パスキン展入り口のパネル「これ以外はビル内のすべて撮影禁止」と書かれていました。
20150314
ぽかぽか春庭@アート散歩 >春咲アート(2)パスキン展inパナソニック汐留美術館
「エコールドパリ École de Paris」は、パリ派とも称された画家達の一派で、1920年代を中心に世界各地からパリに集まった画家達をいいます。日本の藤田嗣治(レオナルド・フジタ
)、ロシアから逃れてきたマルク・シャガール、イタリア出身のモディリアーニほか、さまざまな土地からボヘミアンとしてパリに流れ着いた画家達が、モンパルナスやモンマルトルを中心に、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間の、つかの間の安定享楽の時代を彩りました。
汐留ミュージアムのパスキン展副題は「生誕130年 エコール・ド・パリの貴公子」
酒と恋愛に酔いしれたパスキンに与えられた呼び名は「モンパルナスの王子」「狂乱の時代の寵児」
パスキン(1885-1930)は、ブルガリアの生まれ。裕福な穀物商の家で不自由なく育ちましたが、家庭的には、幼い頃から父親に違和感を感じていました。唯一心をくつろがせてくれるものが、女中部屋に逃げ込んで絵を描いている時間。パスキンは年少より画才を発揮しました。しかし、父親はユダヤ人商人として当然なことに、お金もうけを大事にした人であり、息子にもその商売を受け継ぐことを期待しました。仕事を手伝うようになってもいやでたまらず、家出同然にドイツに出ました。
ミュンヘンの美術学校で学んだのちに、素描が認められ、19歳のときには挿絵画家として新聞や雑誌と専属契約で執筆料を受け取る生活になりました。父親との確執から絶縁状態となったパスキンですが、自分の画才によって自立を勝ち取りました。しかし、資本家として成功する父への反発から、パスキンは「お金は消費するためにある」と、生涯「宵越しの金は持たぬ」式の放蕩生活を続けました。
パスキンという画家名は、本名Pincasのアナグラム。「挿絵画家などという浮ついた仕事に、由緒あるピンカスという名を使うな」と言われたので、綴り字を入れ替えてPascin」の名をつけました。
1905年、本格的に油絵画家として成功を収めようとパリに移住。ボヘミアンが集まったエコールドパリの画家達の中でも、きわめて裕福な立場にあり、浪費と享楽の末に45歳で自殺。
展示は、パスキンの作品が年代順に並ぶ構成。
第1章ミュンヘンからパリへ 1903-1905
第2章パリ、モンパルナスとモンマルトル 1905-1914
第3章 アメリカ 1914 / 15-1920
第4章 狂騒の時代 1920-1930
1907年に画家仲間のエルミーヌ・ダヴィッドと出会い、そのすぐあとに描かれたエルミーヌの肖像画。
パリで売れっ子となったのちのパスキンは、真珠母貝色と言われる特徴のあるやわらかい色彩で、ふんわりとした女性の肖像を数多く描きました。しかし、初期のこの肖像ではまだ、真珠母貝色が使われておらず、エルミーヌの表情もとても硬い感じがします。10年後にはアメリカで結婚することになるエルミーヌですが、パスキンに愛情があったら、もうちょっとやさしい表情に描いたのじゃないかしら。
「エルミーヌ・ダヴィッドの肖像」1908 グルノーブル美術館蔵
1914年に第二次世界大戦が勃発。パスキンはブルガリアでの徴兵を逃れるためにアメリカに渡り、1918年にエルミーヌと結婚し、アメリカ国籍を取得しました。
第一次世界大戦が終結したのちの1921年、パリのモンマルトルに住み、真珠母貝色の女性像は大人気となり、画商に高く取引されました。
大勢の取り巻きに囲まれ、気前よく誰にでもおごってやるパスキン。どんどん絵は売れ、さらに浪費は増えます。パリのカフェでの酒と薔薇の日々。
しかし、その結果、アルコール依存症と鬱病に犯されます。パスキンの金を当てにする大勢の取り巻きはいても、パスキンの心の空洞と孤独を理解する友人はいませんでした。ただ一つの心のよりどころは、友人ペル・クローグの妻のリュシーの存在。夫の女性関係が原因で別居中だったリュシーも心のよりどころがほしかったのでしょう。
テーブルのリュシーの肖像 1928 個人蔵
しかし、パスキンの放蕩はリュシーをも傷つけ、ふたりの関係はやがて破綻しました。リュシーが去ったのち、パスキンの心の空洞を埋めるものは、何ひとつなくなりました。
1930年パスキンは手首を切った血でドアに「「ADIEU LUCYさよなら、リュシー」と書いて首をつりました。なんとも壮絶な死ですが、日頃から「芸術家は45歳までに成し遂げた仕事がすべて。それ以後は残りカス」と言っていた通りの45歳での自殺でした。
亡くなった年の作品
ミレイユ 1930 パステル、厚紙 ポンピドゥー・センター蔵
パスキンが描いたのは、パリの娼婦やアメリカや南米の下町の人々。太っていてけっして「絵のように美しい」とは言えない娼婦だったり、貧しい身なりの路地裏の人々だったり。
画壇の潮流は、新印象派、野獣派、立体派と移り、画商は将来の値上がりを期待しつつ新作を買いあさりました。パスキンは、画壇のどの流れにも身を任せず、自分自身の画風を打ち立てました。
私はパスキンの作をあちこちでの美術館で1点また1点と見てきましたが、このようにまとまった点数での展示は始めてでした。
パスキンの一生をたどりながら絵を見ていく年代別の構成。パスキンは、父親と相容れずに家を出て以来、放蕩の中で過ごすことによって自分自身の孤独と悲しみをまき散らし、ついには悲しみの中に沈んでしまったのかなあ、と感じる展覧会でした。
描かれた少女も、女性達も、ほとんどが悲しい顔をしているのです。笑顔を画家に向けている女性はいませんでした。同じような時代に、同じようにふんわりとした色調で女性たちを描いたマリーローランサンの絵のなかでは、画家に笑顔を向けている人もいたというのに。
パナソニックビルは、汐留再開発によって林立したビル群のひとつ。電通ビルや日テレビルと同じように、現代日本資本主義の牙城のごとくにガラスや鉄筋が輝く高層ビルです。
ビルの中を写すな、というパナソニック様からのお達しゆえ、許可された入り口パネルのほかは写しませんでした(嘘)。
1930年の享年から85年たっているパスキン。私は、著作権が切れている絵画は、全人類の宝として公開すべき、という個人的信念をもっています。個人所蔵であっても、美術館に貸し出し、画像も公開して共有すべきだと。
今回の展示資料や絵画作品は、パスキンの作品の管理をしているコミテ・パスキン(Le Comité Pascinパスキン委員会)協力のもとに集められたのだそうです。
むろんキュレーターが作品をかり集めた苦労や展示構成のデザイン著作権などは、尊重されるべきですが、図録が売れなくなるという理由以外に撮影不許可の理由はないと思うので、汐留駅に大きく掲げられている美術館案内ポスターとともに、チケットのデザインになっている絵のもとの絵を掲載します。
汐留駅構内
<つづく>