2011/05/18
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(22)ナイロビからキスム経由カプサベットへ
去年の6月に、1979~1980年にケニアから出した手紙の書き写しを行いました。
1979年7月27日の成田出発から、8月13日に従妹ミチコの赴任地に行くための電車の切符を買いにいくところまで書きました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/201006A
今回はその続きです。1979年8月14日から。
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1979年8月18日発行アフリカ通信7号その1
8月14日の夜行でミチコといっしょにキスムへ8月15日の朝にキスム駅につきました。ミチコが協力隊の人に渡す書類をあずかっていたので、キスム市内の金丸隊員の家に行きました。ミチコはケニア人の感覚になっているので、歩いてすぐだなんて言うので20kgのリュックサックかついでついていったけど、いけどもいけども着きません。ついに40分重い荷をしょってあるいたのでした。
金丸さんの家にはY.W,C,Aでちょっと立ち話をしたことのあるワタナベ隊員がいました。ちょうど朝ごはんをたべるころだったのですが、ミチコは遠慮して「もう食べてきました」と言うのです。ミチコが手洗いに行っているとき、おくさんが「本当はまだ食べてないんでしょう」っていうから、「ええ」といいました。何も遊びに来たんじゃなし、書類届けて40分も歩いたのだから朝めしくらい食べてもいいと思うのです。それで、ベーコンエッグと紅茶とヨーグルトとオレンジをもらいました。
キスム市内はモイ大統領が来ているとかでハタや電球でハデハデしくかざってあります。大統領の宿舎の前に一目みようという人々が待っているので私も少しまってみたのですが、ケニア人の感覚でもうすぐ大統領がでてくるというのは、夕方まで待つことかも知れないと思ってやめにしました。
駅にもどって帰りの切符を予約してからマーケットまで行くことにしました。マーケット前からカプサベット行きのバスが出ているのです。バスといっても「マタツ」というワゴン車を改造した小型乗り合いバスです。マーケットまで、また30分歩くというので私がタクシー代出すからといってタクシーに乗りました。駅前でよろけてひざこぞうすりむくし、ジーパンはやぶけるし、とてもあと30分歩く気分になれなかったのです。タクシー代は7シル200円くらいなもんです。マーケットでミチコはパンとかバナナとか買いものをしました。マタツにのって二時間くらいでカプサベットにつきました。
カプサベットは町とはいっても郵便局と小さい病院と市場がチョコちょこっと並んでいるところです。山奥の田舎と変わりありません。木や緑が多く、小鳥がさえずっています。キスムからはヴィクトリア湖がみえ、朝焼け風景がとても美しかったのですが、重い荷物のため風景を 味わう余裕がありませんでした。
ミチコがおひるを作っている間にせんたくをしました。一年間、独りで暮らして、料理もなかなかうまくできるようになっているようです。おひるはパンとジャガ芋、肉、にんじんの醤油煮。夕食はカレーと味噌汁。昆布、椎茸の煮つけ。朝は肉をショウガ醤油につけておいてからあげにして食べました。
(ケニア・カプサベットの)ミチコの部屋は、みな8畳くらいで、4つあります。台所も広いし、いい家です。ここは電気、ガス、水道がそろっているけれど、何も無いところに住んでいる隊員が多いそうです。ミチコは病気がなおったばっかりのころは、雑用夫をやとったのだそうですが、物を盗むのでクビにしたそうです。
(注:ミチコはケニアに着任して最初の研修地で、地元の人が差し出した水を飲んで肝炎にかかり一ヶ月入院していた)
3時頃から夕立がありました。黒い雲がみえて、ぴかぴか雷が光り出しそのうち雨がふってきました。毎日夕立がある季節だそうです。
教頭先生の息子と娘というこどもがドアのところでモジモジしていたのですが、例によって破れ服にハダシというケニア流子供スタイルなので、まさか教頭の子どもと思わずにいたら、お客が見えたのであいさつに来たんだそうです。
<つづく>
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2011年05月20日
ぽかぽか春庭「ナイロビでスリにあう」
2011/05/20
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(23)ナイロビでスリにあう
1979年8月18日発行アフリカ通信7号その2
今まであまり見慣れない物は買わずにいたので、食べた果物もバナナとパパイヤとオレンジくらいでしたが、ミチコがいろんなくだものを買ってきてくれました。アボガドはわさび醤油でさしみみたいに食べたら、とてもおいしかった。パッションフルーツというのとアップルパパイヤというのとミチコも名前を知らない中がピンク色したくだものなどいろいろ食べました。名前や食べ方がわかったので、こんどは自分で買ってみようと思います。
8月16日のおひるは私が残っていた玉ねぎと人参と卵でヤサイイタメをつくってみましたが、例によってぐちゃぐちゃしたヤサイイタメになりました。二時頃ミチコの家を出て学校の事務所やら水道の事務所に寄って、いろんな用をすますのを待って三時にカプサベットからまたマタツにのって、キスムにむかいました。
バス停にくると、焼きとうもろこしやバナナ売りが窓のそばへ走ってきます。うしろの乗り合い席はどんどん混んできて、生きたニワトリをかかえたおばあさんだの、混んでる中でゆうぜんと編み物をするおっ母さんだの、ぎゅうぎゅうずめで足も伸ばせません。かんしんなことには年寄りは必ずすわり、歩けるこどもは必ず立ち、赤ん坊をだいた母親は年寄りの次にすわれます。
運転手のとなりに座っていた人が降りたので前の席に移りました。マタツは120kmくらいですっとばすので助手席は危険なんだそうですが、混んでるよりはいいと思ったのです。いったい何キロぐらいだすのか、速度計をみたら、なんとこわれていて動かないのです。途中夕立があったのであまり速度はださなかったようです。
バナナ売りが来たのですが、ことわったところ、運転手が「バナナはきらいか」とききます。「好きだけど、お金がない」といったら、運転手が買ってくれました。4本食べました。しんせつな運転手で、ほんとうはマーケットでおりるわけなのに、駅までのせて行ってくれました。キスムからカプサベットにいく時は15シル450円でしたのに、帰りは12シル360円でした。はじめ20シルというので「高い」と文句をいったら、急に12シルにまけたのです。へんな料金体系です。
キスムからナイロビに向かう夜行に乗りました。二等寝台車で今度は三人部屋です。ところがふとったおばちゃんが子供二人も連れて乗り込んできたので又ぎゅうぎゅう詰め。赤ん坊がふぢゃふぢゃ泣いてうるさかったけど無事ナイロビにもどりました。
リュックが重いので、エンドさんの家に不要の荷物をあずかってもらいにバスに乗りました。ひどく混んでいて身動きもとれず、車掌が回ってきません。バス停についてそのままおりて、バス停で「やあバス代払わなかった」と思ったら、ハンドバックの口が開いています。あれっと思ったら、スリにあっていました。まったくゆだんできません。とられたのは化粧品などをいれた小さい袋で、見ためにはいい物が入っていそうにスリに思えたのでしょうが、口紅とかおしろいとかメンタムとかが入っていたのです。そしてくやしいことにスリには無価値でも私には2万円の価値があるコンタクトレンズが入っていました。
くやしいから警察に届けて旅行保険もらおうと出向きました。うまくしゃべれないのに、必至で取られた物とか場所とか説明して書類を作ってもらっている間に、保険の書類をよくよく読んだら、現金とか小切手とかコンタクトレンズは落としても取られても当社は保険を払いませんと書いてありました。まったくよりによって保険のないものを盗むとは気の利かないスリです。しかしパスポートと有り金いっさい盗まれた人もいるのだから、これを教訓にもっと気をつけようと思います。
しかし、いつもバッグはひっしでにぎりしめていたのに、混んだバスで重いリュックに気をとられていたほんの一瞬の間の手口なのですから、スリも年期が入っていると思います。お金とパスポート、旅行小切手は無事です。これからミチコと午後5時発のモンバサ(海岸地方)に出かけます。夜行の2等寝台で1800円です。ミチコといっしょだと「ホテルはへんな所はいやだ」とか、「海外協力隊員の家にはめいわくをかけたくないから泊まらない」とかいうので、かえってものいりです。私独りならどんな所にも泊まれるのに、まあ今はミチコにまかせて少しぜいたくをします。
<つづく>
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2011年05月21日
ぽかぽか春庭「ナイロビからモンバサへ」
2011/05/21
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(24)ナイロビからモンバサへ
1979年8月18日発行アフリカ通信7号その3
駅おじさんに姉ちゃんあての手紙とフィルム3本あずけたので、みてください。フィルムにはマサイ族やナイバシャ湖が写っていると思います。(注:母の弟は駅長だったので駅叔父さんと呼んでいた。ミチコの父。)
こちらの子供を見ていると、つくづく日本の子供はぜいたくで甘やかされていると思えます。さとうきびをかじるくらいがおやつで、日曜日に教会へ行くときだけくつと破れてない服をきて、ヤキモチ(チャパティ)やトウモロコシ(ウガリ)のごはんです。ミチコの観察によると、日本のように子供がまとまって集団で遊ぶのをみたことないそうです。せいぜい二、三人で自転車の車輪ごろがしのような遊びをするくらいですって。
私は一度、ナイロビ市内で三人のこどもが歌いながらとうりゃんせのようなことをしているのをみましたけど、それは白人二人に黒人ひとりでしたから、たぶん西洋流の遊びでしょう。鬼ごっことかカクレンボとかかごめかごめなんかしないみたい。10才くらいの子供でも働いているから集団で遊ぶ余裕なんかないのかもしれません。
ナイロビは、晴れれば昼間は半袖シャツで十分なくらい暑くなるのですが、私がついて以来あまり晴れません。くもりか雨です。今8月17日も重い雲がたれこめているので、ジーンズ(デニム)の上着をきています。もう18日たったのですが、ミチコの家へ行ったくらいでナイロビから出ていないせいか、少しも外国へ来ているとか特別な感じがしません。行き交う人の顔が黒いだけで、他は日本にいるのとまるっきり同じ気持ちです。サバンナ風景を一度みただけで、ナイロビやカプサベットは木の緑が多く、風景が日本と同じだからだと思います。モンバサなどの海岸地方は、白い沙漠や椰子の木やアラブ風の服や家だということなのでもう少し異国情緒もあるだろうと思います。
4時にナイロビ駅でミチコと落ち合いました。一国の首都の駅といえども田舎町駅くらいのものです。午後5時の夜行寝台車でモンバサへ向かいました。
この前キスムに行くときも、ナイロビに帰るときも、夜中の出発だったのであまり風景を見られずすぐ寝てしまいましたが、今度は午後5時なのですこし景色が見られました。だいたい7時に日が没し、日が沈むとすぐ暗くなります。日本のように日が沈んだあとも少し明るい黄昏時があれば情緒があるのですが、赤道近くですから、ぱっと明るくなって、ぱっと暗くなるのです。朝は6時にはまだ暗くて6時15分に見えるようになって6時半に昼と同じに明るくなります。
5時に出発して、30分ほどは木と草のナイロビ郊外風景でしたが、そのうちサバンナ草原が見えはじめました。たぶんナイロビナショナルパークのわきを通っているのでしょう。ナイロビパークにはあまり動物はいないという話でしたが、なるほど二度ダチョウを見ただけでした。一度は十羽くらいいて、もう一度は大きいのが一羽だけで立っていました。それからしばらく走ると、なだらかな丘が起伏するサバンナに出ました。
遠く地平線まで、黄色く枯れた草原のところどころに灌木がはえている風景が続きます。そして時々、たぶんトムソンガゼルという名だと思いますが、かわいい鹿の群れに出会いました。鹿はそれだけで見れば茶色い毛皮に白と黒の一本のシマもようがあって目立つ色なのに、夕方の草原の中で見ると、なるほど保護色になっていて、灌木と見分けがたい色です。しかしぴょんぴょん跳ねているので、近くにそして遠くに何度も見ることができました。汽車(じょうき機関車です)は危険でないと知っているせいか、すぐ線路脇でゆうゆうと草を食べているのもいます。だいたい十頭から十五頭くらいの群れを作っています。雄の一頭はりっぱなツノを持っています。群れのボスでしょう。
一度だけ牛カモシカ(ヌー)の群れがいました。ここらは、もうただまっ平らのサバンナが見渡す限り続いています。牛カモシカは二十頭くらいの群れで地平線上にシルエットを作っていました。
雲が天井に広がり、地平線の上、わずかだけ雲が切れて明るいオレンジ色とブルーの色を見せています。太陽は雲の中で数畳の光を雲間からサバンナになげかけています。美しい夕暮れ。背の低い灌木の群れは、一日の活動を終えて眠りにつこうとしているかのように、暗いシルエットを見せ、夕闇に紛れ込もうとしています。鹿は夕食をいそいですませ、家路につこうとしています。そして日が地平線に沈みました。
二等は6人部屋、三段づつの両側にせまいベッドがついています。わたしとミチコは一番上に寝ました。
同室の人たちはアフリカ人女性で、三人が若い娘で一人はとなりのへやに夫がいる若妻。この夫が、ちょくちょくこちらの部屋を覗きに来ます。
車掌にお茶をたのみました。ミルクとティとさとうを運んできてくれて、一人3シル40セントでした。町の店よりちょっと高い。
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(手紙の終わりに、車窓から見た「サバンナの天使の梯子」の光と、トムソンガゼルが立つ草原の風景が描いてある。絵はとびきりへたくそである)
<つづく>
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2011年05月22日
ぽかぽか春庭「海岸の町モンバサ」
2011/05/22
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(25)海岸の町モンバサ
1979年8月23日発行アフリカ通信8号その1
8月19日は、モンバサの町をぶらぶら散歩しました。オールドタウンというイスラム教の住人が多い地区やマーケットを見て歩きました。布地屋でケニアの女性が腰に巻いて着る布を買いました。カシューナッツの模様がプリントしてあります。夜は、ミチコの同僚の海外協力隊員の家に泊めてもらいました。モンバサの中心地にあるアパートで広い家です。この家に住んでいるのは平山さんという電気の工事でケニアに来ている人ですが、いま、マリンディという町に出張中なので、ミチコと二人で大きい顔をして泊まってしまいました。
8月20日は、モンバサの浜辺に家を借りている北之薗さんの所へ遊びに行きました。通称キタさんは、漁業の仕事です。日中は仕事をしたり現地の人に空手を教えたり忙しく、私とミチコは勝手に家を利用することができました。浜辺のすぐそばに家が建っているので、テラスに座るとヤシの木陰に青く澄んだ海が見えます。沖合に茶色にサビた汽船が座礁したままになっています。浜は白い細かい砂。砂と言うより粉のようです。ハダシで歩くとキュッキュッと音がします。
ミチコは泳げないので、私独りで泳ぎました。誰も居ない海。海が全部私のもので、とても気分よかった。遠浅です。ずっとむこうの浜には海の家があるので、観光客たちが背中を焼いたりヨットを走らせたりしているのが見えます。ケニア人はあまりいません。泳いで遊んでいられるほどヒマじゃないのかもしれませんけど、日中、公園の芝の上で昼寝をしている人はたくさん見ます。
元海外協力隊員だった人で、今はケニアの自動車会社に勤めている方のお家が近くにあって、ミチコと夕食をもらいました。好きでケニアに永住することにしたとはいえ、やはり日本人と話し合うのが楽しいようです。奥さんにはもうすぐ赤ちゃんがうまれるそうです。夜はまた平山さんの家に泊まりました。
8月21日は、バスでマリンディまで出かけました。バスで二時間の道のりです。ヤシは竹やバナナ畑や麻畑やとうもろこし畑がつぎつぎと見え、大きなバオバブの木もたくさん生えています。大きなかごを頭にのせ、こどもを背負い、手にはふろしき包みのような袋を下げた女たちがミチのわきを歩いてゆきます。
マリンディに着いて、宿をさがしたけれど、現地人宿の安いホテルは今はイスラム教の断食の月にあたるせいで、夕方まではあかないのです。観光客用のホテルへ行ってみたら、一人100シル3000円なので、高いと思ってやめました。
みやげものをひやかしていたら、ちょうどマリンディに出張していた平山さんに会って、協力隊員の田本さんの家につれていってもらいました。田本さんは農業の指導に来ています夕食はバス停のそばの現地人の食堂(といっても、木のテーブルといすがならべてあって、壁はなくて屋根だけ)で、ウガリ(とうもろこしの粉だんご)と、牛肉のにこみを食べました。紅茶をのんで120円くらい。
夕方、田本さんの家のまわりはヤシの木やバオバブの木がたくさん生えていて、とても美しい夕暮れでした。田本さんは、さすが農業指導員だけあって、これが綿の苗、これが胡麻、これがカシューナッツの木、こちらはマンゴーの木と、いろいろ説明してくれました。夕日はバオバブの木をかすめて、マンゴーのこんもりした丸い木の陰にしずみました。
綿の木というのもありました。実がなっていて、綿そっくりのふわふわしたのがついています。以前は実際に糸につむいでつかっていたそうですが、綿の中にたねがたくさんあって、それをとりのけるのがめんどうなので、綿を畑に植えるようになってからは使わなくなったそうです。サイザル麻の畑も見ました。気ままに生えているように見えるけれど、こうしてみるとケニアに生えている木や草は、すべて食用になったり、生活に利用できたりします。
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(マンゴーの木、バオバブの木、ヤシの木、バナナの木、ソーンツリーの絵が描いてある。絵はとびきり下手である)
<つづく>
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2011年05月24日
ぽかぽか春庭「モンバサの海とマリンディ」
2011/05/24
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(26)モンバサの海とマリンディ
1979年8月23日発行アフリカ通信8号その2
8月22日、マリンディの町をぶらぶら散歩しました。海岸を歩いたり魚市場へ行ってみたり、バスコダガマが上陸したという所へ行ったりしました。田本さんが仕事を休んで案内してくれたので、悪いことしたと思って、夕食をミチコと二人で作りました。しかし、目玉焼きと粉ふきいもとヤサイイタメというへんな組み合わせになりました。(作るのが簡単なものを選んだため)料理が下手だったので、田本さんのオヨメさんになりそこねたと思います。残念!
夜はナイロビから遊びに来ていた海外協力隊の人々4人といっしょに田本さんの案内で現地のどぶろくのようなヤシ酒を飲みに行きました。ミチコが入院していたときにたいへんお世話になったという人も来ていて、にぎやかでした。しかし、ヤシ酒はちょっとすっぱいような味がして飲めませんでした。焼き鳥のような肉の串刺しにしたものをつまみに売っているのでもっぱらそれを食べていました。
8月23日は、ゲディという町の見物に生きました。アラブ時代の古い遺跡があります。レンガ作りの城壁や宮殿や寺が、ほとんど崩れ去り廃墟になっています。中は思ったより広く、あちこち歩いているうち、ミチコとはぐれ、もうこの廃墟からでられないかと心配になって30分くらい歩いていたら、ひょいと出口にでました。ミチコはすぐそばに協力隊員の教えている学校があるからと、見に行きました。
ではまたね。
1979年8月31日発行アフリカ通信9号その1
8月24日、マリンディの町で海外協力隊の田本さんにお世話になったので、午前中はそうじをしたりお昼ご飯を作ったりしてお礼のかわりにして、午後、またモンバサに戻りました。今日は、一ヶ月続いたイスラム教の断食があけた日なので、何かお祝いでもするのかと思っていたら、何もなくてがっかりしました。
モンバサの協力隊員の平山さんの家に泊まりました。(成田からナイロビへ向かう)飛行機の中で老夫婦といっしょになり話をいろいろした時、ケニアに教え子がいるといっていましたが、それは平山さんのことでした。世の中せまいなあと驚きました。
8月25日は、ミチコとタマラレストランというモンバサで最高のレストランへ行きました。今まで隊員の家にばかり泊まって食事もあまりお金をかけずにきたので、一度くらい豪華にいってみようということになったのです。
オードブルはカキ。これは一皿を二人で食べたけど、量があるので十分でした。次にシーフードキャセロールというのを一つずつとりました。大きな木の器に魚や海老やその他の海の幸、野菜などをココナッツミルクであえたものが山盛りあります。そして大きな蟹が半身入っていました。それにパンとライスとパパイヤがつきました。とてもおいしかった。もう二度と食べられないと思っていっしょうけんめい食べたけど、量があまりにもあるので、ライスはのこしました。これとビール一本で100シル3000円でした。いつも300円くらいの食事をしているのだから、夢のような豪華版でした。夕食は食べられなかった。夜行に乗ってナイロビに向かいました。
<つづく>
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2011年05月25日
ぽかぽか春庭「マサイに一泊」
2011/05/25
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(27)マサイに一泊
1979年8月31日発行アフリカ通信9号その2
8月26日は朝ナイロビについて、Y.W.C.Aに荷物を置いて、ミチコと二人で別にすることもなかったので、ジョントラボルタのグリーズをやっていたので、これなら字幕なくてもいいと思ったので、360円の席に入りました。あと300円の席と600円のいい席があります。内容はとてもたわいなくて、踊ったり歌ったりするので、ことばはわからないけど楽しめました。
8月27日、680(シックスエイテイ)ホテルのロビーで山崎さんと亀山さんと三人で待ち合わせて、マサイのへ行きました。モンバサに行く前にミチコの知り合いというマサイ族の男と出会い、彼が「私はミチコの親友であり、あなたはミチコのいとこだから、特別にマサイのへ連れて行ってあげる。前払いとして100シル3000円払えば、酋長にお土産を買っていって、踊りを見せてくれるように頼んであげる、というので、払ってあったのですが、タクシー代使って村へ一泊しただけで、結局踊りはなかったのです。
マサイの村は、村中牛の糞だらけで、ハエが地面黒く見えるほどいます。女や子供たちの顔や身体にもわんさとハエがたかっています。私たちはマサイ語で「ソバ(こんにちは)」とあいさつして右手で握手しながら左手でハエを追い払うのに忙しい。
マサイの家は泥で固めた丸い家。エスキモーが氷で丸い家を作りますが、それを泥にしたようなもの。しかし、外にはわんさとハエがいるのに、ふしぎなことに家の中には5ひきくらいしかいません。だから、マサイが伝統を変えずにこういう家を作るのは、それなりの理由があるのだろうと思います。
家の中はまっくらですが、お客が来たので灯油のアラジンのランプのようなのをともしてくれました。いろりで木を燃やすのが、いぶくてたまりません。明かり取りの小さな穴が空いているだけなので煙の出口がないのです。それでもお湯をわかしてミルクティをだしてごちそうしてくれました。わたしたちのとまった家の主婦がマサイのビーズのうでわをくれたので、私は日本で買ったプラスチックの腕輪をあげました。山崎さんは別の家で首飾りをもらったので、シャツをあげました。山崎さんは長くてまっすぐな髪をしていたので好かれたのですって。
マサイの女と子供は、頭をそってしまいます。のみ、しらみを考えるとそってしまった方が衛生的です。一日よその村を見たりして終わってしまって、約束の踊りは見られませんでした。寝袋をもっていったので牛の隣のへやに寝ました。夜、牛のおしっこの音がよくきこえました。
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(マサイ族の家の絵、家の中の配置図、ボーマ村の配置図の絵。三度目に書くとしつこいけれど、、、、下手である)
1979年9月2日発行アフリカ通信10号その1
8月26日の夜はマサイに泊めてもらったのですが、さすが安眠はできませんでした。外にたくさんいるハエは、家の中にはいないのですが、なにやら私の知らない虫がとんでくるし(蚊取り線香はたいたけれど、そんなのきかない虫みたい)、となりの部屋で寝ている牛の子はちょっちゅうじゃあじゃあおしっこの音をたてるし。犬が寝てる上に入り込んでワンワンわめいて走り回るし、家の外にいる親牛が、夜目がきかないのか、家にどしんとぶつかる。なかなかよそではできない体験でした。
8月27日には、マサイのセレモニーがあって踊りがみられるという約束で前払いしてあったのに、結局会議だけして踊りはないのだといわれて、見られませんでした。同行の亀山さんは、マサイのに泊まっただけでもいい体験だから、お金はそんなに惜しくないというのですが、私は踊りを見に行ったのに見られなかったのだからブンブン怒って、ガイドとけんかしました。ガイドは話がこじれたら自分だけタクシーで帰ってしまって、私たちは置き去りにされました。
てくてく草原の一本道を歩いていたら、親切なトラックが来て乗せてくれたので、帰ることができました。もしトラックが来なかったら、夜になってもウゴングヒルという山道(山といっても日本のように木はなくて草や灌木だけ)をとぼとぼ歩くハメになったのだから、やはりうかつに喧嘩はできないと反省しました。
しかし、のマサイ族の人はわりに親切だったのでよかった。
<つづく>
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2011年05月27日
ぽかぽか春庭「マラリア」
2011/05/27
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(29)マラリア
1979年9月2日発行アフリカ通信10号その2
8月29日にYWCAにかえって寝ていたら、モウレツに寒くて吐き気がして熱が出ました。風邪かと思って一日寝てれば治ると思い、8月30日は一日中寝ていました。8月31日に寝たり起きたりして9月1日 もあんまり調子よくないけど、ケニアシリングがなくなったので、ドルを替えに行ったりして少し動いたら、また夜は気分悪かった。9月2日にエンドーさんの家に置いてあった荷物を取りにいったら、エンドーさんに、軽いマラリアじゃないかと言われました。海岸地方はわりに蚊が多いから、刺されたのだろうと思います。しかし予防薬を毎週飲んでいたから軽くすんでよかったと思います。
YWCAの6人相部屋です。風邪だと言って寝ていたら同室のオランダから来た女の人がタオルを濡らしてくれたり薬をくれたりして、とても助かりました。浮世絵のハンカチをあげました。
別のへやには玉井さんと下川さんという日本人がいて、いろいろ仲良くしてくれます。下川さんは獣医学科の学生でケニアは3度目だそうです。英語がぺらぺらです。タマちゃんはもう獣医の資格を持っていて、ケニアの動物保護区で動物の病気を診たりする仕事をしたいと言って張り切っています。スワヒリ語がじょうずです。
私ときたら英語もスワヒリ語もカタコトで食事の注文ができる程度だし、何の紹介状も無しにいきなりケニアに来て、やはり準備が不足だったかなと反省しています。何もすることなくベッドに寝ていると、反省ばかりしています。
写真1は日本人と結婚しているウガンダ女性のティナ・モリタさんといっしょにニュースタンレーホテルの前でとったもの、うしろに丸く見えるのがヒルトンホテル。(注:タカ氏撮影の写真です)
その他は、木彫のみやげ品を作っているキカンバというところで、彫刻師やガイドといっしょに取ったものです。
お金はたくさん送ってくれるのにこしたことはありません。ハハハ。
まだ動物保護区へ行くツアーに出たことがありません。マサイマラという、いちばんたくさん動物のいる動物公園で五泊のキャンプで四万五千円というのがいちばん割安というので、再来週あたりは身体の調子もいいようだから行ってみようと思います。キャンプじゃなくてホテルを使うのは一泊で三万円くらい。
やっぱり金額が書きたくなる。値段をいちいち書くなと言っても、これは性分で、こまかく金額を書くことに意味はありません。しいていうなら、日記を書かずにかわりに手紙を書いているのだから、小遣い帳の代わりです。ふだん2シルのお茶を飲んでいて、たまに1シル(30円)のお茶にめぐりあうと、私としてはとてもうれしい気分なのです。
それからミチコといっしょに海岸へ行った時、ミチコのつごうにあわせたので、ギリヤマ族の踊りも見なかったし、ラム島というみんながいい所だという島にも行かなかったのでいってみようと思っています。
ケニア人に、「私は貧乏だ」というと、「いいカメラ持っているじゃないか。オレに売ってくれ」と言われます。私はケチケチ暮らしているようでも、ケニア人は月に1万円の給料で暮らしてくる人がたくさんいるし、収入のない人もいるのだから、やはりぜいたくだと思ってくらしをひきしめているのです。あんまりみじめに思わないでください。お金はミチコの銀行号座に振り込んでもらうのが一番安心だと思うから、ミチコの家に今月下旬に行ったら、どういう方法で送るのか聞いて、書き送ります。東京銀行を通じて送るというようなことを聞きました。
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(2011/06/11付記:私のアフリカ通信にいちいち細かい金額の記載があるのを、姉は「せっかく外国に滞在しているのだから、ケチくさい生活をするな。必要なお金は日本から送金するから」という手紙を書いてきました。私は貧乏旅行を気にしていないのに、姉はケチケチ旅行を「せつない」と悲しみ、送金すると言ってきたのです。
私が金額をかき込むのは、小遣い帳記録なのだからと言い訳をし、こののちも貧乏生活を変えることはありませんでした。姉の送金のおかげで、3ヶ月の滞在予定が9ヶ月に伸びました。)
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<つづく>
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2011年05月28日
ぽかぽか春庭「ナイロビナショナルパーク」
2011/05/28
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(30)ナイロビナショナルパーク
1979年9月2日発行アフリカ通信10号その3
9月1日から15日まではYWCAの半月契約というのが取れたのです。ふつう、一泊35シルで食事がつくと50シルなのですが、15日分で朝昼夜の食事がついて2700シル(8100円)になるのです。だから、15日までは食べるものと泊まる所の心配をしないですみます。やはり、食う寝るは旅で大きな問題です。
しかし安いだけあってYWCAの食事は半分は現地食(キャッサバとか芋とか)朝はトースト、紅茶、卵またはソーセージで、決まっています。
同室の人たちはケニアやウガンダから来ていて、学生か堅い仕事の人が泊まるので、物を盗られたり洗濯物が無くなったりということはないので、へたなホテルより安心です。しかし、相部屋なのだけれど、彼女らには日本的な気の使い方や遠慮はないので、こっちが病気で寝ていても歌いたいときは歌い,大声でしゃべって笑い、ラジオをガンガンかけて踊っています。こちらの人は音楽が鳴ると腰を振って踊ります。とても陽気です。
YWCAの前は庭になっていて、その向こうは公園です。ナイロビは町が小さい割に公園がたくさんあります。
病気のことは、短期の旅行でなければみんなマラリアくらいかかるのだけれど、私は軽いのだし、全然心配いりません。しばらく本でも読んでのんびりしています。今までものんびりしていたけど。ではまたね。9/2(日曜)
1979年9月7日発行アフリカ通信11号その1
九月に入って調子が悪く寝たり起きたりしていましたが、5日は誕生日だし、ベッドに寝てばかりいるのも一週間やれば飽きてくるし、カイキ祝いと兼ねて、ニューフロリダクラブににぎにぎしく繰り込もうと言うことになりました。
栄養学を専攻している木村まさみさんと行ったらエンドさん(DoDoワールド)たちも来ていて、お祝いにビールをおごってくれました。身体が自由に動かせるのは楽しいことです。
たいたい映画とディスコのほか夜に遊びに行くところはないのですから、選択に迷わないですみます。(お金持ちはカジノにいくけど)
9月6日は、エンドさんのツアーに加えてもらって、ナイロビ・ナショナルパークに行きました。ナイロビから30分くらい車で行った所にある動物保護区です。他のナショナルパークに比べ、動物の種類や数は少ないのですが、ナイロビのすぐそばにあるのが利点です。
シマウマの頭越しにナイロビのビル群が遠望できるのですから考えてみると不思議な光景です。
入り口を入るとすぐヒヒに出会いました。カメラを出そうとモタモタしてたらよく見ないうちにいなくなってしまいました。イボイノシシの三頭連れは、しっぽをピンと振り立ててちゃんとポーズをとり、シャッターを押し終わった頃合いを見はからって逃げていきました。愛嬌あるやつです。三等が列を作ってちょこまかと走ります。次に水辺でつるのようなのや蛇食い鷲とか小さな鳥とかたくさんの鳥を見ました。普段はいないというエランド(大きな鹿)を、遠くからですが見ることができて幸運でした。キリンはまったく近くで見ることができました。五頭くらいがあちらの木こちらの木で葉っぱを食べているのです。270ミリの望遠レンズをつけてしまったので、ドアップのキリンを写しました。
<つづく>
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2011年05月29日
ぽかぽか春庭「ジャカランタの花」
2011/05/29
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(31)ジャカランタの花
1979年9月7日発行アフリカ通信11号その2
(ナイロビ・ナショナルパークの)シマウマの群れとトムソンガゼルやグランドガゼル(しかの仲間)は、近くに遠くにたくさんいました。一度などは車の道にガゼルが出てきて、鼻つきあわせて観察しあいました。全然こわがりません。
川辺を歩いて見ることができ、カバがのんびりと水につかっていました。10分くらい水に潜って背中だけ見えているのです。オーイでてこい、と呼んでも出ないので、みんなでバカカバチンドンヤと言ったら、鼻を水面に出してフファーと息をしました。小さなサルもたくさんいました。
チータやライオンなどの大型動物はみられませんでしたが、草食動物はたくさんいたし、楽しい一日でした。キリンなんか、みきさよに見せたら大喜びだろうな、と思いながら見てました。
9月7日はボーマス・オブ・ケニア(ケニアの家・民家園)に行きました。三度目です。今日は早く行ったので、民家をゆっくり見学できました。土と草の家ですが、部族によって内部は何もしきってなかったり、編んだ竹で区切ってあったり、土壁で仕切って真ん中に柱があるのとないのとあったり、少しづつ様式が違います。
天井の作り方ではルオ族のが一番きれいで、日本でも茶室なんかこんなふうにしたあるのがあるなと思いました。
(民家の絵。いつも通り、絵は下手)
踊りは前に土曜と日曜にみたので今日は金曜だから、あらかたのプログラムは見たことになると思います。単純な踊りですが、けっこう疲れると思います。もうだれがうまく踊る人だか顔を覚えたので、その人の動きをよくみて、足の動かし方とか見てました。
ナイロビは一年中花が咲いているそうですが、今ジャカランタという木の花が盛りでとてもきれいです。ウフルーハイウエイという大通りにはこの木がたくさんあって、遠くから見るとぼうっと薄紫に重なって見えます。
YWCAの庭にも咲いています。色が落ちてしまうけど押し花にしました。赤いのはブーゲンビリアと皆が言ってるけど、よく知りません。それとおもしろいのにほ乳ビンを洗うブラシにそっくりの赤い花があります。タワシフラワーと名付けました。
自分への誕生プレゼントとして、360シルの本を買いました。「アフリカン・ダンス・アート」という大きい本です。320シルに値切った。一般の本屋では、ダンスの本はこれしか出版されていないのです。
よくよく考えてみると誕生日などとうれしがっている年ではないのでありまして、花の中年乙女になったからは、フンレイコッキドリョクを重ねて生きていかねばと身をひきしめ心ふるいたたせ、がんばっていこう!
同室の19才の子が「わたしより年下だろう」というので「ちがう」というと、「じゃ、いくつだ」とくい下がるのですが、あまりにもあまりの年なのでことばをにごしております。
夜になると男の子たちが大勢入り口に立って、ガールフレンドをむかえに来ます。みんないそいそと遊びに出かけ、日本人組はしょぼんと、はるか日本へあて手紙など書いてすごしております。木村さんとタマちゃんと私、21才と25才と30才の3人組です。
ではまたね。
<つづく>
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2011年05月31日
ぽかぽか春庭「ナマンガへ」
2011/05/31
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(32)ナマンガへ
1979年9月20日発行アフリカ通信12号その1
9月9日から18日まで、ケニアとタンザニアの国境の町ナマンガに行っていました。途中着替えを取りに二日間ナイロビに戻ったのですが、一週間以上滞在していたことになります。ナイロビは都会ですが、ナマンガは小さな町(というより)なので、おもしろかった。
9月9日日曜の朝、高橋和枝さんが、私のYWCAに尋ねてきました。高橋さんとタカ氏と二人でナマンガに行って帰ってきたのだけど、もう一度行くからいっしょにいかないかと誘ってくれたのです。10日にナマンガ小学校を見学する約束をしたというので、おもしろそうだから行くことにしました。
買い物をして必要なものをそろえたり(小学校へのおみやげとか)荷物を作ったりして、午後三時ごろの乗り合いタクシーで行きました。乗り合いタクシーは8人のりで、ナイロビ-ナマンガ間160kmを2時間で行きます。バスは、タクシーの半値で4時間かかります)。バスは朝7時と12時の2本だけなのでタクシーになりました。タクシーは1000円くらい。
高橋さんとタカ氏は、タンザニアに行くつもりでナマンガへ行っていたのです。現在、資本主義国のケニアと社会主義国のタンザニアは国交を閉ざしているので、隣同士の国なのに、直接行き来できません。ケニアからエチオピアへ行って、エチオピアからタンザニアへ行くとか、ルワンダやブルンジなどの国を通ってからでないと行きません。
安い飛行機は、ウガンダのエンテベ空港を通って行くのがあるのですが、ウガンダは今、アミンが追放された後もめちゃくちゃでたいへん危険で、毎日人が殺されているというウワサだし、なんといっても飛行機を使えば片道10万円くらいかかります。国境さえ通れれば1500円でタンザニアに行けるのです。
ナイロビからナマンガまでは、マサイランドというマサイ族が住んでいるサバンナ草原を通っていきます。サバンナといっても、今は乾期なので黄色く枯れた草が地平線まで続き、日本でいう草原とはだいぶちがいます。所によって、枯れ草の中にまばらに灌木がはえている所もあれば、草だけで見渡す限りに何もはえていない所や、ソーントゥリーというとげのある木がたくさんはえている所や、いろいろあります。
しかし、なんといっても広いので、けしきはいつまでも同じようで、ずっと見ていたら眠くなりました。起きたら今までは地平線があったのに、今度は低い山が草原のまわりを取り囲んでいる景色になりました。
5時ごろナマンガに着きました。
(ウガンダ・ケニア・タンザニア、インド洋の略図にナイロビとナマンガの位置を示した手書き地図つき)
まず、国境の事務所にあいさつに行きました。
ケニア側はどうということないのだけど、タンザニア側の事務所はなかなかきびしいという高橋さんの話です。ナマンガの町は、道の両側に何軒かの店があるという田舎の町です。
(ナマンガの町のケニア側、タンザニア側の店や施設の略図手書き)
<つづく>
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(22)ナイロビからキスム経由カプサベットへ
去年の6月に、1979~1980年にケニアから出した手紙の書き写しを行いました。
1979年7月27日の成田出発から、8月13日に従妹ミチコの赴任地に行くための電車の切符を買いにいくところまで書きました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/201006A
今回はその続きです。1979年8月14日から。
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1979年8月18日発行アフリカ通信7号その1
8月14日の夜行でミチコといっしょにキスムへ8月15日の朝にキスム駅につきました。ミチコが協力隊の人に渡す書類をあずかっていたので、キスム市内の金丸隊員の家に行きました。ミチコはケニア人の感覚になっているので、歩いてすぐだなんて言うので20kgのリュックサックかついでついていったけど、いけどもいけども着きません。ついに40分重い荷をしょってあるいたのでした。
金丸さんの家にはY.W,C,Aでちょっと立ち話をしたことのあるワタナベ隊員がいました。ちょうど朝ごはんをたべるころだったのですが、ミチコは遠慮して「もう食べてきました」と言うのです。ミチコが手洗いに行っているとき、おくさんが「本当はまだ食べてないんでしょう」っていうから、「ええ」といいました。何も遊びに来たんじゃなし、書類届けて40分も歩いたのだから朝めしくらい食べてもいいと思うのです。それで、ベーコンエッグと紅茶とヨーグルトとオレンジをもらいました。
キスム市内はモイ大統領が来ているとかでハタや電球でハデハデしくかざってあります。大統領の宿舎の前に一目みようという人々が待っているので私も少しまってみたのですが、ケニア人の感覚でもうすぐ大統領がでてくるというのは、夕方まで待つことかも知れないと思ってやめにしました。
駅にもどって帰りの切符を予約してからマーケットまで行くことにしました。マーケット前からカプサベット行きのバスが出ているのです。バスといっても「マタツ」というワゴン車を改造した小型乗り合いバスです。マーケットまで、また30分歩くというので私がタクシー代出すからといってタクシーに乗りました。駅前でよろけてひざこぞうすりむくし、ジーパンはやぶけるし、とてもあと30分歩く気分になれなかったのです。タクシー代は7シル200円くらいなもんです。マーケットでミチコはパンとかバナナとか買いものをしました。マタツにのって二時間くらいでカプサベットにつきました。
カプサベットは町とはいっても郵便局と小さい病院と市場がチョコちょこっと並んでいるところです。山奥の田舎と変わりありません。木や緑が多く、小鳥がさえずっています。キスムからはヴィクトリア湖がみえ、朝焼け風景がとても美しかったのですが、重い荷物のため風景を 味わう余裕がありませんでした。
ミチコがおひるを作っている間にせんたくをしました。一年間、独りで暮らして、料理もなかなかうまくできるようになっているようです。おひるはパンとジャガ芋、肉、にんじんの醤油煮。夕食はカレーと味噌汁。昆布、椎茸の煮つけ。朝は肉をショウガ醤油につけておいてからあげにして食べました。
(ケニア・カプサベットの)ミチコの部屋は、みな8畳くらいで、4つあります。台所も広いし、いい家です。ここは電気、ガス、水道がそろっているけれど、何も無いところに住んでいる隊員が多いそうです。ミチコは病気がなおったばっかりのころは、雑用夫をやとったのだそうですが、物を盗むのでクビにしたそうです。
(注:ミチコはケニアに着任して最初の研修地で、地元の人が差し出した水を飲んで肝炎にかかり一ヶ月入院していた)
3時頃から夕立がありました。黒い雲がみえて、ぴかぴか雷が光り出しそのうち雨がふってきました。毎日夕立がある季節だそうです。
教頭先生の息子と娘というこどもがドアのところでモジモジしていたのですが、例によって破れ服にハダシというケニア流子供スタイルなので、まさか教頭の子どもと思わずにいたら、お客が見えたのであいさつに来たんだそうです。
<つづく>
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2011年05月20日
ぽかぽか春庭「ナイロビでスリにあう」
2011/05/20
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(23)ナイロビでスリにあう
1979年8月18日発行アフリカ通信7号その2
今まであまり見慣れない物は買わずにいたので、食べた果物もバナナとパパイヤとオレンジくらいでしたが、ミチコがいろんなくだものを買ってきてくれました。アボガドはわさび醤油でさしみみたいに食べたら、とてもおいしかった。パッションフルーツというのとアップルパパイヤというのとミチコも名前を知らない中がピンク色したくだものなどいろいろ食べました。名前や食べ方がわかったので、こんどは自分で買ってみようと思います。
8月16日のおひるは私が残っていた玉ねぎと人参と卵でヤサイイタメをつくってみましたが、例によってぐちゃぐちゃしたヤサイイタメになりました。二時頃ミチコの家を出て学校の事務所やら水道の事務所に寄って、いろんな用をすますのを待って三時にカプサベットからまたマタツにのって、キスムにむかいました。
バス停にくると、焼きとうもろこしやバナナ売りが窓のそばへ走ってきます。うしろの乗り合い席はどんどん混んできて、生きたニワトリをかかえたおばあさんだの、混んでる中でゆうぜんと編み物をするおっ母さんだの、ぎゅうぎゅうずめで足も伸ばせません。かんしんなことには年寄りは必ずすわり、歩けるこどもは必ず立ち、赤ん坊をだいた母親は年寄りの次にすわれます。
運転手のとなりに座っていた人が降りたので前の席に移りました。マタツは120kmくらいですっとばすので助手席は危険なんだそうですが、混んでるよりはいいと思ったのです。いったい何キロぐらいだすのか、速度計をみたら、なんとこわれていて動かないのです。途中夕立があったのであまり速度はださなかったようです。
バナナ売りが来たのですが、ことわったところ、運転手が「バナナはきらいか」とききます。「好きだけど、お金がない」といったら、運転手が買ってくれました。4本食べました。しんせつな運転手で、ほんとうはマーケットでおりるわけなのに、駅までのせて行ってくれました。キスムからカプサベットにいく時は15シル450円でしたのに、帰りは12シル360円でした。はじめ20シルというので「高い」と文句をいったら、急に12シルにまけたのです。へんな料金体系です。
キスムからナイロビに向かう夜行に乗りました。二等寝台車で今度は三人部屋です。ところがふとったおばちゃんが子供二人も連れて乗り込んできたので又ぎゅうぎゅう詰め。赤ん坊がふぢゃふぢゃ泣いてうるさかったけど無事ナイロビにもどりました。
リュックが重いので、エンドさんの家に不要の荷物をあずかってもらいにバスに乗りました。ひどく混んでいて身動きもとれず、車掌が回ってきません。バス停についてそのままおりて、バス停で「やあバス代払わなかった」と思ったら、ハンドバックの口が開いています。あれっと思ったら、スリにあっていました。まったくゆだんできません。とられたのは化粧品などをいれた小さい袋で、見ためにはいい物が入っていそうにスリに思えたのでしょうが、口紅とかおしろいとかメンタムとかが入っていたのです。そしてくやしいことにスリには無価値でも私には2万円の価値があるコンタクトレンズが入っていました。
くやしいから警察に届けて旅行保険もらおうと出向きました。うまくしゃべれないのに、必至で取られた物とか場所とか説明して書類を作ってもらっている間に、保険の書類をよくよく読んだら、現金とか小切手とかコンタクトレンズは落としても取られても当社は保険を払いませんと書いてありました。まったくよりによって保険のないものを盗むとは気の利かないスリです。しかしパスポートと有り金いっさい盗まれた人もいるのだから、これを教訓にもっと気をつけようと思います。
しかし、いつもバッグはひっしでにぎりしめていたのに、混んだバスで重いリュックに気をとられていたほんの一瞬の間の手口なのですから、スリも年期が入っていると思います。お金とパスポート、旅行小切手は無事です。これからミチコと午後5時発のモンバサ(海岸地方)に出かけます。夜行の2等寝台で1800円です。ミチコといっしょだと「ホテルはへんな所はいやだ」とか、「海外協力隊員の家にはめいわくをかけたくないから泊まらない」とかいうので、かえってものいりです。私独りならどんな所にも泊まれるのに、まあ今はミチコにまかせて少しぜいたくをします。
<つづく>
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2011年05月21日
ぽかぽか春庭「ナイロビからモンバサへ」
2011/05/21
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(24)ナイロビからモンバサへ
1979年8月18日発行アフリカ通信7号その3
駅おじさんに姉ちゃんあての手紙とフィルム3本あずけたので、みてください。フィルムにはマサイ族やナイバシャ湖が写っていると思います。(注:母の弟は駅長だったので駅叔父さんと呼んでいた。ミチコの父。)
こちらの子供を見ていると、つくづく日本の子供はぜいたくで甘やかされていると思えます。さとうきびをかじるくらいがおやつで、日曜日に教会へ行くときだけくつと破れてない服をきて、ヤキモチ(チャパティ)やトウモロコシ(ウガリ)のごはんです。ミチコの観察によると、日本のように子供がまとまって集団で遊ぶのをみたことないそうです。せいぜい二、三人で自転車の車輪ごろがしのような遊びをするくらいですって。
私は一度、ナイロビ市内で三人のこどもが歌いながらとうりゃんせのようなことをしているのをみましたけど、それは白人二人に黒人ひとりでしたから、たぶん西洋流の遊びでしょう。鬼ごっことかカクレンボとかかごめかごめなんかしないみたい。10才くらいの子供でも働いているから集団で遊ぶ余裕なんかないのかもしれません。
ナイロビは、晴れれば昼間は半袖シャツで十分なくらい暑くなるのですが、私がついて以来あまり晴れません。くもりか雨です。今8月17日も重い雲がたれこめているので、ジーンズ(デニム)の上着をきています。もう18日たったのですが、ミチコの家へ行ったくらいでナイロビから出ていないせいか、少しも外国へ来ているとか特別な感じがしません。行き交う人の顔が黒いだけで、他は日本にいるのとまるっきり同じ気持ちです。サバンナ風景を一度みただけで、ナイロビやカプサベットは木の緑が多く、風景が日本と同じだからだと思います。モンバサなどの海岸地方は、白い沙漠や椰子の木やアラブ風の服や家だということなのでもう少し異国情緒もあるだろうと思います。
4時にナイロビ駅でミチコと落ち合いました。一国の首都の駅といえども田舎町駅くらいのものです。午後5時の夜行寝台車でモンバサへ向かいました。
この前キスムに行くときも、ナイロビに帰るときも、夜中の出発だったのであまり風景を見られずすぐ寝てしまいましたが、今度は午後5時なのですこし景色が見られました。だいたい7時に日が没し、日が沈むとすぐ暗くなります。日本のように日が沈んだあとも少し明るい黄昏時があれば情緒があるのですが、赤道近くですから、ぱっと明るくなって、ぱっと暗くなるのです。朝は6時にはまだ暗くて6時15分に見えるようになって6時半に昼と同じに明るくなります。
5時に出発して、30分ほどは木と草のナイロビ郊外風景でしたが、そのうちサバンナ草原が見えはじめました。たぶんナイロビナショナルパークのわきを通っているのでしょう。ナイロビパークにはあまり動物はいないという話でしたが、なるほど二度ダチョウを見ただけでした。一度は十羽くらいいて、もう一度は大きいのが一羽だけで立っていました。それからしばらく走ると、なだらかな丘が起伏するサバンナに出ました。
遠く地平線まで、黄色く枯れた草原のところどころに灌木がはえている風景が続きます。そして時々、たぶんトムソンガゼルという名だと思いますが、かわいい鹿の群れに出会いました。鹿はそれだけで見れば茶色い毛皮に白と黒の一本のシマもようがあって目立つ色なのに、夕方の草原の中で見ると、なるほど保護色になっていて、灌木と見分けがたい色です。しかしぴょんぴょん跳ねているので、近くにそして遠くに何度も見ることができました。汽車(じょうき機関車です)は危険でないと知っているせいか、すぐ線路脇でゆうゆうと草を食べているのもいます。だいたい十頭から十五頭くらいの群れを作っています。雄の一頭はりっぱなツノを持っています。群れのボスでしょう。
一度だけ牛カモシカ(ヌー)の群れがいました。ここらは、もうただまっ平らのサバンナが見渡す限り続いています。牛カモシカは二十頭くらいの群れで地平線上にシルエットを作っていました。
雲が天井に広がり、地平線の上、わずかだけ雲が切れて明るいオレンジ色とブルーの色を見せています。太陽は雲の中で数畳の光を雲間からサバンナになげかけています。美しい夕暮れ。背の低い灌木の群れは、一日の活動を終えて眠りにつこうとしているかのように、暗いシルエットを見せ、夕闇に紛れ込もうとしています。鹿は夕食をいそいですませ、家路につこうとしています。そして日が地平線に沈みました。
二等は6人部屋、三段づつの両側にせまいベッドがついています。わたしとミチコは一番上に寝ました。
同室の人たちはアフリカ人女性で、三人が若い娘で一人はとなりのへやに夫がいる若妻。この夫が、ちょくちょくこちらの部屋を覗きに来ます。
車掌にお茶をたのみました。ミルクとティとさとうを運んできてくれて、一人3シル40セントでした。町の店よりちょっと高い。
=========
(手紙の終わりに、車窓から見た「サバンナの天使の梯子」の光と、トムソンガゼルが立つ草原の風景が描いてある。絵はとびきりへたくそである)
<つづく>
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2011年05月22日
ぽかぽか春庭「海岸の町モンバサ」
2011/05/22
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(25)海岸の町モンバサ
1979年8月23日発行アフリカ通信8号その1
8月19日は、モンバサの町をぶらぶら散歩しました。オールドタウンというイスラム教の住人が多い地区やマーケットを見て歩きました。布地屋でケニアの女性が腰に巻いて着る布を買いました。カシューナッツの模様がプリントしてあります。夜は、ミチコの同僚の海外協力隊員の家に泊めてもらいました。モンバサの中心地にあるアパートで広い家です。この家に住んでいるのは平山さんという電気の工事でケニアに来ている人ですが、いま、マリンディという町に出張中なので、ミチコと二人で大きい顔をして泊まってしまいました。
8月20日は、モンバサの浜辺に家を借りている北之薗さんの所へ遊びに行きました。通称キタさんは、漁業の仕事です。日中は仕事をしたり現地の人に空手を教えたり忙しく、私とミチコは勝手に家を利用することができました。浜辺のすぐそばに家が建っているので、テラスに座るとヤシの木陰に青く澄んだ海が見えます。沖合に茶色にサビた汽船が座礁したままになっています。浜は白い細かい砂。砂と言うより粉のようです。ハダシで歩くとキュッキュッと音がします。
ミチコは泳げないので、私独りで泳ぎました。誰も居ない海。海が全部私のもので、とても気分よかった。遠浅です。ずっとむこうの浜には海の家があるので、観光客たちが背中を焼いたりヨットを走らせたりしているのが見えます。ケニア人はあまりいません。泳いで遊んでいられるほどヒマじゃないのかもしれませんけど、日中、公園の芝の上で昼寝をしている人はたくさん見ます。
元海外協力隊員だった人で、今はケニアの自動車会社に勤めている方のお家が近くにあって、ミチコと夕食をもらいました。好きでケニアに永住することにしたとはいえ、やはり日本人と話し合うのが楽しいようです。奥さんにはもうすぐ赤ちゃんがうまれるそうです。夜はまた平山さんの家に泊まりました。
8月21日は、バスでマリンディまで出かけました。バスで二時間の道のりです。ヤシは竹やバナナ畑や麻畑やとうもろこし畑がつぎつぎと見え、大きなバオバブの木もたくさん生えています。大きなかごを頭にのせ、こどもを背負い、手にはふろしき包みのような袋を下げた女たちがミチのわきを歩いてゆきます。
マリンディに着いて、宿をさがしたけれど、現地人宿の安いホテルは今はイスラム教の断食の月にあたるせいで、夕方まではあかないのです。観光客用のホテルへ行ってみたら、一人100シル3000円なので、高いと思ってやめました。
みやげものをひやかしていたら、ちょうどマリンディに出張していた平山さんに会って、協力隊員の田本さんの家につれていってもらいました。田本さんは農業の指導に来ています夕食はバス停のそばの現地人の食堂(といっても、木のテーブルといすがならべてあって、壁はなくて屋根だけ)で、ウガリ(とうもろこしの粉だんご)と、牛肉のにこみを食べました。紅茶をのんで120円くらい。
夕方、田本さんの家のまわりはヤシの木やバオバブの木がたくさん生えていて、とても美しい夕暮れでした。田本さんは、さすが農業指導員だけあって、これが綿の苗、これが胡麻、これがカシューナッツの木、こちらはマンゴーの木と、いろいろ説明してくれました。夕日はバオバブの木をかすめて、マンゴーのこんもりした丸い木の陰にしずみました。
綿の木というのもありました。実がなっていて、綿そっくりのふわふわしたのがついています。以前は実際に糸につむいでつかっていたそうですが、綿の中にたねがたくさんあって、それをとりのけるのがめんどうなので、綿を畑に植えるようになってからは使わなくなったそうです。サイザル麻の畑も見ました。気ままに生えているように見えるけれど、こうしてみるとケニアに生えている木や草は、すべて食用になったり、生活に利用できたりします。
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(マンゴーの木、バオバブの木、ヤシの木、バナナの木、ソーンツリーの絵が描いてある。絵はとびきり下手である)
<つづく>
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2011年05月24日
ぽかぽか春庭「モンバサの海とマリンディ」
2011/05/24
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(26)モンバサの海とマリンディ
1979年8月23日発行アフリカ通信8号その2
8月22日、マリンディの町をぶらぶら散歩しました。海岸を歩いたり魚市場へ行ってみたり、バスコダガマが上陸したという所へ行ったりしました。田本さんが仕事を休んで案内してくれたので、悪いことしたと思って、夕食をミチコと二人で作りました。しかし、目玉焼きと粉ふきいもとヤサイイタメというへんな組み合わせになりました。(作るのが簡単なものを選んだため)料理が下手だったので、田本さんのオヨメさんになりそこねたと思います。残念!
夜はナイロビから遊びに来ていた海外協力隊の人々4人といっしょに田本さんの案内で現地のどぶろくのようなヤシ酒を飲みに行きました。ミチコが入院していたときにたいへんお世話になったという人も来ていて、にぎやかでした。しかし、ヤシ酒はちょっとすっぱいような味がして飲めませんでした。焼き鳥のような肉の串刺しにしたものをつまみに売っているのでもっぱらそれを食べていました。
8月23日は、ゲディという町の見物に生きました。アラブ時代の古い遺跡があります。レンガ作りの城壁や宮殿や寺が、ほとんど崩れ去り廃墟になっています。中は思ったより広く、あちこち歩いているうち、ミチコとはぐれ、もうこの廃墟からでられないかと心配になって30分くらい歩いていたら、ひょいと出口にでました。ミチコはすぐそばに協力隊員の教えている学校があるからと、見に行きました。
ではまたね。
1979年8月31日発行アフリカ通信9号その1
8月24日、マリンディの町で海外協力隊の田本さんにお世話になったので、午前中はそうじをしたりお昼ご飯を作ったりしてお礼のかわりにして、午後、またモンバサに戻りました。今日は、一ヶ月続いたイスラム教の断食があけた日なので、何かお祝いでもするのかと思っていたら、何もなくてがっかりしました。
モンバサの協力隊員の平山さんの家に泊まりました。(成田からナイロビへ向かう)飛行機の中で老夫婦といっしょになり話をいろいろした時、ケニアに教え子がいるといっていましたが、それは平山さんのことでした。世の中せまいなあと驚きました。
8月25日は、ミチコとタマラレストランというモンバサで最高のレストランへ行きました。今まで隊員の家にばかり泊まって食事もあまりお金をかけずにきたので、一度くらい豪華にいってみようということになったのです。
オードブルはカキ。これは一皿を二人で食べたけど、量があるので十分でした。次にシーフードキャセロールというのを一つずつとりました。大きな木の器に魚や海老やその他の海の幸、野菜などをココナッツミルクであえたものが山盛りあります。そして大きな蟹が半身入っていました。それにパンとライスとパパイヤがつきました。とてもおいしかった。もう二度と食べられないと思っていっしょうけんめい食べたけど、量があまりにもあるので、ライスはのこしました。これとビール一本で100シル3000円でした。いつも300円くらいの食事をしているのだから、夢のような豪華版でした。夕食は食べられなかった。夜行に乗ってナイロビに向かいました。
<つづく>
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2011年05月25日
ぽかぽか春庭「マサイに一泊」
2011/05/25
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(27)マサイに一泊
1979年8月31日発行アフリカ通信9号その2
8月26日は朝ナイロビについて、Y.W.C.Aに荷物を置いて、ミチコと二人で別にすることもなかったので、ジョントラボルタのグリーズをやっていたので、これなら字幕なくてもいいと思ったので、360円の席に入りました。あと300円の席と600円のいい席があります。内容はとてもたわいなくて、踊ったり歌ったりするので、ことばはわからないけど楽しめました。
8月27日、680(シックスエイテイ)ホテルのロビーで山崎さんと亀山さんと三人で待ち合わせて、マサイのへ行きました。モンバサに行く前にミチコの知り合いというマサイ族の男と出会い、彼が「私はミチコの親友であり、あなたはミチコのいとこだから、特別にマサイのへ連れて行ってあげる。前払いとして100シル3000円払えば、酋長にお土産を買っていって、踊りを見せてくれるように頼んであげる、というので、払ってあったのですが、タクシー代使って村へ一泊しただけで、結局踊りはなかったのです。
マサイの村は、村中牛の糞だらけで、ハエが地面黒く見えるほどいます。女や子供たちの顔や身体にもわんさとハエがたかっています。私たちはマサイ語で「ソバ(こんにちは)」とあいさつして右手で握手しながら左手でハエを追い払うのに忙しい。
マサイの家は泥で固めた丸い家。エスキモーが氷で丸い家を作りますが、それを泥にしたようなもの。しかし、外にはわんさとハエがいるのに、ふしぎなことに家の中には5ひきくらいしかいません。だから、マサイが伝統を変えずにこういう家を作るのは、それなりの理由があるのだろうと思います。
家の中はまっくらですが、お客が来たので灯油のアラジンのランプのようなのをともしてくれました。いろりで木を燃やすのが、いぶくてたまりません。明かり取りの小さな穴が空いているだけなので煙の出口がないのです。それでもお湯をわかしてミルクティをだしてごちそうしてくれました。わたしたちのとまった家の主婦がマサイのビーズのうでわをくれたので、私は日本で買ったプラスチックの腕輪をあげました。山崎さんは別の家で首飾りをもらったので、シャツをあげました。山崎さんは長くてまっすぐな髪をしていたので好かれたのですって。
マサイの女と子供は、頭をそってしまいます。のみ、しらみを考えるとそってしまった方が衛生的です。一日よその村を見たりして終わってしまって、約束の踊りは見られませんでした。寝袋をもっていったので牛の隣のへやに寝ました。夜、牛のおしっこの音がよくきこえました。
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(マサイ族の家の絵、家の中の配置図、ボーマ村の配置図の絵。三度目に書くとしつこいけれど、、、、下手である)
1979年9月2日発行アフリカ通信10号その1
8月26日の夜はマサイに泊めてもらったのですが、さすが安眠はできませんでした。外にたくさんいるハエは、家の中にはいないのですが、なにやら私の知らない虫がとんでくるし(蚊取り線香はたいたけれど、そんなのきかない虫みたい)、となりの部屋で寝ている牛の子はちょっちゅうじゃあじゃあおしっこの音をたてるし。犬が寝てる上に入り込んでワンワンわめいて走り回るし、家の外にいる親牛が、夜目がきかないのか、家にどしんとぶつかる。なかなかよそではできない体験でした。
8月27日には、マサイのセレモニーがあって踊りがみられるという約束で前払いしてあったのに、結局会議だけして踊りはないのだといわれて、見られませんでした。同行の亀山さんは、マサイのに泊まっただけでもいい体験だから、お金はそんなに惜しくないというのですが、私は踊りを見に行ったのに見られなかったのだからブンブン怒って、ガイドとけんかしました。ガイドは話がこじれたら自分だけタクシーで帰ってしまって、私たちは置き去りにされました。
てくてく草原の一本道を歩いていたら、親切なトラックが来て乗せてくれたので、帰ることができました。もしトラックが来なかったら、夜になってもウゴングヒルという山道(山といっても日本のように木はなくて草や灌木だけ)をとぼとぼ歩くハメになったのだから、やはりうかつに喧嘩はできないと反省しました。
しかし、のマサイ族の人はわりに親切だったのでよかった。
<つづく>
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2011年05月27日
ぽかぽか春庭「マラリア」
2011/05/27
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(29)マラリア
1979年9月2日発行アフリカ通信10号その2
8月29日にYWCAにかえって寝ていたら、モウレツに寒くて吐き気がして熱が出ました。風邪かと思って一日寝てれば治ると思い、8月30日は一日中寝ていました。8月31日に寝たり起きたりして9月1日 もあんまり調子よくないけど、ケニアシリングがなくなったので、ドルを替えに行ったりして少し動いたら、また夜は気分悪かった。9月2日にエンドーさんの家に置いてあった荷物を取りにいったら、エンドーさんに、軽いマラリアじゃないかと言われました。海岸地方はわりに蚊が多いから、刺されたのだろうと思います。しかし予防薬を毎週飲んでいたから軽くすんでよかったと思います。
YWCAの6人相部屋です。風邪だと言って寝ていたら同室のオランダから来た女の人がタオルを濡らしてくれたり薬をくれたりして、とても助かりました。浮世絵のハンカチをあげました。
別のへやには玉井さんと下川さんという日本人がいて、いろいろ仲良くしてくれます。下川さんは獣医学科の学生でケニアは3度目だそうです。英語がぺらぺらです。タマちゃんはもう獣医の資格を持っていて、ケニアの動物保護区で動物の病気を診たりする仕事をしたいと言って張り切っています。スワヒリ語がじょうずです。
私ときたら英語もスワヒリ語もカタコトで食事の注文ができる程度だし、何の紹介状も無しにいきなりケニアに来て、やはり準備が不足だったかなと反省しています。何もすることなくベッドに寝ていると、反省ばかりしています。
写真1は日本人と結婚しているウガンダ女性のティナ・モリタさんといっしょにニュースタンレーホテルの前でとったもの、うしろに丸く見えるのがヒルトンホテル。(注:タカ氏撮影の写真です)
その他は、木彫のみやげ品を作っているキカンバというところで、彫刻師やガイドといっしょに取ったものです。
お金はたくさん送ってくれるのにこしたことはありません。ハハハ。
まだ動物保護区へ行くツアーに出たことがありません。マサイマラという、いちばんたくさん動物のいる動物公園で五泊のキャンプで四万五千円というのがいちばん割安というので、再来週あたりは身体の調子もいいようだから行ってみようと思います。キャンプじゃなくてホテルを使うのは一泊で三万円くらい。
やっぱり金額が書きたくなる。値段をいちいち書くなと言っても、これは性分で、こまかく金額を書くことに意味はありません。しいていうなら、日記を書かずにかわりに手紙を書いているのだから、小遣い帳の代わりです。ふだん2シルのお茶を飲んでいて、たまに1シル(30円)のお茶にめぐりあうと、私としてはとてもうれしい気分なのです。
それからミチコといっしょに海岸へ行った時、ミチコのつごうにあわせたので、ギリヤマ族の踊りも見なかったし、ラム島というみんながいい所だという島にも行かなかったのでいってみようと思っています。
ケニア人に、「私は貧乏だ」というと、「いいカメラ持っているじゃないか。オレに売ってくれ」と言われます。私はケチケチ暮らしているようでも、ケニア人は月に1万円の給料で暮らしてくる人がたくさんいるし、収入のない人もいるのだから、やはりぜいたくだと思ってくらしをひきしめているのです。あんまりみじめに思わないでください。お金はミチコの銀行号座に振り込んでもらうのが一番安心だと思うから、ミチコの家に今月下旬に行ったら、どういう方法で送るのか聞いて、書き送ります。東京銀行を通じて送るというようなことを聞きました。
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(2011/06/11付記:私のアフリカ通信にいちいち細かい金額の記載があるのを、姉は「せっかく外国に滞在しているのだから、ケチくさい生活をするな。必要なお金は日本から送金するから」という手紙を書いてきました。私は貧乏旅行を気にしていないのに、姉はケチケチ旅行を「せつない」と悲しみ、送金すると言ってきたのです。
私が金額をかき込むのは、小遣い帳記録なのだからと言い訳をし、こののちも貧乏生活を変えることはありませんでした。姉の送金のおかげで、3ヶ月の滞在予定が9ヶ月に伸びました。)
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<つづく>
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2011年05月28日
ぽかぽか春庭「ナイロビナショナルパーク」
2011/05/28
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(30)ナイロビナショナルパーク
1979年9月2日発行アフリカ通信10号その3
9月1日から15日まではYWCAの半月契約というのが取れたのです。ふつう、一泊35シルで食事がつくと50シルなのですが、15日分で朝昼夜の食事がついて2700シル(8100円)になるのです。だから、15日までは食べるものと泊まる所の心配をしないですみます。やはり、食う寝るは旅で大きな問題です。
しかし安いだけあってYWCAの食事は半分は現地食(キャッサバとか芋とか)朝はトースト、紅茶、卵またはソーセージで、決まっています。
同室の人たちはケニアやウガンダから来ていて、学生か堅い仕事の人が泊まるので、物を盗られたり洗濯物が無くなったりということはないので、へたなホテルより安心です。しかし、相部屋なのだけれど、彼女らには日本的な気の使い方や遠慮はないので、こっちが病気で寝ていても歌いたいときは歌い,大声でしゃべって笑い、ラジオをガンガンかけて踊っています。こちらの人は音楽が鳴ると腰を振って踊ります。とても陽気です。
YWCAの前は庭になっていて、その向こうは公園です。ナイロビは町が小さい割に公園がたくさんあります。
病気のことは、短期の旅行でなければみんなマラリアくらいかかるのだけれど、私は軽いのだし、全然心配いりません。しばらく本でも読んでのんびりしています。今までものんびりしていたけど。ではまたね。9/2(日曜)
1979年9月7日発行アフリカ通信11号その1
九月に入って調子が悪く寝たり起きたりしていましたが、5日は誕生日だし、ベッドに寝てばかりいるのも一週間やれば飽きてくるし、カイキ祝いと兼ねて、ニューフロリダクラブににぎにぎしく繰り込もうと言うことになりました。
栄養学を専攻している木村まさみさんと行ったらエンドさん(DoDoワールド)たちも来ていて、お祝いにビールをおごってくれました。身体が自由に動かせるのは楽しいことです。
たいたい映画とディスコのほか夜に遊びに行くところはないのですから、選択に迷わないですみます。(お金持ちはカジノにいくけど)
9月6日は、エンドさんのツアーに加えてもらって、ナイロビ・ナショナルパークに行きました。ナイロビから30分くらい車で行った所にある動物保護区です。他のナショナルパークに比べ、動物の種類や数は少ないのですが、ナイロビのすぐそばにあるのが利点です。
シマウマの頭越しにナイロビのビル群が遠望できるのですから考えてみると不思議な光景です。
入り口を入るとすぐヒヒに出会いました。カメラを出そうとモタモタしてたらよく見ないうちにいなくなってしまいました。イボイノシシの三頭連れは、しっぽをピンと振り立ててちゃんとポーズをとり、シャッターを押し終わった頃合いを見はからって逃げていきました。愛嬌あるやつです。三等が列を作ってちょこまかと走ります。次に水辺でつるのようなのや蛇食い鷲とか小さな鳥とかたくさんの鳥を見ました。普段はいないというエランド(大きな鹿)を、遠くからですが見ることができて幸運でした。キリンはまったく近くで見ることができました。五頭くらいがあちらの木こちらの木で葉っぱを食べているのです。270ミリの望遠レンズをつけてしまったので、ドアップのキリンを写しました。
<つづく>
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2011年05月29日
ぽかぽか春庭「ジャカランタの花」
2011/05/29
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(31)ジャカランタの花
1979年9月7日発行アフリカ通信11号その2
(ナイロビ・ナショナルパークの)シマウマの群れとトムソンガゼルやグランドガゼル(しかの仲間)は、近くに遠くにたくさんいました。一度などは車の道にガゼルが出てきて、鼻つきあわせて観察しあいました。全然こわがりません。
川辺を歩いて見ることができ、カバがのんびりと水につかっていました。10分くらい水に潜って背中だけ見えているのです。オーイでてこい、と呼んでも出ないので、みんなでバカカバチンドンヤと言ったら、鼻を水面に出してフファーと息をしました。小さなサルもたくさんいました。
チータやライオンなどの大型動物はみられませんでしたが、草食動物はたくさんいたし、楽しい一日でした。キリンなんか、みきさよに見せたら大喜びだろうな、と思いながら見てました。
9月7日はボーマス・オブ・ケニア(ケニアの家・民家園)に行きました。三度目です。今日は早く行ったので、民家をゆっくり見学できました。土と草の家ですが、部族によって内部は何もしきってなかったり、編んだ竹で区切ってあったり、土壁で仕切って真ん中に柱があるのとないのとあったり、少しづつ様式が違います。
天井の作り方ではルオ族のが一番きれいで、日本でも茶室なんかこんなふうにしたあるのがあるなと思いました。
(民家の絵。いつも通り、絵は下手)
踊りは前に土曜と日曜にみたので今日は金曜だから、あらかたのプログラムは見たことになると思います。単純な踊りですが、けっこう疲れると思います。もうだれがうまく踊る人だか顔を覚えたので、その人の動きをよくみて、足の動かし方とか見てました。
ナイロビは一年中花が咲いているそうですが、今ジャカランタという木の花が盛りでとてもきれいです。ウフルーハイウエイという大通りにはこの木がたくさんあって、遠くから見るとぼうっと薄紫に重なって見えます。
YWCAの庭にも咲いています。色が落ちてしまうけど押し花にしました。赤いのはブーゲンビリアと皆が言ってるけど、よく知りません。それとおもしろいのにほ乳ビンを洗うブラシにそっくりの赤い花があります。タワシフラワーと名付けました。
自分への誕生プレゼントとして、360シルの本を買いました。「アフリカン・ダンス・アート」という大きい本です。320シルに値切った。一般の本屋では、ダンスの本はこれしか出版されていないのです。
よくよく考えてみると誕生日などとうれしがっている年ではないのでありまして、花の中年乙女になったからは、フンレイコッキドリョクを重ねて生きていかねばと身をひきしめ心ふるいたたせ、がんばっていこう!
同室の19才の子が「わたしより年下だろう」というので「ちがう」というと、「じゃ、いくつだ」とくい下がるのですが、あまりにもあまりの年なのでことばをにごしております。
夜になると男の子たちが大勢入り口に立って、ガールフレンドをむかえに来ます。みんないそいそと遊びに出かけ、日本人組はしょぼんと、はるか日本へあて手紙など書いてすごしております。木村さんとタマちゃんと私、21才と25才と30才の3人組です。
ではまたね。
<つづく>
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2011年05月31日
ぽかぽか春庭「ナマンガへ」
2011/05/31
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(32)ナマンガへ
1979年9月20日発行アフリカ通信12号その1
9月9日から18日まで、ケニアとタンザニアの国境の町ナマンガに行っていました。途中着替えを取りに二日間ナイロビに戻ったのですが、一週間以上滞在していたことになります。ナイロビは都会ですが、ナマンガは小さな町(というより)なので、おもしろかった。
9月9日日曜の朝、高橋和枝さんが、私のYWCAに尋ねてきました。高橋さんとタカ氏と二人でナマンガに行って帰ってきたのだけど、もう一度行くからいっしょにいかないかと誘ってくれたのです。10日にナマンガ小学校を見学する約束をしたというので、おもしろそうだから行くことにしました。
買い物をして必要なものをそろえたり(小学校へのおみやげとか)荷物を作ったりして、午後三時ごろの乗り合いタクシーで行きました。乗り合いタクシーは8人のりで、ナイロビ-ナマンガ間160kmを2時間で行きます。バスは、タクシーの半値で4時間かかります)。バスは朝7時と12時の2本だけなのでタクシーになりました。タクシーは1000円くらい。
高橋さんとタカ氏は、タンザニアに行くつもりでナマンガへ行っていたのです。現在、資本主義国のケニアと社会主義国のタンザニアは国交を閉ざしているので、隣同士の国なのに、直接行き来できません。ケニアからエチオピアへ行って、エチオピアからタンザニアへ行くとか、ルワンダやブルンジなどの国を通ってからでないと行きません。
安い飛行機は、ウガンダのエンテベ空港を通って行くのがあるのですが、ウガンダは今、アミンが追放された後もめちゃくちゃでたいへん危険で、毎日人が殺されているというウワサだし、なんといっても飛行機を使えば片道10万円くらいかかります。国境さえ通れれば1500円でタンザニアに行けるのです。
ナイロビからナマンガまでは、マサイランドというマサイ族が住んでいるサバンナ草原を通っていきます。サバンナといっても、今は乾期なので黄色く枯れた草が地平線まで続き、日本でいう草原とはだいぶちがいます。所によって、枯れ草の中にまばらに灌木がはえている所もあれば、草だけで見渡す限りに何もはえていない所や、ソーントゥリーというとげのある木がたくさんはえている所や、いろいろあります。
しかし、なんといっても広いので、けしきはいつまでも同じようで、ずっと見ていたら眠くなりました。起きたら今までは地平線があったのに、今度は低い山が草原のまわりを取り囲んでいる景色になりました。
5時ごろナマンガに着きました。
(ウガンダ・ケニア・タンザニア、インド洋の略図にナイロビとナマンガの位置を示した手書き地図つき)
まず、国境の事務所にあいさつに行きました。
ケニア側はどうということないのだけど、タンザニア側の事務所はなかなかきびしいという高橋さんの話です。ナマンガの町は、道の両側に何軒かの店があるという田舎の町です。
(ナマンガの町のケニア側、タンザニア側の店や施設の略図手書き)
<つづく>