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ニーハオ春庭中国日記「西安始皇帝陵・大連」

2011-11-20 15:00:00 | 日記
ニーハオ春庭「西安・秦始皇帝陵」
2007/08/28  火
ニーハオ春庭中国通信>西安・秦始皇帝陵

 秦始皇陵墓内で見つかった500箇所の墓に葬られている人は、殉死者というより、おそらく、陵墓の建設に従事した人々のものだろうと推測されています。陵墓内部の秘密を守るために、陵墓建設に関わった人は、建設終了と同時に墓域内に閉じこめられたのではないか。

 志願して皇帝に殉じた人もいたことでしょう。
 陪葬墓から出土した人骨のひとつは、ペルシャ系のDNAと同じ特徴を持つ男性の骨と分かったのだそうです。はたして、この人は、皇帝に恩義を感じて殉死した人だったのか、陵墓を設計する技術者で、秘密を守るために無理矢理、陪葬者とされたのか。

 足が弱い妹は、陵墓を見に階段を上るのはやめておくというので、待っていてもらい、姪とふたりで階段上って陵墓を見にいきました。

 汗をかきかき階段を上りきると、ボランティアの人が「ぬれおしぼり」を用意し、無料で貸し出していました。ありがたく汗をぬぐいました。
 中国観光地で、このような「無料サービス」を受けたのは初めてだったので、さすが始皇帝!と思いました。伊達に2300年も眠っちゃいないってとこかな。

 広い陵墓の区域を見渡したのですが、どこに始皇帝が埋められている場所なのかはよくわかりません。
 案内板はありますが、あまりに広くて、見比べても、どれがどこにあたるのやら。

 副葬抗の兵馬俑発掘は、この30年間に体系的に研究と発掘が進められ、大きな成果を上げました。しかし、始皇帝の墓そのものについて、政府は、保存の方法がきちんと確立するまで、急な発掘はしない、と決めています。

 日本の明日香村で、保存方法をきちんとこうじないまま発掘したため古墳内部にカビが生えてしまい、キトラ古墳などの貴重な壁画が失われてしまったのを考えると、発見されたからただちに掘り出すばかりがよいとは言えないことがわかります。

 中国4千年の歴史を考えれば、10年20年早く発掘したって、いいことありません。あせらず悠久の構えでやるのがいいんじゃないでしょうか。

ALA中国より始皇帝陵
http://china.alaworld.com/modules.php?name=My_eGallery&do=showpic&pid=2000&orderby=hitsD

 始皇帝陵の広場では、この時代の戦闘と踊りを再現したイベントが行われていました。
 兵士の服装や武器などは兵馬俑から再現できます。芸人の俑から、美女たちの衣装が再現されているのもしれません。

 私には秦時代の衣装と唐時代の衣装の区別などつかないのですが、美しい服装の女性達がゆったりと踊り、兵士たちは行軍と擬闘を演じました。

 イベントをゆっくり見ていたせいで、タクシーの運転手は「午後3時までの拘束時間だから、もう、戻らないと3時までに市内に帰れない」と言い出しました。

 最初は3時までなんてことは言わず、ただ、主な観光地を回って200元」と言っていたのに、話が変わってきました。
 たぶん、運転手は「時間延長するから、割増金をだしてほしい」と、言いたかったのでしょう。

 兵馬俑博物館の見学がまだ残っています。
 兵馬俑を見ないで戻ったのでは、西安に来た甲斐がありませんから、「あとは、バスでもどるから、兵馬俑博物館前で私たちをおろして帰っていいよ」ということにしました。

 運転手にとっては、3時前に市内に戻って200元もらうよりも、時間延長して割増金を稼いだほうがよかったのかもしれません。
 愛想のよい運転手でしたから、最後までおつきあい願ったほうがいいか、ちょっと迷いましたが、私は、最初に「3時まで」と言わずに途中から「3時までの拘束時間」と言い出したことが気に入らず、もうタクシーはいいや、と感じました。

 兵馬俑は、時間をかけてゆっくり見たい。
 ツアー客の兵馬俑博物館の滞在時間は1時間くらいと聞きますが、一日たっぷり見ていてもいいくらいです。数千体にのぼる兵士俑の顔、ひとつとして同じ顔はないのだそうですから。

<つづく>
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2007年08月29日


ニーハオ春庭[西安・司馬遷と始皇帝]
2007/08/29  水
ニーハオ春庭中国通信>西安・司馬遷と始皇帝

 歴史書に書かれている始皇帝陵は。
 漢時代の『漢書』にも、北魏時代の『水経注』にも、始皇帝墓はもはや残されていないと記されています。
 三国志で知られる項羽が秦二世皇帝を攻め滅ぼしたときに始皇帝陵を破壊したと。

 これらの歴史書は、始皇帝が死んだのち、600年くらいしてからの記述です。

 始皇帝の時代に一番近い記述は、司馬遷の『史記』です。
 司馬遷が生まれた紀元前145年は、始皇帝が薨去した紀元前210年から55年たったとき。

 第二次大戦後62年たった今も、戦争の記憶を語り継ぐ人がいるのですから、今より短命だった紀元前とはいっても、きっと司馬遷の周囲に始皇帝時代のことを語り伝えることのできる人がいたのではないかと思います。
 司馬家は、歴史を司る家柄でしたから、きっとそのへんの資料をあつめていたのではないかと想像されます。
 
 陵墓建設は、始皇帝没後も続けられており、項羽が秦の二世皇帝子嬰を滅ぼしたことを「現代史」として記憶する人が、司馬遷の周囲に残っていたと思われます。

 司馬遷は『秦本紀』と『秦始皇本紀』の二本立てで詳しく記述しています。
 始皇帝の風貌については、「鋭く高い鼻、目はつりあがって切れ長、鷹のように突き出た胸、やま犬のような声」と描写しています。始皇帝その人を見た者が、司馬遷の周囲にいたのではないか、と思えるような描き方です。

 始皇帝陵について、司馬遷は、「始皇帝は地下に生前の暮らしをそっくり再現する地下宮殿をつくり、町を守る城壁も、近衛師団も、山や川までもが、地下に作られていた」と記述しています。
 この近衛師団が、8000体の兵馬俑でしょう。
 では、川は?この川には水銀が流れ、盗掘にやってくる者は、この水銀の川に阻まれ、さらには、自動的に発射される装置によって射抜かれ、誰一人皇帝の墓には近づけない、、、、と。

 その記述が正確であったことが実証されたのは、実に『史記』が書かれてから2000年後のこと。2003年のリモートセンシングによる科学的調査によります。
 あたり一帯の水銀の濃度が異常に高いこともわかりました。地下宮殿の広さは東西170M、南北50M、高さ15Mの大宮殿であったこともわかりました。

 広大だったと伝えられた陵墓が完全に地下に隠れたものになっていたため、『漢書』などで、項羽が全部破壊し、盗掘してしまったので、現存していない、と書かれたのです。
 しかし、始皇帝墓は実在していました。

 盗掘しようとしたものは確かにいました。盗掘のための穴が掘られていた。けれど、陵墓まで到達できた盗掘穴はなかった。みな、地下軍団に阻まれたか、何一つ盗み出すことはできませんでした。
 エジプトのピラミッドがほとんど盗掘されていることを考えると、「絶対に盗掘させないぞ」という始皇帝の執念が感じられます。

 司馬遷の記述が正確なものであったことはわかりましたが、陵墓の発掘は、保存方法の確立まで延期されたため、それ以上のことはまだわかっていません。

 始皇帝陵墓リモートセンシング探査に先立つ30年前。1974年、井戸を掘ろうとした農民たちが偶然に発見した兵馬俑。
 秦の始皇帝陵墓の副葬坑の発掘は、世界中の人を驚かせました。

 兵馬俑博物館は、第一号、二号、三号の兵馬俑坑を、体育館のような広い建物のなかに納め、そっくり保存してあります。
 最も有名な馬車俑を展示する館を入れて4つの博物館から構成されています。

 入場料90元。入場するときは「高っ」とおもったけれど、見終わったら90元という中国物価にすれば割高な入場料も納得できる規模でした。

<つづく>


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2007年08月31日


ニーハオ春庭「西安・兵馬俑博物館」
2007/08/31  金
ニーハオ春庭中国通信>西安・兵馬俑博物館

 第一号兵馬俑坑の面積は134260㎡あり、その中には、武士陶俑500体、木造戦車18台、陶馬百匹余が出土。
 兵士陶俑の高さは実物と同じくらいで、平均高さ1.8m。同じ顔をしたものが一体もないというのがすごい!

 発掘現場をそのまま残してあり、発掘途中のようす、出土した兵馬俑を並べているところなどを見ることができます。
 兵馬俑は、1987年に世界遺産に指定されています。

 妹は、群馬県立歴史博物館で兵馬俑展が開催されたとき、歴史好きな父が行きたがったので、いっしょに見にいっています。
 ちょうど20年前1987年の特別展「中国陜西省文物展」です。世界遺産に指定されたときだったので、歴史大好きの父にとっては、何をおいても見にいきたかったのでしょう。

 妹は、「あのときは、兵馬俑っていっても何も興味がなくって、ただおじいちゃんが見たいっていうから連れて行ってあげただけだったけれど、本物の兵馬俑坑はこんなすごいもんだったんだねぇ」と、しみじみ。

 私の歴史好きは父親ゆずり。文学好きは母の血を受け継ぎ、演劇好きは母方の祖父に繋がっています。
 ほんとに、亡父に見せてやったら、どんなにか大興奮だったでしょう。連れてきてやりたかったなあ。

 第二号坑の面積は約6000㎡。
 陶俑と陶馬は合計1300体余、戦車が89両あり、歩兵、騎兵、戦車もある。
 第三号坑の面積は約376㎡で、他のふたつに比べて小規模ですが、ここには、地下の大軍を統師する指揮部が埋められていました。
 武士俑68体、戦車1両陶馬4匹。
 三号坑の軍陣配列は全体として秦の軍隊の編成の縮図であるといいます。

 馬車の展示館。1980年に発掘された、馬車を特別に展示しています。
 彩色あざやかな四頭立て馬車は、最も有名で、兵馬俑といえばこの写真が使われる。

 現在も兵馬俑坑は、引き続き研究と発掘が行われています。
 全体で8000体と言われている兵馬俑も、さらに発掘すればするほど、新しい発見物がでてくる。
 21世紀中に全体像があきらかになるかどうか。

 みんなに配るおみやげとして「兵馬俑キーホルダー」を買いました。2000年も始皇帝を守ってきたので、守りの力がとても強いんだよ、というみやげ屋のおばちゃんの売り言葉を信じて、まとめ買い。

 「自分のためのおみやげ」として、『秦の始皇帝の地下軍団ー世界の八番目の奇跡』という写真集を買いました。日本語版も韓国語版も売っていました。
 『偽満州絵はがき集成写真集』なども買いましたが、翻訳の日本語の文章がへんなところが多かった。でも、『秦の始皇帝の地下軍団』の中国語版の翻訳、なかなかしっかりしたよい日本語になっていました。兵馬俑の記念として楽しめそうです。

 リンクは人民日報の兵馬俑のスライドショウ 
http://j.people.com.cn/cehua/20050525/home.files/frame.htm

<つづく>


2007/09/02  日
ニーハオ春庭中国通信>西安・公共トイレと足浴マッサージ

 タクシーを帰してしまい、バスで市内に戻ることに。
 バス停、わかるかなあ、と心配しながら兵馬俑博物館を出てきましたが、駐車場の前、306路線のバス停留所、すぐにわかりました。

 路線バスなので西安鉄道駅前まで90分もかかりましたが、ひとり7元(安っ!)
 やっぱり、私は行き帰りともバスにしたかった。

 タクシーで、目的地まで一目さん、というより、いろんな人といっしょに乗り合わせて、次はどんな停留所なのかなと思いながら進んでいくのが好き。
 バスのなかで、中国語が聞き取れなくても、乗客同士のおしゃべりを聞いているのが楽しい。

 西安駅前の公共トイレで、私の聞き取りが悪いために、またまた一悶着。
 トイレ代の5角を払い、おばさんの前においてあるティッシュをひとつもらおうとしました。おばさん「ごちゃごちゃ、、、、」と、怒る。

 私は「トイレのお金を払え」と言われたのだと思い、「今、3人分払ったじゃないの」と、言い返しました。おばちゃん、さらに「ごちゃごちゃ、、、」と、怒る。私も怒って、「いいよ、もうこのトイレ使わない」と、駅前の別の公共トイレへ。

 お金を払い、ティッシュをもらおうとすると、今度は係りのおっちゃんが「ごちゃごちゃ、、、、」と、怒る。
 「えっえっ、お金払ったのに」と、私。
 妹が、「ねぇ、そのティッシュ、別料金なんじゃないの?」と、言い出しました。
 えっ、済南の観光地では、5角を払うとちり紙をつけてくれたのに。きたないトイレで水も流れなかったけれど、5角は紙代かと思って払ってきた。

 西安では、トイレ代5角と紙代は別料金なのでした。な~んだ、「払え」って怒られたのは、ティッシュペーパー代金だったのね。
 妹、私の聞き取り能力にすっかり不信の念。スンマヘン、中国語わかんなくて。
 てんやわんやで、なんとかトイレをすませました。

 ホテルに戻ると、妹はまたまた「足が疲れたから、マッサージ頼みたいけれど、今度は足だけにしておく」と、2階へ降りて足マッサージを受けることにしました。

 私と姪もついていったので、マネジャーは、ちょっと困った。マッサージ技術を持っている人は、その時店内にふたりしかいなかったから。

 そう言ってくれれば、私は別段マッサージしてもしなくてもいいのだから、妹にゆずって、客室に戻っていたのに、下手な筆談でも、まったく日本語が通じないよりマシだからと、私もいっしょにいることにしたため、ひとりマッサージ担当者が不足してしまった。

 私と姪には、地味な若い女性と30代後半の女性が担当になりました。
 妹の足を担当することになった子は、ミニスカートから赤いパンティをチラチラさせ、胸の谷間を大胆にえぐっている衣装の、厚化粧ギャル。

 あれ、この子、ちゃんとマッサージできるのかしら、と思っていたら、途中でやたらにケータイが鳴り、マッサージしている時間より、ケータイに出て中断している時間のほうが長い。

 20分くらいすると、妹はカンカンになってしまい、「いいかげんにして!もう、あんたやんなくっていいよ。そんなふうにただなでていたって、ちっともマッサージ効果なんかないから。男性ならそういうおさすりでも喜ぶ人いるだろうけれど、あたしはそんな胸の谷間見せられたって、お金払わないから!」と、日本語で怒り出した。

 結局、姪の足を担当していた若い女性が、姪の分が終わってから、妹の足をやり直すことになりました。
 「前の人が20分やったから、あなた残りの40分やって」と、お願いし、今度は「この子は、ちゃんとツボを心得ているし、リンパ液の流れも理解している。ちゃんとマッサージの研修を受けている子だ」と、妹も納得。

<つづく>
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2007年09月03日


ニーハオ春庭「西安・おみやげいっぱい」
2007/09/03  月
ニーハオ春庭中国通信>西安・おみやげいっぱい

 足浴マッサージ、ひとり60分40元。3人分の支払いのほか、姪と妹の両方をやってくれた子にチップをはずんでやりました。
 支払いが終わっても、妹は「男性専門しかやったことない子を、ほんとうに足が痛い人のマッサージに差し向けるマネージャーが悪い!」と、怒りがおさまりません。

 妹は、小さいときから身体が弱く、今もしょっちゅうマッサージや整体のお世話になっています。妹にではなく、私のところに赤パンティの小姐が来たのなら、私はマッサージしてもしなくてもたいしてちがわないのだから、きっと「マッサージしている時間よりケータイでおしゃべりしている時間のほうが長いなあ」と思っただけで、マッサージの技術を持っていないことを気にせずにおわったかもしれません。

 マッサージについてよく勉強していて、ツボだとか、リンパの流れだとか知っている妹の担当になったことが、彼女の不運でした。
 最後にお会計をするとき、フロントのソファに寝そべって化粧直しに余念ない彼女、そっぽ向いて「あたしの胸の谷間に感激しない客なんて客じゃないわ!」って雰囲気でした。

 「日本だったら、これだけ客を怒らせたら、マネージャーがあの子にとにかく頭をさげさせて、マネジャーもおわびのヒトコトをいうところだけれど、ここは日本じゃないから、みんな平気な顔してるわね。日本だったら、インターネットで書き込みしてやれるのに」と、妹がいうので、書いておきます。
 
 中国でマッサージを受けるとき、ほんとうにマッサージできるのか、胸の谷間をちらちらさせながら、さするだけの子なのか、よく確かめてから依頼しませう。
 アハッ、もちろん赤パンティの彼女のほうを指名したいって方もいますよね。

 8月6日午前中、デパート文商大厦で買い物。妹は西安特産のお茶やお菓子を買い込みました。中国食品バッシングが起きている最中だからと、食料品の買い込みは少なくしたというのですが、それでもNPO法人の仲間といっしょにお茶を飲むときのお茶菓子とか、いろいろ買い込みます。

 午後3時半の便で大連に戻る予定だったのですが、飛行機が遅れました。
 中国語わからない3人だからと、国内便なのに、国際線と同じように2時間前には飛行場につく用心をしていたので、飛行機に乗り込むまで3時間以上も西安咸陽国際空港で「何もできない時間」をとられました。

 おまけに、なぜ飛行機が遅れているのか、これからどうなるのか、という説明が中国語だけなので、英語ができるという係員に「Please explain it to me. What's happen」と、聞いても、「O.K. O.K.」というだけで、何がOKなのか、さっぱり要領を得ません。

 中国語の聞き取りがさっぱりできない私に、妹は「半年も中国にいて、よくそんだけ中国語できないまま暮らせたわね」というのですが、はい、暮らしてきてしまいました。

 ま、こんなことで、私が買った「ニセ青石」、妹が受けた「おさすりマッサージ」「どうして飛行機がおくれているのか、さっぱりわからんちん」と、珍道中は続きましたが、無事、大連行きの飛行機に乗り込み、ドタバタ西安旅行も、「楽しかったあ」と、終わりになりました。

 三千年の歴史を胸につめ、西安料理を腹につめて、飛行機は大連へ。
 華清宮のけだるそうだったコスプレ楊貴妃さんも、青石売りのおばちゃんも、マッサージの赤パンティ小姐も、みんな元気でネー。

<西安おわり大連へ> 


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2007/09/04 火
ニーハオ春庭中国通信>大連賓館スィート宿泊&ひとり75円の夕食

 8月3日夜に大連賓館に泊まったとき、「次は、中山広場が見下ろせる部屋にしてください」と、注文しておきました。
 それで、8月6日夜と7日夜は、広場側のスィートルームに宿泊できました。

 ツインベッドの寝室と、ソファセットや飾り棚などあるゆったりした居間の二部屋。東京2DK団地の我が家より広い。
 
 貧乏性のわたくし、中国に来て、スィートに泊まるのは、はじめてでございます。
 居間のほうにエキストラベッドをいれてトリプルルームにしてしまうところが、やっぱりちょっと貧乏性。「こんなに広い部屋なのに、これと別にシングルルームをとるなんて、もったいない」と、考えるところが庶民です。

 8月6日の晩。西安からの飛行機が大幅に遅れて大連に到着しました。
 私たちを「大連星海広場ビール祭」に案内しようと待っていてくれたハンさんも、あきらめて家に戻ったところ。

 晩ご飯を食べに大連賓館の海鮮レストランへ行ったのですが、遅い時間で、もうレストランは閉まっていました。
 大連賓館の海鮮レストランでは3人で600元(9000円)くらいの予算でした。これでも、日本の中華海鮮料理店の値段からすれば、「安い!」と、妹は言っていたのです。

 どこでもいいから、近場で食べようと、町をぶらぶら歩いて、目の前に並んだ料理の中から好きなのを指定して皿に盛りつけてもらう式の大衆食堂へ入りました。
 私はいつもこの方式の「指さし中国語」で、不自由なく食べてきました。

 料理3皿、スープ、饅頭などをとって会計をしたら、3人分で15元でした。ひとり分日本円にすると75円。姪が「安っ!」と、びっくり。
 なんのなんの、私はいつもこんな程度で食べてきた。

 私の教え子たちの職業は大学教師ですから、中国社会階層では上層に属しています。食の安全や栄養に関心が深い。それで、よく忠告してくれました。
 「先生は、安い食堂で食べないほうがいいです。安い油をつかった料理を食べると、おなかをこわします」

 でも、私のおなかが調子悪かったのは、中国に着いてすぐの3月だけ。
 あとは、どんな安食堂だろうと、田舎のこぎたない食堂だろうと、鉄の胃袋で消化してきました。

 大衆食堂3人で15元の料理だって、特別まずいわけでもなく、おいしい中華料理です。たぶん、最高級の食用油とかは使っていないだろうけれど。

 料理油の品質の話は日本でも報道されていて、妹も知ってはいましたが、まあ、1回くらいの食事で身体を悪くすることもないでしょう。
 それに、もし中国の安食堂で食事し続けている人々が、品質の悪い食用油によって健康被害を受けるようなことが事実としてあるのなら、それは、国の機関がきちんと対処すべきこと。
 (段ボール入り肉饅はねつ造ということで決着がつきましたが)


 自分たちだけは安全な食料品を「私たちはお金があるから高くても安全なものを食べますワ、オホホ」と食べればすむことなのでしょうか。
 「どんな安い食べ物をとっている貧乏人でも健康によい安全なものを食べる」のは、人として当然の権利と思うのですが。

 「ひとり5元75円で夕食を食べたって、自慢しようっと。友達へのみやげ話ができた」と、妹も大喜び。
 宿泊はスイートルームに泊まって、夕食は一人前5元ってところが、とってもアンバランスで、話としてはおもしろい。

 大連の夜、スィートルームの寝心地は?
 私は、村の一泊10元のフロ屋でもぐっすり眠れる「3分間目をつむっていれば寝つく」人なので、スイートだからって、寝心地が特に変わるってこともなく、、、、。ばたんキュー。

 昔は、スイートルームっていうのは、新婚さんが泊まる「あま~いお部屋」と思いこんでいました。sweetじゃなくて、「ひと続き」の意味の suite のことだって知ったのは、甘い新婚時代なんぞとうに過ぎ去った頃。
 新婚時代にはスイートなんぞ泊まったことがありませんでしたが、せめて、甘いもん食べてる夢でも見ましょう。

リンクは大連賓館HP日本語ページ http://www.dl-hotel.com/jp/index.htm

<つづく>
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2007年09月05日


ニーハオ春庭「大連老虎極地海洋動物館の座席」
2007/09/05  水
ニーハオ春庭中国通信>大連老虎極地海洋動物館の座席

 7日は、友人のハンさんの案内で、午前中は東海公園から星海公園への海岸通りドライブ。
 緑ゆたかな海辺、そして海際の山の中の道をタクシーで走りました。

 大連老虎灘海洋公園では、中国でここしかいないという「白い鯨」のショウへ案内してもらいました。

 2002年4月に開園した「老虎灘極地海洋動物館」の目玉、アシカと白鯨のショウです。鯨といってもそんなに大きい種類ではありません。かわいい感じ。
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.ln.xinhuanet.com/xwzx/2006-10/20/content_8302716.htm

http://www.tbs.co.jp/chainavi/oa20060722.html
 
 開園以来、4回ここで遊んだというハンさんが「こんなに混んでいるのは初めて」という混みようでした。
 立ち見覚悟で最後尾に立っていたら、すぐ前のベンチにすわっていた外人ふたりが、予定の集合時間になってしまったらしく、立ち去りました。

 外人がふたり去ったあきスペースに、中国人女性といっしょにすわったら、右側に座っていたロシア語でしゃべっているおばさんに「あっちいけ」のジェスチャーをされました。

 自分の座っている隣が空いたのだから、自分に権利があると言いたいらしい。おばさんは、私を押しのけて自分の息子(中学生くらい)を呼んで座らせようとしました。

 一瞬腰を上げそうになりましたが、「ここは中国、自己主張しなくちゃ」と思い直して、「私は目の前に空いたスペースに座ったんです。あなたの隣の席だからといってあなたに所有権があるわけないので、私はこのまま座っていますよ」と、「日本語で」主張し、どきませんでした。

 息子もむりやりロシアママの隣に座ったから、ふたり分のスペースに三人で座ることになりました。きつっ!
 中国人女性は、「きつくなった」と中国語で文句をいう。そんなこと私に言われても、、、、。

 私も、日本にいれば、ずうずうしさにかけてかなりなもんのオバハンですが、どうも中国語やロシア語のまくし立てに、日本語オバハンの主張は、分が悪いみたい。

 ショウを見ながらも、この「異文化体験」について考察。日本語教師だからネ。
 日本の「場所取り」文化の比較考察。

 満員の電車の中で、座席にすわっていた人が立って下車した場合、そのすぐ目の前に立っていた人に座る権利が回ってきたと、皆が思っている。だから、目の前に立っていた人は、下車する人がドアへと向かう頃合いをみはからい、下車する人のじゃまにならないタイミングで座席に腰を下ろす。

 ところが、このタイミングをみはからっている間に、私の隣に立っていた人がちゃっかりすわってしまう場合がある。

 「違うわよ、私は、満員の中、下車する人のじゃまにならないように、脇に寄っていたのであって、座りたくないという意味じゃなかったんです」と、私は心の中で思うのに、斜め隣に立っていたオバハン(オッサン)は、知らん顔で座ってしまったあと。
 「あんた、目の前の席に座らないようだから、私、すわったのよ」と、いう顔で、デンと座ってしまったら、もう、私は立ち続けるしかない。

 「ああ、下車する人が出やすいように、脇によけるんじゃなかった、自分の目の前の座席を確保するように身体を動かせばよかった」なんて、毎度の後悔。
 「ほんま、脇から私の座席とるなんて、ずうずうしいオバハン(オッサン)やなあ」と、通勤の間中腹を立てている。

 でも、この「目の前に空いた座席は私のもの、という暗黙の了解」は、どうして皆の「暗黙の了解になっているんだろうなあ」と思います。

 また、プールサイドやディズニーランドのパレードコース、花火見物の河川敷、などで、「ビニールシートしいてある敷地は自分たち家族のもの」という「暗黙の了解」も、面白いなあと思います。

 何も敷いていないで、立っているだけでは、いくら「ここ、あとから私の家族が来る分のスペースです」と、言っても、どんどん人が入ってきて侵略されてしまう。
 ところが、ビニールシート一枚ひろげてあれば、その一枚の領地には人がはいってこない。

 映画館で、座席を立ってトイレにいく場合、座席の上にハンカチ一枚でも文庫本一冊でもおいてからトイレに立つ。
 このハンカチ一枚は「この座席は私のものですよ」という印。あとから来た人は、たとえ百円ショップで買った安物ハンカチであっても、それをどけてその席に座ることはしない。

 これなども、「物がおいてある座席を横取りしない」という暗黙の了解事項が全員になされているから成り立つ社会常識になる。
「持ち主を知らなくても、物があったら、他人の物に手をつけてはならない」という社会の了解事項が守られているからです。

 でも、「ハンカチがおいてあろうと、そんなものはどけてしまってよい」という社会常識の国もあるだろうし、ビニールシートなんぞ、「領有宣言にはなりえない」という地域もあるに違いない。

 この、ビニールシートやハンカチ一枚が「領有宣言」になるというのは、たとえ百円のものでも、それをどけたりしたら、「他人のものに手をつけた」という盗人になるという社会常識があるからでしょう。
 これとはちがう常識の社会もあると思います。

 道に落ちているものは、「不必要なもの」ではなく、「誰かが落としたもの」だから、交番に届けなければならない、ということを、親からいやというほどしつけられているから、子供でも「道におちているものは、警察に届ける」という社会常識となる。

 ある地域では「置き引き」と見なされている行為が、「放棄された物をいただくだけ」という意識で持ち去られる地域もあるでしょう。
 「持ち主の手を離れて、そこに置かれている荷物は、持ち主不明=不必要な品物となる」と考える人もいるんじゃないかな。

 ちょっとでも手を離したら、そのカバンは「放棄された落とし物、不必要なもの」と、みなされてしまう。

 「砂漠や野原の真ん中に落ちているものは、だれかが放棄したものだから、見つけた人が再利用してやったほうがいい」という地域の常識が拡大解釈されて、「手が放れている品物は放棄された物」と考えれば、置き引きは犯罪ではなくなるってこともあるだろうなあ。

 ハンカチ一枚くらいじゃ、「その座席は私のもの」にはならない地域もあるということを知ってはいたけれど、大連の白鯨ショウで、「隣の席があいたら、私のもの」と「目の前の座席が空いたら私の席」の、権利のぶつかりあいでは、まあ、私のほうが「ちょっと押され気味」ながら、引き分けにおわりました。

<つづく>
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2007年09月06日


ニーハオ春庭「大連老虎極地海洋動物館の白鯨ショウ」
2007/09/06  木
ニーハオ春庭中国通信>大連老虎極地海洋動物館の白鯨ショウ

 きちきち座席でみた白い鯨。
 リズムに合わせて身体をゆすったり、観客の中から選ばれた女性の顔にキスしたり、飼育員のイケメンおにいさん(山本耕一似)が白鯨の背の上に立ち、プールを一周したり、なかなか愛嬌がありました。

 次はイルカショウ。男の子がフラフープするのと競争で鼻先で輪を回したり、鼻でボールをついたり輪くぐりをしたり。

 数字の足し算引き算、ほんとうに計算ができるみたいに、「5+2は?」「4-1は?」などの飼育員の合図でイルカがボードを鼻先で押す。
 子供達は、本当にイルカが計算できると思って、「イー、アール、サン、スー、ウー、リュー、チー」と、大声でイルカがボードを押すのに合わせて声を張り上げて数を数えています。

 「10ー1」の計算で、イルカが11回ボードを押してしまったときには、「あ~あ、まちがえちゃった」と残念がる声。「ちがうよ、足し算じゃないよ、引き算だよ」と、あちこちからイルカに教えてあげようとするかわいい声があがります。みんな、算数とくいなんだね。

 飼育員が「ほら、これは引き算だろ、もう一度ちゃんと計算して」と、言うと、イルカは、次は9回ボードを押しました。なかなか芸が細かい。

 サンシャイン、品川、油壺水族館などで、イルカやアシカのショウを見てきましたが、こんなに観客が大喜びでノリノリになるのを見るのはなかなかないことなので、きつきつ座席でも楽しかったです。

 昼ご飯は、星海広場わきの上海料理の店。
 食べたことのないもの、というコンセプトで「鶏の足料理」などを注文。妹と姪、興味しんしんでこわごわ鶏の足にかじりついてみましたが、、、、、、、コラーゲンたっぷりといわれても、はあ、やっぱり見た目でいまひとつ食欲わかない、という感想でした。

 四川料理や上海料理は、日ごろ食べ慣れた東北料理とはまた違う食材や味付けがあり、中華料理、北から南まで、幅広い。
 大連でも、海鮮料理、東北料理、上海料理、いろんな味を楽しめて、「中国食べ歩き旅行」の私と妹には、またまた「ダイエットは来年から」の日々です。

<大連おわり 北京へ(北京篇は9月中旬より掲載します。次回から「へいわのうた」シリーズ)>


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2007/09/14 金
ニーハオ春庭中国通信>北京南苑空港

 春庭の中国滞在報告、最後の滞在地は北京でした。
 8月8日、妹と姪を大連空港で見送りました。ふたりは成田へ。

 6日間の旅で軽装のふたりに、私のスーツケースを持ち帰ってもらいました。
 一番大きな荷物が減って、北京でのひとり歩きも、少しは身軽な気持ち。

 公用旅券での旅、最初に文部科学省に届け出た「北京から帰国」が、変更不可と言われました。しかたなく大連から妹といっしょに帰国するのをあきらめ、私は北京へ。
 妹と姪が国際線ロビーに入った1時間あと、私は国内線で北京へ。

 スーツケースが減っても、私の荷物は、キャリーカートバッグ、ボストンバック。パソコンバック。
 衣類や本などは、7月中に段ボール箱3箱に詰め、船便で日本へ送ったのですが、手で運びたいものだけでも、半年分の荷物となると、ずいぶんな量です。

 大連発北京行き飛行機は、北京首都国際空港ではなく、北京南苑空港という小さな空港につきました。
 長年、軍が使用してきた空港で、2005年に民間利用が許可になったので、旅客用の設備などはありません。
 妹たちの成田行きが出たあとの一番早い北京行きということで、選んだ便でしたが、なんでも人と違うことをしてみたい私には、よい経験でした。っていうかちょっと痛い経験になりましたが。

 南苑空港の写真 個人ブログより http://4travel.jp/traveler/nh155/album/10170810/

 私が買った北京地図には、「軍関連」の施設が掲載されておらず、この南苑空港が北京市のどのあたりにあるのか、まったくわからずに空港に到着しました。
 荷物受け取りはプレハブの中で。

 プレハブの外に、リムジンバスとタクシーが客待ちしています。
 リムジンバスに乗り込もうとしたら、あんちゃんが話しかけてきました。
「どこまで」
「牡丹賓館」
「このバスは西単が終点だから、牡丹賓館までいかないよ。タクシーにしなよ」

 「タクシーは、高いからヤダ」
「150元でいくよ」
「ウェー、高っ。リムジンバスは20元でしょ」

 西単からもう一度タクシーに乗り換えるのも、荷物が多いのでたいへんと思ったので、あんちゃんのタクシーに乗車。乗り込んでみたら、メーターもついていなくて正規のタクシーじゃなかった。しまった、とおもったけれど、もうおそい。

 北京首都国際空港から市内天安門までは31km、タクシー70~90元程度なのに対して、南苑空港から天安門まではたったの13km。距離は二分の一。
 でも、このあんちゃんは、どこをどう回ったのか、1時間もぐるぐる運転していて、高速道路にも入り、牡丹賓館の前で「高速代は別だから」と、130元要求しました。

 南苑空港から牡丹賓館まで、たかだか20kmほどの距離を、渋滞もないのにどう走りまわったら60分の運転時間になったのやら。北京の町を見物ドライブしたと思えばいいのでしょうが、あいにく、タクシーに乗り込んだら眠くなってうとうとしていたのでした。

 うとうとしている間、ぐるぐるとどこやらを走り回っていた、、、、。
 ひとり旅、油断禁物、うたた寝厳禁です。

 大連ですられたお金は、完全な犯罪なのに、「私がうすぼんやりしていたから」と、あきらめがつくのに、北京のタクシーのほうは、「ぼられた」という感じが強い。南苑空港から市内までの料金を知らずに乗り込んだ自分が悪いのであって、ちゃんと調べておかなかったことが悔しいのです。

 正直なタクシー運転手も多いのでしょうが、このようなボッタクリを取り締まらないと、来年の北京オリンピックで、観光客から中国への不信感が強まるのかも。
 各空港のタクシー乗り場には、大きく、「市内まで約80元」「天安門まで30元」というような掲示をしておくといいのではないかしら。

 オリンピック見物の方、首都国際航空から市内までは、高速代いれても80~100元ですからね。300元とか、要求するタクシーには乗り込まないようにね。
 旅行客にいやな気分を与えたら、オリンピックで国威発揚をはかる政府の意気込みも諸国からのお客さんに伝わらないのではないかと思います。

 市民マナーの向上が叫ばれ、意識改革が呼びかけられているさなか、「ごみを路上に捨てないようにしようキャンペーン」とか、「行列をきちんと作って、割り込みしないようにしよう」とか、いろいろ言われていますが、「ぼったくりタクシー追放」というのも、北京ですすめてほしいです。

<つづく>
11:11 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2007年09月15日


ニーハオ春庭「北京の鼓楼」
2007/09/15 土
ニーハオ春庭中国通信>北京の鼓楼

 かって、鼓楼の太鼓、鐘楼の鐘によって市中に時刻を知らせていたのは、北京も西安も同じ。
 今回の北京の街あるき、私の「ランドマーク」は鼓楼でした。
 2007年の北京、見ておきたいところは、天安門でも万里の長城でもありません。
 「取り壊される前の故同(フートン)」が、今回の北京旅行の目的地域。故同は、北京の「下町路地」です。

 北京の鼓楼の東側には鼓楼東大街、西側には鼓楼西大街。シンプルです。
 池袋西口にあるのが東武、東口にあるのが西武デパートというよりずっとわかりやすく、迷わずにすむネーミング。

 北京故同あるきの途中、鼓楼(入場料20元)に上って、市中を眺めました。高いところに上るのは、大好きです。高さは46,7メートル。

 鼓楼の入場口から73段の急な階段があります。
 エレベーターをつけてほしいなあ、なんて思いながら、ふうふうと休み休み登りました。

 いや、だから、ほら、バリアフリーの時代だし。足腰弱い人も身体の不自由な人も、お年寄りも、歴史的建造物を鑑賞できたほうがいいでしょ。
 エレベーター、私のためじゃなくて、お年寄りのためですから。って、私も年寄りでしたね、、、、、、。眉毛にも白髪を1本見つけました、ぐすん。

 上りきったところに、24個の大太鼓が展示されています。
 太鼓の打ち手は、水時計によって正確な時刻を知り、太鼓の音によって、市内に住む人々に時刻を知らせていました。
 (現在の鼓楼に展示されている水時計は複製品です)

 鼓楼では、30分ごとに太鼓の演奏が行われます。
 私は12時半の演奏を聴きました。
 昔は、24人の打ち手が108回太鼓をうち鳴らしたということですが、私が見たときは、7人か8人くらいだったように思います。

 108回うち鳴らすのは、1年12ヶ月、24節季、72候の「12+24+72」の合計数が108だからですって。

 日本の除夜の鐘を鳴らして煩悩を打ち散らす108回という数の由来には、諸説あるのだけれど、六根清浄の六(目耳口鼻身意)×2(浄・染=きれいと汚い)×3(良・悪・平)×3(前世・現世・来世)6×2×3×3=108なんだって。
 なんかこじつけっぽい気がする。

 だんぜん12+24+72というほうが、いい。なぜならば。
 私、かけ算は苦手。計算よわいです。足し算なら、12+24+72くらいは指折り数えればなんとか計算でできる。だから、足し算の方に賛成。

 リズムにのって、勇壮にうち鳴らされる太鼓、なかなか見事な演奏でした。
 打楽器演奏、大好きです。和太鼓もパンソリの太鼓もアフリカントーキングドラムも。

 鼓楼のテラスから地上を見下ろす。
 鼓楼の北側には鐘楼があります。鼓楼と鐘楼の間は広い駐車場になっており、たくさんの観光バスが出入りし、また、故同めぐりを勧誘する輪タクが駐車しています。

 その広場にピンクのひらひら扇を持ったおばさんたちが並び、東北のヤンガーのような歌と踊りの披露がはじまりました。
 観光客がいっしょに扇をもって踊りに加わっています。ブラックアメリカンらしい数人、楽しそうに扇をふっているのが、鼓楼北側の展望所から眺められます。

 鼓楼の周囲は、古い故同が集中しており、上から眺めると、故同の家々、四合院の屋根が見渡せます。あちこちに壊された故同のがれき山も見えます。

リンクは中国国際放送局HP  http://japanese.cri.cn/304/2006/08/20/1@71356.htm

<つづく>

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2007年09月16日


ニーハオ春庭「鼓楼近辺・浦安ラーメン」
2007/09/16 日
ニーハオ春庭中国通信>鼓楼近辺・浦安ラーメン

 8月9日、鼓楼の周囲の故同めぐり、鼓楼を中心にしたおかげで、方向音痴の私でも迷わずにすみました。
 でも、帰りのバス停は見つけにくかった。
 バス路線がたくさんあるので、バス停は路線ごとに違う場所にあります。同じ「鼓楼前」というバス停でも、路線によってバス停は離れています。

 鼓楼東大街を、バス停を探して歩いていたときのこと。
 「浦安」と書かれた看板が目に入りました。漢字には「うらやす」とふりがながあります。入り口にはカタカナで「ラーメン」と書いた暖簾が下がっています。
 思わず入ってしまいました。

 もうすぐ日本にかえるのだから、今更「日式ラーメン」を食べなくてもいいと、思ったのですが、食べたいと言うより、どんな店なのか見たくて。

 崇文門大路の「あじせんラーメン」でも食べてみたけれど、特別感激の味でもなかったので、もう日式ラーメンはいいや、と思ったところだったのに。
 「あじせん」は、熊本に本拠地があるチェーン店。北京に何店ものチェーン店があります。

 「浦安ラーメン」は、北京ガイド雑誌のラーメン特集号に掲載されたといい、若いご主人胡さんがその雑誌をみせてくれました。
 私が入ったのは、平日の午後4時前という中途半端な時間だったので、先客はひとり。私のあとに二組のカップル、という程度の客数だったけれど、夕食時は、雑誌効果もあって、北京駐在の日本人などにはなかなか人気の店らしい。

 雑誌記事によると。
 ご主人は、千葉県浦安で留学生活をおくり、その間ずっとラーメン屋でアルバイトをつづけた。大学卒業後、中国に帰国後、「本格的な日式ラーメン屋の普及」をめざして、老北京と呼ばれる一帯、すなわち鼓楼近辺に店をかまえた。

 本当は、日本人駐在員が多い地域に店を出したかったけれど、昨今の地価や店の賃貸料高騰で、とても借りられない。そこで、発想を逆転して、昔ながらの北京の下町故同が多いこの鼓楼周辺に店を借りたら、かえってそれがよかったといいます。

 2時過ぎにおそい昼ご飯を食べたので、浦安ラーメンに入ったときはおなかはいっぱい。杏仁豆腐だけを注文しました。
 でも、ご主人の話をきいて、雑誌を見せてもらっているうちに、やっぱりラーメン食べておこうという気になり、チャーシューメンを注文。
 おなかいっぱいで食べたわりには、おいしく食べられました。

北京在住、貿易関係の仕事をしている方のブログにある浦安ラーメンのチャーシューメン
http://plaza.rakuten.co.jp/motobeijing/diary/20070709/

 ラーメン一杯で20元(約300円)。中国ではちょい高級なたべもの。
 蘭州ラーメンや朝鮮冷麺、北京で食べても5元10元の店はいくらでもあるから、20元の日式ラーメンを食べる層は限られてしまうかもしれないけれど、ご主人「日式ラーメン普及」がんばってね。
  
 日本でアルバイトしながら留学していたときくと、それだけで応援したくなります。
 北京駐在員さん、北京の大学で中国語や中国文化などを学んでいる日本人留学生さん、輪タクで故同見物をしている観光客のみなさん、おなかがすいたら、ぜひ浦安ラーメンをどうぞ。

北京で学ぶ日本人留学生のブログより
http://blog.goo.ne.jp/zuoteng-_-qie/e/d214d3f8699497a126268abc8c400f97

<つづく>


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ニーハオ春庭中国日記「大連&西安」

2011-11-08 06:23:00 | 日記
2007/08/17 金
ニーハオ春庭中国通信>大連でスリに遭遇(1)

 8月3日に、妹&姪と大連で合流し、大連賓館に一泊。
 大連賓館は旧名ヤマトホテル。古いけれど、満州時代は市内随一のホテルでした。天井が高くて、部屋も広々しています。

妹がホテルについてすぐにしたことは。
 私が「3月からの海外旅行保険は90日間の保障だけなので、今は保険の期限が切れている」という話をすると、すぐに日本の友達に電話をかけ、私の保険を申し込みました。

 もうすぐ日本に帰るのだし、保険、手続きするの面倒だなあ、と思っていたのですが、8月3日から帰国までの保険を申し込みました。

 8月3日の夕ご飯は、友人のハンさんと娘さんのシンシンちゃんを招待して海鮮料理レストランへ。
 妹はトゲトゲ大きなウニのカラを割ってもらい、山育ちの身には最高の贅沢とご満悦です。

 姪とシンシンちゃんはすぐに仲良しになりました。
 童顔の姪のことを「私よりちょっと年上のお姉ちゃん」と思いこんで仲良くなっている9歳のシンシンちゃんに、「このおねえちゃん、来年は三十路だ~」とはバラさないでおきました。

 8月7日、妹と姪が日本へ帰る前の晩、夕ご飯は、友人のハンさんが自宅でごちそうしてくれることになりました。

 ハンさんが買い物をすませるまで、私たちはいったん大連賓館へもどり、買い物場所で待ち合わせ。

 待ち合わせ時間までの時間つぶし、妹のリクエストは、マッサージの店。
 ハンさんは、日本人の友人達がよく利用していたという日本語が通じる店へと案内してくれました。「手足情」という店です。

 わたしは「マッサージはいいや」と思って、妹を姪にまかせて大連賓館に戻り、近所の古い建物の写真をとったりしていました。

 大連中山広場の周囲は、旧満州時代の建物がたくさん残されています。
 70~80年前の建設途上の大連で、建築家たちが競い合い、思い思いの近代建築を並べたのではないか、と思える、さまざまな近代建築見本帳のような広場です。
 http://www.uraken.net/world/dalian/dalian03.html

 写真をとっているうちに、ぼつぼつと雨が降ってきたので部屋にもどり、妹たちの帰りを待ちました。
 ハンさんが店の人に「終わったらタクシーを呼んで、大連賓館までと、タクシーの運転手に言ってね」と指示してくれたので、妹と姪だけで無事ホテルに帰ってこられました。
 母と娘、ふたりだけで行動する時間というのもあってよかったんじゃないかしら。

 ぽつぽつ降り出していた雨が、小雨になってきたので、急いでまたタクシーを拾いました。
 ハンさんと待ち合わせの場所でタクシーをおりたときには、どしゃぶり。

 妹は傘をもってこなかったから、傘を買いたいと、いいます。
 大型スーパーに入り、私も大連の蝦飴などおみやげを買って、レジで支払いをすませました。妹は出口近くで傘を選んでいます。私の意識は妹の方へ向いていました。

 雨のなか、タクシーを拾いやすいところまで歩いている途中のこと。
 妹が急にキャーと叫びました。どうしたどうした、また転びそうにでもなったか。
 わけがわからないうちに、大量の紙がばらまかれました。えっ、えっ、何がおこった?どうしたこれは。

 「ど、どろぼう!、どろぼうに髪ひっぱられた。頭なぐられた」と、妹。

<つづく>
00:16 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2007年08月18日


ニーハオ春庭「大連でスリに遭遇(2)」
2007/08/18 土
ニーハオ春庭中国通信>大連でスリに遭遇(2)

 道にばらまかれたのは、姪の鞄の中味。
 領収書や小銭の1元札などがばらまかれています。
 とにかく、なんだかわからないまま、私は大急ぎで道にまかれた小銭入れや紙を集めました。

 妹は、前を歩いている姪の鞄に手をつっこむ男の腕が傘の下に見えたので、「ギャー」と、さけんだのでした。

 気づかれずに仕事をすませるはずのスリは、気づかれてしまったので、あわてて、鞄のなかからつかみだしたものを道路にばらまいた。仕事のじゃまをした妹の頭をなぐって逃げた。

 姪は、雨に濡れた道路に気を取られていて、鞄に手を突っ込まれたことにまったく気づかず、妹が叫ばなければ、大金が入ったほうの財布まで手が入り込んだのかも知れません。が、さいわい、道路にばらまかれたほうは、小銭入れでした。

 ハンさんの家では、ハンさんのお姑さんが料理を作って待っていてくれました。
 シンシンちゃん、ハンさんのご主人のリュウさんといっしょに、心づくしのごちそうをいただきました。
 ゆであわび、ほたて、生ウニ、木耳の炒め物、きゅうりのあえもの。肉饅頭。どれもお姑さん自慢の家庭料理です。ほんとうにおいしかった。

 スリにすられそうになったという話も、姪の財布は助かったので、リュウさんやお姑さん達に何が起こった伝えるのも「武勇伝」めいています。

 おいしい海鮮家庭料理をいただきながら、私は、姪に説教します。
 おしゃれな服を着て、小粋な帽子をかぶっていた姪に対し「そんなガイジンっぽいおしゃれな格好をしているから、スリに狙われちゃうんだよ。私みたいに、10元のTシャツきて、よれよれのジーンズはいて、50元のスニーカーはいて歩いていれば、スリも近づいて来ない」と。

 ところが、ところが。
 ホテルに帰って、買ったものを整理しようと、私が持っていたバッグの中味を全部だしてみたら、、、、
 財布がなかった!

 スリが姪の鞄を狙ったのには、前段階があって、スーパーで買い物をしたあと、傘を選んでいる妹に気をとられていたとき、すでに私の財布はすられていたのでしょう。

 いつそんな目にあったのか、まったく気づきませんでした。自分の財布でなければ、「さすが、技術をみがいているだけありますなあ、いや、見事な仕事っぷり」と、言いたいくらい。

 こんなマヌケな一行だから、ついていけば、もう一度うまい汁が吸えると、スリに目をつけられ、後を付けられていたのだと思います。
 しかし、姪の鞄を狙ったことは、妹に発見されて失敗。

<つづく>
00:02 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2007年08月19日


ニーハオ春庭「大連でスリに遭遇(3)」
2007/08/19 日
ニーハオ春庭中国通信>大連でスリに遭遇(3)

けっきょく、一番のマヌケは私、ということになりました。

 ぐやじい!!!
 妹や姪といっしょだし、中国人の友人がいっしょなのだからと、油断をしていたってこともありました。
 
 しかし、考えてみると、今回は財布ごとすられたので、無くなったことに気づいたのです。いつもは、お金がなくなったことにすら気づかない。
 いつも、500元くらいまでのお金は財布にいれずにそのまま服のポケットにつっこんでおき、適当にお札をだして支払う方式の私、これまでも、きっとすられていたんじゃないかと思います。

 財布を持っていると狙われるから、レジで財布からお金を出し入れするな、中国人のように、ポケットに小銭を小分けしてつっこんでおけと、忠告されていたのですが。
 持って出たお金と買い物したお金の収支が合わないのは、私の計算力がないせいだと思っていました。

 「また、今日も買った値段と支払った値段が合わない、計算弱いからなあ」と、思ってすごしてきましたが、きっと何度もすられていたのかもしれません。今回もすられたことにまったく気づかなかったということを考えると、これまでもまったく気づかれずにすられてきたのだろうと思います。
 マヌケです。

 すりにしてみれば、こんなウスぼんやりしたおばはんのポケットを狙うくらい、朝飯前のことだったでしょう。日本にいたって、私は毎日注意力散漫で、物をなくす、置き忘れる、どこにしまったかわからなくなる、なんて、日常茶飯事なのだから。

 そんなこんなの「大連でスリに遭遇」の一幕でした。
 
 8月3日に保険にはいっておいたおかげで、そう被害甚大でもなくすみました。
 本当は私たちが警察に出向いて被害届を書いてもらわなければならないところ、翌日は私は北京に、妹と姪は成田へと出発しなければならず、飛行機の時間を変えるのはまたたいへんなので、ハンさんが書類関係のことは全部処理してくれました。

 出会っておくべきは、よき友人。出会わずにすませたいのは、スリひったくり。

 え~、別段海外旅行保険会社に頼まれたわけでもありませんが、宣伝をひとつ。みなさん、旅行に出るさいは、保険に加入しておきましょう。何がおこるかわかりません。

<大連のスリおわり>
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2007年08月20日


ニーハオ春庭「善悪功罪勝敗陰陽、なんでもアリが「地球歩くコツ」
2007/08/20 月
ニーハオ春庭中国通信>善悪功罪勝敗陰陽、なんでもアリが「地球歩くコツ」

 妹と姪が中国ですごした最後の夜。
 スリに頭をなぐられ、ショックを受けた妹でしたが、友人ハンさんご一家の歓待を受け、中国に対して嫌な思いをひきずらずに帰国できたことは幸いでした。

 悪い人は、日本にもどこの国にもいます。
 たまたま大連で人様の財布を盗ろうとする者に出くわしたのは災難でしたが、中国13億人全員が悪いということはありません。私も半年の中国滞在で、たくさんのよい人に出会えました。

 ただ、どの国を旅する場合でも、「他の国に比べれば安全な日本に住んでいると、自分自身で守らなければなければならない携行物や自分の身への注意力が不足してしまいがちだ」ということは意識すべきでしょう。

 個人旅行者よりもツアー旅行者に「パスポートをすられた」というような事件が多いのも、ツアーだと「自己管理」という気になりにくいからかも。
 私がスリに財布をすられたのも、「中国人の友人といっしょ」という気のゆるみがあったからだと思います。

 保険加入のおすすめと共に、「中国にスリがいたからって、中国全体が危険な国というわけではありません」ということと、
「でも、来年の北京オリンピックには、たぶん、中国中のスリが北京に集まってくるよ~」というご注意を。
 当局が取り締まりに目を光らせる度合いも強まるでしょうが、そこは、スリたちだって、「腕の見せ所」と、待ちかまえているにちがいありません。

 広い中国、「なんでもアリ」です。
 以前、「四つ足のものは机以外のものすべて、空飛ぶものは飛行機以外のすべてを食べるのが中国料理」ということを書きました。
 「食」以外の分野だって同じこと。どろぼうの技術も4千年の歴史のなかで磨かれているに違いない。

 妹と姪は、「スリにあった」という経験も「旅のみやげ話」として、西安や大連で買い込んだ土産物と共に、成田行きの飛行機で帰国しました。

 最初にスリ話をしてしまいましたが、では、これからゆっくりと西安大連でこぼこ道中のおはなしを。
 ツアーで効率よく名所を見て歩くのとはまたひと味ちがう、「地球の迷い方」満載の道中になりました。

<つづく>
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2007年08月21日


ニーハオ春庭「でこぼこ珍道中in西安」
2007/08/21 火
ニーハオ春庭中国通信>でこぼこ珍道中in西安

 8月4日朝、大連から西安へ。飛行機で2時間。
 
 西安の宿は、五一飯店という大衆中華でにぎわうホテル。西安繁華街の中にあり(東大街351号tel-87681098)、1階が大衆レストラン、2階がフロントと西安・淮揚料理のレストラン、足浴マッサージの店。3階以上が客室。
 格安ツアーの「キャンペーンクラス」に利用されるホテルです。

 五一飯店、「西安グルメガイド、安くてウマイ店」と、ガイドブックには出ています。淮揚料理の有名店だとか。
 名所旧跡より何より、美味しい料理を食べられることが旅行の第一目的という食いしんぼ姉妹の旅なので、まずは腹ごしらえ優先で。

 客室は、安いけどまあまあ。トリプル室を予約したのだけれど、ツイン部屋にエキストラベッドを無理矢理押し込んで、きちきちってかんじ。
 でも、ま、いいか。ホテル見にきたんじゃなくて、兵馬俑を見るんだし、おいしいご飯食べればいいんだし。

 添乗員も現地ガイドもいない旅にとって、ことばができないのはやはり不自由でした。
 筆談とブロークンイングリッシュで、コップの数が足りない、とか、フロアスタンドがつかない、とか、交渉。

 五一飯店HP(中国語と英語のみ。日本語HPなし) http://www.may-first.com/

 西安は、紀元前11世紀から歴史の表舞台に登場し、近代史の西安事件(*)に至るまで、長い歴史の中に時を刻んできました。
(*1936年12月12日に西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件)

 紀元前11世紀の西周から、前漢、新、晋、前趙、前秦、後秦、西魏、北周、隋、紀元9世紀の唐まで、諸王朝の都として栄えたまちです。
ことに、唐時代の「長安」は、「世界史上の大都市」で、日本からも空海、最澄、吉備真備はじめ、たくさんの留学生留学僧が滞在した関わり深い歴史の街です。

現在の西安は中国陝西省の省都。周囲13kimの城壁に囲まれた城内とその周囲に広がる城外を含む、市街地の人口300万人、郊外地を含めると680万人都市です。

 西安の主な観光地は。
 紀元前3世紀に、最初に中国を全国統一した秦の時代、始皇帝の陵墓と兵馬俑。
 9世紀、唐時代の楊貴妃の墓や華清池。
 三蔵法師玄奘がインドから持ち帰った経を納めた大雁塔。
 14世紀、明時代に建てられた鐘楼と鼓楼、などなど。
 まさに、中国3千年の歴史を俯瞰できる都市です。

 最初は、大手ホテルの中にある旅行社へ行き、妹の希望で日本語ガイドつきのツアーに申し込もうと思ったのですが、ふたつ旅行社を回っても、「今日は日本語ガイドツアーをやっていない」といいます。
 西安に着いたのが土曜日だったので、土日の予約はもういっぱいだったのだろうと思います。

 日本語ガイドに案内してもらったり、ツアーで次から次へと効率よく回るのもひとつの旅の方法ですが、私は、できることなら、少々デコボコでも穴が空いても、自分たちの手と足で自由に歩きたい、という気持ちが強く、それ以上、旅行社めぐりをして日本語ガイドをさがすよりも、自分たちで行けるところに行けばよい、と思いました。

 妹は、日本語ガイドがいないと不安なようでした。子どもの頃からずっこけ続きの姉ですから、そのあやしげな筆談をあてにしていいものかどうかと。
 「まっかせなさ~い!中国語はあやしいが、コミュニケーション能力は高いのだ!」と、姉。
 「まかせるたんびに、ずっこけたんだけど」と、妹。
 ま、なんとかなるでしょ。
 
 タクシー代と各地の入場料を合わせるとツアーよりも割高になるのですが、自分たちの好きに回るところを設定して好きなときに休めるのは気楽です。
 各観光地の説明は、あとでネットの日本語説明を読めばよい、ということにしました。

西安市観光局HP http://jp.xian-tourism.com/

<つづく>
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2007年08月22日


ニーハオ春庭「西安・鐘楼」
2007/08/22  水
ニーハオ春庭中国通信>西安・鐘楼

 8月4日午後、五一飯店から徒歩で西安の鐘楼へ。鐘楼の入場料金一人27元。

 鼓楼と対になっており、朝の鐘と夕方の太鼓で、住民に時を知らせる役目を担っていました。
 高さ36mの鐘楼の上から、四方へのびる道路が見渡せます。

 昔、朝、鐘を鳴らして城門を開け、夜、太鼓を鳴らして城門を閉めたのだそうです。
 鼓楼は1380年に建てられ、鐘楼は1384年、西大街の広済街口に建てられたました。そののち、鐘楼は1582年現在の場所に移築されました。夕方はライトアップされます。

個人のHP旅行記から
 http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2003xian/photo/xian1074l.jpg

 鐘楼のテラスをぐるりと回り、四方の景色をながめます。並木の美しい立派な道路が東西南北へ伸び、それぞれ西安城壁の東門西門北門南門へ続きます。

 鐘楼の中には、陝西省独特の文化財である「影絵劇」の、「皮革切り絵人形」が壁一面に展示されています。
 皮を細かい切り絵作業によって切り抜いた人形。手足の先に棒をつけ、人形を操って、さまざまな物語りを上演します。

 伝統的なステージがあり、古楽器が並んでいます。時間によって楽器の演奏があったのですが、私たちが入場したときには、もう楽器演奏は終了していました。
 30分くらいあとに影絵劇の上演があるというので、鐘楼のなかを見回りながら、上演を待っていました。こんなふうに見学時間を変更できるのも、個人旅行のいいところ。

 楽しみに影絵上演を待っていたのに、ステージに登場したのは、スクリーン。影絵上演は、パソコンからスクリーンに投影して行われたのでした。
 な~んだ。パソコンの投影なら、テレビやDVDで見ても同じこと。実際に人が上演すると思ったので待っていたのに、がっかりです。
 上演についての中国語説明がわからなかったために、こんな「がっかり」もでてきます。これは、ことばがわからないままの個人旅行のわるいところ。
 
 鐘楼を出ると、回りにぐるりと地上の道があり、最初、それを一周したのですが、反対側に出る横断歩道がないので、次に鐘楼の地下周囲にある地下道を一周しました。
 「なんだかぐるぐる同じところを回っているんじゃない?」
と、珍道中。

 出口がわからずぐるぐる回るのも、ツアーやガイドがいたらできないこと、と、逆転の発想でデコボコ道中を楽しむことにしました。

<つづく>

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2007年08月23日


ニーハオ春庭「西安・城壁」
2007/08/23  木
ニーハオ春庭中国通信>西安・城壁

 地上の道には横断歩道がなかったので、鐘楼の地下周囲をドーナツ状にぐるりと取り巻いている地下道を一周。地上との上下にはエスカレーターがそれぞれの出口についています。これはありがたい。

 それから城壁の南門へタクシーで行きました。タクシー初乗り8元。着いてみたら、歩いてもそんなにかからない距離でしたけれど。
 南門から城壁の入場料金ひとり40元。

 一般のツアーでは、東門から城壁に上って、東門の近くから周囲を見て次のコースへ行くのが多い。

 現在残されている城壁は、唐・隋の時代の土塁をもとに、明代に建てられたものです。建設は1370~78年、ほぼ十年がかりで、土塁から石積みの堅固な城壁になりました。
 かっては北京など他の都市も、西安と同じように城壁に囲まれていたのですが、市の発展とともに城壁をこわし街を拡張していきました。

 西安市でも、一時は「街の拡張にあわせて取り壊した方がいい」という意見もありました。建てられてから600年以上たつ城壁は痛みも目立ち、補修すべき箇所も多かったからです。

 しかし、市は、崩壊してきた城壁を修理しながら保存することを選択しました。
 現在中国で「完全に四方を取り囲んで残された城壁」は、ここ、西安市の城壁のみとなっていて、貴重な観光資源となっています。
 古いものをやみくもに壊して新しくすることより、大切に保存することがよい結果を生むという見本です。

 東西南北に城門が設けられ、かっては、夜、太鼓とともに門が閉められたあと、朝、鐘の音によって開門するまでは、人も車も出入りできませんでした。
 城壁は、城内の平和と安全を保障するものだったのです。

 城壁は、高さ12m、幅12~14m。
 城壁の上では、ジョギングしている人、サイクリングしている人。散歩している人。 欧米人は、ジョギングや自転車で走る人が多い。

 貸し自転車は、門から門への往復でもいいし、90分かけて城壁1周でもよい。
 1人乗りは90分15元、2人乗りは20元。
 一周14kmをノンストップで走れば、90分で戻ってくることが可能だけれど、途中で見学したり休憩を入れて90分以上かかったときは、帰ってきたときに30分ごとに追加料金を支払う。

 いや~、元気な人には絶好のサイクリングロード。「3000年の歴史の風をきって走る」って感じでしょうか。

 ヤワな我ら3人は、「このカンカン照りの中、何が悲しくてこんな高い場所で走らにゃならんのよ」と、自転車をすすめてくるおっちゃんにはノーサンキュー。
 城壁を一周する電動観光車に乗車しました。ひとり50元。

 観光用ですが、西安市の「公共バス」のひとつです。といっても、市内バスは1元なので、50元もするバス、一般の市民はたぶん乗らない。
 1周14kmの城壁をのんびり走る観光車。切符には「西安城墻遊覧観光車乗車票」とあります。

 途中段差があると「はい、おりてください。向こう側でまた拾うから」と、おろされ、日盛りの中歩いた部分もあり、けっこう時間がかかりました。でも、集合時間とか気にする必要がないのは、自由旅行のいいところ。
 観光車は、一周切符を持っていればどこでおりてどこで乗ってもよく、どの車に乗り換えても良い。

西安の城壁 中国国際放送局HPより  http://japanese.cri.cn/119/2006/05/30/1@64496.htm

<つづく>


10:57 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2007年08月24日


ニーハオ春庭「西安・書院門通り」
2007/08/24  金
ニーハオ春庭中国通信>西安・書院門通り

 城壁から見渡す西安の町、ところどころに古いお寺の伽藍が見下ろせたりしましたが、全体としては、アパートなどが立ち並ぶごく普通の町並みです。

 シルクロードの出発点。
 黄砂が多い地方だからかもしれませんが、城壁から見下ろす町並みは、ちょっと埃っぽい灰色の感じがします。
 他の都市と同じく、西安も環境問題が大きくとりあげられており、工業化によって空気もいっそう埃っぽくなっているようです。

西安市 西側の城壁 http://members8.tsukaeru.net/skytrekker//chinasiro/seian.html

 さて、中国語と日本語の「同じ漢字なのに意味が異なることば」の例として「手紙」と「汽車」をよく例につかいます。
 「手紙」、中国語ではトイレットペーパー。
 「汽車」、日本語では鉄道の上を走りますが、中国語では道路を走る「自動車」

 もうひとつ、私がよく例に出すのが「城」です。
 日本語で城は、天守閣を備えたり、周囲に堀をめぐらせたりする「君主の館」。
 中国語では、「城(ジャン)」は日本語の「城壁」を意味します。

 日本人が「お城を案内してあげる」と、中国人に言ったとき、中国人は西安の城壁のような「町をとりかこむ壁」を見せられるのだと考えます。
 中国で「ここは城跡です。壊されてしまい、今はありません」と案内されると、日本人は、かってそこに高々と聳える天守閣があったのかと想像します。

 東門の上には秦の始皇帝が全土統一を行った当時の戦車や大石発射台などの「最新鋭軍備」が展示してあります。
 城壁を上ろうとする敵兵に、大石をごろごろ落として町を守る、そんな時代もあったのだろうなあ、と、映画『墨攻』を思い出しながら、真夏の城壁上をひとまわりしました。

 8月4日夕方、西安市南門東側につづく書院門通りをぶらぶらしました。
 書院門通りは、西安市観光局の肝いりで整備された「古文化街」のひとつ。
 碑林まで約570m、伝統的な建築の家並みが続き、土産物、書画骨董、書道具などの店が集まっています。

西安市観光局HPより  http://jp1.xian-tourism.com/LIST1.ASP?listid=341&Classid=13
 
 街路の脇は常設の骨董屋や貴石、書道具などの店、中央には土産物の屋台。
 妹は屋台のみやげ屋で伝統切り絵を買いました。
 あれこれ交渉して、ちょっとでも安くしてもらうのが楽しい。売る方は、それを見越して最初は2倍以上の値を言うのです。

 ミニチュア中国服のワインボトルカバー、どこにでも売っているようなおみやげですが、まあ、西安で買ったということがいいんでしょ、と,、妹も私も買うことにしました。

 1枚25元というのをたくさん買うからと20元に負けさせて得した気になったけれど、隣の店では、同じ物を最初から一枚15元で売っていました。あ、損したかも。
 でも、値引き交渉のやりとりが楽しい、ということもあるんです。ま、いいか。
 う~、でもやっぱり損した気分。まだまだ買い物修行が足りません。

<つづく>

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2007年08月25日


ニーハオ春庭「西安・道教の寺」
2007/08/25  土
ニーハオ春庭中国通信>西安・道教の寺

 8月4日夜、私は夜店がでるという通りへいくつもりだったけれど、身体が丈夫でない妹が「疲れたからマッサージしたい」というので、全身保健マッサージを3人で受けました。

 ホテルの外にでれば、90分40元くらいのマッサージ屋さんがいくらでもあると言ったのだけれど、妹は、「もう歩いて外に出たくない」というので、ホテル内のマッサージ店の人に部屋まで出張してもらい、ひとり60分80元。

 妹は「きいた」というのだけれど、私はマッサージをしても、特にからだがほぐれた気がしない、損な体質。「きいた気がしない」マッサージなら、しなくてもいいように思うんだけれど、トリプルベッドに並んで揉まれました。

 5日朝、鉄道駅前のバスターミナルから兵馬俑行きの路線バスに乗ろうということになりました。
 306路のバスが、秦の始皇帝陵墓や楊貴妃が湯浴みした華清池、兵馬俑博物館などめぼしい観光地への往復をしています。

 駅までは、タクシーで。ホテルの前に停まっていたタクシーに乗り込み、「火車站」と言い、地図の駅を指し示しました。

 地図もっている時点でヨソモノなことはバレバレなので、運転手はパンフレットを出して、売り込みをはじめました。市内東側の観光地を回って、このホテルまで送迎して一日200元だと。

 私ひとりならバスを乗り継ぐほうを選びますが、妹と姪もいっしょなので、タクシーを頼むことにしました。
 股関節を悪くしてから歩くとすぐに疲れてしまう妹、去年もタイでころんで捻挫をしたので、あまり歩き回らせることはできません。

 最初に道教のお寺へ行きました。驪山(リーシャン)の上のほうまでタクシーで上っていきます。驪山は標高1256m。山道の両側は、柘榴の果樹園。

 入山料ひとり45元。「高っ」と、思うのに、けっこう観光客が入山していました。
 チケットは、馬の絵がある80角の切手(約10円、国内ハガキ料金)つきの絵はがきになっており、「中国驪山・国家森林公園、国家AAAA級旅游、国家重点文物保護単位、国家第一批重点風景名勝区」と書かれています。

 この道教のお寺を含む、一帯の入場券なのだろうと思います。
 山門から寺院境内へ。石段を登っていきます。

 道教のお寺は、仏教寺院と同じような雰囲気です。日本の仏教寺院より色彩が派手ですが。
 タイ仏教寺院は小乗仏教で、日本仏教とは異なる感じがします。それに比べ、中国道教寺院は仏教寺院とかわるところがありません。別の宗教なのに、「仏教の宗派がちがう」程度の感じ。

 飛鳥時代、皇極(斉明)天皇が、道教に執心したということを思い出します。
 宮中で行われる「四方拝」という儀式も、もともとは道教の儀礼。

 福永光司著『道教と古代日本』などによると、聖徳太子が書いたとされる『三経義疏』は教科書などには「仏教書」と紹介されていますが、この中にも、道教の教典が含まれるのだそうです。

 インド仏教が中国に伝わったとき、その初期から中国道教と習合しました。サンスクリット語から中国語に翻訳された仏典は、道教の教典の用語をとりいれて訳され、また、中国民間宗教の儀礼などをとりいれながら、中国社会に入り込んだのです。

 日本に伝わった仏教とは、「道教+仏教」であったのだ、ということが、道教寺院参拝で、実感として納得できました。

<つづく>
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2007年08月26日


ニーハオ春庭「西安・道教寺院門前の青石」
2007/08/26  日
ニーハオ春庭中国通信>西安・道教寺院門前の青石

 驪山にくる日本人観光客、ツアーでは華清宮へ直行してしまい、この山中の道教寺院を参拝する人はほとんどいないらしいので、自由旅行で、ここにこられたこと、よかったと思います。

 お堂を参拝して参道を降りてくると、おみやげを売っているおばちゃん達に呼び止められました。たらいの中に水を張り、様々な色の石を入れて売っています。
 茶色や白の石を卵の形に磨いてあります。

 青い石を丸く磨いた石の卵、水に沈んだ青色が美しい。
 天青石(セレスタイト)とは違うようだけれど、パワーストーンに詳しい姪によると、青石(チンシー)、日本ではけっこうな値段がするらしい。

 おばちゃんは、最初一つ5元と言っていました。
 きれいな青色の石を手に持って「おみやげに持って帰るには、石だとバッグが重くなるなあ」と、買うかどうか決めかねていたら、おばちゃん、値段が気に入らないと思ったのか、ふたつで8元でいいよ、となり、3つで9元と下がってきました。

 ええっ、青石がそんなに安くていいの?ここらが産地なのかしら。
 「4つで10元なら買うけど」と言ったら、「いいよ」ということになったので、買いました。

 タクシーの運転手に、「こういう土産屋では買うもんじゃない」とたしなめられました。
 4つ10元(150円)なんだから、青石の品質が悪くても、仕方がないと思ったんですが、、、、。

 帰国後、青い石の卵を水に沈めてみると、、、、水がだんだん青くなっていきます。
 あらま、ただの白い石を青く染めただけの偽の青石でした。そりゃね、4つ10元だもの。こうしてだまされるのも、「自由旅行おみやげやの経験」です。

 もっとも、「だまされた」というのは、こっちの勝手な思いこみ。「おばちゃんは「青い石」として売っていたのであって、こちらが勝手に「青石チンシー」と思っただけなんですよね。

 おばちゃんが「青石」と言ったのか「青的石」と言ったのか、覚えていないけれど、染めてあったのだとしても、見た目青ければ「青い色の石」として売るおばちゃんは、当然の商売をしただけのこと。
 私の髪なんぞ、半分以上は「ごま塩」になっているはずですが、染めたら「見た目は黒髪、若いつもり」で歩いてますから。

 今、青い石は、日本の台所の片隅、水のなかで、しだいに青色を薄めつつあります。

<つづく>
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2007年08月27日


ニーハオ春庭[西安・華清池]
2007/08/27  月
ニーハオ春庭中国通信>西安・華清池

 9世紀の唐の都、長安。
 鑑真が経を読み、阿倍仲麻呂が玄宗皇帝に仕え、井真成が病を得て早世し、楊貴妃がレイシをほおばりながら湯浴みした。

 楊貴妃と玄宗皇帝のロマンスは、唐代第一の詩人白居易(白楽天)の長恨歌に謳われ、千年の恋となって今に伝わっています。
 貴妃・楊玉環の数奇な運命は、現代もさまざまな小説や劇の源泉となっており、西安の町のあちこちにも、「音楽劇・楊貴妃」のポスターが貼ってありました。

 747年。玄宗は驪山(リーシャン)のふもとに華清宮を建てました。
 驪山一帯は、火山による温泉が豊富な土地で、三千年前の西周時代から温泉保養地として有名な場所でした。
 発掘したところ、玄宗専用の温泉浴槽も楊貴妃専用の浴槽もみつかりました。

 華清宮、入場料70元。中をまわる観光車ひとり6元
 建物のなか、観光用に唐時代の衣装をつけた女性がだるそうに寝そべっています。
 「う~ん、楊貴妃に扮しているつもりなら、もうちょっとなんとか雰囲気をだしてほしいなあ」と、思ったのですが、この暑さでは、楊貴妃衣装を着ているだけで汗だく、大仕事なんでしょう。
 本物の楊貴妃は、夏の暑さをしのぐために、冬の間に切り出した氷を山の洞窟にためておき、離宮まで運ばせて涼をとったということですが、、、、

華清池の写真、リンクフリーとある個人HPより
 http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2003xian/kaseichi.html

 華清宮から秦始皇帝陵へ。
 秦の始皇帝。紀元前259~210年、皇帝在位、前221~210。
 中国を初めて統一国家としてまとめ上げた専制君主。

 始皇帝は、自分以外の誰をも真に信頼することなく、自分の死後、皇后とその一族が権力を得ることをおそれて、正式な皇后を冊立することがなかった。

 不老不死の仙薬を求めて各地に人を派遣したが、徐福も他のだれも皇帝の望みをかなえることなく、自分が統一した国を巡視中に50歳でなくなった。
 死後の守りを万全にするため、帝位についてすぐに工事を開始し、巨大な陵墓を建設した。

 その陵墓と、副葬の兵馬俑坑は、世界を驚かせた発掘のあと、世界遺産として見学者を集めています。 

 始皇帝陵は、面積が56平方キロ。入場料40元。
 陵墓の土台の部分は四角形に近い形をし、南北の長さは350m、東西の幅は345m、高さは76m。

リンクは、中国百科より始皇帝陵
http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter14/chapter140406.htm

 内部は複雑な構造になっていて、盗掘者は容易に副葬品や被葬者に近づけないようになっています。万全の守りをかためたため、兵馬俑がそっくりそのまま2千年の間、地中に潜んでいたのです。

<つづく>

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ニーハオ春庭中国日記「合隆鎮のシャンユエ」

2011-11-03 13:18:00 | 日記

ニーハオ春庭「合隆鎮の旅店」
2007/07/31 火
ニーハオ春庭中国通信>合隆鎮の旅店

 中国の宿泊施設、名前のあとに「大酒店・酒店」や「大飯店・飯店」とあるのは高級ホテルが多い。上階は宿泊施設で、1階や2階はレストランになっている。

 北京東方君悦大酒店(グランド・ハイアット・ペキン)、北京飯店(ペキンホテル)、上海四季酒店、(シャンハイフォーシーズンホテル)、香格里拉大飯店(シャングリラ・ホテル)、など。
 一泊300~500usドル。日本円で一泊5万円以上となると、とても私にはおそれおおくて利用できません。

 ホテルや百貨店、会社や官庁などの建物など、大きな建物は、「大厦(ターシャ=ビルディング)」と名乗っていて、ホテルの名前でも、大厦がある。哈爾浜竜門大厦(ハルピン・ロンメン・ホテル)、延吉白山大厦(イェンジン・ベイシャン・ホテル)など。

 名前の後ろに「賓館」とあるのは、星つきも星なしもある。
 8月に大連で宿泊する予定の大連賓館(ダーリェンビングヮン)は、三つ星。旧満州時代に設立された旧ヤマトホテル。名建築の誉れ高い老舗です。

名前だけは「賓客の館」でも、賓客を迎え入れるのはとてもできそうもないっていう雰囲気のところもありますが、名乗るのは勝手。

 次は「招待所」クラス。大学の職員や公官庁の招待所には、ホテル並の設備が整っている所もあります。
 町のなかに「招待所」と看板が出ている所は、だいたい安宿。30~70元(450~1000円)くらいで泊まれる。

 町にも村にもある「旅店」となると、部屋は、ほぼベッドの幅。ベッドのわきに人が通れるだけの隙間があり、トイレは共同。安全面を考えると、バックパッカーをのぞき、一般の観光客は利用しないだろうと思います。
  
 前に来たとき、合隆鎮には旅店があると、バスから見ていました。
 泊まるところがあることはわかっていましたが、そこがどれくらい安全か、については、最終的に自分の判断に頼るしかありません。ほとんどの所は安全ですが、万が一の場合は、自分自身の責任です。

  中国は、安宿でも安全なほうといえますが、人様にはすすめません。衛生面で、たとえば、シーツを換えてなくても平気な人でないと、旅店はちょっと、、、。

 この、「清潔感へのこだわり」も人それぞれ。大学外国人専門家公寓は、毎週水曜日がシーツ交換日で、服務員が取り替えてくれました。
 しかし、洗濯の仕方が気に入らないと言って、自分でシーツを買ってきて、自分で清潔にしたシーツでないと安心して眠れないという人もいました。
 他の居住者が使ったことのあるバスタブはいやと言ってシャワーだけで半年すごした人もいます。

 私のこだわりは、「大勢の人が直箸で大皿から料理をとる中国式の食べ方では、他の人が箸をつけた食べ物が食べられない」という点。
 私の前に新しい皿がきたとき、一番先に私がとりわけ、あとは食べないので、宴会料理、私はあまり食べられない。

 宴会では十皿二十皿の大皿がテーブルに並ぶのですが、新しく来た料理は、一番目上の人の前に置かれます。
 勤務部署の宴会では、「日本では、料理を取り分けるとき、別の箸を使う」ということを知っていて、取り箸を用意してくれるのでいいのですが。
 
 合隆鎮の旅店。バス発着所からぐるりと見渡し、一番近くに目に入ったところへ行きました。
 フロントのおねえさんは、まあよさそうな人だし、部屋を見せに二階へ案内してくれたおばちゃんも気がよさそう。それだけで信用してはいけないこともあるけれど、ま、今夜はここでいいでしょう。

 フロントのお姉さんは、「一泊20元」と言います。田舎の旅店なのに、ちょい割高と思いましたが、「听不懂 チンブートン=耳で聞いても理解できない、わからない」で、筆談だけの日本人、しかたないなと、宿泊決定。

 部屋は、日本の言い方なら4畳半くらいの広さ。セミダブルベッドとテレビと帽子かけがある。あんどん部屋で窓がありません。窓がある部屋がいいと希望したのですが、「没有メイヨー」
 実は窓側の部屋があいていたのですが、その部屋はよくない、というのです。

 中からドアノブ押しボタン式の鍵はかけられるけれど、外からかける鍵は渡されないので、共同トイレに行くために部屋をでるのでも、いちいち財布カメラケータイなどの貴重品は持ってでなければならない。

<つづく>



2007/08/01 水
ニーハオ春庭中国通信>合隆鎮の串焼き店「魏味佳」

 旅店の共同トイレは、しゃがみスタイルの中国式。一応水洗。紙の備えはなし。各自で持ち込み。
 中国式トイレは、和式のように金かくしがついていない。デパートや公官庁も、西洋式腰掛けトイレはほとんどなくて、あるのは、星つきホテルくらい。
 たぶん、ペキンオリンピックめあてに改装しているところでは、西洋スタイルが増えていくのでしょう。

 紙は横のごみ箱に捨てる。うっかり水に流すと詰まるおそれがある。水流が弱いのと、紙が水に溶けないことが多いので。
 私が住んでいる専家公寓は腰掛け西洋式ですが、一度に紙を流すと詰まるのは同じ。3月に到着したばかりのころ、同僚が二人、トイレをつまらせて大騒ぎしたことがありました。

 中国流儀、たとえば、乾杯でコップを合わせるとき、目下の者は、必ず目上の人より、コップを低くして合わせなければいけない、などの作法は同僚に教えてあげたのだけれど、どうもトイレの話などはしにくいので、教えてやらなかった結果、詰まらせてしまったのです。つまらない話と思っても、話しておくべきでした。

 旅店の洗面室にはトイレと洗面シンクだけで、シャワーなし。手洗い流し台に、プラスチック洗面器がおいてあり、体を拭きたい人は、これを利用する。
 まあ、旅店の設備はこんなものです。

 宿が決まったので、夕食を食べに。
 旅店の隣の隣の店。赤い看板に「紅火一方・魏味佳・焼[火考]美食店」と書かれています。
 もう9時をすぎているので、「食事できるか」と尋ねてみると、串焼肉ならできるが、他の料理は、もう料理人が帰ってしまったので、できないといいます。

 9時すぎは、夕食を終えてからのビール&白酒タイムなので、しかたがありません。
 私も、ビール&串焼肉にしよう。

 「魏味佳」の店。注文をとったりビールを運んだりしているのは、40代と30代、20代くらいの人、3人。肉を焼く人は、おじさん。
 お手伝いをしている小学生くらいにみえる子は、この店の子どもなのでしょう。
 会話が不自由でへんな発音のお客さんのようすを興味津々で眺めています。
 頭の横と後ろを短く刈り上げたヘアスタイル、胸にウルトラマン(もどき)のキャラクターがついたTシャツを着て、ハーフパンツをはいています。

 おばさんが、蒸餃子はあるというので、焼き串と餃子を注文しました。海老焼き、烏賊焼き、肉焼き。土豆片(薄切りジャガイモ)など。茄子(チエズ)は、没有(メイヨー=ない)でした。

 ほかのテーブルの人たちがジョッキでビールを飲んでいるので、私も指さし会話で「あれと同じの」と、注文。
 お手伝いをしていた子が、ビヤ樽からコップにビールをつぎましたが、コップ4分の1くらいしかでてきませんでした。
 「没有メイヨー」と、申し訳なさそうな顔をするので、「没関心メイクヮンシー=だいじょぶ、気にすんな」

 おばさんが、瓶ビールならあるというので、「冷たいのがあればもらう」と、注文。
 瓶ビール、冷たいのがない店が多い。ビール、夏でも常温のビールを好む人が多い。
 でも、「魏味佳」では、冷蔵庫から冷たいのをだしてくれました。

<つづく>
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2007年08月03日


ニーハオ春庭「合隆鎮の串焼き肉と饂飩」
2007/08/03 金
ニーハオ春庭中国通信>合隆鎮の串焼き肉と饂飩
 
 「魏味佳」の焼き串、烏賊や海老が焼き上がってきました。
 ビールを注ぎ損ねた子が、話したそうにしています。
 「你是小学生嗎?(ニーシー シャオシュエシャン マ)」と尋ねると「我是、中学生」と言います。
 私が「中国語を話せる」と思ったらしく「?????」と話しかけてきたので、あわてて私の愛用語「听不懂 チンブートン=聞いてもわからない。理解できない」と言い、筆談開始。

 名前は「魏祥ユエ」ウェイ・シャンユェ。ユェは扁が王で、旁が月。[王月]
 店の外の炭火焼きのコンロで串焼きを焼いているお父さんの名は「魏喜[イ書]」。
 ああ、名字が魏だから、店の名が「魏味佳」なのね。明白了(ミンパイラ=わかった)。

 少しでも自分を大きく見せたい年頃なのに、小学生か?って聞いてしまってごめんね。でも、胸のウルトラマン(もどき)のキャラクターがかわいいので、つい「小学生?」なんて聞いちゃったんだよ。
 借り上げヘア、カッコいいよ。中学1年生。9月からは2年生になるんだよね。

 「いつ中国に来たの?」
「今年の3月」
 「毎日ここに来ているの?」
「毎日じゃない。前に一度合隆に来たことがあって、今日は二度め。だけど、もう一回こられるかどうかはわからない。もうすぐ日本に帰るから」
 「明日は何時に合隆を離れるの?」
「明日、夕方までに家に帰る」
 夕方は、学生のクラスパーティによばれています。5時に専家公寓のロビーで待ち合わせ。

 あれこれ、筆談しているうち、中国の学校はもう夏休みになったはずだ、と思い出しました。
 夏休み中で時間があるなら、近所を案内してくれるよう、頼みました。
 8時半から10時半くらいまで、ガイドの契約成立。ガイドといっても、シャンユェが知っている場所は学校くらい。「小学校と中学校」を案内してもらうことになりました。

 「シャンユェの学校はここから遠いの」
「150mくらい離れたところ」
 それなら、私でも歩いていける。

 私が担当している博士課程留学クラスの級長さんは、子どものころの思い出話をして、「田舎で育ち、学校までは毎日2kmくらい歩いて通った」と、話していました。
 田舎出身の学生は、皆勉強熱心で努力家、青雲の志に燃えています。

 合隆の旅店泊まりの朝は、6時起床。あんどん部屋では気分が悪いので、勝手に窓のある部屋に移りました。窓のある部屋はよくない、とおばさんが言ったのは、窓の外は大通り(長隆大街)で、車の音がウルサイかららしい。
 私は音が大きくても明るくても寝られるのだから、こちらの部屋にしてもらえばよかった。

 7時半に魏味佳が開店するというので、朝食を食べることにしました。
 朝食は「麺条=うどん」を注文。
 
 日本で「うどん」というと小麦粉をこねて薄くのし、細長く切った麺を「汁」に入れて食べるのがほとんどですが、中国にはさまざまな種類の麺類があります。
 粉も、トウモロコシの粉も米の粉も、そば粉もあり、切り方も、こねて団子状の固まりにしたのを、包丁で削って釜に放り込んで茹でる刀削麺もあるし、両手で引っ張りながら細く細くのばしていくのもあります。
 日本のような汁に入れるうどんより、具といっしょにたれで和える方式のほうがいろんな種類がある。

 日本の汁うどんに一番近いのは「蘭州ラーメン」
 こちらでラーメンと注文して出てくるのは、日本人の感覚でいうと「うどん」。
 日本でいうラーメンは、こちらでは「日式リーシー=日本式」で、日系や香港系の資本の店のメニューにはありますが、中国の人は日式ラーメンを美味しいとは思わないみたい。

 魏味佳の「麺条」は、たれで和える方式でした。香菜と肉味噌をまぜる。
 麺の量は、日本の感覚でいうと3人前くらいある。

<つづく>
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2007年08月06日


ニーハオ春庭「合隆の中学生」
2007/08/06 月
ニーハオ春庭中国通信>合隆鎮の中学生

 8時半からガイドをしてくれる約束のシャンユェが魏味佳にはいないので「シャンユエはどこ?」と聞くと「她去上学了(あの子は学校へ行ってる)」

 「あれ?、もう学校は夏休みになったんじゃなかった?学校があるなら学校優先だよね。ま、いいか。」

 うどんを食べているうちに、8時半になり、シャンユェが帰ってきました。
 おばさんに、何か説明しています。どうやら、私と約束したからと早引けして帰ってきたみたい。夏休み中の塾へ行って来たみたいです。

 シャンユェは、中学生1年生。英語を習い始めて1年になるけれど、私の中国語と一緒で、文字を書けば意味はわかるが、聴き取りや会話はあまりできません。
 9月から中学2年生になるのに備えて、夏休み中も村の英語塾へ行くことになっていたのに、勉強をさぼらせたのなら、悪いことしちゃった。

 しかし、塾は毎日あるけれど、この田舎に日本人などめったにやってこないのですから、「中国語が話せない人」といっしょに過ごすことも、中学生にとっていい夏休みの思い出になるんじゃないかと、いっしょに出かけることにしました。

 シャンユエ、今日はハーフパンツではなく、アディダスのスエットパンツ。
 中国のアディダスは、adidosだったりすることが多いのですが、adidasでもadidosでも、ナイキと並んで男の子には人気のブランドです。

 最初は、シャンユェが卒業した小学校。煉瓦を積んだ壁の校舎に古い木製の学童机と椅子。黒板には色チョークできれいに、「夏休みを元気にすごそう」とか書いてある。
 教室の窓や校庭に出るドアは「7月12日封印」と書かれた紙が貼ってあり、夏休み中の教室には子どもが出入りできないようにされています。
 教室によっては、業者が入り、床や壁の改修工事を始めているところも。
 
 教室は、日本のと比べればもちろん、都市の設備が整った小学校に比較しても、校舎も古いし、設備も悪いことは見て取れますが、壁には児童のペン字や図画が貼ってあり、どの国の小学生も、一生懸命に勉強してきて夏休みを迎えたのだなあ、と思いました。

 その次にシャンユェが案内してくれたのは、村役場にあたる、合隆鎮人民委員会。たぶん、この地域で一番立派な建物なのでしょう。

 役場の裏庭は、果樹園になっており、シャンユェは、実をひとつひとつもぎながら、「これは梨子、リーズ」「リーズ」「ちがう、リーズ」と、何度でも四声の発音矯正。「杏子、シンズ」「シンズ」「ちがうよ、シンズ」
 なかなか厳しい中国語の先生です。
 シャンユェにとっては「こんなにやさしい中国語なのに、どうしてできないのか」と思うので、容赦がありません。

 アンズやユスラウメをもいで、「食べてみて」とこちらによこします。「ピングヮ=青りんご」は、まだ実が堅くて、食べ頃にはなっていませんでしたが、アンズはまあまあ。
 ユスラウメは、「桜桃」と呼ばれているもののひとつだそうです。日本では「桜桃」といえばサクランボのことだけなので、桜桃の指し示す範囲が日本語と中国語では違うことがわかりました。

 次は合隆商場。日差しが強くなってきました。
 「很熱(ヘンルゥァ)暑いね」と、言うと、シャンユェは市場の前に露天を出しているジュース屋からイチゴジュースを買っておごってくれました。氷の入った飲み物で、少しは涼しくなるかという心遣いです。
 氷と色つき果汁の素とシロップ、甘く煮た豆などを入れてシェーク。太いストローで豆を吸い上げて食べます。

 市場のなかは、なかなかの広さ。私は衣料品コーナーで10元の膝丈夏ズボンを、夏のパジャマにちょうどいいと思って買いました。

 市場の次は、中学校。校庭には草が生えてしまっていたり、乾燥のあまり、土がひび割れていたり、教室もさきほどの小学校と同じように、煉瓦作りの簡素なものです。
 市中の大学付属中学校などからみたら、貧弱な中学校ですが、夏休みが終わり新学期が始まれば、シャンユェたちの元気な声が校舎にも校庭にも満ちることでしょう。

 7月14日に出会ったシャンユェ。いっしょに撮影した写真をコピーして、届けることにしました。せっかく仲良くなったのだし、バスで1時間はそう遠くもないので、気軽に出かけられます。
 1週間後の7月21日土曜日の夕方、合隆鎮へ再び出かけました。

 「你好ニーハオ」と、魏味佳の店に入ると、店の人たち、にこにこして、「ニーハオ、你来了!」
 写真のコピーを見せると、店の人たちは大喜びでした。しかし、シャンユエの姿がみえないので、たずねると、「シャンユエは長春の親類宅に行っている。あなたに会おうと思って宿舎に電話をしたのに、通じなかったと言っている」

 ええっ、私はシャンユエに会いに村へ来たのに、シャンユエは私に会いに町へ行ってしまった。すれ違いの恋人同士みたいじゃないの。

 宿舎の電話が通じなかったのは、あとでわかったことだけれど、宿舎の電話線切断があったからです。
 夏の間に暖房の修理をしておくということで工事があり、工事人が何を間違えたのか、電話線を切ってしまうというミスがあったのです。
 電話が通じなかったり、インターネットが不通になったりはしょっちゅうでしたが、よりによって、シャンユエが電話してくれた日に電話線をちょん切らなくても、、、、。

 店のおばさんはシャンユエとケータイで話をしていましたが、シャンユエは明日の午後戻ってくるが、あなたはそれまで合隆にいられるかと聞かれました。シャンユエに会いにきたのですから、もちろん、シャンユエが戻るまでいるつもりです。

 日曜日、午前中ヒマなので、浴池(銭湯)へ。
 シャワー室3元。アカスリ用手袋を3元で購入して、アカスリを頼みました。
 韓国旅行をしたときは、旅行会社のコミッションを含んだ値段なので、岩盤浴とセットで5千円したのに、合隆のアカスリ代は5元(75円)

 シャワーで汗を流してからアカスリ台へ。使い捨ての薄いビニールシートを敷いたベッドにタオルもかけずに横になり、おばさんが、てねいにこすってくれるにまかせます。
 仰向けになり横になりうつぶせになり、おわってお湯で流してもらうと、すべすべになっていて、手で足や背をこするとツルツルしました。

 脱衣室の片隅にベッドがあり、「抜灌ボークァン」をやっていました。
 ガラス製のお椀をツボの上に載せて空気をぬき、中を真空状態にする、お灸と同じ効果の民間療法です。
 私はお灸というのをやったことがないのですが、せっかくのチャンスですから、抜灌を体験することにしました。

 パンティだけはいてうつぶせになると、アカスリのおばさんが、背中にガラス椀を載せていきます。空気を抜いて真空にするとき、痛かったです。やめようかと思ったけれど、がまん。
 全部で20個のガラス灌が背中に。
 比較的短い時間で「これでよし」になりました。鏡に映してみると、7センチくらいの赤黒い丸い痕が背中一面についています。

 夏の町を歩く男の人たち、上半身裸の人も多く、この抜灌の赤い丸が背中にある人を見かけたことがあります。入れ墨にしちゃあ、あまり芸術的な模様とはいえないと思ったものでしたが、これで、あの赤黒い丸の正体がわかりました。
 私の背中にも、いれずみのような丸模様。いったいどれくらいまで、赤黒い痕が残るのやら。シャンユエはいつ合隆にもどるのやら。

<つづく>

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2007年08月07日


ニーハオ春庭「麻辣緬と兎おいしかの山」
2007/08/07 火
ニーハオ春庭中国通信>麻辣麺と兎おいしかの山

 抜灌を終えて、魏味佳に戻ると、おばさんは「蒸し餃子を食べて」と、出してくれました。食べ終わってすることもないので、シャンユエに上げるつもりで持ってきた腕時計やセーターを出して、「これをシャンユエにあげてね」と、託しました。

 さて、帰ろうかとしたら、シャンユエが親類のおばさんや従姉妹(堂姐妹)といっしょに帰ってきました。

 いとこの女の子を、シャンユエは「我的妹妹(メイメイ)」と紹介しました。一人っ子の中国には「妹」も「弟」もいないのですが、こうして「いとこ」を兄、弟、姉、妹として育つのかもしれません。
 シャンユエの従妹、馬可心は、小学校5年生、9月からは6年生です。シャンユエとはとても仲良しのようす。

 シャンユエは、可心といっしょに「麻辣麺」を食べに行こうといいます。この間行った合隆市場の近くの店。
 私はたった今、魏味佳で蒸し餃子12個を食べたばかり。でも、せっかくシャンユエがいっしょに食べようと言ってくれたので、麻辣麺の店に行き、半分くらいはなんとか食べました。

 私が頼んだのは、涼皮(リャンピ)というジャガイモでんぷんでつくったトコロテンのような麺です。半透明でツルツルの食感。日本では、「片栗粉」として売られているジャガイモ澱粉。

 日本で料理するとき、片栗粉といえば、鳥から揚げを作るとき小麦粉と混ぜたりするくらいで、このように、片栗粉で麺を作るというのはしたことがありません。
 中国には、小麦粉だけでなく、トウモロコシ粉、米粉などさまざまな麺があります。

 カウンターの前に並べられた籠のなかに、青菜やジャガイモ薄切り、ニンジンなど、具が入っています。好きな具をどんぶりに好きなだけ放り込み、麺の種類を告げて渡します。
 具と麺をさっと茹でて、どんぶりに戻します。次は、好きな調味料を指定して、あえてもらいます。

 私は例によって「不辣」と言って、唐辛子を入れないようにしてもらいましたが、それでもほかの調味料にも辣いものが入っているので、汗をかきかき、水を飲みのみ、麺を食べました。麺はシャンユエのおごり。

 可心とシャンユエは、楽しそうにおしゃべりしながら食べています。
 食べ終わって、市場で飲み物を買い、飲みながら帰りました。飲み物は私のおごり。

 帰り道、白ウサギの耳を持ったおじさんに遭遇。道ばたでウサギ肉を作り始めました。
 う~、うちのペットは黒ウサギ。

 日本では、肉は薄切りや角切りにしてから店先に並びます。丸ごとの食材として並ぶのは、魚はあるけれど、豚の姿のまま、牛の姿のまま店先に並ぶことはありません。クリスマス時期に七面鳥や鶏の丸焼きが売られる程度でしょう。

 命ある動物を殺し、自分の口に入る肉ができあがるのだという現実を見ないようにして食べているのですが、これは「食育教育」としては間違っている。
 魚が切り身で泳いでいたわけじゃないのと同じく、肉は薄切り肉として野原を駆けていたのではない。

 命ある生き物を殺し、他者の命を自分にもらうのだという感謝の心を持たない子供、一度失われた命はもとに戻らないという感覚を持たない子供が増えているのも、自分の命と他者の命を見つめることなく育つからなのかも。

 私も、町育ちの可心も、うさぎから血を抜くシーンを見て、「ワァ」と言って、目を逸らしてしまいましたが、本当は、ちゃんと見ておくべきだったのかもしれません。

 今回の中国滞在では、狗肉、鹿肉は食べましたが、兎肉は食べませんでした。兎肉、食べればおいしい。鶏肉と同じ淡泊な味です。
 ♪兎追いしかの山~と、兎を追いかけたのは、鬼ごっこをして遊んでいたわけではなく、追った次には「兎美味し」にするためですが、どうも、私たちは肉を食べるとき、生きていたときの姿を思い浮かべることなく、毎日食べています。

 中国料理店、店の前や中に食材をそのまま客に見せる形式のところがあり、店の中が動物園のように見える。
 鳩、兎、蛙、亀(スッポン?)、なんでもアリの食材動物園。

 客はしっかり生きのよさを確かめて、こっちのウズラより、そっちの鳩のほうがうまそうだ、なんて品定めをして注文します。
 町の子どもは、「この生きている動物を食べるのだ」と、見ているし、田舎の子は、自分の家で鶏でも兎でもまるごと自分たちで料理するのです。
 私たちは、命を分け与えられて生きています。

 人と人も、お互いに分け与え合って生きています。シャンユエが麻辣麺を私に買ってくれて、私はジュースを買ってあげて、ささやかな分かち合い。
 全部は理解できなくても、なんとなく通じてしまう筆談と、笑顔で通じる心と心、これも人と人の交流のひとつ。

<つづく>
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2007年08月08日


ニーハオ春庭「中国的家族パーティ、シャンユェの一族」
2007/08/08 水
ニーハオ春庭中国通信>中国的家族パーティ、シャンユェの一族

 魏味佳にもどると、店に集まっていた人々が「これから皆で食事しにいくから、いっしょに行こう」といいます。
 蒸し餃子食べたばかりで、麻辣麺も食べて、この上食事とは。

 でも、せっかくのお誘いなので、何が何やらわからないまま、ついて行きました。
 自分の家が食堂なのに、わざわざよそに食事に行くのも、何か特別なお祝い事でもあるのでしょう。この前来た日は、シャンユエのお父さんの誕生日でしたが、1週間後に一族そろってまたお祝い?

 シャンユエがテーブルについた人々について紙に名前を書いて説明してくれました。
 お父さんの魏喜[イ書]には、4人の姉妹がいる。
 大姉が魏淑華(ウェイ・シューファ)その息子、蘭中華((ラン・チュンファ)。
 二姉が魏淑芳(ウェイシューファン)その娘[厂兼]魏[女行]。このシャンユエの従姉妹は学校の教師をしているそうで、英語で簡単な会話ができ、通訳をしてくれました。
 三姉が魏淑霞(ウェイ・シューシャ)その息子、鄭福発(ジョン・フーファ)。5歳くらいのかわいい男の子です。
 四姉が魏淑ロン(栄のツをとった上に草冠)(ウェイ・シューロン)、その子馬可心(マ・クァーシン)。小学生のきりっとした利口そうな女の子。
 そしてシャンユェの父が魏喜イ書。それぞれ、父親の名字を次ぐので、いとこたちの中で、魏を名乗っているのは、シャンユエだけ。

 私も、私の家族の名前を紙に書いてシャンユエに教えました。シャンユエは、私と夫が同じ名字だと知って驚いていましたが、「日本では結婚すると、夫婦は同じ名字になるのだ」と、説明。

 「夫婦別姓では、家族の一体感が保たれない」と説明する別姓論反対者がいるけれど、それなら中国や韓国の夫婦別姓方式では、全部の家族が崩壊していることになるよね。
 「別姓だと家族が一体感が保てないという論は間違っている」ということや、過去の日本は、名字を持っていた人たちも、夫婦同姓ではなかったこと(北条政子は源頼朝と結婚しても源政子と名乗ったりしなかった)などは、説明がむずかしいので、私の「いいかげんな中文」では、伝えられませんでした。

 結婚の届けを出すとき、夫はさも男女平等論者風に「結婚は嫁に行くのでも嫁をもらうのでもなく、男女は平等。法律では、男性女性、どちらの姓を名乗ってもいいことになっている。どちらの姓を役所に届けるか、じゃんけんで決めよう」と、言いました。
 賛成、賛成。男女平等。じゃんけんぽん。夫はチョキ。私はパァ。あ、負けてしまった。

 負けたので仕方なく、私は夫の姓を名乗ることになったのですが、息子が生まれたころ、種明かしをされました。
 じゃんけんをするとき、私はいつもさいしょにパアをだすのだって。私のじゃんけんの出し方を、夫は知っていたのです。
 私は、自分では全く気づいていなくて、「じゃんけんで負けたのだから、しかたがない」と、あきらめていたのです。ああ、だまされた。
 というような裏話も、日本語で話すとうけるのですが、私の中文では説明できません。

 大人との筆談では、日本の漢字は読めないことがあっても、繁体字を書くとなんとか理解してくれるのですが、シャンユエは簡体字以外の文字を書くと、「間違い」と思って簡体字に訂正してくれます。シャンユエの知らない繁体字で書いても、理解してくれないので、筆談でも通じないことがあります。

シャンユエに聞いたら、この日のように5人がそれぞれの配偶者や子どもを連れて一同に集まるのは、1年に1度か2年に1度のことなのだって。
 今回は、二姉の娘が結婚相手を皆に披露するための集まりだったみたい。この娘さんは、師範大学を出て教師をしており、近々軍人と結婚するので、親戚にこの軍人さんを会わせるために集まったのだということでした。
 中国では、結婚しても女性は姓が変わりません。

 しばらくは、ビールで乾杯したりしておつきあいしていましたが、一家の宴会に加えていただいたお礼を述べ、途中で失礼して、帰りのバスにのりました。

 久しぶりの一族大集合の宴会なのに、へんな外人が紛れ込んで申し訳なかったけれど、もうすぐ結婚する娘さんが「Welcome our family party.」と、言ってくれたし、まあ、一族邂逅の「だしもの」になったと思えばいいかな。

 家族パーティに参加させてもらったお礼というわけでもありませんが、シャンユエを私の宿舎に招待し、町を案内しようと思い立ちました。
 
<つづく>
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2007年08月09日


ニーハオ春庭「動物園で性転換して南湖公園へ」
2007/08/09 木
ニーハオ春庭中国通信>動物園で性転換して南湖公園へ

 ジョウさん、シャンユェを招待して、いっしょに市内で遊んだ2日間。
 7月28日土曜日は動植物公園と南湖で、29日日曜日は、郊外のテーマパークですごしました。

 7月28日土曜日に動物園ですごしたことは、7月29日に書きました。

 この動物園で、ジョウさん、シャンユェとダチョウを見ていたときのこと。
 「ダチョウの羽がふさふさしている方が雄。茶色の地味な方が雌」などと話していたら、ジョウさんが、「彼女はダチョウをはじめて見たそうです」と、言う。

 え?シャンユエのこと彼女だって?ジョウさんは、ときどき日本語を間違えるので、私がいつもheとsheを言い間違えるように、間違えたのかな。

 「シャンユエは彼女じゃなくて、彼、でしょう」と、ジョウさんに言うと「でも、シャンユェは、私は女の子ですと、自分で言いました。私も最初男の子かと思ったのですが、名前の文字が祥[王月]というので、確かめたんです。ユエの[王月]という文字は、女の子の名前によく使われる文字ですから。そしたら、女の子だから女の名前の文字なんだと言っていました」

 私は何度もシャンユェと会っていっしょに過ごしてきたのに、動物園でダチョウの前に来るまで、ずっと少年とばかり思っていたのです。
 日本でも、高校ソフトボールチームとかに、このような「超ボーイッシュ」な少女がいますが、中国で出会ったのは初めて。

 中国の女の子、ひらひら飾りのついたスカートやリボンが大好きで、過剰に「フェミニン」スタイルをしている子が多い。
 中国だって、シャンユエのようにひらひらスカートを好まない子がいることに思い至らなかった。
 日頃は、ジェンダーフリーを標榜しているのに、すっかり「男の子は青、女の子はピンク」式のジェンダー記号に染まっていたことになります。

 シャンユェ、髪を刈り上げスタイルにしていても、ハーフパンツにウルトラマン柄のTシャツを着ていても、女の子。

 少年を女性ひとり住まいの部屋に泊めることに考慮して、シャンユエのお父さんには、いろいろ説明しておきました。
 我が家は2室あり、シャンユエは寝室のセミダブルベッドに泊まってもらう。私は居間のシングルベッドのほうで寝る。部屋は各室とも鍵がかかるから、などと、部屋の図面まで書いて、少年が安心して泊まれることを強調しておいたのですが、、、、。

 お父さんは何をくどくど説明しているのだろうと思ったことでしょう。
 アハハ、たとえ部屋に鍵がないとしても、オバハンは少年を襲ったりしませんってことを伝えたかったんですけどね。
 でもまあ、少年じゃないことがわかり、気兼ねなく泊まってもらえます。

 シャンユエがボーイッシュガールだったことがわかってみれば、私がシャンユエを一目見て気に入った理由も納得できます。私は、ボーイッシュな女の子が好きなのです。
 それにしても、、、、、どう見ても少年です。

 よくよく思い出して、筆談用紙を見てみると、シャンユエのおばさんに「シャンユエはどこ?」と、私が尋ねたとき、紙に「他去上学了」と書いたあと、「他」の「イ」の字を修正して「女」に変え、「她」の字になおしたあとがありました。
 おばさんは、単純に「彼=他」と「彼女=她」の字を間違えたのでしょうけれど、私はそのとき「他」と「她」の字の意味の違いにまったく気づきませんでした。

 動植物公園で1時から3時ごろまですごしたあと、次は南湖公園へ。

<つづく>
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2007年08月11日


ニーハオ春庭[南湖公園
2007/08/11 土
ニーハオ春庭中国通信>南湖公園

 南湖は、人工湖で、昔は市の水をまかなう浄水湖でした。今は、郊外に浄月潭や新立城水庫などの浄水用の人工湖ができ、南湖は市民の遊楽公園になっています。
 白樺や落葉松の林が広がる中、広さ93ヘクタールという湖。
 冬はスケート、夏はボートや釣り、水泳など、市民の憩いの公園です。

 地図でみれば横の幅が広いところ1km、縦は細長いところもありますが、2kmくらいの広さがある湖です。
 北側の広い湖と南側の細長い湖の間には、南湖大橋がかかっています。

 山中の川をせき止めたダム湖などではなく、都市の中心部を人工的に掘った湖としては、北京の頤和園の中に掘られた昆明湖に匹敵すると言われています。頤和園は、西大后の避暑地としての歴史的な価値もあり、1998年に世界遺産になっていますが、こちらの南湖は、庶民の憩いの場。

 以前、ひとりで南湖公園を散歩したときには、湖の中に水草が生い茂っていました。
 2007年の夏は、過去20年間でもっとも水草が繁茂したということで、湖の水質も悪化したため、市は500人の水草清掃人を投入。6月に10日間をかけて、水草除去を徹底しました。
 今年は暖冬で、湖面の凍結が短かったことが水草繁茂と関係しているのかもしれません。

 「昔は冬になるとスケート場になったのに、近頃は氷が薄くなって危険だから、スケートはできない」と、ジョウさんは言っていましたが、実際には少しは滑れたみたい。例年は、厳冬期3ヶ月はスケートが可能なのに、今年の冬は暖冬で滑れたのは1ヶ月くらいで、あとは氷が溶けてきてスケートには危険になってきたということのようです。

 南湖でボートを借りました。
 湖に出る全員、救命ジャケットを着ることを義務づけられています。

 ジョウさんもシャンユェも「ボートをこいだことがある」というので、足踏み式やモーターボートでなく、手こぎボートを借りたのですが、まず、湖のなかほどまでは、私がひとりでこぎました。
 私は、故郷の榛名湖や赤城大沼でよくボートこぎを楽しんだので、「昔取った杵柄」ならぬ「昔漕いだ櫂」です。

 ジョウさんが「これは、日本語でなんといいますか」と聞くので「昔は櫂といったけれど、今は外来語でオールと言っています」と説明。

 合隆の小学校中学校にはプールがなく、大きな川や池もないので、シャンユェは「泳げない」というのですが、まあ、大丈夫と、湖の中心までいきました。
 年寄りの私を気遣って、ジョウさんが「交代します」と言うので、漕ぎ手交代。しかし、ジョウさんひとりでは漕ぐのがむずかしそうなので、シャンユェとふたりで漕ぐことにしました。

 ふたりで並んですわり、片方ずつオールを持って漕いだのですが、なんだか同じ所をぐるぐる回っているばかりで、いっこうに前進しません。ふたりが漕いでいるところを写真に撮ったあとは、また私が漕ぎ手になりました。

 南湖大橋のあたりまで行って、橋の向こうに広がる湖を見ようと思っていたんだけれど、疲れたので、橋で二分されている湖の半分だけ見て、元のボート発着所まで戻りました。

<つづく>
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2007年08月12日


ニーハオ春庭「長影世紀城3Dムービー」
2007/08/12 日
ニーハオ春庭中国通信>長影世紀城3Dムービー

 南湖から宿舎に戻ったあと、ジョウさんは、大学の友達と食事する約束があるというので、夕食前に分かれ、宿舎で休んでからシャンユエと夕ご飯を食べに出ました。

 私はカレーライスとかハンバーグステーキとか、合隆では売っていない食べ物をシャンユエに食べてみてほしかったのですが、シャンユエは「慣れた食べ物のほうがいい。冷麺を食べよう」というのです。

 シャンユエの家は食堂なのだから、普段家では食べないようなものを食べる方がいい経験になるだろうと思ったのですが、ケンタッキーのハンバーガーは、あまりシャンユエの口にあわなかったようで、慣れた料理のほうが美味しいということなのでしょう。

 シャンユエは、冷麺と家常菜を注文し、支払いをすばやくしてしまいました。
 私がシャンユエを招待したのだから、私が払うと言っても、ずっとおごられているばかりではかえって気兼ねなようで、「今度はおごる」と言ってききません。
 冷麺はシャンユエにごちそうになることにしました。

 シャンユエは、夜10時には寝るというので、「晩安ワンアンお休みなさい」と、寝室で休んでもらいました。

  7月29日日曜日、ジョウさんとシャンユエと、「長影世紀城」へ行きました。市の郊外南方にあるテーマパークです。
 朝9時半に家を出て、タクシー40分弱でつきました。思ったよりも遠かった。

 車に乗り慣れないシャンユエは、カーブの多い道にちょっと酔ってしまったので、帰りは軽軌鉄道で帰るということにしました。

 「軽軌鉄道」は、市の南側から西側をまわり、北側の鉄道駅まで市の中心部半周している、高架鉄道。
 2007年冬季アジア大会の前に、昨年12月に開通したばかりです。

 私が通勤するキャンパスの前に「大学前」という駅があるので、何度かこの軽軌鉄道んに乗ったことがあります。
 市の中心部にある宿舎近くには最寄り駅がなく、バスかタクシーの乗り継ぎが必要になります。それで、面倒なので行きはタクシー一本にしてしまったのですが。

 「長影世紀城」は、ふたりとも、まだ一度も入ったことがないというアミューズメントテーマパーク。
 映画の制作会社が運営している、「映画テーマパーク」です。2005年5月29日に鳴り物入りでオープンした娯楽施設です。

 「最新鋭の映画技術を投入した3Dムービー、4Dムービー」の上映が主なアトラクションです。
 と、言っても、日本でさまざまな種類の3Dムービーを見てきた者にとっては、特別「最新」とびっくりする映像はない。
 ジョウさんとシャンユエにとっては、初めての3Dだったので、大喜びでした。

 はじめて3Dをみる中国の人にとっては楽しめると思うけれど、地元の人にとって入場料240元は高すぎる。レストランのウェイトレスの月収は500~800元。

 日本で30万円の月給を得ている人に、ディズニーランドパスポート券15万円といったら、彼女をデートに誘うには勇気がいるでしょう。二人分のチケットを買ったら、月給がおわってしまう。
 上海北京などの「高収入地域の人」が、「この町にきたから観光していこう」という場合に一番ちょうどいいのではないかと思います。

 動感球幕影院「魔方星城」。
 椅子ががたがたゆれたりカーブしたりするのを体感しながら、目の前に宇宙旅行の映像が展開し、宇宙怪獣の体に飲み込まれたかと思うと、また宇宙空間に放り出される、という3Dムービー。

 私は、ジョイポリスだったかディズニーランドだったかで、同じコンセプトのムービーを見たことがありましたが、映像については詳しくないので、これが「最新3D技術」なのかどうかについてはわかりません。

 シャンユエはとても気に入ったようすで、「1時間も待ったのに、見ているのは15分くらいで、短い。もっと見ていたい」と言いました。でも、ジョウさんは「ここと、宇宙森林は一人一回しか乗れません」と説明。

 「宇宙森林」はディズニーランドの「スペースマウンテン」と同じ。ジェットコースターとしては、それほどの急降下や急カーブはないけれど、真っ暗な中を走るので、体感速度が倍増する仕組み。

 一回しか乗れない「3D魔方星城」と、「宇宙森林」のほかのアトラクション、水で煙幕を作った上に映像を映し出すムービーや、レーザー光線によるムービーなど。

 シャンユエは、4Dムービー「世紀明珠」で、ネズミが出てくるシーンで椅子の下がゴニョゴニョ動いたり、大蛇がすぐ目の前にいるように見えたりすると喜んで、終わって外に出てくると、いつもはクールなボーイッシュガールなのに、大興奮でジョウさんに話しかけていました。

<つづく>
12:41 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2007年08月13日


ニーハオ春庭「ヒーローショウ」
2007/08/13 月
ニーハオ春庭中国通信>長影世紀城ヒーローショウ

 入場者数は、夏休みの日曜日といってもそれほどの人数が入っているようには見えないのに、1時間待ちのアトラクションもあったのは、アトラクションの実演時間が短いため。
 一日の上映時間が決められていて、人気の高いアトラクションは、すぐに満員になる。それで、並ぶ必要があるのだけれど、終日上映にすれば、全部のアトラクション利用時間を合わせても、3~4時間あれば、ひとまわりできるはず。
 並んでいる時間のほうが長かった。

 私が「園内のレストランでお昼ご飯をたべよう」と言っても、シャンユエはお昼を食べて時間を取られるよりも、ひとつでも多くのアトラクションを利用した方がいい、という熱中ぶりでした。
 お昼ご飯は、園内の売店で串に刺したソーセージをかじっておわり。
 家が食堂なので昼ご飯は毎日食べられるけれど、この遊園地には、そうそうは来ることができないでしょうから、私もソーセージかじってランチ。

 「英雄秀場ヒーローショウ」は、昔、後楽園遊園地で娘や息子と見た「なんとかレンジャー」タイプの、ヒーローが怪獣と戦うショウなのかと想像していましたが、映画製作所のアトラクションなので、コンセプトは「戦争物映画の撮影風景」

 太った「リーベングイズ」の軍人がジープに乗って登場。
 愛国抗日の英雄ゲリラたちが、派手な銃撃戦やゲリラ活動によって勝利をおさめ、高々と紅旗を掲げるまでを、映画撮影風景として見せるのです。
 防火服をきて背中に火をつけて転げ回ったり、2階の屋根の上から飛び降りたり、ワイヤーアクションで空中銃撃戦を演じたり。

 派手に銃を撃ち合うのは、子どももいっしょに入場するアトラクションとしては、日本ではできないでしょう。
 アクションは楽しめましたが、やっぱりこの地では、「日本鬼子リーベングイズ」は悪役をふられるなあと思うと複雑。

 「悪いのは軍国主義者、一般日本人民は軍国主義者の被害者である点で、中国人民と同じ」という史観や、日中戦争時代を「許せ、しかし忘れるな」と教えているので、一般の旅行者や居住者がいやな思いをさせられることはないですが、必ず悪役をふられる側に存在する人間であることは事実ですから。

 シャンユエがこの次この遊園地に来られるのはいつになるかわからないから、全部のアトラクションを利用して帰ろうと思ったのですが、4時半の「英雄秀場Hero Show」を見終わったら、もうどのアトラクションも終了しており、5時半閉場といっても、実際にはアトラクションは5時で全部おわり。13のアトラクションのうち、3つは結局入れませんでした。

 全部のアトラクションを見ることはできなかったけれど、ジョウさんもシャンユエも、とても楽しんでくれたので、私としては、大満足の一日になりました。

 5月に山東省世界遺産をみるツアーに参加したとき、私とジョウさんのバス座席のすぐ前に若いカップルがすわっていました。150cmくらいの彼女と180cmくらいの彼の身長差カップルだったので、印象に残ったのですが、このカップルに偶然また会いました。
 2人連れは仲良くアトラクションを楽しんでいましたが、人口600万人の町で、5月旅行と7月テーマパーク、2度も会ったのはよくよくご縁があったのでしょう。いっしょに写真を撮りました。

<つづく>
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2007年08月14日


ニーハオ春庭「夏休みの思い出」
2007/08/14 火
ニーハオ春庭中国通信>夏休みの思い出

 長影世紀城の入場料金がひとり240元(3600円)。
 これは、中国の物価水準から考えると、とても高い値段です。
 昨年の都市地域外の一般勤務者の平均年収が1万元(約15万円)を超えた、と新聞に出ていました。都市部では、もっと高い年収になるでしょうが、大学新卒月給でも、1000~3000元くらいです。

 一家3人で遊んでお昼ご飯を食べれば1000元くらいかかりますから、月収1000~3000元の生活をしている人にとって、そう簡単には遊べない。
 1元のバスにのって、10元20元で夕食を食べている私にとっても、240元は「高い!」と感じる値段です。

 それでも長影世紀城へ行ってみようと、ジョウさんとシャンユエを誘ったのは、ジョウさんに対しては、今まで中国語の家庭教師として世話になったことへのお礼の気持ち。シャンユエに対しては、「特別な夏休み」をプレゼントしたい、という一種のサンタクロース的楽しみからです。

 日本人と知り合っていっしょに過ごしたということだけでも、シャンユエにとっては今までにない夏休みになったことと思いますが、これから先、長影世紀城という文字を見るたびに、私を思いだしてくれるのではないか。
 シャンユエは、中学時代の夏休みの一日、日本人のおばさんといっしょに遊園地へいったこと、忘れないでいてくれると思います。

 私にとっても、どんな美しい風景の観光地より、歴史的遺産の文化施設を見学するより、ひとりの中学生と友達になり、お互いに言葉は十分には通じないまま、おぼつかない筆談で会話し、心通じ合ったというひとときは、忘れがたいものになりました。
 シャンユエはお父さんに電話して、もう一泊してよいという許可を得ました。

 夜、シャンユエと折り紙をして過ごしました。シャンユエは「中国折り紙」で蛙や舟を作ることができます。
 私がつるの折り方を教えると、すぐに覚えて、2羽3羽と折っていました。
 
 鶴の羽や蛙のおなかに、「工作順利(仕事が順調にいきますように)」「一家幸福(一家が幸せでありますように)」などの、さまざまな寿言を書き込み、寿言を送る相手として、私の夫の名前も書き込んでいます。

 「あれ?どうして、夫の名前を知ってるの?あ、そうだった、私が書いて教えたんだったね」
 魏一族の家族パーティで、お互いの家族の名を教え合ったとき、私の夫の名前も、レストランの伝票の裏に書いて教えたのですが、シャンユエはしっかり覚えていたのです。

 私も、シャンユエの名前を忘れないよ。
 シャンは祥、ユエは王扁に月。
 [王月]は、「淑」や「麗」の字のように、女の子の名前に使われる文字だということも覚えました。

 シャンユエは、刈り上げヘアスタイルとウルトラマンのキャラクターTシャツが好きな女の子。きりっとりりしい女の子です。

 再見!シャンユエ。きっといつかまた会える。

<おわり>

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