2013/12/11
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(3)田園調布古墳群・日曜地学ハイキング
12月1日の日曜地学ハイキング、引率の先生から「地層と人々の暮らし」というお話を伺いました。旧石器時代も、新石器の縄文時代も、稲作農耕伝播が東漸して人々が古墳に埋葬されるようになったころも、人はいくら土地が広くても、どこにでも住処を作っていたわけではなく、水の確保、気候条件、雨風や動物から身を守ることなどを考慮して、その時代に適した住処を作っていました。
武蔵野台地は、東側に貝が漁れる海があり、縄文時代には大森貝塚などが残されました。台地の崖線(ハケ)には、清らかな水が湧き出し、住みつくに適した土地でした。
水源を確保するため、他の部族の侵入を防ぐなど、争いもあったことでしょう。そして、土地を支配する豪族も出現しただろうなどと想像されました。
荏原台古墳群(えばらだいこふんぐん)は、そういう豪族たちのお墓です。
荏原台古墳群は、東京都西南部に広がっており、田園調布古墳群と野毛古墳群とがあります。全部で50基もの古墳が確認されています。
今回のハイキングでは、多摩川台古墳公園の資料室を中心に、田園調布古墳群の亀甲山(かめのこやま)古墳などを見学しました。
田園調布古墳群は、現在、多摩川台公園として整備されています。多摩川台は、川沿いに20m~30m高くなっている多摩川の河岸段丘で、多摩川台公園全体に古墳が広がっています。
亀甲山古墳は、4世紀前半に築かれた前方後円墳です。鎌倉時代初期に、北条政子が亀甲山古墳の上に立ち、西にそびえる富士山に向かって夫源頼朝の武運を祈ったということから、古墳上に浅間神社が建てられました。神社の参道階段を上っていき、神社の建物が立つところが、古墳の上部にあたります。
浅間神社の参道階段
神社の敷地であるため、史跡指定されたあとも発掘調査は行われておらず、浄水場建設のため敷地一部を掘削したところが削られてしまっています。
古墳であるということを知った上でながめるのでなければ、ただのこんもりした小高い山に思えます。手前にコンクリート壁が写っています。これは、浄水場建設時に前方後円墳の一部を掘削したところです。現在では使われていない浄水場。結局使わなくなったのなら、古墳を削ってしまわなくてもよかったのに、と思いますが。
地学ハイキングは、地層、化石掘りなど、地学に関する知識を普及する目的の会ですが、近年、開発などにより化石が掘れる場所もなくなってきて、地学に関連する要素を広げながら活動を続けていると、I先生にお話をうかがいました。15年ほど前に、娘と息子が水晶や化石掘りに、あちこちに連れて行っていただいたのは、運のよいことでした。
去年11月の「立川崖線と国分寺崖線、ハケの湧水と地層の観察」に続き、今年も、「武蔵野台地湧水周辺に築かれる古墳」という、地学とは少し離れたテーマでのハイキングになったのも、テーマを広くとっているからなのだそうです。水の湧き出る崖線が人の暮らしと深い関わりを持つことを観察するのが「古墳観察」の目的。
私は、東京に住んで30年になるのに、田園調布といえば高級住宅地というイメージしか持たず、「田園調布古墳群」という史跡があることなどまったく知りませんでした。調べてみれば、よく行く上野公園の摺鉢山は5世紀ごろにに築かれた前方後円墳でしたし、東京タワーの足元には芝丸山古墳があるのに、摺鉢山の脇を通り抜けても、それはコンサートや美術展に行くために歩いているのであって、古墳と認識して見つめたことはなかったのです。
私がこれまでに東京で古墳として認識して見学したのは、赤羽台第3号古墳石室が移築された横穴式古墳です。中央公園の文化センター脇に移築されているのですが、建物の脇にひっそりと目立たぬように置かれているので、脇の道を通る人で、ここが古墳の展示なのだと思って覗いている人はほとんどいません。
近づいてよく見れば、古墳の説明があるのですが。きっと地元の小学生が社会科見学の折にながめる程度と思います。
私も何回かこの赤羽台第3号古墳石室をガラスの見学窓から覗いて見たことはあるものの、移築展示であってもともとの古墳の場所ではないということもあって、さして古代に思いが及ぶという感想はありませんでした。
私のふるさとの群馬では、「上つ毛の国」の史跡である古墳は県内各地にあり、人々も地元に古墳があることを誇りに思って大切に守っています。
東京には古墳以外にたくさんの史跡があるから、観光資源にもならず、ひっそり「ちょっと小高い山」くらいに思われているのでしょう。
田園調布を開発した渋沢栄一の邸宅は、現在の飛鳥山公園の地にありました。飛鳥山のなかにも古墳がありましたが、栄一翁は、これを「自庭の築山」として利用したそうです。田園調布開発にあたって、この地域の古墳群が平にされてしまわずに残されたことは、ありがたいことでした0。他の東京の古墳群のほとんどは、平にされて開発され、今では跡形もないのです。
東京の地形と都市形成の関わりについて、中沢新一の『アースダイバー』を読んだとき、発想はとても面白かったけれど、なにかピンとこない部分があったのですが、専門の地学の先生の説明を聞くと、地層地形と人々の暮らしがぴったり重なって感じられました。
多摩川台公園の中に、多摩川台古墳資料館があり、一行がそれぞれに見学しました。私は、田園調布の古代史について何も知らずに見学したので、とても興味深くおもろしろく見て回りました。
多摩川台古墳資料館には、古墳の説明や出土品が展示され、発掘出土した古代の鏡や腕輪、鉄器などが展示されていて、館内の写真も商業利用する場合でなければ撮影して良いとのことでした。
古墳の前で「墓前の儀式」を執り行った人々のようすを埴輪風にして並べてある展示
多摩川台古墳資料館見学のあと、まとめのレクチャーがあり、自由解散になりました。多摩川台駅から電車に乗りたい人は、ここで解散。
多摩川台古墳群の円墳と宝莱山古墳を見学したい人は、そちらを回ってから田園調布駅に行って、そこからそれぞれ帰宅という二手にわかれました。
多摩川台円墳1号墳から8号墳までを、円墳の中程に続く散歩コースを通ってながめ、最後に宝莱山古墳を眺めました。
宝莱山古墳は4世紀後半に築かれており、亀甲山古墳に眠る豪族とは親子関係にあったのかもしれない、という説明がありました。亀甲山古墳と同じく前方後円墳で、国産の四獣鏡などが出土しています。
今回「東京の古墳」についての説明を受けながらの見学で、ようやく武蔵野台地の古代を想像することができました。
地学ハイキングに参加したおかげで、東京の古墳を訪ねる散歩の楽しみが増えました。
<つづく>