2009/06/24
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(2)葫蘆島市でタクシーチャーター
和諧号で出会った人のうち、ひとりは、私と同世代くらいの女性です。
遼寧省にある世界遺産のひとつ「水上長城」を訪ねて、葫蘆(ころ) 島(フールーダオ)へ出かけたとき出会いました。たまたま同じ車輌に乗り合わせて、同じデッキから下車しようとしていた、というだけのご縁だったのに、駅につくまでの短い間に、私が住んでいるすぐ近所の、17階建てのマンションに住んでいるということがわかりました。彼女は葫蘆(ころ) 島市の出身者で、故里に住む兄弟を訪問するところでした。
駅に降りてから、タクシーをチャーターしようとすると、「兄弟が知り合いのタクシー運転手を紹介すると言っている」と、言います。電車に乗り合わせただけのガイジンに親切にする人、本当に親切な人もいるし、警戒しなければならない場合もある。躊躇したこちらの雰囲気が伝わったのか、自己紹介をきちんとしてくれました。
彼女は、元軍人です。人民解放軍軍需大学に勤務し、退役後は軍需大学が所有する17偕建てマンションの16偕に住んでいます。中国のマンション、上の偕ほど高級なので、16偕ということは、現役時代に相当な地位にいたことがうかがえます。迎えにきた兄弟の車に同乗させてもらい、紹介してくれるタクシーと待ち合わせることになりました。
私も名刺を渡し、中国と日本の友好のために当地の大学に赴任していることなどを伝えました。私が留学生教育を担当していることを話したことから、彼女の息子ふたりは、アメリカに留学し、現在もアメリカ在住であることがわかりました。二人とも省で1番の成績を取ったということです。自慢の息子さんたちなのでしょうね。
彼女のお兄さんは、元・葫蘆島市の市長だったといいます。また、車を運転している弟さんは、葫蘆島市で一番大きい工場のトップ責任者として働いている、ということでした。
見ず知らずの旅行者に親切にしてくれたお礼を述べると、彼女は「外国人に中国のイメージをよくしてもらうよう働くのは、軍人のつとめである」と、言いました。退職しても軍人の誇りを忘れず生きている方なのでしょう。
弟さんの紹介してくれた運転手さんは、定年退職するまで弟さんの部下だった人で、退職後に車を買って個人タクシーを始めたのだそうです。
旅行者をカモにする運転手もいないことはない、という状況のなかで、よい人を紹介してもらったおかげで、安心して旅ができました。
前回の旅で、タクシーチャーターは、3日間で300元でしたが、葫蘆(ころ) 島でのタクシーチャーターは、移動距離が長かったため、2日間で600元でした。時速80キロですっ飛ばして片道3時間もの移動をしたのに、600元(約9000円)は良心的な値段だったと思います。一般的なタクシーチャーターなら、1日分の値段だったでしょう。
タクシーを2日間チャーターしての旅など、日本では決してできない贅沢旅行です。日頃、節約して生活しているし、朝から夜まで働き続けなのですから、たまには日本でできないような贅沢をしないと。
葫蘆(ころ) 島(フールーダオ)の葫蘆とは、「ひょうたん」の意味です。2008年12月にNHKが、「中国から日本への引き揚げが行われた港」として戦後秘話をドキュメンタリーにして放送したので、この地名が知られるようになりました。私も、引き揚げは大連のような日本人が多かった港からだったと思いこんでいたのですが、中国からのすべての日本人引き揚げ者は一括して葫蘆島の港から帰国したのだそうです。
NHKの報道では、この時、中国人が日本人に報復したり、持ち物を略奪したりしないよう、十全の保護がなされたということです。現在は「引き揚げ記念碑」が建てられているとのことでしたが、運転手さんはその場所を知らず、行くことはできませんでした。
<つづく>
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2009年06月25日
ニーハオ春庭「葫蘆島市から九門口長城へ」
2009/06/25
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(3)葫蘆島市から九門口長城へ
運転手さんは、よい人でしたが、外国人など乗せたことはない人だったし、あいにくいつも持ち歩いている筆談用の紙とボールペンを忘れてきてしまったので、最初はこちらのいうことをわかってくれませんでした。
どこへ行っても旅先で、まずはその土地の地図を買うのが私の観光の最初なのですが、私が「我想買地図ウォーシャンマイチィトゥ」と言っても、「我要地図」と言っても、まったくわかってくれませんでした。何度も「チィトゥ」と言ってみて、いろいろ四声を変えてバリエーションをつけて発音してみましたが、「地図チィトゥ」の四声が違っているので全然通じないのです。
日本語なら、たとえば、外国人が「ちす、ぽちい」と発音したり「ちいづ、ぐぅだしゃい」と言ったり「てぃーちゅ、ぼちいです」と発言したとして、推測して「ああ、この人は旅行客だし、地図を欲しがっているのかも」とわかってくれるんじゃないかと思うのですが、たぶん、この運転手さん(名前は宋さん)は、地図を欲しがる客など初めて乗せたのでしょう。
本屋の前で「下、下(シャア、シャア)、降りたい」と言って止まってもらい、地図を買って戻ると、やっと「ああ、地図が買いたかったのか」と、わかってくれました。
「中国世界遺産の旅その3」は葫蘆(ころ) 島から3時間タクシーで走った先ににある、川の中に長城が続いている「水上長城」として世界遺産になっている「九門口長城」です。
「長城を訪ねる旅」、本当は、海の中に長城が作られている「山海関長城」に行きたかったのです。九門口長城とは9Kmしか離れていないので、行けない距離ではありませんでした。しかし、運転手が「山海関長城は、河北省なので遼寧省じゃないから」と、行きたがらなかったので、やめてしまいました。
タクシー運転手の許可証か何かの関係で、省が違うところに行けないのかと遠慮してしまったのですが、あとから考えると、ただ移動距離が多くなるのをいやがっただけだったのかもしれなかったし、「海の中の長城」を見にきたのだから、遠慮せずに「どうしても行ってほしい」と頼むべきだったと思いました。誰かに強く主張されると自分の主張を引っ込めて遠慮して、相手に合わせようとしてしまう日本人国民性を出してしまって、失敗しました。運転は客の希望によって行うのだから、行きたいところへ行くべきでした。
川の中に万里の長城が続いている「水上長城」もよい所でしたが、私は海の中にまで続いている「海中長城」の写真を撮りたかったのです。
満州族の王、清王朝初代のヌルハチと2代目のホンタイジがどうしてもこの山海関を乗り越えることができず、瀋陽から明王朝の領土へ入ることができませんでした。明代に補強建設された長城に阻まれたから。現存している長城のほとんどは、明代に作られたものです。清王朝が明を滅ぼして中央に進出できたのは、明王朝が弱体化し、清への内通者が出て山海関を開くことができたからで、乗り越えたのではありません。長城は最後まで領土を守っていたのです。
万里の長城は8000Kmにわたって続いているので、各地に遺跡があります。一番有名な長城は北京郊外にある八達嶺(バーダーリン)長城で、日本人観光客が「万里の長城を見た」という時、ほとんどは、この八達嶺長城です。私も、1994年に八達嶺長城へ行きました。
山海関は、日本人観光客が少数ですが行くことがあります。河北省山海関の渤海湾(ぼっかいわん)の海中から延々と尾根尾根を伝って、西の端、青海省嘉峪関の砂漠の中で砂の中に消えるまで続く長城の、東の端のスタート地点だから、ぜひ見たかった。
「九門口長城」を見た日本人観光客は少数派のほうでしょうから、水上長城を楽しむ一日をすごしたということで満足することにしましょう。山海関の海中長城は、次の機会のお楽しみ。
<つづく>
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2009年06月26日
ニーハオ春庭「九門口長城」
2009/06/26
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(4)九門口長城
山の尾根づたいにのびた長城が川を渡ってその先の尾根に登っていく。川の中の長城は「水上長城」と呼ばれています。別名九門口。川の水を通すために、九つの水門があるからです。
中国長城学会の選定した「万里の長城十景」の中にも、第一景として海中長城の山海関とともに、第一景に選ばれています。明の洪武帝の時代、西暦でいうと1381年、北斉長城を基に、大規模な長城の改修が行われ、この九門口も重要な関所として整備されました。
その後、1986年、1986年、2002年に修復工事が施され、現在では中国第1級(AAAA)
の観光地とし、さらに山海関とともに世界遺産にも指定されています。
補修されたといっても、遠大な長城ですから、全部がきれいになっているのではなく、補修されたその先には、石積みが崩れた「明代の終わりから放置されてきた」長城も九門口からよく見えます。
延々と尾根づたいに長城が伸びていく光景は、なんと言っても絶景かな絶景かなと思う和されます。この「異民族の侵入を防ぐぞぉ!」というエネルギーはすごい!日本の人の中には、「中国がいつまでも日本を侵略者として告発するのでうんざりだ」と思う人もいるでしょうが、中国にとっては、「異民族に蹂躙された屈辱の思い出」を忘れるわけにはいかないでしょう。中国史では異民族が絶えず中央への進出をはかり、王朝が交代してきました。その中で、中央へ進出しようとしたが自分たちの王朝は建てなかったのが日本民族なのですから、侵略の記憶だけが残り、憎悪は人一倍でしょう。
飛行機で戦争をする時代になって、長城の「国を守る」役目は終わったのですが、今では重要な観光資源。中国の新しい発表では総延長8000mだそうです。渤海湾の山海関から、西北の砂漠の中に消えるまで続く長城は、どの部分をみても、中国3千年歴史の重みを感じずにはいられません。秦の始皇帝が作り始めたとされている長城ですが、実際に始皇帝が築いた部分で現存しているのはわずか。それでも、長城をながめていると、始皇帝の時代から絶えずこのような防御壁を延々と作り続けた民族的エネルギーに圧倒されます。
水上長城の周辺の長城は、九つある水門の前後500メートルずつくらい整備されており、そのあたりは観光客が歩くことができます。私も歩いてみました。歩くというより、ひたすら階段を上り下りしたのですが。
ほんとうはその先の石積みが崩れたあたりも歩いてみたかったのですが、そのあたりには、のんびりと山羊の放牧をしている人が歩いているだけで観光客は見あたりません。
写真のシャッターを押してほしいと頼んだ観光客は、私が手真似でカメラのシャッターを押すジェスチャーをして「請給我照一張相好[口馬]」と言うと、「私は中国人ではないから、ことばがわからない」と英語で言いながらも、シャッターを押してくれました。「I'm Korean.」と言うので、シャッターを押してくれたお礼として「カムサハムニダ」と言うと「いや、韓国語もわからない。ニューヨークに住んでいる韓国系アメリカ人だ」と言います。
土曜日の午後といっても、ほとんど観光客のいない観光地で、ニューヨークから来た人と出会うのも、ご縁というものでしょう。
<つづく>
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2009年06月27日
ニーハオ春庭「渤海湾の石」
2009/06/27
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(5)渤海湾の石
夕暮れ近くまで、九門口ですごし、入り口近くにある仏教寺院をのぞいてからタクシーで葫蘆島市へ戻りました。
葫蘆島市は海辺の町ですから、夕食はもちろん海鮮料理です。葫蘆島駅前のホテルの1偕が海鮮料理屋でなかなか繁盛していたので、入ってみました。焼きホタテ貝も、魚も、貝とキノコのスープもおいしかったです。
夜は、自転車タクシーに乗って、夜店が続いているあたりへ行き、店を冷やかして歩きました。1枚5元(約75円)の投げ売りTシャツを買ったところで雨がぽつぽつきたので、あわてて宿へ戻りました。マンゴーなどのくだものを買ったのだけれど、海鮮でおなかいっぱいで、食べられませんでした。
翌日午前中は、海辺を散歩しました。朝のうちはあまり人もいませんでしたから、モーターボートの客引きが数少ない観光客めがけて、わんわんと寄ってきました。30分で一人40元(約600円)というので、中国物価からするとけっこうなお値段です。ぽつぽつとボートに乗る客もいましたが、私はのんびりと海岸で貝や石ころを拾ってすごしました。
石拾い、私の趣味のひとつです。子供が中学生小学生のころ、「日曜地学ハイキング」という集まりに参加して、月に一度は化石堀りや石拾いのハイキングをしてきました。大学生になり自然地理学を専攻した娘の卒業論文が、島の海岸で何カ所かを1メートル四方のロープで囲い、その中の石や砂の構成を調べる、というものでした。娘は何度も島に通い、石をひとつひとつ拾って、どんな組成の石がどんな割合で海岸を構成しているのか、調査しました。たいへんに根気のいる作業でしたが、なんとか書き上げて提出した娘への、私の中国みやげは、「渤海湾の海岸の石と砂」です。日曜地学ハイキングでお世話になった地学の先生方にも、お分けしたい。
日が高くなるにつれて海岸はにぎわってきたので、土産物屋の冷やかし。遼寧省は化石の宝庫なので、上野の科学博物館では立派な箱に入れられているような魚化石が、店先に無造作にごろごろ置かれています。見目よさげな魚化石を買いました。新聞紙に包んでホイと渡されて、はて、石ころも化石も、日本へ送るにしても持ち帰るにしても、重いだろうなあと、土産物には適さないことに思い当たりました。
昼ご飯は、海辺の食堂で、ひとつ6元の生牡蠣。わさび醤油をかけて食べました。おいしい!当地では普段の昼食なら6元あれば1食分になりますから、牡蠣一つ6元はごちそうです。10個くらいは食べられそうに思いましたが、万が一牡蠣にあたった時のことを考えて、控えました。あたりはしなかったので、もっとたべておけばよかった、と今は思っています。食いしん坊の後悔。
午後は、興城市へ行きました。興城市は葫蘆島市に属しています。中国では、大都市の「市」の中に、「県」と「市」が属する制度になっています。東京都の中に「区」と「市」があるように、大きな市のなかにさらに小さい「市」と「県」が属しているのです。中国の県は、日本の郡にあたるってところです。
興城市は、西安市のように古い城壁に囲まれた都市が残っています。古城とは何度か書きましたが、日本の天守閣があるような「城」ではなくて、長城のような城壁を築いて町の周りにめぐらせ、異民族や敵をふせぐ、その城壁を言います。古城とは、「城壁に囲まれた古い都市」という意味です。
<つづく>
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2009年06月28日
ニーハオ春庭「興城古城」
2009/06/28
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(6)興城古城
興城古城は、明代に築かれた城壁が町の周囲を取り囲んでいます。
古城内の本屋で25元で買ったパンフレットによると
「興城古城は、中国に保存されているもっとも状態のよい、四つの古都市のうちの一つです。興城古城肯我国保存最為完好的四座明之一(簡体字を日本漢字に直してました)」とあります。
四つの保存状態のよい古都市の他の三都市とは、平遙古城・荊州古城・西安古城で、この三都市は、日本から観光客が大勢訪れている有名観光地です。日本で発行されている各種のガイドブックにも載っています。
荊州古城は、別名江陵城で、最近映画化された『レッドクリフ』すなわち「赤壁の戦い」の舞台ともなったので、三国志ファンにはおなじみの土地です。三国志時代からの遺跡が数多く残されていますが、城壁は清の時代に改修されたものです。
私が担任しているクラスのレイリさんの故里なので、私も荊州のことをいろいろ知るようになりました。
平遙古城は、雲崗石窟とともに山西省の世界遺産として指定されたので、太源とセットのツアーが、日本からも数多く訪れています。
西安古城は、奈良平安の遣唐使が派遣された長安ですから、日本人にはもっともなじみ深い古城です。私も妹と2007年に旅しました。始皇帝陵や兵馬俑、楊貴妃の館など、見所が多い。
一方、興城古城は、私が持っている『るるぶワールドガイド中国」にも、『地球の歩き方中国』にも、『地球の歩き方中国東北』のいずれにもまったくガイドがない、日本では知られていない観光地です。興城市発行のガイドブックが「中国四大古城のひとつ」と謳っているのに、日本では他の三古城に比べると、「無名」の存在です。
興城市は葫蘆島駅前から30分ほどタクシーで行った先にあります。明代、清代には「寧遠州城」と呼ばれていました。内城と外城の二重の城壁に取り囲まれていた都市でしたが、外城は現存していません。北京などの発展を続けた都市は、市内に残っていた城壁を壊してどんどん外側に拡大していきましたが、西安や興城は北京のような発展をしなかったがために、町を取り囲む城壁がそのまま保存され、観光資源となりました。
明代の都市建設から570年の年月を経て今に残されている内城は修繕され、現在興城市内に「古城」として保存されています。明代の城郭都市としては中国でも保存状態がよい。パンフレットが」四大古城のひとつ」と胸を張るのもうなずけます。現存する内城はほぼ正方形で、南北825.5m、東西803.7m、高さ10.1mの城壁が古城内をとり囲んでいます。
城は四つの門(東門=春和門、西門=永寧門、南門=延輝門、北門=威遠門)があり、各門は半円形の外郭で守られた上に二層の楼閣があります。それぞれ、皇帝その他の貴人が通る門、兵士が行軍するときの出入り口、普段の市民の出入り口、弔事用の出入り口とされてきました。城郭の四隅には砲台が置かれ、城内には十字型に大通りが走っています。十字路の中央には三層で高さ17mの鼓楼があり、普段は時を知らせ、戦時には進軍の太鼓を打ち鳴らすことになっていました。
この鼓楼の太鼓が進軍を知らせ、激しい攻防戦が行われた時代のことをお話ししましょう。
<つづく>
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2009年06月29日
ニーハオ春庭「寧遠州城の戦い」
2009/06/29
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(7)寧遠州城の戦い
興城(寧遠州城)は中国東北部と北京を結ぶ遼西回廊の中部に位置し、回廊が一番狭まった所に位置しています。
明代、寧遠州城は、山海関の外郭で辺境を守る重要な城でした。薊遼督師の袁崇煥が城壁を築いて紅夷砲(ポルトガル製の大砲)を据え付け、後金(のちの清朝)の攻撃に備えました。1626年1月、袁崇煥は、攻め寄せてきた女真族のヌルハチ率いる13万の軍を破り(寧遠城の戦い)、明を守りました。城壁に紅夷砲を並べ、新兵器によって勇猛な女真族の攻撃から興城を守ったのです。ヌルハチはこの時に紅夷砲の砲撃を受けた傷がもとで盛京(現在の瀋陽市)に戻って間もなく死亡しました。
翌、1627年、ヌルハチ(愛新覚羅・努爾哈赤)の後を次いだ太宗ホンタイジがこの城を攻め、袁崇煥は同じくよく戦って女真族が明の領土内に入ることを防ぎました。ホンタイジ(表記は皇太子・皇太極・黄台吉など)も重傷を負った結果、彼は名将袁崇煥とまともに戦ったのでは明の本拠地に乗り込むことは不可能だとさとりました。で、どうしたか。
明の宦官を買収し「実は、将軍袁崇煥は、ホンタイジと通じ合っていて、ホンタイジは明を破ったあとに、彼を将軍として厚遇する約束があるのだ」という偽の情報を皇帝に聞かせました。この偽情報を信じた、時の皇帝は、袁崇煥を捕らえて処刑してしまいました。信ずべき人を信じず、信ずべきでない情報を信じたむくいとして、明は袁崇煥の死後滅亡してしまいました。
袁崇煥は、35歳で科挙に合格して進士になった努力型の秀才で、三国時代の名軍師諸葛孔明にも匹敵するとされる名将でした。戦死なら悔いなく死ぬ気であったでしょうに、味方のはずの皇帝に捕らえられて処刑されたのでは、さぞ浮かばれない思いで亡くなったなったことでしょう。
袁崇煥を謀略によって葬ったホンタイジは、味方であった兄弟・従兄弟たちも謀略で陥れ、ヌルハチの後継者としてトップに立ちました。1636年、ホンタイジは元王朝の子孫であるモンゴル族から玉璽を手に入れました。(偽物の玉璽だったという説もある)満州族・漢族・モンゴル族の三族から推戴を受けて「後金の王」から中国全土の皇帝となりました。
しかし、ホンタイジは袁崇煥が守っていない寧遠州城を打ち破ったものの、山海関城や九門口城の鉄壁の守りを超えられず、明の征伐を果たせぬまま1643年に急死しました。
山海関の守りは固かったのですが、山海関の守将であった呉三桂は、袁崇煥を処刑するような明に幻滅し、清に味方しました。ようやく山海関を超えた満州族(女真族から改称)は、1644年に北京に入城し、清王朝は、20世紀まで360年間中国全土を支配します。
清王朝3代目の順治帝は、漢文化や仏教を好み、清朝文化の基礎を築きました。順治帝のあと、その息子の4代康熙帝は名君として知られ、清朝支配を固めました。漢字文化にとって康煕帝が編纂を命じた『康熙字典』、は、今なお漢字辞典の規範とされています。
なお、明の将でありながら清に味方した呉三桂はその功績を認められ、王族に準じられて南方の王となっていましたが、専横が目立ったため、康煕帝に滅ぼされました。
袁崇煥の子孫は、「敵ながらあっぱれであった将軍」の係累として清の軍に迎えられ、その子孫は1900年の義和団事件の後、満州を併合しようとしたロシアと戦うなど、軍人の一族として命脈を保ちました。
袁崇煥が興城の城壁に並べてヌルハチ軍を打ち破った大砲は、今なお城壁に残されています。
<つづく>
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2009年06月30日
ニーハオ春庭「興城古城観光」
2009/06/30
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(8)興城古城観光
興城古城は、1430年(明の宣徳5年)、総兵の巫凱と都御史の包懐徳によって築城されました。(明時代の「総兵」という職務、明の「職官志」によれば、遼東地方を守る守護兵の長のようです。都御史も明の職制のひとつで、都御史は、百官の不正を糾弾し重大な刑事事案を審議するという職務。)
この時の興城は内城が周囲5里196歩、外城が周囲9里124歩で、その後、1628年(明の天啓3年)に袁崇煥がヌルハチ率いる金軍の攻撃を防ぐために防備を強化し、表は青レンガ、内側は石、高さ10m、底部の幅6m、上部の幅5m、枡形を備えた4つの門を持つ興城ができあがりました。この袁崇煥建城が古城として残されているのです。
内城と外城がありましたが、明清交替期の数度の攻防戦、日中戦争期の攻防戦、国共内戦での攻防戦を経て、外城は失われ、現在は内城だけが保存されています。
興城古城の入場券は、50元で、清代の古い四合院住宅である「周家住宅」、孔子の霊廟として中国の古い建築様式を保っている「文廟」など、六カ所の周遊券です。しかし、私はこのうち3カ所しかまわれませんでした。午後4時半の電車に乗らなければならなかったので時間が足りませんでした。
チャーターしたタクシーの運転手、宋さんが「あんな狭い町、2時間もあれば全部回れる」と言うので、午後だけで観光できると判断し、午前中海辺でのんびり貝拾いなどをしてすごしてしまいました。宋さんにとっては、「近所の見慣れた、古いだけの町」にすぎないから「2時間もあれば十分」と思ったのでしょうが、はるばる日本から来た観光客、もう一度ここに観光にこられるかどうかわからない私にとって、そして古い建物を見て歩くのが大好きな私にとって、一日、いや二日間でもたっぷり時間をとって回るべき町でした。
古城としては他の3カ所の平遙古城・荊州古城・西安古城のほうが観光地として整備されており、見所も多いでしょうが、「まだ観光開発されていない素朴な町」として、のんびり過ごしたかったなあと後悔しています。
50元の入場料は、ガイドの案内つきです。歩いて城内をめぐり、説明してくれます。
ガイドさんは、若くて美人のおねえさん。ハルビンの学校で観光学を学び、今は卒業後の研修のために観光地でガイド実習をしているとのことでした。いっしょうけんめい説明してくれるようすから、必ず一人前の観光ガイドとなっていくだろうと思いました。正式なガイドになったあと、給料は一ヶ月800元から千元(約15000円)くらいにはなるだろうと言うことです。(誰にでも給料の額を尋ねてしまうのですが、中国経済を知るのは重要なことです)。
6カ所のうち、最初に行ったのは、清代のお金持ちの四合院住宅である「周家住宅」です。保存状態は悪くないですが、整備が不十分。北京の北海で見た四合院住宅「千竿五号・明清老宅」が実によく整備され観光化されていたのに比べると、観光地としてもっと手入れをすればいいのに、と思います。
町歩きとして楽しい城内ですが、道路にはゴミがあるし、土産物屋の振興なども遅れている。中国人は旅行の土産物というのを買う習慣がないので、土産物屋があるのは外国人が訪れる観光地だけ。日本の観光地のような○○饅頭とか○○煎餅とか、○○こけしとか、定番の土産物がないのです。同僚に買って帰る適当なみやげがなくて、困った。カンボジアのアンコールワットでは、日本人観光客めあてに「アンコールワット・クッキー」というのを売り出した商売上手な日本人がいて、ばんばん売れているそうですが、ここ興城の城内の店、普通の服屋やだのCD屋が並んでいます。ここはひとつ、観光産業を開発して、観光客に金を落とさせる工夫をしないと。
メインストリートから一歩入った胡同(フートン)と呼ばれる裏通りは、ごく普通の中国の裏通り。1級の観光地として開発するなら、すみずみまで観光用に整備して、清潔にしたほうが客が呼べる。北京の胡同は観光用に整備された所以外は壊されてしまっていますが、観光用の地域では胡同の四合院に外国人観光客をホームステイをさせるなどの観光事業が進められています。興城もそのようにできるはず。
城内をそっくりテーマパークとして、観光客に明時代、清時代の生活をさせるようにするのです。あえて言えば日光江戸村化計画。
私が「町おこし」のプロデューサーだったら、ああもしたい、こうもしたいと、アイディアはいっぱいわいてきます。残念ながら、この町の観光開発をする役人でもないので、実現はしないでしょうが、もし、いつの日か、元葫蘆島市の市長だったお兄さんを持つ劉素珍さんに再び会う日が来るとしたら、私を「町おこし委員」にすべきだと言ってみましょう。
<つづく>
2009/07/01
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(8)興城古城観光2
周家住宅の次に孔子の霊廟である「文廟」へ行きました。ここの文廟は、中国各地にある文廟のなかで、もっとも古い建築様式を残す由緒正しき建物と、ガイドさんの説明です。つうか、ガイドさんの説明は聞き取れないので、門や建物の前についている案内板の漢字を拾い読みしていたのですが。
折良く、孔子の命日の儀礼を模したイベントが行われている日で、市内ボランティア(退職老人会といった雰囲気のじいちゃんばあちゃんたち)が、清時代の孔子廟に仕えた人の衣装っぽいものを着て、豚の頭(の模型)や果物が供えられている祭壇に向かっておじぎをしたり、音楽に合わせて槍のような棒を上げたり下げたりの儀礼を続けています。
この孔子礼拝儀礼もゆっくり座って見ていたかったですが、帰りの電車時間を気にしながら、建物を見ながら、横目で見ていました。
次は「将軍府」この将軍とは明から興城を守った袁崇煥のことかと思って6つある見学カ所のうちの、優先3位にしたのですが、袁崇煥とは何の関係もない、近代史北方軍事政権の張作霖の将軍のひとりの住宅でした。この地方を王のように支配した張作霖の主要な部下だった一人の将軍の居宅だった住宅でした。(将軍の名字は「告」に「おおざと旁」をくっつけた字です)。
住宅内には将軍や張作霖の写真がいっぱいありました。大きく飾られている女性は将軍の奥さん。彼女は1949年の人民共和国成立後、この家を女子教育のための学校として解放し、女性の教育にあたったということです。孫文夫人宋慶麗はじめ、中国の重要人物の夫人はそれぞれ大きな活躍をしている人が多い。
張作霖は温泉を好み、興城市には、張作霖が温泉につかりに来ていた別荘が残されています。興城市は、それほど温泉が多くない中国においては、都会に近い貴重な温泉地です。海水浴に適した海岸があり温泉があり、歴史巡りができるなど、日本人ツアーを呼び寄せる要素はたくさんあるので、私が町おこし委員になったら、ぜったいに中国有数の保養観光地にしてみせます。
私は見ることができませんでしたが、オンシーズンには、袁崇煥がヌルハチ軍を撃退した戦いの様子を模した「戦争シュミレーション」イベントも行われているようで、それなりに観光地としてがんばっているようすはわかるのですが、まだまだ開発の余地がある。興城古城を訪れた中国在住日本人のブログを見ても、「古城見物が目的なら、興城ではなく、平遙古城・荊州古城へ行ったほうがいい」などと書かれている始末。
2004年冬にに興城市を旅した人のブログ。
http://www.catv296.ne.jp/~t-homma/newpage4.htm
2007年3月に興城市を旅した人のブログ
http://go.travel.mag2.com/e/mag2/traveler/happytravel/album/10227138/
帰りは、16時34分の和諧号。快適に帰宅できました。
ガイドブックになかったので、何の下調べもせずにひょっこりと思いついて葫蘆島(フールーダオ=ひょうたん島)へ出かけたのですが、あとでいろいろ検索をかけてみると、私が行けなかった「日本人引き揚げ記念碑」に、タクシーの運転手と交渉したらチャーター料金に10元追加で行けたとか書いてあるし、葫蘆島市のバスステーション前には、日本語のうまいスタッフがいる日本料理店があるとか、いろいろと、知らなかった!行きたかった!の情報もありました。残念。でも、まあおいしい海鮮は食べたし、渤海湾の石ころ拾ったし、よい旅でした。
次回、「中国世界遺産の旅・ヌルハチの遺産」のリポートは、瀋陽市の世界遺産「清朝初代ヌルハチの陵墓=福陵」と「清朝2代目ホンタイジの皇居=盛京故宮」の紹介です。
<つづく>
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(2)葫蘆島市でタクシーチャーター
和諧号で出会った人のうち、ひとりは、私と同世代くらいの女性です。
遼寧省にある世界遺産のひとつ「水上長城」を訪ねて、葫蘆(ころ) 島(フールーダオ)へ出かけたとき出会いました。たまたま同じ車輌に乗り合わせて、同じデッキから下車しようとしていた、というだけのご縁だったのに、駅につくまでの短い間に、私が住んでいるすぐ近所の、17階建てのマンションに住んでいるということがわかりました。彼女は葫蘆(ころ) 島市の出身者で、故里に住む兄弟を訪問するところでした。
駅に降りてから、タクシーをチャーターしようとすると、「兄弟が知り合いのタクシー運転手を紹介すると言っている」と、言います。電車に乗り合わせただけのガイジンに親切にする人、本当に親切な人もいるし、警戒しなければならない場合もある。躊躇したこちらの雰囲気が伝わったのか、自己紹介をきちんとしてくれました。
彼女は、元軍人です。人民解放軍軍需大学に勤務し、退役後は軍需大学が所有する17偕建てマンションの16偕に住んでいます。中国のマンション、上の偕ほど高級なので、16偕ということは、現役時代に相当な地位にいたことがうかがえます。迎えにきた兄弟の車に同乗させてもらい、紹介してくれるタクシーと待ち合わせることになりました。
私も名刺を渡し、中国と日本の友好のために当地の大学に赴任していることなどを伝えました。私が留学生教育を担当していることを話したことから、彼女の息子ふたりは、アメリカに留学し、現在もアメリカ在住であることがわかりました。二人とも省で1番の成績を取ったということです。自慢の息子さんたちなのでしょうね。
彼女のお兄さんは、元・葫蘆島市の市長だったといいます。また、車を運転している弟さんは、葫蘆島市で一番大きい工場のトップ責任者として働いている、ということでした。
見ず知らずの旅行者に親切にしてくれたお礼を述べると、彼女は「外国人に中国のイメージをよくしてもらうよう働くのは、軍人のつとめである」と、言いました。退職しても軍人の誇りを忘れず生きている方なのでしょう。
弟さんの紹介してくれた運転手さんは、定年退職するまで弟さんの部下だった人で、退職後に車を買って個人タクシーを始めたのだそうです。
旅行者をカモにする運転手もいないことはない、という状況のなかで、よい人を紹介してもらったおかげで、安心して旅ができました。
前回の旅で、タクシーチャーターは、3日間で300元でしたが、葫蘆(ころ) 島でのタクシーチャーターは、移動距離が長かったため、2日間で600元でした。時速80キロですっ飛ばして片道3時間もの移動をしたのに、600元(約9000円)は良心的な値段だったと思います。一般的なタクシーチャーターなら、1日分の値段だったでしょう。
タクシーを2日間チャーターしての旅など、日本では決してできない贅沢旅行です。日頃、節約して生活しているし、朝から夜まで働き続けなのですから、たまには日本でできないような贅沢をしないと。
葫蘆(ころ) 島(フールーダオ)の葫蘆とは、「ひょうたん」の意味です。2008年12月にNHKが、「中国から日本への引き揚げが行われた港」として戦後秘話をドキュメンタリーにして放送したので、この地名が知られるようになりました。私も、引き揚げは大連のような日本人が多かった港からだったと思いこんでいたのですが、中国からのすべての日本人引き揚げ者は一括して葫蘆島の港から帰国したのだそうです。
NHKの報道では、この時、中国人が日本人に報復したり、持ち物を略奪したりしないよう、十全の保護がなされたということです。現在は「引き揚げ記念碑」が建てられているとのことでしたが、運転手さんはその場所を知らず、行くことはできませんでした。
<つづく>
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2009年06月25日
ニーハオ春庭「葫蘆島市から九門口長城へ」
2009/06/25
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(3)葫蘆島市から九門口長城へ
運転手さんは、よい人でしたが、外国人など乗せたことはない人だったし、あいにくいつも持ち歩いている筆談用の紙とボールペンを忘れてきてしまったので、最初はこちらのいうことをわかってくれませんでした。
どこへ行っても旅先で、まずはその土地の地図を買うのが私の観光の最初なのですが、私が「我想買地図ウォーシャンマイチィトゥ」と言っても、「我要地図」と言っても、まったくわかってくれませんでした。何度も「チィトゥ」と言ってみて、いろいろ四声を変えてバリエーションをつけて発音してみましたが、「地図チィトゥ」の四声が違っているので全然通じないのです。
日本語なら、たとえば、外国人が「ちす、ぽちい」と発音したり「ちいづ、ぐぅだしゃい」と言ったり「てぃーちゅ、ぼちいです」と発言したとして、推測して「ああ、この人は旅行客だし、地図を欲しがっているのかも」とわかってくれるんじゃないかと思うのですが、たぶん、この運転手さん(名前は宋さん)は、地図を欲しがる客など初めて乗せたのでしょう。
本屋の前で「下、下(シャア、シャア)、降りたい」と言って止まってもらい、地図を買って戻ると、やっと「ああ、地図が買いたかったのか」と、わかってくれました。
「中国世界遺産の旅その3」は葫蘆(ころ) 島から3時間タクシーで走った先ににある、川の中に長城が続いている「水上長城」として世界遺産になっている「九門口長城」です。
「長城を訪ねる旅」、本当は、海の中に長城が作られている「山海関長城」に行きたかったのです。九門口長城とは9Kmしか離れていないので、行けない距離ではありませんでした。しかし、運転手が「山海関長城は、河北省なので遼寧省じゃないから」と、行きたがらなかったので、やめてしまいました。
タクシー運転手の許可証か何かの関係で、省が違うところに行けないのかと遠慮してしまったのですが、あとから考えると、ただ移動距離が多くなるのをいやがっただけだったのかもしれなかったし、「海の中の長城」を見にきたのだから、遠慮せずに「どうしても行ってほしい」と頼むべきだったと思いました。誰かに強く主張されると自分の主張を引っ込めて遠慮して、相手に合わせようとしてしまう日本人国民性を出してしまって、失敗しました。運転は客の希望によって行うのだから、行きたいところへ行くべきでした。
川の中に万里の長城が続いている「水上長城」もよい所でしたが、私は海の中にまで続いている「海中長城」の写真を撮りたかったのです。
満州族の王、清王朝初代のヌルハチと2代目のホンタイジがどうしてもこの山海関を乗り越えることができず、瀋陽から明王朝の領土へ入ることができませんでした。明代に補強建設された長城に阻まれたから。現存している長城のほとんどは、明代に作られたものです。清王朝が明を滅ぼして中央に進出できたのは、明王朝が弱体化し、清への内通者が出て山海関を開くことができたからで、乗り越えたのではありません。長城は最後まで領土を守っていたのです。
万里の長城は8000Kmにわたって続いているので、各地に遺跡があります。一番有名な長城は北京郊外にある八達嶺(バーダーリン)長城で、日本人観光客が「万里の長城を見た」という時、ほとんどは、この八達嶺長城です。私も、1994年に八達嶺長城へ行きました。
山海関は、日本人観光客が少数ですが行くことがあります。河北省山海関の渤海湾(ぼっかいわん)の海中から延々と尾根尾根を伝って、西の端、青海省嘉峪関の砂漠の中で砂の中に消えるまで続く長城の、東の端のスタート地点だから、ぜひ見たかった。
「九門口長城」を見た日本人観光客は少数派のほうでしょうから、水上長城を楽しむ一日をすごしたということで満足することにしましょう。山海関の海中長城は、次の機会のお楽しみ。
<つづく>
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2009年06月26日
ニーハオ春庭「九門口長城」
2009/06/26
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(4)九門口長城
山の尾根づたいにのびた長城が川を渡ってその先の尾根に登っていく。川の中の長城は「水上長城」と呼ばれています。別名九門口。川の水を通すために、九つの水門があるからです。
中国長城学会の選定した「万里の長城十景」の中にも、第一景として海中長城の山海関とともに、第一景に選ばれています。明の洪武帝の時代、西暦でいうと1381年、北斉長城を基に、大規模な長城の改修が行われ、この九門口も重要な関所として整備されました。
その後、1986年、1986年、2002年に修復工事が施され、現在では中国第1級(AAAA)
の観光地とし、さらに山海関とともに世界遺産にも指定されています。
補修されたといっても、遠大な長城ですから、全部がきれいになっているのではなく、補修されたその先には、石積みが崩れた「明代の終わりから放置されてきた」長城も九門口からよく見えます。
延々と尾根づたいに長城が伸びていく光景は、なんと言っても絶景かな絶景かなと思う和されます。この「異民族の侵入を防ぐぞぉ!」というエネルギーはすごい!日本の人の中には、「中国がいつまでも日本を侵略者として告発するのでうんざりだ」と思う人もいるでしょうが、中国にとっては、「異民族に蹂躙された屈辱の思い出」を忘れるわけにはいかないでしょう。中国史では異民族が絶えず中央への進出をはかり、王朝が交代してきました。その中で、中央へ進出しようとしたが自分たちの王朝は建てなかったのが日本民族なのですから、侵略の記憶だけが残り、憎悪は人一倍でしょう。
飛行機で戦争をする時代になって、長城の「国を守る」役目は終わったのですが、今では重要な観光資源。中国の新しい発表では総延長8000mだそうです。渤海湾の山海関から、西北の砂漠の中に消えるまで続く長城は、どの部分をみても、中国3千年歴史の重みを感じずにはいられません。秦の始皇帝が作り始めたとされている長城ですが、実際に始皇帝が築いた部分で現存しているのはわずか。それでも、長城をながめていると、始皇帝の時代から絶えずこのような防御壁を延々と作り続けた民族的エネルギーに圧倒されます。
水上長城の周辺の長城は、九つある水門の前後500メートルずつくらい整備されており、そのあたりは観光客が歩くことができます。私も歩いてみました。歩くというより、ひたすら階段を上り下りしたのですが。
ほんとうはその先の石積みが崩れたあたりも歩いてみたかったのですが、そのあたりには、のんびりと山羊の放牧をしている人が歩いているだけで観光客は見あたりません。
写真のシャッターを押してほしいと頼んだ観光客は、私が手真似でカメラのシャッターを押すジェスチャーをして「請給我照一張相好[口馬]」と言うと、「私は中国人ではないから、ことばがわからない」と英語で言いながらも、シャッターを押してくれました。「I'm Korean.」と言うので、シャッターを押してくれたお礼として「カムサハムニダ」と言うと「いや、韓国語もわからない。ニューヨークに住んでいる韓国系アメリカ人だ」と言います。
土曜日の午後といっても、ほとんど観光客のいない観光地で、ニューヨークから来た人と出会うのも、ご縁というものでしょう。
<つづく>
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2009年06月27日
ニーハオ春庭「渤海湾の石」
2009/06/27
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(5)渤海湾の石
夕暮れ近くまで、九門口ですごし、入り口近くにある仏教寺院をのぞいてからタクシーで葫蘆島市へ戻りました。
葫蘆島市は海辺の町ですから、夕食はもちろん海鮮料理です。葫蘆島駅前のホテルの1偕が海鮮料理屋でなかなか繁盛していたので、入ってみました。焼きホタテ貝も、魚も、貝とキノコのスープもおいしかったです。
夜は、自転車タクシーに乗って、夜店が続いているあたりへ行き、店を冷やかして歩きました。1枚5元(約75円)の投げ売りTシャツを買ったところで雨がぽつぽつきたので、あわてて宿へ戻りました。マンゴーなどのくだものを買ったのだけれど、海鮮でおなかいっぱいで、食べられませんでした。
翌日午前中は、海辺を散歩しました。朝のうちはあまり人もいませんでしたから、モーターボートの客引きが数少ない観光客めがけて、わんわんと寄ってきました。30分で一人40元(約600円)というので、中国物価からするとけっこうなお値段です。ぽつぽつとボートに乗る客もいましたが、私はのんびりと海岸で貝や石ころを拾ってすごしました。
石拾い、私の趣味のひとつです。子供が中学生小学生のころ、「日曜地学ハイキング」という集まりに参加して、月に一度は化石堀りや石拾いのハイキングをしてきました。大学生になり自然地理学を専攻した娘の卒業論文が、島の海岸で何カ所かを1メートル四方のロープで囲い、その中の石や砂の構成を調べる、というものでした。娘は何度も島に通い、石をひとつひとつ拾って、どんな組成の石がどんな割合で海岸を構成しているのか、調査しました。たいへんに根気のいる作業でしたが、なんとか書き上げて提出した娘への、私の中国みやげは、「渤海湾の海岸の石と砂」です。日曜地学ハイキングでお世話になった地学の先生方にも、お分けしたい。
日が高くなるにつれて海岸はにぎわってきたので、土産物屋の冷やかし。遼寧省は化石の宝庫なので、上野の科学博物館では立派な箱に入れられているような魚化石が、店先に無造作にごろごろ置かれています。見目よさげな魚化石を買いました。新聞紙に包んでホイと渡されて、はて、石ころも化石も、日本へ送るにしても持ち帰るにしても、重いだろうなあと、土産物には適さないことに思い当たりました。
昼ご飯は、海辺の食堂で、ひとつ6元の生牡蠣。わさび醤油をかけて食べました。おいしい!当地では普段の昼食なら6元あれば1食分になりますから、牡蠣一つ6元はごちそうです。10個くらいは食べられそうに思いましたが、万が一牡蠣にあたった時のことを考えて、控えました。あたりはしなかったので、もっとたべておけばよかった、と今は思っています。食いしん坊の後悔。
午後は、興城市へ行きました。興城市は葫蘆島市に属しています。中国では、大都市の「市」の中に、「県」と「市」が属する制度になっています。東京都の中に「区」と「市」があるように、大きな市のなかにさらに小さい「市」と「県」が属しているのです。中国の県は、日本の郡にあたるってところです。
興城市は、西安市のように古い城壁に囲まれた都市が残っています。古城とは何度か書きましたが、日本の天守閣があるような「城」ではなくて、長城のような城壁を築いて町の周りにめぐらせ、異民族や敵をふせぐ、その城壁を言います。古城とは、「城壁に囲まれた古い都市」という意味です。
<つづく>
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2009年06月28日
ニーハオ春庭「興城古城」
2009/06/28
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(6)興城古城
興城古城は、明代に築かれた城壁が町の周囲を取り囲んでいます。
古城内の本屋で25元で買ったパンフレットによると
「興城古城は、中国に保存されているもっとも状態のよい、四つの古都市のうちの一つです。興城古城肯我国保存最為完好的四座明之一(簡体字を日本漢字に直してました)」とあります。
四つの保存状態のよい古都市の他の三都市とは、平遙古城・荊州古城・西安古城で、この三都市は、日本から観光客が大勢訪れている有名観光地です。日本で発行されている各種のガイドブックにも載っています。
荊州古城は、別名江陵城で、最近映画化された『レッドクリフ』すなわち「赤壁の戦い」の舞台ともなったので、三国志ファンにはおなじみの土地です。三国志時代からの遺跡が数多く残されていますが、城壁は清の時代に改修されたものです。
私が担任しているクラスのレイリさんの故里なので、私も荊州のことをいろいろ知るようになりました。
平遙古城は、雲崗石窟とともに山西省の世界遺産として指定されたので、太源とセットのツアーが、日本からも数多く訪れています。
西安古城は、奈良平安の遣唐使が派遣された長安ですから、日本人にはもっともなじみ深い古城です。私も妹と2007年に旅しました。始皇帝陵や兵馬俑、楊貴妃の館など、見所が多い。
一方、興城古城は、私が持っている『るるぶワールドガイド中国」にも、『地球の歩き方中国』にも、『地球の歩き方中国東北』のいずれにもまったくガイドがない、日本では知られていない観光地です。興城市発行のガイドブックが「中国四大古城のひとつ」と謳っているのに、日本では他の三古城に比べると、「無名」の存在です。
興城市は葫蘆島駅前から30分ほどタクシーで行った先にあります。明代、清代には「寧遠州城」と呼ばれていました。内城と外城の二重の城壁に取り囲まれていた都市でしたが、外城は現存していません。北京などの発展を続けた都市は、市内に残っていた城壁を壊してどんどん外側に拡大していきましたが、西安や興城は北京のような発展をしなかったがために、町を取り囲む城壁がそのまま保存され、観光資源となりました。
明代の都市建設から570年の年月を経て今に残されている内城は修繕され、現在興城市内に「古城」として保存されています。明代の城郭都市としては中国でも保存状態がよい。パンフレットが」四大古城のひとつ」と胸を張るのもうなずけます。現存する内城はほぼ正方形で、南北825.5m、東西803.7m、高さ10.1mの城壁が古城内をとり囲んでいます。
城は四つの門(東門=春和門、西門=永寧門、南門=延輝門、北門=威遠門)があり、各門は半円形の外郭で守られた上に二層の楼閣があります。それぞれ、皇帝その他の貴人が通る門、兵士が行軍するときの出入り口、普段の市民の出入り口、弔事用の出入り口とされてきました。城郭の四隅には砲台が置かれ、城内には十字型に大通りが走っています。十字路の中央には三層で高さ17mの鼓楼があり、普段は時を知らせ、戦時には進軍の太鼓を打ち鳴らすことになっていました。
この鼓楼の太鼓が進軍を知らせ、激しい攻防戦が行われた時代のことをお話ししましょう。
<つづく>
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2009年06月29日
ニーハオ春庭「寧遠州城の戦い」
2009/06/29
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(7)寧遠州城の戦い
興城(寧遠州城)は中国東北部と北京を結ぶ遼西回廊の中部に位置し、回廊が一番狭まった所に位置しています。
明代、寧遠州城は、山海関の外郭で辺境を守る重要な城でした。薊遼督師の袁崇煥が城壁を築いて紅夷砲(ポルトガル製の大砲)を据え付け、後金(のちの清朝)の攻撃に備えました。1626年1月、袁崇煥は、攻め寄せてきた女真族のヌルハチ率いる13万の軍を破り(寧遠城の戦い)、明を守りました。城壁に紅夷砲を並べ、新兵器によって勇猛な女真族の攻撃から興城を守ったのです。ヌルハチはこの時に紅夷砲の砲撃を受けた傷がもとで盛京(現在の瀋陽市)に戻って間もなく死亡しました。
翌、1627年、ヌルハチ(愛新覚羅・努爾哈赤)の後を次いだ太宗ホンタイジがこの城を攻め、袁崇煥は同じくよく戦って女真族が明の領土内に入ることを防ぎました。ホンタイジ(表記は皇太子・皇太極・黄台吉など)も重傷を負った結果、彼は名将袁崇煥とまともに戦ったのでは明の本拠地に乗り込むことは不可能だとさとりました。で、どうしたか。
明の宦官を買収し「実は、将軍袁崇煥は、ホンタイジと通じ合っていて、ホンタイジは明を破ったあとに、彼を将軍として厚遇する約束があるのだ」という偽の情報を皇帝に聞かせました。この偽情報を信じた、時の皇帝は、袁崇煥を捕らえて処刑してしまいました。信ずべき人を信じず、信ずべきでない情報を信じたむくいとして、明は袁崇煥の死後滅亡してしまいました。
袁崇煥は、35歳で科挙に合格して進士になった努力型の秀才で、三国時代の名軍師諸葛孔明にも匹敵するとされる名将でした。戦死なら悔いなく死ぬ気であったでしょうに、味方のはずの皇帝に捕らえられて処刑されたのでは、さぞ浮かばれない思いで亡くなったなったことでしょう。
袁崇煥を謀略によって葬ったホンタイジは、味方であった兄弟・従兄弟たちも謀略で陥れ、ヌルハチの後継者としてトップに立ちました。1636年、ホンタイジは元王朝の子孫であるモンゴル族から玉璽を手に入れました。(偽物の玉璽だったという説もある)満州族・漢族・モンゴル族の三族から推戴を受けて「後金の王」から中国全土の皇帝となりました。
しかし、ホンタイジは袁崇煥が守っていない寧遠州城を打ち破ったものの、山海関城や九門口城の鉄壁の守りを超えられず、明の征伐を果たせぬまま1643年に急死しました。
山海関の守りは固かったのですが、山海関の守将であった呉三桂は、袁崇煥を処刑するような明に幻滅し、清に味方しました。ようやく山海関を超えた満州族(女真族から改称)は、1644年に北京に入城し、清王朝は、20世紀まで360年間中国全土を支配します。
清王朝3代目の順治帝は、漢文化や仏教を好み、清朝文化の基礎を築きました。順治帝のあと、その息子の4代康熙帝は名君として知られ、清朝支配を固めました。漢字文化にとって康煕帝が編纂を命じた『康熙字典』、は、今なお漢字辞典の規範とされています。
なお、明の将でありながら清に味方した呉三桂はその功績を認められ、王族に準じられて南方の王となっていましたが、専横が目立ったため、康煕帝に滅ぼされました。
袁崇煥の子孫は、「敵ながらあっぱれであった将軍」の係累として清の軍に迎えられ、その子孫は1900年の義和団事件の後、満州を併合しようとしたロシアと戦うなど、軍人の一族として命脈を保ちました。
袁崇煥が興城の城壁に並べてヌルハチ軍を打ち破った大砲は、今なお城壁に残されています。
<つづく>
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2009年06月30日
ニーハオ春庭「興城古城観光」
2009/06/30
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(8)興城古城観光
興城古城は、1430年(明の宣徳5年)、総兵の巫凱と都御史の包懐徳によって築城されました。(明時代の「総兵」という職務、明の「職官志」によれば、遼東地方を守る守護兵の長のようです。都御史も明の職制のひとつで、都御史は、百官の不正を糾弾し重大な刑事事案を審議するという職務。)
この時の興城は内城が周囲5里196歩、外城が周囲9里124歩で、その後、1628年(明の天啓3年)に袁崇煥がヌルハチ率いる金軍の攻撃を防ぐために防備を強化し、表は青レンガ、内側は石、高さ10m、底部の幅6m、上部の幅5m、枡形を備えた4つの門を持つ興城ができあがりました。この袁崇煥建城が古城として残されているのです。
内城と外城がありましたが、明清交替期の数度の攻防戦、日中戦争期の攻防戦、国共内戦での攻防戦を経て、外城は失われ、現在は内城だけが保存されています。
興城古城の入場券は、50元で、清代の古い四合院住宅である「周家住宅」、孔子の霊廟として中国の古い建築様式を保っている「文廟」など、六カ所の周遊券です。しかし、私はこのうち3カ所しかまわれませんでした。午後4時半の電車に乗らなければならなかったので時間が足りませんでした。
チャーターしたタクシーの運転手、宋さんが「あんな狭い町、2時間もあれば全部回れる」と言うので、午後だけで観光できると判断し、午前中海辺でのんびり貝拾いなどをしてすごしてしまいました。宋さんにとっては、「近所の見慣れた、古いだけの町」にすぎないから「2時間もあれば十分」と思ったのでしょうが、はるばる日本から来た観光客、もう一度ここに観光にこられるかどうかわからない私にとって、そして古い建物を見て歩くのが大好きな私にとって、一日、いや二日間でもたっぷり時間をとって回るべき町でした。
古城としては他の3カ所の平遙古城・荊州古城・西安古城のほうが観光地として整備されており、見所も多いでしょうが、「まだ観光開発されていない素朴な町」として、のんびり過ごしたかったなあと後悔しています。
50元の入場料は、ガイドの案内つきです。歩いて城内をめぐり、説明してくれます。
ガイドさんは、若くて美人のおねえさん。ハルビンの学校で観光学を学び、今は卒業後の研修のために観光地でガイド実習をしているとのことでした。いっしょうけんめい説明してくれるようすから、必ず一人前の観光ガイドとなっていくだろうと思いました。正式なガイドになったあと、給料は一ヶ月800元から千元(約15000円)くらいにはなるだろうと言うことです。(誰にでも給料の額を尋ねてしまうのですが、中国経済を知るのは重要なことです)。
6カ所のうち、最初に行ったのは、清代のお金持ちの四合院住宅である「周家住宅」です。保存状態は悪くないですが、整備が不十分。北京の北海で見た四合院住宅「千竿五号・明清老宅」が実によく整備され観光化されていたのに比べると、観光地としてもっと手入れをすればいいのに、と思います。
町歩きとして楽しい城内ですが、道路にはゴミがあるし、土産物屋の振興なども遅れている。中国人は旅行の土産物というのを買う習慣がないので、土産物屋があるのは外国人が訪れる観光地だけ。日本の観光地のような○○饅頭とか○○煎餅とか、○○こけしとか、定番の土産物がないのです。同僚に買って帰る適当なみやげがなくて、困った。カンボジアのアンコールワットでは、日本人観光客めあてに「アンコールワット・クッキー」というのを売り出した商売上手な日本人がいて、ばんばん売れているそうですが、ここ興城の城内の店、普通の服屋やだのCD屋が並んでいます。ここはひとつ、観光産業を開発して、観光客に金を落とさせる工夫をしないと。
メインストリートから一歩入った胡同(フートン)と呼ばれる裏通りは、ごく普通の中国の裏通り。1級の観光地として開発するなら、すみずみまで観光用に整備して、清潔にしたほうが客が呼べる。北京の胡同は観光用に整備された所以外は壊されてしまっていますが、観光用の地域では胡同の四合院に外国人観光客をホームステイをさせるなどの観光事業が進められています。興城もそのようにできるはず。
城内をそっくりテーマパークとして、観光客に明時代、清時代の生活をさせるようにするのです。あえて言えば日光江戸村化計画。
私が「町おこし」のプロデューサーだったら、ああもしたい、こうもしたいと、アイディアはいっぱいわいてきます。残念ながら、この町の観光開発をする役人でもないので、実現はしないでしょうが、もし、いつの日か、元葫蘆島市の市長だったお兄さんを持つ劉素珍さんに再び会う日が来るとしたら、私を「町おこし委員」にすべきだと言ってみましょう。
<つづく>
2009/07/01
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(8)興城古城観光2
周家住宅の次に孔子の霊廟である「文廟」へ行きました。ここの文廟は、中国各地にある文廟のなかで、もっとも古い建築様式を残す由緒正しき建物と、ガイドさんの説明です。つうか、ガイドさんの説明は聞き取れないので、門や建物の前についている案内板の漢字を拾い読みしていたのですが。
折良く、孔子の命日の儀礼を模したイベントが行われている日で、市内ボランティア(退職老人会といった雰囲気のじいちゃんばあちゃんたち)が、清時代の孔子廟に仕えた人の衣装っぽいものを着て、豚の頭(の模型)や果物が供えられている祭壇に向かっておじぎをしたり、音楽に合わせて槍のような棒を上げたり下げたりの儀礼を続けています。
この孔子礼拝儀礼もゆっくり座って見ていたかったですが、帰りの電車時間を気にしながら、建物を見ながら、横目で見ていました。
次は「将軍府」この将軍とは明から興城を守った袁崇煥のことかと思って6つある見学カ所のうちの、優先3位にしたのですが、袁崇煥とは何の関係もない、近代史北方軍事政権の張作霖の将軍のひとりの住宅でした。この地方を王のように支配した張作霖の主要な部下だった一人の将軍の居宅だった住宅でした。(将軍の名字は「告」に「おおざと旁」をくっつけた字です)。
住宅内には将軍や張作霖の写真がいっぱいありました。大きく飾られている女性は将軍の奥さん。彼女は1949年の人民共和国成立後、この家を女子教育のための学校として解放し、女性の教育にあたったということです。孫文夫人宋慶麗はじめ、中国の重要人物の夫人はそれぞれ大きな活躍をしている人が多い。
張作霖は温泉を好み、興城市には、張作霖が温泉につかりに来ていた別荘が残されています。興城市は、それほど温泉が多くない中国においては、都会に近い貴重な温泉地です。海水浴に適した海岸があり温泉があり、歴史巡りができるなど、日本人ツアーを呼び寄せる要素はたくさんあるので、私が町おこし委員になったら、ぜったいに中国有数の保養観光地にしてみせます。
私は見ることができませんでしたが、オンシーズンには、袁崇煥がヌルハチ軍を撃退した戦いの様子を模した「戦争シュミレーション」イベントも行われているようで、それなりに観光地としてがんばっているようすはわかるのですが、まだまだ開発の余地がある。興城古城を訪れた中国在住日本人のブログを見ても、「古城見物が目的なら、興城ではなく、平遙古城・荊州古城へ行ったほうがいい」などと書かれている始末。
2004年冬にに興城市を旅した人のブログ。
http://www.catv296.ne.jp/~t-homma/newpage4.htm
2007年3月に興城市を旅した人のブログ
http://go.travel.mag2.com/e/mag2/traveler/happytravel/album/10227138/
帰りは、16時34分の和諧号。快適に帰宅できました。
ガイドブックになかったので、何の下調べもせずにひょっこりと思いついて葫蘆島(フールーダオ=ひょうたん島)へ出かけたのですが、あとでいろいろ検索をかけてみると、私が行けなかった「日本人引き揚げ記念碑」に、タクシーの運転手と交渉したらチャーター料金に10元追加で行けたとか書いてあるし、葫蘆島市のバスステーション前には、日本語のうまいスタッフがいる日本料理店があるとか、いろいろと、知らなかった!行きたかった!の情報もありました。残念。でも、まあおいしい海鮮は食べたし、渤海湾の石ころ拾ったし、よい旅でした。
次回、「中国世界遺産の旅・ヌルハチの遺産」のリポートは、瀋陽市の世界遺産「清朝初代ヌルハチの陵墓=福陵」と「清朝2代目ホンタイジの皇居=盛京故宮」の紹介です。
<つづく>