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ぽかぽか春庭「復元模写テンペラ画受胎告知 in 目黒区美術館」

2025-03-22 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250322
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩テンペラ画(1)復元模写テンペラ画受胎告知 in 目黒区美術館

 目黒区美術館は、ワークショップ開催が目玉事業のひとつです。そのひとつとしてテンペラ画修復の講座を開いてきました。講師としてイタリアでテンペラ画修復を研究した石原靖夫を招き、修復家を育成しました。今回の展示には、講座から巣立った修復家の模写作品も展示されていました。

 テンペラ画ときいて、え、天ぷら画と思った方、正解です。語源はいっしょ。戦国時代末期、南蛮文化として天ぷらが入ってきました。天ぷらはポルトガルの粉を混ぜ合わせてつけ、揚げた食べ物。コナもんです。テンペラは粉末顔料(液体もある)を、結合剤とまぜ合わせ練って作った絵の具。コナもんです。たとえば、ラピスラズリの石を細かく砕いて粉状にして、卵黄と混ぜあわせて青い絵の具をつくる。中世において、ラピスラズリは同量の金と同じ値段だったという貴重品。油絵具と異なり、数百年たっても退色が少なく、保存状態のよいテンペラ画は、鮮やかな色を保っています。教会の奥深くの祭壇画や天井画は、絵の具を傷める紫外線からも遠いのですが、ときに絵が痛めつけられることもある。近年の被害では1960年のフィレンツェ大洪水です。地域の教会も図書館も水につかり、大きな被害をうけました。

 絵画や羊皮紙写本の修復はイタリアのみならず、世界遺産にとっても大事な仕事です。ちなみに、羊皮紙という印刷媒体のほとんどは牛皮紙なんだって。羊皮より牛皮のほうが写字に向き、羊皮紙は表紙装丁に使われるくらいで、字を写し取るのは牛皮だったとは、知りませんでした。

 シエナ大聖堂の側祭壇画であった「受胎告知」を復元模写したのが、1970年にイタリア給費留学を果たした石原靖夫です。修復技術の研究ののち、試行錯誤を繰り返しながらこの受胎告知を6年の歳月をかけて復元模写しました。 
 
 今回観覧したのは、「中世の華・黄金テンペラ画 - 石原靖夫の復元模写
チェンニーノ・チェンニーニ『絵画術の書』を巡る旅 」という、石原靖夫の仕事の集大成です。2月23日に観覧。15時-18時の講演会を聴講。

撮影OKの復元模写されたテンペラ画祭壇(本物は、左右に聖人の絵がある三連祭壇画です)


 目黒区美術館の口上
 目黒区美術館では、これまで、画材や色材をテーマにした展覧会とワークショップを継続的に開催してきました。その一つ「色の博物誌」展は、通常の展覧会では紹介されることが少ない、絵画などの表現を構成する色材とその原料、エピソードなどを取り上げ、作品と組み合わせて構成した企画です。また、古典的な技法や絵具制作の再現などをワークショップで行い、人と色材のかかわりという新たな切り口を提示してきました。
 この度の展覧会では、1992年からの「色の博物誌」展とともに開催してきたワークショップ「古典技法への旅」から、“中世の華” とも表すべき黄金背景による「テンペラ画(卵黄テンペラ)」の技法を取り上げます。
 金箔を背景に、顔料を卵黄で練って描き上げていくこの技法では、金箔に見事な装飾技法が施され、その表現は工芸的な魅力にもあふれています。この黄金背景を伴うテンペラ画は、主にイタリア14世紀から15世紀前半に発展しました。
 石原靖夫(1943ー )は、1970年にイタリアに渡り、黄金テンペラの技法を学び、6年の歳月を、ゴシック期シエナ派の画家シモーネ・マルティーニ(1284頃ー1344)の代表作《受胎告知》(1333年、ウフィツィ美術館蔵)の技法研究に費やし、ローマ滞在中に復元模写を完成させました。1978年の帰国後、すぐに東京都美術館で展示と講座が組まれるなど注目を集めました。目黒区美術館では、1992年の「色の博物誌・青―永遠なる魅力」展において、この復元模写《シモーネ・マルティーニ〈受胎告知〉》を展示し、聖母マリアのマントに使われたラピスラズリの青について取り上げました。石原靖夫と目黒区美術館の関係はこの時から始まり、2019年3月までに専門家向けの内容でワークショップを7回開催し、テンペラ画という古典技法の普及に努めてきました。
 ジョット・ディ・ボンドーネ(1265頃ー1337)に代表される当時の工房で行われていた絵画技法が記された書物が、チェンニーノ・チェンニーニ著 "Il Libro dell' Arte" です。この翻訳版、『チェンニーノ・チェンニーニ 絵画術の書』(岩波書店 1991年)(以下、『絵画術の書』)は、目黒区美術館での石原靖夫によるワークショップで重要な教本となっています。チェンニーニの手稿は1400年頃に成立されたと伝わり、現存する3つの写本をもとに訳された本書は、イタリア美術史家の辻茂の技法史研究により長い年月をかけて日本語訳として完成されたもので、シモーネ・マルティーニの《受胎告知》を復元模写した画家 石原靖夫と、イタリア語に精通する美術史家 望月一史がその翻訳に加わりました。その後、石原はこの『絵画術の書』を、画家としてさらに読み込み、絵画制作にあたっての技法研究を深化させてき ました。
 本展では、石原が1970年代に制作した復元模写《シモーネ・マルティーニ〈受胎告知〉》とその制作に関する周辺資料、そして、その後の研究をもとに今回新たに制作した「制作工程」と、その手順を収録した動画を展示します。石原が行ってきた、絵画制作の基礎から金箔の置き方、刻印、彩色、緑土を用いる肌の描写などを、『絵画術の書』 が伝える技法に触れながら紹介し、日本の美術館では展示されることが少ない「テンペラ画」の技法と表現の魅力に迫ります。」
 石原 靖夫  ISHIHARA Yasuo略歴
 1943年、京都生まれ。東京藝術大学油画科を卒業後、1970年9月、イタリア政府給費生として渡伊。ローマ国立中央修復研究所(Instituto Centrale del Restauro)でジュリアーノ・バルディ教授に師事し、シエナ派の黄金テンペラを研究する。1972年からローマの国立古典絵画館(Gallerie Nazionali di Arte Antica)の客員として、シモーネ・マルティーニ作《受胎告知》(1333年) の復元研究模写を行う。1978年に帰国し、東京都美術館、日本イタリア京都会館で同作品を公開。現在は、テンペラ画の普及に努め、卵黄テンペラ技法によりイタリアの風景をテーマに、個展を中心に発表を続けている。

テンペラ画とは
 現在日本では、「テンペラ」は、主に卵黄で顔料を練った絵具で描く技法や絵画のことをさしています。テンペラ(tempera)は、ラテン語のtemperare(かき混ぜる)から派生したイタリア語で、絵画においては結合剤、または粉末の顔料を練り合わせる、という意味を持ち、18世紀頃までは卵以外にも、膠、アラビアゴム、カゼインなどで顔料を練った水性絵具の総称として用いられていました。テンペラ画はフレスコ(壁画)と同様に古くからあり、特に中世の写本やルネサンス期にかけての板絵祭壇画などに優れた作品が多く見られます。卵黄テンペラは乾きが速く、耐久性に富み、明るく鮮やかな色を発し、また油彩や膠とは異なる接着特性があります。それゆえ金箔と卵黄との組み合わせにより、多くの装飾技法が生み出されました。

 目黒区美術館に着いたのは12時40分。13時から配布予定の講演会入場整理券めあての列がすでに伸びていました。あわてて最後尾に。配布枚数50枚というけれど、はたして13時には係員が「すみません、50名定員に達しています」と、列に並ぼうとしていた人にお断りを入れていました。13時整理券配布開始と信じてやってきた人、お気の毒に。私は整理券もらう前に観覧を始めようと思って早めに来たので、整理券ゲット。

 1階のイントロダクション展示を見て、13時半から入場開始、14時から16時予定の講演会。前半は森田恒之(国立民族学博物館名誉教授)、後半石原靖夫(テンペラ修復家・画家) という構成のはずでしたが、森田先生、話し始めたら止まらず、何度も係員が「時間オーバー」というボードを示しているのに、止まらない。石原先生の話す時間が短縮されてしまったのは残念至極。私はどちらかと言えば、イタリアで6年を費やして「受胎告知」を修復したお話を聞きたかったのです。しかたないので、図録1600円、買いました。図録も森田先生執筆のページのほうが多かったけどね。いや、森田先生の解説執筆もすばらしかったんですけれど、お話は石原先生にもっと長くうかがいたかった。

 そのかわり、石原先生が、目黒美術館ワークショップ「テンペラ画修復家養成講座」に参加したお弟子さんをひきつれて、展示室の中で修業時代のノートや修復につかう道具類の展示を示して、修行時代の苦労について語っているのを、お弟子さんでもないのに、うしろにくっついて歩き、石原先生の謦咳に接する機会を得ました。

 石原さんは、1972年からローマの国立古典絵画館(Gallerie Nazionali di Arte Antica)の客員として、シモーネ・マルティーニ作《受胎告知》(1333年) の復元研究模写を行い、6年間を費やして完成。
 ひとりの画家の生涯の仕事として、受胎告知の復元模写にたずさわったこと、その技術を惜しみなく後世に伝えるべく、修復家の養成にあたったこと、すばらしい画家人生と思います。

 2階の真ん中の展示室には、石原画伯の作品も展示されていました。イタリアの古くからの街並みを遠景からとらえた写実的な絵です。手前の草原の表現がいいな、と思いました。
を見て、石原のイタリア市街遠景の手前の草原の表現がアンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」の手前の草っぱらに似ているなと感じました。ワイエスの画材、はたしてテンペラでした。そうか、この草一本一本の微妙な表現「テンペラ画ならでは」なのか、と表現の秘密の一端にふれた思い。
 石原の描くイタリア旧都の遠景、遠い日の石原の青春の研鑽の日々が画面に感じられる絵でした。

 ちなみに、ギャラリーオークションでは石原作品は5~10万円です。(真作保証付き!)日展などの新入選の絵でも、もうちょい高値がつきそうなものなのに。日本の絵画市場では、〇〇展入選特選無審査とかの箔がつかない作品の値段というのはその程度なのだとしりました。テンペラ画修復技術習得に没頭し、修復家弟子の育成に心くだき、生涯をすごした画家。展覧会に出品をつづけ、会派有力者の弟子になって展覧会入選を果たす、という画家出世コースを歩まなかった画家の作品がどのような評価を市場で付けられるのか、理解しました。
 複製画をどれほど上手に完成しても、画家としての評価は上がらない。コピー、複製と贋作と真作。

 昨今、高知県近代美術館のハインリヒ・カンペンドンクが描いたとされる絵「少女と白鳥」について、ウォルフガング・ベルトラッキの描いた偽物であると美術館自身が発表しました。購入価格は1800万。
 ベルトラッキは、35年間のあいだに約300枚の贋作を作り、約5000万ユーロ(約80億円)以上を稼いだと言われています。裁判で判明したのはそのうちの14枚だけでした。残りの200枚は、今も真作として各地の美術館や金持ちの家に所蔵されています。裁判を経てベルトラッキはたった懲役6年の刑。刑期を終えた今は、夫よりも先に刑期を終えた妻とともに百億円以上の資産を作っており、余生は悠々スイスの豪邸暮らし。しかもベルトラッキのオリジナル新作油絵がオークションに出品され、高値で売れているのだとか。

 私は、「受胎告知」の複製画を見て、「よくぞ立派な複製画を」と感服しましたが、石原の油絵については、ベルトラッキはこの絵のコピーは描かないだろう、と感じました。そう高くは売れないだろうから。ワイエスの贋作は、たぶん描いているだろうと思います。真贋鑑定してみたら、各地美術館のワイエスの何枚かはベルトラッキ作なのかも。

 贋作者ウォルフガング・ベルトリッキは、「むろん金も欲しかったが、私の描いた作品を見て、人々が喜んでいる姿をみるのがうれしかった」と述べています。いくら「真作」と信じた人々が喜んで贋作を見ていたとしても、人をだました罪は最後の審判で裁かれるだろうと思います。と、信じていたい。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「花器のある風景 in 泉屋博古館」

2025-03-20 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250320
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩お茶室は遠い(3)花器のある風景 in 泉屋博古館

 2月28日、娘と待ち合わせて、泉屋博古館で「花器のある風景」展を観覧。 
 生けられた花や花器が描かれた絵が展示されていると思って出かけたのですが、展示室1から4まで、絵は数点。あとは山のような花器。一輪挿しも水盤も名器ぞろいの宝の山なのに、あいかわらず「これ、今買うならいくら?」という目しかなくて。

泉屋博古館の口上 
 日本における花器の歴史は、中国より寺院における荘厳の道具として伝来したのがはじまりとされます。室町時代には連歌や茶会、 生花など室内芸能がさかんになり、中国から輸入された唐物と称される書画、調度類や茶道具、文房具を座敷に並び立てる「座敷飾り」が発展します。床の間の飾りには、唐物の花生・香炉・香合・天目などが飾られました。  
 茶の湯の世界でも、清浄なる空間を演出するものとして、花器は重用されました。唐物の金属製の花器をもとに、日本でも中世以降、陶磁器や竹など様々な素材で花器が作られ、日本独自の美意識が誕生します。住友コレクションには、室町時代の茶人、松本珠報が所持したとされる《砂張舟形釣花入 銘松本船》、江戸時代の茶人、小堀遠州ゆかりの《古銅象耳花入 銘キネナリ》などの花器が伝世します。本展では、住友コレクションから花器と、花器が描かれた絵画を紹介します。
 同時開催として、 華道家・大郷理明氏よりご寄贈頂いた花器コレクションも紹介します。あわせてお楽しみください。

 第一室の正面にひときわ大きな花と花器の絵。「春花図」縦2m横2.5mくらいありました。日本画というと床の間に飾る縦長の構図がおおいですし、大作となると巻物。縦横大きい絵はあまり見たことがありません。しまうときは巻き取って箱に収納し、飾るときは上から下げているので、二間幅くらいの幅広の床か仏事の仏前荘厳のために描かれたのか。

 原在中(1750~1837)と原在明(1778?~1844)父子が、花が生けられた花器一対を描き、冷泉為泰(1736-1816 )と為章(1752-1822)父子がそれぞれに賛を描いた「春花図」。右が為泰、左が為章の賛です。
 富貴を表す牡丹の花を活けている花器は唐物で、在中は花器側面の模様を忠実に写しとっているとのこと。 

 次に目をひいたのは、「花卉文房花果図巻」。村田香谷(1831-1912 )の作。左右に長いので、途中で切ってUP.
左側

右側


 村田は江戸後期に生まれ。明治から大正まで関西南画界の重鎮として活躍しましたが、南画という様式の絵画がすたれてしまい、今ではその名を聞いて作品を思い浮かべる人のほうが少ないと思います。私も南画を見ること少なく、村田もはじめて見た名前でした。

 描かれているのは、文人たちが好み楽しんだものを集めた一巻。四季の花々や果物、文房四宝と呼ばれる筆・紙・硯・墨、さらに青銅器や陶磁器、太湖石などが描かれています。金魚鉢に泳ぐ金魚も文人が好んだものとわかりますが、赤い鉢の中に盛られた黄色い果物は何?その右のザクロ左のブドウはわかりますが、見識低い私には、黄色いのは何?その下のかぼちゃや栗、絵のうまさより味のうまさが気にかかる。

 見識低い私は、帰宅するとさっそく「今買うならいくら?」チェックを開始。ネットで「真作」「本物保証」などと書かれている村田香谷が一万円~八万円の値段であることを知りました。ネットの「真作」のほとんどは偽物であることを「なんでも鑑定団」見て知っていますから、買いません。というか、一万円あったら、絵よりも食べ物。最近高くて野菜も米も買えないので、かぼちゃのひとつも買います。近所のスーパー、キャベツ小さなひと玉450円。白菜四半分300円。昨年同季に比べ、コメは1.7倍、野菜は1.9倍の価格では、年金暮らしの老婆には、本物保証はどうでもいいから、生活保証をしてほしい。

 村田香谷、晩年は悠々の隠遁生活をおくり、傘寿の大往生。うう、四半分300円の白菜に手が出ずスーパーを出る75歳婆は、むなしくあすの夕餉を案ずるのみ。 

 ずらりと並ぶ花器の中、江戸期金工の面白い花器がありました。柴を運ぶ牛の花入れ。前足を曲げている姿、「ふう、荷物運んでつかれたよう」とぼやいているみたいな。
 横河九左衛門「柴銅牛型薄端」(大郷理明コレクション


 華道家・大郷理明氏より寄贈された現代鋳造花器や、江戸後期に出版された華道手本の本、見所がありました。

 エントランスホール以外の展示はすべて撮影禁止だったので、上記の画像は借り物です。美術館に所蔵権というものがあり、所蔵者には所蔵者の言い分があるでしょうけれど、著作権が切れていて、写真撮影による劣化の心配はない作品もすべて撮影禁止にするのは、「器が小さい」と感じてしまう心狭き観覧者。住友累代のお宝、大切ではありましょうが、ここはひとつ大きな器となってほしかった。と、お宝を値段で観覧するしか能のない極小うつわに言われても、住友お大尽には痛くもかゆくもないことを承知で言う。住友さん、器が小さい。つうか、三井も三菱も大倉も五島も、お金持ちたちの美術館のほとんどは「器がちいせえ」

<つづく>
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ぽかぽか春庭「細川家の日本陶磁展 in 永青文庫」

2025-03-18 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250318
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩お茶室は遠い(2)細川家の日本陶磁―河井寬次郎と茶道具コレクション in 永青文庫

 河井寛次郎の陶磁作品は、日本民芸館その他で見てきたので、是が非でも見ておかなくちゃということもなかったのですが、2月7日、椿山荘へでかけたついでに、永青文庫へ。

 永青文庫の口上
 熊本藩主であった細川家には、日本の陶磁作品が数多く伝えられています。特に、茶の湯を愛好した細川家では、茶壺・茶入・茶碗などの「茶陶」が残されました。熊本藩の御用窯であった八代焼(高田焼・平山焼)でも茶道具が多く作られています。八代焼は、素地と異なる色の陶土を埋め込む象嵌技法が特徴で、幕府の使者への進物などに重用されました。
 また、永青文庫の設立者である16代の細川護立(1883~1970)は、同時代の工芸作家との交流が深く、大正から昭和にかけて活躍した陶芸家・河井寬次郎(1890~1966)の支援も行いました。寬次郎は、初期に中国の古陶磁をもとにした作品で注目され、後に「民藝運動」の中心人物となり、作風が大きく変化しました。
 本展では、河井寬次郎の作品30点あまりによって作風の変遷をたどるほか、茶道具・八代焼に注目します。河井寬次郎や八代焼を紹介するのは約20年ぶりです。また特別展示として細川護熙・護光の作品を紹介します。この機会に細川家の日本陶磁コレクションの多彩な魅力をご覧ください。

1.河井寬次郎(1890〜1966)の作品を約20年ぶりに大公開。河井寬次郎(かわいかんじろう)は、明治23年(1890)島根県安来生まれ。東京高等工業学校窯業科を卒業したのち、京都市陶磁器試験場に入所し、膨大な数の釉薬の調合や焼成に没頭します。大正9年(1920)に京都五条坂の窯を譲り受け、「鐘溪窯(しょうけいよう)」と名付けました。
 寬次郎の作風は、以下の3期で大きく変化しています。
・初期(大正3~15年頃) 中国や朝鮮半島の古陶磁をモデルとする
・中期(昭和4~23年頃) 民藝運動に参画し、日常の器に「用の美」を見出す
・後期(昭和24~41年頃) 大胆な模様や色釉による造形
 寬次郎は、大正10年(1921)、東京の髙島屋呉服店で初の個展「第一回創作陶磁展観」を開催し、中国や朝鮮の陶磁を模範とした作品を発表しました。翌年刊行した『鐘溪窯第一輯』の序文で、陶磁研究者の奥田誠一(1883〜1955)は、「天才は彗星の如く突然現るるものである」と絶賛しています。細川護立は、第1回の個展に際して帝国ホテルで行われた披露の会に出席しており、寬次郎の作品を入手することで支援していたと考えられます。

2.細川家伝来の日本の茶道具を特集
細川家では、幽斎(藤孝、1534〜1610)、三斎(忠興、1563〜1645)などが茶の湯を愛好したため、多くの茶道具が残されました。特に三斎は、千利休の高弟として「利休七哲」の一人にも数えられています。細川家の茶道具には、「唐物」をはじめとする外国の茶道具も、日本で焼かれた「和物」も残されていることから、その比較を通じて日本陶磁の広がりをご覧いただきます。

3.八代焼を約20年ぶりに展示
八代焼(やつしろやき)は、熊本を代表する焼物です。江戸時代には熊本藩の御用窯となり、幕府の使者への進物などに重用されました。成形した素地が半乾きのうちに文様を刻み、そこに素地と異なる色の陶土を埋め込み、乾燥後に削ることでシャープな文様の輪郭を生み出す象嵌技法が有名です。

河井寬次郎「三彩車馭文煙草筒」1922(大正11)


河井寛次郎「紫紅鉢」1930〜31頃 


 利休の高弟だった細川家のご先祖以来、茶道具の名品を集め続けてきた大名家ですから、代々のお宝もあるし、永青文庫を設立した細川護立侯爵は民芸運動に加わってきた河井寛次郎らをサポートし、河合の作品も多数所蔵しています。
 永青文庫前理事長(元首相)細川護熙とその息子(現理事長)の陶芸作品も展示されていました。

 陶磁器のよしあしがまるでわからない春庭なので、河合の作品もただ「この形、いいね」「いい色に焼きあがっている」という程度しか感じることができないのが残念ですが、見るだけでもお茶の心を少しはつかめるかと、見てきました。見ただけではお茶の心はわからなかったみたい。いつものごとく、この河井寛次郎、買ったらいくらくらいかな、と思いながら見てまわりました。お茶には遠い。残念!

<つづく>
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ぽかぽか春庭「茶道具取り合わせ展 in 五島美術館」

2025-03-16 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250316
ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩お茶室は遠い(1)茶道具取り合わせ展 in 五島美術館

 2月11日、休日の午後、いくかどうか迷っていた五島美術館に出かけました。迷っていたのは、茶道具展だったから。どうせ私の目では茶道具の逸品が展示されていたとしても、その美がどうすばらしいのかわからんちんだからです。長年茶道具も見て歩いたはずなのに、一向に目が養われない。やはりお茶を習ったことがないからでしょう。初めてお茶の稽古に出たおり、稽古おわりに「こんな足がしびれて立てないようなことを無理してならうことない」と思ったのが、目を養えなくなったゆえんです。最初の稽古が立礼であったら、もうちょっとお茶道具も見て楽しめるようになったのかも。

 そんな節穴の目でも、いいなあと思う器に出会うこともあります。古伊賀の水差し。

 古伊賀について五島美術館の解説
 桃山時代から江戸時代にかけて、今の三重県伊賀市で焼かれたやきもの「古伊賀」。花生や水指などの茶陶(茶道具)を中心に、茶の湯において愛好されていました。大きく歪んだ形と、碧緑色の「ビードロ釉」、赤く焼きあがった「火色」、灰色のゴツゴツした器肌の「焦げ」など、窯の中で偶然に生まれる景色が魅力です。

 古伊賀水指 「銘 破袋」
 裏側に大きく破れたあとが見えるので「破袋」という銘もうなずけます。雄大な破格の美。 

 茶の湯が日本的美意識の究極の姿だと言われればその通りだと思うのですが、やはりこの先も私には侘びさびの世界からは遠いように思われます。
 農家の庭先で、一家が摘んできたヨモギやドクダミをお茶の葉にして、古びた鉄瓶で沸かした湯をそそぎ、破れ茶碗で一服を味わう。そんな家族のお茶を美味しかろうと思ってしまうと、銘のある水差しや茶碗に重要文化財の書を飾った床の間でいただくのはさぞかし苦いお茶であろうと、飲む前から足がしびれる。

  久隅守景 「納涼図屏風」

 ひょうたん実る棚の下に、妻と子が仕事を終えた夫と寄り添い、夕方の涼を楽しむひととき。一碗の白湯か蓬茶でもあれば、割れ茶碗の一杯が至福の味わいになることでしょう。

 千家をはじめ、茶の湯によって日本の美意識を確立していった人々を尊敬していますが、私にはなんといっても、この夕涼み図の一家が理想です。一杯の茶をふるまってもらえるなら、利休の二畳台目よりも、久隅の夕涼み図一家とともに飲みたい。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「メキシコへのまなざし展 in 埼玉県立近代美術館」

2025-03-15 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250316
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩あるいて探す春隣(8)メキシコへのまなざし展 in 埼玉県立近代美術館

 久しぶりのMOMAS埼玉県立近代美術館です。昔は北浦和まで自転車で来られるところに住んでいたし、都内に住むようになってからも、週一回は北浦和からバスで通うところで仕事をしたこともあって、そう遠くには感じていなかったのだけれど、今の住まいになってからは、「行けない距離じゃないけれど、出かけるのがおっくうなところ」になってしまいました。今の住まいから気軽に行ける美術館がたくさんあるので、よほど見たい企画展があるときしか訪問しない。

 今回のMOMASの企画「メキシコへのまなざし」展。
 フリーダ・カーロの伝記映画を見て、ディエゴ・リベラなどの名を知り、岡本太郎が描いた壁画がメキシコのホテル解体時に行方不明になったのが発見されて井の頭線渋谷駅コンコースに展示されたことなど、メキシコ美術について知っていることはわずかしかありませんでした。2023年7月にタカ氏といっしょに古代メキシコ展を観覧し、メキシコアート遺伝子の継承についても興味が残っていました。
 埼玉県立近代美術館の口上
 1950年代の日本では、メキシコ美術が展覧会や雑誌を通じて盛んに紹介され、多くの美術家がその鮮やかな色彩、古代文明や革命の歴史と結びついた力強い造形表現に魅了されました。とりわけ、1955年に東京国立博物館で開催された「メキシコ美術展」は、美術家たちがメキシコに目を向けるきっかけとなります。一方、埼玉県立近代美術館は1982年の開館以来、メキシコの近現代美術を収集し、メキシコ美術に焦点をあてた展覧会をたびたび開催してきました。こうした活動の背景には、埼玉県とメキシコ州との姉妹提携締結(1979年)に加えて、1955年の「メキシコ美術展」を訪れ、メキシコ美術への造詣を深めていった初代館長・本間正義の存在がありました。
 この展覧会では、1950年代にメキシコに惹かれた美術家の中から、福沢一郎、岡本太郎、利根山光人、芥川(間所)紗織、河原温の足跡をたどり、彼ら彼女らがメキシコをどのように捉えたのかを考えていきます。また当館のメキシコ美術コレクションとその形成の歩みを、学芸員としてメキシコ美術の普及に努めた本間正義の仕事とともに紹介します。作品や資料、開催された展覧会などを通じて、戦後日本がメキシコ美術に向けたまなざしを、様々な角度から検証する試みです。

 「メキシコへのまなざし」展のキャッチコピーは「あの頃、みんなメキシコに憧れた」です。利根川光人、岡本太郎など、メキシコを中心とする南米地域を訪れ、メキシコ美術に魅了された作品が展示されました。
 埼玉近代美術館開館時の初代館長を務めた本間正義(1916-2001)は、1962年、国立近代美術館員であったときと渡墨して以来、メキシコのアーティストと親交を深め、1985年に埼玉近代美術館の企画として「メキシコの美術」展を開催。
 MOMASのニュースレターを「ZOCALO(スペイン語で広場)」と名付けたのも本間だそう。 

 第1章メキシコ美術がやってきた。
 第2章美術家たちのメキシコ5人の足跡から
 第3章埼玉とメキシコ美術

第1章
 古代メキシコの遺跡に残る造形の力強さに加えて、近代メキシコでの「革命」の精神性は、それまで西欧へ顔を向けてきた日本のアーティストにとって、新しいまなざしの発見と感じられたと思います。

 のちにメキシコ芸術の泰斗となるディエゴ・リベラも、20世紀初頭にはヨーロッパ留学中で、キュビズムの影響を受けた絵を描いていました。1921年にメキシコに帰国し、新しい芸術運動をはじめたリベラの後の作品にもキュビズムの影響は残っていると、福沢一郎は評しているそうです。

ディエゴ・リベラ「スペイン風景トレド」1913



 第1章最初の展示。戦後日本美術界、1950年代にメキシコブームともいえる現象の源となった、メキシコアーティストの紹介です。
 最初のコーナーは、20世紀初頭の新聞や雑誌に載って人々を鼓舞したメキシコの版画作品がならんでいました。
 ホセ・グアダルーペ・ポサダが新聞や雑誌に載せた「エミリオ・サパタの死」は人間の姿で描かれています。マーロン・ブランドがサパタを演じた「革命児サパタ」、昔見たきりなので、アンソニー・クインしか覚えていなかった。脳内変換で、私はクインがサパタを演じたのだと思っていた。

 サパタの盟友、メキシコ革命で活躍し第33代メキシコ大統領になったF・マデラは、「骸骨フランシスコ・マデラ」として骸骨姿に描かれました。
 メキシコの「死者の日」に骸骨姿で死者がやってくる伝統は、「リメンバーミー(COCO)」で世界中の人が知るようになりました。私も、南米からの留学生に死者の日について聞いたときは、日本のお盆の魂迎えのようなものだと思い、COCOの画面に出てくるようなお祭りとは思っていなかったのです。

ホセ・グアダルーペ・ポサダ「骸骨フランシスコ・マデラ」1912


 メキシコの労働者運動は大きなうねりとなり、美術家たちは、「壁画運動」として、公共の建物、学校や役所の壁にテンペラ画を描く活動を続けました。
新聞や雑誌への版画の掲載も続いていきます。

 ホセ・クレメンテ・オロスコ「示威行動」1935


 北川民次(1894-1989)は1914年に渡米。1923年に渡墨。メキシコで美術学校在籍、児童美術学校教師などを経て以後1936年に妻子をともなって帰国するまで、メキシコ壁画運動などに共鳴しつつ制作と美術教育に携わりました。帰国後は日本の画壇主流とはことなる画風ゆえ「メキシコ派」と呼ばれました。児童美術に貢献することを望み絵本製作に携わりますが、戦争激化の影響で紙不足出版制限があり絵本出版も断念。妻の実家のある瀬戸市に疎開し、1943から1968年まで在住し、のちに東京在住期間もありましたが、91歳で没した地は瀬戸市でした。北川作品の多くは名古屋市美術館が所蔵。
 埼玉県立近代美術館は、今展に北川の版画を2点出展していますが、第2章で取り上げる5人の画家との影響関係などについては、特に述べていません。本間正義が収集対象にしていなかったゆえ所蔵品が少ないのかな、と推察。「眠るインディアン」は、画廊経営者からの寄贈作品です。

 北川民次「眠るインディアン」1961


 第2章は、戦後画壇にメキシコへの憧憬を重ねた岡本太郎、利根川光人、福沢一郎の作品がならんでいます。
 岡本太郎がメキシコを訪れたときに買い求めた民芸品、メキシコ各地で撮った写真も展示され、現在私たちが一目みて「これぞタロー」と思う色や構図が出てくるのはメキシコ訪問やシケイロスやリベロから受けた感性が大きかったのではないかと思います。
  
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ぽかぽか春庭「ファンタジーの力展 in 龍子記念館」

2025-03-13 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250313
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩あるいて探す春隣(6)ファンタジーの力展 in 龍子記念館

 大田区立龍子記念館。どの駅からも遠い住宅街の中にあり、よほど見たい展示か特別イベントがあるときじゃないと訪問しない美術館です。65歳以上無料。
 今回の展示は現代美術だからパスと思っていたのですが、現代美術館で見た高橋龍太郎のコレクションがとてもよかったので、高橋の収集の目を信じて出かけることにしました。作品の作者ではなく、コレクターに心を寄せて観覧を決めるのは、私にしては珍しいこと。

 2021年に高橋コレクションの現代美術と川端作品のコラボ展示は2021年に最初の企画があったのですが、私は高橋がどんなコレクターかも知らず、龍子記念館は遠いので、見にきませんでした。龍子記念館で高橋コレクションを展示するのは、高橋の精神科クリニックが1990年に蒲田駅の近くに開業して以来、大田区とのご縁ができたからです。

 2024年現代美術館での高橋のコレクション展「日本現代美術私観」がとても見ごたえあり、現代美術苦手の私にも高橋のコレクターセンスが心地よかった。高橋の選んだ現代美術がどんな風に日本画家川端龍子とコラボしているのかって、興味しんしん。今回の龍子記念館での、川端龍子作品と高橋コレクションの共通項は「ファンタジーの力」

 エントランス最初の龍子作品は、242.5×728という大きさに圧倒される。
「花摘雲」1940
 

 龍子が旧満州を旅した時の大地と空一杯の雲を描いたという。野の花を摘む天女の雲が浮かび、花は空へと運ばれる。龍子が中国戦線拡大に向かう世相の中で描いた連作「大陸策」の四が花摘雲です。大陸策のニ は、以前龍子記念館で見た「ジンギスカン」。ラクダの群れの中に鎧姿の源義経が座っている絵で、義経がジンギスカンに転生したという伝説を絵にしたもの。透明っぽい戦闘機に乗って香炉峰の上を飛ぶ絵「香炉峰」(大陸策三)も、義経転生ジンギスカンも、日本の大陸進出を夢見るファンタジーだけれど、大陸進出正当化という意義を含んだ「大陸策」ですが、それを取り払えば、花摘雲がいちばん毒なく現代の観客にも受け入れられる。

 第1章「旅立ち」には、「花摘雲」のほか、龍子の旅行鞄が展示されていました。第2章「そこにいるのは誰?」第3章「土と光」、風の物語。第4章「夢の領域」。
 コラボでいい組み合わせと思ったのは、第5章の「海の物語」の龍子「龍巻」と草間彌生の「海底」のコラボ。龍巻というのは、海面に立つ巨大なたつまきですが、龍子が描いたのは、龍巻の下にある海の中。イカもエイも海底に向かって下降中。海の上に立つ龍巻は、海の底にもトルネードが起こり、海中の生き物は渦巻に飲み込まれているのでしょう。草間彌生の「海底」は、車のホイールが並んでいる間を草間のおとくい、ペニス形がぎっしり埋め尽くしています。
 草間彌生「海底」「自転車と三輪車」   川端龍子「龍巻」 
 

 海の底の前に自転車と三輪車が置かれている理由はわかりませんでしたが、 勝手な解釈によると。海底で生じるエナジーが、地上に解き離れたとき、人は三輪車や自転車をこいで、自分の力で進んでいこうとする。てなことかな。

 高橋コレクションは現代美術館で見た「現代美術私観」が圧巻でしたが、今回のコラボ展示もなかなかの品ぞろえ。高橋は精神科クリニックを大田区蒲田に開業し長年診察を続けてきました。大田区とのご縁で、コレクションを大田区内の施設で公開することも多い。

 今回のコラボを企画実現したキュレーターは、木村拓哉!主任学芸員にして副館長。現代美術に合わせて龍子の作品を選出したセンス、すばらしい。展覧会を作り上げるのは、ひとりの力だけではないと思いますが、龍子記念館のキムタク、ありがとう。

<つづく>  
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ぽかぽか春庭「Curation fare Tokyo展 in 九段ハウス」

2025-03-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250311
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩あるいて探す春隣(4)Curation fare Tokyo展 in 九段ハウス

 2月10日、九段ハウスのCuration fare Tokyoを観覧。プリンスホテル紀尾井町など、他の3会場とともに行われた現代アートの展示です。
 展示ののち、お気に入りの作品は別日程で購入ができるという企画です。最初の日程では観覧するだけ、観覧で気にいった作品があったら、後期日程で購入ができる。美術館の展示とデパートやギャラリーでの販売を、ひとつの会場で順次執り行うという試みです。といっても、私に買えるはずもなく、私は観覧だけ。でも九段ハウスでの公開ですから、作品が並べられている九段ハウスをじっくりながめてきました。撮影禁止マークがついている作品以外は撮影自由なので、九段ハウスの建物を撮影することができました。九段ハウス紹介はまたのちほど。

九段ハウスの口上  
 「CURATION⇄FAIR」は、気鋭のキュレーターによる展覧会と、厳選されたギャラリー・美術商によるアートフェアの2部構成で開催し、美術品の価値を様々な角度から伝える新しい試みの美術企画です。
「本当に価値のある美術品をコレクションしたい」「どのように作品を選んだら良いかわからない」というお客様の声に寄り添い、展覧会で作品の社会的意義を読み解き、トークプログラムなど意見交換と交流の場を創出し、アートフェアで深い理解を持って作品をコレクションする機会を提供します。
 それらを通じて、日本で連綿と受け継がれ、愛されてきた美術品の質の高さを国内外に向けて発信し、次の世代へと繋いでいくことも本事業の大きな目的です。

 展示は、一軒の家が主人の好みによって飾られている、という趣で、自由な取り合わせで作品が並んでいました。エントランスを入った受付前の棚は、有元利夫と唐三彩。

 有元利夫「ドローイング」1981 唐三彩万年壺(8世紀)

 1階の部屋の壁には2001年生まれの高木大地「Rain drops」2024と、近代洋画の重鎮猪熊弦一郎「首」1952が並んで展示されています。猪熊は1902から1993まで二十世紀を生き抜いた人。二十一世紀に生まれた新進気鋭が居並ぶのも、他の美術館では見なかった配置です。

「Rain drops」2024    「首」1952
 

 2F3Fには、李朝白磁や唐津焼などの陶磁器もありつつ、私がこれまで見てこなかった若手の作品も並んでいました。
 
 見るだけの美術館と異なり、ギャラリーがそれぞれ所有する作品を売るための展示です。買える作品と言われても、お金があったら買いたいと思ったのは、香月泰男。シベリアシリーズで知られる香月の作品。洗馬は、1942年の作品。翌1973年に香月は出征し、敗戦後はシベリアのセーヤ収容所などで過酷な抑留生活を送る。戦友の多くが飢えと寒さで倒れた中、1947年ナホトカを経由して帰国。20年後、1967年『画集・シベリヤ』 を発表。 
「裸鶏」1951                      「洗馬」1942



 九段ハウス旧山口萬吉邸の展示。他の美術展示会場と異なるのは、地下空間での展示です。邸は1階の床は地上1m弱のところにあります。地下室の天井近くはガラス窓になっており、自然光がはいります。地下はボイラー室と使用人室にあてられていますが、使用人として地下に住んだとして、この窓のおかげで地下穴倉に押し込められたという感じは持たなかったのではないかという印象です。

 唯一、外光が入らず、まっくらになっていたのはボイラー室。青木陵子のビデオ作品が上映されていました。3分ごとに色や形、音が変わるインスタレーション画面が表れます。
 1階2階の展示は、現代美術が苦手なHALは、大半の作品の前はささっと通り過ぎてしまいました。しばらく見ていたのは結局、具象作品。具象以外で長く見つめたのは、ボイラー室の「I'm in the dark now」でした。3分ごとに変わっていく画面をひとまわり見ました。

 現代作品苦手な私には、「お金があったら買いたい」と思える新しい作品には出会えなかったのですが、期間中、何点かは美術愛好家や、美術はわからんが金がある、という方々に買われていったのだと思います。若手の作家が育っていきますように。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「紙の上のスタイル画 in アクセサリーミュージアム」

2025-03-09 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250309
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩あるいて探す春隣(3)紙の上のスタイル画 in アクセサリーミュージアム

 アクセサリーミュージアムは、上目黒の住宅街の中にあり、祐天寺駅西口から小道を曲がりまがりしていくのがわかりにくく、道に迷いながらたどり着く館でした。案内にでている通りに祐天寺西口から歩くとどこかの曲がり角で迷う。駅東口から東急線ゲートをくぐる道が、最適と、前回の訪問で気づきました。1月31日の訪問ではメインの通りを順調に歩き、駅近くの古本屋では新書版「フェルメール全点制覇の旅」を300円でゲット。近道しようと思わずに、メインの通りを歩けば、決して迷うような道順ではない。

 アクセサリーミュージアムは、地階が手作りアクセサリー教室とショップ。1階2階が展示室のこじんまりとした造り。今回のファッションプレート(19世紀中心のデザイン画)の展示は点数は少ないけれど、よい企画でした。

 もとより私には、冬は寒くなければよい、夏は裸でなければよい、という以上のファッション感覚はなく、今見ている「カーネーション」再放送を見るにつけ、自分がおしゃれと無縁の生活を送ってしまったことが悔やまれます。母に「身なりで人を判断してはいけない」と、厳しく言われすぎたのかとも思いますが、それは敗戦後のもののない時代に、どんな高潔な人物でも襤褸を着てすごしたときの時代のこと。同じ母に育てられても、姉と妹はおしゃれ大好き娘に育ち、服だ靴だバッグだと、伯母が定期購読していた装苑を見て喜んでいました。姉はおこずかいでセブンティーンなどのファッション雑誌を買うようになると、伯母に教わりながら自分でスカートなどをこしらえて新しいおしゃれをたのしんでいました。私は姉のお下がりをもらえば十分で、姉のミニスカートが姉より背が低い私に膝丈になるのも気にしない。

 アートとしてファッションを楽しむようになったのは、2009年に庭園美術館で開催されたポール・ポワレとマリアノ・フォルチュニィ展が開催されてからだったかと思います。以後、シャネル展(三菱一号館)ディオール展(現代美術館)ミナペルホネン展(現代美術館)高田賢三展(オペラシティアートギャラリー)など、自分が着ることなくても、見るだけでもファッションを楽しんできました。シャネルは伝記映画なども見て知っていたけれど、全く知らなかったスキャパレリを美術館で知ることができました。

 今回のアクセサリーミュージアムの展示は、ファッションプレート。19世紀を中心に20世紀初頭までの最新のスタイルを美しい彩色で印刷したもの。

 アクセサリーミュージアムの口上
 大航海時代、海外を目にした人々が、自分たちとは異なる独自の文化や服装に強い関心を持ったことから、ヨーロッパにおけるファッション史研究は始まります。17世紀以降には流行のスタイルを描いたファッションプレートが制作されるようになり、異国文化を受け入れ始めた明治時代の日本にも伝えられました。
 アクセサリーミュージアムはコスチュームジュエリーのメーカーベンダーであった田中美晴・元子夫妻のコレクションを基に設立された私立美術館であり、ファッションプレートをはじめとした資料は、戦後日本の洋装化に伴うスタイルや当時の流行研究の過程で蒐集が始められたものです。 この企画展ではコレクションの中から19世紀のファッションプレートをはじめ、アーサー・ラッカム(英)やジョルジュ・バルビエ(仏)などの挿画を「スタイル」をテーマに展示いたします

 18世紀までの西欧社会では、おしゃれを楽しむのは貴族社会でした。しかし、産業革命後のブルジョア社会が成立した19世紀、ファッションは大きく変化しました。近代化が進むにつれ、ファッションの流通方法も変化していきます。富裕層をターゲットにしていた婦人雑誌の購読層が、中流階級~一般階級へと広がり、ファッションの消費ターゲットもさまざまな階層を対象とするようになっていきました。

 富裕層相手の手彩色でのファッション画は、印刷技術の機械化により大量生産が可能になり、ファッションプレートは機械彩色へと変わりました。さらに時代が進むと写真印刷が普及し、ファッションプレートは徐々に衰退。20世紀のファッション雑誌は写真が中心になりました。

 つまり、ファッションプレートと呼ばれるデザイン画は、18世紀後半から19世紀にかけて最盛期を迎えており、今回の展示でも、19世紀20世紀初頭のもので構成されています。

雑誌Journal Gens du Monde 1834 雑誌Petit Courrier Des Dame1836 7月   
  

雑誌 Le follet 1836 7月    雑誌Petit  Courrier Des Dame1836 5月
 

雑誌Journal dens du Modes1838


雑誌Le felle 1843 5月        Le Monitear de la Mode 1864
 

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1874

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1875
    
アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1875  


アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1875
 
アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1878  1878  
  

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1877  1881
 

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1881 1881
  

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」 1884   1884
  
アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1884
  

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1886   1886
 
 


アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1888 1888
  

アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1889   1889
   
アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1890   1891
    
アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1892
 
アナイス・トゥドゥーズ「La Mode Illastree」1894
 

 アデル=アナイス・コラン・トゥードゥーズ(Adèle-Anaïs Colin Toudouze、1822 - 1899)は、姉エロイーズとともに父の画家アレクサンドル=マリー・コランに絵の手ほどきを受けました。1845年に建築家、水彩画家、版画家のガブリエル・トゥードゥーズ(Gabriel Toudouze: 1811-1854)と結婚しましたが、3人の子供を残し夫は1854年に亡くなりました。アデルアナイスは、3人の子供を育てるために、ファッション雑誌や書籍の挿絵を描く仕事を続け、数々のファッションプレートを描きました。

 アデル・アナイスの3人の子供は母の訓育を受け、息子ギュスターヴ・トゥードゥーズ(Gustave Toudouze: 1847-1904)は文学者になり、もう一人の息子、エドゥアール・トゥードゥーズ(1848-1907)は画家になりました。娘のイザベル・コラン(Isabelle Colin)は、母と同じファッションプレート画家となり、アデル・アナイスは、32歳で未亡人となったあとは、仕事を持つシングルマザーとして一生をまっとうしました。

 女性が絵を描く仕事で生き抜く画材として、植物画またはファッションプレート以外には少なく、アデル・アナイスはファッションプレートのイラストの仕事により3人の子を育てあげたのです。父アレクサンドル=マリー・コランは、ロマン主義時代の画家として、友人ドラクロアほどの名声を得ることはありませんでした。私はドラクロアは子供のころから知っていました。生涯独身を貫いたドラクロアは、遠い日本の美術教科書にも歴史の本にも登場する大画家。フランス紙幣に「民衆を導く自由の女神」の絵と自画像を残しました。一方、コランというと、日本では、黒田清輝師匠のラファエル・コラン以外には知られていません。子も孫もそれなりに絵で生活できるように成長したコランと、紙幣に肖像を残すドラクロアと、どっちが満足のいく生涯だったのかなんて、大きなお世話でしょうが、私は、花咲く庭で絵を描いて遊ぶ孫たちに、色遣いの手ほどきなどしながら過ごすコラン爺さんを勝手に想像しています。

 アーサー・ラッカム「水の妖精ウンディーネ」1909初版


ジョルジュ・バルビア「カサノバシリーズ」1918
  
ジョルジュ・バルビア「ファッション誌『ガゼット・デュ・ボン・トン」1918
 

雑誌 La guirLand 1920   La guirLand 1919~1920 
 

La pafum de la Rose 1919~1920

 ファッションプレートを年代順に眺めていくと、衣装の変遷が年ごとに変化し、流行が大きなうねりとなっていくことがよくわかります。裾を引きずって歩くドレス。女性が日傘片手に外歩きを楽しむようになり、猟銃を手にする姿も社会に進出してくると、ひきずるスカートでは行動が制約されてしまいます。女性の足首が見えたら「はしたない」とヒンシュクを買った時代から、足首からふくらはぎまで見せるようになっていきます。女性解放運動とも連動した時代だったと思います。第1次大戦で女性の社会進出が進む時代とココ・シャネルのスーツがぴったり合ったように。
 20世紀1960年代、ひざもすねも堂々とお披露目し女性たちが生き生きと闊歩するようになるまで100年のファッションの歩み。

 アデル・アナイス・コラン・トゥードゥーズというイラスト画家を初めて知り、紙の上に表現されたファッションの歴史、楽しく観覧できました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「動物の文様 in 文化服飾博物館」

2025-03-08 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250309
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩歩いて探す春隣(3)動物の文様 in 文化服飾博物館

 オペラシティギャラリー観覧のあと、初台駅から服飾博物館前までバスがあると思ったのに、4時台5時台はバスの運行なし。徒歩で15分かかって歩きました。地図上では徒歩5~10分なんですけれど、なんせ足指骨折後の年寄りの足。

 2月14日、娘と文化服飾博物館の「あつまれ動物の模様」を観覧。
 動物模様は、原始時代から人々の身のまわりにとりいれられていました。ラスコー壁画などの見事な牛や鹿!。
 動物の力、霊力を身に備える、そのパワーで身を守るという概念は、衣服、装飾愚、家具など様々に表現されてきました。

 今回の観覧で、日本では模様として見ることが稀な山椒魚の模様とか、日本には生息していないアンテロープなど、世界の動物模様を見ることができました。装身具、衣装に動物文様がさまざまに取り入れられています。

文化服飾博物館の口上
 鳥や獣などの動物をモチーフとした模様を衣服に取り入れることは、さまざまな地域で見られます。それらの動物の模様からは、それぞれの民族がどのような動物を目にし、どのように暮らしを営んでいるのかが垣間見えます。また、空を自由に飛ぶ鳥、牙を持つ勇猛な獣など、人にはない優れた能力が備わる動物に畏敬の念や神秘性を感じ、自らの願いを託して模様に取り入れることもあります。さらに、人間の願望や創造力が現実を超越した空想の動物を作り出し、縁起の良い存在として服の上に表すこともあります。本展では、世界各地の衣服に表される動物の模様を集め、それらの持つ意味を探り、遠ざかりつつある人間と動物の本来あるべき関係を改めて考えます。

 2階展示室の最初に目に入るのは、中国皇帝の霊力を示す龍の文様。五本爪の龍は、皇帝だけが身に着けることができた衣服です。日本では水神信仰となり、祭の意匠には欠かせず、寺の天井画にも描かれてきました。世界にもそれぞれの地に生息する動物が文様に取り入れられ、布や衣服に表現されてきました。

モロッコの護符「山椒魚」20世紀中頃  掛布コートジボワール2011
                   アンテロ―プ サイチョウ 魚
       

イギリス ウェディングドレス「蝶」1902 娘から花嫁への変化の象徴として、毛虫から華麗な蝶へと変身する蝶が結婚の象徴に使われました。
          
 日本のめでたい模様として多い図象は、鶴と亀。長寿の象徴であり、さまざまな場面につかわれました。

鶴の打掛1926年       亀の袱紗19世紀前半
   

 2階ロビーに、「スカジャン」の展示と制作風景のビデオ録画が上映されていました。横須賀の米兵相手にジャンパーを売る際に、希望を取り入れてミシン刺繍をほどこしたのが始まり。ミシン刺繍は特殊な技術が必要で、横振りミシンで虎や龍、鷲などの模様を縫いこんでいきます。
 その第一人者の山上大輔さんが作業しているようすのビデオ、スカジャンの横振りミシン刺繍を初めて知りました。様々な色糸を組み合わせて、勇猛でいながらどこか愛嬌もある虎ですが、ネットで工房の値段、一着20~30万円を見て、スカジャン着用は無理とあきらめました。文化服飾博物館でスカジャンの横振りミシン刺繍を知ることができてよかったです。見るだけでも満足。

 

 文化服飾学園敷地内のカフェが、前にきたときとはことなり、コメダ珈琲になっていました。名古屋から進出してきて、東京でもすごい勢いで店舗をふやしていますが、今まで入ったことがなかった。娘と初めての名古屋カフェ体験。私はドリア、娘は味噌カツサンドを注文。娘はカツサンドを食べたあと、デニッシュパンの上にホイップクリームが乗っているシノワールというデザートを頼むつもりだったのですが、サンドイッチだけでおなかいっぱいになったので、次の機会に。
 次は500~700円のモーニングカフェ(ポタージュ含む)を頼むと、トースト、卵(orあんこ)、ジャム(orバター)がついてくる、というセットを頼んでみます。名古屋カフェ文化おそるべし。

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「ブラックジャック展 in そごう美術館」

2025-03-06 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250306
ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩2025歩いて探す春隣(1)ブラックジャック展 in そごう美術館

 2月12日、娘とそごう美術館でブラックジャック展を観覧。このところ、NHKアーカイブ放映で、手塚治虫の「わたしの自叙伝(1979)」を見たり、「新しい地図」の3人が出演するEテレの子供番組で稲垣吾郎が「絵本昔話」として手塚治虫の一生を紹介したり、私の日常にやたらに手塚治虫の名があふれ、テレビ再放送で「火の鳥」を見ています。
 手塚治虫、1928生まれ、1989年胃がんのため60歳で死去。最後の言葉は「仕事をさせてくれ」
 
手塚治虫仕事机


 昔、漫画雑誌でとびとびに読んだ「キリヒト讃歌」や「アドルフに告ぐ」など、全部は読んでいない作も読み返すべきですね。
 今回のブラックジャック展は、1973年の少年チャンピオン連載開始から50年になったのを記念しての展覧会。
 娘は小学生のとき、文庫サイズブラックジャックを全巻読んだことがあると言います。「学校の図書館だったか、学童クラブだか覚えていないけれど、全巻そろっていた」と。私は、全242話 のごく一部を読んだだけにすぎませんが、ストーリーの概略は知っています。

        

 そごう美術館、エントランスの中とプロローグの部屋は撮影OKですが、あとは撮影禁止。展示は第1話から順に並ぶのではなく、テーマ別に「動物や宇宙人など人間以外の患者」とか「手塚作品のキャラクターが患者になるシリーズ」などをひとつのコーナーにしています。

 展示は、原画が2ページ分、原画の上下にパネルでストーリーが紹介される、という構成で、242話のうち200話が紹介されていました。残りの42話は、時代が変わったので、コンプラ的に取り上げにくいストーリーだったのかな。手塚漫画の黒人描写などに類型的差別的な表現があることは批判されていますが、手塚自身は人間のみならず生きとし生けるものひいては宇宙人すらも同じ心で分かり合える存在として描いてきたこと、展示された500点の資料からも受け止めることができました。


そごう美術館の口上
 世紀前の1973年に登場したマンガ『ブラック・ジャック』は、現在第一線で活躍する医療従事者の多くに影響を与えたといわれ、作品に込められたテーマやメッセージは、今なお多くの人々に深い感銘を与えています。
 本展では、500点以上の原稿や200以上のエピソードなどから手塚治虫の情熱と執念を大解剖。『ブラック・ジャック』を深くまで知る人、初めて知る世代など、すべての人々に向けて、『ブラック・ジャック』の魅力を余すところなくお楽しみいただける『ブラック・ジャック』過去最大規模の展覧会です。


 私と娘の大誤算。何度も訪れているそごう美術館のひろさからみて、一回り観覧するのに午後8時閉店の2時間前に入場すれば会場一巡できるだろうとふんでだのですが、なにせ手塚治虫の生原稿や資料が500点もぎっしり並んでいるのです。手塚プロダクションでは、アシスタントたちの線の描き方などが気に入らないと手塚自身が全部ひとりでやり直した、という話は漫画界にうとい私でも知っていましたから、一枚一枚の生原稿、あだやおろそかには見ることができません。手書きの文字の上に活字をはりつけた吹きだしの部分でも、消し残しの手書き文字がよめるところは、ああ、これが手塚の文字なのかなどと感慨にふけりながらすすんでいったので、最後の一室は時間切れ。係員に「出口のシャッターを閉めますからお急ぎください」と追い立てられながら駆け足になりました。娘と「3時間とっておくべきだったね」と悔やみました。


 第1室 ブラックジャック(BJ)とキャストたち
 第2室 BJ曼荼羅  
 第3室 BJ蘇生
 

 第2室には、手塚治虫の医師免許状や医学専門校時代の医学ノートが展示されていました。確かな医学知識に裏打ちされてブラックなど医療物が執筆されたこと、医学生のころのノートの緻密な図などを見てもわかりました。
 「陽だまりの樹」で描かれた手塚治虫の曽祖父手塚良仙の肖像画など、貴重な資料を見ることができました。

 漫画ファン、手塚ファンなら朝から晩までひたっていたいお宝を目の前にしていながら、最後は駆け足で出なければならなくなったのは無念残念。

 第1作目、BJ登場のシーンも原画が展示されています。

 第2室には、手塚の娘るみ子と息子真のインタビュー映像もあり、虫プロ倒産後もおおらかな母のもとで、それほど不幸な思いをせずに育ったと語っていました。
 手塚治虫は勤労動員で工場労働に従事した世代ですが、大阪で空襲に遭い、多くの友を失いました。黒焦げの死体の中で生き延び、戦争を憎み平和を愛する姿勢を60歳の一期まで持ち続けました。ブラックジャックも、生き物全部の命を尊ぶ心があふれていて、全巻読んでいない私も、全部読もうと思いました。


 死の床で「仕事をさせろ。アイデアは売るほどあるんだ」と言っていたという手塚。60歳での死は、ほんとうに残念です。漫画の神様が神様と呼ばれる理由もよくわかりました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「パソコンスマホシルバー講習会」

2025-03-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250304
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記春よ来い(2)パソコンスマホシルバー講習会

 区の高齢者スマホ講座に申し込みをして、住区センターで「スマホ写真をパソコンに取り込む方法」を習いました。
 インターネットで調べて、自分でつないでみたのですが、どうしてもうまくいかず、ちゃんと習おうと思ってシルバーセンターの講習会に応募したのです。午前中2時間ずつ2日間の講習です。

 初日、2本持って行ったUSBケーブルのうち、サブ講師がこちらでしょう、というほうのケーブルをつないだのですが、スマホの写真はパソコンに反映されません。サムネイルの小さな写真は出ましたが、肝心の「スマホ写真をパソコンUSBにとりこむ」ということは2時間かかってもできませんでした。

 講習の帰りに駅前のドコモに立ち寄りました。昨年末にスマホ機種をとりかえたのですが、カメラの使い方などは「あとの使用法は有料のスマホ講習会に申し込みをしてください」ということでおわり。有料でもいいから教わりたいと立ち寄ったのです。しかし、当日はもう予約いっぱいでだめ。それでも食い下がって、このスマホカメラの何が悪いのかと尋ねたら、その教室のパソコンが古くて、スマホと同期しないのでしょう、と、パソコンのせいにして終わり。

 2日目に「パソコンと同期していないとドコモの人に言われた」と訴え、自分のケーブルではなく、2日目欠席した人の分のケーブルを借りることにしました。1日目は自前のケーブルのうち、サブ講師の先生が「こちらでしょう」というケーブルを使ったのですが、借り受けたケーブルでつなぐと何事もなくつながりました。最初から借りればよかったのです。ケーブルにはデータ転送用と充電用がある。私が持っていったケーブルは、2本とも充電用でした。

 写真が取り込めたので、講師の説明に従って、画像加工を学んでいきました。背景を消す方法、色味や明るさを変える方法など。
 最後に、取り込んだ写真の中から好きなものを選んでミニアルバムを作成しました。先生からの注意。「パソコンに取り込むのは20枚くらいにしてください、最後に保存するとき、枚数が多いと時間がかかってしまいます」
 私は取り込みを途中で止める方法を知らず、800枚くらい一度に取り込んでしまいました。

 アルバム作業を終えて、USBに保存して皆は終了しました。私だけそれからえんえん保存に時間がかかり、午後の講習会が始まる直前になるまで教室に残るしまつ。なんとか午後講習の前に退散しました。

 画像加工ができるようになったけれど、数日後、家で教わったことを復習してみたのですが、もうわすれていて、「不必要部分の消去」をなんとかテキスト読み返してやってみました。


 数年前に撮影した「レストランの暖炉前」の写真。カーディガンがふわっと広がるデザインで、腰回りがやけに太く見えるので気にいらなかったのですが、カーディガン裾周りを少し減らして、まあそれなりに。上半身もともと太いのをほっそりみせる加工方法は、まだ習っていない。たぶん、もとの太さをほっそりさせる加工もあると思います。今のスマホでは、目をぱっちりにしたりさまざまな加工もお手のものとか。


 区の係員が「同じ講座を年に何回か実施するので、何度でも受講してください」と、最後のあいさつをなさっていました。何度か同じことを習えば、ひとりでもいろいろとできるようになるかも。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「霧の中 in 椿山荘」

2025-03-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250302
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記春よこい(3)霧の中 in 椿山荘

 2月7日の毎日芸術賞授賞式を観覧した後、娘が「椿山荘の雲海」を見たいというので、お庭散歩。
 私は、授賞式前に開場までの時間を利用して三重塔を見ていたのですが、娘は「重要文化財より雲海」というので、ミスト発生まであと5分という時間、庭をめぐりながら待ちました。ミストは30分おきに発生します。


 結婚式場前の池のなかに、ミストの噴出口が並んでいます。時間になるとモクモクとミストが噴き出してきて、池の面は一面、雲海の景色になる。幻想的な雰囲気になり、娘と私は交代で「雲海と私」のスナップ撮影会。雲海の中の水車、雲海に浮かぶ三重塔など、フォトスポットはあちこちにあったのですが、雲海三重塔には行きつけませんでした。ミスト噴出の時間は3分間ほどで、ミスト出現から5分後にはまた普段の庭園に戻ったのですが、最後の数十秒は、池から溢れて流れるミストに包まれて、ホワイトアウト状態。あっという間にホワイトアウトは終わりましたが、山中などでまったく周囲が見えなくなる状態におかれたら、さぞ恐ろしかろうと理解できました。数十秒のホワイトアウトは、楽しかったです。


 椿山荘ディナーを食べるのにはふところがさみしく、護国寺までバスに乗り、護国寺ジョナサンで晩御飯を食べて帰りました。帰りの地下鉄、座りたいので、娘の座った車両の隣まで移動したら、運よく席が空いていて座れました。うとうととホワイトアウト。娘と別々の車両になったら、見事に下車駅をのりすごし、次の駅まで睡眠タイム。いつものことだけど。
 娘が「起きてください」と電話をくれました。娘は、下車駅で「母が降りてこないので少し待っていたけれど、電車が発車してしまったから、そのまま乗り換え電車に行った。一人で座っているときに寝ちゃだめでしょ」と、叱られました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「毎日芸術賞授賞式 in 椿山荘」

2025-03-01 00:00:01 | エッセイ、コラム

 
20250302
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記春よこい(1)毎日芸術賞授賞式 in 椿山荘

 2月7日に目白椿山荘へ出かけました。第66回(2024年度)毎日芸術賞の受賞式を観覧。今回の毎日芸術賞授賞式、毎度のことながら、娘の懸賞応募当選のイベントです。娘の懸賞応募マイブームは衰えず続いています。

 ホテル椿山荘は、娘が「ホテルのケーキマイブーム」だったころ利用したことがありますが、娘は近年訪れておらず「20年ぶりくらいかも」。私は永青文庫観覧のおりに、神田川側の椿山荘出入り口冠木門から庭を通り抜けて正面玄関へ、という私の「秘密の散歩コース」を楽しんできました。しかしコロナ以後神田川沿いの出入り口が封鎖されてしまい、通り抜けができなくなってしまいました。よって、私にも久しぶりの椿山荘です。
 椿山荘は明治の元勲山縣有朋の自邸でした。庭も風情あり、結婚式の写真に映えます。

 毎日芸術賞2024年度の受賞者。市村正親(俳優)ミュージカル「スウィーニー・トッド」「モーツァルト!」での演技。奥泉光(作家)小説「虚史のリズム」(集英社)▽慶徳紀子(書家)「『間』慶徳紀子書展」(東京・セイコーハウスホール)▽小島ゆかり(歌人)歌集「はるかなる虹」(短歌研究社)▽渡辺順生(古楽鍵盤楽器奏者)アルバム「フローベルガー&ルイ・クープラン:チェンバロ精華集」、J.S.バッハ:トッカータ全7曲のチェンバロ演奏会(東京・今井館聖書講堂)
特別賞:野沢雅子(声優)テレビアニメ「ドラゴンボールDAIMA」(フジテレビ系)での主人公・孫悟空の声など長年の功績
ユニクロ賞(40歳未満を対象):山中瑶子(映画監督)映画「ナミビアの砂漠」

 古楽器奏者渡辺順生三書家の慶徳紀子さんのお名前は知りませんでしたが、市村正親さんや奥泉光さん小島ゆかりさん野沢雅子さんは、その長年の活躍でお名前に親しんできました。

 山中瑤子さん。『ナミビアの砂漠』は、2024年9月6日に公開された日本映画。第77回カンヌ国際映画祭の監督週間で、国際映画批評家連盟賞を27歳で受賞しました。本作が本格的な長編第1作。主演は河合優実。河合優実も好きですし、若い女性の活躍、うれしいです。授賞者写真のいちばん右端。

 受賞者のうち市村正親さんは、2月7日は日生劇場の公演中ということで、ビデオ出演。代理でホリプロ社長が出席していました。(受賞者写真の一番左端)
 ホリプロ社長の隣の受賞者が、文学部門の奥泉光ん。『虚史のリズム』(集英社)は、原稿用紙2300枚、本も1000ページ越えの大作。自作を歴史小説であり恋愛小説であり、ミステリーでもある、と紹介し、選考委員の先生たち、読むのにたいへんな思いをさせてしまいました、とスピーチ。
 野沢雅子は、現在88歳。183歳まで声優を続けますとスピーチしました。とても元気いきいきしていて、さすがドラゴンボールの悟空。

 受賞者onステージの野澤さんと山中さん。山中さんのピンヒール!

 山中瑤子さん。自主制作映画「あみこ」で注目され、商業映画第一作でカンヌ出品。国際映画批評家連盟賞を史上最年少の女性として受賞し、一気に監督ストリート上昇です。学生が自主映画を撮るのは五万といますが、商業映画で成功するは野球少年からメジャーリーガーになるのと同じ比率。いやもっと少ないかも。野球は実力があれば甲子園にいくこともありますが、映画はなんせ金が先立つ。 それでも、2024年9月の公開から1か月で興行収入1億円を達成し、受賞スピーチで山中さんは「ずっとアルバイト生活でしたが、ようやく監督として生活できるめどがつきました」と報告していました。スピーチの中で、ユニクロ賞について「ユニクロの新採用初任月給が30万円と聞いてびっくり」という感想を述べていました。
 アマチュア監督時代のアルバイトでは時給千円、一日8時間働いても1週間で4万円。一か月16万程度の収入です。今再放送を見ている「半分青い」の中で、主人公スズメは「無収入の助監督」と結婚して結局離婚するはめになりますが、まあ、だいたいそんなもん。

 受賞スピーチに立った山中さんは、モデルも女優もできそうなすらりとしたスタイルのよい、かわいらしい方で、今どき「美人〇〇」なんていうとすぐにコンプラアウトですが、コンプラ以前なら即座に「美人監督」なんぞと冠がついたところです。コンプライアンス、大事です。フジのさわぎをみても、あまりにもコンプラ時代に合わせなかった企業に口あんぐり。75婆はイケメン好き。女性もきれいな人にはきれい!って思う。衣装は、もしかしてナミビアの砂漠の中の河合優実みたいな、だぶだぶTシャツにホットパンツで登壇したらユニークかな、なんて想像していましたが、ゆったりめの黒パンツに細身の上着で、とてもシックでした。授賞式に合わせて奮発したんだろうな。あ、もしかしたらユニクロ製品?ユニクロからの副賞は、受賞者全員にカシミアセーターでした。たぶん、ユニクロ製品の中で一番高いやつ。


 授賞式なんていうものに参加するのははじめてでしたが、よい経験になりました。

 タカ氏がおいていった毎日新聞2月7日に、山中瑤子のインタビュー記事が出ていました。インタビュアーは柳井康治(映画プロデューサー ファーストリテイリング取締役 創業者柳井正の息子)。
 柳井は、自身がプロデュースしたパーフェクトデイズの撮影期間が16日間であったことと、ナミビアの砂漠撮影期間が15日だったことを比べ、撮影のリズムについて話し合っていました。柳井は、ナミビアの中でユニクロの紙袋が画面に出たこと、主人公カナの最初のカレがユニクロエアリズムベージュを着て登場しことに言及していました。さすが、自社製品には鋭い。私はまったく気づきませんでした。うん、ユニクロ賞をとったこと、たぶん、次の山中作品の資金は心配ないんじゃないかな。オファーはたくさんきているけれど、次は好きなように撮りたいという若い才能に期待します。



<つづく>
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ぽかぽか春庭2025年2月目次

2025-02-27 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250227
ぽかぽか春庭2025年02月目次

0201 ぽかぽか春庭一条茶飯事典>2025二十五条日記光の春(1)ワイン講釈&ビュッフェディナー
0202 2025二十五条日記光の春(2)東京大仏
0204 2025二十五条日記光の春(3)忘れ物週間

0206 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>光の春ことば集めあそび(1)春隣の御所車
0208 光の春ことば集めあそび(2)アルプスの乙女とピンクレディ
0209 光の春ことば集めあそび(3)鰯 鯖 鱗
0211 光の春ことば集めあそび(4)蒲鉾バタフライ
0213 光の春ことば集めあそび(5)つちふる

0215 ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩春よこい(1)坂本龍一音を視る 時を聴く展 in 現代美術館 
0216 2025アート散歩春よこい(2)志村ふくみ100歳記念展 in 大倉集古館
0218 2025アート散歩春よこい(3)中国陶器うわぐすりの1500 年展 in 松岡美術館
0220 2025アート散歩春よこい(4)ル・コルビジェ展 in パナソニック汐留美術館
0222 2025アート散歩春よこい(5)モネ睡蓮のとき展 in 西洋美術館
0223 2025アート散歩春よこい(6)那波多目功一展 in 郷さくら美術館
0225 2025アート散歩春よこい(7)須田悦弘展 in 松濤美術館

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ぽかぽか春庭「須田悦弘展 in 松濤美術館」

2025-02-25 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250225
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩光の春(6)須田悦弘展 in 松濤美術館

 1月31日、渋谷の松涛美術館で「須田悦弘」展を観覧。私は学芸員の建物紹介を聞くため早めに松濤についていました。娘は前回松濤を訪れたとき、建物見学ツアーに参加しており、私が「毎週金曜日に開催されていて、学芸員は交代で担当するでしょうけれど、紹介される内容はほぼ同じ」と、他の美術館の学芸員によるギャラリートークはそうであるので、つい、同じだろうと予測したのです。したがって娘は夜間開館の時間に合わせて遅れて到着し、18時半からの観覧。金曜日は渋谷区民無料の夜ですから、かなりの混雑でした。
 
 しかしながら、今回は「哲学的建築家白井晟一」というタイトルで、設計者の白井の話が中心になっており、地下2階の講堂(多目的室)での講義は、白井の設計図を示しながら、当初の設計図、しだいに変化していく設計図などの解説でした。当初は東京の区立美術館第1号を目指していたはずなのに、渋谷区の土地と予算でもめているうちに板橋区立美術館に第1号の名称は持っていかれ、東京で2番目の区立美術館です。

 もっとも、板橋は交通の便が悪い立地で、私もよほど見たい展示でなければ出向きません。松涛美術館は、ぐるっとパスが使えるので、年に1,2度は観覧に訪れます。白井晟一の建築模型も、地下2階で何度も見てきたので、設計図との比較で白井のデザインがよくわかりました。通常は閉鎖され職員の休憩室になっている地下の部屋は本当は茶室として白井が設計した、というお話もおもしろかった。特別なときに茶室として公開し、お茶もふるまわれるということです。

 たしかに、建物の真ん中、中庭を吹き抜けにして、地下2階には噴水の池を作るというのは、他の美術館には見られない独自の設計です。ライトを浴びてキラキラ光る池の面と噴水のほとばしる水は夜間開館のときでないと見られない。学芸員さんの講座に参加できてよかったです。娘は「前と違う内容なら聞きたかった」と悔しがる。「母が、学芸員さんの人は変わるだろうけれど、説明はだいたい同じと思うっていうから、ゆっくり出てきて失敗だった。おまけに渋谷でバスが渋滞して、着いたら講座が終わってた」と、残念がる。

 作者生存中だけど、撮影自由。
 撮影自由という館だと、撮影者の邪魔にならないように見てまわる気遣いや、自分が撮影するときに観覧者が画面に入り込まないようにするのが面倒なときもありますが、今回は、観覧者の撮影風景がありがたかった。観覧者がスマホを向けているので、ドア影やいすの下の作品展示に気づく、というふうで、うすぼんやりの私には、他の観覧者がいなかったら、ものかげにひっそり置かれた作品を見つけることができなかったかもしれない。

 松涛美術館の口上
 普段、道端で見かけるような草花や雑草。実は本物と見紛うほどに精巧に彫られた木彫作品です。須田悦弘(1969~)は独学で木彫の技術を磨き、 朴 ほお の木で様々な植物の彫刻を制作してきました。須田によって生み出される植物は全て実物大で、それらを思いがけない場所にさりげなく設置することで空間と作品が一体となり、独自の世界をつくりあげています。
本展は、東京都内の美術館では25年ぶりとなる須田悦弘の個展です。今回、須田の初期作品やドローイング、近年取り組んでいる古美術品の欠損部分を木彫で補う補作の作品等をご覧いただくとともに、本展のための新作も公開します。
 渋谷区立松濤美術館の建築は、「哲学の建築家」とも評される白井 晟一 せいいち (1905~1983)によるものです。閑静な住宅街に位置する石造りのユニークな外観、入口の先には楕円形の吹き抜けがあり、そこに架かるブリッジからは池と噴水を見下ろすことができます。地下2階から2階まで螺旋階段で繋がり、高い天井と湾曲した壁面をもつ展示室や、ベルベットの壁布が張られ、絨毯敷きにゆったりとしたソファが置かれた展示室など、他にはない空間が来館者を迎えます。
 ここに須田の植物を配することでどのような作品となるのか。白井建築を舞台にした須田悦弘のインスタレーション作品としてもご期待ください。

 美術館が言う白井晟一の建物と須田悦弘のコラボレーション。このふたりの取り合わせが、今までのどの作家との組み合わせよりもぴったりに思えるのは、理由があると思う。ふたりともアカデミックな建築科アカデミックな彫刻科に進学していないこと。正規の建築教育を受けていない大家では、現在生存している建築家では安藤忠雄が有名ですが、白井晟一も、日本では図案を学び、ドイツ留学先では美術史、哲学を学ぶ過程でゴシック建築を研究するという、異色の経歴。須田も彫刻は独学であり、1992年多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業 したという経歴です。1969年山梨県生まれ。多磨美卒業後はグラフィックデザイナーとして 企業に勤務するが、ほどなく退職。在学中に授業課題として制作した木彫作品「するめ」で目覚めた「木を彫る」道を極めていきます。


 卒業後は、イラストレーターとして、商業美術をたんとうしました。十緑茶のパッケージ薬草や果物、キリン生シードルの王林など、リアルな花や果物をえがきました。 


 最初の個展は1993年の「銀座雑草論」。銀座のパーキングメーターに停めた自作のリヤカーが展示空間でした。外側はトタンで、内側には全面に金箔を施し、1本のチチコグサモドキを展示したもので、この斬新な展示方法で注目を集めました。
 2回目の個展「東京インスタレイシヨン」は、銀座の駐車場を借りて展示されました。松涛美術館地下1階の展示空間に、この時の展示が再現されていました。ドアから入る細長い部屋。観覧者は、ひとりずつ細い空間に入り、その奥にある朴の花を見つめる。

 朴の木

 この展示のタイトルは「朴の木」となっており、ネットの作品紹介で、「朴の葉が展示してある」と書かれているサイトが散見されます。おいおい!
 植物に興味のない人、木の花を知らない人も東京には多いと思いますが、この空間で向き合っているのは「朴の花」です。せっかく須田が本物とみまごう見事な彫刻作品を作っているのですから、葉っぱと花を間違えるのはもったいないでしょ。
 と、えらそうなこと言っているのは、植物園通いで朴の花をようやく覚えた老婆の「ものを知らぬ奴らめ!」という高笑い。なに、私も朴ノ花を覚えたのは数年前です。高い朴の木、花も高いとろこにあるから、普通に散歩していたら朴ノ木の花をみすごす。私は神代植物園で朴の花を知りました。  

 
 壁に咲くアサガオも葉っぱもつるも全部木彫作品
 
 ガラスケースに重々しく展示されている作品も多かったですが、眼目は、館内のあちこちに「生えているように」おいてある植物たち。床の上やドアの陰、柱の横などに目立たぬように存在する「雑草」。観覧者がカメラを向けているから、気づいたようなものの、私がひとりで館内を歩いたなら見過ごしたであろう作品たちでした。

 柱の横の木蓮


 床の上の雑草


 牧野富太郎などの植物学者でもなければ、道端の雑草をしげしげと見て歩く人は少ないでしょう。しかし、美術館という空間でアートとして展示されると、この葉っぱがアートになる。踏みつけたりしたら大ごとだ。 
 須田の作品を見たあとでは、そこらじゅうの雑草も貴重なアートとして見えてくるかもしれない。

 アサガオもどくだみの花も、超絶技巧のリアリズム木彫作品。1階ロッカーの左端一番下のロッカーのふたが外されている。入館した時はロッカーいっぱいで、あいているロッカーをさがすのに注意が向いていました。ふたの中の棒には注意が向かなかったのだけれど、退館するときにロッカーの中をのぞいたら、木の枝が一本横たわっていました。アート!


 1階エントランスホールの窓外。敷石の中に、作品の雑草がありました。図録を見て、ここに作品があることを知ったカップルが、熱心に「どれだろう」「わかんない」と、探しています。私と娘も石の上に目を這わせましたが、見つからない。カップルが「ここだ!」「あった!」とスマホを向けているので、ようやく石の中に金色の小さな雑草を見つけました。きっとどこかの庭園を歩いていて石の間に雑草を見つけても、踏みつけて通りすぎただろう。

 床の上にポンとおかれたチューリップを見て、監視員さんに「あそこ、ロープとか張っておかないと、ふんずけちゃう人も出るかも」と尋ねると、「作家さんの希望でロープなどは張らない」というお答えでした。

 ライトアップされた噴水が見える窓の前にそっと置かれたチューリップ。踏んずけてしまわなくてよかった。


 特別室ドアの陰に隠れていたどくだみの花。我が家の庭を占領してはびこっているときは、葉っぱは引っこ抜いて乾燥しお茶にする。花とつぼみはむしり取って焼酎に漬けるんだけど、木彫だと立派なアート。


 私は道端の葉っぱが虫に食われ放題になり、最後は葉脈しか残らないような天然芸術作品に感心し、いつかこれを押し葉にして額にでも入れてアート作品にしてどこぞの展覧会に出したいと思っているのだけれど、まだ実現していない。作者「虫たち」作品番号HAL49(しじゅう苦)

 娘と「敷石の中の雑草、みつけられなかったね」などと話しながら渋谷駅へ向かい、途中の蘭州拉麺店で牛肉拉麺を食べてかえりました。注文も支払いもスマホQコードで済ませる店で、私ひとりなら注文できなかったでしょう。甘蘭渋谷本店蘭州拉麺おいしかったです。

<つづく>
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