11/16 春庭@アート散歩>ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(1)天才と美女11/17 ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(2)お金持ちの美術館11/18 ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(3)シャガール・ドキュメンタリー11/19 ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(4)シャガールとエコールドパリ展11/20 ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(5)上村淳之展11/21 ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(6)片岡鶴太郎展11/22 ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(7)鶴太郎の花11/23 ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(8)好きなものをみつける力11/24 ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(9)感謝の日11/25 ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(10)写真の力、絵の力11/26 ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(11)写真の時代========== 2008/11/16 ぽかぽか春庭@アート散歩>ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(1)天才と美女 事業を成功させてしこたま稼ぎ、美術品を買いあさって美術館をたてるお金持ち、ねたましい。 出光美術館は石油で一儲けしたんだろうし、ブリジストン美術館はタイヤでもうけたのだし、サントリー美術館はウイスキーで儲けた。 才能を生き生きと発揮し、その名を残す芸術家たち。その生涯が波瀾万丈でも平穏無事な一生でも、一作の傑作を残せる人は、うらやましい。才能あふれる人と人生の一時期をともにすごせた人へも、羨望のまなざし。 画家たち、たとえば、ピカソ。生涯に9万点とも言われる作品数を残し、生きているうちに巨匠としての名誉名声も巨額の富も得ることのできた天才画家。うらやましい。ピカソに愛された女性達も「いいなあ、天才と一時期でも生活をともにできて」と、ねたましい。 ピカソをめぐる7人の女性については、2004年カフェコラム10/05~10/07 やちまた日記「ピカソのミューズたち」に書きました。http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200410 先月末10月31日の『たけしの誰でもピカソ』で、現在、ピカソ展がサントリー美術館と新国立美術館で同時開催されているのに合わせて、「天才ピカソを作った7人の女たち」という番組が放映されました。私が書いた「ピカソのミューズたち」と題材がかぶっていて新しい情報はないだろうけれど、たけしのトークがおもしろいだろうと思って見てみました。 ピカソは、女性に出会い恋をするたびに作風を進化させていった、という視点は同じでした。とりあげた女性は同じ「ピカソをめぐる7人の女」でしたが、最後の女性、ピカソに「ママ」と呼ばれて慕われたジャクリーヌ・ロックが、ビカソ回顧展を終えたあと自殺したことには触れないままでした。番組内容が暗くなってしまうからでしょうか。 私が「ピカソのミューズたち」を書いたのは、『ジャクリーヌ・ロックのピカソコレクション』という展覧会を見たときだったので、ジャクリーヌを中心に書いたのです。 ミューズたちもまたドラマチックな生涯をおくったのだけれど、天才がいつでもにぎやかに取り上げられるのに、晩年のピカソを支えることだけを生き甲斐としたジャクリーヌについて、あまり知られていないのは残念なことと思っています。ぜひ、上記春庭コラムをお読みください。 女では問題が起きなかったゴッホは、ゴーギャンとの確執から自分の耳を切り落とすし、ユトリロは飲んだくれてアル中となり、精神病院で治療のために絵を描き始めたのだし、劇的な人生を歩んだ画家が多い。 破滅的な人生を歩んでも一枚の傑作を残す人、うらやましい。 成金になって美術館を建てる人、ねたましい。 題して「ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊1~12」シリーズ。 まあ、ねたみそねみで生きているのは、美術館散歩だけじゃなくて、年がら年中のことですけどね。ひと様をうらやみ、ヒガミつつ細々と生きております。<つづく>09:03 コメント(8) ページのトップへ 2008年11月17日春庭「お金持ち美術館」2008/11/17 ぽかぽか春庭@アート散歩>ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(2)お金持ち美術館 三井住友など、お金持ちが美術館を建てたがることを「パトロンたちの愛した芸術」として紹介しました。累代の財産を保存するのには、財団にして美術館博物館にするのがよい方法です。累代の金持ちでなくても、成金もそれをまねします。 青山ユニマット美術館は、ユニマット社長が美術館館長をつとめている「現役成金館長」の美術館です。 成金美術館というと、イヤらしい言い方ですが、、、、これは単なる貧乏人のひがみ表現です。 青山ユニマット美術館は、2006年7月に開館していましたが、私は2年間、見る機会がありませんでした。 美術館設立母体のユニマットグループは、オフィス用のコーヒーサービスを主業務として、環境美化製品など、関連事業を広げている会社。 グループ創業者の高橋洋二氏は、2005年まで公表されていた長者番付常連だったお金持ちです。2001年度の個人年収は184億円。個人の年収としては日本一。 お金が有り余ると、次にしたくなることが美術品の収集。次は美術館の設立。 国立でない私立美術館は、「事業で成功→コレクターとして美術品収集→美術館設立」というところが多い。 ユニマットグループは、ユニマットレディースという消費者金融で儲けた金を資金にして急成長をとげ、沖縄リゾート開発などに手を広げました。野望は次々に実現し、青山に進出して自社ビルを建てました。 野望の一時頓挫もありました。子会社のひとつ、ユニマットビューティアンドスパは、渋谷松涛温泉シエスパを運営していました。このような事業を展開するなら必須であるガス検査を実施せず、ガス検知器を設置しないまま営業。2007年6月に、爆発事故を起こし、従業員ら3人が死亡、3人が重傷の大事故となった。 運営会社のユニマットビューティアンドスパは、管理委託先の元請けや下請けの会社と責任をなすり合ったが、そもそも、シエスパの施設を所有する「ユニマット不動産」が、天然ガス配管工事を渋谷区に無断で区道下に通していたりと、なんともはやの工事だったことが明らかになりました。 東京地検は、「ユニマット側に責任ありとして立件起訴することに決定した」と、2008年11月3日の新聞が報じていました。開業直後からガス漏れがわかっていたのに、そのまま営業していたのだといいます。 この事故ひとつを見ても、ユニマット急成長の秘密がわかる気がする。金儲けのためなら、人の命もなんのその。 ユニマットグループ総帥、高橋洋二氏は、責任者としてグループの中核企業の持ち株会社「ユニマットホールディング社長を辞任したけれど、美術館館長を辞任したのかどうかは不明。まあ、どっちでもいいんだけど。美術館は、館長じゃなくて、絵を見るんだから。それでも、ガス爆発事故で亡くなった方達のご遺族は、このユニマット美術館が入っている高橋社長の自社ビル前を通るときに心穏やかではないだろうと思います。 美術館のコレクションはとてもよいセンスで集められており、館内の雰囲気も落ち着いていて、ゆっくりくつろげました。優秀なキュレーター(学芸員)がいるのだろうと思います。 貧乏人春庭は、新聞販売所からもらった招待券でシャガールやムンクを鑑賞しました。 館長さん、1年に200億円も個人年収があるのだから、せめて美術館入場料は無料にしてください。<つづく>06:12 コメント(5) ページのトップへ 2008年11月18日ぽかぽか春庭「シャガール・ドキュメンタリー」2008/11/18 ぽかぽか春庭@アート散歩>ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(3)シャガール・ドキュメンタリー 天才画家のかたわらに天才を支えた女性あり。 シャガールにベラとヴァージニアとヴァランティーヌ。 ダリに妻ガラと愛人アマンダ・リア。 ピカソと7人の女たち。 シャガールは、比較的穏やかな家庭生活を送った人だと思っていましたが、最初の妻と二人目の妻の間に、子供をもうけた恋人がいたことを、8月の美術館散歩で初めて知りました。 友人A子さんと、青山にあるユニマット美術館を訪れました。(2008/08/04)http://www.unimat-museum.co.jp/ 『シャガールとエコールドパリ展』や『女性美讃歌』という企画展、また、初めて見るムンクの『二人の姉妹』など、楽しめるコレクションでした。 特にシャガール(1887-1985)のコレクションとしては日本国内でも有数の充実した展示で、館内ではシャガールの姿を写したドキュメンタリーがビデオ映写されていました。 このドキュメンタリーは、晩年のシャガール自身が出演しているほか、1915年に結婚した最初の妻ベラ・ローゼンフェルト、1952年に65歳のシャガールと再婚し、1985年に98歳のシャガールを看取った2度目の妻ヴァランティーヌ・ブロツキーが紹介されていました。 画家を描いたドキュメンタリーが数々あります。 ピカソを題材にして1956年度カンヌ国際映画祭の審査員特別賞を受賞した『天才の秘密』。 最近見ておもしろかった作品。『ミリキタニの猫』は、ニューヨークでホームレスとなり路上で絵を売っていた日系画家ミリキタニ(三力谷・Jimmy Tsutomu Mirikitani1920年~)を描いています。 画家をドキュメンタリーの題材にするのって、素材がいいからおもしろい作品が多い。 ユニマット美術館のドキュメンタリー映画のなか、シャガールをめぐる3人の女性のうち、ベラの死の2年後1945年から7年間、シャガールを支えた恋人ヴァージニアについては、「その当時の恋人」とだけ紹介され、名前は出されなかった。 ヴァージニアの生んだ息子ダヴィッド・マクニール(デヴィッド・マックニール)は、父のカンバスの下塗りを任されるなど、父シャガールと親密にすごしたけれど、音楽を志し、あえてシャガールを名乗らず、母の実家の姓マクニールを名乗りました。七光りで世に出たがる、どこかの政治家や芸能人とは違いますね。 ダヴィッドを生んだイギリス人女性ヴァージニア・ハガード(Virginia Haggard)は、『シャガールとの日々―語られなかった七年間』という本を書き残しています。(1990年西村書店 黒田亮子・中山公男訳) また、息子のデヴィッドも『Quelques pas dans les pas d'un ange(天使のステップ)』(2003年3月ガリマール社)に、シャガールとの思い出をつづっています。<つづく>06:56 コメント(3) ページのトップへ 2008年11月19日ぽかぽか春庭「シャガールとエコールドパリ展」2008/11/19 ぽかぽか春庭@アート散歩>ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(4)シャガールとエコールドパリ展 我が家系で、天才画家に生まれるってことは遺伝的に無理だったろうけれど、せめて天才画家に肖像のひとつも書かれる美形に生まれつきたかった。 ひがんでもうらやんでも、画家のミューズになる運命には縁がなかった。 母方の曾祖母は○○小町と呼ばれた器量よしだったのに、祖母キンは母親に似ないで、祖母の妹が母親の美形を受け継いだ。私が「美人に生んでほしかった」と言うたびに、母シズエは、「文句があるなら、おばあさんに言いな、私だってカクちゃん(母の従妹)みたいに美人に生まれたかったよ」と、かわしていた。祖母の妹の一家は美人揃いなのだ。「天才画家になる気はないが、せめてなりたや肖像画」 ねたみそねみひがみやっかみは我が性分となり、絵を見て歩く。「美女モデルつんとすましてキュービズム」「野獣派よ美女も叫んで額の中」 シャガールは、日本でもファンの多い画家であり、しばしば展覧会も開かれていますが、都内に気軽に見に行けるコレクションがあること、私は知りませんでした。 今年初め、西洋美術館でムンク展があったのだけれど、この時は行けなかった。 西洋美術館のムンク展には展示されていなかった作品、『二人の姉妹―ラグンヒルとダグニー・ユール(1892)』、ユニマット美術館で見ることができ、とてもよかったです。 ムンクが表現主義を完成させる過程で、彼の精神に大きな影響を与えたダグニー・ユールが背中を見せてピアノをひいており、ラグンヒルが正面を向いて歌っている。 ムンク展は都内で開催されるたびに見てきたのですが、西洋美術館のムンク展も見ておきたかった。http://www.unimat-museum.co.jp/tenrankai.html本日の徘徊ミソヒトシャガールよムンクよピカソよ、描かれた女たちは皆幸福でしたか<つづく>07:04 コメント(4) ページのトップへ 2008年11月20日ぽかぽか春庭「上村淳之展」2008/11/20ぽかぽか春庭@アート散歩>ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(5)上村淳之展 文化勲章、2008年は、田辺聖子が受賞者のひとりになりました。 女性ではじめて文化勲章を受けたのは、1948年上村松園(うえむらしょうえん1875~1949)でした。松園の息子の上村松篁(うえむらしょうこう1902~2001)も、1984年に文化勲章を受章。母子2代の受賞と話題になりました。 松園は自身も美人のうえ、才能豊かな日本画家でした。ひがみやっかみ春庭、美形か才能か、どちらかひとつは持って生まれたかったなあと、ねたみそねみで松園の美人画を眺めてきました。 上村淳之は、画家三代目にあたります。 上村淳之(うえむらあつし1933~)は、松園の孫、松篁の息子。祖母や父についで、三代目文化勲章受賞が期待されています。 家系に何の恩恵もない春庭は、淳之さんにもひがみやっかみ。いいなあ、才能が遺伝して。 三代目ともなると、たいていその家業の光輝はくすんできて、「売り家と唐様で書く三代目」という川柳があてはまるのが世の常なのですが、淳之は、祖母松園の美人画、父松篁の花鳥画、ふたりの影響を認めつつも、独自の画境を切り開いてきました。 2008/03/04に私が見た三越本店での展覧会(2008/03/04~3/16)は、昨年パリで開催された上村淳之展の凱旋展覧会。上村家三代の絵を集めている奈良の松伯美術館の所蔵品を中心に構成されています。 淳之、京都市立美術大学在学中の作品から、現在までを俯瞰する展示。画題は鳥の絵のみ。 淳之は、子供のころ知能指数200の天才児と言われ、、画家以外の道を探そうと東京に出ていきました。得意の数学を生かせる建築家になろうとしたのだそうです。 しかし、東京に出て「絵の家」を離れてわかったことは、「自分は絵を描くことから離れたら、生きていくことはできない」ということでした。 20歳のとき、両親の暮らす京都を出て、祖母松園亡きあと空き家になっていた奈良の別荘、唳禽荘に、ひとり住むことにしました。 親からは独立したい、しかし、絵を続けたい、そのためには、祖母の別荘に住むことは最良の選択でした。 現在もなお、淳之は奈良のその地に住み、自宅は「鳥類研究所」となっています。 263種、1600羽の世話を毎朝するのが日課。ここで初めて人工繁殖させることができた、という稀少な飼育例もあり、父松篁の追求してやまなかった「生きている鳥」を、思う存分研究しつつ、絵筆をとる暮らしを続けています。 私が一番気にいって、絵葉書を買い求めたのは、淳之画伯の画業の出発点ともなった頃、1958年の作品『春沼』(松柏美術館所蔵)です。 画面は暗い色調ですが、三羽の鴫が上下に並べられた構成で、鴫の目がとてもいい。 若い頃のこの「春沼」のほかは、概して明るい色調が多い。 壮年期から現在にいたるまで、淳之の鳥たちは、実にのびのびと空間の中を羽ばたき、佇立し、羽づくろいをし、雪にたたずみ、花と遊ぶ。 熊谷守一が一日庭に寝そべってアリを眺めて飽きなかったと言うが、淳之も一日鳥をみていて飽きないのだろうなあと思いました。 描こうとする対象として鳥がいるのではない。自分自身が鳥になって、鳥の仲間として鳥たちのなかにいるのだ、と淳之は語っています。 世襲三代目あたりになると、周囲が「家元」扱いをするようになり、才能をもっていてもつぶされてしまう例もある。 能や歌舞伎では代々家業の役者を続ける人が多いけれど、画家で三代目はそうはない。 日本語学では金田一秀穂が、京助、春彦に続く三代目だけれど、学者としての業績はまだまだ父や祖父には及んでいない。(たぶんこれから父祖に負けない偉大な業績をのこすのでしょう)。 我が家系、父方の先祖三代前のこと。曾祖母は、入り婿取りに失敗して破産しました。婿に財産を蕩尽され、曾祖母は女中に手をひかれて夜逃げ。貧乏人3代目の春庭は、何の財産も才能も相続しなかったネタミそねみヒガミヤッカミ満載で、三代目上村淳之の絵を見て歩きました。本日の俳諧徘徊雉鳴くや絵筆三代の太き線春沼や鴫鳴き交わすらむ交るらむ<つづく>07:33 コメント(4) ページのトップへ 2008年11月21日ぽかぽか春庭「片岡鶴太郎展」2008/11/21ぽかぽか春庭@アート散歩>ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(5)片岡鶴太郎展 上村淳之のような人なら、その誕生からして、どうやっても「画家になるべくして生まれついた人の天職」として、人はその絵をみる。絵の才能は世襲じゃないけれど、生まれたときから岩絵の具の匂いを嗅いで育つ環境だったら、どうしても絵に心が向くのだろうなあ、とその生い立ちを想像する。 「一代で成り上がった人」に対してはどうか。 偏見があった。小器用な人と思ってきた。片岡鶴太郎に対してである。 お笑いタレントとしてものまね芸で芸能界に地位を占め、ボクサーもプロテストに合格した。CDも出したし、司会もこなす。俳優に「成り上がって」、評価も高くなった。 そういう人は、器用ではあるだろうし、絵や書をかけば器用にこなすだろうけれど、「器用」以上の価値があるのか、という偏見が鶴太郎にまとわりついてきた。 私も、そういう偏見をもって鶴太郎の絵を見てきた。 本物を見たのではない。テレビで宣伝しているものや、ポスター、本屋においてある画集などをパラパラと見て、そう思っていた。 なかなか器用に絵も書もかいているなあ、ほう、陶芸まで始めたのか。 2008年3月10日、池袋三越で、はじめて鶴太郎の絵を実際に見た。 「本物を見たら、これまでの鶴太郎観は、覆るかも」という期待とともに『片岡鶴太郎個展』会場へ行った。 会場について、まず驚いたのは、花形俳優が出演している劇場の入り口さながらの花の多さだった。 展覧会入り口から遠く離れた場所にも、トイレの前までも、ずらりと並ぶ花の圧巻。 有名人、有名会社と言われる名前がデンと表示された生花が、胡蝶蘭や百合の高い香りを周囲に放っている。 ああ、さすがに芸能界というところは、こういう風習を展覧会にも欠かさないのだなあ。私がこれまでに見たどの個展よりもたくさんの花がある。 これまで鶴太郎が展覧会を開くたびに、これほど大量の花が並べられてきたのか。 華やかではあるが、この見かけの華やかさは、絵を見る人にはマイナスに映るだろうなあ。 絵を評価してでなく、人は「有名人・鶴太郎」の絵を見に来る、という印象を強くさせる花の列だった。本日の徘徊ミソヒトあふれ出るアネモネフリージャサイネリヤカサブランカの香り濃き廊<つづく>08:02 コメント(2) ページのトップへ 2008年11月22日ぽかぽか春庭「鶴太郎の花」2008/11/22ぽかぽか春庭@アート散歩>ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(6)鶴太郎の花 鶴太郎画伯の絵は、とても上手でした。 日本画水墨画、書、着物デザイン画、陶芸、どれをとっても、たとえば、院展の日本画入選作品や同人作品を見たときの印象と比べて、鶴太郎の作品が劣っているとは思わなかった。 二科展洋画に、石坂浩二・八代亜紀・工藤静香らが入賞しているのと比べても、遜色ない。 でも、私は感動しなかったのです。 上村淳之の「春泥」を見たときのような、熊谷守一の「ヤキバノカヘリ」を見たときのような、心のふるえがなかった。 上手だとは思ったけれど、私の心には響かなかった。 たぶん、私の偏見がじゃましたのかもしれない。 あのようなたくさんの花、花、花、、、、この花籠、ひとつ何万だろう、この花のお金だけで、合計でウン百万円になるだろうな。この花ひとつのお金があったら、ワクチンがないために小児マヒになるアフリカの子供、きれいな水が飲めないために病気になる子供が、何人救われるのか、なんて、余分なことを考えてしまって、もうダメだった。 お花を贈るひとは、鶴太郎さんが好きで、展覧会の開催を心から喜んでいるのだろう、その気持ちの表現が花となって表れているのだから、文句つけるこちらが不埒なのだ。わかっているのだけれど。 2008年2月15日の新聞記事。 中田英寿がユニセフのイベントでアフリカに慰問に行った。子供たちにサッカーボールをプレゼントして喜ばれたのだという。 ユニセフとUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)による派遣使節として、コンゴ北方、ウガンダ国境に近い難民キャンプに着いた中田を描写して、A紙記者は「中田は、高級車から子供たちの前に降り立った」と、記事を書いていた。 それを読んで娘も息子も、「この記者、よほど中田が嫌いなのかな」という感想を異口同音に述べた。 このニュースで、中田が高級車に乗っていたってことを書かなくても、慰問記事が成り立つ。 「それのに、貧乏なアフリカの子供を慰問するにあたって、中田が高級車に乗っていったっていうことを、わざわざ書き入れるってことは、サッカーボールをプレゼントしたってことはどうでもよくて、じゃ、高級車に乗らないで、その分の金をあげたらどーよって、この記者は書きたいんじゃねーの」というのが、娘と息子が共通して述べた記事の感想だった。 娘と息子の「中田アフリカ親善訪問」の感想と同じように、私も、鶴太郎展のおびただしい花を見て、ひねくれた考え方をしてしまった。おんなじ発想をする親子だね。貧乏性ひがみ発想親子。本日の徘徊ミソヒト泥水を飲むアフリカの子の目は澄みて赤道直下の日は照り続く<つづく>07:41 コメント(6) ページのトップへ 2008年11月23日ぽかぽか春庭「好きなものをみる」2008/11/23ぽかぽか春庭@アート散歩>ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(7)好きなものをみる 鶴太郎展の香り高い花々。このお花を贈る人々から、「お花代」として現金でもらって、その「お花代」は、すべて「難民キャンプなどで、戦争や災害の後遺症に苦しむ子供たちの心を解きほぐすための、アートプロジェクト」に寄付する、とすれば、私はもっと素直に鶴太郎さんの傑作を見ただろうに。はい、もちろん、貧乏人のひがみです、こんな感想。 絵は、そんなひねくれた偏見をすてて、無心にながめたらよろしい。 鶴太郎の絵を買い求める人は、「有名人の絵だから」とか「芸能界のつきあいがあるから」とかでなく、純粋に鶴太郎の絵が大好きだから、買うのだろうと思います。 「有名人格付け」というテレビのバラエティ番組があります。ワインや高級牛肉、宝石などを、安物と並べて、タレントたちが「高い方、本物のほうを当てられるか」ということを競う番組です。 芸能人たち、「高級懐石料理vs居酒屋安メニューの食べ物」だとか、「安売り靴vs手作り一点もの」だとか、「衣食に関わる具体的な物」に関しては、割合に正解率が高い。しかし、「ストラディバリウスの音色vs練習用バイオリンの音色」とか、「人間国宝ものの工芸品vs 100円ショップで売っているような品物」の対決だったりすると、正解率が落ちます。 「Aディナー」の高級伊勢エビに対する「Bディナー」は、そこらの池のザリガニ料理。食べ比べて、おおかたのタレントが、「Bのほうがうまい」というのを聞いて、見ているほうは、「そうか、料理の腕しだいで、ザリガニだって美味くなるなら、そこらの池で増えて困っているアメリカザリガニとってきて売ったらいいのに」と思ったり。 この番組を見て、よくわかること。 私たちは、美術品や音楽演奏などに対して、絵画そのもの、音そのものでなく、「だれそれが描いた絵」の「だれそれ」の部分、「だれそれが演奏している音」の「だれそれ」の部分によって「すばらしい演奏」だとか「美しいフォルムと色」とか言っているんじゃないか。 どこそこでとれた伊勢エビとか松茸の産地直送、というふれこみによって「やっぱり本物はおいしい」と、言っているんじゃないか。その松茸土瓶蒸し、産地偽装をした北朝鮮産に香りづけの「松茸エキス」を振りかけただけかもしれないのに。 作者や演奏家を伏せたとき、本物を見抜く人聞き分ける人って、そんなに多くないんじゃないか。上野でフェルメール展をみたとき、人はフェルメールの名前を確認してから「すばらしい絵だねぇ」と言っているんじゃないか、と感じたので、、、、「フェルメールと贋作」について来月掲載。本日の徘徊ミソヒトデルフトの青空の下遊ぶ子ら名も無き人で幸あれ子らよ<つづく>10:00 コメント(6) ページのトップへ 2008年11月24日ぽかぽか春庭「感謝の日」2008/11/24ぽかぽか春庭@アート散歩>ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(8)感謝の日 私は、作者の名前でなく、自分の「好み」で、好きな絵、好きな演奏を決めたいと思います。 鶴太郎の絵は、今のところ、「貯金はたいても買いたい」と思うほど好きじゃない。でも、好みは変わるから、これから先好きになるかもしれません。昔は好きじゃなかったピカソ、今はわりに好きですし。ピカソ展について、フェルメールの次に掲載予定。 あ、うそをついてしまいました。「貯金はたいても」なんて見栄張ったけれど、貯金なんて元々ないっ! と、ひがみはこれくらいにして、好きな絵を見ることができる日々に感謝せねばなりません。 23日は勤労感謝の日。田畑で働き続けた人々が、大地の恵みの収穫を感謝する日。皇室の新嘗祭が行われる日を「勤労感謝の日」と呼び変えたのだけれど、祝日が多いのはありがたい。 私も毎日働き続けているけれど、私の勤労に、娘も息子も何ほどの感謝もなし。だけど私は周囲の人々に感謝してすごす一日にしましょう。 夫が「おふくろが、ベッドの位置をかえてほしいって、電話してきたけれど、仕事忙しくって、そんなことで会社あけてられないから、かわりに行ってきて」という。ふん、忙しいばかりで赤字続き、借金が増え続ける会社をあけておけないのね、たいへんね、、、、はい、感謝せねばいけませんね、トーサンは倒産といいながら、「会社経営道楽」を20年続けていられる会社。 アタシだって、忙しい。生活費は全部私にかかっていて、毎週5日間、月金で仕事に出て、土日は授業の準備と家の片づけ洗濯をせねばならぬ。台所の流しには茶碗が山になっている。と、ぼやきつつ、24日は、姑の家で、「1,ベッドの位置を変える。2,時計が遅れがちになり困っているから直す。3.扇風機の解体片づけ」という勤労をいたします。 たぶん、姑は、ひとり息子の顔が見たくて、「ベッドの移動」なんていう力仕事をしてほしいと言っているんでしょうに。 姑の懸案だった「6年前に亡くなったおじいちゃんが残した大量の油絵キャンバス」の整理がついて、部屋の模様替えをするのでしょう。それで舅が使っていたベッドを移動することにしたのだろうと思います。 「おじいちゃんの油絵、この中のどれをとっておいてどれを捨てたらいいかしら」という難問については、すでに姑のなかで整理整頓がついていることを願いつつ。 今回、玄関に飾ってあるのは、舅のどの絵だろうか。ええ、心をこめて鑑賞してきますとも。 ヨメが参上して片づけ仕事のお手伝いをしても、「ヨメの顔みてもうれしくない」と、あまりありがたがられることもないだろうけれど、勤労感謝の日振り替え休日の今日、それでは、行ってまいります。 20年前、早産未熟児で保育器に入っていた我が息子、先週めでたく20歳の誕生日を迎えることができました。でくのぼうの与太郎くん、ぼうっとした大学2年生ですが、無事成人しただけで感謝感謝。83歳の姑が元気で暮らしているのも、感謝感謝。 よみがえるキンロー感謝の日。本日の徘徊ミソヒト亀の子と河鹿と茄子が並ぶ絵の「仲良きことは美しきかな」<つづく>07:12 コメント(4) ページのトップへ 2008年11月25日ぽかぽか春庭「写真の力、写真の美」2008/11/25ぽかぽか春庭@アート散歩>ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(10)写真の力、写真の美 昨日11月24日、姑の家で扇風機の片づけやら掛け時計の電池交換やらというお手伝いをしたあと、池袋のジュンク堂へまわった。 お目当ては『写真屋寺山修司』 1階にいた書店員が9階においてありますと言ったのに、写真本コーナーに見あたらない。 9階の店員さんにたずねたら、別のコーナー(たぶん演劇本あたり)から持ってきてくれた。 寺山に興味を持つのは、演劇か文学が好きな人であって、写真が好きな人が写真本コーナーで寺山を捜すことはないのかもしれないけれど、写真集コーナーにも並べて置いてもいいんでないかい。写真集なんだから。 写真集の「すわり読み」をする。前回、本を買ったときの「1万円以上購入時のサービス券・喫茶室利用券」があったけれど、喫茶室は利用せず、9階窓際のチェアに腰掛ける。 『写真屋寺山修司』は、寺山が劇団天井桟敷を率いてヨーロッパ公演した際に撮影した写真を、パートナーであった田中未知がまとめた一冊。この時は『中国の不思議な役人』をひっさげてのヨーロッパ遠征であった。 『中国の不思議な役人』を、私は東京で見ている。 中学校の国語教師をしていたとき、部活担当として演劇部を受け持たされた。部員のひとり、3年生の女の子が天井桟敷のオーディションを受けて『中国の不思議な役人』に出演した。 「この公演にでるなら高校進学の受験勉強はできない。先生、どっちを選んだらいいと思う?」という相談を受けて「高校は1年遅れても入学する気さえあれば、来年でも受験できる。この公演は来年はないかもしれない。私ならこの希有の機会をすすめたいけれど、選ぶのはあなたの心で決めなさい」と、言った。彼女は出演を決め、高校も受験して合格した。 ガリガリにやせていた女の子だった。 小人症や小山のように太った女など、特殊な肉体を舞台にのせることを好んだ寺山の、彼女への注文は「体重維持。少しでも体重が増えたら役をおろす。君の価値はそのまったく肉のない肉体だ」 そんな寺山の「人の体への偏愛」が演劇的に表現されている写真集だった。 演劇的な演出をほどこした写真の数々。場末の「見せ物小屋」的雰囲気を好んだ寺山の好みが色濃く出ており、独特の「写真美」があった。 次に大竹昭子が編集した「この写真がすごい2008年」 ほんとにすごい写真が100葉ならんでいる。いいセレクトだった。 写真をみるの、好きだけれど、写真集を買ったことあるのは、長倉洋海のみ。あとは、本屋か図書館で写真集ながめておわり。写真集はたいてい立派な印刷で、どれも値段が高い! キャノンとかニコンとかの写真ギャラリーをのぞくこともある。恵比寿の写真美術館へもときどき出かける。 大丸ギャラリー「『写真』とは何か・20世紀の巨匠たち・美を見つめる眼 社会を見つめる眼」2008年4月3日(木)→21日(月)を、4月8日に見た。 「写真」が生まれて150年になるのを記念したという写真展。 写真展のごあいさつより 『 写真が最も発展した20世紀、そしてそれらに連なる21世紀、この時代の写真史を形成した重要な写真家たちを取り上げます。彼らの作品やその根底にある表現思想を通じて、人間が事物に視線を向け視察し記録する行為、そして、さらに表現芸術の領域までに昇華された「写真」ー、その本質や意味、役割を探究することで、単に写真の歴史をご覧いただくことに留まらず、「写真」とは何か?を体感していただけることでしょう 』<つづく>07:31 コメント(4) ページのトップへ 2008年11月26日ぽかぽか春庭「写真の時代」2008/11/26ぽかぽか春庭@アート散歩>ねたみそねみヒガミヤッカミ展覧会徘徊(11)写真の時代 20世紀は「写真の時代」でした。 写真は常に二つの面を持って訴えかけてくる。「写実、記録性」と「美」の二面。 写真のこの二つの面を対照しながら20世紀の写真を振り返る展覧会「20世紀の巨匠たち・美を見つめる眼、社会を見つめる眼」 マンレイが写した若いマルセル・デュシャンと、アーヴィング・ペンが写した年老いたマルセルデュシャンの2枚を比べてみるのも面白かった。 報道写真、ロバート・キャパやユージン・スミスの、戦争や水俣の真実を切り取った写真、たとえば、キャパの有名な「スペイン内戦・倒れる共和国兵士」も、スミスの水俣病患者を移した写真も、報道ということを抜きにして見た場合、実に美しい。 美しい構図、映し出された人間の姿のなんと美しいことか。 スミスの『楽園へのあゆみ』。 写真集のタイトルになっている一枚だから、彼の代表作とされている写真だと思うけれど、初めて見ました。初めて見たのに、何度も見てきたような既視感がありました。 うつされているのは、西洋人の子供(と思ったのだけれど)なのに、自分自身が写されているような気になりました。 幼いふたりが、森のなかへ歩みいる瞬間の、光と影。森や川へ歩み入ろうとする、子供のころのわくわくした気分と、未知の世界へはいるおそれにも似た気持ちと、楽園から出てきてしまった年をとった自分の寂寥と、そんな思いのすべてを一枚の構図におさめてしまう、写真の力の大きさを知りました。 アメリカで過酷な労働条件における児童労働禁止運動のために大きな力となった写真集「ちいさな労働者」を残したルイス・ハイン。 「働く子供たち」を写した写真も、悲惨な労働に従事する子供たちを写しているのに、その子供たちはボロい服を着ているのに、美しい。 20世紀写真の巨匠たちの作品をながめて、写真のもつ「記録と美」の力の大きさにうたれました。 メイプルソープやマンレイの「美」はもちろんのこと、今回私にとって、「記録写真の美」について思うこと大きかった。キャパの「スペイン戦争で撃たれ倒れようとする兵士」の写真も、「記録」という価値以上に、美しい!ことに、心ゆるがされたのでした。 この写真展について言及されているブログに出品作品の何枚かが載っているのでリンク。http://blog.goo.ne.jp/v_goo_kazu_san/e/0ae7075172164b42d7b4775acfdde1be プロでなくても、よい写真をとる人は大勢います。ユニークなアングルで世相を切り取った愉快な写真を見に行くサイト。野山の花の写真を楽しみに見せてもらうサイト、ほんとにみな上手です。「ゆめうつつ」 http://nekomajiro.exblog.jp/ 「怠惰の坩堝」 http://majiro.blogzine.jp/yumenikki/花と山の写真サイト http://naocyan.web.infoseek.co.jp/acha.html デジカメのおかげで、素人でも失敗なく写真が撮れるようになりました。でも、私が写真とっても、なかなか会心の一枚にはならない。手ぶれ補正やら人の顔にピントが合う仕組みやらで、そこそこの写真が撮れるようにはなったけれど、ピントが合うだけでは人を感動させる写真はとれない。やはり才能が必要だなあと、才能あふれる写真家にも、ひがみやっかみの春庭でした。 ねたみそねみひがみやっかみ美術館徘徊シリーズ、これにておひらき。 長いことヒガミ話が続いて少々心身萎縮しておりますので、ここらで柔軟体操。体も脳も柔らかくして、次回からは、話がぐっと下半身におりてまいります。「ミッション伝道師達」シリーズ。第一回は「メイプルソープ」です。本日の徘徊ミソヒト花芯深く蜜の味する誘惑のメイプルソープの花びらの色<おわり>
2008/11/09ぽかぽか春庭@アート散歩>パトロンたちの愛した芸術(1)芸術保護者パトロン 日本とインドネシアの交流というと、私の世代にとって真っ先に思い浮かぶのは、デヴィさんの名。 赤坂コパカバーナでホステスとして働いていた19歳の根本七保子が、「夜の接待用」として59歳のスカルノ大統領に提供されました。(名目は貿易会社秘書。給与はインドネシア貿易開発をねらっていた商社丸紅もち) 彼女の渾身の「夜の接待」は大統領の心をとらえ、22歳で見事「第三夫人」の座を獲得しました。その後スカルノは失脚し、たった3年の大統領夫人生活だったけれど、その間、隠し財産はしっかりスイスの銀行に預金した(という噂)。 結婚後は、「デヴィ夫人」と名乗り、大統領死去ののちも、実業家&タレントとして活動。ニューヨークで傷害事件をおこして実刑を受け服役する、という波瀾万丈な女性。大統領夫人の生活と傷害実行犯として服役する生活の両方を味わった女性はそうはいない。 彼女は、日本国籍を失い、インドネシア国籍で生活しているけれど、インドネシアでは評判が悪いらしく、夫の国のバティックを身につけた姿も印象にありません。 一度はインドネシアを代表する人の妻となり、「元大統領夫人」という肩書きを利用して生きてきたのに、夫となった人の国のために行う活動が少ないように見受けられます。彼女が「私もやっている」と宣伝している慈善活動のなかにも、インドネシア関連は多くない。 スカルノ大統領治世下で、隠し財産をため込んだのかどうか、定かではありませんが、彼女の財産や存在があまりインドネシアのために役立っていないのは、寂しいことです。 インドネシアバティックが、素朴なろうけつ染めから芸術品の域にまで達したのは、「王宮の衣装」として取り入れられたことが大きな契機になっています。財力を注ぎ込んで、より高度な品をつくりだそうとする「芸術のパトロン」の存在は大きなものです。 和更紗も、鍋島家などの大名家の産業保護によって発達しました。 日本でも、芸術にはパトロンの存在が大きい。平安の藤原氏、室町の足利氏、江戸の将軍や大名たち。それぞれが、文学建築絵画工芸染色織物芸能などの保護育成をはかりました。 現在、各地に多数の寺社建築や美術館博物館があり、私たちも芸術の宝庫を見ることができます。 三の丸尚蔵館は、天皇家から国庫へ寄贈された美術品を展示しています。 永青文庫は細川家の、徳川美術館は徳川家の「武家の家宝」を展示している美術館です。 現代、企業メセナとして、出光美術館、サントリー美術館、大倉集古館(ホテル・オークラなどの大倉グループ)、ブリジストン美術館など、創業者や一族の集めた美術品を展示しているところが多い。 パトロン(patron)の語源は、ラテン語のパトロヌス (patronus)。ラテン語のパテル(pater、父)と同根の語です。 パテルは、スペイン語ではパードレ(父、神父=padre)、英語ではファザー(父、神父、Father)、またはパパpapaです。 パトロヌスは、保護者、後援者のことで、英語ではパトロンpatronです。 古代ローマでは、「パトロヌス」とは、私的な庇護関係における保護者を指しました。この関係で、保護者(パトロキニウム)と被保護者(クリエンテス)は、擬似的な親子関係「父と子」とも考えられました。パトロヌスはクリエンテスに対して法的、財政的、政治的援助を与える存在であったのです。 後世においては、一般的に「保護者=パトロン」となりました。 クリエンテスは、現代英語ではクライアントclientであり、弁護士に対する依頼人、医者や心理療法士に対する患者、広告業者に対する顧客、を意味します。 現代語では、「パトロン」はその保護する相手により、意味合いがことなります。芸術家にとっては、かれらの活動を支援する資産家、企業がパトロンです。毎月の生活費をひとりの男性に出してもらっている女性にとって、彼は「パトロン」です。この男性を「パパ」と呼ぶ女性も多い。 私の夫は、子どもたちにとっては「遺伝子上、法律上のパパ」ですが、私にとっては「パトロン」ではありません。<つづく>もんじゃ(文蛇)の足跡: 今月は、10月に引き続き、美術館散歩シリーズを続けています。「布を見る」シリーズのあと、「パトロンたちの愛した芸術」シリーズ1~6。「ねたみそねみひがみやっかみ美術館徘徊」シリーズ1~8。00:00 コメント(3) ページのトップへ 2008年11月11日ぽかぽか春庭「商家の力」2008/11/11ぽかぽか春庭@アート散歩>パトロンたちの愛した芸術(2)商家の力 江戸時代から財力を蓄えてきた「商家の財宝」もなかなかのものです。 商人たちは、一定の財産を蓄えると、「美術品」に目がいくようになり、代々のコレクションは、コレクターの目利きとお金の力の見せ所となっています。 以下、三井家、住友家などが累代集めてきたコレクションをめぐります。 三井家は、三越デパートの前身「越後屋呉服店」によって、江戸時代に財をなしました。 幕末に「尊皇派」に加わることによって、三井家は明治期に、住友家、岩崎家と並び、三井・住友・三菱コンツェルンとして、莫大な資産を蓄え、有り余ったお金を美術品収集にも向けました。戦後の財閥解体を経てなお、膨大な美術品を所蔵しています。 日本橋三越の隣、三井グループの本拠地ともいえる三井本館7階にあるのが三井記念美術館。http://hix05.com/architect/street/mitsui.html 三井記念美術館は、三井家の財宝を中心に展示しています。http://www.mitsui-museum.jp/index2.html 2008年6月29日に見た「三井家の茶箱」展は、江戸後期から近代にかけて三井家で仕立てられた三井家伝来の茶箱・茶籠約30点に草花図襖絵などをまじえて展示されていました。 茶箱とは、「携帯用お茶セット」ともいえる茶道具一式をいれた箱です。 三井家の当主や夫人たちは、代々お茶をたしなみ、自作の茶道具をしつらえています。 豪華な茶籠や、抹茶道具と煎茶道具が一緒に入った茶籠などもあり、商家の茶人や数寄大名などが、自由な発想で楽しんでいたようすが彷彿とします。 三井家の人々が優雅にお茶を楽しんでいた頃、私のご先祖は、ちょいとフチが欠けた茶碗かなんかでお茶を飲んでいたのかも知れません。 魚沼郡コシヒカリが今のように高値で売れる時代ではなかったから、小作料の米をもってきた小作人たちに一杯のお茶をふるまうにも、茶葉を大事に出がらしになるまで湯を注いでいたかも、、、、なんて、ひがみつつ、お金持ちの茶箱を拝観。本日の徘徊ミソヒト金の匙銀の茶筒のきらめいて、野点の席に吹きすぎる風<つづく>08:59 コメント(5) ページのトップへ 2008年11月12日ぽかぽか春庭「三井家のおたから・茶箱展」2008/11/12ぽかぽか春庭@アート散歩>パトロンたちの愛した芸術(3)三井家のおたから・茶箱展 「茶箱展」展覧会の説明より================ 「持ち運びができる小型の箱や籠などに、喫茶用の茶道具一式を組み込んだものを茶箱および茶籠と呼んでいます。 茶人が自らの好みで選び仕立てた茶箱・茶籠は、茶の湯をたしなみつくした人が行き着く究極の趣味世界ともいわれます。 自らの趣味にあった箱や籠を茶箱にあつらえ、それに茶碗や茶器、茶巾筒、茶杓、菓子器など好みに合った道具を探し、それらをこだわりの袋や裂で包んで収めた茶箱・茶籠は、まさに「数寄の玉手箱」と呼ぶにふさわしい茶道具です。そのはじまりは桃山時代頃まで遡るようです。 三井家代々の、茶箱と茶籠を、草花図・山水図などの襖絵・屏風絵などとともに展示し、野外での喫茶の雰囲気も演出した展示空間、、、、」=========== 『三井家の茶箱』展を観覧しているほとんどの人が、「お茶をたしなんでいる」「趣味は茶道」「次の茶会にはどんな着物を着ようかしら」というような人ばかりでした。 着物で「茶箱展」にお出かけしたのは、こんなマダムたち。http://plaza.rakuten.co.jp/edoyasiki/diary/200805300000/ ひがめは私だけかと思ったのだけれど、見てきた人のブログをいくつか読んでみると 「三井記念美術館に行ったが、こちらはゆったりしていた。でもいる観客は綺麗に着付けしたお着物のマダムとか、いかにも美術品好き!という感じの方ばかりで、どなたもものすごく熱い目で三井家の「お宝」を見つめていらした。」という感想も書かれていて、エエシの奥方有閑マダム大集合と感じたのは、私だけじゃなかった。 丸山応挙の絵なども展示されていて、見所はたくさんあったのでしょうが、あいにくとお茶のことはさっぱりわからん。 お茶は、「袱紗のたたみ方」というのを習ったっきり、「足がしびれることは二度とやらぬ」と思って以来、とんと疎遠でした。 小さな茶器があって、ミニチュアサイズ。おままごとや、雛飾りの段においてもかわいい、というような感想しかでてこない。 とまれ、金持ちゆうゆうと趣味をたのしむ、という三井家の家風、「数奇の玉手箱」という展覧会のタイトル通り、「数寄」を極めるとこうなるんだなあ、と思います。 そして、俗人の悲しいサガ。こういう茶道具、オークションにかけたらいくらくらいの値がつくのか、と、ついつい下世話な感想もちつつ会場をめぐりました。本日の徘徊俳諧茶筅ひとつ米何俵分の値やら<つづく>11:32 コメント(2) ページのトップへ 2008年11月13日ぽかぽか春庭「江戸・東京茶の湯展」2008/11/13ぽかぽか春庭@アート散歩>パトロンたちの愛した芸術(4)江戸・東京茶の湯展 10月30日、日本橋高島屋で開催されていた『江戸・東京茶の湯展』を見ました。 このお茶碗、オークションにかけたらいくらかしら、なんていう俗人根性ばかりで三井家のお宝を見てしまった私、もっと無心に茶の美を味わう「大人の鑑賞」をしなければいけないのではないかという反省もあって出かけました。つうか、招待券もらったから見にいったんだけどね。 領地一国と茶碗ひとつもらうのでは、どちらがいいかと問われたら、「一椀の名物茶碗」という時代だった戦国末期。 たとえば。滝川一益は、武田攻めに武功をあげ、織田信長秘蔵の栗毛馬とともに、上野一国と信濃小県・佐久二郡が与えられ、厩橋城主に任ぜられました。一国一城の主になったのです。しかし、一益は、茶道の友に手紙を書きました。「このたび武田氏を討ちました。信長公が望みをお尋ねになったなら、小茄子の茶入れをいただきたいと申し上げるつもりでした。ところがそれはなく、このような遠国に置かれてしまい、もはや茶の湯の冥加も尽き果てました」 城よりも「小茄子」という名物の茶入れがほしかった、と書いているのです。 茶人として自身の力量を示すこと、名物と称えられる茶器を多数保持して、それを他の人々に見せつけることは、権力のあかしであった時代でした。一城より茶器のほうがほしかった、という一益の言い分も、「名利より芸術を愛した」という意味ではありません。「小茄子」という茶入れを保有することで、一益の名声はより大きくなり、一国を持つ以上の利益があると皆が思っていたからこそ「城より茶入れがほしかった」という愚痴となったのです。 財をなした商人や 権力者が、次に美術品収集をはじめるのは、にわかに芸術の美にめざめたから、というより「芸術・美術品の保有者」という名声を求めるため、というほうがあたっているでしょう。美術品を集めること、芸術家のパトロンになることは、己の財力権力のあかしになるからです。 『江戸・東京茶の湯展』、最初のコーナーでは、徳川初期三代、家康秀忠家光の愛用した大名物(おおめいぶつ)「茶入れ」が展示されていました。 「茜屋茄子」、「利休尻膨」、「利休物相」が並べて展示される、という、茶人垂涎の展示をはじめ、数々の名物茶器が並べられていました。 定家筆の掛け軸や、山田宗偏の自筆手紙などもあり充実した展示、また、江戸の下級武士が長屋で茶会を楽しんでいるようすの絵、相撲取り力士が茶を点てている錦絵などもあり、茶の湯文化の広がりを知ることもできる展示でした。 そんなスンゴイ茶器が並ぶなか、私の目は相変わらずの「猫に小判」状態。大名物の隣に、百円均一ショップの茶碗が並んでいたとしても、「はぁ、たいしたもんですねぇ」と、感心して見たことだろう。 この茶の湯展には、各流派の「立礼」による茶の湯道具の展示コーナーがありました。外国人接待用として、テーブルと椅子を用いるお手前があり、それぞれの茶の流派で美しく機能的な茶の湯用のテーブルと立礼に適した茶道具がありました。あらま、私は足がしびれることは嫌いだ、と思って茶の湯修行をやめたのに。今から、立礼だけ習おうかしら。 この展覧会にも、茶会帰りのような和服をお召しの奥様方が大勢いらした。私は茶器といっしょに高級和服で目の保養をさせていただいた。ええ、「和服の美」を、無心に鑑賞させていただいたんですけど、、、、あの小紋、一枚いくらくらいかしら、、、。<つづく>00:09 コメント(7) ページのトップへ 2008年11月14日ぽかぽか春庭「住友家のおたから泉屋博古館」2008/11/14ぽかぽか春庭@アート散歩>パトロンたちの愛した芸術(5)住友家のおたから泉屋博古館 三井家のお宝は三井記念美術館にしまってあり、住友家のおたからは、京都の泉屋博古館(せんおくはっこかん)にしまってあります。http://www.sen-oku.or.jp/ 住友家は、江戸期代々の財物に加え、第15代当主住友春翠が明治中頃から大正期にかけて蒐集した中国古銅器と鏡鑑のコレクションで知られています。 これらを寄贈した美術館が「泉屋博古館」。私はクッキーのいずみやの博物館かと思ってました。まあ、どっちにしろ、お金持ちのお金が余って建てる美術館のひとつです。 その分館が、東京にあります。http://www.mapion.co.jp/front/Front?uc=4&ino=BA418558&grp=museum&pg=1 東京分館は、地下鉄六本木一丁目をスエーデン大使館やスペイン大使館がある側の出口をめざして屋外エスカレータを上っていくところにあります。 2008年4月20日、友人A子さんといっしょに、泉屋博古館で『近代日本画と洋画にみる対照の美』を見ました。 『近代日本画と洋画にみる対照の美』展示ごあいさつより============= 『わが国の近代絵画史は、日本画と洋画の両輪によって育てられ、豊かな稔りを結びました。さらに両分野ともに東京、京都、大阪に地盤を置く画家たちの活動により、地域毎の彩りも添えられ、多彩な展開を見せました。本展は、竹内栖鳳、東山魁夷、浅井忠、鹿子木孟郎、岸田劉生の他、日本洋画に大きな影響を与えたジャン=ポール・ローランス、クロード・モネの作品も展示いたします。』================ 鹿子木孟郎の「競べ馬」「ノルマンディーの浜」。この作家の作品を、初めて,見ました。 鹿子木孟郎の作品を集めている三重県立美術館よりリンクhttp://www.pref.mie.jp/bijutsu/hp/collection/j_k/kanokogi_index.htm 展示の点数は少なかったですが、なにしろいつも人が少なくゆっくり見ることのできる小規模な美術館なので、のんびりできてよかったです。 絵をみたあとは、六本木の居酒屋で、友人とおしゃべり。松本健一について、市川房枝について、子育てと仕事について、、、、話がはずみました。この展覧会に言及しているいくつかのブログをリンク。 http://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/75a7e9785edcbab58af7cc608079afa9 http://blossom-soon.seesaa.net/article/90391741.html 8月26 日、友人K子さんと、泉屋博古館で「七宝展」を見ました。泉屋博古館は初めてきたというK子さん、私が最初に思ったのと、発想おんなじ。「クッキーの泉屋?」と聞いてきました。わ~い、トモダチ友だち。 七宝は、ガラス粉を焼き付けて模様を描く焼き物です。 七宝は、桃山時代に日本に伝えられ、明治時代に新しい技法が発明されて盛んになった工芸。 明治のすぐれた七宝作品は、宮内庁や華族の御用達となった一部を除いて、ほとんどが、外貨獲得用の輸出用でした。<つづく>00:10 コメント(2) ページのトップへ 2008年11月15日ぽかぽか春庭「村田家のおたから・七宝展」2008/11/15ぽかぽか春庭@アート散歩>パトロンたちの愛した芸術(6)村田家のおたから・七宝展 K子さんと泉屋博古館で見たのは、村田家のおたから。 コレクター村田理如が長年個人で集めてきた七宝などの工芸品120点が、泉屋博古館に展示されていました。 村田さんは、父親が設立した村田製作所に勤務していました。そのまま勤務をつづければ、お兄さんのように村田製作所の役員社長と進んだのかもしれないのに、美術館館長として工芸品と関わる人生のほうをを選びました。http://www.sannenzaka-museum.co.jp/ 清水三年坂美術館館長、村田理如さんのおじいさんは、陶工でした。 お父さんは、陶器すなわちセラミックの近代産業利用の会社を設立しました。電気や通信にセラミックを応用した事業を発展させ、村田製作所を大会社に育て上げました。 理如さんは、ニューヨークで七宝工芸品に出会い、会社勤めの合間に、世界各地にちらばっていた七宝を収集してきました。 こつこつとオークションに出かけては、ほんとうにひとつひとつ気に入った作品を集めてきた雰囲気が、コレクション全体に、ただよっています。http://www.sannenzaka-museum.co.jp/news.html サラリーマンのコレクションと言っても、創業社長の息子さんなのだから、一般の会社員のようなカツカツの暮らしをしていたのではないだろうけれど、事業家が金儲けをして、金にあかせて美術品収集をはじめた、というのとはことなり、村田さんのコレクションは、展示の作品にコレクターとしての愛着が感じられました。 村田さんが、海外勤務のあいまにオークションなどで集めた七宝は、清水三年坂美術館に常設展示されていますが、今回、120点余りが泉屋博古館に展示されました。 ほんとうに美しい細かい模様の数々。職人の高い志と技法に圧倒されました。 明治時代、日本政府は、「日清日露戦争に勝って、ようやく日本は世界の一流国の仲間入りができた」と思いこんだのですが、西欧諸国にとって、日本とは「浮世絵、工芸品などのすばらしい伝統文化を持った国」として認識され、ジャポニズムの浸透とともにその名を知られる国になってきていました。 「戦争に勝って強い国」ではなく、「繊細な美しい工芸品を生み出せる国」として尊敬を集める国になる方向もあったのに。 いまや、国際関係において「文化度」が、その国の地位を高める最重要な要素になっています。 明治時代に、西欧の人々を感心させた高い工芸の力を生かし、これからは、軍事力などでなく芸術力、文化力を「国力」の指針としてほしいと思います。 しかし、どの工芸も後継者養成が悩みの種。10年15年と続く下積みの徒弟時代に耐えられる若者がいなくなっているので、いろいろ難しいこともあるでしょうが、優秀な工芸職人が育ってくれることを願っています。本日の徘徊ミソヒト七宝の金の輝きこの線に命を賭けし職人の指<おわり>
2008/11/01ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(1)小袖展 私は、糸と布、織物染め物、衣料に関係する手仕事を見て歩くのが好きで、機会があるごとに見に行きます。 国立東京博物館本館の「着物」、江戸時代の着物が中心で、ときどき展示替えがあるので、いつ行っても、新しい一品と出会えます。 近代美術館の工芸館にも着物の展示があります。こちらは、近代工芸作家の作品が並ぶ。 琉球紅型の着物を見るなら、駒場の日本民芸館。 東京ミッドタウンに移転したサントリー美術館で、「小袖展」がありました。http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/08vol04kosode/index.html 次々に新しい「ビルの町」ができる東京。 2007年3月にオープンした東京ミッドタウンは、オフィス、住宅、ホテル、ショッピング街、美術館が入っている複合施設です。 2008/08/25のミッドタウン、エントランススペースを大勢の人が行き交います。 おのぼりさんは、どっちに行ったら美術館なのかとうろうろし、前後上下を見渡します。はるか上のほうに、幾何学的にパイプを組み立てた白い天井が見え、「現代建築やなあ」「都会やなあ」と、口をあんぐり開けて見上げるばかり。 うろうろしながら、ガレリア3階の美術館の中に入りました。サントリー美術館は、洋酒メーカーのサントリー社長・佐治敬三によって設立されました。 今回の「小袖展」は、京都松坂屋が収集した小袖の展示。 松坂屋京都染織参考館の所蔵品、日頃は、非公開。年に一回、祇園祭の日、一日だけ一般に公開されるのみの門外不出の小袖でした。 この「松坂屋の秘蔵品」を、まとめて東京で見ることができる。 この展覧会、圧倒的に観客は女性でした。女性50人に対して、男性1人くらいの割合。中には、着物を着て、美しい小袖の意匠を熱心に見入っている女人も。「和服でご来館の方は当日料金より300円割引」と書いてありましたが、まあ、割引が目当てではなくて、日頃和服を愛用なさっている方々なのでしょう。私は、着物を見て歩くのは好きですが、和服を着たのは、娘の3歳七五三祝いに写真を残すために着たのが最後。 和服を愛する人にとっては、垂涎の江戸時代の着物が並んでいます。 着物の意匠も素晴らしいし、染めの技術も素晴らしい。 私にとって興味を惹かれたのは、「ひな形本」がいっしょに展示されていたこと。 「ひな形本」は、デザイン帖で、江戸の娘たちは、現代の女性たちがファッションブックを眺めるようにしてひな形本に見入り、好みの柄を決めていたのでした。 友禅、絞りも刺繍も、ほんとうに見事な技でできており、美しい。 http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/08vol04kosode/program.html 江戸時代、友禅や絞りの布地は貴重品であり、何度も縫い直され、よくよく小袖として着ることが出来なくなっても、お坊さんの袈裟に仕立て直されたり、表装の額貼りに使われたり、布としての命をまっとうしました。 明治期の画家岡田三郎助(1869-1939)は古衣装の収集家でもあり、彼が収集した染織品は、松坂屋に託されました。 岡田夫人(作家岡田八千代)が着た姿を、三郎助が油絵に描いた作品と、着ていた着物が隣に展示されていました。 岡田八千代は、劇作家小山内薫の妹で、長谷川時雨とともに『女人芸術』を創刊。女流作家の育成にあたった人です。 長谷川時雨のほうは、『明治美人伝』という文庫を繰り返し読みました。 岡田八千代は、作家としては、現代では忘れられた存在になっています。女性文学研究者でもなければ、「彼女の作品を読んだことある」という人は少ないのでは。 しかし、彼女が夫のモデルとして着た着物は、こうして後の世にも伝えられ、三郎助の絵とともに、着た人の人格までも彷彿とさせる色鮮やかさで展示されている。 小袖、一枚一枚に、袖を通した女性たちのドラマがあるのだろうなあと思いながら、たくさんの小袖を見て歩きました。今日の徘徊ミソヒトひな形の小袖模様の蝶よ花よ娘盛りは駆け足でいく2008/11/02ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(2)「世界の藍展」 我が夫は、かって「どんな服を着ても似合う女性と、どんな服を着ても似合わない女性は、何を着てもよいのだ。だから、君は何を着てもいいと思うよ」と、言った。 はい、だから私は、「何を着てもかまわない」生活を貫いております。「夏は裸でなければよい、冬は寒くなければよい」という服装コンセプト。 着る服のほとんどすべて、姉と妹と姑と娘からのお下がり。娘の服は、最近「アタシに無断で縮んでしまう」そうで、いろいろ回ってきます。「服が縮むんじゃなくて、着る人がどんどん太っていくという言い方も出来るよね」と言いつつ、娘のお下がりを着る母。 今現在自分が着る服には、何の興味もわかず、自分の衣装には無頓着ではあるけれど、もしかしたらその代償かもしれぬ「ファッション史」や「世界の民族ファッション」には、興味津々です。小袖展も見に行くし、「パリコレクションの新傾向」なんて新聞記事もすかさずチェック。現代ファッションも、自分が着るのでなく、眺める芸術品としてなら、ファッションショーも「動く彫刻、フィギュア展」 一昨日10月31日、ファッションを学ぶ若者が行き交う文化女子大学へ出かけてきました。「藍染め展」の招待券をもらったから。 新宿駅南口からすぐのところにキャンパスがあるのに、これまで足を踏み入れたことがなかった。博物館は大学に隣接したクイントビルの中にありました。http://www.ozora-net.co.jp/odecal/tokyo/0415.html 藍染めは、世界中でもっとも古くから人々の衣装に用いられ、もっとも広く愛用されてきました。「キング of 染め物」とも言えます。 私の藍染めについての知識は、京都書院発行、吉岡幸雄監修の『日本の藍』というカラー文庫本一冊によっており、この本に書いてあることのほかは、何も知りませんでした。 文化学園服飾博物館1階2階の展示室には、日本及び世界中の藍染めの衣装を展示してありました。アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、ヨーロッパ。世界各地に独特の藍染めがあります。http://www.bunka.ac.jp/museum/text/kaisaichu.html 日本の藍に使われるタデ科の「たで藍」のほか、世界の藍染めには、アブラナ科大青系統、マメ科インド藍系統、キツネノマゴ科琉球藍系統の四つがあります。http://www.studio-tao.com/studio/aizome/aizome.htm 現在はどの地方でも、伝統的な藍染めの技法の後継者がいなくなり、合成藍をつかった簡便な染色方法や機械的にプリントしていく方法にかわってしまった地域も多い。手仕事で藍玉を作り、手染めしていく方法の保存が急務です。 インドネシアンバティックのように、初代大統領自らが「伝統産業育成」をはかった国もあります。大量生産に合うよう、合成藍が使われ、現在のインドネシアでは、天然藍はほとんど使用されていませんが、染織を一大産業にまで発展させつつ、伝統を保持する方向が考慮されてきました。 アフリカやラテンアメリカなど、手仕事の伝統が忘れ去られるだけで、保護育成策がとられていない地域がほとんどです。2008/11/03ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(3)藍染め 世界中の藍染めの衣装、ほんとうに多種多様で、アフリカやラテンアメリカの藍染めの衣装、世界中のさまざまな形と色。藍染めにも多彩な表情があり、染めの技法も数多くありました。 世界の民族衣装では、藍染めの布に丹念に刺繍をほどこした晴れ着が多く、非常に華やかで美しい。 世界のある地方では、藍染めは「忌み色」で、未亡人が身につけるものになっていたり、ほんとうに衣服文化は、さまざまな表情や意味合いを持っています。 グアテマラのソロラという民族衣装、メキシコ・ミステカ族の衣装、アフリカのガーナ、コンゴ、カメルーン、ニジェールなどの民族衣装に使われた藍染めを、楽しく見て回りました。 専門家による藍染めの民族学的研究http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou23/kiyou23_05.pdf 日本の藍染め、一番先に思い浮かぶのは浴衣ですが、それ以外に仕事着として藍染めに丹念に刺し子をして丈夫にしたもの、大漁祝いに着られた祝着など、文様の意匠もさまざまでおもしろかったです。「世界の藍」展の図録を買いました。 展示品の中の参考資料を出展していたのは、埼玉県の染物屋さん。日本の藍染めを知るには、下記のサイトもお役に立ちます。 武州中島紺屋 http://www.izome.jp/ 博物館を出てクイントビルに隣接する文化女子大学キャンパスへ。調べてみたいことがあったので、図書館に寄ってみようと思ったのです。でも、図書館の職員さんは、「学外者は、当学園教員の紹介状がないと閲覧できない」と、つれない。 現在、ほとんどの大学図書館は相互利用ができ、身分証明書があれば入館できるのに、ずいぶんと閉鎖的なんだなあと思いましたが、それぞれの大学の方針なのだから、仕方ありません。 11月2日から始まる文化祭の準備で、夕方のキャンパスはにぎわっていました。造形学科服飾学科の学生達にとって、ファッションショーをはじめ、文化祭の発表は晴れ舞台。新宿駅に近いこともあって、文化祭は毎年大入りなのでしょうね。どんなファッションが舞台をのし歩くのでしょうか。 円形硝子張りのおしゃれな学生食堂で、紅茶ケーキセットをたのみ、休憩しました。 隣でコーヒーを買っていたのは、「染色実習室」での授業を抜け出してきて、一休みしようとしている先生でした。エプロンをつけた先生、助手さんとおしゃべりしながら「え、ここ、4時半までなの?」と言いながら、あいているテーブルへ。文化祭展示へ向けて、学生達の染色作品制作が追い込みにかかったところなのでしょうか。 伯母(母の姉)は、私の姉が生まれたときから、洋裁を習いはじめました。姉に新しい服を誂えることが、伯母の生き甲斐でした。その当時「ドレメ式」と「文化式」のふたつの「型紙の作り方」があり、伯母は文化式でした。伯母は『装苑』というファッション雑誌を定期購読しており、姉は熱心に「装苑」を眺めては、伯母に新しい服を頼んでいました。私はそのお下がりをもらうだけなので、服装への興味は起きようもなかった。 2002年に姉が54歳で亡くなってから、伯母は急速に惚け、それでも姉の死後2年生きて90歳で亡くなりました。伯母がグループホームに入るとき、それまで大事にとっておいた古い『装苑』などはすべて「ゴミ」として処理されてしまいました。今思えば、必要とされるところに寄付するなりすればよかった。若い人が古い時代のファッションを参考にしたいと思ったとき、「教授の紹介状」などなくても、学外者が気楽に利用して古い雑誌を見られるような施設に寄付できたらよかった。 『装苑賞』というファッションの賞があります。賞を出すのは文化学園と文化出版局ですが、応募は文化関係者でなくてもよく、現在服飾デザインを職業としていない、または服飾デザインを職業としてから2年間以内の人が応募できます。高田賢三、山本耀司などがこの賞から世界に羽ばたいていきました。 次に世界へ飛び立とうとするのは、だれになるでしょうか。 文化女子大学の学生食堂のテーブルに型紙をひろげながら、話し合っている若い学生たち。どんな服ができあがるのでしょう。 どんな奇妙奇天烈な服だって、私には着られると思うよ。 世界の先端的なファッションデザイナー、たとえば、マルタン・マルジェラがデザインした「割れた皿を針金でつなぎ合わせたベスト」も、着られるでしょう。なにしろ私は、「どんな服を着てもよい」と、夫の保証付きですから。 マルタン・マルジェラの「ポペリズム」(貧困者風)というデザインは、特に私に似合うはず。 私の衣装は、藍染めでなく、愛染め、、、、って、どんな愛やねん。妻がどんなボロ着てようと、気にもならない愛って、、、2008/11/04ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(4)ジャワ更紗 10月31日金曜日は、出講先の大学のひとつが文化祭準備日で授業は休講。平日が休みになると、ゆっくり美術館なども回れます。 10月31日、藍染め展へ行く前に、大倉集古館で「インドネシアバティク展」を見ました。バティック=ジャワ更紗。インドネシアのろうけつ染めの布です。 私の年代の人なら、北原白秋作詞、山田耕作作曲『酸模(スカンポ)の咲く頃』が載っている音楽教科書を使っていた人も多いと思います。 ♪土手のすかんぼ ジャワ更紗 昼は螢がねんねする 僕ら小学○年生 今朝も通ってまたもどる すかんぽ すかんぽ 川のふち 夏が来た来た ド レ ミ ファ ソ♪ という歌です。 ○年生の○のところは、その音楽教科書を使う学年が入る。私のときは6年生でした。(原詩は♪ぼくら小学尋常科~だったそうですが) 6年生の私は「ジャワ更紗」というのは、いったいどんなものかわからずに歌っていました。「どてのスカンポじゃわさらさ」は、スカンポが風にジャワとゆれ、さらさと揺れる擬音語かと思っていました。 ジャワ更紗の何たるかがわかった今でも、なぜスカンポの歌に突然ジャワ更紗が出てくるのか、意味不明。ご存じの方がいたら、春庭にお教えください。「なぜ?」と思ったら夜も寝られなくなるタチなので。(電車の中で昼寝するけど) さて、大倉集古館のバティック展は、インドネシアと日本の国交樹立50周年記念の催しで、インドネシア大使館、ジョクジャカルタ王宮、インドネシアバティック協会などの後援を得た、たいへん大規模な充実した展覧会でした。 展示監修者である国士舘大学の戸津正勝教授のバティック個人コレクション3000点も協力展示されています。http://www.hotelokura.co.jp/tokyo/shukokan/batik.html 『インドネシア更紗のすべて-伝統と融合の芸術』というタイトル通りの、古今の、そしてインドネシア全地域のバティックを一同に見渡せる、かってない更紗展、見事な作品が並んでいました。 バティックは、もともとインドネシア各地で独自に発達してきたろうけつ染めです。 王宮の公式衣装として取り入れられて以来、色や文様に大きな発達をとげました。 展示は、第1章王宮のバティック、第2章北部海岸のバティック、第3章外島のバティック、第4章農村のバティック、第5章バティックインドネシアと現代の潮流、という地域やテーマごとに展示されており、バティックの地域ごとの特徴と歴史的な流れが、俯瞰できる展示方法でした。 この展覧会は、2007年6月から各地の美術館を巡回してきました。静岡県佐野美術館、町田市立美術館、千葉市美術館、京都市細野美術館などですでに展覧会が終わっています。 最後の大倉集古館での展示は12月21日まで。もんじゃ(文蛇)の足跡ぐいりんさん、スカンポ(すいば)とジャワ更紗の関係について、ヒントをありがとうございます。スカンポが群生しているようすが、ジャワ更紗模様に見えるということみたいです。http://www.wfg-bluebonnet.com/blog/garden-life/2008/05/post_69.html2008/11/05ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(5)インドネシア・バティック展 インドネシアは、ジャワ島、スマトラ島、カリマンタン島をはじめ、大小1万7,500もの島から成る、人口2億4千万人の国です。 宗教は大半がイスラム教徒ですが、バリ島はヒンドゥー教であるなど、様々です。私が昨年教えたインドネシア女性のひとりは、クリスチャンだと言っていました。 公用語はインドネシア語ですが、それぞれの島に多様な文化をもつ民族が混在しており、500以上の言語が使われています。インドネシア語(マレーシアの言語マレー語の方言から発達した言語)を母語として家庭の中で話しているのは、3千万人ほどで、あとの2億人は、日常生活ではジャワ語スンダ語などそれぞれの地域の言語を使っています。 共和国として独立後は、初代のスカルノ大統領が、バティック染色工匠のパネンバハン・ハルジョナゴロを高く評価したことから、バティックが大きな発展を遂げ、今ではインドネシアの一大産業として広く輸出されるに至っています。 500もの言語と多様な民族文化に分かれているインドネシアにとって、バティックという染色文化は、国民のアイデンティティをつなぐ「国民文化」として存在していると言えます。 地方ごとの文化であったバティックを、「インドネシア全土の文化財」として統一させたパネンバハン・ハルジョナゴロは、「バティックの背景には農業を基盤とした神と人が一体化した”肥沃の哲学”がある」と述べています。 彼は、現代バティックが産業化し「バティックの中にある独自の哲学」を捨て去ろうとする動きに批判的な立場をとっています。バティックは、さまざまな意匠をとりこんできましたが、その底には農業を基盤産業としてきた人々のものの考え方ひいては生き方が息づいています。その基層までを捨て去ることは、パネンバハン・ハルジョナゴロには考えられないことです。農業が変化し、農耕生活が人々から遠ざかったとしても、「バティックは、瞑想の訓練や高いカリスマ性を持つ伝統的哲学としての偉大な作品であるべきだ」と彼は述べています。 図録は2500円と高かったですが、これほど充実したバティックコレクションは、次の「日本インドネシア国交樹立百周年」までないかもしれず、買ってしまいました。 パネンバハン・ハルジョナゴロが述べていることばをゆっくり読みたかったという理由も、図録購入の理由です。 今後もバティックはインドネシア独自の芸術・産業として、伝統と新しい意匠を融合させつつ発展していくでしょう。パネンバハン・ハルジョナゴロのいう「バティックの底に流れるインドネシア精神」が受け継がれることを願っています。バティックのいくつかを掲載しているブログをリンクhttp://totemokimagure.cocolog-nifty.com/zakkan/2007/08/post_2c3b.html2008/11/06ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(6)更紗・交流の歴史 水曜日に出講している大学は「創立記念日&文化祭あとかたづけ」で全授業休講。 上野あたりを歩いて見ようかと思っていたのですが、ついついバラク・オバマの勝利宣言演説をライブで15分間、聞いてしまいました。 バラク・オバマの実父がケニア・ルオー族の出身であることは、2008/05/02に書きました。http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200805A 実父がケニア人留学生、母親が再婚した養父がインドネシア人だったために、小学生時代はインドネシアで暮らした、という彼の経歴は、アメリカ有権者によく知られているので、彼の勝利演説で、「黒人も白人も、ヒスパニックもアジア系も、ゲイもレズビアンも皆等しく合衆国市民である」という演説が、効果的に聞こえました。マケインが同じことを言ったとしても、「そりゃ、選挙用のリップサービスにすぎないだろう」と、聞こえてしまうのに、オバマは、出身の点が有利に働いた。 彼は、アフリカ系にもアジア系にも親身になれ、ゆえに他のマイノリティにもきっとよりよい社会を実現するだろうという「チェンジ」の一言が有権者の心に響いたと思います。 娘は「オバマ勝利の感想について、日本の新聞記者は”オバマ勝利を応援してきた小浜市民の一言”とか載せるだろうけれど、私は意味もなくキムタクに取材して、『チェンジ』が期待ほど視聴率上がらなかったことについて語らせてほしいよ」と、言ってました。日本は、「チェンジ」からほど遠い。 さて、バティックは、伝統を維持しつつ、細かい意匠は時代に合わせてチェンジしてきた染め物です。 バティックの歴史のなかで、文化交流の面で興味を惹かれたことがありました。 バティックは中国文様、ヨーロッパ文様などの受容能力が高く、どんどんバティックの伝統模様に取り入れてきました。 オランダ統治時代にはヨーロッパの意匠を取り込み、展示バティックには、「赤ずきんちゃん模様」「天使模様」などがありました。下記URLの左上の図匠が「赤ずきん」http://www.kokushikan.ac.jp/newsevent/2007/batik1.html 日本統治時代には、「大日本奉公会」がバティック制作に関与したため、日本風の文様がろうけつ染めの文様に取り入れられ、「ホーコーカイ様式」というひとつの染め方が定着しました。インドネシア語に「ホーコーカイ」という外来語が定着したのもおもしろいことですし、日本的な文様がインドネシアバティックのなかに取り入れられ定着していく過程もおもしろいと感じました。 帰宅後、図録はパネンバハン・ハルジョナゴロのことばを読んだあとは、ぱらぱらとめくって、様々な意匠を楽しみました。大部で重い図録をゆっくり眺めるのは、「リタイア後の楽しみ」ということにして、本棚にしまいました。 かわりに私の本棚の片隅にあった京都書院発行、吉岡幸雄監修の本、『和更紗文様図鑑』をあらためて眺めました。「和更紗」は文庫なので、寝ながら読むにも重くない。 『和更紗文様図鑑』は、ある駅前の書店で「閉店投げ売りセール」をしていたときに買った「定価の半額」と書いてあったカラー文庫シリーズのなかの一冊。買ってから、ぱらぱらとカラーページをみただけで、読んではいなかった。ジャワ更紗展を見て、そうだ、和更紗の本があったっけ、と思い出しました。 和更紗も多彩な文様が布の中に息づいています。2008/11/07ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(7)和更紗 更紗(さらさ)は、インド起源の木綿地の文様染めものと、印度更紗の影響を受けてアジア、ヨーロッパなどで作られた類似の文様染めの布を指す染織工芸用語。英語ではchintz。木綿が主ですが、絹織物への染色もあります。 日本では、平安以後、染色による文様より織りによる文様表現が盛んでした。最初に糸を染め、布を織り上げる過程で複雑な織り方によって文様を生み出してきたのです。 織物による文様の紹介サイトhttp://www.kariginu.jp/kikata/6-1.htm 以上のサイトの文様を眺めても、織り方で複雑な模様を出す技術に目を見張るものがあります。しかし、絞り染め、板じめ染めなど、できあがった布を染めていく方法では、細かい文様が出せなかった。 室町時代末期から戦国期、南蛮貿易が盛んになった時期、ジャワ(インドネシア)、シャム(タイ)、印度などから更紗(染めによる文様)の布がもたらされました。茶人に珍重され、茶道具の仕覆、茶杓の袋などに使われました。 南蛮貿易が幕府独占となった江戸時代以後、大名家おかかえの染色工房や民間の工房から、和更紗という独自の更紗模様が染め出されるようになりました。鍋島更紗など多様な染色文化が生まれました。 日本では、更紗は高級品の扱いだったので、絹織物が多く、江戸の上層社会に珍重されました。長崎更紗、堺更紗、京更紗、江戸更紗など。 江戸時代中期、1778(安永7)年には、更紗の図案を集成した『佐良紗便覧』が刊行され、更紗模様が普及したことがわかります。 この和更紗の伝統模様が、インドネシア「大日本奉公会」によってバティックに取り入れられ「ホーコーカイ文様」となる。こうして、文化の交流はいつの時代にも、互いの文化をより多彩に豊富にしていくのだなあと感じました。 文化の交流と広がり。いつの時代にも、どの地域にも。 11月は文化祭シーズン。出講先の私立大学のひとつが11月5日、国立のひとつが11月20日、「文化祭休講」になります。11月は、月曜日が2回祝日。休めば給料が減る非常勤講師ですが、体は楽です。 薄給といっても、給与以外の楽しみもあるのが教師のしごと。私の授業でも、「異文化交流」は、楽しみのひとつです。互いの文化を知らせあったり比較したりする異文化交流は、留学生も日本人学生も、楽しんでくれる授業項目です。2008/11/08ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(8)留学生によるバティックの染め方紹介 春庭担当の留学生クラスでは「自国の文化発表会Show&Tell」」というのを行っています。最初に教師から日本文化紹介をして、そのあと、これまで習った日本語を使って、自国の地形風景、文化などを紹介するのです。 学期の終わりごろ、留学生の日本語発表の仕上げとして「自国の文化自慢」を、日本語まだへたな人もうまくなった人も和気藹々で発表します。 先学期も、バングラディシュの男性衣装について、エジプトのピラミッドについてなど、多彩な発表がありました。先学期のクラスには、インドネシアの留学生がふたりいて、女性は「インドネシア料理」の発表、男性は「バティックの染め方」について発表しました。 インドネシアのバンさん、持参のバティックシャツをかかげ、たどたどしくはあったけれど、メモの紙をみながら、一生懸命説明しました。臈纈(ろうけつ)染めの方法について、他の国の留学生も理解することができました。 布の上に防染のために置いた蝋(ワックス)は、どうやって取るのか、という質問がクラスメートから出て、「水をお鍋に入れます。熱くします。お湯になります。え~と」と、説明に困ったようすです。 「湯をわかす」「~が~に溶ける」という表現をまだ習っていませんでした。「お湯をわかして、布を煮ます。蝋がお湯に溶けます。It melt in hot water。蝋がなくなって、綺麗な模様が見えます」と、教師が助太刀。 パキスタンの伝統的な絞り染めについての発表など、留学生の文化発表のようすは、HP『話しことばの通い路』の「日本語教室はあいがいっぱい」に記録してあります。http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nippongoai0608a.htm 今は出講しなくなった大学で、過去12年間、留学生の「日本事情」という科目を担当していました。「自国と日本の交流史」というコーナーを設定して、留学生に自由なテーマで発表させてきました。「饅頭伝来記」「算盤の日中比較」「台湾にダムを作った八田與一」「和琴と中国琴の比較」など、それぞれの学生が日本と自国の交流を生き生きと紹介してきました。 昨年中国へ赴任するとき、この大学の日本語学科から「半年間休むというなら、来期からの再任はない」と言われて、残念ではありましたが、「再任なし」を受け入れました。 文化交流を学ぶ授業実践の場がなくなり、寂しかったですが、どうしても中国で仕事をしたかったので、やむをえませんでした。 どれほど熱心に授業をして、学生からの支持があろうと、大学にとっての私は、「いくらでも補充がきく語学教師」のひとりにしかすぎません。非常勤講師ですから。 中国へ行くことで失った私立大学2コマ、国立大学2コマの授業は、別の国立大学の授業が5コマもらえたので、収入が大きく減ることはなかったのですが、それでもやりがいのあった日本事情の授業がなくなったことは寂しいです。(現在、週5日。2つの私立大学と2つの国立大学で、週11コマ7種類の授業をこなす毎日で、以前より仕事量は多くなったのですが、がんばって働いています) 文化交流の授業は、留学生にとっても日本人学生にとっても、自国の文化を見つめ直し、異文化を広く受け入れる気持ちを養成することができる大切な分野だと、私は思っています。 「日本事情」のクラスはなくなったけれど、現在は、日本人学生の「日本語教育研究」の一部「異文化受容と日本語教育」「日本の歴史や文化を日本語授業のなかでどう教えるか」という項目に関連させて「日本の文化交流史」の発表をさせています。2008/11/09ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(9)唐草模様は世界をめぐる 日本人学生による文化交流発表。今期10月29日には、「中国から伝来した金魚」という男子学生2年生(クラス内での呼び名は本人希望によりキムチ君)の発表がありました。 紀元3世紀の中国で、鮒(チィ)から突然変異によって金魚が発生し、その後中国で金魚の品種改良が続けられました。室町時代に日本に伝来して以来、江戸時代には庶民の間に普及して品種改良が続けられ、さまざまな金魚が生まれた、という発表で、興味深かったです。 学生発表に付け足せば。 文化革命時代「金魚飼育などは、ブルジョアの趣味」として下火になり、中国における金魚飼育の伝統が途絶えてしまいました。しかし、日本の「金魚飼育」の方法を伝えることで、現在は、中国にも古来の「金魚飼育趣味」が復活して、人々の文化財産になっている。これも「交流」のおかげです。 金曜日の私のクラス。留学生文化発表会、次回は来年の1月ころになるだろうと思います。10月からスタートした初級クラス、1ヶ月たっても、ひらがなカタカナがうまく読み書きめない学生もいます。日本を「にはん」と書いたり、四月、九時が「よん月、きゅう時」になったり、四苦八苦して日本語習得につとめています。 今期の学生、ミクロネシアの島の出身者や、クエート出身の留学生がいます。インドネシア留学生もふたり。ラテンアメリカからチリの女性、アフリカからガボンの女性、ケニアの男性。 かっての文化紹介で、ミクロネシアの島の楽器や、クエートののコーラン朗唱を知ることができました。 日本ですっかり自信をなくしてしまった南の島の数学の教師兼酋長さんが、自国の楽器アウニマコをクラスメートに紹介し、誇りを取り戻す姿を見たこともありました。 今度はどんな文化を紹介してもらえるのか、楽しみです。 10/07の「和更紗」について、:kazukomtngさん から、質問がありました。 「あの・・・泥棒の風呂敷のマークは何文様なのでしょうか?手仕事には温かみがありますね。」(2008-11-07 21:33) かって、芝居などでは泥棒は必ず唐草模様の風呂敷に盗品を包んで逃げることになっていました。唐草模様は、風呂敷に限らず、広く用いられました。http://item.rakuten.co.jp/karakusaya-r/c/0000000100/ この唐草模様は、ツタがつるをのばして絡み合うのを図案化しています。古く、メソポタミアやエジプトの古代文明の遺跡遺物にも蔦葛(ツタカズラ)文様が見られ、ヨーロッパでは、このつたかずら模様を、「アラビア風模様」という意味で「アラベスク」と呼んでいます。 日本へはシルクロードを通って、ペルシャから中国へ伝わった文様として伝来しました。ペルシャ風ツタカズラ文様が簡略化され、「繁栄を表す吉祥文様」となったものが唐草文様です。泥棒がこの文様の風呂敷を好んだとされているのは、悪事凶事である「窃盗」を、吉事に変えて包みたいという心理が働いたのかもしれません。 このように、文様ひとつをとっても、文化の諸要素は世界とつながり、関わり合っています。 藍も更紗も、音楽も物語も、世界中をめぐりめぐって、影響し合い、豊かな文化世界を作り上げています。一枚のスカーフも腰巻きも、ブラウスも小袖も、縦糸横糸は縦横無尽に世界をかけめぐり、世界模様を描いてきました。 「布を見る」シリーズ、一枚の布も、世界のさまざまな人々の手と手がつながっていることを感じながら見ることができました。<おわり>2009/03/08 ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(10)モリスのアーツ&クラフト 産業革命後の英国近代化がビクトリア朝で華やかな成功を収めていた頃、労働者たちはゲゼルシャフトもゲマインシャフトもわからないまま貧困と重労働にあえいでいました。 そのような時代に生きたひとりのマルクス主義者。ウィリアム・モリス。 モダン・デザインの父ウィリアム・モリス(William Morris, 1834~1896年)は、19世紀イギリスを代表するアーティストです。産業革命後の機械文明突入の中で、手仕事のよさを失うことなく、美しいデザインによる「生活のなかの芸術」を目指しました。モリスの提唱した「生活のための芸術アーツ&クラフツ」は、20世紀デザインの基本概念となりました。 モリスは株仲買人の父から豊かな財産を相続し、デザイン・工芸品を売るためのモリス商会も成功しました。一方、産業革命後の工業化のために手仕事を失った人々は、底辺労働に従事するプロレタリアートとなって苦汗労働にあえいでいました。モリスは労働者の生活に心をくだき、晩年はマルクス主義者として活動しました。カール・マルクスの娘、エリノア・マルクスらと社会主義思想のために、民主同盟、社会主義同盟、ハマスミス社会主義協会によって社会を変えようとしました。ハマスミス社会主義協会は、ロンドンの工藝職人たちに啓蒙的な活動を行って、彼らとともに心豊かな共同体を作る理想を持っていました。 モリスの労働観・芸術観は、日本の民芸運動に強い影響を与えたことが知られていますが、宮沢賢治の農民芸術論や羅須地人協会にも影響を与えたであろうという説があります。モリスの「民衆とともに生活を芸術に高める」という思想は、20世紀の社会に種をまいた、と言えます。 2009年2月18日「あと、授業は明日19日のテスト返しだけ」という日。なにか自分のために「今期もよく働きました。お疲れさん」という「一人打ち上げ」をしたいと思い、「布を見る」の続きをしました。働いたあとは、何か楽しいことをして長時間労働に従事してきた自分を「ご苦労さん」とねぎらってやらないと。 さて2月18日に見た、「布・織物染め物手仕事」は、東京都美術館の「生活と芸術アーツ&クラフツ ウイリアム・モリスから民芸まで」展と、庭園美術館の「ポワレとフォルチュニィ20世紀モードを変えた男たち」のふたつ。 今回のシリーズは、2008年11月に連載した「布を見る」の続篇です。 2月18日午後は、東京都美術館に行きました。 http://www.tobikan.jp/museum/arts_crafts.html 「いちご泥棒」と名付けられた小鳥が苺をついばんでいるデザインの壁紙。大量生産化の中でも美しさを追求した食器、テーブルクロス、タペストリー、布地とドレスなど、あらゆる生活シーンでのデザインが並んでいる中、モリスのケルムスコット屋敷の再現や、日本版アーツ&クラフツである「民芸運動」のひとつの頂点をしめす「三国荘」の居間の再現が目をひきました。 <つづく>2009/03/09 ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(11)モリスのクッション 展示品解説のオーディオを借りて聞きながら歩きました。「生活のため、労働者のため」というデザインも、いつの間にか「高級品」となって民衆には手の届かない品になっていった、という解説を聞くと、百円均一ショップのテーブルウェアやスカーフなどを愛用している私には、モリスデザインの製品はどれも労働者には縁遠いものに見えます。 モリスは理想主義的に労働者の生活を改善しようとしてマルクスの思想に共鳴したのだろうけれど、やはり彼自身はビンボウ生活とは無縁であったのだろうなあ、と思ってしまい、美しい生活用品を見ながらまたまた、ひがみやっかみねたみそねみで歩いたのでした。 日本のアーツ&クラフツ運動は「民芸運動」と呼ばれる活動が中心でした。柳宗悦が朝鮮半島の日常食器に美を見いだし、芹沢介が琉球紅型を芸術に高め、数々の民芸品が「美」の対象として再発見されました。 私は駒場の日本民芸館へ何度も出かけては、琉球紅型やアイヌ刺繍の古布などを見てきました。民芸運動が沖縄紅型やアイヌ刺繍の布などに美を見いだし、「田舎の布切れ」から芸術品へと認めさせてきた功績は大きい。 東京都美術館の「生活と芸術」展の目玉のひとつが、「三國荘の部屋再現」です。柳宗悦らが1928年に博覧会展示館として民芸運動のあり方を示した建物が三國荘でした。博覧会終了後、アサヒビール初代社長に買い取られ、現在は美術館になっています。http://cdn.asahi.com/kansai/photo/news/OSK200809120101.html 駒場の日本民芸館で見てきたのと同じような、器や布地ですが、三國荘のセットのなかで生活している姿そのままに再現されると、座布団の布地からテーブル掛けまでガラスケースの中に鎮座している姿とは違う、生活感の中に落ち着いた美しさを見せてくれます。 生活感ある展示といっても、我々風情には手も出せない値段だろうなあと、ミュージアムショップでも、さっと値札を眺めただけ。 モリスデザインによる布地のクッション、50×50cmで、ひとつ6000円、いやいや、クッションひとつに6千円払うような身分ではありませぬ。百円ショップの品もときに気に入りのデザインも見つかります。といっても、こちらはこちらで、百円で売るためにはこれを作っている人の労働賃金はどれだけ搾取されているのかって気分にもなるんだけどね。労働者の搾取!聞け万国の労働者。 労働を終えた労働者が「ひとりお疲れさん会」で楽しい気分になって帰ろうと思ったのですが、なんだか高嶺の花にひじ鉄くらった気分で会場をでてきました。「生活の中の芸術」ってやっぱりウチらには手がとどかない。 6千円のクッションひとつでビビってわびしい思いするより、いっそのこと、庶民には縁のない話のほうが、気楽。イヴ・サンローラン(フランスのモードデザイナー)の遺産、競売で売れた美術品だけでも463億円。マチスの絵「黄水仙と青・ピンクの敷物」が1枚で38億円、というほうが、金額が途方もなくて腹も立たない。とはいえ中国政府は腹を立てているんですけれど。次回は苺どろぼうと円明園泥棒<つづく>2009/03/10 ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(12)苺泥棒と円明園泥棒 サンローランコレクションの出品者ピエール・ベルジュは、サンローラン社の元会長で、イヴ・サンローランの公私にわたる長年のパートナーでした。ピエールは、二人三脚でサンローランのデザインを世界的なモードにし、ふたりして50年にわたって美術品を収集してきました。 イヴが2008年6月に亡くなり、ピエール・ベルジュは相続した美術品のほとんどをクリスティオークションで売り払うことにしました。オークション収益金の一部はゲイ・コミュニティーやエイズ研究に贈られるそうです。一部ってどれくらい?あのぅ、日本の貧乏な教師に贈られる分なんて、ないでしょうね。ほんの一部でいいんだけれど。ぱちもんYSLロゴのスカーフでも買いますから。 150年前、モリスは結婚の翌年1861年に、モリス・マーシャル・フォークナー商会を設立し、ステンドグラス、家具などの制作販売をはじめました。「苺どろぼう」と名付けられたデザインの壁紙やカーテンなどは、大人気商品となりました。150年たっても、同じデザインの商品がスカーフやブックカバーになって売られています。 イギリスでモリスのアーツ&クラフツ製品が売れ出したころ、中国は1842年のアヘン戦争後のドサクサ時代。清朝末期の混乱の中、円明園は1860年に英仏連合軍によって焼き討ちされ、円明園内の大量の美術品が国外へ流出しました。私は1994年に北京に滞在したとき遺跡公園としてにぎわっている円明園を訪れ、往時をしのびました。 円明園からの略奪美術品のうち、ブロンズ十二支動物像がサンローランのコレクションに含まれていました。中国側は「盗まれた文化財は国際法で返還が義務づけられている」と主張しましたが、フランス裁判所はサンローランコレクションのネズミとウサギの頭部像の競売出品を認める判決を下しました。 モリスデザインの代表作「苺どろぼう」のデザインパテント、モリスの死後誰が管理しているのだろう。意匠権は20年著作権は死後50年保護されますが、モリスが亡くなって113年も経っていますから、使いたい放題?使ったもん勝ち。 円明園泥棒の一件。「盗まれた文化財は国際法で返還要求できる」というほうも、どうやら100年200年たつと時効みたい。よくわからないけれど、円明園のウサギとネズミは2800万ユーロ、37億円で売れました。売ったもん勝ち。 「生活と芸術モリスから民芸まで」展は、各地を巡回しています。2008年9月~11月は京都国立美術館で、開催されました。東京都美術館が2009年1月24日~4月5日、愛知県美術館6月5日~8月16日です。<つづく>2009/03/11 ぽかぽか春庭@アート散歩>布を見る(12)モードの迷宮で夜会 18日の午前中は、庭園美術館へ行きました。http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/poiret/index.html 建物調度全体がアールデコで作られている元朝香宮邸。美術館になって地下鉄一本で行けることもあり、庭園も建物も美しいので季節ごとに訪れています。企画展は、絵画のほかジュエリーやモードの展示もあり、庭と建物と展示がいつもよく調和しています。 下記URLで邸内とよく調和した展示の方法をみることができます。展示のコンセプトは「夜会」http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/poiret/index2.html#03 ポール・ポワレ(1879~1944)は、パリで生まれ傘職人からスタートし、オートクチュールの創始者ウォルトの店で働いたのち独立。「手の届く高級ドレス」を売り出して成功しました。彼は日本の着物やアジア地域の布地やデザインを取り入れた着やすく動きやすいドレスをデザインし、19世紀を席巻した「固いコルセットをしめつけて女らしさを強調するドレス」から女性を解放しました。 女性にとって「革命的」とも言われたコルセットなしのラインによって、20世紀モードは大きく変化しました。 ウォルト、ポワレ、ココ・シャネルの3人は、近代的ファッショを仕立てあげた「20世紀モード」の先駆者です。 ポワレと同時代人のマリアノ・フォルチュニィ(1871~1949)も、20世紀モードを語るとき、欠かせない人物です。スペイン・グラナダの生まれ。古代ギリシャの衣装からプリーツの布地を使った斬新なデザインで注目されました。デルフォスと呼ばれるプリーツドレスと、中東スルタンの衣装を取り入れたコートが特に有名です。 しかし、フォルチュニィは基本的には「衣装デザイナー」ではなく、絵画彫刻インテリアデザインにも才能を発揮したアーティストなので、作品数は多くありません。ココ・シャネルが日本でも有名であることに比べると、専門家以外にはほとんど知られてこなかった人でした。私もはじめてフォルチュニィのドレスを見ました。1985年「布に魔術をかけたヴェニスの巨人フォルチュニィ展」が行われた、というときには、子育てと2度目の大学入学で、「モード」どころではなかった、ということもありましたけれど。 結婚以来、姉、妹、伯母、姑からのお下がりの服ばかり着てすごし、「モード」などということに目がいくようになったのは、鷲田清一の『モードの迷宮』をちくま学芸文庫で読んでから。 アートとしてのモードには興味がありますが、今でも家では娘息子が「衿がよれよれになったので、もう着られない」というお下がりのTシャツと娘が「私に無断で縮んだ」というスエットパンツですごし、出かける服は妹や姑のお下がり。今年着ている黒のダウンコートは、1994年にいっしょに中国で働いた旧友が「デザインが気に入ったのだけれど、Lサイズでは私には大きすぎたので、よかったら着てね」と、大阪から送ってくれたもの。この冬、暖かくて重宝しました。 夫が、私にむかって「何を着ても似合う人と何を着ても似合わない人は、何を着てもかまわない」と言った、という話は何度かしたけれど、以来「私は何を着てもいい女性」として、何でも着ています。よれよれTシャツでも♪ボロは着てても心は錦、です。 夫の言う「何を着てもかまわない」の2種類の女性のうちのどちらにあたるのか、なんてツッコミは無用。言わずともわかる、私は何を着ても、似あ~<おわり>
(1)近代美術館散歩・日本彫刻の近代(2)近代彫刻の女性像(3)女性芸術家(4)モデル智恵子(5)ゆっくり東京女子マラソン2008/05/23 ぽかぽか春庭@アート散歩>近代を駆けた女性たち(1)近代美術館散歩・日本彫刻の近代 駒込六義園、小石川植物園、白金の自然教育園、竹橋の近代美術館周辺は、私のお気に入りの「お散歩スポット」。四季折々に園内の散歩を楽しんでいる。 私の好きな「煉瓦造り近代建築」もセットにして歩き回る。 自然教育園の隣の庭園美術館は、元朝香宮邸だし、白金医科研の古い校舎のまわりを歩くと、伝染病研究所時代の古い物語が浮かんでくるようなたたずまいを味わえる。 小石川植物園には、東大現存最古の学校建築である旧東京医学校本館が、総合研究博物館分館として公開されている。 近代美術館別館の工芸館は、元近衛師団司令部の煉瓦建築が美しいし、お堀端の水の光景もよい。 東御苑で江戸城天守閣跡に立つのも、「殿中でござる」の松の廊下の跡をながめるのも、大奥の跡をたどるのも、楽しい歴史散歩になるし、往時の武蔵野風景を残す東御苑の木々の間を歩くのも好き。 2007年11月18日は、皇居東御苑と近代美術館散歩を思い立った。 晩秋のぽかぽか陽気、小春日の一日。 大手門から東御苑に入り、三の丸尚蔵館を見て平河門にぬけるコースを歩くことにした。 地下鉄の駅を出ると、大手門の前を東京国際女子マラソンの選手たちが走り抜けているところに出あった。 即席応援団になって、選手団のラストを走る女性を応援した。というか、ラストの選手が走り終えるまで交通規制で、大手門側へ渡ることができなかったので。 びりから3番と2番の人は、苦しげに顔をゆがめて走っていたが、びりっけつの人は、にこにこして「応援ありがとう、ありがとう」と、手を振りながら走っていた。マラソンを楽しむ市民ランナーなのだろう。招待選手以外の市民ランナーは450人。 トップランナーたちは、はるか先を走っている。優勝は、野口みずきだった。 竹橋の近代美術館の企画展は、「日本彫刻の近代」 高村光雲の「老猿」や息子の光太郎の「手」、荻原守衛「女」など、美術の教科書に必ず載っている彫刻作品や、日本の近代彫刻に大きな影響を与えたロダン、ブールデル、マイヨールなどの作品が展示されていた。 荻原守衛「坑夫」朝倉文夫の「墓守」や、佐藤忠良「群馬の人」など、近代彫刻の代表作が並べられている。 私の彫刻鑑賞は、美術鑑賞というより、「勝手な物語を作りながら、彫刻の顔をながめる」というミーハー鑑賞法。 ラグーザの「日本婦人」の前では、「このモデルはお玉だろうなあ」と、思って、お玉がラグーザとともにすごした明治の東京やイタリアを想像する。 ラグーザは日本滞在中に玉をモデルとした「清原玉女像」も制作している。<つづく>2008/10/17 ぽかぽか春庭@アート散歩>近代を駆けた女性たち(2)近代彫刻の女性像 ラグーザ玉(1861~1939)は、明治日本で最初に「女性洋画家」となった人。 玉の夫、ヴィンチェンツォ・ラグーザは、明治の「お雇い外国人」のひとりである。 イタリアで新進彫刻家として高い評価を得たあと、1876(明治9)年に来日。1882(明治15)年まで工部美術学校(東京芸術大学の前身)で、洋画や彫刻指導にあたった。 玉は、芝に生まれ、ラグーザに弟子入りした。 ラグーザの本国帰国の際には周囲の反対を押し切って、20歳年長の「先生」に同行し、イタリアのシチリア島へ渡った。 シチリア島のパレルモでラグーザと結婚し、夫とともにパレルモ芸術学校で後進を指導した。 夫と死別した後、日本に戻り、洋画家として活躍した。 荻原守衛、号は碌山ろくざん。1879(明治12)年~1910(明治43)年。 「女」は、近代彫刻のなかで最初に重要文化財の指定を受けた作品。 近代美術館の所蔵品であるから、美術館を訪れるたびに毎回見ている。いつもは絵画を中心に見ていて、この「女」の前は横目で見てタッタッと駆け足ですぎる。 しかし、近代彫刻が歴史的に並んでいるこのような彫刻展のなかにあると、やはりそこだけ光を放つような存在感が際だつ。 「女」の直接のモデルは、素人モデルの岡田みどりという女性。 しかし、守衛がそこに表現したのは、彼がひそかに思いを寄せていた新宿中村屋の相馬黒光の姿だったと伝えられている。 黒光のこどもたちも、この像を一目見て「かあさんがいる」と思ったといい、黒光自身も、自分の内面を守衛が形にした像であることを確信した。しかし、その時、すでに守衛は30歳の若さで不帰の人となっていた。 相馬黒光について、私は臼井吉見の『安曇野』全5巻のなかに表現された黒光を知っているだけで、自伝を読んだこともないのだけれど、近代女性のなかでは実に希有な「自己実現と実業と夫との家庭生活」を鼎立してやり遂げた人に思う。 新宿中村屋の創業者にして、文化サロンの主宰者として芸術家たちのパトロンになった女性。 「女」が、近代女性の毅然とした美しさを表現し得ているのは、黒光の人間性を荻原守衛が深く理解し、黒光の内面に共鳴していたからだろうと思う。 近代彫刻の傑作群のなかを歩きながら、思ったこと。 近代日本美術の黎明期。江戸のなごりをつなぐ南画の奥原晴湖は別格として、ロシアイコン作家の山下りん、洋画の清原ラグーザ玉などの女性芸術家が近代の揺籃から輩出した。 しかし、彫刻の分野では現代になるまで女性作家が出なかったなあ、と思った。 体力的に、彫刻は女性には向かないと思われていたこともあるのだろう。<つづく>2008/10/18 ぽかぽか春庭@アート散歩>近代を駆けた女性たち(3)女性芸術家 西洋では、ロダンの弟子にして愛人だったカミーユ・クローデル(1864~1943年)の彫刻作品がある。 カミーユ18歳のとき、43歳のロダンに出会い、弟子入り。 ロダンの代表作のひとつ「パンセ(想い)」は、カミーユがモデルとなった作品。カミーユは、ロダンの彫刻へ強い影響を与えた存在でもあった。やがて師を圧倒するほどの作品を生み出すようになる。 しかし、カミーユは、女性であるがゆえに芸術家として認められないことへのストレスに加え、ロダンに裏切られて、1905年、41歳のころ、精神のバランスを崩した。 カミーユの80年の生涯のうち、1905年以後、亡くなるまでの38年は、精神病院に閉じこめられてすごした。 カミーユを案じていた母は、1920年に亡くなり、姉カミーユを支えていた弟、詩人のポール・クローデルは、1921年に日本駐在フランス大使として赴任し、遠く隔たってしまった。 精神病院ですごすカミーユを支える人はいなくなり、孤独のうちにカミーユは亡くなった。 私のカミーユへの理解はイザベル・アジャーニ主演の映画『カミーユ・クローデル』の内容以外に知らないので、勘違いな部分もあるだろうが、彼女が「絵画」という媒体を選んだなら、病院の庭で孤独にすごした後半生とは異なる一生もありえたかも知れないという気がする。 「女だから」と、芸術へ向かうことを押さえ込まれ、自らの芸術への志向を押し曲げねばならなかった近代の女性たち。 たとえば、高村光太郎の妻、智恵子。 光太郎自身の筆による「智恵子の半生」に描かれている智恵子の姿。。 新婚の夫と妻がふたりして油絵に取り組んでいる。しかし、女中をおく余裕のない家で、腹が減ればどちらかがご飯を作らなければならない。 妻はしだいに自分の絵をあきらめ、夫が制作に費やす時間を確保すること、夫を支えて家事いっさいを引き受けることに生活の満足を見いだすようになった。 光太郎は、それを智恵子の自発的な決断だった、と書いている。そうなのだろうか。智恵子の本心からの選択だったのだろうか。 夫を支えるのが良妻でありそれ以外の人生はないと教え込んだ明治の「良妻賢母養成教育」を受けた女性が、家事を優先させて欲しいという夫の要求を押しのけて芸術の道を走り続ける方法があったのだろうか。 自分なりの歩調で、自分なりの歩幅、で歩いて行ける時代ではなかったように思うのだ。 ふたりは「事実婚」の先駆者で、1911年に出会い、結婚披露宴は1914年に行っているが、入籍したのはそれから22年後の1933年。智恵子に統合失調の症状があらわれはじめ、自殺未遂をおこした翌年のこと。<つづく>2008/10/19 ぽかぽか春庭@アート散歩>近代を駆けた女性たち(4)モデル智恵子 高村光太郎の彫刻は、「手」が有名だ。モデル(?)は、自分の手。 光太郎の作品というとき、詩はいろいろ思い浮かぶのに、彫刻作品では、「手」以外に、さあ、何を見たことがあったんだっけ。と、思っていたら「日本彫刻の近代」に光太郎の裸婦座像が出品されていた。「裸婦座像」は、30cmほどの小さな像で、「手」と同じ年の制作、1917(大正)年。智恵子と結婚して3年後のことだ。http://picasaweb.google.com/jknudes/JapaneseNudes/photo#5080455570838415506 十和田湖畔にたつ「乙女像」は、晩年の光太郎が情熱を傾けた作品であり、亡き智恵子の面影を追いながら制作されたという逸話がよく知られている。 しかし、若い頃の作品「裸婦座像」のモデルがだれであったのか、調べてみても、記録がみつからない。 光太郎72歳になって、「モデルいろいろ」というエッセイに書いていること。 「日本に帰ってきてから四、五年は乱暴な、めちゃくちゃな迷妄生活を送っていたが、そのうちに智恵子と知るようになり、大正3年結婚したので、あんまりぐうたらなモデルは雇わなくなった。 智恵子との結婚によって経済上の不如意はますますひどくなった。父からの補助はなくなり、彫刻を金銭にかえる道がうまくつかず、原稿かせぎもあわれなものだし、身をつめるほかなかった。モデルも極くたまにしか使えなかったのである。 その上、あれほど聡明な女性であった智恵子でも、私がモデルを使うことを内心喜ばなかった傾きのあることを知ってから、尚更モデルを雇うことが少なくなった。 智恵子も進んでモデルになった。智恵子の体は実に均整のいい、美しい比例を持っていたので、私は喜んでそれによって彫刻の勉強をした。智恵子の肉体によって人体の美の秘密を初めて知ったと思った。 かなりの数を作っている。全身だの、部分だの、トルソだの、クロッキーだの、それもみな今度の戦災で焼けてしまった」 この記述から見るかぎりでは、結婚3年目の裸婦座像のモデルは、「とぼしい稼ぎのなかから、智恵子が喜ばないのを承知で雇ったモデル」の女性であったのか、智恵子なのか、わからない。 もし、裸婦座像のモデルが智恵子であるのなら、光太郎がひとこと言い残していてもよさそうなのに、と、思う。裸婦座像の均整のとれた美しい肢体は「智恵子の体は実に均整のいい美しい比例を持っていた」と、光太郎が書き残したとおりなのだが、像の顔は、写真に残る智恵子とは別人のようにも思える。 わかるのは、たくさん描いたスケッチやクロッキー、制作したトルソなど、智恵子をモデルとした作品が、戦災ですべて焼けてしまった、ということだけ。 近代という時代を、黙々と走り抜けていった女性たち。 颯爽と走った者もいただろう。最後尾を苦痛で顔をゆがめながら、一歩一歩と足を運んだ者もいただろう。 「日本彫刻の近代」展、さまざまな思いを抱きながら、彫刻の間を歩いた。<つづく>2008/10/20ぽかぽか春庭@アート散歩>近代を駆けた女性たち(5)ゆっくり東京女子マラソン 近代という時代を、黙々と走り抜けていった女性たち。 颯爽と走った者もいただろう。最後尾を苦痛で顔をゆがめながら、一歩一歩と足を運んだ者もいただろう。 「日本彫刻の近代」展、さまざまな思いを抱きながら、彫刻の間を歩いた。 私は、近代史を駆け抜けた女性たちに思いを寄せてすごすことを好んでいる。 評伝や自伝、小説の主人公として彼女たちの物語を読んできた。 明治の女性作家。『樋口一葉日記』ほか、数々の一葉を主人公にした小説、伝記。 田沢稲舟については2冊のみ。伊藤聖子の評伝『田沢稲舟』大野茂男の『論攷 田沢稲舟』。 最初の女子留学生ふたり。大庭みな子の『津田梅子』、久野明子の『大山捨松-鹿鳴館の貴婦人』 女性画家、大下智一の『山下りん―明治を生きたイコン画家』。 作家、教育者、社会運動家。林真理子の『ミカドの女(下田歌子)』、臼井吉見の『安曇野(相馬黒光)』、高群逸枝『火の国の女の日記』、平塚雷鳥『元始、女性は太陽であった らいてう自伝』、市川房枝『自伝(戦前編)』、永畑道子の『華の乱(与謝野晶子)』 また、長谷川時雨『近代美人伝』に描かれた、川上貞奴(女優)、松井須磨子(女優)、九条武子(歌人)、柳原子(歌人)らの生涯も深く心に残る。演劇、短歌などの自己表現と人生における自己実現に命を賭けた女性たち。 画家では、江戸から明治初期に活躍した南画の奥原晴湖も忘れがたい。 心に残る女性たちとは、何らかの功績を残し顕彰されている人だけではない。 管野すが、金子ふみこ、伊藤野枝ら、近代国家権力にあらがった女性も好きだ。 管野すがについて、岩波新書『管野すが・平民社の婦人革命家像』や、瀬戸内寂聴の『遠い声』を読んだ。 金子ふみ子『何が私をこうさせたか』、瀬戸内寂聴の『余白の春』。 伊藤野枝については、瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読んだだけで、彼女自身の著作を読んだことはない。 無名の女性たちの名を知ることができるのは、多くの場合、裁判記録や新聞の犯罪事件報道によるので、おおかたは悲しい一生をおくった女性の人生を知ることになる。 近代女性史の登場人物のなかで、子育ても順調で、自己実現も果たしてという「両立組」は、相馬黒光、与謝野晶子、平塚雷鳥くらいかな。 近代という時代は、女性にとっては、とても厳しい時代だった。行きづらい時代のなかを、懸命に走り抜けた女性たち、ひとりひとりの人生が、私は好きだ。 東京国際女子マラソン。2008年の第30回大会を最後に、「東京女子マラソンレース」の開催は幕を閉じるという。 2007年は、最後から2番目の大会だった。 大手門前のマラソンコースを、颯爽と走り抜けたトップランナーたち。 最後尾、苦しげにラストを走っていた人、楽しげにびりっけつで走った人。 それぞれの走り方はあっただろうが、彼女たちは「女性がマラソンに挑戦するなど無謀だ」と言われた時代もあったことなど、まったく感じさせもしないで、お堀端を駆け抜けていった。 今、マラソンの分野でも芸術の分野でも「女だからダメ」といわれることはない。 みな、のびのびと走り、芸術表現にたちむかう。 現代彫刻の分野では、たくさんの女性たちが活躍している。 「表現者」としての女性がおらず、「モデル」としてしか女性がいなかった近代彫刻の数々をみながら、近代美術のトップランナーとなった女性たちを思った。 さまざまなドラマを抱えて、自己表現に生涯をかけた人々、もくもくと走り続けたのだろうなあ。 月日、北京オリンピック女子マラソン各国の女性たちが、力の限り走り抜けた。 北京オリンピックに決まった、土佐礼子選手、野口みずき選手、そして中村友梨香選手、北京の空の下、颯爽と走ってくれました。<おわり>
(1)近代絵画にみる自然と人間(2)積み藁と落ち穂拾い(3)藁塚放浪記(4)「ジヴェルニーの積み藁夕日」と「三丁目の夕日」(5)志によって築く藁塚2008/10/01ぽかぽか春庭@アート散歩>田園讃歌(1)埼玉県立近代美術館・近代絵画にみる自然と人間 各地の県立美術館には、その地方出身の画家の絵などが集められていたり、県展、市民絵画展など、地方の特色を生かした展覧会が開かれることが多い。 目玉となる「客が集まる絵」は、だいたい一館に一作くらい。 山梨県立美術館には、ミレーの『落ち葉拾い』がある。 埼玉県立近代美術館には、モネの「積み藁・夕日」がある。 だが、最近はどこも地方財政緊縮のあおりを受けて、「今年度の新作購入は予算ゼロ」という美術館も多い。 2007年秋、埼玉県立近代美術館で「田園讃歌」というテーマの展覧会を見た。(会期2007年10月27日(土)~12月16日(日)。北九州市立美術館、ひろしま美術館、山梨県立美術館の4館共同企画だ。 「田園讃歌・近代絵画に見る自然と人間」 4館の所蔵絵画・写真を集めた企画で、近代絵画のなかで、「田園風景」をテーマにしている。 キュレーターのセンスが展覧会の善し悪しを左右する最近の美術展のなかでも、とてもまとまりのよい、すぐれた作品の集め方がなされていると感じた。 山梨県立美術館所蔵のミレー「落ち穂拾い」と、埼玉県立近代美術館所蔵のモネ「ジベルニーの積み藁・夕日」の2点を核に構成されている。 「田園風景の美」は、近代になって発見された。 「田舎のけしき」なんて、大昔からそこにあったものだ。農業がはじまったときから、農村風景というものは、存在したし、農耕儀礼の絵や耕作収穫の絵は豊饒祈願の宗教絵画として、メソポタミアの時代から残されている。 しかし、その景色を「美の対象」として画家が意識して眺めるようになったのは、農村の時代から産業都市の時代へと移り変わって以後のことである。 マリーアントアネットがベルサイユ宮殿のなかに「プティトリアノン」と呼ばれる「農村のままごと」を行う場所をつくり、自ら農婦の衣裳を着て農村ごっごをした、というころから、ブルジョア層に田園趣味が広まった。 近代国民国家が成立して以後、市民層が絵画を買うようになってからは、かっての宗教画にかわって風景画の購入が喜ばれるようになってきた。 近代とは、「田舎を美の対象として眺める目をもった時代」でもある。 ミレーたちがバルビゾン村へ移り住んだのも、世が「産業都市の時代」へとなっていたからこそ、意味のあることだった。 日本の美術愛好者にとって、ミレーの「落ち穂拾い」は、図工や美術の教科書で眺めてきた「絵画の代表作品」のように感じる作品のひとつだ。リンクは、オルセー美術館所蔵のもっとも有名な作品http://www.asahi-net.or.jp/~hw8m-mrkm/kate/gallery/11.gathering.grain.html<つづく>2008/10/02ぽかぽか春庭@アート散歩>田園讃歌(2)積み藁と落ち穂拾い ミレーの「落ち穂拾い夏」を、一地方都市の山梨県立美術館が購入したと知ったときから、ぜひ見にいこうとと思っていた。 でも、なかなか甲府まで足を伸ばすことはできなかった。 やっと今回見ることができた。http://www.rere.net/museum/yamanashi-museum.html 「落ち穂拾い夏」は四季連作の中のひとつ。四季4連作とは、「ぶどう畑にて春」「落穂拾い夏」「りんごの収穫秋」「薪集めの女たち冬」から成り、いずれも貧しい農民たちのささやかな収穫を描いている。 また、ミレーの「種まく人」は、絵に興味がない人にとってもなじみ深い。岩波書店のロゴマークデザインのもとになったので、多くの人に親しまれている。「種まく人」http://www.pref.yamanashi.jp/barrier/html/kigyo/34955923008.html バルビゾン派から印象派、ポスト印象派(Post-impressioists)へと時代が移っていっても、「外光による自然描写、田園光景」は、主要なモチーフとして絵画を彩った。 ゴッホもミレーの「種まく人」や「一日のおわり」を模写しており、「田園風景」は、この時代の画家たちにとって、大きなモチーフだった。 ミレーが農民を描いた絵も、ゴッホの絵も、私には「宗教画」のような印象がある。 複製画をみるたびに、農作業を行う農民の一日も、それを絵に描く画家の一日も強い宗教心のなかにあるように感じた。 今回の展示の解説プレートで、ミレーの「落ち穂拾い」も、旧約聖書の「ルツ記」の中の詩篇にもとずいたモチーフなのだと知った。 フランスへ渡って近代絵画を学んでいた日本の若い画家たちは、ミレーたちバビルゾン派の絵を、よく模写した。 今回の展覧会でも、和田英作や高田力蔵が、ミレーの「落ち穂拾い」を模写した作品が展示されていた。黒田清輝によるミレーの「小便小僧」の模写もあった。 日本の近代絵画における「農村風景」は、南画など伝統的な日本の絵画の「農村風景」に西洋の視線を取り込んできたもの、という特徴をもつ。 浅井忠らの描く農村風景には、「神への敬虔な祈り」というより、ノスタルジーを呼び起こされる。 明治の画家たちがバルビゾン派にならって描いた農村風景を、いま日本のなかでさがすのはむずかしい。藁屋根の家、小川にうたう水車、夕暮れのあぜ道。目籠を背負う農婦、母に背負われて畑から戻る赤ん坊、みんな日本の光景から消えたもの。 明治の農村はすでに「農本主義」をぶちあげても追いつかない「産業国家に組み込まれる農業」になっており、「失われゆく農村」の悲哀を帯びていた光景に見える。 画家たちのなかには、最初からノスタルジーがモチーフとしてあったのではないだろうか。<つづく>2008/10/03ぽかぽか春庭@アート散歩>田園讃歌(3)藁塚放浪記 今、ヨーローッパにも、日本にも、近代絵画がよきモチーフとした農村光景は残されていない。フランスにモネの描いた夕日に映える「積み藁」はないし、日本に浅井忠が描いた農村風景はない。 展覧会の最後のコーナーは、藤田洋三の写真集『藁塚放浪記』の中に納められた写真が並んでいる。 日本各地の農村の藁塚を撮影した美しい写真の数々。 ワラヅト、ワラニョ、ボウガケ、ワラニゴ、ワラススキ、ワラホギ、チョッポイ、ヨズク、ワラグロ、ワラコヅミなどの、各地方で刈り取った稲藁を束ねて積み上げた塚の呼び名がさまざまある。 名前がさまざまであるとともに、各地方独特の藁の積み上げ方がなされている。リンクは、「ニョウ」と呼ばれていた長野県の藁塚の写真。(撮影者は藤田洋三ではない)http://www.5884atease.com/kanko/nyou/nyou.htm 今、農村地帯でも、刈り取った稲はすぐに人工乾燥工場へ運ばれてしまい、天日干しされるのは、自家消費分のごくわずかなものだけなので、写真のモチーフになるような光景は、めったに見ることができない。 この秋、私が出身地の田舎で目にした「稲架(ハサ)」も、ごくわずかだった。 田圃や稲架の光景、これからは「保存地区」に「観光」で行かない限り、日常風景として見ることはできないのだろうと思う。 太田道灌は現在の東京をながめたら、「家康入府以前の江戸は葦原の武蔵野が広がる光景だったのに」と、嘆くかも知れない。しかし、もはや東京を武蔵野の原野にもどすことはできない。 それと同じように、日本の田園風景が失われたことを嘆いても、では、300年前の日本に戻そうといっても不可能だ。 私たちは「近代」という時代の中に入ったときから、多くのものを失ってきたのだ。 「落ち穂拾い」は、貧しい人々のために小麦畑に麦穂を残しておくようにと書かれた旧約聖書の「ルツ記」の実践風景が描かれている。 落ち穂を拾わなければならない貧しさからの脱却は、「近代産業社会」によって実現された。 今、ヨーロッパで落ち穂拾いをする人を見かけることはむずかしいだろう。 落ち穂拾いの貧しい農民はいなくなった。同時に、落ち穂を分け与えあう人々のつながりもなくなった。<つづく>2008/10/04ぽかぽか春庭@アート散歩>田園讃歌(4)「ジヴェルニーの積み藁夕日」と「三丁目の夕日」 モネが「美しいフランスの田舎」の光景として愛してやまなかった「村の農民たちが総出で積み上げた積み藁に夕日が映える景色」も、フランスの田舎で見ることが少なくなっている。リンクはジヴェルニーの積み藁夕日http://www.saihakuren.org/recommend/oi.php?id=53 映画「続三丁目の夕日」を見た若い女性が「人情があふれていた。人々が夢を抱いて目を輝かせていた。(中略)こまやかで、隣近所のつきあいがあたたかかったあの時代の失われた何かを取り戻したい。経済大国での便利や自由を否定するわけでもない。でも、お金じゃない何かを置き忘れてきたのではないか」と、投書したのを読んだ。 それを読み、実際に昭和30年代に子どもだった私は「今の便利さや快適さを捨てて、あんたらがあのころの生活に耐えられるなら、30年代に戻ってみたらいいやんか」と、思ってしまった。 置き忘れたんじゃない。「経済大国での便利や自由」が欲しかった人たちは、「こまやかな人情や隣近所のあたたかい交流」を犠牲にすることによって、便利さや自由を手に入れたのだ。 「経済成長の代償なのだろうか」と、投書の女性は自問する。 その通りだよ。社会が経済的に豊かになって、社会構造が変化すれば、共同体(コミュニティ)が変化せずにはいられない。 捨ててきたことの痛みを自覚することなしに、「こまやかな人情やあたたかい隣近所」だけ取り戻すことはおそらくできないだろう。 「経済大国での便利や自由」を既得権として確保したまま、「あたたかい人情がほしい」なんて、虫のいい願いはむずかしいのだ。 映画青年牧野光永氏は、「魔女の宅急便」のラストシーンを見て「成長とは何かを失うことなのだ」と、感じ取ったと書いていた。私は、その鋭敏な感受性をよしとする。 所沢に住む投書女性が「隣に住む人の顔も名前も知らず、人とかかわることを避ける時代」を残念に思い、「わすれてしまった『何か』を取り戻したいものだ」と、いうのなら、まずは、ケータイとコンビニとテレビエアコンなしに、西武線も池袋からの地下鉄もなしに1年間暮らしてみて、それから行動を起こしたらいい。 武蔵野の原野はとりもどせないが、人の心は、自分の働きかけによって変わるだろうから。 ムラの農耕共同体は、共同作業で田植えや稲刈りを行い、藁塚を積み上げてきた。 近代産業社会に突入したとき、日本は、その共同体のあり方を変化させつつ継承した。 「ムラ社会」と呼ばれた共同体(コミュニティ)をそのまま産業工場の労働者に応用したのだ。 日本の組合組織は、欧米の「ユニオン」とは、異なる面がある。 ユニオンは、、同業労働者の権利を守るために結成された「資本家との闘争」の組織である。その機能に加えて、日本の「クミアイ」は、「ムラ社会コミュニティ」の代替機能をもっていた。だから、クミアイ主催の運動会に、「家族会」はこぞって参加したのだ。<つづく>2008/10/05ぽかぽか春庭@アート散歩>田園讃歌(5)志によって築く藁塚 世界各国で取り組まれたQC(品質改善・企業改善)運動。だが、欧米で成功した会社は少ない。日本の会社においてのみ、QC(カイゼン)活動が大成功をおさめたのも、「労働者組合ムラ社会」が背景にあったからだと、私は思っている。 「カイゼン運動に費やされる時間も労働時間だから、ボランティアとして行うのではなく、カイゼン運動を行った時間にも賃金を支払うべきだ」という考え方が、カイゼン運動の雄トヨタなどでも言われ出した。企業組合が「ムラ社会コミュニティ」でなくなってくれば、当然出てくる要求だろう。 産業構造が変化し、「企業別単組」のようなクミアイ共同体も機能不全となり、かろうじて残されてきた地方の「ムラ社会共同体」の残滓も、過疎化とともに失われた。 江戸下町の「長屋共同体」的なコミュニティをそっくり移入したのが、高度成長期における新興宗教団体だった。 宗教団体コミュニティは、農村部から都市に流入した「根をそがれたムラ社会住人」にとって、かっこうの共同体となった。今現在、日本で最大のコミュニティは、「学会員一千万人」を擁する宗教団体である。 「ムラ社会」から連続してきた共同体のあたたかさ細やかさが変化したのを嘆いても、はじまらない。 変化した社会を戻したければ、近代社会が築きあげてきたものをくつがえさなければならないということになる。 近代産業社会が作り上げた、教育制度と国防と税によって成りたつ「近代国民国家」共同体が機能不全におちいり、あたたかさとこまやかさを失っているのは確かだが、国民国家共同体にかわるものは、まだ機能をはたしていない。 近代産業社会は、いま、たそがれ。 日中輝きわたっていた太陽を一日の終わりには、だれも止めることができない。日が沈むように、近代社会もポスト近代社会も沈みつつある。 明日、別の新しい太陽は出てくるのだろうが、どのような社会を照らすどのような太陽なのか、わからない。経済学者も情報工学最先端を行く人も、いろんなことを言っているが、わたしにはとんと未来が見えない。 ポスト近代社会を生きていく私たちは、失われた共同体を懐かしがっているよりも、「ポスト近代社会の共同体」を新たに作り上げていくべきなのだ。 地縁血縁によっていた「ムラ社会」の共同体でなく、地縁によっていた「長屋共同体」「労働組合共同体」でもなく、志と希望をともにして歩んでいけるような、志縁共同体。と、いってしまうと、これまでゴマンと出されてきたユートピアになってしまうのだが。 志を等しくしてともに働き収穫し、収穫を分け合って藁塚を積み上げていける志縁共同体を成立させたいと、私は願っている。 藤田洋三の写真集『藁塚放浪記』には、さまざまな形の藁塚の姿とともに、農作業に精を出す人々の笑顔が写されている。 今、日本中でこの収穫の笑顔を見いだす機会は少ない。 「観光農業」や「保存農地」でもなければ、千枚田に藁塚が点々と残される風景など見ることができなくなったのだ。 近代が風景画に描き出してきた農村光景は、近代の終焉とともに消えた。 私たちに「ポスト近代の次」はあるのだろうか。 私は、夕日に輝く積み藁の風景を見たい。 タイやバリ島の田舎あたりにまだ、藁塚の風景が残されているときくが、かの地でもやがては失われていくのだろう。失われる前に見に行こうか。<おわり>
2008/12/13春庭@アート散歩>ピカソ(1)サレ館のピカソ ピカソ、以前はそれほど好きだとも思えなかったのに、大規模なピカソ展があるたびにひととおり見てはきました。 前回ピカソ展を見たのは、2004年。晩年のピカソを支え、91歳の老画家を看取った妻、ジャクリーヌ・ロックの相続コレクションでした。 ピカソコレクションを目玉とする美術館は、生まれ故郷のスペインや絵画制作の中心地だったフランスに何館もありますが、今回の展覧会は、フランスのピカソ美術館所蔵のコレクションの移動展示です。ピカソ美術館は、ピカソの遺族が相続税のかわりに物納したピカソの作品を展示しています。 ピカソの子どもたちは、最初の妻オリガとの間に生まれたパウロ、愛人マリ・テレーズ・ワルテルとの間に生まれたマヤ、愛人フランソワーズ・ジローとの間に生まれたクロードとパロマの4人。ピカソが亡くなったとき4人の子と2人目の正妻ジャクリーヌが「遺産相続者」となりました。 91歳まで長生きしたピカソの周りでは、次々に妻、愛人、子、孫が、自殺しています。今回のシリーズは、この「ピカソの相続人」の物語です。莫大な遺産を受け継いだ相続人達。なぜ、ピカソをめぐる人々はつぎつぎと自殺を選んだのか、、、、 ピカソ美術館は、もとは「サレ館(塩やかた)」と呼ばれていました。塩貿易で財をなした貴族の館あとをピカソの展示館にしたものです。 ルイ14世の時代、1659年に、塩税徴収官ピエール・オーベールが3年を費やして建てた館で、集めた塩税をちょろまかした財産で建てた館なので、「塩やしき」と揶揄されていた建物、17世紀の建築ですから、修理が必要です。 大規模な改装のあいだ、館は長期間閉鎖されるため、改装期間中にピカソ作品が世界に貸し出しされることになりました。その「日本展」が、新国立美術館とサントリー美術館の2カ所で開催されてきました。 11月20日、サントリー美術館で見たパブロ・ピカソ(1881~ 1973)の作品。展示数はそれほど多くなく、油彩、素描、彫刻合わせて58点でしたが、ピカソ青の時代の自画像をはじめ、見応えのある作品が並んでいました。 11月28日には、新国立美術館でのピカソ展を見ました。こちらには全部で165点。こちらのピカソもよい作品があり、甲乙つけがたい展示。 ただ、どちらもガラスによって作品を保護する展示する方法で、じかに作品の絵の具の具合などを見ることは出来ませんでした。特にサントリーの展示方法は、ガラスケースの中に並べてあるので、光が反射したり、観覧者の指紋がべったりとガラスについていたりして、気分悪い。 サントリー美術館入場して最初の1点は、1901年の作品。ピカソの最初期の作品のひとつ、親友の死に顔の描写です。<つづく>2008/12/14春庭@アート散歩>ピカソ(2)青の時代 スペインの画学校をやめたピカソ。バルセロナで仲間だったカルロス・カサヘマス(Carlos Casagemas 1881-1901)がパリへ出ているのをたよって、スペインをあとにしました。スペイン語での発音カサヘマスは、ピカソがフランス語も話せない時代に、いっしょにパリですごした親友です。展示のパネル解説ではカサジェマスCasajemasと表示してありました。パリでは、フランス語読みのカサジェマスで通していたのでしょう。 カルロス・カサジェマスは、世慣れぬ20歳のピカソがパリ生活をするにあたって、なにくれとなく世話してくれた親友です。カルロスは裕福なユダヤ系資産家の息子で、金持ちの坊ちゃんにありがちな「すべてを思い通りに自分のものにしたい」願望があったのかもしれません。失恋すると、自分をふった相手の女性を撃ち、その場でピストル自殺をしてしまいました。相手の女性ジュルメーヌは一命とりとめましたが、ピカソにとっては衝撃的な事件でした。 ピカソの作品「カサヘマスの死」は、下のリンクで見ることができます。http://salut.at.webry.info/200606/article_9.html 作品解説のオーディオガイドは、「この絵にはゴッホの影響が見てとれる」と言っていました。 ピカソは、ゴッホなど周囲の画家たちはじめ、イベリア半島の彫刻、アフリカのプリミティブ芸術など、よいと感じた芸術をどんどん自分の作風に取り入れることを生涯続けた画家でした。作風は年ごとに変化し、「愛人がかわるたびに作風が変わる」と言われたのですが、その出発点の1作は、ろうそくの火に照らされる自死した友の顔。 カサジェマスに死なれ、パリに一人残されたピカソは、カサジェマスが残したアトリエで寝起きして絵を描き続けました。カサジェマスの自死は、恋人にふられたことが原因だということははっきりしていますが、恋人ジュルメーヌが心を移した相手は、ピカソだという説もあり、彼が親友の死に対して大きな衝撃を受けたことは、理解できます。 ピカソはカサジェマスのいない憂鬱なパリでの暮らしのなか、「青の時代」と呼ばれるつらい時期を過ごします。この時代の自分自身を見つめた「青の自画像」、下のリンクで見てください。20歳とは思えない沈鬱な表情をしています。サントリー美術館のポスターになっている自画像です。http://off.nikkei.co.jp/contents/exhibition/archive_ex23/article01.html 新国立美術館の「最初の1点」は、同じく「青の時代」の作品で『ラ・セレスティーナ』。娼館の経営者、カルロータ・ディビアという名の女性を描いています。視力を失っている左目が悲しげで、物憂い画家の心理を投影しているようです。この1904年の作品は「青の時代」の最後のころのものです。 描き続けることでカサジェマス自殺の衝撃から少しずつ回復したピカソは、しだいにパリの芸術家達と交流をもつようになり、若い画家たちのたまり場アパートであった「洗濯船」へ転居します。1904年のこと。<つづく>2008/12/15春庭@アート散歩>ピカソ(2)バラ色の時代 この洗濯船(バトー・ラボワール)で、ピカソはフェルナンデ・オリヴィエ(Fernande Olivier)という恋人と出会います。ピカソが23歳、フェルナンデが18歳のとき。フェルナンデとは7年間ともに暮らしました。 ピカソは憂鬱な青の時代から、恋を得た「ばら色の時代」へと飛躍します。 多くのキュビズム時代の作品が、明るいバラ色の色彩で描かれました。 ピカソの1907年の大作「アヴイニヨンの娘達」は、20世紀芸術の始まりを高らかに告げるように人々に受け入れられました。 また、1909年の『女の頭部フェルナンド』という彫刻作品は、キュビズムを完成させようとしていたピカソにとって、重要な立体作品です。 バラ色の時代、フェルナンデをピカソ自身が撮影した写真が「関連資料」として新国立美術館の休憩室に展示してありました。1908年から1910の間に撮影されたと見られる写真に、ピカソとフェルナンデとブラックが写っています。 ブラックは1907年にはじめてピカソのアトリエを訪れ、互いに新しい芸術を完成させるため、切磋琢磨する親友となりました。 ジョルジュ・ブラック。ピカソと20世紀初頭の時代をともにし、キュビズムを完成した画家です。写真のなか、ブラックはピカソの手前におり、ピカソの左にはフェルナンドが立っています。 画面前方を犬が横切っていますが、じっと撮影が終わるまで待っている人物と、カメラの前をさっと横切った犬が二重露出のようになっていて、ちょっとシュールな写真になっています。 この時代、ピカソとブラックは、寝るとき以外はいっしょにいる、という生活でした。どちらかのアトリエにいっしょにいてひとりが描きひとりが論評しているか、カフェでコーヒーや酒を飲みながら芸術談義をするか。 ピカソやブラックら、キュビズム画家フォービズム画家を売り出し、作品を一手に売りさばいていたのが、ユダヤ系ドイツ人画商ヘンリー・カーンワイラーです。 カーンワイラーの支援でしだいに作品が売れ出したとき、フェルナンデは芸術より享楽を愛するようになり、ピカソの心はしだいにフェルナンデを離れていきました。 「キュビズムを作り上げる時代」は、ブラックが第一次世界大戦のヨーロッパ戦線に出征したことで終わりを告げます。 戦争からもどったブラックは、キュビズムと決別しました。なぜなら、彼らを支えていた画商カーンワイラーが、フランスを出国してしまったからです。彼はフランスと戦争をしている側のドイツ人であったからことから逮捕をおそれ、フランスを出ることにしたのでした。 カーンワイラーがキュビズムをもり立て、売りさばいてくれていたおかげで生活していたブラックは、別の画商と出会い、静物画を描き、楽譜や本の挿絵などを描くようになりました。<つづく>2008/12/16春庭@アート散歩>ピカソ(4)エヴァの時代 フェルナンデと別れたピカソの心を支えたのが、エヴァ・グエルことマイセル・アンベール(Marcelle Humbert)です。 エヴァ27歳、ピカソ31歳の恋でした。エヴァを得た喜びが画面に踊っているような作品が、新国立美術館の『ギター』という絵です。絵の中に、ピカソは「J'im Eva私はエヴァを愛す」と、書き込んでいます。 関連資料のなかに、ピカソが撮影した「エヴァ」の写真がありました。どことなくはかなげな印象の、美しいエヴァ。 エヴァは病弱であり、1915年に癌で亡くなってしまいます。エヴァとともに過ごした時期が「キュビズム完成の時代」にあたり、ピカソの「エヴァ時代」と呼ばれています。 エヴァが亡くなる前か後かわからないのですが、1915年ごろの出来事として、この時代のピカソのエピソードのひとつが伝わっています。「メキシコ出身の画家ディエゴ・リベラとのケンカ」。 当時、パリには日本人藤田嗣治はじめ、世界中の新進気鋭の画家達が集まっていました。メキシコのリベラも、その中のひとり。当時のリベラはキュビズムをめざして絵を描き、ピカソはあこがれのキュビズム大家でした。 リベラは作品『サパタ派の風景』に、メキシコ革命の英雄サパタを描き、ピカソに見せました。ピカソは絶賛してくれたのですが、次にリベラは、ピカソが『サパタ派の風景』と同じように見える作品『テーブルにもたれる男』を描き上げていたことを知ります。 「モチーフを盗まれた」と、リベラは激怒し、ピカソと決別します。 のちにメキシコに帰国したリベラは、年若いフリーダ・カーロを恋人とし、ふたりで傑作を描き続けました。映画『フリーダ』に出てくるリベラは精力的な画家で、フリーダに対してはかなり暴君的です。どちらもゆずらぬ気迫を持つピカソとリベラのケンカは、さぞ迫力があったろうと思わせます。 「モチーフを盗んだ」と罵倒される理由が、ピカソにはわからなかったでしょう。リベラの作品を自分の中に取り入れたことは、ピカソにとって特別なことではなかったからです。彼にとっては、周囲のすべての芸術は、自分の血肉とすべきものであり、吸収して自分のエネルギーにすべきものだったから。 「リベラは何を憤慨しているんだ。彼はメキシコ風のライフル、ソンブレロ、肩掛けがあるから、ピカソはリベラを模倣したと怒っているが、周囲のあらゆるものを取り入れていくのが画家じゃないか」 ブラックがキュビズムから抜け出したように、ピカソも常に新しい画題新しい画法を探す美の探求者でした。ゴッホからもセザンヌからも、ギリシャ古典美術からもアフリカンプリミティブ芸術からも、あらゆることを自分の芸術に取り込むのがピカソの画風です。 ピカソは、貪欲に自分のまわりのすべての芸術を吸収し、貪欲に女性の愛を求めていく画家でした。 エヴァの病中に知り合ったのが、ギャビー・レスピナッセ(Gaby Lespinasse)。 しかし、ギャビーとの恋は、ほどなく終わりました。ピカソはロシアの上流家庭の娘であるオルガ・コクローヴァ(Olga Khokhlova)と出会い、正式な結婚をしたからです。1918年、オルガが26歳、ピカソが37歳のとき。<つづく>2008/12/17春庭@アート散歩>ピカソ(5)オルガの時代・新古典主義 オルガはロシアバレエ団「バレエリュス」のバレリーナでした。ジャン・コクトーと知り合ったピカソが、コクトーのすすめで、バレエリュスの舞台美術の仕事を始めたときに出会い、1918年に結婚。1921年、2人の間にはパウロ(英語よみはポール)という息子が生まれました。 オルガはロシアの資産家の家庭に生まれ、新生ソビエト連邦の陸軍幹部の娘として、育ちました。芸術を愛する娘としてピカソに出会い、ふたりは恋に落ちたのです。 この時代、オルガは自分の肖像画を「キュビズム」で描かれることを嫌いました。ピカソは「新古典主義」の絵を描いています。写実的、古典主義的な様式の作品です。 新国立美術館の「肘掛け椅子に座るオルガの肖像」http://www.asahi.com/picasso/exhibition/3.html 『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』と、まったく同じポーズ同じ構図の写真が、休憩室の「資料」として展示されていました。撮影はピカソ自身。 もしかしたら、細かい衣装の柄や扇子の模様は、実物のオルガではなく、この写真を見ながら描いたか、と思うくらい、オルガの絵は写実的です。 この新古典主義の時代を、「オルガの時代」と呼びます。 オルガは「上流家庭の生活の維持」を望み、ピカソが芸術家仲間とつきあうことを嫌いました。彼らは往々にして自堕落だったり反社会的だったり「上流」の雰囲気とは合わない連中だからです。しだいにピカソはそんな妻に息苦しさを感じるようになりました。 サントリー美術館展示の作品のうち、『ピエロに扮するパウロ』は、真っ白い道化衣装を着たパウロを描いています。1925年の作品。 パウロは4歳ごろで、ちょっと生意気そうな挑戦的な目つきでカンバスに向かう父親を見つめています。父と母の不仲に気付いているパウロだったのでしょうか。 オルガとの仲が冷えきったあと、1927年、ピカソは46歳で17歳のマリー・テレーズ・ワルテル(Marie-Thérèse Walter)と出会います。若さあふれる清楚なマリー。 半年ものあいだ、マリーはピカソを拒み続けました。それもそうです。30歳も年上のオッサンが、どれほど熱心に「君こそ僕の芸術の源だ」と口説こうと、妻子ある男に簡単になびくわけにはいかなかったでしょう。 しかし、出会ってから半年ののち、マリーはピカソに夢中でピカソの言うことならなんでも言う通りにする女性になっていました。 オルガが離婚に応じようとしないまま、二人の間には1935年にマヤという娘が生まれました。(マヤは、スペイン語読みにするならマハ) もともと芸術には関心のないマリー・テレーズは、娘が生まれると子育て中心の生活を送るようになり、55歳のピカソは・ドラ・マール(Dora Maar)29歳に心を移しました。ドラは写真家であり、ピカソの芸術を深く理解できる女性だったからです。このころがピカソの「ドラマール時代」です。 「マリーテレーズの肖像」と、「ドラマールの肖像」http://www.asahi.com/event/TKY200809180207.html<つづく>2008/12/18春庭@アート散歩>ピカソ(6)ゲルニカ・恋の対決 1936~45年、ドラは愛人としてピカソのかたわらにおり、ゲルニカ制作中のピカソを撮影するなどしました。新国立美術館には、ドラが撮影したゲルニカの制作進行状況の写真が並んでいます。また、休憩室の資料展示には、ピカソが撮影したドラの横顔の写真があり、美しくとも意志的な目鼻が印象的でした。 ゲルニカのキャンバスをはさんで、マリーとドラが対決する、という修羅場もありました。ピカソ自身が後年に述懐している「マリーとドラのケンカ」によると。 ピカソがゲルニカを制作しているアトリエにマリーが入ってきて、ドラとの壮絶な争いがはじまりました。 マリーはドラに向かって「私はこの人との間に子供がいるんです。ここを出ていってください」と、言いました。日頃は大人しいマリーにしてみると、娘のマヤを守っていくための、必死のことばだったのでしょう。 ゲルニカ制作過程の撮影をしていたドラは「子供?それが何だっていうの?私たちの間には、この作品があるのよ。ピカソには子供じゃなくて、この作品を完成することが大切なの。あなたこそここを出ていくべきだわ」と突き放しました。 マリーはピカソに「私かドラか、どちらかを選ぶべきだ」と、迫りましたが、ピカソは「そんなことは、ふたりで決めてくれ」と言って、ゲルニカの制作を続けました。マリーとドラが取っ組み合いのケンカをはじめた傍らで、スペイン・ゲルニカの平和を願う作品が描き続けられたのです。 ピカソは「大人しくてやさしく、私の言うことはなんでも聞こうとするマリー」と、「知性と強い意志を持ち、自分の芸術を理解してくれるドラ」の両方が必要だった、という言うのです。う~ん、女性にとっては「どっちか決めてよ」というマリーの気持ちもわかりますが。 ピカソが55歳~64歳の、もっとも油がのっていたころを支えたドラ・マール。彼女の肖像画は、近年オークションで108億円で落札され話題になりました。108億円には手が届かないけれど、せめて複製画12,600円ではどうでしょうか。http://www.chalgrin.co.jp/ChalgrinShopping_Picasso039.htm ピカソは少年時代、父親に連れられて闘牛を見ていました。その荒々しいエネルギーを自分自身に感じることが多かったのでしょうか、ギリシャ神話の牛の怪物ミノタウルスを画題に選んだ作品が数多くあります。 サントリー美術館、4階から3階に移動する階段下のコーナーは、「ミノタウルス」シリーズともいえるような作品が並んでいました。 1936年、ドラ・マールと暮らしていた頃の作品『ドラとミノタウルス』のミノタウルスの顔は、肖像画などで見るピカソの顔そのものです。自分自身を荒ぶれるミノタウルスになぞらえ、ドラを陵辱するような愛で責め立てるミノタウルスの姿。 ドラは、ピカソの愛人達のなかで、もっとも強い芸術的インスピレーションを与えるミューズであったのだろうと想像します。そんな激しい愛憎にも終わりのときがきます。<つづく>2008/12/19春庭@アート散歩>ピカソ(7)プレイボーイ・ピカソ ピカソが61歳のとき、21歳のフランソワーズ・ジロー(Françoise Gilot)と出会いました。フランソワーズは美しい画学生。 娘と言うより孫のような若い画学生に、ピカソは夢中になり、2人の間にクロードとパロマの2人の子供が生まれました。 新国立美術館休憩室に並んでいる写真資料の中で、いちばん有名な写真は、ロバートキャパが撮影した「海辺をあるくフランソワーズにパラソルをさしかけるピカソ」という写真です。 はつらつと歩く美しいフランソワーズに、ピカソは従僕のようにパラソルをさしかけています。後方にいるのはピカソの甥のハビエル・ビラト。http://ameblo.jp/dasha320/image-10138772438-10092196424.html フランスのジュワン湾(コートダジュール)で,1948年にキャパが撮影した「海辺のフランソワーズとピカソ」を、私は大丸ギャラリーでの『写真とは何か・20世紀の巨匠たち・美を見つめる眼、社会を見つめる眼』展で見ました。この写真展については、2008/11/26に紹介しました 2008年11月号の「プレイボーイ」誌はピカソ特集とし、このキャパの写真を表紙にしています。http://blog.goo.ne.jp/v_goo_kazu_san/e/e3d7246b219cde6cb379819aafa639f5 プレイボーイ。 確かに、ピカソが肖像画を描いた女性だけで7人。名を知られている恋人はあと二人います。名を知られなかった女性を入れれば、もっとたくさんの女性がいたでしょう。 多くの愛人恋人がいたピカソ。20世紀最大のプレイボーイ? いいえ、ピカソは「遊び」で女性とつきあったことは一度もない。ピカソは、こころから女性を愛し、女性達もピカソを心から慕ったのです。 世の中には、お金の力でもっとたくさんの女性と関わった男性はいるでしょう。しかし、ピカソの愛人達は、ピカソのお金や名声を目当てにしたのではなく、それぞれが心からピカソに愛を捧げたのです。ピカソもひとりひとりに愛情を注ぎました。 若いフランソワーズにも、心からの愛情を捧げました。 フランソワーズの生んだクロードとパロマをモデルとして絵に描き、いっしょに「お絵かき」をして遊びました。 しかし、フランソワーズはピカソを支える女性として生きるより、自身が画家として生きていくことを望みました。ひきとめようとするピカソを振り切って二人の子を連れて出ていき、他の男性と再婚しました。 ピカソが愛した女性達のうち、自分からピカソに別れを告げたのはフランソワーズだけでした。(クロードとパロマの法的認知をしていなかったために、遺産相続のさいにはスッタモンダがありました)<つづく>2008/12/20春庭@アート散歩>ピカソ(8)ピカソのママ 70代のピカソが愛したのはジェネヴィーヴィ・ラポルテ(Geneviève Laporte)。20代半ばのジェネヴィーヴィの若さは、フランソワーズに去られて傷心だったピカソをなぐさめました。 1954年72歳のときピカソは、26歳のジャクリーヌ・ロック(Jacqueline Roque 1926-1986)と出会いました。陶器工房で働いていたジャクリーヌは、工房で陶器を焼くピカソの世話をしました。ふたりは間もなく同居しました。 数々の愛人達とピカソは結婚することなくすごしました。正妻オルガが、離婚を拒み続けたからです。しかし、ジャクリーヌと同居後、事態は変わりました。30年間別居したまま「正妻」の座を守っていたオリガが、1955年に死去したのです。 ピカソは、1961年にジャクリーヌと正式に結婚しました。 オリガの死から再婚まで6年の間がありますが、この間、ピカソはフランソワーズが戻ってくるのではないかと待っていたという説があります。 フランソワーズがピカソの元に戻る気になって、夫と離婚の手続きを終えたとき、ピカソは79歳でジャクリーヌと再婚。自分を捨てたフランソワーズへの「仕返し」として再婚したのかもしれません。こんなところは、「すべてを支配し自分の思うままにしたい」という「大君主」のようになっていたピカソを感じます。 休憩室写真資料には、「結婚式の朝のピカソとジャクリーヌ」という写真がありました。デヴィット・ダグラス・ダンカンが撮影した1961年3月2日朝の二人の姿です。ダンカンはキャパの友人。キャパ亡き後、ピカソの晩年を撮影し、「ピカソ写真集」を残しています。 フォトジャーナリストダンカンは、1956年にピカソの南仏の別荘「ラ・カリフォルニー」を訪れて以来、ほぼ30年間、家族同様に寝起きを共にするほどピカソとジャクリーヌ夫婦に近づき、夫妻の信頼を得ていました。。 ピカソは50歳も年下のジャクリーヌを「ママ」と呼び、慕いました。ピカソの情愛をかき立てたこれまでの愛人たちと異なり、80代のピカソはジャクリーヌに「母のような包容力」を見いだしたのかもしれません。 新国立美術館の「膝を抱えて座るジャクリーヌロック」は、ジャクリーヌが「ピカソが制作に専念できる環境を作ることこそ自分の使命」と考え、ピカソのとっての「保護者=ママ」であろうとした強い意志があらわれている肖像です。すくっと伸びた首、両手で抱える膝も、かっちりと表現されています。 ジャクリーヌとの暮らしでは、ピカソは他人にはほとんど会わない「ひきこもり」の生活をつづけました。世俗のいっさいを捨てた修行僧のように作品にうちこみ、1年に165点もの作品を完成させました。 おおかたの芸術家は、晩年の作品になるとエネルギーの減少が感じられるのに、ピカソは亡くなるまで芸術へのエネルギーを失いませんでした。ジャクリーヌの愛に包まれていたゆえの充実でしょう。<つづく>2008/12/21春庭@アート散歩>ピカソ(9)恋の遍歴とピカソの系図 サントリー美術館に展示されている1969年制作『接吻』1970年制作『抱擁』という油彩は、ピカソ87歳88歳の作品ですが、ジャクリーヌとの熱い抱擁や接吻の情熱がそのまま画面にあらわれているかのようにはつらつとしています。 サントリー美術館と新国立美術館で見た絵の何点かが掲載されているサイトをリンク。http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/cat6037495/index.html 1973年、ピカソは91歳で亡くなりました。 数万点の作品、スペインやフランスの古城を買い取ったものが3つ。別荘2軒。豪壮な邸宅が数軒。多額の現金。ピカソの城からは未公開の作品が多数残されており、1973年の時価で遺産総額は7400億円にもなりました。 長男パウロ。幼いときに父ピカソは母オルガと別居しました。母はピカソの正妻ということを唯一のプライドとして、30年間「正妻の座」という形だけを保って亡くなりました。 パウロは、偉大な父の「運転手」を勤めることで、かろうじて父とつながっていました。 パウロは、早くに妻エミリエンヌと離婚しました。エミリエンヌとの間には息子パブリートと娘マリーナをもうけました。パブリートは、祖父パブロの名にちなんで同じ名を命名されました。しかし祖父が生きている間は、偉大なその名をはばかり、ニックネームのパブリートのほうで呼ばれていました。パブリートとのマリーナは、両親離婚後、エミリエンヌに育てられました。 エミリエンヌはパブリートとマリーナがピカソの孫であることを吹聴しつつ、男をつぎつぎに取りかえる奔放な生活で、パウロからの養育費が少ないことを子どもたちにこぼし続けました。 パウロはクリスティーヌと再婚し、娘ベルナールが生まれていたので、エミリエンヌの子どもたちを思う余裕がありませんでした。 祖父であるピカソが亡くなったあと、パブリートは祖父の遺体との対面を拒まれ、葬儀の出席も許されませんでした。自分の存在意義を疑ったパブリートは、漂白剤を1瓶飲見込みました。これにより胃がただれ、何も食べられなくなり、3ヶ月後に「餓死」という壮絶な死を遂げました。生活費もなく、入院代も払えないパブリートの死。 新国立美術館の休憩室には、ピカソの年譜と、ピカソ一家の系図が出ていました。はたして、何人の観覧者が、パブロ・ピカソの亡くなった同じ1973年に、孫のパブリート・ピカソも亡くなっていることに気付いたでしょうか。 パブロ・ピカソの死のあと、遺産相続の争いが続きました。パウロは、息子パブリートと父の両方を失って心弱り、酒と麻薬に溺れました。自暴自棄のようになったパウロは、ピカソの遺産相続が確定する前に54歳という年齢で死にました。 ピカソ家は、91歳の当主、若い孫のパブリート、息子パウロの54歳の死、3代が立て続けに亡くなってしまったのです。<つづく>2008/12/22春庭@アート散歩>ピカソ(10)私の祖父ピカソ ピカソの死と同じ年に孫のパブリートが亡くなり、ピカソの長男パウロはその2年後に死んで、パウロの娘、マリーナは途方にくれました。 マリーナは、後年『マイ・グランパパ・ピカソ(私の祖父ピカソ)』という本を出版しています。(翻訳:五十嵐卓, 藤原えりみり 小学館2004) マリーナ・ピカソの手記によれば。 子ども時代、マリーナは素直に祖父に敬慕の心を抱いていました。しかし、正式な離婚を拒み続けたオリガの孫であり、ピカソと接触する時間はごく少ないなかで成長しました。大ピカソは、孫のよきおじいちゃんであるより、常に自身の芸術に関心があり、「大君主」のようであったと、幼いマリーナの目に祖父の姿が映っていました。 幼いころ、祖父から愛を受けることのなかった心の傷は、祖父の死後、マリーナの心にあふれてきます。最愛の兄パブリートの自殺。父ポールの自分の追い込むような死。マリーナはパニック障害になり、交通事故を起こしてしまいます。 それから後、14年間におよぶカウンセリングを受ける生活が続きました。 マリーナが回想する兄パブリートの自殺。 1973年4月8日、ラジオから流れるピカソの死のニュースを聞き、パブリートは「どうしてもおじいちゃんに会う。僕にはその権利があるはずだ」とピカソの屋敷に向かいました。しかし邸宅は固く警備されており、パブリートは門番に追い返され、祖父の最期の姿に会うことも祈りを捧げることもできませんでした。 帰宅後のパブロは憔悴し、2日間話すことも食べることもしなかった。祖父の死から4日目、パブリートは大量の漂白剤をのんで自殺をはかりました。胃を焼ききり食べることのできない死の床で、パブリートは妹のマリーナに語りました。 「ピカソ帝国は、肉親が生きていく可能性の扉を閉ざしてきた。マリーナ、きみを救い出すために、僕はこうしたんだ。僕らの苦しみのすべてを、僕は内側から破壊したかったんだよ。僕たちを拒否したあの人たちも、これからはきみの面倒を見てくれるよ。少なくとも、僕が祖父のあとを追って死んだことが世間に知られれば、世論は、君の生活を少しは気にするようにはなるだろう」 1973年、ハブリートは祖父が4月になくなった後、3ヶ月後の7月に、衰弱しきって死にました。 マスコミは「ピカソの孫の死」に騒ぎ立てました。3ヶ月間の入院費治療費を払うこともできなかったマリーナ。 友人達の寄付と、祖父ピカソに捨てられた愛人のひとりだったマリー・テレーズの世話で、やっとパブリートの葬儀を出すことができました。<つづく>2008/12/23春庭@アート散歩>ピカソ(11)ピカソの遺産 長年の遺産相続裁判の結果。 ピカソの遺産相続権者は、正妻ジャクリーヌのほか、最初の妻オルガの息子パウロ、マリー・テレーズの子、マヤ。フランソワーズの子、クロードとパロマの5人と確定しました。 正妻、ジャクリーヌが3割、マリー・テレーズの娘、マヤが1割、フランソワーズの子供、クロードとパロマに1割ずつ、早世した長男パウロの分は4割。パウロの分は娘ふたり、マリーナ2割、ベルナール2割ずつと決まりました。 相続税はフランス政府への作品物納と決着。フランス政府は、相続税の特別法をわざわざピカソ遺産のために立法し、作品の一部を相続税として国庫に納入させました。それが、現在のピカソ美術館(サレ館)であり、今回サントリー美術館と新国立美術館で展示されている作品群です。 14年間のカウンセリングののち、自分自身を回復したマリーナは、実子のガエルとフロールのすすめで、ベトナムの子供たちを養子に迎え、遺産を使ってベトナムの「若者の村」の建設をはじめました。 パブリートとマリーナがそうであったように、愛に恵まれない子供時代をおくっているベトナムの子供に愛を注ぐことで、マリーナはようやく祖父ピカソに愛されなかった自分の人生をとりもどし、自分の生が意味あるものと感じられるようになりました。 やっと祖父パブロピカソをも肯定できるようになったマリーナが、人生をふりかえって言ったことば。 『これが私の人生。人生という晩餐会に招かれて、私は自分にできること、私自身がなすべきだと思ったことをした。あるときにはうまくいったし、あるときには失敗もした。「青色の絵の具がないときには、赤を使うんだよ」。祖父はそう言っていた』 そう、青がなければ赤い絵の具で人生を描く。しかし、ピカソは91歳まですべての絵の具を独占し、思うがままに描き続けた人でした。 91歳まで長命を保ったパブロ・ピカソ。しかし、彼に関わった妻、愛人、息子、孫、多くの肉親が自殺しています。周囲の人々は、ピカソに生命力をすべて吸い込まれてしまっていたかのようです。 1909年生まれのマリー・テレーズ・ワルテル。 17歳でピカソに出会って26歳で娘マヤを出産。しかしついに妻の座を与えられることなく捨てられたマリー・テレーズ・ワルテル。ピカソの愛人達のなかで、ごく普通の娘であり、ピカソに捨てられたのちはマヤの養育だけを生き甲斐にしてきた女性でした。 彼女は1973年のピカソの死後、1977年にガレージで首を吊って死にました。<つづく>2008/12/24春庭@アート散歩>ピカソ(12)ピカソの遺族 1973年にパブロ・ピカソの長男の孫、パブリートが亡くなったあと、マリー・テレーズはパブリートの葬儀の世話をするなど、最後まで献身的にピカソに尽くそうとしました。正妻オルガからピカソを奪う形になったマリーにとって、オルガの孫パブリートの葬儀を手伝うことは、心に引っかかっていた積年の思いを精算する行為でもあったのでしょうか。 マリーの娘のマヤは、ピエール・ウィドマイヤーと結婚し、1961年オリビエ1964年リシャール1971年ディアナという、3人の子の母になっています。 1977年、マリーは自殺。享年68歳。 マヤが母親となり、ピカソも亡くなって、マリーテレーズにとって気がかりなことは何もなくなったゆえの自殺だったのでしょうか。真相はわかりません。 正妻ジャックリーヌは、ピカソの遺族との交際を拒否し、他の愛人たちや子供たち、孫や古い友人達とも関わりませんでした。彼女が関わりたかったのは、ただひとりピカソだけでした。 彼女はピカソ亡き後、相続したピカソ作品を「ジャクリーヌコレクション」として整理することに没頭しました。1986年ピカソ遺作展を成功させた後、ピカソとすごした寝室でピストル自殺しました。享年60歳。 親友カルロス・カサジェマスの自死から、ピカソの死後の孫や妻や愛人の自死まで、生命力ありあまるピカソのまわりでは、つぎつぎと友や家族が自ら命をたったいることを、今回のシリーズで見てきました。 ピカソを自分から捨てた唯一の女性フランソワーズ。彼女が生んだ娘パロマ(Paloma Picasso)は、ひとりたくましく事業を展開しています。両親から芸術的才能を受け継いだのか、ピカソという「ブランド」を最大限に利用できたからか、デザイナーとして成功しました。 彼女は風光明媚なスイスに居をかまえ、香水やアクセサリーを、「パロマピカソ」というブランド名で売り出しています。「ピカソブランド」は、偉大な宣伝効果を持っています。 ピカソとフランソワーズの間に生まれた娘パロマと、最初の妻オルガの孫にあたるパブリート、そして私。共通点があります。同じ年に生まれた。 パブリートは若くして自殺。パロマは事業家として成功。私は貧乏な教師。運命はそれぞれですが、、、、 サレ館コレクションをサントリー美術館で眺め、館内を2周しました。最初の一周はただ絵を見て印象を心にとめた。次は解説オーディオのイヤホンを借りて聴きながら一周。 ピカソはやはり20世紀最大の画家であったなあ、でも、愛人になるのは考えもんだなあ、、、、って、ピカソに惚れられるようなご面相でもないのに、勝手に拒絶。<つづく>2008/12/25春庭@アート散歩>ピカソ(13)食のピカソ 11月20日のこと。サントリー美術館を見た後、歩き疲れたので、東京ミッドタウンの地下レストラン街で一休みしました。 「食のピカソ」というイベントを、レストラン各店でやっていました。 ピカソ展のチケット半券で割引になるというので、スープの店に入って、「2種類のスープとドリンクのセット」というのを頼みました。 アンティチョークとチキンのスープ&畑の野菜たっぷりのスープというのをチョイス。ドリンクはカフェオレ。 アンティチョークって、アンティークの親戚みたいね、たしか「あざみのつぼみ」だったよなあと、スープを注文したのでありましたが、あとでメニューをよく見たら、アーティチョークだった。 注文をとりにきたおねえさんは、きっと「アンティークのスープ」とか「アンチョビーのスープ」とか言われ慣れているらしく、私が「アンティチョークのスープ」と注文したのに、ちゃんとアーティチョークとチキンのポタージュを持ってきてくれたのでした。 1200円セットがチケット半券の提示で100円安くなり、得した気分。そうそう、ピカソ展のチケットは、「学生証」を出して学生券で入場。大人1300円のところ、学生1000円で入場。300円得した気分。 ピカソは愛人を変えるたびに作風を変えたけれど、ピカソのど~んと大きい芸術魂にふれても、こんなみみっちくいじましい「主婦の節約」を楽しみとするワタクシは、、、、 私の古亭主は変わっていないからなあ。私の「貧乏性」を変えるには、やはりダンナを新品と変えねばならず、、、、 最後にピカソ好きな方のための便利なサイト紹介します。 「On line Picasso」というサイトで、ピカソ作品が検索できます。制作年代順におもな作品が並んでいて、お気に入りのサムネイルをクリックすると絵が拡大します。http://picasso.tamu.edu/picasso/ ピカソの作品、お気に入りがみつかったでしょうか。それとも、ピカソの愛と情熱に圧倒されて、「芸術より、食のピカソだ!」という「食べてナンボ」のあなたでいらっしゃいましょうか。「食のピカソ」派のあなた、おともだちになりましょうね。<おわり>
2008/12/09春庭@アート散歩>フェルメール(1)メーレフェンの大傑作 「朕」はめったに使われない文字であるから、使ってみたくなる。(つうか、この文字使う人は日本でひとりだけで、私ごときは使えないはずなのだけれど) 希少価値ということに心惹かれるのが人の世の常。 「冬期限定販売」とか「当店の肉まんは1日50個のみ販売します売り切れ御免」なんて看板が出てると、ついつい買いたくなってしまう春庭です。 フェルメール(1632~1675年)もそんな稀少価値がついている画家のひとりです。全世界に残された作品の数「33~36作」のみ。作品数に定説がないのは、未だに真贋論争が続いている絵もあるから。 20世紀最大の贋作事件。フェルメール贋作作家のひとりに、オランダの画家ハン・ファン・メーレヘンがいます。 美術学校の入試に落ち続け、画家になる夢を叶えられなかったアドルフ・ヒットラーは、権力者となって以後、その代償として、有名画家の絵を強引に収集しました。ヒットラーの部下ヘルマン・ゲーリングは、ドイツ軍がオランダを占領している間にフェルメール作品を集めようとしました。 金持ちユダヤ人が絵を所有している場合、そのユダヤ人を一家ごと収容所に送って、財産は没収してしまえばよい。ユダヤ人以外の人が所有する場合には、強制的に絵の持ち主から買い上げる方法で絵を集めました。 しかし、作品数の少ないフェルメールはなかなか手に入りません。ようやく、1942年に「キリストと姦婦」というフェルメール作品を165万グルデンで買い上げました。 第二次大戦後、「キリストと姦婦」は、ゲーリングの妻の邸宅から発見され、絵の売り主ハン・ファン・メーレヘンが逮捕されました。 メーレヘンはオランダの至宝を金目当てでドイツに売り渡した売国奴として、裁判にかけられました。 しかし、この作品、実はヨハネス・フェルメールの描いた絵ではなく,ハン・ファン・メーレヘンが描いた贋作でした。鑑定の結果、メーレヘンは、「ヒットラーを騙した画家」として一転英雄扱いになりました。 この事件は、私たちが絵を見るとき、絵そのものを見て感激する人ばかりでなく「だれそれの作品」と銘打たれた「ブランド」によって鑑賞する人のほうがはるかに多いことを語っています。このことは、11月の「ねがみひがみ~」シリーズの中、片岡鶴太郎の項で述べた通りです。 たとえば、ひまわりを描いた絵をたくさん並べたなかに、作者の名を伏せて、ゴッホの絵を一枚混ぜておく。日頃「ゴッホファンです」と言っている人のなかで、何人が「本物のゴッホのひまわり」を「一番のお気に入り」として選び出すでしょうか。 ゴッホはタッチをまねしやすいので、贋作も多数、出まわっています。<つづく>2008/12/10春庭@アート散歩>フェルメール(2)贋作村の「真珠の耳飾りの少女」 中国には複製絵画(ときには贋作)制作によって生計をたてている人たちが集まっている贋作村が存在しています。 中国深圳市龍崗区の大芬村(da fen cun)。すぐれた描画技術をもった画家達が集まり、売れない自分の絵を、いつか目利きに認められる日がくるかもしれないと信じて描くかたわら、せっせと有名画家の複製画を描いて売っています。 ほんものと見分けがつかないほど見事な複製画は、どんどん売れます。 ときには「本物」として、鑑定書付きでひそかに売られていく絵も、、、、。複製画制作販売は、まっとうな「商売」ですが、贋作販売は「闇の取引」で流出します。 大芬村では、マチスもセザンヌもお手のもので、どんどん「新しいピカソ」「新しいシャガール」が制作されています。あなたが、長年ボーナスをためてやっとオークションで買ったアンドリュー・ワイエス、大芬村制作品かも、、、、 しかし、フェルメール作品の贋作を作り出すことは難しいでしょう。最新の科学的調査法によって、絵の具やキャンバスの制作年代を割り出すことができるから。フェルメール作品をいくらそっくりに描いても、17世紀の絵の具と同じように劣化した成分で描くことはできない。 逆もあります。贋作ではないかとされていたフェルメールの「ヴァージナルの前に座る若い女」が、真のフェルメール作品と証明されたのも、フェルメールの作品にしか使われていない特殊な顔料が検出されたからです。 大芬村の制作も、「贋作」として売っているのでなく、「そっくりさん絵画」として売っている分には、問題ない。「真珠の耳飾りの少女」複製画、大芬村へ行けば千円くらいで買えます。素人には、本物とのちがいがまったくわからないほど見事な出来だそうです。 死後300年以上立っているフェルメールはもちろんのこと、ゴッホ(1853~1890)やセザンヌ(1839~1906)の絵は、著作権が切れているので、そっくりな絵を描いても、「偽物・複製画」として売る分には、問題がありません。著作権のきれた写真や複製画の販売は合法的なものです。 ただし、長生きしたピカソ(1881~1973)は、まだ死後50年たっていない。でも、大芬村は、そんなこと気にもせず、せっせとピカソも売っています。 フェルメール作品、全世界に36点のみで、私たちにはけっして買うことのできないものでしょうが、せめて、大芬村で制作された複製画を36点並べておくコーナーを美術館に作ってみたらどうでしょうか。 東京国立博物館で開催された「レプリカ展」でみた国宝の仏像や玉虫厨子は、十分に見応えがありました。玉虫厨子レプリカは、往時の玉虫の羽の輝きを復元してあり、とてもきれいでした。 さて、フェルメールに話を戻しましょう。上野の東京都美術館で2008年6月から「フェルメール光の天才画家とデルフトの巨匠たち」が開催されています。12月14日まで。 フェルメールの作品が7点も一度に見ることができるというので、来館者が10月には60万人を超えたという大入り満員の人気です。<つづく>2008/12/11春庭@アート散歩>フェルメール(3)フェルメール・光の天才画家 2004年10月に映画『真珠の耳飾りの少女』を見ました。2006年には朽木ゆり子の新書 『フェルメール全点踏破の旅』を買い、私も俄フェルメールブームになっていました。S・ヨハンソンの耳飾り少女、かわいかったし。 中高年の「リタイア後のお楽しみ」として、百名山全制覇とか、鉄道全線走破とか「コンプリート達成感」を味わいたい人が多い。フェルメールは、全世界の美術館をめぐる旅になるので、おいそれとは達成できないところが、これまた稀少価値。 今年はそのフェルメールを7点見られる展覧会。これは行かなければ。と、思っていたのに、8月9月も10月も忙しく、ようやく11月に見ることができました。 11月20日、出講先の大学が文化祭休講になったので、それでは文化の秋を満喫せねばと、サントリー美術館のピカソ展と都立美術館のフェルメール展を見ました。 「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」は、フェルメールを目玉として、他のデルフトの画家達の作品といっしょに展示されています。地階入り口から入ると、地階がデルフトの画家達、1階がフェルメールの7点。2階がまたデルフト派の作品とグッズ売り場。 今回見ることができたヨハネス・フェルメールの作品1)「マルタとマリアの家のキリスト』 1655年頃 (スコットランド・ナショナル・ギャラリー所蔵)http://www.icnet.ne.jp/~take/2.html2)「ディアナとニンフたち」1655-1656年頃(マウリッツハイス王立美術館所蔵)http://www.icnet.ne.jp/~take/3.html3)「小路(こみち)」1658-1660年頃(アムステルダム国立美術館所蔵)http://www.icnet.ne.jp/~take/7.html4)「ワイングラスを持つ娘」1659-1660年頃(アントン・ウルリッヒ美術館所蔵)http://www.icnet.ne.jp/~take/11.html5)「リュートを調弦する女」1663-1665年頃(メトロポリタン美術館所蔵)http://www.icnet.ne.jp/~take/11.html6)「手紙を書く婦人と召使い」1670年頃(アイルランド・ナショナル・ギャラリー所蔵)、http://www.icnet.ne.jp/~take/32.html7)「ヴァージナルの前に座る若い女」1670年頃(個人蔵)http://vermeer.jugem.cc/?day=20040708 最後の「ヴァージナルの前に座る若い女」は、小さい作品ですが、個人の所有であるため、この機会をのがすと次にいつ見ることができるかわからない、ということなので、フェルメールファンなら、12月14日の最終日までに見ておきたい作品です。http://journal.mycom.co.jp/articles/2008/08/02/vermeer2008/index.html フェルメール35作品の紹介HPをリンクhttp://www.icnet.ne.jp/~take/vermeer.worklist.html 今回のフェルメール作品のうち、私にとっては、「デルフトの小路」が一番印象に残る作品でした。 他の作品は、複製画や画集で見たときとあまり印象が変わらなかったのに。「デルフトの小路」は、本物を見て、絵の具の塗り具合、色彩、光、うずくまっている子供、犬など、やはり複製や画集の写真でなく、本物を見てよかった、と感じたからです。 この「小路」は、フェルメール作品のなかで、唯一、子供が画面に登場している画としても知られています。 フェルメールは、資産家の娘と結婚し、14人もの子供をなしました。一生妻に頭があがらない「入り婿」のような結婚であっただろうと言われているフェルメールですが、画家組合の役員もつとめ、43歳で亡くなるまで、デルフトでは名の知れた画家として生活していました。現在知られている真作は数が少ないですが、実際はもっと注文を受けて作品を残してきたのかもしれません。<つづく>2008/12/12春庭@アート散歩>フェルメール(4)フェルメール・ブルー 『真珠の耳飾りの少女』のように、「フェルメールがこの少女に密かに恋心をよせていたのではないか」と、想像したくなるような作品もあるし、「注文に応じて描いたのだろうけれど、フェルメールはこの肖像画を注文した人を嫌っていたのではないか」と思わせるような表情を見せているモデルもいます。 「ワイングラスを持つ娘」は、他のフェルメール作品には見られないある特徴が娘の顔にあらわれています。他の作品では、宗教画はもちろん、世俗画でも女性達はみな笑顔をを見せておらず、楽器の調弦をするにせよ手紙を読んだり書いたりするにせよ、真剣そのものの表情をしています。「牛乳を注ぐ」という仕事にこれほどの集中力を示す表情をするのか、と驚く絵もあります。 しかし、ワイングラスを持つ娘は、ワインの酔いゆえにか、妙な作り笑顔を見せています。娘にワインをすすめている小金持ち風の男も、にやけた表情を見せていて、フェルメール作品のなかでも、特別な雰囲気を持っています。 絵のテーマは「色恋沙汰への警告」ということらしいのですが、画集などで見ていたときには気付かなかった、「フェルメールは、この男女ふたりを快く思っていなかったのではないか」という感想を、私は本物の画面一枚から感じ取りました。画面奥にひっそり座っている男はだれなのか、など、謎の多い絵です。 フェルメール作品のなかで、「真珠の耳飾りの少女」のターバンの青、女性のスカートの青など、印象深い青が目をひきます。フェルメールブルーと呼ばれる色彩です。http://www.icnet.ne.jp/~take/21.html 「マルタとマリアの家のキリスト」で、イエスの言葉に熱心に耳を傾けるベタニアのマリアが着ている青いスカート。「ディアナとニンフたち」の黄色い衣装のディアナの隣にいる青いスカートのニンフ。「牛乳を注ぐ女」の青いスカート。「デルフト眺望」の青い空。「手紙を読む青衣の女」の青い上着。「水差しを持つ女」の青い服。「地理学者」の青い上着。「ヴァージナルを弾く女」の青い衣装、、、、 このフェルメールブルーは、ラピスラズリというアフリカ原産の高価な貴石を擦り、油と混ぜ合わせて作り出される色です。当時ラピスラズリは金よりも高価な石でした。 フェルメールは他の顔料の青は気に入らず、ラピスラズリを青い絵の具の材料とする自分のスタイルを崩そうとしませんでした。死後残された多額の借金も、おそらくはこの「フェルメール・ブルー」と後世呼ばれるようになった青い絵の具の材料を買うために重なった借財だろう、という説もあります。 43歳という働き盛りで亡くなってしまったのも、このラピスラズリ購入をめぐる家人との軋轢から心身不調になったとか、貴石の販売購入をめぐってトラブルに巻き込まれたのだとか、憶測の域をでない説がとびかい、魅惑的なフェルメールブルーをさらに「謎の青」に仕立てています。36点という希少価値とともに、ますますフェルメール人気は高まる一方です。 私も一生のうちには、「36作品全点踏破の旅」をしたいと念願しつつ、東京都美術館を出ました。<おわり>