫松「裸婦」1909(明治39)


 私は、不遇とか無名とかに心寄せてしまうふしがあります。
 この藝大コレクション展で特集されていたもうひとつ。起立工商(きりゅうこうしょう)会社工芸図案。
 サイン入りの図案もありましたが、半分以上は「作者不詳」。輸出用の陶磁器や七宝作品のためにせっせと朝から晩まで図案を書いていた人々。無名の工芸者。その作品を見て明治の工芸の技量の高さと、その工芸に携わったあまたの「無名の人々」に思いをはせました。

 起立工商会社図案のひとつ


<つづく>
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ぽかぽか春庭「ギュスターブ・モロー展 in パナソニック汐留美術館その2」

2019-05-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190526
ぽかぽか春庭アート散歩>薫風アート(2)ギュスターブ・モロー展 in パナソニック汐留美術館その2

 パナソニック美術展「モロー展」その2
 第2章以後の「宿命の女」たち。
 モローがこの「宿命の女たち」を、神秘的にも象徴的にも描き出しえたのは、彼が現実社会では女性と「性愛」によって結ばれることはなかったからかもしれない、と、これも勝手な想像です。
 ギュスターブは、恋人と自分の連れ立つ姿を、「ふたりが翼を持つかわいい天使の姿で雲の上を歩いている」として描きました。ギュスターブにとって、ふたりがともに過ごすのは「心の中の雲の上」だったからではないでしょうか。ふたりですごすとき、ふたりは天使なのです。

 雲の上を歩く翼のあるアレクサンドリーヌ・デュリューとギュスターブ・モロー


 第2章は「出現とサロメ」第3章は「宿命の女たち」第4章「一角獣と純潔の乙女」
 モローが描いた神話や聖書の女性たち。
 スフィンクス、サロメ、ヘレネ、レダ、バテシバ、デリダ、サッフォー、など、、、、

 馬に変身したゼウスに惹かれるエウロペ

 ギリシア神話では、エウロペはゼウスの絶倫によって、3人の子をもうけます。馬が光背を帯びているので、この結婚が「聖婚」であることはわかりますが、それにしても、陰嚢がでかい。

 白鳥に変身したゼウスに陶酔するレダ

 
モローは、レダの陶酔を「聖婚」へと向かう神聖な夢、と述べています。
 神話に基づく神との聖なる結婚、というのはわかりますが、、、、
 19世紀末、レダと白鳥のからみの図は、バチカン方面やビクトリア朝前後の「男女の性愛を描いてはならぬ」というご法度をかいくぐって、女性が陶酔するようすを描くには、相手が白鳥のほうが規制がゆるい、という大人の事情があったみたい。よく知らないけど。
 現代では、お笑い芸人たちが腰に白鳥の首を結わいつけて、上下に腰をゆらしながら白鳥の湖の曲で踊ったシーンを覚えていますが、あれを見ても陶然とはならない。

 ヘラクレスと女王オンファレ


 オンファレは、最強の男ヘラクレスを奴隷として使役し、「つよい男よりも強い女」として、奴隷ヘラクレスをしもべとして扱いました。ヘラクレスは奴隷として女装させられ、糸紬などの女の仕事をさせられます。使役されるヘラクレスの後ろにキューピッドがいるのは、オンファレとヘラクレスの間には「愛」も生まれてくるからだと
わかりますが、モローには、18世紀19世紀に「オンファレ&ヘラクレス」のからみで描かれている他の図象のようには描けなかった、または描かなかったと思います。なにせギュスターブの愛は「天使の愛」ですから。

 参考図版「ヘラクレスとオンファレ」byフランソワ・ブーシェ1737(プーシキン美術館蔵)


 買い求めた図録の表紙にもなっており、モローの作品のなかでももっともよく知られた「出現」も、ヨハネの首の幻影と対峙するサロメの強い意志が描かれています。19世紀に好まれたのは、七つの薄布を1枚ずつ脱いでいくと描いたオスカーワイルドの戯曲によるエロチックなサロメでしょうが、モローの描くサロメは、どれも託宣をつげる巫女のようなたたずまいです。

 チケット売り場横のロッカー前のポスターは撮影OKでしたが、館内は撮影禁止。ただし、展示を回って出口にくると、モロー美術館の中の、階段の写真があり、写真の前に椅子。ここは、撮影できます。SNSなどへの掲載もOK。モロー展を宣伝してください、という文言がありました。でもね。モローの作品ではなくて美術館写真の前で撮った絵柄で観客を呼べるとしたら、七つ目のベールを脱いだサロメでないと無理なんじゃないかしら。

 この写真見て、「ああ、モロー展に行ってみたい」と思う人がいたら、すごいと思いますが、観客は呼べそうにない。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「ギュスターブ・モロー展 in パナソニック美術館 その1」

2019-05-25 00:00:01 | エッセイ、コラム

 2019モロー展サロメと運命の女たちポスター

201905月25
ぽかぽか春庭アート散歩>薫風アート(1)ギュスターブ・モロー展 in パナソニック汐留美術館

 私がはじめて見た「画集や絵葉書の絵ではない本物の洋画」は、中学3年生のとき西洋美術館で見た「ギュスターブ・モロー展」でした。

 なぜ、この絵を見たいと思ったのか、まったく覚えていません。西洋美術史を教えてくれた中学校の美術教師松岡先生が教室で授業中に勧めたのかもしれません。 
 前橋の叔父の家までなら、子どもたちだけバスに乗ってで出かけることを許してくれていた母も、私が上野に行って絵を見てきたいといったとき、すぐには承知しませんでした。しかし、高校生2年生の姉といっしょなら、まあ大丈夫だろうと許してくれたので、絵にはさほど興味のない姉といっしょに上野へ行きました。

 西洋美術館の記録では、このときの「ギュスターヴ・モロー展」の会期は、1964(昭和39)年11月26日-1965(昭和40)年1月31日。
 私と姉はたぶん、冬休み中に行ったのだろうと思います。

 1965年モロー展図録


 1985年に神奈川近代美術館などで巡回したモロー展は、見ていません。娘が2歳。私は2度目の大学に入った年ですから、展覧会に行く余裕はなかった。

 次にモローを見たのは、1995年だったと思います。同じく西洋美術館。1995(平成7)年3月21日- 1995(平成7)年5月14日。
 1995年の4月から国立大学に出講し始めたので、3月の春休み中に行ったのだと思います。

1995年モロー展図録

 2005年のBunnkamuraの美術館のモロー展、図録古書の絵のいくつかを見ると、見た覚えがあるのですが、本当に見たのかどうか、記憶があいまい。

 2005年モロー展図録


 というモロー遍歴を経て、2019年パナソニック美術館の「ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち」展は、14年ぶりの日本開催モロー展。
 前回2005年は、パリのモロー美術館改修中の貸し出しだったということです。今回のパナソニック美術館への海外貸し出しが行われたのは、モローの弟子のひとりがルオーであり、パナソニックはルオー収集を中心にしていて、常設展示のルオー室がある美術館だからです。

 2013年にパリのギュスターヴ・モロー美術館協力のもと、同館で「モローとルオー -聖なるものの継承と変容-」展を開催した経緯から、モロー美術館とのかかわりができ、今回モローだけの展覧会が実現したのだそうです。(担当学芸員:萩原敦子)
 ともかく、大好きなモローを見ることができて、よかったよかた。

 招待券で入ったときは音声ガイド借りたり図録を買ったりしていいけど、チケット自腹のときは我慢する、という自分ルールも破って絵葉書とともに図録も購入。

 2019モロー展図録2400円


(以下の画像は、図録を写真にとったものなので、画面にゆがみがあります)

 次が14年後なら、私は84歳になっている。次に見ることができるかどうかも先のことはわからないのだから、図録買っておきました。
 今回はパナソニック美術館受付で「シルバー券900円」を買うまで10分間、じっとチケット購入列に並んで待ちました。入場制限しているだけあって、中はそれほど混みあってはおらず、一列目で見ることができます。私が見終わって外に出てきたときは、待ち時間は40分になっていました。

 招待券が手に入らないとき、いつもぐずぐずためらっていて会期最後のほうになって見に行くのに、5月3日に見たのは、5月5日にNHKの日曜美術館で「モロー展」が特集されることがわかったから。どの展覧会も、日美で放映があると、どどっと観客が押し寄せる。こりゃ5月5日の前にいかなきゃ、と思いました。5月1日2日は仕事をして、4日はみどりの自転車散歩があるので、3日に。

 15歳のころから55年間ファンであり続けた画家、ギュスターブ・モロー(1826-1898)。4月18日が没後121年目の命日。
 (日本画家だと、5歳から65年間ファンであり続けた堀文子、今年2月に100歳でなくなりました。残念。去年白寿展を見ておいてよかった
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/f0a72e245eade765d77f237171390875)

 モローは、ギリシャ神話や聖書の一場面を描くことが多い画家でしたが、単に物語の絵解きとしての画面構成ではなく、精神的な世界、人の情念・理念を描き出そうとしました。
 「象徴主義」の画家と呼ばれ、20世紀絵画の礎となる表現を生み出した画家のひとりです。また、マティスやルオーなど、教え子たちに多大な影響を与えた美術教師でもありました。

 モロー24歳の自画像


 今回パリのモロー美術館からやってきたのは、モローの作品の中でも「女性」にテーマとした作品。
 運命の女ファムファタルと呼ばれる、人の運命を左右する美を持った女性たちを描くことは、洋画の一大テーマでもあります。

 第1章「モローが愛した女たち」
 モロー最愛の人は、母のポーリーヌ。モローは母が亡くなるまでに何点ものポーリーヌ肖像を描きました。(素描だけでも40点以上)
 モデル代がかからないから、と言えばそうなのですが、息子ギュスターブの母への愛は、「生涯、結婚しなかった」というのもわかる気がするほど。はっきり言えばマザコンです。ギュスターブは、母に対して恋文かと思うような手紙を何通も出しています。

 1859年、デッサンを教えることからつきあい始めた、恋人アレクサンドリーヌ・デュルーとは、30年近く身近な人として親しんだのに、ついに結婚しなかったのも、アレクサンドリーヌが「修道女のような人だった」という評などを読むと、ギュスターブにとって、恋人というより、母や13歳で亡くなった妹カミーユと同じように、精神的な結びつきによって絆を結んでいたと思います。

 30年間恋人であったアレクサンドリーヌ


  ギュスターブ58歳のとき、最愛の母ポーリーヌが82歳で死去。
 母は、晩年耳が聞こえなくなっていたために、ギュスターブは文字による筆談でコミュケーションをとるようになりました。そのため、新作の自作絵画について、ことこまかに説明の手紙を書いています。
 はからずも、自作解題が大量に残されました。その手紙も展示されていました。

 母の死に大打撃を受けたギュスターブがかろうじて立ちなおれたのは、アレクサンドドリーヌのおかげですが、母の死から6年後には、アレクサンドリーヌも死去。

 私の勝手な感想。今回、母ポーリーヌと恋人アレクサンドリーヌの肖像画を何枚も見たことで、これまでとは異なるギュスターブ像を感じました。
 ギュスターブにとって、母ポーリーヌも30年ともにすごした恋人アレクサンドリーヌも、「信仰の対象ともいうべき聖なる者」だったのではないか、ということ。人が人を愛するパターンはさまざまにあっていい。

 ギュスターブの愛は、人が聖母を愛するように、女性を讃仰してやまぬものであったろう。人が聖母に祈りをささげることで母の愛に包まれるように、ギュスターブもポーリーヌやアレクサンドリーヌの愛に包まれて過ごしたのだろう、と思うのです。ギュスターブは自身の遺言として「(神に召されるときは)アレクサンドリーヌに手を握っていてほしい」と書いたのですが、10歳若い恋人にも先立たれることになりました。

 アレクサンドリーヌの死の年1890年にギュスターブが描いたのは、「パルクと死の天使」。
 馬に乗り、人を死の世界に導く死の天使と、人の運命を司るパルク。馬のたずなをとりうなだれた姿で描かれたのは、人の運命の糸を断ち切る役目のアポロトス。



 パルク~は、これまで何度か見たことがありましたが、母ポーリーヌの肖像写真やあり句サンドリーヌの素描などは、はじめて見ました。

 母も恋人も失った孤独な老画家は、国立美術学校の教師となり弟子の育成に力を注ぐようになりました。アンリ・マティス、ジョルジュ・ルオーほか、20世紀を代表する画家を育てたほか、自宅を美術館に改修し、母やアレクサンドリーヌの遺品や自分の作品を飾りました。

 アレクサンドリーヌの墓はギュスターブが建てました。両親の墓をデザインしたように、自身でデザインして、AとGを組み合わせたイニシャルを刻み、遺産の一部はこの墓の維持費にあてられています。しかし、アレクサンドリーヌとの間の書簡は、ギュスターブの手によって焼却されてしまいました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「モリのいる場所・へタも絵のうち」

2019-05-23 00:00:01 | エッセイ、コラム

「モリのいる場所」山崎努と樹木希林

20190523
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>樹木希林映画(4)モリのいる場所・へタも絵のうち

 熊谷守一(もりかず1880-1977)の絵画、「生活をきりつめても版画の一枚も購入したい」と思うほどの特別大ファンじゃないけれど、豊島区の熊谷守一美術館も2度訪問しているので、小ファンくらいにはなるのかもしれない。

 映画『モリのいた場所』を見たあと、ずっと積ン読にしてあった『ヘタも絵のうち』という守一自伝があったのを思い出して、読みました。1971年、守一が91歳のときに日経の「私の履歴書」に連載されたものです。

 また、映画のノベライズ小説「モリのいる場所」(小林雄次2018)が百円本になっていたので、5月12日に購入。たいていの映画ノベライズ本はつまらない文章で、途中で読むのをやめてしまうことが多いのですが、100円なら途中でやめても惜しくないと思って、ノベライズ嫌いなのに、買いました。小林雄次の小説化、私の好みの「周囲の人がそれぞれにその人物を語る」という形式をとったおかげで、最後まで読み切りました。蟻んこや庭が語り手になっている章もあって面白かった。

 以下の感想は『モリのいる場所』と『ヘタも絵のうち』と『ノベライズ本』、美術館で見た守一の生涯解説などの感想がごちゃまぜになっているものですから、映画の評とはいえないかもしれませんが、、、、。

 2017年の熊谷守一美術館訪問記
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/c446f39826828f105bac106afb717393

 ヘタも絵のうち(平凡社ライブラリー2002・原著日経1971)


 熊谷守一美術館は、守一の死後、次女の榧(かや 1929年~ )が残された敷地に美術館を建て、作品とともに豊島区に寄贈したものです。榧は今年90歳。父親と同じく画家として生き、父と同じく長生きです。熊谷守一美術館の1階は、榧作品の絵画や陶器の展示室です。

 守一は、70歳ごろから97歳で亡くなるまで、家の庭からとんど外に出ずに過ごした、という仙人のような暮らしを続け、ひたすら植物や虫や雲を眺めて、絵を描きました。叙勲(勲3等)も文化勲章も受賞辞退したことでも有名です。

 映画は、そんな守一の朝から夜までの一日を描いています。1974(昭和49)年7月10日の一日の出来事。
 樹木希林は、山崎努演じる守一の妻秀子。
 秀子は前夫と離婚してまで19歳年上の守一と結婚し、56年間の結婚生活中、夫を支え続けました。

 結婚生活の前半は、絵描き以外のことができないのに絵を描こうとせず極貧であった夫と5人の子を抱えて、貧乏故病気の子を医者に見せてやることもできなくて、5人のうち3人まで亡くしています。絵が売れるようになったあとも、来客をさばき守一のへぼ碁の相手を務め、いわば「熊谷守一」という人物の総合プロデューサーのような存在でした。

 映画冒頭に、昭和天皇が守一の絵を見て「これは何歳の子どもが描いた絵か」とご下問アソバすシーンがあります。展覧会でのことだったかどうかはわかりませんが、昭和天皇のことばは事実らしい。林与一が演じる姿、顔はそれほど似ていませんが、猫背で立つ姿などそっくりで、おもしろかった。

 子どもの絵、と評された絵はこれ

 座布団と櫛?と思いましたが、タイトルはのしもち。櫛と思ったのは包丁のようです。

 「売ってやろう」とか「賞をとろう」なんぞという邪念は少しも感じられない絵だから、天皇も純粋に子供の絵と感じた。何事にも、お金や名誉なんてことにみじんも関心のない純粋な心で絵を眺めた人の感想でしょうから、守一にとっては、「誉め言葉」だったろうと思います。
 私が絵をみるときはいつだって「これって、画廊で買うならいくら?」と思ってしまう。この鑑賞法では、いくら誉めちぎったところで守一は喜ばないはず。

 映画には出てこない実像の秀子。
 大江秀子(1898-1984)は、山林地主で豪商の裕福な家庭に生まれ育ち、1920(大正9)年に原愛造と19歳で結婚。大江家は遠縁にあたる貧しい画家志望の愛造に学資を支援する間柄でした。早くに両親を亡くした秀子は、大江家当主のオジのことばに従って結婚したのです。

 愛造の兄、原勝四郎も同じく画家で、画家仲間が集まる中に、熊谷守一もいました。守一は、自分の絵がそこそこ売れるようになると、画商に「原勝四郎の絵を買うなら俺の絵も売る」と言ってやるような間柄でした。
 守一は、親友の弟の若妻秀子より19歳年上。しかし、秀子と守一は互いにひかれあい、紆余曲折を経て守一42歳秀子24歳で結婚することになりました。その間に友人たちのさまざまな折衝があったようですが、映画の中では、熊谷家の家事を手伝っている姪の美恵ちゃんが「前の旦那さんのこと、嫌いだったの?」と質問したとき、秀子は淡々と「ううん、いい人だったわよ」と答えています。いい人だった愛造と別れてまでいっしょになった守一と
56年ともに暮らしました。

 地主で事業家、初代岐阜市長や衆議院議員を務めた守一の父親の死後、熊谷家は急速に没落し、守一は食べるものにもことかく極貧生活となります。秀子との間に次々に生まれた5人の子のうち、3人は病死してしまいます。

 映画の中では、長生きしたい、もっと生きたいという守一に、秀子が「あなたは長生きしたけど、うちの子たちはみんな早く死んじゃって、、、」とつぶやきます。このシーン、実は脚本にはなく、樹木希林のアドリブのつぶやきなんだそうです。
 すごいなあ、樹木希林。秀子を演じるにあたって、きっと守一の著作も秀子の記録もたくさん読んだんだろうと思います。子に先立たれた母の悲しみも、夫と添い抜く妻の強さけなげさもすべて体現している秀子そのままが、そこに存在していると思えました。

 長男黄(おう)は、守一を支えた親友の作曲家信時潔の長女はる子と結婚。末っ子の榧は、現在まで長生きし、熊谷守一美術館館長。しかし、次男陽、三女茜は幼くして病死。長女萬は、戦時中に食べものも満足でない中、勤労動員の過労により結核を患い、戦後すぐ亡くなりました。

 守一が文化勲章を断った理由が「これ以上人が来ると、かあちゃんが困る」。叙勲を辞退した表向きの理由「お国のために何もしていないから、もらうわけにはいかない」(守一は徴兵検査時に、歯が7本なかったゆえに丙種合格となり、日露戦争時に徴兵免除となっています。守一と同郷の同じ年頃の男性は、多くが日露戦争で戦死しているのだそうです。

 文化勲章には年金がつくから、と説得されても「かあちゃんがほしいならもらう」と答え、そのかあちゃんは「本人がいやだと思っているのに、私が欲しがっているみたいになったらいやだ」と、結局辞退。
 実は、守一の「人に等級をつけるな」という思想からの叙勲辞退であったと、周囲の人は見ています。

 映画前半、ここはオリジナル脚本と思うエピソード。
 「旅館の名前『雲水館』を看板に書いてくれ」と頼みに来た朝比奈(光石研)。信州を、自分の故郷岐阜県付知のような山奥で、東京に出てくるには2日かかりくらい遠いと思い込んでいるモリは、朝比奈の苦労を慮って揮毫を承諾。力を込めて書いたのは「無一物」。モリの座右の銘です。
 秀子は「最初に言いましたよね。自分の好きなことばしか書かない人だって」

 映画に出てくる家は、逗子市の「昭和からの古屋」を使っての撮影だったそうです。
 実際の守一の家は、秀子の実家から資金を融通してもらって建てたもので、秀子は夫のアトリエのために1932年(昭和7)に豊島区千早に自宅を建てました。赤貧を続けたモリ、52歳でようやく持った自宅アトリエ。
 秀子は、もらった建設資金の半分は、絵を売りこもうとしない夫をあてにしなくても暮らせるよう、生活資金にしたのだとか。家を建ててからさらに数年間、モリは絵を売る気にはならないのでした。

 モリが画家を志した20歳のときから、38年。秀子と結婚してから16年たってから、ようやくモリは自分の絵を売る決意をしました。
 秀子も、幼い子どもが病気になっても、医者にかけてやるお金もなかった生活で、よくぞ守一と56年間添い遂げたものです。

 樹木希林演じる秀子は、「池へ行ってくる」と言う94歳の夫に、洗濯ものを干しながら「はい、いってらっしゃい、お気を付けて」と送り出す。自宅庭の池なのに。
 その池は、マンション建設のために埋めることになると、「見知らぬ人」として熊谷家に出入りしていた男(三上博史)によって「不思議な宇宙への通路」という様相を持ちます。守一の夢なんだろうけれど、もともと仙人か天狗のような人だった守一の夢だから、現実かもしれないと思わさせられます。

 守一のまわりにいるコレクター役のきたろうや、写真家の藤田(加瀬亮)も、実在のモデルがいます。藤田のモデル写真家藤森武は、めったに写真を撮らせない守一を、藤森の師匠土門拳を受け継いで撮り続けました。
 ラストシーンでは、建設中のマンション屋上から守一家を撮影しています。

 映画は、1974(昭和49)年、モリ94歳のある一日、という設定。
 70歳のころから27年間、ほとんどの時間を家の庭の中だけで過ごした熊谷守一のすごした一日の、朝から翌朝までの24時間。
 淡々と日常が流れ、とくに大事件もおきないストーリーですが、とてもゆったりとした時間が流れ、ここちよい緑の風に吹かれる思いでした。

 妻秀子は、夫を見送ってから1984(昭和59)年、10年で夫のもとに旅立ちました。

 沖田修一作品、南極料理人(2009)キツツキと雨(2012)横道世之介(2013)は見ましたが、滝を見にいく(2014)モヒカン故郷に帰る(2016)は見ていません。そのうち見たいと思います。

 竹橋近代美術館での熊谷守一展(2017.12.1-2018.3.21)、3ヶ月の展示期間があったのに、行くことができませんでした。招待券が手に入らなかったから。
 2018年2月24日には、高畑勲(アニメーション映画監督)の講演(インタビューアー:藏屋美香・近代美術館企画課長=熊谷守一展企画者)があったのですから、見ておくべきでした。高畑勲の闘病について噂程度にしか知らず、この講演のあと2ヶ月で亡くなってしまうとは思っていなかった。講演を聞くためにも、展覧会チケット買うべきでした。

 古希を迎えるにあたっての一大決心。見たい展覧会は、無料チケット・招待状が手に入らなくても、見ておく。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「日々是好日」

2019-05-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190521
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>樹木希林映画(4)日々是好日

 若いころ、職場に茶道サークルがあり、お試しでお茶の稽古に出たことがあります。当時の職場の花たちは、よりよい嫁ぎ先を求めて、お茶お花料理といった「花嫁修業」にいそしんだものでしたから、女性の多い職場には、茶道サークル華道サークルなどがありました。

 英文タイピストという仕事を半年だけやっていたころのこと。専門職ですから、独身で仕事を続ける人もいました。タイプ室室長さん副室長さんは50代の独身女性。(定年は55歳の時代でしたけれど、20代の私の眼にはものすごく年取った人に思えていました)
 多くは「3年ほど勤めたら結婚退職する」というライフスタイルに、微塵の疑いもない花たちでした。

 お試しのお稽古、袱紗さばきを教わりましたが、一日でリタイアしました。第一、正座、私には無理。
 棗、きれいになっているのに、袱紗でわざわざ拭く?茶杓だって洗ってあるでしょう、といちいち引っかかっていたので、先に進むことは遠慮しました。

 (袱紗の手順を思い出しても、裏も表も定かでなく、自己流で薄茶をたてて飲むときは「横千家」とか「斜め千家」と名付けて茶筅をぐるぐるして飲みます。ようは、おいしくお茶が飲めればいいのだ、と思いましたので。

 今のように立礼が盛んな時代ではなかったし、とにかく形通りにお茶をたてていく手順のひとつひとつが、「なんじゃこりゃあ」と思ってしまいました。
 原作者の森下典子は、「世の中にはすぐにわかることとすぐにはわからないことがある」と会得し、習い始めた20代にはわからなかったお茶の心が、25年間お茶を習ってようやくわかってきた、と書いています。わたしは「すぐにはわからない」時点でやめてしまいました。樹木希林が演じた武田先生のような人に出会って、茶道の「心」を教えてくれる師匠だったら、続けたかもしれないけど。
 武田先生は「最初は形だけまねればいいのよ。そのうち形に心が添うから」と教え諭しています。 

 いっしょに映画を見たA子さんは、茶道もちゃんとお稽古した人だったので、映画の中の「茶道アルアル」のエピソードがひとつひとつ思い当たり、笑えたのでとても楽しかった、という感想。
 私は、初心者がしびれてひっくり返り、お湯だかお水だかを倒れた自分の顔で受け止めるシーンは大笑いしたけれど、「アルアル」にはならなかった。畳の縁を踏まないよう、畳を7歩で歩く、という所作も、若いころと同じく、「7歩でも6歩でもいいんじゃね?」と、感じたし、畳の縁を踏んづけたところで、お茶の味は変わらないと思いました。
 武田先生の「形から入って、形の器に自由な心を盛る」という教え、私には今でもわからないのかも。

 原作『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』は、
序章 茶人という生きもの
第一章 「自分は何も知らない」ということを知る
第二章 頭で考えようとしないこと
第三章 「今」に気持ちを集中すること
第四章 見て感じること
第五章 たくさんの「本物」を見ること
第六章 季節を味わうこと
第七章 五感で自然とつながること
第八章 今、ここにいること
第九章 自然に身を任せ、時を過ごすこと
第十章 このままでよい、ということ
第十一章 別れは必ずやってくること
第十二章 自分の内側に耳をすますこと
第十三章 雨の日は、雨を聴くこと
第十四章 成長を待つこと
第十五章 長い目で今を生きること

 という章だてで、20歳でお茶を習い始めてからずっと武田先生に教えを受け、25年間の間の人生のあれこれ。
 何物でもなく自分を探し続けた若い日から、エッセイストとしてベストセラーも持つライターとして生きてきた自分を肯定する50代までの時間の流れがあります。森下典子の自伝エッセイ。

 日日是好日は、映画では「にちにちこれこうじつ」となっていますが、元の禅語では「にちにちこれこうにち」でもいいし、私がそう思っていたように「ひびこれこうじつ」でもいいみたい。

 映画だと、習い始めのエピソードは季節のうつろいとともに描写されるけれど、大人になってからは、「父親の死」のほかにこれといったストーリーはありません。

 原作者の森下典子は「(お茶を習うということは)茶室に通う習慣をつけることで、自分の心と向き合える。人は生きている限り、将来の不安や過去の後悔といった感情から逃れられないけれど、そうした雑音をいったん止めることができます」とお茶の稽古について述べています。そして「人はみんな年を重ね、見える景色が変わってくる。それは決してネガティブなことではなく、面白いことだと思うんです」と。

 映画の中の典子さんは、冒頭で「10歳のころ、フェリーニ監督の名画『道』を見たとき、ぜんぜんわからなかったけれど、大人になって、この作品の素晴らしさがわかった」ということを例にあげて、「世の中には、すぐわかるものと、わからないものがある」と。

 フェリーニのすごさを子供のころわからなかった、というのは当然のこと。10歳でフェリーニに陶酔する子供がいたっていいけれど、ふつうはそうではない。
 子どもにはわからなかった、というのはそうとして、大人になってからも、わからない人にはわからない。時間がたってわかった、というより、映画への感受性が育ったからわかってきたのでしょう。

 お茶も同じこと。すぐにはわからなかったお茶の奥深さ、季節を感じ取る繊細な心や、静かに自分の内面を見つめること、など、お茶のお稽古を通して典子が会得してきたことの、「すぐにはわからなかったこと」が、時間の深まりとともにわかってくる、というのは、さまざまな人がいろんな方法で自分の中に積み上げていく人生そのもの。

 私にとって季節を感じ取る心は、自然の中に身をおくこと、歳時記その他の本の中に好きなことばを見つけることで育っていきました。
 人によって、数々の映画を見ることで、また格闘技の稽古を続ける中で会得する人もいる。友人のK子さんなら、芝居の稽古で人間をつかみ取ってきた、と言うでしょう。

 典子さんがお茶の稽古によって人生を豊かにしてきたのは、お茶とまたは武田先生との相性がよく、典子さんにお茶の感性が備わっていたから。私が25年お茶を習っても、25年たっても、「どうしてこの形に袱紗をたたまなけりゃならんのか」とおもいつづけているかもしれません。ハンカチをたたむときのように、四角四角にたたんでいっても、棗は拭ける。

 大森作品参加にあたっての樹木希林のコメントは。
 「年とったからって自動的にいい顔になるわけじゃない・・・つくづくわかった。 映画に出ることは恥多いことだ。(後期高齢者)」というものだったそうで、樹木希林らしいウィットに富んでいると思います。いやいや、後期高齢者になった希林さん、すばらしい顔をしています。それは、目前にせまっている死をも受け入れた人の強さ気高さなのかなあとも思うけれど。私は凛としたたたずまいの武田先生より、「万引き家族」の初枝ばあちゃんの入れ歯をはずした顔が好きでした。

 大森立嗣監督作品、『ゲルマニウムの夜』2005『まほろ駅前多田便利軒』2011『さよなら渓谷』2013を見てきました。
 本作に、いまひとつ乗り切れなかったのは、私がお茶にまったく感性を持っていなかったせいだと思います。

 連休最終日の館内、中年女性グループや定年退職後の夫婦連れで満員でした。「え~、こんなに混んでいると思わなかった」という女性に、お連れが「樹木希林が出ている映画だからじゃない」と答えていました。
 女優の名前だけで客が呼べる人気ぶり。「女優も、すぐに大人気となる美人さんもいるし、すぐにはよさがわからない女優もいるのよね」と、天国で旦那様と笑って見ているかもしれません。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「万引き家族」

2019-05-19 00:00:01 | エッセイ、コラム


20190519
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>樹木希林映画(2)万引き家族

 『万引き家族』が2018年6月に公開されて、みようと思っているうちに、第71回カンヌ国際映画祭パルムドール、第42回日本アカデミー賞作品賞など内外できさまざまな賞を受けて、1年たってしまったら、配給収入50億円、いまさら見に行くのも気恥ずかしいデカい作品になってしまった。

 公開から1年待ったのは、飯田橋ギンレイホールにかかるのを待っていたため。
 4月26日に見ました。夫の持つ「シネパスポート」を借りてタダで映画を見る、それ以外に私にとって夫の積極的存在意義がない、というのも結婚37年目の夫婦の歴史。 

 是枝裕和監督の『万引家族』。
 是枝監督は、「親の死亡届を出さないまま、親の老齢年金を受け取り続けていた家族」の新聞記事を目にしてこの映画の脚本を思いついた、ということです。私もこの新聞記事を目にしました。そして「この年金不正家族、あのあとどうなったのかなあ」と思ったことはありましたが、裁判結果も知らないまま。
 是枝監督は、この新聞記事を忘れないで、すぐれた作品を生み出しました。

 公開から1年たつうちにあちこちでレビューも目にしたために、ある程度は予備知識を持って見たので、驚くこともないだろうと思っていたのですが、後半、あれこれ驚きました。「秘密の暴露」というのは、探偵映画だろうと恋愛映画だろうと、映画の王道です。

 ある程度の予備知識とは。
 貧しいが心寄せあって暮らしている家族。「おばあさんの年金と母親のパート収入では足りない分、万引きで家計費を補っている」家族の物語、ということです。
 おばあさんが死んだ後も、死を伏せて年金を受給し続けようとする家族を、上から目線の批判的な描き方をせずに、貧しい一家のあたたかい人間関係を描いているんだろうなあと、予想した上で見たのですが。

監督・脚本・編集:是枝裕和
出演:リリー・フランキー、安藤サクラ、松岡茉優、池松壮亮、城桧吏、佐々木みゆ、緒形直人、森口瑤子、山田裕貴、片山萌美、柄本明、高良健吾、池脇千鶴、樹木希林

 以下、後半部分のネタばれを含む紹介です。

 『誰も知らない』がそうであったように、世間は、この家族を「いない者たち」としてしてきました。民生委員が、独居老人宅として柴田初枝(樹木希林)の家を定期訪問したとき、初枝の家族はあわてて姿を隠します。
 世間的には、初枝は独居老人として、下町の今にも崩れそうな家で暮らしています。

 たまにパチンコに行く初枝。隣の席のフィーバー大当たりの玉をくすねるくらいのことはやるし、20年以上も前に離婚した夫の死後、「月命日のお参り」として自分から夫を奪った女(元夫もこの女性もすでに死去しているが)の家に押し掛けて、3万円ほど入った「お参りのお車代」をもらってきたりする。世間的基準から言えば、品行方正な「お上品なおばあさん」ではない。

 初枝のボロ家に身を寄せているのは、初枝の息子と思われる治。日雇いの工事現場でけがをしても労災は出ず、収入源は万引き。その技を少年ショータに伝授し「おじさん、じゃなくてとうちゃんと呼べよ」と言うところを見ると、本当の父親ではなく、妻信代の連れ子か。
 治とショータのふたりはスーパーでの一仕事のあと、揚げ物屋で買ったコロッケを食べながら帰る。その途中、団地のベランダにひとりいる女の子コロッケを食べさせ、家につれて帰ります。

 女の子の体の傷跡から家族からの虐待を察した信代は、ゆりと名を言った少女も家族として受け入れ育てることにします。女の子の親から失踪届もだされないまま、少女は柴田家で6人目の家族として暮らしていきます。
 学齢期であるショータですが、治は「学校に行く奴は、学校に行かなきゃ勉強できないような出来の悪い子なんだ」という説明をしています。

 クリーニング工場でパートをしていた信代でしたが、不景気のためリストラにあいます。ふたりのうちどちらがやめるか、話し合えと言われても、どちらも生活がかかっていてやめるわけにはいかない。しかしニュースを見た同僚は「あんたとニュースに出ていた女の子がいっしょにいるところを見た」と脅しをかけてきました。
 保育園の長期欠席児調査があり、ゆりが親の家にいないことが判明したのです。「誘拐事件」として騒がれはじめた女の子が信代といっしょにいた子だと気づかれてしまったのです。ゆりの存在を黙っていてもらうために、クリーニング屋パートの仕事を同僚に譲り、ゆりの髪を切り「りん」と呼ぶことにします。少しでも世間の目をゆりからそらすために。

 初枝が「信代の腹違いの妹」という亜紀。
 亜紀は柴田家に帰れば「おばあちゃん、温かい」と身を寄せ、初枝を慕っています。初枝が幼いゆりといっしょに寝るというと、「私がおばあちゃんと寝る」と譲らない。

 亜紀は、JK見学店でバイトしています。源氏名はさやか。
 JKお散歩とかJKリフレ(クソロジー)とか、業態はさまざまなれど、女子高生(風)の衣装をつけた女性たちや下着姿の女性たちに性的関心を寄せる男たちが集まる店は、手を変え品を変えて存続しています。

 見学店では、マジックミラーの前でJKたちが生着替えし、下着を股に食いこませ、腰を振って男たちに肢体のパフォーマンスを見せます。「こすっちゃお」という店が撮影協力店としてクレジットされていました。
 一世を風靡したJKビジネスですが、規制が厳しくなり、2019年現在で生き残っている見学店は都内に10店舗ほどとか。この手の店は、法規制と新業態のいたちごっこ。需要があれば供給がある。

 見学店の受付で、客は見学中に使うためのティッシュの箱と使用済みティッシュをいれる黒いビニールゴミ袋を渡されるそうですが、「こすっちゃお」の撮影では、JK側の画面だったので、食い込んだ下着の部分をこすっている女の子は写っていましたが、客室側はマジックミラーごしにしかわからないので、ティッシュを使っていたかどうかは画面からはわかりませんでした。

 さやかは客の「4番さん」のリクエストに応じて、「見学部屋」から別料金の「膝枕」の部屋へ。 
 吃音者だかコミ障だかの「4番さん」の手の傷に気づいたさやかは、「私も自分で自分をたたくことがある」と共感します。
 さやかが4番と心通わせるように見え、4番が高潮するようす、4番さんは池松壮亮が演じていて、心に傷を持つ4番さんとさやかの共感がストレートにつたわりました。

 こういうファンタジーが描かれるからこの手の店が繁盛するのだなあ、と突っ込むのも無駄か。JK店で働く亜紀への視線がとてもフラットでいいと思います。上から目線なく描かれていることに、是枝の手腕を感じます。松岡茉優だからできたのかもしれないけれど。

 亜紀が「さやか」を名乗っていた理由。「さやか」とは、両親から大事にされ何不自由なく育っている実の妹、本物の女子高生の名前。
 亜紀が初枝の家にころがりこんだ過程は描かれていないけれど、典型的中流一家の両親や妹との暮らしに行き詰まり、ダメな部分も何もかもを受け入れてくれる初枝を亜紀が選んだ、ということ。

 両親は世間体をはばかり、家に寄つかない長女の存在を隠しています。それだけでも、亜紀が家に居たくなかった理由がわかります。
 両親は、月命日のお参りにきた初枝に「長女は、オーストラリアに留学したっきり、あちらに居続けて実家に帰らない」と、説明します。初枝は亜紀がいっしょに暮らしていることは両親に告げていません。

 樹木希林の使い方、これまでの樹木希林出演映画の中で一番いいと思います。それは、樹木希林が持っている「毒」をきっちり表現させているから。「暖かくてよいおばあさん」というだけなら、樹木希林でなくてもおばあさん役はいるけれど、この「人間の体内毒素」みたいな内面をも表現できる役者だということを、わからせてくれます。これまで樹木希林が演じたおばあとはちょっと違うこと、入れ歯をはずした演技というだけではなく、「人がいやおうなく内面に持たざるを得ない毒」がにじみ出ていて秀逸です。

 一家の要であった初枝の死後、家族は崩壊していきます。
 治と信代は自宅の床に初枝を埋め、初枝の年金を引き出します。
 ショータは、ゆりを連れて近所のよろず屋で万引きを繰り返します。とっくに万引きに気づいていた老店主に「妹にはさせるな」と言われたことから、ショータの心が変わりはじめます。以前読んだことのある「スイミー」の話を治に語ってきかせるショータは、賢い子なのです。

 ゆりがスーパーで勝手に万引きをしたとき、ショータは自分に店の目を向けさせるために、騒ぎを起こます。店員に追いかけられる途中歩道橋から飛び降りてけがをし、柴田一家の存在やりん(ゆり)がいっしょに暮らしていたことが発覚します。

 リンは、実親の元に返されます。ゆりは本当の名はジュリ。世間は、いなくなって2ヶ月も娘の行方不明を届け出なかった両親を不問にして「誘拐した」柴田一家を糾弾します。そのため、実親がDVを繰り返していたことは隠されてしまいます。世間は真実はどうか、ではなく「わかりやすい悪者」を糾弾したいのです。

 信代は初枝を埋めたこと、りんを連れてきたことなど、すべてを自分の身に負います。
 面会に来て「すまないな」とわびる治。信代は「あんた、マエがあるから」と治をかばい続けます。

 治の「マエ」とは。
 前夫からDVを受けてきた信代は、治とともに夫を殺害。DVを振るわれた際の正当防衛の結果という主張により、治には執行猶予付きの判決が出ました。ふたりはこの過去を共有しつつ夫婦として柴田初枝の家にかくれ住んできたのです。

 安藤サクラの演技、最初から最後まですごいです。
 「カップラーメンを発明した夫を心優しく支え続けるけなげな妻」という朝ドラ、安藤サクラの無駄遣い、と感じました。ああいう妻なら、安藤でなくてもかわいい女優さんがベタ演技でやっても視聴率はとれたろうに。

 事件発覚後児童施設に入り、小学校での成績もいいというショータは、1年後、治に会いにきます。釣りをしながら、ショータは「わざとつかまった」と打ち明けます。
 治は「スーパーに並んでいるものはだれのものでもないから、万引きは悪いことじゃない」と教えてきたショータが、自分とは違う価値観をはぐくみ成長していることに気づきます。もう教えることがなくなった治は「とうちゃんでなく、おじさんに戻る」と告げます。
 治は初枝のもとで偽名を名乗って暮らすことにしたかわりに、信代と育てることにした子供を自分の本名である祥太と呼ぶことにしたのです。

 治とともに面会に来たショータに、信代は「秘密」を打ち明けます。
 祥太を千葉のパチンコ屋で「拾った」ときのこと。駐車場の高温の車の中に置き去りにされ、ぐったりしていたショータを連れ帰って育ててきたのだと。実親が捜索願いを出したのかどうかもわからにまま、ショータは信代と治が育ててきたのでした。
 信代は実の親の手がかりを伝え、親探しをショータに託します。

 団地の一室にもどったジュリは、あいかわらず虐待を受けていますが、ベランダに出てひとりいるジュリは、ある種の「まなざし」を持ったように見えます。柴田の家で暮らした数か月で、ジュリも変わったのだと思います。

 子役も含めて出演者ひとりひとりがすばらしい演技をするので、2時間があっというまに過ぎました。
 おおかたの観客は映画を見終わって、この一家のささやかな幸せを守ってやりたいとその日は感じ、そして翌日は、「万引きを子供に教える親」だの「死んだ親を家に埋めて親の年金を不正受給する息子」だのが発覚したニュースを見たら、正義の顔をしてその悪を責め立てるのでしょう。

 治がショータに教える「店にあるものは誰のものでもないから、だまってもらってきてもよい」という治にとってのジョーシキは、悪とされる。そして「税金はみんなのものだから、だれのものでもある。よって山口と福岡を結ぶ道路を特別扱いしてお金をつぎ込むのも当然」という考え方は、「上司のために忖度できるよい部下」とされているみたいです。この国では。

 是枝監督と樹木希林が組んだ映画、『歩いても歩いても(2008)』『奇跡(2011)』『そして父になる(2013)』『海街ダイアリー(2015)』『海よりもまだ深く(2016)』の中で、タッグを組んだ最後の作品『万引き家族』は、樹木希林の魅力をいちばんうまく引き出していたんじゃないかな、と思います。

 是枝と希林が組んだ最初の映画『歩いても歩いても』で描かれた妻。表面上は長年連れ添た夫婦。しかし妻は、愛されないままの夫婦の歴史をも全部心に納めて、夫とのひとつの時間を生きている。

 万引き家族の初枝の全身からも、それが表現されているように感じたのですが、これは希林裕也夫婦を知っているからそういう目でみてしまうのかもしれません。樹木希林自身が体現している夫婦の形。「夫の心の中には、妻の居場所はなかった。けれど、妻は夫を最後まで憎みはしなかった、いや、世間とは別の形で愛し続けてきたのだ」という夫への感情。

 初枝が夫を奪った女の家に祥月命日のお参りに行くのは、3万円の「お車代」をせしめに行きたいからでなく、夫が生きたその証を目に焼き付けに行っていたのではないか。亜紀を自宅に住まわせているのも、「自分が身を引き、不倫相手に夫を譲ったからこそ、亜紀が生まれた」ということを、自分の人生の証にしたいからではなかったか、と思います。

 春庭夫は、昨年夏に骨折手術で足の骨にボルトを埋め込みました。この夏、そのボルトを取り出す入院をしなけりゃならぬ、と今から「令和最初の大イベント」を待っています。私としては、シネパスポートを借りる際に、足にボルトがあろうとなかろうと、変わりなし。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「樹木希林あん」

2019-05-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190518
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>樹木希林映画(1)あん

 樹木希林が昨年亡くなり、別居しながらも不思議な夫婦の縁を結んでいた夫の内田裕也もあとを追うように亡くなりました。
 昨年来、樹木希林へのコメントは山のようにでていましたから、特別に大ファンというのでもない私はことさらに感想も述べることはなかったのです。ただ、夫婦のありかたという面からいうと、世間に知られた夫婦関係のなかでは一番うちに近いかな、という感覚は持ってきました。いつもいっしょにいるわけではないけれど、、、、という。

 ただ、モテモテの内田裕也には常に世話をしてくれる女性がそばにいて、樹木希林はその女性に感謝を忘れなかったということですが、残念ながら、非モテのタカ氏には世話をしてくれる人はいない。で、事務所は散らかり借り放題、服はよれより、ごはんはコンビニ弁当。でも当人は一人の気楽な生活を好んでいるのですから、それもよし。世の中には「家族の団欒」向きじゃない男性と、うっかり結婚してしまう人もいるってことで。

 連休中に、樹木希林の映画を続けて見たので、前に見た『あん』を思い出しました。感想をメモしておこうと思います。

 樹木希林が悠木千帆だったころ出演していた『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』や『ムー一族』などを見てこなかったのでわからないけれど、たぶん、はっちゃけたお婆さん役もすごかったと思います。30歳そこそこから老婆役をこなしていました。

 私が樹木希林を「いいな」と思ったのは『夢千代日記(続・新も)』(1981~1984)の菊奴あたりからです。70年代のはっちゃけ老婆も見ておけばよかった。「ジュリー!!」と身もだえるのは、ギャグでみたことがあるだけ。

 テレビドラマ『いとの森の家』で2016年に第42回放送文化基金・演技賞を受けたときの表情や歩き方、樹木希林の存在そのものが作品のテーマを体現していると感じました。
 無縁死刑囚の遺骨引き受けを続ける一人暮らしの老女。アメリカ帰りで、日本の世間的な付き合いや価値観とは一歩距離をおいている。このお婆さん「おハルさん」には、実在のモデルがいたそうです。

 世間が「悪いことしたから死刑になった人」を排除し、この世にないものとして扱うことへの、静かな思いが伝わってきました。昨年樹木希林が亡くなったあと追悼放送されたのを録画できなかったのが残念です。私が見たのは、ミャンマー赴任中のbs放送でしたから、録画できなかった。もう一度見たいドラマです。

 数シーン出演の脇役でも存在感を示すことができた樹木希林ですが、主演作品はそう多くない。2007年に『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』で第31回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞。2013年に第36回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受けた『わが母の記』。2016年 第39回日本アカデミー賞優秀主演女優賞『あん』。

 『あん』を見たのは、だいぶ前の放映です。もう一度見たいと思っていたけれど、これも追悼放映を取り損ねました。DVDもあるでしょうけれど。

 『あん』の主人公徳江役、すばらしい演技でした。
 「いとの森の家」のおハルさん役もそうですが、陰を含んだ役の表現が抜群にいいと思います。 


 
 原作:ドリアン助川 監督:河瀨直美 主演:樹木希林 2015年公開
 第68回カンヌ国際映画祭ある視点部門オープニング作品

 以下、ネタバレ含む紹介です。

 オーナー(浅田美代子)にやとわれた、どら焼き屋の店長千太郎(永瀬正敏)は、市販のあんを使ってやる気もなくどら焼きを焼いています。女子グループから無視されている中学生の女の子ワカナ(内田伽羅=樹木希林の孫)は、店をひいきにしてくれますが、いつもはたいして流行らず客足もまばら。刑務所帰りの彼にはほかに働く場所もないので、しがない店をだらだらと続けています。

 働きたい、という徳江が店にやってきます。徳江が作る餡の味に驚いた仙太郎は、徳江を雇うことにして、餡作りをまかせます。餡の味が評判になり、店は大繁盛。しかし、あるうわさから客足は急激に遠のきました。
 仕事を終えた徳江が帰っていく先は、元ハンセン病患者が老後を過ごすホームでした。ハンセン病は伝染病ではなく、治療法も確立していて久しいのに、過去の「頼病患者忌避」を変えようとしない世間の人々。

 徳江は事態を知り、店に来なくなります。千太郎とワカナは徳江が暮らしていたホームを訪ねていき、徳江の友達佳子(市原悦子)に会って話を聞きます。
 店をやめた後の徳江は、、、、

 元ハンセン病患者の隔離政策はまちがったものだったし、本人に不同意で実施された障害者や疾病者への不妊手術について、現在訴訟が起こされています。首相は、「旧優生保護法を執行していた立場から、真摯に反省し、心から深くおわび申し上げます」と陳謝のことばを述べたけれど、人生を踏みにじられた人への救済、一時金320万円ですまされないと思います。
 「このような事態を二度と繰り返さないよう、全ての国民が疾病や障害の有無によって分け隔てられることなく相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に向けて、政府としても最大限の努力を尽くす」ということば、ほんとうに実行してほしい。まだまだ障害のある人や疾病者への社会の目は厳しいです。

 日常生活のなかで、まだまだゆえない差別が続いています。
 私たちは、病気や障害によって差別されてきた人々とどう向き合い、どうかかわっていけばいいのか。それを声高にではなく、『あん』の画面は、桜の花の美しさや、雨上がりに木から湧き出る蒸気の生命感によって、河瀬監督は静かに描いていました。
 樹木希林が立ち上る木の蒸気に寄り添って立つとき、その絵だけで、人間の尊厳を守ることも、それができてはいないことも訴えていたように思いました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「すべてが喜びのために目覚めているのだ!ブラームス&マーラー by 東京楽友協会交響楽団」

2019-05-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190516
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記新緑令和(9)すべてが喜びのために目覚めているのだ!ブラームス&マーラー by 東京楽友協会交響楽団

 5月12日、東京楽友協会交響楽団第106回定期演奏会に出かけました。毎年春と秋に定期演奏会があるのですが、秋は私のジャズダンス発表会と重なる日程になることが多く、春は新学期でまごまごしているうちに終わってしまい、聞き逃す。今年はちゃんと春の定期演奏会を聞くことができました。
 すみだトリフォニーホールに、13時半の開演5分前に到着。中央左寄り後方に着席。

 都内に、各区の市民オーケストラ、大学ごとの学生オーケストラ、数ある中で、私が「アマチュアの中で一番うまい」と、勝手に決めている交響楽団です。ハガキやメールの申し込みで無料で聞くことができます。

 106回定期演奏会パンフレット表紙

 
 前半の曲は、ブラームス:交響曲第2番ニ長調。こちらは聞いたことがあるような気がしますが、休憩後の後半の曲、マーラー:交響曲第4番ト長調は、初めて聞きました。第4楽章に谷明美(たにみょんみ)のソプラノ独奏がありました。
 この2曲の組み合わせ、ブラームスとマーラーが、どちらもオーストリアの避暑地ヴェルター湖畔に滞在していたときに作曲された、という共通点がある、ということです。

 前回1994年に、楽団員たちが「ブラ2」と略称するブラームスの第2番を演奏したときも、1984年にマーラー4を演奏したときにも在籍していた楽団員が残っているという老舗アマチュアオーケストラ。1961楽団結成から58年の歴史も伊達じゃない。

 ブラ2は、ヴェルター湖畔ペルチャハに滞在している間の4か月間に作曲されました。管楽器が重要な主旋律を奏でます。
 管楽器、みな上手でした。

 昔のアマチュアオーケストラは、管楽器の音がイマイチでした。今、どこも素人ながらなかなかの名演奏家が育った理由。全日本吹奏楽コンクールがあるおかげじゃないかと。野球は甲子園、吹奏楽は普門館。全国の中学校高校にはそれなりの吹奏楽のチームがあり、みな、普門館を目指して練習を重ねています。
 今年は普門館が解体されるため、「普門館へ行こう!」という合言葉が使えませんが、全国各地の吹奏楽学生は、課題曲自由曲の練習に余念ないことと思います。マーチングも含め、管楽器経験者は、中学校高校の部活動の中、けっこう多いんじゃないかしら。

 4月からの私の担当は日本人大学生9人のこじんまりしたクラスになりましたが、そのうち3人が吹奏楽経験者。ホルンとかサックスを吹いてきたって。
 音楽学校卒業ではなくても、管楽器経験者はアマチュアオーケストラでも重宝されるのではないでしょうか。

 マーラー4番、第4楽章の谷さんの歌、私はメゾソプラノの音色に感じましたが、オペラではソプラノ歌手。とても美しい歌声でした。
 ドイツ語の歌詞の訳がパンフレットの曲目解説のページに載っていました。

 コンサートが終わって、錦糸町の「毎月12日はパン食べ放題の日」という店で、魚アヒージョというのとパンを食べながらドイツ語と日本語訳を眺めました。
 
 ドイツの民謡集「少年の魔法の角笛(少年のふしぎな角笛)」は、イギリスのマザーグースにあたるわらべ歌です。ルートヴィヒ・アヒム・フォン・アルニムとクレメンス・ブレンターノのふたりが、古くから歌われてきた民謡を収集し、1806年から1808にかけて出版しました。

 マーラーが、交響曲2,3,4番の中に、「少年の魔法の角笛」の詩をとりいれて作曲していることから、この交響曲3曲には「角笛交響曲」という呼び名があります。
 「天上の生活」は、地上の喧騒をのがれた天上の生活を歌い上げます。
 マーラーの「角笛」シリーズの中では、早い時期の作曲です。

 「少年の魔法の角笛」矢川澄子訳詞 
 (あらま、澁澤龍彦の元妻だわ。自殺したってことしか知らなかったけど)


 第4楽章の歌を聞いているときは、美しい谷さんの声に聞きほれ、パンフレットに出ている歌詞を読んでなかったから、天上の生活にあこがれているんだろうな、と思っただけですが、、、、わらべ歌の歌詞をよくよく読んでみれば、「死」についての、マーラーの皮肉や天国への裏腹な気持ちが出ているのですって。ドイツ語わからないし、日本語訳読んだって、マーラーの気持ちやら、わからなかった。

 マーラーが意図していたのは、「(子供が餓死するような現実の)地上の生活から天上の生活になったときの、酒飲み放題肉食い放題の楽園生活を対比し、皮肉をこめて歌にする」というようなものらしい。

 「天上の生活」と対になっている「地上の生活」の歌詞。こどもは、パンを欲しがるのに食べられず、飢え死にする、というわらべ歌です。
 マザーグースもそうですが、イエス様マリア様おわす西欧では、神様や天国に皮肉を言いたい気持ちがわかるような「死」にまつわる歌詞があふれています。アガサ・クリスティが殺人事件のモチーフに使いたくなるような歌がいっぱい。

 天上の生活ラスト3行
♪チェチーリアとその一族は、素晴らしい楽士たち。
天使たちの歌声に皆の心は心ほぐれてほがらか。
すべてが喜びに目覚めるのです♪

 チェチーリア(英語仏語ではセシリア、シシリア)というのは、音楽と盲人の守護聖人。ローマ皇帝によるキリスト教迫害時に、打ち首によって殺されています。音楽守護聖人とは言っても、死がまとわりついています。天上で歌い踊っている皆の衆。歌も踊りも「ダンス・マカブル(死の舞踏)」や「メメントモリ(死を思え)」がその裏にある。

 マーラーは、ベックリンの作品『ヴァイオリンを弾く死神のいる自画像』に触発されて交響曲第4番ト長調(1900年)を作曲した、と、妻アルマが証言しています。
 絵を見た後で、マーラーはこの2楽章に「友ハイン(死神)が演奏する」と書き込み、不安定な演奏になるように2度高く調弦したヴァイオリンのソロを加えたそうです。そういえば、2楽章の弾きはじめに、コンサートマスターの村岡ふみさんは、調弦していましたっけ。(ただし、恋多かったアルマの証言は、常に正確だったとはいえない)

『ヴァイオリンを弾く死神のいる自画像 by ベックリン


 私は谷さんの歌声に聞きいるばかりで、マーラーがこの歌を作曲したときの地上の現実生活と天上の生活の間の対比や皮肉はぜんぜんわかりませんでした。

 谷さんのツイッター自己紹介:オペラ歌手で3歳児の母、毎日家事に歌に子育てにと精一杯生きてます。お肉、お酒、ホットヨガで大量の汗をかくこと、人生って美味しくって楽しい
 だ、そうです。

 「人生、美味しくって楽しい」と、私も言えるように、無料コンサートの帰りに、パン食べ放題という店へ。
 「地上の生活」というわらべ歌では、幼い子どもが「お母さん、パンをちょうだい」と訴えながら餓死してしまうのですが、私は「我が地上の生活」において、1200円魚のアヒージョ+「12日は無料でパンが食べ放題」なんぞを食べてしまったのでした。

 パンの次は、ダイソーとブックオフに寄りました。
 ダイソーで糊とガムテープなど、ブックオフで百均本200均本を数冊。司馬遼太郎、会田雄二、ドナルドキーン、酒井邦嘉など。両方の店で3000円ほど。

 3000円で大盤振る舞いした気分になるんだから、地上の生活も、天上の生活に負けず劣らず、「すべてが喜びのために目覚めているのだ Daß alles für Freuden erwachat」とも言えます。

 さて、パン食べ放題の店で、パソコンマウスくらいの大きさのパンを10個食べた春庭、すべての喜びに目覚めるために、この先、がんばります。

<おわり>

(おまけのメモ)
東京楽友協会交響楽団第106回定期演奏会配布パンフレット「天上の生活」より
Wir genießen die himmlischen Freuden,
Drum tun wir das Irdische meiden.
Kein weltlich Getümmel Hört man nicht im Himmel!
Lebt alles in sanftester Ruh.
Wir führen ein englisches Leben,
Sind dennoch ganz lustig daneben.
Wir tanzen und springen,
Wir hüpfen und singen,
Sankt Peter im Himmel sieht zu.

Gut Kräuter von allerhand Arten,
Die wachsen im himmlischen Garten,
Gut Spargel, Fisolen
Und was wir nur wollen!
Ganze Schüsseln voll sind uns bereit!
Gut Äpfel, gut Birn und gut Trauben,
Die Gärtner, die alles erlauben.
Willst Rehbock, willst Hasen,
Auf offenen Straßen
Sie laufen herbei! Sollt' ein Festtag etwa kommen,
Alle Fische gleich mit Freuden angeschwommen!

Dort läuft schon Sankt Peter
Mit Netz und mit Köder
Zum himmlischen Weiher hinein,
Sankt Martha die Köchin muß sein.

Kein Musik ist ja nicht auf Erden.
Die unsrer verglichen kann werden,
Elftausend Jungfrauen Zu tanzen sich trauen!
Sankt Ursula selbst dazu lacht!
Kein Musik ist ja nicht auf Erden,
Die unsrer verglichen kann werden.
Cäcilie mit ihren Verwandten,
Sind treffliche Hofmusikanten.
Die englischen Stimmen Ermuntern die Sinnen,
Daß alles fur Freuden erwacht.


 この歌詞は、一見ゆかいなわらべ歌。しかし、マザーグースの民謡がそうであるように、歌詞の裏には隠された皮肉がはね踊る。地上の生活と対比されている天上の生活は、酒も肉もたっぷりと、歌や踊りに明け暮れている。しかし、現実には、音楽守護聖人チチェーリアはヴァイオリンを弾く死神を引き連れているかもしれず、楽隊の音楽が聞こえ出したらそれは天国へのいざない。すなわち地上の生活は終わり。

天上の生活(少々改訳)      
われらは天国の喜びを味わっている。ゆえに地上のことには関わらない。
いかなる世俗の騒音も、天上には聞こえてこない!
全てがこのうえなく穏やかで安らかだ。
我らは天使のようにその日をすごし、暮らしは愉快にすぎていく。
喜びに満ちあふれ愉快きわまり、踊ったり、飛び跳ねたり、歌ったり。
われらの暮らしを天の聖ペテロが見守っていらっしゃる。

ヨハネは子羊を放し、肉屋のヘロデが見張っている。
われらは、その大人しく純潔な無邪気な子羊を、かわいい子羊を犠牲にささげる!
聖ルカも、惜しみなく自分の雄牛をほふらせる。
天上の酒蔵では、葡萄酒はタダ。お金はいらない。
天使達もパンを焼く。

いろんな種類のよいハーブが、天の菜園には育っている。
アスパラガスやインゲン豆、その他もろもろお好きなものを!
鉢にも皿にもいっぱいに盛る!
おいしいリンゴと梨、そしてブドウ、、、菜園守はなんでもくれる。
鹿やウサギを食べたいのなら、そこらを走り回っているから
もし獣肉を断つ祭日が来ても、魚も喜んで泳いで来る!
そこへ聖ペテロがやってきて網と餌とで釣り上げて、
天国の生け簀に投げ入れる。
料理するのは聖マルタ。

天上の音楽に比するものが、この地上にあるはずもなし。
1万と千人の乙女たちが恐れも知らず踊りまわる!
聖ウルズラも微笑んでいる!
天上の音楽に比べられるものがこの地上にあるわけがない。
チェチーリアとその一族は、素晴らしい楽士たち。
天使たちの歌声に皆の心は心ほぐれてほがらか。
すべてが喜びに目覚めるのです。

わらべ歌「地上の生活」
 「ママ、ああママ、おなかがすいたよ!
   パン食べたい でなきゃ死んじゃうよ!」
  「いい子だから、待っていてね。
   明日になったら急いで刈入れをするから」

  刈入れのあと、子どもは再び叫ぶ。
  「ママ、ああママ、おなかがすいたよ!
   パン食べたい でなきゃ死んじゃうよ!」
  「いい子だから、待っていてね。
   明日になったら急いで穂を打つから」

  穂を打ち終わると、子どもは再び叫ぶ。
  「ママ、ああママ、おなかがすいたよ!
   パン食べたい でなきゃ死んじゃうよ!」
  「いい子だから、待っていてね。
   明日になったら急いでパンを焼くから」

  その明日になり、パンが焼き終わると、
  子どもは棺おけに横たわっていた。


 春庭の教訓「腹減ったときにすぐに食べられるパンこそ最高の味」。
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ぽかぽか春庭「母業卒業と留年」

2019-05-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190514
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記新緑令和(7)母業卒業と留年

 保育園の待機児童問題とか、まだまだ働く母親にとって、とりわけシングルマザーにとっては、厳しい環境の日本であることは変わってはいません。「保育園落ちた、日本死ね」の現実は続いています。

 しかし、50年前30年前の厳しい状態を思い出せば、まだしも今のお母さんたちのほうが、少しは良くなった部分もあるとは思います。
 それにしても、子育て、たいへんです。難しい問題はいろいろある中、母子で孤立し、悩みを話し合う相手もいないまま一室に閉じこもってしまう例も少なくないとか。

 私の同級生は、すでに「孫の子守」からも卒業しています。
 子を持つのが遅かった私も、この30年間、シングルマザー準シングルマザーとして、ともに子育ての悩みを語り合ってきた友人たちがいてくれたおかげで、なんとかやってこられました。
 偉大なマザーたち、このところ、母業卒業祝いが続いています。

 ジャズダンス仲間のミサイルママ。「もう、子どもからは手をひき、これからは自分の幸せを優先します」と宣言して、息子ふたりと元旦那にも話して、再婚しました。
 2019年1月1日に入籍、3月に同居開始。今年中に新居へ引っ越し、というスケジュールで、4月に私からミサイルママにおくったメールの返信には「今がいちばん幸せかもしれない」という返信がきました。新婚生活真っ盛りです。

 ジャズダンス仲間としてミサイルママに出会ったころ、ふたりの息子さんを連れて離婚したばかりのころでした。近所のスーパーで働き始めて、大手スーパーに移ってパートのレジ係。インテリア会社の正社員。がむしゃらに働き、息子の成長を見守ってきました。

 長男さんは演劇に打ち込み、今もフリーの役者。これまで息子の演劇活動に、ずいぶんとミサイルママも貢献してきたのだけれど「もういっさい、息子にまかせる」と決め、自分の老後を優先することにしました。
 次男さんは学生時代から堅実派で、バイトをしていた店でコーヒーについて勉強し、在学中に「バリスタ」の資格をとり、大学卒業時には教員資格も獲得しました。さまざまなレストランやカフェでバリスタとして働くほか、教員資格を生かして、専門学校でバリスタ養成講師をしています。

 次男さんが一人暮らしを始めたころは、心配して部屋のお掃除などに出かけていたミサイルママでしたが、今はもう息子の自立を見守っているだけ。
 再婚は、完全に「母業卒業式」です。

 もうひとり、ブログ友だちからはじまって、だいたい年に1度は子育て報告やら愚痴やらを吐き出し合ってきたA子さん。私の2度目の大学の同窓です。

 A子さんの息子さんが小学生のころに出会い、15年間、互いの足場を支え合ってきました。今読んでいる本の紹介、関わっている活動などを知らせ合うことで、「毅然として意思を曲げない生き方」を感じ合ってきました。友達少ない私の友人の中でも、数少ないフェミニスト仲間です。石牟礼道子、市川房江、松井やよりなど、尊敬する女性について注釈なしに語りあえる人。

 この3月、息子さんは大学の理工学部を卒業し、4月からは企業で働き始めました。
 息子さんは新任研修に出る中、学生時代とは異なる「働くことの厳しさ」を感じたようで、学生時代はあまり話をしなくなっていたのに、改めて「お母さんへの感謝」を伝えたのだそうです。ずっとひとりで自分を育ててきたお母さんを尊敬していると。
 いいなあ、「お母さんを尊敬している」なんて言ってくれる息子。
 初任給のうちは、まだ一人暮らしは無理でしょうけれど、「来年ボーナスが出たあたりで、一人暮らしをさせてみたほうがいいよ」と、私からの母業卒業のはなむけのことばを贈りました。

 ミサイルママもA子さんも、立派に子育てを仕上げて、母業卒業式!です。拍手拍手!

 さて春庭は、単位が足りずに今年も留年です。
 娘からの辛辣な批評もありました。「こういう変てこりん母に育てられて、子どもはたいへんだった」と。

 聴覚障害や視覚障害の親を持った健常児のこどもは、世間から親のヘルパーさんのように扱われ、親を助けるよい子として自分を圧して生きてきてしまい、ストレスが大きい、という記事を読んで、私も思い当たることがありました。
 それで娘に「うちは準母子家庭だったから、いつもおねえちゃんに負担をかけちゃったね。おねえちゃんは、ずっとよい子にしていなければならなかったから、たいへんだったよね」と、娘に言いました。

 幼いころの娘は、帰りが遅い母にかわって、弟の保育園の送り迎えをすることからはじまり、大人になってからはおばあちゃんの介護もやり、ずっと「家族を支える役割」を果たしてきました。小学校のころ、友達の家に遊びにいくときも、かならず弟を連れていきました。

 私のことばに娘が反論しました。「準母子家庭ってなにさ。それは母が、我が家の欠陥の責任を、全部父に責任転嫁しているってことだよね。父がいない家庭は世間にないわけじゃない。それが欠陥にならないほうが多いの。うちは、母がフツーじゃないから、子どもが苦労したんだよ。母が自分自身が発達障害の部分を持っていることに気づいたのは最近でしょう。普通の母親だったら、母子家庭でも貧乏でも、私が負ってきたようなストレスはなかった。私も子供だったから、自分の母親がほかのお母さんとは変わっていると思っていただけで、そのせいで私がたいへんな思いをしてきたのだとはわかっていなかった」と言うのです。たしかに。
 今なら、障害のある母を持ち、ヘルパーさんのように家族を支えなければななかった子どもと、規定できるのかもしれません。」

 春庭は、人付き合いができなかったので、娘息子が小さい時、娘息子の同級生の親たちとママ友になれませんでした。子供の保育園や学校でのママ友ネットワークに入れなかったので、子ども同士のつきあいに影響していることはわかっていました。夏休みに子供を預け合うとか、合同でいっしょにお出かけをするとかが、まったくできなかった。でも、それ以外に子供に犠牲を強いているとは感じないまま、とにかく食費生活費を稼ぐことでせいいっぱいでした。ずっと生きづらさを抱えているけれど、性格だから仕方がないと思っていました。

 息子が小学校高学年になるころまで、息子の世話は、5歳違いの娘がしていたようなものでした。絵本を読んでやったり、おやつを食べさせたり。
 娘にとっては、子どもらしいわがままなど言っていられない「小さいお母さん」をやり遂げなければならない月日だったのです。

 息子は「ぼうっと生きてんじゃねーよ」のほうですから、母親が変?と感じたのは娘よりは薄かったようです。
 息子が覚えているのは、登校しようと団地の出口から出たら、母が9階のベランダから「お~い、体操着忘れていったよー」と叫んだこと。普通の母親ならエレべーターで1階に降り、体操着袋を渡すところですが、「母は、9階のベランダから下に向けて体操着袋を投げ落としたよね、だれもいなかったから人の頭にぶっつくこともなかったし、僕は落ちてきた袋を拾って学校へ行ったけど、フツーそういうことする?」と息子が言う。

 言われてはじめて、フツーはしないのかなあ、と思いました。エレベーターで下に降りて渡すより、投げ落としたほうが早いと思ってやっただけだった、と思うのですが、20年たっても息子が覚えているということは、フツーの母なら「ありえない」ことだったのかもしれません。

 生きづらい、人付き合いが苦手、というのはそっくり息子に遺伝していますが、その息子にとっても、私は変な母親だったらしい。
 気を許せた少数の人としか会話ができない(一般的な世間話というのができない)、よくモノを落としたりなくしたりする、整理整頓片付けが極端にできない。というのはずっと自分の性格だと思っていましたが、発達障害が世間に認知されたころ出てきた診断基準をみると、全部私に当てはまっていました。

1ケアレスミスが多い
2気が散りやすくて、一般的なことがらや物事に集中することが苦手。
3やりたいことや好きなことに対して積極的に取り組めるが、集中しすぎてしまう。
4物をどこかに置き忘れたり、物をなくしたりすることが頻繁にある。
5片付けや整理整頓が苦手。
6約束や時間を守れない。
7物事の優先順位が分からない。
8落ち着いてじっと座っていることが苦手。
9衝動的に不適切な発言や行動をする。
10忘れ物や物をなくすことが多く、じっとしていられず落ち着きがない。
11ルールを守ることが苦手で順番を守らない、大声を出すなど衝動的に行動をすることがある。

 というPDD(広汎性発達障害)の症状うち、8番は当てはまりませんが、あとの10個は全部子供のころからの症状。でも、子どものころは、成績はいつもトップであったので、「問題児」の中にいれられることがなかった。昔は、成績さえよければ、少々変でもなんとかなった時代でしたから。
 変わり者だとはいわれてきたけれど、これらの症状が障害のひとつだと気づくのが遅れました。

 大人になって13回も転職し続けたのも、「自分探し」ということもできますが、上の症状のどれかが引っかかって、「パワハラを受けがち」という状態だったから。
 上司は、愛想がなく、空気読めない私に、がまんならなかったのでしょう。私、パッと気をきかして空気を読み、上司の意を汲むことができなかった。

 中学校国語教師は3年で退職になったのに、日本語教師は30年以上続けられたのは、留学生の教室では「日本的気配り」が求められる割合が少なかったからかもしれません。
 むろん最初につとめたいくつかの日本語学校の教員室では「いじめ」にあいました。職場は何度も変わりましたが、子どもの生活費稼ぎをしなければならなかったから、仕事は続けることができました。日本語学校は4校、大学は7校に出講しました。大学の講師室では、非常勤講師は「請負ひとり親方」の働き方ですから、授業さえ問題なくこなしていればよかった。いくつかの大学を掛け持ちで回り、毎日同じ職場じゃなかったことも幸いしたのでしょう。週5日の間に90分授業を12コマ受け持ち、大学5校回って仕事をしましたから。

 ブログ書きは、3の「やりたいことや好きなことに対して積極的に取り組めるが、集中しすぎてしまう」にあてはまり、8時間以上続けて書いていても平気です。変なのかなあ。 
 ダメ母には卒業式がこない。単位不足で今年も留年。

 めでたく母業卒業式を迎えたミサイルママやA子さんには、心からお祝いを言いたいです。
 「よくがんばりました。えらい!」 
 卒業できない私を見捨てないで、これからもおつきあいお願いします。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「母の日に」

2019-05-12 00:00:01 | エッセイ、コラム

 首筋が焼けないデザインの遮光帽子

20190512
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記新緑令和(6)母の日に

 4月は娘の誕生月でした。ディズニーリゾート大好きっ子の娘は、思う存分楽しみたいととリゾートへ出かけ、2泊3日のリゾートライフを、4月中に2度も繰り返しました。
 誕生日間近の日には、ディズニーリゾートオフィシャルホテルの「美女と野獣の部屋」に宿泊。胸に「お誕生日シール」を貼ってディズニーランドで遊んだので、一日中キャストやキャラクターからお祝いメッセージをもらったのだって。ミッキーマウスがシェフになって料理を作ってくれるというコンセプトのレストランで、ミッキー&ミニー、大好きなデイジーダックとも「お友達写真」を撮って、大満足で帰宅しました。
 誕生日が1週間過ぎたころには「ディズニーシー」で遊び、ホテル・ミラコスタで2泊3日。

 1か月に2度も行って、ホテルライフも十分すぎるだろうと思うのですが、娘に言わせると、オフィシャルホテルとホテルミラコスタはコンセプトも違うし、1回目はディズニーランドで2回めはシーだから、パレードやショウも違うのを楽しめたから、それぞれに楽しかった、と。

 娘が楽しい思いをしたならそれでいいか。ちかごろ娘の「贅沢三昧」に寛容な母へ、娘からディズニーリゾートみやげを「早出しの母の日プレゼント」としてもらいました。2度ホテルに泊まったので、母の日プレゼントもふたつ。

 ひとつは遮光帽子。背中側に垂れがある形の帽子です。
 農作業や園芸をする女性が背中に布が垂れている帽子をかぶっているのをずっと見てきて、でも、DIY店などの園芸コーナーで売っているのではなく、もうちょっとおしゃれな帽子がいいなあと思ってきました。デパートなどで売っているのは高くて手がでなかった。

 娘はリゾートホテルで贅沢気分ですから、私なら自分用には決して買えないであろう帽子をおみやげに買ってきました。
 

 ディズニ―のおみやげですから、ミッキーマウスの模様がついていますが、さりげないデザインで、ふつうにみていればミッキーマウスだとは気づかないところが、大人の帽子。


 もうひとつは、美女と野獣のキャラクター「ポット夫人」のタグがついたカーネーション。


 「母、これ何だか当ててみて」と聞かれて、「プリザーブドフラワー?紙の造花?」と答えました。答えは「バス・フレグランス」
 おふろにこのカーネーションを入れると、お湯にとけて香り出す。

 昨年クリスマス時期に、娘息子といっしょにホテルミラコスタに泊まったときも、私は自分用には「ホテルでもらえる絵葉書」と「シャンプーその他のアメニティ」をおみやげにしただけで、何も買いませんでした。宿泊費が高いのに、それ以上自分のためのおみやげにお金を使う気がなかった。貧乏性母の、年に一度の大贅沢散財宿泊でしたから。

 それで、娘は「母の日プレゼント」をディズニーホテルで買ってきたのです。
 早めにもらっても、おふろに入れてしまえば溶けてしまうというので、母の日までとっておいて、それでももったいないからまだ使っていません。
 古希の誕生日に使おうかな。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「旧新橋停車場」

2019-05-11 00:00:01 | エッセイ、コラム

 パナソニックビルから見た旧新橋停車場(復元)

20190511
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記新緑令和(6)旧新橋停車場

 5月3日のお出かけ、最初は旧新橋停車場を見ました。何度か来ているのは、パナソニック汐留美術館の隣にあるから。
 復元された駅ですが、パナソニック美術館に来るときは、いつも立ち寄ります。
 ♪汽笛一声新橋を~、の声に送られて日本最初の鉄道が走ったときの歴史に思いをはせることのできる旧新橋駅、まわりをビルに取り囲まれてしまいましたが、貴重な歴史資料と思います。

 前回は娘といっしょに来ました。
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/1aaa93832ee5d8b7e08e9137a8b67564

 今回は、パナソニック美術館の「モロー展」を見る前に立ち寄りました。
 旧新橋停車場北側入り口


 始業時の旧ゼロポイントと始業当時の線路




 復元された始業当時のホーム


 日本の鉄道の始業に尽くしたエドモンド・モレルの事績については、春庭アーカイブの記事をどうぞ。
その1
https://blog.goo.ne.jp/haruniwa2/e/476054e1688d0c5f490e53f0d2338781
その2
https://blog.goo.ne.jp/haruniwa2/e/14ddbff99c972e47effcf9b18c1ea782
その3
https://blog.goo.ne.jp/haruniwa2/e/14ddbff99c972e47effcf9b18c1ea782

 今回の鉄道資料館の展示は、国鉄時代の「貨物」の特集でした。


 最近は、貨物列車を見ることが少なくなりました。
 かっては、物流の中心に貨物列車があったのですが、最近は長距離トラックなどの陸路や空輸のほうが盛んになり、貨物の長い車列が駅前を通過していく光景はとくに意識しないと目にはいりません。都心の駅ですと、駅のホーム側線路を貨物が通過することがなく、貨物専用の路線を使うほうが多いからです。

 私は、仕事先から帰るときの駅ホームで、次の電車を待っているとき、石油やガソリンを運ぶタンクが連なった車列が通りすぎるのを見送っています。はじめて貨物列車を見たらしい若者が「おっ、スゲエ、長っ!」と言って見送っていたりします。貨物列車は、ホームの長さより長くつながっていても大丈夫ですから、長いのが多いようです。(テレビでは、モンゴル奥地の貨物列車が百両連結しているのを見たことがあります)

 貨物駅の模型展示


 私はこどものころ、一度だけ貨物列車の車掌室にのせてもらった思い出があります。
 国鉄駅員だった叔父の一家といっしょに旅行したときのこと。なにかの具合で予定の列車に乗り遅れ、もうその日の便はない、というとき、叔父が知り合いの駅員に掛け合い、最後の運行列車である貨物列車の車掌室に乗車できることになったのです。

 おかげでその日の遅く、ふるさとの駅に着くことができました。車掌室の窓は小さくて子供の背には高い位置にあり、車窓の景色もみえません。子どもたちは退屈してみな眠り込み、起こされたときにはふるさとの駅についていましたから、「貨物列車の旅」という記憶は乗り込んだときのことだけですが、ふつうはできない「貨物列車に乗った」という思い出は、60年たった今でも残っています。
 
 JRになった今では、貨物列車に客を乗せたりしたら就業規則違反になって、処分ものかもしれません。国鉄時代は、駅員同士の「お互いさま」精神で、そんなイレギュラーな乗車も大目にみてもらったのでした。(国鉄組合の力が強かったので、国は全力をあげて国鉄民営化すなわち国労つぶしを行ったのです)

 そんな思い出をかみしめながら、旧新橋停車場の中にあるライオンビヤホールでビールとステーキランチ。
 ホームを背にしたところ


<つづく>
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ぽかぽか春庭「みどりの日散歩その2」

2019-05-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190509
春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記新緑令和(5)みどりの日散歩その2

 みどりの日の自転車散歩、小石川植物園から新宿御苑に行く予定で飯田橋方面へ。後楽園駅前を通ったので、ついでに後楽園庭園にも寄ることにしました。たんぼに田植えをしているころかな、と思って。
 1反ほどもない田圃は、代掻きが終わったところで、これから水を入れて田植え、というところ。

 一番高い「峠」から園内を見る。

  
 みどりうららか、池面は静か。鴨が3羽、よたよたと通路を横切っていったのもほっこりする光景です。
 先頭鴨は道を横切って草叢の中へ。


 14時から大道芸がある、というので見ていくことにしました。日が照る広場、暑いので一枚上着を脱いでの観覧。
 若い男芸人さん、見物衆の中に外人さんもいるのを見てか、英語交じりの口上です。英語がわかる観光客だかわからないけれど、「I am Japanese Juggling Samurai」という英語に、さかんに拍手を送っていました。Samuraiがジャグリングするものかどうか知らぬが。
幕末維新のどさくさで、欧米巡業に出た曲芸師の一団に、食い詰めたサムライがいたかもしれない。



 傘回し、茶碗やマスを回し、棒のジャグリングも見せて、終わりに近づいたら、突如雷鳴響きました。びっくり。にわかに空も暗くなる。
 最後の曲芸、皿に入った水を振りまく水芸のあと、マスの中に投げ銭入れて、後楽園庭園を出ました。

 皿から水が零れ落ちるようす、私のカメラではよくわからないのが残念。水はきれいにまかれました。


 飯田橋から外堀ぞいに自転車を走らせる。雨がぽつぽつ降りだしました。防衛省前からわき道に入ると、東京女子医科大学裏手に出ました。
 たしか、女子医大近くに小笠原伯爵邸があるはず。本降りになる前にカフェでコーヒーでも飲んで雨宿りの一休み、と思って寄りました。
 ランチは予約客のみの受付ですが、カフェは予約なしで入れます。

 2018年の3月、yokoちゃんといっしょに「邸宅見学会」に参加した春庭記事は、「百年名家」などのテレビ番組で小笠原邸が紹介されるたびに閲覧数が上がります。たいしたこと書いてないけれど、ヘタな写真でもこれから小笠原邸を訪問する人の参考になれば幸いです。
その1
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/24992b5a24612f49a5a9fbcc74648814
その2
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/7871699023fa7b42b46762016102c483 

 2019年5月4日の小笠原邸の写真はまたのちほど。ほとんど同じ構図で写真撮っています。前回取れなかった「テーブルの脚」写真が見どころになります。

 カフェで飲んだ704円のコーヒー、ふだんはコンビニの100円カップコーヒーですが、まあ、場所代です。

 小笠原邸から夏目坂を進んで行ったら、早稲田大学前に出ました。なんか、ぐるぐる回ってしまったみたいです。
 学期中だとわらわら湧き出ている学生も、連休中はまばら。これならおばはんが写真とっても恥ずかしくないかと、大隈講堂前や大隈重信像前で記念写真をとりました。



 50年前は、銅像前で記念写真撮るなんてできませんでした。構内タテカンが所狭しと並んで、ヘルメットかぶった学生たちが「大学は日帝の手先になるなー」なんて拡声器でがなっていました。かれらも卒業すると企業戦士としてこの50年をすごし、今は退職爺さんになっているんでしょうね。
 人もまばらな大隈翁像前


 私が拡声器の彼らを信用しなかったのは、思想うんぬんではなく、バリケードの中で、女子学生におにぎりを作らせていたからです。デモにいったり内ゲバ闘争する男子学生を炊き出ししたりして支えるのが女性の役割?ケッって思いました。社会を変えると叫ぶ彼ら、男女の役割分担を変えるという発想は皆無でした。むろん炊き出しは大事。人間食わなきゃ。だれかがやる。でも、それは役割じゃ無いからね。私はバリケード封鎖の横を通って、女子医大の内科検査室で採血やら、尿検査やらやっていたのでした。検査士資格取ったあと、間もなく辞めたけれど。

威勢のいい男子学生にけなげに尽くした女性たちは企業戦士の奥様になって、今頃は年金で悠々暮らし、炊き出しおにぎり作る女性にならなかった私は、古希になっても食うために働き続ける。いいけどさ。自分のおにぎりは自分で作る私になったのだから。
 そういう50年をふりかえりつつ、江戸川橋経由飯田橋後楽園を通って帰宅。

 雷鳴をのぞけば、のどかな令和みどりの日でした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「みどりの日散歩」

2019-05-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190507
春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記新緑令和(4)みどりの日散歩

 毎年恒例にしているみどりの日の自転車散歩。
 今年は、小石川植物園と新宿御苑を回ろうと計画していました。しかし、小石川植物園から新宿御苑へ向かう途中、後楽園に出たので予定には入れて無かった後楽園庭園に寄りました。
 園内巡って、江戸太神楽の曲芸を見終わっら突如大きな雷鳴。
 こりゃ、一雨くるかも、と、大慌てで飯田橋から市ヶ谷へお堀端を走っていると、雨がぽつぽつ。

 防衛省前から東京女子医科大学裏へ。そうだ、女子医大のそばに小笠原伯爵邸があったな、雨宿りならここか、と、カフェでコーヒーを飲む。邸内を勝手に見学後、もう御苑まで行っても入園タイムに間に合わないかと、夏目坂を通り、帰るつもりが早稲田大学前に出ました。早大構内をひとめぐりしてから江戸川橋経由飯田橋に戻り、そこからはまっすぐ帰宅。
 朝10時半から7時半まで自転車に乗って、サドル疲れしました。(お尻が痛くなったことをちょい、気取って言ってみました)

 まずは、小石川植物園の報告。
 園内、毎年のみどりの日のように、家族連れやらオバサングループやらで賑わっていました。

 園内の池のまわりに人だかりがしているので、覗いてみると、牛蛙の声が聞こえました。ブゎぉーと無く声、初めて聞きました。2匹いて、どちらも鳴きます。片方がもう片方を追いかけるように移動しています。蛙は雄のみ鳴くというのが牛蛙もそうだとしたら、この2匹は雄同士で縄張り争いをしているのかもしれません。体調は、10~15cmほど。


 池には小さいオタマジャクシが泳いでいました。牛蛙のオタマジャクシは人の手の平くらい大きいみたいですから、このオタマは牛蛙じゃないのだろうけど、牛蛙、メスもいるのかしら。2年前の池では見かけませんでしたから、どこからやってきたのやら。食用蛙が逃げ出したのか、池によくいるミドリガメのように、飼いきれなくなったペットを捨てる飼い主がいたのか。
 池には「ザリガニ釣り禁止」の看板が立てられていたので、牛蛙が生息できるようになったのと関連するのかしら。

 園内のつつじ、早く咲くキリシマ系のつつじは終わっていました。サツキはまだ咲いている。
 医学校の前で写真を撮ろうとしてカメラを構えたら、後から来たおじさんが、「そこの写真撮っている人、私のカメラに入るからどいて」と、言う。「私も今撮ろうとしていたのだ」と思いましたが、面倒だから、後ろに下がる。おじさんのカメラ、私と同じでコンパクトデジカメですから、専門家が一眼レフなんかでいろいろなアングルや露光を設定して撮るのとは違い、すぐに終わるのだろうと思ったので、場所をゆずったのです。

 この医学校写真、デジカメで1分。


 おじさんが1,2分で撮影終わってからもう一度カメラを構えました。私だってデジカメ撮影ですから、1分もかからない。しかし、おじさんには、自分が撮ろうとしたとき、フレームに私が映り込むのが我慢できず、待つことができないのだなあ、と気の毒に思いました。
 長年男性優位の職場で勤務し、退職してカメラ趣味もったおっちゃんなんでしょ。「女性より自分に優先権がある」という勘違いを一生持っている人じゃないと、「このオレ様が撮影するのだから、婆さんはどけ」なんて言えないよね。

 私、若い頃なら「どけ」と言われて、素直にどくような女じゃなかった。「私の撮影は1分で終わりますから、お待ちいただけますか」「私も撮ろうとしているところなのですが、なぜ後から来たあなたに撮影場所を譲らなければないのでしょう」くらいのことは言ったろうに。私も年取って、人と争うより待つほうが楽、という心境になってきた。こういうのが高齢化というか「丸くなった」ということなんでしょうかね。

 売店でバニラソフトクリームを買って、ベンチで食べていると、隣におっさんふたりが話しているのが聞こえてきました。
 「○○が芽を出しているのを見つけましたよ。この間、芽がふたつ出ているのを見たのとは違うところに四つでていました。受付にいるイトーさんに教えてやらなきゃ」と話している。○○が何なのか、どこに芽があるのか知りたいなあと思ったけれど、すぐに話はおっさんふたりの病気話になりました。

 ひとりは何年か前にナントカ癌を患ったけれど、今のところ再発はなし。もうひとりは前立腺癌という診断を受けたのだけれど、病院へ行きたくないからほっておいたら、前回の検診ではいよいよ手術しなければならない、と医者に言われた、という会話。高齢者同士あつまると、たいていは病気の話になっていく、というのを聞いていたけれど、ほんとに何を話題にしていてもじきに病気話になるのだなあと、日頃年寄り同士で互いの病気について話す機会がないので、聞き耳立てていました。

 日本では、共通の話題がないとき、とりあえず天気の話をしておけ、と留学生には教えているけれど。高齢者同士の会話、自分の身体のあっちが痛い、こっちの具合が悪いということのほかに話題が続かないのも寂しいことだけれど、一番の関心事が自分の身体なのだから、仕方ない。
 私だって高齢者。持病があるし、膝が痛い肩がこるけど、私には身体の愚痴をこぼす相手がいないので、「高齢者病気話題」のチャンスなし。

 毎年見ている「ハンカチの木」を眺めて、次の「みどりの日無料公開」へと向かいました。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「ゴスペル&パイプオルガンとチェロ」

2019-05-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190505
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記新緑令和(3)ゴスペル&パイプオルガンとチェロ

 無料コンサートのお楽しみ、続けています。
 4月22日は、声楽。
 ゴスペルシンガー、渡長二三子(わたなが ふみこ)さんの歌声を楽しみました。(於:滝野川会館 12時-13時)

 渡長さんは、オペラ歌手を目指してクラシック声楽を学ぶ途上、病で失明宣告を受けてオペラ歌手を断念。
 失意のなか、闘病中にゴスペルソングに出会いました。治療の甲斐あったのちは、手話ソングなどバリフリー音楽にも活躍の場を広げています。

 渡長さん、マイク音量でのピアノの弾き語りでしたが、曲の感じからいうと、ピアノ伴奏者をいれて、マイクなしの声でホールに響かせてほしかったです。声量は十分にありそうだったので。

<第一部 >
1.黄金のエルサレム Yerushalayim Shel Zahav 作詞/作曲. Naomi Shemer
2.さやかに星はきらめきCantique de Noël 作詞/作曲. Adolphe C. Adam
3.静けき川の岸辺を 作詞. Horatio Spafford 作曲. Philip Bliss
4.浜辺の歌 作詞. 林古渓 Kokei Hayashi 作曲. 成田為三 Tamezo Narita
5.涙そうそう 作詞. 森山良子 Ryoko Moriyama 作曲. BEGIN
 涙そうそうの手話、とてもよかったです。

<休憩>
<第二部 >
6.一羽の雀 作詞. Civilla D. Martin 作曲. Charles H. Gabriel
7.さくらさくら 日本古謡
8.この道 作詞. 北原白秋 作曲. 山田耕筰
9.アメイジング・グレイス 作詞:John Newton

 渡長さんの声は、ジャズやゴスペルに向く少し濁りの入った声質だったので、アメイジンググレイスのように透き通った声向きの歌よりもゴスペルを多めの選曲のほうがよかったように思いました。
 心のこもった歌いぶりで、闘病のあいだのご苦労も歌への情熱になったのだろうと思います。

 月に一度、第4月曜日のプチコンサート。会館運営を受託している会社が「私たちはこのようなよい企画を区民に提供しているので、運営をまかせてください」と、区に主張するための無料コンサートです。500人は入れる大ホールが半分も埋まっていなかったのは残念でした。月曜日の休館日に開催するので、ひまなジジババしか集まらないということでしょうが、もっと大勢の人が集まれる時間帯にしてほしいなあと思います。週末は有料開催のコンサートの貸し出しにまわさないと運営上の問題があるのでしょうが。 

 4月28日は、王子北とぴあで久しぶりにパイプオルガンコンサートを聞きました。15:00-16:00
 今回は、安杏菜An anna(オルガン)と和泉景子(チェロ)のジョイントコンサート。
 安さんは、藝大卒業後ベルギーでオルガンを学び、ソリストとして活躍中のオルガニストです。和泉さんも藝大チェロ科卒。芸大付属音楽高校在学中からジュニアチェロコンクールに入賞するなどで注目され、現在は、女性チェロ4重奏「チェロカルテット結」メンバーとしても演奏活動をしています。

 リハーサル中


1 R・シューマン(1810-1865)ペダルピアノのための練習曲Op56より Ⅰ、Ⅲ
  ペダルピアノとは、19世紀に開発された足鍵盤のあるピアノ。現在のピアノには足鍵盤はないので、オルガンで弾かれます。
  
2 J・ラインベルガー(1839-1901)ヴァイオリンとオルガンのための6つの小品Op150より 夕べの歌、パストラーレ(牧歌)、エレジー(哀歌) チェロとオルガンへの編曲はHJブッシュ
 和泉景子さんのチェロの音色、繊細で美しい音色でした。一番前で聞いていた私にはよく聞こえましたが、音量的に、やや線が細い印象を受けました。ジャクリーヌ・デュ・プレのような「情熱的すぎる」演奏を聞きなれてしまったせいかもしれません。

3,4 J・Sバッハ(1685-1750)目覚めよとよぶ声ありBWV645 前奏曲とフーガ ハ長調BWV547

 フラッシュを使わなければ撮影OKということでしたが、背景が明るすぎるので、私のカメラだとチェロが暗くなりました。


 毎月1回、第4日曜日に北とぴあ1階ロビーでパイプオルガンの演奏が公開されています。
 移動式の小さなパイプオルガンですし、音響が整っているとはいえない出入り口のロビーでの演奏ですが、無料のミニコンサート、だれでも気軽に聞けるところがいいと思います。

クラシック音楽が好きでよかったと思う理由の第1は、無料コンサートのほとんどがクラシックだということ。遠出することもない令和難民も、自転車と無料コンサートで心豊かにすごせました。

<つづく>
コメント (2)
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