春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ミンガラ春庭「2015年12月目次」

2015-12-31 00:00:01 | エッセイ、コラム


20151231
ミンガラ春庭>2015年12月目次

1201 ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴン暮らし11月12月(1)ドタバタヤンゴン生活開始
1202 ヤンゴン暮らし11月12月(2)さらにドタバタヤンゴン生活
1203 ヤンゴン暮らし11月12月(3)もっとドタバタヤンゴン生活
1205 ヤンゴン暮らし11月12月(4)教員宿舎お引越し

1206 ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴンの寺(1)カバーエー・パヤー
1208 ヤンゴンの寺(2)夜明けのシュエタゴン・パヤー
1209 ヤンゴンの寺(3)ダラの蛇寺

1210 ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記12月(1)2003年の地学巡検
1212 2003三色七味日記12月(2)2003年の文集つくり
1213 2003三色七味日記12月(3)2003年のオフ会
1215 2003三色七味日記12月(4)2003年の漢字クイズ
1216 2003三色七味日記12月(5)2003年のトカゲ娘は夜に鳴く
1217 2003三色七味日記12月(6)2003年の成人式写真
1219 2003三色七味日記12月(7)2003年の500色の色鉛筆

1220 ミンガラ春庭ミャンマー便り>2015ヤンゴン日記12月(1)ライン市場買い出し
1222 ヤンゴン日記12月(2)キングカフェ from Tokyo
1223 ヤンゴン日記12月(3)ヤンゴン日常生活外食編
1224 ヤンゴン日記12月(4)お手玉授業
1226 ヤンゴン日記12月(5)ヤンゴンボクシングディ
1227 ヤンゴン日記12月(6)ジャパンプェエトー日本祭り
1229 ヤンゴン日記12月(7)ももちゃんち再訪

1230 読書メモ 2015年7-12月
1231 2015年12月目次

~~~~~~~~~~~

 春庭の愚痴と泣き言ブログに、おつきあいくださいまして、ありがとうございました。
 みなさま、よいお年を!
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ぽかぽか春庭ブックスタンド2015年7月~12月

2015-12-30 00:00:01 | エッセイ、コラム

ダニエル・ハンティントン

20151230
ぽかぽか春庭ブックスタンド>2015年7~12月読書メモ

・百円本半額本 @図書館本 ¥定価購入本 *図書館廃棄本 +もらいもの

<日本語・言語文化>


<評論・エッセイ>
・野村進  『コリアン世界の旅』2009講談社文庫
¥高橋源一郎『ぼくたちの民主主義なんだぜ』2015朝日新書
¥中野京子 『怖い絵2泣く女』2011角川文庫
・村上春樹 『日出ずる国の工場』1987新潮文庫
・藤原新也(選)『インド読本』1988福武文庫
・藤森照信 『タンポポ・ハウスのできるまで』2001朝日文庫
・司馬遼太郎『沖縄・先島への道』1997(1978)朝日文庫
・司馬遼太郎『白河・会津のみち 赤坂散歩』2005(1994)朝日文庫
・司馬遼太郎『南蛮のみちⅡ』1988朝日文庫
・司馬遼太郎『ロシアについて』1992(1976)文春文庫
・NHKプラネットアース『地球の素顔』2007Gakken
・片岡寧豊 『万葉の花』2014(2010)青幻社  

<小説・ドキュメンタリー>
・辻邦生  『風の琴』1992文春文庫
+ ふくやまけいこ『高山潮五郎の生涯』2014藤岡市教育委員会
@井上ひさし『言語小説集』2012新潮社

<アート>
・『世界名画の旅6アメリカ編』1989朝日文庫
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ミンガラ春庭「ダウンタウンのmomoちゃんち再訪」

2015-12-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
2015129
ミンガラ春庭ミャンマー通信>2015ヤンゴン日記12月(7)ダウンタウンのももちゃんち再訪

 日本の皆様におかれましては、25日には仕事納めをすませて、26日土曜日から1月3日まで9連休という会社も増えたとか。ま、それほどたっぷりではなくても、1月1日に働く人は平日よりは少ないでしょうし、年末年始に働く人は、そのあと代休とかがある。

 当地ヤンゴンには年末もなく、31日まで授業だとぼやいておりました。ニューイヤーホリディは1月1日のみだ、なんでこう働き続けるのだと嘆いておりましたが、休みが1月1日のみ、なんて、そんなことはないのでありました、、、、ニューイヤーホリディは1月1日のみどころか、1月1日も祝日ではなく、平日。会社は仕事するし大学は授業する。晦日も正月も当地にはなし。当地の新年祝いは4月です。でも4月の水掛け祭りのときは、帰国していますから、休日関係なし。

 衝撃!せめて1月1日だけは新年祝日なのかと信じてきたのに。
 晦日も1月1日も平日で、当然代休もなし。

 クリスマスイブイブの天皇誕生日に休めないのは仕方がないとして、1月1日が祝日にならないのは衝撃でした。
 祝日はそれぞれの国の大事な日ですから、ミャンマーにはミャンマーの大事な日があります。国軍記念日3月27日です。って、土曜日だよ!!

 てな具合で、日々の労働に励んでいる春庭です。

 特に12月は当地では新学期開始。新入生は入ってくるし、科目登録はあるし、50人分の椅子しかない教室に120名まで登録させろというので、選抜試験をしなければならなかったし、毎日ブラック企業サービス残業の日々でした。残業しても残業手当などなく、欠勤するとその分の日給は差し引かれる、という勤務形態です。

 さて、そんな過酷労働のなか、momoちゃんちに行ってきました。
 9月にmomoちゃんのお宅におしゃましたことを書きました。本名はAzunmo(エイズンモー)さんですが、通称は「momo」さん。
 9月に、約束しました。12月にヤンゴンに来たときは、momoさんと私でミャンマー語と日本語の相互教授をしましょう、と。

 しかし、当地は12月が新学期。私は新学期立ち上げで多忙であったし、彼女も試験があったりで、ようよう27日に彼女の家に行くことになりました。

 写真を撮らせてもらった、momoさんの家の居間。一番大事なのはお釈迦様おわす仏壇です。夜になると、お釈迦様後ろの光背が、ネオンサインみたいにぴかぴか光ってぐるぐる回るのです。



 夜に電気がついてぴかぴか光る光背は、ミャンマー仏壇の標準装備。お店の片隅にもIT企業の事務所でもお役所でも、どこでも仏壇があります。


 部屋のもう片隅には、「ナッ神」の像も。
 来世によい生まれになることを願うお釈迦様。現世のことは、ミャンマーの土俗神である「ナッ神」にお願いする。日本の神仏習合とはことなり、仏と神は、全く別の存在として意識されており、「ナッ神」は仏とは別に現世利益のために信仰されています。


 実を言うと、日本語とビルマ語の交換教授の約束、私にとって少々荷が重くなっていたのです。momoさんの希望は、土曜日か日曜日。下町のmomoさんの家で教えあう、ということだったのですが、やはり仕事を月-金でこなすと、土日はでかける気力もなく家で休むのが一番、という気になってしまいます。

 そこで、東京の派遣元大学からヤンゴンに1年間の交換留学で来ている女子学生ふたりに、momoさんを紹介することにしました。大学学部1年次夏休みにショートステイ、学部3年か修士課程1年で1年間の交換留学生となることが、推奨されている、語学専攻の大学ですが、今回3年生で留学したのは同期8人のうちこの2名のみ。修士課程はなし。

 交換留学生は、大学構内の女子寮に住み、必ずミャンマー人ルームメートと同室になります。ルームメートがなにくれとなく世話をしてくれるのですが、寮と大学校舎の往復だけでは、寮の外の世界に出て行く機会が少なくなります。

 買い物などに行くのは、近場のレーダン市場でも間に合いますが、ミャンマー人の一般家庭を訪問し、ミャンマー語を話す機会が得られれば、語学留学の目的にとっても、利のあることです。
 momoさんは、外国語大学ロシア語学科でロシア語専攻しているほか、フランス語、韓国語の交換教授もしています。中国語の交換教授は、中国人留学生が帰国してしまったので、今はおやすみ。そのかわり、これまで続けてきた日本語の勉強を強化したい、という希望を持っています。

 ビルマ語を学びに来た留学生ふたりにとって、週に一度くらい寮の外の空気を吸うことがよい刺激になるだろうと思いました。
 momoさんとの交換教授をふたりにお願いできないかと思い、27日にいっしょにmomoさんの家に行きました。ふたりは、momoさんと意気投合し、毎週日曜日に交換教授をする約束が整いました。

 ふう、よかった。私が日本語を教える時間がない、となったら、9月にかわした約束を破ることになるし、どうしようと思っていたので、助かりました。
 1時半から3時半まで、1時間交代で教え会う約束です。

 momoさんのお母さんが、ミャンマーデザートをふるまってくれました。ココナッツミルクの甘い汁のなかに、春雨みたいなゼリーみたいなのが入っています。このおやつの名前をきくのを忘れました。


 美人親子と並ぶのは気がひけますが。記念に。
 部屋の壁には一面家族の写真が飾られていますが、アウンサン将軍とアウンサンスーチー女史の肖像も。NLD(国民民主連盟・National League for Democracy、NLD)支持者の家の標準装備です。


 3時半にmomoさんの家を辞し、女子留学生と下町をぶらぶらと歩きました。インド人街と呼ばれるあたり。通りからはクミンやターメリックを使ったインドカレーの匂いも漂ってきます。


 通りのチャイ屋で、ヨーグルトを飲んで一休みしました。インドヨーグルト飲料ラッシーは、濃くて甘い。


 古ぼけたビルの間を通り抜けました。たぶん、英領時代からのビルが残されている。メンテナンスということをしないお国柄なので、どのビルも薄汚れ古びています。
 たぶん、築80年100年という建物。日本なら文化財なのですが、ふつうに人が住んでいます。




 寮の門限は6時というので、5時過ぎにはタクシーを拾いました。「私たち交換留学生は、きちっと門限を守ったり大学の規則を守らないと、次の交換留学生に不利なことになったり、私たち自身が留学中止に追い込まれたりしかねないので、品行方正規則遵守で暮らさなければならないんです」と、女子留学生はかなりきまじめな生活ぶり。
 うん、週に1回下町に出かけるのはきっとよい留学効果をもたらすだろうと、安心しつつ帰宅しました。

<おわり> 
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ミンガラ春庭「ヤンゴン日本祭り」

2015-12-27 00:00:01 | エッセイ、コラム


2015127
ミンガラ春庭ミャンマー通信>2015ヤンゴン日記12月(6)ヤンゴン・ジャパンフェスティバル
 
12月12日土曜日、在ミャンマー日本大使館、ヤンゴン日本人会などが主催する「Japan Pwe Taw ジャパンプゥエトー2015」(日本祭り2015)に出かけました。

 ボス夫妻が顔を出して大使館書記官などには挨拶すると言っていたので、私は行かなくてもいいかな、と思っていました。しかし、ヤンゴン情報を見ていると、スズキ君が和太鼓を演奏すると出ています。スズキ君は、派遣元大学の4年生。当地の外国語大学日本語学科で「日本語パートナー」という国際交流基金の事業に参加しています。
 日本文化披露のひとつとして「和太鼓演奏」を行う、というお知らせを見て、こりゃあ行かなくちゃと、午後3時過ぎにタクシーを拾う。

ジャパンプェトーポスター


 前回までは屋内で実施されていた日本祭りを、今回はホテルの庭を利用して屋外で行う、ということです。そのミャ・イェ-ッ・ニョ・ホテル、タクシーの運転手にホテル名を言っても私の発音では伝わらないし、地図をさしても、当地には地図リテラシー教育がないので、見方がわからない運転手が多い。とても入り組んだ道の奥にあるホテルに、ようよたどり着きました。

 ホテルのエントランスロビーでは、剣玉教室、水引制作体験、ゆかた着付け教室などが行われていました。

ゆかた着付け

ゆかた着てうれしい記念撮影

 
 ホテルの庭では、空手道場の演武が行われ、続けて剣道を習っている小学生たちの練習模範演技、よさこい踊りチームの演舞。よさこいはあまりじょうずではありませんでしたが、ミャンマー人たち、いっしょうけんめい日本の文化を体験しているのだな、と感じました。



 いよいよ和太鼓の番です。スズキ君に「私は和太鼓が好きなので、もう2年前になるけれど、池袋の公会堂で民俗芸能大会があったとき、秩父太鼓を聞きました。とても良かったですよ。高野社中というグループでした」と、話したら、なんとスズキ君は5歳から和太鼓を習い始めて、10歳からは、秩父高野社中で和太鼓修行を続けた人でした。海外演奏にも参加してきた本格派。
 高野社中の親方のもと、10年以上腕を磨いたというだけあって、見事な演奏でした。

あいさつするスズキ君(写真UP許可済み)


本格的秩父太鼓の披露には、道具も足りないということで、今回は八丈太鼓の演奏でした。

 帰りにタクシーを拾うのがまた一苦労でした。大通りに出れば拾えるかと、たしか、来るときタクシーはこっちから曲がってきたんだよなあ、という方向に歩いていったら、真っ暗な中、案の定、道を間違えたようでした。途中に交番があったので、おまわりさんに「え~ん、タクシーが拾えないよう、おうちへ帰りたいよう、ニャンニャン」と泣きつきました。ミャンマーのおまわりさん、困ってしまわないで、私といっしょにタクシーがつかまるまで、30分も道ばたに立っていてくれました。親切です。
 おまわりさんがようようつかまえてくれたタクシーは、これからジャパンフェスティバルに出かけるという客を乗せたタクシーでした。

 客がもう乗っているタクシーですから、私は助手席に。
 ミャ・イェ-ッ・ニョ・ホテルで客を降ろしたあと、ドライバーはカタコト英語でずっとしゃべり続け、私も無理矢理乗り込んだ義理もあるし、お話相手をつとめました。
 運転手が家族のことなど尋ねるので、娘と息子が日本で留守宅を守っている、なんて話をしました。娘さんは結婚しているかと聞かれたので、まだだと答えると、それなら、私がムコになろう。すぐ娘さんをヤンゴンに呼んでくれ、すぐに法律の手続きをするから、という。まあ、定番の話題でした。

 最後に迷子なりかけのオチがついたけれど、ジャパンフェスティバル、和太鼓もすばらしかったし、4時過ぎだとそれほど暑くもなく演舞も見ていられました。残念なことに、ヤンゴン市内の日本料理店が出店している屋台の食べ物は、4時過ぎにはほとんど売り切れで、まだ売っているのは、ブルーに染められた綿菓子の屋台だけでした。綿菓子はやっぱり白でしょう、と思って買わなかった。

 大勢の人々がジャパンフェスティバルに出かけてきた熱意、日本への熱い期待を感じました。

 庭での日本文化紹介を見るために集まっている人々


<つづく>
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ミンガラ春庭「ヤンゴンボクシングデー」

2015-12-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151226
ミンガラ春庭ミャンマー便り>2015ヤンゴン日記12月(5)ヤンゴンボクシングデイ

 ボクシングデイというのは、クリスマスの翌日、家で食べたごちそうの残り物を、使用人のために箱(ホックスBox)に箱詰めにする(Boxing)することですって。
 もともとは、クリスマスミサの翌日に、教会が貧しい人たちのために残り物を与える、聖ステファノ(聖人ステファン)の祝日。英連邦キリスト教圏で盛んな行事だということですが、英語圏でもキリスト教圏でもない日本、そもそも使用人なんぞいる家庭はごく少ないでしょうし、一般的には流行らなかった行事です。ハロウィーンはあっというまに大はやりになったのに。

 当地は、英領時代に少数民族をキリスト教に改宗させて軍人として採用し、ビルマ民族対策としていた経緯があるので、大多数を占める仏教徒にとって、キリスト教徒は、対イスラム教徒よりは軋轢が少ないですが、政治的宗教的になにかと微妙な間柄です。

 仏教が国教(に準ずる宗教)である当地。満月の日に行われる仏教行事日は祝日になっています。そして、イスラム教キリスト教にも配慮して、イスラム正月とクリスマスも祝日になります。
 クリスマス25日金曜日は祝日で、大学も休み。しかし、年末は12月31日まで仕事です。

 日本でクリスマスが国民行事として定着したのは、もともと冬至を祝う古くからの感覚があったからです。冬至は、短くなってきた太陽の生命力がこの日に復活し、だんだん活力を取り戻すめでたい日。ゲルマン民族の冬至の祭りも、キリスト教と結びつくことで、冬至祭りがイエス様の誕生日となったのであって、冬至を祝う感覚は、日本もキリスト教圏も同じ。

 春夏秋冬ではなく、乾期暑季雨期の三つである当地には、当然「冬至」は無縁です。街中にはクリスマスツリーをデコレイトしている店もあったし、用品店には赤いサンタ服を売っている店もありましたが、町全体としては、クリスマス、カンケーネー、の感じ。こどもたちへ、サンタさんがプレゼントを運ぶという習慣もきかない。
 そもそも子供の誕生日には、両親揃ってお寺にお参りをして僧侶に寄進をするのが誕生日祝いです。誕生日の人は、周囲の人に感謝をこめて、贈り物をする。イエス様の誕生日なら、イエスさまが、「みんなぁ、2000年ものあいだ、私をしんじてくれていて、ありがとさん」と、信者の家にプレゼントを配っていくのが筋、と思うんじゃないかな。

 私にボックス詰め合わせをプレゼントしてくれるありがとさんの方はいませんでしたけれど、私は、ボス夫人にお手玉授業のお礼としてシルク布地をプレゼントしました。
 ミャンマーシルクを買いたかったのですが、店がわからなかったので、輸入タイシルク専門店で。

 いつもロンジーをすてきに着こなしているボス夫人に、どんな色が好みかわからないので、オレンジ系、ブルー系、パープル系の3着分を買い、選んでもらったところ、ブルー系がいちばんすてきとおっしゃったので、ブルーをプレゼント。ボス夫妻は、24日夜、日本へ帰国。

 私は残ったパープル系で、当地の衣装であるロンジーを作ることにしました。今年たくさん働いた、自分にごほうびです。
 24日昼休みに、大学近くのレーダン市場で買い物。夕食用のカリフラワーやみかんを購入。インドネシアのバティック柄コットンが目に入ったので、これも買いました。あとでシルクといっしょに、ロンジー縫製の店で仕立ててもらおうと思います。

 24日夜は、イブだろうとなんだろうと恒例の停電。宿舎に帰ったら自分の部屋のドアもわからないようなまっくらけ。守衛さんがライターをつけて鍵穴の位置を教えてくれました。

 1時間たっても電気回復せず、パソコンのバッテリーも緊急連絡用にとっておかなければなりませんから、8時すぎ、なにも食べずに寝てしまいました。午前2時に目がさめたので、カリフラワーを茹でて、みかんといっしょにたべました。なんとヘルシーなダイエットディナー。
 ロンジー履いてもくっくりわかるおなかのポンポコリンが。すこしはへこむといいのだけれど。

 25日は、当地の教会にクリスマスミサ見学に行こうかなあと思っていました。
 でも、午前中ずっと停電で、休日にしかする時間がない洗濯なのに、洗濯機は電気なしでは回ってくれず、電気回復まで待つことにしました。午後1時間ほど電気が回復したので、その間に洗濯。洗濯干し終わったら、また停電。
 出かける気分じゃなかったのですが、こういうとき、停電で信用おけない冷蔵庫には白菜とキャベツの残り物しか入っていない。料理気分も失せてしまいました。
 
こんなときありがたいのは隣のMICTパークです。最先端のIT企業が集まっているところですから、隣近所がいっせいに停電しても、自家発電のジェネレーターが働き出す。思った通り、MICTパークには電気がついていました。しかし、カンティーンの食堂はみな休業中。キングカフェだけ皆川夫妻が店にいましたが、それは今日のクリスマス休業中に、店の前をレンガで舗装するため。工事人たちはクリスマス関係なく働いていました。
 キングカフェに明日土曜日のランチデリバリーを頼んでインセイン通りへ。

 MICTパークインセイン通り側の出口の向かい側にある「タイポット」という焼き肉屋が開店していて、賑わっていました。
 家族連れや友人グループでいっぱいの店内でひとり焼き肉。カセットコンロの鍋の中央はジンギスカン焼き肉、そのまわりにお湯をはってこちらはスープ煮にして食べる。

 一人前は10000チャット1000円で食べ放題。ただし、日本人の味覚からいうと、牛肉豚肉は固すぎて、いくら食べ放題でも、噛んでいる歯が疲れる。まあまあなのは鶏肉と魚、いか、えび。しかし、「あ、しまった、醤油瓶もってくるんだった」と、思いました。焼き肉のたれは、ナンプラーっぽいのに唐辛子入れたたれと、ケチャップにチリソースいれたのと。むしろ塩だけで食べたいと思いましたが、ここで食べるという気もなく寄ったので、「塩、ください」というミャンマー語も出てこない。英語はまったく通じない。もしかしたら、タイ語がわかる店員がいたのかもしれませんが。

 私がまごまごしているとみて、店員のひとりが焼く係を引き受けてくれて、私は食べる専門になりました。やさいをたっぷりたべたかったのだけれど、彼は肉のほうがごちそうだと信じていて肉のブッフェに取りに行こうとしたので、必死に単語を頭にうかべて「ンガー(魚)、チェッター(トリ肉)」と叫ぶ。。彼は理解して、英語表記ではButterfishと書いてあった、よくわからない魚を持ってきてくれました。

 食べ放題だとついつい「モトとらなきゃ」という気分になる私。おなかいっぱい食べましたとも。
 店内には50年代60年代ポップスがかかっていて、私にはなつかしい、「カラーに口紅」とか、「オブラディオブラダ」とかいっしょに口ずさみながら食べました。女性歌手がカバーしている日本語の「上を向いて歩こう」がかかったので、カラオケがわりに歌いました。すみっこのテーブルでひとりカラオケのバーサンのうた、だれも聞いちゃいないので、ヘーキ平気。

 宿舎への帰り道。MICTパークの中には守衛さんしかいないので、上を向いて歩こうを歌いながら帰りました。
 ♪ 上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 泣きながら歩く ひとりぼっちの夜
   悲しみは星のかげに 悲しみは月のかげに、、、

 ららら、クリスマスの夜は満月。秋のスーパームーンを見逃したけれど、クリスマスムーンもとっても大きい。ヤンゴンの夜空に煌々と月明かり。
 上を向いて歩こう!

 ボクシングディのプレゼントは、箱づめでなくメールで届きました。娘が日本でオトート君のために作ったクリスマスケーキ。いつも母と3人だったのに、母がいないから、小さめのスポンジケーキを土台にしたけれど、生クリームはいつもと同じ量だったから、やたらにクリームが分厚く塗られたケーキになった、という品。私には、目のごちそうです。


<つづく>
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ミンガラ春庭「お手玉授業」

2015-12-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151224
ミンガラ春庭ミャンマー通信>2015ヤンゴン日記12月(4)お手玉授業

 12月18日金曜日は、ヤンゴン大学理系学部の大学祭ということで、授業は全学休講でした。今回も含めて、私たちには大学の行事も学年暦も何も知らされていないので、私は学生に「金曜日にも日本語レベル2のクラスがありますよ」と、伝えてしまいました。しまった、全学休講ときいて、授業にこない学生も出てくるだろうな。

 22日に行われるレベルチェックテスト(プレイスメントテスト)のために、プレ授業として復習講座を3回続け、18日は4回目の復習を行うはずでした。
 36名登録があったレベル2のクラス。みな、9月の期末試験の前には授業に来なくなっていたので、プレイスメントテストを行って30名までを選抜し、新しいクラスを編成するのだ、ということを聞いていない学生がほとんど。そのため、復習講座を開いてからテストを実施することにしたのです。

 しかし、18日に復習をばっちりしたのでは、「今日は全学休講」と思って授業に来なかった学生には不利になります。しかし、1名でも来たら、授業をしないで帰したらかわいそう。そこで、ボス夫人がヤンゴン滞在中のおりもよいので、「日本文化講座その1伝統的な日本の女の子の遊び文化」という講座を企画しました。

 ボス夫人には、お手玉披露をお願いしました。私は子供のころ4つ玉くらいできたのに、今は3つ玉も無理、ふたつがせいぜい。でもボス夫人は「子供のころやったきりなので」と、言いながらも、器用に三つ玉をくるくると回して見せてくれたので、授業での披露をお願いしたのです。

 プログラムの最初は、「日本の文化、芸術文化、スポーツ文化、伝統的文化、現代文化」なんでも知っていることばをあげてください」と、学生に指示。出たのは、着物、花火、生け花、すもう、空手、柔道などでした。

 さくら、という回答には、「日本の人々は、3月と4月に、桜を見ます。お花見です」と、既習の文型だけで、お花見ということばを導入。まだ、動詞文の最初の段階の学生達なので、「桜の花をみることをお花見と言います」と、紹介したら、「こと」も「と、いいます」も習っていないので、意味が通じません。日本語教師のひとつの役割は、ビギナーズトークを身につけること。学生がすでに習った単語、習った文型だけで会話できることが日本語教師の仕事のひとつ。

 12日土曜日のジャパンフェスティバルに参加した学生から、「折り紙」「お手玉」が出ました。ホテルのロビーで演じられていた日本の遊びを思い出したのです。
 おお、模範解答。
 「今日は、お手玉をします。見てください。ジャパニーズジャグリング。女の子が遊びます」 

 ここで、ボス夫人を紹介。「セヤマーやすこ。やすこ先生です。日本で、英語の先生です。今、お手玉の先生です」
 やすこ先生は、じょうずに三つ玉をくるくる回しました。私はその後ろで、不器用に二つ玉を操る。

 学生にやらせてみると、ふたつ玉はなんとか操れる学生が出てきました。三つ玉は挑戦するも、まだまだ無理。学生は楽しそうに興じていました。

 なんとかふたつ玉を回そうと、真剣な顔の女子学生


 ヤンゴン大学教員受講生が、ミャンマーのお手玉を披露してくれました。日本の「おっさあらい、おひとつ、おひとつ拾っておっさあらい」と、私が子供のころに祖母が教えてくれたお手玉歌のような遊び方でした。ただし、ミャンマーお手玉に歌はありませんでした。

 次ぎに、日本の手遊び歌として、日本人留学生ふたりに「アルプス一万尺」を披露してもらいました。これも、ヤンゴンの女子学生に体験してもらう。すぐ出来る二人組も居るし、なかなかふたりの動作が合わない組もいましたが。
 教員受講生がミャンマーの身体文化として、日本の「キツネジャンケン」と同じ遊び方を教えてくれました。

 手を鉄砲の形にする「銃」、両手を腰に当てていばった格好をする「王さま」、両手を上に上げて手首を少し曲げ、トラが襲いかかるしぐさ「虎」。銃は虎に勝つ。虎は王様に勝つ、王様は銃に勝つ。

銃が虎を撃って、銃の勝ち。


 最後は折り紙教室。つるは、初心者には難しい折り方なのですが、教えるほうにとっては、「日本人ならだれでも鶴が折れる」と留学生ふたり、セヤマーやすこと私とで、教える。最後にそれぞれのつるを手に持って記念撮影。
 たのしい文化講座になってよかったです。手伝ってくれた留学生とボス夫人にも感謝です。

<つづく>
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ミンガラ春庭「ヤンゴン食生活外食編」

2015-12-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2015123
ミンガラ春庭ミャンマー通信>2015ヤンゴン日記12月(3)ヤンゴン食生活外食編

 12月4日、ボスが日本からビルマ語を学びに来ている留学生をご招待。私もご相伴にあずかり、大学近くのハッピーカフェでランチ。ここのメニューは、ビルマ文字と英語並記だし、写真つき。Tofu/noodleというのがあったので、どんなんかなあと思いました。
 私が注文したのは、どろっとした豆乳汁の中に麵が入っている不思議な食べ物。いやあ、世の中には思ってもみない食感食味があるものです。
 美味しかったけれど、食べて見て最後まで何がどのように入って作られていたのかわかりませんでした。

 豆腐ヌードルという麵。普通の麵の上に豆腐が載っているのかと思ったのですが、豆乳スープの麵らしい。どろりとした汁というかタレとうか。不思議な麺汁でした。


 12月10日に大使館へ行くボスに連れられて外出。
 大使館での書記官との会合の前に、ボスが昔、外交官時代によく会合で使っていたというインヤーレイクホテルに行きました。ヤンゴンでももっとも古くからあるホテル。旧ソ連時代にソ連の建築チームが建てたホテルだそうで、軍事政権御用達の由緒正しきホテルであった由。今では高層ホテルも林立するヤンゴンですが、インヤー湖のほとりに立つインヤーレイクホテル、静かなたたずまいです。

 ボスがランチブッフェをおごってくれました。
 ミャンマー料理、麵とご飯(タミン)、フルーツ、ケーキが並んでいた中、カットフルーツは、マンゴーもスイカもおいしくいただきましたが、そのほかの料理は、とくにびっくりするものでもなし。

 お会計は「シンメー」とボーイやウェイトレスに言う。ウエイトレスは客の目の前でお札を一枚二枚と数えるので、見ていると5000チャット札で17枚。ブッフェと珈琲二人分で85000チャット8500円の支払い。1人分は4250円のランチ。わぉ、これまで私が当地で食べた昼ご飯の中で一番お高いわん、と、思いました。
 自分で払うなら、1食が4000円もするランチ、日本だってよう食わん。4000円払うなら、日本ならランチコースだわ。それが、インヤーレイクホテルのランチ、ブッフェというのは、要はセルフサービスなんだし。

 日本でも、ホテルのコーヒー一杯2000円でウェッジウッドなんぞのカップで出されると、落として割ったらどうしよう、と落ち着いて飲めず、チェーン店の一杯200円とか250円おかわり自由、とかでないと落ち着かない貧乏性の私。
 これぞという料理はなかったブッフェを食べながら、「ウェイトレスさんが一日働いても40000チャットにはならないであろうに、それを一回の食事で使ってしまう客の相手をすることに、いやけがささないのかなあ、なんて考えてしまうのは、やはり私が金持ちの心理にうといからでしょう。金持ちって種族は、飢えている子供の前で、一瓶100万円のワイン飲むことを躊躇しないに違いない。

 道ばたで売っている揚げ物なんぞのスナック、これまで買うのをためらっていました。でも、今回はまだ一度も下痢になっていないので、えいやっと買って見ました。上新粉をこねたものをたっぷり油の上にどろっと溶かし、その上にパラパラと豆をチラしたスナック、モンピャータレーッ。
 お試しと思ってひとつだけ買ったら、アドオにめんどくさそうな顔をされました。ひとつだけ買うなんてケチくさい買い方をする客なんぞいないのでしょう。でも、もし、食べられない味だったらと思って、まずはお試しです。食べて見たら、豆がおいしくて、次はもっとたくさん買おうと思いました。店により、油の質の善し悪しがあるらしいので要注意ですが。

 今回の赴任では、朝夕のどちらかをバス通勤にしたので、MICTパークの中を通り抜けます。
 MICTパークのメインビル。「外国人教員宿舎」と言ってもタクシー運転手にはわかってもらえないが、このビルはタクシー運転手に知られています。宿舎に帰るときは、MICTパークと言
ってから、乗り賃の値段交渉。


 MICTパークのカンティーンの店。
 キングカフェの隣のとなりでは、朝、モヒンガーを食べます。
 モヒンガーは、当地の代表的な朝ご飯メニューで、麵にさまざまな汁をかける。各家庭にそれぞれの味があり、店によってもさまざま。

 MICTパークのモヒンガー、こってり系です。私はあっさり系でトッピングに豆やナッツをくだいたものと香菜がたっぷり入っている方が好き。

モヒンガー500チャット50円


MICTパークの中のYKKO麵店


 当地物価感覚では、高い方のメニューになるYKKOの麵とジュース。高いといっても、この組み合わせで4000チャット400円くらい。


  6時まで事務室で仕事してから帰るとMICTパークを通り抜けるのが7時少し前になる。もう、どの店も片付けが終わっている中、右端から二つ目の店だけは7時くらいまで開いているので、ここで残り物のおかずを買います。

 17日夜は、いつものパーセーをする店の「ゆで卵とジャガイモの油炒め煮」を買いました。当地では、卵も他の食品同様、消費期限関係なしに売られています。危険かなあと、心配しつつ、それしか残っていなかったから、パーセー。
 家で、いつものように、煮物の油汁を捨ててお湯を入れて煮直す。ごはんは椎茸をいれてわかめ雑炊に。

 消費期限切れの食品でも平気で料理する当地の習慣なので、これまではホテルのオムレツ以外は食べたことがなかったのだけれど、ゆで卵にしてから煮てあるので大丈夫かと信じて食べました。 
 しかし、夜中に気持ちが悪くなり、吐きました。道ばたで売っているウズラの卵のフリッターも食べたので、どちらが原因かはわかりませんが、食べた私がバカだった。卵はこりごり。

 18日は、ボス夫妻とごいっしょにインヤー湖ほとにあるタイ料理店へ。
 日本にも支店をだしているらしいサバイ。ヤンゴンでは、レストランのテラス席から湖を眺める、というロマンチックなロケーションが売り物です。
 吉野家牛丼でもかつ屋カツドンでもお一人様で食べてきた私ですが、バーサンおひとり様で湖眺めるという図では、ちょっとロマンチックが泣くかなと思い、、、、、

入り口


 日頃おごられっぱなしになっているボスへのたまにはおかえしも、と、ボス夫人をさそって、まあバーサンふたりなら、なんとか「日本の老婦人ふたり、ヤンゴンの湖を眺めながら、来し方行く末を語り合う」という女子会でよろしいかと思ったのですが。
 いつも奥方を気遣うボスは「今日は理科系学部の大学祭で全学休講だから、私も行こう」と、ご一緒することに。
 奥方は「オトーサン、せんせと私の女子会だって言っているのに」と、言いましたが、ボス、気にせず同行。

 サバイレストランのテラス席は、湖を眺め渡すテラス席がとても開放的で、ネット評判ではイマイチだったタイ料理も、景色をながめつつだと、おいしくいただくことができました。

ご飯とサラダ、豚肉甘煮のひと皿セットにタイの薩摩揚げを加えて。


 ボス夫妻は飲まない方たちなので、飲み物はジュース。私はビールを注文。ランチなのに。午後は授業なのに。ま、ビール1瓶くらい、ヘーキヘーキ。午後の授業は「日本文化紹介」のクラスにして、ボス夫人といっしょにお手玉やオリガミの授業をする予定。



 いつもボスに先に「シンメー」をされてしまうので、今回こそは、と、お手洗いに立ったついでに、お会計もしてしまい、日頃ごちそうになりっぱなしのお返しが、少しですができました。会計は、3人でご飯とおかずの一皿ずつ。タイの薩摩揚げ、ビール、ジュース、コーヒー、ミャンマー緑茶。しめて32000チャット3200円。一人前は1000円ちょっと。ヤンゴンでなければ、一流レストランで人様におごったりできません。

インヤー湖のながめ
 
<つづく> 
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ミンガラ春庭「キングカフェ from Tokyo」

2015-12-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
2015122
ミンガラ春庭ミャンマー通信>2015ヤンゴン日記12月(2)キングカフェ from Tokyo

 9月の当地滞在中、宿舎の隣接地MICTパークのカンティーンに出店しているキングカフェ(King Cafe from Tokyo)という店によってみました。
 売り物は「東京サブウェイ式サンドイッチ」と、「ミャンマーバリスタコンクール第5位」というのが自慢のバリスタが淹れる本格コーヒー。コーヒーを飲み、サブウェイサンドイッチを食べてみました。

キングカフェの看板は風神雷神


 サブウェイサンドイッチは3500チャット350円から5000チャット500円くらい。
 MICTカンティーンの他のミャンマー料理の店が、1食1500チャット150円くらいの値段で「料理プラス山盛りご飯プラススープ&漬け物」のセットを提供しているのに比べると、キングカフェのサブウェイサントイッチは、ミャンマー人の収入にとっては、かなり高い食べ物に思えます。IT企業で働く海外から赴任している駐在員の給与なら日本で食べるのよりも割安なお値段ですが、貧乏教師である私は現地物価主義で生活しているので、物価感覚はすでに「5000チャットのサンドイッチは高い」と思うようになっています。

キングカフェのメニュー

 ヤンゴンコーヒー店が競い合ったコンクール2015では、スーレーシャングリラホテルなどの大手を押さえて、開店したてのキングカフェが3位に入賞。バリスタコンクールでも、キングカフェのピョーカンアウンさんが、11名出場中5位に入賞しました。

ミルクふわふわ泡立ててカプチーノ制作中のピョーカンアウンさん


カプチーノとサブウェイ風サンドイッチ


 当地の日本語情報誌に、オーナー夫妻の紹介が載っていました。皆川夫妻。奥さんはミャンマーの人で、ご主人ともども帰国。MICTパークにカフェ&レストランを開業、と出ていました。

 皆川さん、どんな人かなあ、と勝手に想像。定年退職後の生活をミャンマーに求めたおっさんと若い妻、という図式を描いていました。東南アジアで起業する人の中に、このようなカップルが割合多いことを聞いていたので。私の知っている日本語教師は、日本で中学校教師を退職した後、年金の半分は奥さんに渡すことにして、単身東南アジアに渡り、若い女性と暮らしている、という例もあったので。

 金曜日の夜、MICTパークのカンティーンで、おかずとごはんのセットをパーセーにしました。そのあと、久しぶりにキングカフェものぞいてみました。
 そして、「ここのコーヒー、高いからなあ」と、ぶつくさ店の中でつぶやきました。すると若い男性が「日本の方ですか」と、言う。「はい」と答え、ウェイターだと思ったので、「日本語じょうずですね」と誉めると、笑って「僕、日本人ですよ」
 「え?ここでアルバイトしているの?」と尋ねました。若い男性は「アルバイトじゃなくて、この店を経営しているんです」

 オーナーの皆川さんでした。パソコンの置いてあるテーブルに座っていた美人さんを「妻のエイミーです」と紹介してくれて、私の好奇心まんまんの質問に答えてくれました。

 皆川さんは、東京にあるアメリカの大学日本校で英語を磨き、英語を生かした仕事をしたいと思いました。会社員となって英語を使う部署で働き、東京に住んでいたエイミーさんと知り合いました。エイミーさんは、6歳のころから日本に住み、日本で育ちましたから、ビルマ語日本語のバイリンガル。
 エイミーさん一家が日本に移住した経緯は聞きませんでしたが、ミャンマーの親戚の「民主化も近くなったから、帰国しませんか」というおすすめに応じて、エイミーさんはミャンマー帰国を決意。

 皆川さんは、妻の故国で暮らすことにしました。故国といっても「妻にとっては日本のほうがふるさとなんですけれどね」と、皆川さんは言います。
 2年前に帰国し、1年前にMICTパークカンティーンの中に「キングカフェfrom Tokyo」をオープンさせました。
 私が何度か通った8月9月に一度も皆川さんと会わなかったのは、仕事でアメリカに行っていたからだそうです。

 アメリカに行っている間、予想外の出来事が。
 MICTパーク内にフードコートができあがったら、冷房つきのフードコートに移転できる、という約束ができていたのだそうです。私も、日本語情報誌にそう書いてあったのを見て、フードコートの建物ができあがったのに、移転しないなあ、と思って見ていたのです。
 皆川さんの話によると、当地では正式の契約にこぎつけるまでの交渉が大切。口約束よりも袖の下が有効。アメリカに行っている間に、他の店がフードコート管理者に袖の下を渡して、入居権を得てしまったのですって。袖の下文化ってのは、どこにもあるもんです。

 「とんかつ」の店のミャンマー人オーナーも、お酒をメニューに載せて良い、という許可を得るには、袖の下が必要で、当店ではまだ十分な袖の下を渡すほど儲かっていない、という話でした。メニューには載せられないけれど、缶ビールならあるから、注文してくださいとの説明。お酒提供店の許可が出て、生ビールなどが出せるようになれば、日本人駐在員などの来店ももっと多くなるのじゃないかしら。

 帰り道に店の前を通るので、タクシーやバスの中から店の中をのぞくと、夕飯時なのに客の入りは少ない。とんかつ定食6000チャット600円という値段はミャンマー人にとっては、2日分から3日分の食費に当たるし、日本人にとっては、生ビールもないお店では接待にも使えない、中途半端なことになっているのです。

 皆川さんのキングカフェは、カフェメニューの充実に加えて、ランチの提供も始めたとか。テイクアウトもできるというので、土曜日に配達してもらいました。皆川さんは、MICTパークのメインゲートを車で通行してきたのに、これまで一度も道をはさんでメインゲートの反対側にある教員宿舎(教育省ゲストハウス)の門が目に入ったことがなかったそうです。配達に来て、「近かったんですね」と言う。
  
 「うちの店はコーヒーを淹れるときも、他店のように水道の水じゃなくて、ちゃんとボトルの清浄水をつかっているし、絶対味には自信があります。ミャンマー料理も担当の妻は料理上手なので」と、おっしゃる。

 デリバリーのキングカフェ日替わりランチ。私にはやや少なめの量でした。大食いをやめなければいけなので、これくらいがいいのかもしれないけれど。1800チャット180円


 MICTパークのフードコートの中に開店したYKKO麵店にはときどき寄ってきました。夜8時まで営業中と書いてあるので。6時に仕事終えてMICTパーク前までくると7時すぎ。他の店は閉店しているので、YKKOによって一休みする。タクシー2000チャット200円を使わずにバス200チャット20円ですませて節約した晩は、「今日もよく働きましたごほうび」で、YKKOのジュース一杯1500チャット150円を「高い!」と文句言いながら飲む。ギューギューバスに耐えて、ジュース一杯飲むのと、タクシーで宿舎前まで帰るのと、どちらにするか。その夜の気分次第。ちなみに交通費は出ないので、タクシー代は自腹。

 これからは、バスで通勤費を節約した夜は、YKKOのジュースでなく、キングカフェのカフェラテを飲んで帰ることにします。

<つづく>
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ミンガラ春庭「ヤンゴンライン市場買い出し」

2015-12-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151220
ミンガラ春庭ミャンマー通信>2015ヤンゴン日記12月(1)ライン市場買い出し

 ヤンゴンの日常生活。
 日曜日の朝、ライン市場に買い出しに行きました。
 前回は午後行ったので、肉屋コーナーは店じまいしたあとでしたが、今回はお肉も買ってみようと、朝8時に宿舎を出ました。

 通り抜けるMICTパークのカンティーン。
 日曜日だけれど、2軒の店があいていました。そのうち1軒で干し魚の唐揚げ、炒めご飯、ピーマンと小エビの炒め煮を注文。ご飯の半分と魚はパーセー(持ち帰り)にして、残りのご飯にピーマン炒め煮を乗せて食べる。ピーマン炒め煮の汁、油たっぷりです。この油汁こそが「ごはんのおかず」で、当地の標準的な1食は、旅行案内などには「ポークカレー」とか「チキンカレー」と出ている油炒め煮を、ごはんと混ぜ合わせて食べるのがふつうです。英語版メニューなどにカレーと書いてあっても、日本の印度風カレーとはぜんぜん違います。スパイシーな油炒め煮です。ピーマン炒め煮の油をそっくり残してしまうのは、日本で言えば、味噌汁を注文しておいて、中の具のとうふとわかめだけ食べて、汁はそっくり残すようなもの。もったいない食べ方。でも。この油たっぷりの料理、気をつけないとカロリー取り過ぎになる。

 当地のごはん、インディカ米を炊いてからお湯でさらして、サラサラ状態にしたご飯が好まれます。日本のご飯、「スティッキーライス(くっつく米)」は、当地のおかずとの組み合わせには合わないので好まれません。サラサラごはんに油こってり煮物を混ぜて食べるのが、「サーロカウンディ(おいしい)」なのです。

 MICTパークのカンティーン


 今回は朝の市場ですから、正規の屋根の下の市場の周辺にダラダラと青空市場が広がっています。青空市場でも買い物をしました。

 青空市場

豆腐屋のおっちゃん


 干物屋と青物屋


 服地屋と下着屋


 野菜と果物はとても安い。青物菜っ葉はひと束100チャット10円200チャット20円。カリフラワー1個600チャット60円。トマト1kg500チャット50円。果物もまあまあな値段。バナナ5本500チャット50円。ドラゴンフルーツ1個500チャット50円。パパイヤ6000チャット600円はちと高いと思ったけれど、大きいからしょうがないか、と思ってお金を渡したら、アドオ(おばはん)は、私が指さしたパパイヤの隣を袋に入れて渡した。家に帰ってみたら、半分は熟しすぎてだめになっていたやつだった。アドオよ、こういう阿漕な商売をしたアンタは、来世はゴキブリだからね。

 肉は鶏肉は丸のまま足を天に向けて売られている。
 肉塊になっている豚肉にしました。3000チャット300円。さすがに肉は野菜のように安くない。塊で売っていましたが、家に帰って料理すると、肉の半分はこちらの人が好む脂身の塊。次は赤身だけ買うことにしよう。
 100gくらいの小さな手作り豆腐100チャット10円。

 服地洋服コーナーで、ブラジャーをひとつ買ってみました。サイズ37。2500チャット250円。

 行くときは「乾期の朝は気温25度、涼しい」と歩いていったのですが、たくさん買い物をしすぎて、荷物が重くなったので、途中プラネットゾーンという店で、生ビール1杯600チャット60円。当地では生ビールは缶ビールより安い。
 お疲れ休めに1杯ひっかけたのに、さらに歩きたくなくなったので、サイカーで帰る。600チャット60円。

 道ばたの喫茶店。コーヒーを注文するとお湯の入ったカップと、インスタントコーヒーの粉が入った袋をよこす。自分でかき混ぜて飲む。


 家に帰って、買い物の始末。豚肉どうしようかと考えて、豚汁を作ることにしました。ちょっと心配もあったのので、こまかく細切れにして、さっと塩ゆでにして、湯をかえてさらに数分茹でてから使ったので、味はすっかり抜けて、豚肉の出し殻のような肉になってしまいました。かたまりのまま茹でて、表面を煮沸してしまえば、あとはふつうに切ってつかえばよかったと反省。はじめて当地の生肉を買ったもんで、ちと心配しすぎました。

 豚汁は、日本から持って行った昆布で出しをとり、キャベツ、菜っ葉、豚肉、豆腐。
 日本の清浄野菜栽培などだと、ささっと洗えばすぐに茹でたりできるけれど、ドロつき菜っ葉だから、よく洗って茹でてから水にさらして豚汁にいれました。
 豚肉は出し殻になったけれど、なかなかおいしくできました。

豚汁とカリフラワー厚揚げのトマト煮

 カリフラワーは半分茹で、半分は厚揚げとトマトを加えた煮物に。「たまねぎスープ」と書いてあるインスタント粉末スープと醤油で煮ました。
 表面が黒く汚れたように見えるカリフラワー。黒いのは汚れじゃなくて、虫の食い跡です。たいてい中のほうに虫が巣くっている。カリフラワーの房を小分けにしながら、虫喰い房を取り除く作業がちと面倒。農薬つかっていない証拠とも思うけれど、時間がかかる。

 カセットボンベのコンロひとつしかないので、同時進行ができず、調理に2時間かかりました。買い出しが8時から10時まで、料理が10時半から12時半まで。自分で料理をすると、日曜日が終わってしまう。

 でも、当地の安食堂では、あっさり味というメニューはごく少ないし、そもそも私にはメニュ-が読めない。カリフラワーを茹でて、ポン酢かけて食べる、というあっさりしたものを食べるには、自分で料理するしかない。今回、「減塩ポン酢」を持ってきたのが、役に立っています。
 なんだって、とりあえず茹でて、ポン酢かければ一品料理。
 大きなカリフラワー2個買い、今日は1個茹でました。半分は茹でただけ。半分は煮物、もう1個を茹でるのは、明日かあさって。茹でただけのカリフラワーが、今のところ私には一番の味。

 買い出しの成果


<つづく>

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ぽかぽか春庭「2003年の500色の色鉛筆」

2015-12-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151219
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記12月(7)2003年の500色の色鉛筆

 2003年三色七味日記12月の再録を続けています。
~~~~~~~~~~~~~~~

2003/12/26(金)
日常茶飯事典>500色の色えんぴつ

 一日中、十二宮の少女たちを書く。

 ひつじのイラストと500色の色鉛筆の色の名がうまくマッチングするのもあるし、どの色を選んでいいのか、困るのもあった。「十二月の少女たち」も色が決まり、500色シリーズを続けることにした。

 色の名を12ずつ集めて、シソーラスに編集。1ダースごとにケースタイトルをつける。とても楽しい遊び。結局色のネーミングで一番多いのは花の名前だった。

本日の負け惜しみ: 5万円もするので私には買えなかった500色鉛筆で、こんなに遊べるとは思わなかった


2003/12/27(土)
日常茶飯事典>伯母の入院

 東京にも、朝は雪がぱらついたようだが、私が起きたときには溶けていた。

 アヤ伯母は、ICUから出て一般病棟へ移れそうだというが、脳の半分が機能しなくなっているので、顔つきが変ってしまったという。顔の筋肉も脳がコントロールしているから、顔半分の制御がきかないと、半分だけ筋肉がだらっと落ち込んだ状態になり、表情が変るのだという。

 かわいそうなアヤ伯母。いろんなチューブにつながれていて、それを引っこ抜こうとするので、しばりつけられているという。

本日のうらみ:最後くらいはつらい思いをせずにぽっくりいかせてやりたかたったのに

2003/12/28(日)
日常茶飯事典>見舞い

 東京にも、朝は雪がぱらついたようだが、私が起きたときには溶けていた。
アヤ伯母の病院へ。 蜜柑一家、すももとランチのあと、娘息子といっしょにアヤ伯母を見舞う。
 車椅子にすわり、両手にはミトンをはめられている。手をつかえるようにすると、点滴の注射針を抜こうとするのだという。
 「これは、包帯だからね、とっちゃうと病気がなおらないんだよ。早く病気をなおして帰ろうね」と、言い含めるが、こちらの言うことを理解しているのかどうかは、わからない。

 もう、私の顔も忘れているのかもしれない。この世でいちばん大好きだった柿実さんに先立たれてしまい、もう誰のことも用はないと思っているのかも知れない。
 蜜柑が、柿実ママのかわりになってアヤ伯母の世話をよくしてくれる。看護婦さんが食べさせようとしても、はねのけて食べようとしなかったゼリーを、蜜柑が「ちゃんと食べないと、もうお見舞いにこないよ」と、言ったら、食べたのだという。

 アヤ伯母は、ICUから出て一般病棟へ移れそうだというが、脳の半分が機能しなくなっているので、顔つきが変ってしまったという。顔の筋肉も脳がコントロールしているから、顔半分の制御がきかないと、半分だけ筋肉がだらっと落ち込んだ状態になり、表情が変るのだという。

 かわいそうなアヤ伯母。いろんなチューブにつながれていて、それを引っこ抜こうとするので、しばりつけられているという。

本日のうらみ:最後くらいはつらい思いをせずにぽっくりいかせてやりたかたったのに


2003/12/29(月)
ジャパニーズアンドロメダシアター>踊る大捜査線ムービー1

 ついに大掃除をしないままになりそう。掃除よりご飯を作ることより、ご飯を食べることより書いていたい。

 夜、娘息子が『踊る大捜査線ムービー1』を見ているのを横目で見ながらもキーボードを打ち続ける。

 稲垣吾郎の犯人役。もうちょっと「イッちゃている人」っぽい演技でもよかったかな。犯行動機が「クスリ」だけっていう感じだったけれど、もう少し「学校へのうらみ」とか、犯行背景があってもよかったと思うが、この映画は犯人はどうでもよくて、刑事達がドタバタすればいいのだから、ま、これはこれで面白かった。

 7年前の映画だから、ケイタイがやたらにでかかったりするし、広末凉子や仲間由起恵がういういしかったりする。

 7年前かあ、と思いながら来し方ふりかえり、最後の特殊部隊突入のシーンで第九が流れるのをききながら、これが我家の年忘れ。

本日のそねみ:書くことだけやってすごせる人


2003/12/30(火)
日常茶飯事典>年賀状

 娘は夫の事務所の年賀状作りを頼まれて、プンプン怒りながら事務所へ行く。なぜ怒っているかと言うと、午後いっしょに映画を見に行こうと言っていたのに、私がおこさなかったから。

 うちの分の年賀状はどうしよう。まったく何もやっていない。第一、プリンターの接続をまだしていない。

 娘は「ビッグファットウェディング」が見たい。私は併映の「フリーダ」が見たい。それで年末忘年会として、いっしょに見るつもりだったのに、「お母さんは、そうやってパソコン遊びばかりしていて、ほかのことは全部ほったらかしで。ちゃんとやることやってから遊びなさいよ!」と、すごい怒りよう。

 たしかに今、私は書くこと以外に何もしたくない。ああ、お金持ちで、家事を全部やってくれるお手伝いさんがいて、書くことだけやれる生活だったらどんなにいいだろうか。

本日のひがみ:リストラされてますます貧しい来年になる。お手伝いをやとうどころか、年収穴埋めにお手伝いさんになって働きにでなければならないかもしれない現実


2003/12/31(水)
日常茶飯事典>来年は

 ついに大晦日。

 今年のベストスリー
1,娘20歳、成人。ようやく子育てもゴールに。
2,息子が中学校水泳区大会で、リレー1位になった。
3,自分のホームページを開き、いろんな人とネットで交流できた。

 ワーストスリー
1,うさぎタイム急死
2,アヤ伯母脳梗塞で倒れる
3,独立行政法人化に伴う合理化として、授業もちコマ数をへらされ、時給もダウン

 と、なんだかんだ言っても、生きているのだし、しょうもない人生であっても、楽しみはいろいろ見つかるし。

 2003年は「イラク問題、派兵」という世の中の事象と関係なく自分のことだけで言うと、トータルそう悪い年でもなかった。

~~~~~~~~~~~~~

20151219
 友人青い鳥さん、500色ではないでしょうが、カラフルなペンで絵を描いていらっしゃる。 Facebookに載せた「今年1年の締めくくり」を転載させていただきます。gooブログにはまだ載っていなかったので。

 2015年の締めくくりです。
 来年は、素晴らしい年になりそうです。
 2009年から続いた出来事も、今では、ワッハッハッハ~と、笑い飛ばせるようになりました、
 わが人生も、捨てたものじゃーないなぁと思います。


 こんなふうに今年1年を締めくくることのできた青い鳥さんに、拍手拍手です。
 傷害を持ちながら、ひたむきに生きている青い鳥さん。今年も、良いことばかりではなかったはず。今年65歳になったことから、障害者介助と老人介護の2本立てになって、ヘルパーさんの体制が変わり、なにかと不自由になりました。
 ヘルパーさんが不足し、妹さんに悲鳴のような「早く来て」という連絡をしたことも書いてありましたし、「トイレが間に合わない」ということもありました。

 これまでのように、慣れたヘルパーさんとの暮らしだったら、考えられなかった、「自宅にしまっておいたお金が封筒ごとそっくり消えてしまった」という残念な事件もありました。老人介護派遣で、不特定多数の人が出入りするようになったため、起きた事件のような気がします。老人ホームで老人を虐待する事件も起きている世の中、心優しく献身的なヘルパーさんばかりではないことは承知ですが、現実に悲しい事件が起きてしまい、心ふさがれました。

 それでも、青い鳥さんは「来年は素晴らしい年になりそうです」「我が人生も捨てたものじゃない」と書いていらっしゃる。
 すごいなあ、と、いつも青い鳥さんの絵や文を見るたびに、励まされます。
 私の、いつもネガティブな、不平不満の、文句たらたらの、愚痴人生に比べると、反省しきり。

 私も「我が人生、捨てたものじゃない」と、思わなければね。
 今年1年、よいことばかりではありませんでした。いてもたってもいられないけれど、ヤンゴンの地からどうすることもできない出来事もあったのです。
 でも、やっぱり私も青い鳥さんを見習って、来年はよい年になると信じようと思います。
 我が人生、悪いことばかりじゃない、、、、と信じたい。 
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ぽかぽか春庭「2003年の成人式写真」

2015-12-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151217
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記12月(6)2003年の成人式写真

 2003年三色七味日記12月の再録を続けています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~

2003/12/23(火)
日常茶飯事典>成人式写真前撮り

 朝、10時すぎに家を出て、12時半着。時間がないので、娘は乗り換える間に、駅弁を食べる。駅からすももさんの車で、ベルズへ。
 1時からの予約で、娘の着付け開始。

 着付けの間、すもも、えりえりとランチ。パスタの店。おなかの具合がまだよくないので、パスタじゃなくて、リゾットを頼んだが、とても濃い味のリゾットだった。すももさんに半分食べてもらう。

 食べ終わってベルズにもどると、ちょうど着付けが終わっていたところだった。
 とてもかわいい。ピンクの桜柄の着物に、シルバーに桜の帯。ブルーの帯締め。髪飾りはももさんからのプレゼントの造花。

 着物を着るのは七五三以来の娘、「苦しい、歩けない」とぼやく。
 写真スタジオで撮影。そのあと、ベルズのいろいろな場所でスナップ撮影。結婚のチャペルの中とか、ヨーロピアンスタイルというパーティ会場とか。
 私もいっしょにいっぱい撮ってもらった。娘を成人式まで育てた母の勲章である。

 娘は「着物にお金をかけるなんてもったいないから、その分の現金もらって旅行したい」と言ったのだが、私の気持ちとしては「私が親にしてもらったことは、娘にもしてやりたい」
 だから、夫の反対にかかわらず七五三の着物も着せたし、成人式の着物も予約した。
 夫が「世界に飢えた子供がいることを憂えるといいながら、七五三の着物を買うという矛盾が許せない」というのも、それは夫の「首尾一貫した思想」として、認める。

 そして、私のやり方「常に首尾一貫せず、自分中心に世の中回わしていく」というのも、私の生き方。ゆえに、七五三も成人式も、夫ぬきに勝手にやる。
 もっとも、七五三成人式にかぎらず、すべての家庭生活から降りている夫なのだから、成人式だけ「どのように娘の成人を祝いましょう」と相談する必要もない。

 娘の晴れ姿をアヤ伯母に見てもらおうと、一番星ホームへ行く。蜜柑一家と待ち合わせ。
 しかし、アヤ伯母は、今朝倒れて病院へ行ったという。ICUに入っており、病室の面会時間はすぎているというので、会えないままになった。

 すもも一家、蜜柑一家と、娘のお祝いパーティ。「たつま」で夕食。
 東京に戻ったのは、12時ぎりぎりになった。

本日のつらみ:まだおなかの調子が悪いので、リゾットを残した。全部食べたかったのに


2003/12/24(水)
日常茶飯事典>15年戦争レポート

 朝、息子をおこすのを忘れてしまった。終業式だったのに。なんてこった。
 風邪をひいたという連絡を担任にして、「通知票はあとで郵送」ということにしてもらった。親子して「べつに通知票ほしくないよねぇ」と、意見が一致した。

 「お母さんは、ネットに夢中で、息子を学校にやるのを忘れてしまったって、どうよ」と、娘に叱られたが、ま、しかたがない。息子の終業式より、自分のネット。

 アヤ伯母は、昨日の朝方、ろれつがおかしいので、ホームの人が病院へ連れて行ったら、病院で倒れた。倒れてから病院へ行ったのでは間に合わなかったかも知れないが、たくさんの老人を見ているホームの人の機転で、ろれつが回らなくなった時点で、これはおかしい、ときづいてもらったのが幸いだった。

 アヤ伯母を蜜柑とすももが見舞う。
 意識も取り戻し、検査中。脳内に出血。回復したとしても、半身麻痺が残るという。88歳まで、がんばって長生きをしてきたが、いろんな不自由をかかえて最晩年をおくることになるのかな。かわいそう。

 クリスマスイブだが、最後の最後まで、娘はレポート提出が残っていて、日本史のレポートをしあげなければならない。

 「日本史概説っていう授業だけど、先生が近代戦略史の専門家だから、ずっと日清日露から15年戦争の話だけしている。
 わたし、これまで日本史って勉強したことなかったから、いろいろな話聞けて面白いんだけど、戦争の話しばっかりなんだ。やたらに戦争についてくわしくなった。利益線と主権戦とか。正露丸って薬、露西亜を征伐する征露丸だったって、知ってた?」などいいながら、結局「おかあさん、私が要点説明するから、ワープロ打ちをやって」ということになる。

 娘が学校へ行ったので、「ケーキは明日作るから、今夜は普通のごはんにしよう」ということになり、イブディナーはなし。

本日のつらみ:イブは15年戦争レポート書き


2003/12/25(木)
日常茶飯事典>プリンター

 夫から電話。プリンターをもってこい、というので、息子に荷物を持たせ、事務所へ届けに行く。

 四街道さんのパソコンと両方にインストールする。ランでつなげば簡単なんだろうけど、だれもパソコンわかるひとがいないので、わけがわかラン。

 結局、パソコンに関しては息子が一番ましで、インストールしてくれた。プリンターは四街道さんのXPにつないだ。

 夜、ローストチキンやポテトサラダ、賞味期限切れの前に食べちゃわないと、またダメになるから、という理由で「鱒寿司」プラスというおかしな組み合わせの献立になったが、一応これがクリスマスディナー。

本日のつらみ: おなかがいっぱいになったので、娘が作ったケーキは、明日食べるということにした


<つづく>
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20151217
 昨日、大学ではお昼過ぎと夕方2度停電。事務所での停電は、エアコンが切れること、コピー機がつかえなくなることが、最大の困ること。パソコンはバッテリーで3時間停電までは仕事続けられます。晩方の停電で困ることは、トイレまでの曲がりくねった廊下、ゴミバケツやいらない机などが放り出してある真っ暗な廊下を通って行かなければならないこと。しゃがみ式、手で洗面器の水をくんで流す方式のトイレ、洗面器から水汲み出すのも手探り。

 しかし、もっと困るのは宿舎の停電。昨晩、洗濯機に洗濯物を入れて5分もしないうちに停電。テイクアウトしてきたおかずをカセットボンベのコンロで煮直して食べようとおもっていたのだけれど、真っ暗な中で火を使うのは危険。電気ポットでお湯を沸かせないから、お茶も飲めない。水を飲んでパソコンのスイットを入れる。バッテリーは十分。パソコンの灯りで懐中電灯を引き出しから探し出して、冷蔵庫にしまってあった残り物の茹でカリフラワーを食べようかと、マヨネーズをかけました。ウン?だめになっている。そうだ、停電が続く当地の冷蔵庫を信用してはいけなかった。冷蔵庫は扉つきの食品棚とこころえなければいけなかったのでした。

 16日夜8時半からはじまった停電、朝6時に目覚めたとき、まだ部屋の中はまっくら。6時15分うっすら明るくなった頃、電気回復。やれやれ。 
 
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ぽかぽか春庭「2003年のトカゲ娘は夜に鳴く」

2015-12-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
200151216
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記12月(6)2003年のトカゲ娘

 2003年三色七味日記再録を続けています。
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2003/12/20(土)
ジャパニーズアンドロメダシアター>トカゲの娘は夜に鳴く

 娘は地理学科の合宿で熱海へ。
 私は、娘と息子が「ぜったいそんなもの捨てろ」と言った賞味期限切れのアップルケーキを食べたら下痢になった。ばかみたい。一日寝ていたが、おなかが痛くて吐き気がして、下って、ほんとに懲りた。

 夜中まで、ずっと痛かった。
 それで、もう一度いくはずだった劇団パレットは見に行けなくなった。

 昨日の夜、劇団パレット公演「トカゲの娘は夜に鳴く」を見に行った。トロワは、マダムの役。なかなかの貫禄で、サディストぶりがよかった。

 しかし、日本語教師としては「番兵」を全員が「ばんへい」と発音していたのが妙に耳に残った。撥音の後ろのハ行音はP音になるのが日本語の発音。それが、こういうところから変っていくのか、と観察。

 息子を連れて行くつもりだったが、息子は、午後演劇部の練習に飛び入り参加して、たっぷり発声や腹筋の練習をしたので、疲れたから、人の演劇見る余裕ない、と言い、土曜日にもう一度見に行くことにした。

 しかし、おなかがいたいので、芝居見物どころではなく、金曜日の夜に差し入れもしたし、ま、いいか、と、寝ていた。

本日のうらみ:賞味期限は「美味しく食べられる期限」であって、「絶対に食べられないという意味ではない」という私の信念が裏切られた

2003/12/21(日)
日常茶飯事典>消去された日記

 腹痛、少し回復する。でもまだ少し痛いので、レアチーズケーキを食べたほかは、林檎ジュースだけ。

 12月の日記が消去されてしまったみたい。どこをさがしても、みあたらない。
 一太郎の機能が悪くなって、「名前をつけて保存」という新規保存ができなくなった。それで、古いファイルをひっぱりだして、それにくっつけて上書き保存をしていたので、まちがえて、違うファイルと重ねてしまったらしい。

 手書きとちがって、ここがワープロの悪いところ。思い出さそうとするけれど、半月まえのことなど、もういつ何をやっていたか、記憶はおぼろげになる。

 だからこそ、日記は貴重。私は10年前の今日、何をやっていたか、確認することができる。でも、フロッピーがなにかの具合で保存したことが呼び出せなかったら。そう思うと、一度は紙に印刷した方がいいのかな、と思う。

 わたしの生活、紙に記録しておかないといけないような価値のあるものではない。歴史上の人物でもないし、一字一文が貴重な文学者でもない。でも、私自身のために、私の生活の記録は貴重。

本日のうらみ:消えてしまった私の記録、思い出せないたいしたことのない日常生活

2003/12/22(月)
日常茶飯事典>十二宮の少女たち

 まだ、具合があまりよくない。
 ひつじからイラストを借りて、「十二宮の少女たち」を書く。「500色の色えんぴつ」のひとつひとつの色名にストーリーをつけていくつもりだったが、イラストがあれば、より楽しい。
 老いの暇つぶし。楽しいあそび。

本日のからみ:色の名と、ひつじのイラストの雰囲気をからめて文章をひねりアゲルのがたのしい。いいからみ具合


<つづく>
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20151216
 「とかげ娘は夜に鳴く」というタイトルの学生演劇、どんな内容だったか、すっかり忘れてしまいました。演劇が好きだから、学生から「先生、私たちの公演みてね」と、誘われるとひょこひょこ出かけていきます。

 私の宿舎の部屋にはヤモリが住み着いていて、ときどき壁や天井を這っている姿を見かけるほか、夜になるとよく鳴きます。東京では聞いたこともなかったヤモリの鳴き声。とてもかわいらしいヒューヒューィという口笛のような鳴き声です。

 沖縄のヤモリは、ケッケッと鳴くそうだし、トッケイトッケイと聞こえるという地方もあるそうなので、それに比べたら、口笛のようなヤンゴンのヤモリの鳴き声はひとり住まいの夜にやさしくひそやかな響きです。
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ぽかぽか春庭「2003年の漢字クイズ」

2015-12-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151215
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記12月(5)2003年の漢字クイズ

 2003年三色七味日記12月の再録を続けています。
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2003/12/18(木)曇り
ニッポニア教師日誌>授業おわり

 日本事情作文2コマ。追試験。ウさん、ランさん。

 ちゃんと採点したらバドさんは、追試対象者じゃなかったのだけど、陽気なバドさんがいたほうが、追試の暗さが緩和できそうなので、いっしょに受けてもらった。

 先週文集を持ってくるのを忘れたシャアさんの作文集にコメントを書いて渡す。
 これで、作文日本事情クラスの授業は全部終わり。

 水曜日授業も昨日で全スケジュールを終えた。
 日本語教授法2コマ。 前半は、模擬授業欠席者のやり残した分の追加模擬授業。
 模擬授業の欠席者は3人いたが、結局今日実施したのはひとりだけ。

 後半はアンケート書き。
 毎年アンケートに「良かった点ひとつ以上。改善して欲しいところ2つ以上書くこと」と要求。改善点を書かない学生は批判力なしと見なし、優はつかないと、おどす。

 けっこう皆シビアに言いたいことを書くので、いい傾向だ。
 模擬授業のやり方で、自分たちのチームは「制限時間ひとり5分~10分」というのを守ったから、用意してきた教材も全部は使いこなせず、悔しい思いをしたのに、制限時間を守らないで悠々と時間オーバーして授業をしていたチームもあった。不公平だ、という意見。

 これまでは、時間オーバーしてまでやりたいチームがなかったのだ。たいてい制限時間前にやることがおわってしまい、たった10分の授業でも、こなすのは難しいということを自覚するための模擬授業だった。

 年ごとに、私もなれてきたし、学生の模擬授業の腕も上がっている。
 来年からはタイムキーパーを付けなければなるまい。
 
 後半は、日本語教育能力試験体験版。できるできないはともかく、日本語教育能力試験では、このような傾向の問題がでるのだということを体験すればよい、という試験。

満点を取れたら、文句なしに優をやると言っておくが、満点とれることはない。めちゃ難しい。1問1点で、100問。最高点が60点台だった。

本日のつらみ:みんなが合格点をとっていれば、今日は私も休みにしたのに、と愚痴をいうと、点数がとれずに追試になったのではないバドが「すみません」とあやまった。ごめんね、つい愚痴を

2003/12/19(金)晴れ
ニッポニア教師日誌>漢字クイズ

 漢字、文化中級3コマ。

 最後はビデオのクラスなので、遊ぶつもりだったが、学生に言われてきづいた。火曜日をビデオクラスに振り替えたので、今日は漢字をやらなくちゃ。

 21課の新出漢字を大急ぎで導入。
 もう、学生は詰め込んでも無駄。この時間が終われば楽しい冬休み。10月の来日以来、あいうえおから詰め込まれて、漢字もいっぱい詰め込まれて、ふうふう言っているところ。冬休みが目前となれば、もう漢字どころじゃない。

 おまけに、昨夜は留学生寮で、年末恒例のパーティがあり、皆飲めや歌えやの大騒ぎをしたらしい。
 漢字小テスト、宿題点検も「先生、漢字の勉強していませんから、今日はやめましょう」と主張する。
 「冬休み中に必ず復習をしてくださいね」と、念をおして小テストは来年まで延期。
 そして、通常の読み練習なども、「宿題です。冬休みに勉強してください」で終わりにする。

 あとの時間は「漢字クイズ」

 12人のクラスを半分に分け、赤いマジックの赤チーム、青いマジックの青チーム。ペアワークで、漢字問題とヒント3つを日本語で考える。

 赤チームの問題「鎌倉の大仏」「東京タワー」「日本酒」
 青チームの出題「年賀状」「新幹線」あとの一題は「秘密」という。

 年賀状のヒント「じゅうしょとなまえを書きます」「お正月にもらいます」「郵便局へいきます」で正解が出た。「新幹線」も「長いです」「とても速いです」「安くないです」というヒントですぐあたった。

 赤チームの問題「日本酒」のヒントは、「日本人はこれが好き」「フィフィさんも好きです」「飲み物です」
 すぐに答えがでた。フィフィさんの日本酒好きは、クラスで有名らしい。

 学生が秘密にしていて、私に問題をみせなかった青チームの出題
 「きれいです」「かわいいです」
 ガブ「わたしです」と言うが、「ちがいます」と、却下。

 最後のヒント「いつも冗談を言います」と青チームの筋肉ンがいう。
 皆笑いながら、「HAL先生」と、口をそろえる。
 「正解です」

 皆大笑い。私の冗談好きを、こんなふうにクイズにできるくらい、学生に日本語の運用力がついたと思うことにして、「よいお年を」のあいさつをかわした。

本日の負け惜しみ:冗談であっても、「きれいでかわいい先生」と言ってくれて、やさしい学生たち

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20151215
 ヤンゴンの学生たちも、私の冗談によく笑ってくれます。
 カタカナ指導の「オ」の語彙例として「tail=尾」を導入し、ビルマ語で尾はなんていうのか知らないから、指示棒をおしりに当てて、「ヒトにはありません。We don't have a tail」と説明したら、受けた。当地の先生は、ジェスチャーとか、授業中のダンス披露とかやらない。上品で厳粛で威厳があるのがセヤマー(おなご先生)だから、品のない先生と思う学生もいたかもしれませんが。

 HAL先生の尾は、この12月、つらいことになっていました。当地に到着した翌朝、ホテルの階段から数段滑り落ちた、と、12月はじめのミンガラ日記で報告しました。おしりで滑り落ちてしたたか打ち、尾てい骨骨折かと覚悟したのですが、レントゲン撮ってもらったら、骨は折れていなくて、ただの打撲。
 
 ただの打撲なのに、半月たってもおしりが痛いのです。が、人間。慣れればさまざまなことを習得する。椅子から立ち上がるときは死ぬほど痛いのに、しゃがみ込み式トイレから立つのはいたくないのはなぜかということについて、研究探求を重ねた結果(というほどのもんではないが)、春庭、おしりの骨をそれほど痛くせずに立ち上がる方法を習得いたしました。 

 しゃがんだ格好から立つとき、膝を伸ばしつつ、おしりは後ろに突き出されます。こうすると、尾てい骨に負担がかからない。椅子から立つときも、思いっきりおしりをうしろにつききだしてから立つというコツを習得。ものすごくおかしなスタイルなので、見た人は笑いますが、痛みが少ないなら、笑われるくらい平気。
 なにごとも学習ですね。
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ぽかぽか春庭「2003年のオフ会」

2015-12-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151213
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記12月(3)2003年のオフ会

 2003年12月三色七味日記の再録を続けています。
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2003/12/13(土)
日常茶飯事典>ものかき三昧

 一日笈の小文書き。

本日のつらみ:もっともっと書く時間がほしい

2003/12/14(日)
日常茶飯事典>毎日書く

 一日笈の小文書き。
 いくら書いてもまだまだ書きたい。
 ごはんを食べる時間も惜しい。そうじなんてもってのほか。お茶碗も流しに溜まる。

 「まともな食事食べたい」などとカップラーメンすすりながら言う息子。「日曜日くらい、母のために僕が夕食作ってあげようという気にならないの?」とたずねると、「ならない。自分で作るくらいなら、三食ラーメンでいい」というのだ。

本日のうらみ:夫育て失敗に続いて、息子を有能なハウスキーパーに育てられなかった

2003/12/15(月)
ジャパニーズアンドロメダシアター>カリビアン・パイレーツ

 漢字、作文2コマ。

 作文。「私の国の有名人」「自国の料理の手順」「冬休みのできごと」の三本を宿題に。ちょっと多すぎるかも知れないが、1月19日まで、作文の授業がないので、しかたがない。

 午後2:50から、ギンレイで「カリビアンパイレーツ」を、娘息子といっしょに見た。
 予告編では、ゾンビ海賊がとても怖かったが、本編ではそんなにこわくなかった。
 ストーリーはたわいないが、面白かった。

 娘が「ジョニー・ディップのB級映画俳優の味をそこなわない演技がいいんだって」とおすすめしていた通り、海賊船長はなかなか見ものだった。

本日のねたみ:ジョンシルバーと共に宝島へ行きたかった子ども時代の夢


2003/12/16(火)
ニッポニア教師日誌>遅刻

 朝、クロアさんからのメール。ワンペアoff会の時間の確認。10時半という約束の時間を確認し、もかしたら遅れるかもしれない、という返事を出す。

 10:30の約束だからと、10時前には家を出た。「遅れるかも」という返事を書いたが、これなら十分約束の時間に間に合う。

 地下鉄に乗ろうとして、娘が「火曜日はマラソン大会のつきそいだからたいへんだ」と出かけていったことを思い出す。そういえば、昨日は月曜日だったなあ。やれ、たいへんだ。今日は水曜日でなく火曜日だ。仕事だ。

 大慌てで電話。朱賀先生がつかまらないので、事務室へ電話をかけ、1組の授業をビデオクラスにふりかえてほしいとたのんだ。お正月が近いので、続ヤンさんの年末年始のエピソードを。

 センターに着いたらもうお昼近い。学生には、漢字クラスは金曜日にふりかえると、説明。朱賀先生にも事情を話して、漢字クラスは金曜日に行うが、ビデオクラスは自習になったので、私の出講の補講をどうするかという相談をしたところ、アメリカ帰りの新任講師がさっそくに関西で常勤の口があり、その補講とのかねあいで決めることになった。

 完全に私のミスによる自習措置だったが、常勤の口がきまって急にやめることになった先生がいたおかげで、あまりごたごたせずに補講が決まって、まずは自分のポカを反省するのみで一件落着。

本日のうらみ:一日分ひにちがすっとんだのは初めてのこと。ボケの始まり?娘には、「カフェ日記書きに夢中になりすぎているから、ほかのことに頭がまわらないのだと叱られた


003/12/17 朝雨のち曇り(水)
日常茶飯事典>ワンペアOFF会

 10:30にジュンク堂の喫茶室で待ち合わせ。特に目印など決めないで、なんとなく雰囲気で当てようと思っていたが、ほかに誰もいないので、とにかくやってきた人にあいさつしたら、その人がクロアさんだった。

 大学では、クロアさんが卒業してから私が入学したことになるが、もし、大学の構内で出会っていたとしても、私のほうからは絶対に声をかけることはできないような、才女の雰囲気がする人。

 喫茶室で11:30まで話し、近くのイタリアンの店で1:30までパスタとサラダ食べ放題、コーヒーなどで話を続けた。

 クロアさんは、ロシア語学科卒業後は英語の翻訳者になり、週4日は会社勤務で仕事をする。あとは、在宅勤務。
 クロアさんのご主人は10歳年上で、私と生年はいっしょ。54歳。今は英語学校などの仕事に携わっているらしい。

 一人息子は2年生。とてもいい子に育っているらしいが、学級でイジメの対象にされたことも。担任に力がなく、学級崩壊状態。
 校長も有効な手を打てず、このまま3学期もこの状態だとすると、子ども達にとって4月からの1年間は「無駄で心痛む1年間」だけの思い出しか残らないという。

 私も、娘の不登校のことや、娘が5年生のときのクラスが学級崩壊状態となったことを話す。

 ネットで出会った人と、初めて話した。
 人見知りで、よく知らない人と話すことができないので、offチャットを心配していたが、とてもいい時間が持ててよかった。

 off会で初めて出会う人と話すのは、けっして初めての出会いではないとわかった。隣近所の、毎日顔を合わせて挨拶していても、何考えているのかわからない人と話すより、よっぽどお互いにわかりあったのち、話すのだから。
 
本日の負け惜しみ:子育て苦労話なら、誰にも負けないほど苦労をしてきた

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20151213
 ネットから始まったおつきあいが、オフ会を重ねて今では親戚以上のつきあい、という例もたくさんおききします。
 わたしは、そもそもネットの中のおつきあいも少ないし、直接会ったことのある人は数えるほど。関西方面だとなかなか出会いの機会が作れず、、会えても1度だけということも多いのですが、1度会えればネットでことばを交わすこともリアル友達と同じです。

 やはり東京在住の方とは何度も会う機会ができます。建物探訪にごいっしょしたり、子育て愚痴こぼしあい大会を年に1度か2度ひらいたり。

 日常生活では海の底に隠れているように生きているわたしなので、「友達すくないマーメイド」といった気分。まあ、高齢マーメイドがいたっていいわけで。一説によれば人魚の寿命は千年。まあ、千年は無理だけれど、120年くらいは長生きするつもり。 
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ぽかぽか春庭「2003年の文集つくり」

2015-12-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151212
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003年三色七味日記12月(2)2003年の文集つくり

 2003年三色七味日記12月の再録を続けています。
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2003/12/03(水)
ニッポニア教師日誌>模擬授業

  午後、日本語教授法2コマ。
 模擬授業の2回目。それぞれ工夫した授業になっていて面白かった。

本日のひがみ:私の日本語教師になりたての頃より堂々としている教師ぶり


2003/12/04(木)
ニッポニア教師日誌>文集作り

 日本事情、作文2コマ。

 おおいそぎで近代現代史を駆け足。終戦後の分ができなかったが、試験には出すから、本を読んでおいて、ということで終了。あとは作文集の制作。毎年、もう作文集を作るのはやめようと思うのだが、できあがってみると、留学のいい記念になったかな、と自己満足。

本日の負け惜しみ:現代史は駆け足になったが、日本と自国の交流史発表で、多くのことを学べたという留学生に拍手


203/12/05(金)
日常茶飯事典>介護体験

 漢字、会話2コマ。

 娘は、介護体験のため足立区にある肢体不自由児の学校へ。今日は校内の見学など。来週マラソン大会のつきそい。

本日のつらみ:マラソンの伴走者ではなく、記録係になれてよかったと胸なでおろしている娘、太っていて走れない

2003/12/08(月)
ニッポニア教師日誌>年賀状の書き方

 漢字、作文2コマ。年賀状の書き方など。

 漢字のテキストに出ていた年賀状の文面を利用し、作文の時間に練習で書いてみる。ホームビジットしたお宅や指導教官へ、年賀状を出すように言う。「ただし、私の家には出さないで。返事を書くのたいへんだから」

本日のつらみ: 今年、私はタイムの喪中。うさぎでは喪中通知がだせないけれど、気持ちとしては、家族を失った喪中なのだ


2003/12/09(火)
ニッポニア教師日誌>ダンスでラポール

 漢字会話2コマ
 ジュンヨンさんは、12/11に韓国へ帰国するので、今日が年内最後の授業。趣味と実生活について話し合った。

 ジュンヨンさんは、趣味でエアロビやダンスをならった。韓国の運動会でも、子ども達のマスゲームやダンスの披露がある。このため、パクさんのクラスは学年で一番ダンスがうまいクラスとして有名になり、他のクラスの子どもたちは、みな「ジュンヨン先生のクラスはいいなあ、先生がダンスを上手に教えれれるから」と羨んだという。

 「ダンスをならったときは、仕事に役立つとか考えずに、自分の健康のため趣味のために習ったんですが、子ども達にいい影響をあたえられたし、ダンスを通じてこどもたちとほんとうに仲良くなれた」という。

 クラスで教えるとき、こどもの心を理解する方法はさまざまだ。ジュンヨンさんは、ダンスの練習をとおして、他のクラスにはない「私たちのクラスはダンスがうまい」という誇りを子ども達にあたえ、自信をつけさせた。それが他の教科の勉強にもいい影響を与えた。ラポールの見本のようなエピソードだった。

 北海道の荒れた中学校が「そーらん節」の踊りをとおしてよみがえったドキュメンタリーもあったが、踊りや歌は、クラスをひとつにまとめるために、本当にいい材料。

本日のそねみ:私のダンスは授業に役立たないが


2003/12/10(水)
ニッポニア教師日誌>最後の自慢話

 午前中、Aダンス。
 午後、日本語教授法2コマ。模擬授業3回目。皆、なれてきて、けっこううまく授業をこなしていた。

 「自慢じゃないけど自慢です」のコーナーは、特別コーナーで、2度目にやりたい人がとびいりでやる、ということにした。

 「○○さんがアルバイトしているサンシャイン水族館へ遊びに行ってきたので、報告します」という水族館のイベント報告あり、「私が取得した水難事故レスキュー員の資格について、取り方などを説飯します。まず、この資格は都道府県別に試験が行われるので、千葉県や神奈川県など、海がある県では取得が難しい。海での遠泳などが試験科目に加わります。埼玉県は海がないので、取りやすいので、資格が欲しい人は埼玉県で受験しましょう」などの報告あり。

 みな、自分の特技を報告するときは、楽しそうで生き生きしている。

本日のよそみ:水族館に行った報告「新婚の妻を連れて行きました」に、よそみしていた学生も「ナヌッ」と注目

2003/12/11(木)
ニッポニア教師日誌>日本事情試験

 日本事情作文2コマ。最終試験。

 作文と日本史。日本史は、ウーがカンニングしようとしたのを阻止。カンペなしでは39点しかとれなかったので、追試決定。
 点数はとれなくても、まじめに授業を受けて、まじめに試験を受ければ、良にするつもりだったのに、これでは「可」以外にだせない。

 留学生が「日本の歴史を学ぶ」ということを、私がどのようにとらえて授業をしてきたのか、一番日本語能力が低く、休みがちであったウーには伝わらなかったのだ。

 他の学生は「丸暗記して、正解をたくさんとることより、歴史を学ぼうとする意欲、自国との歴史をふりかえり、日本との交流史を知ることが大切」という私の方針を理解して試験に臨んだ。ウーは、先週も休んだし、試験を受ける際の注意事項も聞いていなかった。

 ひとりじゃ追試もつらかろうと、ランとバドにも追試を申し渡す。でも、あとで採点したら、バドはちゃんと点が取れていた。ただ、解答欄の書き方が正しくない部分があったのだ。

 作文試験の間に作文集にひとりひとりにコメントをつけた。人数が少ないからできたが、来年は30人では文集へのコメント書きも出来ないかも知れない。

本日のうらみ:点数じゃない、「歴史を知る」中で考えて欲しかったのに

2003/12/12(金)
ニッポニア教師日誌>入試

 会話、ビデオ3コマ。
 大学院の留学生入試が行われているというので、欠席者が多かった。
 ベンは、自分の入試ではなく、先週呼び寄せた奥さんを入学させるために手続きをしたり大忙し。今日も奥さんの入試につきそって、自分は授業を休んだ。


<つづく>
~~~~~~~~~~~~~
20151212
 2003年も、ハイテンションはちゃりきの教師でした。
 2015年、いささかくたびれてきた老教師になりました。
 張り切り気持ちは12年前と変わりませんが、いかんせん、老体がついていかず、、、、。

 新学期の授業が始まりました。
 8日の授業は、先学期も日本語授業を受けた人のクラスだったので、1クラス30人以内に収まっているし、混乱は有りませんでした。

 しかし、問題は来週から始まるゼロスタートクラス。初めて日本語を習うクラス。最大54名補助椅子を入れても60名という教室に対して、学科長は120名までの登録を許可しました。この中から50名を選抜せよ、という。無理だ。

 まだ、日本語を習っていない学生にどうやって日本語試験をする?
 最初2回だけカタカナ授業を実施し、「月曜日に試験をするから週末にカタカナ50音を全部覚えてくること」と申し渡す。まだ書けない学生が多いだろうから、選択問題を半分にする。

 たとえば、鹿の絵にローマ字でShikaと書いておき、ツカ シカ シ刀」を出して、どれとが正しいか選ばせる。これだって、きっとむずかしいだろうと思います。
 私がビルマ文字の試験をされたら、○の上が切れているのと、下が切れているのと、右が切れている中、どれがKでどれがPか、と問われても、え~とっ、と、まごつくに違いない。

 そこで。カタカナテストだけではなく、「日本について関心を持っていること」というビルマ語作文を提出させて、ボスが120人分全部読み、判断してくれることになりました。私が「日本語をこれから始める学生に、日本語の試験をしても選べません」と強く抵抗した結果、老碩学に120枚の作文を読んでもらうことになったけれど、ボスは「当地の学生の日本への関心のアリ方を知る機会になる」と、引き受けてくれました。ありがたい。なんとか選抜できそうです。
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