2012年1月目次
2012/01/01
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(1)しあわせ信じて
01/03 たつ年(2)カフェからの移転先
01/04 たつ年(4)記憶の地層
01/05 たつ年(3)日記to be or not to be
01/06 たつ年(5)姑のこぶto be or not to be
01/07 たつ年(6)ただの人の人生
01/08 たつ年(7)スキヤキ
01/10 たつ年(8)上を向いて歩こう
01/11 遊びをせんとや生れけむ(1)大河ドラマを見る
01/13 遊びをせんとや生れけむ(2)歴史をファンタジーとして楽しむ
01/14 遊びをせんとや生れけむ(3)イケメンを追っかける
01/15 遊びをせんとや生れけむ(4)ブレーク中の役者を応援する
01/17 遊びをせんとや生れけむ(5)テレビに浸かる
01/18 遊びをせんとや生れけむ(6)世界の文化を知る
01/20 遊びをせんとや生れけむ(7)写真美術館散歩
01/21 遊びをせんとや生れけむ(8)博物館で待ち続ける
01/22 遊びをせんとや生れけむ(9)博物館で列に並ぶ
01/24 遊びをせんとや生れけむ(10)無限ループ話を聞く
01/25 遊びをせんとや生れけむ(11)清明上河図を見る
01/27 遊びをせんとや生れけむ(12)しむことばを知る
01/28 遊びをせんとや生れけむ(13)ことばを楽む
01/29 遊びをせんとや生れけむ(14)絵はがきをセッチョウする
01/31 遊びをせんとや生れけむ(15)絵はがきを出す
~~~~~~~
2012/01/01
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(1)しあわせ信じて
た:たち上がれ
つ:強くやさしく
ど:どんな時も
し:しあわせ信じて
みな皆さまにとって、2012年がよい年になりますように!!
2012年「春庭日々雑記いろいろあらーなカルスタクラブ」コンテンツ:
「2012十二単日記」=春庭の日常茶飯事典
「ことばのYa!ちまた」=街で拾ったことばたち
「いろは字類抄待夢」=春庭ことば辞典
「言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて」=春庭文学文化雑記&言語文化学雑記
ことばの知恵の輪=ことば雑記
「ニッポニアニッポン語講座」=文法や音声、社会言語学など
「ニッポニアニッポン語教師日誌」=日本語教室だより
「インターナショナル食べ放題」=B級グルメ食べある記
春庭@アート散歩=美術館博物館古建築をたずねて
「今日のいろいろ」=その他もろもろ
久しぶりに春庭テーマ曲「インターナショナル食べ放題」を歌います。
辰年に「立て!飢えたる者たちよ!!」
http://www.youtube.com/watch?v=NbOLTFRVsek
♪起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し
食えよ我が腹へと 暁(あかつき)は来ぬ
忘却の鎖 断つ日 肌は血に燃えて
海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
♪いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの♪(繰り返し)
聞け我等が雄たけび 天地轟きて
脂肪越ゆる我が腹 行く手を守る
満腹の壁破りて 固き我が腕(かいな)
今ぞ高く掲げん 我が勝利の旗
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
♪いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの♪(繰り返し)
初音ミク四重唱バージョンで。
http://d.hatena.ne.jp/video/niconico/sm1418316
ついでに、初音ミク歌唱による「國鐵廣島の歌」こういう替え歌が作られる日本に、未来への希望を感じます。パロディとおちょくりは健全なる社会文化の基礎です。
http://www.youtube.com/watch?v=9eOS1szlD7o
<つづく>
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2012年01月03日
ぽかぽか春庭「カフェからの移転先」
2012/01/03
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(2)カフェからの移転先
一通の通達で、あっけなく「カフェ終了」です。無料のブログサイトですから、いつかはこういうこともあろうかと思っていましたが、なんだか寂しい。
カフェで知り合った方々、顔をあわせたことなくても、よいおつきあいが続いたと思っています。2003年から、ほぼ毎日のように更新してきて、おなじみさんの日記を読み続けてきました。
現在私がコメントをかわしている方々は、30人くらいと思います。足跡記録30人分は、一度でもコメントをくださった方のみ残し、あとは削除しています。
日記へのコメントをいただいたことのない足跡は消すことにしてきましたが、私も、読むだけ読んでも日記や足跡欄にコメントを書き込まず、定型コメントのみの日もあるので、もしかしたら、読んで下さった方の足跡を削除したことがあるかもしれません。失礼しました。
私、カフェに書いた分、2003年から2007年2月までは自分のホームページに再UPすることにしていました。テーマ事にまとめてUPしたのです。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/index.htm
でも、2007年2月に中国へ赴任したときデスクトップが壊れて、パソコンを変えて以後、カフェに書いたものはそのままにしてきました。デスクトップに入っていたホームページビルダーをどのように移転させたらいいのかわからなかったからです。
「カフェ終了」で、過去にカフェに書いたデータが消えてなくなるのでかどうかわからずに、あわてました。とりあえず2007年以降の分はコピー保存しようとは思っていますが。
他人が読んだらろくでもない内容のつまらない駄文でも、私にとっては、生きてきた足跡のひとつなのです。
小学生のころからの日記、死ぬ前に自分で燃やす人もいるし、遺書に「日記は全部お棺の中に入れて、いっしょに灰にして」と遺言する人もいて、それはそれぞれの人の身の始末なのですが。私は、何にもこの世に残す遺産とてないけれど、ネットの中に駄文を残すだけなら、場所もとらずお金もかからず、もしかしたら何ぞのキーワードにひっかかって、読まれることがないとは言えないし、残して置いて誰にも迷惑がかかるものでもないので、墓銘碑がわりによかろうと思っていたのです。
それが全部消えてしまう?
え?OCNカフェの過去ログはそのままgooかブログ人に保存されるの?わけわからんちんのパソコンオンチ春庭です。
とにかく、書くことしかできず、パソコンのあれこれについては何年経ってもさっぱりわからない春庭、とりあえず、別サイトへコピーすることにしました。
一日分ずつコピーペーストを繰り返して写していきます。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/haruniwa55hal
これまで放置していたサイトですけれど、まあ、ないよりマシ。あと、アメーバブログも持っているのですけれど、アメーバは使い勝手が良くないという評判なので、こちらの活用はこの先考えましょう。
何気ない日常が書かれているサイトや、本や映画の話題が好きで、お気に入りの方の日記を読みに行くのが楽しみでした。
カフェ仲間との交流もあと2ヶ月。gooやブログ人に移行する人、他の媒体を選ぶ人、いろいろでしょうが、カフェのコメント欄に記入するのとはまたひと味違う違うおつきあいになるのでしょうね。
別サイトがある方のブログは、お気に入りにいれましたけれど、OCNカフェのみの方、移行する場合、どこにするのか、ぜひ日記にお知らせを載せて下さいね。登録しますから。
<つづく>
01:02 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2012年01月04日
ぽかぽか春庭「記憶の地層」
2012/01/04
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(4)記憶の地層
私のごひいきの書店、池袋のジュンク堂。なぜごひいきかというと、各フロアに椅子が何脚かあって、「すわり読み」ができるから。10000円まとめて買うと、400円の喫茶店利用券をくれるから。書店販促用の「書標」という小冊子の編集がなかなかいい。無料だからいつも貰う。2011年8月の特集は「武士の日記を読んでみた」でした。
江戸時代の武士たち、お家の出来事を子孫に伝えるのを義務のひとつと心得ていたから、上級から下級武士まで、せっせと日記を書き残しました。
元禄時代、尾張名古屋藩の朝日文左衛門の『鸚鵡籠中記』。これは「御畳奉行の日記」としてベストセラーになりました。18世紀末、新潟新発田藩の藩士、溝口半左衛門の「世臣譜」。幕末の御家人、山本政恒の「武士を失業して小間物屋になる」日記。おなじく幕末の加賀藩下級藩士で御算用者(会計処理の役人)を務めた猪山家に残された、約37年間の入払帳や書簡をもとにした磯田道史の『武士の家計簿 加賀藩御算用者』は、映画の原作にもなりました。
また、大商人の大福帳とか、名主階層の年貢の記録、江戸時代の紀行文も、貴重な記録です。しかし、一般の社会にごく普通に生きた市井の、大工とか畳屋、飾り職人、ぼてふりの魚屋、芝居小屋下足番、人口の8割以上を占めていた農民、山岳民、漁民など、ごく普通の人々の日々の記録というのは、なかなか読めないのです。いつかどこからか発掘されて、翻刻されるといいのですが。
冬休みの読書の一冊、たいへん興味深く読んだ『記憶の地層を掘る』(2010お茶の水書房)。東京外国語大学外国事情研究所が主催したシンポジウム、「ハリウッド映画ではないベトナム戦争」と、「日本占領下のインドネシア」をもとにして、海外からの論客や新進気鋭の歴史学者などによる論文が編集されています。
この本の基本的な編集方針は、権力者側の公式発表でも新聞テレビなどジャーナリズム報道でもなく、一般の人が記憶していることを語ってもらい、その重層のなかから歴史を発掘しようとしていることです。
この手法によって発掘された歴史のひとこま。たとえば、グアム島の住民達による、2年間の日本占領時代の記憶。日本からやってきた開墾隊によって、多くの島民が処刑されたという事実。この事実が、島民によってどのように記憶されどのように語りつがれてきたのかをインタビューによって記録し、日本側の兵士(開墾隊)の記憶やグアム史の公的な記録、アメリカの記録などと重ね合わされ、歴史の深層が掘り起こされています。
「日本の元兵士の記憶からは、開墾隊がグアム島民に行った虐殺はきれいに抜け落ちている。自分たちの補給線が途絶えて、飢えつつアメリカ軍の砲弾の下を逃げたことは記憶しているのに、島民虐殺について、ほとんど語られることはなかった」という若い論者の言に、さもありなんと思いつつ読みました。
たとえば、3・11についての記録。現地へボランティアに行って来た方や、実家が被災した方などの記録を、カフェ日記で読ませていただきました。直接の記録、ほんとうに貴重だと思います。そういう直接の記録のほか、テレビや新聞の報道を見てどう感じたのか、その日その日の記録が、将来の歴史研究者が「3・11を一般の人はどう受け止めたのか」と「記憶の地層」を発掘するとき、役に立つでしょう。
Googleが、「未来へのキオク」として、東日本震災の前と後の、映像記録を収集しています。Yahoo JAPAN! が主催する、「東日本大震災 写真保存プロジェクト」との連携も行い、多くの人が撮影したデータを、パソコンを通して共有できる。
写真も、文字記録も「人類共有財産」として、残していけるとしたら、21世紀以後の「未来の歴史への記憶」は、世界中みなの財産となると思います。
山本作兵衛(1892-1984)が記録した炭鉱の絵と文の記録は、2011年5月にユネスコの世界記憶遺産に登録されました。各地の炭鉱が閉山した今、貴重な記録と思います。山本作兵衛の絵をユネスコに推薦したのは、地元の田川市。
世界的に貴重な記録とまではいかなくても、今、書き継がれているブログのひとりひとりの記録も、残して置いていいんじゃないかと思います。
炭鉱の炭住に暮らすカーチャンたちが、取材に訪れた森崎和江(1927~)をもてなそうと出してくれた「ごちそう」は、豆腐一丁であったことを、森崎のエッセイで読んだことを思い出す。そういう鮮烈な記録と共に、アフリカの高原の小さな村の雑貨屋で、今日採れた芋をどのように料理して食べたか、そんなつぶやきも大切だと思います。小さな雑貨屋を営んでいたママ・アンボイはもうこの世にいないけれど、私が記録したケニア日記の中に生きているのです。
多くの人が発信できるようになった今、代議員制民主主義というのも変化していく時期だと思います。だれでも自分の意志を直接表現できる今、「現代社会においては、直接民主制は機能しない」という論も踏まえた上で、もっと自分たちの意見を直接反映していける仕組みを考えてもよい時です。
<つづく>
07:57 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2012年01月05日
ぽかぽか春庭「日記to be or not to be」
2012/01/05
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(3)日記to be or not to be
2011年、年末の新聞に70歳の女性の投書が載っていました。小学校から書き続けてきた日記のうち、最初の一冊と最後の一冊を残して捨てた、と。
「結婚もせず子も持たなかった人生、自分も読み返すこともしないのに、残したとて他の人が読むはずもない」からと、捨てる決意をしたのだとか。そうやって思い切って近年のはやり「断捨離」を実行出来る決断力のある方なら、これからの人生も有意義にすごしていかれることでしょう。
でも、ほんとうにもったいない。私は「無名の人の日記収集センター」があれば、そこに様々な人の日記を集めてほしいと思っています。歴史をひもとこうとしたとき、たとえば、戦前の社会について調べようとするとき、新聞記事に載るほどの政治や経済の動きは資料を読めばわかりますが、その記事について、庶民はどのように感じ、どんなことを話していたのか、などのことは、なかなか適切な資料がありません。評論家や作家などではなく、ごく普通の生活をしている庶民の感想や、電車の中で何を喋っていたか、などの口語資料はめったに残りません。
例をあげるなら、「阿部貞事件」が起きたとき、世間の反応はどうだったのか、裁判記録や新聞報道だけでは、実際のところがわかりません。たまたま向田邦子のエッセイで「大人達は眉をひそめつつ語りながらも、うれしそうに新聞記事を読んでいた」と書いてあり、「戦争へと向かう暗い昭和の世に、ひとすじの”人間らしさ”を感じとろうとする如く、世の人々は貞を話題にしていた」という向田邦子の書きぶりに、納得したのでした。
日記を捨てたという投書の女性は、「結婚もしなかった70年の棒のような人生」と書いています。でも、70歳といえば、1940年か1941年くらいのお生まれの方と思います。10歳から60年間書き続けたというその意志の強さだけでも、学ぶべきところがあるのではないかと思います。ましてや、庶民の戦後史そのままを歩んでこられた方の、10歳からの記録、ほんとうに貴重なものと思うのに、捨ててほしくなかったと思います。
「棒のような人生」は、貴重な生命の木の骨太の枝のひとつです。
そのときそのときの呟きが、戦後社会を知りたい人にとっては貴重な記録なのに。給食が美味しかったとかまずかったとか、友達と喧嘩したときの気持ちとか、一人暮らしの愚痴とか、そういうことのひとつひとつの感情が、歴史を形成するのではないかと思うのです。
近代社会についてのひとつの見方として、「感情共同体」という用語も使われ、そのとき、皆はどのように感じていたのか、ということを知るのも、重要な歴史把握の方法だということが、声高に言われるようになってきました。日記に記されたひとつひとつの「今日の気持ち」は、後世に残すべき記録なのです。
もし、カフェに書かれた日記を保存する方法があるなら、どうぞ、皆様、それぞれの方法で保存しておいて下さい。私も、なんとか残していこうと思っています。くだらないことばかり書いてきたとか、文章が下手だとか、そんなことはまったく気にしません。毎日毎日書き続けた、それだけでいいのだと思っています。
To be or not to be, that is the question.
When you worry about whether you leave your diary, you have to keep it.
I hope you hold it . It has value.
パソコンでブログ日記を読み出した頃、ごく普通の漁師さん、建築請負業、電気工事の方など、それぞれの仕事を、「当たり前の日常」として記録しているのを、新鮮な気持ちで読みました。家のなかにコンセントや電灯線を敷設する仕事、どのように工事をすすめるのか、なんて、今まで知らなかったことをたくさん知ることができました。
テレビドラマや映画の「お仕事もの」で、畳屋さんが舞台になったり、銭湯経営の一家が描かれても、それはやはり脚本家、小説家の目を通して描かれたもの。実際に仕事をしている人の記録は、私にとって、とても興味深いものでした。
日常の細々とした感想、読んだ本見た映画の記録、山の写真、建物の写真、脳内家族の絵日記。いろんな方のいろんな記録、いろんな方のカフェ日記を読ませていただきました。
みなさま、どうぞ、これからも書き続けて下さい。
私も続けます。
<つづく>
08:45 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2012年01月06日
ぽかぽか春庭「姑のこぶto be or not to be」
2012/01/06
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(5)姑のこぶto be or not to be
姑宅への御年始。4日に姑の希望で「家族そろってすき焼きパーティ」となりました。
姑は、年末に義姉を亡くして、気落ちしていたところです。
姑の兄は、何年も前に亡くなっていますが、その連れ合いの文子さんは、姑の女学校時代の同級生です。同級生が姑の義姉になって、私の夫にとっては義伯母。87歳の一期まで、とても頭脳明晰な人で、「以前もらった葉書も、80代とは思えない達筆でしっかりした文章だった」と、夫も言っていました。
しかし、心臓を患い、最後は寝たきりになってしまった。
姑の実姉は90歳を超えて元気でいるのですが、やはり同年齢の身近な人が、なくなると、こたえるものでしょう。
2011年の姑、夏以後は、「手術を受けるか受けないか」という重大問題に心わずらわせてきました。手術というは、病気のためではなく、「ひたいの上のこぶ」を取るといういわば美容整形手術的なものです。外に出るときはたいてい帽子をかぶって隠すようにしているし、髪の毛で覆っているので、見た目にそんなに気になるとは思っていませんでした。しかし、姑にとっては、子どもの時からコンプレックスの原因になっていたこぶだったのです。年をとって、髪が薄くなったので、ますますこぶを厭う気持ちが強くなったようです。
私は、姑が見た目を気にする人ではないと思っていたので、姑の気持ちをついぞ思いやることができないで30年もすごしてしまいました。
姑の兄も姉も、戦前の師範学校を出て教師になりました。姑が女学校を出たあと、師範学校へすすまなかったのは、戦中戦後の混乱期にあたっていたせいだと思っていました。しかし、姑が師範学校へ進まなかったのは、その理由だけではありませんでした。「このこぶを人前にさらしたくない。子ども達の前に立つ教師にはなれないのだから、師範学校へ行くことはできない」と、姑は悩んだのだそうです。
戦後、教師が不足した時代に、「女学校出なのだから、代用教員になってほしい」という依頼を、教師をしている兄や姉を通して何度も受けのだそうです。でも、それを全部断ったのは、「このこぶのまま、人前に出るのはいやだ」という気持ちがあったからなのだということを、姑は去年はじめて、孫娘に語りました。私は娘からこの話を聞いて、「え?そんなにおばあちゃんが気にしていたとは知らなかった」と言いました。
額の上のこぶをとるには、頭蓋骨にも処置が必要になるため、若い頃は手術方法がなく、手術が可能になった頃には、「頭蓋骨を開く大手術になるので、年寄りはこの手術には耐えられないだろう」と言われて、諦めていたのです。
それが、去年「昔よりは頭蓋骨を開く手術が技術的に向上したので、ずっと短時間で手術できるようになった。ただし、年齢が年齢なので、手術に耐えられるかどうか、もう一度検査をしてみましょう」と医者に言われ、姑は、手術する気になりました。しかし、検査をしてみると、やはり医者が思った以上に頭蓋骨への手術時間がかかることがわかり、取り去った頭蓋骨の変わりとして、人工頭蓋骨を取り付けなければならないという医者の説明でした。
姑の「手術を受けたい」という気持ちより、医者たちの「この年齢で手術に耐えられなかったら、自分たちの落ち度になる」という失敗を怖がる気持ちのほうが強く、手術はとりやめになりました。
<つづく>
06:04 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2012年01月07日
ぽかぽか春庭「ただの人の人生」
2012/01/07
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(6)ただの人の人生
夫は最初から、「見た目の問題なのだから、今さら何時間もかかる手術をして見た目をよくすることもない」という「手術反対」派でした。
私と娘は、おばあちゃんの「自分の見た目がコンプレックスとなり、代用教員になって人前に立つこともできなかった」という気持ちに驚き、「おばあちゃんが望むなら、手術を受けてみてもいいのではないか」という賛成派。
姑が娘に語った「一度でいいから、ほかの人のように、見た目を気にしないで生きてみたかった。」ということばに胸を突かれました。生まれてから87歳まで、物心ついて自分の見た目が他の人と違うということを意識するようになってからでも80年もの間、姑がそんな気持ちを持って生きてきたこと、私は少しもそれをわかってあげたことがなかったのです。
私は障害者ボランティアなども通して、身体などに障害があるとしても、ごく普通に生活していくべきだという考えでしたが、一番身近な姑が身体に劣等感を感じて生きているということにすら気づいてあげたことがなかったのです。
「一生の最後だけでも、フツーの人になって生きてみたかった」という願いを、姑が87歳になってかなえようとしたこと、ほんとうに胸がいっぱいになりました。
もちろん、他人からみたら、女学校を出て数年で銀行員と結婚し、東京に所帯を持って娘息子を育て上げ、孫に恵まれて生きてきた87年間は、幸福な人生と見えます。実の娘が50歳で癌で先立ったことなど、不幸もありましたが、舅と協力して東京に建てた一軒家を、2007年に後家のふんばりで全改築したエネルギーのある、趣味豊かな姑で、私は「幸福なおばあちゃん」と信じてつきあってきました。
夫は単純に「87にもなって、見た目がよくなってそれがドーシタ」と言います。でも、私は、姑の「一生に一度でいいから、見た目がフツーの人として暮らしたかった」という気持ちも、とても胸に響くのです。こぶがあってもなくても、私たち家族にとっては、大事なおばあちゃんであり、大切な母親ですが、姑のせつない希望も叶えてあげたかった。
おない年の義姉の死去で、姑の気持ちが「失敗するかも知れない手術を受けるより、今のままでいいから、少しでも長生きしたい」という気持ちに変わるかとも思いましたが、娘との会話では、まだ手術をあきらめきったわけではないようです。さて、来年の米寿まで、この問題は持ち越しそうです。
姑にとって、息子と孫息子、私にとって夫と息子は、ともに年男、辰年生まれです。還暦を迎える夫。24歳になる息子。
息子は、2012年は、修士課程2年生になります。そろそろ、修士論文のことも気に掛けなければなりません。指導教官が文学部長であるため忙しくて、なかなか論文指導の時間がとれないとかで、本人はのんびり構えています。しかし、私は、子育て&日本語教師をしながらの修士論文執筆で、修士2年目には見事に失敗し、修士課程修了まで4年間費やすという経験をしたので、「母の失敗を繰り返すな」と、気が気ではありません。
還暦夫は、「いっしょにタイ語を学んでいる仲間と、バンコクで行われるマラソン大会に出る」という、「似合わない夢」を持つようになりました。「スタンダードシャーターバンコクマラソン」という、国際大会に一般参加するためのさまざまなツアーが出ているのだそうです。2011年の開催はバンコク洪水のために、2012年2月12日に延期になりました。夫が参加をもくろんでいるのは、来年だか再来年だかの「還暦記念マラソン」。このごろ、飯田橋の事務所から九段下経由で歩いて、皇居の周囲を走っているというのですが、さて、どうなることやら。
ほんとうに出場することになったら、応援ツアーに出かけたいと思いますが、夫は「来るな」と言うでしょう。今年は、1982年に結婚してから30年目です。「夫唱婦不随」「婦唱夫不随」が30年も続いたのですから、今さらバンコクまで随行しなくてもよいということでしょうが、なに、私は私で一人旅。ひとりバンコク観光でもしていますって。
私が観光してひとりで歩いている脇を夫が走っていたら、拍手して応援するくらいのことはしてやりましょう。私は夫から何も応援してもらったことないけれど。
姑の家に着くまでの地下鉄の中では、関川夏央『「だだの人」の人生』文春文庫を読んですごしました。姑のことを、ごく普通の「ただの人」と思って30年つきあってきて、姑の心も想像できない、至らないヨメだったなあと思います。
<つづく>
06:53 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2012年01月08日
ぽかぽか春庭「スキヤキ」
2012/01/08
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(7)スキヤキ
元日午後1時半。いきなりの震度3。東京、かなり揺れてびっくりしました。
2011年大震災のあと、揺れた心を落ち着かせ、みんなを元気づける歌のNo.1になったのが、「上を向いて歩こう」でした。
坂本九の歌、アメリカでヒットしたときのタイトルは「スキヤキ」。ベルギーやオランダでは「忘れ得ぬ芸者ベイビー」というタイトルになったそうで、わけわからないけれど、ゲーシャ、フジヤマなどと共に、スキヤキやスシが日本を想起させる名詞であることはわかります。
私は、映画『上を向いて歩こう』が1962年に公開されたときは、映画館で見ていません。(親が映画館で見るのを許したのは、ディズニーのアニメ映画程度)。テレビでも見たことがなく、2011年12月31日大晦日にテレビ放映されたときにようやく見ました。(2011年にDVD化)
ちょうど50年前の映画、坂本九、高橋英樹、吉永小百合、みな若くて生き生きしていました。
50年前の日本、スキヤキは庶民にとってごちそうでした。
姑宅での「家族deスキヤキ」。1925年生まれの姑にとって、スキヤキは今でも「ごちそう」です。「餅もスキヤキも、今では日常の献立になってしまって、松坂牛A4級、100g3000円とかいうくらいの、よほど上等の牛肉でないと、誰も正月のごちそうとは思わない」なんてことは思いません。とにもかくにも、家族そろってスキヤキの食卓が囲めればそれでいいのです。
御年始の日をいつにするかは、夫と娘でちょっと揉めました。「4日からはどの会社も新年始業だから、4日には時間がない。食べたらすぐに事務所に戻らなければならないから、3日にしよう」と夫が言うのに、娘は「箱根駅伝、2日は往路、東洋の柏原竜二の山登り新記録がかかっているし、3日は明治の鎧坂が出場するかどうかを見届けなければならない。3日にスキヤキするとしても、その前に買い出しにつきあってくれってお祖母ちゃんが言っているのだから、箱根ゴールしてからお祖母ちゃんの家に行って、それから買い物に出かけるのでは、遅くなるでしょ。だから4日じゃなければ、いやだ。父は、4日に仕事があるなら、いっしょに食べなくてもいい」と、夫に冷たく宣言。
そこで、夫は、3日に駅伝が終わってから姑宅へ行き、4日には買い物をしなくてもよいように買い出しにつきあうことにしました。買い物を手伝ってからすぐ事務所に戻り、仕事。4日は、1時から3時まで昼ご飯にすき焼きを食べて、すぐ事務所に戻って仕事。家族団らんなんてものより、赤字会社の経営が大事な夫です。
私と娘息子は、4日のおひる頃に着いて、夫が来る前にすき焼きを作り始め、夫が来たらすぐに食べられるようにしておきました。夫が3日に姑といっしょに買った牛肉は、特に高級品でもなく、夫は「正月は市場が開いていないからか、たいした商品は置いてない。高級肉は売り切れだった」と言うのですが、ま、いいか。赤字会社一家には、正月といえども高級肉を食べるなんてぜいたくなことですから。
スキヤキ食べながら、娘と夫とわいわいと箱根駅伝論評。「Nさんから年始の電話が留守録に入っていたんだけど、あれは絶対に年賀を述べるっていうより、東洋の自慢したかったんだな」と、くやしそうなのも、夫の母校は三強と言われながらも復活優勝できなかったから。私も連覇ならずですが、娘は、母校宿願の3位で大喜び、松坂高級肉でなくとも、「今年はさい先いいから、お肉もこれで十分おいしい」と、娘はごきげん。おめでたい一家である。
<つづく>
00:19 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2012年01月10日
ぽかぽか春庭「上を向いて歩こう」
2012/01/10
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(8)上を向いて歩こう
姑宅での「家族deスキヤキ」。デザートは、娘が作ったチーズケーキ。血糖値を気にする姑のために、パルスイートという甘味料を使って作ったので、「おばあちゃん、これなら食べられるから」と、娘がすすめています。私からの御年賀は、いつもの金一封。芸のないヨメです。
夫が事務所へ戻ったあとも、姑が次々とテーブルに並べる煮物や数の子などつまみながら、昔話を聞いたり、老人仲間の話を聞いたりしました。
姑は、公園での早朝ラジオ体操、詩吟の稽古、書道や童謡を歌う会など、老人仲間と今年も「毎日忙しい」と言いながら過ごしていくことでしょう。しかし、やはり姑の話題も「寄る年波」に関わることが多くなってきました。
「もう、親戚にお歳暮を贈るのはやめにしたいのに、どのような口実でやめたらいいのかわからない。どう言えば角を立てずにお歳暮を打ち切りにできるかしら」という相談もありました。「今年の暮れにお歳暮を送るとき、手紙を添えたらどうでしょうか」と、ヨメは提案してみました。
私が考えた文面は、「今年もお世話になりました。例年通りの粗品ではございますが、お使い下さいませ。さて、私も2013年には米寿となりますので、いろいろ身仕舞いをしております。年末のご挨拶は本年にて打ち上げとさせていただきたく存じますが、今後とも老体をお見守りくださいますよう、お願い申し上げます」というものだったのだけれど、あれっ?「身仕舞い」っていうのは、こういう場合に使える言葉だったかしらと、確信がもてなくなりました。
結局、「あとでいい文を考えておきますね」で、お茶を濁してしまいました。まったく、何を相談されても、たいして役にたたない嫁です。
私たちから見ると87歳は、いろいろなことを打ち切りにする口実に足る老齢だと思うのですが、舅の長姉は100歳を超えているという長寿一族なので、姑も自分はまだ若い方と思っています。
去年、嫁が相談されたことのなかで、やはり嫁には何の手助けもできなかったことがあります。ひとつは、ゴミ出し問題について。毎日の食事作りは手を抜くことが多くなったけれど、家の掃除は絶対に手を抜かない姑にとって、ゴミ出しは重要問題です。部屋をきれいに掃き、庭の落ち葉などを集めても、それを捨てに行くには、指定のゴミバケツに入れて、指定のゴミ集積所まで運ばなければなりません。
「ゴミ出しがたいへんになってきた」と姑が愚痴を言ったとき、「じゃ、ゴミの日には、ヨメが来てゴミ出しをいたしましょう」なんて殊勝なことは言えずに、「どうしたらいいでしょうねぇ」なんて、相づちうっただけで終わってしまった。
姑は、町会長さんに手紙を出して、「年寄りなので、遠くの収集場所までゴミバケツを運ぶのがたいへんです。隣のタイラさんとうちの二軒で出せる専用のゴミ収集所をうちの前に設定してください」と手紙を出したら、要望が通ったのだそうです。
家の前の収集所は長年仲良くしているお隣さんと二軒だけの使用ということにしてもらったので、ゴミバケツを片付けたり後始末の掃除もそれほど負担ではないと言います。姑はちゃんと自分の力で問題を解決したのでした。エライ!
ひとり暮らしを続けて10年になる姑、ひとりぼっちの夜も、にじんだ星を数えて、ちゃんと上を見上げて歩いています。
私は私で日々の食い扶持稼ぎに忙しく、世の嫁さんのように小まめに姑孝行をしてやれていないのですが、夫が「悪妻は百年の不作」と言っても、姑は「よいお嫁さん」と立ててくれます。
菊池寛の言葉だそうですが、「悪妻は百年の不作であるというが、悪夫は百年の飢饉である」というのがあるのですって。
結婚以来、飢饉続きで、喰うや食わずの生活でしたが、まあ、正月くらい、家族そろってスキヤキ食べるのも、年の初めのためしとて。
わが家、今年も飢饉が続くでしょうけど、正月のすき焼きで気を取り直し、なんとか上を向いて歩こう!
映画『上を向いて歩こう』より、4番「冬の日」篇(映画オリジナルバージョン)。
♪上を向いて歩こう にじんだ星を数えて
思い出す 冬の日 ひとりぼっちの夜
幸せは 星の上に 幸せは 月の上に
♪上を向いて歩こう涙がこぼれないように
手をつなぎ 歌おう 若い僕らの歌
<おわり>
06:08 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2012年01月11日
ぽかぽか春庭「大河ドラマを見る」
2012/01/11
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(1)大河ドラマを見る
2011年の春庭、震災後無気力症により、4月はぼけ~とすごし、5月からはやたらにあちこち歩きまわる、という日々を過ごしました。授業はこなすものの、「言語文化論」「社会文化論という春庭の研究分野に論文を残すようなことは何もせず、ただただ、ことばを楽しみ、文化を享受する毎日。
まあ、いいか、こんな年もあっていい、と自分に言い訳しながら、♪遊びをせんとや生まれけむ、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ♪、という平安末期に後白河上皇が採録した「今様」の通りに遊び暮らしました。
梁塵秘抄口伝集には、今様の歌い方が書かれていますが、五線譜のようにメロディが記されていたわけではないので、歌い手がいなくなるとともに、どのような曲調で歌われたのかは、もはや復元の方法はありません。雅楽のように宮中儀礼になったものは、演奏者が残って伝えたのですが。今様は、あくまで後白河天皇の個人的趣味であり、宮中には伝わりませんでしたので。
歌い方の途絶えてしまった古曲を、さまざまな伝承から復元してきた桃山晴衣(1939-2008)が、梁塵秘抄にも曲をつけてを発表していますが、作曲者によっていろいろな歌い方が考えられるでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=vzyIwdZBOnQ&feature=related
NHK大河ドラマで、平清盛の実母が子守歌がわりに我が子に歌っていたメロディは、音楽担当の吉松隆が作曲したものと思います。テレビの画面では吹石一恵が歌っていましたが、曲が仕上がるまでの作曲の過程では、初音ミクに歌わせていたのだそうです。
このあとは、松田聖子扮する祇園女御と乙前が歌うらしい。歌うのはかまわないけれど、白河上皇の愛妾だった祇園女御と後白河天皇の歌の師匠である乙前が同一人物だという設定には、いくらフィクションでも納得できないところ。
祇園女御は、「宮中の正式な身分である女御」ではなく、単に「上皇の寵愛があついので、女御という名で呼ばれている」ということにすぎず、親が誰かもわかっていない女性だし、乙前は、地方から上京してきた芸人。両方とも素性はわかっていないのですから、作家が想像力によって同一人物としてテレビに出しても、「史実に反する」と歴史家が言うことはできません。けど、単に松田聖子の出番を増やすための人物設定の気がします。
脚本の藤本有紀には、時代考証家がついてアドバイスをしているので、ちゃんとつじつまが合うようにはすると思いますし、もともと大河ドラマというのは歴史ファンタジーなんだから、そう思って見ればいいのですが。でも、ドラマ第一回目を見た感想として書かれているあちこちのブログなどを読んでみると、「清盛が白河上皇のご落胤とは知らなかった」などと、ドラマストーリーを歴史そのままと受け取っている人も多い。
時代考証を担当している本郷和人(東京大学史料編纂所准教授)は、「私は清盛落胤説には反対」とどこかで語っていたのを読んだけど。豊臣秀吉が自分でばらまいたご落胤説はさすがに「そな、アホな」と、同時代の人も考えたけれど、900年前のこととなると、もはや人の噂話も歴史のうちなので、脚本家がそれをどのように物語にしようと「作者の勝手でしょ」ということになる。
NHKキャラクターデザインのスタッフは、「時代考証の先生にお話をうかがったところ、平安貴族の烏帽子は、寝るときもかぶっていたそうです」と書いていた。しかし、これとてもわからないことです。絵巻物などに残る貴族は寝所の寝床シーンでも烏帽子をつけて描かれている。しかし、当時、貴顕を絵に描くには、正装である烏帽子を着けた姿にすることが礼儀として求められていたので、烏帽子を着けて寝ていたように描いた、ということです。実際にあんな堅苦しい烏帽子を着けて寝たのかどうか、本当のところはわかりません。
問題は、時代考証の先生だって、ほんとうにはわからないことを、絵巻物の絵からだけ推察して「寝るときもかぶっていた」と判断していることです。その道の権威とされている人の語ることがすべて正しいとは限らない、ということ。
私の想像では、寝るときはナイトキャップのような「髪を乱さないための頭巾」をかぶっていたのを、絵に描くときは烏帽子にした、と思うのですが、これも単なる想像。要は、歴史とは、後世の人が紡ぐ物語である、ということです。
初回の視聴率は17%台で、大河ドラマの中では低い方、兵庫県知事は「観光を盛り上げるためには、画面が汚い」という意見だそうですが、私は、画面の作り方としては、平安時代の武士や街の中の雰囲気がよく伝えられていると思いました。
<つづく>
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2012年01月13日
ぽかぽか春庭「歴史をファンタジーとして楽しむ」
2012/01/13
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(2)歴史をファンタジーとして楽しむ
1972年のNHK大河ドラマで「平清盛」は、吉川英治『新平家物語』が原作。私は見ませんでした。このころ東京のアパートで姉といっしょに暮らしていたので、チャンネル権は姉にあったのでしょう。
このときは、すべてスタジオ収録で「舞台劇のように」制作されたのだそうです。今回は、原作無しのオリジナル脚本で、海上ロケや野原を馬が駆けるシーンなど、ロケ多用の画面になるそう。
ドラマのストーリーのすべてが歴史的事実ではないと承知の上なら、ドラマはドラマと楽しんでよかろうかと思います。歴史とドラマは別物、と思いつつ、今回のストーリーでの注目しているのは、この30年間の平安後期史や中世武家政権史研究の進展がどのくらいドラマに反映するのだろうか、という点。近年の院政研究、中世武家政権研究などに従来とは異なる、新たな視点から清盛が描かれてきました。
たとえば、嵐山光三郎の小説『西行と清盛』や、中世史研究者五味文彦の『西行と清盛』などが反映したストーリーになるのではないかと想像しています。西行役に藤木直人が起用されていることから考えると、西行(23歳で出家する前は、北面の武士佐藤則清)がかなりストーリーに絡んでくるだろうと思うからです。
今年も、わが家は大河ドラマを見ます。戦国史中世武士政権論専攻の息子、武士の発生から幕末まで、武士政権について幅広く勉強しているので、歴史研究最前線の話を聞きながらドラマを見るのが楽しみです。
去年の「江」は、ずいぶんと「歴史離れ」の超ストーリーがあったけれど、「これは、歴史ファンタジー」と割り切って見れば、それなりに面白い。江が家康といっしょに伊賀越えしたときなんぞも「ドひゃー、いっしょに行っちゃったよ」といいながら見ていました。
『平清盛』も、平安末乱世の歴史ファンタジーとして楽しもうと思います。
娘は「みんなでストーリーや役者についてワイワイしゃべりながら見るのが好き」というタイプなので、ワイワイしながら見ています。でも、歴史モノで、歴史的に知られていることだからといって、ストーリーに関わりそうなことを先走って話すのは御法度。「先の楽しみがなくなるじゃないの」と、娘に叱られます。
『江』のときは、主人公の江が二度目の夫秀勝との間にもうけた「完子(さだこ)」が九条家に嫁ぎ、生まれた子孫は九条節子(くじょうさだこ)(貞明皇后・昭和天皇の母)まで続いている、ということを話したら、不評でした。私としては、徳川に嫁いだあとのことは、ストーリーに絡むだろうから、江の末娘和子が後水尾天皇の后になることはしゃべっちゃならないけれど、完子のことまでドラマでは扱わないだろうと思ってしゃべったのですが、「おサダの将来はどうなるんだろう、と心配しながら見たかったのに」と、おこられた。
「清盛」でも、ストーリー展開がわかるようなことはしゃべってはいけない、と釘を刺されています。
娘は、日本史に関して、「中学2年生の社会科で、縄文時代から奈良の大仏が出来上がるところまでは学校で勉強したけれど、そのあとは不登校になったので、ぜんぜん知らない。あとのことでわかるのは、高校の『現代社会』でやったことだけ。私の日本史は、大仏さんができたら、ぽんとタイムスリップして、次は明治維新」と言っています。
ドラマの一番よい楽しみ方は。
歴史モノも最初からストーリーを楽しみ、「那須与一が、扇の的、ほんとうに射落とせるかしらとか、ドキドキしながら見る」というのが、幸福な見方なのかもしれません。まあ、たいていは射落とせるだろうと思いますし、壇ノ浦で平家が滅亡しないことはない、と思いますけど。
<つづく>
00:22 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2012年01月14日
ぽかぽか春庭「イケメンを追っかける」
2012/01/14
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(3)イケメンを追っかける
『源義経』のタッキーやら、今年の『平清盛』源頼朝役の岡田将生やら、アイドルイケメンの成長を楽しむのも、ドラマの見方のひとつ。見ているだけで「私が育てた」感を楽しめます。岡田将生、私が初めて見たのは、『天然コケッコー』の転校生役かな。これからどんなふうに伸びていくのか、楽しみです。
祇園女御役では浮いていた松田聖子、アイドルとして初めてテレビで見たときは、とてもかわいかった。でも、これほど長く芸能界でやっていける才能とは思いませんでした。「ぶりっこ」で通る年齢を過ぎたら、しぼんでいくだろうかと思っていたのです。私の芸能界予想はいつもはずれます。
「先見の明」がある人、映画でもドラマでも小説でも、見巧者はブレーク前に才能を見つけていて、ブレークしたあとには自分がその才能を見いだしてやったような喜びを感じるのだそうですが、私ときたら、まったくそういう「ブレーク前」のぴかぴかの才能を見つける能がありません。
2005年2006年に、AKB48について秋元康が語るのを聞いたときも、「あらら、モー娘。二番煎じにしか見えないなあ。これは売れない。さすがの秋元康も今度は早期撤退か」と思っているうち、あれよあれよとブレーク。2011年末には、レコード大賞まで取るなんて、5年前にはまったく予想もできませんでした。
これから大きくなるタレントを見いだす能はない春庭、藤本隆宏も、『坂の上の雲』の広瀬中佐役でブレークしてから「あら、この人、水泳キャリア、すごいね」と、気づきました。バルセロナ五輪競泳個人メドレー400m8位入賞。日本記録保持者です。
コアファンは、2000年の帝劇『エリザベート』初演時の革命家シュテファン役から注目し、追っかけているのに、私、めったに舞台は見ないから(美術館と違って、劇場の招待券はほとんど手に入らないので)、藤本隆宏、『坂の上の雲』に出るまで知りませんでした。
1月8日の放送では、『平清盛』に、まだ藤本は登場していませんでした。藤本隆宏は、清盛の侍大将伊藤忠清を演じます。
藤本隆宏が役者を志したのは、25歳。遅いスタートでした。
それ以前、6歳から25歳までは、水泳一筋でした。高校、早稲田大学在学中は一日に20km以上も泳ぐ、プール漬けの毎日。1988年ソウルオリンピック、競泳個人メドレーに出場。1992年バルセロナオリンピックでは、200m個人メドレー 8位入賞。400m個人メドレーの4分20秒07という日本記録は、1989年から11年間も破られなかった大記録でした。
競泳選手をやめた藤本は、劇団四季の入団オーディションに合格しました。チョイ役からはじめて着実に実力をつけ、ミュージカル俳優として舞台で経験を重ねてきました。連続テレビドラマは、広瀬武夫役がはじめての出演でした。
藤本隆宏、2009年の年末放映の『坂の上の雲』に広瀬武夫役で出演し、ロシア美人とのダンスシーンもすてきでした。藤本はこの広瀬役でブレークし、40歳をすぎて全国区になりました。舞台役者、ミュージカル役者としては知られていたのでしょうけれど、ミュージカルの舞台など見るお金がない私、『坂の上の雲』に出るまで、ぜんぜん知りませんでした。
「Jin -仁」、完結編(2011年4~6月放送)も毎回見ていました。藤本隆宏は、西郷吉之助役で出演。西郷役ではあまり台詞はありませんでした。でも、これまで西郷隆盛を演じてきた役者のなかで、黙って座っていても絵になり、西郷の持つ人間的な豊かさと大きさを表現できていたと思います。西郷の雰囲気を出すために、20kg体重を増やしたのだとか。次回も藤本おっかけについて。
<つづく>
11:33 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2012/01/01
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(1)しあわせ信じて
01/03 たつ年(2)カフェからの移転先
01/04 たつ年(4)記憶の地層
01/05 たつ年(3)日記to be or not to be
01/06 たつ年(5)姑のこぶto be or not to be
01/07 たつ年(6)ただの人の人生
01/08 たつ年(7)スキヤキ
01/10 たつ年(8)上を向いて歩こう
01/11 遊びをせんとや生れけむ(1)大河ドラマを見る
01/13 遊びをせんとや生れけむ(2)歴史をファンタジーとして楽しむ
01/14 遊びをせんとや生れけむ(3)イケメンを追っかける
01/15 遊びをせんとや生れけむ(4)ブレーク中の役者を応援する
01/17 遊びをせんとや生れけむ(5)テレビに浸かる
01/18 遊びをせんとや生れけむ(6)世界の文化を知る
01/20 遊びをせんとや生れけむ(7)写真美術館散歩
01/21 遊びをせんとや生れけむ(8)博物館で待ち続ける
01/22 遊びをせんとや生れけむ(9)博物館で列に並ぶ
01/24 遊びをせんとや生れけむ(10)無限ループ話を聞く
01/25 遊びをせんとや生れけむ(11)清明上河図を見る
01/27 遊びをせんとや生れけむ(12)しむことばを知る
01/28 遊びをせんとや生れけむ(13)ことばを楽む
01/29 遊びをせんとや生れけむ(14)絵はがきをセッチョウする
01/31 遊びをせんとや生れけむ(15)絵はがきを出す
~~~~~~~
2012/01/01
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(1)しあわせ信じて
た:たち上がれ
つ:強くやさしく
ど:どんな時も
し:しあわせ信じて
みな皆さまにとって、2012年がよい年になりますように!!
2012年「春庭日々雑記いろいろあらーなカルスタクラブ」コンテンツ:
「2012十二単日記」=春庭の日常茶飯事典
「ことばのYa!ちまた」=街で拾ったことばたち
「いろは字類抄待夢」=春庭ことば辞典
「言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて」=春庭文学文化雑記&言語文化学雑記
ことばの知恵の輪=ことば雑記
「ニッポニアニッポン語講座」=文法や音声、社会言語学など
「ニッポニアニッポン語教師日誌」=日本語教室だより
「インターナショナル食べ放題」=B級グルメ食べある記
春庭@アート散歩=美術館博物館古建築をたずねて
「今日のいろいろ」=その他もろもろ
久しぶりに春庭テーマ曲「インターナショナル食べ放題」を歌います。
辰年に「立て!飢えたる者たちよ!!」
http://www.youtube.com/watch?v=NbOLTFRVsek
♪起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し
食えよ我が腹へと 暁(あかつき)は来ぬ
忘却の鎖 断つ日 肌は血に燃えて
海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
♪いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの♪(繰り返し)
聞け我等が雄たけび 天地轟きて
脂肪越ゆる我が腹 行く手を守る
満腹の壁破りて 固き我が腕(かいな)
今ぞ高く掲げん 我が勝利の旗
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
♪いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの♪(繰り返し)
初音ミク四重唱バージョンで。
http://d.hatena.ne.jp/video/niconico/sm1418316
ついでに、初音ミク歌唱による「國鐵廣島の歌」こういう替え歌が作られる日本に、未来への希望を感じます。パロディとおちょくりは健全なる社会文化の基礎です。
http://www.youtube.com/watch?v=9eOS1szlD7o
<つづく>
08:50 コメント(6) 編集 ページのトップへ
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2012年01月03日
ぽかぽか春庭「カフェからの移転先」
2012/01/03
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(2)カフェからの移転先
一通の通達で、あっけなく「カフェ終了」です。無料のブログサイトですから、いつかはこういうこともあろうかと思っていましたが、なんだか寂しい。
カフェで知り合った方々、顔をあわせたことなくても、よいおつきあいが続いたと思っています。2003年から、ほぼ毎日のように更新してきて、おなじみさんの日記を読み続けてきました。
現在私がコメントをかわしている方々は、30人くらいと思います。足跡記録30人分は、一度でもコメントをくださった方のみ残し、あとは削除しています。
日記へのコメントをいただいたことのない足跡は消すことにしてきましたが、私も、読むだけ読んでも日記や足跡欄にコメントを書き込まず、定型コメントのみの日もあるので、もしかしたら、読んで下さった方の足跡を削除したことがあるかもしれません。失礼しました。
私、カフェに書いた分、2003年から2007年2月までは自分のホームページに再UPすることにしていました。テーマ事にまとめてUPしたのです。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/index.htm
でも、2007年2月に中国へ赴任したときデスクトップが壊れて、パソコンを変えて以後、カフェに書いたものはそのままにしてきました。デスクトップに入っていたホームページビルダーをどのように移転させたらいいのかわからなかったからです。
「カフェ終了」で、過去にカフェに書いたデータが消えてなくなるのでかどうかわからずに、あわてました。とりあえず2007年以降の分はコピー保存しようとは思っていますが。
他人が読んだらろくでもない内容のつまらない駄文でも、私にとっては、生きてきた足跡のひとつなのです。
小学生のころからの日記、死ぬ前に自分で燃やす人もいるし、遺書に「日記は全部お棺の中に入れて、いっしょに灰にして」と遺言する人もいて、それはそれぞれの人の身の始末なのですが。私は、何にもこの世に残す遺産とてないけれど、ネットの中に駄文を残すだけなら、場所もとらずお金もかからず、もしかしたら何ぞのキーワードにひっかかって、読まれることがないとは言えないし、残して置いて誰にも迷惑がかかるものでもないので、墓銘碑がわりによかろうと思っていたのです。
それが全部消えてしまう?
え?OCNカフェの過去ログはそのままgooかブログ人に保存されるの?わけわからんちんのパソコンオンチ春庭です。
とにかく、書くことしかできず、パソコンのあれこれについては何年経ってもさっぱりわからない春庭、とりあえず、別サイトへコピーすることにしました。
一日分ずつコピーペーストを繰り返して写していきます。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/haruniwa55hal
これまで放置していたサイトですけれど、まあ、ないよりマシ。あと、アメーバブログも持っているのですけれど、アメーバは使い勝手が良くないという評判なので、こちらの活用はこの先考えましょう。
何気ない日常が書かれているサイトや、本や映画の話題が好きで、お気に入りの方の日記を読みに行くのが楽しみでした。
カフェ仲間との交流もあと2ヶ月。gooやブログ人に移行する人、他の媒体を選ぶ人、いろいろでしょうが、カフェのコメント欄に記入するのとはまたひと味違う違うおつきあいになるのでしょうね。
別サイトがある方のブログは、お気に入りにいれましたけれど、OCNカフェのみの方、移行する場合、どこにするのか、ぜひ日記にお知らせを載せて下さいね。登録しますから。
<つづく>
01:02 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2012年01月04日
ぽかぽか春庭「記憶の地層」
2012/01/04
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(4)記憶の地層
私のごひいきの書店、池袋のジュンク堂。なぜごひいきかというと、各フロアに椅子が何脚かあって、「すわり読み」ができるから。10000円まとめて買うと、400円の喫茶店利用券をくれるから。書店販促用の「書標」という小冊子の編集がなかなかいい。無料だからいつも貰う。2011年8月の特集は「武士の日記を読んでみた」でした。
江戸時代の武士たち、お家の出来事を子孫に伝えるのを義務のひとつと心得ていたから、上級から下級武士まで、せっせと日記を書き残しました。
元禄時代、尾張名古屋藩の朝日文左衛門の『鸚鵡籠中記』。これは「御畳奉行の日記」としてベストセラーになりました。18世紀末、新潟新発田藩の藩士、溝口半左衛門の「世臣譜」。幕末の御家人、山本政恒の「武士を失業して小間物屋になる」日記。おなじく幕末の加賀藩下級藩士で御算用者(会計処理の役人)を務めた猪山家に残された、約37年間の入払帳や書簡をもとにした磯田道史の『武士の家計簿 加賀藩御算用者』は、映画の原作にもなりました。
また、大商人の大福帳とか、名主階層の年貢の記録、江戸時代の紀行文も、貴重な記録です。しかし、一般の社会にごく普通に生きた市井の、大工とか畳屋、飾り職人、ぼてふりの魚屋、芝居小屋下足番、人口の8割以上を占めていた農民、山岳民、漁民など、ごく普通の人々の日々の記録というのは、なかなか読めないのです。いつかどこからか発掘されて、翻刻されるといいのですが。
冬休みの読書の一冊、たいへん興味深く読んだ『記憶の地層を掘る』(2010お茶の水書房)。東京外国語大学外国事情研究所が主催したシンポジウム、「ハリウッド映画ではないベトナム戦争」と、「日本占領下のインドネシア」をもとにして、海外からの論客や新進気鋭の歴史学者などによる論文が編集されています。
この本の基本的な編集方針は、権力者側の公式発表でも新聞テレビなどジャーナリズム報道でもなく、一般の人が記憶していることを語ってもらい、その重層のなかから歴史を発掘しようとしていることです。
この手法によって発掘された歴史のひとこま。たとえば、グアム島の住民達による、2年間の日本占領時代の記憶。日本からやってきた開墾隊によって、多くの島民が処刑されたという事実。この事実が、島民によってどのように記憶されどのように語りつがれてきたのかをインタビューによって記録し、日本側の兵士(開墾隊)の記憶やグアム史の公的な記録、アメリカの記録などと重ね合わされ、歴史の深層が掘り起こされています。
「日本の元兵士の記憶からは、開墾隊がグアム島民に行った虐殺はきれいに抜け落ちている。自分たちの補給線が途絶えて、飢えつつアメリカ軍の砲弾の下を逃げたことは記憶しているのに、島民虐殺について、ほとんど語られることはなかった」という若い論者の言に、さもありなんと思いつつ読みました。
たとえば、3・11についての記録。現地へボランティアに行って来た方や、実家が被災した方などの記録を、カフェ日記で読ませていただきました。直接の記録、ほんとうに貴重だと思います。そういう直接の記録のほか、テレビや新聞の報道を見てどう感じたのか、その日その日の記録が、将来の歴史研究者が「3・11を一般の人はどう受け止めたのか」と「記憶の地層」を発掘するとき、役に立つでしょう。
Googleが、「未来へのキオク」として、東日本震災の前と後の、映像記録を収集しています。Yahoo JAPAN! が主催する、「東日本大震災 写真保存プロジェクト」との連携も行い、多くの人が撮影したデータを、パソコンを通して共有できる。
写真も、文字記録も「人類共有財産」として、残していけるとしたら、21世紀以後の「未来の歴史への記憶」は、世界中みなの財産となると思います。
山本作兵衛(1892-1984)が記録した炭鉱の絵と文の記録は、2011年5月にユネスコの世界記憶遺産に登録されました。各地の炭鉱が閉山した今、貴重な記録と思います。山本作兵衛の絵をユネスコに推薦したのは、地元の田川市。
世界的に貴重な記録とまではいかなくても、今、書き継がれているブログのひとりひとりの記録も、残して置いていいんじゃないかと思います。
炭鉱の炭住に暮らすカーチャンたちが、取材に訪れた森崎和江(1927~)をもてなそうと出してくれた「ごちそう」は、豆腐一丁であったことを、森崎のエッセイで読んだことを思い出す。そういう鮮烈な記録と共に、アフリカの高原の小さな村の雑貨屋で、今日採れた芋をどのように料理して食べたか、そんなつぶやきも大切だと思います。小さな雑貨屋を営んでいたママ・アンボイはもうこの世にいないけれど、私が記録したケニア日記の中に生きているのです。
多くの人が発信できるようになった今、代議員制民主主義というのも変化していく時期だと思います。だれでも自分の意志を直接表現できる今、「現代社会においては、直接民主制は機能しない」という論も踏まえた上で、もっと自分たちの意見を直接反映していける仕組みを考えてもよい時です。
<つづく>
07:57 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2012年01月05日
ぽかぽか春庭「日記to be or not to be」
2012/01/05
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(3)日記to be or not to be
2011年、年末の新聞に70歳の女性の投書が載っていました。小学校から書き続けてきた日記のうち、最初の一冊と最後の一冊を残して捨てた、と。
「結婚もせず子も持たなかった人生、自分も読み返すこともしないのに、残したとて他の人が読むはずもない」からと、捨てる決意をしたのだとか。そうやって思い切って近年のはやり「断捨離」を実行出来る決断力のある方なら、これからの人生も有意義にすごしていかれることでしょう。
でも、ほんとうにもったいない。私は「無名の人の日記収集センター」があれば、そこに様々な人の日記を集めてほしいと思っています。歴史をひもとこうとしたとき、たとえば、戦前の社会について調べようとするとき、新聞記事に載るほどの政治や経済の動きは資料を読めばわかりますが、その記事について、庶民はどのように感じ、どんなことを話していたのか、などのことは、なかなか適切な資料がありません。評論家や作家などではなく、ごく普通の生活をしている庶民の感想や、電車の中で何を喋っていたか、などの口語資料はめったに残りません。
例をあげるなら、「阿部貞事件」が起きたとき、世間の反応はどうだったのか、裁判記録や新聞報道だけでは、実際のところがわかりません。たまたま向田邦子のエッセイで「大人達は眉をひそめつつ語りながらも、うれしそうに新聞記事を読んでいた」と書いてあり、「戦争へと向かう暗い昭和の世に、ひとすじの”人間らしさ”を感じとろうとする如く、世の人々は貞を話題にしていた」という向田邦子の書きぶりに、納得したのでした。
日記を捨てたという投書の女性は、「結婚もしなかった70年の棒のような人生」と書いています。でも、70歳といえば、1940年か1941年くらいのお生まれの方と思います。10歳から60年間書き続けたというその意志の強さだけでも、学ぶべきところがあるのではないかと思います。ましてや、庶民の戦後史そのままを歩んでこられた方の、10歳からの記録、ほんとうに貴重なものと思うのに、捨ててほしくなかったと思います。
「棒のような人生」は、貴重な生命の木の骨太の枝のひとつです。
そのときそのときの呟きが、戦後社会を知りたい人にとっては貴重な記録なのに。給食が美味しかったとかまずかったとか、友達と喧嘩したときの気持ちとか、一人暮らしの愚痴とか、そういうことのひとつひとつの感情が、歴史を形成するのではないかと思うのです。
近代社会についてのひとつの見方として、「感情共同体」という用語も使われ、そのとき、皆はどのように感じていたのか、ということを知るのも、重要な歴史把握の方法だということが、声高に言われるようになってきました。日記に記されたひとつひとつの「今日の気持ち」は、後世に残すべき記録なのです。
もし、カフェに書かれた日記を保存する方法があるなら、どうぞ、皆様、それぞれの方法で保存しておいて下さい。私も、なんとか残していこうと思っています。くだらないことばかり書いてきたとか、文章が下手だとか、そんなことはまったく気にしません。毎日毎日書き続けた、それだけでいいのだと思っています。
To be or not to be, that is the question.
When you worry about whether you leave your diary, you have to keep it.
I hope you hold it . It has value.
パソコンでブログ日記を読み出した頃、ごく普通の漁師さん、建築請負業、電気工事の方など、それぞれの仕事を、「当たり前の日常」として記録しているのを、新鮮な気持ちで読みました。家のなかにコンセントや電灯線を敷設する仕事、どのように工事をすすめるのか、なんて、今まで知らなかったことをたくさん知ることができました。
テレビドラマや映画の「お仕事もの」で、畳屋さんが舞台になったり、銭湯経営の一家が描かれても、それはやはり脚本家、小説家の目を通して描かれたもの。実際に仕事をしている人の記録は、私にとって、とても興味深いものでした。
日常の細々とした感想、読んだ本見た映画の記録、山の写真、建物の写真、脳内家族の絵日記。いろんな方のいろんな記録、いろんな方のカフェ日記を読ませていただきました。
みなさま、どうぞ、これからも書き続けて下さい。
私も続けます。
<つづく>
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2012年01月06日
ぽかぽか春庭「姑のこぶto be or not to be」
2012/01/06
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(5)姑のこぶto be or not to be
姑宅への御年始。4日に姑の希望で「家族そろってすき焼きパーティ」となりました。
姑は、年末に義姉を亡くして、気落ちしていたところです。
姑の兄は、何年も前に亡くなっていますが、その連れ合いの文子さんは、姑の女学校時代の同級生です。同級生が姑の義姉になって、私の夫にとっては義伯母。87歳の一期まで、とても頭脳明晰な人で、「以前もらった葉書も、80代とは思えない達筆でしっかりした文章だった」と、夫も言っていました。
しかし、心臓を患い、最後は寝たきりになってしまった。
姑の実姉は90歳を超えて元気でいるのですが、やはり同年齢の身近な人が、なくなると、こたえるものでしょう。
2011年の姑、夏以後は、「手術を受けるか受けないか」という重大問題に心わずらわせてきました。手術というは、病気のためではなく、「ひたいの上のこぶ」を取るといういわば美容整形手術的なものです。外に出るときはたいてい帽子をかぶって隠すようにしているし、髪の毛で覆っているので、見た目にそんなに気になるとは思っていませんでした。しかし、姑にとっては、子どもの時からコンプレックスの原因になっていたこぶだったのです。年をとって、髪が薄くなったので、ますますこぶを厭う気持ちが強くなったようです。
私は、姑が見た目を気にする人ではないと思っていたので、姑の気持ちをついぞ思いやることができないで30年もすごしてしまいました。
姑の兄も姉も、戦前の師範学校を出て教師になりました。姑が女学校を出たあと、師範学校へすすまなかったのは、戦中戦後の混乱期にあたっていたせいだと思っていました。しかし、姑が師範学校へ進まなかったのは、その理由だけではありませんでした。「このこぶを人前にさらしたくない。子ども達の前に立つ教師にはなれないのだから、師範学校へ行くことはできない」と、姑は悩んだのだそうです。
戦後、教師が不足した時代に、「女学校出なのだから、代用教員になってほしい」という依頼を、教師をしている兄や姉を通して何度も受けのだそうです。でも、それを全部断ったのは、「このこぶのまま、人前に出るのはいやだ」という気持ちがあったからなのだということを、姑は去年はじめて、孫娘に語りました。私は娘からこの話を聞いて、「え?そんなにおばあちゃんが気にしていたとは知らなかった」と言いました。
額の上のこぶをとるには、頭蓋骨にも処置が必要になるため、若い頃は手術方法がなく、手術が可能になった頃には、「頭蓋骨を開く大手術になるので、年寄りはこの手術には耐えられないだろう」と言われて、諦めていたのです。
それが、去年「昔よりは頭蓋骨を開く手術が技術的に向上したので、ずっと短時間で手術できるようになった。ただし、年齢が年齢なので、手術に耐えられるかどうか、もう一度検査をしてみましょう」と医者に言われ、姑は、手術する気になりました。しかし、検査をしてみると、やはり医者が思った以上に頭蓋骨への手術時間がかかることがわかり、取り去った頭蓋骨の変わりとして、人工頭蓋骨を取り付けなければならないという医者の説明でした。
姑の「手術を受けたい」という気持ちより、医者たちの「この年齢で手術に耐えられなかったら、自分たちの落ち度になる」という失敗を怖がる気持ちのほうが強く、手術はとりやめになりました。
<つづく>
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2012年01月07日
ぽかぽか春庭「ただの人の人生」
2012/01/07
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(6)ただの人の人生
夫は最初から、「見た目の問題なのだから、今さら何時間もかかる手術をして見た目をよくすることもない」という「手術反対」派でした。
私と娘は、おばあちゃんの「自分の見た目がコンプレックスとなり、代用教員になって人前に立つこともできなかった」という気持ちに驚き、「おばあちゃんが望むなら、手術を受けてみてもいいのではないか」という賛成派。
姑が娘に語った「一度でいいから、ほかの人のように、見た目を気にしないで生きてみたかった。」ということばに胸を突かれました。生まれてから87歳まで、物心ついて自分の見た目が他の人と違うということを意識するようになってからでも80年もの間、姑がそんな気持ちを持って生きてきたこと、私は少しもそれをわかってあげたことがなかったのです。
私は障害者ボランティアなども通して、身体などに障害があるとしても、ごく普通に生活していくべきだという考えでしたが、一番身近な姑が身体に劣等感を感じて生きているということにすら気づいてあげたことがなかったのです。
「一生の最後だけでも、フツーの人になって生きてみたかった」という願いを、姑が87歳になってかなえようとしたこと、ほんとうに胸がいっぱいになりました。
もちろん、他人からみたら、女学校を出て数年で銀行員と結婚し、東京に所帯を持って娘息子を育て上げ、孫に恵まれて生きてきた87年間は、幸福な人生と見えます。実の娘が50歳で癌で先立ったことなど、不幸もありましたが、舅と協力して東京に建てた一軒家を、2007年に後家のふんばりで全改築したエネルギーのある、趣味豊かな姑で、私は「幸福なおばあちゃん」と信じてつきあってきました。
夫は単純に「87にもなって、見た目がよくなってそれがドーシタ」と言います。でも、私は、姑の「一生に一度でいいから、見た目がフツーの人として暮らしたかった」という気持ちも、とても胸に響くのです。こぶがあってもなくても、私たち家族にとっては、大事なおばあちゃんであり、大切な母親ですが、姑のせつない希望も叶えてあげたかった。
おない年の義姉の死去で、姑の気持ちが「失敗するかも知れない手術を受けるより、今のままでいいから、少しでも長生きしたい」という気持ちに変わるかとも思いましたが、娘との会話では、まだ手術をあきらめきったわけではないようです。さて、来年の米寿まで、この問題は持ち越しそうです。
姑にとって、息子と孫息子、私にとって夫と息子は、ともに年男、辰年生まれです。還暦を迎える夫。24歳になる息子。
息子は、2012年は、修士課程2年生になります。そろそろ、修士論文のことも気に掛けなければなりません。指導教官が文学部長であるため忙しくて、なかなか論文指導の時間がとれないとかで、本人はのんびり構えています。しかし、私は、子育て&日本語教師をしながらの修士論文執筆で、修士2年目には見事に失敗し、修士課程修了まで4年間費やすという経験をしたので、「母の失敗を繰り返すな」と、気が気ではありません。
還暦夫は、「いっしょにタイ語を学んでいる仲間と、バンコクで行われるマラソン大会に出る」という、「似合わない夢」を持つようになりました。「スタンダードシャーターバンコクマラソン」という、国際大会に一般参加するためのさまざまなツアーが出ているのだそうです。2011年の開催はバンコク洪水のために、2012年2月12日に延期になりました。夫が参加をもくろんでいるのは、来年だか再来年だかの「還暦記念マラソン」。このごろ、飯田橋の事務所から九段下経由で歩いて、皇居の周囲を走っているというのですが、さて、どうなることやら。
ほんとうに出場することになったら、応援ツアーに出かけたいと思いますが、夫は「来るな」と言うでしょう。今年は、1982年に結婚してから30年目です。「夫唱婦不随」「婦唱夫不随」が30年も続いたのですから、今さらバンコクまで随行しなくてもよいということでしょうが、なに、私は私で一人旅。ひとりバンコク観光でもしていますって。
私が観光してひとりで歩いている脇を夫が走っていたら、拍手して応援するくらいのことはしてやりましょう。私は夫から何も応援してもらったことないけれど。
姑の家に着くまでの地下鉄の中では、関川夏央『「だだの人」の人生』文春文庫を読んですごしました。姑のことを、ごく普通の「ただの人」と思って30年つきあってきて、姑の心も想像できない、至らないヨメだったなあと思います。
<つづく>
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2012年01月08日
ぽかぽか春庭「スキヤキ」
2012/01/08
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(7)スキヤキ
元日午後1時半。いきなりの震度3。東京、かなり揺れてびっくりしました。
2011年大震災のあと、揺れた心を落ち着かせ、みんなを元気づける歌のNo.1になったのが、「上を向いて歩こう」でした。
坂本九の歌、アメリカでヒットしたときのタイトルは「スキヤキ」。ベルギーやオランダでは「忘れ得ぬ芸者ベイビー」というタイトルになったそうで、わけわからないけれど、ゲーシャ、フジヤマなどと共に、スキヤキやスシが日本を想起させる名詞であることはわかります。
私は、映画『上を向いて歩こう』が1962年に公開されたときは、映画館で見ていません。(親が映画館で見るのを許したのは、ディズニーのアニメ映画程度)。テレビでも見たことがなく、2011年12月31日大晦日にテレビ放映されたときにようやく見ました。(2011年にDVD化)
ちょうど50年前の映画、坂本九、高橋英樹、吉永小百合、みな若くて生き生きしていました。
50年前の日本、スキヤキは庶民にとってごちそうでした。
姑宅での「家族deスキヤキ」。1925年生まれの姑にとって、スキヤキは今でも「ごちそう」です。「餅もスキヤキも、今では日常の献立になってしまって、松坂牛A4級、100g3000円とかいうくらいの、よほど上等の牛肉でないと、誰も正月のごちそうとは思わない」なんてことは思いません。とにもかくにも、家族そろってスキヤキの食卓が囲めればそれでいいのです。
御年始の日をいつにするかは、夫と娘でちょっと揉めました。「4日からはどの会社も新年始業だから、4日には時間がない。食べたらすぐに事務所に戻らなければならないから、3日にしよう」と夫が言うのに、娘は「箱根駅伝、2日は往路、東洋の柏原竜二の山登り新記録がかかっているし、3日は明治の鎧坂が出場するかどうかを見届けなければならない。3日にスキヤキするとしても、その前に買い出しにつきあってくれってお祖母ちゃんが言っているのだから、箱根ゴールしてからお祖母ちゃんの家に行って、それから買い物に出かけるのでは、遅くなるでしょ。だから4日じゃなければ、いやだ。父は、4日に仕事があるなら、いっしょに食べなくてもいい」と、夫に冷たく宣言。
そこで、夫は、3日に駅伝が終わってから姑宅へ行き、4日には買い物をしなくてもよいように買い出しにつきあうことにしました。買い物を手伝ってからすぐ事務所に戻り、仕事。4日は、1時から3時まで昼ご飯にすき焼きを食べて、すぐ事務所に戻って仕事。家族団らんなんてものより、赤字会社の経営が大事な夫です。
私と娘息子は、4日のおひる頃に着いて、夫が来る前にすき焼きを作り始め、夫が来たらすぐに食べられるようにしておきました。夫が3日に姑といっしょに買った牛肉は、特に高級品でもなく、夫は「正月は市場が開いていないからか、たいした商品は置いてない。高級肉は売り切れだった」と言うのですが、ま、いいか。赤字会社一家には、正月といえども高級肉を食べるなんてぜいたくなことですから。
スキヤキ食べながら、娘と夫とわいわいと箱根駅伝論評。「Nさんから年始の電話が留守録に入っていたんだけど、あれは絶対に年賀を述べるっていうより、東洋の自慢したかったんだな」と、くやしそうなのも、夫の母校は三強と言われながらも復活優勝できなかったから。私も連覇ならずですが、娘は、母校宿願の3位で大喜び、松坂高級肉でなくとも、「今年はさい先いいから、お肉もこれで十分おいしい」と、娘はごきげん。おめでたい一家である。
<つづく>
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2012年01月10日
ぽかぽか春庭「上を向いて歩こう」
2012/01/10
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(8)上を向いて歩こう
姑宅での「家族deスキヤキ」。デザートは、娘が作ったチーズケーキ。血糖値を気にする姑のために、パルスイートという甘味料を使って作ったので、「おばあちゃん、これなら食べられるから」と、娘がすすめています。私からの御年賀は、いつもの金一封。芸のないヨメです。
夫が事務所へ戻ったあとも、姑が次々とテーブルに並べる煮物や数の子などつまみながら、昔話を聞いたり、老人仲間の話を聞いたりしました。
姑は、公園での早朝ラジオ体操、詩吟の稽古、書道や童謡を歌う会など、老人仲間と今年も「毎日忙しい」と言いながら過ごしていくことでしょう。しかし、やはり姑の話題も「寄る年波」に関わることが多くなってきました。
「もう、親戚にお歳暮を贈るのはやめにしたいのに、どのような口実でやめたらいいのかわからない。どう言えば角を立てずにお歳暮を打ち切りにできるかしら」という相談もありました。「今年の暮れにお歳暮を送るとき、手紙を添えたらどうでしょうか」と、ヨメは提案してみました。
私が考えた文面は、「今年もお世話になりました。例年通りの粗品ではございますが、お使い下さいませ。さて、私も2013年には米寿となりますので、いろいろ身仕舞いをしております。年末のご挨拶は本年にて打ち上げとさせていただきたく存じますが、今後とも老体をお見守りくださいますよう、お願い申し上げます」というものだったのだけれど、あれっ?「身仕舞い」っていうのは、こういう場合に使える言葉だったかしらと、確信がもてなくなりました。
結局、「あとでいい文を考えておきますね」で、お茶を濁してしまいました。まったく、何を相談されても、たいして役にたたない嫁です。
私たちから見ると87歳は、いろいろなことを打ち切りにする口実に足る老齢だと思うのですが、舅の長姉は100歳を超えているという長寿一族なので、姑も自分はまだ若い方と思っています。
去年、嫁が相談されたことのなかで、やはり嫁には何の手助けもできなかったことがあります。ひとつは、ゴミ出し問題について。毎日の食事作りは手を抜くことが多くなったけれど、家の掃除は絶対に手を抜かない姑にとって、ゴミ出しは重要問題です。部屋をきれいに掃き、庭の落ち葉などを集めても、それを捨てに行くには、指定のゴミバケツに入れて、指定のゴミ集積所まで運ばなければなりません。
「ゴミ出しがたいへんになってきた」と姑が愚痴を言ったとき、「じゃ、ゴミの日には、ヨメが来てゴミ出しをいたしましょう」なんて殊勝なことは言えずに、「どうしたらいいでしょうねぇ」なんて、相づちうっただけで終わってしまった。
姑は、町会長さんに手紙を出して、「年寄りなので、遠くの収集場所までゴミバケツを運ぶのがたいへんです。隣のタイラさんとうちの二軒で出せる専用のゴミ収集所をうちの前に設定してください」と手紙を出したら、要望が通ったのだそうです。
家の前の収集所は長年仲良くしているお隣さんと二軒だけの使用ということにしてもらったので、ゴミバケツを片付けたり後始末の掃除もそれほど負担ではないと言います。姑はちゃんと自分の力で問題を解決したのでした。エライ!
ひとり暮らしを続けて10年になる姑、ひとりぼっちの夜も、にじんだ星を数えて、ちゃんと上を見上げて歩いています。
私は私で日々の食い扶持稼ぎに忙しく、世の嫁さんのように小まめに姑孝行をしてやれていないのですが、夫が「悪妻は百年の不作」と言っても、姑は「よいお嫁さん」と立ててくれます。
菊池寛の言葉だそうですが、「悪妻は百年の不作であるというが、悪夫は百年の飢饉である」というのがあるのですって。
結婚以来、飢饉続きで、喰うや食わずの生活でしたが、まあ、正月くらい、家族そろってスキヤキ食べるのも、年の初めのためしとて。
わが家、今年も飢饉が続くでしょうけど、正月のすき焼きで気を取り直し、なんとか上を向いて歩こう!
映画『上を向いて歩こう』より、4番「冬の日」篇(映画オリジナルバージョン)。
♪上を向いて歩こう にじんだ星を数えて
思い出す 冬の日 ひとりぼっちの夜
幸せは 星の上に 幸せは 月の上に
♪上を向いて歩こう涙がこぼれないように
手をつなぎ 歌おう 若い僕らの歌
<おわり>
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2012年01月11日
ぽかぽか春庭「大河ドラマを見る」
2012/01/11
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(1)大河ドラマを見る
2011年の春庭、震災後無気力症により、4月はぼけ~とすごし、5月からはやたらにあちこち歩きまわる、という日々を過ごしました。授業はこなすものの、「言語文化論」「社会文化論という春庭の研究分野に論文を残すようなことは何もせず、ただただ、ことばを楽しみ、文化を享受する毎日。
まあ、いいか、こんな年もあっていい、と自分に言い訳しながら、♪遊びをせんとや生まれけむ、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ♪、という平安末期に後白河上皇が採録した「今様」の通りに遊び暮らしました。
梁塵秘抄口伝集には、今様の歌い方が書かれていますが、五線譜のようにメロディが記されていたわけではないので、歌い手がいなくなるとともに、どのような曲調で歌われたのかは、もはや復元の方法はありません。雅楽のように宮中儀礼になったものは、演奏者が残って伝えたのですが。今様は、あくまで後白河天皇の個人的趣味であり、宮中には伝わりませんでしたので。
歌い方の途絶えてしまった古曲を、さまざまな伝承から復元してきた桃山晴衣(1939-2008)が、梁塵秘抄にも曲をつけてを発表していますが、作曲者によっていろいろな歌い方が考えられるでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=vzyIwdZBOnQ&feature=related
NHK大河ドラマで、平清盛の実母が子守歌がわりに我が子に歌っていたメロディは、音楽担当の吉松隆が作曲したものと思います。テレビの画面では吹石一恵が歌っていましたが、曲が仕上がるまでの作曲の過程では、初音ミクに歌わせていたのだそうです。
このあとは、松田聖子扮する祇園女御と乙前が歌うらしい。歌うのはかまわないけれど、白河上皇の愛妾だった祇園女御と後白河天皇の歌の師匠である乙前が同一人物だという設定には、いくらフィクションでも納得できないところ。
祇園女御は、「宮中の正式な身分である女御」ではなく、単に「上皇の寵愛があついので、女御という名で呼ばれている」ということにすぎず、親が誰かもわかっていない女性だし、乙前は、地方から上京してきた芸人。両方とも素性はわかっていないのですから、作家が想像力によって同一人物としてテレビに出しても、「史実に反する」と歴史家が言うことはできません。けど、単に松田聖子の出番を増やすための人物設定の気がします。
脚本の藤本有紀には、時代考証家がついてアドバイスをしているので、ちゃんとつじつまが合うようにはすると思いますし、もともと大河ドラマというのは歴史ファンタジーなんだから、そう思って見ればいいのですが。でも、ドラマ第一回目を見た感想として書かれているあちこちのブログなどを読んでみると、「清盛が白河上皇のご落胤とは知らなかった」などと、ドラマストーリーを歴史そのままと受け取っている人も多い。
時代考証を担当している本郷和人(東京大学史料編纂所准教授)は、「私は清盛落胤説には反対」とどこかで語っていたのを読んだけど。豊臣秀吉が自分でばらまいたご落胤説はさすがに「そな、アホな」と、同時代の人も考えたけれど、900年前のこととなると、もはや人の噂話も歴史のうちなので、脚本家がそれをどのように物語にしようと「作者の勝手でしょ」ということになる。
NHKキャラクターデザインのスタッフは、「時代考証の先生にお話をうかがったところ、平安貴族の烏帽子は、寝るときもかぶっていたそうです」と書いていた。しかし、これとてもわからないことです。絵巻物などに残る貴族は寝所の寝床シーンでも烏帽子をつけて描かれている。しかし、当時、貴顕を絵に描くには、正装である烏帽子を着けた姿にすることが礼儀として求められていたので、烏帽子を着けて寝ていたように描いた、ということです。実際にあんな堅苦しい烏帽子を着けて寝たのかどうか、本当のところはわかりません。
問題は、時代考証の先生だって、ほんとうにはわからないことを、絵巻物の絵からだけ推察して「寝るときもかぶっていた」と判断していることです。その道の権威とされている人の語ることがすべて正しいとは限らない、ということ。
私の想像では、寝るときはナイトキャップのような「髪を乱さないための頭巾」をかぶっていたのを、絵に描くときは烏帽子にした、と思うのですが、これも単なる想像。要は、歴史とは、後世の人が紡ぐ物語である、ということです。
初回の視聴率は17%台で、大河ドラマの中では低い方、兵庫県知事は「観光を盛り上げるためには、画面が汚い」という意見だそうですが、私は、画面の作り方としては、平安時代の武士や街の中の雰囲気がよく伝えられていると思いました。
<つづく>
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2012年01月13日
ぽかぽか春庭「歴史をファンタジーとして楽しむ」
2012/01/13
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(2)歴史をファンタジーとして楽しむ
1972年のNHK大河ドラマで「平清盛」は、吉川英治『新平家物語』が原作。私は見ませんでした。このころ東京のアパートで姉といっしょに暮らしていたので、チャンネル権は姉にあったのでしょう。
このときは、すべてスタジオ収録で「舞台劇のように」制作されたのだそうです。今回は、原作無しのオリジナル脚本で、海上ロケや野原を馬が駆けるシーンなど、ロケ多用の画面になるそう。
ドラマのストーリーのすべてが歴史的事実ではないと承知の上なら、ドラマはドラマと楽しんでよかろうかと思います。歴史とドラマは別物、と思いつつ、今回のストーリーでの注目しているのは、この30年間の平安後期史や中世武家政権史研究の進展がどのくらいドラマに反映するのだろうか、という点。近年の院政研究、中世武家政権研究などに従来とは異なる、新たな視点から清盛が描かれてきました。
たとえば、嵐山光三郎の小説『西行と清盛』や、中世史研究者五味文彦の『西行と清盛』などが反映したストーリーになるのではないかと想像しています。西行役に藤木直人が起用されていることから考えると、西行(23歳で出家する前は、北面の武士佐藤則清)がかなりストーリーに絡んでくるだろうと思うからです。
今年も、わが家は大河ドラマを見ます。戦国史中世武士政権論専攻の息子、武士の発生から幕末まで、武士政権について幅広く勉強しているので、歴史研究最前線の話を聞きながらドラマを見るのが楽しみです。
去年の「江」は、ずいぶんと「歴史離れ」の超ストーリーがあったけれど、「これは、歴史ファンタジー」と割り切って見れば、それなりに面白い。江が家康といっしょに伊賀越えしたときなんぞも「ドひゃー、いっしょに行っちゃったよ」といいながら見ていました。
『平清盛』も、平安末乱世の歴史ファンタジーとして楽しもうと思います。
娘は「みんなでストーリーや役者についてワイワイしゃべりながら見るのが好き」というタイプなので、ワイワイしながら見ています。でも、歴史モノで、歴史的に知られていることだからといって、ストーリーに関わりそうなことを先走って話すのは御法度。「先の楽しみがなくなるじゃないの」と、娘に叱られます。
『江』のときは、主人公の江が二度目の夫秀勝との間にもうけた「完子(さだこ)」が九条家に嫁ぎ、生まれた子孫は九条節子(くじょうさだこ)(貞明皇后・昭和天皇の母)まで続いている、ということを話したら、不評でした。私としては、徳川に嫁いだあとのことは、ストーリーに絡むだろうから、江の末娘和子が後水尾天皇の后になることはしゃべっちゃならないけれど、完子のことまでドラマでは扱わないだろうと思ってしゃべったのですが、「おサダの将来はどうなるんだろう、と心配しながら見たかったのに」と、おこられた。
「清盛」でも、ストーリー展開がわかるようなことはしゃべってはいけない、と釘を刺されています。
娘は、日本史に関して、「中学2年生の社会科で、縄文時代から奈良の大仏が出来上がるところまでは学校で勉強したけれど、そのあとは不登校になったので、ぜんぜん知らない。あとのことでわかるのは、高校の『現代社会』でやったことだけ。私の日本史は、大仏さんができたら、ぽんとタイムスリップして、次は明治維新」と言っています。
ドラマの一番よい楽しみ方は。
歴史モノも最初からストーリーを楽しみ、「那須与一が、扇の的、ほんとうに射落とせるかしらとか、ドキドキしながら見る」というのが、幸福な見方なのかもしれません。まあ、たいていは射落とせるだろうと思いますし、壇ノ浦で平家が滅亡しないことはない、と思いますけど。
<つづく>
00:22 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2012年01月14日
ぽかぽか春庭「イケメンを追っかける」
2012/01/14
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(3)イケメンを追っかける
『源義経』のタッキーやら、今年の『平清盛』源頼朝役の岡田将生やら、アイドルイケメンの成長を楽しむのも、ドラマの見方のひとつ。見ているだけで「私が育てた」感を楽しめます。岡田将生、私が初めて見たのは、『天然コケッコー』の転校生役かな。これからどんなふうに伸びていくのか、楽しみです。
祇園女御役では浮いていた松田聖子、アイドルとして初めてテレビで見たときは、とてもかわいかった。でも、これほど長く芸能界でやっていける才能とは思いませんでした。「ぶりっこ」で通る年齢を過ぎたら、しぼんでいくだろうかと思っていたのです。私の芸能界予想はいつもはずれます。
「先見の明」がある人、映画でもドラマでも小説でも、見巧者はブレーク前に才能を見つけていて、ブレークしたあとには自分がその才能を見いだしてやったような喜びを感じるのだそうですが、私ときたら、まったくそういう「ブレーク前」のぴかぴかの才能を見つける能がありません。
2005年2006年に、AKB48について秋元康が語るのを聞いたときも、「あらら、モー娘。二番煎じにしか見えないなあ。これは売れない。さすがの秋元康も今度は早期撤退か」と思っているうち、あれよあれよとブレーク。2011年末には、レコード大賞まで取るなんて、5年前にはまったく予想もできませんでした。
これから大きくなるタレントを見いだす能はない春庭、藤本隆宏も、『坂の上の雲』の広瀬中佐役でブレークしてから「あら、この人、水泳キャリア、すごいね」と、気づきました。バルセロナ五輪競泳個人メドレー400m8位入賞。日本記録保持者です。
コアファンは、2000年の帝劇『エリザベート』初演時の革命家シュテファン役から注目し、追っかけているのに、私、めったに舞台は見ないから(美術館と違って、劇場の招待券はほとんど手に入らないので)、藤本隆宏、『坂の上の雲』に出るまで知りませんでした。
1月8日の放送では、『平清盛』に、まだ藤本は登場していませんでした。藤本隆宏は、清盛の侍大将伊藤忠清を演じます。
藤本隆宏が役者を志したのは、25歳。遅いスタートでした。
それ以前、6歳から25歳までは、水泳一筋でした。高校、早稲田大学在学中は一日に20km以上も泳ぐ、プール漬けの毎日。1988年ソウルオリンピック、競泳個人メドレーに出場。1992年バルセロナオリンピックでは、200m個人メドレー 8位入賞。400m個人メドレーの4分20秒07という日本記録は、1989年から11年間も破られなかった大記録でした。
競泳選手をやめた藤本は、劇団四季の入団オーディションに合格しました。チョイ役からはじめて着実に実力をつけ、ミュージカル俳優として舞台で経験を重ねてきました。連続テレビドラマは、広瀬武夫役がはじめての出演でした。
藤本隆宏、2009年の年末放映の『坂の上の雲』に広瀬武夫役で出演し、ロシア美人とのダンスシーンもすてきでした。藤本はこの広瀬役でブレークし、40歳をすぎて全国区になりました。舞台役者、ミュージカル役者としては知られていたのでしょうけれど、ミュージカルの舞台など見るお金がない私、『坂の上の雲』に出るまで、ぜんぜん知りませんでした。
「Jin -仁」、完結編(2011年4~6月放送)も毎回見ていました。藤本隆宏は、西郷吉之助役で出演。西郷役ではあまり台詞はありませんでした。でも、これまで西郷隆盛を演じてきた役者のなかで、黙って座っていても絵になり、西郷の持つ人間的な豊かさと大きさを表現できていたと思います。西郷の雰囲気を出すために、20kg体重を増やしたのだとか。次回も藤本おっかけについて。
<つづく>
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