2012/07/31
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>2012年前期(6)ザル頭の夏休み
7月9日、仕事が終わってから、修士のときの指導教官をたずねました。いっしょに行った同じゼミだった3人ともに、「学生時代は先生に叱られてばかりだった」という思い出話をしながら、定年退官後は病後の体を労りつつ研究に専念なさっている先生に「もっと叱ってもらうため」に出かけたのです。
先生は、リハビリを続けながら体調回復に励み、今ではとてもお元気になられたようす。ほっとしていろいろなお話をうかがいました。若い頃、全共闘世代で教授連と対立した思い出話から、日本語文法の話、研究仲間とのエピソードなど。
その中で、印象的だったお話。先生がおっしゃるには、「退官して、しんどい授業から開放されて研究三昧かと思ったら、そういうわけでもなかった。このアホ学生めら、お前たちの脳みそに、私の研究成果の日本語文法をどれほど注ぎ込んでも、ザル頭からザーザーこぼれていくのがわかる、と思いながら授業を続けてきたけれど、アホ学生のザル頭に注ぐ言葉がなくなったら、自分の脳からザーザーこぼれていってしまう」とのこと。
お気持ち、よくよくわかりました。私も、現在は「私にできる限り、このザル頭の学生に、日本語学を注ぎ込むのだ。義務だから。でも、ザルに水注ぐのが仕事とはつらい」と思って仕事をしているのですけれど、きっとこの注ぎ込もうとする時間がなるなると、自分に注ぎ込まれる何かがなくなってしまうのです。それは若い学生の学ぼうとするエネルギーが発する何かなのかもしれませんし、人と人が関わろうとするとき発する何かかもしれません。
できる限り興味を持てるようにと工夫したつもりの日本語文法の話に、何の反応も見えないような時間がおわって「ああ、今日も徒労だったか」と思うような時間さえ、実は自分のためには貴重なひとときなのだ、と反省させられる、指導教官のことばでした。
毎期、いろんなことを学生から学びます。今期、ひとつのクラスでは、日本人学生30名の中に台湾からの2名と、日本在住中国籍の学生1名が在籍していました。このクラスには、日本語学の基礎を教授しました。
また、中国人留学生30名の中に日本人学生が2名在籍するクラスに日本語教授法を教えました。
日本語学のほうは台湾人学生に、「日本人向けの日本語学講義だから、Nテスト(日本語能力試験)1級にも合格していないというあなたたちには、少し難しいかもしれないけれど、いいですか」と、念を押しての授業で、留学生に配慮はしたけれど、授業の中味は手を抜くことはなかったので、「日本語はむずかしい」と感じたようです。それでも、最後まであきらめずに毎回出席し、発表も行いました。
留学生のなかに日本人が混じる「日本語教授法」の授業では、日本人学生に「このクラスの中国人は、ほとんどがNテスト1級に合格していないそうです。だから、日本人が当たり前に知っていることも確認しながら、日本語復習という内容を混ぜていきますが、いいですか」と確認しました。
たとえば、ひとつの漢字に多くの読み方がある、という日本人には当然のことが、世界の文字の中では、特殊なことなのだ、ということなど、あらためて教えられると「びっくり」なこともわかったようです。中国人には、「生」の読み方を10以上書きなさい、という課題が「え~、こんなにひとつの漢字に読み方があるのか」と、思えたし、「流鏑馬のきしゃの取材をしたきしゃのきしゃがきしゃできしゃしたそうですね」という文を漢字を使って書き分けなさい、という課題に対して、「漢字はお手の物」と思い込んでいる中国人学生にも書けない、ということがわかりました。
「日本で使われている漢字は日本語である」という基本的なことを認識し、「流鏑馬」が、中国人には誰一人読める者がなく、さすがに日本人学生には読めた、というとき、「日本の漢字は中国のものとは違うのだ」と中国人も実感できました。
「中国語と日本語と両方しゃべれるから、明日からでも日本語教師になれる」と思い上がっていた中国人学生に、熟字訓の練習をやらせて、自分たちの日本語知識は実に浅いものだと思い至らせただけでも、十分に授業の効果はありました。
授業の内容や自分が発表したことをまとめる期末レポート。昔の学生レポートは、手書きの上に、作文力の低下で、これが日本人が書いた日本語文章か、と思うようなひどい文章も混じっていたのですが、最近は、読むに耐えない、とう文章が少ない。これは、ワードなどのパソコン入力の文章だと、校正機能がついていて、おかしな文章を指摘してくれるからです。主述が一致していなかったり、テニオハが間違っている文章もぐんと少なくなりました。
授業レポートは、授業内容と自分が発表した内容のまとめを要求しているのですが、まとめの文章が規定字数に達しないとみるや、感想を付け足す学生もいます。ありがちな常套的な感想ですが、授業者が「この授業を通じて何を学んで欲しいか」と述べたことが伝わったのかも、と思える感想です。
この講義を受けて、日本語の奥の深さや自分の知っている、使える日本語がどれだけなのかや、いかに少なかったかを確認することができました。
言葉は、その時代時代で新たな言葉が生まれたり、時代とともに死語になる言葉があったりとまるで生きているかのように人間と共存しているんだと思いました。また、言葉は日本語だけだはなく、世界各国にあり、自分が特に興味が有るのは英語ですが、他にも様々な国の言葉を勉強して、話せるように、様々な国の人とその国の言葉を使って会話をしてみたいと感じました。言葉の歴史などにも興味をもつことが出き、今後日本語以外の言語についても、深く調べてみようと思いました。
この授業を通して、日本や日本語、言語について深く学び、考えることができ自分にとってよい機会だったと思いました。 今後もっといろんなことをしらべ、学んでみたいと思います。
近頃の学生のレポート文章がまともに読める、ということのひとつに、引用が容易になった、ということもあります。
引用をいくつか積み重ねて、前後に自分のことばを付け加えるだけで、一見まともなレポートが仕上がります。
引用する場合は必ず引用元を明記せよ、引用元がないと盗作になる、とこれまでくり返し言ってきたのですが、最近は「大学基礎、レポートの書き方」「文章表現基礎」などの授業が設置され、単位取得できる正式な科目として存在しているので、私の授業で声をからして「レポートに引用する場合の作法」というのを言わなくなったのです。そのため、コピーペーストレポートをそのまま出す学生も出てくる。引用元明記を徹底しなかった私のミスです。
以下のようなコピーペースト文を、引用明示なしにコピーする学生がいまだにいるのです。
中国では英語を学ぶ人口は一番多いが、二番目は日本語である。日本語を勉強する動機もいろいろあるだろう。日本語の中に漢語がいっぱいあるから、学びやすいと思う人も少なくないようだ。特に大学で第二外語として選ぶ場合は、そういう傾向が強いように思われる。小生が日本で二年間中国語教育にたずさわった経験から見て、日本の大学生も同じ動機で中国語を第二外語として選ぶケースが少なくないように見える。でも中国語と日本語はたいへん異質な言語である。中国人も日本人も相手国の言葉を勉強して行くうちに、だんだんとその難しさを思い知らされるのが常である。
以上の文章、自称が「小生」であり、「小生が日本で二年間中国語教育にたずさわった経験から見て」という一文から見て、日本で中国語を教えたことのある教師が書いた文章であることは明白です。この文章をそっくりコピーペースして、自分自身の文章として提出することの奇妙さにも気づかない。
提出者は、中国国籍であるけれど、両親の移住にともない小学生から日本の学校で学んでいる、という学生でした。「中国語と日本語の両方が使えるバイリンガル」であることを誇りとするよう、教師は励ましてきたのですが、引用作法についてのレクチャーは、今期省略していました。
補講に出席した彼女に、「引用のルール」を説明すると、そのようなことは、これまで誰からも教わらなかったと言い、引用元を付け加えました。確かめると、「小生」の意味がわかっていなかったことが判明。彼女は、クラスで実施したNTT語彙数テストで、自分自身の語彙力の少なさに気づいた、というので、これから先、日本語語彙数を増やしていく努力をしてほしいと要請しました。
今期のクラスでは、NTTの語彙数テストを2度実施し、自分の頭の中にある日本語の総数がいくつであるか、確認させました。日本人大学生の平均的日本語語彙総数は3~4万語である、という解説をすると、2万以下の語彙数しかなかったことが判明した日本人学生、みなショックを受けていました。「小生」を知らなかった彼女も、「自分は中国語も日本語も出来る」と思って来たのに、日本語語彙数が他の日本人学生に比べて少ないことが分かって、ショックだったそうです。
日本語母語話者の社会人、日本語語数平均は、5万語です。日本語教師は最低でも7万語は知っている。
社会に出て日本語を使って仕事をしていくなら、本でも雑誌でも読んで、在学中に最低5万語を獲得しなさい、と叱咤激励。さっぱり本を読まない現代の学生たちに、どれだけこの叱咤がきくのかわかりません。読書より楽しい刺激が身の回りにあふれており、活字を追う楽しさを知る前に、ゲームの刺激を享受しているので。ゲームで勇者になって敵を倒すのは面白かろうが、それでは語彙は身に付かない。
私も、今でも毎日辞書をひきますし、一日に一語は新しい語に出会います。新しく知る語のほとんどは、英語由来の外来語が多いですが、まだまだ知らなかった漢字語彙もある。
でもね。私は「Qさま」というクイズバラエティ番組を毎週見ていて、自分が知らなかった漢字の読み方を毎回発見するのだけれど、正答を教わると「へぇ、そういう読み方もあったんだ」と思うのに、翌週はもう忘れている。私の頭もザルです。
引用文と自分の文章を区別つしなければならない、という基礎的なことも、教えられなければ学生は知らない、というあたりまえのことを再確認し、ザルにいっぱい水を注いで、今期も終了しました。
てんやわんやの前期ではありましたが、8月は夏休みです。講師会議があるほかは、来期の準備と姑の介護と、モノが散乱し積み重なり、わけがわからなくなっている部屋の片付けと。30日に受けた区民検診。確か、「国保、区民検診受診券」というのが届いていたのだけれど、さて、どこにまぎれこんでしまったのやら。
「これは大切だから、ゴミとまちがって捨ててしまわないように」と思って、どこかにしまったはずなんだけれど、さて、どこだったでしょうか。さがしまわって、ようやく紙の束の間から拾い上げました。ものを探し回るのに人生の時間の半分を消費してしまっている気がする。
レントゲンやら血液検査やらもしたのだけれど、いちばん必要なのは、この「どこに何があるのか、わからなくなって探し回らなければならない仕組みの脳」の検査なのでしょう。
ザル頭、しばしの夏休みで、休憩です。
8月上旬、ブログ更新も夏休みをいただきます。
<おわり>
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>2012年前期(6)ザル頭の夏休み
7月9日、仕事が終わってから、修士のときの指導教官をたずねました。いっしょに行った同じゼミだった3人ともに、「学生時代は先生に叱られてばかりだった」という思い出話をしながら、定年退官後は病後の体を労りつつ研究に専念なさっている先生に「もっと叱ってもらうため」に出かけたのです。
先生は、リハビリを続けながら体調回復に励み、今ではとてもお元気になられたようす。ほっとしていろいろなお話をうかがいました。若い頃、全共闘世代で教授連と対立した思い出話から、日本語文法の話、研究仲間とのエピソードなど。
その中で、印象的だったお話。先生がおっしゃるには、「退官して、しんどい授業から開放されて研究三昧かと思ったら、そういうわけでもなかった。このアホ学生めら、お前たちの脳みそに、私の研究成果の日本語文法をどれほど注ぎ込んでも、ザル頭からザーザーこぼれていくのがわかる、と思いながら授業を続けてきたけれど、アホ学生のザル頭に注ぐ言葉がなくなったら、自分の脳からザーザーこぼれていってしまう」とのこと。
お気持ち、よくよくわかりました。私も、現在は「私にできる限り、このザル頭の学生に、日本語学を注ぎ込むのだ。義務だから。でも、ザルに水注ぐのが仕事とはつらい」と思って仕事をしているのですけれど、きっとこの注ぎ込もうとする時間がなるなると、自分に注ぎ込まれる何かがなくなってしまうのです。それは若い学生の学ぼうとするエネルギーが発する何かなのかもしれませんし、人と人が関わろうとするとき発する何かかもしれません。
できる限り興味を持てるようにと工夫したつもりの日本語文法の話に、何の反応も見えないような時間がおわって「ああ、今日も徒労だったか」と思うような時間さえ、実は自分のためには貴重なひとときなのだ、と反省させられる、指導教官のことばでした。
毎期、いろんなことを学生から学びます。今期、ひとつのクラスでは、日本人学生30名の中に台湾からの2名と、日本在住中国籍の学生1名が在籍していました。このクラスには、日本語学の基礎を教授しました。
また、中国人留学生30名の中に日本人学生が2名在籍するクラスに日本語教授法を教えました。
日本語学のほうは台湾人学生に、「日本人向けの日本語学講義だから、Nテスト(日本語能力試験)1級にも合格していないというあなたたちには、少し難しいかもしれないけれど、いいですか」と、念を押しての授業で、留学生に配慮はしたけれど、授業の中味は手を抜くことはなかったので、「日本語はむずかしい」と感じたようです。それでも、最後まであきらめずに毎回出席し、発表も行いました。
留学生のなかに日本人が混じる「日本語教授法」の授業では、日本人学生に「このクラスの中国人は、ほとんどがNテスト1級に合格していないそうです。だから、日本人が当たり前に知っていることも確認しながら、日本語復習という内容を混ぜていきますが、いいですか」と確認しました。
たとえば、ひとつの漢字に多くの読み方がある、という日本人には当然のことが、世界の文字の中では、特殊なことなのだ、ということなど、あらためて教えられると「びっくり」なこともわかったようです。中国人には、「生」の読み方を10以上書きなさい、という課題が「え~、こんなにひとつの漢字に読み方があるのか」と、思えたし、「流鏑馬のきしゃの取材をしたきしゃのきしゃがきしゃできしゃしたそうですね」という文を漢字を使って書き分けなさい、という課題に対して、「漢字はお手の物」と思い込んでいる中国人学生にも書けない、ということがわかりました。
「日本で使われている漢字は日本語である」という基本的なことを認識し、「流鏑馬」が、中国人には誰一人読める者がなく、さすがに日本人学生には読めた、というとき、「日本の漢字は中国のものとは違うのだ」と中国人も実感できました。
「中国語と日本語と両方しゃべれるから、明日からでも日本語教師になれる」と思い上がっていた中国人学生に、熟字訓の練習をやらせて、自分たちの日本語知識は実に浅いものだと思い至らせただけでも、十分に授業の効果はありました。
授業の内容や自分が発表したことをまとめる期末レポート。昔の学生レポートは、手書きの上に、作文力の低下で、これが日本人が書いた日本語文章か、と思うようなひどい文章も混じっていたのですが、最近は、読むに耐えない、とう文章が少ない。これは、ワードなどのパソコン入力の文章だと、校正機能がついていて、おかしな文章を指摘してくれるからです。主述が一致していなかったり、テニオハが間違っている文章もぐんと少なくなりました。
授業レポートは、授業内容と自分が発表した内容のまとめを要求しているのですが、まとめの文章が規定字数に達しないとみるや、感想を付け足す学生もいます。ありがちな常套的な感想ですが、授業者が「この授業を通じて何を学んで欲しいか」と述べたことが伝わったのかも、と思える感想です。
この講義を受けて、日本語の奥の深さや自分の知っている、使える日本語がどれだけなのかや、いかに少なかったかを確認することができました。
言葉は、その時代時代で新たな言葉が生まれたり、時代とともに死語になる言葉があったりとまるで生きているかのように人間と共存しているんだと思いました。また、言葉は日本語だけだはなく、世界各国にあり、自分が特に興味が有るのは英語ですが、他にも様々な国の言葉を勉強して、話せるように、様々な国の人とその国の言葉を使って会話をしてみたいと感じました。言葉の歴史などにも興味をもつことが出き、今後日本語以外の言語についても、深く調べてみようと思いました。
この授業を通して、日本や日本語、言語について深く学び、考えることができ自分にとってよい機会だったと思いました。 今後もっといろんなことをしらべ、学んでみたいと思います。
近頃の学生のレポート文章がまともに読める、ということのひとつに、引用が容易になった、ということもあります。
引用をいくつか積み重ねて、前後に自分のことばを付け加えるだけで、一見まともなレポートが仕上がります。
引用する場合は必ず引用元を明記せよ、引用元がないと盗作になる、とこれまでくり返し言ってきたのですが、最近は「大学基礎、レポートの書き方」「文章表現基礎」などの授業が設置され、単位取得できる正式な科目として存在しているので、私の授業で声をからして「レポートに引用する場合の作法」というのを言わなくなったのです。そのため、コピーペーストレポートをそのまま出す学生も出てくる。引用元明記を徹底しなかった私のミスです。
以下のようなコピーペースト文を、引用明示なしにコピーする学生がいまだにいるのです。
中国では英語を学ぶ人口は一番多いが、二番目は日本語である。日本語を勉強する動機もいろいろあるだろう。日本語の中に漢語がいっぱいあるから、学びやすいと思う人も少なくないようだ。特に大学で第二外語として選ぶ場合は、そういう傾向が強いように思われる。小生が日本で二年間中国語教育にたずさわった経験から見て、日本の大学生も同じ動機で中国語を第二外語として選ぶケースが少なくないように見える。でも中国語と日本語はたいへん異質な言語である。中国人も日本人も相手国の言葉を勉強して行くうちに、だんだんとその難しさを思い知らされるのが常である。
以上の文章、自称が「小生」であり、「小生が日本で二年間中国語教育にたずさわった経験から見て」という一文から見て、日本で中国語を教えたことのある教師が書いた文章であることは明白です。この文章をそっくりコピーペースして、自分自身の文章として提出することの奇妙さにも気づかない。
提出者は、中国国籍であるけれど、両親の移住にともない小学生から日本の学校で学んでいる、という学生でした。「中国語と日本語の両方が使えるバイリンガル」であることを誇りとするよう、教師は励ましてきたのですが、引用作法についてのレクチャーは、今期省略していました。
補講に出席した彼女に、「引用のルール」を説明すると、そのようなことは、これまで誰からも教わらなかったと言い、引用元を付け加えました。確かめると、「小生」の意味がわかっていなかったことが判明。彼女は、クラスで実施したNTT語彙数テストで、自分自身の語彙力の少なさに気づいた、というので、これから先、日本語語彙数を増やしていく努力をしてほしいと要請しました。
今期のクラスでは、NTTの語彙数テストを2度実施し、自分の頭の中にある日本語の総数がいくつであるか、確認させました。日本人大学生の平均的日本語語彙総数は3~4万語である、という解説をすると、2万以下の語彙数しかなかったことが判明した日本人学生、みなショックを受けていました。「小生」を知らなかった彼女も、「自分は中国語も日本語も出来る」と思って来たのに、日本語語彙数が他の日本人学生に比べて少ないことが分かって、ショックだったそうです。
日本語母語話者の社会人、日本語語数平均は、5万語です。日本語教師は最低でも7万語は知っている。
社会に出て日本語を使って仕事をしていくなら、本でも雑誌でも読んで、在学中に最低5万語を獲得しなさい、と叱咤激励。さっぱり本を読まない現代の学生たちに、どれだけこの叱咤がきくのかわかりません。読書より楽しい刺激が身の回りにあふれており、活字を追う楽しさを知る前に、ゲームの刺激を享受しているので。ゲームで勇者になって敵を倒すのは面白かろうが、それでは語彙は身に付かない。
私も、今でも毎日辞書をひきますし、一日に一語は新しい語に出会います。新しく知る語のほとんどは、英語由来の外来語が多いですが、まだまだ知らなかった漢字語彙もある。
でもね。私は「Qさま」というクイズバラエティ番組を毎週見ていて、自分が知らなかった漢字の読み方を毎回発見するのだけれど、正答を教わると「へぇ、そういう読み方もあったんだ」と思うのに、翌週はもう忘れている。私の頭もザルです。
引用文と自分の文章を区別つしなければならない、という基礎的なことも、教えられなければ学生は知らない、というあたりまえのことを再確認し、ザルにいっぱい水を注いで、今期も終了しました。
てんやわんやの前期ではありましたが、8月は夏休みです。講師会議があるほかは、来期の準備と姑の介護と、モノが散乱し積み重なり、わけがわからなくなっている部屋の片付けと。30日に受けた区民検診。確か、「国保、区民検診受診券」というのが届いていたのだけれど、さて、どこにまぎれこんでしまったのやら。
「これは大切だから、ゴミとまちがって捨ててしまわないように」と思って、どこかにしまったはずなんだけれど、さて、どこだったでしょうか。さがしまわって、ようやく紙の束の間から拾い上げました。ものを探し回るのに人生の時間の半分を消費してしまっている気がする。
レントゲンやら血液検査やらもしたのだけれど、いちばん必要なのは、この「どこに何があるのか、わからなくなって探し回らなければならない仕組みの脳」の検査なのでしょう。
ザル頭、しばしの夏休みで、休憩です。
8月上旬、ブログ更新も夏休みをいただきます。
<おわり>