20230926
ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩玄鳥去る (5)コレクション展 被膜虚実&サム・フランシスほか in 現代美術館
敬老の日無料公開の現代美術館、3階の横尾忠則のほか、1階では「被膜虚実」の展示と、サムフランシスほかの現代美術展示がありました。
現代美術館の口上
1階では、「被膜虚実(ひまくきょじつ)」と題し、1980年代末以降の作品を紹介します。このほど新規収蔵した三上晴子の1990年代初めの作品と同時期に三上が用いていた「被膜」というキーワードを起点とし、石原友明、平川典俊、ホンマタカシ、開発好明、加藤美佳、名和晃平、百瀬文、潘逸舟、トーマス・デマンド、方力鈞ほかの作家による多様な作品をたどりながら、約30年という時間の流れと、そこに見られる身体観の移ろいと生への眼差しに着目します。
約5600点の収蔵作品のなかから、今回は1980年代末以降の、より現在に近い時期に制作された作品を選びました。約30年の間に個々に生み出された作品を巡りながら、時間の経過やその背景を感じとるとともに、絵画、立体、写真、映像、インスタレーションなど多彩な現代美術の表現に触れることができます。
「虚実皮膜」とは、近松門左衛門が唱えたとされることば。江戸時代の人形浄瑠璃などの芸は、実と虚の境の微妙なところ、事実と虚構との微妙な境界に芸術の真実があるという論。
三上 晴子(みかみせいこ1961- 2015)年の作品に「被膜」というシリーズがあるため、展示タイトルとして「被膜虚実」がつけられました。
現代美術館の「被膜虚実」の展示室に入ると、三上晴子の作品「スーツケース」が並んでいます。正式なタイトルは『スーツケース(World Membrane: Disposal Containers - Suitcase)』1993
一列に並べられたビニール製のスーツケース。1993年の本作の前に、発表されていた「地球の皮膜/処理容器」(P3 art and environment、東京)、「被膜世界:廃棄物処理容器」のふたつを発展させた作品だという。
見学者は、最初の部屋だから、スーツケースの列を一瞥するとささっと次の部屋に足を進める。ひとつひとつのスーツケースの中身がなんであるかを確認する人は少ない。布団袋のような感じの簡素なスーツケースの中身は、核物質や毒ガスなどの地球を滅ぼす危険なものばかり。中央前面に置かれている黄色い箱状のものは、実験用動物の入れ物。さまざまな危険な実験に利用された動物が入っていて、その動物は死ぬ運命にありますが、動物にさわっても危険極まりない。
こんなにたくさんの、地球を滅ぼすに十分な量の危険物があふれているのに、人々はなんの疑問も恐怖も抱かずに、日常生活を送っていまる。もしかしたら、これらの物質が明日地球を滅ぼすかもしれないのに。
いろんな展覧会で見てきたなじみの作品もありました。名和晃平の「鹿」です。
しかし、今回しっかり説明書きを読んで、わかったことに驚愕。
クリスタルガラスビーズ球体が鹿の身体を形作っている。このキラキラした丸いさまざまな大きさのガラス玉が周囲の光を反射し、視点を変えると光り方が変わる。目玉になっている玉は、ある角度から見ると黒い目だけれど、視点を変えると透明になります。大きさの異なる透明な球体を通して鹿を見ると、視点がずれることによって球体の中に移り込むものが変わる、不思議な鹿。
物のイメージはすべて光学情報としての”画素”に変換されて私たちの目に入ってくることになります。ガラスの球体ビーズは、物の表皮がすべて画素に変換されている様を彫刻的に表しています。ビーズに覆われた物を私たちは決して直接見ることはなく、見る角度によってその像も歪んだり拡大されたりします。
題名は『PixCell-Deer』です。Pixel(画素)とCell(細胞、粒、器)を掛け合わせてつくった名和の造語。2011年に制作された制作された『PixCell-Deer#24』が日本の現代美術で最初にニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵された作品として、現代美術に弱い私も名和に注目することとなりました。
さて、びっくりしたことというのは、この球体をまとった中身は、名和がネット注文で手に入れた鹿の剥製だ、ということ。剥製に球体を張り付けて作品を完成させていたことです。中身が剥製だなんて思いもよりませんでした。
名和は、京都市立芸術大学大学院美術研究科博士(後期)課程彫刻専攻修了という彫刻を学んだアーティストですから、中身が粘土で作った塑像だときけばそれほど驚きはなかったでしょうが、やはり中身が剥製と知ると、動物の生と死、そして死後が生々しく伝わる気がします。
クリスタルガラスビーズの球体で覆われた鹿は、輝く光の集合体として再生し、光が当たると、内側から発光しているかのように見る者の前に現れます。美しい。だが、中身は作品になるまでは日本の山野をかけめぐり、あるときは森林や作物を荒らすとして駆除されて剥製になった存在。
そのほかの作品では、映像作品がよかった。(以下、だ/である文体)。
開発好明「Roll」1998。15分40秒。
はるか遠くで歩道を何かが動いて前進している。近づくとそれは開発自身が前転しながらカメラに向かって進む姿だ。歩道の奥には2011で標的となったワールドトレードセンターが写っている。ビルが倒壊したため、同じ映像は二度と写せない。
そのことを知らないまま、このなんだかわからない前転男を私は15分間見続けた。チベットの巡礼のやり方のひとつに「五体投地」という前進方法がある。芋虫が這うような、信仰の証としての五体投地は、信仰を持たない者の目には、いささか笑いたくなるような奇妙なユーモアを感じることがある。開発の前転は、まったく信仰とは関係なく、最初からこの無意味な前転を笑うに笑えない何かを感じてしまう。しかも後方にはこの映像作品の3年後には、ビルが丸ごと崩壊していくという時間軸がある。確固として佇立していたビルが一機のジェット機突入によって崩壊していくという時間を知っている。
前転男の行動が「ばかばかしく無意味であるがゆえに尊い」という思いに凝縮されていく。
映像作品二つ目。百瀬文「山羊を抱く/貧しき文法」2016
最初に目にしたのは、ヤギ。ヤギの角をつかんでいる若い男。一目見て、あ、この若い男はヤギを犯しているのだと気づく。男の局所がヤギに尻に当てられていたからだ。えっ、ほんと?そんな絵を現代美術館で堂々公開なのか。
9月18日月曜日は、敬老の日祝日ゆえに、映像前のベンチには小学生の男の子が母親といっしょに座っている。R指定なんぞない。ヤギがなにやらの絵を食わせられている。この先、この母と息子が、絵の意味に気づいたならどうするのか、と敬老の日高齢者無料で入場した婆さんは、こりゃ最初からちゃんと見ようと次の部屋を見て、ループ上映の映像があたまになったので、あらためてベンチにすわる。
冒頭、作者の百瀬文がネットであることばを検索してひとつの画像を得る。検索した語は、「zoophilia」。ほらあ、やっぱりそうじゃんか。小学生に見せていいのか。小学生は百瀬がネットから打ち出した絵を模写するようすをちょっと見て、飽きて出ていく。たぶん、母親も息子も、絵が何を表現していたか、理解していない。百瀬は丹念に模写を続け、最後にヤギの尻のつづきを描く。
模写が完成したあと、作者はこの模写の絵をヤギに食べさせようと、ヤギの口に絵を咥えさせようと試みる。食用着色料で彩色された絵。ヤギは着色料の絵が好みに合わなかったのか、紙を食べようとはしない。作者は紙を破る。破られた紙もヤギに拒否され、百瀬は紙を丸めて自分の口に突っ込む。完。
ヤギは、角を青い染料で染められている。このヤギが「普通じゃない」ことの表現なんだろうか。牧畜放牧社会では、古来よりヤギの獣姦は「若い男性の性欲処理」に利用されてきた歴史があるのだそうだ。女性は「経済的利用、社交的交換に役立つ資産」であるから、人の資産にうっかり手を出すことはできない。
「zoophilia」という語の訳語「獣姦」を、小学生男子の母親は知らなかったか、息子が獣姦絵の模写に飽きるまでは、いっしょに見ていた。zoophiliaが獣姦であることを知っていても「息子には影響ない」と思ったのかわからない。ヤギは青く染められた角を縄で縛られており、百瀬はその綱を離すことはない。ヤギは逃げることはできない犠牲の山羊だ。
日本はこの夏、例年にない暑さにうだっていたが、ネット社会ではpedophilia という語が大量消費され、権力者によるペドフィリアの痛ましい人権蹂躙の真相が社会を席巻した。大声で非難されればされるほど、それに加担し隠そうとしてきたメディアは、すます巧妙に自分自身の加担については口を閉ざしている。
記者会見の場では語られていなかったことだが、新社長の過去の証言によれば。絶対権力者だった創業者社長は、自分の組織に登録している少年のデータをすべて把握しており、だれが地方出身者であるか、だれが母子家庭であるか、だれの家が貧しいか、すべて把握していたと語っている。逃げることができない犠牲の山羊をしばりつけていたのは、この小児性愛者も同じ。縄の名は「デビュー」
前社長は、相続した890億円(一説に1000憶とも2000億円とも)いわれる資産の相続税を「払わずにすませる」ために、代表取締役の座は守るとのこと。代表をやめると、相続税を払わなければならなくなる。
pedophilia小児性愛者の男は、過去50年に渡って数百人の幼い男子に強制姦を繰り返していたのに、関係者はみなそれを押し隠してきた。きらきらした輝く球体を身にまとって歌い踊る美しい姿の中身が、剥製に見えてくることのないように願っていますが、告発者が増えれば増えるほど、おぞましい事実が明らかになってきています。
おぞましい事件をこれでもか、と知らされてきたゆえか、獣姦なんぞは屁でもないと思うのか、この映像を見た人は、たいてい全部は見ずに、一部を見てすぐ飽きて出ていった。
百瀬はなぜ、模写した獣姦の絵をヤギに喰わせようとしたのか、喰わなかった絵を自分の口に押し込んだのか、現代美術もわからず、映像作品の見方もわかっていない「高齢者無料入場」の老婆は、百瀬文の「山羊を抱く/貧しき文法」という作品の真意もわからず、映像の前に座っていた。
3階展示室。生誕百年を迎えたサム・フランシス。朝日ビールから寄託された作品の公開です。
サム・フランシス「無題」1985
サム・フランシス(1923-1994)。アンフォルメルの画家。
アンフォルメルとはフランス語で非定形(informel) の絵画をいう。サム・フランシスは日本画の「にじみ」などを作風に取り入れているということなので、日本人の感性になじむ。抽象画を「よくわからん」と思う私も、サムフランシスの色彩は心地良い。ただ、「心地良い」ことに不安が沸き上がるのは、現代に生きる者の宿命かもしれない。
ただで見た現代美術館。
横尾忠則、サムフランシス、現代作家の作品。ただで一日すごさせていただき、ありがとうございました。老婆には理解できない現代作品も多かったですが、理解なんかしようと思っていないから、大丈夫。ただ、「山羊を抱く」の作家の作品意図は、わかったほうがいいと思ったのですが、思いがペドフィリアの方にいってしまったので、わからないままでした。
<つづく>