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ニーハオ春庭中国日記「ひょうたん島葫蘆島」

2011-06-26 17:03:00 | 日記
2009/06/24
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(2)葫蘆島市でタクシーチャーター

 和諧号で出会った人のうち、ひとりは、私と同世代くらいの女性です。
 遼寧省にある世界遺産のひとつ「水上長城」を訪ねて、葫蘆(ころ) 島(フールーダオ)へ出かけたとき出会いました。たまたま同じ車輌に乗り合わせて、同じデッキから下車しようとしていた、というだけのご縁だったのに、駅につくまでの短い間に、私が住んでいるすぐ近所の、17階建てのマンションに住んでいるということがわかりました。彼女は葫蘆(ころ) 島市の出身者で、故里に住む兄弟を訪問するところでした。

 駅に降りてから、タクシーをチャーターしようとすると、「兄弟が知り合いのタクシー運転手を紹介すると言っている」と、言います。電車に乗り合わせただけのガイジンに親切にする人、本当に親切な人もいるし、警戒しなければならない場合もある。躊躇したこちらの雰囲気が伝わったのか、自己紹介をきちんとしてくれました。

 彼女は、元軍人です。人民解放軍軍需大学に勤務し、退役後は軍需大学が所有する17偕建てマンションの16偕に住んでいます。中国のマンション、上の偕ほど高級なので、16偕ということは、現役時代に相当な地位にいたことがうかがえます。迎えにきた兄弟の車に同乗させてもらい、紹介してくれるタクシーと待ち合わせることになりました。

 私も名刺を渡し、中国と日本の友好のために当地の大学に赴任していることなどを伝えました。私が留学生教育を担当していることを話したことから、彼女の息子ふたりは、アメリカに留学し、現在もアメリカ在住であることがわかりました。二人とも省で1番の成績を取ったということです。自慢の息子さんたちなのでしょうね。

 彼女のお兄さんは、元・葫蘆島市の市長だったといいます。また、車を運転している弟さんは、葫蘆島市で一番大きい工場のトップ責任者として働いている、ということでした。
 見ず知らずの旅行者に親切にしてくれたお礼を述べると、彼女は「外国人に中国のイメージをよくしてもらうよう働くのは、軍人のつとめである」と、言いました。退職しても軍人の誇りを忘れず生きている方なのでしょう。

 弟さんの紹介してくれた運転手さんは、定年退職するまで弟さんの部下だった人で、退職後に車を買って個人タクシーを始めたのだそうです。
 旅行者をカモにする運転手もいないことはない、という状況のなかで、よい人を紹介してもらったおかげで、安心して旅ができました。

 前回の旅で、タクシーチャーターは、3日間で300元でしたが、葫蘆(ころ) 島でのタクシーチャーターは、移動距離が長かったため、2日間で600元でした。時速80キロですっ飛ばして片道3時間もの移動をしたのに、600元(約9000円)は良心的な値段だったと思います。一般的なタクシーチャーターなら、1日分の値段だったでしょう。
 タクシーを2日間チャーターしての旅など、日本では決してできない贅沢旅行です。日頃、節約して生活しているし、朝から夜まで働き続けなのですから、たまには日本でできないような贅沢をしないと。

 葫蘆(ころ) 島(フールーダオ)の葫蘆とは、「ひょうたん」の意味です。2008年12月にNHKが、「中国から日本への引き揚げが行われた港」として戦後秘話をドキュメンタリーにして放送したので、この地名が知られるようになりました。私も、引き揚げは大連のような日本人が多かった港からだったと思いこんでいたのですが、中国からのすべての日本人引き揚げ者は一括して葫蘆島の港から帰国したのだそうです。
 NHKの報道では、この時、中国人が日本人に報復したり、持ち物を略奪したりしないよう、十全の保護がなされたということです。現在は「引き揚げ記念碑」が建てられているとのことでしたが、運転手さんはその場所を知らず、行くことはできませんでした。

<つづく> 
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2009年06月25日


ニーハオ春庭「葫蘆島市から九門口長城へ」
2009/06/25
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(3)葫蘆島市から九門口長城へ

 運転手さんは、よい人でしたが、外国人など乗せたことはない人だったし、あいにくいつも持ち歩いている筆談用の紙とボールペンを忘れてきてしまったので、最初はこちらのいうことをわかってくれませんでした。
 どこへ行っても旅先で、まずはその土地の地図を買うのが私の観光の最初なのですが、私が「我想買地図ウォーシャンマイチィトゥ」と言っても、「我要地図」と言っても、まったくわかってくれませんでした。何度も「チィトゥ」と言ってみて、いろいろ四声を変えてバリエーションをつけて発音してみましたが、「地図チィトゥ」の四声が違っているので全然通じないのです。

 日本語なら、たとえば、外国人が「ちす、ぽちい」と発音したり「ちいづ、ぐぅだしゃい」と言ったり「てぃーちゅ、ぼちいです」と発言したとして、推測して「ああ、この人は旅行客だし、地図を欲しがっているのかも」とわかってくれるんじゃないかと思うのですが、たぶん、この運転手さん(名前は宋さん)は、地図を欲しがる客など初めて乗せたのでしょう。
 本屋の前で「下、下(シャア、シャア)、降りたい」と言って止まってもらい、地図を買って戻ると、やっと「ああ、地図が買いたかったのか」と、わかってくれました。

 「中国世界遺産の旅その3」は葫蘆(ころ) 島から3時間タクシーで走った先ににある、川の中に長城が続いている「水上長城」として世界遺産になっている「九門口長城」です。
 「長城を訪ねる旅」、本当は、海の中に長城が作られている「山海関長城」に行きたかったのです。九門口長城とは9Kmしか離れていないので、行けない距離ではありませんでした。しかし、運転手が「山海関長城は、河北省なので遼寧省じゃないから」と、行きたがらなかったので、やめてしまいました。

 タクシー運転手の許可証か何かの関係で、省が違うところに行けないのかと遠慮してしまったのですが、あとから考えると、ただ移動距離が多くなるのをいやがっただけだったのかもしれなかったし、「海の中の長城」を見にきたのだから、遠慮せずに「どうしても行ってほしい」と頼むべきだったと思いました。誰かに強く主張されると自分の主張を引っ込めて遠慮して、相手に合わせようとしてしまう日本人国民性を出してしまって、失敗しました。運転は客の希望によって行うのだから、行きたいところへ行くべきでした。
 川の中に万里の長城が続いている「水上長城」もよい所でしたが、私は海の中にまで続いている「海中長城」の写真を撮りたかったのです。

 満州族の王、清王朝初代のヌルハチと2代目のホンタイジがどうしてもこの山海関を乗り越えることができず、瀋陽から明王朝の領土へ入ることができませんでした。明代に補強建設された長城に阻まれたから。現存している長城のほとんどは、明代に作られたものです。清王朝が明を滅ぼして中央に進出できたのは、明王朝が弱体化し、清への内通者が出て山海関を開くことができたからで、乗り越えたのではありません。長城は最後まで領土を守っていたのです。

 万里の長城は8000Kmにわたって続いているので、各地に遺跡があります。一番有名な長城は北京郊外にある八達嶺(バーダーリン)長城で、日本人観光客が「万里の長城を見た」という時、ほとんどは、この八達嶺長城です。私も、1994年に八達嶺長城へ行きました。
 山海関は、日本人観光客が少数ですが行くことがあります。河北省山海関の渤海湾(ぼっかいわん)の海中から延々と尾根尾根を伝って、西の端、青海省嘉峪関の砂漠の中で砂の中に消えるまで続く長城の、東の端のスタート地点だから、ぜひ見たかった。

 「九門口長城」を見た日本人観光客は少数派のほうでしょうから、水上長城を楽しむ一日をすごしたということで満足することにしましょう。山海関の海中長城は、次の機会のお楽しみ。

<つづく>
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2009年06月26日


ニーハオ春庭「九門口長城」
2009/06/26
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(4)九門口長城

 山の尾根づたいにのびた長城が川を渡ってその先の尾根に登っていく。川の中の長城は「水上長城」と呼ばれています。別名九門口。川の水を通すために、九つの水門があるからです。
 中国長城学会の選定した「万里の長城十景」の中にも、第一景として海中長城の山海関とともに、第一景に選ばれています。明の洪武帝の時代、西暦でいうと1381年、北斉長城を基に、大規模な長城の改修が行われ、この九門口も重要な関所として整備されました。

 その後、1986年、1986年、2002年に修復工事が施され、現在では中国第1級(AAAA)
の観光地とし、さらに山海関とともに世界遺産にも指定されています。
 補修されたといっても、遠大な長城ですから、全部がきれいになっているのではなく、補修されたその先には、石積みが崩れた「明代の終わりから放置されてきた」長城も九門口からよく見えます。

 延々と尾根づたいに長城が伸びていく光景は、なんと言っても絶景かな絶景かなと思う和されます。この「異民族の侵入を防ぐぞぉ!」というエネルギーはすごい!日本の人の中には、「中国がいつまでも日本を侵略者として告発するのでうんざりだ」と思う人もいるでしょうが、中国にとっては、「異民族に蹂躙された屈辱の思い出」を忘れるわけにはいかないでしょう。中国史では異民族が絶えず中央への進出をはかり、王朝が交代してきました。その中で、中央へ進出しようとしたが自分たちの王朝は建てなかったのが日本民族なのですから、侵略の記憶だけが残り、憎悪は人一倍でしょう。
 
 飛行機で戦争をする時代になって、長城の「国を守る」役目は終わったのですが、今では重要な観光資源。中国の新しい発表では総延長8000mだそうです。渤海湾の山海関から、西北の砂漠の中に消えるまで続く長城は、どの部分をみても、中国3千年歴史の重みを感じずにはいられません。秦の始皇帝が作り始めたとされている長城ですが、実際に始皇帝が築いた部分で現存しているのはわずか。それでも、長城をながめていると、始皇帝の時代から絶えずこのような防御壁を延々と作り続けた民族的エネルギーに圧倒されます。

 水上長城の周辺の長城は、九つある水門の前後500メートルずつくらい整備されており、そのあたりは観光客が歩くことができます。私も歩いてみました。歩くというより、ひたすら階段を上り下りしたのですが。

 ほんとうはその先の石積みが崩れたあたりも歩いてみたかったのですが、そのあたりには、のんびりと山羊の放牧をしている人が歩いているだけで観光客は見あたりません。

 写真のシャッターを押してほしいと頼んだ観光客は、私が手真似でカメラのシャッターを押すジェスチャーをして「請給我照一張相好[口馬]」と言うと、「私は中国人ではないから、ことばがわからない」と英語で言いながらも、シャッターを押してくれました。「I'm Korean.」と言うので、シャッターを押してくれたお礼として「カムサハムニダ」と言うと「いや、韓国語もわからない。ニューヨークに住んでいる韓国系アメリカ人だ」と言います。
 土曜日の午後といっても、ほとんど観光客のいない観光地で、ニューヨークから来た人と出会うのも、ご縁というものでしょう。

<つづく>
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2009年06月27日


ニーハオ春庭「渤海湾の石」
2009/06/27
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(5)渤海湾の石

 夕暮れ近くまで、九門口ですごし、入り口近くにある仏教寺院をのぞいてからタクシーで葫蘆島市へ戻りました。
 葫蘆島市は海辺の町ですから、夕食はもちろん海鮮料理です。葫蘆島駅前のホテルの1偕が海鮮料理屋でなかなか繁盛していたので、入ってみました。焼きホタテ貝も、魚も、貝とキノコのスープもおいしかったです。

 夜は、自転車タクシーに乗って、夜店が続いているあたりへ行き、店を冷やかして歩きました。1枚5元(約75円)の投げ売りTシャツを買ったところで雨がぽつぽつきたので、あわてて宿へ戻りました。マンゴーなどのくだものを買ったのだけれど、海鮮でおなかいっぱいで、食べられませんでした。
 
 翌日午前中は、海辺を散歩しました。朝のうちはあまり人もいませんでしたから、モーターボートの客引きが数少ない観光客めがけて、わんわんと寄ってきました。30分で一人40元(約600円)というので、中国物価からするとけっこうなお値段です。ぽつぽつとボートに乗る客もいましたが、私はのんびりと海岸で貝や石ころを拾ってすごしました。

 石拾い、私の趣味のひとつです。子供が中学生小学生のころ、「日曜地学ハイキング」という集まりに参加して、月に一度は化石堀りや石拾いのハイキングをしてきました。大学生になり自然地理学を専攻した娘の卒業論文が、島の海岸で何カ所かを1メートル四方のロープで囲い、その中の石や砂の構成を調べる、というものでした。娘は何度も島に通い、石をひとつひとつ拾って、どんな組成の石がどんな割合で海岸を構成しているのか、調査しました。たいへんに根気のいる作業でしたが、なんとか書き上げて提出した娘への、私の中国みやげは、「渤海湾の海岸の石と砂」です。日曜地学ハイキングでお世話になった地学の先生方にも、お分けしたい。
 
 日が高くなるにつれて海岸はにぎわってきたので、土産物屋の冷やかし。遼寧省は化石の宝庫なので、上野の科学博物館では立派な箱に入れられているような魚化石が、店先に無造作にごろごろ置かれています。見目よさげな魚化石を買いました。新聞紙に包んでホイと渡されて、はて、石ころも化石も、日本へ送るにしても持ち帰るにしても、重いだろうなあと、土産物には適さないことに思い当たりました。

 昼ご飯は、海辺の食堂で、ひとつ6元の生牡蠣。わさび醤油をかけて食べました。おいしい!当地では普段の昼食なら6元あれば1食分になりますから、牡蠣一つ6元はごちそうです。10個くらいは食べられそうに思いましたが、万が一牡蠣にあたった時のことを考えて、控えました。あたりはしなかったので、もっとたべておけばよかった、と今は思っています。食いしん坊の後悔。

 午後は、興城市へ行きました。興城市は葫蘆島市に属しています。中国では、大都市の「市」の中に、「県」と「市」が属する制度になっています。東京都の中に「区」と「市」があるように、大きな市のなかにさらに小さい「市」と「県」が属しているのです。中国の県は、日本の郡にあたるってところです。

 興城市は、西安市のように古い城壁に囲まれた都市が残っています。古城とは何度か書きましたが、日本の天守閣があるような「城」ではなくて、長城のような城壁を築いて町の周りにめぐらせ、異民族や敵をふせぐ、その城壁を言います。古城とは、「城壁に囲まれた古い都市」という意味です。

<つづく>
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2009年06月28日


ニーハオ春庭「興城古城」
2009/06/28
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(6)興城古城

 興城古城は、明代に築かれた城壁が町の周囲を取り囲んでいます。
 古城内の本屋で25元で買ったパンフレットによると
「興城古城は、中国に保存されているもっとも状態のよい、四つの古都市のうちの一つです。興城古城肯我国保存最為完好的四座明之一(簡体字を日本漢字に直してました)」とあります。
 四つの保存状態のよい古都市の他の三都市とは、平遙古城・荊州古城・西安古城で、この三都市は、日本から観光客が大勢訪れている有名観光地です。日本で発行されている各種のガイドブックにも載っています。

 荊州古城は、別名江陵城で、最近映画化された『レッドクリフ』すなわち「赤壁の戦い」の舞台ともなったので、三国志ファンにはおなじみの土地です。三国志時代からの遺跡が数多く残されていますが、城壁は清の時代に改修されたものです。
 私が担任しているクラスのレイリさんの故里なので、私も荊州のことをいろいろ知るようになりました。

 平遙古城は、雲崗石窟とともに山西省の世界遺産として指定されたので、太源とセットのツアーが、日本からも数多く訪れています。
 西安古城は、奈良平安の遣唐使が派遣された長安ですから、日本人にはもっともなじみ深い古城です。私も妹と2007年に旅しました。始皇帝陵や兵馬俑、楊貴妃の館など、見所が多い。

 一方、興城古城は、私が持っている『るるぶワールドガイド中国」にも、『地球の歩き方中国』にも、『地球の歩き方中国東北』のいずれにもまったくガイドがない、日本では知られていない観光地です。興城市発行のガイドブックが「中国四大古城のひとつ」と謳っているのに、日本では他の三古城に比べると、「無名」の存在です。 

 興城市は葫蘆島駅前から30分ほどタクシーで行った先にあります。明代、清代には「寧遠州城」と呼ばれていました。内城と外城の二重の城壁に取り囲まれていた都市でしたが、外城は現存していません。北京などの発展を続けた都市は、市内に残っていた城壁を壊してどんどん外側に拡大していきましたが、西安や興城は北京のような発展をしなかったがために、町を取り囲む城壁がそのまま保存され、観光資源となりました。

 明代の都市建設から570年の年月を経て今に残されている内城は修繕され、現在興城市内に「古城」として保存されています。明代の城郭都市としては中国でも保存状態がよい。パンフレットが」四大古城のひとつ」と胸を張るのもうなずけます。現存する内城はほぼ正方形で、南北825.5m、東西803.7m、高さ10.1mの城壁が古城内をとり囲んでいます。

 城は四つの門(東門=春和門、西門=永寧門、南門=延輝門、北門=威遠門)があり、各門は半円形の外郭で守られた上に二層の楼閣があります。それぞれ、皇帝その他の貴人が通る門、兵士が行軍するときの出入り口、普段の市民の出入り口、弔事用の出入り口とされてきました。城郭の四隅には砲台が置かれ、城内には十字型に大通りが走っています。十字路の中央には三層で高さ17mの鼓楼があり、普段は時を知らせ、戦時には進軍の太鼓を打ち鳴らすことになっていました。

 この鼓楼の太鼓が進軍を知らせ、激しい攻防戦が行われた時代のことをお話ししましょう。

<つづく>
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2009年06月29日


ニーハオ春庭「寧遠州城の戦い」
2009/06/29
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(7)寧遠州城の戦い

 興城(寧遠州城)は中国東北部と北京を結ぶ遼西回廊の中部に位置し、回廊が一番狭まった所に位置しています。
 明代、寧遠州城は、山海関の外郭で辺境を守る重要な城でした。薊遼督師の袁崇煥が城壁を築いて紅夷砲(ポルトガル製の大砲)を据え付け、後金(のちの清朝)の攻撃に備えました。1626年1月、袁崇煥は、攻め寄せてきた女真族のヌルハチ率いる13万の軍を破り(寧遠城の戦い)、明を守りました。城壁に紅夷砲を並べ、新兵器によって勇猛な女真族の攻撃から興城を守ったのです。ヌルハチはこの時に紅夷砲の砲撃を受けた傷がもとで盛京(現在の瀋陽市)に戻って間もなく死亡しました。

 翌、1627年、ヌルハチ(愛新覚羅・努爾哈赤)の後を次いだ太宗ホンタイジがこの城を攻め、袁崇煥は同じくよく戦って女真族が明の領土内に入ることを防ぎました。ホンタイジ(表記は皇太子・皇太極・黄台吉など)も重傷を負った結果、彼は名将袁崇煥とまともに戦ったのでは明の本拠地に乗り込むことは不可能だとさとりました。で、どうしたか。

 明の宦官を買収し「実は、将軍袁崇煥は、ホンタイジと通じ合っていて、ホンタイジは明を破ったあとに、彼を将軍として厚遇する約束があるのだ」という偽の情報を皇帝に聞かせました。この偽情報を信じた、時の皇帝は、袁崇煥を捕らえて処刑してしまいました。信ずべき人を信じず、信ずべきでない情報を信じたむくいとして、明は袁崇煥の死後滅亡してしまいました。

 袁崇煥は、35歳で科挙に合格して進士になった努力型の秀才で、三国時代の名軍師諸葛孔明にも匹敵するとされる名将でした。戦死なら悔いなく死ぬ気であったでしょうに、味方のはずの皇帝に捕らえられて処刑されたのでは、さぞ浮かばれない思いで亡くなったなったことでしょう。

 袁崇煥を謀略によって葬ったホンタイジは、味方であった兄弟・従兄弟たちも謀略で陥れ、ヌルハチの後継者としてトップに立ちました。1636年、ホンタイジは元王朝の子孫であるモンゴル族から玉璽を手に入れました。(偽物の玉璽だったという説もある)満州族・漢族・モンゴル族の三族から推戴を受けて「後金の王」から中国全土の皇帝となりました。

 しかし、ホンタイジは袁崇煥が守っていない寧遠州城を打ち破ったものの、山海関城や九門口城の鉄壁の守りを超えられず、明の征伐を果たせぬまま1643年に急死しました。
 山海関の守りは固かったのですが、山海関の守将であった呉三桂は、袁崇煥を処刑するような明に幻滅し、清に味方しました。ようやく山海関を超えた満州族(女真族から改称)は、1644年に北京に入城し、清王朝は、20世紀まで360年間中国全土を支配します。

 清王朝3代目の順治帝は、漢文化や仏教を好み、清朝文化の基礎を築きました。順治帝のあと、その息子の4代康熙帝は名君として知られ、清朝支配を固めました。漢字文化にとって康煕帝が編纂を命じた『康熙字典』、は、今なお漢字辞典の規範とされています。

 なお、明の将でありながら清に味方した呉三桂はその功績を認められ、王族に準じられて南方の王となっていましたが、専横が目立ったため、康煕帝に滅ぼされました。
 袁崇煥の子孫は、「敵ながらあっぱれであった将軍」の係累として清の軍に迎えられ、その子孫は1900年の義和団事件の後、満州を併合しようとしたロシアと戦うなど、軍人の一族として命脈を保ちました。

 袁崇煥が興城の城壁に並べてヌルハチ軍を打ち破った大砲は、今なお城壁に残されています。
 
<つづく>
00:09 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年06月30日


ニーハオ春庭「興城古城観光」
2009/06/30
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(8)興城古城観光

 興城古城は、1430年(明の宣徳5年)、総兵の巫凱と都御史の包懐徳によって築城されました。(明時代の「総兵」という職務、明の「職官志」によれば、遼東地方を守る守護兵の長のようです。都御史も明の職制のひとつで、都御史は、百官の不正を糾弾し重大な刑事事案を審議するという職務。)

 この時の興城は内城が周囲5里196歩、外城が周囲9里124歩で、その後、1628年(明の天啓3年)に袁崇煥がヌルハチ率いる金軍の攻撃を防ぐために防備を強化し、表は青レンガ、内側は石、高さ10m、底部の幅6m、上部の幅5m、枡形を備えた4つの門を持つ興城ができあがりました。この袁崇煥建城が古城として残されているのです。
 内城と外城がありましたが、明清交替期の数度の攻防戦、日中戦争期の攻防戦、国共内戦での攻防戦を経て、外城は失われ、現在は内城だけが保存されています。

 興城古城の入場券は、50元で、清代の古い四合院住宅である「周家住宅」、孔子の霊廟として中国の古い建築様式を保っている「文廟」など、六カ所の周遊券です。しかし、私はこのうち3カ所しかまわれませんでした。午後4時半の電車に乗らなければならなかったので時間が足りませんでした。

 チャーターしたタクシーの運転手、宋さんが「あんな狭い町、2時間もあれば全部回れる」と言うので、午後だけで観光できると判断し、午前中海辺でのんびり貝拾いなどをしてすごしてしまいました。宋さんにとっては、「近所の見慣れた、古いだけの町」にすぎないから「2時間もあれば十分」と思ったのでしょうが、はるばる日本から来た観光客、もう一度ここに観光にこられるかどうかわからない私にとって、そして古い建物を見て歩くのが大好きな私にとって、一日、いや二日間でもたっぷり時間をとって回るべき町でした。

 古城としては他の3カ所の平遙古城・荊州古城・西安古城のほうが観光地として整備されており、見所も多いでしょうが、「まだ観光開発されていない素朴な町」として、のんびり過ごしたかったなあと後悔しています。
 50元の入場料は、ガイドの案内つきです。歩いて城内をめぐり、説明してくれます。

 ガイドさんは、若くて美人のおねえさん。ハルビンの学校で観光学を学び、今は卒業後の研修のために観光地でガイド実習をしているとのことでした。いっしょうけんめい説明してくれるようすから、必ず一人前の観光ガイドとなっていくだろうと思いました。正式なガイドになったあと、給料は一ヶ月800元から千元(約15000円)くらいにはなるだろうと言うことです。(誰にでも給料の額を尋ねてしまうのですが、中国経済を知るのは重要なことです)。

 6カ所のうち、最初に行ったのは、清代のお金持ちの四合院住宅である「周家住宅」です。保存状態は悪くないですが、整備が不十分。北京の北海で見た四合院住宅「千竿五号・明清老宅」が実によく整備され観光化されていたのに比べると、観光地としてもっと手入れをすればいいのに、と思います。

 町歩きとして楽しい城内ですが、道路にはゴミがあるし、土産物屋の振興なども遅れている。中国人は旅行の土産物というのを買う習慣がないので、土産物屋があるのは外国人が訪れる観光地だけ。日本の観光地のような○○饅頭とか○○煎餅とか、○○こけしとか、定番の土産物がないのです。同僚に買って帰る適当なみやげがなくて、困った。カンボジアのアンコールワットでは、日本人観光客めあてに「アンコールワット・クッキー」というのを売り出した商売上手な日本人がいて、ばんばん売れているそうですが、ここ興城の城内の店、普通の服屋やだのCD屋が並んでいます。ここはひとつ、観光産業を開発して、観光客に金を落とさせる工夫をしないと。

 メインストリートから一歩入った胡同(フートン)と呼ばれる裏通りは、ごく普通の中国の裏通り。1級の観光地として開発するなら、すみずみまで観光用に整備して、清潔にしたほうが客が呼べる。北京の胡同は観光用に整備された所以外は壊されてしまっていますが、観光用の地域では胡同の四合院に外国人観光客をホームステイをさせるなどの観光事業が進められています。興城もそのようにできるはず。

 城内をそっくりテーマパークとして、観光客に明時代、清時代の生活をさせるようにするのです。あえて言えば日光江戸村化計画。
 私が「町おこし」のプロデューサーだったら、ああもしたい、こうもしたいと、アイディアはいっぱいわいてきます。残念ながら、この町の観光開発をする役人でもないので、実現はしないでしょうが、もし、いつの日か、元葫蘆島市の市長だったお兄さんを持つ劉素珍さんに再び会う日が来るとしたら、私を「町おこし委員」にすべきだと言ってみましょう。

<つづく>


2009/07/01
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(8)興城古城観光2

 周家住宅の次に孔子の霊廟である「文廟」へ行きました。ここの文廟は、中国各地にある文廟のなかで、もっとも古い建築様式を残す由緒正しき建物と、ガイドさんの説明です。つうか、ガイドさんの説明は聞き取れないので、門や建物の前についている案内板の漢字を拾い読みしていたのですが。

 折良く、孔子の命日の儀礼を模したイベントが行われている日で、市内ボランティア(退職老人会といった雰囲気のじいちゃんばあちゃんたち)が、清時代の孔子廟に仕えた人の衣装っぽいものを着て、豚の頭(の模型)や果物が供えられている祭壇に向かっておじぎをしたり、音楽に合わせて槍のような棒を上げたり下げたりの儀礼を続けています。
 この孔子礼拝儀礼もゆっくり座って見ていたかったですが、帰りの電車時間を気にしながら、建物を見ながら、横目で見ていました。

 次は「将軍府」この将軍とは明から興城を守った袁崇煥のことかと思って6つある見学カ所のうちの、優先3位にしたのですが、袁崇煥とは何の関係もない、近代史北方軍事政権の張作霖の将軍のひとりの住宅でした。この地方を王のように支配した張作霖の主要な部下だった一人の将軍の居宅だった住宅でした。(将軍の名字は「告」に「おおざと旁」をくっつけた字です)。

 住宅内には将軍や張作霖の写真がいっぱいありました。大きく飾られている女性は将軍の奥さん。彼女は1949年の人民共和国成立後、この家を女子教育のための学校として解放し、女性の教育にあたったということです。孫文夫人宋慶麗はじめ、中国の重要人物の夫人はそれぞれ大きな活躍をしている人が多い。

 張作霖は温泉を好み、興城市には、張作霖が温泉につかりに来ていた別荘が残されています。興城市は、それほど温泉が多くない中国においては、都会に近い貴重な温泉地です。海水浴に適した海岸があり温泉があり、歴史巡りができるなど、日本人ツアーを呼び寄せる要素はたくさんあるので、私が町おこし委員になったら、ぜったいに中国有数の保養観光地にしてみせます。

 私は見ることができませんでしたが、オンシーズンには、袁崇煥がヌルハチ軍を撃退した戦いの様子を模した「戦争シュミレーション」イベントも行われているようで、それなりに観光地としてがんばっているようすはわかるのですが、まだまだ開発の余地がある。興城古城を訪れた中国在住日本人のブログを見ても、「古城見物が目的なら、興城ではなく、平遙古城・荊州古城へ行ったほうがいい」などと書かれている始末。

2004年冬にに興城市を旅した人のブログ。
http://www.catv296.ne.jp/~t-homma/newpage4.htm
2007年3月に興城市を旅した人のブログ
 http://go.travel.mag2.com/e/mag2/traveler/happytravel/album/10227138/

 帰りは、16時34分の和諧号。快適に帰宅できました。
 ガイドブックになかったので、何の下調べもせずにひょっこりと思いついて葫蘆島(フールーダオ=ひょうたん島)へ出かけたのですが、あとでいろいろ検索をかけてみると、私が行けなかった「日本人引き揚げ記念碑」に、タクシーの運転手と交渉したらチャーター料金に10元追加で行けたとか書いてあるし、葫蘆島市のバスステーション前には、日本語のうまいスタッフがいる日本料理店があるとか、いろいろと、知らなかった!行きたかった!の情報もありました。残念。でも、まあおいしい海鮮は食べたし、渤海湾の石ころ拾ったし、よい旅でした。

 次回、「中国世界遺産の旅・ヌルハチの遺産」のリポートは、瀋陽市の世界遺産「清朝初代ヌルハチの陵墓=福陵」と「清朝2代目ホンタイジの皇居=盛京故宮」の紹介です。

<つづく>

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ニーハオ春庭中国日記「果物バドミントン生け花」

2011-06-12 07:27:00 | 日記
2009/06/13
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教室中国版>果物の産地(1)ドリアンもイチゴもおいしい

 中国に来てうれしいことのひとつ。農産物が安い中でも、果物が安いことがありがたい。さくらんぼが一斤(500g)で20~25元(300~400円)程度だし、マンゴーの大きいのがひとつ8~10元(100~150円)、日本に比べると割安なので、ついつい市場に出かけると、あれこれ食べたくなります。

 それでも、学生に言わせると、海南島など南の地方では、バナナ1斤(500g)が2元ほどなのに、上海では5元、東北地方では8元にもなって、とても高く感じられる、ということなのです。確かにバナナ5本で120円だったら、農産物物価から見たら、高いほう。日本と同じ値段ということは、中国では高い果物です。それでも、皮を剥く手間なしに食べられる便利さで、朝ご飯にはバナナを1本加えることが多い。

 中国各地の特産品を紹介した学生の短作文を紹介しましょう。「だ、てある体の練習」として書いた時期の作文なので、誤用もまだ多いですが、学生がどのように間違うのかをお知らせするために、誤用のままに写します。

・インさん「ドリアン榴莲果」
 ドリアン(榴莲)は、果物の王様として、とてもゆうめいである。中国では広東省と海南島が、そのさんちとして特に有名である。4,5月になると、成熟した実が自然におちるが、とれてはいけません。むりにとれられば、実がおいしくないし、木にも有害しする。”金枕頭”と、”長柄”と”谷夜套”など四種類が人々に知られている。

・シンショウさん「蓮子(蓮の実)」
 「蓮子」は、暖かい地方で栽培される。湖南省産の蓮子は、「湘蓮」と言うが、中国で一番有名である。蓮花は7月に咲く。蓮花は普通の花より大きい。湘蓮は、たくさん種類がある。例えば、湘潭寸三蓮とか、桃源九渓江とか、いろいろな湘蓮がある。色の白いのもあるし、あかいのもある。夏頃から食べられる。

・レイショウさん「水稲」
 私の郷里は遼寧省の瀋陽市です。瀋陽は水稲の産地です。春になると、水稲の種を蒔きます。害虫や雑草をふせぐために、人々は農薬をかけて、いろいろ世話をして育てます。秋になると、水稲がとられます。機器で米になります。

・レイリさん「イチゴ」
 イチゴは十分な日光の地方で作られる。華中農業大学のイチゴ基地がその産地として、大学生に人気である。中国で、イチゴは7つ種類がある。そのほとんどは森林のイチゴと東洋のイチゴだ。
 夏イチゴは9,10月に植えられ、来年の3,4月ごろ熟れて成り、5月までにとられます。イチゴの実が赤くなった後で、木にとられ、箱に同じ方向を詰められ、冷蔵車や棚があるトラックに積まれて、市場へ運ばれます。

・エンテイさん「楊桃(ヤマモモの実)」 
 楊桃(ヤンタオ)は、あたたかい地方で作られる。浙江省と湖南省がその産地として、特にゆうめいである。楊桃の花、4月に咲く。そして、6月にみがたくさんなる。楊桃を口に入れて後木、すっぱくてあまいあじがある。とてもおいしい。
 楊桃にはいろいろ種類がある。色の赤いものあるし、紫色のもある。楊桃は全部丸い形だ。しかし、おおきいものもあるし、小さいものもある。楊桃はおぞんしにくいので、はこに詰められ、飛行機など、はやい交通工具で外の地方へ運ばれる。1年に2週だけ楊桃を食べられる。そして、スーパーや果物屋で楊桃が、見られない。

 私は、楊桃という果物を食べたことがないので、1年に2週間だけしか食べられないというのを食べてみたいですが、南の地方か、北京や上海のような大都市でないと、手に入れられないみたいです。

<つづく>
11:47 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2009年06月14日


ニーハオ春庭「臍橙、りんご、梨」
2009/06/14
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教室中国版>果物の産地(2)臍橙、りんご、梨

 昨日の記事の中、誤記がありました。楊桃は、和名は五歛子(ごれんし)。現在では「スターフルーツ」と呼ばれ、星の形をしたユニークな果物として輸入されています。私が台湾の市場の朝市で買ったスターフルーツは、とてもおいしかったです。
 しかし、エンテイさんが紹介してくれたのは、楊桃ではなく、「楊梅ヤンメイ」でした。「楊梅」は、やまももの実の一種です。ヤマモモだから、桃と思ってしまい、そのまま「楊桃」と転記してしまったのでした。エンテイさんの原文は「楊梅」だったのを気きづかせてくださった、wxm68971からのコメント、ありがとうございました。エンテイさんの果物紹介を再録します。(学生の誤字誤記はそのままにして写しています)。

 ヤマモモの紹介サイト
 http://www.ecp.kindai.ac.jp/press/column/tree/05.htm

・エンテイさん「楊梅(ヤマモモの実)」 
 楊梅は、あたたかい地方で作られる。浙江省と湖南省がその産地として、特にゆうめいである。楊梅の花、4月に咲く。そして、6月にみがたくさんなる。楊梅を口に入れて後、すっぱくてあまいあじがある。とてもおいしい。
 楊梅にはいろいろ種類がある。色の赤いものあるし、紫色のもある。楊梅は全部丸い形だ。しかし、おおきいものもあるし、小さいものもある。楊梅は保存しにくいので、はこに詰められ、飛行機など、はやい交通工具で外の地方へ運ばれる。1年に2週だけ楊梅を食べられる。そして、スーパーや果物屋で楊梅が、見られない。

・エイケイさん「臍橙」 
 重慶の奉節県が、臍橙(ネーブル)の産地としてとても有名です。それは一般11月にとれます。ネーブルに花が咲くところは、人のへそ(臍)についています。それで臍橙というのです。ネーブルにはいろいろな種類がある。そして栄養もちがうし、口にはり(い)る感覚も、ちがいで(ま)す。

・レイトウさん「フジりんご」
 烱台は、ふじというリンゴの産地として特に有名である。烱台は山東省の東にある。この地方は温かい地方である。太陽が照るのは十分である。5月にりんごの花が咲く。そして小さい実がなる。大きな実がなるために丈夫そうな実だけをのこして他のみがとってしまう。害虫をふせずために袋をかぶせるし、農薬をかける。この袋のためりんごの皮に農薬を残さない。りんごをとれた前、このふくろをとり日が照るとリンゴが赤くなるし、あまくなる。
 とれたりんごは、はごに詰められ、貨物列車や船やトラックに積まれて外の地方に運ばれる。そしてスーパーや果物屋の店先に並べられるのである。

・コウキさん「みかん」
 みかんは熱い地方で作られる。中国で南豊県はみかんの産地として特に有名である。冬になると小さい枝を切る。それに、ミカンの木を保温するために、木の回りに干し草をかけ、縄で木を巻き付ける。みかんの花は7月に咲く。
 みかんにはいろいろな種類がある。刑(形)の大きい物もある、小さいものもある。皮の厚いものもあるし、薄いものもある。また、秋頃から食べられるものや秋の終わりでなければ食べられないものもある。とれたみかんは、みかんに小さい袋をいちいちかぶせ、箱に詰められ、貨物列車やトラックに積まれて外の地方へ運ばれる。そして、町の果物やや八百屋の店先に並べられるのである。

・キンセイさん「白菜」
 私の故郷の遼寧省は中国の東北にある。中国の東北地方で有名な野菜は白菜だと思う。夏によ(な)ると、種をまき、芽が出、農薬をかけるし、野草を抜き、小白菜になる。秋の季節、白菜は大(き)くなると、農民らが、白菜をとる。トラックに載せ、市場やスーパーで売る。
 昔中国の東北地方にすんだ人々は、冬の時、一番多く食べた野菜は白菜である。白菜はたくさん食べ方がある。一番有名食べ方は、白菜を酸菜に作る、とてもおいしくて、中国の東北地方の人々は大好きだ。

・シンランさん「梨」
 私の故里は、梨の産地である。昔、貴州省は西南で梨の産地として特に有名である。今は外の地方で各種の新産名がでるから、有名ではなくなっている。本省の人が大好です。
 梨の花は4月に咲く。白い花がたくさんなると、雪のように美しいです。一本の木には、小さい実がなくさんなると、栄養が有限から、ただ丈夫な実が残してしまう。9月になると、梨の実が成熟する。そして、箱に詰められ、トラックに積まれて、各地へ運ばれる。人々がおいしい梨を楽しむことができる。

<つづく>
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2009年06月15日


ニーハオ春庭「蟹、桃、香瓜、冬棗」
2009/06/15
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教室中国版>果物の産地(3)蟹、桃、香瓜、冬棗

 学生の「ふるさとの名産紹介」の続き。
・カショさん「蟹」
 私の故里の大連が海産物が有名な地方として皆に知られている。海産物の中で、一番おいしいのは、かにだと思う。かににはいろいろな種類がある。形の大きいものもあるし、小さいものもある。かにの肉が多いためによくうれるものもあるし、かにの肉がおおくなくても、おいしくてよくうれるのもある。
 一年中食べられても、9月から10月の中旬までの間でなければかにがおいしくない。海でとれたかには、箱に詰められ、トラックに積まれて近くの地方へ運ばれる。短い時間で運ばなければ、新しくない。そして、市場やスーパーに置かれるのである。

・チョウケツさん「桃」
 私の故郷がももとして全国で知られる。一番有名な種類は常徳ももである。桃の」花は3月にたくさん咲く。遠くから見ると、ひろい海のようだ。毎年人々が大勢ももの景色を見る。ももの花は、おちる時実がたくさんなる。一本の木にあまり多くの実がなると、たた丈夫そうな実を残して、外の実はだんだんとってしまう。
 害虫を防ぐために、4月からももの実に農薬をかけることが必要だ。いろいろと世話をした後で、ももが成熟になる。6月に常徳ももが各地に運ばれ始める。まず、箱に詰められ、トラックに積まれて、外の町へくばられる。そして、市場や果物屋の店先に並べられ、各地の人がたべることができる。

・ソケツさん「冬棗」
 私のふるさと山東省の濱州市は、冬棗の産地として有名です。毎年10月に冬棗の実がなります。冬棗は大きくてとてもあまいです。しかし、冬棗の実ができる間は短いので、ほかの季節が食べられません。冬棗はたくさん栄養があるので、百果王ということが知られます。

・ショウケンさん「豆」
 中国は豆の産地として知られています。特に東北地方は豆が種かれます。豆は、秋にとれます。豆にはいろいろな種類がある。黄色の豆とか緑の豆とか、赤い豆とか、黒い豆もあります。豆には栄養がたくさんあるので、あまり食べると健康にいいです。

・ゴタンさん「香瓜」
 香瓜は、中国の北方で作られる。遼寧省と吉林省と陝西省と山東省と河北省がその産地として有名である。香瓜の芽はすいかに煮て、曲がって長くて、地面にふせう。香瓜の花は4月に咲く。そして、一本の芽に小さい実がとおぐらいなる。大木意味がでるために、丈夫そうな実が五つぐらい残して、外の実はとってしまう。
 葉に害虫がつくのを防ぐために、農薬をかける。実際は香瓜の実に害虫がつかないので、簡単に世話をして育てる。
 香瓜にはいろいろな種類がある。例えば、白糖缶、羊角密。形のおおきいものもあるし、ちいさいものもある。色の白いのもあるし、緑色いのもある。また、夏頃から食べられるものや秋の8月にならなければ食べられないものもある。

 ゴタンさんの紹介文「緑色い」という「新形容詞」が、かわいい。香瓜は、メロンのひとつ。とてもおいしくて安いので、私もよく食べます。冬棗、生ははまだ食べたことがないのですが、そのうち中国からの輸出品が日本にも出回るのではないでしょうか。ドライフルーツとしては、もう売られているようです。
http://guilin.fc2web.com/syoku/pages/k04.htm

<おわり>
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2009年06月16日


ニーハオ春庭「バドミントン」
2009/06/16
ニーハオ春庭>ニッポニアニッポン語教師日誌中国版(5)バドミントン
 
 6月13日土曜日、大学の体育館でバドミントンをしました。私の担任クラスの学生に「老師を遊ばせる会」を提案したうちのひとつです。第1回目の「動物園でパンダを見よう会」は大成功で、みな楽しく一日をすごし、おしゃべりもたくさんできました。

 第2回目の「牡丹園で老師と牡丹のどちらが美しいか比べよう会」は、私の博論中間発表打ち上げ会を兼ねるつもりだったので、「発表失敗につき、打ち上げもキャンセル」にしてしまいました。

 もう、牡丹は散ってしまったので、春庭センセとどちらが美しいか、比べることができなくなってしまいました。もちろん、よりいっそう美しいのは、、、、。なにしろ、私は、夫から「化粧しなくても美しい女性と、化粧しても美しくならない女性は化粧しなくてもいい。だから、あなたは化粧しなくてもいいのだ」と、言われてきたのですから、、、、。

 第3回目が、「老師にバドミントンを教えよう会」です。土曜日、午後1時半に体育館に集合。まずトランプカードをひいて男女ペアを決めました。私のペアはチョウケツさん。チョウケツさんは中国経済の研究をしています。大学院時代からの恋人シンランさんと同じ専門。同じクラスにいつもいっしょに座って仲良く授業を受けているカップルです。残念なことに、日本の留学先は別々になり、東京大学と慶応大学に分かれました。

 シンランさんは小学生時代から卓球教室に7年間通って、卓球は選手級。時間があるとき、いつもチョウケツさんといっしょに卓球をしています。だから、「センセー、チョウケツさんは、バドミントンが下手です」と、シンランさんはセンセのペアが自分の恋人になったことを気の毒がってくれました。といっても、日本の水準からすれば、チョウケツさんもなかなかバドミントンが上手でした。他の「選手級」の上手な学生ペアを相手に健闘したのですが、四戦四敗でした。みな、とても上手です。

 2面のコートを使い、試合のない人がレフリーをしました。私はレフリーできないので、試合をしていないときは、バドミントンの上手なショウケンさんとゴタンさんにバドミントンの基本動作を教えてもらいました。二人とも上手なコーチで、日本語で一生懸命、打ち方のコツを解説してくれました。ラケットをにぎる右腕、肩を動かして打つのではなく、肘を支点として、梃子の原理で振り下ろすのだということがわかりました。
 また、私はバックハンドがまったくできなかったのですが、打ち方を教わって、できるようになりました。何事も基礎を教わるのは大切です。

 最後に、私と一番強いヨウショウさんがペアになり、2番目に強いエイケイさんとクラスで一番若いカショさんペアと対戦。これは「老師へのサービス試合」です。
 ヨウショウさんが難しい球をほとんど拾ってくれたし、私もコツを教わっていくらか上手になったので、がんばって打ち返しました。

 ヨウショウさんは、カショさんをねらい撃ちして、激しいスマッシュを浴びせたのに対して、エイケイさんは、私が弱くても遠慮して狙い撃ちできない、という差があります。コートチェンジのとき、狙い撃ちされたカショさんは、ヨウショウさんのおしりをけっ飛ばすジェスチャーをしていました。
 3ゲームして、2対1で勝利。「接待ゲーム」の勝利、勝因は学生たちの気遣いの結果です。

 シンランさんは、デジタル一眼で撮影した写真を私のUSBにコピーしてくれました。「200枚とりました」と言っていましたが、今は写真をファイルで簡単に渡せるので、老師は「多ければ多いほどいいです」と、先週教えたばかりの文型を使ってお礼をいいました。
 私はバドミントンが上手になり、学生は日本語が上手になった土曜日の午後でした。

<つづく>
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2009年06月17日


ニーハオ春庭「カラオケパーティ」
2009/06/17
ニーハオ春庭>ニッポニアニッポン語教師日誌中国版(6)カラオケパーティ

 担任クラス3班のバドミントン大会は、13時半16時半まで。そのあと、1時間の休憩着替えタイムをとったあと17時半から大学内の食堂で、夕食パーティとなりました。
 トランプカードでテーブルの席を決めました。大テーブルふたつのうち、Aテーブルの私の右側はレイトウさん、左側はコウキさん。Bテーブルではにぎやかに中国語のおしゃべりが始まりました。Aテーブルは、学生ができるだけ日本語で話そうとして、中国語日本語チャンポンのおしゃべり。

 東北地方の料理がテーブルいっぱいに並べられたなか、辛い物が好きな四川省や湖南省の学生のために、「重慶水煮魚」という料理も出ました。この「重慶水煮魚」の作り方は、専門のコックに作り方をならったというソケツさんが、昨日16日のスピーチで、詳しいレシピを紹介してくれました。USBスライドで材料や料理中の写真を見せて、ひとつひとつ説明してくれましたので、私も料理法がよくわかりました。

 ソケツさんはクラスの女性中、ただひとりの既婚者なので、おしゃべりの中では「今、ご主人と離れて寮生活をしているソケツさん、ご主人に恋人ができたらどうしますか」などとからかわれていました。ソケツさんは「彼は私だけを愛していますから大丈夫です」と、切り返していました。

 男性で結婚しているのは、班長のキンセイさんひとり。今、奥さんは大連の大学にいますが、夫の国費留学に合わせて私費留学を決め、夫の指導教官と同じ研究室に所属することが決まっています。夫婦で同じテーマ「ナノカーボンチューブ」を研究する予定です。きっと夫婦協力の博士論文が立派に仕上がることでしょう。

 中国の大衆的レストラン中クラスの食堂の多くがそうであるに、カラオケ設備がついています。専門の「KTV」カラオケ店ほど曲数がありませんが、食事のあいまに交代で歌うには十分です。

 クラスきっての歌手は、班長のキンセイさんのほか、一番若いカショさんと、東工大への留学が決まっているシンショウさんです。この3人は、日本人教師歓迎学芸会のときも歌を披露していて、私は歌声を聞いていましたが、パーティでも、かわるがわる歌ってくれました。私とバドミントンのペアを組んだヨウショウさんや、コーチをしてくれたゴタンさんも歌が上手で、交代でうたったり、デュエットしたりしていました。

 私は、テレサテンの「時の流れに身をまかせ」を歌いました。どこのカラオケでもテレサテン(鄭麗君)の歌は必ずあります。日本語の歌をおいてないカラオケ店でも「北国の春」は、中国語版がおいてあるので、たいてい「北国の春」を歌うのですが、今回はテレサテンに挑戦。画面には日本語と中国語の両方の歌詞が出たので、私は日本語で歌い、学生たちは中国語で歌う、大合唱になりました。

 カラオケのつぎは、ゲーム大会。日本でもよく行われる、数字ゲーム。数字を順番に言っていき、3と3がつく数字、3の倍数は拍手するというルールです。中国にもこのゲームがありますが、今回は日本語限定版。中国語では皆上手にできるのですが、日本語になると、とっさの数字が出てこなくて、皆よく間違え、大笑いでした。間違いが多いのは、9と10です。なぜなら、中国語の9は「ジウ」と発音するので、日本語の「ジュウ」とよく間違えるから。9は3の倍数だから拍手をするだけの数字なのに、意識しすぎて9のときに「ジュウ」と言ってしまったり。

 間違えた人の×ゲームは、①皆に命令されたことをする②ビールをコップで一気のみ③秘密の告白、から選びます。男性はビール一気のみを選ぶ人が多い。中国のビールは2,5%くらいで薄いので、日本の大学では新歓パーティなどでの一気飲みは禁止されていると授業では説明したことがあったけれど、まあ、中国のビールだから大丈夫と目をつぶりました。

 私が×ゲームになったら、「先生は一口飲めばいいです」と、気遣ってくれました。再度の×では、ビールはやめて、「センセの体は章魚のように柔らかいことの披露」をしました。以前に教室で脚の180度開脚は披露したことがあるので(どこでもこれをやるのだが)、今回は背中を反らしてのブリッジを見せました。 

 「皆に命令されたことをやる」をするハメになった学生。「クラスで一番好きな相手を選んでダンスをする」とか、「結婚記念写真のように相手の肩を抱き寄せて写真をとる」などを命令されていました。
 「秘密の告白」では、「恋人との仲はどこまで進展しているか」などのきわどい質問もあり、「恋人とキスしたことがありますか」の質問にヨウショウさんは「もちろん」と答えていました。

 大笑いしてよく食べよく飲んで、最後に先生が「二日酔いしても、必ず月曜日には宿題を出しなさい」と、命令しておひらきになりました。
 ゴタンさんとヨウショウさんが、タクシーに同乗して、私の宿舎まで送り届けてくれました。タクシーを拾うところまでの同行だと思ったので、「ひとりで帰れるから大丈夫」と、言ったのですが、「先生の安全は学生の責任」というので、いっしょに来てもらいました。最後まで気遣いを忘れない学生たちと、楽しい一日を過ごせました。

 月曜日、みな宿題をちゃんと出しました。よい学生たちです。

<つづく>
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2009年06月18日


ニーハオ春庭「中国古箏」」
2009/06/18
ニーハオ春庭>ニッポニアニッポン語教師日誌中国版(7)中国古箏

 かって勤務していた大学で、私にとっても楽しみな授業のひとつが「日本と自国の交流史」という発表でした。学生が資料を調べ、発表原稿を作る。教師が添削し、プレゼンテーションのアドバイスをする。私にとっても、知らないことをたくさん学ぶことができ、学生同士でも、お互いに啓発し合える授業でした。
 そのなかに、「中国の琴と日本の琴の比較」という発表があり、現代中国で「中国古箏」と呼ばれている琴は21弦であり、日本の琴が13弦であることと違っている、音階は、どちらもヨナぬき、すなわちドレミソラの5音階であることなどを知ることができました。

 2007年には伍芳の古箏コンサートを聴き、ますます中国古箏の音色に惹かれました。若い頃、姉が生田流の琴のお稽古に通っているのにくっついていき、琴の音色はスキだけれど、正座して弾くのはごめんだと思って稽古を続けることはしなかったのだけれど、現代では山田流も生田流も椅子に座っての発表会も稽古もあって、正座がいやでやめたのは若気の至りだったなあと反省しきり。

 おもいがけず、中国古箏のお稽古をすることができました。クラスメートから「芸術家だから変人でもしかたがない」と、一目置かれているエイケツさん、昆曲(京劇の源流である演劇芸能のひとつ)や能楽の研究をしている女性で、クラス内では孤高を保っています。(ひらたく言えば、友達とのつきあいをしない)
 クラスメートからは「芸術家」として「敬して近寄らず」というつきあい方で、トイレにいくのも連れだって行く仲良しさん同士が多いなか、食事に行くのも寮への行き帰りもひとりで、私はいささか心配していました。いくら芸術家とは言っても、日本語の上達にはコミュニケーション能力を高める力が大いに関わっているからです。

 また、私自身が他人との顔を合わせるつきあいが苦手で、ごはんは他の人と話題を合わせながら気を遣って話をして食べるのが嫌い。ひとりで食べる方が気が楽、という性分ですから、彼女がいつもひとりでいることがいっそう気になってきたというわけです。

 エイケツさんは、日本人教師歓迎学芸会でも琴の演奏を披露し、クラスの皆もエイケツさんの芸術センスを認めています。そして『論語』の中のことば「鬼神は敬してこれを遠ざく」すなわち、鬼とか神様のような力があって、その力をどう使うか予測しがたいものには、軽々に近寄らず、少し距離をとったほうがいいということを実践し、彼女に近づこうとしません。決して排斥はしませんが、いっしょにトイレに行く人はいない。

 「老師を遊ばせる会」というのは、実は日本語の会話機会を作るための方策のわけですが、動物園散歩にもバドミントンにもカラオケパーティにも参加しなかったエイケツさん。一対一でもいいから、なんとか会話するチャンスを作ろうと、「古箏を習う会」を企画しました。琴の弾き方を教えるのはエイケツさん。習う人、クラスで募集したかったのですが、まず最初は私が習ってからと、6月11日に第一回目。6月15日に第二回目のお琴教室を開催。個人教授で教えてもらいました。

 弦が21本ということも日本の琴と違いますが、爪もだいぶ違います。細い爪を指に対して45度に置き、絆創膏でぐるぐる巻きにして弾きます。最初は爪をつけずに、自分の指と爪で練習。音階、楽譜の読み方を教えてもらいました。2回目は、私がネットから採譜した「さくらさくら」を弾いてみました。

 他の学生たち、コミュニケーション能力が高く、多少文法や発音が違っていても、持ち前の表現力でどんどん会話するようになっているのに対して、エイケツさんは、今もぽつぽつと単語を並べていく方式をとっています。それでも、琴を教えるという行動のなかで、一生懸命日本語で説明しようとする姿勢は伝わってきました。

 「芸術家だから、少々変わり者」とみられているエイケツさんですが、ほんとうにデリケートな精神の持ち主で、細やかな感情を持っているのです。
 他のイベントは一回だけで終わりにし、次は縄跳び大会の練習、次は太極拳とつぎつぎに学生といっしょにやりたいことがあるのですが、お琴教室はあと何回か続けたいと思っています。

<つづく>
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2009年06月19日


ニーハオ春庭「生け花教室」
2009/06/19
ニーハオ春庭>ニッポニアニッポン語教師日誌中国版(8)生け花教室

 日本は梅雨が続いていますね。留守番の娘や息子からのメールで、いつもは自転車通学の息子、雨の日は、大学まで自分のパソコンをかかえて地下鉄とバスを乗り継がなければならずたいへんだというメールも届きました。自転車なら15分で行ける「自宅から一番近い大学」という条件で選んだ大学なのですが。
 
当地、例年の6月とは大違いで、日本のようなじめじめした日が続いています。5月メーデー連休後、30度を超す暑い日が続いたと想ったら、最高気温16度というふうに一気に下がり、また暑くなってまた下がるという急上昇急降下の気温、そろそろ脂っこい中国料理に胃がもたれてきた、という理由などで、体調を崩す同僚が出てきました。

 私は、今のところベリーダンス練習のおかげで体調は順調です。ベリーダンス、始めた5月は週1日水曜日だけでしたが、6月前半は月水、後半は月水金の週3回というがんばりようで、これはやはり「1年分の授業料先払いしたのだから、モトとって帰ろう」という貧乏症の効用です。
 食べることも食べているので、あまり痩せはしませんが、体調を整えるために、体を動かして運動することはとても効果があると思います。

 来週からはクラスの縄跳び練習に参加するつもり。6月末日に学内縄跳び大会があります。大縄とびは、10人が何回連続して跳べたかを競います。個人縄跳びは1分間に何回跳べたか、回数の多いほうが勝ち。この1分間に何回、という縄跳び競技、中国のテレビにこの縄跳びチャンピオンが出て、1分間に300回近く跳んでいました。この「1分間に何回跳べるか」は、大学入試の「体力検査」にも使われた、ということです。
 体力勝負は、入試も授業も同じです。 

 同僚たちのほか、日本語教師団の団長夫人も体調が悪くなったそうで、心配です。
 団長夫人は、毎週2回、「生け花教室」を開いて、学生たちの好評を得てきました。
 生け花教室は、1回につき5名ずつ学生に教えてきました。日本から持ってきた剣山の数が5つだったので、5名ずつということになったのですが、先生と会話をしながら花を生けるには、ちょうどいい人数だったようです。

 私のクラスからも、男性2名を含め生け花に挑戦しました。花材はその日によって異なり、カーネーションの日もガーベラの日もありました。先生が「日本ではどの花屋でも見かけない」という花材だったときもありましたが、皆、先生の教え通りに熱心に生け、同じ花材を使い同じ構成に生けているのにそれぞれの個性が出た形に仕上がりました。
 私はカメラ係で、学生が生けている様子や、最後の記念撮影を担当しました。

 花に顔を寄せて、さてどう剣山に刺そうかと考えている学生は、いつもの日本語授業のときの顔とも違う熱心さで、とてもよい表情をしていました。
 ちょうど希望者が一巡したところだったので、生け花教室は、先生の体調回復までお休みということです。剣山の数が足りないので、学生の数が4人だったときは私も生け花を習おうと思っていたのですが、次回開催まで、待つことにいたしましょう。

<つづく>
04:46 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2009年06月20日


ニーハオ春庭「卒業シーズン」
2009/06/20
ニーハオ春庭>ニッポニアニッポン語教師日誌中国版(9)卒業シーズン

 6月は、卒業シーズン。中国の各地の学校では卒業生たちが、記念写真をとったり、クラスメートと思い思いの卒業旅行を楽しんだり、卒業論文があまりよい成績でなかったので、がっかりしたりという光景が繰り広げられます。

 日本語講師室には、隣の学舎で日本語を学んできた「ビジネス日本語科」の4年生ふたりがアシスタントとして交代で勤務し、コピーをとったりお茶をいれたり、秘書として日本語教師を手助けしてくれています。この助手さんふたりも卒業を迎え、7月はじめにはそれぞれの故里に帰ります。

 19日には、二人は「卒業ガウン」をレンタルして、友達と写真を取り合いました。
 卒業ガウンのレンタル料は、40分が8元。20分延長すると4元。つまり1時間のレンタルが12元になります。しかも、レンタル屋のガウンの数が限られているので、仲良し同士が誘いあってひとつの貸衣装屋でガウンと四角い学士帽子(と呼ぶのかどうかわかりませんが)をかり出しても、せいぜい10着単位で、クラス全体で集合写真を写すには数が足りないので、順番に借りて、図書館前とか学部玄関前などで、互いにデジカメを取り合う。お金のある人は、カメラ屋を呼んで本格的な写真をとるけれど、普通は、友達同士で取り合うので十分だということです。

 講師室アシスタントのふたりは優秀な人たちで、卒業後の進路、一人は中国重点大学のひとつである四川大学の大学院修士課程への進学が決まっており、9月からは故里の四川省に戻って日本語研究を続けます。卒業論文は、日本語の敬語表現について。
 もうひとりは、宮崎駿研究という卒業論文を仕上げ、宮崎駿の世界観やアニメ表現についての論をまとめました。
 卒業後はビジネス日本語学科の5人のクラスメートとともに、中国工業のメッカ深[土川]にある日系企業オリンパス(奥林巴斯)への就職が決まっています。日本でも大学生の就職難が続いているし、中国でも就職市場にかげりが出てきたと聞きますが、日本語をしっかりまなんだ学生を日系企業も必要としているのでしょう。

 さて、中国の大学で、卒業までに要した費用を調べてみました。
 入学金 ナシ(最近増えてきた私立大学には、入学金を取るところもあるが)
 授業料 1年3500元~20000元(学部によって違う)×4年
 寮費  1年 800元~2000元 ×4年
 食費  一日10~20元×30×12×4=約3万元
本代、携帯電話、電子辞書など     約5000元 
服、靴など  約2000元~5000元
旅行その他娯楽費
 などなど、4年間で10万元前後はかかります。中国の一般的な年収平均から考えると、大学費用は、高い買い物になる。 

 大学卒業後の初任給は、会社によってちがいますが、1500~3000元。福利厚生のよい大企業だと、住まいは会社の寮があるところが多く、給与は可処分所得とみなしてよい。初任給の額は、各会社でそれほど差がないように見えても、寮のあるなし、昼食券を出す会社かソウでないかなどによって、可処分所得が違ってくる。

 それにしても、大学卒業までにかかった費用、親が苦労して捻出してくれた家庭の子は、親の支援に報いようと、必要経費を除く所得は、親への仕送りにする人も多い。

 現在、私のクラスの中級日本語の授業では、『野口英世』という読解文章を扱っています。英世の努力がかかれている文章ですが、あわせて、私は、英世の母、野口シカの子を思う気持ちを紹介しています。シカが苦しい家計の中、息子野口清作を学校に通わせるために、暇を惜しんで働いたこと、息子の渡米後は、息子の無事と成功を祈って帰りを待ち続けたことなど。ひらがなで書かれたシカの手紙を紹介すると、自分の親の苦労を思って、しみじみする学生も出てきます。

 大学の卒業式まであとわずか。学部卒業までの日々を心残りなくすごし、卒業後に活躍してほしいと願っています。

<つづく>
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ニーハオ春庭中国日記「センセと遊ぼう会」

2011-06-05 05:31:00 | 日記
2009/06/02
ニーハオ春庭>ニッポニアニッポン語教師日誌中国版(1)センセと遊ぼう会

 昨日6月1日は、「中国こどもの日」でした。14歳以下を子供とみなすそうです。小学校は休校になります。しかし、ほとんどの子供の両親が共働きの中国で、親は休みではないのに、子供だけ休みになったら、かえって困るのではないかとも思うのですが、おじいちゃんおばあちゃんに世話してもらっている子供が多いとのことです。

 4月の清明節三連休、5月の始めにメーデー三連休があり、5月の終わりに端午節三連休がありました。次の連休は10月1日の国慶節までないので、7月末に帰国する予定の私にとっては、最後の三連休です。
 こちらの旧暦(農歴)では、今年は5月28日が5月5日にあたります。人々はチマキを食べて端午の節句を祝います。今年は閏月があるので、閏五月があり、6月27日が閏5月5日にあたります。

 大学職員食堂でも5月27日の昼ご飯にチマキが出ましたし、宿舎の食堂からも粽とゆで卵のプレゼントがありました。
 ゆで卵は半熟ときいて、生卵に気をつけているので、加熱して固ゆでにしたいと思いました。生卵をそのまま電子レンジにかけると爆発することは知っていたので、半分殻をむいたのですが、やっぱり爆発しました。プラスチック容器のフタをふっとばしてレンジ内に卵が見事に散らばりました。ふう、電子レンジ掃除から始まった端午節三連休。人生の貴重な体験。卵は、半分殻をむいた半熟卵でも爆発する。

 1994年の赴任時には、教員宿舎と学生寮は歩いて15分くらいの距離だったので、週末には学生を宿舎に呼んで料理大会を開いたり、麻雀牌を買ってきて麻雀大会を開いたりして学生と遊びながら会話する機会を設けました。
 2007年には、キャンパスは郊外に移転して学生寮と教員宿舎はバスで30分以上も離れてしまったので、学生を宿舎に呼ぶことはできなくなりましたが、学生たちとは週末の食事会でいっしょにご飯を食べておしゃべりしたりカラオケしたりしてすごしました。

 2009年、初級課程のうち、学生と教室でお茶とお菓子をいただきながらおしゃべりをする会を教室で開催し、4,5人の学生を1グループにしてチャット会を続けました。日本女性の化粧法についてとか、国費留学生はアルバイト禁止と聞いたが、夏休みにアルバイトするチャンスがあるか、とか、学生は日本にいろいろな興味をもっておしゃべりしました。

 初級期末試験も終わり、授業は中級日本語課程に入りました。学生たちも端午節三連休を前にゆったり余裕モードになったところで、「先生と遊ぼう会」の提案をしました。
 私が中国でしたいこと、1番目の旅行は、集安旅行の次に葫蘆(ころ) 島、哈爾濱、瀋陽、への旅行を企画しています。
 それから、学生とは麻雀、カラオケ、バドミントン、卓球、太極拳、散歩をいっしょにしたいと希望を出しました。クラス内を歌が好きなグループ、卓球が好きなグループなどに分けて、5,6人でおしゃべりしながら遊ぼうという計画です。

 第一弾は、散歩。大学本部キャンパス前にある動物園でパンダ見物をしました。5月28日に学生7人のグループといっしょに動物園を歩きました。暑い一日。
 四川省から5月~10月の期間限定で借りてきたパンダなのだそうです。

<つづく>
04:49 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2009年06月03日


ニーハオ春庭「大熊猫見物」
2009/06/03
ニーハオ春庭>ニッポニアニッポン語教師日誌中国版(2)大熊猫見物

 先生と遊ぶ会、第1回目のパンダ見物。
 朝、9時半に動物園の正門前に集合したときには、入り口は大勢の客でごったがえしていました。入場料は30元と聞いていて、2007年に動物園に来たときから3倍も値上げしたのか、と驚き、ずいぶん一気に値上げしたなあと感じました。しかし、入園料は10元、あれま、2007年と変わっていないじゃん、と思ったら、パンダ舎は別料金で20元、というシステムでした。

 現在、上野動物園にパンダはいなくなってしまいましたが、神戸動物園などパンダが「客寄せパンダ」になっているところがいくつかあり、日本人のなかで、本物のパンダをまだ一度も見たことがない、と言う人は少なくなったのではないでしょうか。しかし、中国は広いので、パンダの故郷四川省出身者でもパンダを見たことがないという人がかなりいます。パンダがいる動物園のある町にすんでいる人でないと、なかなかパンダを見るチャンスなどないのです。

 パンダは絶滅危惧種で貴重な動物であり、昔はパンダ外交と呼ばれる「中国政府の外交政策の目玉」となっていたので、パンダ飼育は厳重な管理のもとにおかれています。一般の人に見せて楽しませてあげるより、外交手段に活用したほうがいい、と政府も考えているのではないでしょうか。

 さて、当地の動物園にはこれまでパンダはいませんでした。しかし、今年5月から10月までの期間限定で、パンダが貸し出されてやってきました。
 パンダを見たことない東北地方の人々は、パンダを一目みようと詰めかけ、園内はにぎわっていました。中国の象徴的な動物であり、北京オリンピックのマスコットにもなっていたパンダ。子どもたちは初めて見るであろう動物に目を輝かして見入っています。

 我がクラスの学生たちの中にも、「パンダを初めて始めてみます」という人ばかりか、「象を初めて見ます」「キリンを初めてみます」という人もいました。最初は「動物園なんて、子供の喜ぶところ」と思っていたような人も、とてもうれしそうに動物といっしょの写真をとっていたので、散歩を提案した私も「誘ってよかった」という気分でした。
 
 東北虎は、日本で見たマレー虎などに比べると一回りも二まわりも体が大きかったのが印象的でした。暑い日だったせいか、ライオンも虎も退屈そうに寝そべっていました。毛色が灰色でシベリア狼に似た種類の「草原狼」や毛並みが赤茶色の「紅狼」、豹や河馬、縞馬など、皆大喜びで見ていました。
 
 目玉のパンダも昼間は寝ているばかりです。たまに動くと観客は歓声をあげていました。
 白と黒の毛皮が特徴であるはずのパンダ、雑伎団などで飼っている民間商業用のパンダでもあったのか、少々毛皮の白が薄茶色に汚れていたため、リューカさんは「このパンダはきれいじゃありません」と、自分のイメージと違うと言っていました。そこで「このパンダはおふろに入るのが嫌いなようです」と、習ったばかりの推量文型「~ようです」を使って言うと、リューカさんも笑って納得していました。

<つづく>
03:27 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2009年06月04日


ニーハオ春庭「日本アニメ育ち」
2009/06/04
ニーハオ春庭>ニッポニアニッポン語教師日誌中国版(3)日本アニメ育ち

 動物園ランチの間の話題では、子供のころに見た日本製のテレビ番組の話で盛り上がりました。
 今教えている学生たちは、1979~1984年生まれで、83年生まれのうちの娘とぴったり同世代。子どもたちといっしょに私もテレビアニメを見てきたので、学生たちのいうテレビ番組のほとんどを私も見ており、「見た見た」と、盛り上がりました。

 『クレヨン新ちゃん』が「鉛筆小新」というタイトルで放映されたことは知っていましたが、そのほかにも日本のアニメがたくさん出回っています。正規のアニメ輸出ではなく、大半は海賊版です。ドラゴンボール=七龍珠(qilongzhu)スーパーサイヤ人=超級賽亜人(chaojisaiyaren)カメハメ波~=亀派気功波、と言う具合。ドラゴンボールは、日本のアニメ画像をそっくり中国アニメに作り直しているので、海賊版と言うより「そのまんまパクリ」版です。

 『ちびまる子』のタイトル、中国語では「櫻桃小丸子」といいます。「さくらももこ」という名と、ニックネームのちびまる子を同時にタイトルにしていて、おもしろい。「一休さん」は、1994年にも放映されていたアニメで、なんと長いこと中国では放送されているんでしょう。『花仙子(花の子ルンルン)』、『鉄臂阿童木(鉄腕アトム)』

 ドラえもん。1994年には機械でできた猫という意味に翻訳された「機机猫」という海賊版の漫画本を買って帰りましたが、テレビアニメで放映されたときは、発音を生かした『哆啦A夢ダラエーモン』になり、現在はこちらの名前が定着しています。「灌籃高手(スラムダンク)」の登場人物の名前は漢字なので、櫻木花道そのまんま。

 「聖闘士星矢」など、漢字のタイトルはそのまんまなのでわかりやすいですが、わからなかったのが、『恐竜特級克賽号』。たぶん、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』だろうと思ってストーリーを聞いてみたのですが、どうも内容が違います。
 私は、娘と、娘が戦隊ものを卒業してからは息子と一緒にレンジャーもの10年間くらい見続けたのですが、そのうちのどれが恐竜特級克賽号なのか、わからなかった。この番組が大好きだったという学生が「人間大砲」と文字を書いてくれたのですが、わからない。あとで調べてみたら、「恐竜戦隊・コセイドン戦え人間大砲コセイダー」のことだとわかりました。
 我が家は、10チャンネル1988年の『超獣戦隊ライブマン』から、息子がレンジャーものを卒業した2000年の『未来戦隊タイムレンジャー』まで見続けたのですが、12チャンネルのコセイドンは見なかったのです。

 それにしても、娘や息子と同世代の学生たち、実によく日本のアニメやドラマを見ています。今は中国アニメも盛んに制作されるようになっていますが、かれらがテレビに夢中になっていた80年代90年代には、中国製にはまだおもしろいものがなく、日本のアニメが大人気となっていたのです。ほとんどが海賊版ですが。

 「中国のドラマは日本で放送されていますか」という学生からの質問に対し「いいえ、中国のドラマはほとんど放送されていません。韓国のドラマは大人気です」と答えました。中国でも90年代は『東京ラブストーリー』をはじめ、日本のドラマが人気を博していましたが、今は韓国ドラマのほうが多いそうです。おそらく、海賊版の放映を自粛するようになったのち、正規の日本語ドラマは放映権が高いからあまり放送されなくなったのでしょう。
 ドラマやアニメを通して日本のイメージを作り上げてきた学生たち、10月に日本へ行く心づもりも着々と整えて、留学する日を楽しみにしています。

<つづく>
08:06 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年06月05日


ニーハオ春庭「泣かされた」
2009/06/05
ニーハオ春庭九年母(くねんぼ)日記中国版>日々是好日(1)泣かされた

 日本のアニメやドラマが大好きという中国の学生たち。
 インさんは、スピーチで「私は日本の漫画が大好きだったので、日本に行きたいとずっと思っていました。夢が実現しました」と、発表していました。
 インさんは、「ドクタースランプあられちゃん」のがっちゃんを上手に描いて、「贈・老師」と宛書きをつけてプレゼントしてくれました。アラレちゃんは「阿拉蕾(A1 La1 Lei2) 」(数字は声調)です。

 クラススピーチではさまざまな話題が出ましたが、その中に、日本のドラマ『1リットルの涙』を見て、泣いた、というスピーチがありました。ちょうど、使役受身形の練習中だったので、書取テストで「あなたはドラマやアニメを見て泣かされたことがありましたか、どんなドラマでしたか」という出題をしてみました。
 (書取テストは、毎日午前中に行い、教師が音声出題する日本文を聞き取って、3題はディクテーション(発話をそのまま書き取る)2題は、出題された質問に答える。3題はカタカナ外来語のディクテーションです。)
 
 「はい、あります。母と子が再会するストーリーでした」という答えを書いた学生、『母をたずねて三千里』を見たのでしょうか。それとも「ミツバチハッチ」かな。

 6月4日、私、大いに泣かされました。何に泣かされたって?パソコン壊れました。
 6月4日は、私の博士論文中間発表の日でした。中国からサイバーテレビ会議のやり方で、カメラで私の顔を写し、また、画面では論文レジュメパワーポイント資料を表示して発表する予定でした。私にとっては中国滞在中の最大のイベントだったのです。

 論文を苦心惨憺書き上げ、メール添付で送付し、パワーポイント資料も送り、パソコンチェックもおこたりなく、6月3日の夜は、「体調、パソコンとも順調です」というメールを指導教官に送りました。6月4日は、授業振り替えで休みをもらって、宿舎で発表する予定。なぜ、勤務先の大学でサイバー会議ができないかというと、カメラ映像や音声を送るには当地の大学内通信速度が遅すぎて、対応できないからです。

 ところが、6月4日朝、パソコンフリーズ。
 パソコンかかえて、タクシーで勤務先の大学へ。大学のコンピュータ技師さんによるとハードディスク損傷したということでした。リカバリーが必要という事態になってしまいました。

 講師室のパソコンであれこれ試みたのですが、テレビ会議用に組み込まれているソフトがインストールできず、発表は中止。日本では、主査の指導教官や副査の先生、ほかの専攻の教授たちが、私の発表を聞いて質問すべく会議室に集まって、私の顔がモニターに映るのを待っていました。

 サイバー発表会は中止。もうガックリです。準備おこたりなく当日を迎え、当日の朝にパソコンフリーズとは、呪われているとしか思えません。よほど日頃の心がけが悪かったのか。いえいえ、私、今回はまじめに朝から晩まで仕事をして、自分の論文も一生懸命書きました。

 しかも、このパソコンは博士課程に籍をおいている大学からの貸与パソコンであるため、大学に持ち帰って修理する以外にリカバリーなどをしてはいけない、とのお達しがメールで届きました。

 中国滞在中、講師室の備品パソコンを宿舎の自室に毎日持ち帰って仕事をしてもいいと許可されましたが、大半のファイルをパソコン本体に保存していて、コピーをとっておかなかった私のミス。まめにバックアップをとるような心がけのよい人なら、きっとパソコンがフリーズすることもなく、私のように面倒がってバックアップをとらないような人のパソコンがだめになるって、相場はきまっています。

 今夜はやけ酒、といきたいところですが、あしたの授業資料がなくなってしまったので、作り直ししなければなりません。

 「日々是好日」この熟語を私は、ずっと「ひびこれこうじつ」と読んできました。禅語のひとつなので、日は仏教用語では「じつ」と呼んだ方が適切なのだろうと思いこんでいたのです。でも、正しい読み方は「ひびこれこうにち」だった。
 『北京好日(ベイジンハオリー)』という映画を見た後、いろいろ検索しているときに、「ひびこれこうじつ」ではなく、「ひびこれこうにち」であることにやっと気づいたのです。

 私の好日、ときに不好日(ブーハオリー)です。

<つづく>
03:09 コメント(6) 編集 ページのトップへ
2009年06月08日


ニーハオ春庭「潮風のささやき」
2009/06/08
ニーハオ春庭・九年母日記中国版2009>日々是好日(2)潮風のメロディ

 中間発表失敗、パソコンは修理不可というガックリ気分でしたが、中国自慢の超特急時速213kmの「和諧(わかい)号)」で往復し、海辺の空気を吸ってきました。

 楽しい旅でした。報告はまたのちほど。
09:23 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2009年06月09日


ニーハオ春庭「落ち込むこともあるけれど、私は元気です」
2009/06/09
ニーハオ春庭・九年母日記中国版2009>日々是好日(3)落ち込むこともあるけれど、私は元気です

 受け持ちクラスの学生たち、みな優秀な上によい性格の人ばかりです。
 幼い頃から「学年トップ」「市内一の成績」など、「ほめられ続け」てきた学生なので、増上慢の学生もいるかなと、最初のうちは心配していました。しかし、それぞれ自分の専門領域の研究にプライドは持っていても、決して過信や自惚れはなく、謙虚さも優しさも持ち合わせている人たちです。

 「先生のブログを読みましたが、先生の博士論文の発表は失敗しましたね。先生、大丈夫ですか」と、心配してくれる学生もいて、ほんとうに優しい心遣いをみせてくれます。
 「ええ、パソコンは中国では修理不可能となって、不便ですが、私は大丈夫」

 「落ち込むこともあるけれど、私は元気です」って、『魔女宅』の中の台詞と思いこんでいたのだけれど、アニメ好きの中国の学生には通じない。「落ち込む~」は、映画用のキャッチコピーでした。今はまだ魔法の箒に乗れる気分ではないけれど、きっとそのうち自由に空を飛ぶ気分になることでしょう。
   
 パソコンは使えないし、ブログ更新もままならぬ「日々是好日」のなか、文科省からの視察団がやってきて、授業参観をしていきました。ひとつのクラスを見ているのはほんの15分程度なのですが、学生たちはやはり幾分かは緊張します。新しい課の学習をしてもよかったのですが、前に学習した課の復習を行いました。

 参観の先生方にネームカードを引いてもらい、当たった学生が質問に答えます。教科書4課の復習。
 「日本の国土」という課は既習なので、すらすら答えられるはずだったのですが、「日本はアジアのどの位置にありますか」という質問に「アジア大陸の西にあります」と答えたり、「日本の川は急流が多い」という文の「急流」を「いそぎりゅう」と読んだり、クラスの爆笑を誘いました。失敗が「けがの功名」になって、かえってって参観はなごやかに終了でき、学生も私も「よかったよかった」と胸をなで下ろしました。

<つづく>
20:00 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年06月11日


ニーハオ春庭「心に効く薬草茶」
2009/06/10
ニーハオ春庭・九年母日記中国版2009>日々是好日(4)心に効く薬草茶

 自分では「失敗は成功の母」という気持ちで、「次にがんばればいいや」と、気楽に書いたつもりなのですが、論文発表の失敗についての日記をクラスの学生が読んで「先生は今ガックリきているらしい」と、思わせてしまったようです。心配かけてごめんね。でも、私、大丈夫だからね。

 医師免許をとってから何年か病院で働いたのち、今回の日本留学を決めたゴタンさん。医師としてクラスメートの健康に気を配っています。私に対しても、いつも「先生、お疲れではありませんか」と尋ねて気遣ってくれています。
 今回も、彼女はとても心配して、わざわざ手紙を書いてきてくれました。

 ブログに公開してもいいか尋ねると、「日本語が下手だから、、、」と心配顔でした。しかし、西ニシと東ヒガシを取り違えて、「日本はアジア大陸のニシにある」と、授業参観のとき答えていた彼女の持ち味こそいい点だから、誤用は誤用のまま、紹介したいと思います。
 缶入りの「胎菊王」という薬草茶に添えられていた手紙です。
================
6月10日 水曜日
 親愛的老師您好!
 6月4日に先生は3クラスの教室へ行かないのは授業がないからと思った。しかし、実際は先生の博士論文中間発表のためということだから。6月5日に、先生のパソコンが壊れ、中国で修理不可してしまったように聞いて、心配が出てきた。
 結局、きのう先生の博士論文中間発表が壊わったパソコンのせいでできなかったのが知っていた。先生のそんな時の感じ覚が心臓病と脳卒中になりそうだろうと思う。私もその気持ちが感じられたが、残念に思われた。
 先生はずっとがんばってきたので、多くの知識を持っており、一番優秀な博士学生で先生の博士論文がぜったい合格できると思う。
 ところで、これはお礼に差し上げないで、悪い気持ちを治す「薬」として、先生に持ってきてさしあげよう。中国で悪い気持ちになったら、「上火」しやすいといわれている。こんな「薬」は「上火」を治すのにちょうどいい。
 どうぞごえんりょなくもらっていただけませんか。(来年2月までに飲んでください)
==============
 初級での「です・ます体」から、現在は中級での書き言葉「だ・である体」を学習中なので、文体が「だ体」になっています。一生懸命「だ・である体」で書いているところは、きまじめなゴタンさんらしい。「手紙は、です・ます体ですよ」と教えたのは忘れてしまったようですが、気持ちは十分伝わりましたよ。ご心配いただき、ありがとう。

 去年の10月に「あいうえお」のひらがなを覚えるところから日本語学習を始めて、実質6ヶ月半の学習でここまで書けるようになっている学生たち、ほんとうによくがんばっています。(学生たちの学習累計時間は、500時間ほど。日本の英語学習でいうと、高校2年生あたりの学習時間に相当しますが、私が高校2年生のころ、英語でこれだけの手紙を書けたと思えません。語学苦手な高校生でしたから)

 いただいた薬草茶、菊の花のお茶は、「上火=のぼせ」に効くということですから、ゴタン医師の言葉どおりに、毎日少しずつ飲もうと思います。「のぼせ」は、心臓病や脳卒中にもなりかねないとの診断ですから、頭に血が上らないように、冷静にこれからも暮らしていきたいと思います。
 夜中の1時2時に目が覚めてしまうのは、夜、ご飯を食べてお風呂に入るとすぐに眠くなって8時とか9時とか早々とふとんに入るせいだと思いますが、やはり、いろいろなことが気になって目覚めてしまうのかもしれません。今朝も1時に目が覚めた。もう一度寝ようとしても寝付けないので、真夜中のブログ更新。

 薬草茶、体にも効くでしょうが、何よりも今の環境で、いろいろ心配してくれる人が周りにいると思う安心感が、心に効くだろうと思います。
 そんなにガックリきているようすは見せていないつもりでしたが、宿舎の隣の部屋からは「手作り錦松梅ふりかけ」おかかや松の実が入ったおいしいふりかけをいただき、階下の部屋からは私が好きだと言った「韓国風じゃがいもお焼き」を手作りして差し入れが届きました。みな、老体がなんとか持ちこたえるよう、気遣ってくれて、ありがたいことです。
 いろいろあるけれど、中国の毎日、やっぱり「日々是好日」です。

<おわり>
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