春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2015年8月 目次」

2015-08-30 00:00:01 | エッセイ、コラム



20150830
ぽかぽか春庭>2015年8月 目次

0801 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2015十五夜満月日記8月(1)出発前のボリショイサーカスやら納涼会やら」
0802 2015十五夜満月日記8月(2)準備ととのわないまま出発
0804 2015十五夜満月日記8月(3)姪の結婚式

0805 ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記8月(1)2003年の夏の庭
0806 2003三色七味日記8月(2)2003年の花火
0808 2003三色七味日記8月(3) 2003年の4TEEN
0809 2003三色七味日記8月(4)2003年の怖いビデオ
0809 2003三色七味日記8月(5)2003年のハウスウエディング下見
0812 2003三色七味日記8月(6)2003年のお盆帰省
0813 2003三色七味日記8月(7)2003年の山東省出征記録画集

0815 春庭ことばのYaちまた>平和を祈る(1)我が窮状・憲法第9条

0816 2003三色七味日記8月(8)2003年のうさぎハーレクイン
0818 2003三色七味日記8月(9)2003年のLLサイズ衣装
0819 2003三色七味日記8月(10)2003年の娘のアルバイト
0820 2003三色七味日記8月(11)2003年の火星大接近
0822 2003三色七味日記8月 (12)2003年のステップバイステップ
0823 2003三色七味日記8月 (13)2003年の個人情報保護

0825 ミンガラ春庭ミャンマーだより>2015ヤンゴン日記8月(1)ヤンゴン到着
0826 2015ヤンゴン日記8月(2)ヤンゴンのバス、ヤンゴンのサイカー
0827 2015ヤンゴン日記8月(3)ヤンゴンの犬、ヤンゴンの飯屋
0829 2015ヤンゴン日記8月(4)ヤンゴンの雨期、ヤンゴンの虫
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ミンガラ春庭「ヤンゴンの雨期、ヤンゴンの虫」

2015-08-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150829
ミンガラ春庭ミャンマー通信>ヤンゴン8月日記(5)ヤンゴンの雨期、ヤンゴンの虫

 日本は8月、猛暑にも見舞われ、夏の盛りでした。しかし、ミャンマーは夏ではありません。ミャンマーが一番暑いさかりは、3月~5月の暑期と呼ばれる時期。6月~9月は、雨期です。10月は雨期あけ。12月~2月が、乾期で観光にはベストシーズンになります。
 ミャンマーの8月は雨期真っ最中で、毎日が湿度100%となります。

 雨期ときいて、私は35年前にすごしたケニアの雨期を思い出して、ケニアと同じように朝方ざ~と一気にふり、あとは晴れてしまう振り方を想像していました。ケニアの雨期はサバンナ気候の雨期でした。
 しかし、ミャンマーの熱帯モンスーン型の雨期は、ようすが違いました。一日に何度も降ったり止んだりし、ときには、日本の台風のような激しい風雨となります。降っているときはいくらかは涼しくなるのですが、止むと一気に温度も湿度も上がって、湿気で肌がべとべとになります。大学校舎にはひさしがとりつけられているのですが、雨がひさしを叩く音が半端でなく、日頃大声で授業をするので、学生から「寝られない」と文句も出ていた私の声も教室の中で聞こえにくくなってしまいます。

 8月17日、台風並の強い風雨にみまわれました。私がいる事務所前の大木の枝が折れて上から落ちてくるのを目撃しました。こんなときは、傘も役立たず、雨が弱くなるまで2時間3時間と屋内に退避しているよりほか、仕方ありません。

 スーパーで買い物をしている間に、きたときはそれほどでもなかった雨が、帰り際にはとても歩けないほどの雨になっていました。入り口には思案顔の人々が折り重なっています。
 スーパー店内のカフェで雨宿りすることにしました。

 みな考えることは同じですから、カフェもごったがえしています。席がなかったのですが、ウェイターが若者ふたりに相席をたのんでくれました。コーヒー1杯1000チャット100円です。1500チャット150円あれば、道ばたの露店で1食分腹が満たせるのですから、カフェに100円払えるのは、それなりに余裕がある人たち。最貧層のひとつといわれる紡績工場の女工さんの給与は、1ヶ月30000チャット3千円。大学卒の初任給が5~7万円。英語やIT能力に高いスキルを持つ人が7~15万円。という給与体勢の中、私は一杯100円のコーヒーを飲んだ。
 でも、本当は、私はどちらかと言えば余裕ない側の人たちのほうなんです。タクシー運転手にさえ「そんな安い給料で年取ってまで働くのは、たいへんだろう」と、同情されたくらいです。(チャットと円の換算を間違えて給与額を言ったらしい)

 雨宿りの1杯100円のコーヒーさえ「贅沢」と思ってしまうような生活をしてまで、どうして私はここに来てしまったのか、と、あまりうまくないエスプレッソを飲み込みながらため息をつき、止まない雨を眺めました。

 この日買ったのは、バケツとタオル。
 13日に引っ越しした外国人教員宿舎。部屋の広さは一人暮らしには十分だし、冷蔵庫、蚊帳など、3月に赴任していた前任者がそろえてくれていた生活備品も、残されています。しかし、部屋にキッチンがなく、共同キッチンのプロパンガスはカラ。シャワーは、お湯が出ず、水シャワーのみ。帰宅してすぐに汗を流すときは水シャワーでもいいのですが、髪を洗ったりするには、やはりお湯があったほうがいい。バスタブはありません。そこで、電気ポットでお湯をわかし、バケツで水とまぜて髪を洗うことにしました。
 若い頃すごしたケニアや、中年になって赴任した中国で田舎に旅行したときはこの方式でしたから、私はこれで十分ですが、贅沢に慣れた若い世代には、めんどうなことだと思われるかもしれません。

 ベッドにかかっている蚊帳は、それほど必需品ではありませんでした。室内に小さな蝿がくるけれど、それはヤモリが退治してくれる。外出時に蚊取り線香を焚いたら、ヤモリの姿が見えなくなってしまい、悪いことをした。室内で蚊には刺されていません。


 室内に蚊が入り込んだことは今のところないけれど、屋外で蚊にさされるのは、要注意。デング熱マラリアその他の蚊が媒介する病気も多いので、液体の蚊取りは室内で昼夜ずっとスイッチをいれており、蚊取り線香も併用しています。それなのに、なんだかよくわからない虫にさされたらしく、右足だけ赤く腫れ上がりました。日本では経験したことのない自分の足。
 虫なのか、かぶれなのか、よくわからないので、あとで診断してもらうために、写真をとっておきました。あらまあ、赤くないところも、ずいぶんとふくれあがって、、、、って、そりゃもともとの太さですがな。足のサイズは22.5で小さめなので、その分横にひろがっているんですの。



 いったい、この腫れは何なのでしょう。かゆみ止めを塗りまくっていますが、この赤さが目にはいると、バアサンなのに、どうしてこんな目にあうことになったのか、と、弱気になります。どうしてこんなことに、、、、そうだ、自分で赴任を希望したのだった。

 こぎたないものをUPして恐縮ですが、自分の記録として、こういうことも経験したのだという証拠にのこしておきます。

 ヤンゴンには、カンドジー湖と、インヤー湖というふたつの大きな湖が市内に残っています。東京は上野の不忍池はかろうじて残ったけれど、「溜池」を埋め立ててしまって、今や溜池山王なんていう地下鉄駅名にしか残されていないの比べて、都会の中に大きな湖が残されてよかったと思います。また、市内、雨のあとは至る所に水たまりができ、低いところにある道路は川になります。

 宿舎に向かうタンランから歩く道路も川になるので、タクシーでないと帰れない。水たまりがあるので、夜になると、都会の真ん中でも盛んに蛙の鳴き声が聞こえます。東京では、ビルの間から蛙の合唱が聞こえるなんてことないので、ゲーコゲーコの合唱をなつかしく聴きました。犬の遠吠えはやかましく聞こえるけれど、蛙の合唱は好き。

 雨期のミャンマー。それなりの楽しみ方はあるのでしょうが、今のところ、大学と宿舎の往復だけで、突然の大雨を思うとおちおち街歩きもしていられません。ヤンゴンの雨期をちょっとなめていました。雷神さま風神さま、風雨担当のほとけ様、ごめんなさいです。

<つづく>
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ミンガラ春庭「ヤンゴンの犬、ヤンゴンの飯屋」

2015-08-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150827
ミンガラ春庭ミャンマー通信>ヤンゴン8月日記(3)ヤンゴンの犬、ヤンゴンの飯屋

 ヤンゴン市内、どこにも犬がいます。野良犬です。
 愛玩犬は室内に囲われていて、街中をうろうろしているのは、野良ばかり。道ばたに出ている露店の残飯などで十分に生きていけるらしく、犬は堂々歩き周り、また、道にも建物わきにも寝そべっています。ときにキャンキャンという甲高い悲鳴が聞こえるのですが、人が蹴っ飛ばしたりする場合もなきにしもあらずとはいえ、たいていは犬同士の残飯をめぐる縄張り争いかと。真夜中に遠吠え合戦をする宿舎周辺の犬たち、オオカミさながらの遠吠えです。安眠妨害。

 大学の中、ことに食堂のまわりにはたくさんの犬がいて、家族同士なのか、数匹ずつ固まってくつろいでいます。
 私のいる文学科の建物は一番食堂に近いので、昼ご飯を食べに行くには50メートル歩けばいい。雨のときも苦にせずに出られますが、そのかわり、校舎のまわりに犬が多い。



 食堂は、英語のCanteenからきていて、カンティンと呼ばれています。日本の学食のように、大学が経営していたり飲食店と提携しているというのではなく、それぞれの食堂経営者が場所を区切って営業しています。大学に所場代を払っているのかどうか、まだ確かめていません。



 朝から大学が閉鎖される夕方5時までは営業しています。ミャンマー料理の店とかシャン料理の店とか、それぞれに特徴があるらしいのですが、私にはその区別もまだわからないので、ひとりで店に入るときには、適当に店を選んで、ミャンマー文字のメニューをにらんで、その文字の列がドリンクなのか料理なのかだけ区別して、適当に指さします。でてきたのが、野菜と豆を混ぜたミャンマーサラダだったりします。
 ぐるりと周囲のテーブルを見回して、「あれと同じものをくれ」と、ブロークン英語でいいます。ウェイターたちは英語わからないので、店の奥から主人や女主人をつれてきます。片言英語がなんとか通じると、昼ご飯にありつけます。

 ヤンゴン到着して2日目にはおなかをこわしたので、数日間はランチはバナナ2本ですごしました。バナナは自分で皮をむくので、いちばん安心できる気がして。
 日本のバナナと種類がことなり、とてもずんぐりふとっちょバナナです。その日のうちに食べないと、実が翌朝にはぐずぐずになる。


 ミャンマー料理、元気いっぱいのときにはおいしいのですが、なかなかハードなのです。日本では「鉄の胃袋」と言われて、娘なら絶対に食べない賞味期限切れの食べ物を平気で食べていたのですが、当地の食べ物、あっさり味の米麺料理もあるのですが、ごはんとおかずのセットだと、たいてい油と香辛料の刺激の強い味付けです。

ちょい高級なハッピーカフェヌードルの、黒米とポテトセット。米麺、日本の油揚げとはことなる豆腐をあげたもの。


インド系おっちゃんが経営するミャンマー料理店


シャン料理の米麺、あっさり味です。すっぱいスープとつけもの付き。


学科長ご招待で食べたシャングリラホテルの中華。北京ダック登場後は、食べることに専念してしまい、写真を撮り忘れました。


 2週間目には、ついにダウン。セインゲーハーというスーパーマーケットへ行って、鍋とカセットガスコンロを買いました。キッコーマン醤油なども買えました。青梗菜を茹でて、中国製日清「出前一丁」を食べたら、なんともおいしく感じました。

 8月21日には、大学近くにシティマートというチェーンスーパーが開店したので、開店セールのごったがえす中、買い物。
 じゃがいも、カリフラワー、マヨネーズ、牛乳などを購入。カリフラワーを茹でてマヨネーズをかけたサラダ。ああ、おいしい。ジャガイモは茹でて、半分は小さなパックいり「調味みそ」というので味噌汁にしたのだけれど、ダシが味の素だけだったせいか、あまりおいしくなかった。翌朝半分を煮返して醤油とマヨネーズのサラダにしたら、ああ、おいしい。なんでも茹でて醤油をかければ、とりあえず食べられる。

 これからは、週日は大学キャンティーンの店巡り、週末はカセットコンロで雑炊やらインスタントラーメンやらになる食生活。

カンティンのメニュウ。見ても何もわからず、一番上を指さして出てきたのは、焼きそば風。


 カンティンでご飯セットをパーセー(テイクアウト)して、家で煮直して夕食に。ごはんは、スーパーで買った干し椎茸干しエビを加えて雑炊にしたので、おいしい。やさいのおかず肉のおかず、酸辣湯風スープがついて1500チャット150円。油の多いミャンマー料理、煮直すことで油たっぷりの炒め物が、油少なめの炒め煮になって食べやすい。わたしは、これで十分に満腹。

 食べ物が楽しめないと、外国生活は続かないと思うので、おなかの調子もようやくよくなってきた、月末あたりから、ミャンマー料理めぐりをしていきたいと思います。
<つづく>
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ミンガラ春庭「ヤンゴンのバス、ヤンゴンのサイカー」

2015-08-26 03:24:56 | エッセイ、コラム
20150829
ミンガラ春庭ミャンマー通信>ヤンゴン8月日記(3)ヤンゴンのバス、ヤンゴンのサイカー

 ヤンゴン市内移動の足は、第一にタクシーです。教員宿舎から大学までの通勤、片道は3kmほどですが、タクシーでおよそ2000チャット200円。大学から市の中心部であるダウンタウンまでが3000~4000チャット(交渉しだい)。
 日本に比べると安いので、重宝はしていますが、問題はものすごい渋滞。3kmの移動に45分かかったことがありました。大学に向かう道、インセインロードを行くか、ピーロードを行くかの選択肢があるのですが、どちらも通勤時間帯はノロノロ運転が続きます。
 渋滞の中、冷房なしのタクシーにあたってしまうと、排気ガスと熱気に耐えながらの通勤となります。

 もうひとつの足が、バスです。日本製、韓国製、中国製などの中古車、中古というより、廃車になったものを再利用しているおんぼろバスが、庶民の足。

 行き先を叫んで乗客に知らせる車掌と、お金を集める車掌がいます。
 このバス↓はとてもすいている。たいていは、背中側にも腹側にもびったり人がくっつきあっている状態で乗っている。

 入り口にいる車掌は、バス停にくると大声で、止まっていくバス停の名を連呼する。バス停に描いてあるミャンマー文字が私には、読めないので、この車掌の声は重要情報。
 

 宿舎から大学まで3kmの間にバス停が4つあります。大学に向かうときは、車掌が叫んでいる行き先の中に、「レーダン、レーダン」ということばが聞こえたら乗り込むのですが、同じレーダンでも、停車位置が異なり、大学からはるか離れた場所に止まるバスだと、停留所からかなり歩いて戻らなければならない。大学に近いほうのレーダンなのか、遠い方なのか、私には区別がつかないので、大学行きのとき、ひとりで乗ったことはありません。

 帰りは、車掌が叫ぶ停留所名に「タンラン」というのが聞こえたら乗り込みます。乗り込んでいる最中にも発車する荒っぽい運転なので、気をつけないと。急発進、急停車は、ヤンゴンバスの常識です。
 下車するバス停は、同じところでとまるので、「ブリティッシュインターナショナルスクール」の校舎が見えたら降りる用意をする、ということだけ気をつける。ただし、混んでいるバスだと、どんどん奥に詰め込まれてしまい、降りたい停留所が近づいても、出口に行けないので要注意。できるだけ空いていそうなバスを選んで乗ったつもりが、途中から混み混みにってしまったこともあります。

比較的きれいなバス。タンラン停留所で。


 「タンラン」が近づいてきたので、降りようとして、「タンラン、タンラン」と、降りる意志があることを大声で言っていたら、車掌が大笑いして、「この客は、停留所のはるか手前からタンランタンランって、騒いでいる」というようなことを言って、バス中の乗客も笑いました。外国人が乗ることは少ないバスなので、外人が乗ったというだけで面白かったのかもしれません。
停留所4つめで降りるのに、200チャット20円だったこともあり、100チャット10円だったこともある。車掌の裁量次第みたい。

 バスの車体は、たいてい埃まみれで、横に書いてある中国語やハングルの文字も読めなくなっています。たまにきれいなバスが来ると、「春日市コミュニティバス」なんていう文字が読めたりします。漢字や平仮名は、こちらの人には絵と同じだから、塗装などし直さないで、そのまま使っているのです。お店の車なども、水のボトルを運んでいる車に「岩田寝具店」などと書いてあったりします。

タンラン停留所に止まる春日市コミュニティバス「やよい号」


 タンラン停留所からは、宿舎まで歩くと15分~20分くらい。でも、日盛りのなかを歩くのも、雨の中を歩くのも消耗します。思いの外、体力が無くなっていた老体を考えて、タンラン停留所にたまり場があるサイカーに乗ります。

 サイカーは、英語のside carから来ている語で、自転車のわきに前向きと後ろ向きのふたつの座席をつけて、一人300チャット30円くらいの値段で1kmを走ってくれます。
 一度女性客と同じ方向だからと相乗りになり、後ろ向きの座席に乗ったのですが、後ろから追い抜きしようとするタクシーや乗用車が、すぐ目の前まで迫るので、すごくこわかった。前の座席なら追い抜きタクシーも、脇をすり抜けるだけだから、危険度はいっしょでもこわくない。

 サイカーは、メインロードの通行は禁じられているので、横道や路地を走ります。バス停の近くにはたいていサイカーたまり場があります。
 運転手と交渉して値段を決めるのはタクシーと同じ。タンランと外国人教員宿舎の間は、だいたい300チャット30円くらい。3月に来たときサイカーに乗って、デコボコ穴のある悪路を漕ぐ運転手に、こんな重労働させちゃって悪いなあなんて思いながら3000チャット300円を払ったのですが、今思うと、あれは完全にぼられていたのだから、悪いなんて思って損した。

タンランのサイカーたまり場
座席の黒いごみ袋は、座席クッションです。雨期だから、雨しのぎに包んである。


 次の客をだれが引き受けるかは、順番がきまっているらしく、みな、のんびりと客待ちをしています。

 すっかり暗くなってしまってから、帰宅したことがありました。
 大学から歩いてバス停へ。宿舎最寄りのタンランまでバス200チャット、サイカー300チャット合計500チャット50円ですから、タクシー代2000チャット200円に対して、150円の節約、と思ったのですが、「安物買いの銭失い」でした。

 暗い道、目印が見えなくなって、どこが宿舎の門なのか、気づかないうちに宿舎前を通りすぎてしまったのです。
 サイカーの運転手に「ここで降りろ」と言われても、自分の宿舎の目の前でなければ、どこをどう帰っていいのやらわかりません。
 ワーワー言って、大学外国人教員宿舎まで行ってほしいと頼んでも、サイカー運転手には英語わからず、とても困りました。

 とにかく下ろされちゃったので、道行く人に尋ねると、もっと先だろうというので、先にしばらく歩くと、どんどん物寂しい道になっていきます。これはおかしいと思って、また引き返し、向かい側から歩いてくる二人連れの男性に尋ねても、やはり大学宿舎のことは知らないのです。でも、ふたりは、「とにかく、もとの場所まで戻ったほうがいい」と、いっしょに歩いてくれました。

 二人が行こうとしていた道を逆に戻るのですから、申し訳ないと思ったのですが、しばらく話しているうちに、くねくねとしなを作りながら聞き取りにくいブロークン英語を話す二人組が、タイではけっこう見かける種類の人たちらしいとわかってきました。日本に行きたい、とも話す二人、新宿二丁目あたりなら、人気者になるのかも。

 サイカーを下ろされた場所に戻ったので、ふたりにお礼を言って別れました。タクシーが止まっていたので、とにかく元来た道を戻れば、宿舎の門が見つかるかもしれないと思いました。運転手はアイフォンの地図を出して、しばらくこのあたりの検索をしていましたが、地図にも大学宿舎なんて出ていません。「とにかく、戻ろう」と、タクシーに乗り込んで100メートルも行かないうちに、宿舎の門が見えました。

 なんのことはない、いつも乗り降りしているMICTパーク「In」の門ではなく、「Out」の門の前で下ろされてしまっただけで、もうわからなくなって、パニックになってしまっただけでした。
 宿舎の地域の目印として教わった「Myanmar Information and Communication Technology Park」という情報先端企業の集合地。その入り口前に宿舎の門があるのです。街灯もない中、100m離れたパーク出口の前に下ろされただけで、違う場所に来てしまったとあわてていただけだったのです。
 朝や昼間は「In」という入り口の看板で検討をつけていたのに、夜なので目印がわからなくなっていたのでした。
 慣れない土地、何があろうと、明るいうちに戻るべきだと肝に銘じました。

 ヤンゴンは、治安のよい町で、外国の都会に多いというスリやひったくりも聞いたことないし、外国人が強盗被害にあった、という事件もきこえてこないのだけれど、用心にこしたことはない。

 「ミャンマー人の親切心にご注意を」と、旅行ガイドブックに書かれている国民性も実感しました。道を聞かれたりした場合、「知らない、わからない」と答えるのは不親切なことと思っている彼らは、とりあえず「あっちだろう」なんて教えてしまうから、注意するように、と書かれていました。最初に教えてもらった方向にどんどん進んだら、な~んもないところに行ってしまうのだ、と、休日昼間に歩いて見てわかりました。
 アイフォンで検索してくれた運転手には、100mの移動ですけれど、1000チャット100円を払いました。最初からタクシーに乗って帰ったほうがよかった。

 方向音痴は若い頃からの得意技で、迷子になるのは常のことなんですけれど、慣れない土地での迷子は、こりごりです。
 36年前、ナイロビの町で迷子になり、道案内してくれた人とうっかり結婚してしまったのが、わたしの迷子人生の最初の失敗の巻でしたけれど、この老体になっての迷子は、さすがに「徘徊老人、迷い人のおしらせ」になってしまうだろう。

<つづく>
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ミンガラ春庭「ヤンゴンのタクシー、ヤンゴンのお金」

2015-08-25 09:40:01 | エッセイ、コラム
20150902
ミンガラ春庭ミャンマー通信>ヤンゴン9月日記(2)ヤンゴンのタクシー、ヤンゴンのお金

 朝の出勤には、タクシーを利用しています。料金は3kmの乗車で2000チャット200円。毎朝、MICTパークの入り口に来るタクシーの運転手と値段交渉をして、乗り込みます。が、交通インフラが整わないうちに爆発的に車が増えてしまった、超渋滞のヤンゴン市内、3km移動に45分かかったことがありました。日本のゴールデンウィーク東京方面へ帰る道筋も顔負けのノロノロ運転が毎日です。大学近くのインセインロードとピーロードが交わる五叉路を通り抜けるのに30分くらいかかるので、より渋滞がおおきいインセインロードからは行かずに、ピーロードから行くようにしています。いくらかは渋滞が少ない木がして。

 それでも、朝の通勤時間帯に、腹側にも胸側にもびったり人がはりつく超ラッシュのバスに乗ると、通勤だけで体力を消耗してしまい、仕事にならないのです。たかが教師の分際で贅沢とは思うけれど、朝はタクシー通勤です。前任の若い講師も、体調崩して以後は「身体のためにはタクシー必需」と思ったそうなので、老体にはなおさらです。
 ミャンマー語だけを話す運転手の、冷房なしの車でも選ばず乗っていましたが、8月21日の朝、ついに英語を理解する冷房車に行き当たりました。

 渋滞のつれづれに話してみると、片言の日本語も知っています。5人いる妹のうち、4人目は日本に20年間在住していて、お店をやっていてとても金持ちなんだ、オレも1週間日本に旅行したことがある、と自慢していました。
 身の上話によると、若い頃は船員で、世界中を船で回って働いたのだそうです。自分の子供達はみなミャンマーに住んでいるけれど、末娘には留学させてやりたいと。8歳の女の子の小学校への送迎をしている、というので、孫かと思ったら、娘でした。

 ミャンマーの上層階級の人たちは、子弟をシンガポールや香港、ロンドンなどに留学させることがステータスのひとつです。日本語の事務所がある文学科の学科長の娘と息子もシンガポールで教育を受け、現在はシンガポール居住で、ミャンマーとの間を行き来しています。
 学科長が若い先任講師に「ミャンマーの人と結婚してミャンマーに住んでくれ」と冗談を言ったとき、「他国の若者にミャンマー居住をすすめるくらいなら、自分の娘と息子を呼び戻してミャンマーに住まわせたらどうなんだ」と、反発を感じてしまった、上層階級とは、あまり合わない貧乏階級の私。
 でも、タクシー運転手が、末娘に海外留学させてやりたい気持ちはわかります。

 運転手は白髪頭の老人ですが、年齢をきくと63歳だという。「私は66歳。私のほうが年上だ」と話すと、「40代かと思った」と、お世辞を言う。まあ、女性の定年が55歳くらいという当地では、66歳なんていう高齢者が毎日働きに出る、ということもないから、労働世代なら50代以下、と思うのは当然です。

 よさそうな人に思えたので、「毎朝8時半に、私をMICTパークから大学までピップアップしてくれないか」と頼んでみました。冷房車だし、毎朝値段交渉をするのも飽きたし。彼は「8時には娘を学校に送っていくのだが、、、、」と思案していましたが、8時半のピックアップOK、と、約束ができました。月~金で確実に来てくれるのなら、こちらも楽です。彼も、毎週5日間、確実に2000×5チャットが定収入となれば、娘へのおこずかいもちょっとは増やしてやれる。

 名刺を交換。ウーエーミンさん。シュエランピャン旅行社の空港タクシー運転手。
 彼に、「私は、まだミャンマー語を話せず、勉強したくても、ミャンマー語の学習書を東京に置いてきてしまった」と、話しました。彼は「週末に本屋で、日本語ミャンマー語の本を買ってくる。私が毎朝ミャンマー語を教えてやろう」と、言うのです。渋滞のタクシーの中、私が発音して、彼がそれを直してくれるなら、渋滞の退屈もまぎれます。

 24日月曜日、日本人だから、8:30の約束に5分早くMICTパークの入り口で待っていました。8:30に電話がかかってきて、「道が混んでいるから少し遅れる」という連絡がウーエーミンさんから入りました。律儀な人だとわかりました。到着は8:35。ミャンマーアポイントでは、1時間の誤差は待ったうちにはいらない。雨期は雨が激しいと、いっそう約束時間がずれ込む。にもかかわらず、8:35の到着は「日本人は時間の約束に厳しいから、8:40をすぎても来なかったら、ほかのタクシーを拾う」と、言ってあったので、最初の日なので、きちんと時間を守ったのかも。

 初日は、大学を通過して下町のシュエタゴンパゴダ周辺にある両替所に行ってもらいました。手持ちのドルで換えたミャンマーチャットが終わりそうなので、円を両替しなければなりません。100ドルの新札はどこの両替所でも交換できるけれど、円が交換できる両替所は数少ない。

 私ときたら早合点をして円を持ってきてしまったのです。ヤンゴン市内に三井、三菱、みずほの3銀行の支店がオープンしたというニュースを見て、日本の銀行に行けば、円の両替もできるに違いないと思い込んで、円をドルに交換する手間を惜しだのです。
 日本の銀行オープンと言っても、それは企業の投資を扱うだけで、いっぱん庶民が小金を換えることなんぞ、扱ってはくれぬ、という事情は当地に来て知りました。

 それで、日本語情報誌に出ていた「ユザナホテル前の両替所」が円も両替できる、という広告を見て出かけました。レートはドルを換えたときより、よほど悪かったです。
 現在のレートでは、日本の金額をそのまま10倍すれば、ミャンマーチャットになるので、計算がしやすくていい。1000チャット札は100円。5000チャット札は500円です。

 物価は、野菜や果物は日本価格に比べてめちゃ安ですが、工業製品は日本と同じくらいの値段。ミャンマー物価にすると、とても高い。ネスカフェ150gの瓶が4800チャット480円ですから、日本とそれほど変わらない値段。当地の人にしてみれば、とても高い飲み物になります。1500チャット150円あれば、一食たべられる生活なのに。

 私は、ケニアのときも中国のときも、すぐに現地金銭感覚になります。中国では20元300円のものは高く感じたし、ミャンマーでは3000チャット300円のものは高く感じてしまうのです。
 私の唯一の贅沢が、毎朝のタクシー代2000チャット200円。夕ご飯なんて、大学食堂のごはんを「パーセー(テイクアウト)」して、宿舎で煮返して食べました。野菜のおかず、肉のおかずが少量ずつついて、ご飯と酸辣湯みたいなすっぱいスープがついて、一食150円。
 ごはんは、新規開店大学近くのシティマートで買ったしいたけと干しエビを戻して雑炊にしたので、おいしい。

 町には、日本と変わらない値段をだせば、日本食レストランも多数あります。日本水準の給与をもらっている駐在員たちは、私からみると「バカ高」の和食やラーメンを毎日食べていると思います。私は、現地給与ではないのですが、日本留守宅の諸経費なども負担しなければならないので、節約にこしたことはありません。

 タクシーのウーエーミンさんが、渋滞のつれづれに「あんたは給料いくらもらっているんだ」と聞いてきました。中国でも、ちょっちゅう「給料いくらだ」と、聞かれたていました。
私は、例によって計算ができなくなり、どうやら一桁低い額を言ったらしい。
 いたく同情されました。「あんたもたいへんだなあ」みたいに気の毒がる。たしかに、いくら物価が安いとはいえ、桁違いの低月給では、タクシー代払うのもたいへんだろうと、同情されても当然。

 両替所から大学までの道のり、8時半にピックアップしてから、90分時間がたっていました。距離と時間を考えて、8000チャットなら妥当、10000チャット1000円と言われたらちょっと値切ろうかな、と計算していました。
 彼は「6000チャット」というので、私は「え!6000!」と、すっとんきょうな声をだしました。90分もタクシー利用して600円です。
 でも彼は、私が「高い」という抗議の声を出したのだと勘違いして「いや、道が渋滞していた待ち時間もあったし、、、、」と、言い訳をしています。貧乏人の私に払わせるには、高いと懸念したのでしょう。ホーケーホーケー、と、6000チャットをはらいました。ホーケーは、OKです。

 とても良心的なウーエーミンさんのタクシー。毎日利用できることになり、助かります。
 ウーエーミンさんにさいしょにおそわったミャンマー語は「タッカドゥ、ベゥラッレー。大学、いくら?」でした。しかし、日本で外人が「こ~れ、いく~ら、ですぅかあ」と言っても地元民には思えないように、私の発音では、べゥラッレーとたずねても、地元民とは異なります。しかし、店の人も、外人だからとボルようなことは、めったにありません。
 正直でおだやかな国民性です。人をだましたり、悪いことをすれば、来世は仏罰必定、蝿やらゴキブリになるのですから。 

<つづく>
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ミンガラ春庭「ヤンゴン到着」

2015-08-24 23:55:55 | エッセイ、コラム
20150825
ミンガラ春庭ミャンマー通信>ヤンゴン8月日記(1)ヤンゴンの到着

 8月4日から半月ほどのヤンゴンだよりです。

 日本の夏の盛り、東京を発って空路6時間半でヤンゴン空港に着きました。前回3月に来たときは、タイの農地、ヤンゴンの大地がよく見えて楽しかったのですが、今回は雨期のさなかの到着ですから、雨だか湿気100%だかの影響で、地上もうすぼんやりかすんでいる気がしました。なにはともあれ、無事の到着。でも、無事なのは空港に降り立つまででした。

ヤンゴン空港


 ミャンマー人で日本語が上手な旅行業者がいて、前回も出迎えを依頼してありました。
 O先生が懇意にしているミャンマー人です。O先生は、私が従事することになった大学プロジェクトの立ち上げ中心者となった方で、3月同様今回も空港の出迎えを手配してもらってあったのです。
 が、3月に出会ったその旅行業者もタクシー運転手も、出迎えロビーにいないのです。そう広くもないヤンゴン空港出口ロビーですから、いれば見間違えるはずはないと安心していたたのに、私の名を書いた紙を持った人が見当たりません。

 私は、ロビーを行ったり来たりうろうろし、ときには前回と違う人がきているのかもしれないと思って「Dr.○○、hear」と叫んでみたり。1時間も待ちましたが、運転手に会えませんでした。空港インフォメーションは英語が通じるので、迎えの人がこないことを話し、宿泊予定のホテルに電話してもらいましたが、「ホテルでは送迎は承っていない。出迎えの運転手からの連絡も受けていない」という返事がきたのみ。

 入れ違いになってもこまるとは思ったのですが、いくらミャンマーアポイントとはいっても。1時間も待ったのだから、いいだろうと、空港のタクシー手配カウンターに申し込み、前回もらっておいたホテルへの地図入りカードを見せて、ホテルにたどり着くことができました。旅行業者への送迎手配は25ドル2600円を前回も払ったのですが、タクシー代は7000チャット700円のみ。

 あとで事情が判明。旅行代理店社長は、運転手に空港出迎えを頼んで、マレーシア出張に出かけた。運転手は、私が到着する数日前に、軽い脳梗塞のような症状で足がマヒしてしまったので、病院にいくことになったのだが、マレーシア出張中の社長に連絡がつかなかった、ということでした。旅行代理店社長に頼んでくれたO先生は、「旅行代理店として出迎えを受注したのだから、社長がどこに行こうと、きちんと顧客を出迎えることができるように手配しておくべきだったのに」と、お腹立ちでしたが、まあ、無事着くことができたのだし、これがミャンマー式のアポイントかと最初の先例をうけておくのも、悪くない。
 ただ、これが3月の段階であったら、私は立ち往生してしまったことでしょう。空港で夜を明かすことになったかも。
 ホテルの地図をもらっておいたことが、とても役立ちました。

 ホテルは、3月と同じヤンゴン大学から徒歩20分のところにある、小さなB&Bで、ベッドと朝食を提供する、家族経営のマジェスティホテル。2階4室、3階4室。4階は食堂と老夫婦の部屋です。.1階はフロントと若夫婦の部屋。
 高騰はげしいヤンゴンホテル事情のなかで、比較的リーズナブルで大学から歩ける、という理由で、派遣元大学のミャンマー関連の先生方が定宿にしています。

 老夫婦のうち、ご主人はたまに見かけるけれど、ホテルの仕事に関わっているのをみることはなく、大奥さんは、朝ご飯の料理人やウェイターに指示を出すときだけ顔をみます。若主人がフロントにいて、部屋の掃除をしたり荷物を運ぶボーイ3人か4人に指示を出している。いつもにこにこして愛想のよい人。若奥さんは2歳くらいの子供の世話と、若主人がフロントにいないとき、鍵の受け渡しなどをしてくれます。若主人は英語がわかり、大奥さんも若奥さんも片言なら通じるので、単語を並べれば意思疎通はできます。

 今回はシャワーのみのスタンダード室。4日の晩から12日の晩まで宿泊し、大学までは徒歩で20分。
 タクシーをつかうと、大学南西にある五叉路がとてつもない渋滞で、角を曲がるまでに30分以上熱気と排気ガスのなかにとどまっていなければならなくて、40分も50分もかかることになります。冷房のあるタクシーはほとんどないので、渋滞の間は扇子が必需品。しかし、街中で扇子をバタバタ仰いでいる人はほとんど見かけず、うちわは見かけるけれど、みな、慣れている暑さなのか、扇子もうちわも使っている人はあまりいません。たまに、カフェなどで仰いでいる人を見ると、中国人かシンガポール華僑の人かと思います。

 最初の1日め、5日の朝大学へ行こうとして、まだ金銭感覚が身についていなかったため、失敗をしました。タクシーは、メーターがついていなくて、すべて交渉制。ミャンマー語しかできない運転手がほとんどですが、数字くらいはわかるので、指を示しながら「two thousand2000」とか「ワン、ファイブ1500」などと交渉します。最初2000チャットといわれたので、値切って1500にしました。1500チャット150円です。でも、大学に着いたとき、どういうわけか1500円と脳内変換されていて、1500円だから、15000チャットだと思って5000チャット紙幣3枚だしてしまいました。運転手はにこにこと受け取りました。150円でいいところを1500円払ったことになります。

 日本円で考えればタクシー代1500円払っても、そう損したわけではないのですが、このときは10倍もの金額を払ってしまった自分のお馬鹿かげんにあきれ、どうしてこうも数字に弱いのかと嘆きました。
 正直を旨としている仏教徒なら、お客の勘違いに「これは多すぎる」とでも言っていいはずなのに、黙って受け取った運ちゃん、あんたは不正直の罪により、来世はごきぶりに生まれ変わるよ、と毒づきました。とは言っても、勘違いして払ったこちらが悪い。

 という、微妙なヤンゴン生活スタートの巻でした。

<つづく>

 
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ぽかぽか春庭「2003年の個人情報保護」

2015-08-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150823
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記(14)2003年の個人情報保護

 2003年8月の日記再録を続けています。
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2003/08/31 日 曇り、夕方少し夕立 
日常茶飯事典>HPビルダー4 個人情報保護

  一太郎のマニュアルを探したら、ある語全部を別の語に一括変換する方法がわかった。だんだんマスターしていく。日記作成キットを取り入れれば、もっと簡単にできるのかもしれない。
  しかし、私の日記サイトは、毎日のことをリアルタイムで公開するのでなく、一ヶ月ごとにまとめてアップするという方法をとるつもりなので、今まで通り一太郎ワープロで書いてから、あとでHPビルダーにコピーという方法でいいのじゃないだろうか。そのうち日記作成キットのことも調べてみよう。
  プレビューで見ると、行間がつまっていて、見にくい。もっと行間をゆっくりとりたいが、どうしたらいいのか、わからない。一太郎設定なら簡単なのに。

  単位制高校情報科で20単位分、情報理論やパソコン実習の授業をとった娘、情報処理資格やワープロ検定に合格した。大学でも去年1年間情報基礎論を受講した。それで、私の日記公開にあたって、「個人情報保護」レクチャーを娘から受ける。

  HPを読んだ人に、匿名者がだれかわかるような情報は絶対にダメ。地名人名は公的なものだけ載せ、私人の情報はすべてカットする。
  HPを公開している人の名は、そのページで使用している名にする。たとえば、義姉の夫は、ハンドルネーム「翻訳者O(オー)」、姪たちは、くらげん、ひつじなど。実名を仮名にするときは、まったくかけ離れた仮名にすべきで、英子さんの仮名がA子さんだったりするのはダメ。

  個人情報のうち、自らがHPで公開しているもの、著作に書かれて公になっていることはOK。たとえば、ひつじは自分のHP日記に結婚式場下見について書いているから、私がいっしょに行ったことを書いてもOK。
  それ以外のことは、たとえ仮名にしてもオフレコード。
  たとえば、Aダンス内で、だれがセンターポジションで踊るかをめぐって確執があった事件。だれがどんなことを言ったか書くなら、言った全員に「このことをHPに載せてもいい?」と聞いて、OKをとらなければいけない。そんなの面倒くさいから、自分はセンターで踊りたくないってことだけ載せることにした。話はまったく面白くなくなってしまうが、しょうがない。主婦のケンカって、面白いのに。
  授業のことも、個人名が特定されないよう、要注意。

  でもそうやって削っていくと、「どうでもいい日常」が、ますます干からびた面白くとも何ともないものになっていく。自分の日常が、いかに個人がすべったころんだケンカしたという些末情報でなりたっているかがわかる。
  些末情報トリビアが私の日常なのに、中身が半分以上なくなってしまうのだ。

  たかが個人のHPで、これだけ気を遣って個人情報を保護しようとしているのに、住基ネット個人番号制では、たぶん個人の記録は、何らかの漏洩が問題になるだろう。将来、健康保険年金などが一本化されてカードになれば、病歴職歴などすべて国家が個人情報を把握できる。SF小説で何度もネタになってきた管理社会は目前だ。
  
本日のなやみ:キーボード腱鞘炎になりそう

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20150823
 ネット社会の片隅に、こうして、春庭はささやかなサイトを立ち上げ、それ以来、ほぼ毎日なんらかの文字を書き連ねて12年がすぎました。
 個人のこんなサイトでも、個人情報が漏れないよう気をつかっているというのに、年金の個人情報には、だれも気を遣う人もなく、漏れていきました。今後どんな被害がでるのかわかりません。

 国民全員につけられるというナンバーも、管理する側は「情報漏洩は絶対にありえない」と言う。ほらね、「絶対安全」と言った人、書き留めておきましょうね。漏れたとき、責任をとってもらうように。部署が変わっても退職しても、責任をとる、という覚悟もなしに、絶対に安全などと言ってほしくない。
 絶対安全だったはずの放射能が漏れ、ふるさとを奪われた人も、体調崩した人もいるけれど、だれも謝罪もしていないし、責任もとっていない。
 マイナンバー、不安です。

 不安なのは、マイナンバーだけでなく、マイボディ。一病息災でほそぼそと生きてきて、かつかつ命を保ってきたのに、老体には過酷な当地の環境に、おなかこわすは歯は痛いは、夜中に犬の遠吠えに目覚めて睡眠不足で昼間眠いは、いろいろ不調です。
 気力ふるって、なんとか生き延びていきます。

 次回から、ヤンゴン便りです。
 
<つづく> 
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ぽかぽか春庭「2003年のステップバイステップ」

2015-08-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150822
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記(12)2003年のステップバイステップ

 2003年8月の日記再録を続けています。
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2003/08/29 金 晴れ 973
日常茶飯事典>HPビルダー3 ステップバイステップ

  「ステップバイステップ日本語教授法」をHPビルダーにコピー。私自身のシラバス授業進行に合わせて編集したものだから、私にとっては価値のある編集だ。しかし、すぐれた編集の日本語教授法の本が山ほどある中、私が書いたものなど出版するほどのものではない。

  自費出版で100部印刷しても、年に20人30人の学生に強制的に買わせて売り切れるまで5年もかかる。
  だが、「日本語教授法」の本を買おうとまでは思わないけれど、HPで無料で見られるなら、「日本語教育」というものがどんなことをやるのか、ちょっと覗いてみよう、という人に役にたつかもしれない。

  名前を仮名に変える必要はないが、一太郎で作ったページは、罫線がコピーされないので、表を作り直すのがめんどうだ。分っている人には、もっと効率のよい方法があるのだろうが、ことばを打ち込む以外はわからないので、実にたいへんだ。ワープロ機能以外で使うのは、インターネットとメールだけ。HPビルダーが、はじめてのワープロ以外のソフト導入なのだ。
  夫の事務所パソコンに一太郎をインストールしたいというので貸したかわりに、エクセルを借りてこよう。エクセルを覚えるのもたいへんそうだが。

本日のふみ読み:自分で書いた日本語教授法、いいと思うよ、ただならば


2003/08/30日 土 曇り
日常茶飯事典>松岡正剛トーク

  「たべてるとき、ねてるとき、おふろに入っているとき以外、お母さんはパソコンの前にいるね。お母さんが仕事もしないでパソコンであそんでいるんだから、ぼくだって、宿題よりゲームだ」と、息子。こんなふうに寝る間食べる間を惜しんで取り組める、夢中になって遊べる「遊び道具」が見つかったことは、老後の計画にいいと思うよ。でも、それが夏休みの宿題をやらないことのいいわけになるのか?ならん。

  夕方池袋へ。ジュンク堂で松岡正剛トークショウ。4階喫茶店の狭いスペースにぎっしり椅子を並べて、60人くらい入っていた。思いの外、若い人たちも多かった。編集学校の生徒たちかな?皆、好奇心旺盛な顔をしている。しかし、私の隣にすわったお嬢様は、最初から最後まで居眠りをしていた。せっかくの面白い話なのに、もったいない。

  松岡と本の関わりについて。編集者として『遊』や『全宇宙史』を作ったときのエピソード、読者として本に対する姿勢、千夜千冊のこと。著者として本にかかわるときのこと。

  著書の中や、インタビュー記事などを注意深く読んでいるコア読者にとっては「周知のように」なことかもしれないのだが、私にとって初めて知ったトリビアがいくつかあって、とてもおもしろかった。松岡が脳内圧力が高くなって入院したことは『フラジャイル』や他の本に書いてあるが、その原因は早稲田時代に議長を勤めていたころのこと。デモに出て逃げ遅れ、機動隊にしたたか棒で後頭部を打ちのめされた。そのときの怪我の後遺症がでたものであったと。
  また、生い立ちについて、京都呉服屋のぼんぼん育ちかと思っていたのだが、実は大学4年生のとき父親が当時の金額で500万ほどの借金を残して死去。その借金返済を遺産として受け継いでの社会人生活スタートだったこと。などなど。

  デモで逮捕され、留置所刑務所を経験した者、政治活動によって怪我を負った者、自分を原因としない借財を背負う者に対して、私は無条件で「私よりエライ」と尊敬の念を持つ。私は怪我もせず親の借金も負わなかった。松岡は、すでに2つの点でソンケー。
  もうひとつ、私が無条件でエライと思う人は、ハンディキャップを持っていてもそれにうちのめされることなく生きている人。ハンディキャップを持つ人に寄り添っている人。「頭と性格と顔」が悪かったことは私にとってハンディだったが、手足目耳などのハンディは、今まではなかった。

  『山水思想』のサイン本を売るというので、ミーハー心が動いたが、4700円の本はすぐには買えない。図書館で読んでから、どうしても手元におかなければ、と思ってから買おう。

  門前小僧の先生が来ていたので、あいさつした。今期は申し込まない、来期にするといったら「正式な申し込みは締め切りましたが、まだ、間に合いますからメールだして」と言われた。まさか「電子レンジがこわれたので買い換えねばならず、圧力鍋もこわれてしまい、自分のための10万円が用意できません」なんて理由は言えないから「はい、じゃあ失礼します」なんて曖昧な笑顔で会場を出た。

  トイレに行ったら、隣の席のいねむりお嬢様たちが眠気覚ましにであろうか、鏡の前でメーク中。関西弁のおしゃべりを聞いていたら、彼女たちは(たぶん)手○○学院大学の学生。「あいさつせんと、このまま帰っちゃってええんやろか」「ええやん。けど、ほかの人ら、うちらと違うな」「あの人たちにとっては、センセー特別な存在なんやろね」「うちらにとっては、フツーにセンセーなんやけどね」というような会話を交わしている。
  「フツーに先生」というのは、授業中話したり課題を出してレポートを書かせたり、成績をつけて単位をくれたりする、他の教授たちと同じ、という意味だろう。松岡の考え方や著作に惹かれて集まった他のファンとは、どうも印象の違うお嬢さんたちだと思っていたら、松岡ファンではなく「フツーに女子学生」の人だった。もしかしたら、、夏休み中東京に遊びにいく者がジュンク堂でのトークを聞くと、前期の出席が不足した分を穴埋めして出席回数に含める、というワケアリだったのかも知れない。
 
本日のつらみ:自己開発より圧力鍋

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20150822

 こんな具合に、2003年にブログサイトをたちあげて、12年間せっせと駄文をUPしてきて、誉められもせず苦にもされず、白髪としわが増えたのみの日々でありました。

 12年の間に、娘も息子も成人したけれど、パラサイトシングルであることは変わらず、母はパラサイトの食い扶持稼ぎに、中国赴任を2007年2009年とこなし、今回は、はるばるミャンマーへ。老いの身を案じながらの赴任でしたが、思った以上に老体は弱っていたことを実感する毎日。少々へこみながら最初の半月をすごしました。
 8月後半、少しは当地の湿度100%生活に慣れていきたいと思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年の火星大接近」

2015-08-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150820
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記(11)2003年の火星大接近

 2003年8月の日記再録を続けています。
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2003/08/27 水 朝雨、午後晴れ
日常茶飯事典>火星大接近

  午前中Aダンス練習。午後、HPビルダー。
  夜、息子と火星を見た。次の小接近は17年後、今回のような大接近は6万年後、といっても、小接近と大接近の差なんて肉眼や倍率の低い双眼鏡で覗いただけでは区別がつかない。それでも、どうして天文ショウは、ハーレー彗星接近とか流星群とかが人をひきつけるのだろうか。
  自分という存在もまた、宇宙の永遠の輪廻の中のひとつと確認するためなのだろうか。

本日の負け惜しみ:6万年後は無理ですが、17年後に会おうね、マーズ


2003/08/28 木 曇り972
日常茶飯事典>HPビルダーその3 日記公開理念

  ネット上に日記サイトは星の数ほどあるとしても、ひとりの女の数十年にわたる日記を全公開しているサイトは、まだ見ていない。少なくとも私の網にはひっかかっていない。だから、還暦までに、10歳から60歳までの50年間の日記すべてを公開するという計画は、少しは意義があるかもしれない。質は悪いが量で勝負、みたいな。

  全集第二期29巻のほとんどが日記という野上弥生子とか、小説作品以上に日記が文学作品である一葉とか、文学者の日記は出版もされる。一般人の日記でも、戦争とか、震災とか、歴史的な出来事を記録した日記には資料的な価値がある。戦争中の個人記録を残そうとする自分史資料収集の会やサイトも出てきた。だが、今のところ、市井一般の女の平凡な日記など、文学的にも歴史資料にも、省みられることはない。

  しかし、20世紀と21世紀を生きたひとりの平凡な女が、日常をどう過ごし、毎日どんなよしなしごとが胸に去来したのか、ということを記録しておくことが、もしかしたら何らかの役にたたないとも限らない。
  将来、日本学研究者のなかに、「日本語教師自己形成史」なんてのをテーマにしてみよう、という奇特な留学生がでるかもしれない。そのときに、ひとりの教師が小学生の時から、どのように言葉を身につけ、言語作品から影響を受け、自己形成をしていったのかをトレースする材料になれば、こんな日記でも残す意味がある。
  留学生の中に、明治期に海外留学した女性の自己形成史をまとめている人もいるし、明治大正女性の自己形成を調べるため、女性受刑者の裁判記録を調べている人もいる。調書の中に、幼少のころの話がでてくるからだ。

  「日記のメインコンテンツは、妬み嫉み僻み、恨みつらみに負け惜しみ、悩み半分。ふみ読み半分」という開き直りキャッチコピーをつけた。
  「他人の愚痴ぼやきを誰が読むか」という娘の評は正しいが、しかし、文学者の日記でも、滝沢馬琴の日記など、毎日金計算の記録ばかりというではないか。なんでも記録すること。トリビアに神やどる。

  また、何の役にたたないとしても、私のお葬式をするとき、読経のかわりに参列者に一日分づつ日記をマイクの前で朗読してもらい、それが焼香献花のかわりでもある、という「おわかれ会」にしてもらうことにする。娘息子に遺言を残しておくから、坊さんに渡す読経料お布施の節約にはなる。

  銀の匙などくわえずに生まれ、家土地残さず金も残さず生涯を過ごすひとりの女が、たった一つ残すものが「ぐちぼやきの日記」である。この日記は私の人生と等価なのだ。ま、安上がりな人生だったな。

  惜しむらくは、日記を書くようになって以来、7歳8歳9歳の「絵日記」を引っ越しのときなくしたことだ。昔住んでいたアパートの押入の天井裏に画用紙の束を置いておき、忘れてしまった。あのアパートはとっくに取り壊して、絵日記は押入のふすまといっしょに燃えるゴミになったろう。小学校4年生からはノートに書くようにしたので、残っている。

  「学校卒業後、数年お勤め。結婚、出産。子ども二人を育てながらパート勤め」という人生の女の10歳から44歳までの日記が段ボール一箱の中に入っている。
  45歳から10年間は、キャノンワープロフロッピーと、パソコンフロッピーに入っている。保存に失敗して消えてしまった分もあるが、フロッピーに最大記憶量入れると、だいたい1年で1枚。平均すると、一日分は400字詰め原稿用紙なら3~4枚分。最近の分は、1999年9月からの5年間で5枚のフロッピー。

  仕事を週5日間、週1日ジャズダンスレッスン、忙しくて視覚障害者の朗読ボランティアが最近できなくなってしまったが、朗読が好き。毎日愚痴をこぼしているが、戦争や災害や事故事件のまっただ中にいる人から見れば、可もなく不可もない生活。どうということもない人生。
  そういう生活の記録に何か意味があるのか。いや、無意味でもかまわない。高い能力と効率の良い時間の使い方が「勝ち組人生」にとって必須であるなら、負け組の愚痴やぼやきも必須である。

  たった一枚の葉っぱも、海の底で人知れず生まれて死ぬ深海魚も、宇宙輪廻の中の必須の存在。なーんてね。火星が6万年に一度の大接近すると、私も50年に一度は、教祖様のようなことを言うね。お布施を集めたい。 

  還暦を無事迎えたら、50年分の日記を本にするつもりだったが、自費出版するお金もたまりそうにないので、HP公開するのだ。

 一日中、HPビルダー。
 始めると、止まらない。目に悪い。ワープロで書いた日記をコピーするだけだから、簡単にできると思ったら大間違い。
  なぜなら、子どもたちは「お母さんが自分の趣味で日記公開するのは、自分の人生なんだから好きにしたらいい。でも、ぜったいに子どもを巻き込まないで。日記の中に、子どもを登場させないで。子どものプライバシー保護で迷惑をかけないで」と言う。

  娘が1歳半から半年に一度、親せき向けに発行していた家族新聞も、私が子どもと離れて半年間過ごした中国単身赴任を終え、帰国したという報告を最後に休刊した。娘が「自分のことを書かれるのはイヤ」と、言ったからだ。
  子どもたちの成長エピソードをおもしろおかしくつづるのは、私にも親せきにも楽しみだった。お寺で、お墓参りのろうそくに火をつけたら、2歳の娘が「ハッピバースデ、ツーユー」と歌い出した、などなどのエピソード、親せきに「笑い話」として好評だったのだが、子どもにしてみると、「自分が直接知らせたのではない情報」によって、笑いのネタにされることがいやだったのだろう。

  しかし、「ぜったいに子どもを登場させないで」というのは、いささか無理がある。私の生活、人生の大半は「子どもにかかずりあうこと」で成り立っているからだ。子どもの話を抜いたら、私の生活ではなくなってしまう。
  「花火を見に行った」と書くのも、私にとって、花火がきれいなことに意味がある以上に、子どもといっしょに見て、時間をともにすごしたことに価値があるのだ。
 それで、日記を読み返して、子どもたち登場シーンはできるだけカットして、名前は出さないことにした。それでも、子どもの話は多い。

  日記のうち、2001年ゴールデンウィークと2002年ゴールデンウィークのものは、子どもの名前が娘息子としか書かれていないことがわかっているので、コピー。日本人クラスの学生に配布した際、名前を削ったからだ。

  去年、一昨年ゴールデンウィーク期間中、全学休校となるので、日本人学生に宿題を出した。レポート1「私の異文化体験、または、私が受けた語学授業の思い出」、レポート2「レポート1をもとにして考えた理想の授業」
  学生に作文を提出させた後、必ずひとりひとりにコメントを書いて返却する。そして教師の側も学生に自分の作文を配布する。ゴールデンウィーク中に、日本語教育やことばについて考えたこと、異文化体験、日本文化などについて、書いた日記を配布したのだ。学生は成績に関係ない文であれば、読みゃあしないのだが。学生にレポートを要求したら、こちらもノルマを果たすというポリシー。
 今年は同じタイトルのレポートを「期末レポート」にしたから、私からの作文配布もなし。

  8月上旬と中旬の分をコピーしただけで、この作業がいやになった。結局全部読み返すことになり、読み返すと、自分の日常がどれほど「どうでもいいこと」の連続であるか確認することになる。ぐちと、ぼやきと嘆きといやみ。「どうでもいいこと」の集積が私の日常なんだから、しかたがないけれど。

本日のひがみ:読まれないとなると、まだひがむのだろうな、うらやましいぞ人気サイト

~~~~~~~~~~~~~

20150820
 
 当地の文学学科長の招待を受けて、最高級といわれるシャングリラホテルで会食したときのこと。学科長も彼の娘さんも、食事中、食べるのもそこそこにして、食事風景をfacebookにUPしていました。大学内の家(日本の感覚でいうと大豪邸になる、ばかでかい家)に戻るとネット環境が悪いので、ホテル内の画像もサクサク送れる環境にいるうちに写真をUPしたいということなんだろうけれど。

 当地ではまだ、顔写真の肖像権などを問題にするようにはなっていないらしく、私の顔がわかる集合写真(8名で会食)もfacebookUPされていました。
 日本だと、いっしょに撮影した写真を断りも無くUPしたら、大問題にされそうですが、いっしょに食事したビルマ語学の日本人先生が「ま、しょうがない」と言うので、いいことにしました。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年の娘のアルバイト」

2015-08-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150819
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記(10)2003年の娘のアルバイト

 2003年8月の日記再録を続けています。
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2003/08/24日 日 晴れ 
日常茶飯事典>娘の夏休みバイト

  昨日、今日は暑い。いつもの夏なら7月8月ずっとこうだが、今まで涼しすぎたので忘れていた。
  娘は朝から模試監督のアルバイト。高校大学を通して、夫の事務所以外でバイトをするのは初めて。場所も大学に近いし、試験監督といっても特別むずかしいことを要求されるわけではない。7時50分から1時20分まで、およそ5時間半の拘束で、5000円稼いできた。

  座ってはいけなくて、ずっと立っている監督で、足が疲れたという。事務所でメッセンジャーして、おこずかいをもらう感覚でやるのと、本当に人様のもとで労働するのは緊張感が違う。働くことのたいへんさを少しでもわかったなら、5千円の価値は大きい。娘の感想、「ずっと立ちっぱなしなんて、毎日はできないなあ」
  明日からは一日中立ちっぱなしかも知れない介護体験がはじまる。

  息子はお昼から水泳部OBとの集まり。いっしょに泳いで、そのあと夕ご飯(毎年かつどん)を食べながら昔話を聞く。今年は40代50代の先輩が来るという。かつどんでも何でも、よそで食べてくれれば親は楽。

 ふたりとも家にいないという日、夏休みになってはじめて。一日中HPビルダー。

本日のつらみ:書くよりずっと時間がかかるドラッグやコピーやリンク貼り付け


2003/08/25 月 晴れ
日常茶飯事典>エスニック料理

  娘は教職課程の介護体験。老人保健施設なので、食事介護や入浴介護がある。
  きのうバイトでいっしょだった友だちは、デイケアセンターでの体験。老人の昔話を聞いてやるとか、センターイベントの夏祭りでいっしょに楽しむ、というのが介護体験だったそうだ。「私も夏祭りがよかった」と文句を言いながら出かける。

  息子は文化祭のクラス全体練習。ふたりとも朝から家にいないので、また一日中、HPビルダー三昧と思ったら、夫から電話。

  事務所のパソコンコンセント抜いたあと起動しないので、見てくれという。しかたがないので出かける。事務所に用足しだけいくのも出かける気にならないので、はじめにブックファーストへ。
  このまえ買い込んだばかりなので、買いたい本も見あたらず、『日本語教師になる本』を買う。10月の日本語教育能力検定試験の全面改定新試験予想分析が載っているので、秋学期の授業のネタ用。

  息子とランチするつもりだったのに、またも「文化祭の練習、午後も続けるから」と、ふられた。回転寿司を食べるつもりだったが、ひとりだったら、普段娘といっしょのときは行くことができないエスニックにする。
  娘は、辛い味いっさいダメ人間。「日本人向けにアレンジしてあるから、本国の料理に比べて、ぜんぜん辛くない」という代物でも「とにかく辛くて食べられない」二十歳すぎてもお寿司サビぬき。

  「アジアの味」という店。2階のテーブル11卓。椅子20脚の小さい店、店構えの感じはよかった。女主人は日本語をしゃべれるけれど、ウェイターの男の子、タイ文字のTシャツを着ていて「いらっしゃいませ」「おまちどうさま」もいっさい言わない。だまって運び片づける。
  だまっているのが悪いのではない。日本語が話せないなら、中国語やタイ語でもベトナム語でも「いらっしゃいませ」を言えば、サービスの心は伝わる。声が出せない人なら、手話やジェスチャーでも伝わる。
  客は「お客さんがこの店に来てくれてうれしい」という店側の気持ちを感じたい。「歓迎光臨」の気持ちを伝えるのは、どの店もいっしょ。

  私になかなか料理がこない。ようやくきたと思ったらデザートが先に出てきた。「あの、お料理まだなんですけど」と言う。それからやっと作り始めたらしく、またしばらく待たされた。
  ベトナム風麺ランチを食べた。麺の上に、揚げ春巻きを切ったものと野菜の千切りがのっている。ランチセットのスープはコンソメの素に人参と竹の子が少し入っている。デザートはタピオカココナツミルク。
  私や隣の席の人がコップをもちあげて、お水おかわりを催促しても、持ってこない。エスニックで辛いのだから、客のコップを注意して見ていて、コップの水が少なくなったら、おかわりをつぎにくるくらいのサービスはすべきだ。20席しかないのだから、店全体が見渡せる。しかし、コップをかかげて「おひやおねがいします」と言っても、持ってこない。だったら、大衆ラーメン屋みたいに、最初から水のはいったピッチャーをテーブルに置いておくほうがマシ。
  味もサービスも「もう一度食べてみたい」というものではなかった。
 
  事務所のパソコンは、別にどうもなっていなくて、ただ、夫も四街道さんも立ち上げ方が分らないだけだった。四街道さんは台湾製のパソコンを買ってきてセットアップに四苦八苦している。パソコンに強くない人はサポート体制がちゃんとしているメーカーの方がいいのにと思ったが、私が使うんじゃないから、よけいなことは言わない。

本日の辛み:ワサビが一番 by一條裕子


2003/08/26 火 晴れ
日常茶飯事典>HPビルダーその2 老後の遊び

 朝から暑い一日。
 一日何もせずにHPビルダーで遊ぶ。切ったりはったりしているうちに、たちまち時間が過ぎる。これじゃ、いつになったらオンラインになるのか分らないが、老後の遊びにはもってこいだと分る。NPO設立講座でパソコンを習っているスモモも、これからの時代、老人にこそパソコン講座が必要だ、と言っていた。ただ、一日画面を見つめていると、さすがに老眼に悪い。

本日のつらみ:中年老いやすく、HPなりがたし

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20150819

 2003年の夏に悪戦苦闘してホームページを作り上げました。このとき作ったページオンのブログサービスが閉鎖になるというメール連絡は受けたのですが、いつものぐずぐずで、「自分で移転作業をしてください」というのをとりかからないでいたら、全部消えてしまっていました。かなしい。これだから、「墓誌がわりのホームページ」というのもあてにならない。

 今月、まだまだ仕事中心で、生活にも慣れていなくて、ブログ生活は当分読むだけの毎日です。

<つづく>
コメント (2)
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ぽかぽか春庭「2003年のLLサイズ衣装」

2015-08-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150818
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記(9)2003年のLLサイズ衣装

 2003年8月の日記再録を続けています。
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 2003/08/21 木 曇り
日常茶飯事典>LLサイズ衣装

久しぶりにミシンを出す。ダンス発表会『監獄ロック』の衣装として渡された迷彩柄ジャケットを、MサイズからLLサイズにお直し。
 衣装担当から、「Mサイズしかないから、サイズが合わなかったら、自分で直して」と言われたのだ。
 似たような迷彩柄の布を足しておデブ用に。外出用にはちょっと変だが、5分間ジャズダンスを踊る時に着るだけなら大丈夫。はじっこで半テンポ遅れて回転し、左右逆に足をあげてしまう太っちょの衣装が少々変でも、誰も気にしない。

本日のはさみ:布地を幅10センチずつ切って両脇に縫い足す


2003/08/22 金 薄曇り 
トキの本棚>『フラジャイル正剛と田中ミンの踊り』

  一日中『フラジャイル』をごろ寝で読む。
  『分母の消息』にも、フラジャイルにも、人名がわんさか出てくる。

  たくさん出てくる人名のなかで、たとえば、田中ミンが事務所に現れて「正剛さんに踊りをみてもらいたい」と言った、という話を読むと、ひがみそねみで生きている私は、すぐに「田中ミンは私のためには踊らなかった」という20数年前のうらみつらみが思い出されてしまう。
  市川雅から情報を得て、三鷹だったか吉祥寺だったかの公民館集会室のような場所に迷い迷いやっとたどり着いたときのこと。

  観客としてやってきたのは、私のほかはだれもいなかった。「場所が間違いだったのか」と、うろうろすると、今日公演がある、というポスターも貼ってあり、間違いではない。
  田中のほかに部屋には女性がひとりいるのみ。(木幡和枝だったかも)時間がすぎ、いくら待っても踊りは始まらない。
  「ポスターに書いてある開演時間は過ぎているが、何時から始まるのか」と聞くと、女性の返事「今日はやる気がしなくなったので中止。ダンサーにはインスピレーションが大切で、今日はインスピレーションがない」というような解説だった。
  集会室で気まずい思いをしながら待ち続け、何時から始まるのかと質問するのさえ勇気をふりおこして声を出した「一般ピープル」たる私の存在は、観客としてはまったく無視されたのだった。

  正剛という「文化最先端ランナー」には「踊りを見て欲しい」と願った田中にとって、ただただ踊りが好きで、田中が踊るのを舞台じゃなく、集会室のような小さなところで目の前で見てみたいと思った一般ピープル観客は「やる気がでない」存在だった。
   まあね、一般人の扱いはこんなもの。「あなたがダンサーとして生きているその同じ時を、私も一期一会の時間を持つための観客としてここまで2時間かけてやってきたのだ。」そんな一般人は「インスピレーション」にはなりえず、田中は私のためには踊らなかった。

  その後、何度か舞台で踊る田中を見た。私は舞踏系はあまり好きではない。みんな土方亜流に見えてしまうから。でも、ギリヤーク尼崎と田中ミンは好きなほうだった。

  鍵の置き場所とか、カードの暗証番号とか、大事なこと忘れちゃいけないことはどんどん忘れるのに、どうしてこんな些末なうらみつらみは忘れないのだろう。
  だれからも「あなたがここに存在することに意味がある」と、認めてもらえない人間のひがみが、私の体重の50%を占めているからだ。残りのうち40%は脂肪だから、筋肉や血液はたった10%しかないことになる。脳の重量が足りないのはしかたあるまい。

本日のひがみ:こわれもの注意!ただし、一般ピープルの心は壊れても注意されない


2003/08/23 土 晴れ 
日常茶飯事典>HPビルダーその1 日記公開動機

  ホームページビルダーでいろいろページを作ってみる。わかっている人には何でもないことなんだろうが、わからない人にとってはクリックひとつおっかなびっくり。もしこれで変なことをしてしまい、またパソコンが起動しなくなったりしたらどうしようかと、おそるおそる画像をいれたり水平線をいれたり。何度かページの見栄えを練習。途中、保存エラーが出たので、こわくなってやめた。エラーがでたあとクリックするとガリガリという音が本体の中から聞こえるのだ。恐怖のガリガリ音。

  54歳の誕生日から55歳までの1年間にやりたいこと。
  姉が死んだ54歳、母が死んだ55歳。その年齢になったら、自分の人生をまとめておこうと思ったのだ。墓銘碑代わりにHPを持ち、遺言代わりに日記サイトを公開するという計画。

  「とりたててほめられもせず苦にもされない、平凡な人生の愚痴っぽい女の日記なんて誰が読むのか」と娘は言うけれど、ま、いいじゃないか。

本日のせみ:おくればせでベランダにせみのぬけがら

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20150818
 パソコンのパの字もわからないまま始めたブログ生活。ジャズダンスや散歩以上に、わたしにとって身近な生きがいのひとつになりました。

 12年間、たいしたことは書いてこなかったけれど、毎日3000字ほどの文章を更新できたこと、自己満足です。
 歌好きな人がカラオケで熱唱するように、囲碁や将棋好きな人が、日夜棋譜などをながめて熟考おこたりないように、私にとって、毎日おしゃべりしていくかわりの、文字綴りです。

 ヤンゴンで使っているモデム、Hマークが出ているときはつながります。2Gマークだとつながらないのです。大学の事務所ではたいてい2Gです。
 13日に引っ越しした外国教員宿舎では、時間によってHになったり2Gになったりです。通信速度が遅いので、画像が出るので時間がかかりますが、文字情報だけだとそう不自由無くメールなどできます。

<つづく>

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ぽかぽか春庭「2003年のうさぎハーレクイン」

2015-08-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150816
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記(8)2003年のうさぎハーレクイン


 2003年8月の日記再録を続けています。
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2003/8/18 月 曇りのち雨 
ことばの知恵の輪>うさぎハーレクイン

  夕方雨の中を買い物に。自分の買い物なら雨の中わざわざ出かけはしないが、うさぎタイムのトイレシートが一枚もなくなったので。商店街でトイレシートと干し草を買う。娘がホームセンターで買った干し草は割安だったが、タイムのお好みにあわず食べ残す。こんな草にも味のよしあしがあるんだ。ベジタリアンはベジタリアンなりに、なかなかグルメなのだとわかり、あと2キロも安物が残っているけれど、高い方の干し草を買うことに。飼い主の倹約生活もうさぎ様には関係ない。

  タイムの種類ハーレクインとは、フランス語でいうとアルルカン。顔の半分を黒く半分を白く塗っておどけていた道化師に由来する種名とか。フランス語のアルルカンは、絵画のタイトルで見ていたから知っていたが、アルルカンとハーレクインは同じことばってことを初めて知った。へぇ×20。
  ハーレクインシリーズを読んだことがなかったので、今までハーレクインのハーレは、ハーレー彗星とかハーレーダビットソンのハーレーと同じで、クインは、女王さまのことかと思っていた。ラブストーリーにひたって、ハレばれし、女王様気分になるのかと。以上、うさぎサイトで見つけた、トリビアでした。

  うさぎサイト画像の純血ハーレクイン種ブラックジャパニーズ色は、本当に顔の半分が黒、半分が茶色。背中の黒と茶色はきれいな縞模様。このブラックジャパニーズというのは、「うるしの黒色」ってことだろう。ハーレクインはオランダでブリーディングされた種だというが、黒い色といえば、ジャパンすなわち漆の色だったのだ。

 我が家のタイムは顔半分が黒、半分は黒茶まじり。背中は黒と茶のまだら。大きさも純血ハーレクインの半分。たぶん、ミニうさぎが混ざっているのだろう。まあ、純血ならば公園に捨てられることもなかった。とりあえず、人様にペット自慢するときは「自慢じゃないが、れっきとしたハーレクイン種の、なんだかよくわからない混じり方の雑種!」自慢になっていないが。

  タイムは、我が家に来て、ハーレ女王ではなく、はればれキングとして君臨している。先代うさぎアスカの反応から感じる家庭内序列は「娘、母、アスカ、息子」だったが、雄のタイムは「タイム、娘、息子、母」と思っている様子。いいんです私、最下位でも。

本日のひがみ:人間様は「無農薬天日乾燥魚沼郡こしひかり」じゃなく、「生協無洗米」を食べている


2003/8/19 火 曇り 
トキの本棚>『猫とみれんと』

  午後、事務所に行く。夫が「パソコンをとりあえずワープロとして使う」というので、一太郎をインストールする。
 
  文鳥堂で飯間浩明『不思議な日本語、遊ぶ日本語』購入。
   『不思議な~』は、先月新刊が出たときに本屋で見かけて、どうしようかなって手に取った。日本語というタイトルがついていれば一応見る。タイトルが平凡なのと、目次の感じから「ありがち日本語うんちく」と思って買うのをやめた。でも、ネットサーフィンでyeemar's homepageに出て、面白かったので、買う気になった。

  本屋はしご、芳林堂で寒川猫持『猫とみれんと』を買う。
  猫持も、単行本が出たときにさんざん迷ったが「文庫になってから買う」と決めたもの。本を目方で買っている私にとって、歌集というのは、コストパフォーマンスが贅沢すぎる。
  三十一文字の一字一句、行間も味わえとか言われても、1頁に2首しか配列してなければ、300頁の本でも、文字数は1800。ページの白さがもったいなくて、歌集は文庫か古本でなければ買えない。猫持、やっと文庫になったので買えた。

  単行本出版時の評判通り、面白い。笑えた。歌集で笑えるというのは確かに貴重である。これが短歌か?という評もあるだろうが、31文字コピーが短歌昇格したサラダ以後、何でもありだ。しかるに、文庫になってまだ、1頁2首だと、ページの余白がもったいない気がしてしまう。
 ちなみに、『サラダ記念日文庫版』は1頁3首、啄木歌集は8首、茂吉歌集は20首。1文字いくらで換算する私は、短歌批評家にはなれないでありましょう。

  さて、猫持の文庫186頁と187頁の4首はこんな歌
  「すうどんはネギにカマボコ二切れに七味無料で三十五円」「すうどんに揚げが入ればキツネなりこれは一杯四十五円」「かけそばに揚げが入ればタヌキなりこれも同じく四十五円」「昼下がり自転車で来る紙芝居つんと鼻つく酢こんぶ5円」
  文庫一冊530円見開き2ページあたり5円なり。たった5円で、昭和30年代大阪のうどんや酢こんぶ、味もにおいも130円分味わえるなんて、超お買い得。とはいうものの、うどんすすって酢こんぶかみしめながら、いつもの3倍ゆっくり読んでも30分で終わってしまった。

  関西では、キツネにいれる油揚げもタヌキに入れる揚げ玉も、両方とも揚げというのか。紙芝居のおまけは酢こんぶだったのか、など思いめぐらすうちに、50年前がよみがえる。

  お稲荷さんの境内で見た紙芝居のおまけは水飴だった。必ず割り箸の先につけた水飴を練りながらおっさんの話を聞き、最後に一番白っぽく練り上げた子におまけが与えられた。3,4歳の私は一度もおまけをもらえたことがなく、二本目の水飴を得意そうにくわえる小学生がとてもうらやましかった。
  お稲荷さんの隣の家から坂下の家に引っ越した5歳以後、紙芝居を見た記憶がない。
  姉が幼稚園に通うようになって、紙芝居自転車が巡回する場所まで連れて行ってくれる人がいなくなったからなのか、自分で絵本を読めるようになってからは部屋で本を読むほうがおもしろくなったからなのか。

本日のねたみ:もう一本のおまけ水飴ほしかった

2003/8/20 水 曇り 
日常茶飯事典:フラジャイル読書

 午前中、Aダンスィング、レッスン。
 図書館で正岡正剛の本を借りる。フラジャイルほか、高くて買えない本ばかりなので予約しておいたのだ。午後、グダグダ借りてきた本をながめて一日終わり。

本日のおもみ:『フラジャイル』、寝っ転がって読むには重すぎ、腕がつかれた


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20150816

 1999年から2012年まで、うさぎが3代とともに暮らしました。犬猫飼育禁止の公団団地なので、小鳥や亀、うさぎなどの小動物のみ飼えたので。
 うさぎは、草食で一カ所にトイレをきめるとその場所以外に排泄せず、糞に匂いもありません。鳴き声はありますが、とても小さな声でキュッとささやく種なので、隣近所に迷惑をかけることもない。よくなつく、とても飼いやすいペットです。でも残念なことに寿命が短い。なかには10歳12歳というご長寿うさぎもいるのですが、我が家のうさぎは、4歳2歳8歳という寿命でした。
 短い命を生きる間、娘と息子に限りない慰めと喜びを与えてくれたうさぎ3匹。桜の木の根元にお墓があり、木を見上げては3匹を思い出します。

 当地ヤンゴンでは、街中も大学内も、やたらに野良犬が多いです。野良ですが、大学食堂の残飯などで十分に生きていけるし、犬をいじめる人もいないので、おっとりとしています。(動物をいじめたりしたら、仏罰必定、来世はゴキブリになって、豚に食われる)。ただ、狂犬病予防注射などはしていないでしょうから、野良犬に触ることはしないようにしています。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「わが窮状」

2015-08-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150815
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>平和を祈る(1)我が窮状・憲法第9条

 毎年8月6日~8月15日の間に、憲法第9条を書き写してきました。
 憲法施行の日5月3日には前文を、発布の日11月3日には基本的人権条項の中から書き写してきたのですが、今や「9条を守る」などという発言をすると「70年の間に変わってきた世界情勢に対処する能の無い、おくれた国民」扱いというのが、現実になってきました。

 このままずるずると戦争につながっていくのかなあと思います。
 先の大戦も、最初国民は「日本を防衛するために必要な戦い」と信じました。「平和な世界を作るための聖戦」と言われて、我が子を戦場に差し出し、空襲や原爆に一般市民が死んでいったのでした。

 5月14日に「国民への説明」を行った首相の発言によれば、「友好国が攻撃されたら我が国の自衛隊も出動し、支援活動を行う」という法案を「戦争法案」なんぞと呼ぶのは誤りであり「積極的平和推進法案」と呼ぶべきであると強調しました。

 後方で補給活動を行ったりするだけだ、という説明でしたが、戦争遂行においてもっとも重要なことは戦闘機の燃料補給などの補給活動であり、これを行ったら戦闘に参加しているとして相手方から攻撃を受けることになっても仕方が無いと思うのです。日本は「戦後70年間戦争に加わらなかった国」ではなくなります。

 しかし、総理は「『アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか』と漠然とした不安を持つ方もいるかもしれないが、そのようなことは絶対にありえない」と言明。
 あれあれ「絶対にありえない」ということば、昔も聞いたような。
 原発は100%安全だから、事故をおこすようなことは絶対にありえない」と、何度も聞いた気がします。
 ありえないことが起こったら「想定外のことでした」と、言ってすませられる人たちですから、今回も「絶対にありえない」と言っていれば、いいのでしょう。

 『我が窮状』は、ますますの窮状をきわめていますが、希望を失ってはならないと思います。

沢田研二作詞歌唱『我が窮状』
https://www.youtube.com/watch?v=7qSXoq2ZZbw

憲法9条
(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



 平和を祈りながら歌を聴いています。

丸山明宏(美輪明宏)1965年発表時の歌声で『ふるさとの空の下で』
https://www.youtube.com/watch?v=c8wuVMgvcZo
2014年の紅白歌合戦で、美輪明宏が熱唱しました。レコード発売時は「よいとまけの歌」のB面でした。

森山良子『サトウキビ畑』
https://www.youtube.com/watch?v=9xUyfxW0TTU

クミコ『一本のえんぴつ』
https://www.youtube.com/watch?v=WC7EnbPVwUQ
 美空ひばり版をなんどか紹介したので、ちがう声で。

さだまさし(レーズン)『あと1マイル』
https://www.youtube.com/watch?v=65EP4oWKydg

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年の山東省出征記録画集」

2015-08-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150813
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記() 2003年の山東省出征記録画集

 2003年8月の日記再録を続けています。
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2003/08/16 土 雨 
日常茶飯事典>山東省出征記録画集

  息子は文化祭の練習で午前中、学校。待ち合わせをして、姑訪問。
  仏壇を買ったというので、お線香を立てに来たのだが、姑は案の定「お寺にお迎えなんかに行ってないのよ、でも、同じでしょ」と、気にしていない。盆迎えも盆送りも、生きている人の心を平安のためにする行事だから、姑が「いつもいっしょにいるから、わざわざ迎えに行くことなんかないのよ」と思っているのなら、それが一番だ。

  二階で、舅が描いた「山東省出征記録画集」のアルバムを見た。戦争中に中国でスケッチしたものを元に再画し、色鉛筆彩色したもの。個人の記録だから、資料的な価値はないかも知れないが、姑には保存をすすめる。画集出版が一番いいのだろうが、姑はしきりに「おじいちゃんの入院で蓄えを全部使ってしまったから、お金残っていないのよ」という。

  免疫療法という健康保険のきかない治療を続けたからだ。入院しているホスピスから、免疫治療を受ける病院まで、タクシーでの往復、一回の治療代が何十万とかかる。それを半年以上続けたのだ。ホスピスに入るとすぐに亡くなる人が多い中、半年も余命を延ばせたのは、治療のおかげと姑は満足している。
 「孫たちの学資保険にと積み立てていた分も全部治療費に回してしまったから、入学祝い金は出せない」と、去年言われていたから、もうお金がないことはわかっていたが。

  姑の気持ちに「できる限りの治療はした」という満足感があり、心残りなく舅を送り出せたのだから、お金が残らなかったことを云々することはできないし、出版しましょうとは提案できない。家のかたづけと事務所のパソコンの接続がすんだら、とりあえず、ウェブで保存公開をするつもり。

  嫁の立場から言うと、治癒の見込みがない病気に高い免疫療法を続けてお金を使い切るより、姑の老後のために余裕を残しておくほうが、舅は安心して旅立てたのではないかと思う。でも、舅が免疫療法を続けている間、私は姉のホスピス転院の方にかかりきりで、姑になにひとつしてやっていないのだから、何も言えない。

  「テレビで『大地の子』再放送してたから、見たの。ハルさん、よく写っていたわね」と、姑。
  『大地の子』の最初の放映では、満州墓参団シーンがカットされていた。「エキストラで出演しているっていうから、ずっと見てたけど、どこに出てたの?」と、あちこちから言われた。中国から帰ったあと「『大地の子』にエキストラ出演したから、ぜったいにドラマ見逃さないで」と、大宣伝したのに、うつらなかったのだ。

  しかし、拡大版放映のときは墓参りシーンがあり、ビデオ録画して、めでたく「ほんとに出演したんだってば」という証明ができた。
  姑はビデオを持たない人なので、今回やっと、墓参りシーンを見た。仲代達矢の後ろに立てばカメラワークに入ると計算して、涙ふくハンカチの脇からカメラ目線でレンズ位置を確かめている笑えるシーンを見たのだ。満州に倒れ伏した人々を思って泣くシーンなのに、「あのカメラ目線は笑える」と、親せき中の評判をとったエキストラ演技。

  主役脇役でもなく端役チョイ役ですらなく、ワンシーン、ワンカットのエキストラで、しかもカメラ目線というのが、「私の存在モード」を象徴しているので、気に入っているシーンだ。

  姑は「詩吟とお習字と童謡を歌う会に入ったから、毎日忙しくて」という。78歳にして生まれて初めての一人暮らしを楽しんでいるらしい。一人暮らしで元気でいられるうちは心配ない。声を出すのは健康に一番。

本日のつらみ:仲代達矢にサインもらいそこねた


2003/08/17 日 雨 
アンドロメダM31接続詞>風野春樹という本名

  雨続き。で、一日片づけもせず、ウェブサーフィンでぐだぐだとすごす。

  「喜多哲士ぼやいたるねん」のリンクぺージに、「サイコドクターあばれ旅・風野春樹」は本名だと書いてあったので、びっくり。絶対にペンネームウェブネームだと思っていた。SF批評家の名前ならありだけど、精神科医の名前としたら「うそっ」と思う心理は、これいかに。ただし「本名」というのもネタかもしれないが。
  SFセミナー世話人の風野満美が奥さんと思うから、やっぱり本名なんだろうな。

  ぐるぐる回っていると、何から飛んでも「ことばリンク」と「SFリンク」に出てしまう。自分の興味がせまいことがわかる。青木みやが更新復活していた。ぜんぜん見たことも会ったこともない人なのに、更新にほっとするのも「ネット心理学」でありましょう。青木みやは、SFにまったく関係ないドクター西村の頁から飛んでいった人なのに、SFセミナーの人だった。

  私がSFを夢中になって読んだのなんて、ふた昔以上も昔のこと。60年代70年代のSFしか知らなくて、近年のSF小説の進化ぶりもまったくわからない。それでもSF小説が好きっていう人の日記は面白く読める。ぐるぐる回って「ヘビメタビジュアル系が好き」とか、「死体写真コレクター」とかいう人の日記にたどりついたとしても、読み続けることができない。私という人間の感性感覚はきわめて幅狭いもんなんだろうな。

本日のひがみ:精神科医にして、SFにぴったりの本名、うらやましいぞ


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20150813
 舅は商業学校出身で、陸軍主計の後方勤務でした。主な仕事は、兵士の給与計算など。前線勤務などはなく、地元の人々と仲良く交流したことなどがのんびり書かれている「山東省出征日記」でした。
 一方、私の父は砲兵でしたから、常に最前線で、旧満州から南島へ渡り、戦いつづけました。戦争も、それぞれの立場環境で受け止め方はさまざまなのでしょうが、前線で死を覚悟し続けた父が「二度と戦争をしてはいけない」といったこと、私は守りたいです。

 戦後、旧満州の地に置き去りになった子どもの人生を描いた『大地の子』。私が「旧満州墓参団」の一員役のエキストラで出演したのも、はるか昔。21年前のことになりました。(撮影は1994年の夏)拡大バージョンでないと、この墓参シーンはカットされているのですが、BSアーカイブなどで再放送することがあったら、拡大版ならビデオとってください。ハンカチで涙ふきながら、カメラ位置を確認する迷演技、何度見ても笑えます。

 国会は、お盆休会とかですが、SEALDs も、OLDsも、ゆる~くがんばってほしい。ネトウヨたちは「ばーさんじーさんが巣鴨に100人集まったからって、なにができる」と、つぶやいていました。10人だろうと100人だろうと、ここからはじまるのだと、思います。巣鴨だったら、自転車でかけつけるところですが、ヤンゴンから応援しています。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年のお盆帰省」

2015-08-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150812
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記8月(7)2003年のお盆帰省

 2003年8月の日記再録を続けています。
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2003/08/14 木 雨 
日常茶飯事典>お盆帰省

  坂下のアパートに泊る。スモモ「自宅に盆棚をつくるのはめんどうくさいから」と、自宅からアパートへ移動して盆だなをしつらえている。両親と姉の位牌にお線香。たしかに、母にとっては、この坂下の家が自分の家だったのだし、姉にとっても結婚後に何回か引っ越した家より、子ども時代をすごしたこの地に両親といっしょに帰るというのは納得。出窓を盆棚がわりにして、写真と位牌、お花、お供え。
  「お寺に盆迎えに行ったんだけど、盆提灯を持っていくの忘れたから、たばこに火をつけて、ママ、この火に入っておいでって、迎えてきた」と、蜜柑の弁。お線香立てに、たばこがささっている。最期は肺ガン併発の母にしてこの娘あり。

  蜜柑の子どもたち4人、相変わらずにぎやか。かわいいけれど、うるさい。5歳の末っ子ジュジュはますますパワーアップ。ミニチュアダックスフントの2匹、うるさい。かわいいけれど、うざい。

  伯母が入所しているグループホームへ。自宅に残してあった写真を伯母に渡すと、自分が持っていたアルバムなのに「あらぁ、こんなにちゃんと写真をまとめてくれてありがと。まあ、こんな昔のも。なつかしい」と、初めて見るような顔で見ている。今朝のことは忘れるが、昔のことは覚えているのだから、写真があれば、当分昔の思い出にひたれるだろう。

  伯母を連れ「やすらぎの湯」に入る。温泉につかり、休憩所でお茶を飲む。「ねぇ、おまんじゅうを食べようよ」と伯母がいうので、買ってくる。ホームではきまったおやつの時間のほかに買い食いをすることはできない。しかし、もう88歳になっていろんなことを忘れていく人に対して、健康に悪いから甘いものばかり食べてはだめ、なんて禁じることもない。ホームの職員には、老人の健康を管理するという職務があるが、私たちはたまに会うだけなので、伯母を甘やかす。

  私とスモモは「おまんじゅうが好きなら、好きなだけ食べればいい。夕食があまり食べられなくなって栄養が片寄ったとしても、好きなもの食べられるだけ食べて残り少ない余生を過ごしたほうが、食事管理して長生きするより幸福じゃないか」と、話す。健康管理するホームの人から見たら、迷惑なことかもしれない。
  近くのそばやで夕食。伯母と私はてんぷらそば。伯母はおまんじゅうを食べたあとでも、おそばも全部食べる。

  スモモは毎月ホームへ顔を出し、服を買ってやったり、誕生日に花やプレゼントを届けたりしているが、いくたびに「まあ、なつかしい。何年ぶりで会うんでしょう」と言われるのだと。今日はついに「おまえ、名前なんだったっけ」と聞かれていた。
  自分のアルバムを眺めて、あんなに贔屓にしていた「露子」「ゆきみ」の写真を見ても「どこの人?」と聞く。私のこともしだいに忘れていくのだろう。
  ただ、最愛の柿実さんが早死にしたことも、普段は忘れているようなので、その点はよかった。アルバムを見て、「今日は、柿実は来ないんだねえ」と伯母が言うから、「柿実さんは去年死んじゃったでしょ」と、話すと「そうだねえ、なんで死んじゃったんでしょ」と、思い出す。思い出すが悲しみに浸る前に忘れる。一昨年のきんこおじさんの死は比較的覚えているのに、去年の柿実さんの死は、もはや霞がかかった状態で受け止めたから、衝撃が少なくてすんだのだろう。

  NPO設立講座に通って、痴呆老人問題にも詳しくなっているスモモ、「年寄りにとって、自分がだんだん物事を忘れていくという現実はとても怖い、不安な出来事なんだから、その不安をしずめるように接してやらなければならないと教わったけど、目の前で惚けたことをしでかされると、腹が立つんだよね」
  現実にぼけ老人を抱えている人は、毎日たいへんだろう。たまに会うだけだから、やさしくしてやれるのだ。

本日なやみ:いつか私も「私はだれ?」


2003/08/15 金 雨 
ニッポニアニッポン事情>2チャン鶴余波

  2チャンネルの折り鶴は、60万羽に達する見込みとか。
  くらげん日記に気になる記述。「今日は、いろいろ平和とか戦争について考えた」とあるので、日頃はそんなこと考えたこともない2チャンネラーの若者何人かが、8月15日について意識する結果になったのなら、折り鶴オフ会も意味があったとは思う。しかし「靖国神社にでも行ってみようとおもったのだけど、雨がふったから行かなかった」と、ある。雨じゃなかったら、靖国へ行ったのかも知れない。

  ヒロシマで鶴に慰められる霊があるとしたら、その人たちの中には靖国への参拝を喜ばない人も混じっているかも知れないとは、つゆほども思わない、靖国も原爆ドームも全部いっしょくたに「なんか、戦争で死んだ人に関係するとこ」としか思わない人たちが確実にいる。

  「2チャンネルを利用しよう」と企む利口者が現れないことだけを願う。2チャンネルのウェブ上での先駆的役割はすでに終わっている、という評価もあるが、現実に影響力を持ち得ることは、今回の折り鶴で証明されたように思う。2チャンネルで煽られれば、「平和のために参戦しよう!武器をとれ、戦おう」という呼びかけに応じる者がでないとは限らない。触法未成年の顔写真をさらすことや覗くことを喜ぶ人もいれば、煽りにのる人だって確実にいる。

本日のたみ:無辜のたみも戦犯もヤスクニで同居

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20150812
 2003年に「10年先には、戦争しようよ、という呼びかけに賛同する人も出てくるだろう」と、予測したことが現実になりました。
 ただ、「ネトウヨ」が増えていくかも知れない、という心配は、思ったほど深くはならず、ヘイトスピーチなども、批判されればたちまちシボむ程度の広がりでした。
 ともあれ「戦争と平和」がわれわれにとって、どういうものであるのか、ということを考えようとする若者は着実に増えている気がします。

 平和は、ただ享受していくだけのものではなく、自分自身で働きかけ築き上げていくものです。平和は、消費しているだけなら消えて費やされてしまうものであり、作り上げる人の前に積み重なるものなのだと、若い人も考えてくれているように思うのです。

 これから東京オリンピックに向けて、さまざまな動きが出てくるでしょう。もしかしたら、人目をひこうとするテロだって起こりえます。そんなときも冷静に沈着に。攻撃されたら報復という応酬だけでは決して解決しません。

 ミャンマーは、11月に総選挙が予定されているので、これから国内も騒がしくなっていくかも知れません。現大統領は軍人出身の方。町の中の印象ではアウンサンスーチー女史率いるミャンマーの最大野党、国民民主連盟(NLD)の人気が高いようで、私が宿泊しているホテルも、ロビーには、スーチー女史の肖像写真が掲げられています。
 NLDは、11月の上下両院選の候補者リストを公表した、改選対象の両院計498議席に対し、483人の候補を擁立するということです。公正な選挙区が進めば、NLDの政権奪取は可能かも知れません。

 ミャンマーの平和も、人々がひとつひとつ作り上げていくのだろうと思います。
 
<つづく> 
 
コメント
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