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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月29日結婚の理由」

2012-10-31 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/30
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(13)20年前の今日、何をしていたか1992年10月29日結婚の理由

(二九八六)1992年十月二九日 木曜日(雨)「結婚した理由を娘に説明すること」

 娘から「どうしてお母さんはお父さんと結婚したの」という質問を受けたときは「お母さんがケニアに行ったとき、ナイロビに着いた次の日に、町の中で迷子になっちゃったの。その時、向こうから日本人がやってきて、道案内をしてくれたから、やさしい人だなと思って結婚したの。」と説明してきた。

 アフリカのナイロビで迷子になって、道案内をしてくれた人と結婚したなんて、話としては、なんだか運命的みたいで面白いんだけど、この時はまさかこの人と結婚することになるなんて夢にも思わず、いっしょに町を歩いていた。

 ケニアに行くまでは、「私は男性からは『こわい女』と思われている」と思いこんでいた。「究極のモテない女」というコンプレックスのかたまりだった。

 今は典型的中年のオバサンになっている私だって、若いときはそれなりにカワイかったのに、と、昔のアルバムを開くたびに思う。だけど、当時は「私は決して男性にはカワイイと思ってもらえない」と思い込んでいた。

 自分の生き方を捜し、何事にも自分の意見を持つような女性は「女らしくない」と言われた時代だったのだ。私が、自分の思うところ考えるところを率直に発言すると、世の男たちは「コワイナァ」という印象を持つらしかった。

 女の子は男の述べる意見に「フーン、難しくって、アタシにはよくわかんないけど、あなたの考えってスゴイんじゃない。」なんて小首をかしげていわなくちゃならなかった。

 私が自分の意見をいっても怖いと思わないらしいのは、Tさんだけだった。結婚後十年たって、Tさんの実家の家風にも精通した結果、これは姑の影響だったことがわかった。生れたときから「論理的思考」「理論的おしゃべり」の母親に育てられてきたので、女性が理屈を述べるのに何も抵抗がなかったのだ。

 姑からの電話で「栄養学的、理論的献立の話」なんかが始まると、一時間も続いてたいへんなのだが、この姑の理屈好きがTさんの女性観を作ったと思えば、心して聞かねばならない。

 どうして結婚したかといえば、私を怖がらなかったのはTさんしかいなかったから、ということになる。
 二十歳の頃だったか「君の歩いている姿ってコワイ。」って言われたことがあったが、しゃべらなくっても、姿だけで、コワイ存在だったらしい。もうちょっと私が利口で、かわいこブリッコできる演技派だったら、もっと違う人生が展開したかもしれない。まあ、バカだったからこういう人生だったのだ、というしかない。娘も母がバカでよかったといっている。

 娘が「どうして他の人じゃなくてお父さんが一番いいって思ったの?」と質問してきたときは「お父さんが、お母さんのこと美人だって思ってくれたから」と答えて、納得していた。

 しかし、このごろ娘も父の価値基準法を理解してきて「お母さんはバカだね。お父さんは『ぼくは女性に対してブスなんて思ったことはない。ぼくにとって女性は「美人」「とっても美人」「ものすごく美人」の三種類しかないんだ』っていってるよ。お母さんのこと「美人」だって思っているなら、それは一番下のランクだってことじゃないの。世間の、ブス、ふつう、美人というランクに直せば、お父さんのいう美人は世間のブスってことだもん。ブスって思われて結婚しちゃったお母さんはバカだね。でも、お母さんがバカだったおかげで、わたしが生れてよかったあ。」

母「妻を美人と思ってくれる人と結婚しました」
娘9歳「だから、それは世間のランクではブスなんだっていってるでしょ」
父「僕の辞書にブスっていう言葉はない」
息子4歳「だから僕のお母さんは美人です」
母 「この次は乗ってみたいな玉の輿」

結論「美人の妻を得るための確実な方法。→ 世の女性を、美人・とっても美人・ものすごく美人、の三つに分類すればよい」


1992年十月二九日 木曜日(雨)「満十年の結婚記念日も、なんにもしないですぎたこと」

 午前中、体育館でジャズダンス練習。
 夫が「また行くのか」という顔をするので、「日本語教師はやっぱりジミで、私には合わないから、ダンサーめざすことにした。」と言っておいた。
 「ダンサーになってお金稼げるようになったら、今度は私があなたを食べさせてやるから、楽しみに待っててね。ダンサーのヒモになれるなんて、嬉しいでしょう。」

 十二年前、七月末にケニアのナイロビではじめて出会い、十年前、一九八二年の十月二九日に結婚式を挙げた。本日結婚満十年の記念日ナリ。

 といっても、夫は「フンフン、めでたいことである。そうではあるが、パンツのゴムがのびている、まともに着られるワイシャツがない、ハンカチがない。」といいつつ着替えて仕事にいった。あまりにもおなかが出ているために、パンツのゴムもすぐ伸び切ってしまうのだ。御結婚満十年を記念する愛のパンツでも買うことにしよう。

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/30のつっこみ

 20年前、「結婚10年目でもなんのこともなくすぎた」結婚記念日。20年目も、25年目の銅婚も、まったく祝うこともなかったが、本年はついに30年目。
 「自分の父親だから、悪く言いたくはないけれど、お母さん、どうしてああいう人と結婚しちゃったんだろうね、もうちょっとマシな人、いたでしょうに」と,娘から責め立てられはするけれど、30年前の私は、今よりもっとトガッていた。刺されてもいいと思って結婚する蛮勇ふるった男はひとりだけだったのだから、仕方がない。

 あっちはあっちで、刺されまくって満身創痍。こっちはこっちでシングルハンドの子育て&家計維持を続けてくたびれ果てて、気がつきゃ互いに割れ鍋に綴じ蓋。
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月28日料理のほめ方」

2012-10-30 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/28
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(12)20年前の今日、何をしていたか1992年10月28日料理のほめ方

(二九八七)1992年十月二八日 水曜日(晴れ)「カッパ橋へ行って、料理のほめ方について思い出すこと」

 午前中、文化センターでダンス。午後姉の店へ。ステンレス鍋を届けにいったが、十五センチのでは小さいというので、浅草カッパ橋まで取り替えに行った。それで一日終わり。

 姉の店は開店して四か月。まだ軌道に乗るところまでいっていないという。美容師としてもいい腕をもっているのに、繁昌していた美容院を閉店して、料理自慢の姉が始めた店であるから、なんとしても成功してほしい。
 姉は、子供の頃から手先が器用で、編物をしても料理をしても、とても上手だった。母の料理の手伝いは姉が担当した。私はもっぱら風呂炊きとマキ割りの係。料理の腕を磨いた姉は大人になって役にたったけど、私の磨いたマキ割りの腕は、いったい何になったのだろうか。

 私が何か作るたびに、姉からから「おまえの作る料理はなんかうまくないんだよね。何が足らないのかわかんないけど」と言われてきた。それでたった一人、私の料理を「ウマイウマイ」と誉めて、食べてくれた男性と結婚してしまったのだ。
 ケニアから帰ってきて、むこうで知りあった人たちと写真の交換会などをしたとき、会場を何度か私の部屋にして、料理といえるほどのものでないにしろ、いろいろテーブルに並べたら、Tさんは「ウマイ」といったのだ。

 結婚後、おたがいにグルメ嫌いであることがわかった。Tさんは「本当の味もわからない若い女性たちが、グルメとか何とか言って食べ歩きしているのを見ると腹が立つ。そういう人に限って、アフリカの飢えている人がカワイソウなんていって、ちょっと寄付でもしてそれですっかり飢えた人のことは済んだ気になって、翌日からはまた、百人分千人分の飢えを救うお金を一回の夕飯につぎ込むんだよ。」といって憤る。まあ、これはよろしい。

 問題は「ぼくがグルメじゃないっていうと、味がわからないんだろうって思う人もいるけど、そうじゃないんだ」というTさんの主張。

 ぼくにもウマさはわかるよ。ただ、ぼくにとってマズイと思う食べ物はあまりないんだ。ぼくには「ウマイ、とってもウマイ、ものすごくウマイ、の三つの基準しかない。世間のグルメは「マズイ、フツウ、ウマイ」の三つの基準だから、ウマイものはたまにしか食べられないけど、ぼくは毎日ウマイものを食える。食生活に関しては、ぼくのほうがグルメよりしあわせなんだよ。」という発言。

 道理で結婚して以来、食事に文句をつけられたことがなかったが、「君の料理はウマイ」と言われて結婚してしまった私の立場はどうなるんだ。「ウマイ」は一番下のランクであった!

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もんじゃ(文蛇)の足跡:(2004年10月のツッコミ)
2004/10/17晩 栗とキノコの炊き込みご飯 とうふステーキ ササミとレタスサラダ かぶ浅漬け けんちん汁 デザートりんご → 栗はレトルトむき栗 けんちん汁具は、豚肉大根人参ごぼう豆腐油揚げこんにゃく昆布。

2004/10/18晩 秋刀魚のお造りと胡瓜の青じそあえ 鯛だんご潮汁 かぼちゃ煮物 きゅうり浅漬け デザート柿 → 秋刀魚(新秋刀魚刺身用というのが一匹58円)を下ろして小骨を抜いてものすごく手間がかかったのに、娘は「小骨が残っていた!」と文句を言う。鯛のあらを湯引きして魚肉をこそげて団子にする節約料理、これも「母の料理、おいしいんだけどさあ、いまひとつツメが甘い。また小骨があった」と文句。自分で作れ!

2004/10/19 ロールキャベツ(冷凍)トマトソース煮 パエリア もやしサラダ デザート フォンダンショコラ(娘がベアードパパでバイトしている友達からもらった)
→ 生協の冷凍簡単パエリアに冷凍シーフードミックスを増量した、我が家流これでもかシーフードパエリア

というようなラインナップで、働く母は冷凍品やレトルトを活用してます。味はもちろん「うまい!」


もんじゃ(文蛇)の足跡:(2012年10月28日のツッコミ)
 2007年に娘が夕食担当になって以来、私が作るのは、「主菜、副菜のほかのもう一品」を付け足す程度。24日は、久しぶりに献立ぜんぶを作りました。

10月24日水曜日に私が作った夕食 3人前:
・ゆで豚(ロース300gバラ肉塊400g)圧力釜で加熱しただけで、ポン酢をかけて食す。私と息子は豚肉200gずつ。娘は300gを食べきる。食べ過ぎです。
・ゆでキャベツ ひと玉を肉といっしょに圧力鍋にいれ、蒸し煮。肉といっしょにポン酢で食す。ひとり四分の一玉ずつ。四分の一は、私の朝食用に残す。

・挽肉つみれ汁。挽肉250g葱一本の微塵切りとしょうがひとかけの微塵切り、卵2個、片栗粉小麦粉を入れてかきまぜる。にんじん1本、大根4分の1本、生わかめ300g、レタス半玉を、ゆで豚作ったゆで汁で煮る。スプーンで汁に団子を落とす。固形スープとガラスープの素、塩で味つけ。白髪葱をちらす。5リットル圧力釜ひと鍋分できたので、翌朝の分、25日の夕食にも食べた。

・アボガドサラダ アボガド3個、胡瓜1本、賽の目に切る。レタスちぎる。市販のクリーミィナッツドレッシングであえる。

・デザート 西船橋の駅構内店で買った、「フルーツタルト5個入りおためし千円セット」というのを、梨、林檎、ナッツなど、じゃんけんによる争奪戦で、私と息子は一個半ずつ。娘は2個食べる。食べ過ぎです。

 わが家の食卓、なにしろ量が多い。たぶん、食べ過ぎ家族だろうけど、娘が言うには、「レストランの食事、おいしいのもあるけれど、2人前食べないとおなかいっぱいにならないから、不経済。多少みためはおちても、家で食べるのが一番」。

 それでも、夕食担当の娘、「ごはんは、お米三分の二、マンナンライス三分の一でたくことにした」と、今月から「こんにゃく入りご飯」になりました。カレーライスとか、丼物のときは、こんにゃくがごまかされて、おいしさは代わらない、という結論。
 まあ、こんにゃくライスでがんばるより、何よりその食べる量を減らせっていうことなんですけれど。
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月27貴花田宮沢りえ婚約」

2012-10-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/28
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(11)20年前の今日、何をしていたか1992年10月27日「貴花田宮沢りえ婚約」

三倍速録画再生日記「Golden bough」
1992年十月二七日 火曜日(晴れ)「貴花田・りえ婚約の報を見て、ぶっとんだこと」

 朝刊、第一面に「貴花田・宮沢りえ婚約へ」のみだし。「西武優勝」ぶっとぶ、大ワイドショウネタだ。
 折もよし「ワイドショウは奥様バカ扱い」という投書への反論として、読者投稿欄に三十五歳・翻訳業という男性が、「ワイドショウこそ貴重な番組」という、これもかなりな意見を書いている。一日に四、五時間ワイドショウを見るそうだから、私なんかが、お茶碗洗いながら横目でテレビ見て「ワイドショウ評論家になれるかしら」なんて思ったのはおこがましいことであった。

 夫は「しかし、一人前の仕事をしている男が『芸能ニュースを見て、ある一人の人間の生きざまを知らされ、これを自分の生き方との糧とします』なんて言っていいのかなぁ、ワイドショウ見るやつはバカ扱いされてる、といわれたら、そうだ、オレはバカだよって笑いながらワイドショウ見たらいいのに。」と言う。

 私なんて「大衆はバカだと思って番組作っている人たちが制作したその番組を、真剣に見てやっている一般庶民はエライ!」って思ってみてるもんネ。
 「大衆をちょっとモノ知りにしてやろう」なんて利口めかして番組作ると「ドキュメンタリーのヤラセ」になっちゃうわけで、バカな番組をバカにされながら見るのが、テレビの正しい視聴法であろう。

 さあ、今日も一日ワイドショウ見なくちゃ。

 それにしても、あのオッカサンが「メシのタネ」のりえを、あっさりヨメに出すものだろうか。りえママは、りえが裸になったから、名プロデューサーとしてエッセイも書けるわけで、女優はヌードになれるけど、裸で稼ぐ関取のおかみさんは裸になっちゃいけないんだから、今度は何を「売り」にしたらいいのだろうか。

 愛娘をよりビッグにするためには、ふんどし姿やヌードで売ることを思いついたりえママのことだもの「大人の女」へのイメージチェンジのためには、貴花田との結婚、離婚、再び芸能界へ、くらいのシナリオは書いているのではないかと思ってしまう。

 もっとも、松坂慶子親子がもめるのなんか、めしのタネだった娘を、あまりにも小物の売れないミュージシャンにとられてクヤしいというところからきているのだから、貴さまほどのビッグ・サラブレッドなら文句はない、とママも思ったのかもしれない。私も文句はない。(私が文句いっても仕方ないか)

 それにしても、結婚式のお色直しは二人してふんどし姿というのはどうだろう。夫唱婦随のうるわしい衣裳。『仮面夫婦』なんかにはなりません、真実を見せあう赤裸々衣裳、はやるかもしれない。(貴様りえ様以外の裸なんか結婚式で見せられたらたまんないな)

 今、日本で最も光輝く肉体を土俵の上で披露するプリンスと、日本で一番光輝く肉体を写真集に燦然とと記録したプリンセスが結婚するのである。めでたきこときわまりなし。

 午後のワイドショウは、なんといっても「タイム3」の勝ち。6チャンネルスーパーワイドの蓮舫の小生意気な感じも好きで、いつもはリモコンかちゃかちゃザッピング、あちこち回しながら見るのだが、今回は、五月収録の東京湾クルージング「りえ若貴船上デート」が二人の恋に火をつけたとかで、二人仲良くカラオケを唄ったりの画面があるのだから、テレビ朝日などが「二人は三年前に某新聞の対談記事で知りあい、今年五月の他局テレビの対談番組で親しくなった。」などとマヌケな解説しているなか、フジは当の対談を放映しているのだから強い。

 ワイドショウが竹下派抗争なんぞ目じゃなく、二人を追い回すのは当然として、宮沢総理も「祝電を打ちたい」とコメントしたそう。派閥は二つに割れるがよし。二人は一つにくっつくがよし。

 貴さまのインタビュウは、たいへんによろしかった。土俵の上で見せる厳しい精かんな顔とも、りえちゃんとカラオケ唄ってハシャグ笑顔とも違う、りりしく、落ち着いた感じで、この顔なら、りえママの思惑がどうだろうと、この結婚はうまくいくのではないだろうかと思った。

 だいたい、昨日今日の若貴ファンとは年期が違う。一九五六年公開の『土俵の鬼・若ノ花』を見たのは、だぶん、封切一年くらいたった後の、地方館で上映されたころだったと思うけど、(新作映画がわが町に回ってくるのは封ぎり後一年後、二年後のことだったから)あとはリアルタイムで「若ノ花全勝優勝」から「兄弟の縁を切って花田末弟入門」から「花田光司君少年相撲で優勝」からずっと、見続けている花田ファミリーフリーク。阿佐谷の成田東に住んでいたときは、二子山部屋のご近所だったのだ。(なんてことをイバッてみてもしょうがないが)

 もっとも、若ノ花全勝優勝をリアルタイムで体験したというのは、実は真実ではない。若ノ花が最初に全勝同士で栃錦と千秋楽決戦を行なったとき、私はラジオにしがみついていた。仕切り直しが続き、刻一刻と時間が近づく。「若ノ花優勝!」のアナウンスを聞きたい、しかし、もし負けてしまったらどうしよう、そのショックに耐えられるだろうか、悲嘆のあまりどうにかなってしまうのではないか。ついに私は緊張に耐えられなくなり、「ちょっと自転車で一回りしてくる。もし勝ったら、帰ったとき教えて」といって家を出た。

 帰ってから優勝の知らせを聞いたとき、激しく後悔した。若ノ花一世一代の花道、最初の全勝優勝の瞬間を聞きのがしてしまったのだ。どうして聞いていられなかったのか。本当のファンなら優勝を信じて、聞き続けたのではないか。自分の胸が苦しくて息ができないくらいになったからといって逃げてしまうなんて、当の若ノ花はもっと苦しい緊張に耐えていたのではないか、等々、どっと後悔が押し寄せた。

 それ以来、貴ノ花なんかハラハラすることばかりだったけど、どんなに土俵際に追い詰められても、目をそらさず花田ファミリーウォッチングを続けてきたのだ。(と胸を張るほどのことでもないのだが)

 ともあれ、貴さま御結婚めでたし、めでたし。これで二人の間にお世継が御誕生となれば、老後の楽しみが増えるというもの。どのような、輝く肉体の持ち主が生れることであろうか、私の「身体論」のページをあけて待つことにする。


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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/27のつっこみ

 いやはや20年の歳月は早い、早い。りえちゃんは、一回り大きな女優として花開き、母となって、離婚係争中。
 貴乃花は、同い年りえを捨てて、9歳年上の河野惠子と結婚。現在貴乃花は弟子たちといっしょに部屋に住み、親方夫人は自宅に子ども達と住んでいるのだというけれど、夫婦仲はうまくいっているんでしょ。よく知らないけど。はなだママのおっかさんも若い恋人との艶聞でがんばっているし。
 貴乃花部屋は一時の低迷から除々に上向き、角界改革をめざして理事となり、次の理事長をねらっている。たぶん、なるんじゃないか。

 才能あるふたりが、破局を乗り越えて自分の道を歩いていて、ミーハーファンとしてもうれしい。
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月26日かっぱ橋」

2012-10-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/27
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(9)20年前の今日、何をしていたか1992年10月26日

1992年十月二六日 月曜日(晴れ)「カッパ橋へ行ってから、本の衝動買いをすること」

 午後、浅草カッパ橋道具街へ行き、春日部の姉の店のおつかい。
 一人前用のステンレス鍋を四つ買った。道具街をひやかすのはなかなか楽しい。
 ここの道具は、飲食店用の器具や飾りなどが多い。なかには食品の蝋製見本店にパーティのデコレーションに使うようなものもあるが、たいていは実用本位の道具だ。
 今日は鍋を買うことと、赤ちょうちんの値段を聞くことが用件で、用事だけ済ませてすぐ帰ったが、そのうちゆっくりと道具街散歩もしようと思っている。

 赤ちょうちんについて、店の人からいろいろ話が聞けた。
 ちょうちんそのものの値段はそれほど高いものではないが、そこに文字を書く職人がいなくなり、今は七十歳の老人ひとりだけ。

 松ヤニなど八十種のものを調合する墨が秘伝中の秘伝で、その老人以外に知る人はなく、他の墨で書いたちょうちんは、一年もたたないうちに熱によって墨の部分に穴があくのだという。一文字千円の割で書くので、五文字入れれば、ちょうちんの値段プラス五千円、屋号など入れれば、さらに五千円という具合に高くなるのだそう。

 道具街では、頼まれたもの以外に目もくれず、さっさと帰宅して例文カード作りでもしようと思ったのに、駅を降りたら突然、禁断症状がでて、本の衝動買いをした。ブックス・オークラで、文庫と新刊、計九冊六千五百円。古本屋で百円の文庫と新書など計九冊千三百八十円。さすがに古本屋は安上りだ。

 新聞の新刊広告などで著者や出版社のチェックをいれ、おもむろに買いに行くのとちがい、棚を見渡して、とにかく目についたタイトルの本を買ってしまう衝動買い。

 これは「エサ」だ。高知能の類人猿アイと異なり、私はごほうびのエサを与えられないとオベンキョウができないのだ。(類人猿以下)
 「論文執筆が終わったらこれだけ読もう」という褒美のエサを目の前に積み上げて、エサをちらちら見ながら、よだれをたらしつつ、カード作りをするのだ。

 前にバザーで五百円で買った小林秀雄『本居宣長』や古本屋で買った色川大吉『明治精神史』も、ご褒美用にツン読であったのだが、これまでのご褒美エサに加えて、本日の衝動買いで、ご褒美リストが増えた。

 単行本 大江健三郎『人生の習慣』椎名誠『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』
文庫 瀬戸内寂聴『女人源氏物語第一巻~三巻』吉本隆明『源氏物語論』沢地久枝『遊色』永畑道子『華の乱』以上新刊本屋。丸谷才一の『猫だって夢をみる』は九十年に読んじゃった本の文庫化なので、リスト外。古本屋では、単行本、吉武輝子『舞踏に死す』文庫高田宏『言葉の海へ』井上ひさし『巷談辞典』山口瞳『小説吉野秀雄先生』あとは、例文切り抜き用に三島と芥川を買った。

 新書、池上嘉彦『記号論への招待』や、ドン・ボスコ社という聞いたこともない出版社からでている、やなぎやけいこ『マザーテレサ』たぶんキリスト教関係の出版社なのか、代表者名はアルド・チプリアニ。著者はアルゼンチンに留学していた、と略歴にあるので、中南米関係の本を出しているのかもしれない。山崎浩一『なぜなにキーワード図鑑』これは、電車のなかで読む本にする。
 十月五日に大学生協で買った『南方熊楠コレクション』もご褒美用。

 その他のご褒美リスト、ラフカディオ・ハーン『日本の面影』スウェン・ヘディン『さまよえる湖』岩田慶治『カミの人類学』沢地久枝『石川節子』大岡昇平『歴史小説論』中沢新一『蜜の流れる博士』石牟礼道子『花をたてまつる』森淳『アフリカの陶工たち」中田正一『国際協力の新しい風』


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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/25のツッコミ
ツンドク用になるのを承知で買い込んだ本のリストを見て、そのまま20年積まれている本があるので、なにやらなつかしい気がした。大岡昇平『歴史小説論』中沢新一『蜜の流れる博士』山口瞳『小説吉野秀雄先生』、まだ読んでおらず、捨ててもいない。

 やなぎやけいこ(柳谷圭子)を、「やなぎけいこ」と誤記していたのだが、検索で確認したところ、柳谷圭子であることが判明。私がワープロをパソコンに変えたのが、1995年。電話回線でとても遅かったので、調べ物は事典類をひいたほうがはるかに早かった。インターネットをつかいこなすようになったのは、常時接続ができるようになった2001年以後のこと、20年のちに、こんなに調べ物が簡単にできるようになるとは、思ってもいなかった。「やなぎけいこ→やなぎやけいこ」の誤記訂正。

 ほかにも20年前のまちがいは多々あるだろうと思うけれど、基本的な人名命の間違いなどのほかは、誤記誤変換は、そのままにしておく方針。誤記があったとして、それがそのときの私の頭の中味なので。
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ぽかぽか春庭録画再生日記1992年10月25日「万華鏡を読む」

2012-10-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/25
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(8)20年前の今日、何をしていたか1992年10月25

1992年十月二五日日曜日(晴れ一時雨) 「『万華鏡』を読んで「魂の新生」について思うこと」

 朝日新聞日曜家庭欄の随筆、遠藤周作の『万華鏡』が今日で終り。この欄、藤原新也とか中野孝次とか、好きな作家が担当していたときは欠かさず読んだ。
 『万華鏡』も割合熱心に読んだ。中心のテーマのひとつが「超常的人間心理」。「虫の知らせ」とか「幽体離脱」についてとか。

 人の心はまことにマカ不思議で、通常の考えでは思いも寄らぬ現象がおこるが、私は通常でない時の心理学に興味があるので、あまり不思議とは思わない。たとえば幽体離脱は比叡山の僧の修行の中で、身体を極限まで痛めつけて、死との境目になったときにおこるという。
 僧の意識は肉体を離れ、自分の肉体を上空から眺めることができるという。幽体離脱は、マカ不思議なできごとではなく、人間の極限心理のひとつなのだ。宗教心理学や超常心理学などを学べば、トランス状態やきつねつき状態、予知能力など、かなりの「超常心理」に説明がつく。

 『万華鏡』最終回は「病気」と「癒し」の問題について述べてあった。「病気」というのは人間にとって、最も「死」に近くなるチャンスで、病気中の心理、回復期の心理はたいへん興味深い。

 千葉敦子さんの『乳ガンなんかに敗けられない』には、入院中に読む本のリストにスーザン・ソンダクの『陰喩としての病気』があげられていたが、遠藤周作が『万華鏡』で紹介している玉谷直実さんの『乳房よかえっておいで』はなかった。千葉の死後でた本なのかもしれない。

 玉谷さんはユング派の心理療法家で、自身の病気体験から、病気によって起こる不安や恐怖の心理、病気を受け入れて新しい生が生れ、人生の見方に変化がくること、などについて書いてあるという。

 病気と新しい生について、大江健三郎が『文学再入門』の第一回目でまったく同じ事を書いている。大江は、ラスコーリニコフと時任謙作が病後に「魂の新生」を体験したことを述べ、『罪と罰』『暗夜行路』という二つの小説が「大病からの回復」と「生との和解」を説得力をこめて語っていること、これが、私たちの再生を思い描かせてくれる未来のモデルであると、結んでいる。

 生物は「DNA」を運ぶ「乗り物」で、生物の一生の最も大きな目的は、自己のDNAを利己的に維持し、保存することだという。人間もまたしかり。自己のDNAが消滅の危機にたたされる「病気」という状態が、人間の魂に大きな影響を与えずにはおかないだろう。

 病気によって、超常的な心理が現われたり、「魂の新生」を感じたり、すべて、DNA消滅の危機によって人の心が激しく揺り動かされるから起こることなのだ。
 病人に関わる人は、これまでのように身体の回復のみでなく、魂の「癒し」を考えていかねばならない、というのが遠藤の主張。イエスが奇跡によって病気を直したのも、まさしく、この「癒し」の力によるのだろう。精神への働きかけによって、自己免疫力も高まるし、魂も新生する。

 私自身が死に瀕したのは一度だけだが、そのとき私は自分が死ぬかもしれないとは知らなかったので、魂のドラマも生まれなかった。息子を生むとき、私は三十九歳の高齢出産、前置胎盤。予定日より四十日早く破水、出血。十日間の絶対安静でベッドに括りつけられていたが、母子ともに危険な状態になって帝王切開で出産した。赤ん坊は仮死状態だったが、私自身が死との境目にいたのだとは、思ってもみなかった。

 夫は医師から「出血多量の場合死亡という結果もあるが、母親の命だけは助かるように最大の努力はします。しかし、運のないときは、二人ともダメだろう。」と告げられたそう。私は自分が死ぬ危険にあるとは知らず、たとえ、障害が残るようなことがあっても子供の命だけは助けてほしいと念じていた。医師が心配したより出血が少なくて、運よく、母子共に生存できたのは奇跡的なことなのだった。感謝感謝。

 帝王切開手術時の出血量「多量一二二五ml」と書いてある息子の母子手帳の記載も、これまであまり気にしたことがなかったが、千葉さんの乳ガン切除の際の出血が二百mlと書いてあるのと比べても、「そうか、1リットル牛乳パック一本よりたくさん出血したのか」と改めて驚いたくらい。DNA存続の危機に際して、のんきなことであった。

 病気と回復による再生の経験はできなかったが、「文学再入門」は来年から実行。大江健三郎は私の魂の教師なのだ。大江を読み始めたのは、『飼育』で芥川賞をとってから十年もたってからのことだ。もしかしたら『個人的な体験』をよんでから、初期の作品を読んだのかもしれない。今思うと、大江が障害のある子と共に人生を歩んだことが、私にとって、あるいは全人類にとって救済であり、「癒し」であった気がする。

 人間もまた生物の一種であり、人は「DNAの乗り物」にすぎない。が、この乗り物はなんと多様で奥深く、興味つきない乗り物であろうか。
 人間こそ最も興味深い「未知なるもの」であり、これを探り、ひとつでも多く未知を既知とすることが私の「欲望」である。

 知るための手段・方法として「文学」があり「文化人類学」があり「歴史」「考古学」「民俗学」「言語学」「美術」「宗教学」「心理学」etc....
 ああ、知りたいことがいっぱい。読みたい本がいっぱい。早く修論書いちゃおう。

 そして私が取り組みたいのは、「身体論」がひとつ、「言語文化論」がひとつ、「女性史」がひとつ。身体論と言語文化論のフュージョンとして、舞踊や演劇があり、女性史と言語文化のフュージョンとしてまずとっかかりたいのは、言文一致期の女性文学。稲舟を中心に調べるところから始めるつもりだ。

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/25のつっこみ

 大江が日本人として二人目のノーベル文学賞を受賞したのは1994年。それ以後の作品に関して、私はよい読者ではない。エッセイは読むけれど、小説はほとんど読んでいない。
 好奇心、蘊蓄さがしの読書にとって、最適だった丸谷才一の蘊蓄エッセイ、好きだったけれど、2012年10月13日没。享年87歳。
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月24日新聞コラム欲望論を読む」

2012-10-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/24
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(8)20年前の今日、何をしていたか1992年10月24日10月25日新聞コラム欲望論を読む

1992年十月二四日土曜日(雨)「『欲望論』をよんで、無欲は難しと思うこと」

 午前中、文庫本の切抜。例文カード作り。『青葉繁れる』一冊も終わらなかった。こんなに時間がかかるのに、今まで作業がいやで、時間をムダにしてしまった。後悔。
 
 朝日夕刊の「ウイークエンド経済」に野田正彰が『欲望論』というコラムを連載しているがこれがなかなか面白い。

 これまでコイサン語を話す人々(いわゆるブッシュマン)の社会の話を狩猟採集経済時代の例としてあげて、この社会の人間関係と欲望のあらわれかたについて説明が続いてきた。コイサン族の社会では、獲物をしとめた本人に対し、特別な賞賛も特別な分け前もなく、働き手は当然のこととして獲物をとり、当然のこととして平等に分けるという。子供たちの遊びも、ゲームにルールはあっても、「勝ち負け」という概念がない、という。狩猟・採集経済社会には、人間対自然、人間対人間の対立がなく、「共生の社会」であったと。

 今回はヘシオドスの『仕事と日』を題材に、「農耕社会の成立を支えた精神的エネルギーは羨望であったこと、羨望を媒介とする勤勉と蓄財の快楽が農耕社会を今日へと至らしめたこと」について書いてあった。他人の羨望こそが勤勉とその結果である富と名誉を快いものにしてくれるという。

 誰かに誉められようとか、羨ましがられたいとか思わない私たちは、人間社会の常識からずれてしまっているのかもしれない。あるいは、羨望の視点がずれているのか。私が羨ましいのは、「蓄財の快楽」ではなく、マザーテレサとか良寛のように完全な「無私無欲」が実現できる人。

 私は、自己実現の欲望とあきらめの間を、ウロウロしているだけだから。
 夫も私も、他人よりうまいものを食べたい、とか他人より美しく着飾りたい、という欲望は、これまで持ったことがない。「衣食」に関する欲望が稀薄だった。朝、「この靴下穴が開いているよ」と夫が言ったとき、心優しき妻は「靴を脱がなきゃわからない」と答える。夫も「そうだそうだ」と納得してそのまま出勤する。しかし、類人猿と人間には、「未知のものを知る欲望」というものがある。

 象やライオンに芸を仕込むとき、芸ができたとき与えるごほうびのエサなしに仕込むことは不可能だそうだが、高知能を誇る京大のチンパンジー「アイ」は、「できた」という達成感を味わうために学習し、褒美のエサは二の次だそうだ。「知りたい」という欲望はシッポと引き換えに類人猿にくっついたのだろう。

 私の欲望の第一のものは、「未知を既知にする」こと、すなわち「知りたがりの知ったかぶり」「好奇心」である。第二は「人とのコミュニケーション」。直接会話をかわすということ以上に、文章を通じての会話、つまり「本」。この二つの欲望は断ち難い。

 以前は「うまいものを食べたい」という欲望は素直に受け取られるのに、「本を読みたい」という欲望は、何か特別なものというか「教養主義のいやらしさ」のように受け取られてきたが、このごろ「本を読むのもマージャンするのもみんなおんなじ趣味のひとつ」として、平等に扱われるようになったのは喜ばしい。

 「欲望」こそが社会を維持し、人間に生きるエネルギーを与えるという。修論がおわったら読みまくるゾ!

本日の家訓「欲望という名の電車に乗り遅れて遅刻」


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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/24のつっこみ
 
 あれも食べたいこれも読みたい、あの絵も見たい、この映画も見たい。欲望は今も限りなし。行きたい、踊りたい、愛したい、、、、、という欲望にまどいつつ生きてきて、2012年10月23日火曜日は、突然のどしゃぶりで全身濡れ鼠。
の大カバンの中の本をぬらさないように、傘をカバンをかばってさしていたこともあって、横殴りの雨にびしょ濡れになりました。学生に配るプリントやら本やら史料やらをぎっしり入れてあり、5kgのカバンです。重い!

 下着まで濡れたのだけれど、着替えなんて持っていないし、授業がはじまるので、洗面所で靴の中の水をじゃあと流し、ずぼんの水をタオルで拭くのせいいっぱい。傘をさしていてこれほど濡れたのは久ぶりのこと。ゲリラ豪雨とか聞くけれど、局地的な雨で、授業を終えて帰るころには小止みになっていました。

 私のささやかな欲望は、せめて雨風しのいで生きることです。あ~、それからお腹すかない程度の食べ物と、目的地まで歩いてたどりつく足と、、、、あらら、欲望かぎりなし。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月23日「五百色の色えんぴつ」

2012-10-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/23
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(7)20年前の今日、何をしていたか1992年10月23日「五百色の色えんぴつ」

1992年十月二三日金曜日(晴れ)
「五百色の色エンピツは夢かムダかと考えて、またまたムダな一日を過ごしたこと」

 五百色の色エンピツの予約販売の広告をみて、夫と意見対立。
 夫は「十万セット売るというけど、一本百円の計五万円で、どれほどの実売があるのかなあ。この手の商売はバブルはじける前に売り出すべきだったんじゃないのかな。印刷のカラーチャートは千色くらい使うけど、普通、色エンピツで絵を描こうという人々にとって、五百色あっても意味ないような気がするもの。ただながめているだけの色エンピツに五万だすかな。」という。

 私は売れると思った。一か月二千五百円の二十回払いで夢を買って、なんとなくステキな豊かな気分になる若い女性や母娘がこの日本に十万組、いるんじゃないのかな。

 私はその広告の色名ネーミングに興味があった。応用言語学にネーミングの分野があるけど、五百色のネーミングをざっとみわたすと、現代の日本人にとって心地よく響く「色のイメージ」がわかって面白かった。

 ネーミングをみたかぎりでは、購買ターゲットを女性に想定していることがわかる。現代女性にとって「かわいい」「きれい」「さわやか」「あたたかい」などのイメージを与える動物、植物、食べ物、地名、ものと、形容の言葉が組み合されて色名が作られている。

 人物名が案外少なかった。
 人名は「クレオパトラの真珠」「楊貴妃の梨の花」「レディマクベスの夜」「カルメンのバラ」「額田王のあかね」など。「プリンスエドワード島の夏」という青緑色があるのなら、「アンの赤毛色」という赤茶色があってもいいような気がするのだが、著作権やらパテントやらとの関係があるのかもしれない。

 ヒマになったら、色名ネーミングの分析をして、現代女性好みのイメージ調査をしてタイムキリングをしよう。今は時を殺すどころか、強盗をしてでも時をぶんどってこなけりゃならない。といいながら、色エンピツの広告をながめてすごしている。


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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/22のツッコミ

 500色の図鑑、販売側のフェリシモ社の「500色の図鑑」よりずっと見やすくて色の説明が的確なサイト、2003年か2004年にもあったサイト、今でも変わらずネット上にあるので、参考にしています。
http://www8.plala.or.jp/micmac/Fel500/Fel500.html

↑を、春庭好みにネーミングから色分けしたページが
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/12top.htm

色えんぴつを眺めているだけで楽しくなるという同好の士がいらしたら、参考になさってくださいまし。

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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月20日坂口弘の歌」

2012-10-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
202012/10/21
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(6)20年前の今日、何をしていたか1992年10月20日「坂口弘の歌」

(二九九五)1992年十月二十日火曜日(雨)
ニッポニアニッポン事情「坂口弘の歌をみて、我らの世代の共同幻想を思うこと」

 坂口の歌を日曜日の短歌投稿欄にみるようになってどれくらいたつだろうか。受刑者が獄中で作歌を始め、死刑囚の心境を詠んだものなどにすぐれた作品が少なくないことを聞いてはきたが、坂口の歌はまさに「私だったかもしれない殺人者」の絶唱として響いてくる。

 一昨日の日曜歌壇を一瞥。久しぶりに坂口弘の名をみる。このところ選に入っていない週が続いたので、病気なのか創作意欲が衰えたか、と心配していた。

 坂口弘『リンチにて同志の逝きし場面なり気持新たに明日書くべし』佐々木幸綱選

 歌の声調の高さからいけば、彼の他の歌のほうにもっと佳作があるかもしれない。しかし、とにかく彼の名をみるたびに、しんとした思いにひたってしまう。
 「宇宙」が我らの世代にとって上昇イメージの開かれた明るい共同幻想であり、「科学の発達=社会の進歩発展」という図式が、この世紀末に至って破綻したのちも、なお、私にとって「宇宙」だけは明るい夢のまま存在し得た。

 しかしもう一つの共同幻想であった「体制変革」は、東欧・ソ連の崩壊を見る以前に、われらの中ですでに、「あの幻想は、クラゲなす漂うヨミに流された水蛭子にすぎず、夢はとうに醒めてしまった。」というようなことで、了解済みになってしまったらしい。(潰された夢を今なお追うのも自由だが)
 二十年前に「体制変革」の共同幻想を打ち砕き、幻想を悪夢として顕現化したものこそ連合赤軍の一連の事件であった。

 道浦母都子『生かされて存(ながら)うことの悲しみに満ち満ちていむ永田洋子よ
 同 『私だったかもしれない永田洋子 鬱血のこころは夜半に遂に溢れぬ

 私の世代の人々の中で、この道浦の思いに共感しえぬ人もいよう。「永田洋子は私だったかもしれない」と心震えることのない人は、われらの幻想をヒルコに過ぎなかったと笑える人であろう。
 私など、道浦のように真剣に体制変革を夢見たわけでもなく、深く運動に関わったわけでもなく、この時代の若者が「時代の中に生きる当然」としてデモや集会にでた程度の参加であった。

 あまり考えもせず、悩みもせず不和雷同していたにすぎない。逮捕される心配もないベ平連のデモのシッポなどにくっついていく程度の時代への関わり方は、日々を運動にかけて生きている友人からは、「日和見」と非難されノンポリと蔑まれた毎日であった。それでもやはり、「私だったかもしれない永田洋子」という道浦の共感は、私の胸を打つ。

 共同幻想を、赤軍派リンチ殺人事件の悪夢でしか顕在化できなかった、われらの世代。道浦のこの歌は、「世代の悲しみ」といったようなものになって私の胸に沈む。

 閉ざされた集団の中にいるときの、しだいに不穏になっていく心理状態については、ケニアのゲストハウスにいたときに、ほんの片鱗だけにせよ味わった。

 本当に、限られた人だけと限られた場所に追い詰められて起き伏しすると、人は異常を異常と思わないようになり、人格も変質していく。赤軍派のあの状況の中にもし私がいたら、私もまた、リンチ殺人者となるか、または殺され埋められていただろう。今、殺されもせず殺しもしなかった者として私がここに生きているのは、偶然にすぎないかもしれない。

 あのころから二十年がすぎ、六十年代後半と七十年代の再検証が始まりつつある。歴史として見直せる時間がたったということだろう。
 よど号で北朝鮮へ渡った者にも二十年、パレスチナへ行った者にも二十年、永田と坂口にも二十年、そして何もしなかった私にも二十年。

道浦母都子『ああわれらが<共同幻想>まぼろしのそのまた幻となりし悲しみ

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/21のつけたし

坂口弘の短歌 抜粋(小見出しは勝手な編集による)
<リンチ>
榛名山の林のなかの片流れ造りの小屋にてリンチをなしき
リンチせし者ら自ら総括す檸檬の滓を搾るがごとく
思い余り総括の意味を問いしとぞ惨殺される前夜に彼は
この冬の寒くなれかし雪降らばリンチの記憶鮮やかにならむ
元旦のあの日は小屋に小雪降り総括の惨吹き荒みたり
総括をされて死ねるかえいままよと吾は罪なき友を刺したり
落葉見れば落葉踏み分け亡骸を運びし夜の榛名山を想う
なぜ吾の解明努力を君達は認めないのだ同志殺害の
少年は泣き叫ぶ「総括」などしたって誰も助からなかったじゃないか
わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり
リンチ事件を解明せりと糠喜びせしこと過去に幾度ありけむ
凍傷に果てゆく間際「ぺつ、総括をせよだと」と友は吐き捨てて言ひぬ

<死刑判決>
九年前われの新生はじまりぬ死刑判決ありたるこの日
死刑ゆゑに澄める心になるといふそこまでせねば澄めぬか人は
犯したる罪深ければ昼の星映せる井戸のやうな眼となれ
二審にて述ぶるに備え独房にこもりし日日の菜種梅雨どき
走り梅雨来りて房に古びたる訴訟記録の臭いこもれり
被告なれど生ける吾が身はありがたし亡き同志らの言えざるを思えば
リンチにて同志の逝きし場面なり気持新たに明日書くべし
求むるは本質のみの死囚ゆゑ本の多くは底浅く見ゆ
事件には未開封なる事実なしただ解釈が難しきなり
物事はこころ直なれば善き方へ向ふと信ず死囚なれども


<独房にて>
清楚(せいそ)なるフリージアにして果つるいま強き香りを苦しげに吐く
朝日すつと壁に映りて伸びゆけり花開くよと房に見てをり
払ひのけ払ひのけつつ蜘蛛(くも)の巣の多き山下る夢に疲れぬ
クリスマス・イブに保釈で出でし日が岐路にてありき武闘に染みて
過ちを正すレーニンの教えをば全うするは身をも切ること
ひと冬を補充書作りに傾けて彼岸に入りぬ腕立て伏せをす
武闘には意義ありたりと君は言う二十年経て変わらざりけり
壁のほこりを落として房に春を呼びこれより書かむ山荘事件を
あかつきの獄のさ庭に小揺ぎし桜艶めく春のめぐり来
きそ読みし折々のうたの蘇生歌をけさ口ずさむ明日もさあらむ
そのむかし易者が吾をいぶかりておりたりと言いぬ面会の母が
獄蒲のべてふと寂しみぬ独り寝を十九年余重ねしを思いて
逆立ちをして今日のみの運動を楽しみており獄の連休
吾を外に出してゆくての花花を見せむと君は面会に来しや
新しき週のはじめに吾が房の便器洗えばこころ清しも
面会所裏のつつじを抜きしは誰ならむわりなきを悔やむ西行がごと
今われが切りたる爪を黒蟻が運びゆきたり獄のグラウンド
亡き夫もリンチに加担していますかと夫人が迫りぬ真夏の面会
獄に咲く石榴(ざくろ)の花見むと病いつわり医務室へゆかむか
人屋にて日のおおかたを座しおれば脚立て伏せの技編み出しぬ
憂きつゆも今年ばかりは長かれと願えり最後の補充書書きて
熱き湯に浸りて風呂を出でにけりつゆ寒くして舎房の暗く
反派兵デモの後尾に寄り沿わん小菅を去れるものならばすぐ
四十四の歳よさらばと人屋にて桶の張り水に顔を映し見る
検診後噛み締めており御大事にと獄医の掛けたる言葉を幾度も
覚悟せしにまたも延びたる命なり補充書提出期限延長さる
リズムよく鉄扉の向こうで箒掃く音優しくてペンを擱くなり
初雪の降りて納めの手紙を出し年始の明けまで獄門は閉ず
夢のなか母の手首をわが手もて握れば吾より太くありたり
牢に住み目を守れるは目を回す体操のおかげ筋みしみし鳴る
牢に来し君の手紙に謝するなり真剣に生きんとありぬ
獄の春手紙を書けば手袋を脱ぎしわが手のみずみずしさよ
原始なる海をゆったり泳ぎいし夢から覚めて充足があり
外廊下を歩みガラス戸の前に来て老けし中年のわれに驚く
振り向けば窓と格子のあわいにて猫が見ており行きて頬寄す
そこのみが時間の淀みあるごとし通路のはての格子戸のきわ
紙を滑る筆ペンの音の心地よさよ房にも秋はひそやかに来ぬ
始発電車の音する前の真夜中のわが魂遊べる獄の平安
とどまれる秋雨ぜんせん房暗く少年のころふと思い出ず
房より見る箱ほどの空にありたるに仲秋の月見過ごしにけり
身に近くおみなあるさま木犀の香り漂い獄も華やぐ
この手紙あす福岡に着くという不思議を思う獄よりの速達
歩きつつ盗み見すれば独房で物書く被告の姿よろしき
枯るる前茎断ち切りて看視を避けカーネーションを胸に押しおり
十数年ぶりに手にせし労働の果実稿料よ獄に昂ぶる
そを見ればこころ鎮まる夜の星を見られずなりぬ展房ありて
外に出れば女区の桜咲き満てり仕置場望み房に帰らん
歌詠めば豊けくなりて何ものも生まず壊しし武闘を思う
房ごもりつづく連休近づけば庵で蠅とる歌口ずさむ
この年も鈴蘭見せに面会に君来給いぬ夏立ちにけり
獄廊に手錠と足の音のせり裁判に行かずなりて久しも
二冊目の上申書を今日書き終えぬ歌は償いの一部と記して
あと十年生きるは無理と言う母をわれの余命と比べ見詰めつ
つゆ寒の獄舎の夕べラジオより君の名流るリクエスト曲
事件をば書く手休めてしばしおり呼吸の数に時をはかりて
死の記録書きつつおれば夏草を刈りたる臭い房に満ち来ぬ
にわとりの小屋と呼ばるる運動場に覗きて咲ける薊いとしも
向日葵の写真はしまい花をまた買わん人屋に涼風吹けば
獄蒲にて満ちて微睡むひと時よきょう良き本に吾は出会いぬ

<罪と罰>
われら武闘合目的にあらざりき沖縄返還の闘いにおいて
紅衛兵たりし人の本を読みおれば身につまさるる極左の惨
社会主義破れて淋しさびしかり資本主義に理想はありや
疎まるるも堅物に吾はなりにけり連合赤軍の品位たもつと
永久に輝くこと無き過去なれば仄かな影を著しくせん
ドア破り銃突出して押入れば美貌の婦人呆然と居き
山荘事件を書きいる紙に映りたる格子の影に陽炎立てり
雪晴れて格子の雫星のごと輝きくるる吾に一瞬
済まないと風呂に入るたび詫びるなり裸で埋めし亡き同志らに
ああやはり転びバテレンは年老いて告白せりと続編にある
山荘でニクソン訪中のテレビ観き時代に遅れ銃を撃ちたり
活動を始めし日より諫められ諫められつつ母を泣かせ来ぬ
長男が悲しき姿で夢に出しと遺族の方の便りにありき
運動場へ野菊の花を見に行かんリンチの筆記に心乾きて
エル・ニーニョ終りて寒くなるらしき未決最後の冬を迎える
革命の功罪閲する世紀末十月革命も危うく見えて
その前に武闘を精算しておれば奪還指名をわれは拒みき
判決は如何にありとも掘り下げし弁護書面に救わるる思い
世にはやる癒し閉塞なる言葉そんなものではなしとひとりごつ
過ちの分析の途次縊られて断たれむ不安をつね抱きをり
人の為ししことにて解けぬ謎なしと信じて事件の解明をする
高松塚古墳壁画の発見を聴かされてその日われ救はれぬ
挫折せし過激派われが信ずるに足るものは一つヒューマニズムのみ
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月19日宇宙飛行士比較論」

2012-10-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/20
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(5)20年前の今日、何をしていたか1992年10月19日「宇宙飛行士比較論」

1992年十月一九日 月曜日(曇り夕方から雨)「毛利衛さんを見て宇宙共同幻想を思うこと」

 二年後のスペース・シャトル・コロンビアの宇宙飛行士に向井千秋さんが決定した。

 インタヴューに応じる向井さんの言葉はとてもはぎれよく、好感が持てた。同じ群馬の出身で、私より三歳年下。私はとても嫉妬深くて、私にないものを持っているひと、すなわち、才能のある女性と美貌の持ち主、個性豊かで活力のある人、イイ男に愛されている女たちに対して「同じ人間に生まれながら神はなぜ不公平なのだ!」といつも不平タラタラなのだが、向井さんに対しては、心から「こんなすばらしい女性が飛行士に選ばれて本当によかった。」と思えた。

 こんなふうに素直に喜べるのは、ことが宇宙に関わっているからかもしれない。毛利さんも向井さんも私も、小学生のときガガーリンの宇宙からの言葉を聞いた。「地球は青かった」と。宇宙へのあこがれは私たちの世代の誰もが持っている共通の夢だったのだ。 「宇宙へ行ってみたい」と思いながら、また「決して、自分が宇宙飛行士になることはない」とはじめからおおかたの人があきらめていた夢。

 その夢を毛利さんと向井さんがかなえてくれた。と、皆が思ったのではないだろうか。「秋山さんはどうした?」そうなのだ。宇宙を見た第一号の日本人は、秋山豊寛さんなのに。現在は宇宙についての講演会にいそがしく全国をまわって、落ち目のTBSのイメージ回復に努めているはずの秋山さん。なんだか影が薄い。

 秋山さんが第一号なのに、「宇宙飛行士」のイメージとして、私は毛利さんを思い浮かべてしまう。テレビの画面での好みは、人によって秋山派と毛利派に別れるようだが、私は、毛利さんに宇宙飛行士のイメージを重ね、積年の宇宙の夢を託した。なぜなのか。

 ガガーリンの「地球は青かった」以来、あるいは、人によってはスプートニク以来、宇宙は、人類にとって未来への希望だった。二十一世紀へ向かう夢だった。「科学=進歩と発展」という二十世紀の幻想がしだいにほころび、繕い切れなくなってからも、宇宙はなお、私たち人類の共同幻想として存在してきたのだ。

 先ごろNHKでボイジャーの旅を追った特集番組をみた。太陽系の中を旅し、惑星たちの魅力的な映像を地球に向かって送り続けたボイジャー。冥王星の映像を最後に、ついに果てしない宇宙へと旅立ち、二度ともどらないボイシャー。バリ島のイメージと重ねあわされたボイジャーの旅の記録は、まさに神話となり、私たちはすっかりボイジャーに感情移入していた。

 ナサの職員なども、ボイジャーにお別れをいうときは涙をながし、別れをつらがっていたが、まさしくボイジャーは宇宙のオデユッセイアとなっていた。この孤独な旅人の神話は、宇宙共同幻想にピッタリと合っていたゆえ、かくも私たちの心を揺すったのだ。

 宇宙が共同幻想であるからには、宇宙飛行士に対しても共同のイメージが形成されており、このイメージに合う宇宙飛行士が求められる。このイメージテストに、私は、秋山さんより、毛利さんに高い得点を与えた。人によっては秋山さんに高得点をだしているのだが、その採点基準はなにか。以下、傾向と対策を示す。

 第一番に「時間」の問題がある。毛利さんたちが宇宙飛行士に選ばれたのは七年前のことだ。この七年の間私たちは三人の過酷な訓練の様子をテレビでみたり、チャレンジャー事故によって、宇宙への夢が遠のいてがっかりしたり、逐一かれらと共に宇宙への夢を育んできた。

 一方、秋山さんのソ連宇宙船搭乗を私たちが知ったのは、ミールに乗り込むせいぜい一年くらい前ではなかったか。ソ連のことであるから、訓練の様子を私たちが詳しく知ることもできなかったし、秋山さんに感情移入する時間がなかった。

 七年間が長すぎたと思う人もいる。七年間待つのにあきあきした人は、一歩先んじた秋山さんに「効果」。宇宙に関しては、光年単位の長い時間で待てる気の長い私は、「感情移入の時間」で、毛利さんに「有効」

 第二に「顔とスタイル」の問題。これは勝手に「あるべき宇宙飛行士の顔とスタイル」を思い描く私が悪いのだが。秋山さんははっきり言って、典型的な中年のオジサンに見えた。年令は毛利さんも秋山さんも同世代なのだと思うが、秋山さんは顔もスタイルも、年令にふさわしい中年のオジサンだったのに対し、毛利さんはウルトラマン「科学宇宙特別捜査隊」の一員であるかのような、「宇宙」のイメージにぴったりの「科学青年」に思えた。

 宇宙授業の間、毛利さんは宇宙にいることが楽しくてたまらないように見えた。授業の最後に、同僚にくるくる回されてハシャグ彼の姿は、宇宙にあこがれる少年がそのまま大人になったような愛すべく、若々しい、イメージを与えた。

 中年の落ち着きと、年輪の放つ渋さが気に入った人は秋山さんに「有効」。若作り好みの私は「顔とスタイル」で毛利さんに「効果」

 第三番に「目的」と「職業」の問題。秋山さんはジャーナリストであり、宇宙の様子を私たちに報告するのが第一の目的であった。ミールの中にあっては彼にも「報告」以外のさまざまな任務が与えられていたのかもしれないが、私たちの目には彼がミールの「ファーストクラスのお客さん」にみえた。他方、毛利さんは北海道大学助教授の職をなげうって宇宙飛行士に応募した科学者であり、向井さんは医者である。

  毛利さんは宇宙での八日間に八十もの実験をこなし、宇宙滞在が一日伸びた最後の八日目も、うまくいかなかった実験をやりなおす「残業」をやるなど、まさしく勤勉な科学者そのままのイメージを私たちに与えた。

 この「日本株式会社の過労死サラリーマン」さながらの働きぶりは、この勤勉さをプラスと受け止める人には好意的に受け止められ、ちょっとヤリすぎと思う人には不評。「職業と目的のイメージ」で毛利さん「技あり」

 第四に「宇宙からの言葉」の問題。秋山さんはTBSの社員であり、「日本人による最初の宇宙映像を送る」という社命をかけたプロジェクトを背負っていた。
 彼の宇宙からの最初の言葉が「これ、本番ですか」だったことは、ユーモラスにおおむね好意的に受け止められたようだが、私はこの言葉を聞いて、秋山さんの目的の一番のものが「TBSの社運」だったという印象を受けて、シラケてしまった。

 日本の宇宙開発事業団がナサに宇宙飛行士を送り込むのだって、お金をずいぶん使っているのだろうが、私たちの目には毛利さんたちの個人的な努力が前面にうつる。

 ところが秋山さんの場合、彼もいろいろ努力をしただろうに、前面にでてくるのは「放送界で落ち目のTBSが、世界で落ち目のソ連から、ミール搭乗券を金で買った」という印象なのだ

 毛利さんの言葉の中で最も印象に残ったのは、地球の大気について。オゾン層の穴については、ときどき環境破壊の例として取り上げられるので「地球の危機」というイメージを持っていたが、大気そのものについては地上にいるかぎり、無限に地球を取り巻くようなイメージを持っていた。

 しかし、宇宙のかなたからの報告では、大気とは地球の引力によってかろうじて留まっている、薄い、薄い空気の層にすぎないという。そういわれて初めて、大気を宇宙から見るイメージがわいた。大気層は百キロの厚さで地球をとりまいている。身長百五十センチの私にとって、百キロは無限に思えたのに、三百キロ上空のスペースシャトルからは、はかなく薄いべールをまとっているようにみえるのだろう。

 宇宙からの帰還後のテレビ出演では、秋山さんに一日の長があるのは当然だ。彼はテレビが求めるものを知っており、テレビむきの「うける」会話ができる。他方、毛利さんは帰還後もマジメな一方の「NHKむき談話」をくり返し、優等生ぶりを発揮した。
 この優等生ぶりっこが気にいらない、と言う人は秋山さんに「技あり」。大気について教えられた私は毛利さんに「有効」。

  第五に家族の問題。一八日の朝日朝刊の「人」欄に登場したのは、毛利夫人彰子さん。だいたいこの欄に「何々の妻」などという肩書きの人物が登場するのはそうあることではない。「だれそれの妻」というのが肩書きとして通用してよいのは、夫の仕事を成立させる力が当の夫以上に妻の力によるものではないかと人々が思ったときだ。

 藤島部屋のおかみさんとか、落合三冠王のときの威勢のいい奥さんとか、離婚前の井上ひさしに対する好子さん、とか。毛利夫人は「宇宙飛行士の妻」という肩書きで紙面に登場した。

 打ち上げの日の「難産の末に赤ちゃんを生んだみたい。最高に幸せ」という彰子さんのコメントをテレビでみたし、帰還の日に夫に寄り添う嬉しそうな笑顔も見た。聡明ながらひかえ目で、いつも夫の後ろでしっかりと夫を支えている、という「科学者の妻」のイメージを絵に描いたような女性であり、三人の子供たちも賢く健康そうな坊やたちで、ナサ推薦の「モデル宇宙飛行士の家族」のような一家であった。

 この家族は一丸となって、過酷な訓練や、シャトル搭乗決定までの長い日々を乗り越え、共通の夢に向かって団結してきたのだろう。夫の夢を家族全員が理解し、その実現へ協力できるなどということは、現代の家族関係稀薄化の世界でそうあるものではない。毛利一家の姿は、家族論研究者にとっても得難いサンプルと映ったろう。

 秋山さんの家族は表にでていないから、わからない。「家族のイメージ」不戦勝で毛利さんの勝ち。

 というようなことで個人的好みからいって、「宇宙飛行士」は毛利さん。
 以上で「宇宙飛行士イメージテスト」傾向と対策終わり。次回テストは二年後。模擬テストに備えて予習をしておくように。礼!

本日の家訓「とぶのがこわい?みんなでとべばこわくない」

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/20のつっこみ

 2012年の毛利衛宇宙飛行士は、JAXAの宇宙環境利用システム本部有人宇宙活動推進室長、日本科学未来館館長、財団法人日本宇宙少年団団長、東京工業大学大学院総合理工学研究科連携教授というそうそうたる肩書を持ち、全国から引きも切らぬ依頼に応じて講演やらで忙しい毎日らしい。
 一方の秋山豊寛は、福島で農民となって有機農業に取り組んでいたけれど、2011年3月、原発難民となって、福島には帰れない身。ただし、そこは「世界ではじめて宇宙から報道を行ったジャーナリスト」であるから、路頭に迷うなんてことはなくて、2012年には京都に定住して京都造形芸術大学芸術学部教授に就任。
 さて、現在の好みからいうと、秋山さんかな。
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月18日身体論」

2012-10-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/18
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(4)20年前の今日、何をしていたか1992年10月18日「身体論」

(二九九七)1992年十月一八日日曜日(曇り)日常茶飯事典(ジャズダンスを踊って「身体論」を思うこと)

 「ふるさと区民祭り」の出し物として、ジャズダンスサークルAダンスィングも十分間の割り当て時間を受けて、日頃の練習の成果を発表した。
 三曲のうち、私は「ウォント・ビー・ロング」「アメリカ・アメリカ」に出演。
 出演者の動きがバラバラでそろっていないし、身体指先は伸びていないし、観客に見せる踊りにはなっていなかったが、四十代五十代のオバサンたちは大いに楽しみ、ダンサー気分で舞台に立った。

 娘は、おねえさんらしくよく弟の面倒をみてくれ、二人でお母さんのダンス発表を見ていた。

 練習は毎週水曜日午前中、文化センターで、ミワコ先生の指導を受けている。週一回では身体をほぐすところまでで終ってしまい、踊りが上達するところまではいかない。このサークルの仲間たちは、指導してくれるミワコ先生の教室に通ったり、他のサークルの練習にも顔を出すなどしている。

 私も週二回は練習したいのだが、したいことをするのが主義にしては、これまでちょっと遠慮してきた。修士論文を書くため日本語教師の仕事をやめたあと、現在、自分自身の収入がないのだ。サークル会費も自分のカセギから出しているのではないという弱みもあったし、娘の週二回のスイミングには「身体が健康丈夫になって、おおいにけっこう」というTさんが、ダンスにはいい顔をしないという事情がある。

 水泳は身体を鍛えるスポーツだが、ダンスはオンナコドモの遊びである、とTさんは思っている。「身体を動かしたいなら、ジョギングをすれば、ただですむし、新聞配りながら走ればお金が貰える。ダンスというのは不必要ゼイタクな遊びである。」というのがTさんの見解なのだ。

 新聞配りながらジョギングすると充実した気分になれる人もいるだろうが、私にはジョギングは合わない。私の心は潤わない。
 ダンスは私の心を解放し、生活に活力を与えてくれる。子供の頃からスポーツが嫌いだったTさんには、身体を動かすことの喜びがわからないのだ。

 良寛さんだって、村の子供たちと鞠をついて一日すごしたし、賢治も生徒たちとレコードのベートーベンを聞いて楽しんだ。「心楽しく過ごすこと」が貧乏生活継続には大事。
 橘曙覧の「楽しみは」の歌には「心楽しく生きる喜び」にあふれているが、私の心を豊かにするもののひとつがダンスなのだから、Tさんが何と言おうと、私はダンスの練習をつづける。

 私の母方の祖父は、農民歌舞伎の役者をするのが趣味だった。農閑期には義太夫を語り、踊りを踊った。ときどき母に連れられて、祖父の演じる忠臣蔵や先代萩の舞台を見にいった。今、妹は「親子劇場」の会長をしているし、姉はエアロビクスのレッスンに通っている。芸能好きの遺伝子があるが、好みはそれぞれ。

 姉のエアロビのレッスンにくっついて、無料レッスンを体験したが、私には合わなかった。私が一番好きなのは、イサドラ・ダンカンやマーサ・グラハムの流れのモダンダンス。次がジャズダンス、その次がクラシックバレエ。
 エアロビがなぜ楽しくなかったか。エアロビクスの基本はスポーツ。身体訓練がメイン。
 世界大会などで優勝するような演技は、観客にみせる要素をもっているが、普段の練習は表現ではなく「体操」だ。ラジオ体操と変りはない。ではダンスにあってエアロビにないものはなにか。

 ダンスの本質は「神への接近」そして「観客とのコミニュケーション」なのだ。この接近や交流を生み出すのは、旋回と跳躍の動き。ダンスの根源は旋回と跳躍!
 世界中の宗教的舞踊でも、神に近づく動きは旋回と跳躍に極まる。

 エアロビにはこれがない。またエアロビの移動は左右前後の対称的動きのみ。エアロビの移動は歩行の移動と同じ。しかし、ダンスの移動は身体による空間の把握である。

 詩は舞踊、散文は歩行という比喩があるが、逆に言えば、エアロビは散文、ダンスは詩であろう。

 ダンスの根源は旋回と跳躍、ということに自分の身体を通じて気づいたのは、エアロビを体験したおかげだ。
 このことはどんな舞踊論、身体論にも書かれていることであり、一五年前に市川雅さんの舞踊論の授業を受けたときにもたぶん講義の中にあったのだろう。しかしその時は、頭の中でわかっただけで通りすぎてしまったのだ。

 石福恒雄『身体の現象学』をパラパラと読み返してみた。(この本を読んでいる場合じゃないと思いながら読む)

 シュトラウスの舞踊論にいわく、『舞踊においては胴の動きが舞踊の動き全体を支配する。舞踊は空間的時間的な限界を持たず、エクスターゼに達するときにのみ終わる。』
 バレリーいわく、『踊り子はすべてを表現している。愛も海もそして人生そのものも。思想も。彼女は変身の行為そのものだ』

 石福いわく、『踊る者の身体からあふれ出す雰囲気と生気によって、ダンサーと観客の間に身体的コミュニケーションが生起する。日常的生を越えて私たちをそこへと赴かせる舞踊の根源としての舞踊』etc・・・・

 子供のころ読んだファーブル伝の中にある逸話。ファーブルが目をとじ、口をあけて「ものが見えるのは口があるからじゃなくて、目があるからなんだ」と彼の大発見を語ったとき、周りの大人は皆「バカだね、この子は。そんなことあたりまえじゃないか」といった、というエピソードがあった。

 私がダンスの旋回と跳躍の魅力、非日常的動きによる生の活性化に、気づいたのも「バカだね、あたりまえのことじゃないか。」ということになるのだが、私にとっては自分の身体感覚を通じて納得できたことが嬉しいのだ。ファーブルも、ものが見えるのは目があるからだとわかって、どんなにか嬉しかったことだろう。
 生きるために、踊る!

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「ウォントビーロングWON'T BE LONG」を踊る1992年の春庭
舞台下手(いちばん左側)がミサイルママ。下手(いちばん右側)が私


「マイケル・ジャクソンのThe Way You Make Me Feel」を踊る1992年の春庭
前列中央は、歌手のゆみさん、後列下手(左側)がミサイルママ、上手(右側)が私
">

「アメリカ・アメリカ(ウェストサイドストーリーより)」を踊る1992年の春庭
左側が私、右側がミサイルママ


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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/18のつっこみ

 あいもかわらず、「へたの横好き」でダンスを続けている。慶賀雀躍。
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月17日千葉敦子」

2012-10-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/17
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(3)20年前の今日、何をしていたか1992年10月17日「千葉敦子」

1992年10月17日 土曜日(晴れ時々曇り)『乳ガンなんかに敗けられない』を読んで「主婦」という身分について思うこと

 「私は病院で胃を調べた」に類する例文を見つけ出すため、病気関連の本のチェックをしようと、千葉敦子の『乳ガンなんかに敗けられない』の線びきをする。
 「を格」を含む文にとにかく赤線を引き、主語と「を格」が所属関係になっている文をチェック。内容を読まず、ひたすら例文を捜すつもりなのに、好きな著者の本ゆえ、ついつい内容に心奪われて例文を見落とす。

 例文チェックは、嫌いな著者の無味乾燥に思える本を選んだ方が、はかどるのかもしれない。とにかく乳ガンで入院中でさえ千葉さんの毎日はバリバリとすごいのだ。私などオタオタと目を見張るばかり。

 千葉敦子の本は、娘が生れた年に石子さんから『ニューウーマン』を借りて読んだのが最初。『ニューヨーク二四時』を読んだのは、八七年に彼女が亡くなってからだった。 数学教師の職を続けたかったのに子供の病気入院のためにやむをえず退職した石子さんと、「ほかの生き方もあるかもしれないなぁ」などと、漠然としたまま国語教師をやめた私とでは、「主婦」という身分への安住の仕方、姿勢がまったく違っていた。

 石子さんは「専業主婦」になりきることにあまんじることができず、数学テスト添削の仕事を続け、また、カウンセラーの勉強をコツコツと続けてきた。「しばらく専業主婦を楽しむことにしました。」というハガキが届いたのは、子供もようやく手を離れた、つい最近のことだ。彼女にとっては、千葉敦子の生き方こそ、もっとも輝かしい女性の生き方として受け止められたのだと思う。

 私は『ニューウーマン』を借りた時に石子さんへの手紙にも書いた気がするが、一読後「私にはできな~い」というのが第一印象であった。こんなふうに一瞬のムダもなく、バリバリと仕事をし、恋に生き、社交を楽しむことができたなら、確かに四十余年の人生も充実したすばらしいものとだれもが賞賛するものとなるだろう。

 悲しいかな私のDNAには「ミツユビナマケモノ」の遺伝子が潜んでいる。「明日できることを今日するなかれ、明日は明日の風が吹く、アシタマニヤーナ」というモットーのもとに生きている私にはとてもマネができないし、千葉さんにあこがれることさえおこがましい。

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/17のつっこみ

 1992年の私は、文例を集める作業をいやいややっていて、修士論文を仕上げなければならない毎日なのに、ついつい本文に読みふけってしまうナマケモノ。
 2012年の今日も、あいかわらず、私は「なまけもの」のままの日常。授業で使うパワーポイントスライドを作らなければならないのに、ついついテレビで録画した映画など見続ける。
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月16日「太地喜和子とカラヴァジョの果物籠」

2012-10-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/16
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(2)20年前の今日、何をしていたか1992年10月15日「太地喜和子とカラヴァジョの果物籠」


カラヴァッジョ(イタリア 1571~1610)「果物籠」 1597年頃

(3000)1992年10月15日 木曜日(雨午後から曇り)
ニッポニアニッポン事情(「太地喜和子の葬儀」をみて『カラヴァッジョの果物篭』を思うこと)

 朝から冷たい雨。ワイドショウは終日、太地喜和子の葬式。
 杉村春子の談話など、三回も見てしまった。花の盛りに水死した女優の葬儀には、この雨もいっそふさわしいと皆思っているのだろう、葬式というのに惨めっぽさがなくって華やかで、芸能リポーターなんか、浮かれ出しそうなのを必死にこらえているかに見える。

 太地喜和子の舞台を見たのは二十年ほど前の『美しきものの伝説』のみで、あとはテレビの近松アレンジもので見たくらいなのだから、ファンなどといってはおこがましいのだろうが、とても好きな女優であった。他の人の好みは知らないが、私は、かっぽう着が似合って、大根刻む手つきもサマになってという、いわゆる「生活感」にあふれる人はあまり女優としては好きではない。女形が演じるように「女」を演じてくれるほうがいい。

 タイで死んで、先日山田五十鈴が喪主挨拶をした嵯峨美智子とか、妖艶華麗で、非日常的な女優が好きだった。嵯峨も太地も、現実の「女」という性をいったん昇華させてしまってから、あらためて「女」の情念を演じるというような魅力があった。

 嵯峨のほうは、昔のテレビ『三姉妹』に出たときいいなと思ってから、女優としての仕事はほとんど見たことがなかったし、ずっと病身であることも、ときどき「あの人は今」風の週刊誌ダネになっていたから、わざわざ病気をおしてタイへ行って死んだということもうなずけるような気がするのだが、太地のほうは、「大輪の花今盛りなり」の大女優。まさかこのようなあっけない事故死を遂げるとはだれも思わなかったから、劇団のアトリエで行なわれた葬儀がいっそう演劇めいて、「死」が記号化されてあらわれる。

 祭壇の写真の太地は、とりわけ美しい。生のはかなさを知らしめるために、神が念入りに作りあげた花の化神さながらである。みずみずしく芳醇な果実であり花であった女優の、悲劇の死。

 彼女が、その肉体とことばで描き出した近松の女たちも、唐人お吉もこの地上から消え失せる。ビデオやフィルムに演技を残すことはできるけれど、演劇は、演じる者と観客が、「今・ここで」同じ空気の中に存在することが第一の要素なのだから、太地が演じる空間に共に存在することは、二度とできないのだ。

 芸能ニュースのノリでいけば、興味は、涙の下で闘われる女優たちの代役獲得戦争。
 代役にきまった女優のインタビューがあったが、あまりにも太地とはイメージが違いすぎた。数いる女優陣の中から選ばれたのだから、けっして水準以下の人ではないだろうに、これから文学座は経営的にたいへんだろう、といらぬ心配。杉村・太地ラインの下にはペンペン草もはえていないのかと思った。

 もう一方の芸能ダネといえば、菊五郎が贈った紫の着物と、勘九郎が贈った銀色のバラの花をお棺にいれたよし。この二人がともに太地の愛人として有名だっただけに、なんとも色鮮やかで、なまなましく、この葬儀にふさわしい気がした。

 若桑みどり先生の『絵画を読む』が3チャンネルではじまった。
 第一回は『カラヴァッジョの果物篭』について。花と果物は、美と若さと快楽がその甘さゆえたちまち腐り、枯れてしまうということの暗喩として描かれている、という解説のはぎれよさは七年前とまったく変わっていない。芸大から千葉大へ移って、研究に熱中しているせいか、髪型が変わったせいか、前より若く見える。

 花に埋もれた太地の華やかな笑顔は、現代における『カラヴァッジョの果物篭』だ。
 美しく艶やかで、生のはかなさと死の暗喩。

 人生八十年の時代に、働き盛りの四十八歳の死。われらの世代にとってまだ遠いはずの死が、突然目のまえに現実となってあらわされているのだ。生と死は表と裏、紙一重、と知ってはいる。しかし、病気や危険な仕事と向き合っている人でなく、平々凡々な日々を生きている人のなかで、明日は死ぬかもしれないと思って今日生きている人は、余程サトっている人であろう。

 十二支が一巡したら、私は母が死んだ年になる。百歳まで生きるつもりの私だって、明日死ぬかもしれないのに、私だけはノストラダムスの予言があたって一九九九年に地球が崩壊したとしても、二〇〇一年の一月一日にカウントダウン・ゼロを叫びつつこの日記のづづきを書いているような気がする。


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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012年10月16日のつっこみ

 1985年86年に若桑先生の授業を受けた時、先生がスライドで大教室に映し出した絵は、以下の「果物籠を持つ少年」の方でした。この絵を展覧会で見たとき、「ああ、あのときの授業で見た絵だ」と感激したことは覚えているのに、さて、いつの何の展覧会だったのか、さっぱりおぼえていません。記憶は年々うすれぼやけ、こうして人は老いていくのでしょう。

 ネット検索で調べたら、あいまいな記憶はたちまち判明。庭園美術館、2001年9月~12月「カラヴァッジョ 光と影の巨匠―バロック絵画の先駆者たち」でした。 

『果物籠を持つ少年 (Boy with a Basket of Fruit)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1593年 - 1594年


 母が死んだ年齢も、2001年の21世紀カウントダウンも、はるかに過ぎて、私はまだまだ「明日は死ぬかも知れない」なんていう悟った状態にはなく、もがき悩みのたうち、ひがみねたみそねみやっかみを続けて生きている。
 「花の命は短くて」であるのだとしたら、花も咲かない雑草は、踏みつけられても生きながらえるしかない。めざせ百歳。
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月14日「金枝篇」

2012-10-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/14
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(1)20年前の今日、何をしていたか1992年10月14日「金枝篇」

 9年前の10月に何をしていたか、という日記に続いて、20年前の10月に何をしていたか、の振り返り。1992年10月の日記再録ですが、2004年に「OCNブログ」に再録したものの再再録も含みます。日付の前にある数字は、21世紀になるまで、何日目なのか、というカウントダウンの数字なのですが、数に弱いのでときどき違っています。(Tさん=タカ氏)

『The Golden Bough』(金枝)ウィリアム・ターナー 1834

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1992年三倍速録画再生日記「Golden bough」

(3001)1992年十月一四日 水曜日(曇り午後から雨)ニッポニアニッポン事情(「金丸辞任へ」の記事をみて『金枝篇』を思うこと)

 数字や計算にはいたって弱い。掛け算九九なら五の段まではスラスラいくが、六の段になると、六X七や六X八のあたりからあやしくなってしまう。そろばんを使っても、計算機でやっても、足し算を三度すると三度とも違う答えが出てしまうので、家計簿もつけていない。
 「二一世紀まであと何日あるか」という計算も、筆算でもやって計算機でもやってみて結局いろんな答えがでて、よくは分からないのだが、二〇〇一年一月一日に二一世紀が始まるとして、一九九二年十月一四日から数えると、あと三〇〇〇日あるらしい。

 朝刊は「金丸信辞任」一色である。全国民あげて、このイカニモ「金と権力が政治のすべてであることのいやらしさを顔にも名前にも体現してしまっている老人」が落ちた偶像となることに熱狂している。

 老いた王が追い立てられ、あるいは殺されて、新しい王が出現することは、『金枝篇』に言うところ。
 『金枝篇』は世界各地から集めた資料で「権力の交代」を描き出した。Tさんは、中国の王朝滅亡も、アメリカの大統領選も、社会にとっては再生の契機なのだと言う。

 権力交代劇は、社会を再活性化するための必要不可欠、興奮熱狂の祭典であるのだから、今回の辞任劇が日本の政治再生のもととなるなら、キャスターたちのハシャギぶりも祭りの一部であるハヤシ方として歓迎し、われらもヤンヤヤンヤの喝采くらいおくらねばならない。

 しかし、Tさんは「この程度の「殺され方」では、とても「変化再生」には至るまい。密室の中で札束が飛び交って、一本づりやらカスミ網やら、次のアタマ数を決めるだけで、なんにも変りはしないだろう、という。いつも通りの結論。

 ついでに『地獄の黙示録』を思い出す。この前『地獄の黙示録』のビデオを見たとき、カーツ大佐の机の上に『金枝篇』がのっていたのに気づいた。
 てっきり、ウィラードがカーツを殺し、密林の秘密王国の二代目王になるのだとストーリーを予想したのに、王国は炎上崩壊。ウィラードはペンタゴンのただの使いぱしりだったのか。画面のゴールデンボウは、いったい何の象徴だったのだろう。

 さて、今回の「金枝扁日本版猿回し劇」は、再生への契機となるのだろうか。

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/1014のつっこみ

 この日記を書いた1992年、私は『地獄の黙示録』がコンラッドの『闇の奥』を換骨奪胎したシナリオであったことも、『闇の奥』が『金枝篇』の影響のもとに執筆されたことも知らなかった。だから、映画のカーツ大佐の机上に『金枝篇』があることの意味がわからなかったのだ。
 『金枝篇』が出てくるからには、王権交代があるだろうと推測する程度の、素朴な観客として、映画を見ていた。

 「地獄の黙示録」と『闇の奥』の比較文学的考察を知ったのは、ようやく博士課程のゼミにおいてでした。「西欧の視線から見た植民地とポストコロニアル理論」という内容の授業でした。
 ポストコロニアル文学理論を学んでから『地獄の黙示録』を見たら、また違う見かたができるのかもしれません。でも、私は、映画というのは、私のような素朴な、ものを知らない観客にも伝えるものがあってこその映画だと思うので、1980年だったか1981年だったかにこの映画を見たときの私の感想は、それはそれでいいと思うし、1992年にビデオを見たときに机上の「金枝篇」に気付いてもその意味がわからなかった私の見方も、それはそれでよし、と思います。

 それにしても。
 ウィリアム・ターナーが描いた一枚の絵「金枝」を見たジェームズ・フレイザーが、大著『金枝篇』を残した。『金枝篇』は、膨大な文化人類学者や民族学者民俗学者を育て、コンラッドの『闇の奥』もその影響下に生ましめた。そして、『闇の奥』から『地獄の黙示録』が派生する。
 この壮大な文化の連環のなかに私もありたいのだけれど。
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ぽかぽか春庭「9年前の今月今夜何をしていたか」

2012-10-13 08:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/13
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012秋(4)9年前の今日、何をしていたか

 会ったことはないけれど、ブログを通して相手の人となりや趣味などを知ることができるようになったブログ仲間というか、ウェブ友というのか、呼び方は人それぞれだろうけれど、ブログを読ませていただいている関西のmomosukeさんが、「gooブログが、>1年前に書いた記事の感想を書いてみませんか、と”世話を焼いてくれた”」と、書いておられる。
 同じgooブログでも私には、そんな”大きなお世話”を焼いてもらえませんでした。それで、自前で「昔を振り返る」をやってみます。

 2003年にブログを始めたときは、「話しことばの通い路」というホームページビルダーを使って作ったページには、毎日の日記を、OCNブログには「本を著者名アイウエオ順に並べて、老化についての話題、本の内容への感想と著者紹介、それに絡めての自己紹介」という三段跳びの文章を毎日掲載していました。一回のUPが5000字くらいになってしまい、「そんなに書き殴ると文が荒れるので、控えよ」と「物知り」のネット先輩から忠告を受けたりしていました。まあ、大きなお世話もありがたし。

 自分では本宅としていた「話しことばの通い路」のほうには、毎日の日誌やら創作やら、ごったなものを詰め込んでいました。別宅AnnexだったOCNブログには、本宅と別の記事を掲載する方針でした。
 そのうち、「話しことばの通い路」には、OXNページに載せたものをまとめて再録するのと、日本語教育関連を掲載するようになりました。2008年にデスクトップパソコンHAL1949が壊れてしまったので、「話しことばの通い路」は、放置になりました。どのようにして中身をラップトップに移したらよいのか、わからなかったからです。以後は、OCNブログの更新だけになりました。

 「昔を振り返る」のシリーズ。2003年の「話しことばの通い路・フリースペースちえのわ」に掲載し、OCNブログには載せていないものを再録してみます。9年前に自分がどこで何をしていたのかを振り返るのは、人様にはおもしろくともなんともない出来事であっても、本人にとっては「へぇ、こういう日常であったのか、まあ、相も変わらずであるなあ」と、感慨深いものです。
 2003年の今日を中心に5日分を再録。
 「うらみ、ねたみ、ひがみ日記」と銘打っているので、毎日の「うらみつらみ」を文末に書くことにしていました。天気記録のあとの数字は、21世紀になってから何日たったか、という数字なのですが、数字に弱いので、ときどき数が間違っています。
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2003/10/11 土 晴れ 1016
トキの本棚>『サイバネスティクス』
 ニッポニアニッポン=朱鷺のキン、大往生。享年36歳。人間に換算すると100歳くらいだった。
 松岡正剛千夜千冊今日の一冊は『サイバネスティクス』
 私は、この本を20代はじめに読んだ。SFが大好きだった頃、なんとなく未来っぽいことばの感じに惹かれて読んでみたものの、どうにもこうにも、理科系に弱い頭にはさっぱり理解できなかった。30年もたって、松岡正剛の解説を読んで、どういうことが書いてあり、どういうふうに世の中を変えたのかやっとわかった。

本日のうらみ: ニッポニアニッポン滅亡ののち、ニッポンはどこへ行く。世の中はどう変わっていくのか、私にはわかりません
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2003/10/12 日 雨のち曇り 1017
ジャパニーズアンドロメダシアター>『めぐり逢う時間たち』
 ロイホでランチ。息子は文化祭の練習で学校へ。娘とふたりで映画を見た。
 『めぐり逢う時間たち』リベンジ。
 めぐり逢う時間たち、この前見たときは、前半を完璧に眠ってしまったのでした。ビール飲んだせいで。
 今回、前半はまあ、わりあいちゃんと見た。後半はネタわれてるし、ところどころ寝た。2度目に見ても、印象は前回とまったくかわらなかった。

本日のつらみ:ビール飲んでないのに寝た
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2003/10/13 月 雨、夕方くもり 1018
ジャパニーズアンドロメダシアター>『エルミタージュ幻影』

 体育の日だけど、雨。ぼうっとした一日、昨日見た映画など反芻しながらすごす。
 『エルミタージュ幻影』も、ところどころ寝た。ストーリーらしいストーリーはなく、ただ、エルミタージュ美術館の中を、一台のカメラが動き回り、ひとりの男の視点で絵を見たり、エカテリナ女帝の豪華な宮殿内部を撮影して、90分をワンカットワンシーンで撮影したというのがウリらしい。

 豪華なロシア帝国時代の衣装に身を包んだ貴族達がダンスパーティにあけくれる描写が、唯一見ていられたもの。でも、それだけならトルストイの『戦争と平和』で、オードリー・ヘプバーン主演のハリウッド版でも、ソ連版でもダンスシーンがあったんだし、いったいこの映画はエルミタージュの何をつたえたかったのか。

 原題を「ロシアの何とか」というので、ロシアの美や歴史や、精神の豊かさを伝えたかったのかも知れないが、中途半端にロマノフ一族の食事風景、中途半端に舞踏会、中途半端に絵画鑑賞。
 終わってからトイレに行く。並んで待っている間、うしろに並んだ二人組「あたし、寝ちゃったよう、どういう話だったの、結局」「どうっていっても、どういう話しって説明できない。でも、私も途中まではみてたんだけど、後半は、わからない。私の席の周りの人、みんな寝ていたから、ついつい眠気が移った」という会話。私の隣の席の人ももちろん寝ていた。こんなに「素人はみんな寝る」という玄人受けする「芸術性の高い」映画というのも、また貴重なものなのだろう。貴重ではあるが、私は素人なので心地よく眠った。

本日のうらみ:ロシア貴族の豪華なパーティ、ここは窓の外に飢えた人々が通り過ぎるのをチラッとでも取り込むシーンがあって欲しかった。もしかしてその類のシーンを寝ていて見逃したのかも
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2003/10/14 火 晴れ 1019
ニッポニア教師日誌>日本語の構造

 ひらがな2コマ。1組、ひらがなと、文型導入。日本語の構造をざっと説明したつもりだが、私の英語力で、どこまで分らせることができたのか不安ではある。
 ただし、わたしの担当は、「ひらがな読みの復習と、ひらがなによる文の読み」であって、文法説明が担当のわけじゃない。ひらがな読みの復習がたんとうなのだから、よめるようになりさえすればいい。
 でも、「わたしは がくせい です」「わたしは ほんやへ いきます」という文を読ませるのに、名詞文、動詞文の説明をせずにいられないのが私の性分。だって、自分がタイ文字、ヒンディ文字の文を読めと言われたら、そこにどういう意味が書いてあるのか知りたい。

 SFJの説明に従って、日本語の構造を汽車にたとえる。機関車が述語、連結している車掌室、食堂車、客車、貨物室などは、適宜切り離しができる。機関車がないと、汽車は前進しないが、食堂車のない汽車もあるし、貨物室がついてない汽車もある。

 助詞の説明。トピックマーカー、疑問、方向、対象の助詞を説明。でも、英語前置詞と日本語パーティクルがどう違うのかなんて、とても英語で言えないから、学生が混同した場合は、あとで、対処しよう。
 英語がへただ。でも、学生は「流暢な英語でサラサラと解説されても日本語文法がよくわからないのに、先生のブロークンイングリッシュで説明してもらうと、とてもよく日本語の構造がわかる」それはそうだよ。私は外国語がよくわからない学生の苦しみを知り抜いていて、どこがどのようにわからないのか、よくわかる。

 2組、韓国の教員研修。女性ふたり。たいへんまじめそう。一人は子供一人を国に残しての単身留学で、しかも来年出産予定。
 授業後、文化中級Ⅰの打ち合わせ。

本日の負け惜しみ:英語へたでも、授業は上手
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2003/10/15 水 曇りのち晴れ 1020
ニッポニア教師日誌>コメント力

 教授法2コマ。教授法のグループ発表。コメントを書かせる。コメント力さまざま。きっちり発表を聞き取って、的確なコメントを書く学生もいるし、「よかったです」「声が小さい」程度のことしか書けない者もいる。
 ある事象にコメントするというのは、ある意味、その人が持っている理解力、表現力、人間としての中味すべてをタメされることだ。

本日のねたみ:コメント力、斉藤孝には及ばないけど、それなりに

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2012/10/13のツッコミ
 ほんと、9年前もまったく代わり映えのない日常だったなあと思います。変化も進歩ないというか。何かの映画のなかだったと思うけれど「こういう、何でもない、つまらない日常を、いつか大人になった私は、なつかしくいとおしく思うこともあるのだろう」とナレーションが入っていた。
 う~ん、2003年の私、今よりはちょっぴり若いはずだけれど。とくにいとおしくもない、「何でもない、つまらない日常」を、それなりに一生懸命すごしていたのだろうという気はする。
 「話しことばの通い路」フリースペースちえのわからの再録でした。
 http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/iro2007mokuji.htm

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ふくろ祭り東京よさこい」

2012-10-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/11
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012秋(3)ふくろ祭りよさこいコンテスト

 10月7日、「ふくろ祭り」のよさこい踊りを見物に池袋へ。
 この夏、原宿の「元気まつり」よさこいソーランはひとりで見たのですが、池袋は、駅前のインテリア店に勤めているミサイルママ、目白のマンションに住んでいるK子さんの「地元」ですから、いっしょに見物となりました。

 午前中は雨が降り、これはどうかなと思っていたのですが、晴れてきたので出かけました。まずは、ミサイルママお勧めの、「I.W.G.P.」こと池袋西口公園の広場へ。

 私が着いたときは、演舞が終わって、よさこい踊りの指導が行われていました。踊りの最後に演舞参加者の総踊りがあり、その振り付けを教えるというコーナーです。
 「わたしゃ、80歳なのよ。よさこいソーランなんて、見るのも初めて」と言いながら、おばあさんが、踊りに出て行きました。gogo's & クワザワグループという北海道から来た踊り子チームが指導しています。

 私も踊り方を習いたかったけれど、ちょうど演舞の切れ目でベンチの人が動いて入れ替わりのチャンスなので、座れそうなベンチを探すほうが先。ちょうど人が立ったあとのベンチに座ることができました。席を確保して、上着とリュックを置いて、食べ物仕入れに広場を一回り。「富山湾のシロエビコロッケ」というのと、静岡しじみ汁、長野りんごかりんとう、山形豆餅などを購入。豆餅は山形出身の姑へのおみやげです。

 コロッケとしじみ汁を食べながら、よさこいソーラン指導を見ていました。食べ終わったら私も習おうと思ったのですが、食べ終わるころには、指導が終わってしまいました。
 80歳という女性、元気に踊ってきて、「これくらいの踊り、すぐ出来る」と言っていました。盆踊りや新舞踊のサークルで毎日元気に踊っている踊り自慢の女性なのかもしれません。

 「東京よさこい」でこれまでに6回優勝して、今年は殿堂入り、特別招待出演となった山梨の「風林火山」というチームの踊り、さすがの出来。中学生高校生が中心のチームですが、とても動きがいい。上野原の舞踊教室に在籍する生徒さんたちが、週末土日に20時間くらい練習するというチーム。週に1回、90分の練習で「疲れたつかれた」と値を上げる私たちのダンスサークルとはエネルギーが違います。
 さきほど皆に踊りを指導していたgogo's &クワザワグループも見事な踊りでした。


実践女子短大のチーム。若いってすばらしい。


 私の隣の男性、パシャパシャとカメラのシャッターを押しています。ファインダーをのぞくカメラと違い、デジタル液晶画面を見て押すシャッター、何を撮しているのか、隣にいるとよくわかります。よさこいを踊る各チームの中で、「一番の美人」を見定めて、その人のアップ顔を何枚も取っているのでした。まあ、被写体に何を選ぶかは撮す人の自由でしょうが、これほどのアップばかりで個人の顔がはっきり写る写真だと、踊りを見に来ているこちらとしては、踊りそっちのけの気がして、「なに、見てんのようぉ」という気になります。タレントが出演するイベントなどでは、素人が自由に顔写真を撮ることなどが制限されている時代ですから、このようなオープンな場で美女をコレクションしたい人もいるのでしょう。撮影したあと、自分の部屋に大きく引き延ばした美女たちを飾るっていう趣味の人なのかしら、なんて、踊りの合間に隣の人を観察してしまいました。踊りが好きで見にきている人ばかりではない、という発見の巻でした。

準大賞(高知県知事賞)受賞の舞踊集団REIKA組


ジャズダンス仲間のひとりが所属している「踊るバカ東京」チームのよさこい踊り。今年は年配の方が多かったような、、、、


 これまでに何度も入賞しているチームの演舞が続いていたのですが、ミサイルママとK子さんとの待ち合わせが、5時にビッグカメラ前というので、移動しました。
 K子さんミサイルママといっしょのよさこい見物、原宿で一人見物したのとはまた違う楽しさがあります。ミサイルママとは「見るのも楽しいけれど、自分たちも踊りたいねぇ」と話ながらの「見る阿呆」になりました。
 
 演舞が終わって、和食の店で夕食。食べ終わって出てくると、目の前で表彰式をしていました。ミサイルママが「表彰式も見て行く」というので、おつきあい。
 「このチームの踊り、いいな」と思ったところが入賞するとうれしいです。
 
 最後に、演舞参加者全員による総踊りがありました。ミサイルママは、「いっしょに踊りたいけれど、去年、踊り子の中に紛れ込もうとしたら、警官に止められてしまった」と、言います。「でも、道端で踊っているだけなら、警官に叱られないよね」と言って、リュックを道のはじっこにおいて、踊り出しました。
 何回か繰り返して、さて、と駅のほうへ向かったら、踊り会場の後方には開いているスペースがあって、素人さんが紛れ込んで踊っている。ミサイルママは、さっそく「ここなら踊っても大丈夫そうね」と、また踊り出しました。

 それなら、と私もK子さんにリュックサックを預けて、ミサイルママといっしょに踊りました。それほど難しい振りつけではないけれど、踊ることになるなら、昼間gogo'sが指導したときに習っておけばよかった。私は最後の一回だけ踊りましたが、これですっかり「参加者気分」になり、満足満足。K子さんが「二人とも、ほんとに踊ることが好きなのねぇ」と、言います。ほんと、音楽が聞こえれば、体が動き出してしまうのです。どうせなら、見る阿呆より踊る阿呆がいいねぇと、ミサイルママと「出たがり」ました。

 K子さんは「発表会のときの踊りより、ずっと生き生きしていた」と、ほめてくれました。発表会のときは、先生も見ているし、振り付けを間違えないようにするのでせいいっぱいなので、、、、。

 来年は、文化センターの改修のため、ジャズダンスの発表会が出来ないようなので、よさこい参加もいいかも。

<つづく>
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