
20250322
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩テンペラ画(1)復元模写テンペラ画受胎告知 in 目黒区美術館
目黒区美術館は、ワークショップ開催が目玉事業のひとつです。そのひとつとしてテンペラ画修復の講座を開いてきました。講師としてイタリアでテンペラ画修復を研究した石原靖夫を招き、修復家を育成しました。今回の展示には、講座から巣立った修復家の模写作品も展示されていました。
テンペラ画ときいて、え、天ぷら画と思った方、正解です。語源はいっしょ。戦国時代末期、南蛮文化として天ぷらが入ってきました。天ぷらはポルトガルの粉を混ぜ合わせてつけ、揚げた食べ物。コナもんです。テンペラは粉末顔料(液体もある)を、結合剤とまぜ合わせ練って作った絵の具。コナもんです。たとえば、ラピスラズリの石を細かく砕いて粉状にして、卵黄と混ぜあわせて青い絵の具をつくる。中世において、ラピスラズリは同量の金と同じ値段だったという貴重品。油絵具と異なり、数百年たっても退色が少なく、保存状態のよいテンペラ画は、鮮やかな色を保っています。教会の奥深くの祭壇画や天井画は、絵の具を傷める紫外線からも遠いのですが、ときに絵が痛めつけられることもある。近年の被害では1960年のフィレンツェ大洪水です。地域の教会も図書館も水につかり、大きな被害をうけました。
絵画や羊皮紙写本の修復はイタリアのみならず、世界遺産にとっても大事な仕事です。ちなみに、羊皮紙という印刷媒体のほとんどは牛皮紙なんだって。羊皮より牛皮のほうが写字に向き、羊皮紙は表紙装丁に使われるくらいで、字を写し取るのは牛皮だったとは、知りませんでした。
シエナ大聖堂の側祭壇画であった「受胎告知」を復元模写したのが、1970年にイタリア給費留学を果たした石原靖夫です。修復技術の研究ののち、試行錯誤を繰り返しながらこの受胎告知を6年の歳月をかけて復元模写しました。
今回観覧したのは、「中世の華・黄金テンペラ画 - 石原靖夫の復元模写
チェンニーノ・チェンニーニ『絵画術の書』を巡る旅 」という、石原靖夫の仕事の集大成です。2月23日に観覧。15時-18時の講演会を聴講。
チェンニーノ・チェンニーニ『絵画術の書』を巡る旅 」という、石原靖夫の仕事の集大成です。2月23日に観覧。15時-18時の講演会を聴講。
撮影OKの復元模写されたテンペラ画祭壇(本物は、左右に聖人の絵がある三連祭壇画です)

目黒区美術館の口上
目黒区美術館では、これまで、画材や色材をテーマにした展覧会とワークショップを継続的に開催してきました。その一つ「色の博物誌」展は、通常の展覧会では紹介されることが少ない、絵画などの表現を構成する色材とその原料、エピソードなどを取り上げ、作品と組み合わせて構成した企画です。また、古典的な技法や絵具制作の再現などをワークショップで行い、人と色材のかかわりという新たな切り口を提示してきました。
この度の展覧会では、1992年からの「色の博物誌」展とともに開催してきたワークショップ「古典技法への旅」から、“中世の華” とも表すべき黄金背景による「テンペラ画(卵黄テンペラ)」の技法を取り上げます。
金箔を背景に、顔料を卵黄で練って描き上げていくこの技法では、金箔に見事な装飾技法が施され、その表現は工芸的な魅力にもあふれています。この黄金背景を伴うテンペラ画は、主にイタリア14世紀から15世紀前半に発展しました。
石原靖夫(1943ー )は、1970年にイタリアに渡り、黄金テンペラの技法を学び、6年の歳月を、ゴシック期シエナ派の画家シモーネ・マルティーニ(1284頃ー1344)の代表作《受胎告知》(1333年、ウフィツィ美術館蔵)の技法研究に費やし、ローマ滞在中に復元模写を完成させました。1978年の帰国後、すぐに東京都美術館で展示と講座が組まれるなど注目を集めました。目黒区美術館では、1992年の「色の博物誌・青―永遠なる魅力」展において、この復元模写《シモーネ・マルティーニ〈受胎告知〉》を展示し、聖母マリアのマントに使われたラピスラズリの青について取り上げました。石原靖夫と目黒区美術館の関係はこの時から始まり、2019年3月までに専門家向けの内容でワークショップを7回開催し、テンペラ画という古典技法の普及に努めてきました。
ジョット・ディ・ボンドーネ(1265頃ー1337)に代表される当時の工房で行われていた絵画技法が記された書物が、チェンニーノ・チェンニーニ著 "Il Libro dell' Arte" です。この翻訳版、『チェンニーノ・チェンニーニ 絵画術の書』(岩波書店 1991年)(以下、『絵画術の書』)は、目黒区美術館での石原靖夫によるワークショップで重要な教本となっています。チェンニーニの手稿は1400年頃に成立されたと伝わり、現存する3つの写本をもとに訳された本書は、イタリア美術史家の辻茂の技法史研究により長い年月をかけて日本語訳として完成されたもので、シモーネ・マルティーニの《受胎告知》を復元模写した画家 石原靖夫と、イタリア語に精通する美術史家 望月一史がその翻訳に加わりました。その後、石原はこの『絵画術の書』を、画家としてさらに読み込み、絵画制作にあたっての技法研究を深化させてき ました。
本展では、石原が1970年代に制作した復元模写《シモーネ・マルティーニ〈受胎告知〉》とその制作に関する周辺資料、そして、その後の研究をもとに今回新たに制作した「制作工程」と、その手順を収録した動画を展示します。石原が行ってきた、絵画制作の基礎から金箔の置き方、刻印、彩色、緑土を用いる肌の描写などを、『絵画術の書』 が伝える技法に触れながら紹介し、日本の美術館では展示されることが少ない「テンペラ画」の技法と表現の魅力に迫ります。」
この度の展覧会では、1992年からの「色の博物誌」展とともに開催してきたワークショップ「古典技法への旅」から、“中世の華” とも表すべき黄金背景による「テンペラ画(卵黄テンペラ)」の技法を取り上げます。
金箔を背景に、顔料を卵黄で練って描き上げていくこの技法では、金箔に見事な装飾技法が施され、その表現は工芸的な魅力にもあふれています。この黄金背景を伴うテンペラ画は、主にイタリア14世紀から15世紀前半に発展しました。
石原靖夫(1943ー )は、1970年にイタリアに渡り、黄金テンペラの技法を学び、6年の歳月を、ゴシック期シエナ派の画家シモーネ・マルティーニ(1284頃ー1344)の代表作《受胎告知》(1333年、ウフィツィ美術館蔵)の技法研究に費やし、ローマ滞在中に復元模写を完成させました。1978年の帰国後、すぐに東京都美術館で展示と講座が組まれるなど注目を集めました。目黒区美術館では、1992年の「色の博物誌・青―永遠なる魅力」展において、この復元模写《シモーネ・マルティーニ〈受胎告知〉》を展示し、聖母マリアのマントに使われたラピスラズリの青について取り上げました。石原靖夫と目黒区美術館の関係はこの時から始まり、2019年3月までに専門家向けの内容でワークショップを7回開催し、テンペラ画という古典技法の普及に努めてきました。
ジョット・ディ・ボンドーネ(1265頃ー1337)に代表される当時の工房で行われていた絵画技法が記された書物が、チェンニーノ・チェンニーニ著 "Il Libro dell' Arte" です。この翻訳版、『チェンニーノ・チェンニーニ 絵画術の書』(岩波書店 1991年)(以下、『絵画術の書』)は、目黒区美術館での石原靖夫によるワークショップで重要な教本となっています。チェンニーニの手稿は1400年頃に成立されたと伝わり、現存する3つの写本をもとに訳された本書は、イタリア美術史家の辻茂の技法史研究により長い年月をかけて日本語訳として完成されたもので、シモーネ・マルティーニの《受胎告知》を復元模写した画家 石原靖夫と、イタリア語に精通する美術史家 望月一史がその翻訳に加わりました。その後、石原はこの『絵画術の書』を、画家としてさらに読み込み、絵画制作にあたっての技法研究を深化させてき ました。
本展では、石原が1970年代に制作した復元模写《シモーネ・マルティーニ〈受胎告知〉》とその制作に関する周辺資料、そして、その後の研究をもとに今回新たに制作した「制作工程」と、その手順を収録した動画を展示します。石原が行ってきた、絵画制作の基礎から金箔の置き方、刻印、彩色、緑土を用いる肌の描写などを、『絵画術の書』 が伝える技法に触れながら紹介し、日本の美術館では展示されることが少ない「テンペラ画」の技法と表現の魅力に迫ります。」
石原 靖夫 ISHIHARA Yasuo略歴
1943年、京都生まれ。東京藝術大学油画科を卒業後、1970年9月、イタリア政府給費生として渡伊。ローマ国立中央修復研究所(Instituto Centrale del Restauro)でジュリアーノ・バルディ教授に師事し、シエナ派の黄金テンペラを研究する。1972年からローマの国立古典絵画館(Gallerie Nazionali di Arte Antica)の客員として、シモーネ・マルティーニ作《受胎告知》(1333年) の復元研究模写を行う。1978年に帰国し、東京都美術館、日本イタリア京都会館で同作品を公開。現在は、テンペラ画の普及に努め、卵黄テンペラ技法によりイタリアの風景をテーマに、個展を中心に発表を続けている。
テンペラ画とは
現在日本では、「テンペラ」は、主に卵黄で顔料を練った絵具で描く技法や絵画のことをさしています。テンペラ(tempera)は、ラテン語のtemperare(かき混ぜる)から派生したイタリア語で、絵画においては結合剤、または粉末の顔料を練り合わせる、という意味を持ち、18世紀頃までは卵以外にも、膠、アラビアゴム、カゼインなどで顔料を練った水性絵具の総称として用いられていました。テンペラ画はフレスコ(壁画)と同様に古くからあり、特に中世の写本やルネサンス期にかけての板絵祭壇画などに優れた作品が多く見られます。卵黄テンペラは乾きが速く、耐久性に富み、明るく鮮やかな色を発し、また油彩や膠とは異なる接着特性があります。それゆえ金箔と卵黄との組み合わせにより、多くの装飾技法が生み出されました。
目黒区美術館に着いたのは12時40分。13時から配布予定の講演会入場整理券めあての列がすでに伸びていました。あわてて最後尾に。配布枚数50枚というけれど、はたして13時には係員が「すみません、50名定員に達しています」と、列に並ぼうとしていた人にお断りを入れていました。13時整理券配布開始と信じてやってきた人、お気の毒に。私は整理券もらう前に観覧を始めようと思って早めに来たので、整理券ゲット。
1階のイントロダクション展示を見て、13時半から入場開始、14時から16時予定の講演会。前半は森田恒之(国立民族学博物館名誉教授)、後半石原靖夫(テンペラ修復家・画家) という構成のはずでしたが、森田先生、話し始めたら止まらず、何度も係員が「時間オーバー」というボードを示しているのに、止まらない。石原先生の話す時間が短縮されてしまったのは残念至極。私はどちらかと言えば、イタリアで6年を費やして「受胎告知」を修復したお話を聞きたかったのです。しかたないので、図録1600円、買いました。図録も森田先生執筆のページのほうが多かったけどね。いや、森田先生の解説執筆もすばらしかったんですけれど、お話は石原先生にもっと長くうかがいたかった。
そのかわり、石原先生が、目黒美術館ワークショップ「テンペラ画修復家養成講座」に参加したお弟子さんをひきつれて、展示室の中で修業時代のノートや修復につかう道具類の展示を示して、修行時代の苦労について語っているのを、お弟子さんでもないのに、うしろにくっついて歩き、石原先生の謦咳に接する機会を得ました。
石原さんは、1972年からローマの国立古典絵画館(Gallerie Nazionali di Arte Antica)の客員として、シモーネ・マルティーニ作《受胎告知》(1333年) の復元研究模写を行い、6年間を費やして完成。
ひとりの画家の生涯の仕事として、受胎告知の復元模写にたずさわったこと、その技術を惜しみなく後世に伝えるべく、修復家の養成にあたったこと、すばらしい画家人生と思います。
2階の真ん中の展示室には、石原画伯の作品も展示されていました。イタリアの古くからの街並みを遠景からとらえた写実的な絵です。手前の草原の表現がいいな、と思いました。
を見て、石原のイタリア市街遠景の手前の草原の表現がアンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」の手前の草っぱらに似ているなと感じました。ワイエスの画材、はたしてテンペラでした。そうか、この草一本一本の微妙な表現「テンペラ画ならでは」なのか、と表現の秘密の一端にふれた思い。
石原の描くイタリア旧都の遠景、遠い日の石原の青春の研鑽の日々が画面に感じられる絵でした。
ちなみに、ギャラリーオークションでは石原作品は5~10万円です。(真作保証付き!)日展などの新入選の絵でも、もうちょい高値がつきそうなものなのに。日本の絵画市場では、〇〇展入選特選無審査とかの箔がつかない作品の値段というのはその程度なのだとしりました。テンペラ画修復技術習得に没頭し、修復家弟子の育成に心くだき、生涯をすごした画家。展覧会に出品をつづけ、会派有力者の弟子になって展覧会入選を果たす、という画家出世コースを歩まなかった画家の作品がどのような評価を市場で付けられるのか、理解しました。
複製画をどれほど上手に完成しても、画家としての評価は上がらない。コピー、複製と贋作と真作。
昨今、高知県近代美術館のハインリヒ・カンペンドンクが描いたとされる絵「少女と白鳥」について、ウォルフガング・ベルトラッキの描いた偽物であると美術館自身が発表しました。購入価格は1800万。
ベルトラッキは、35年間のあいだに約300枚の贋作を作り、約5000万ユーロ(約80億円)以上を稼いだと言われています。裁判で判明したのはそのうちの14枚だけでした。残りの200枚は、今も真作として各地の美術館や金持ちの家に所蔵されています。裁判を経てベルトラッキはたった懲役6年の刑。刑期を終えた今は、夫よりも先に刑期を終えた妻とともに百億円以上の資産を作っており、余生は悠々スイスの豪邸暮らし。しかもベルトラッキのオリジナル新作油絵がオークションに出品され、高値で売れているのだとか。
私は、「受胎告知」の複製画を見て、「よくぞ立派な複製画を」と感服しましたが、石原の油絵については、ベルトラッキはこの絵のコピーは描かないだろう、と感じました。そう高くは売れないだろうから。ワイエスの贋作は、たぶん描いているだろうと思います。真贋鑑定してみたら、各地美術館のワイエスの何枚かはベルトラッキ作なのかも。
贋作者ウォルフガング・ベルトリッキは、「むろん金も欲しかったが、私の描いた作品を見て、人々が喜んでいる姿をみるのがうれしかった」と述べています。いくら「真作」と信じた人々が喜んで贋作を見ていたとしても、人をだました罪は最後の審判で裁かれるだろうと思います。と、信じていたい。
<つづく>