20180422
ぽかぽか春庭アート散歩>展覧会拾遺(3)ユージン・スミス展ーミナマタ許しと祈り
石牟礼道子が亡くなりました。(2018年2月10日90歳)
石牟礼の業績を伝える記事の中で、水俣についての紹介もありました。
決して忘れてしまってはいけない歴史を若い人にも伝えていくために、石牟礼さんはこれからも水俣の海にその魂を残して,椿の海を見守ってくれているだろうなあと信じています。
私の世代の者が水俣を心にとめたのは、石牟礼さんの『苦海浄土』が大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたけれど、受賞を辞退した、というニュースによって、そして、ユージン・スミスの写真によってでした。
『苦海浄土』は、水俣の漁師やその家族への聞き書きを石牟礼道子がまとめたノンフィクションだと思われての受賞でした。一般読者は、石牟礼が受賞辞退したのは、水俣病がまだ解決しておらず、「語り手」である水俣病患者たちこそ受賞すべきというのが石牟礼の気持ちなのだ、と感じました。
石牟礼は「『苦海浄土』は水俣病の患者たちが本当の語り手であって、自分はその言葉を預かっただけなのだ、と語り、様々な場所で「水俣病の患者たちは、言葉を奪われて書くことができない、自分はその秘められた言葉の通路になっただけ」と言いました。だから、受賞者は書くことができなかった患者自身なのだ、と。
『苦海浄土』はノンフィクションではなく、石牟礼が水俣に関わる人々のことばを聞き取り、それを文学作品として昇華したものだということは、近年広く知られるようになりました。「書くことができない水俣病患者に代わって、その秘められた言葉の通路になっただけ」という石牟礼のことば、それがどれほどの「真実の文学」行為であるか、読めば読むほど、『苦海浄土』のすごさを感じます。
1959(昭和34)12月にチッソ(新日本窒素水俣工場)が水俣病患者互助会に提示した見舞金(和解金)契約書では「子供のいのち年間三万円/大人のいのち年間十万円/死者のいのち三十万円/葬祭料二万円」
給与生活者の1ヶ月給与平均が2万円に満たなかった時代でしたけれど、サラリーマンの年収30万だったとして、漁民ひとり死んだら。サラリーマンの年収1年分も払えば「腐った魚を食っている漁民」の命なんぞ買えるもんだ、とチッソ側は思ったのでしょうね。
チッソ側の発言として「死んだ魚を食べる乞食がカネせびりに来た。腐った魚を食べるから汚い病気にかかる。伝染るから近づくな」などの暴言が記録されていますが、国が、水俣病の原因はチッソの廃液が海に流れ込んだ水銀中毒によるものと認めたのは、公式に水俣病と命名されてから10年以上すぎた1968年になってからのことでした。その間にも患者は増え続け、いまなお病気に苦しんでいます。
ミナマタを世界に知らしめたのは、ユージン・スミスの写真によってでした。
スミスは、1972年1月、千葉県市原市五井にあるチッソの工場を訪問した際に、交渉に来た患者や新聞記者たちに襲いかかった一団によってカメラを壊され、なぐられ視力低下となる被害を負いました。
その後もスミスは写真を発表し活動を続けましたが、窒素工場での怪我から6年後の1978年に、59歳というまだまだ働き盛りの年齢で脳溢血により死去しました。
直接には関係ないのかも知れませんが、命がけの水俣取材によって寿命が縮まったように感じてしまうのも、ものごとを客観的にみることができないシロートだからかもしれません。
スミスがチッソ工場で暴力にみまわれた際の会長が江頭豊氏でした。(1971年にチッソ社長を退任し、会長に着任)
江頭豊チッソ元社長の孫娘雅子嬢が皇太子妃になったことで、皇室では水俣問題はタブーなのかと思っていました。
石牟礼道子は2013年7月、「鶴見和子をしのぶ会」にいらした皇后美智子様とお話しする機会を得、その後「胎児性患者に会ってほしい」と手紙で訴えました。
天皇皇后夫妻が2013年10月に熊本訪問なさったときのこと。両陛下は水俣での「全国豊かな海づくり大会」に出席後、スケジュールには記載されていない極秘訪問として、福祉施設「ほっとはうす」を訪れました。施設長、加藤タケ子さんただひとりが立ち会って、胎児性患者金子雄二さんと加賀田清子さんと面会しました。
この極秘訪問のあと、「水俣病資料館」を公式スケジュールとして訪れた両陛下は、水俣病について長い感想を述べられたということです。訪問は事前には極秘のことでしたが、資料館訪問の後、宮内庁が施設訪問があったことを発表しました。
この訪問のあと、水俣患者の中から「恨みにうらんできたが、チッソをもう許そう、そうでないと自分がつらい」という声があがってきました。
両陛下がともに胎児性患者のもとを訪れたのは意義深いことでした。「皇太子妃の問題があるから、訪問は無理」とされていたのを押しての「国民に寄り添う姿」は、水俣病患者にも感銘を残しました。代替わりが終わったのち、この姿勢を次代も引き継いでくれますように。
皇后様は、4月15日の「石牟礼道子お別れの会」(千代田区有楽町朝日ホール)においでになり、長男の道生さんに「お悲しみが癒えないでしょうね。慈しみのお心が深い方でした。日本の宝を失いました」とお言葉がけをなさったそうです。道生さんは「患者さんに会ってくださり、母が感激していました」と伝えたということで、石牟礼道子にとっても、両陛下が胎児性患者と面会したことへの思いが深かったことが伝わりました。美智子と道子、すばらしい交流だったと思います。
人の心の営みの中で「許す」というのは、最も困難で崇高な精神だと思います。私など、姉を誤診して死なせた医者に対して、未だに許せずにいます。
水俣病の患者達は、病気を負わされ、チッソから迫害を受けたほか、地元の人々から「おまえらが騒ぐから、水俣の魚が売れなくなった」と、風評被害の責任まで負わされました。それでも「チッソを許す」という言葉が出てくるのは、ほんとうにすごい精神力だと感じます。
1月3日に東京都写真美術館で見たユージンスミス展。正月2日3日は無料だと思って出かけたのに、ユージンスミス展は、無料公開にはなっていませんでした。通常料金一般千円65歳は600円。無料が好きな春庭ですが、ユージン・スミス生誕100年の記念の展覧会、見てよかったです。
W.ユージン・スミス(1918-1978)は、グラフ雑誌『ライフ』を中心にフォト・エッセイを発表し、ドキュメンタリーフォトフラファーとして高い評価を得ている20世紀を代表する写真家です。
展示はオリジナルプリント150点。初期から晩年まで、年代テーマ順に作品が俯瞰できました。
「カントリー・ドクター」、「スペインの村」、「助産師モード」、「慈悲の人(シュバイイツァ-)」など数多くの優れたフォト・エッセイ。
フォト・ジャーナリズムの力とはなんなのか、ということを示してくれました。
1946年「楽園への歩み」(ユージン・スミスのこどもふたり)
この写真はユージンスミスの代表作として、以前に何度も見たのですが、今回はじめて、このふたりはスミスの実の子供二人だと知りました。第2次世界大戦取材で大きなけがを負い、その治療養生中の撮影だったそうです。
2018年1月3日の展覧会場
ユージン・スミスが発表した水俣の写真の中の一枚。胎児性患者上村智子が中公審(中央公害対策審議会)の席に出たときの写真です。
人間を金額で評価し、死んだ患者には30万円と値札をつける委員達に、患者達が求めたのは、「この子を見、触れ、抱け」ということでした。
1973年中公審での胎児性患者上村聡子
尊い人間のひとりとして、智子ちゃんをしっかり抱け、それが患者達の願いなのだ、ということを、ユージン・スミスは一枚の写真で全世界に伝えました。
ユージン・スミス生誕百年の回顧展。
1月3日に見たスミスの写真のうち、鉱夫の写真も、助産婦の写真も、働く人々の映像はそれぞれにすばらしいものでした。水俣は枚数的にはそれほど多くはありませんでしたが、私にとってはやはり一番衝撃のあるものでした。
1972年チッソ工場からの廃液流出
(「中公審での上村智子」と、「チッソの廃液」の映像著作権所有者はアイリーン・美緒子・スミス(1970年、ユージンと結婚。水俣取材に同行。のち離婚)画像引用が許されない場合は削除します。)
20世紀の人間の歴史を考えるとき、水俣病を忘れてはいけないし、水俣を伝えたふたりの人、石牟礼道子とユージン・スミスも忘れてはならないと思います。
水俣病患者が「チッソを許す」という声を出したことは尊いことだと思うけれど、「許す、しかし決して忘れない」ということも大事だと思います。
<おわり>