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ぽかぽか春庭「ダンス・ダンス・ダンス」

2012-04-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/04/29
ぽかぽか春庭十二単日記>シニアデビュー(6)ダンス・ダンス・ダンス

 村上春樹の小説『ダンス・ダンス・ダンス』は、The Dellsが歌った「Dance Dance Dance」に由来しているそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=B2ese-NYID0

 ユーチューブでこの曲を聴きながら以下、ご笑読ください。

 4月28日、地元商店街の祭りへ行ってきました。「ばかまつり」って言うネーミングが東京とは思えないダサさで、好きです。
 この祭りのメインイベントは、駅前ステージでの演奏やパレード。
 駅前会館のホールでは、ジャズダンス仲間が出演するダンス発表がありました。
 地元の会館ホール。この日の発表プログラム、おばあちゃんおばちゃんたちのフラダンスやこどもたちのバトントワリング。午後はカラオケ大会、というラインナップで、いかにも「地元のだしもの」という感じです。

 このジャズダンスサークル、水曜午前中の練習なので、私は春休み夏休み冬休みの授業がないときだけ、ゲスト参加しています。ミサイルママは、午前中のサークルと金曜夜のサークルふたつに参加しています。
 去年のばかまつりで、私はミサイルママとペアで「インザムード」を踊り、出演する予定でした。しかし、去年は震災後の自粛ムードでばかまつりは中止。今年、私は出演せず、応援係です。

 このサークル、1982年に結成以来、30年。サークル結成当時30代だった人たちが、練習と練習後の持ち寄りランチ会でのおしゃべりを通じて友情を結び、メンバーほとんどが60代になった今も、元気なダンス姿を見せています。素人のジャズダンスサークルが30年も続いているっていう例は、ほかにはあまりないと思います。

 28日の発表曲は、ホテル・カリフォルニア、セビジャーナスなど。
 メンバーみな、生き生きはつらつと踊り、舞台姿は30代のときのまま。
 ♪ドックオブザベイを踊るサークルメンバー


 さて、様々な方面に関心・好奇心を持つものの、何かひとつ、「人様に自慢できるくらい極める」ところまではいかないのが春庭流。
 飽きっぽくて長続きはしない私の「いろんなことにチャレンジ」ですが、ダンスの練習は飽きずに30年を超えています。と、いっても、モダンバレエ、クラシックバレエ、ジャズダンス、ベリーダンス、いろいろやったがどれも中途半端。

 踊ってカロリー消費した分以上に食べるので、ダイエットには結びつきませんけれど、心身の健康維持には役立っている(と、信じて踊っている)
 1年1度の発表会でビヤ樽のごとき姿を一目にさらすのだって、発表会のある9月に向けて、ちょっとはビールを控えようか、という気持ちにはなるので、少なくともこれ以上どんどん横幅が広がるのは阻止しているのではないかしら。

 毎週金曜日夜のジャズダンス練習のほか、春休み夏休み冬休みには、それぞれ1度か2度ですが、「イサドラダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ」でメアリー佐野先生のレッスンを受けています。

 4月21日土曜日夜、四谷区民ホールでメアリー先生のソロダンスコンサートが開催されました。メアリー佐野は、アメリカ・サンフランシスコを拠点に活動しています。日本でソロダンスコンサートを行うのは、7年ぶりのことだそうです。


 私は、7年前にはイサドラの振り付けを継承しているダンサーがいることすら知らず、イサドラの踊りは、イサドラの養女たちが振り付けを学んだものの、途絶えてしまったと思っていたのです。

 イサドラはきちんとした舞踊振り付け譜(コレオグラフィ)こそ書き残しませんでしたが、口伝の形で養女にした弟子たちに振り付けを伝えていました。養女のひとりイルマ・ダンカンの舞踊学校でイサドラダンスを習ったのが、ミニヨン・ガーランド。メアリー佐野はガーランドの弟子。
(イサドラ・ダンカンがどんな人だったか知りたい人は、バネッサ・レッドグローブ主演の映画『裸足のイサドラ』をごらんください)

 イサドラ・ダンスメソッドは、それを習ったある人がブログのなかで書いていたのですが「一見すると幼稚園のお遊戯会でもこの程度のダンスはできる、と見える」ような、シンプルな動き、わかりやすいステップで、複雑な振り付けではありません。しかし、イサドラが理想としたギリシャの彫像のような美しさ、また、重力などこの世にないかの如く空気の精が踊るように跳躍するふうわりとしたやさしい動き、これらを正確に再現しようとすると、とても難しくて、クラシックメソッドやモダンメソッドが身についてしまったあとの身体だと、ぎこちなく固い動きにしか見えないのです。

 私はもともとモダンバレエのメソッドだってちゃんとは身についていない。30年以上、やっていても、、、、。スタートはマーサグラハム、アキコカンダ系統のモダンメソッドで練習してきたのですが、いまだにターンもジャンプも中途半端。

 でもね、70歳デビューをめざすなら、まだ練習時間はたっぷりあるわ。ピーナ・バウシュ(Pina Bausch1940 - 2009)のコンテンポラリーとも、日本のブトーとも異なる春庭ダンスメソッドの家元になっちゃえばいいんです。私が家元なんだから、私が踊りたいように踊ればよし。そうそう、大豚チャールストンやらビヤ樽ポルカやらドラムカンベリーダンスです。あ~、見たくもないって、そりゃそうですね。

 今年、9月の発表会に向けて、振り付け練習が始まりました。ジャズダンス指導のミワ先生が四月下旬からゴールデンウイークすぎまでバリに行っている間に、アデルの曲の振り付け覚えないと。、、、、覚えられない、、、。いいよいいよ、古稀デビューまで時間はたっぷり、、、でもないな。ボーとしているとあっという間に70だ。練習、がんばります。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「グランマ・モーゼスの絵」

2012-04-28 00:00:01 | アート
2012/04/28
ぽかぽか春庭十二単日記>シニアデビュー(4)モーゼスおばあさんの絵

 4月26日、アンリ・ル・シダネル展を見に新宿損保ビルの東郷美術館へ行きました。招待券もらったので、それほどみる気もなく見たシダネルの絵、日本ではあまり知られていない画家ですが、とてもよかったので、またまた図録を買ってしまいました。シダネル展の報告は、またのちほど。

 会場の出口にある一室は、館所蔵品の常設展示の部屋。一番有名なのは、ゴッホのひまわり。この絵をめざして損保ビル9階にやってくる人も多い。
15本のひまわり

 そのほか、新収蔵作品として、モーリス・ドニの絵もあったし、グランマ・モーゼス( Anna Mary Robertson Moses1860 - 1961)の毛糸刺繍画と素朴な風景画が展示してありました。
 モーゼスおばあさんの絵は、1969年にアメリカの切手の図柄になり、アメリカ人が一番よく知っている画家と言われています。ゴッホやピカソを知らなくても、モーゼスおばあさんの絵は知っている。どうして画家名が「グランマ・モーゼス」かというと、絵を描き出したとき、すでにおばあさんだったからです。

 12歳で奉公に出され、27歳で結婚したあとも農作業と子育てに明け暮れる生活。70歳で夫と死別し、早死にした娘に代わって孫を育てるなか、毛糸を使った刺繍画を始めました。リュウマチで手が動かなくなり、刺繍する毛糸の針が持てなくなったので、編み針よりは太い絵筆を握り、リハビリに励みました。おばあさん、75歳からようやく本格的に描き出したのです。
グランマ・モーゼスのスケッチ姿

 80歳で初めての個展。81歳で州の絵画展で注目されます。「素朴派」とまとめられたり、アメリカンプリミティブ・アートとくくられたり。デュビュッフェが提唱した「アール・ブリュット(生の芸術)=芸術的訓練や芸術家として受け入れた知識に汚されていない、古典芸術や流行のパターンを借りるのでない、創造性の源泉からほとばしる真に自発的な表現」とも関連づけられて日本で紹介されてきた人気の高い画家です。
 モーゼスおばあさんは、1961年に101歳で大往生。亡くなるまでに千点もの絵画を残しました。

自伝と作品をおさめたモーゼスの著書「モーゼスおばあさんの絵の世界」

 東郷美術館所蔵のモーゼス作品は22点あるそうですが、26日に見たときは3点だけの展示でした。でも、その他のモーゼス作品の絵はがきを売っていました。

 今回のテーマ「シニア・デビュー」です。
 75歳で絵筆を持ち、101歳まで描き続けたモーゼスおばあさん、究極のシニア・デビューですね。オーストラリアのアボリジニー画家エミリー・ウングワレー(Emily Kame Kngwarreye、1910年頃-1996)も絵筆を持ったのは70歳を過ぎてから。86歳で亡くなるまでの8年間で、3000点の作品を残しました。

 70歳をすぎてから何かをはじめても、そうよ、100歳まで生きれば、まとまった作品になる。詩でも絵でも小説でも。
 がんばりましょう。

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「吉野せい&柴田トヨ、久木綾子」

2012-04-27 00:00:01 | 読書・本・ログ
2012/04/27
ぽかぽか春庭十二単日記>シニアデビュー(3)吉野せい&柴田トヨ、久木綾子

 高齢になってから花開く人、あこがれです。
 以下、紹介する女性三人の文学への道、それぞれにすばらしい。吉野せい、柴田トヨ、久木綾子。

 私が若い頃は、吉野せいが「あこがれのシニア・デビュー」の作家でした。
 吉野せい(1899- 1977)は、若い頃は小学校の教師をしながら作家をめざしていました。しかし詩人の吉野義也(三野混沌)と結婚後は、福島の原野で開墾にはげみ、夫が亡くなるまで子育てと開墾仕事に専念。1970年夫の死後、執筆を再開し、1974年『洟をたらした神』を出版。すばらしい本です。
 私は、1973年に亡くなった母を思い浮かべつつ、泣き泣き『洟をたらした神』を読みました。そして、母の残した俳句や短歌を一冊の作品集にまとめ、ようやく母の早い死の衝撃から立ち直ることができました。

 新藤兼人脚本、樫山文枝、岡田英次主演でテレビドラマ化された『洟をたらした神』は、12チャンネルから放送予定でしたが、原作になかった原発問題を脚本に取り入れたため、スポンサーからクレームがつき、オクラ入り。ついに、放映されませんでした。劇場公開版も、私は見ていません。今こそ、どこかの局で放映してほしいものです。

 2010年は、柴田トヨさんの詩集『くじけないで』が100万部を超しました。90歳を過ぎてから詩作をはじめたトヨさん、2011年には第二詩集『百歳』を出版。今年6月には101歳を迎えます。

 2012年、今年はなんといっても、久木綾子さんの小説『見残しの塔』が、シニア・デビューの話題作。
 単行本発行時には気づかず、2012年1月に文庫になってから買いました。


 久木さんは、若い頃、作家志望でした。東京の同人誌に参加して勉強していましたが、山口県の男性と結婚後、専業主婦として家庭を守ることひとすじ。1989年にご主人がなくなり、70歳すぎて文筆活動を再開しました。
 最初のテーマは、周防国五重塔縁起。山口市の瑠璃光寺の五重塔を作った人々について14年がかりで取材し構想を固め、4年かけて「文芸山口」に連載。歴史小説の大作です。2008年に単行本が出版されたとき、久木さんは89歳になっていました。

 以下は、単行本に掲載された著者紹介です。
「久木綾子。1919年、東京生まれ。東京育ち。旧制高等女学校、専門学校卒。戦時下、陸軍情報局監理下に置かれた松竹大船撮影所報道部に記者として勤務したことがある。同じ頃、三笠書房社主竹内道之助氏主宰の同人誌『霜月会』の同人となり、小説を書き始める。終戦の年、山口県人の池田正と結婚。義母は、池田くら。福井県小浜市の新田長太郎の姉。長太郎は、昭和天皇に、「新田義貞の戦略」で御前講演をしたことがある。結婚後は主婦専業。平成元年、夫に先立たれ、再び文学に戻る。 

 文庫本に付け足された経歴情報。
 1940年比叡山の里坊・理性院で後の天台座主即真周湛のもとで修行生活を一年送った後、松竹大船撮影所報道部勤務。夫死去後の1990年文学に戻る決意をし、『見残しの塔』執筆のための勉強。2008年『見残しの塔周防国五重塔縁起』2010年『禊の塔羽黒山五重塔仄聞』出版

 久木さん、70歳から文学の道に戻り、89歳で出版。なんてすばらしいシニアデビューでしょう。若い頃の文学への情熱を夫の死後とりもどした、という点では、吉野せいと同じですが、歴史小説のための取材を14年、というのはマネできそうにありません。

 『見残しの塔』、文庫になってすぐに買い、春休みに読もうと思ったのに、遊び歩く方が優先で、ツンドクのままになっています。(おでかけ先の電車読書用はどうしてもページ薄めのエッセイが多くなり、『見残しの塔』のような持ち重りのする分厚い本は後回しになるので)。夏休みにはぜひ。

山口県観光協会の写真「瑠璃光寺五重塔」


 すばらしいシニア・デビューの先達の仕事を見れば、私なぞ還暦過ぎたとはいえ、ひよっこも同然。これからです!

<つづく>
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ぽかぽか春庭「シルバー&ゴールド」

2012-04-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/04/25
ぽかぽか春庭十二単日記>シニアデビュー(2)シルバー&ゴールド

 パラちゃんの演劇公演デビューで思い出したことがあります。
 わたし、2006年に蜷川幸雄が「さいたまゴールド劇場」を立ち上げることを聞いて、「タダで蜷川幸雄を間近で見られるチャンス」と思って、オーディションを受けたことあるんです。

 蜷川幸雄が「彩の国さいたま芸術劇場」の芸術監督に就任したとき、就任後第一番の事業として、「シルバー世代の演劇」を構想しました。
 蜷川は、「年齢を重ねた人々が、その個人史をベースに身体表現という方法によって新しい自分に出会う場を提供するための集団作り」としてオーディション合格者に演劇訓練を行い、毎年公演を行ってきました。現在は60歳から85歳まで42名が在籍しています。
http://www.saf.or.jp/gold_theater/about/index.html

 2006年春のオーディションは、チェホフ「桜の園」か三島由紀夫「卒塔婆小町」のどちらかの台詞を暗記してきて、蜷川の前で演じてみる、という課題でした。
 当初20人の募集枠に1200名を超す応募があり、オーディションは1週間続きました。きちっとひとり5分くらい、蜷川の前で演技するチャンスが与えられたのです。

 私は春休みに「卒塔婆小町」の台詞をおぼえ、蜷川の前で演技、、、、、ちらっと見上げた蜷川は渋い顔をしていたという記憶がある、、、こりゃダメだろうなあと、思ったら案の定、オーディションに落ちてしまった、、、、ぐすん。

 おまけに、このオーディションをドキュメンタリーに仕立てるというNHKの取材が入って、インタビューに答えたのですが、「このドキュメンタリーが出来上がって放送するときにあなたのインタビューを使用することになったら連絡するから、連絡先を教えて下さい」と、制作の女性に言われたけれど、連絡はありませんでした。ぐすん、ぐすん。

 私はこのときの応募履歴書に、ダンス訓練を受けてきたことやプロの俳優として劇団の地方まわり公演に参加したことを書いてしまったのが失敗だったと思っています。演劇の素人を基礎から訓練したい、という蜷川の要求に対して「へんな色がついている演技」として落とされたのだと思ったのですが、心やさしいK子さんがなぐさめてくれることに「55歳のときオーディションを受けたと言っても、あなたは55歳のころは40代にしか見えなかったから、蜷川の「シルバー世代の演劇」っていう要望に合わなかったのよ」、、、、持つべきは心やさしい友。

 演劇は私とK子さんの共通の趣味。1970年に知り合ったころ、いっしょに早稲田小劇場や文学座などの演劇を見て歩く仲間でした。
 私は、中学校国語教師をやめたあと、地方の小学校の体育館で演劇を見せる劇団の客演俳優として、短い間でしたが「女優として生活する」という経験をしました。女優生活ドサまわりは、今でも「病院の検査技師や英文タイピストその他13の職歴」を重ねた中でも、一番心に深く刻まれた仕事、として思い出されます。
 K子さんは、これから先も演劇活動を続け、退職後の生活を豊かに築いていくことでしょう。

 シルバー世代のさまざまな活動。ボランティアや演劇読書絵画サークル、旅行、茶の湯や生け花、どれをとっても、団塊の世代と言われる私たちの年齢層にとって、おそらく社会の消費動向左右することになるでしょう。不況下の若者より、年金手にした団塊世代のほうがお金もっているだろうから、マーケットはこの世代の年金消費をとりこもうとしています。

 社会の消費向上にはいっこうに役に立たない金無しシルバーの私だけれど、ゴールドライフをめざして、心は豊かに保っていきたいです。
 そういえば、私の別ブログを「co-HALのゴールドライフ」と名付けたのは、このオーディションを受けたころのことでした。
 蜷川ゴールドシアターではデビューできなかった私ですが、ゴールドでもシルバーでもブロンズでも、シニアライフ、充実させていきたいです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「いたち&マックデビュー」

2012-04-24 08:00:00 | エッセイ、コラム

2012/04/24
ぽかぽか春庭十二単日記>シニアデビュー(1)いたち&マックデビュー

 4月18日、下北沢に行ってきました。友人K子さんデビューの演劇公演を見るためです。
 下北沢駅前のマックで待ち合わせ。ジャズダンス仲間4人で、まずはちょこっと「腹の虫おさえ」
 4人のうち、一人は高校講師を定年退職したトモ子さん、ひとりは小学校校長を退職後も教育関係の仕事を非常勤で続けているテイ子さん、ひとりは70歳まで仕事を続けざるを得ない私(夫が赤字会社経営者&子どもがパラサイトシングルのため)、そして65歳までは今の会社で働くというミサイルママ。(テイ子さん、元校長という職歴をサークル仲間に語ったこと無かったんですが、そこは検索上手の私、最後の職場の小学校名をつきとめました)。

 最年長の元校長テイコさんは、「私、マクドナルドでものを食べるの、初めて」というので、「あらまあ、エエトコのオクサマは、今までジャンクフードを食べたこと無かったのね」とびっくり。教育職を長く務めたてい子さんと研究者のご主人。美男美女カップルと聞くお二人。夫婦で外食することはあっても、マックなどで食べることはなかった、という。

 そんな「教育ひとすじ」だったテイ子さんの初マックの感想。「想像していたたより美味しかった」これは、マックの味に対する感想というより、「ちょいとおなかを膨らませたいときは、マックで100円ポーク+おかわりコーヒー」という私への、心づかいかも。「こんなジャンクフード食べ続けると健康に悪い」なんて言ったら悪いものね。

 「私なんて、スタバのコーヒーは高いと感じて、映画までの待ち時間とか電車待ちで店入るときはいつもマックの140円、おかわりもう一杯、ばっかりだったよ」と私。マックコーヒーは今月からSサイズ一杯100円に値下げするかわり、おかわり自由はなくなるんですって。残念。

 ともあれ、シニア世代にとって、初めての体験というのは、何事であれ、よいことです。私も、これからいろんな「う~、こんなの初めて!」っていうのに挑戦していきたい。
 18日の「う~、こんなの初めて!」体験は、「長年の友人が舞台デビューするのを見届ける」です。

 K子さんとは1970年に知り合って、もう40年以上のおつきあい。国家公務員退職後、「とぼしい年金暮らし」というK子さんだけど、そうは言っても週5日大学を駆け回って働いても超薄給の非常勤講師、とは大違いの余裕ある生活。(マンションローンもととっくに完済したそうですし)
 K子さん、定年退職後のテーマを「演劇」と決め、あちこちの戯曲研究や演出コースの勉強を続けてきて、私たちのジャズダンスサークルで体づくりをして、さて、立ち向かったのは、小さな劇団のシニアワークショップ。
http://www.tokyo-novyi.com/japanese/pg240.html

 発声練習、スタニスラフスキー・システムによる演技指導などの精進を重ね、このたびハレの公演となりました。4月1日に錦糸町でのコンサートでごいっしょしたときには、もう稽古も佳境のさなかで、いろいろ苦労はしつつも楽しそうでした。

 公演は4月14日から19日までの5日間。小劇場のメッカ下北沢の中でも、「東京ノーヴイ・レパートリーシアター」は、客席数26席という極小の小劇場です。5日間の公演でも130人の方しかK子さん初舞台を見ることができない勘定ですが、その中の4人として、ジャズダンスサークル仲間が駆けつけたのです。

 K子さんは、ダンスネーム、ぱらちゃん。体が柔らかくポーズもきれいに決まるのですが、私と同じく振り付けが身体についていかない。私は「先生の振り付けはこうだけれど、私できないからテキトーに動く」というテキトー主義なのですが、パラちゃんは「きちっと動きたい」という方なので、「先生の要求通りに動けない自分」に対してストレスをためてしまいました。それで結局サークルはやめて、別の方向で心身を動かすことにしたのですが、そのひとつがこのシニアワークショップでした。

 ワークショップの仕上げとしての公演。劇作家、真船豊(1902-1977)の最初期の作品『鼬( いたち)』 1935年に発行された戯曲。
 戦前の古い農家を舞台にした人間模様です。
http://www.tokyo-novyi.com/japanese/pg240.html

 K子さんの役は、没落した農家に残された老主人おかじ。息子は南洋へ出稼ぎに出たまま。娘は亭主が入牢し出戻りとなって同居している。旧家ではあってもお金はなく、先祖代々の家屋敷は人手に渡ろうとしている。そんな中、「二度とこの家の敷居をまたぐな」と勘当の身になっていたおかじの亭主の妹おとりが、派手ななりで戻ってくる。さて、家屋敷はどうなってしまうのか、というあら筋で、ひとりひとりの人間性や互いの関係をどう観客に伝え、どう表現するのか、という見所満載で劇が始まりました。

 いっしょに見ていたミサイルママは「パラちゃん、こんなじょうずとは思わなかった」と大感激でした。「最初、舞台にいるのがパラちゃんとは気づかなかった」と言うくらい、役作りは完璧で、頭は白髪にして、声も低く抑え、南洋がえりの息子への思い、勘当されていたおとりへの小姑としての思いなどが、複雑な感情表現となって出ていました。

 シニアワークショップの出演者それぞれ熱演でしたが、ひいき目かもしれませんが、パラちゃんが一番すばらしかった。おかじの大事な鶏小屋を鼬が狙っている。おかじは卵を守ろうとするのですが、、、、、
 「家を守る」という戦前の女性に課せられた価値観と現代とは異なるとはいえ、「自分にとって大切なもの」を守ろうとする老女の心が、熱演によって観客に伝わりました。

 公演が終わって、ご主人が待つ家へ早く帰りたいというテイ子さんと別れ、ミサイルママとサークル会長、私、の3人で和食の店でおそい夕食。「マックで食べたから、そんなにおなかすいていないよね」と、言いながらも、定食セットを残さず食べ終わりました。

 これからもいろんなこと「シニアデビュー」して、60代70代80代、からだ丈夫に心豊かに暮らしていこうと話しました。ミサイルママはダンスと合唱と登山、絵を描くこと。会長はダンスと合唱とご主人とのコンサートや美術館めぐり。テイ子さんは合唱と朗読を続けています。私も、ダンスと散歩(花さんぽ、建物散歩、美術館博物館散歩)のほか、時間に余裕出来たら朗読もやりたいな。そうそう、70代恋愛デビューにも備えておかなくちゃ。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「旧和辻邸」

2012-04-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/04/22
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物めぐり(5)旧和辻哲郎宅(川喜多邸)

 鎌倉、小町通りから鶴岡八幡宮方面へ向かい、出口あたりで左手山側にちょっと横に入ると川喜多映画記念館があります。川喜多長政(1903-1981)かしこ((1908-1993)は、映画の輸入や日本映画の海外普及を通して日本の映画産業に携わった夫妻です。
 2010年、旧川喜多邸敷地に映画記念館がオープン。

 和辻邸側から見た川喜多記念館


 記念館敷地内には、夫妻の住んだ家があります。夫妻が外国映画関係者などをもてなすために使用し、数々の映画スターや監督が訪問してきました。
 元は江戸時代末期に神奈川県に建てられた農家を和辻哲郎が東京に移築し、それをさらに川喜多夫妻が鎌倉に移築したものです。夫妻の死後、鎌倉市に寄贈され、2010年、鎌倉市によって「景観重要建造物」に指定されました。
 ヴィム・ヴェンダースが1985に『東京画』を製作し、この家の縁側で笠智衆インタビューを撮影したことで、世界の映画ファンにも知られた家になりました。

旧和辻邸         

笠智衆もすわった縁側     廊下
   
 
鎌倉市のHP旧川喜多邸フォトギャラリー
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/b-shisetsu/kawapho.html

 鎌倉は「歴史と文化の町」として文人文化人の家も数多く建てられました。
 鎌倉三大洋館として知られる「鎌倉近代文学館(旧前田侯爵鎌倉別邸)」「旧華頂宮邸」「古我邸」のほか、洋館和館がたくさん残されています。(京都奈良と並んで、鎌倉は太平洋戦争末期の爆撃をうけなかった町なので)。
 古我邸は、三井銀行重役の荘清次郎の別荘として桜井小太郎(コンドルの弟子)が設計し1916(大正5)年に完成。浜口雄幸、近衛文麿の別荘を経て、現在はカーレーサーだった故古我信生の夫人が住んでいます。
 そのほか、旧村田邸など、訪ねてみたい家があります。村田邸は、横浜興信銀行(現横浜銀行)常務取締役村田繁太郎邸として1933年建築され、現在は国文学者故篠田太郎邸となっています。

 鎌倉五山めぐりで浄妙寺へ行ったとき。境内の脇から近道のつもりで来たときと異なるところに出て「あれ、帰りのバス停はこっちだったけな」と思っていると、「辰巳」と表札がかかった大きなおやしき。どうやら料理研究家の辰巳芳子さんのおうちだったみたい。中のお庭には自給自足の広い菜園もあるということで、「鎌倉に住む」っていうのは、やっぱり庶民にとってあこがれの暮らし。

 辰巳芳子邸の奥のほうには、原節子邸。原節子は、1920年生まれですから、今年は92歳になる。鎌倉谷戸の静かな住まい。鎌倉だからこそ、1963年の引退以来50年間もひっそりと過ごせたのだろうなあと思います。

 華頂華子の鎌倉、川喜多かしこの鎌倉、原節子の鎌倉、それぞれの女人にそれぞれのドラマがあり、鎌倉、絵になる町です。キョンキョンのドラマ『最後から二番目の恋』もおもしろかったし。また、のんびり散歩をしてみたい町です。建物をめぐるもよし、花巡りもよし。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「鎌倉華頂宮邸」

2012-04-21 13:00:00 | エッセイ、コラム
2012/04/21
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物めぐり(4)鎌倉旧華頂宮邸

 4月7日、鎌倉にある旧華頂宮邸の内部一般公開があり、行ってきました。

 華頂宮は、慶応年間に伏見宮から分家し、大正年間に跡継ぎ無しのため廃絶。
 華頂宮家最後の当主、博忠王の弟である伏見宮博信王が臣籍降下して華頂侯爵となり宮家の祭祀を受け継ぎました。博信王の母は徳川慶喜の娘(9女)なので、華頂博信は慶喜の孫に当たる。

 華頂博信侯爵の妻は、閑院宮載仁親王第5王女・華子女王。旧皇族華族にスキャンダルは満載ですが、そのひとつ。華子夫人が戸田豊太郎と不倫(旧時代のことばでは姦通ですな)。戸田豊太郎の妻は、徳川慶喜の孫娘徳川喜和子、博信には従姉妹にあたる。旧皇族のなかで最初の「正式離婚」となる事件でした。その後、博信は再婚し渡米。孫の華頂尚隆は日本映画製作者連盟事務局長。事務局長というのがどのくらいエラいのかわかりませんけれど、映画振興のために働いているのはよいこと。

 旧華頂侯爵邸の管理を行っている鎌倉市は「旧華頂宮邸」として公開しています。華頂侯爵邸より華頂宮邸としたほうが「格上」の気分になれるのかもしれませんが、1929(昭和4)年の春に華頂博信侯爵邸が建設された当初から「侯爵家」だったのですから、一度も「宮邸」として存在したことはないのです。鎌倉市のスノッブ精神丸出しのネーミングと言えましょう。まあ、私ら庶民にとっては、宮邸でも侯爵邸でも、「うえつかたのおやしき」をシモジモにも見せていただけるわけで、、、、、しかもタダで。

華頂宮邸北東面            
    
 1931年(昭和6)年に完成した華頂侯爵邸、何人かの人手を経て、鎌倉市が買い取り、庭園が通年一般公開されているほか、内部は春秋に特別公開されています。管理は市のボランティアらが協力して行っているそうで、当日もたくさんのボランティアさんが案内をしていました。

洋館階段             洋室の暖炉
   

 洋館南側洋式庭園の奥に「旧松崎邸和館」があり、こちらもいっしょに公開されていました。東京の上大崎の茶室と門を1971(昭和46)年に移築した建物です。和館は中に入れず、庭から覗くだけ。



 玄関前に青い粒の数珠玉のような実をつけている叢があり、見ている人が「あら~、きれいね、何でしょう」と写真を撮っていました。案内係のボランティアさんに「これは何ですか」と尋ねていた人もいたので、耳をそばだてて聞いていましたが、係も知らないということでした。どこかに出かけると美しい木々や草花に出あうのに、ぜんぜんその名を覚えられません。
 ちょっと気になったのでさっそくネット検索。「青い実」と打ち込んでできたのはジャノヒゲ(蛇の髭、または竜の髭)。太くなっている根は麦門冬(ばくもんどう)という名で鎮咳・強壮に効く漢方薬となるのですって。ほんとにこの名でいいのやらも草花にうとい私にはわからないのですけれど。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「三菱一号館美術館」

2012-04-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/04/20
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物めぐり(3)三菱一号館美術館

 私の好きなレンガの建物。
 旧近衛師団本部の建物がそっくりそのまま保存できた近代美術館工芸館。
 コンドルの弟子辰野金吾設計の東京駅は、現在、戦前当初の姿に復元すべく改修中。

工芸館の桜          改修中の東京駅
  
10月の改修完成へ向けて工事が続く東京駅
    

 東京駅や工芸館のように、公共的な建築物は保存ができるのですが、そうでないと、「老朽化により解体」という憂き目に遭う建物も多い。私が好きだった有楽町駅前の可口飯店のレトロなビルも、解体されてしまい、今はありません。当時は解体されるとも思わずにタイ料理などを食べていて、写真も撮っておきませんでした。(下の写真は、ネットからの借り物)。

 地価の高い東京ですから、高層ビルに建て替えられてしまうのは時代の流れなのでしょうが、建物の保存ができず、キッチュなレプリカにされてしまった所もあります。
 日本銀行協会は1914(大正3)年建設の美しい建物でしたが、高層ビル化により、外壁だけをビルに貼り付けた形で保存され、これじゃディズニーランドの建物よりもっとキッチュな感じと、文句をつけたことがありました。こちらも解体前の銀行協会の写真を撮ってありませんでした。手持ちの写真は「高層ビルの壁」になってからのもの。

 春庭本館「話ことばの通い路」の「ニッポニアニッポン事情 近代建築編」に建築保存について書いてきました。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nipponjijo0605a.htm

可口飯店(解体前)        日本銀行協会(解体後)
  

 コンドル設計の旧岩崎邸。こちらは煉瓦作りではないですが、好きな建物のひとつです。GHQに接収後、貴重な金唐革壁紙にペンキを塗られて台無しになってしまうなどの被害はありましたが、旧前田侯爵邸や庭園美術館と同じようにGHQ接収解除後は東京都の管理下におかれ、保存ができました。

旧岩崎邸玄関側       南面ベランダ側
  

 ジョサイア・コンドル設計の旧古河邸(現在は大谷美術館として保存)

(右側写真に写り込んでしまった方、すみません。加工法を知らないので、お姿をカットできませんでした。)
 
 建築復元の技術が進み、老朽化によって取り壊された建物が解体後、復元された例もあります。三菱一号館です。コンドルによって1894(明治27)年に建てられた、三菱様式建築の最初のものです。
 1894年建設当時の模型


 老朽化のために1968(昭和43)年に解体され、40余年ののち、コンドルの原設計に忠実に、細部の部材なども保存しておいた古いものを使うなどして、復元がなりました。復元には賛否両論もあったようですが、日本銀行協会の貼り付け外壁保存よりはマシなんじゃないかと思います。

復元された三菱一号館正面     中庭側から
  

 三菱一号館美術館として2010(平成22)年春にオープン。私は今回初めて入館しました。「カタガミ・スタイル」の招待券をもらったからです。
 4月11日の夕方、仕事帰りに夜8時までオープンしていることを確かめて寄りました。復元されたコンドル設計の建物を見ることが目的だったのですが、「カタガミ・スタイル」は予想以上の充実した展示で、いつもは買わない図録を2800円はたいて買ってしまいました。

 カタガミスタイルをじっくり見ていたら、「コンドルが愛した日本」という建物紹介のコーナーを見る時間がなくなりました。外に出るともう真っ暗で建物の写真を撮ることができなかったので、4月19日にもう一度三菱一号館を訪れました。
 
 復元の過程はデジタル展示されており、中国浙江省での煉瓦作り、煉瓦を積み上げての強度試験、避雷針復元、鉄骨柱回りを覆う木彫装飾などの復元など、多くの技術者が職人としての誇りをかけて復元工事に携わった様子がわかりました。

 「職人さん達、すごいなあ」という精緻な復元の苦労への感想もさることながら、「どんだけ金かけて復元したのやら。ミツビシ、金もってるなあ」という「何をみてもこの感想になってしまう庶民」の感想ももってしまうのが、私。

 三菱一号館紹介ページ
http://mitsubishi-ichigokan.jp/

<つづく>
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ぽかぽか春庭「赤レンガ図書館」

2012-04-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/04/18
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物めぐり(2)赤レンガ図書館

 4月6日、酒類総合研究所東京事務所の赤煉瓦建物を見たあと、北区中央公園文化センターと中央図書館へ。
 中央公園文化センターは、元陸軍東京第一造兵廠(兵器工場)の本部として1916(昭和5)年に建てられました。戦後は米軍に接収されたりなどの変遷を経て、1981年に「中央公園文化センター」として整備され、区民に利用されています。

 元は茶色のタイル貼りだったそうですが、米軍が白ペンキを塗って改装したとかで、現在は白い外観。よく映画やテレビドラマのロケに利用され、警察署になったり裁判所になったりしているのを見かけました。

文化センター正面
 外壁レリーフ 

 この文化センターの北側に中央公園が広がっており、北区中央図書館があります。この図書館は、「赤レンガ図書館」の愛称で2008年にオープンしました。もとは、旧東京砲兵工廠銃砲製造所275号棟。1919(大正8)年建設。この赤煉瓦の建物を現状のまま保存してほしいと2006年夏に書いたことがありました。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nipponjijo0605a.htm

 現状保存はかないませんでしたが、一部保存という形で、外観は残し内部は建て直すという方法で保存されました。窓硝子などがボロボロになっていたままの銃砲製造所275号棟、これはこれで歴史の重みを感じさせる風情があったのですが、現在は明るくきれいな図書館です。(2008年改修)

桜と赤レンガ図書館       図書館の前にはドラマロケクルー
  
 この図書館、今期放映のドラマロケに使われています。4月20日金曜スタート竹野内豊と和久井映見主演の『もう一度君にプロポーズ』です。主演の和久井映見が図書館員の役で、勤務先がこの図書館という設定。私は、4月4日と4月6日にロケ現場に遭遇しました。

 ロケ現場、通り過ぎるだけじゃもったいない、竹野内豊様のお姿をなんとしても撮影せねば。スタッフがカメラを向けている人に「撮影はご遠慮くださ~い」と大声を出しているのを、ふん、イケメンは、一般人に撮影されてナンボのもんじゃい、と思って撮りました。これくらい遠くからの撮影なら、肖像権を侵すことにもなりますまい。
 こちらを向いて立っている二人が竹野内豊と和久井映見


 番組サイトの紹介では「竹野内演じる主人公・宮本波留(はる)は、妻・可南子と結婚して4年目。ある日、可南子はくも膜下出血で倒れ、術後意識が回復すると、可南子の中から波留の存在も二人で過ごした日々の記憶も丸ごと消えてしまっていた。波留はすべてを覚えているのに、可南子は全く覚えていない。夫婦なのに今までのようには一緒に過ごせない……そんな矛盾状態に陥り、落ち込む主人公。しかし、彼はそれでも妻を失いたくないという強い思いから、ある前向きな決意をしていく。
「もう一度、ゼロから始めよう!」「もう一度妻と出会い、恋をしよう!」

 というあらすじ。視聴率、どーなんでしょう。とりあえず、図書館ロケが出てくるという第1話は見てみます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「酒類総合研究所の赤レンガ」

2012-04-17 00:00:01 | エッセイ、コラム

2012/04/17
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物めぐり(1)酒類総合研究所の赤レンガ

 JR王子駅の脇を音無川が流れています。音無川は、石神井川から水をひいた江戸時代からの用水路で、王子神社と南の飛鳥山の間でせき止め東へ流した農業用水でした。王子周辺に農地など皆無になり、下水が流れる川となっていましたが、現在は水の浄化装置ができ、王子駅前の親水公園となっています。水車などが置かれ、水遊びのできる公園として整備されています。
 音無橋の南側の飛鳥山公園は、江戸時代から桜の名所。土日に満開になると押すな押すなの人混みで、ビニールシートを広げる隙間もないくらいですから、飛鳥山はぐるっと歩いてまわり、一休みして宴を繰り広げるに音無川の親水公園のほうががよい、という花見客も多い。

音無川で花見する人々  音無親水公園のトイレ  

 音無橋の脇の桜並木の細道を通って南西に歩くとすぐ、旧醸造試験所があります。明治37年(1904年)、大蔵省の施設として建設され、酒類醸造の試験と講習を行ってきました。1995年以後は国税庁醸造研究所に、2001年には独立法人酒類総合研究所となりました。組織はくるくる変わったけれど、ずっと変わらずに北区の名所となってきたのが、醸造研究所のレンガの建物です。
 

 建物見学は私の趣味のひとつですが、近代建築のなかでもレンガの建物がことに好き。醸造研究所は、1年に1度、4月上旬の金曜土曜に内部の一般公開を行っているのですが、私はなかなか日にちが合わなくて、内部を見たことがありませんでした。今年はじめて春休み中の内部公開に間に合いました。この酒類総合研究所東京事務所では、日頃はお酒の商品テストをしているそうです。4月6日、六義園、飛鳥山の桜を見たあと、一般公開に行きました。

 醸造研究所レンガ造りの建物を設計した妻木頼黄(つまきよりなか1859(安政6) - 1916年(大正5))は、ジョサイア・コンドルの弟子。明治時代の官庁建築を設計施工し、官庁営繕組織を確立した人です。醸造試験所は、1904年、ドイツのビール工場を参考にして建てられたそうです。建物の西側は醸造試験所跡地公園として整備されて開放されており、外観は一年中見ることができます。

 内部見学では、醸造に関するパネルや醸造実験道具が展示され、さらに、研究所でできた日本酒の試飲がありました。うれし。小さなコップにつがれたお酒、アルコール度数は19度くらいあるという説明だったけれど、ビールよりさらりとした飲み口で、くいくい飲めてしまいました。「あら、おいしい、もう一杯もらってもいい?」というと、「どうぞどうぞ」と、普段は謹厳実直に酒造りの研究に励んでいるであろう研究員が勧めてくれました。で、もう一杯。おいしい飲み口のお酒、まだ名前がない、というので、私が「百年赤煉瓦」と命名提案しました。採用されないと思うけど。

酒類研究所内部


 二杯も飲んだのだから、何かお酒に関する質問でもして、研究の一端を披瀝してもらおうと思ったのですが、私がしたのは「あの~、醸造研究をしているひとの中に、下戸はいますか」というくだらない質問。お答えは「アルコールがダメな人もいます」というものでした。あ~あ、せっかく醸造研究所で研究しているのに、飲めない人ってかわいそう。

 腕にお酒を含んだパッチを貼って、アルコール分解が体内でできるかどうか検査するコーナーで、パッチを貼る係の人の顔に見覚えがあります。腕にパッチを貼って貰いながら、「あの、失礼ですがこの研究所の職員の方ですか、それとも北区の職員さん?」と尋ねると、「先生、お声がけしていいものやら迷っていたのですが、いつもは○○大学講師室におります。今日は臨時のお手伝いです」とのこと。あらま、毎週顔を見ていた人なのに、ぜんぜん違う場所で会ったので、どっかで見た人だ、ということしか思い浮かばず失礼いたしました。2杯も飲むからだよ!「新学期からもよろしくおねがいします」と挨拶して研究所をあとにしました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「新しい春に新しいスタート」

2012-04-15 10:00:00 | エッセイ、コラム
2012/04/15
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(14)新しい春に新しいスタート

 9日から新学期が始まりました。新しい出会いや新しい教科に期待や不安を抱きながら、教室のドアを開ける。
 今期の受け持ちには、お初にお目にかかる国の学生はいませんでした。セネガル、イギリス、インドネシア、ベトナム、ミャンマー。もうひとつのクラスは、ネパール、メキシコ、イラン。

 去年も今期もフクシマの影響で留学生がガクンと減っています。女性は特に、親が「将来娘の健康に影響がでないか心配」と過剰に反応しているのかもしれない中、イランからの女子学生、来てくれてありがとうという気持ちになります。
 二重スタンダードだとかの鳩ぽっぽ発言がイランで削除されたのは、「言わなかった」からではなく「日本政府との軋轢を考慮して」だそうです。「日本は女性にとって世界でもっとも安全な国」とこれまで留学生達に好評だったのに、「健康被害がでるかもしれない危険な国」という評価になったのだとしたら、残念しごく。
 
 私立大の「日本人に日本語学を教えるクラス」は、いつもに比べて新入生の受講生が多い。これまでの授業進行とはちょっと変えなければならない部分も出てくるでしょう。パワーポイントスライドを作成しての発表を学生に課してきたけれど、1年生の中には、高校で情報処理の授業を受けておらず、パソコンのワープロやパワーポイント作成がまだできない者もいるので。

 もうひとつの私立大で、中国人留学生と日本人学生混在のクラスに日本語教授法を教える授業は、これまでの「日本人学生に日本語教授法を教える」というのとは異なったシラバスで進んでいかなければならない。どういう工夫をしたらよいか、これから勝負です。

 そんなこんなでバタバタとはじまった新学期。今年よかったのは、どこのキャンパスでも桜が見られたこと。これまで、たいてい四月の第2週からはじまる新学期に行ってみると、すでにキャンパスの桜は散り終わり、葉桜にもなっていない、赤い顎だけの姿のことが多く、このキャンパスの桜を見るのは15年目にして初めて、という大学もありました。

 12日の午後、仕事を終えてキャンパスの通路を歩いていると、遠くから「センセー」と呼んで手を振っている学生達がいました。カフェテリアに集まって、お茶している留学生。昨年の10月から半年教えた学生達でした。無事進級し、新しいクラスでの日本語学習を始めている学生達が、新学期になって担当講師ではなくなった私にそろって手をふって挨拶してくれるのも、うれしいことです。
 桜の4月、新入生とともに、新しい年度のスタートです。

 都内の桜名所とキャンパスの桜、写真のいくつかです。

飛鳥山公園下を通る都電 
  

内堀飯田橋付近のボート 上野のお寺・門前 十条倉庫引き込み線の桜 
        
  
キャンパスの桜・朝8時
   
 
 六義園で許可無しゲリラ撮影をしていたウクライナの美少女たち。なぜか古代中国の衣装コスプレ。おそらくは古代日本の衣装との勘違い。見物人もまた「ウクライナからきたんだってよ」「あら、ウクライナってあんな衣装だったのね」と勘違い会話をしていました。彼女たち、ウクライナで「これが日本の春だ」てな写真集でも発売するのかも。

ウクライナのふたり


六義園しだれ桜 
 


<おわり>
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ぽかぽか春庭「鎌倉五山めぐりその2」

2012-04-14 13:00:00 | エッセイ、コラム
2012/04/14
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(13)鎌倉五山めぐりその2

 4月7日、思いがけない源氏山ハイキングで2時間歩き、いささかくたびれました。途中、葛原岡神社で一休み。ベンチにすわって玉こんにゃくを食べました。ブランチにと持ってきたお弁当は、行きの横須賀線電車の中でさっさと食べてしまいました。お昼を食べずに歩き続けたので、鎌倉に着いてからはじめて口にいれる食べ物が玉こんにゃく。
 神社の祭神である日野俊基の名は、聞いたことある。聞いたことある気がするけど、誰だったっけな。説明板によると、日野俊基は、後醍醐天皇の側近。鎌倉幕府倒幕の密議が発覚、葛原岡で処刑。明治維新後、ムツヒト天皇の発議により、神社建立、とあります。もろもろの説明はドーセすぐに忘れてしまって、この先、私の脳裏には、葛原岡神社といえば、玉こんにゃく100円、というのが思い出されることでしょう。

 やっと源氏山ハイキングコース出口。浄智寺(五山第四位)に立ち寄ったのは、なんぞ座るベンチでもないかしら、と思ったゆえ。入山料200円。境内は国の史跡というのでひとまわり。なでると御利益あると書いてある布袋さんなぞがおわしました。頭をなでて、ボケませんよーにとお願いしました。

浄智寺
  

 若い頃、東慶寺が好きでときどきお参りに来ていました。墓域の中、文学者のお墓参りをしながら歩くのもいわば掃苔趣味(古人のお墓をたずね、墓の苔をはらってお参りするという趣味)のはしりとも言えるものでした。40年前には「掃苔趣味」なんていう言葉は聞かなかったですが。
 浄智寺のお墓に渋澤達彦が眠っていたこと知りませんでした。今回はどうも掃苔趣味がペケです。ちゃんとお参りしたのは尊氏のとうちゃんだけでした。あー、名前もう忘れた、、、そうそう、貞氏さん。

 若い頃は、鎌倉駅で降りることはほとんどなく、北鎌倉で下りて東慶寺へ向かい、時間があれば円覚寺にもお参りする、そんなコースでした。鎌倉五山のうち円覚寺は東慶寺のついでに立ち寄ることもありましたが、浄智寺まで来たことはありませんでしたから、鎌倉五山全部まわれたことをもって、よしとしましょう。

 4月7日の鎌倉散歩の最後。夕方、鎌倉五山第2位の円覚寺にたどり着きました。ここは何度も来たことがあるのですが、前回10年前に娘と来たときは寄りませんでしたから、久しぶりの参拝です。
  
 境内ひとまわりし、最後に階段を上って国宝という洪鐘を見て、鐘の脇の茶店によりました。お汁粉を食べながら、山上から東慶寺を見下ろす景色、見覚えがあります。ああ、私、若い頃に円覚寺によったときもこの茶店から東慶寺を見下ろしたなあと夕暮れの光景にいささか感慨深く、過ぎ去った若い頃が思い出されました。このころもひとりで鎌倉お寺巡り。今もひとりで寺社巡り。まあ、やっていることウン十年変わってない。

円覚寺茶店から見下ろす東慶寺


 東慶寺の写真などとっていると、にぎやかに和装の若者が繰り込んできました。男性ひとりが写真係を務め、和服姿のお嬢さん達の写真を撮っています。すてきな着物姿なので、私も何枚か写真を撮らせてもらいました。「和風の習い事をなさっているサークルの方々なんですか」とおたずねすると、「いいえ、そういんじゃなくて」と笑っています。
 名刺を渡して「うしろ姿の一枚をブログに掲載してもいいですか」と許可を求めると、「正面からのもOKですよ」と、気さくなお返事。でも、後ろ姿をUPします。


 思いがけない鎌倉源氏山ハイキングの一日、くたびれてはいましたが、最後に若い人々のエネルギーをもらったようで、湘南ライン宇都宮行きに乗って帰りました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「鎌倉五山めぐり」

2012-04-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/04/13
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(12)鎌倉五山めぐり

 京都の南禅寺は、勅願禅寺(天皇上皇の発願により建立された寺)であり、禅寺最高位とされる寺です。鎌倉五山とは、南禅寺に次ぐ寺格とされた禅寺を指します。第一位建長寺から円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺。

 春の鎌倉散歩、3月22日建長寺にに行きました。重要文化財の山門、仏殿、法堂、唐門、国の史跡名勝に指定されている庭園。そのほか、国宝やらもいろいろあるらしい。さすが五山一位。見るべき人が見ればいろんなお宝に出会うのでしょうが、私は藤牧義夫展のついでに足を伸ばしたので、ざっくりと有名どころを見てひとまわりしただけでした。
建長寺法堂仏殿
建長寺庭園
建長寺唐門(修復後のもの)

 4月7日の鎌倉散歩、一番の目的は「華頂宮邸内部春の一般公開」でした。公開は10時からなので、9時半から30分ほど時間があり、華頂宮邸の手前にある報国寺へ。報国寺は、竹寺として有名です。

 報国寺山門と本堂
  

 竹林は入場料200円
  
かぐや姫が生まれてきそうな竹

 報国寺へ向かうとき下りたバス停の名は浄妙寺前。ついでですから、浄妙寺(鎌倉五山の第五位)も参拝しました。入山料200円。
 境内では、枯山水とともにこの寺の「名所」らしい足利貞氏の墓と伝えられている墓所にお参りしたのですが、あれ?貞氏って誰?状態でした。歴史にうとい。うちに帰ってから息子に聞くと、室町初代将軍足利尊氏の父親でした。あらら、尊氏なら知ってたのに。

浄妙寺山門へ向かう道     浄妙寺本堂
  

 4月7日の鎌倉、華頂宮邸の次の目的地は、旧和辻邸一般公開です。古民家を移築し、哲学者和辻哲郎のつぎは映画制作者の川喜多夫妻が使用していました。川喜多記念館のイベント戸田奈津子講演会を聞こうとしたら、もう満員で入れませんでした。講演会を聞いたらあとは寄り道せずに帰ろうと思っていたのに残念。
 仕方ないから、ぶらぶらと歩いていたら線路を渡る道があり、寿福寺前に出ました。
寿福寺山門

 寿福寺に北条政子と源実朝母子の墓があると書いてあったので、お参りしようと、境内に入っていき、お墓のなかをどんどん奥へすすんだのですが、それらしき案内板もありません。まだ奥なのかなあ、と山道に入りました。え~、こんな山奥、これじゃ、高尾山ハイキングくらい歩いたなあと思いながら進んでいくと、山ガールにピチッと衣装を決めたハイキング姿の人々とすれ違う。おやおや、ほんとに山みたいだ、と思っていたら、そこは源氏山ハイキングコースでした。北条政子に出会えずにハイキングコースに入ってしまったのでした。

 お花見ピクニックしている人を見ながら、しかたないので政子のダンナの頼朝像にあいさつして、北鎌倉方面へ向かいました。すごい山道。中高年のグループとすれ違う。おばさんが一人「お花見しようって言うからついてきたのに、こんな道歩くとは思わなかった」とぶーぶー言っています。わかるわぁ、その気持ち。私もただ政子のお墓参りしようと思っただけなのに、2時間のハイキングコース、きつかった。

源氏山公園のお花見
  頼朝像
 
 源氏山ハイキングコースを北鎌倉側に下りてくると、鎌倉五山第三位の浄智寺がありました。もうくたびれて五山のお寺、どれがどれやらという状態でしたが、せっかくですから、お参り。
 報告はあした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「桜あるき」

2012-04-11 00:00:01 | エッセイ、コラム

2012/04/11
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(11)桜あるき

 東京で、鎌倉で、花見散歩を続けています。
 6日は、朝から一日、自転車で六義園、飛鳥山、音無川などを巡りました。
団地公園の桜

7日は鎌倉の源氏山公園でハイキング花見、五山巡り花見。
 9日午後は、仕事帰りに寄り道して、四谷から市ヶ谷を通り過ぎて飯田橋まで、外堀の土手の上を歩きました。お堀の水に桜の枝が映えてとてもきれいでした。


 土手の上には、夜のお花見宴会に備えて周辺の大学や会社の場所取りビニールシートが敷かれています。シート番が早くも缶ビールを飲み始めているグループあり、ベンチで俳句をひねっている老婦人あり、ベビーカーから抱き上げた赤ちゃんを「高い高い」して桜の枝に近づけている若夫婦あり、それぞれの花見を楽しんでいます。
 東京直下型地震が5年以内に何パーセントとか、まだまだ不安はいろいろありますが、とりあえず、今日は今日の桜を楽しまなくちゃ、という感じ。
錦糸公園20120401

 土曜日の鎌倉は、ちょっと肌寒い花見歩きだったのですが、9日のお堀端花見散歩は、とても暖かい日差しで、コートも上着も脱いで歩きました。
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ぽかぽか春庭「桜吹雪忌」

2012-04-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
六義園しだれ桜(エドヒガン変種枝垂れ)2012年4月6日

2012/04/10
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(10)桜吹雪忌

 4月6日、お花見サイクリングで六義園、飛鳥山などで桜をながめつつ自転車を走らせました。
 4月7日、春休み最後の「ひとり行楽」として鎌倉へ。
 1月から始まっていた鎌倉での「藤牧義夫展」を会期終了3日前の3月22日まで見ないで待っていたのは、3月下旬になれば、鎌倉で花見をしつつ藤牧展も見られるのではないかと期待していたからです。しかし、展覧会会期終了となるのに、桜はまだ固いつぼみ。しかたなく、とにかく藤牧展は会期が終わる前に見ておき、花見は別の企画で、と思いました。この前鎌倉を散歩したのは、2002年だか2003年の秋に、娘とふたりで歩いて以来のことですから、春に2度も続けて行くのは初めてのことです。

 鎌倉花見のメインは、旧華頂宮邸一般公開と旧和辻哲郎宅一般公開です。近代洋風建築のお屋敷と、『風土』の哲学者から映画制作者の川喜多夫妻の手に渡った「武蔵野の農家」の家を見ること。(建築散歩の報告はまたのちほど)

 鎌倉駅前から金沢八景行きのバスに乗り込むと、隣席の女性が黄色い花を持っていました。「きれいな花ですね」と、声をかけてみました。
 女性は「ええ、これから鎌倉霊園へお墓参りに行くんです」と、バスでのおしゃべりが始まりました。

 私は人とことばをかわすのが苦手で、手紙、ブログやメールならいくらでもおしゃべりができるのに、直接顔を合わせて話すと、緊張するのです。緊張するのでこわばった話し方になり、子どもの頃「○○ちゃんの話し方って、こわい」とクラスメートに指摘されたことがいまだにトラウマになっていて、人と話すのが苦手になったみたい。家族など、慣れている人なら平気ですが、初めて出会った人や、これから仕事で関わらなければならないとなると、特に。
 それでも、「この先二度と会うことがない人」とは、割合平気で話せます。きっと「これから関わっていかなければならない人」と話すときは「こわい話し方をしてイヤな人、傲慢で生意気な人、という第一印象を与えないようにしなくちゃ」と思ってしまうので、話すのがイヤになり、この先二度と会わないとわかっている人だと、緊張せずに話せるのだろうと思います。

 隣席の方は、「きれいでしょう。母は黄色い花が大好きだったので、いつも黄色の花を持っていくんです。夏はね、ひまわりが一番好きでした」と、お母さんの思い出話を始めました。こういうふうにひとりでしゃべっていて、こちらは相づちを打つだけの人となら、私も、おしゃべりができます。私の妹もひとりでしゃべりまくる人です。

 この女性のお母さんは、80歳まで元気にひとり暮らしを続け、犬の散歩を欠かさない人でした。81歳すぎた朝、いつものように犬の散歩に出かけたのですが、帰ってこないのでこれは変だ、となりました。近所の方が見つけたときは、すでにこと切れている姿だったそうです。脳溢血で倒れ、急死。犬は、散歩の綱がお母さんの手からはずれても、じっと飼い主のそばにいて、見守っていたのだと。

 家族や近所の人皆が、「後生がよい人だ」と思ったそうです。80歳という年齢まで犬の散歩に出られる元気さを保ち、「早すぎる死」という嘆きもなく、子ども達に介護の苦労をかけることもなく、きっぱり旅立ち、立派な一生を送ったと、子ども達も満足して送り出したのだとか。

 東京生まれだけれど、今は御殿場に住んでいるというこの女性は、「父の命日は二月の寒い頃なので、お父さんにはがまんしてもらって、毎年母の命日4月8日に両親まとめての墓参り。毎年桜がきれいなころに鎌倉に来られて、お母さんほんとうに子ども思いだねって、毎年思いながらお花見がてら鎌倉霊園に行くんです」と言います。「こうして毎年お墓参りするのも、母がよい死に方をして、子ども達を患わせることがなかったことへの恩返しかな」と語っていました。
 世の中の「元気で長生き、ぽっくり死にたい」という願望を代表するような死に方です。

 4月10日は、2002年に54歳で亡くなった姉の命日です。
 姉はこの日、桜吹雪を見つめながら、医者の誤診による無念の死にも泣き言一つ言わず、静かに旅立っていきました。
菩提寺に咲く枝垂れ桜。

 毎年、東京では三月下旬に花が咲き、10日にはもう葉桜。群馬の山の中のホスピスで見たような美しい桜吹雪は、4月10日には過ぎてしまっていたのですが、今年は、姉をしのぶにふさわしい桜吹雪を見ることができます。

 死生観というのは人それぞれでしょうが、母親が55歳で姉が54歳で早死にしてしまった私は、介護に手を患わせても、看病に疲れてこちらが死にそうになったとしても、家族にはできる限り長生きして欲しいと思っています。
 でも、「僕はどうせ早死にするから」と言っていた夫が、なんだかんだで還暦を迎え、さらにマラソンに目覚めてしまったのは計算外。早死にするというから、早めに未亡人になれるのなら、それまでの間ちょっとはがまんしておこうと思っていた夫なのに、長生きされたら未亡人計画はどうなるやら。
 
 運動大嫌いで、「運動不足で早死にするなら、それでよし」と言っていた夫が、タイ語学習仲間と「タイのマラソン大会に出る」という目標を持って以来、にわかにウォーキングに目覚め、仕事先回りは「ビジネスシューズのように見えるウォーキングシューズ」を履いて歩いて回り、休日には皇居一周ランニングを続けています。今のところ、10キロを100分で走っているけれど、タイマラソンの出場標準記録は10km90分なので、もう少しがんばると言っています。どーしたもんだか。
 ま、夫は夫で皇居の回りを走りながら桜見ているだろうし、妻は妻でひとり鎌倉や東京の桜を見て歩く。
皇居北桔橋門前のしだれ桜

 生きるも死ぬも、それぞれの運命。咲くも散るも花の運命。

<つづく>
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