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ぐるめぐりエスニック2008年8月

2011-01-25 11:23:00 | 日記
2008/08/01
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>ぐるめぐりエスニック(1)アボリジニ料理

 美術展の図録は高い。
 いつも、図録を眺めて「これを買って帰ろうかな。でも、そうすると、帰りの夕食は、300円の立ち食い蕎麦。夕食にちょっとおいしいもの食べて帰るのなら、図録はなし」と思案したあげく、気に入った絵の絵葉書数枚だけを買って帰ることになる。
 食べる方優先主義。高名な西洋画家の場合は、図書館にいけば、画集などを見られるので、図録を買わなくても、目指す絵に出会えます。

 「資料として後々必要」と思えば買いますが、たいていはガマン。
 エミリーの絵は、図書館などにはおいてないだろうと思ったので、いつもは買わない図録、「エミリーウングワレー展」を2500円払って買いました。

 エミリーの絵は、1点あるいは数点で見るより、100点まとめて見るほうがいい。絵葉書数枚では、彼女の世界観の全体がわからない、点描も、ストライプも、炸裂する色彩も、トータルでエミリー・カーメの世界だから。
 と、思って図録を買いましたが。
 新国立美術館の中にあるレストランでは美術展関連イベントとして「オーストラリア料理」のメニューがありましたが、図録を買ってしまえば食べる分にはまわらない。

 エミリーの絵の世界を丸ごと味わうためには、オーストラリアへ行って、アボリジニの大地の上に絵を置いて、カーメ=ヤム芋などを食べながら見たほうがいいのだろうなあ。

 テレビ番組「ウルルン滞在記」で紹介されたバーバラの家に行って、アボリジニスピリットを感じながら、トカゲの丸焼きなんかを食べたいなあという気がします。
 テレビの「ウルルン」でも、女性タレントが食べて見せていました。

 オーストラリアのシドニー、ブリスベンなどのレストランには、メニューにアボリジニ料理があるそうです。
 ブリスベンのアボリジニ料理(Aboriginal Food Source: Witjuti Grub)にあるメニュー、「芋虫」は、A$3.5(約220円)

 シドニー、ロックス地区にあるアボリジニ料理店。
 アボリジニダンスショウを見ながら、カンガルーや、エミュー、ワニ(クロコダイル)の肉を利用した料理が供されるそうです。
 たぶん、観光客向けに、なんとなく「オーストラリア」って感じがすればいいって程度の料理な気がする。

 ほんとうのアボリジニオリジナルの料理メニュー。
 トカゲの丸焼きの丸かじり、蜜蟻のデザートなど、、、。

 グルメ漫画『美味しんぼ』の原作者雁屋哲は、1988年にオーストラリアのシドニーに移住し、『美味しんぼ』37巻は、「激突アボリジニー料理」
 表紙は、「蜜蟻」の写真。裏表紙には「亀の丸焼き」の写真があります。

 主人公山岡士郎は、友人の和食料理人岡星とともに、オーストラリアのノーザンテリトリー(北部特別地域)にやってきました。山岡ら究極のメニュー一行と、海原雄山の至高のメニュー一行は、ダーウィン市に宿泊し、アボリジニ料理の食材を集めます。

 どうしてもノーザン・テリトリーでは手に入らないデザートの食材を求めて、山岡や岡星は、オーストラリア中央部、エアーズロックの東に広がる地域一帯のアリススプリングスにまで足を運びました。アリススプリングスは、エミリー・ウングワレーのふるさと、ユートピアの近くの町です。

 海原雄山が供するアボリジニ料理。
 クロコダイル肉のパイ包み焼き、オーストラリアの北部の川魚バラマンディーの蓮葉蒸し焼き。
 デザートは蟻。葉っぱを食べる蟻なので、緑色。生きたままの酸っぱい蟻の胴体を食べる。

 一方、「究極のメニュー」山岡士郎は、ゴアナ(大トカゲ)の焼き鳥風。海の幸は、海辺に住むアボリジニのごちそう、エイ。味付けは、エイのレバーペーストで。
 デザートは、「至高のメニュー」と同じく蟻。こちらは蜜蟻。働き蟻が花から蜜をあつめ、蜜蟻に食べさせて育てる。蜜蟻は、上品な甘さなんだって。
 この蜜蟻を求めて、山岡はアリススプリングスのアボリジニ居住区まで出かけたのでした。

 私は、アフリカで芋虫もワニの肉も食べたし、中国ではサソリの唐揚げも蚕のサナギも食べた。
 カンガルー肉やダチョウ肉は、今やちょっとした食材店にもおいてあるというのですが、緑蟻や蜜蟻って、どんな味なんだろうと、興味しんしんです。
 白魚は好きですけれど、白魚の躍り食いというのは、まだしたことないのです。蜜蟻を生きたまま口に入れるときって、どんなふうでしょうか。

 東京には、たいていの地域の料理店があります。
http://e-food.jp/rest/
 このページに、東京にある各国料理の店がのっています。世界一周グルメ旅行ができる。
 アジア20ヶ国、中東6ヶ国 、ヨーロッパ22ヶ国、ロシア&周辺国(NIS)4ヶ国、アフリカ14ヶ国、北中米&カリブ7ヶ国、南アメリカ6ヶ国、オセアニア2ヶ国。

 次回より、アフリカ料理の店を紹介します。

<つづく>


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2008年08月02日


ぽかぽか春庭「ナイロビのウガリとカランガ」
2008/08/02
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ぐるめぐりエスニック(2)ナイロビのウガリとカランガ

 1978年、従妹が海外青年協力隊の一員としてケニアの高校理科教師になりました。
チャンス!1979年4月、私も、ケニアへ行ってみよう、と思いました。

 中学校国語教師を退職した私は、大学に出戻って演劇学や民俗芸能を学んでおり、ケニアダンスのフィールドワークをしようと思ったのです。

 当時、アフリカ個人旅行を取り扱う旅行会社は、そう多くなかった。
 私は、雑誌広告を見て、目黒駅前の「アフリカ旅行専門店」というオフィスをたずねました。
 DoDoWorldという小さな旅行会社。社長はクマさん。

 1979年のDoDoWorldは、オフィスのなかで、スワヒリ語講座を開き、個人旅行者へのサービスとしていました。
 私は、西江雅之先生の教え子にあたるセベさんにスワヒリ語基礎を教えてもらいました。

 1979年にDoDoWorldでいっしょにスワヒリ語を習った仲間たちとの、24年後の同窓会のようすは、以下のページに書きました。2003年7月の、ちえのわ「三色七味日記」
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0307b7mi.htm

 私がケニアに行く前、6月7月になると、スワヒリ語研修と称して、アフリカ好きの仲間たちと、クマ社長の家に何度か泊めてもらったことがありました。
 クマ社長もまだ若くて独身のころ。
 旅行会社の社長と顧客たち、というより「アフリカ好き仲間のサークル」というノリで、アフリカについて旅について、夜を徹して語り合ったものでした。

 私がDoDoWorldでスワヒリ語を学んでいた頃、タカ氏はすでにナイロビに行っていたので、東京で顔を合わせたことはありませんでした。

 タカ氏は1979年6月はじめに、私は7月末にケニアのナイロビに行きました。
 タカ氏は、私より2ヶ月「ナイロビ先輩」です。

 ナイロビに到着したその日に、私は迷子になりました。
 自分の宿泊先に帰れなくなった私は、たまたま出会ったタカ氏に、ナイロビの町を案内してもらった。これが、ナレソメちゅうか、腐れ縁のきっかけ。

 タカ氏を、当時は「よい人」と信じて、いっしょにナイロビ下町のごぎたない飯屋で、ウガリ(トウモロコシ粉の蒸しパン)やカランガ(牛肉のトマトシチュウ)を食べ歩きました。
 タカ氏は、なんでも「うまい!」と言って食べる人でした。

 なぜ、はじめて出会ったウサンクサイ男を信用して、町を案内してもらっのか、アブナイ男だとは思わなかったのか、と、娘がツッコミます。日本で出会っていれば、どう見ても「不審者」風の男です。

 なぜ信用したかというと、同じ旅行社を利用している人だとわかったからです。社長のクマさんを、お互いに信用していた。
 「クマ社長は信頼できる人だ」というこの人も、信頼できる人に違いない、と、思いこんで、ナイロビの案内をしてもらったのが、まちがいのはじまり。

<つづく>
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2008年08月03日


ぽかぽか春庭「アフリカンレストラン・カラバッシュ」
2008/08/03
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ぐるめぐりエスニック(3)アフリカンレストラン・カラバッシュ(瓢箪)

 確かにクマ社長はいい人ですが、「クマ社長は信頼できる」と、言っている人だから同じようにイイ人かっていうと、そうではない。

 タカ氏は、1980年の年があけた1月に、私より先に日本へ帰りました。
 お金を使い果たして帰国したタカ氏に比べて、私は、ちょっとだけナイロビに長居ができた。思いがけないアルバイトができたから。

 日本テレビのドラマ熱中時代特別編(主演水谷豊、共演浅野ゆう子)のナイロビロケに遭遇して、浅野ゆう子の留学生仲間という役でエキストラ出演したり、羽仁進監督の映画『アフリカ物語』に出演したキャティの写真集撮影クルーのガイドなどをして、アルバイト賃金を得ることができました。

 アルバイト代を払う側からみると、カタコトのスワヒリ語をつかってナイロビを歩き回っている変な日本女性を数日雇って、日本円でそこそこの謝礼を払うだけ。それが、私にとっては、ナイロビでの滞在日数を数週間のばすお金になりました。

 ナイロビ滞在は当初の予定より大幅にのびて、このままケニア居着いてもいいかな、とさえ思いました。

 バックパッカーとして流れてきて、ケニアにそのまま居着いた日本人も何人か知り合いになったので、不可能ではないと思えた。
 少なくとも、従妹が住んでいる教員宿舎に居候すれば、従妹の海外青年協力隊任期満了まではケニアで暮らしていけそう、と計算していました。

 一生分の「のんびり、ゆったり」をケニアで味わった。一日中、木陰で本を読んでいてもよし、昼は空ゆく雲を、夜は降るほどの星をぼうっと眺めていても、「なすべきこと」に追い立てられることもなく、自分がどこのだれでもなく、すごせた、貴重な時間でした。

 帰国のきっかけとなったのは、クマ社長。
 DoDoWorld社長のクマさんが、たまたまナイロビ事務所に出張で来ました。
 クマ社長が、4月に帰国するとき、ま、これも潮時かなと、友人タマさんといっしょに日本へ帰りました。

 帰途、飛行機エンジントラブルがあり、バンコックの空港で何も情報がないまま一晩すごしたのも、27年前のなつかしい思い出です。
 このときも、クマ社長がいっしょに空港の椅子に座っていたから、私もタマさんも心細い思いをせずに、すごせました。

 クマ社長は、小さな旅行会社を着々と大きく育て上げました。
 クマ社長はたいへん有能で、スタッフにも恵まれ、スタッフ数人ではじめたDoDoWorldを、27年間で「道祖神」という立派な旅行会社に成長させています。
http://www.dososhin.com/

 クマ社長は旅行会社を成功させただけでなく、アフリカ料理の店経営にも腕をふるっています。
 西アフリカ料理の店。カラバッシュ。カラバッシュとは、「瓢箪(ひょうたん)」という意味。

 カラバッシュは、クマ社長が「アフリカ料理で一番おいしい」と惚れ込んで立ち上げた、西アフリカの料理店です。セネガルやコートジボワール、マリなどの家庭料理がメニューに並んでいます。
http://www.calabash.co.jp/

<つづく>
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2008年08月04日


ぽかぽか春庭「ヒョウタン坂の社長vsカラバッシュのクマ社長」
2008/08/04
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ぐるめぐりエスニック(5)ヒョウタン坂の社長vsカラバッシュのクマ社長

 1980年にケニアから帰国して1年ほど、「アフリカ同窓会」として写真の交換会&飲み会を仲間たちと続けました。わたしの部屋を飲み会会場にして手料理をふるまうと、タカ氏は、どんなへたな料理でも「うまい、うまい」と平らげました。

 このあたりの事情は、以下のカフェ日記(2008/05/06)に書きましたので、読んでくださった方もいるかも。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200805A

 帰国後、1年間のジャスト・フレンド期間を経て、タカ氏はステディ・フレンドに昇格。さらに1年後に結婚。
 アフリカの太陽をたっぷり浴びたおなかは温室効果を保ち、「アフリカ式促成栽培」により、結婚式の半年後には娘が生まれました。

 海外青年協力隊の理科教師だった従妹は、ケニアから帰国後、同じ協力隊の男性と結婚式をあげました。10月上旬のこと。
 私とタカ氏は、同じ月の下旬に結婚式、親戚からは同じ月に2度も結婚式列席でモノイリだと非難されたのですが、急がなきゃなんない理由があったので。

 従妹は、結婚式から10ヶ月後の夏、翌年の7月に息子が誕生し、「めでたいハネムーンベビィ」と祝福されました。
 一方、結婚式から6ヶ月後の4月に娘が誕生した我らは、親戚中から顰蹙を買いました。

 「あなたがそんなフシダラな娘とは思わなかった」と、言うオバ様もいたんです。3ヶ月の差が大きなちがい。
 今ドキは「おめでた婚」という言葉まで出来ていますが、25年前のことですからね。

 タカ氏は、いくつかの雑誌に写真を掲載して、「世界放浪のフォトジャーナリスト」になりかけていたのを、すっぱりあきらめて校正事務所を立ち上げました。
 地方新聞記者時代に、整理記者という部門にいたことがあり校正を覚えたので。

 タカ氏は、1990年代から十数年、瓢箪坂という坂を上ったところに校正事務所をかまえていました。
 瓢箪坂は、こんな坂
http://www.tokyosaka.sakura.ne.jp/shinjuku-hyotanzaka.html

 私はタカ氏を「ひょうたん坂の社長→ヒョウタンシャチョー」と、呼んでいます。
 5年前2003年に、シモミヤビ町に事務所を移転したのですが、「シモミヤビチョーのシャチョー」は言いにくいので、今でもヒョウタンシャチョーです。

 事務所の維持費をぎりぎりひねり出すだけのもうけしかない校正会社のシャチョー、毎月、「家族の生活費にまわす分は、今月もない!!」と言い続ける経営をしてます。
 私は、「ひょうたんシャチョウの、会社ごっこ道楽」と、言っています。

 夫の道楽をだまって許している妻。
 「女道楽やギャンブルよりはマシ」と、心鎮めるようにしていますが、外面ホトケ、内面夜叉で~す。
 アハッ、外面も夜叉そっくりって、それを言っちゃいけません。この顔は生まれつき。

 ひょうたんシャチョーの校正事務所は、いつまでたっても赤字会社から成長しないのに比べて、同じヒョウタンでも、大違いの人が、クマ社長のヒョウタン=カラバッシュ。
 レストラン・カラバッシュ(瓢箪)は、朝日新聞のエスニック料理欄にも取り上げられて、評判上々です。
http://www.asahi-mullion.com/column/aji/80624index.html

<つづく>
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2008年08月05日


ぽかぽか春庭「カラバッシュのアフリカンコース」
2008/08/05
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ぐるめぐりエスニック(6)カラバッシュのアフリカンコース

 私が「クマさんの店に行ってみない?」と、ヒョータン社長を誘っても、「忙しくてコンビニおにぎり食べながら仕事しているのに、電車に乗って夕食を食べに行くなんて、できるわけないだろ」という、いつもの返事。
 いくら忙しく働いても、赤字つづきの会社なんだけど、、、、、

 校正というのがどんな仕事かということと、「なぜ儲からないか」については、以下のページを読んでいただくとわかります。
 「家業の校正」http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/iro0601.htm

 講師仲間手作りのおいしいイチゴジャムを事務所に持っていって、「2瓶あるから、会社の事務室用にひとつおいていこか」と、たずねたら、「パン食べることもあるけどさ、だれが、ジャム塗ってくれんの。ジャム塗ってくれる人がいるなら貰うけれど、この忙しいのに、自分でパンにジャムぬっている余裕なんて、ないから、いらない」と、ヒョータンシャチョーの弁。
 はぁ、すんごく忙しいんだね!って、ただ、めんどくさがりなだけじゃん。

 ひょうたんシャチョー、夕食のお誘いは断っておいて、そのくせ、後期高齢者医療保険の矛盾点について、30分も私に電話レクチャーしてくる。はぁ、拝聴いたしますです。でも、忙しいんじゃなかったの?

 ヒョータンシャチョーが忙しくて行けないというカラバッシュ。
 私がカラバッシュの料理を食べてみたのは、今学期もよく働いた「自分にごほうび」としてです。むろん、ひとりで。
 講師仲間の打ち上げ会下見をかねての、おひとり様夕食。

 カラバッシュでは、コックさんはじめ、西アフリカ出身のスタッフが、フランス料理の影響を受けたという地元の味を提供しています。

 私は東アフリカの料理しか知らないのだけれど、クマ社長が「これが一番おいしい」というのなら、全幅の信頼をもって信用する。クマ社長はいい人だから。

 カラバッシュのフードメニュー。
http://www.calabash.co.jp/food.htm

 今学期も、サンダル壊れて裸足で授業するワ、骨折するワおおわらワの授業でしたが、もうあとは復習と試験を残すのみという日、大奮発でコースを頼みました。

 タスカビール
 アボガドサラダ
 ペペスープ=コートジボアールのピリ辛スープ 
 アカラ=パンダ豆(白と黒なので)のマリ風揚げパン
 マフェ&ライス=マリ風ピーナツシチューとごはん
 コーヒー

というコースで、どの料理もおいしかったです。
 スープは夏ばて防止にききそうな辛さでしたが、干し魚のダシがきいていて、風味がよかった。

 ただ、アフリカの感覚でいうと、一人前の量が少ない。日本の人にはちょうどいいのだろうけれど。アフリカの人は、二人前ずつ注文しないと、満腹できないんじゃないだろうか。って、私が大食いなだけなのかも。

 私のエスニック料理についてのポリシー。その土地出身の留学生がなつかしがって集まってくる味、そして貧乏な留学生も満腹できる十分な量。&、安い!これも大事。
 カラバッシュ、味はOK。しかし、量と値段は留学生向きじゃない。

<つづく>
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2008年08月06日


ぽかぽか春庭「カラバッシュのクマ社長夫人vsヒョータンシャチョー夫人」
2008/08/06
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ぐるめぐりエスニック(7)カラバッシュのクマ社長夫人vsヒョータンシャチョー夫人

 留学生日本語教育コースの講師打ち上げ会をしようと決まった日は、カラバッシュ恒例のアフリカンミュージックイベントが入っているというので、残念ながら予約は出来ませんでした。

 店を切り盛りしていた女性、たぶんクマ社長の奥様だろうと見当をつけて、帰り際にレジの女性に「あの方は社長の奥様ですか」と、聞いたら、ぴんぽ~ん。

 すてきな奥様でした。
 さわやかにお客の応対をこなし、お料理をテーブルに並べてくれました。
 カラバッシュのクマ社長夫人は、「子育て卒業後」の仕事として、とてもいい形でご主人を助けているように思いました。

 私は結婚以来、10年以上、ヒョウタン坂の校正会社を手伝っていましたが、ヒョウタンシャチョーは、仕事させておいて文句を言い続けました。
 「あなたは緻密さがないから、校正にはまったく不向き。いつでもボロボロ誤字を見落として、まったく役に立たない。それに、何度言っても、あなたは、校正じゃなくて、リライトしてしまうから、校正者としては零点。校正はリライトじゃない。メッセンジャーやらせれば方向音痴で迷子になるし、まったく使い物にならん」と。

 だれが「方向音痴で使い物にならん」やネン。私が方向音痴だったおかげで、ヨメがもらえたのではないかっ。
 「うちのヨメはん百年の不作」やて、それはこっちのせりふ。ヒョウタンシャチョウ夫人になったせいで、ビルゲイツに求婚されるチャンスを失った。

 家事育児はいっさいしなかったし、現在は家庭を放棄している夫。
 歯がみしつつ、私は、日本語教師の仕事をしながら大学院に通い同時に夫の「もうからない会社」の仕事を手伝っては文句いわれ、ふたりの子を育て上げて、はっと気づいたら、去年、銀婚式はすぎさっていたのでした。

 結婚記念日から半年もすぎたころ、夫に「銀婚式、去年だったよね」と言ってみたら「知ってるよ、それがどうした」という返事。ふんっ!私だって、忘れていたさ!

 現在は、夫の会社の仕事から完全に手をひいて、大学講師の仕事に専念しています。方向音痴を責め立てられることはなくなったかわりに、夫からは、「よその会社では、奥さんはみんな経理の仕事手伝ったり、いろいろ夫を助けて働くのに、、、、」と、文句言われています。
 「いいヨメだ」と、ほめてくれるのは姑だけ。

 はい、すみませんね、内助の功からは、ほど遠い妻で。
 つうか、私は子どもの食費やら家賃光熱費やらを支払うために、外助をやってきたのよ。おひとり様打ち上げで、カラバッシュのアフリカンコースくらい食べても、バチあたらないっ。

 カラバッシュ(ひょうたん)の料理、ヒョータンシャチョーといっしょに食べにいく日はまだまだ遠いでしょうねぇ。

 では、恒例の春庭応援ソング、毎度おなじみ『インターナショナル食べ放題』

 演奏は、歌声喫茶のび
http://utagoekissa.music.coocan.jp/utagoe.php?title=inter

♪起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し
食えよ我が腹へと 暁(あかつき)は来ぬ
忘却の鎖 断つ日 肌は血に燃えて
海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの

聞け我等が雄たけび 天地轟きて
脂肪越ゆる我が腹 行く手を守る
満腹の壁破りて 固き我が腕(かいな)
今ぞ高く掲げん 我が勝利の旗
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの♪

<おわり>
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トルストイ2008年9月

2011-01-22 11:49:00 | 日記
2008/09/15
ぽかぽか春庭・言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>ロシア文化フェスティバル(1)トルストイ

 さまざまな国の文化。それぞれの国が持つ文化も、決して単独に発達してきたのではなく、交流をつうじて互いに影響し合い、融合しあっています。

 ロシア文学は、明治以後、日本文学の上に大きな影響を与えてきました。
 ドストエフスキーの『罪と罰』、トルストイの『戦争と平和』など、「青年が一度は読んでみるべき書」の地位を長く保っていました。
 最近では新訳なったドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」が、ベストセラーになっています。

 また、外来語の面では、ロシア語の「イクラ」が、日本語でもそのまま「イクラ」として外来語になり、外来語とも意識されずに使われていること、1月2月に「てれすこ・外来語のお話」のなかで紹介しました。(2008/02/17)

 ロシア語の「весна света ベスナー・スベータ」という語が翻訳されて「光の春」という早春をあらわす美しいことばとして知られてきたことも紹介しました。(2008/02/27)
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200802A

 2003年1月に、プーチン大統領と小泉首相が日ロ首脳会談を行い、「日露行動計画」が締結されました。
 この計画により2003年には「ロシアにおける日本文化フェスティバル」が開催され、次にその返礼として、日露国交回復50周年を記念して「日本におけるロシア文化フェスティバル」が2006年に開催されました。

 2008年も、引き続き「ロシア文化フェスティバル」が行われ、多彩なプログラムが各地で展開されています。
http://www.russian-festival.net/festival2008.html

 私は、この「ロシア文化フェスティバル」のプログラムのうち、「ボリショイサーカス」と「ウラジミール・トルストイ講演会」を見ました。
http://www.chiba-u.ac.jp/event/pdf/20080624tolstoy.pdf

 レフ・ニコラエーヴィチ・トルストイ(1828~1910年)は、ロシアの大文豪。
 大文豪の作品、どれほど読んだかというと、、、。
 小学生のとき「イワンの馬鹿」という子ども向けのお話を読みました。また、「少年少女世界名作全集」みたいなシリーズのなかの『戦争と平和』を読了。長~いお話が、1巻本に収まっていたのですから、「あらすじ集」のようなものだったのでしょう。

 トルストイは、どうもその名の偉大さばかり聴かされたせいか、本がぶ厚いのにひるんだか、読み通していません。

<つづく>
07:03 コメント(4) ページのトップへ
2008年09月16日


ぽかぽか春庭「ヤースナヤポリャーナ屋敷」
2008/09/16
ぽかぽか春庭・言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>ロシア文化フェスティバル(2)ヤースナヤ・ポリーニャ屋敷

 トルストイ原作の映画は楽しみました。
 『戦争と平和』、ソ連制作の7時間超大作映画は、7時間連続がんばって映画館でみたし、オードリー・ヘプバーン主演ほうがメロドラマとしてはよくできているので、何度も繰り返して見てきた。
 オードリー主演の『戦争と平和』は、パブリックドメイン(著作権をだれも主張なしえないため、公共の利用ができる)作品なので、DVDも安いと思う。

 『アンナ・カレーニナ』は、ヴィヴィアン・リー主演の映画と、マイヤ・プリセツカヤがアンナを演じたバレエ映画などを見ただけで、こちらは「少年少女~」の名作集には入っていなかったので、小説としては読んでいない。
 さすがに不倫ドラマは、どう脚色しても子ども向けにはならなかったのでしょう。
 ソフィ・マルソーのアンナも見たいと思っているんですけど。

 で、あとのトルストイ作品、ちゃんと読み通したことないんです。私の時代には、「青年が必ず読むべき書」としては、トルストイ&ドストエフスキーの時代から、変わってきていました。1970年代の必読書は、高橋和己とか埴谷雄高、吉本隆明、あるいはサルトルやボーボワールになっていました。
 第一に、私には、あの長い名前のロシア人名が、途中で、だれが誰やら、、、となってしまって。

 ロシア人の名前、最初は自分のファーストネームで、二番目は父親の名前(父称)です。「ミスター」「ミズ」、「ムッシュ」とか「さん」などの敬称はロシア語にはなく、父称をつけて呼ぶのが敬意の表明です。

 お父さんの名前まで覚えているのが、その人を尊敬する証。
 「ミスター・トルストイ」にあたる呼び方はなく、「レフ・ニコラエーヴィチ(ニコライの息子のレフ)」と父称をつけて呼ぶのが、敬意を表すことになります。

 呼びかける相手のお父さんの名前を覚えていなければならないというのも、ちょっとたいへん。
 敬意を表すのに、「ミズ」「ムッシュ」とか「さん」ひとつで間に合うのは便利です。

 家族や親しい友人同士では、名前(多くは誕生日ごとに決まっている聖人の名や先祖の名)の愛称によって呼び合います。
 文豪レフの妻ソフィーヤだったら、ソーニャ。エカテリーナならカーチャ。男性名、アレクサンドルはサーシャ、ミハイルはミーシャ、など。日本の「みちお&みちこ」が「みっちゃん」になるのと似てるね。」

 ロシアの文豪レフ・ニコラエーヴィチ・トルストイの父、ニコラーイ・イリイチ・トルストイ伯爵は、賭博に熱中して資産を蕩尽してしまった放蕩者でした。
 あわや破産かというところで、有力貴族の娘マリヤ・ヴォルコーンスカヤと結婚しました。
 マリヤは大貴族の称号継承者であり、800人の農奴とトゥーラ県のヤースナヤ・ポリャーナの領地を所有していました。トルストイ家は、かろうじて破産をまぬがれました。

 レフ・ニコラエーヴィチは、母親が所有していたヤースナヤ・ポリャーナの領地で生まれて、生涯、この地を愛しました。

 今回のシリーズは、トルストイの領地だったヤースナヤ・ポリャーナにあるトルストイ博物館の紹介です。

<つづく>
00:27 コメント(6) ページのトップへ
2008年09月17日


ぽかぽか春庭「トルストイ博物館」
2008/09/17
ぽかぽか春庭・言海漂流>ロシア文化フェスティバル(3)トルストイ博物館

 ヤースナヤ・ポリャーナの領地と屋敷は、レフ・ニコラエーヴィチ・トルストイの死後、家族が相続しましたが、現在は、ロシア政府の所有物として管理されています。
 屋敷は、「トルストイ博物館」として、公開され、トルストイの思想や文学の研究センターとしても機能しています。

 この博物館の館長は、レフ・ニコラエーヴィチの玄孫(ひ孫の子、やしゃご)ウラジーミル・イリイチ・トルストイ氏が務めています。
 ウラジーミル館長は、2008年、ロシア文化フェスティバルの一環として、上智大学、東京大学などで講演を行いました。
 私が聞いたのは、7月25日午後の千葉大学での講演会。ロシア語の通訳つき。

 千葉大学22号館の会議室には、ロシア語ロシア文学を学ぶ学生のほか、トルストイ文学ファン(ほとんどが高齢者だった)が、集まっていました。
http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/local_kiji.php?i=nesp1217057102

 ウラジーミル・トルストイ館長は講演会の最初に、語りました。
 「文豪レフの子孫は、ソビエト連邦を嫌って外国に亡命した人を含めて、250人以上が世界中にいますが、私はその中でもっとも幸福な子孫です。なぜなら、こうしてレフ・ニコラエーヴィチが生まれその生涯をすごした屋敷で日々すごせるのですから」

 レフ・ニコラエーヴィチの13人の子どものうち、作家になったのはふたり。
 そのうちのひとり、ペンネーム「イリヤ・ドゥブロヴスキー」。イリヤの息子が、ウラジーミル・イリイチ・トルストイ。彼は、現ウラジーミル館長の祖父です。イリイチは「イリヤの息子」の意味。
 館長の父親のイリヤ・ウラジーミロヴィチ・トルストイは、モスクワ大学教授。

 ウラジーミル館長と同じ名前のお祖父さん、ウラジーミル・イリイチ・トルストイは、レフ・ニコラエーヴィチの孫であり農業技師をしていました。祖父レフ・トルストイの偉大な足跡を後世に伝えるため、ヤースナヤ・ポリーニャを博物館とすることに尽力しました。

 おじいさんの名を受け継いだウラジーミル館長は、もともとはジャーナリスト。45歳。
 1910年に亡くなった玄祖父(おじいさんのおじいさん)レフ・ニコラエーヴィチの没後100年記念事業を行うため、現在精力的に各国を回って講演しています。

 トルストイ博物館の館長ウラジーミルさんの講演での、館長と聴衆の質疑応答で。
 講演会聴衆からの質問
 「2001年に、ロシア正教会は、レフ・ニコラエーヴィチを正教会から破門したことを取り消さない、という決定を出しました。その後の進展は?」
 館長の回答。
 「私は何度も、正教会に対して、レフ・ニコラエーヴィチが破門されたことは、当時の混乱した社会情勢ゆえであり、破門は不当なことであったと訴えてきましたが、まだ、この問題についての正教会からの有効な返信はありません」

 レフ・ニコラエーヴィチは、当時のロシア正教会が腐敗していることを鋭く告発し、教会と対立しました。教会への批判をやめようとしないレフに対して、正教会は1901年に破門という措置をとり、これが100年たった現在でも取り消されていないのです。

<つづく>
05:43 コメント(2) ページのトップへ
2008年09月18日


ぽかぽか春庭「トルストイと老子」
2008/09/18
ぽかぽか春庭・言海漂流>ロシア文化フェスティバル(4)トルストイと老子

 講演会聴衆からトルストイ博物館館長への質問つづき。
質問)革命時の混乱の中、多くの貴族屋敷が、反乱兵士や農民に荒らされたと聞き及んでいるけれど、「ヤースナヤ・ポリーニャ」が、往時の風格そのままに、たいへん美しい博物館となって残されたのは、なぜですか。

 館長の回答。
 「貴族の屋敷を破壊したりした人々もいたことは事実ですが、ヤースナヤ・ポリャーナ近隣の農民たちは、トルストイを深く尊敬しており、暴徒からもソ連軍兵士からも、屋敷を守り抜いたのです。屋敷が無傷で残されたことは、ロシア文化の誇りです」

 館長は、講演のはじめに、現トルストイ博物館(ヤースナヤ・ポリーニャ屋敷)の内部を撮影したビデオを映して、その説明をしてくれました。
 トルストイの先祖子孫の肖像画が掛けられている居間や食堂。

 トルストイが晩年を過ごした寝室は、とても質素簡素なものです。
 晩年には、私有財産を否定する思想に至り、農民アナキストに近い思想を表明していたトルストイですから、伯爵家当主のベッドといっても、豪華なものであるはずはないのですが。

 レフ・ニコラエヴィチは、全財産を公共のものにしようと考え、妻ソーフィヤと対立しました。ソーフィヤは、子どもたちの生活と教育のために財産を保存してほしいと考えていたからです。母親としては当然の願いでしょう。
 ソーフィヤは、レフより16歳年下で、相思相愛13人の子をなした妻であるけれども、最晩年のこの「全財産放棄」には、賛成しなかった。

 家族との意見の食い違いは、文豪の心を痛めました。
 結局、一部分の財産は、妻や子にも残されることとなったのですが、家族との対立に苦しんだ82歳の文豪は、秘書を務めていた娘ひとりだけを連れ、旅に出ます。

 旅の途上、小さな駅で倒れ、そのまま亡くなりました。
 遺体は遺言どおりにヤースナヤ・ポリーニャ屋敷に戻され、敷地内に埋葬されました。 残された屋敷は、現在ロシア国立博物館になっています。

 晩年のトルストイが私有財産否定の思想に至ったというと、1910年のトルストイの死後7年目、1917年のソビエト革命との関連がすぐに思い浮かびますが、トルストイはマルクスやレーニンの思想によって無産思想を形成したのではありません。
 晩年のトルストイの考え方は、老子の思想によって導かれ、非暴力主義無政府主義、へとつながるものでした。

 トルストイは、若い頃から東洋に心惹かれ、最初に入学した大学もカザン大学東洋語学科でした。結局大学を卒業することはなかったけれど、東洋にひかれる気持ちは最後まで文豪にあり、晩年の考え方は、東洋思想の研究によって深まっていきました。
 彼の思想は、両親亡き後、後見人となったおばのキリスト教信仰と東洋思想との融合したものとして形成されました。

<つづく>
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2008年09月19日


ぽかぽか春庭「トルストイと小西増太郎」
2008/09/19
ぽかぽか春庭・言海漂流>ロシア文化フェスティバル(5)トルストイと小西増太郎

 老子とトルストイ。
 ひとりの日本人との出会いが介在しています。

 『トルストイを語る』という著作を残しているロシア語学者小西増太郎(1862~1940(昭和15)年)
 増太郎は、一般にはあまり知られていないロシア語学者です。彼の名を知る人も少ない現在ですが、私ほどの年代の人になら、「野球解説者小西得郎の父親」といえば、ああ、あの小西節の、と、息子の名前に覚えがある人もいるでしょう。

 小西増太郎は、トルストイに最初に出会った日本人であり、徳富蘆花に紹介状を書いてやり、トルストイとの面会を可能にしてやった人です。
 蘆花はトルストイの日本紹介に、大いに力をふるった人で、日本でトルストイが聖人扱いされるようになったのも、蘆花の『順礼紀行』などの著作によるところが大きい。

 1892(明治25)年11月から1893年3月まで、小西はトルストイとともに、『老子』をロシア語へと共訳しました。
 この交流については太田健一の『小西増太郎トルストイ・野崎武吉郎-交情の軌跡』という著作がありますが、未読です。

 トルストイは、小西のロシア語訳や英語訳をもとに『老子の金言』を執筆し、老子の「無為自然」の思想に傾いた。
 作為を捨て、老子の言う「無為自然」の状態に至るには、所有する領地を農民に返し、伯爵という称号を返上することが必要と文豪は考えた。
 しかし、トルストイのこの「東洋思想への傾斜」は、ソフィーヤ夫人はじめ家族にとっては、理解しがたいものでした。

 財産の世襲をめぐって家族と対立した文豪が、寂しく旅にでて、旅の途上小さな駅でなくなったことは、先に記したとおり。このとき心痛めた文豪は82歳。

 この少し前、79歳のトルストイについて、画家レーピンが描写している文章があります。
 1907年、79歳のレフ・ニコラエヴィチを訪問した画家レーピンは、文豪が老いてなお健康で、訪問時にはいっしょに馬の遠乗りをしたことを記録しています。

 レーピンが描写した79歳のレフ・ニコラエーヴィチ。レーピンは「わが森の帝王」と、トルストイを描写しています。
=========
 わが森の帝王は、イギリス風のだく足で駆けだした。木漏れ日が、彼のひげを金色に照らしている。帝王はますます速度をはやめ、わたしはそれについて行く。
 すると前途に、白樺が道をさえぎって、遮断機のように折れているのが見えた。
 とまらなくては、、、。まったくどきんとするほどだった。横木が彼の胸にあたるではないか。馬は疾駆する。だがレフ・ニコラーエヴィチは瞬間、鞍に身をかがめ、アーチの下をくぐり去った。(イリヤ・レーピン回想録『ヴォルガの舟ひき』( 松下裕訳中公文庫,1991)
========

 レーピンの描写した79歳の文豪はまさに「帝王」の風格を見せていますが、相愛だった妻とのソフィアとの財産相続をめぐる争いは、文豪をすっかり老いさせてしまったのでしょう。

 82歳の文豪が、田舎の小さな駅で、老いた躰を縮めてベンチに横たわったとき、脳裏にどんな思いが駆けめぐったのでしょうか。美しいヤースナヤ・ポリャーナ屋敷のたたずまい、それとも、馬で駆けめぐった領地の森の小道、、、、

<つづく>
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2008年09月20日


ぽかぽか春庭「トルストイ没後百年の空中ブランコ」
2008/09/20
ぽかぽか春庭・言海漂流>ロシア文化フェスティバル(5)トルストイ没後百年の空中ブランコ

 2010年は、文豪レフ・ニコラエーヴィチ・トルストイの没後100年目。
 さまざまな行事が世界各地、ロシアのモスクワなどで開催される予定です。とりわけ生涯をすごした地にして墓所であるヤースナヤ・ポリャーナのトルストイ博物館では盛大なイベントが行われることと思います。

 ウラジーミル・トルストイ博物館長の講演の背景には、緑の中に立つ白いお屋敷がプロジェクターに映し出されており、トルストイファンなら、一生に一度は行ってみたいと思うでしょう。

 私のそばに座っていた70代くらいのオバサマ3人組は、博物館の中を映したヴィデオ上映の最中も、「あそこに行って来た」だの「いいわねぇ、私も行ってみたい」だのと、にぎやかにしていましたが、没後百年の記念イベントには、全世界からトルストイファンが押し寄せるのではないでしょうか。

 小説家、思想家として、ロシア文学ロシア文化にとって、トルストイは偉大な「文化遺産」です。晩年には「私有財産否定」に至った思想の軌跡、老子思想との関連を含めて、もう一度、作品をじっくり読んでみたいと思います。

 ウラジーミル館長は、講演まとめのあいさつのなかで、ロシア文化フェスティバルにふれ、「ボリショイサーカスの演技を見て、日本の人々が大歓声をあげているのを知り、ロシア文化が日本の人々の心に深く入っていることを感じた」と、述べていました。

 講演会が行われた7月25日の前々日23日水曜日に、私は、娘息子とボリショイサーカスを見ました。
 千駄ヶ谷の東京体育館。
 サーカスは、11頭のアムール虎が目玉の、2時間公演。
 A席は3階だったけれど、真正面の席で、見やすかった。

 サーカスは、2003年を最後に、ここ数年見ていませんでした。娘は、「子どもの頃は毎年見るのが楽しみだったし、今も見ればおもしろいし楽しめるけれど、大人になってみたら、そんなに毎年見なくても、数年に一度で十分」というのです。
 シーソーアクロバットもクマのサーカスも、どきどきしたり、ほのぼのしたり、楽しかったです。

 空中ブランコでは、「これより3回転宙返りに挑戦します」というアナウンスのあった目玉演技で、ブランコ乗り演技者は手をつなぐことに失敗し、ネット上に落下しました。ネットがあるから大丈夫と思っても、やはり手つなぎができずに落ちるとどっきりです。

 虎たちも、とても機嫌が悪くて、ガォ~と吠える声も勇ましく、虎使いの鞭に抵抗していました。たぶん、予定されていた目玉の演技ができなかったのだろうと思います。11頭並んでの行進も中途半端なまま、虎たちは檻に戻されました。虎使いが虎に噛まれないか、ヒヤヒヤしました。

 どきどきハラハラ興奮するけれど、集まっているどの子も、みな楽しそうにニコニコしています。
 虎がガォ~と吠える声にびくっとしても、それは、安全なガオォ~にすぎない。
 平和やなあ。
 歩いている足の下に地雷もない、空からクラスター爆弾もふってこない。
 
 レフ・ニコラエヴィッチが夢見た「みなが分け与えあい、暴力と武力のない平和な世界」に全世界がなるのには、まだまだ遠いかもしれません。
 ロシアには、まだまだ紛争の種がつきず、グルジアとの南オセチア紛争も火種がくすぶっています。
 世界中の子どもたちが平和な世に生きている、と、トルストイに報告できる日はいつになることでしょうか。

<おわり>
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ハートでアート2008年10月

2011-01-07 08:11:00 | 日記
2008/10/02
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(1)NHKハート展

 今春の3月4日、上村淳之(うえむらあつし)展を見に、日本橋三越へ行ったら、隣のフロアでNHKハート展を開催していました。

 ハート展は、心身に障害を持つ人から詩を募集し、入選した50編に、アーティスト、俳優など著名人がそれぞれに絵をつけたコラボレーション作品展です。

 私は三越で開催されていることなど少しも知らなかったので、こうして出会うのも、ご縁というものだろうと思い、ゆっくり会場をまわりました。もう買い物タイムはデパ地下の食料品あたりに集まる頃合いで、会場はそれほど人も多くなく、ゆったりと詩を読むことができました。

 カフェ友のchiruchiru77さん、すてきな詩をカフェ日記に掲載しています。去年ハート展に応募したのだけれど、結果は残念!でも、またの応募を励みにして、詩を書き続けています。

 chiruchiru77さん、車椅子生活です。今年は手術を受け、苦しくともリハビリを続け、自分自身の可能性にチャレンジしています。身体的には不自由な面が多いけれど、精神的な面では、一人息子の子育てを終えた今も、まだまだチャレンジをつづけています。

 ちるちるさんの詩を思い出しながら、会場に展示された50編の詩を読み、絵を見ていきました。
 どれも、こころの中のことばがすっと口にでてきたような、きらきらした言葉たちです。

 8歳の田上周弥さんは発達障害がありますが、外遊びが大好き。ビーズの作品をつくるのも好き。
 アーティストの山本昌美さんのコラボレート作品は、キルティング布の上に、布を切ったティアドロップスの形がたくさん貼ってありました。

「おさかなになろうねの話」(手書き文字の切れ目のとおりに改行してあります)
ママとぼくのなみだがたくさ
んたまって海になったら
いっしょにおさかなに
なって、おしりフリフリして
およごうね。
http://www.nhk.or.jp/heart-pj/art/heart/work2008/work23.html


 俳優の緒方拳さんが描いた、ちょっとふとっちょの顔は三角のうなぎの絵。8歳の前田蓮さんの詩とのコラボレーションです。蓮さんは肢体障害がありますが、みんなと遊ぶのが大好きだそうです。

「うなぎちゃん」
うなぎはかわいいです。
口がにっこりしてかわいいです。
うなぎの顔は
とんがりです。
うなぎはめっちゃ
とんがりです。
http://www.nhk.or.jp/heart-pj/art/heart/work2008/work39.html
 
 56歳の山本清年さんは、知的障害者。お母さんが大好きですって。
 絵描きさんの門秀彦さんの絵とのコラボレート作品です。

「くる・まいす」
おかあさん
ごはんをたべんけん
ちさくなった
いえのしたまでかいだん
ふー、おむたい
つきにいっかいのやくそく
おかあさんうえをみて
ねむる
くるまいすおす

 車椅子を、「くる・まいす」と、区切り方を変えてみると、くるくる車輪がまわっていく感じも出て、「来るmy isu」みたいにも思えて、とてもおもしろく感じました。
http://www.nhk.or.jp/heart-pj/art/heart/work2008/work46.html

 詩はどれも素朴な味わいで、ひとりひとりの心のつぶやきがそのまま詩になっているように思います。
 chiruchiru77さんにプレゼントしたいと思って、普段は買わないカタログをかいました。5月に千葉でチルチルさんに会ったとき、お渡ししました。

 ハート展は、毎月各地を巡回展示しており、今月は静岡で、11月は福岡で展覧会があります。福岡での展覧会を、ちるちるさんは見に行けるかな?

ハート展の作品が見られるNHKのHP
http://www.nhk.or.jp/heart-pj/art/heart/work2008/work26.html

<つづく>
00:42 コメント(4) ページのトップへ
2008年10月04日


ぽかぽか春庭「ハートフル社員とイルアビリティ」
2008/10/04
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(2)ハートフル社員とイルアビリティ

 障害とアート表現について。
 障害をもつ人のアート作品の発表。たとえば、「アート村」の活動があります。

 パソナグループのHPより
 『 アート村プロジェクト”はパソナグループの「社会貢献」事業として、働く意欲がありながら就労が困難な障害を持った方々の“アート”(芸術活動)による就労支援を目的に、1992年に設立されました。
 以来、公募展・企画展・アート講座・及び作品展での作品販売を通して社会参加・就労支援をバックアップしています。』
http://www.art-mura.com/

 知的障害・身体障害・精神障害がある人など、さまざまな障害をもちつつアート制作に取り組んでいる人を援助する企業があることを知りました。

 「ハート展」で見たコラボレーション作品のうち、内部障害をもつ中曽根千夏さん(群馬県10歳)の「うさぎとぞう」に絵を描いたのは、アート村所属アーティストの佐竹未有希さん。知的障害をもつ、「パソナハートフル」の社員で、アート制作を仕事にしています。
http://www.nhk.or.jp/heart-pj/art/heart/work2008/work31.html

 すてきなことだなと思ったし、パソナという会社を見直しました。
 派遣会社というのは、どうしても「阿漕な女衒」に見えてしまうところでしたが、ハートフル社員を雇用する会社でもある、ということを知りました。
 メセナ(企業の社会貢献活動)として、成功事例だと思います。

 私はダンスが好きなので、障害を持つ人のダンスパフォーマンスに注目してきました。
 身体障害や聴覚視覚障害がある人でも、ダンスによる身体表現で、実に生き生きとした表現力をしめす。
 だから、障害があってもなくても、ダンス表現の場では同じ「表現者」であると思っています。

 2008/08/31午後、日本テレビ「24時間テレビ」の中で、身体や聴力に障害があるアメリカの若者4人のブレイクダンスユニットと、ジャニーズの「嵐」がコラボレートしたダンスがあり、とてもよかった。

 「障害を乗り越えて」「障害にめげずに」ではなく、「障害も表現のひとつにしてダンスする」という表現力がとても心地よいダンス空間を作っていたのです。
 一人は、足の障害のため、両手に杖を持って踊るのですが、杖は魔法の杖のように、生き生きとダンス表現に取り込まれていました。

 グループ名、「イル・アビリティ」は、リーダーのトミー・リーによる造語です。
 障害というネガティブなイメージのある"disability(ディスアビリティ身体障害、不能、無能)"という語を反転させたイル・アビリティーズ(ILL-Abilities)。

 障害(ハンディキャップ)を欠点として捉えるのではなく、障害をユニークな個性ととらえ、ユニークであるが故に、そこから創造性や利点が生まれてくるという考え方。
YouTubeよりイルアビリティズのダンス
http://jp.youtube.com/watch?v=SlzofJGOo8E

<つづく>
08:26 コメント(4) ページのトップへ
2008年10月05日


ぽかぽか春庭「千手観音」
2008/10/05
ぽかぽか春庭>ハートでアート(3)千手観音

 北京パラリンピック、9月6日の開会式では、障害を持つ人たちによるさまざまなパフォーマンスのなか、聴覚視覚にハンディキャップがある人たちの舞踊集団も登場しました。美しく華麗な舞。

 300人の聴覚障害を持つ高校生大学生などの若い女性たちが、2年をかけて練習した成果の美しい動きでした。手話によって動きを伝えるリーダーが指示を出し、踊り手はリーダーの指示を見て、聞こえない音にぴったり合わせてダンスをしていました。

You Tubeより、パラリンピック開会式のダンスパフォーマンス
http://jp.youtube.com/watch?v=Wx-a7sYhtg0

 また、中国の聴覚障害者によるダンスグループ「千手観音」のパフォーマンスも、障害の有無など関係なく、見る者に感動を呼び起こす、すぐれた表現になっています。
 宗教的な荘厳さを感じさせる、千手観音のダンス。

 7月末に日本テレビの「汐留ジャンボリー」に出演し、テレビで紹介されたので、日本のファン層も広がり、秋の日本公演では、チケット入手が難しいそうで、姪の祖母は「苦労してチケットを手に入れた」と、言っていました。
http://www.senjukannon.jp/

YouTubeより千手観音のダンス 
http://jp.youtube.com/watch?v=slTqx_pxqVg
アテネパラリンピック閉会式に出演したときの千手観音のダンス
http://jp.youtube.com/watch?v=UHOYIx7BfXs&feature=related

 大江健三郎の息子大江光は知的障害を持っていますが、幼いときから音楽が好きで、現在は作曲家としてヒットCDもあります。とても美しい、ピアノ曲の数々。私も「癒し系ミュージック」としてCDを聞いてきました。
 障害をもつアーティスト、さまざまな分野で活躍しています。

 芸術を創作する側の障害者については、偏見が減ってきているのだと思います。では、モデルとしてはどうでしょうか。
 感じ方はそれぞれあってよいけれど、次のような「障害者モデル」についての考え方を見て、私とは異なる受け取り方だなあ、と思いました。

 ある日本画家さんは、歩いている脳性マヒの人の姿を彫刻作品にしたものを見て、「人間の病気を木彫にしたもの」に見えて、「不愉快だ」と、ブログに書き残しました。

 何がこの日本画家さんを不愉快にさせているのでしょう。
 ご自身が病気をなさってから絵を始めたということなので病気や障害に対して感じ方が、私とちがうのだろうか。
 以下、「泥のにおい」という副題がついた彫刻作品についてのブログ記事コピーです。

<つづく>
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2008年10月06日


ぽかぽか春庭「モデル」
2008/10/06
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(4)モデル

 脳性麻痺の人々の姿を「不愉快」と受け取るのも、それぞれの感じ方だと思うし、私が「ひとつの人間存在のあり方であり、人間の姿の表現のひとつ」と感じるのも、私なりの感じ方だと思います。

 脳性マヒの青年は、じっとモデルになっていたのではないかも知れない。
 立ち上がろうとするだけでも大変だったろう。

 私が外出ヘルプをしたことのある脳性マヒのご夫妻、「立ったりすわったりするだけでも、えらいこっちゃ」とおっしゃっていた。ご夫妻、奥様は車椅子生活、ご主人は杖をたよりに歩行が可能でした。

 「半人前同士だから、ふたりでいっしょになれば一人前かと思って結婚したんだけど、ふたり合わせても一人前にはならない」と笑って、ヘルパーさんの助けを借りて、ふたり仲良くお暮らしでした。

 脳性マヒは、たしかに身体的に不自由があるけれど、彫刻作品のモデルとなって悪いわけじゃない。
 脳性麻痺にはいろいろなタイプがあり、発達障害を伴う場合もあるし、すぐれた感受性や能力を発揮する人もいます。
 不自由はあっても、人間の生きているかたちのひとつにすぎない。

 竹橋の近代美術館にある、肖像画「エロシェンコ像」。盲目の亡命ロシア詩人をモデルにした、中村彝(つね)の傑作です。
 エロシェンコ像を見るたびに、私は詩人の感性と知性あふれる魂を感じます。中村彝の、人を見る目の確かさと、エロシェンコへの熱い共感を感じます。
 自称日本画家さんは、エロシェンコ像を見て、「目の不自由さを肖像にして、不愉快」と感じるのでしょうか。

 脳性マヒの方の姿を「人間の病気を木彫にした」と感じるのは、脳性マヒ者の姿を「本来の人間の姿でない、美しくない」と感じるから、不愉快にお思いになるのではないか。

 この「泥のにおい」の木彫作品を作り上げた人、モデルへの愛情、深い共感がなければ、決して作ったりしないだろう。健常者をモデルにする以上に、たいへんな制作となるのはわかっているから。
 それをあえて作品にしたのは、脳性マヒの人がもつ身体的なダイナミズムに共感したからに違いない。

 脳性マヒの人が木彫モデルになることで、このブログの画家さんが「不愉快」と感じるのは、「病気の人をさらしものにしている」という意識があるからではないだろうか。そして「病気を人目にさらして不愉快」と感じるのは、脳性マヒの人を「人目にさらしてはならない、かわいそうな人」と思っているのではないか。

<つづく>
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2008年10月07日


ぽかぽか春庭「泥のにおい」
2008/10/07
ぽかぽか春庭>ハートでアート(4)泥のにおい

 以下のコラムを書いた方は、自称「日本画家」です。プロフィールによると、ご自身が病気をされたことがきっかけで、絵を描きはじめたそうです。
 (2007年9月にコピペしたブログですが、現在閉鎖してしまったのか、サイトを呼び出すことができません。)

ある日本画家のブログより引用「2007年の日展で」
===========
 私は、少し驚いたことがある。
 彫刻の展示場で、特選に選ばれた作品についてである。
 ある青年の独特のポーズなのであるが、そのポーズは、ある意味脳性麻痺の人間が立って歩く時に自然に出てくる仕草を木彫にしたものである。

 一昔であれば、このような木彫は敬遠されたであろうが、今の時代は特選として評価されている。
 私にとっては、実は大変不愉快な思いなのである。
 人間の病気を木彫にしたものに見えてくるのである。

 ソレを芸術まで昇華した?はたして、そうなのであろうか?う~ん・・・・ 考えすぎか?(^^;)
 しかし、見て不愉快なものには変わりは無い。(2007-09-09 10:19:51 ) 

 上記ブログへの読者コメント
 はじめまして
 その作品、審査の際、うちの隣に立ってましたけど、一度見たら忘れられない表情をしてましたね。
 何を意図して・・・と思いましたけれど。

 このお話から、障害を持っても力強く生き抜く・・・ という事を表現したかったのかな?とも・・・。
 それにしては、あのサブタイトルの「泥のにおい」というのは、どういう意味なんだろう?と今だに判りません。(2007-09-10 09:48:30)
================

 私は当の作品を見ていないので詳細はわかりませんが、「泥のにおい」と題された彫刻作品、モデルになっている人が脳性マヒの方であるらしい。

 私は脳性麻痺生活者が木彫モデルになったとしても、「病気を作品にしたことが不愉快」とは思わない。

 不自由があるのはわかる。その不自由さはできる限り解消されるべきだが、不自由さとともに「脳性麻痺という個性」を生きている人と思っています。
 若い女性や青年がモデルになるのとおなじくらい、脳性マヒの青年はモデルになって当然だ」と、私は思う。

<つづく>
01:21 コメント(5) ページのトップへ
2008年10月08日


ぽかぽか春庭「ユニークフェイス」
2008/10/08
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(5)ユニークフェイス

 「ユニークフェイス」というNPOがある。遺伝、疾患、外傷等による「見た目の問題」を持つ人々を、サポートする活動を行っています。
 見た目が他の人とことなることで、外出をためらったり、人前にでることに苦痛に感じ生きづらさを感じている人たちにアドバイスし、さまざまなサポートをしています。

 顔の傷やアザを手術やメイクで目立たなくする方法を教えたり、自分自身のユニークフェイスを子供たちに見せて、子供たちに、外見が人と異なる人への接し方教えたり、ユニークフェイスの持ち主の心情を話したり、という啓蒙活動を行っています。
 NPO法人ユニークフェイスのHP
 http://www.uniqueface.org/

 6年前に亡くなった私の姉は、腕のいい美容師でした。ヘアカットや着付けが上手なだけでなく、「オリリー・カバーマーク」という特殊メイクの技術を習得していました。
 手術しても完全には直らないヤケドやアザを、メイクでうまくカバーする方法を身につけて施術し、感謝されていました。

 外来語「アート」は、日本語語彙としては、「芸術」「美術工芸」という意味で用いられていますが、英語「artアート」の語源となっているラテン語の ars (アルス)の本来の意味は、「芸術」というより、「自然」に対置される人間の「技」や「技術」を意味する言葉でした。「芸術・美術」というより「術」「ワザ」を意味していたのです。
 ラテン語「ars」は、そもそもギリシャ語「テクネー」に相当しています。テクネーはテクノロジー(技術)の語源でもあり、「技術・ワザ」を意味しています。
 古代ギリシャの「医術の祖」と呼ばれるヒポクラテスが「Art is long, life is short. 」と述べた言葉は、格言として日本語では「芸術は長しされど人生は短し」と訳されていますが、実は「医術を習得するには長い時間がかかるが、人生はあまりにも短い」というのが原意だそうです。

 姉は、芸術家ではなかったけれど、卓越した「ワザ」を持つ」美容師として、彼女の「アート」を発揮した人だった、と思います。

 姉は「顔のあざを目立たなくすることで、性格がすっかり変わったようになる人もいる。顔をじろじろ見られたり、子供から指さされてオバケの顔とまで言われたりして、人前に出たがらなかった人が、うれしそうに外出するようになる」と、仕事に誇りをもって話していました。
 
 そういう話を聞いたとき、私は、「外見がどうだろうと、堂々と歩けるほうが、ほんとうなんだけど」と、姉に言ったこともありました。
 「人と同じことをしたがり、いつも群れて行動する」のが好きな人々を、批判してきた私。
 と、信じて生きてきた。

 ド近眼&乱視&老眼の私がなんとか不自由なく仕事をこなせるのは、眼鏡の助けがあるから。
 眼鏡をかけるのは不自由なときもあるけれど、私にとって、それで「人目にさらされるのをさけたい」と思ったことはありません。なぜなら、日本では、メガネをかけることは少数派ではないから。会議などで、その場に居合わせる半数以上がメガネということも少なくはない。

 脳性麻痺の肢体をぶしつけに見られるのをいやがったり、顔の怪我などを人から見られるのがつらいという人へ、「悪いことしているんじゃないんだから、堂々と外に出ようよ」と言っていたにもかかわらず、我が身の上の出来事について、大いに考えさせられた出来事がありました。
 自分の姿形が人と異なって見え、しかも「大多数」の人たちから見ると「少数派」になったときの気持ちがよくわかった出来事に遭遇したのです。

<つづく>
07:25 コメント(3) ページのトップへ
2008年10月09日


ぽかぽか春庭「裸足で歩く」
2008/10/09
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(6)裸足で歩く

 7月に、「世界が足もとから崩壊する気分」を書きました。
 仕事先まで履いていったサンダルが壊れてしまい、半日を裸足ですごしたときの話。

 笑い話として書き、チルチルさんにも「笑えたよー」と言ってもらったのですが、実は、自分自身の「自己イメージ」が崩れて、「自己イメージの私的世界崩壊」を感じたのでした。
(春庭いろいろあらーなカルスタクラブより2008/07/10~13)
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200807A

 「靴をはいていない」というだけの「一般常識とはちがう姿」をして都会の道路を歩いてみて、人から見られとき、「ジロジロ見るんじゃネーヨ!」と感じてしまった。
 何も悪いことをしていないのに、「見られたらイヤだな」と感じてしまう。スティグマを負うて歩くような気分。
 「悪いコトしているんじゃないのだから、堂々と歩きましょう」なんて、建前にすぎなかった。人にうさんくさい目で見られること、ほんと、いい気分ではありませんでした。

 自分自身の問題として引きうければ、たかが「靴をはいていない」程度のことでも、「人から変な目で見られる」のがいやだという事実。
 衝撃!
 「顔にあざがあっても、堂々と外を歩ける社会にしなければ」という私は、ただの「建前」を述べていたのにすぎなかった。

 私が「外見で人を判断したり差別することは、まちがっている」と、思っていたことは、事実だけれど、自分自身が「差別される側」には立たないまま言っているだけなら、「アフリカの飢えた子供を救おう」と活動する一方で、飢えた子供を100人救える金額の高級グルメ料理を食べ残したりしている人の行動と変わらないではないか。

 「どのような顔や肢体でも、堂々と外を歩こう」と言っていながら、自分はじろじろ見られることがいやだ、なんて、「地球にやさしいエコ生活をしよう」と、割り箸や紙コップの使用禁止を訴えながら、エアコンかけている人と変わらないではないか。

 自分自身が、いかに「他の人と異なる様相を見せて、うさんくさい目で見られる」ことをすんなり受け入れられない人間であったか、と思い知った。

 自分が頭で思っていた「私は、見かけで人を判断したりする人間ではないし、みなと同じでないからといって偏見を持つ人間ではない」という自分自身のイメージは、「差別される側」からの視点ではなかった。

 実際に自分自身が他者と変わった姿をしたときには、「じろじろ見てんじゃネーヨ!」と叫びたい人間であったことを思い知りました。

 「みんなと同じでありたい」「他人と自分とが違う部分について、あれこれ言われたくないから、多勢に同化しようとする」という日本社会の中に、自分自身がどっぷりつかっていることを思い知った、裸足の400メートル道中でした。

 おのれの思想信条、肌の色、姿かたち、自己のいかなるありかたを示めしても、決してそのことによって人を差別することのない社会であってほしいと、私は、思っている。
 
 脳性麻痺によって、不自由があるなら、それを完全にとはいえなくても、できる限り不自由のない状態にまで援助することは、私たちのつとめだし、行きたいところに出かけていけるよう、手助けしたい。私はそうやって、視覚障害や身体障害の方ともおつきあいしてきた。

 外見が他の人とちがっていても、肌の色がちがっていても、靴を履いていなくても、自分は自分、と、堂々と歩ける人でありたいと思っており、そういう社会をめざす人になりたいと、もう一度確認した「裸足の400メートル」

<つづく>
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2008年10月10日


ぽかぽか春庭「裸足で泥田を!」
2008/10/10
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(7)裸足で泥田を

 障害を持つ人たちを「かわいそうな人」と一面的にとらえることはしない。不自由なことは多いだろうけれど、私にない可能性をたくさんもち、私にない感受性を持っている。

 視覚障害の方は、ド近眼で乱視の私以上に不自由はあるだろうけれど、その不自由さ以外の部分では、それぞれの個性をもって生きていく人間同士。
 脳性麻痺の方は、足を怪我した私以上に不自由であるだろうけれど、その人独自の個性感性をもっている。

 ある人の存在のしかた、ある生き方を、「美しい」とみるか、「不愉快」とみるか、人さまざまであるのだろう。
 「泥のにおい」という脳性麻痺者をモデルにした木彫作品をみて、「不愉快」と感じる人がいたら、それはそういう人であるのだから、反論しても意味はないのかもしれない。

 私の、大切な友人たち。
 ひとりは視覚障害のあこさん。私に「見えない世界」「音と匂いの世界」の感じ方の豊かな感覚をおしえてくれる。
 ひとりは、脳性麻痺のちるちるさん。詩とアートのすてきなハーモニーを見せてくれる。

 私自身が「人からジロジロみられるのはイヤだ」と感じてしまう弱い人間であることを自覚しつつ、それでも「いっしょに外を歩こう、裸足で散歩しよう」と、あこさんもちるちるさんも誘いたい。

 映画『裸足で散歩』の原作『裸足で公園を』は、ニール・サイモンの戯曲作品。
 私は、『裸足で泥田を』歩いていこうと思う。

 50年も昔のこと。子供同士であぜ道を歩いていた。
 私の家のまわりは、まだ畑と田圃が混在し、田圃に水を引く細い水路が住宅地化してきた地域のなかを通っていた。

 田植えの泥田を見下ろし、「あんな汚い仕事をする人になりたくない」と、言った子がいた。
 私の母の実家、元は農家で、母も田植えの手伝いをしてきたから、町かたの子が田植えを見て「泥んこのきたない仕事」と言ったことにびっくりした。

 それを聞いて、「泥の中に植えなければ稲は育たないよ」と反発したのだったか、「私は泥の中で生きるよ」と言い返したのだったか、もう反論の中身は忘れてしまった。子ども同士の幼い口げんかが印象に残った思い出。
 どちらにせよ、反論しても意味はなかったろう。泥の中で生きることが嫌いな人もいれば、泥の中でなにかをつかみ取ろうとする人もいる。それだけだ。

 私は、これまで泥んこ人生だった。不如意な人生の泥の中をはいずり回って生きてきた。
 泥のなかの私の姿をみて、「あんなドロンコの中で生きていたくない」と思った人もいるだろう。

 私は泥のにおいが好きだ。
 雨上がりのどろんこ道の匂いも、田植えの前の泥田の匂いも。私がはい回っている泥んこ人生のにおいも。

 実は、自分自身だって、人からジロジロうさんくさい目で見られるのは嫌いなのだ、という弱点を自覚しつつ、私は裸足で泥田を歩いていく。
 「ハートでアート」を制作するさまざまな「アーティスト」たちに励まされながら、彼らの感性によりそう者として歩いていきたい。

 まだ見たことがない「泥のにおい」という副題がつけられた木彫作品を、いつか見ることがあるだろうか。その彫刻に出会ったら、私は靴を脱ぎ、裸足で作品の周りをぐるぐる回ってみようと思います。
 その彫刻といっしょに歩いていけるような気分になれたら、私がこれから先歩いていく泥んこ道の一歩一歩が私にとって、いっそう深い一歩になれる気がするのです。

<おわり>

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障害と芸術2009年10月

2011-01-01 09:22:00 | 日記
2009/10/21
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>ホームレスとミリオネア(番外編)障害と芸術(1)ナサニエル・エアーズとグレン・グールドの障害

 映画『路上のソリスト』に、ナサニエルが自分自身について「スキゾフレニア(統合失調症)」と書いてある書類を読んでひどく混乱するシーンがありました。アメリカでも「統合失調症」と診断されることで周囲から排撃されるということが続いてきたから、ナサニエルにとってこの病名がショックだったのでしょう。ナサニエルは幻聴や幻視に苦しみますが、発症以来ホームレス生活になり、病院へは行っていません。ナサニエルにとって、「スキゾフレニア」という病名がつくこと自体が耐え難いことでした。

 統合失調症は、まだわかっていない部分もあるけれど、脳の研究が進むにつれ、やみくもに恐れたり忌み嫌ったりする病気ではないこともわかってきました。知らないから恐い。幻聴や幻視は精神を脅かす症状ですが、それを注射やロボトミーで「排除」するのではなく、「幻聴も幻視も含めて自分自身として受け入れよう」という対処の仕方を続けている統合失調者グループホームの活動もあります。スキゾフレニアもアスペルガーも、こちらが何も知らないから、「奇妙でフツーじゃない」と思える。

 私も、「学童保育室仲間」で娘と同学年だった発達障害のかっちゃんをよく知らなかったころ、かっちゃんが恐かったことを思い出します。かっちゃんをよく知らず、行動の予測がつかなかったから恐いように思えたのです。
 かっちゃんは小学校では「なかよし学級」という障害をもつ児童のクラスに通学していましたが、学童室ではみんなといっしょに放課後をすごします。娘は家で「弟のお世話係」だったので、学童でもかっちゃんの「お世話係」のようになりました。

 かっちゃんを知れば、純粋な魂を持つ子であることがわかってきます。周囲と折り合えないことが起きたりすると、ときにパニックになったりすることもあったけれど、娘は辛抱強くかっちゃんの相手をしていました。
 今思うと、娘がかっちゃんの世話をしているように見えて、私も娘もかっちゃんから多くのことをも教えられていたのだということがわかります。ロペスがナサニエルとの交流のなかで人生の大切なことがわかってきたように。
 必要なのは「排除による美化」ではなく、分かり合うこと、共に生きること。友達としてつきあううち、必ず彼らが「恐い存在」などではないことがわかってきます。

 ナサニエル・エアーズのヒーローはベートーベンでした。ベートーベンが耳の障害を抱えて苦しみながら曲を作ったこともナサニエルがベートーベンが好きだったことの理由のひとつでしょう。ナサニエルも幻聴や幻視などの脳の障害によるの症状に苦しみました。

 このところ、私のパソコンBGMは「路上のソリスト」検索からベートーベンへのユーチューブサーフィンを続けていました。バイオリンよりもピアノ曲が好き。
 若い頃、コンサートチケットを買うお金もなくラジオのFM放送を聞くしかなかったころは、流れてくる曲をそのまま聴くだけだったけれど、今はどの曲を聴きどの演奏家を選ぶのかもお好みしだい。同じ曲をルビンシュタイン、アルゲリッチ、リヒテル、ツィンマーマン、バレンボイム、ブーニン、と次々にサーフィンして聞き比べることもできます。

 あまたのピアニストの中、やはりグレン・グールドは独特です。私がクラシックを聞くようになったころにはすでに演奏会での姿は目にすることができなくなっていたグールドですが、ユーチューブのおかげで鼻歌まじりの演奏を見ることができました。

 グレングールドは独特の演奏で知られていましたが、1964年以後、公開の場で弾くことをやめ、引きこもり生活を続けました。
 精神科医師でグールドの友人だったピーター・オストワルド氏は、グールドがアスペルガー症候群であったのではないかと考えていました。(オストワルド『グレン・グールド:天才のエクスタシーと悲劇』(W.W.Norton,1997)。

<つづく>
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2009年10月22日


ぽかぽか春庭「カミーユ・クローデル」
2009/10/22
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>障害と芸術(2)カミーユ・クローデル

 引きこもり生活となったグレン・グールド、演奏の録音は続けましたが、歌いながら弾くなど、完全に自分の世界に閉じこもっての演奏でした。
 演奏会拒否の演奏家として後半生を生き、1982年、50才で早世。亡くなった後もなおファンが多く、CDが売れています。
 他人との接触による感染症を恐れ、また、自分をだれかが毒殺しようと思いこんでいたと言われています。病気を恐れて多種類の薬剤を服用していたのも影響して早死にしました。

 アスペルガー症候群というのは、周囲とのコミュニケーションをとることが不得意な自閉症状のひとつですが、言語障害を持たず、特定分野に高い知能や技術を示します。他者の気持ちを推し量ることや円滑にコミュニケーションをとることができないので、学校の中でイジメにあったり職場で「変人」と扱われたりすることも多い。

 アスペルガー症候群やスキゾフレニアという脳の障害を持っていても、その他の能力をすべては失ってしまうのではありません。
 発達障害のなかでもアスペルガーやほかの自閉症状の場合、知的能力が高いために、病院へ行って診察を受けないままのケースも多い。本人も家族もアスペルガー症候群などの発達障害だとわからないままつらさを抱えて生きていくことになる。

 病名を知り、「ああ、自分が周囲となじめず、生きづらいのは、このためだったか」とわかって、生きづらさの原因を納得できるという人もいるし、「病気」のひとつと知らされて自分を病気と思いたくなくて拒否反応を起こす人の両方があります。
 病気を受け入れることのないまま生きていくより、「病気や障害を抱える自分」受け入れ適切な治療や指導を受けるほうが、QOLが向上すると私は思いますが、そうはいかない場合もあります。病名そのものを嫌って、病気を受け入れないことも多い。

 障害があっても、適切な指導を受ければ優秀な成績を生かすこともできます。たとえば発達障害のひとつ「注意欠陥多動性(ADHD:Attention Deficit / Hyperactivity Disorder)」と診断された双子兄弟が東大と早大に合格した例もあります。

 昔は、統合失調への治療が適切に行われなかったため、病名を診断されるとそのまま精神病院に閉じこめられて一生をすごすこともありました。たとえば、カミーユ・クローデル。
 ロダンの弟子にして愛人だったカミーユ・クローデル(1864~1943年)。すぐれた彫刻作品を残したのは、80年の人生の前半において。後半生は40年も精神病院に閉じこめられ、孤独にすごしました。

 カミーユ・クローデルは、18歳のとき、25歳年上の彫刻家に出会いました。43歳のロダンは油の乗り切った時代でした。カミーユはいさんで弟子入りします。芸術家同士の師と弟子はじきに愛人同士になります。
 ロダンの代表作のひとつ「パンセ(想い)」は、カミーユがモデルとなった作品。カミーユは、弟子であり愛人であり、ロダンの彫刻へ強い影響を与えた存在でもありました。カミーユはやがて師を圧倒するほどの作品を生み出すようになりました。

<つづく>
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2009年10月23日


ぽかぽか春庭「カミーユと高村智恵子」
2009/10/23
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>障害と芸術(3)カミーユと高村智恵子

 ロダンの弟子カミーユ・クローデルは、女性であるがゆえに芸術家として認められないことへのストレスに加え、師匠にして愛人であるロダンに裏切られて、1905年41歳のころ、精神のバランスを崩してしまいます。
 カミーユの80年の生涯のうち、1905年以後、亡くなるまでの38年は、精神病院に閉じこめられてすごしたのでした。

 カミーユを案じていた母は、1920年に亡くなり、姉カミーユを支えていた弟、詩人のポール・クローデルは、1921年に日本駐在フランス大使として赴任し、遠く隔たってしまいました。
 精神病院ですごすカミーユを支える人はいなくなり、1943年、孤独のうちに亡くなりました。

 私のカミーユへの理解はイザベル・アジャーニ主演の映画『カミーユ・クローデル』の内容以外に多くを知らないので、勘違いな部分もあるかもしれませんが、彼女がロダンを師とせず、彫刻という表現を選ばなかったら、別の人生もあったかもしれない。ロダンと出会わなかったら、病院の庭で孤独に生きた後半生とは異なる一生もありえたかも知れない。あるいは、時代が違っていたなら、、、、でも、カミーユに言わせれば、ロダンと会い、愛し合い別れた、彫刻という表現媒体を選び、作品を残した、それこそがカミーユ自身の生だったのだとしか、言いようがないのでしょうけれど。

 明治の日本、カミーユ・クローデルと同じように、統合失調のために自分の芸術生活を貫くことができなかった女性がいます。「女だから」と、芸術へ向かうことを押さえ込まれ、自らの芸術への志向を押し曲げねばならなかった近代の女性たち。

 たとえば、高村光太郎の妻、智恵子(1886-1938年)。
 高村光太郎は「智恵子の半生」に、妻の姿を描いています。
 新婚の夫と妻がふたりして油絵に取り組んでいる。しかし、女中をおく余裕のない家で、腹が減ればどちらかがご飯を作らなければならない。

 妻はしだいに自分の絵をあきらめ、夫が制作に費やす時間を確保すること、夫を支えて家事いっさいを引き受けることに生活の満足を見いだすようになりました。
 光太郎は、それを智恵子の自発的な決断だった、と書いています。そうなのだろうか。智恵子の本心からの選択だったのでしょうか。

 夫を支えるのが良妻でありそれ以外の人生はないと教え込んだ明治の「良妻賢母養成教育」を受けた女性が、家事を優先させて欲しいという夫の要求を押しのけて芸術の道を走り続ける方法があったでしょうか。

 女性が自分の芸術活動を続けるには、1,独身を通す。(山下りん。樋口一葉のように)2,金を稼げない夫と結婚して妻が稼ぎ手となる(与謝野晶子、平塚雷鳥のように)3,夫の死後、芸術活動を再開する(ラグーザ玉のように)、などの方法がありました。

 明治大正時代、結婚した女性が自分なりの歩調、自分なりの歩幅で歩いて行ける自由を持つことは難しいことでした。智恵子は芸術へ向かいたい心を押さえ込むしかありませんでした。

<つづく>
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2009年10月24日


ぽかぽか春庭「高村智恵子と草間彌生」
2009/10/24
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>障害と芸術(4)高村智恵子と草間彌生

 智恵子は高村光太郎とは「愛情のみで結ばれている」事実婚を続けており、夫への奉仕を求める光太郎に対し「尽くす」以外に夫の愛をつなぎ止める方法はない、という生活でした。
 高村光太郎と智恵子は、1911年に出会い、結婚披露宴は1914年に行っていますが、入籍したのはそれから22年後の1933年。智恵子に統合失調の症状があらわれはじめ、自殺未遂をおこした翌年のこと。実家の没落という心痛める出来事と芸術活動を続けられないということに苦悩し、智恵子は追いつめられていきました。

 入院中の智恵子は切り紙細工をするようになりました。結婚生活中、油絵に取り組むことができなかった代償のように切り紙の表現を続けました。夫光太郎はひたむきに紙を切る智恵子の姿を詩にしています。今の時代の目から見れば「なぜ、発症する前に智恵子に芸術活動を許してやらなかったのだ」と糾弾したくなりますが、智恵子が入院するまでは、光太郎にとって「妻とは家事をして夫に尽くすことに幸福を見いだすものだ」という考え方をつゆほども疑ったこともなかったのでしょう。それが当然の世の中でしたから。

 統合失調症を抱えていても、それを自身の芸術として表現した女性芸術家もいます。
 たとえば、草間彌生(くさまやよい)は、幼いころからスキゾフレニアを抱えて生きてきましたが、病との闘いをキャンバスに表現することができました。

 草間彌生(くさまやよい)は、カミーユ・クローデル生誕から60年後、1929年に生まれました。幼いころから幻覚症状があり、統合失調症と診断を受けました。
 自分の周囲を斑点が取り囲むという幻覚に悩みましたが、彼女はそれをキャンバスの上に表現することで、負の症状をネガティブから「自己表現」に反転させたのです。「斑点の反転」は、1957年、草間28歳での渡米後のことです。

 草間は自分の周りに増殖する斑点を「幻覚による強迫神経症的な恐怖」ではなく、ありのままの自分の表現と転化することでアメリカ美術史上、ポップアートの先駆者として知られるようになりました。斑点とともに草間の神経を脅かす幻覚であった男根のイメージも、机や椅子、あらゆる場所を男根的なオブジェで覆うという表現により、「増殖による消失」という逆説的な宇宙空間を現出せしめることに成功しました。彼女は一躍アメリカポップアートシーンの勝利者となりました。
 草間彌生公式HP http://www.yayoi-kusama.jp/

 統合失調もアスペルガーも脳の一部が損傷することによって引き起こされる障害のひとつですが、適切な診断と治療があれば、日常生活をすごすことも、芸術活動を続けることも、不可能ではありません。何か大きなショックを受ければパニックに陥ることもありますが、その症状を忌み嫌ったり排除したりすることではないのです。

<つづく>
09:36 コメント(2) ページのトップへ
2009年10月25日


ぽかぽか春庭「アートセラピー」
2009/10/25
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>障害と芸術(4)アート・セラピー

 草間彌生が自己の幻覚を反転させて作品を生みだしたように、ナサニエル・エアーズがロペスというよき理解者を得て音楽活動をより深くしていったように、障害の有無にかかわらず、というより障害があればこそよりいっそう深い精神性を獲得できる、ということもあるのです。
 画家ゴッホは、群発頭痛、閃輝暗点、耳鳴りなどの症状に苦しみ、これらの症状から逃れたいとアルルの精神病院に入りましたが、この入院中に描いた作品中に彼の最高傑作が多い。

 苦しかったり辛かったりする症状は取り除く方がQOLのためにはいい。でも、他者を傷つけず、自分自身がそれを認めていけるのであるならば、幻覚幻聴その他脳障害の症状も、無理矢理排除するのではなく、周囲の人がそれら症状も含めてアスペルガーやスキゾフレニアの人を受け入れることが、今求められているように思います。
 ちょっとの「はみ出し」も許さず、少しでも規格からはずれていれば「不良品」として排除してしまうような現代の日本。「多様性の必要」が叫ばれながら「自分たちとは違うもの」を排除してしまう世の中に息苦しさを感じてしまうのは、私ばかりではないように思うのですが。

 今も「鬱病」「統合失調」などの病名で休職しようとすると、病気以外のあれこれを理由にして辞職させようとする会社が少なくない。ハンセン病の人を社会から隔絶し排除しようとしたことについて、国は正式に謝罪しましたが、さまざまな病気を理由とする排除は今もなくなっていません。

 「貧と病と老いと死」、生老病死、四苦八苦は生きていく上で決してなくならない悩みなのでしょうけれど、自分自身の四苦八苦と向き合うとともに、他者の生老病死を排除しない生き方を見つけていきたいです。

 スキゾフレニアや発達障害を抱えながら、発明や科学研究の才能を発揮した人もいる。芸術家など特別な才能がある場合は、「他の人とは変わっている」ことを認めてもらえることもある。でも、平凡な人だったら、病気すなわち落伍者と烙印を押されてしまう。何か特別の才能を持たない人でないと、障害を持ちながら心豊かな人生をおくることは認めてもらえないのでしょうか。どんな障害があっても、どのような人であっても、それぞれが自分自身の人生を生きていける社会であってほしいです。

 芸術活動をスキゾフレニアやその他の脳障害、アルツハイマーや鬱症状の治療に利用する方法の研究があり、心理療法のひとつとしてアートセラピーも行われています。アート(描画、ペインティング、コラージュ、彫塑、オブジェなど)を使って様々な問題を抱えた人々の回復を助けるという方法です。

 アートのほか、音楽や詩、ダンス、サイコドラマなどを使った療法もあります。これらのクリエイティブ・セラピーCreative Arts Therapy・Expressive Therapyは1930年代からアメリカを中心にして発展してきました。ことばを使って自己表現することが不得手な人にとって自分の心の中の葛藤やトラウマなどを表現しにくい人、言語表現では堪えられないほどの精神的苦痛の解放のために効果があるそうです。

 いろいろな作業療法や表現療法アートセラピーがあることを知るにつれ、田畑を耕し手仕事で生活に必要なものを作ることが生きていくことそのものだった時代の人は、生活がセラピーであり、生活しながら癒されていたのだなあと思います。現代は機械や人工の物の中に埋もれて暮らし、自然や物作りから切り離されて生きているから「○○セラピー」が必要になるのだろうと考えてしまいます。

 私も地下鉄での通勤、パソコンをつかっての仕事など、自然や物つくりとは遠い生活が続いています。エナジー・セラピーとかスピリチュアル・カウンセリングとかの療法を受けるには、1時間1万円の治療代が相場とかで、とても薄給の非常勤講師には払えません。無料のセルフ・セラピーを心がけたいと思います。

 私の場合、書くことが心の解放です。私がこうしてよしなし事を2003年以来6年間書き続けてきたのも、私の心のためにはよいセラピーだったなあと思います。ずっと明日暮らすお金がないことを心配する生活で、ときにはなぜ私ばかりこのような貧乏暮らしをし続けなければならないのか愚痴に終始する日記であり、他の人をねたみそねみひがみやっかみの記事ばかりでしたけれど、まあ、それもセルフセラピーということで、お許しください。



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