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ぽかぽか春庭「9月目次」

2016-09-29 00:00:01 | エッセイ、コラム


20160929
ぽかぽか春庭「2016年9月目次」

0901 ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>長月のことば(1)台風過
0903 長月のことば(2)秋の夜道
0904 長月のことば(3)二百十日
0906 長月のことば(4)秋の寺
0907 長月のことば(5)秋天
0908 長月のことば(6)破れ蓮

0910 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>台風散歩(1)東京ステーションギャラリー12Rooms12Artist
0911 台風散歩(2)江戸東京博物館・幽霊展&大妖怪展
0913 台風散歩(3)古代ギリシャ展
0914 台風散歩(4)向島百花園
0915 台風散歩(5)黒田記念館その他

0917 ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(1)萩の花
0918 秋の七草(2)尾花
0920 秋の七草(3)おみなえし
0921 秋の七草(4)朝顔(ききょう)
0922 秋の七草(5)なでしこその1
0924 秋の七草(6)やまとなでしこ
0925 秋の七草(7)くず
0927 秋の七草(8)藤袴
0928 秋の七草(9)秋の七草番外、いちしの花
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ぽかぽか春庭「秋の七草番外いちしの花」

2016-09-28 00:00:01 | エッセイ、コラム

小石川後楽園20160926撮影

20160928
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(9)いちしの花

 山上憶良の秋の七草の花の歌を見てきました。最後はおまけの八草め。
 東京の秋。道ばたを歩いていて、一番目につく花は、彼岸花です。このところ、やたらに増えている気がします。自転車でご近所一回りするだけで、ガードレールの前にあちこちで咲いています。

 近所の道ばた20190926


 万葉集には、彼岸花という花は見当たりません。
 万葉集に載っている花々、朝顔のように、その名で呼ばれていたのが現在の朝顔とはことなり、どの花であったか、諸説ある花も多い。
 彼岸花は、「いちしの花」と呼ばれていたのではないか、という説があります。「いちしろし」は、「いちじるしく目立つ」という意味なので、イネが実るころ、田畑の畦でもっとも目立つ花、それは彼岸花であったろう、という推理です。

 ただし、いちしの花も、諸説あり、ダイオウ、ギシギシ、イチヒシバ、草イチゴ、エゴノキ、イタドリなどが候補にあがっています。私は例によって、牧野富三郎博士説に従います。
 牧野説は、いちしの花=彼岸花。
 日本には稲作伝来時に帰化したのではないかという説が有力で、彼岸のころに咲くので彼岸花。また、墓などに植えられることから仏教用語を用いて曼珠沙華。別名や方言が百以上もあるということは、それだけこの花が広く知られていたということでしょう。
 中国では、生薬「石蒜(せきさん)shisuan」として使われる薬の名で花も呼ばれています。

 私は子どものころは、あまり彼岸花が好きではありませんでした。毒があると脅されたせいもあるでしょうし、周囲から隔絶して屹立する姿があまりにあでやかで、なじめなかったのかも知れません。 

11-2480 柿本人麻呂歌集より
路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀■(女偏に麗) [或本歌曰 灼然 人知尓家里 継而之念者
道の辺の、いちしの花の、いちしろく、人皆知りぬ、我が恋妻は
[或(あ)る本の歌に曰(いわ)く いちしろく、人知りにけり、継ぎてし思へば]
 
  道端のいちしの花が目立つように、私の恋しい妻のことをみんなに知られてしまいました

 こっそりと通う隠し妻。通い婚の時代には、妻をはっきりと人に紹介するまでに、いろいろな紆余曲折があったのでしょう。人にお披露目をする前に、自分の通い先が人に知られ、妻のことが露見してしまった、道の端に咲く「いちしの花」のように、いちしろく(目立って)しまったのです。
 穏便に順序を経て妻をお披露目する予定であったのか、まだ相手の両親の許しをえていないのか。柿本人麻呂が編集したとされている万葉集以前にまとめられた歌集の中に掲載されていた歌です。
 妻の表記が「女麗(女編に麗)」であるところが、「我妹」などの表記よりも、あでやかな妻である印象を受けます。

近所の道ばた


 娘息子と『漱石の妻』というドラマを見ていたら、中根鏡子との見合いの席で、舅になる鏡子の父親から「俳句をなさるそうですね」と問われて、漱石は「曼珠沙華あっけらかんと道の端」という句を披露していました。漱石の胸に、この「道の辺のいちしの花のいちしろく、人皆知りぬ、我が恋妻は」が本歌取りとして意識されていたかどうかは、ドラマでは描かれていませんでしたが、鏡子さんは、お見合いのときから「いちしろき」女性であったようです。

 漱石は、近代日本語表現を作り上げた文人のひとりです。万葉時代の日本語、明治以後の近代日本語、そしてインターネット時代の現代日本語。生きたことばである限り、時代によってことばは変化していきます。変化しても、伝わる部分は伝わっていきます。
 1300年前のことばであっても、「いちしろし」が室町時代から「いちじるし」に変わり、現代語では「いちじるしい」であって「他にぬきんでて目立つこと」と、わかれば、「道の辺の、いちしの花の、いちしろく、人皆知りぬ、我が恋妻は」という歌も、十分に味わえます。

 忙しい時代ではありますが、ときに時代の流れに抗って、のんびり古代の日本語を味わてみるひとときも、またよきかな、、、、、現在無職のオバハンが、ちょいと暇つぶしをしただけ、というのもその通りですが、名主の滝公園や東御苑で彼岸花眺めてすごすのも、万葉集のページをひらくのも、無料でできる遊びです。どなた様もタダで楽しんでくださいませ。

皇居東御苑

名主の滝公園


以下、小石川庭園




<おわり>
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ぽかぽか春庭「藤袴」

2016-09-27 00:00:01 | エッセイ、コラム

小石川後楽園のフジバカマは、まだつぼみ20160926撮影

20160927
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(8)藤袴

 万葉集、山上憶良秋の七草の歌を集めてきました。
 憶良が選んだ七草のうち、萩は万葉人に秋野の花として好まれ、141首も掲載されているのに、最後の藤袴は、憶良の七草の歌のほかひとつもないのです。きれいな花だし、秋らしいのに、万葉人は、この花を愛でてはやらなかったのでしょうか。

 フジバカマは、古墳時代にはすでに日本の野山にあったとのことですが、もともとは、中国で「蘭の花」と呼ばれていた、古代の帰化植物です。(牧野富太郎説を信じます)
 茎や葉を乾燥させるとよい香りが出るので、中国では香草として用いられとか。

 現在では、フジバカマが自生していた河原が河川敷工事などで野草が育たなくなるなど、野原で自然な状態で見ることが難しくなってきています。今や、フジバカマは、絶滅危惧Ⅱ類(VU=絶滅の危険が増大している種)に指定されています。花屋の切り花は、西洋種などとの雑種だそうです。


「やまくさ信濃 文京店」で、お店の人におゆるしをいただき撮影20160926
 お店の方の説明では、山野草のフジバカマではなく、菊葉フジバカマなどの変種などから園芸種を育てている、ということでした。

 万葉集には歌が残されていない藤袴ですが、古今集にはありますし、源氏物語では巻三十の巻名になっています。ただ、古今新古今以後の歌人たちは、実際の草花の写生の歌ではないので、地名も草花詠も、イメージで詠んでいます。

やどりせし人のかたみか藤袴わすられがたき香ににほひつつ(『古今集』紀貫之)
 我が家に泊って行った人の残した形見でしょうか、藤袴は忘れがたい香にしきりと匂っています

同じ野の露にやつるゝ藤袴あはれはかけよかごとばかりも(「源氏物語・藤袴」夕霧が玉鬘におくる歌)
 (亡くなった大宮につながるご縁を持ち、大宮への涙にくれている私とあなた)同じ野の露にやつれてしまった藤袴のように、私をなさけをかけてやってくださいませんか

秋ふかみたそかれ時のふぢばかまにほふは名のる心地こそすれ(『千載集』崇徳院)
 秋も深まったので、たそがれ時の藤袴は姿もはっきりとは見えない。その美しく映える色合いに出逢うのは、名告るような感じがすることだ

 崇徳院がいつごろ詠んだ歌なのでしょうか。「暮尋草花といへる心をよませ給うける」という詞書きがあるので、題詠です。崇徳院は、都にある間は貴族を集めて和歌を詠み合うのを好んでいましたが、題詠では、ただ藤袴のイメージを詠んだのだろうと思います。保元の乱ののち、配流先の讃岐の地では実際に咲く藤袴を目にする機会があったでしょうか。

 藤原定家の藤袴の歌も、蘭草、香草としての藤袴を詠んでいるのであって、実際に咲いている藤袴を見て折ろうとしているのではないように思います。生の藤袴はほとんど香りはなく、乾燥させたものが香り高くなるのだということですが、定家は野辺の藤袴を折り取れば、匂いが袖に移り香となるように思っているのではないでしょうか。

霧の間にひとえだ折らむ藤袴あかぬにほひや袖にうつると(藤原定家)
 霧に閉ざされている間に、藤袴をひと枝折ってしまいましょう。いつまでも匂いが袖に移り香となるでしょう

 源実朝が砥上ヶ原(現在の神奈川県藤沢市近辺)に遊び、藤袴を詠んでいるのですが、こちらも、藤袴といえば香りだよね、という詠みぶりです。

秋風になに匂ふらむ藤袴主はふりにし宿と知らずや(『金槐和歌集』源実朝)
秋風に藤袴が匂っている。自分が咲いている庭は、古びた宿なのだと知っているのだろうか。

 最後に、山上憶良の秋の七草の歌をもう一度。唯一、藤袴が詠み込まれた万葉集の歌なので。
8-1538 山上憶良
萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花

「やまくさ信濃 文京店」の売り物の藤袴の鉢植え20160927撮影

 まだつぼみだった小石川後楽園のフジバカマ。園内、円月橋の脇にあり、見頃のころ訪れた人はらっき~!



<つづく>
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ぽかぽか春庭「くず」

2016-09-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160925
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(7)くず

 万葉集に葛が詠み込まれた歌は21首。
 しかし、どれもが、どこにでも蔓延って行くツルと、太く強い茎を「生命力のあらわれ」として詠んでいるのみ。花の咲いた葛を詠んだのは山上憶良の七草の歌のみで、万葉人は、くずの素朴な花には、あまり目にとめなかったようです。マメの仲間なので、花もきれいなんですけれど。

 葛の根を煎じて薬にしたのが葛根湯。解熱咳止めの生薬です。
 古代では、大和の国栖(くず)がくず粉の産地として知られていました。今は奈良の吉野のくず粉が高級品。吉野葛粉は1kgで5000円ほど。
 くず餅も大好きですが、私がスーパーで買うくず餅は、くず粉ではなく、片栗粉を使った代用品。っと、花のシリーズなのに、どうしても食べ物の話題になってしまう。

 クズの丈夫な茎はその繊維を糸にして織りあげ葛布として使われたし、ツルは籠などを編んだ。根は薬用。花を摘んで干し、お茶として飲む。無駄なく使えるクズですが、アメリカなどで帰化植物として繁茂すると、天敵もおらず、お茶にも薬にも利用する人がいない環境では、ただやたらにはびこりすぎ、侵略的外来植物として嫌われているのだそうです。アメリカでくず粉を流行らせたら、クズも好かれるようになるでしょうか。おいしいワカメも、食べる人がいないのに繁茂してしまった海岸では、侵略的外来種として嫌われているそうです。日本の秋野ではセイタカアワダチソウやブタクサが嫌われモノになっています。植物というのは、やはり本来の場所で育つのがいいのでしょうね。

 さて、万葉集中、ナデシコの花を12首も詠んだ大伴家持ですが、クズの歌は一首のみ。それも花ではなく、這うツルのほうです。
 
  高円の離宮を愛した大王、聖武天皇を偲んで詠んだ歌です。
20-4509 大伴家持
波布久受能 多要受之努波牟 於保吉美乃 賣之思野邊尓波 之米由布倍之母
延ふ葛の絶えず偲はむ大君の見(め)しし野辺には、標(しめ)結ふべしも

 長く伸びてゆく葛 くず)のように、末永く絶えることなくお慕いする大君がご覧になった野辺には、しめ縄を張りましょう

 他の葛も、花を詠んだのではなく、蔓延る葉やツルですので、もう一首だけ、東歌を提出。ふるさと群馬の葛です。

14-3412
賀美都家野 久路保乃祢呂乃 久受葉我多 可奈師家兒良尓 伊夜射可里久母 
上つ毛野 久路保の嶺(ね)ろの、葛葉がた、愛(かな)しけ子らにいや離(ざか)り来も
 上つ毛野(かみつけの)の久路保(くろほ)の麓の葛の蔓が長く伸びるように、長い道のりを歩いてきて、愛(いと)しいあの娘からますます遠く離れてきてしまいました

 黒保根は、群馬の中央にそびえる赤城山。黒保根の地から防人となって出て行き、愛しい人とどんどん遠ざかっていく哀しみを詠みました。
 1300年前に出征していった男を見送る女の心も、葛のツルのように長く伸びて愛する人を追いかけていきたかっただろうと思います。


くずの花 画像借り物

<つづく>
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ぽかぽか春庭「やまとなでしこ」

2016-09-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160924
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(6)やまとなでしこ

 万葉集のなでしこの歌24首のうち、12首は大伴家持の作。家持のなでしこ好きは、周囲の人にもよく知られていました。
 まだ唐なでしこ(石竹)は、やまと奈良の庭には咲いておらず、なでしこといえば、やまとなでしこ(カワラナデシコ)のことでした。

 現代、なでしこジャパンの凜々しい強い女性像が確立して、「やまとなでしこ」には、強くてしっかりしたイメージが定着しました。見た目美しく、芯はしっかりしたナデシコ、いいんじゃないでしょうか。澤さん出産ののちには、やまとなでしこは、美しく強い母のイメージになるかしら。

10-1992 花に寄する
隠耳 戀者苦 瞿麦之 花尓開出与 朝旦将見
隠りのみ恋ふれば苦しなでしこの花に咲き出よ朝な朝な見む

 家に引きこもってばかりで恋していると苦しい、(恋慕っているあの人が)なでしこの花になって咲いてほしい。朝ごとにその花を見よう。

17-4010 大伴池主が(大伴家持に)報え贈りて和ふる歌
宇良故非之 和賀勢能伎美波 奈泥之故我 波奈尓毛我母奈 安佐奈々々見牟 
うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む

 心から慕わしいあなた様がなでしこの花でしたらいいのに。(なでしこをあなたと思って)毎朝見ましょう

 家持の部下にして歌を詠み合う盟友、大伴池主。上司の家持が越中守(えっちゅうのかみ)、池主は三等官の越中掾(えっちゅうのじょう)でした。家持が「税帳使」として一時帰京することになったとき、池主は家持が大好きな花、なでしこを詠みます。まるで恋歌を贈るように。
 家持もなでしこの歌で答えます。池主は、ほんとうに家持が好きだったのだろうなあと思います。747(天平19)年5月2日のできごとです。
 巻17から巻20は、大伴家持の「歌日記」となっている万葉集。家持の自伝のようにして、万葉人の起居往来を知ることができます。

 4010の歌を、家持は一音節一文字の万葉仮名で表記採録しています。なでしこは、「奈泥之故」です。
 家持が万葉の歌を書き留めるとき、さまざまな工夫をしたことでしょう。それは、古事記の太安万侶も同じことです。稗田阿礼が口承したものを、表記する苦心。音の響きが重要である長歌短歌の表記も、声に出して発音することが重要ですから、意味を伝えるとともに、発音を伝えることが大切でした。

18-4070 大伴家持
比登母等能 奈泥之故宇恵之 曽能許己呂 多礼尓見世牟等 於母比曽米家牟
一本のなでしこ植ゑしその心誰れに見せむと思ひ始めけむ

 右は先の国師の従僧清見、京師に入らむとす。よりて飲餞設けて饗宴す。時に、主人大伴宿禰家持、この歌詞を作り、酒を清見におくる(歌の左注の詞書き)
 一本のなでしこを植えたその心は、誰に見せようと思って植えたのだろうか。

 僧侶を見送る歌にしては、色っぽい恋歌のようです。宴席では、このように恋歌めかして歌を贈答することが、相手への思いやりであったのでしょう。

18-4114 大伴家持 749(天平感宝1)年、庭の花を見て詠める
奈泥之故我 花見流其等尓 乎登女良我 恵末比能尓保比 於母保由流可母
なでしこが花見るごとに娘子らが笑まひのにほひ思ほゆるかも

 なでしこの花を見るたびに、おとめたちの笑顔の美しさが思われます

 越中に単身赴任の家持、奈良に残してきた妻坂上大嬢へ、きっと筆まめに便りを出したことでしょう。この18-4114の歌の数日前には、部下の書記官の離婚騒動をいさめる歌が残されています。遊び女「左夫流子」が現地妻としてふるまっているところに、都から早馬で本妻がかけつけてきて、大騒動になった、という顛末が書かれています。

 家持の妻坂上大嬢は、留守を守る本妻としてどっしりと奈良の宅にいて、すでに「おとめ」とはいいがたい年齢になっているでしょうに、家持はその妻に向かって「なでしこのようなおとめ」と呼びかけています。留守宅を守る妻に気をつかっているようですね。

 天平勝宝3年正月3日、介内蔵忌寸縄麻呂(すけのくらのいみきつなまろ)の館に一同が集まって宴会をしました。降りしきる雪の中、遊び女も宴に加わり、夜も更けて鶏が朝を告げるまで皆で酒を飲み歌を詠み合いました。

 館の主人、縄麻呂は、国守家持の大好きな花はなでしこであることを知っていたので、雪で巌のかたちをつくり、さらに雪の岩をさまざまな造花で飾りました。たくみに作られたなでしこの花を見て、部下の一人が詠み、遊行女婦(うかれめ)の蒲生女子(がもうおとめ)も一首を国守にささげました。
 
19-4231 久米朝臣広縄
奈泥之故波 秋咲物乎 君宅之 雪巌尓 左家理家流可母
なでしこは秋咲くものを君が家の雪の巌に咲けりけるかも

 なでしこの花は秋咲くものですのに、あなたの家の雪の岩にずっとさいていたんですねえ。

19-4232 蒲生女子
雪嶋 巌尓殖有 奈泥之故波 千世尓開奴可 君之挿頭尓 
雪の嶋巌に植ゑたるなでしこは千代に咲かぬか君がかざしに

 雪の積もった庭の岩山に植えてあるなでしこは、千年も変わらず咲くでしょうか、あなたの髪飾りにするために

 平家物語に出てくる白拍子もそうですが、遊び女たちは、どのような貴顕の前に出ても、さっと機知を働かせて、一座の人を喜ばせるめでたい歌を歌う技量をもっていました。この、越中の遊び女も、雪の岩山に飾られたなでしこを見て即座に、館の主人と国守家持とを寿ぐ歌を詠みました。歴史の中からは消えてなくなった遊び女、遊行女婦の蒲生女子が宴に侍った生きたあかし。どこのだれとも実名は残らなかったけれど、今、私は、たしかにあなたの歌う声をききました。雪の中、宴会に笑いさざめく人々の間から、あなたの声は凜として響いてきます。 

 755(天平勝宝7)年5月9日、大伴家持の家の宴会で、大原真人今城(おおはらのまひといまき)が一首詠み、家持がそれに答えて詠みました。
 館の主の家持がなでしこ好きであることから、なでしこにことよせて上司を誉める歌。
 大原真人今城は、臣籍降下以前は今城王(いまきのおう)と呼ばれていました。755年頃は家持の直属の部下であったと推察されます。

20-4442 大原真人今城    
和我勢故我 夜度乃奈弖之故 比奈良倍弖 安米波布礼杼母 伊呂毛可波良受
我が背子が宿のなでしこ日並べて雨は降れども色も変らず

 あなた様の庭のなでしこは、何日も雨が続いているけれども、色も変わらずきれいに咲き続けていますね(あなたの姿が変わりなく麗しいように)

20-4443 大伴家持
比佐可多能 安米波布里之久 奈弖之故我 伊夜波都波奈尓 故非之伎和我勢
ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花に恋しき我が背

  空高くから雨は降り続きますけど、咲いたばかりの初々しいなでしこのように、いつまでも慕わしいあなたです

 上記の歌の2日後、755(天平勝宝7)年5月11日、右大弁丹比国人真人(うだいべんたじひのくにひとのまひと)の宅で宴会がありました。主賓は左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)
 もてなし役の真人は、橘諸兄を寿ぐ歌を詠み、諸兄が答えます。 

20-4446 丹比真人
和我夜度尓 佐家流奈弖之故 麻比波勢牟 由米波奈知流奈 伊也乎知尓左家 
我が宿に咲けるなでしこ賄はせむゆめ花散るないやをちに咲け
 私の庭に咲いているなでしこよ、なんでも差し上げるから、決して散らないでいつもいつも咲いてください

20-4447 橘諸兄
麻比之都々 伎美我於保世流 奈弖之故我 波奈乃未等波無 伎美奈良奈久尓
賄しつつ君が生ほせるなでしこが花のみ問はむ君ならなくに
 ナデシコの花にご褒美をたくさんやってあなたが育て咲かせた花なのですね。あなたは、花だけに問いかけるような実のない方ではないはず。(あなたの真実の心をわかっています)

 相手をささなければ自分がさされる。左大臣橘諸兄は藤原仲麻呂一派によって追い落とされ、この5月の宴会から半年後には失脚。翌年には亡くなってしまいます。

 丹比真人宅の宴会の返礼でしょうか、5月18日には、橘諸兄の息子橘奈良麻呂の宅で宴会。兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)になった大伴家持は、宴会に出ては歌を詠んでいます。この時期、宴会も歌を詠むことも大事な政治の駆け引きでした。仲間を固め、宮廷内の熾烈な派閥争いに抗していかなければ、なりませんでした。
  
20-4449 船王(ふねのおお) 
奈弖之故我 波奈等里母知弖 宇都良々々々 美麻久能富之伎 吉美尓母安流加母
なでしこが花取り持ちてうつらうつら見まくの欲しき君にもあるかも

 なでしこの花をとってみるように、じかにお会いしたい奈良麻呂様です

 船王は、天武天皇の皇子である舎人親王の子。757年に起きた橘奈良麻呂の乱では、乱に荷担した者たちをとがめる方にいたけれど、7年後の764(天平宝字8)年の藤原仲麻呂の乱では、連座の罪に問われ、隠岐国に配流となりました。まことに昨日の友は今日の敵の古代宮廷の勢力争い。

 上記の橘奈良麻呂宅の宴席ではナデシコの歌を詠まなかった大伴家持が、あとで付け足した歌が二首あります。

20-4450 大伴家持
和我勢故我 夜度能奈弖之故 知良米也母 伊夜波都波奈尓 佐伎波麻須等母 
我が背子が宿のなでしこ散らめやもいや初花に咲きは増すとも

 奈良麻呂様の庭のなでしこは、散ることはございません。ますます初花のように咲き増さることでしょう。 

20-4451 大伴家持
宇流波之美 安我毛布伎美波 奈弖之故我 波奈尓奈蘇倍弖 美礼杼安可奴香母
うるはしみ我が思ふ君はなでしこが花になそへて見れど飽かぬかも

 ご立派で美しいと私が思うあなたさまは、なでしこの花のように見飽きることがありません

 宴席では詠まなかった奈良麻呂を寿ぐ歌。あとから付け足したのは、宴が終わってからすぐのことだったのでしょうか。それとも奈良麻呂の乱の後なのでしょうか。
757 年、橘諸兄が74歳で没すると、藤原仲麻呂の専横はますます強くなり、奈良麻呂は謀反の罪を着せられ、速攻死刑になってしまいました。
 
巻17から巻20は、大伴家持の歌日記。いつ何をしたか、詳細な記録が歌の詞書きとして残されています。
 そして、759(天平宝字3)年に、万葉集最後の歌20-4516の歌のあと、ぷっつりと家持の歌日記は記録されていません。
 亡くなるまでの25年間、歌を詠まなかった、ということはなかったでしょうに。

 家持の死後に起きた藤原種継暗殺事件に、家持が生前に関与していたとされ、遺骸が流罪にされています。
 罪が許されるのは、家持の死後20年を経た桓武天皇崩御のあとのこと。その間に、家持後半生25年間の歌は散逸してしまったのでしょうか。家持後半生の歌も読みたかったなあ。


カワラナデシコ画像借り物

<つづく>

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ぽかぽか春庭「なでしこ」

2016-09-22 00:04:25 | エッセイ、コラム
20160922
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(5)なでしこその1

 楚々とした素朴な美人の代名詞となった「やまとなでしこ」。
現在は栽培種のなでしこもさまざまに育種されて花屋に並んでいますが、もともとは河原などに自生していた「かわらなでしこ」です。
 花屋さんの切り花ナデシコは、とても色鮮やかで花弁のバリエーションもさまざま。ここでは、万葉人たちが見ていたカワラナデシコを「なでしこ」とします。


神代植物園にて撮影20160919

 しかし、現代の若者に「なでしこ色」というと、「なでしこジャパンのユニホームの色」と思うそうで、まあ、それもそれでよいですけれど。でもねぇ、やっぱり、本来のナデシコ色ということばも、長く残しておきたい。。

3-0408 大伴宿禰家持、同じき坂上家の大嬢(おおいつらめ)に贈れる歌一首
石竹之 其花尓毛我 朝旦 手取持而 不戀日将無
なでしこがその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ

 あなたがなでしこの花だったらなあ。そうしたら毎朝、手に取って愛でるのに

 坂上大嬢は、家持の父大伴旅人の異母妹坂上朗女の娘。従兄弟の家持とは幼なじみです。 家持は、青春の愛を傾けた側室と死別して悲嘆にくれたあと、おば坂上朗女の娘である、いとこ大嬢を正妻に迎えます。

3-0464 又、家持、砌(みぎり)の上の瞿麦(なでしこ)の花を見て作れる歌一首
秋去者 見乍思跡 妹之殖之 屋前乃石竹 開家流香聞 
秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも

 秋になったなら、いっしょに見て楽しみましょうね、と言って妻が植えた、家のなでしこが咲いている

 739(天平11)年、家持の愛妾がなくなりました。家持を残して亡くなったこの「妹=妻」は、正妻扱いをされておらず、側室として家持が愛した人だったようです。どこの家の出身かもわかっておらず、名前も残っていません。家持は、愛妾を悼む長歌短歌を12首巻三に残しています。とはいうものの、愛妾の死後、まもなくいとこ坂上大嬢を正妻として迎えます。

8-1448 大伴宿禰家持、坂上家の大嬢に贈れる歌一首
吾屋外尓 蒔之瞿麥 何時毛 花尓咲奈武 名蘇經乍見武
我がやどに蒔きしなでしこいつしかも花に咲きなむなそへつつ見む

 私の庭に蒔いたなでしこは、いつになったら咲くでしょうか。その花をあなたになぞらえて見ようと思っています

 現在では石竹は、「唐なでしこ」の当て字とされ、日本産のヤマトなでしことはことなる種類とされていますが、万葉集では、カワラナデシコが「石竹」「瞿麥」などの当て字で表記されています。唐なでしこは、平安時代から栽培されたということなので、家持の時代には、大和なでしこと唐ナデシコは、区別されていなかったと思います。

8-1496 大伴家持の石竹の花の歌一首
吾屋前之 瞿麥乃花 盛有 手折而一目 令見兒毛我母
我が宿のなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも

 私の庭のなでしこの花が今を盛りと咲いています。手折って一目見せてあげられる娘がいたらいいのだけれど

 詞書きでは「石竹」、歌では「瞿麥」の文字が当てられています。

8-1510 大伴家持、紀女郎に贈れる歌一首
瞿麥者 咲而落去常 人者雖言 吾標之野乃 花尓有目八方
なでしこは咲きて散りぬと人は言へど我が標めし野の花にあらめやも

 なでしこは咲いて散ったと人は言うけれど、私が標(し)めをした(自分のものと目印をつけた)野の花のことではないでしょうね。(私がしるしをつけたあなたですから、よもや心変わりはないと信じます)

 養老年間に安貴王の妻のひとりであった紀女郎(きのいつらめ)。未亡人となり宮廷にお仕えしつつ、大伴家持らと恋歌のやりとりをしていました。家持によって、その名が「小鹿」であったと、記録されています。

1538: 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花

1549: 射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花ふさ手折り我れは持ちて行く奈良人のため

8-1610 丹生女王(にうのひめみこ)太宰師大伴旅人に贈れる歌一首
高圓之 秋野上乃 瞿麦之花 丁壮香見 人之挿頭師 瞿麦之花
高円の秋野の上のなでしこの花うら若み人のかざししなでしこの花

 高円(たかまど)の秋の野のなでしこの花、まだ若々しかったので、あなたは髪飾りにしたのでしたね。なでしこの花を

8-1616 笠郎女、大伴宿禰家持に贈れる歌一首
毎朝 吾見屋戸乃 瞿麦之 花尓毛君波 有許世奴香裳
朝ごとに我が見る宿のなでしこの花にも君はありこせぬかも

 あなたが、毎朝私が見る庭のなでしこの花であってくだされば良いのですけど

10-1970 花を詠める 
見渡者 向野邊乃 石竹之 落巻惜毛 雨莫零行年
見わたせば向ひの野辺のなでしこの散らまく惜しも雨な降りそね

 見わたす向こうの野辺のなでしこが散ってしまったら惜しいことです。雨よ、降らないでおくれ

10-1972 花を詠める
野邊見者 瞿麦之花 咲家里 吾待秋者 近就良思母
野辺見ればなでしこの花咲きにけり我が待つ秋は近づくらしも
 
 野を見るとなでしこの花が咲いています。私が待っている秋が近づいてきたようです

<つづく>
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ぽかぽか春庭「あさがほ」

2016-09-21 00:06:34 | エッセイ、コラム

向島百花園にて撮影20160905

20160921
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(4)朝顔(ききょう)

 万葉集の中で、「朝顔」と呼ばれている花。「朝、一番に起きて見るひときわ美しい花」という意味で、「現代に朝顔と呼ばれている花」のほか、「むくげ」「ききょう」などが朝顔であったろう、という説が出されています。
 また、万葉集の「顔花」も、ヒルガオかカキツバタ、ムクゲ、アサガオ、など諸説あり、花に詳しくない私などは、どれがどれやら混乱します。
 ここでは、犬養孝と片岡寧豊の説に従って、ききょう説をとります。


 万葉集には、「朝顔」の歌は、5首あります。そのうち1首は、山上憶良の七草の歌なので、その他は4首。そのうち3首は巻10の「花を詠める」「花に寄する」に並べられている、作者名のない歌です。さまざまな経緯で集められていた歌のうち、東歌である巻14-3502のように、東の方言をそのまま仮名表記してある採録方法は、編者の歌に対する公平で真摯な考え方が、あずま育ちの私にはうれしいことに思えます。おそらく、民謡のようにして、あずま出身の防人達が歌っていたのを、防人検校の仕事をしていた大伴家持らが記録したのだろうと思います。

10-2104 朝杲 朝露負 咲雖云 暮陰社 咲益家礼
朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけり

 朝顔は朝露を浴びて咲くといいますが、夕方の薄暗い光の中でこそ輝いて見えます

 私には恋歌に思えます。「あなたは、朝見ても当然美しいけれど、夕方の薄暗くなった光の中でこそ輝く美貌です。そんなあなたに夕方会って、夜をともにすごせたらなあ」という、遠回りな求愛の歌だと思いますが。

 むくげや朝顔だと、朝のほうがだんぜん美しく、夕方は少々しおれてくる。よって、朝も美しいけれど、夕方にいっそう光って見えるききょうのほうが「朝顔」にふさわしい花だ、と、ききょう説の採用者は、この歌を根拠として、ききょうのほうをあさがおにふさわしいと考えているのです。

10-2274 展轉 戀者死友 灼然 色庭不出 朝容皃之花
こいまろび恋ひは死ぬともいちしろく色には出でじ朝顔の花
 
 ころげまわって恋焦がれて死んでしまうとしても、はっきりとは顔色には出しません、朝顔の花

 万葉仮名の「展轉」を「臥(こ)いまろび」と読むこと、万葉仮名の研究者が研究し尽くしてのことなのでしょう。「灼然」は「いちしろく」現代語では「いちじるし」→「いちじるしい」とかわっています。


10-2275 言出而 云者忌染 朝皃乃 穂庭開不出 戀為鴨
 言(こと)に出でて云はばゆゆしみ朝顔の穂には咲き出ぬ恋もするかも
 口に出して言っては憚り多いので、朝顔の花が表立って咲き出るような、そんな人目に立つ素振りを見せずにひそかに恋い焦がれています

  あの方を恋い慕っています。朝顔の花のように人目に立つようなことは決していたしますまいとこころに秘めた恋。それでもこうしてことばに出して歌を詠み、口から口絵と歌いつがれ、愛唱されたのでしょう。

14-3502 和我目豆麻 比等波左久礼杼 安佐我保能 等思佐倍己其登 和波佐可流我倍
我が目妻人は放(さ)くれど朝顔のとしさへこごと我は離るがへ

 私の目には美しくうつる妻のことを、人は引き離そうとするけれど、朝顔の(としさえこ)ように離れるものですか

 東歌の方言であろう「等思佐倍己としさへこ」が、何を意味しているのか、研究者によって諸説あるようですが、朝顔の花が現代のどの花であるのかさえ諸説あり、「としさへこ」も、朝顔のような何なのか、わかりません。わかるのは、「離るがへ=離れるでしょうか、いや、離れはしません」というあずまことばの反語法による、ちからいっぱいの宣言です。防人に出て行かなければならない夫は、いとしい妻に向かってこの歌を歌いかけ、遠い赴任地で、仲間とふるまいの酒を酌み交わしながら、ともに歌い、故郷の妻を偲んだのかと想像しています。

 「あさがほ」の万葉仮名表記、朝杲、朝容皃 安佐我保があります。東歌の表記が、一音節一文字で音をそのまま写されたのはありがたいことです。
 「和波佐可流我倍わはさかるがへ」わたしは、離れていくでしょうか、いいえ、けっしてはなれませんよ、という「がへ」が、東歌の反語に用いられる語だということまで、万葉学者達は研究しているのですね。
 歌を、一音節一文字で採録した人の苦心も、それを読み 解いていった人々も、ことばへの真摯な思いを持っていたことだろうと思います。

 そういうことばの文化を持ち得たことを、私は尊び、この言語文化をつたえていかなければならないと思っています。さいわい、万葉集も古今新古今も、愛好者は多いので、ほそぼそではあっても、今はまだこれらの歌は生きています。

 今後、英語学習が強化され、古典古文漢文学習の時間は減っていくでしょう。
 英語を学ぶなら、「英語で道案内ができる」というのも、英語学習の成果でしょうけれど、やるなら、たとえば、2020年東京オリンピックのフェンシング、レスリング、テコンドーの競技会場となることが決定したという幕張メッセ近辺での人なら、葛飾の地を詠んだという東歌くらい覚えてほしい。ガイドブックに載っている歌かもしれないからね。

 The boatmen are shouting
in the boat they row
by Mama Cove in Katsushika
it seems the waves are rising
(by Levy Hideo)


 葛飾の真野の浦廻(うらみ)を漕ぐ舟の船人騒ぐ波立つらしも(下総の東歌)


朝顔の候補のひとつは、ムクゲです。
向島百花園20160905

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「おみなえし」

2016-09-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160920
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(3)おみなえし

 をみなへし、現代仮名表記では「おみなえし」。平安時代に当てられた当て字の漢字表記では女郎花。
 別名は粟花。私は、粟の豊作に見立てた粟花が、農耕生活には一番合っている命名かと思います。「おみなめし女飯」という名もあります。能では「おみなめし」の一曲があります。やはり、粟飯からの名付けかなあと思います。「おとこめし」は、米の飯。
 実用の植物として、根を煎じた薬は「敗醤根」として解毒、消炎。利尿などに用いられました。


向島百花園にて撮影20160905

 「をみな」は、若く美しい女性。「へし」は、動詞へすの連用名詞形。へす(圧す)=圧倒して脇に押しつける。現代語では「押し合いへし合い」という表現や「へし折る」に「へす」があるほかは、あまり使われないことばになりました。
 「をみなへし」に残った「へし」ですが、現代語では「おみなえし」なので、「へす」を感じませんけれど。

 美女を圧倒し、押しのけるほど の美しさである、とたたえられた「をみなへし」
 美しい女性に見立てる歌も、植物として花の美しさをたたえる歌もあります。
4-0675 中臣女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌
娘子部四 咲澤二生流 花勝見 都毛不知 戀裳摺可聞
をみなへし佐紀沢に生ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも

 おみなえしがたくさんあるという佐紀沢に花かつみ(野花菖蒲)が生えている。そのかつみではないけれど、かってない身のほどの恋をしてしまった

 万葉集編集者の最有力者とされている大伴家持。自分が受け取った多くの「をみな」たちからの恋の歌をたくさん採録していますけれど、それに対して自分がどのような返歌をしたかについては、女性からの歌に続けて返歌を載せているのもあるし、いないのもある。この中臣女郎(なかとみのいつらめ)の恋の歌は、五首を並べていますが、返歌なし。
 おみなえしの花も野花菖蒲も、ただ美しく咲き、散っていった、ということでしょうか。をみなへしの万葉仮名表記は「娘子部四」 

7-1346 譬喩歌 草に寄する
姫押 生澤邊之 真田葛原 何時鴨絡而 我衣将服 
をみなへし佐紀沢の辺の真葛原いつかも繰りて我が衣に着む

 姫押(おみなえし)の咲いている佐紀沢のほとりの真葛原の葛(くず)を、いつ糸にして私の衣にできるだろうか。(女郎花のように美しいあの娘をいつかは私のものにしたいなあ)

 おみなえしの万葉仮名表記は「姫押」。「へし」が「へす(押す)」の意をふくんでいることが意識された当て字です。

8-1530 詠み人知らず  
娘部思 秋芽子交 蘆城野 今日乎始而 萬代尓将見
をみなへし秋萩交る蘆城の野今日を始めて万世に見む

 をみなへしと秋萩が交じって咲いている蘆城(あしき)の野、今日を始めとして、いつの世までもずっと見てゆこう

 おみなえしの万葉仮名表記は「娘部思」

 太宰府の役人達が、蘆城の駅家で宴をしたときに詠まれたのですが、だれが作者であったかは、いまだにわからない、という詞書きがあります。
 蘆城野は、太宰府にほど近い駅家(旅人のために馬を用立てる中継所)。太宰府から旅立つ人を蘆城野まで見送りに出るのが役人の仕事でもあったのでしょうね。旅立つ人と見送る人は、今生の別れになるのやも知れず、いつまでもこの秋の野の萩とおみなえしを見たいと思う心も切実だったでしょう。
 蘆城野は、現在の福岡県筑紫野市阿志岐のあたりと推定されています。現在では高校や幼稚園、人家が建ち並び、秋萩もおみなえしも見当たらないようですが、おみなえしをずっと見ていたいと詠んだその心は、千三百年の後までも残りました。 

8-1534 石川朝臣老夫の歌一首
娘部志 秋芽子折礼 玉桙乃 道去裹跡 為乞兒
をみなへし秋萩折れれ玉桙の道行きづとと乞はむ子がため

 おみなえしと萩を折ってください。旅のみやげにといって欲しがる子どものために

 おみやげにおみなえしと秋萩を持って帰ろうとするおじいさん。老夫(おきな翁)といっても40代か50代くらいなのでしょう。おみやげにおみなえしをねだる子どもはまだ幼いのかしら。

10-2107 花を詠める
事更尓 衣者不揩 佳人部為 咲野之芽子尓 丹穂日而将居
ことさらに衣は摺らじをみなへし咲く野の萩ににほひて居らむ

 わざわざ衣をすり染めたりしません。おみなえしが咲いている佐紀野の萩に似合ってきれいに輝いて見えるでしょうから

 この歌のおみなえしの万葉仮名表記は「佳人部為」。衣装を摺り染めにしなくても、萩に似合ってそこにいるという女性の美をイメージさせる「佳人部為」です。

10-2115 
手取者 袖并丹覆 美人部師 此白露尓 散巻惜
手に取れば袖さへにほふをみなへしこの白露に散らまく惜しも

  手に取ると袖まで美しく染まりそうなおみなえしが、この白露に散ってしまうのが惜しいなあ

 おみなえしの万葉仮名表記は「美人部師」です。
 「匂う(にほふ)」は、現代語の「匂いがする」ではなくて、色美しく映える、ということです。

10-2279 花に寄する
吾郷尓 今咲花乃 娘部四 不堪情 尚戀二家里
我が里に今咲く花のをみなへし堪へぬ心になほ恋ひにけり

 私の里に咲いているおみなえしのような可憐なあの娘のことを、耐えられないほど恋しく思う  

 八月七日、守大伴宿禰家持、館に集いて宴する歌
17-3943 大伴家持
秋田乃 穂牟伎見我氐里 和我勢古我 布左多乎里家流 乎美奈敝之香物
秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折りけるをみなへしかも

 秋の田の穂の様子を見ながら、私の親しい人(背子)が折り取ってきたおみなえしです

17-3944 大伴池主
乎美奈敝之 左伎多流野邊乎 由伎米具利 吉美乎念出 多母登保里伎奴
をみなへし咲きたる野辺を行き廻り君を思ひ出た廻り来ぬ

 おみなえしが咲いている野をめぐっているうちに、あなた様のことを思い出して、回り道をしてやってきました

 家持の招待を受け、招かれた側の池主が、招待主を思いつつやってきた、という挨拶をした歌です。
 746(天平18)年旧暦8月7日。越中国主家持と部下の大伴宿祢池主の歌のやりとり。役所のトップ「越中守」の家持に対して、池主は「越中掾(えっちゅうのじょう)」三等官でした。池主は、漢詩なら家持より上手と見なされていたということですが、漢詩でも和歌でも、宴席でさっと気の利いた詩や和歌を詠む能力がなければ、出世もおぼつかない。
 池主は、まあまあな出世をして、756(天平勝宝8)年には、式部少丞(従六位上相当)になりました。今でいうと、文部省次官に次ぐ地位。しかし、池主は、藤原仲麻呂暗殺未遂事件で捕らえられ、757 年に獄死。

 政治事件に関わった中級官僚の大伴池主。歴史書の片隅に名前が残ったかも知れませんが、それだけなら私のような古代史にうとい者は、池主の名前を知ることもなかったでしょう。家持と親しかったおかげで、池主の歌を千三百年ののちに、さして和歌に詳しくもない私が読んで楽しむことができました。  

17-3951 秦八千島(はたのやちしま)
日晩之乃 奈吉奴流登吉波 乎美奈敝之 佐伎多流野邊乎 遊吉追都見倍之
ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし

ひぐらしが鳴く時には、おみなえしが咲いている野をめぐって眺めるのがいいですよ

 大伴家持の館で催された宴会で、池主とともに歌を詠みました。
 家持、池主、八千島の三首の表記は、ほとんどが一音節一文字で、平仮名表記に近い書き方です。おみなえしは「乎美奈敝之」です。

20-4297 (天平勝宝5年)8月12日に、二三の大夫等おのおの壺酒を提げて高圓の丘に登り、いささかに所心を述べて作る歌三首(のうち)
少納言大伴家持
乎美奈弊之 安伎波疑之努藝 左乎之可能 都由和氣奈加牟 多加麻刀能野曽
をみなへし秋萩しのぎさを鹿の露別け鳴かむ高圓の野ぞ

 おみなえしや秋萩を踏み倒して、牡鹿が露を分けて鳴くでしょう。この高円(たかまど)の野で
 
20-4316 兵部少輔大伴家持、独り秋野を憶いて、いささかに拙懐を述べて作る
多可麻刀能 宮乃須蘇未乃 努都可佐尓 伊麻左家流良武 乎美奈弊之波母
高圓の宮の裾廻の野づかさに今咲けるらむをみなへしはも

 高円(たかまど)の宮の山すそにある小高い野原には、今ごろおみなえしが咲いているでしょうね

 家持が、高円の秋野を思い出して作った六首の歌のひとつ。家持と同じ大伴氏であり、部下であった大伴池主。歌読むときのかけがえのない仲間であった池主が、藤原仲麻呂暗殺未遂事件(橘奈良麻呂の乱)に連座して捕らわれ、獄死したとき、家持は難波にいて、防人リクルート(防人検校)の仕事をしていました。奈良の都にいたなら、きっと反藤原仲麻呂の密議に加わる一人になっていたでしょう。

 家持は池主らと高円の丘で酒を酌み交わし歌を詠み合った日のことを思い浮かべて、おみなえしの花を愛でています。家持の「いささかに拙懐を述べて作る」は、獄死した池主らへの思いを述べているのだろうと想像します。

 こののち、家持は反藤原仲麻呂勢力に荷担し、左遷されたり処罰を受けたりします。私は、この仲麻呂事件による親友の死が家持に大きな衝撃を与え、万葉集という「非勅撰集」を編集する動機のひとつになったのではないか、と想像するのです。万葉集成立事情はさまざまな人が研究している分野ですが、私は、ただ、おみなえしの歌を並べてみて、そんなふうに感じたのです。

 私が引用している万葉集は、1971年発行の岩波文庫。佐佐木信綱校注。もうぼろぼろですが、これまで歌だけ読んでいて、詞書きはほとんど読んでいなかった。でも、こうして詞書きをひとつひとつ丁寧に読んでみると、万葉の時代を生きた人々の思いが千三百年の時空を超えて伝わってくる気がします。



<つづく>
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ぽかぽか春庭「尾花」

2016-09-18 00:00:01 | エッセイ、コラム

向島百花園にて撮影20160905

20160918
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(2)尾花

 日本で満月を眺めて楽しむようになったのは、平安時代からだといいます。万葉集にも、月の歌はたくさんありますが、後世のように秋の月をことさらに名月として愛でるというのではなかった。
 2016年の仲秋(旧暦8月15日)は、9月15日。ただし月齢で十五夜満月は9月17日で、十六夜は9月18日。

 里芋と栗を月に供える「芋名月、栗名月」は、縄文時代の主要作物であった里芋と栗を月に供えて収穫を感謝した祭りであったことでしょう。稲作が始まるとイネの代わりにススキを稲穂に見立てて月に供えました。
 ススキを稲穂に見立てるほか、萩も小さな花が枝や茎にびっしりと咲きます。万葉集に萩が141首も詠まれた、というのも、やはり稲穂のイメージの花だったからでしょうか。
 ススキ(尾花)の歌も42首と、多いです。萩と同じく巻八から抄録します。


1564
日置長枝娘子(へきのながえのをとめ)の歌一首(大伴家持におくる)
秋付者 尾花我上尓 置露乃 應消毛吾者 所念香聞
秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも我は思ほゆるかも

 秋になると尾花(をばな)につく露がはかなく消えてしまうように、私はあなたを思い続けて、秋になったら消えてなくなっているでしょう

この日置長枝娘子の、恋に身も細りそうなことばに、大伴家持は萩の歌で答えています。
8-1564 我が宿の一むら萩を思う兒に見せずほとほと散らしつるかも
 我が家に咲く一群の萩を、いとしく思っている子に見せないまま、あらかた散らしてしまったことだなあ
 恋多き家持でしたが、日置長枝娘子とは萩の花をいっしょに眺める時間を作ってやらなかったのね。乙女心は、秋には身も細くなって消えてしまうばかり。私もね、身を細くするためには、恋い焦がれる人がいないことには。
 家持の歌の「ほとほと」は、現代語では「ほとんど」に転化。
 
1572 大伴家持の歌一首 
吾屋戸乃 草花上之 白露乎 不令消而玉尓 貫物尓毛我
我が宿の尾花が上の白露を消たずて玉に貫くものにもが

 我が家の尾花の上についている白露を消えてなくならないようにして、玉に貫いてみたいものだ

1577 
阿倍朝臣蟲麻呂
秋野之 草花我末乎 押靡而 来之久毛知久 相流君可聞
秋の野の尾花が末を押しなべて来しくもしるく逢へる君かも
 
秋の野の尾花の穂先を押し分けてやってきたから、あなたに逢えたのです
 
1601
 内舎人石川朝臣廣成 
目頬布 君之家有 波奈須為寸 穂出秋乃 過良久惜母
めづらしき君が家なる花すすき穂に出づる秋の過ぐらく惜しも

 久しぶりに会えた君の家のススキが穂になって出ている。秋が、もう過ぎていってしまう、惜しいなぁ

1637 
太上天皇御製一首元正天皇
波太須珠寸 尾花逆葺 黒木用 造有室者 迄萬代
はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は万代までに

 尾花を逆さにして屋根を葺き、黒木で作った建物は、いつまでも栄えることでしょう。

 8-1637の元正天皇の御製は、冬の雑歌に分類されています。野に生えているススキではなく、十分乾燥して屋根を葺く材料としてのススキを読み込んでいます。黒木の柱を建てて、この建物が末永く使われることを寿いでいるのです。

 万葉集に出てくる植物は、食用としてまた薬用、染料などに使われる実用の植物がほとんどです。ススキも屋根を葺く材料として役に立つ植物でした。
実用にはならず、ただ眺めて楽しむ植物との関わりは、やはり平安以後だったのだろうと思います。

 屋根を葺くこともなくなった現代。アメリカではやたらにはびこる外来植物として、「手を焼く不必要な草」になっている、というのを知ると、月に供えられる日本のススキは、幸せだなあと思います。

 十六夜の月、台風の雨で見ること難しかった地域が多いかも。

 十六夜にさまよいまよい迷い人今宵も徘徊わたしはだあれ(春庭)


<つづく>
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ぽかぽか春庭「萩の花」

2016-09-17 00:00:01 | エッセイ、コラム

咲き始めの向島百花園の萩20160905

20160917
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>秋の七草(1)萩の花

 秋の七草というと、憶良が詠んだ歌の七種をさします。(ほかにも、いろいろな七草がありますが)。

万葉集巻の八に出ている山上憶良の歌。
 山上憶良、秋の野を詠める歌二首
8-1537 秋の野に咲きたる花を指降りてかき数ふれば七種の花
8-1538 萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花

 では、万葉集から萩の歌を抄録。

8-1514  穂積皇子
秋芽者 可咲有良之 吾屋戸之 淺茅之花乃 散去見者
秋萩は咲くべくあらし我がやどの浅茅が花の散りゆく見れば

 秋萩は、咲いたに違いない。うちの庭の浅茅が花(あさぢがはな=茅ちがや)が散ったのを見ると

笠金村、伊香山にて作れる歌二種
8-1532 草枕 客行人毛 徃觸者 尓保比奴倍久毛 開流芽子香聞
草枕旅行く人も行き触ればにほひぬべくも咲ける萩かも

 旅の人が行きずりに触れると、衣にその色が移ってしまいそうなほどに鮮やかに咲いている萩であるなあ
8-1533 伊香山 野邊尓開有 芽子見者 公之家有 尾花之所念
伊香山野辺に咲きたる萩見れば君が家なる尾花し思ほゆ
 伊香山(いかごやま)の野に咲いている萩を見ると、あなたの家の尾花(をばな)を思い出します

縁達帥(えにたちし)の歌一首
8-1536 暮相而 朝面羞 隠野乃 芽子者散去寸 黄葉早續也
宵に逢ひて朝面なみ名張野の萩は散りにき黄葉早継げ

 宵に共寝をした翌朝、恥ずかしさに消え入るばかりという「隠(なば)る思い」の名を持つ名張の野の萩は、なばるというとおりに散り消えてしまった。次に色づく紅葉よ早く継いで照り映えておくれ

大宰帥大伴卿の歌二首(大伴旅人)
8-1541 吾岳尓 棹壮鹿来鳴 先芽之 花嬬問尓 来鳴棹壮鹿
我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿

私の岡に、牡鹿がやってきて鳴いている。萩の花に求婚しにやってきた鹿が
8-1542 
吾岳之 秋芽花 風乎痛 可落成 将見人裳欲得
我が岡の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも

 私がいるこの岡の秋の萩の花が、風が強いので散りそうです。(私のほかに)みてくれる人が居るといいのに(いっしょに見たいなあ)

藤原朝臣八束の歌一首
8-1547 棹四香能 芽二貫置有 露之白珠 相佐和仁 誰人可毛 手尓将巻知布
さを鹿の萩に貫き置ける露の白玉あふさわに誰れの人かも手に巻かむちふ

 鹿が萩の枝に通しておいた露の白玉を、がらにもなく、どこのだれが「手に巻こう」などと言うだろうか。(けっしておろそかな気持ちで言うのではないのですよ

湯原王の鳴鹿の歌一首
8-1550 秋芽之 落乃乱尓 呼立而 鳴奈流鹿之 音遥者
秋萩の散りの乱ひに呼びたてて鳴くなる鹿の声の遥けさ

 秋萩の散り乱れるように妻を呼び立てているのだろう、鳴く鹿の声が遥かに聞こえてくる

故郷の豊浦寺の尼の私房に宴する三首
8-1557 丹比眞人(たぢひのまひと)
明日香河 逝廻<丘>之 秋芽<子>者 今日零雨尓 落香過奈牟
明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ

 明日香川が流れているこの岡の秋萩は、きょう降っている雨に散ってしまうのではないでしょうか
8-1558
沙彌尼等(さみにども)
鶉鳴 古郷之 秋芽子乎 思人共 相見都流可聞
鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも

 鶉が鳴いている古びた里を懐かしむ同じ思いの仲間たちが、一緒に秋萩を眺めることができたのですねえ
8-1559 
沙彌尼等
秋芽子者 盛過乎 徒尓 頭刺不挿 還去牟跡哉
秋萩は盛り過ぐるをいたづらにかざしに挿さず帰りなむとや

 秋萩は盛りを過ぎてしまうのに、なにも髪に飾ることもなくお帰りになるのですか

大伴坂上郎女、跡見の田庄にして作れる歌二首
8-1560 妹目乎 始見之埼乃 秋芽子者 此月其呂波 落許須莫湯目
妹が目を始見(はつみ)の崎の秋萩はこの月ごろは散りこすなゆめ

 あなたが見ると言う跡見の崎の秋萩は、ここ暫くはゆめゆめ散らないでおくれ(あなたが見に来るまでは)

8-1579 
文忌馬養(あやのいみきうまかい)二首
朝扉開而 物念時尓 白露乃 置有秋芽子 所見喚鶏本名
朝戸開けて物思ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな

朝戸を開けて物思いにふけっている時に、白露(しらつゆ)がついている秋萩(あきはぎ)がつい目に入ってきます 
8-1580
棹牡鹿之 来立鳴野之 秋芽子者 露霜負而 落去之物乎
さを鹿の来立ち鳴く野の秋萩は露霜負ひて散りにしものを

 竿のように角をたてた鹿がやって来て立ち鳴く、その野の秋萩は露や霜に受けて散ってしまった

8-1595 大伴宿祢像見(おおとものすくねかたみ)の歌一首
秋芽子乃 枝毛十尾二 降露乃 消者雖消 色出目八方
秋萩の枝もとををに置く露の消なば消ぬとも色に出でめやも

  秋萩の枝をたわませるほどの露のように、消えてしまっても、)私が秘めるこの想いを)人に知られることはない

大伴宿祢家持秋歌三首
8-1597秋野尓 開流秋芽子 秋風尓 靡流上尓 秋露置有
秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋し露置く

 秋の野に咲く秋萩、秋の風に靡いている花枝の上に秋の露が置かれている

8-1598 棹壮鹿之 朝立野邊乃 秋芽子尓 玉跡見左右 置有白露
さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露

  牡鹿がいる野辺の朝。さっと降った朝の雨に秋萩の葉に玉のように美しい白露がついて玉を連ねたようです
8-1599 
狭尾牡鹿乃 胸別尓可毛 秋芽子乃 散過鶏類 盛可毛行流
さ雄鹿の胸別にかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる
 
角の立派な鹿の胸の毛が色別れる、その胸で枝を別けるからか秋萩の花が散り過ぎていった。それとも、花の盛りの季節が去ったからか 

 萩の歌、きりもなくあります。万葉集に141首もあるのです。
 花の歌のなかで、萩が一番多い。万葉人にとって、萩は秋を感じ、恋しい人を思い出すもっとも身近な花だったのだろうと思います。
 今回は、巻八の雑歌から抜き出しましたが、秋の相聞歌にもたくさんありますし、他の巻にもあります。141首全部抜き出したら、壮大な萩のトンネルになったかも。

向島百花園の萩のトンネルはまだ咲いていませんでした。

向島百花園にて撮影20160905

 万葉の萩は山はぎですが、現代は園芸種もさまざまに栽培され、寺の境内、公園などの秋を彩っています。9月5日に訪れた百花園にも、いろんな種類の萩が植えられていました。

 白萩は母の好める花なれば母を呼びつつ落萩拾う(春庭)


<つづく>
 
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ぽかぽか春庭「黒田記念館その他」

2016-09-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
0160915
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>台風散歩(5)黒田記念館その他

 このところ上野にちょくちょく出かけます。JRで15分で行ける。第3水曜日は東京都美術館が無料、西洋美術館常設展は65歳以上いつでも無料、2016年9月から2017年3月までの土曜日の夜間開館時(午後5時~午後8時)の常設展の観覧料はだれでも無料。
 東京国立博物館も、なんども招待券で入館。黒田清輝記念館、いつでも無料。国際子ども図書館いつでもだれでも無料。
 無料を「遊びの第一条件」にしている春庭、どうしても上野詣でがふえました。

 9月7日の散歩も、またもや上野。季節ごとの展示替えもあるし、何回でも見たい絵や書もあるし。

 黒田記念館も、何度も来ています。絵はそれほど好きじゃないと思っているのですが、季節ごとに訪れます。むろん無料だからですが、レンガが好きなので、黒田記念館のレンガも通りがかるたびに目に入るし、季節ごとの入れ替え展示も見ています。

黒田清輝記念館(9月3日訪問時)


グレーの原 1890前後


 黒田のフランス留学時代の作と思われる風景画が、調査を終えて展示されていました。フランス留学中の黒田に制作の援助をした野村靖(1842-1909)の遺族からの寄贈です。
 ミレー風の田園風景。私は積み藁の絵が好きなので、この絵も気に入りました。

タイトル忘れました。


 こども図書館3階(8月3日訪問時)


 2階展示は、バリアフリー絵本


 展示室の内部


 何度でも見に行った東京国立博物館東洋館。こんなに何度も足を運んだのは初めてです。

上海博物館との交換展示。皇帝の刺繍(9月7日訪問時)


 中国絵皿


 こんなに何度も東洋館や法隆寺館を見たことはなかったのですが、どちらも長い歴史と、培われた美意識に深い感銘を受けながらの観覧になりました。
 エジプトのミイラも、西アジアの仏像、インド東南アジア、インドネシアなどの文物もじっくり見ました。
 これらの文物を残した無名の作り手達にも、その国にも深い尊敬の念を抱きました。

 よいものを無料で見せていただき、ありがたいことです。これらを無心に眺めている間、心の憂いもしばしは忘れていられました。

 春庭の憂いとは、今夜のおかずはどうするか、ということだろうと思った方、まあ、それもないことはない。なんとか食べていかねば。


<おわり>
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ぽかぽか春庭「向島百花園」

2016-09-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160914
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>台風散歩(4)向島百花園

 9月5日のひとり散歩。どこに行く当てもなく、月曜日では美術館博物館も休館のところが多いので、月曜日も開いている公園を散歩することに。

 公園案内のホームページに「向島百花園秋の七草」というのが出ていたので、少しは秋気分になれるかと思って、でかけました。あやめ、かきつばた、花菖蒲の時期に出かけたことがあるのですが、他の季節には来たことがありませんでした。

 百花園は、江戸時代に開園。
 仙台出身の骨董商、佐原鞠塢(さはらきくう)が、多賀屋敷」と呼ばれていた土地を買い取り、梅の木などを植えて、1804(文化元)年に開園しました。江戸時代は世界史的に見ても庶民がこぞって園芸趣味にとりつかれた時代で、百花園のさまざまな花をながめることが、大流行の娯楽でした。
 琳派の絵師酒井抱一や狂歌戯作をものした大田南畝など、百花園をひいきにした文人墨客も数多い。

 私も、秋の気配を感じたら、一句ひねろうか、なんて思ったのですが、めちゃ暑かった。おまけに、池があるから蚊にくわれまくり。
 帰りがけに出口をみたら、「虫除けスプレーお貸しします」という札がかかっている。これって、入り口に出しておくべきじゃないの?

百花園から見るスカイツリー


園内の池と橋

池の睡蓮


秋の七草に対して、百花園創始者佐原鞠塢が定めた秋の七草


 園内に、有名人無名人を問わず、句碑歌碑のたぐいがたくさんありました。私が名前を知っていたのは月岡芳年だけ。
 明治時代に建てられた句碑など、すでに石が古びて、文字が読み取れなくなっています。そうね、墓よりも歌碑とか思ったけれど、残された人が手入れをし続けなければ、文字も消えるのだとわかりました。

月岡芳年の石碑


もはや字も読み取れぬ句碑詩の石碑石の命もかくも短し(春庭)



<つづく>
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ぽかぽか春庭「古代ギリシャ展」

2016-09-13 00:00:01 | エッセイ、コラム


20160913
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>台風散歩(3)古代ギリシャ展

 9月になれば、さしもの残暑も少しはひくかと、出かけてみれば、こはいかに。やっぱり暑かったです。
 暑いとき、建物の中に入ればなんとかすごせる美術館博物館はありがたい。無料観覧券で一日遊べるとなれば、ましてたっとし。

 コハイカニとは。これは一体どうしたことだろう、という意味の語。浦島太郎の歌にでてきたのを、60年前のわれら小学生は「怖い蟹」と思って歌っていた、という笑い話なのですが、いまや小学生は浦島太郎の歌も知らない。
 yokochannが、「くわばらくわばら」という瀕死語を書いていたので、たまには、現代の若者は使わない語をつかっておかないと、いずれ滅びるだろうと思って言ってみただけ。「こはいかに」はすでに完璧死語ですね。
 今のこどもには、60年前は大昔。「それは古代か」と聞かれる。なんのなんの、古代ってのはね、紀元前6000年くらい前、いまから8000年も前のギリシャあたりから始まる。

 9月3日土曜日は、古代ギリシャ展へ行きました。


 土曜日だけれど、人の頭越しに見なければならないほどの大混雑ではなかったし、土曜日は8時までやっているので、7時半に入場ストップになったあとは、ひとりで一品独占して眺めていられました。

 目玉作品の「漁夫のフレスコ画 テラ(サントリーニ島)、アクロティリの集落、「西の家」(5室)より出土 前17世紀 テラ先史博物館 」ミノス文明期


 漁夫のフレスコ画のマネして、神への捧げものの魚を手に持って撮影できるコーナーがあったので、さっそくまねっこ。自撮り大好きの私ですが、カメラを置く台になるものがなく、カバンの上にカメラを置いて撮影したので、ちょっと角度がわるかった。



 どう見ても、古代の女神でも漁夫でもなく、「魚食べ過ぎた老婆像ですが、いいんです。自撮り大好きですから。

 展示は
第1章 古代ギリシャ世界のはじまり
第2章 ミノス文明
第3章 ミュケナイ文明
第4章 幾何学様式~アルカイック時代
第5章 クラシック時代
第6章 古代オリンピック
第7章 マケドニア王国
第8章 ヘレニズムとローマ

 紀元前6000年の時代から、ヘレニズム、ローマを経て、クレオパトラ7世の死に終わるギリシャ世界。時代順の展示でわかりやすい並べ方でした。(クレオパトラはエジプトの女王ですが、マケドニア人プトレマイオスが建てた王朝の最後の女王。ギリシャ、マケドニアの文化を引き継ぎました)

<ミノス文明>
・牡牛像 1個 クレタ島、フェストスの神域より出土 前1200~前1100年頃(後期ミノスIII期) イラクリオン考古学博物館


<幾何学様式アルカイック時代>
・幾何学様式ピュクシス 1合 アッティカ工房、「アテネ1668の画家」のグループ アテネ、ケラメイコス墓地より出土 前750~前725年 アテネ国立考古学博物館


 入れ物下部の模様、卍のかたち、古代インド発祥ですが、ギリシャでは太陽光線をあらわしたのだとか。日本の地図記号では寺院をあらわしましたが、ナチスハーゲンクロイツのマークと誤解されるのを恐れて、外国人向けの地図記号は三重塔に変わるそうです。古代ギリシャだって卍マークを壺に描いていた、というようなことも知らない西欧人のために、日本は「お・も・て・な・し」の心で、地図マークも変えるし、日本語よりも英語教育に力をいれるみたいだし、次の五輪準備もたいへんね。

・セイレーンを表わした装飾留め具 1個 アルゴス工房
古代オリンピアの競技場より出土 前775~前750年前 オリンピア、オリンピック歴史博物館
・セイレーンを表わした装飾留め具 1個 コリントス工房
古代オリンピアの競技場より出土 前7世紀初め オリンピア考古学博物館


 その歌声の魔力で、船乗りを海や川の中に引き込んだと言われるセイレーン。英語だとサイレン。私の子どものころのギリシャ神話挿絵では、すでにセイレーンは下半身魚でした。古代ギリシャでは、鳥だったのね。

・古典時代
奉納浮彫り アポロン、アルテミス、レト 1基 アテネ、プラカ地区より出土 前5世紀後半 大理石 高70㎝ 幅69㎝ アテネ国立考古学博物館 


 こどものころ、子ども向けにアレンジされた「ギリシャ神話」は大好きなお話でしたし、大人になって、ホメロスもギリシャ悲劇も読んで親しみ、古代ギリシャは日本の原始時代や古代に比べてずっと親しんだ文明でした。
 こうして、博物館に並んだ300点以上のギリシャの陶器や彫像、金貨、アクセサリーを眺めてきて、家に帰ってみれば、さて、どれが何だったっけ、とさっぱりわからないのです。
 椅子に座っているのはアポロンで、アポロンの方に手を置くのがアルテミスだとして、さて、ゼウスとの間にアポロンとアルテミスを生んだレトは、どんな顔だったのかしら。この浮き彫りもきっとゼウス正妻ヘラの嫉妬のためにレトの顔が欠けてしまったのだろうな。

 五輪年であるからして、古代オリンピックが第6章として、特集されていました。古代オリンピック競技の復元ビデオが上映されていました。しかし、再現ビデオとしては不満。古代オリンピックでは、競技者は神の前にひとつの偽りもなく競技を奉納するために、完璧全裸で競技した、と解説が書いてあるのに、再現ビデオではふんどしを絞めていました。ま、神じゃなくて人間に見せるためのビデオだからいいんだけれどね。やっぱりここはひとつ古代のまんま再現してほしかった。って、裸を見たいだけじゃん、ってか。いえいえ、古代ギリシャに敬意を表しているのですよ。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「大妖怪展」

2016-09-11 00:00:01 | エッセイ、コラム


20160911
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>台風散歩(2)江戸東京博物館・幽霊展&大妖怪展

 8月24日水曜日。台風10号迷走中。Uターンしてついには上陸大暴れした10号ですが、24日は、東京には影響なかったし、台風9号は北海道に上陸後、北の海に抜けていきました。雨でもかんかん照りでもなく、曇り日、まあまあな天気かと、江戸東京博物館に出かけました。息子がもらった招待券を「あんたは、どうせ行かないままにして、招待券を無駄にしそうだから」と、横取りしたのです。無料大好きの母は、招待券を無駄にするようなことはしない。

 妖怪といえば、私には「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している」という共産党宣言冒頭が思い浮かびます。司馬遼太郎の小説『妖怪』もすきです。司馬遼太郎作品、街道シリーズや「この国のかたち」などエッセイは好きだけれど小説はあまり読まずにいたのですが、彼の小説には数少ない室町代を描いた『妖怪』は、2度読みました。

 イマドキのお子様方には、なんと言っても妖怪ウォッチですし、ゲゲゲの鬼太郎に出てくるキャラを愛するアニメ世代もいることでしょう。
 私も小学生のころ、ノートのはじっこに自分なりの妖怪をデザインして描いていたことを思い出しました。どうやら、われわれには、「異界のもの」を愛するDNAが続いているらしい。
 
 江戸東京博の展示は前期後期で入れ替えがあり、見たかった奈良国立博物館が所蔵している国宝 「辟邪絵 (へきじゃえ)神虫」は、前期展示だったので、見ることができませんでした。江戸東京博の入り口に立ててある看板には、神虫が大きくでているのですが。



 伊藤若冲の「付喪神」も、前期だったので、私が見た8月24日には展示なし。


 私、ものを捨てずに使うほうなので、大事に使われた道具が99年たつと心を持つという付喪神が大好き。

 「これが見たい」と思った作品は展示替えになっていた妖怪たちですが、そのほかの妖怪たちも、かわいらしいのもあり、おどろおどろでおそろしいのもあり、楽しめました。

 会場の最後の展示は、土偶&妖怪ウォッチに出てくるキャラ「ジバニャン」たち。
 夏休み最後の「自由研究」に来たらしい親子連れ。子どもは「妖怪ウォッチがいちばんいい」と言っていました。そりゃそうだよね。
 でもさあ、だったら、江戸東京博じゃなくて、アニメやゲームに専念した方がよかったか。いやいや、きっといつか夏休みに親子で見た大妖怪展のことを思い出して、博物館解説が述べているように、「日本人が古くから抱いてきた、異界への恐れ、不安感、また〝身近なもの〟を慈しむ心が造形化されたもの、なる妖怪たち」を思い出すこともあるのでしょう。

 常設展の一角に、「山岡鉄斎と江戸無血開城」関連の展示があり、鉄舟遺愛の品や、鉄舟が設立した禅寺、全生庵が所蔵している伊藤晴雨の幽霊絵が展示されていました。



 伊藤晴雨の幽霊絵は、落語家五代目柳家小さんのコレクションで、禅生庵に寄贈されました。円朝幽霊絵と並び、幽霊絵の全生庵、私は山門前には行きましたが、中に入って円朝の墓参りなどしたことなかったので、次の谷中散歩のおりにはぜひ。


 晴雨といえば「責め絵」ということしか知らなかったので、幽霊絵もたくさん残していることを知らずにいました。寄席や芝居小屋との関わりも深く、芝居の看板絵なども描いていた晴雨。江戸風俗をあざやかに画の中に残しています。

 この企画は、スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫氏が伊藤の幽霊絵に惚れ込み、展示企画を持ち込んだ、ということで、江戸東京博物館所蔵の作品とともに、全生庵伊藤晴雨コレクションが特設コーナーとして並んでいました。

伊藤晴雨「明治時代の寄席」


<つづく>
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ぽかぽか春庭「東京ステーションギャラリー12Rooms12Artist」

2016-09-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160910
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>台風散歩(1)東京ステーションギャラリー12Rooms12Artist

 2016年8月は、本土に上陸する台風が4個となり、記録的なことであったのだそうで、9月になったらなったで、台風13号接近。毎週毎週、今回は九州上陸か関東接近かと、気をもみました。台風でもなんでもでかけなければならないことがあり、気象予報士の説明に一喜一憂しながら出かけていました。

 そして、台風の合間をみて、徘徊もいたしました。仕事で出かけることがなくなると、台風でもなんでもでかけなければならない、という用事がすんでしまえば、家に引きこもりがちになる春庭。心のリフレッシュをめざして、できるだけ外出するようにこころがけました。
 公園巡りも好きなのですが、どうしても雨がちになる日々、建物の中に入ってしまえば雨は気にしなくてもいい美術館と博物館に出かける回数が多くなりました。

 8月19日に台風9号と10号が、20日に台風11号が発生という台風銀座みたいな土曜日8月20日。東京駅にでかけました。東京駅正面口に車列つづき、大勢の人がカメラを持って並んでいたので、何事かと思ったら、両陛下が静養にお出かけになるため、軽井沢行きの電車が出発したあと、ということでした。

東京駅正面玄関


 友人のA子さんと待ち合わせ、東京駅構内の東京ステーションギャラリーで、12Rooms12Artistという展覧会を見ました。展示会場を12のブースに分け、1ブース1アーティストの展示があるということですが、私が名前を知っているアーティストは写真家の荒木経惟だけ。
 東京ステーションギャラリーは、昔のままの東京駅レンガ構造が見られるので、展示はあまり気乗りしないときでも、中のレンガを見れば十分に、来た甲斐あった、と思えます。

 12Rooms12Artistは、グローバル金融企業UBSという会社が集めた現代アートのコレクションを展示しているということでした。現代アートにあまり好みの作品がないので、どうしようかなと思っていましたが、展示ひとまわりしたあとのA子さんとのおしゃべりの方を目的にして出かけました。

 荒木経惟の部屋。


 ポスターになっているルシアン・フロイド《裸の少女の頭部》1999年 
 かの精神分析学者ジークムント・フロイトの孫だそうです。少女というタイトルですが、なんだか落ち込んだ表情で、若々しい少女のイメージがありません。おじいさんのところに精神分析をうけに来て、さらに落ち込んでしまった少女?



 どんな展覧会でも、1点は好きな絵が見つかるのに、今回はあまり心引かれる作品がありませんでした。現代美術、わっかりませ~ん。あえて1点あげるなら。

 サンドロ・キア《いかだの三少年》1983年


 ま、煉瓦壁をながめたから、いいか。

   
 A子さんとはもう10年を超すおつきあいになりました。一人息子を育てている彼女と、「ほぼ母子家庭」の私。子育ての愚痴をこぼし合って「お互いがんばりましょう」という気持ちになれるので、年に1,2回の「子育て愚痴女子会」で「爆発防止空気抜き」をしてきました。おかげで暴発せずにこれまでなんとか生活してこられました。
 ステーションギャラリーをひとまわり、さっと見たあとは、丸ビルのフレンチベトナム料理という店で東京駅をながめながら、おそめのランチ&おしゃべり。
 公的な職場での「延長可能な専門職」を得ることができ、息子自立までの収入は確保できた、というA子さんのおごり。ごちそうさまでした。



 A子さんの息子さん、もうすぐ就活も始まる、というところまできたそうで、「子育て終了」まであと一息です。一方の私は、終了のめどもないのに失業中。先の見えない現在の状況にめげているこの半年でしたが、エール交換で、なんとかがんばっていこうという気持ちになりました。

 夫が友人に「うちのオクサン、失業しちゃってさ」という話をしたそう。その友人は、私の年齢を知っているので、「そういうのは、失業じゃなくて、定年過ぎてリタイアって言うんじゃないの」とつっこまれた、と笑っていました。笑い事かっ!!
 この年になっても仕事を探さなければ食べていけない家庭であることの原因は、あなたじゃないの、と叫んで暴発しそうなおなかの中の空気抜き。

<つづく>

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