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ニーハオ春庭北京故同めぐり

2011-12-10 11:37:00 | 日記
ニーハオ春庭「北京故同めぐり」
2007/09/17 月
ニーハオ春庭中国通信>北京故同めぐり

 日ごとに様子を変える中国の首都北京。
 町中で建設ラッシュです。

 故同(フートン)とは、北京の「路地」をさし、路地に集合している一般市民住宅地ひっくるめて故同と呼ばれています。
 江戸の下町のように、小さな民家がぎっしりと軒を並べる地域です。
 伝統的な「四合院」と呼ばれる邸宅を中心に、四合院と四合院をつなぐ路地が故同です。

 13年前、中国に滞在したとき、2月に北京民族飯店に宿泊し、近所を散歩しました。故同のなか、古い住宅地が続いていました。
 ところが、半年後、9月にもう一度民族飯店に宿泊したとき、民族飯店周辺の故同はそっくり取り壊されて更地になっていました。

 2008年北京オリンピックを前に、政府は「保存」をきめた場所以外の、ごみごみした故同をどんどんとりこわし、「高層住宅地」や「公共施設ビル」に立て替えています。
 政府からの召し上げとなると、一般の居住者は、いやおうもなく立ち退かされ、古い住宅はたちまち壊されるのです。
 今回も、とり壊された故同のがれきの山をたくさん見ました。

 今回私が歩き回ったのは。
 1日目は、市の中心部の天安門、故宮の東側、王府井の周辺の故同。
 2日目は、地下鉄が取り囲む区域の北半分にあたる、鼓楼と北海の周辺故同の中です。

 最近は、北京見物に上京する中国の人にも、故同巡りが人気で、観光用の輪タク(自転車タクシー)が、赤い幌の座席を自転車につないで、故同の中を走り回っています。
 一日はこの輪タクにも乗ってみようと思いますが、まず、私は自分の足で歩いてみました。バックパッカーですから。

 観光用の故同ではなく、地元の人が実際に生活している路地を、人々のおじゃまにならないように、静かに歩きたい。路地に住む友人を訪ねてきた、という雰囲気で。

 人がいない路地は写真をとりましたが、人の生活しているところを歩く場合、人が写り込むところでは、カメラはしまっておきました。
 路地で将棋をしているおやじさんたち、井戸端会議に余念のないおばさんたち。故同の普通の暮らしを、自分の目にやきつけるだけ。

 観光用の故同、おみやげ屋が店を連ねる通りも行きましたが、やはり観光用故同と普通の人々が暮らしている故同は雰囲気が違いました。

 故同の一角に人々の暮らしがあり、一角は取り壊しが始まっています。
 人が住んでいない場所だからいいだろうと思って、取り壊しが終わりがれきの山になっている故同の一角にカメラを向けたら、測量をしていたおじさんに叱られました。

 立ち退きを余儀なくされた人々のなかには、「強制的な立ち退き反対」や「立ち退き料が少なすぎる」といって、運動をしている人々もいるので、当局も「がれきの山の故同」であっても、撮影に敏感になっているのかもしれません。

故同の写真 旅行会社HPより
 http://www.chinatrip.jp/beijing/bj-midokoro/zglouhutong.htm
 
<つづく> 
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2007年09月18日


ニーハオ春庭「北京故同・共同厠所でおシリあい」
2007/09/18 火
ニーハオ春庭中国通信>北京故同・共同厠所でおシリあい

 中国四千年の歴史上、北京は、3000年前の周王朝の時代に早くも歴史の表舞台にでてきます。
 紀元前11世紀、周の封建王国のひとつ、燕の都として登場しているのです。3000年前から千年続いた都市名は「薊城(ケイジョウ)」。
 燕は、43代目の王が統治していたとき、秦の始皇帝の全国統一によって、紀元前220年に、滅ぼされました。

 その後、10世紀初めには契丹族の遼王朝の都となりました。
 12世紀には、女真族の金王朝の都、名前は中都。
 13世紀に元が中国全土を統一したときには、都市名を「大都」とし、世界的な大都市となりました。ヨーロッパからマルコポーロがやってきて住み着いたのも、この大都です。

 「故同フートン」は、元の時代、「路地で井戸を共同利用する場所」という意味を表したといい、モンゴル語で井戸を意味する“xuttuk”の音に漢字をあてはめた、という説が有力です。
 ほかにも諸説がありますが、「井戸=フートン」が「路地裏の共同住宅地」を表すという説、納得できます。

 故同には、金魚故同、炒豆故同、豆腐池故同など、個性的な名前がつけられています。
 故同の地名や四合院に興味のある方は、以下の本を参照ください。
 自分が読んでない本を紹介するのは、いつもはしないんだけど、故同に興味があって中国語読める人には参考になるだろうと思って。

『北京街巷胡同分類図志』  白宝泉 白鶴群 著 金城 2006.1 大A5平/342頁 2,340円 ( 北京城概況/北京的街道/内城和外城街道胡同命名的特点/街道胡/同的道路和四合院/北京城内街道胡同的数目和名称変革/北京城内/街道胡同名称的分類 )
http://www.cbshop.net/img2/m10720.jpg

 北京の故同、井戸は各戸にひかれた水道に変わったところもありますが、トイレが共同利用であるのは、今も変わりありません。故同の家屋では、一軒一軒の家にはトイレがなく、20mおきくらいに「公共厠所」があります。

 市内のトイレは、2008年オリンピックを前に改装が急ピッチで、13年前と比べれば、きれいなところが多くなりました。
 北京故同の町歩きをなさる方々、無料公共トイレは旅行者が使ってもいいのですが、あくまでも地域住民のためのトイレだということは念頭におくべきです。日本の公共トイレとは設置の趣旨が違うのです。

 よく、旅行者のブログなどで、「北京の共同トイレが汚かった」と書いてあるのをみることもありますが、汚いと思うなら、地域のトイレをお借りしたお礼として掃除をしてくるくらいしてもいい。「人が生活しているところを歩く」というのは、単純に観光地を見物するのとは違うのですから。

 公共厠所、男女別のドアはあるほうが多いけれど、無いところもあるし、あっても、開けっ放しのほうが多い。
 女子トイレ男子トイレとも、基本的に個室のドアはありません。これは、改修された新しいトイレも同じ。個室ドアなしが標準仕様。
 次の人が待っているときは、待っている人と顔を見合わせながら用を足す。

 ご近所同士であるならば、四方山話を続けながら、前の人が終わるのを待っています。日本の銭湯に「はだかコミュニケーション」があるなら、故同ではなんといっても「おシリあい」コミュニケーションです。

 しゃがみこみ式トイレで、のんびり世間話など交わせるようになったら、本物の北京っこといえるでしょう。私?北京っこじゃないもんで、そこまでは。
 おばあちゃんががんばって座り込んでいるなかで、ごいっしょさせてもらったけれど、「ニーハオ」しか言えなかった。トイレでは筆談というのもナンですしね。

 私が歩いていると、とある家の入り口からおっちゃんが手に新聞を持ってひとりで出てきた。あ、これは、トイレ行きだな。それも大のほうだね。
 おっちゃん、期待通りに公共厠所に入っていきました。ゆっくり新聞を読んでねっ。

<つづく>
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2007年09月19日


ニーハオ春庭「北京故同めぐり・四合院」
2007/09/19 水
ニーハオ春庭中国通信>北京故同めぐり・四合院

 さて、故同のもともとの意味が井戸であるとして、現在の故同は「路地」を意味します。
 元朝の都・大都の道路は、幅二十四歩(約37.2m)を大街、十二歩(約18.6m)を小街、六歩(約9.3m)を胡同と区別して建設され、故同とは、幅が9.3m以下の路地をさしました。

 元朝につづく、明朝、清朝も、北京を首都とし、北京そして故同はますます発展しました。
 明時代、すでに故同に関する研究書が出版されています。
 1560年(嘉靖39年)に出版された『京师五城坊巷蘙集』は、故同に関する文献のうち、初期のものです。

 清朝の統計で故同の数は2076、中華人民共和国が成立した1949年の統計では6,000以上の故同が北京に存在していました。

 しかし、北京の発展とともに故同の取り壊しがはじまり、特に、北京オリンピックを目前にした現在では、取り壊しに急ピッチがかかっています。
 保存状態がよい伝統住宅があるため、政府によって「保存地区」と、お墨付きが得られた故同もありますが、住民の意向に関わりなく、都市計画にしたがって、どんどん取り壊しが進んでいます。

 何年か前に見た『北京バイオリン』にも、この故同の風景がありましたし、名優朱旭(「大地の子」の養父役として有名)が主演した『こころの湯』では、故同の取り壊しが大きな山場になっています。
 『故同のひまわり』は、まっき~さんご推奨ですから、皆さんもぜひ見てね。

故同写真 個人旅行ブログより
http://www.ne.jp/asahi/suzuki/yutaro/beijing99/bj990505.htm

 故同に建つ家のなかで、四合院と呼ばれる屋敷は、10世紀初めの遼王朝の時代にその基本的な建築様式が形成され、元時代には現在の様式が確立していました。
 中庭を中央に、東西南北四方に建つ家を回廊でつないだ、陰陽五行・風水にもとづいた形式のお屋敷です。

 清時代には、北京市内に四合院住宅が6000戸あるといわれていましたが、古い住宅の取り壊しが進んだ現在では、1000戸程度しか残されておらず、保存状態のよい一般住宅は数が少なくなっています。

 四合院住宅のなかで、有名人が住んでいた家は、魯迅記念館、茅盾故居、宋慶齢故居、梅蘭芳記念館、老舍記念館、郭沫若記念館など、現在は記念館・博物館として公開されています。

 13年前は梅蘭芳記念館を見ましたが、今回の故同巡りでは、宋慶齢故居、郭沫若記念館を訪問することができました。
 特に宋慶齢故居では、のんびりゆったりすごしました。気に入ったところでゆっくりすごせるのが、ひとり旅の気楽なところです。

 今回実現できなかった残念なことのひとつ。四合院に泊まりたかった。
 四合院住宅のうち、大きなものは、改装されてホテルになっているところも多い。
 この次に北京に滞在する機会があったら、ぜったいに四合院にとまりたいと思います。

 四合院ホテルの例。
 かって国民党将軍・廖耀香の旧居だったという四合院を改装したホテル
http://news.before-and-afterimages.jp/C1884801429/E20070406125631/index.html

 四合賓館HP http://www.sihehotel.com/

<つづく>
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2007年09月20日


ニーハオ春庭「北京故同めぐり・千竿五号」
2007/09/20 木
ニーハオ春庭中国通信>北京故同めぐり・千竿五号

 故同のたたずまいが画面の要になっている映画、昨日あげた『故同のひまわり』などのほかに、『故同愛歌(看車人的七月)』があります。
 モントリオール国際映画祭で審査員大賞を受賞していたそうですが、私は全然この作品の情報を知らず、単館(ポレポレ東中野)で4月に一般上映されたときはすでに中国へ行ったあとだったので見ることができませんでした。
 今はまだDVDも出ていないという間の悪さ。DVDになるのを待つしかなさそうです。

 輪タク(自転車タクシー)による北海周辺の故同めぐりで、輪タク運転手が必ず立ち寄る四合院のコースポイントのひとつが郭沫若記念館。
 郭沫若は、文学者としても政治家としても活躍した有名人です。

 郭沫若記念館の南側に、千竿故同があり、千竿故同五号の地番に、ひとつの四合院住宅が建っています。

 「明清老宅」という私邸で、地味な学者の家でした。
 明の時代に建てられ、清時代には「清朝高官、斎家」の居宅として文革時代まで、代々受け継がれてきたお屋敷です。入場料20元。

 文革時代、この四合院は紅衛兵から激しい攻撃を受けました。この家の持ち主は、かって清時代の政府高官であり、妻は愛新覚羅家の出身、皇帝の一族であったという理由で迫害されたのです。

 一家は迫害を逃れ、世界各地に四散。邸内は荒れたまま放置されていました。
 ようやく父祖の家の相続を認められた相続人によって、2年前から四合院の復旧修理が行われ、現在は「典型的な四合院邸宅」として、一般公開されています。

 千竿五号の四合院屋敷の相続者、女主人の父上は、戦前の東京帝国大学へ留学した学者で、女主人とその兄弟達は、父上から教えられた日本語を読み書きできます。女主人は、流ちょうな日本語で四合院の解説をしてくれました。

 「私の母親は、愛新覚羅家の出身です。一族の娘達は皇帝の花嫁に選ばれる資格をもっていました。私の伯母のひとりは、皇帝の花嫁候補に選ばれたことを誇りとし、皇帝以外の誰にも嫁がぬという気概をもって、一生独身ですごしました。
 私の母は、父の学識に好意をもち、結婚しました。父は日本で学び、学者として大成しました。」

 一族の集合写真の前で、誇らしげに親戚一同について解説する女主人。
 文革という嵐の時代をすぎ、ようやく自分の一族を誇りをもって紹介できるようになったこの女主人の心持ちが、私には共感できましたが、なかには、「自分の一族がこんなに立派だっていう自慢ばかりしているので、聞いているのがいやになった」という感想をブログに書いている方もいます。
 「一起感動」という北京駐在員の方のブログより。ページの下の方に、千竿故同についての感想がありました。
===========
(北京駐在員の日記)
 その後、入り口の階段が7段もある、千竿五号という四合院へ。
 もともと四合院の階段は、そのくらいの高さを表しているので、この四合院の住人は非常に位の高い人物であることを示してます。だからここに今住んでいる人はその子孫ということで、非常に良いお宅の人だと言うことができます。

  実際、ここは確かにすごいところで中もきれいだったのですが、案内のおばちゃん=この四合院の持ち主が、いかに自分の先祖が素晴らしかったか、そして今の親戚一同がいかに優秀かと言うことをいやと言うほど説明してくれたので、最後のほうはちょっと嫌な感じになりました。
  人間、謙虚が一番です。
http://kimtake-umigame.cocolog-nifty.com/sango/2007/01/index.html
============

 以上は、北京で仕事をはじめて5年になるという30歳の方の感想です。
 いろいろな感想があってよいのですが、一族の歴史を語ると自慢話に受け取られるのなら、語り部としては、つらいところですね。

 千竿五号の地図 http://www.qiangan5.com/html/lxwm.htm

<つづく>
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2007年09月21日


ニーハオ春庭中国通信>「千竿五号 明清老宅」日本語解説(1)
2007/09/21 金
ニーハオ春庭中国通信>「千竿五号 明清老宅」日本語解説(1)

 私にとっては、まだ北京の観光ガイドブックにも載っていない、インターネットに日本語サイトも持っていない、この「千竿五号」の四合院を訪問できたことは、とても印象深い、よい思い出になりました。

 「千竿五号明清老宅」は、中国語サイトのみで、日本語サイトがありません。
 そこで、女主人が解説してくれた話と、中国語サイトの翻訳を総合して、次のような日本語解説版を「勝手に」作りました。
 以下、「千竿五号明清老宅 日本語版解説(1)~(3)」において、この四合院の説明を書きます。

 千竿五号四合院のご主人、この日本語版をもとにして、日本語サイトを作ってくれたら、うれしいです。

 「千竿五号」HPからの翻訳は、逐語訳ではありません。女主人の解説を思い出しながらの春庭の拙い意訳ですので、HP中国語をみて、いろいろご教授ねがえれば幸いです。

 「千竿五号明清老宅」HP http://www.qiangan5.com/

<ごあいさつ>
 みなさま、「四合院 千竿五号・明清老宅」へようこそ。
 四合院とは、中国の、古くからの民家の建築様式です。
 中庭を中央におき、母屋である北屋のほか、東、西、南に4つの建物を配しているので、四合院と呼ばれています。

 私どもの、「千竿五号 四合院」は、現存する四合院形式の民家のなかでも、典型的な清朝満州族高官の邸宅の様式を残しています。
 北京に残されている四合院の中でも、高い格式を誇る伝統的な建物と庭をごらんいただけます。
 伝統的四合院住宅のなか、選りすぐりの様式を誇る我が家を、どうぞ、ゆっくりごらんください。

<わが四合院の歴史>
 四合院邸宅は、元の時代から明朝、清朝、中華民国時代、そして現代の中華人民共和国、さらに文化大革命の混乱を経て、今に至るまで、八百年以上もの間、北京の中心部に伝統的な民家として設立され保存されてきました。

 我が家は、父方は、満州族清朝高官の家柄、「斎他拉」氏。
 父は東京帝国大学で学位を取得した学者でした。
 母方は、愛親覚羅家の出身で、一族の娘達は、皇帝の花嫁候補になるべき階層として、大切に養育されておりました。

 清朝時代には、天井の高さ、入り口の階段の段数まで、細かく身分による家の構造の規定があったなか、入り口の段数は七段、四品の官位をもつことを示しています。
 屋根や天井の高さも、高い家格を許されており、北京に残る四合院住宅のなかでも、有数の建築であるといえます。

<つづく>

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2007年09月22日


ニーハオ春庭「千竿五号 明清老宅」日本語解説(2)]
2007/09/22 土
ニーハオ春庭中国通信>「千竿五号 明清老宅」日本語解説(2)

 我が四合院の歴史は、明時代にまでさかのぼります。
 数百年前に建てられた我が四合院住宅。数百年前からの光を宿した家ではありますが、文化大革命時代に、ほとんどの家具調度は破戒され、家も接収されておりました。
 玄関へ至る階段も、本来は七段あったのに、文革時代は下の二段が取り除かれており、内部は荒廃のままにされていました。

 文革時代、かって清朝の高官であったこと、母方が皇帝の親族であったことなどから、紅衛兵から激しい攻撃を受け、一族は世界各地にちりぢりになっていました。
 現在、中国はかっての文化を見直す動きがあり、私たちは、先祖から受け継いだこの家を、ようやく我が手に取り戻すことができました。
 返還が許されてのち、修復につとめ、古い家具なども買い戻す努力をつづけてまいりました。
 また、昔日の家主の官位の高さを示す様式を復元することができました。

 現在、このような形で私どもの四合院を公開し、多くの方々に伝統的な住宅を見ていただけることは、この家を建て、守ってきた多くの人々とともに、私どもの喜びとするところであります。

<千竿五号四合院・中庭>
 まず、中庭。
 内庭は、余分な装飾を廃し、質実をむねとしています。
 内庭を囲む4つの建物をつなぐ求心的な役割を、中空の中庭がはたしているのは、四合院が陰陽五行思想によって建築されていることによります。
 庭から周囲をみわたせば、四合院の構造を体得できることでしょう。

 内庭と建物をつなぐ回廊。方形のテーブル、大きな肘掛け椅子。庭の木陰で休息すれば、古い北京のおもむきを経験でき、古い北京の情緒をゆったりと感じられます。

<四合院建築の様式>
 清朝高官であった「斉他拉」家の私邸は、明時代に建てられた四合院がもとになっています。
 北京の一般私邸としては、もっとも完備している四合院であり、現存する建築様式として、数百年にわたる北京故同四合院の発展史を、我が家の歴史として見ることができます。

 まず、入り口で目にするのは、七段の階段を有する表門です。
 石段の段数、屋根の高低は、封建社会で厳重な階級を表しています。
 この四合院が七段の石段を持っているということは、主人の地位が清朝四品以上の官吏であったことを示しています。

千竿五号明清老宅の室内内部の写真を載せている中国語のブログ
http://blog.xinhuanet.com/blogIndex.do?bid=2514&aid=4470521&page=detail

<つづく>
09:54 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2007年09月23日


ニーハオ春庭「千竿五号 明清老宅」日本語解説(3)」
2007/09/23  日
ニーハオ春庭中国通信>「千竿五号 明清老宅」日本語解説(3)

 四合院建物の構造は、すべて陰陽五行思想によって配置されています。
 正門は南東(辰巳=巽)におかれます。巽の「風」によって、すべての出入りが順調に家の中を行き来できます。

 四合院の東、西、南、北に位置する4つの家屋各々は独立しています。
 棟と棟は別々に建てられ、それぞれの建物は四隅を渡り廊下でつなぎ、また、中庭の回廊によって行き来を行います。

 母屋は北側に配置されます。
 坎(カン=北方)は、水を支配するため、火災を免れる位置なので、もっとも大切な母屋が北側に位置します。
 屋敷の北側にあるということは、中庭に向かって南側に戸口や窓を開くことができるということであり、もっとも明るくよい部屋を作ることができます。

 もっともよい棟である北側の母屋には、主人夫妻が居住します。
 母屋には3つの部屋があり、真ん中の部屋のみ中庭への出入り口を有し、両側の二間は、中央の部屋からのみ出入りできます。

 中型以上の大きさの四合院では、北側の母屋のさらに奥に、あと一棟の建物があります。ここには、長男次男以外の息子達、また、未婚の娘が居住しました。
 結婚前の娘達は、この棟の中で厳格に両親の監視下に置かれ、両親の許可なく外出することはできませんでした。
 良家の子女は、けっして勝手に出歩いたりはしなかったものでした。

 東側の棟と西側の棟には、長男とそれに次ぐ次男が居住します。
 南側の棟は、中庭に向かう出入り口が北側になります。台所、食堂、客間が配置されました。

リンクは国立民族学博物館(大阪)の四合院紹介
http://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/china/04.html

<千竿故同の由来について>
 「千竿故同」の元々の呼び名は「箭杆胡同」
 「箭杆」とは、「矢」の意味です。「細長い矢」のような、細く長い路地を意味しています。

 この名には、明の時代から伝わる伝説があります。
 明の朱棣(永楽帝・明の成祖)は、15世紀はじめに皇位を奪い、大都を北京と改称して首都としました。
 このとき、永楽帝は、部下の徐達に「良い土地を選んで都を建てることにする。それには、10本の矢を北へ射て、それぞれの矢が落ちた地に門を設けよ」と命じました。

 徐達が射た矢は、現在の前門、昌平門、徳勝門、崇文門、広安門などに落ち、永楽帝は、首都を固め、矢のようにまっすぐ伸びる路地を作り上げました。そのひとつが「箭杆故同」です。

 元時代からある宝鈔胡同の近くに落ちた矢によって、この地は「箭杆故同」として修復され、現在の「千竿故同」となったのです。

<おもてなし>
 我が「千竿五号」では、伝統的四合院の客間に、お客様をお迎えして、清朝伝統料理の宴を催しております。
 ホテルやレストランの大規模な宴会とはまたひと味ちがう、一般家庭の中でのおもてなし料理を味わっていただけますので、どうぞ、ご予約のうえ、ご来訪ください。
 心をこめて、おもてなしさせていただきます。

 では、皆々様のご来訪をお待ち申し上げております。

<千竿五号日本語解説おわり>
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2007年09月24日


ニーハオ春庭「四合院・宋慶齢故居」
2007/09/24 月
ニーハオ春庭中国通信>四合院・宋慶齢故居

 私の故同巡りの中心点は、鼓楼。
 鼓楼のふたつくらい手前でバスを降り、宋慶齢故居をめざしました。

 今回の中国滞在中、私は「ふたりのファーストレディ」に興味をもち、資料を読んできました。
 ひとりは、ラストエンプレス。清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀の皇后であった婉容。
 もうひとりは、その清朝を辛亥革命によって倒した革命家、孫文の妻、宋慶齢。

 婉容は、夫・溥儀との冷えた関係に絶望して閉じこもり、阿片だけをよりどころにして、崩壊していく人生から抜け出そうとはしませんでした。
 なぜ、朽ち果てていく人生に閉じこもるのか。婉容の生き方を歯がゆく思いながらも、その哀切な一生は、心に深く残ります。

 個人のブログより 中ほどに婉容の写真
 http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/7bfff4cf9c06d8c198383e6d01f117f0
 同上より 溥儀と婉容
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/c/93325c1daa24e7403a25343d80cf3d91
 「満州帝国」についてのHPより
http://www.vivonet.co.jp/History/j20_Manchuria/Manchuria.html

婉容については春庭中国通信2007年5月26日~6月1日に書きましたので、ご覧いただければ幸いです。

 一方の宋慶齢は、22歳のとき、26歳も年上、48歳の、父の親友孫文(号は中山)と結婚します。
 革命をめざす孫文の秘書として縁の下の力持ちになり、11年間の結婚生活を支え続けました。
 享年59歳という孫文の早い死去によって結婚生活がおわってのち、それまで以上に、政治の表舞台で生き生きと活動を始めます。

 この宋慶齢故居は、もともとは、ラストエンペラー溥儀の父親、醇親王の邸宅でした。
 醇親王・愛新覚羅載灃(あいしんかくら さいほう)。清朝摂政王。

 皇帝位を取り戻すことに固執し、満州国皇帝の地位についた息子溥儀とは一線をかくし、満州へ赴くことはしなかった。
 1951年に醇親王がなくなると、邸宅は戦争犯罪人(漢奸)たる息子の溥儀には渡されず、国家が接収。10年間放置されていました。

 1961年に周恩来の提議で、国家副主席であり孫文未亡人である宋慶齢の邸宅となりました。
后海のほとりに建つ、広い四合院邸宅。広い、見事な建築の四合院です。
http://members.at.infoseek.co.jp/Mr_muu/oneshot1/meisyo/sen/souk.htm

 清朝の摂政・醇親王のお屋敷であった四合院から、国家副主席の邸宅へ。
 宋慶齢の公邸となったのちも、后海のほとりで、政治の舞台になっていました。
 中華人民共和国建国後は、宋慶齢は、国家副主席、名誉国家主席。
 「国母」的な存在として、外交に、婦女子の教育と福祉のために一生をささげました。

 客間。
 若い頃、妹の美齢とともにアメリカに留学して身につけた流ちょうな英語で、外国からのゲストを迎え、人民中国外交の一助をにないました。
 執務室。
 宋慶齢は、晩年に至るまで、中国の女性と子供達の教育と生活の向上のために働き続けました。

 国家主席毛沢東が贅沢三昧の暮らしを続けたのに対して、国家副主席宋慶齢は最後まで質素な暮らしを守ったそうです。
 ガラス越しにながめる寝室も居間も、大金持ちの令嬢に生まれた宋慶齢なのに、質素質実な生活がうかがえました。

 映画『宋家の三姉妹』のキャッチコピー。
 「長女は財力を愛し、三女は権力を愛し、次女は国を愛した」だったかな。

 長女は財閥の御曹司に嫁ぎ、次女は辛亥革命に命をかけた男に嫁ぎ、三女は国民党総統に嫁ぎ台湾中華民国ファーストレディになった。
 マギー・チャン扮する次女宋慶齢は、凛とした生き方を演じていました。

<つづく>

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2007年09月25日


ニーハオ春庭「宋慶齢の和服」
2007/09/24 火
ニーハオ春庭中国通信>宋慶齢の和服

 宋慶齢記念館の入場券には、孫文と宋慶齢が寄り添って立つ記念写真が印刷されています。入場料20元。
 展示室には、毛沢東や周恩来にあてた手紙などが展示されています。

 孫文は、宋慶齢の父親(宋耀如/宋嘉樹)の友人。宋耀如は、アメリカ留学ののち、実業家として成功し、孫文の活動を援助し続けた同志でした。
 最初は長姉の宋靄齢のが孫文の秘書をつとめました。宋靄齢が財閥の子息で孔子の子孫であるという孔祥煕と結婚するため、秘書の仕事は慶齢が引き継ぎました。
 孫文と宋慶齢のふたりが結婚したのは、孫文が日本亡命中の1913年~1916年の間のこととされています。

宋慶齢基金会HPより http://www.sokeirei.org/song.html 

 日本では、中山樵、高野長雄などの変名によって亡命生活を送っていた孫文。東京での二人の結婚はひっそりと始められたのですが、亡命生活という制約もふたりの間の愛情を妨げるものにはなりません。

 宋慶齢の数々の遺品が展示されている記念館で、私にとってもっとも印象深かったのは、一着の和服でした。絞り染め、青と茶色の着物が目に入りました。

 畳まれて展示されていたので、袖の長さはわからなかったのですが、清楚な中に華やぎのある色合いに思えました。
 和服のことは、とんと不案内なので、どのような品なのか、まったくわかりません。
 もしかしたら、日本の支援者などが功なり名遂げた晩年の宋慶齢にプレゼントした一枚ということもあり得ます。

 が、私の想像では、結婚前後に宋慶齢が着ていた思い出深い一着なのではないかという感じがしました。
 ふたりの結婚生活が日本で始まったこと、孫文の支援者には、日本人も多く関わっており、和服をあつらえる機会もあっただろうということなどが想像したことの根拠ですが、このときは単なる想像でした。

 亡命生活をおくる孫文が、この和服を着た若い妻の姿を、息をのんで見つめていたことがあったのではないか。
 若く美しい和服姿の妻がそばにいることが、孫文を励ました、、、、。
 鬱屈した亡命生活をおくる孫文の前に、あでやかな和服姿で登場する宋慶齢の姿が思い浮かびました。

 この和服には、日本での新婚生活をなつかしむ宋慶齢の、「孫文との愛の日々」の思い出がつまっている、そんな想像をしながらガラスケースの中の展示品を眺めました。

 大切に保存され、こうして展示されている和服。波乱に満ちた宋慶齢の一生のなか、この一着への宋慶齢の思いが伝わってくるような気がしたのです。

 北京からの帰国後、この和服について、2007年2月3日付けの時事通信社にニュースが出ていたことを知りました。
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 <時事通信社の記事>
宋慶齢の愛した和服発見=孫文が日本で贈る-晩年まで大切に((時事通信社- 02月03日 15:10)
【北京3日時事】20世紀中国の革命指導者で「国父」と称される孫文(1866~1925年)が1915年、亡命先の東京で宋慶齢(1893~1981年、後の国家名誉主席)と結婚した際、日本の仕立て職人に依頼して作り、新妻に贈った和服がこのほど北京で見つかった。宋慶齢はこれを気に入り、晩年まで大切にした。結婚生活の短かった革命家夫婦にとって、この和服は愛の象徴だったと言えそうだ。

 中国宋慶齢基金会の何大章研究センター副主任は「宋慶齢は(孫文と過ごした)日本での生活を恋しく思っていた。この和服は宋の日本への感情を体現したものでもある」と話した。和服は長さ134センチ、幅125センチで、宋慶齢はモーニングガウンとして使用。晩年の76年、太り気味できつくなったガウンを養女の隋永清さんに「形見」として託した。
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 2007年2月3日なら、まだ日本にいたのに、まったくこの記事に気づくこともなく中国へ出発しました。
 でも、なんとなくのカンで、「この和服は、宋慶齢と孫文の新婚の思い出の品ではないか」と感じたことがぴったりあたっていたので、ちょっとうれしい。

 孫文が、新婚の愛妻に贈った和服。結婚したのは1915年ごろ。それから90年以上を経ても、ふたりの間のこまやかな愛情が感じられる一枚でした。

 宋慶齢の着物の写真(北京短期留学生のブログより)
http://ameblo.jp/gaoyecn/entry-10036282297.html

<つづく>
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2007年09月26日


ニーハオ春庭「宋家の三姉妹」
2007/09/26 水
ニーハオ春庭中国通信>宋家の三姉妹

 だれにも優しく、努力家で、自分自身の生活は清貧をつらぬいた宋慶齢。
 数少ない楽しみといえるのは、仕事の合間にたのしむミニビリヤードと、自邸の庭で鳩をかうこと。庭の手入れをすること。

 自分で衣服を手作りしたミシンも、展示室にありました。
 慶齢が来ていた中国服。外国からの訪問客をもてなしたときのチャイナドレス(チーパオ旗袍)や、中国各地を行脚し、子供達とふれあったときの服。
 ひとつひとつの遺品が、いまも宋慶齢の鮮烈な一生を物語っています。

 宋慶齢の妹、宋美齢は、台湾中華民国のファーストレディとして、ファッションリーダーでもありました。
 宋美齢は、晩年ニューヨークで生活し、華麗な衣装を愛用し続けました。

 一方、中華人民共和国の「国母」として国民に愛された宋慶齢の衣装、展示してある品は、センスのいいものですが、決して豪華ではありません。

 宋家の三姉妹。
 長女の靄齢は、財閥の御曹司孔祥煕と結婚。実家の財産以上に莫大な富を切り回す事業家となって活躍しました。
 次女の慶齢は、孫文と結婚し国家建設のために献身しました。

 三女の美齢は、宋家との縁組みを望んでいた蒋介石と結婚。
 蒋介石は、宋家とのつながりを求めて、最初は未亡人となった慶齢に接近して結婚を望みましたが、慶齢によせつけられなかったという説もあります。

 国民党と共産党が決別すると、国民党蒋介石の妻として宋美齢は台湾へ渡り、中華民国のファーストレディとなりました。
 美齢は、蒋介石の死後、かって慶齢とともに留学した米国に居住し、悠々自適の生活をおくりました。

 宋美齢、1997年生まれ、2003年死去。享年103歳。世界の「ファーストレディ」という経歴をもつ人の中で最高齢。これはこれで、見事な一生。

 妹の宋美齢と決別し、宋慶齢は、中華人民共和国の建国に尽力しました。孫文の遺志を守り抜くことが、彼への愛を貫くことだと信じて。

孫文は「革命未だならず、同士よ、すべからく努力せよ(革命尚未成功、同志仍須努力)」という遺訓を残しました。慶齢は、この遺訓を忠実に守ることが孫文への愛の成就と考えたのではないでしょうか。

 写真も多数展示されていました。
 国母となって、全国の女性やこどもたちと共に写っている温かいまなざしの写真。
 若い頃のポートレート。
 若い頃の宋慶齢は、たいへん美しい。宋家の靄齢、慶齢、美齢、三姉妹のうち、一番美しいと思います。

 宋慶齢の写真集(中国服店のサイトより) http://touekiki.web5.jp/rekishi7.htm

 中学生と小学生くらいの女の子がふたり、私と前後して邸内を回っていました。
 宋慶齢は、女性と子供達をなにより大切にしていました。女性たちも宋慶齢を母のように慕っていました。

 1981年に宋慶齢はなくなっており、見学の少女たちがもの心ついた頃には、すでに伝説の「国母」であったでしょうね。
 「偉大な女性」の一生を、遺品や写真を見て、身近に感じられたでしょうか?

<つづく>
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もんじゃ(文蛇)の足跡:
宋美齢の生年は1996年1997年2001年の3説があり、享年103最は最短の場合、1997年説をとれば106歳。ま、どっちにしても長生きだったってことはかわらないけど。

宋慶齢年譜 宋慶齢基金のHPより
http://www.sokeirei.org/song.html
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2007年09月27日


ニーハオ春庭「青い葡萄・ふたりのファーストレディ」
2007/09/27 木
ニーハオ春庭中国通信>青い葡萄・ふたりのファーストレディ

 宋慶齢Sòng Qìnglíngスン・チンリン。

 腐敗し疲弊しきった清朝を倒し新しい中国を建国しようとする夫、孫文を助け、人民中国成立後は、国家を代表する女性として、新国家の女性や子供達のために奔走しました。

 宋慶齢が愛した葡萄の棚。慶齢は、毎年この葡萄の収穫を楽しみにしていたそうです。
 主を失ってからも、葡萄棚はよく手入れをされ、入り口から玄関へ向かうアプローチにっここちよい日陰を作っています。

 今も大きな房が、緑の粒を夏の日差しに輝かせています。
 青い房をたわわに実らせた葡萄棚の下で、私は宋慶齢に聞いてみる。

 あなたと夫孫文が語り合い理想とした国家は、今、実現していますか?理想に近づいていますか。

 宦官に牛耳られ汚職にまみれた清朝を倒した孫文。
 新しい中国を建設しようと、上海で、また日本の東京で、孫文の手足となって働いたあなたの目には、今の中国はどのように映っていますか。
 孫文と、「すべての人民が等しく幸福に暮らせる国をつくらねば」と語りあった日の理想は、実現していますか。

 あなたの家の入場料、20元(約300円)。
 この入場料にも満たない額の1日分の賃金で生き抜いている「人民」もいれば、20元はペットの一回分のエサ代にも足りないという「富裕層」もいます。
 北京下層の一日の生活費は10元であるという社会科学院の発表があります。

 中国13億人のうち、半数以上を占めている農民の年収は1万元(15万円)以下ですが、6億に達した都市部就業者は、平均年収4万元(60万円)。
中国社会科学院によると、富裕層の年収1万~5万米ドル(約100万~600万円)を得ているのは1300万世帯。2005年末で年収5万ドル(600万円)以上の超富裕層も5万世帯。
 (中国物価を考えると、所得600万ということは、日本で2~5000万円以上の年収を得ているのと同等のリッチ生活ができる)

 そして最富裕層の千人は、資産10億元(150億円)超えているという。
 党の改正が行われ、「資本家も共産党員になれる」ことになりました。最富裕層の何割かは共産党員だそうです。大金持ちの共産党員。

 13億人の全中国人民のうち、共産党員になれるのは人口の8%の7000万人ほど。党員に選ばれるのはとても名誉なことで、私が居住していた「専家宿舎」にも、「新しく党員に推挙された職員」の名が大々的に表示されていました。

 逆にいうと、党員に選ばれないと、職場の組織の中で出世することは難しい。
 中国で私たちに太極拳を教えてくれた副校長先生は、「省の党書記」という要職にあり、「副校長」とは呼ばれずに「書記」「書記」と皆から呼ばれていました。
 「太極拳を教えてくれるやさしい副校長」とは世をしのぶ仮の姿で、党書記としては辣腕ふるう切れ者だったみたい。

 宋慶齢さん、あなたの家のほとり、后海の水は、今も静かに水をたたえ、蓮の花が満開です。
 でも、あなたの家の周囲の「故同」は、取り壊しが進んでいます。
 「オリンピックを見に来る外国人の目に、貧しくみっともない住居は見せられない」と、為政者は考えています。

 宋慶齢が、手ずから摘み取っていたという葡萄の棚。緑の大きな葉と大粒の葡萄の間を夏の風が吹きすぎました。
 葡萄の房は、ベルのように風にこたえます。チンリン、チンリ~ン。
 呼んでいるのは、孫文先生かな。
 あ、ちがった、ふたりの少女が笑いあいながら、宋慶齢故居の出口へ向かっている声なんだわ。

 革命家孫文(孫中山)夫人・宋慶齢は、立派なそしてすてきな女性でした。あこがれの女性です。あこがれるけれど、目標にするには遠すぎる。

 ふたりのファーストレディ、婉容と宋慶齢。
 阿片におぼれた婉容。満州帝国崩壊後、阿片の禁断症状が激しく、最後は自分の糞便の中にのたうち回って死んだと伝えられる婉容と、名誉国家主席の称号に輝き、死してなお国中の尊敬を集める宋慶齢。

 弱くて悲しくて、最後は悲惨な生涯をすごした婉容に心ひかれるのは、「敗者」びいき「判官贔屓」の心情からでしょうか。

 ってなわけで、かっては革命家チェ・ゲバラの奥さんになりたかった私、もう革命はできそうもない年なので、このままぐうたら生活を続けます。
 阿片中毒にはならないけれど、「上网依存症インターネットアディクション」ではあるしね。
 最後は自分の糞便にまみれて野垂れ死ぬか。いや、せめて故同の「ドアなしトイレ」くらいは使って死にたい。

 ♪ああ、インタネットナショナアルわれらがもの~。たて飢えたるもの~よ、今ぞ日は近し~♪ 
 宋慶齢さん、日は近いよね。

 何の日が近いって?そりゃ、北京オリンピックまであと1年。

<つづく>
==============
もんじゃ(文蛇)の足跡:
 上記♪~のところ、思わず「ああ、インタ~ナショナアル、われらがもの~♪と声に出して歌ってしまった方、お友達になりましょうね。
 インタネットナショナルって書いたんですけどね。
00:13 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2007年09月28日


ニーハオ春庭「夜の胡同」
2007/09/28 金
ニーハオ春庭中国通信>北京故同めぐり・夜の故同

 8月8日の夜、北京天安門広場は、一大イベントにわいていました。
 北京オリンピックまであと365日、という国をあげてのカウントダウンが、天安門広場でおこなわれており、その様子は中国のテレビでは延々3時間にわたって生中継されましたし、日本のテレビニュースでも取り上げられました。

 8日の夕方、そんなイベントがあるとはまったく知らなかった私、天安門広場に行こうとしていたのですが、例によって方向音痴、王府井ちかくの故同の中をぐるぐる歩いていましたが、いっこうに天安門には近づけませんでした。

 さすが、天安門近くだけあって、やたらにお巡りさんが街の角かどに立っているなあとは思ったのですが、ほかの日のことを知らないから、北京はお巡りさんが多い街なんだろうと思っていたんです。
 実は、北京オリンピックカウントダウンに政府要人やオリンピック関連の国際的要人が天安門に集まっているための、特別警備でした。

 夕暮れまで、王府井と天安門広場の間にある故同のなか、歩き回りました。
 あちこちに取り壊しの瓦礫の山。
 暗くなり、疲れたので、小休憩。
 あ、あの店、入り口に生ビールの樽が置いてある。

 生ビールにひかれて、店に入りました。とにかく腰を下ろして、歩き続けた足を休めようと。
 生ビールを注文。つまみには「地三鮮」。じゃがいもとピーマンと茄子の炒め物。
 地三鮮は、東北地方の代表的な田舎料理ですが、東北でも店ごとに味が違うので、北京の地三鮮はどんなものかと思って注文しました。

 テーブルを囲んでいるのは西欧人のグループも多い。欧米かよ!(と、ギャグも半年おくれ)
 店の中のテレビでは、「北京オリンピックまであと1年」の大イベント生中継がはじまりました。

 私がいつも見ていたダンスコンテスト番組の女性司会者が、中国普通話(標準語)でメイン司会。ほか、英語と広東語のサブ司会者。広東語と思ったのは、ビンナン語(台湾語)だったのかもしれません。私には、普通話と方言の区別はわかるけれど、どの地方の方言なのかは区別がつかないので。
 北京市長やオリンピック関係者の挨拶、有名歌手の歌、そして、あと365日の数字がでるまでのカウントダウン。ウー、スー、サン、アル、イー!

<つづく>
00:04 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2007年09月29日


ニーハオ春庭「再見中国、打ち上げ花火横から見るか裏から見るか」
2007/09/29 土
ニーハオ春庭中国通信>再見中国、打ち上げ花火横から見るか裏から見るか
 
 「オリンピックまであと1年イベント」、カウントダウンがおわると、花火が打ち上げられました。
 
 テレビの中に花火が写ると、店の外でドド~ンと大きな音。お客さんは、みな店の外に出て行きます。
 花火が見えるのかと、私も外へ。南の方角が明るく光るのですが、木立がじゃまになる角度で、花火は見えません。でも、音は臨場感たっぷりに聞こえます。

 店のお客さん達、ことに西欧人観光客は、大喜びです。
 花火は見えないけれど、音をきいて、いま、中国で行われている大イベントに自分たちも直接加わった、そんな気分で、欧米かよ!たちのビール乾杯もますます盛り上がっています。

 私もビールを飲み、足の疲れもだいぶ収まってきたので、帰ろうとしました。
 ところが。交通規制のため、すでにこのあたりは、交通止め。
 タクシーは、お客を乗せて、目的地へ向かう車がたまに通りすぎるだけで、流しのタクシーはまったく入ってきません。

 しまった。バスはもうないし、ホテルまで帰れるかな。
 とにかく、タクシーを拾える大通りまで歩かなきゃ。
 夜の北京、イベントのある日だからなのか、暑いのでいつまでも外に出ている人がいるのか、並木道の通りを、たくさんの人が行き交っています。
 
 たったひとりで、夜の北京を歩く。ちょっと緊張して、でも楽しんで。
 歴史的な建物や政府関係の建物が多い地域だからか、電灯も多く、こわい気はまったくしませんでした。
 地安門東大街に出るまで30分くらい歩き続けました。

 大通りでやっとタクシーを拾えました。
 「ムーダンビングヮン」と、行き先をつげる。発音悪いので、運転手、首をかしげる。もう一度、言う。運転手、やっと理解してくれて「ムーダンビングヮン?ああ、牡丹賓館ね」
 だから、牡丹賓館って、言ってるつもりなんだったら。最後のさいごまで、私の四声発音はめちゃくちゃでした。

 タクシーのラジオも、このカウントダウンイベントを放送しています。
 来年の北京、きっと、もっともっと大騒ぎなんだろうなあ。

 故同の住民たち、入手困難と聞くオリンピックの入場券は手に入らないかも知れないけれど、いろんな方法でオリンピックに参加気分を味わい、楽しむことでしょう。
 いろんな問題も山積みだろうけれど、オリンピック、大成功となることをお祈りしています。

 再見。中国。
 半年間、お世話になりました。
 すべての人に謝謝。

<ニーハオ春庭中国通信おわり>
06:19 コメント(15) 編集 ページのトップへ



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