ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(3)言文一致のギャル語
現代口語書き言葉でも十分に「日本語の美」は表現できると思います。ただ、こう言ってしまえない自分がいます。
なぜなら、それじゃ、現代JK口語(女子高校生や大学生が仲間同士で語り合う口語)も、将来には「当然の現代口語」となって、「私たちにはこのしゃべりかたが美しいし、文章も、この口語で書きたい」という主張がなされたとき、それを美しいとは感じないであろうことがわかっているからです。
では、永井荷風の「書かでもの記」を、未来口語翻訳してみましょう。
「つうか、うちらのボディ、なにげにイクスキューズしちゃうってゆーか、はずいのパネェけど、やっぱ、テキトー書いて、キャリアっぽいこととかさぁ、チューボーんときのこととか?ウリやっちゃてクスリとかって買うのになれたかんね。(略)つうか、めんどい。もう、書くことねーし。
現代文(近代書き言葉)を良しとするにやぶさかではない。が、JK口語のたぐいを「美しい日本語」と感じるようになるまで、百年はかかる。あ、そうそう、そのころ私は生きていないんだから、何を持って「言語にとって美となにか」と感じるかは、彼らの感性にまかせるしかない。
阿修羅ガール語を、紹介します。三島由紀夫賞を受けた、舞城王太郎の出世作です。春庭の「いいかげんなギャル語訳」とちがって、ちゃんと文学賞を受けたギャル語ですので。
『私の素早い応戦にもマキが怯んだ様子はちっともなかったが、剣道とテニスで鍛えた私のムチムチの右足のスーパーキックがわりと効いたらしくて「いってーなこのビッチ~」とか言って足をさすってて、私はすかさず「うっせーなおめーに何の関係があんだよ!」と言いながら私はマキの頭を上からぐいと押さえ込んで体重乗せて屈ませてそこに右の膝を思い切り上げてうつぶせたマキの顔にガツン!と当てた。』
会話の部分「いってー なにこのビッチ」「うっせーな、おめーに何の関係があんだよ」というのが、10年前の女子高校生会話だったわけです。
舞城王太郎の阿修羅ガール(2003)より
2024年5月からみると、20年前2003年の女子ことばが、けっこう読めることがわかります。ほんとうに「イミフ」にしたら、小説読者に内容が伝わりませんから、わかる範囲の文章にして配慮してあることはわかりますが、2023年の「最新ライン文」はそもそも「文」ではなくなっています。昨年まで勤務していた日本語学校の先生たち。小学生の娘を持つ母親、中学生の娘を持つ母親のが言うには。そもそも小学生たちのコミュニケーションツールとしてのライン利用では、助詞が絶滅している。テンとマルもなし。単語を並べて通じる相手以外とは連絡しない。
A きょう しゅくだい
B かんじ うぜえ
A テストまちがいかんじ 20こ かけ
B イミフ
A やれねえ
B がんむし
A おや メール
B おやばれ もと うざ
A それな
漢字テストで間違えた字を、各字20字ずつ書いて宿題として提出しなければならないが、やりたくない。しかし、教師から宿題忘れとして親に連絡メールなんかいくと、もっと悪い事態になる、という小学生同士のやりとり。最後の「それな」は、「同意」の意味。2023年には使われていたが、2024年にはすでにすたれているかもしれない、
この子らが大人になるまでに、ビジネス文章などで鍛えられていくのかどうか。少なくとも、「よき近代小説の読者」にはなりそうもない。国語教科書には編集者苦心の「すぐれた日本語表現」が並んでいるはずだが、国語教育の及ぶ力は、ラインやインスタグラムなどのコミュ力に及ばないのかもしれない。無念。
あと20年は日本語ウオッチングを続けたいと願っていますが、20年後の日本語に悶絶爆死しているかも。
20240419
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>明治の日本語(5)露伴の語彙、文(あや)のことば
2012年の春庭コラムを採録しています。
~~~~~~~~~~~~~
2012/07/13
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(9)露伴の語彙、文(あや)のことば
明治の文豪、夏目漱石と幸田露伴は、同年生まれです。どちらも1867(慶応3)年生まれ。漱石は1916(大正5)年に50歳で死んだけれど、露伴は昭和も戦後の1947年まで生きた。享年80歳。ゆえに、明治の生活感覚や明治の語彙を、戦後までせっせと娘に伝え、仕込みました。
露伴の父・成延は、大名の取次を職とする表御坊主衆を勤める家であった今西家から幸田家に婿入りし、家付きの妻猷(ゆう)との間に7人の子をもうけました。長男成常はで相模紡績社長などを務めた実業家。次男成忠は海軍軍人、郡司家の養子となり北千島を探検開拓しました。露伴は四男。五男の弟は歴史家成友で、妹の延、幸はともに音楽家。
幸田家も、幕臣とはいえそう大身ではなかったから、幕府瓦解後はお定まりで窮乏しました。幸田成行(しげゆき→露伴)は、東京府第一中学(現・都立日比谷高校)や東京英学校(現・青山学院大学)に進学しましたが、いずれも家計逼迫によって退学しています。
当時唯一の国立図書館が1874(明治8)年5月に開館。5年後、東京書籍館から東京図書館と改称しました。家計窮乏により中学校を退学した露伴は、当時湯島にあった東京図書館に通って独学で勉強しました。当初、図書館は夜間開館しており、無料だったからです。こののち、東京図書館は、1985(明治17)年上野に移転し有料となります。樋口一葉は、友人に借金を重ねながら有料の図書館を利用しました。
私も図書館で自分の「言語資源」を培いましたから、露伴や一葉が図書館がよいをして、本に顔を埋めているようすを想像すると、親近感がわきます。
成行は、数え年16歳の時、逓信省電信修技学校の給費生となります。学費免除で学べるところを探してのことです。卒業後は電信技師として北海道で官職につき、ようよう生活は安定したのに、文学への憧憬やみがたく、職をなげうって帰郷。露伴の弟成友(のちに東京商科大学・慶応義塾大学教授、日本経済史。日欧交渉史)は、1873年にキリスト者となります。その影響であろうと思いますが、露伴の父成延は1884(明治17)年に、下谷教会の植村正久牧師によって受洗し、キリスト教徒となりました。下谷教会は、カナダ・メソジスト教会系です。露伴の妹の延(1870-1946)も幸も(1878-1963結婚後安藤姓)受洗しています。
成延は1888(明治20)年ごろには神田末広町に「愛々堂(あいあいどう)」というキリストの愛にちなむ命名をした紙屋を営みます。露伴も官職を捨ててから、この紙屋を手伝いますが、露伴だけは受洗しませんでした。
露伴の次女・文が6歳のとき、1910(明治43)年、先妻幾美子がなくなり、1912(明治45)年、文の姉・歌が猩紅熱によって11歳で死去。
この年の8月には明治天皇が崩御。大正と年号が変わったあと、露伴は後妻を迎えますが、この後妻児玉八代もキリスト教徒でした。文は八代の意向で、ミッションスクールへ通い受洗しています。生い立ちは文の「みそっかす」ほか様々な自伝や随筆によって知ることができますが、この八代は、元香蘭女学校の教師で、家庭臣家庭の家事や言葉遣いを仕込みました。
露伴は、1913(大正2)年4月でも家事をするより聖書を読んですごしたため、露伴は家事をしようとしない妻にいらだち、歌なきあと一人のこされた娘には、徹底して江戸の幕24日の日記に妻と媒酌人船尾栄太郎に対し、次のような呟きをもらしています。妻が教会の事業に夢中になって、家事をしないことへの不満です。
妻したたかに晏く起き出で、身じまひして外出す。基督教婦人会へ臨むは悪からねど、夜に入りて猶かへらず、殆ど予を究せしむ。頃日来差逼れて文債を償ふに忙しきまま、小婢まかせになし置く、家の内荒涼さ、いふばかりなし。(略)船尾栄太郎来り、青年雑誌の為に文を求む。幸のをりからなれば言はんと欲すること多きも猶忍びて言はず。此の人善意をもて媒酌しくれたるなれど、眼鈍くして人を観ること徹せず、妻をあやまり予をあやまるに近し、、、、
教会に入り浸る妻のため、家庭内が荒涼としている、という露伴の嘆きを見聞きし、娘の文は教会や継母をどのように感じていたでしょうか。
妻したたかに晏く起き出で、身じまひして外出す。基督教婦人会へ臨むは悪からねど、夜に入りて猶かへらず、殆ど予を究せしむ。頃日来差逼れて文債を償ふに忙しきまま、小婢まかせになし置く、家の内荒涼さ、いふばかりなし。(略)船尾栄太郎来り、青年雑誌の為に文を求む。幸のをりからなれば言はんと欲すること多きも猶忍びて言はず。此の人善意をもて媒酌しくれたるなれど、眼鈍くして人を観ること徹せず、妻をあやまり予をあやまるに近し、、、
教会に入り浸る妻のため、家庭内が荒涼としている、という露伴の嘆きを見聞きし、娘の文は教会や継母をどのように感じていたでしょうか。
私が長々と「幸田家と受洗」について述べたのは、遠藤周作、加賀乙彦、曽野綾子、三浦綾子などに比べ、キリスト教徒であったことが作品からはまったくうかがえず、「クリスチャン有名人一覧」なんてサイトにも、幸田文の名がないこと。
幸田家の中で、露伴だけがキリスト教徒にはならなかったのですが、いっしょに暮らした文は、受洗はしたものの、継母の「家庭より聖書」という生活を見て、キリスト教にはあまり良い印象を受けていなかったのではないか、とも見受けられます。
文が文章を書くようになったのは、露伴の死後なのですが、キリスト教の影響より、露伴からの影響のほうが強かったのかも知れません。
八木谷涼子「幸田文とキリスト教 ――げんの十字架」(平凡社月刊百科2011年6月)という論文があるので、読んでみたらある程度わかるのかもしれません。
少々長たらしかったですが、以上は前置きです。
幸田文の文章は、日常生活の中で露伴に仕込まれてきており、明治の語彙感覚を残しているだろう、ということを確認するための、前置きでした。
幸田文の随筆『雀の手帖』から、私が使ったことのないことばをピックアップして見ると、明治~昭和の小石川へんの使用語彙が浮かぶのではないかと思い、収集してみました。テキストは新潮文庫2001年。初出は、1959(昭和34)年。意味はわかるけれど、私は使ったことがないという「明治~昭和の語彙」というのは、どんなものがあるか。
p12 ちゃらっぽこな気持ち=いいかげんな気持ち
p20 見ざめのしない=見飽きない
p24 ふきんをゆすぐのもからへたである=完全に下手
p28 霜の勢いの殺(そ)げるのも=勢いが弱くなる
p71 私は町の一隅にごろっちゃら乱雑に生きてきた=ごろっちゃらとは、物事が乱雑で雑駁なこと
p98 口業(くわざ)の強い生まれ=言うことに毒があり、ものの言い方が丁寧ではないこと。
p129 陳弁したり反省したり=弁解したり~
もっと知らない語彙が多いかとおもったのだけれど、集めてみると、それほど多くはありませんでした。やはり、文語文の中に頻出する漢語とは異なります。
明治-昭和の小石川で毎日煮炊きをし、掃除洗濯をして父露伴を支え、戦中戦後は家計を支えるために芸者置屋で働きもした明治の女、幸田文。
この『雀の手帖』には、1959年の台所や書斎から見た季節のうつりかわり、社会のようすが細やかに描かれています。
「ちゃらっぽこ」や「ごろっちゃら」なんていうオノマトペから出た語には、江戸下町の雰囲気が出ています。「口業(くわざ)の強い生まれ」と、文が露伴から叱られたことばも、幕臣の家庭では「おなごはそんな口業強くては、オヨメに行けません」なんて躾を行ったであろう家風も伺えます。
私も、ちゃらっぽこでごろっちゃらな主婦ですけれど、ただ日常の煮炊きや洗濯を描いたとして、幸田文のような凛とした響きのある文章は、とうてい書くことができないことは分かっています。
では、どんな語彙をつかうのか。
社会言語学では、ある一人の人が生まれてから死ぬまでの全生涯で、どのような語彙を使ったかを調べる、という調査があります。京都町屋の主婦が生まれてから死ぬまでに使うことばすべて、東北の農家の人が一生の間に使うことばなど。私は社会言語学が専門ではないので、このような調査に関わったことはないのですが、ずいぶんとたいへんなことだろうなあと、思います。方言の調査では、50年のあいだ、調査者がインフォーマント(調査に応じて質問に答える人、被調査者)のもとへ通い続けた、という貴重な記録もあります。50年の間に、方言使用がどのように変わってきたかが、一人の人の生涯の記録とともに明らかになっているのです。
春庭の使用語彙というのは、少なくとも、2003年からここ10年で使った語彙、ネットにUPしたものについては、すべてチェックできる。きわめて貧しいことばの使い方であるとは自覚しているのだけれど、これから40年かかって、なんとか幸田文の随筆の凛とした江戸明治の山の手ことば、石牟礼道子の、ふんわりと人を包み込む暖かさを持ちながら、権力や腐敗に対しては一歩も引かぬ強さを秘めることば、「今、90歳、あと10年、私は、100歳までには革命をやりたい。あじさい革命、あれ、いいね」と笑う富山妙子の強烈な色彩を持ったことば。先達のしなやかで強く美しいことばを、少しでも身につけていき、90歳になったら「あと、10年で革命やりたい」と言ってみたい。
(注:富山妙子のことばは、2012年7月7日、七夕の日の発言)
<つづく>
20240418
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>明治の日本語(4)文語文「南蛮鴃舌(なんばんげきぜつ)」
2012年の春庭日本語コラムを再録しています。
~~~~~~~~~~~~~
2012/07/10
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(4)文語文「南蛮鴃舌(なんばんげきぜつ)」
次に、『完本文語文』の中に出てくる、「意味はわかるけれど、自分では使ったことがない語」すなわち、理解語彙であるが、使用語彙ではない語のリストアップです。
p35「威権堂々」 威風堂々なら使用言語です。行進曲で覚えたので。しかし、「威権堂々」は、意味はわかるが、使ったことはない。
p66「高風を欣慕する」文語文の香り高き高風を欣慕するにやぶさかではないが、今後、日本語の書き言葉として文語文が学校教育で復活することはないでしょう。
谷崎潤一郎が小学生のとき書いて「優秀」と誉められた作文を読んだことがありますが、完全な文語文でした。
p146「見ずてん」芸者などが金次第でどんな相手とも肉体関係を結ぶこと。また、そういう芸者。意味は知っていたけれど、使ったことはない。
p93「寸心言いつくさず」
唐代の詩人、銭起(せんき710年?‐780年?)の五言絶句『逢侠者(侠者に逢う)』からの故事成語。ああ、やはり漢文漢詩に弱い。
<逢侠者>
燕趙哀歌士 燕趙(えんちょう) 悲歌(ひか)の士
相逢劇孟家 相逢う 劇孟(げきもう)の家
寸心言不尽 寸心(すんしん) 言い尽くさざるに
前路日将斜 前路 日 将(まさ)に斜めならんとす
p140「言語は南蛮鴃舌(げきぜつ)である」
「鴃舌」はもずの鳴く声。また、もずが鳴き合うように騒ぎ合って、意味が分からないことのたとえ。南蛮鴃舌は、南方地方の人の話言葉は、モズの鳴き声のようで、意味がわからない、という北方の人が南方人を馬鹿にした表現。
p257「今は只、廃檐朽桷塊然(はいぜんきゅうかくかいぜん)と堆を成して~」二葉亭四迷が訳した、ゴーゴリ『むかしの人』の一節。岩波の二葉亭四迷全集第一巻「翻訳」に所収。山本翁は、父の遺品たる『二葉亭四迷全集』によって、漢語を覚えていったと書いています。以下は、二葉亭の「むかしの人」で、山本夏彦が覚えたという漢語の数々。
p258「村荘の露台に座して、園に対し、膏雨(こうう)盛んに樹木を打って、雨水の滴り落つること觱沸(ひつぶつ)として泉の湧くが如く、四肢倦怠(だる)く、睡思を催す折りしもあれ、林間に長虹微(ほの)見えてぼかした様な七彩の穹窿(きうりう)半ば崩れて天の一方を彩るとき(以下略)」
山本翁は、この二葉亭の「むかしの人」によって、「觱沸(ひつぶつ)」という語を覚えた、と書いているが、私なぞ、、「觱沸(ひつぶつ)」はもちろんのこと、膏雨(こうう)も穹窿(きゅうりゅう)も、漢字を見て、かろうじて意味は推測できるものの、この語を覚えた、ということはできない。明日は、觱沸をみて、さて、なんて読むんだっけと首を傾ける。
p268「刺を通ずる」
刺とは、名刺のこと。名刺を差し出して、相手と通じあうことを「刺を通ずる」というのですが、だいたい、私なぞ、「刺」だけで「名刺」の意味であることを、つい最近まで知らなかった。ちなみに、「刺を還す」とは、面会者が差し出した名刺を受け取らず、面会を拒絶することを言います。
p68「社稷を憂える しゃしょくをうれえる」
広辞苑>「.〔礼記(祭儀〕昔の中国で、建国のとき、天子・諸侯が壇を設けて祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)。.〔論語(先臣)〕国家。朝廷。
イマドキ「社稷を憂える」と聞くと、言っている人はウヨかエセ政治家か、と感じてしまいます。ウヨさんたち、ラウドスピーカーで「元慰安婦のおばあさんたちを撮影した写真展が新宿コニカサロンで開かれることは、国辱であ~る!」なんて言って、「シャショクをうれえる」ことやってないで、日本語そのものが滅びるかもしれないことを憂えなさいって。
p30「その妙、世界に冠絶す」
日本語(近代口語)そのものが冠絶してしまうのも、時間の問題となってきました。
以上のように、『完本文語文』の中にある、春庭が「まったく意味も読み方もしらなかった語」「意味はわかるが使ったことがない語」のリストアップでした。
『完本文語文』は、文語文の「格調高く美しき日本語」を褒め称えるための文章ですから、漢詩文の中にでてくるような漢語が多くて、春庭にはさっぱりわからない語句が多かったのは当然と言えましょう。
<つづく>
20240416
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>明治の日本語(2)明治の語彙
2012年の春庭コラムを再掲載しています。セルフコピー。
~~~~~~~~~
2012/07/08
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(3)山本夏彦の『完本文語文』
山本夏彦の『完本文語文』に出てくる語彙で、春庭の使用語彙でも理解語彙でもなかった語のリスト。続き。
p270「操觚者そうこしゃ」
文筆に従事する人。文筆家・編集者・記者など。操觚家。ジャーナリスト。
「觚」は四角い木札。古代中国でこれに文字を書いたところから、觚を操る人とは、詩文を作り文筆に従事する人を言う。山本翁の解説では「文章家」
p275「質は天(けいてん)七宝の柱」
芥川龍之介が泉鏡花全集の推薦文を書いた。その一節にいわく。
「試みに先生等身の著作を以て 仏蘭西羅曼 ( フランスロマン ) 主義の諸大家に比せんか、質は けい天七宝の柱、メリメエの巧を凌駕す 可 ( ベ ) く、量は抜地無憂の樹、バルザツクの大に 肩随 ( けんずゐ ) す可し」
手持ちの漢和を調べてみました。角川『漢和辞典1989』と大修館『現代漢和1996』には、この敬の下に手を書く「」という文字の記載がない。
小学館『現代漢語例解辞典』には、「ケイ、ささげる」という読み方と、「ささげる、あげる」という字義のみで、熟語は掲載されていない。
三省堂『全訳漢辞海2004』に、「上に向かって支える。かかげる」「手に持つ」という意味のほか、用例が出てくる。「八柱天高明之位列(八つの柱が天を高く支える)張説『姚崇碑』」
「けい天七宝」という熟語は、どこにも載っていません。
慶応生まれの夏目漱石は漢詩文を読めるし自分でも漢詩を書いた。ところが、明治生まれの芥川の世代になると漢詩文は読めるが、自作はしなかった、と言われています。(実際は、漢詩くらい書いたのでしょうけれど、発表するほどのレベルには達しなかったのかもしれません)
昭和生まれの春庭になると、もはや漢詩文は、書き下し文に現代語訳をつけてもらわないと意味わからず、白文なんぞ見せられても、ちんぷんかんぷんです。
芥川は、いったいどこで「けい天七宝」という語を目にしたのでしょうか。
泉鏡花を誉めるにあたって、適切なことばを探したのでしょうけれど、平成の今では、漢和辞書でさえ、この「けい天」という語を載せていないことがわかりました。ゆえに、浅学非才ぽかぽか春庭ごときが知らなくても、当然の語ではありますが、明治人の漢文力は、ほんとうにすごい。
p278「近来罕(ま)れな款語(かんご)の連続だったと、辰野(隆)は述懐している」
款語とは、款話に同じ。うちとけて話しあうこと。親しく語り合うこと。
私、款のつく熟語は落款、定款、約款しか知りませんでした。はい、「款語」、はじめて見ました。言文一致、口語文以後、私たちは漢詩文、漢文脈、漢語というのを少しずつ捨て去ってきたのですが、山本夏彦が「私は文語文を国語の遺産、柱石と思っている」と、嘆いても、この遺産を受け継がなかった私たちの世代のあとでは、漢文脈、文語文というのは、「埋もれた宝」になる一方なのでしょう。
<つづく>
20240414
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>明治の日本語(2)山本夏彦の『文語文』礼賛論
春庭の日本語について書いたコラムを採録しています。今回の自分コピーは、年前の文章なので、いささか古いですが、文体はほとんど変わっていません。
~~~~~~~~~
2012/07/07
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(2)山本夏彦の『文語文』礼賛論
7月7日は七夕です。1872(明治5)年、旧暦12月3日を、新暦の1873(明治6)年1月1日として以来、7月7日は、梅雨時真っ最中。織り姫は彦星に会うことができません。
しかし、JRの駅や留学生センターに飾られている竹飾り笹飾りに、短冊に書かれた願い事がびっしり結びつけられているのを見ると、「願いを託したい」「祈りたい」という気持ちは、こうもたくさん文字となって表現されているのだと、改めて感じます。
私の一番の願いは、むろん我が身の健康、家族の幸福ですが、今年は、同じくらい強く「原発完全停止」を願わずにはいられません。「経済が上向きにならなければ、日本はどうしようもないでしょう。あなたは節電できますか、電気をつかわずに生活できますか」という脅しはさんざん聞かされましたが、さまざまな科学的実証からみて、原発を使わなくても生活でき、経済も向上する方法が、シロートの私にも分かってきました。
夜、見えない星に向かって、祈りましょう。
七夕は、「技芸上達、書道の上達、文章の上達」を願う日でもあります。春庭も文章上達を願って、ことばの勉強を続けます。
「明治の語彙シリーズ」シェークスピアから翻訳された「じゃじゃ馬馴らし」について、「常の夜にも似ぬ7月6日」に書きました。(ちなみに、ゆうべの夕食はサラダではなく、麻婆豆腐でした)。
さて、次は、「山本夏彦に学ぶ明治の語彙」です。
インテリア雑誌『室内』の編集長にして「歯に衣着せぬ」随筆を数多く残した山本夏彦(1915-2002)。大正に生まれ平成を10年生きてなくなった。
生まれは大正であるけれど、その文学的な素養は明治の語彙によって培われました。夏彦の父は、明治前半の文学者、山本露葉。夏彦が中学生のとき、父死去。父親の死後、中学生夏彦は、父・山本露葉の残したノートや蔵書を熟読する中で、明治の文学を吸収しました。
大正生まれではあっても、その語彙、文体感覚は明治前半の主要な書き言葉であった文語文を基礎としています。山本自身は現代書き言葉(近代口語文)で文章をつづりましたが、日本語表現としては、「文語文」を支持しました。
最初の章に「応接にいとまがない」の「応接」、「不肖の弟子」の「不肖」を、自社の社員に「わかるか」と聞いたら、彼らは「初耳だ」と答えた、というエピソードが書かれています。いつごろの話とも書いていないのですが、「文語文」の初出は93年文藝春秋なので、このエピソードの社員は、70年代の生まれくらいかと思われます。
70年代生まれには、「応接にいとまもない」も「不肖の弟子」も、「知らないことば」になっているのか、と、70年代には「花の20代」になっていた私としては驚きもするけれど、まあ、さもありなん。しかし、私とて大正生まれの山本翁に比べれば、ずいぶんと語彙に乏しいことだろうと「完本文語文」の中に、私の使わない語彙がどれほど出てくるか、チェックしてみました。意味はわかるが、私は使ったことがない語、意味も読み方も知らなかった語、両方をメモしておきます。
読み方も意味もわからない「非理解語彙」については、意味を書いておきます。書いておかないと、そのとき「へぇ、そういう読み方なのか」「そういう意味なのか」と思っても、すぐに忘れるから。いや、書いておいても忘れることが多いのだけれど。
以下、山本翁没後1年の2003年に出た文庫本『完本文語文』の中のページを示します。なんだ、日本語教師のくせに、こんな語も知らんのか、と思われるかもしれませんが、「知らぬは一時の恥」ですから、恥ずかしげもなく、「私は、こんな語、知らんかったシリーズ」開陳です。
<意味を知らなかった語彙>
p33「人みな七竅あり」七竅(しちきょう=七つの穴)と、読み方も意味も書いてあったから理解できたけれど、知らない語でした。
p53「朝菌は晦朔を知らず」漢文は高校でならった世代ですが、漢文教師がいやでいやで、できる限りさぼったので、「荘子」にもうとい。
朝生えて晩には枯れるきのこ「朝菌」は、「晦朔」を知らない。「晦朔」とは、晦日(みそか)と朔日(ついたち)のこと。朝菌は晦日(みそか・つごもり)も朔日(ついたち)も知らない。すなわち、限られた境遇にある者は、広大な世界を理解できないことのたとえ。また、寿命の短いこと、はかないことのたとえ。
p114「阿爾泰(アルタイ)山脈の東南端が戈壁沙漠(ゴビさばく)に没せんとする辺の磽确(こうかく)たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日」
中島敦『李陵』の冒頭部分です。
山本夏彦が「騎都尉とは何か、磽确とは何か知らなくても文はリズムがあれば分かるのである」と書いているように、改めて読みなおすと、知らない語がごろごろと磽确のごとく広がっている。
「こうかく」という読み方なんぞは知らなかったが、「磽确たる丘陵地帯」という字面を見れば、丘にひろがった尖った石や岩が目に浮かぶ。これは、漢字の見た目で意味を想起できる力による。
意味を知らなくても、高校生の私もまた李陵の文体に恍惚となった一人です。それなのに、漢文を学ぶ気にはさっぱりならなかった。だから、今でも漢語に弱い。
p222「報条」=広告文のこと。江戸時代から明治初期にかけて用いられた言葉。「引き札」は時代劇などでもときどき聞いていた語でしたが、「報条」は、知りませんでした。
p226ラテエrate(eにアクサン) 落伍した芸術家のこと。
森鴎外が翻訳した『埋木うもれぎ』の末尾に出てくる「モンマルトルのラテエとて痴(おろか)なる翁」という中のラテエを、「埋木」を父の遺品の本として読みふけった山本夏彦も知らず、後年、ようやく意味がわかった、と書いています。私も当然、この「文語文」を読むまで、ラテエなる外来語を見聞きしたことはなかった。
『埋木うもれぎ』は、ボヘミア系ドイツ人、ユダヤ系女流作家オシップ・シュービンOssip Shubin(本名アロイジア・キルシュナーAloisia Kirschner )が書いた『Die Geschichte eines Genies(ある天才の物語)』を、鴎外が訳したもの。
著者オシップ・シューピンは、「忘れられてしまった作家」のひとりです。金持ちのユダヤ家庭の出身ですから、シューピン自身は、生涯、落剥したことなどなかったでしょうが、今となっては、現代のドイツ語文化圏で、もはやだれも読まない作家です。日本では、鴎外大先生が訳したことにより、「埋木」についての論文もときたま大学紀要などに載ります。
それにしても、鴎外が、なぜrateを「落剥芸術家」などにせず、「ラテエ」と外来語のままカタカナ語として訳したのか、わかりません。
p236「駒光(くこう)なんぞ駛(は)するが如きや」
永井荷風の「書かでもの記」からの引用。
『書かでもの記』は、
「身をせめて深く懺悔(ざんげ)するといふにもあらず、唯臆面(おくめん)もなく身の耻とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は閲歴を語ると号し、或時は思出をつづるなんぞと称(とな)へて文を売り酒沽(か)ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしと共に、尺八吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに築地(つきじ)へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くやうな小理窟つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり」
と、始まります。その文語文の「四」に「駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや」の一文があります。
「秋暑(しゅうしょ)の一日(いちにち)物かくことも苦しければ身のまはりの手箱用箪笥の抽斗(ひきだし)なんど取片付るに、ふと上田先生が書簡四、五通をさぐり得たり。先生逝きて既に三年今年の忌日(きじつ)もまた過ぎたり。駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや」
上田敏が書いた手紙を見つけた、という内容です。
山本は文語文「先生逝きて既に三年今年の忌日(きじつ)もまた過ぎたり。駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや」と、その現代書き言葉訳、口語文「先生が亡くなって三年たった。今年の命日もまたすぎた。月日のたつのは何と早いことだろう」を並べてみせ、文語文の「日本語の美」が勝っている、と結論しています。
20240512
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>明治の日本語(1)じゃじゃ馬ならし
三浦しをんの原作も、松田龍平主演の映画も楽しめた辞書をつくる話『舟を編む』、2024年は、池田エライザ主演のテレビドラマで楽しみました。ことばについての物語、大好きです。
日本語についての春庭コラムから、過去ログを再掲載します。
~~~~~~~~~~
2012/07/07
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(1)シェークスピアのじゃじゃ馬
朗読劇「じゃじゃ馬馴らし」を観劇したアコさんからきいた、シェークスピア蘊蓄。「じゃじゃ馬ならし」の「馬」について。
原題は、『The Taming of the Shrew』で、the Shrewとは、トガリネズミ、ジネズミのこと。馬じゃありません。英国で、とがり鼠川ねずみの類は、キーキーとやかましく泣きわめき騒ぎ立てるので、そのたぐいの女性のことをshrewと呼ぶのだとか。
へぇ!原題について調べてみようと思ったことがなく、アコさんに聞いてはじめて知りました。
『The Taming of the Shrew』を直訳すれば「ガミガミ女の飼い慣らし方」となる。
調べてみると、川ねずみは、「Japanese water shrew」という英語になっている。ジャコウネズミ(麝香鼠)は、「Asian house shrew」
『じゃじゃ馬馴らし』が初めて翻訳された明治時代には、「じゃじゃ馬」ということばはすでに存在していました。
古語辞典(岩波と三省堂)を調べてみたところ、岩波には「じゃじゃ馬」の項目が記載されており、三省堂例解古語辞典(1980)にはこの項目の記載がありませんでした。
<岩波古語辞典>
・「じゃじゃ」落ち着かず騒がしい物音の形容。ざわざわ。出典「虫がざわざわと鳴く<ロドリゲス大文典」
・「邪邪」足踏みをして、無理わがままを言ってねだること。出典「邪邪を吐きちらし<玉滴隠見」
・「じゃじゃ馬」(跳跳馬・邪邪馬)はね暴れる馬、荒馬、悍馬。出典「蛇じゃとて邪邪馬荒るる春野かな<難波草」
「じゃじゃ」の「足踏みして無理わがままを言ってねだる」は、現代語では、「駄々=子どもが甘えて、言うことをきかないこと、駄々をこねる、駄々っ子」として出ています。(岩波国語辞典)
現代でも、悔しがって地面を踏みつけることを「地団駄を踏む」と言います。「地だんだ」の「だんだ」は、「駄々」の転訛。駄々の語源は「鑪(たたら)を踏む」から来ている説があります。
「地駄々じだだ」は「地踏鞴じたたら」で、「たたら」とは、鍛冶仕事や鉄の精錬のために、足で踏んで風を送る 『ふいご』 のこと。「じたんだを踏む」は「じゃじゃ踏む」とも言いました。
出典からみると、「じゃじゃ」は、室町時代には「やかましく落ち着かない様子」を表していることがわかり、「じゃじゃ馬」は、江戸時代には「悍馬、荒馬」の意味で用いられていたことがわかりました。
元々「じゃじゃ馬」は、悍馬を指して言う言葉でしたが、坪内逍遙が『The Taming of the Shrew』を『じゃじゃ馬馴らし』と翻訳して以後、「じゃじゃ馬」は「おてんば」と並んで、明治時代の、「元気のよすぎる」女性を指すことばとして定着しました。今では「じゃじゃ馬」は、男性を表すときには使わないことばになったので、PC(ポリティカル・コレクトネス(political correctness)を進める方々には、好まれない言葉であるかもしれません。
ちなみに、シェークスピアの『テンペストThe Tempest』は、坪内逍遙の初訳では『颱風』でした。現代、上演される際は「あらし」「嵐」という題が多いようです。『テンペスト』というカタカナ語での本も出ています。(「ちくま文庫版シェークスピア全集」など)
では、ことのついでに、坪内逍遙訳の「ロミオとヂュリエット」より、名高いバルコニーのシーン。ジュリエットがロミオの名を呼ぶシーンです。
ヂュリ おゝ、ロミオ、ロミオ! 何故、卿(おまへ)はロミオぢゃ! 父御(てゝご)をも、自身の名をも棄てゝしまや。それが否(いや)ならば、せめても予(わし)の戀人ぢゃと誓言(せいごん)して下され。すれば、予(わし)ゃ最早(もう)カピューレットではない。
ロミオ (傍を向きて)もっと聞かうか? すぐ物を言はうか?
ヂュリ 名前だけが予(わし)の敵(かたき)ぢゃ。モンタギューでなうても立派な卿(おまへ)。モンタギューが何ぢゃ! 手でも、足でも、腕(かひな)でも、面(かほ)でも無い、人の身に附いた物ではない。おゝ、何か他(ほか)の名前にしや。名が何ぢゃ? 薔薇の花は、他の名で呼んでも、同じやうに善い香(か)がする。ロミオとても其通(そのとほ)り、ロミオでなうても、名は棄てゝも、其(その)持前の、いみじい、貴い徳は殘らう。……ロミオどの、おのが有(もの)でもない名を棄てゝ、其代(そのかは)りに、予(わし)の身をも、心をも取って下され。
語尾の「~じゃ」という結び方、「名をも棄てゝしまや」という言い方が、歌舞伎の奥女中のようなもの言いになっているほか、ジュリエットの台詞で、現代に比べて、意味が通らない、という点はありません。女性の自称が「わし」であること、父親が「ててご」になっていること、現代なら「誓ってください」となるところが「誓言(せいごん)してくだされ」になっているほかは、現代に耳で聞いて意味がわからない、ということはありません。目で読んでみて、やはり明治の台詞だなあと感じます。バラは他の名に変えてもバラの香りがするのですが、日本語は明治の台詞に変えると「明治のかほり」になります。
コラム返信コメント
まっき~さん (春庭)2012-07-06 17:55:50シェークスピアに近づくにも、いろんな道すじがありますね。
私は小学生のころ、「シェークスピア物語」という子ども向けにアレンジされた代表作集を読んで、巌窟王とか三銃士とか波瀾万丈ものが好きだったころなので、「たいしておもしろくない」と思ったままになりました。
高校生のとき、学校の体育館で演劇を見せる「演劇教室」で「真夏の夜の夢」を見て、ちょっと惹かれる程度。あとは、私の世代のもののほとんどがそうである、オリビアハッセイのジュリエット。布施明と結婚したときは、夢やぶられて、がっくりきたくらい。
シェークスピアの古英語、文芸畑では
「ああ、ロミオ様、ロミオ様!なぜロミオ様でいらっしゃいますの、あなたは?
あなたのお父様をお父様ではないといい、あなたの家名をお捨てになって!」と、古風に訳すところを、映画字幕では
「ロミオ ロミオ なぜ あなたはロミオなの?その名は変わらないものかしら」と、完結きわまる訳になる。これも字幕は1秒4文字、一行14字という制限があるから。
字数制限のないブログで、だらだらと垂れ流しの文が多いHAL,ちょっと映画字幕の勉強をしたほうがいいのかも。
<つづく>
北海道小樽市色内1-3-1 設計:矢橋賢吉、小林正紹、山本万太郎
20240509
ぽかぽか春庭アート散歩>2024建物巡り北海道(2)北海道大学の建築
20240507
ぽかぽか春庭アート散歩>2024建物巡り北海道(1)北海道開拓の村
開拓時代の人たちの知恵と努力を見ることができ、建造物一つ一つが開拓当時へと導いてくれることでしょう。
江戸の吉原遊廓は現代では存在せず、今後も出現することはありません。本展では、今や失われた吉原遊廓における江戸の文化と芸術について、ワズワース・アテネウム美術館や大英博物館からの里帰り作品を含む国内外の名品の数々で、歴史的に検証し、その全貌に迫ります。