20160924
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(6)やまとなでしこ
万葉集のなでしこの歌24首のうち、12首は大伴家持の作。家持のなでしこ好きは、周囲の人にもよく知られていました。
まだ唐なでしこ(石竹)は、やまと奈良の庭には咲いておらず、なでしこといえば、やまとなでしこ(カワラナデシコ)のことでした。
現代、なでしこジャパンの凜々しい強い女性像が確立して、「やまとなでしこ」には、強くてしっかりしたイメージが定着しました。見た目美しく、芯はしっかりしたナデシコ、いいんじゃないでしょうか。澤さん出産ののちには、やまとなでしこは、美しく強い母のイメージになるかしら。
10-1992
花に寄する
隠耳 戀者苦 瞿麦之 花尓開出与 朝旦将見
隠りのみ恋ふれば苦しなでしこの花に咲き出よ朝な朝な見む
家に引きこもってばかりで恋していると苦しい、(恋慕っているあの人が)なでしこの花になって咲いてほしい。朝ごとにその花を見よう。
17-4010
大伴池主が(大伴家持に)報え贈りて和ふる歌
宇良故非之 和賀勢能伎美波 奈泥之故我 波奈尓毛我母奈 安佐奈々々見牟
うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む
心から慕わしいあなた様がなでしこの花でしたらいいのに。(なでしこをあなたと思って)毎朝見ましょう
家持の部下にして歌を詠み合う盟友、大伴池主。上司の家持が越中守(えっちゅうのかみ)、池主は三等官の越中掾(えっちゅうのじょう)でした。家持が「税帳使」として一時帰京することになったとき、池主は家持が大好きな花、なでしこを詠みます。まるで恋歌を贈るように。
家持もなでしこの歌で答えます。池主は、ほんとうに家持が好きだったのだろうなあと思います。747(天平19)年5月2日のできごとです。
巻17から巻20は、大伴家持の「歌日記」となっている万葉集。家持の自伝のようにして、万葉人の起居往来を知ることができます。
4010の歌を、家持は一音節一文字の万葉仮名で表記採録しています。なでしこは、「奈泥之故」です。
家持が万葉の歌を書き留めるとき、さまざまな工夫をしたことでしょう。それは、古事記の太安万侶も同じことです。稗田阿礼が口承したものを、表記する苦心。音の響きが重要である長歌短歌の表記も、声に出して発音することが重要ですから、意味を伝えるとともに、発音を伝えることが大切でした。
18-4070 大伴家持
比登母等能 奈泥之故宇恵之 曽能許己呂 多礼尓見世牟等 於母比曽米家牟
一本のなでしこ植ゑしその心誰れに見せむと思ひ始めけむ
右は先の国師の従僧清見、京師に入らむとす。よりて飲餞設けて饗宴す。時に、主人大伴宿禰家持、この歌詞を作り、酒を清見におくる(歌の左注の詞書き)
一本のなでしこを植えたその心は、誰に見せようと思って植えたのだろうか。
僧侶を見送る歌にしては、色っぽい恋歌のようです。宴席では、このように恋歌めかして歌を贈答することが、相手への思いやりであったのでしょう。
18-4114 大伴家持 749(天平感宝1)年、庭の花を見て詠める
奈泥之故我 花見流其等尓 乎登女良我 恵末比能尓保比 於母保由流可母
なでしこが花見るごとに娘子らが笑まひのにほひ思ほゆるかも
なでしこの花を見るたびに、おとめたちの笑顔の美しさが思われます
越中に単身赴任の家持、奈良に残してきた妻坂上大嬢へ、きっと筆まめに便りを出したことでしょう。この18-4114の歌の数日前には、部下の書記官の離婚騒動をいさめる歌が残されています。遊び女「左夫流子」が現地妻としてふるまっているところに、都から早馬で本妻がかけつけてきて、大騒動になった、という顛末が書かれています。
家持の妻坂上大嬢は、留守を守る本妻としてどっしりと奈良の宅にいて、すでに「おとめ」とはいいがたい年齢になっているでしょうに、家持はその妻に向かって「なでしこのようなおとめ」と呼びかけています。留守宅を守る妻に気をつかっているようですね。
天平勝宝3年正月3日、介内蔵忌寸縄麻呂(すけのくらのいみきつなまろ)の館に一同が集まって宴会をしました。降りしきる雪の中、遊び女も宴に加わり、夜も更けて鶏が朝を告げるまで皆で酒を飲み歌を詠み合いました。
館の主人、縄麻呂は、国守家持の大好きな花はなでしこであることを知っていたので、雪で巌のかたちをつくり、さらに雪の岩をさまざまな造花で飾りました。たくみに作られたなでしこの花を見て、部下の一人が詠み、遊行女婦(うかれめ)の蒲生女子(がもうおとめ)も一首を国守にささげました。
19-4231 久米朝臣広縄
奈泥之故波 秋咲物乎 君宅之 雪巌尓 左家理家流可母
なでしこは秋咲くものを君が家の雪の巌に咲けりけるかも
なでしこの花は秋咲くものですのに、あなたの家の雪の岩にずっとさいていたんですねえ。
19-4232 蒲生女子
雪嶋 巌尓殖有 奈泥之故波 千世尓開奴可 君之挿頭尓
雪の嶋巌に植ゑたるなでしこは千代に咲かぬか君がかざしに
雪の積もった庭の岩山に植えてあるなでしこは、千年も変わらず咲くでしょうか、あなたの髪飾りにするために
平家物語に出てくる白拍子もそうですが、遊び女たちは、どのような貴顕の前に出ても、さっと機知を働かせて、一座の人を喜ばせるめでたい歌を歌う技量をもっていました。この、越中の遊び女も、雪の岩山に飾られたなでしこを見て即座に、館の主人と国守家持とを寿ぐ歌を詠みました。歴史の中からは消えてなくなった遊び女、遊行女婦の蒲生女子が宴に侍った生きたあかし。どこのだれとも実名は残らなかったけれど、今、私は、たしかにあなたの歌う声をききました。雪の中、宴会に笑いさざめく人々の間から、あなたの声は凜として響いてきます。
755(天平勝宝7)年5月9日、大伴家持の家の宴会で、大原真人今城(おおはらのまひといまき)が一首詠み、家持がそれに答えて詠みました。
館の主の家持がなでしこ好きであることから、なでしこにことよせて上司を誉める歌。
大原真人今城は、臣籍降下以前は今城王(いまきのおう)と呼ばれていました。755年頃は家持の直属の部下であったと推察されます。
20-4442 大原真人今城
和我勢故我 夜度乃奈弖之故 比奈良倍弖 安米波布礼杼母 伊呂毛可波良受
我が背子が宿のなでしこ日並べて雨は降れども色も変らず
あなた様の庭のなでしこは、何日も雨が続いているけれども、色も変わらずきれいに咲き続けていますね(あなたの姿が変わりなく麗しいように)
20-4443 大伴家持
比佐可多能 安米波布里之久 奈弖之故我 伊夜波都波奈尓 故非之伎和我勢
ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花に恋しき我が背
空高くから雨は降り続きますけど、咲いたばかりの初々しいなでしこのように、いつまでも慕わしいあなたです
上記の歌の2日後、755(天平勝宝7)年5月11日、右大弁丹比国人真人(うだいべんたじひのくにひとのまひと)の宅で宴会がありました。主賓は左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)
もてなし役の真人は、橘諸兄を寿ぐ歌を詠み、諸兄が答えます。
20-4446 丹比真人
和我夜度尓 佐家流奈弖之故 麻比波勢牟 由米波奈知流奈 伊也乎知尓左家
我が宿に咲けるなでしこ賄はせむゆめ花散るないやをちに咲け 私の庭に咲いているなでしこよ、なんでも差し上げるから、決して散らないでいつもいつも咲いてください
20-4447 橘諸兄
麻比之都々 伎美我於保世流 奈弖之故我 波奈乃未等波無 伎美奈良奈久尓
賄しつつ君が生ほせるなでしこが花のみ問はむ君ならなくに ナデシコの花にご褒美をたくさんやってあなたが育て咲かせた花なのですね。あなたは、花だけに問いかけるような実のない方ではないはず。(あなたの真実の心をわかっています)
相手をささなければ自分がさされる。左大臣橘諸兄は藤原仲麻呂一派によって追い落とされ、この5月の宴会から半年後には失脚。翌年には亡くなってしまいます。
丹比真人宅の宴会の返礼でしょうか、5月18日には、橘諸兄の息子橘奈良麻呂の宅で宴会。兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)になった大伴家持は、宴会に出ては歌を詠んでいます。この時期、宴会も歌を詠むことも大事な政治の駆け引きでした。仲間を固め、宮廷内の熾烈な派閥争いに抗していかなければ、なりませんでした。
20-4449 船王(ふねのおお)
奈弖之故我 波奈等里母知弖 宇都良々々々 美麻久能富之伎 吉美尓母安流加母
なでしこが花取り持ちてうつらうつら見まくの欲しき君にもあるかも
なでしこの花をとってみるように、じかにお会いしたい奈良麻呂様です
船王は、天武天皇の皇子である舎人親王の子。757年に起きた橘奈良麻呂の乱では、乱に荷担した者たちをとがめる方にいたけれど、7年後の764(天平宝字8)年の藤原仲麻呂の乱では、連座の罪に問われ、隠岐国に配流となりました。まことに昨日の友は今日の敵の古代宮廷の勢力争い。
上記の橘奈良麻呂宅の宴席ではナデシコの歌を詠まなかった大伴家持が、あとで付け足した歌が二首あります。
20-4450 大伴家持
和我勢故我 夜度能奈弖之故 知良米也母 伊夜波都波奈尓 佐伎波麻須等母
我が背子が宿のなでしこ散らめやもいや初花に咲きは増すとも
奈良麻呂様の庭のなでしこは、散ることはございません。ますます初花のように咲き増さることでしょう。
20-4451 大伴家持
宇流波之美 安我毛布伎美波 奈弖之故我 波奈尓奈蘇倍弖 美礼杼安可奴香母
うるはしみ我が思ふ君はなでしこが花になそへて見れど飽かぬかも
ご立派で美しいと私が思うあなたさまは、なでしこの花のように見飽きることがありません
宴席では詠まなかった奈良麻呂を寿ぐ歌。あとから付け足したのは、宴が終わってからすぐのことだったのでしょうか。それとも奈良麻呂の乱の後なのでしょうか。
757 年、橘諸兄が74歳で没すると、藤原仲麻呂の専横はますます強くなり、奈良麻呂は謀反の罪を着せられ、速攻死刑になってしまいました。
巻17から巻20は、大伴家持の歌日記。いつ何をしたか、詳細な記録が歌の詞書きとして残されています。
そして、759(天平宝字3)年に、万葉集最後の歌20-4516の歌のあと、ぷっつりと家持の歌日記は記録されていません。
亡くなるまでの25年間、歌を詠まなかった、ということはなかったでしょうに。
家持の死後に起きた藤原種継暗殺事件に、家持が生前に関与していたとされ、遺骸が流罪にされています。
罪が許されるのは、家持の死後20年を経た桓武天皇崩御のあとのこと。その間に、家持後半生25年間の歌は散逸してしまったのでしょうか。家持後半生の歌も読みたかったなあ。
カワラナデシコ画像借り物
<つづく>